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Full text of "Minakami Takitaro zenshu"

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Minakaini , Takitaro (pseud. ) 
Mlnakami Takitaro zenshH 



3 

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UNIVERSITY OF TORONTO LIBRARY 



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我家の ドウ ガ^ . 

浮 名 儲 

潷木 四方 吉氏 素描 

4^ 末 年始 . . - • 

文壇 游泳 術 . - • 

学 野 四 郞氏を 憶 ふ 

いひ わけ • . - . 

その後の ドク-カル 



「吉野 葛」 を 讀て感 あり 一 〇〇 

「安城 家の 兄弟」 を讀む .-•.-,,,. 一 八 

元祿 屋敷 一二 〇 

喰へ ない 文學 一三 四 

父と なる 記 一四 二 

績父 となる 記 一 五三 

酒 七 題 一六 九 

ファンの いろいろ 一七 七 

ことばの 亂脈 二 1: 五 

二 腼澤諭 吉傳」 の 刊行に 就て 二 五 二 

はせ 川 雑記 二 五 四 

「西洋 美術史 硏究」 の 序 二 六 三 



I 



「發端 地」 の 作者 二 六 五 

同人雑誌の 辯 二 七 1 

一 文學 生に 答 ふ 二 七 七 

もう 一 度 「三 田 文學」 につ いて 二八 二 

三 宅悠紀 子さん の戲曲 二八 九 

夜汽車、 宿屋、 その他の 落 書 二 九 五 

初老 會前說 三 〇 五 

「師. 友. 書籍」 の 序 三 ニー 1 

春 窓 院梅譽 妙 音大 姉 三 一六 

年輪の 差 一一 三 三 

親馬鹿の 記 三 三 一 

一 二筋道」 散策 一一 一四 六 



績 親馬鹿の 記 三 六 1 

根氣 くらべ 三 七 二 

「三 田 文學」 編輯 委員 隱 居の 辭 三 八 二 

なかお まや 屋の酒 三 九 〇 

$ 一一 一九 一 

鎌 田榮吉 先生 を 憶 ふ 三 九 三 

「雪女郎」 立 見の 記 四〇 四 

借家 運 g: 一六 

「註文 帳 畫譜」 ちらし ...........,. gn 一九 

輝く 編輯 者 四 三 二 

から:^ 負 as ョ 

相撲 雜記 11 四 九 



W 



修文院 釋樂邦 信士 四 六 五 

藝術 家の 反吐 £ 七 〇 

鈴 木 三重 吉 氏の 酒の 上 四 七 五 

街 歌 四 八 一 

ちゃん ぼん 生活 四 八 六 

老父 歎 四 九 二 

「郡 虎彥 全集」 に 就て 五 0〇 

極 樂淨土 . . . 五 五 

土 產の石 五 二 

空襲 五一 七 

淚 いろいろ 五 ニー 

流行 唄 五二七 y 



留守^ 五三 三 

取 越苦勞 五一 二八 

旅籠 苦勞 五 四 一二 

草 を 踏む 五 四 九 

朝鮮 晴 五 五三 

老人 激:^ 五 五 七 

賣 女の 友 五六 三 

指定席の 批評家 五六 七 

わせ だの わるもの 五 七 五 

淸順院 貞室惠 京大 姉 一 周忌 五八 〇 

七生 報國 五八 五 

大道 狭し 、• 五 九 〇 



{ 仝 氣の味 五 九 五 

相撲 客 道 五 九九 

生 案內」 ま へがき 六 四 

前相撲 見物 記 六 〇 六 

曾禰 先生 追憶 六 一七 

嫁入 支度 六 ニニ 

素人 談義 六 三 三 

もの、 ふの みち 六 三 七 

覺書 六 四 五 



後記 



ル ガウ ドの家 我 



我家^ ドウ ガ ル i 



バァ ネット 夫人の 「小 公子」 は、 本 を讀む 事の 好きな 少年少女の、 誰し も 一 度 は 夢中に なって 讀 

み、 大人に なっても なつかしく 想 ひ 出す 際の 物語で ある。 その物 語の 中に 一頭の 名 犬が あら はれ 

る。 どうした もの か、 私 は その 犬 を セント. バ アナ アド 種 だと 思 ひ 込んで 居た。 そのむ かし 若松 

賤 子の 飜譯で 讀んだ 時 以来 「小 公子」 は 深い 感銘 をの こし、 當 時女學 校へ 通 ふ 姉が、 繪 入の 原書 を 

ならって ゐて、 氣 どった 發 昔で 小 公子の 名 を 呼ぶ の を、 ひそかに 羨し く 思った ものである。 その 

本の ロ鎗 にも、 巨大なる 犬に 寄 添 ふ 可憐なる 小 公子の 姿が 描いて あつたが、 年 を經て 私の 記憶に 

は、 ふさふさした 金髮が ゆるやかな 波 をう つ 襟 もと や 手首に 白い レ エスの 飾の つ いた 服 を 着た 小 

公子と、 その 小 公子 を 守護す る もの、 如く 想 はれる 巨大なる 犬が、 この 小說ー 篇の綺 看板と して 

お ほうつ レ 

大映に あら はれる のであった。, 



七 ント. バ アナ アド 種の 犬に ついて、 手許に ある 教科書に は 下の 通り 記述して ある。 

本 種は瑞 西國セ ント . バ アナ アド 山 ノルブ ス 山脈 中) の原產 なり、 元 來此地 は 海抜 七 千 八 百 

八十 尺に 達し 冬期 長く 且つ 甚だ 塞 冷に して 積雪 三十 尺 乃至 四十 尺に 及び 年々 巡拜 者の 餓死 凍 

死す る もの 少なから す、 玆に 於て 第 八 世紀 以来 旅人の 救助 は 僧侶の 勤と なり 一方 堅固なる 石 

窒を 設けて 宿泊 を 便に し 他方に 於て は 則ち 本 犬に より 遭難者の 探索 を 行 ふに 至れり。 通常 搜 

索に は 二 頭の 犬 を用ゐ 一 は溫暖 なる 毛布 を 背に 纏 ひ 一 は 飲料 食物 藥 品等 を 入れた る 籠 を 頸に 

提げ 山中 を ^渉し 遭難者 を發 見す る 時 は 之 を 寺院に 運び 力 及ばざる 時は歸 りて 僧侶に 吿ぐ斯 

の 如くに して 人命 を 救 ふこと 多き が 中に パリィと 稱 する 犬 は 一 生 中 四十 餘人を 救助せ りと い 

ふ、 我國 にても かの 八 甲 田 山の 遭難に 使用せ りと いふ、 本 種 は 現今 各國に 散在し 其 主なる 用 

途は 伴侶 及 警戒 にして 被 毛に より 短毛種 及 長 毛 種に 區 別す、 性よ く 寒國に 適し: 男敢 にして 然 

も 喚 力強く 搜 索に 巧な り、 

一 般 形態 犬 族 中體格 最も 強大に して 體尺 一 尺七寸 乃至 三尺、 體重百 三十 乃至 百 七十 磅に 

達す、 

頭 は 重大、 頭蓋 高く、 頂大 にして 圓隆 す、 眼 は 適度に 大きく 慈愛の 相 を 呈し下 眼 険弛垂 し 赤 



ルガ ゥ ドの家 我 



色の 瞬 膜 露出す、 耳 は 下垂し 大さ 中等と す、 口 鼻 部よ く發 育して 廣く 其の 末端 方形 を 呈し替 

稍 下垂す、 . 

頸 は 長く 強く 厚く、 胴 は 強大に して 胸 廣く腰 強く、 臀部の 發育 佳良な り、 

四 K は 筋骨 強大 にして 足 亦 犬な る を 要す、 

毛色 赤 白、 授黃 色、 白 等の 班に して、 額、 口 鼻 部、 頸、 前 K 等 白色なる を 普通と す、 - 

八 甲 田 山の 雪に 埋もれた 兵士 を 捜索に 行った とい ふの は、 何處 から 連れて行った のか しらない 

が、 果して 純粹 種で あるか どうか 疑 はしく 思 はれる 程 日本に は數が 少ない。 從 つて 何が セント • 

バ アナ アド 種で あるか 知らない 人が 多く、 厦々 作品の 中に 犬 を 描き、 又 いかにも 犬 通らし くお も 

はれる 室 生 犀 星 氏 さへ、 曾て セント. バ アナ アド 種の 狼 犬な ど、 書いて ゐた 程で、 それで はラテ 

ン 人種の 日本人と 云 ふやうな とんちんかん である。 , 

私が 曰 本で 見た セント. バ アナ アドの 逸物 は、 ひとむかし 前 靑山邊 で、 一人の 書生さん が 二 頭 

引 張って 步 いて ゐた奴 だ。 牡の 方が 殊に 大きく、 素晴 しい 身長 を 有して ゐた。 今 は 故人と なった 

中 村是公 氏の 飼犬 だと 云 ふ嚼だ つた。 あ 、いふ やつ を 引きつれて 步 いたら さぞ 偸 快 だら うと 思 ふ 

につけ 「小 公子」 を 聯想した ものである。 



3 



ところが 昨年、 伊勢 は津 でもつ 津は 伊勢で もつ の 舊家川 喜 田家の 御主人から、 自分のと ころの 

セント. バ アナ アドが 十 一疋 仔 を 生んで、 一疋 は あやまって 親 犬が 踏 殺して しまった けれど、 十 

疋は 完全に 成育して ゐる、 恐らく 日本で 此の 種類の 犬の 安產は はじめての 事 だら うと 云 ふお 話 を 

承った。 _ - 

その 御 話 を 犬き ちが ひの 弟に 傳 へた。 この 男 は 年中 數 頭の 犬 を 飼育し、 先頃お 嫁さん を迎 へた 

が、 花嫁 は その 日から、 氣むづ かしい 亭主と., それに も增 して 手の か、 る 犬 どもの *1 話に 日 も 足 

らぬ 新居 を營 まなければ ならない 身の上と なった。 はたで 見て ゐて、 お嫁さんが 氣の 毒に 思 はれ 

るの だが、 別段 苦に もしないで、 寢藁 をと りかへ、 食餌 を與 へ、 お産のと りあげ も 上手に やって 

ゐ るの を 見る と、 正に 良妻に して 將來 賢母た る 可き 素質 を備 へて ゐ るに 違 ひ 無い。 その 弟の いふ 

に は、 日本う まれの セント. バ アナ アド だって ゐ ない 事 は 無い、 よく 品評 會 にも 出て ゐる 、しか 

しい、 やつ は 見當ら ない との 事だった。 恐らく 川 喜 田家の は 優良 種に 相違な く、 しかも 十 疋も成 

育して ゐ るの はまこと に 御 目出度い 事 だから、 せめて 寫眞 でも 頂いて はくれ まい かと 云 ふ。 

その後 川 喜 田さん に 御 目に か、 る 度に、 仔犬の 成育の 狀態を 聞かされ、 私 は 叉 弟に 受賫 りし、 

弟 は 羨望に 堪 へぬ もの、 如く > しきりに 實物を 見 度が つて ゐ た。. 送って 頂いた 寫眞 によれば、 正 



ルガ ゥ ド、 の 家 我 



に 逸物に 違 ひ 無い と 弟 は 信じて ゐた。 

川 喜 田さん は、 珍しく 十疋も 育って ゐ るの だから、 殘らす 手許で 飼って 見る 積り だと 云って 居 一 

られ た。 傳 へきく 津市 郊外 千歳 山の 川 喜 田 邸 は、 山 あり 池 あり 林 あり 田圃 も あると 云 ふ 廣大な も 

の ださう で、 その 廣ぃ 屋敷 內を互 犬なる 十二 頭の 犬が 悠々 と漫步 する 風景 は 甚だ 雄大な ものに 想 

はれる。 

然るに 今年の 舂 四月、 川 喜 田家に は 再び 御 :ni 出度が あり、 九疋の 仔犬が 生まれた。 いかに 邸內 

すぎ 

が廣 くても 二十 一 頭の セント. バ アナ アド を 飼育す るの は 手が か、 り 過る。 しかも 他の 種類の 犬 

も 數頭ゐ ると いふの だから、 犬 口 過剰と いはねば ならぬ。 流石の 川 喜 田さん も 相手 をえ らんで 讓 

り 度い と 云 ふ 御 話だった ので、 直ぐ さま 弟に 知らせて やった。 是非 一頭 讓 つて 頂き 度い と 云 ふの 

で、 川 喜 田家 犬 係の 方へ 書面で 申入れ ると、 折返して 御主人から、 今年う まれの 九 頭のう ちから 

一頭 をより どり させる から、 本人に 來て貰 ひ 度い と 云 ふ 御 返事だった。 弟 は 雀躍して、 早速 出向 

つらが ま へ 

くと 云 ふ。 私 は、 弟 を 御存じない 川 喜 田家の 方々 の爲 にあら かじめ 其 面 構 を 御知らせして 置いた" 

身長 五 尺 七 寸餘、 顔色 あく 迄も黑 く、 眼光 鋭く、 極めて 無愛想な り 云々 

そんな 人相 書が 廻って ゐる とも 知らす に、 弟 は 良妻と 共に 東京 を 立った。 翌朝 川 喜 田 邸に 到着- 



5 



取次の 方に むかって 直に 犬 舍へ案 內を乞 ひ、 どれでもより どれと 云 はれて 選定に 迷 ひ、 思 召の あ 

る 二 頭 を 見比べ て 終日 を盡 した さう だ。 

犬 を 頂戴して 歸 つて 來 たから 見に 來 いとい ふ案內 をう け、 愚妻 はお 土産に 頸輪 を 買 ひ 求めて 持 

參 した。 弟の 新居 は、 家 は 立派で は 無い が 犬舍は 頗る 壯大な もので、 殆んど 一 木 一 草 も 無い 犬の 

散歩 向の 庭に、 それが 座敷へ 尻 をむ けて 立って ゐ るので ある。 

其 處には 獨逸シ H パ アドの 親子が ゐる。 獵 につれ て 行く 英吉利 ポインタ ァの 親子が ゐる。 而レ 

て、 川 喜 田家から 頂戴して 來た 生後 三 箇月の セント • バ アナ アドが ゐ るので ある。 それ は 同じ 頃 

に 生れた 他の 犬の 何 倍と も 云 ひ 難い 程 肥大な ものである。 何故 比べ る 事が 出来ない かとい ふと、 

まるっきり 形態が 違 ふからで、 若しも 同じ 頃に 生れた 熊の 子が ゐ るなら、 それと 對 比して どっち 

が 大きい かと 云 ふ 方が 適切で あらう。 先づ 頸と いふ ものが あると いへば あり、 無い といへば 無い 

しかた 

と 云っても 差 支ない 程 太く、 愚妻が 持參 した 頸輪の 如き は 腕輪に する 外爲 方が 無い 位であった。 

それ 程 四 K も 太く、 どこに も 細い 部分の 無い、 づん どの 如き 姿で ある。 往年 亞米利 加の 大较 領ル 

ゥズ ベルトに 擬 した テ ディ. ベアと 呼ぶ 玩具が はやり、 日本に も 渡来した が、 仔犬 は 恰も その 熊 

のお もちやの 形だった。 • 



ルガ ゥ ドの家 我 



名前 は 「小 公子」 の 中に 出て 來る セント. バ アナ アド を 襲名 させろ と. はたで 騷 いだが、 弟 は マ 

ダム. テレルと 名 づけた。 テレル 夫人と はつい 先頃 日本へ も 来た 大女の 藝人 である。 いしく もつ 

けたり と 一 同感 心した。 

テレル は 一 木 一 草 も 無い 庭 をよ たよた かけ 步き、 お 相手役の シ H パ アドの 仔犬の 敏捷な のに か 

ら, か はれ、 追 かけ、 屢々 自分自身の からだの 重みに 堪へ 兼て つんのめった。 , 

その 頃 拙宅に は 弟の せ 話で シ H パ アドの 仔が ニ疋 來てゐ た。 牝の方 は 骨格に 缺點 があって、 誰 

の 眼に も 感心し かねる 姿だった が、 牡の 方 は なかなかの 尤物で、 犬 好きのお かつち やん は、 朝晩 

散步 につれ て 出て、 通りすがりの 人 や、 犬 猫 病院の 院長さん に ほめられ、. 大 得意で 歸 つて 來た。 

ねえ、 をば さん、 この 犬は隨 分い、 男なん だと さと、 耳の 遠い 相手に 大きな 聲で 報告して ゐ るの 

であった が、 その 尤物 も、 ひとたび テレル 夫人に まみえ てから は、 俄に 安っぽく、 げすつ ぼく 見 

えて 困った。 

九月に なって、 久々 で 川 喜 田さん に 御 21 にか、 つた 時、 若し 望みなら. 君に も 一頭 やる がどう だ 

と 云 ふお 話だった。 私 も かねての. 望み だから、 一 度はセ ント . バ アナ アド を 引 張って 步き 度い の 

. だが、. 何分 借家 住居の 事で はあり、 家の 向が 西北む きで 日 あたり は惡 いし、 外に 男手 は 無い し、 



ル ガ ゥ ド' の 家 我 



弟 は 無事に 使命 を果 し、 私の 希望す る 牡 を 一 疋 えらんで くれた。 話に きくと、 弟より 一 足遲れ 

て、 三 井一 族の 誰かの 依賴 をう け、 京 京で 有名な 犬醫 者が、 三 井家の 祕書 をした がへ て乘 込み、 

弟が 私の 爲に 選定した の を 最もよ しとして 選び出し たさう だ。 しかし、 川 喜 田さん は 先約 を 重ん 

じ、 私の 方へ 廻して 下さった。 不幸なる 犬よ、 お前 は 三 井家の 犬に なり そこな ひ、 狭い 庭に 飼 は 

れる 身の上と なった が、 恨んで くれるな、 運命と あきらめて くれ。 

アスア サ 六ジハ ンィ ヌック 

と 云 ふ 電報 を 手に して、 愚妻 は 有頂天に なって しまった。 川 喜 田さん から 食事 その他の 注意書 

を 頂いた の を 暗記し、 叉 をば さんやお かつ ちゃんの 爲に は、 半紙に 寫 して 壁に 貼った。 

名前 は 何とし ませう とい はれ、 私 は 勿論 「小 公子」 の 犬の 名 をつ け 度かった が、 どうしても それ 

が 思 ひ 出せない。 さりと て 愚妻 まかせに する の は 甚だ 危險 だ。 私 は 曾て ニ疋の 犬に ウイ ス キイと 

ヂンと 名 づけ、 叉 或 時 はシェ リイと いふの も 居た が、 セント. バ アナ アドに はそんな ふざけた 名 

前 はつ けられない。 シ M パ アドの 方 は 愚妻が 勝手に 牡 を シャゥ とし、 化 は 第三 代 目の ヂン とした。 

或 人の 談に、 どこかの 意氣 地の 無い 月給 取が、 常々 怒鳴りつ けられる 社長の 名前 を 犬に つけ、 ひ 

そかに 快と して ゐる のが ある さう だ。 愚妻の 說明 によると、 シャ ゥはバ アナ アド . シャゥ のシャ 



9 



ゥ だと 云 ふ 事 だが 信用 出来ない。 親が 私に 與 へた 名 はシャ ゥザゥ である。 亭主の 名 を 犬に つけて, 

叱ったり、 ひつば たいたり、 お廻り させたり、 ちんちん させたり-して、 ひそかに こ、 ろよ しとす 

る 女房 だって ゐな いと は 限らない。 私 は斷然 「小 公子」 の 犬の 名 を 襲 はせ る 事に 決心した。 

そこで 記憶 自慢の 久保田 万太郞 氏に 訊いた ところ、 流石に 犬の 名は覺 えて ゐ なかった が、 直に 

. 調べて 報告して くれた。 , ... 

小 公子の 中に 出 て 來る犬 は 若松 賤子 の譯 本に はダ ガ ル と あり ます。 外の 本 は、 トゥガル とよん 

でゐ ます。 右まで 匆々 . 

久保 E さん はむかし をな つかしが る 事 極めて 深い ひと、 なりから、 こどもの 頃 讀んだ 若松 賤子 

の譯 本に 愛着 を 持ち、 ダ ガルに しろと 勸め るので あつたが、 聲に 出して 呼んで みると 呼び 惡 いの 

で、 ドウ ガルと きめてし まった。 ダ ガルに して 貰 ひ 度かった な あと、 久保 田さん は その後 もロ惜 

がって ゐた。 

九月 二十 三日の 朝、 愚妻と 共に 東京 驛に 出迎 へた。 汽車が 着く と 間もなく、 檻に 入れられた 我 

が ドウ ガル は、 小荷物 受取 所に あら-はれた。 若い 驛 員が 檻. の戶を あけた が、 出て 来ない。 頸に. 結 

んだ 細引 を 引 張っても 身動き もしない。 あまりに 動かない ので 薄 氣味惡 くな つたら しく、 驛員は 



10 



ルザ ゥ |'" の^ 我 



私の 方に、 大丈夫で すかと 念 を 押した。 大丈夫です、 まだ 子供なん です と 云 ふと、 へえ, これで 子 

供なん です か、 さぞ 飯 を 喰 ふだら うな あと 同僚 を かへ りみ て 笑った。 私 は ドウ ガルの 後足 をつ か 

んで濫 の 外へ 引出した。 四 K の 太い 事、 頭の 大きい 事、 一見して 大 もの だとい ふ 事が わかる ので" 

そこいらに ゐた驛 員 も、 第三者 も、 ー齊に 驚嘆した。 

步 かせよう としても 步 かない。 長途の 旅の 疲勞 と、 狭い 檻の 中に 閉 籠られて ゐた 不快の 爲、 心 

細 さう にと ぼんと して ゐる。 止む を 得す 抱き あげ、 自動車の 中へ 運び込んだ。 

敎科 書に 書いて ある 通 巾.、 我が ドウ ガル は 額、 口 鼻 部、 頸、 前肢が 白色で、 橙 黄色に 黑を まじ 

へた 斑が 美しい。 柔和な 容貌、 悠揚 迫らざる 擧姿 は、 種族の 高貴なる 血統 をお も はせ、 彼の 英吉 

利の 貴族の 城 か、 我が 三 井家の 廣き 庭園に 飼 はれて ふさ はしい ものであった。 だが、 不幸なる ド 

ゥ ガル は、 十數 分の 後、 我が 借家の 庭に 放 たれた ので ある。 

犬き ちが ひの 弟 は、 恰も 勤務先の 用命 を帶 びて 遠地へ 出張 中だった が、 その 良妻 は卽日 かけつ 

けて 来て、 テレル 夫人と 比較し、 テレルの 方が 遙 かに 發 育が い、、 しかし:^. 尾に 惡ぃ 癖が ついた 

から 其の 點は ドウ ガルの 方が すぐれて ゐ ると、 あちら を 立て こちら を 立て、 どっちに も 花 を 持た 

せた 口上 を 述べ て歸 つた さう だ。 愈々 もって 良妻と いはねば ならぬ。 



U 



こ 、ろみに 近所の 運送店の 計量器 を 借て 體直を はかって みたところ、 五 貫 五 百匁 あつたが、 そ 

れ では テ レ ル 夫人よりも 三 貫 五 百匁ば かり 少ない ので ある。 念の 爲 その^の 名 醫を聘 して 健康 診 

斷を うけた ところ、 十二指腸虫が ゐ ると いふので、 直に 下劑を かけて 驅除を はかった。 この 疾患 

の爲に 發育 が遲れ たので あら う 。 うちの も 負けす に 育て ませうよ と、 愚妻 は 多分の 競 爭心を 起し- 

良妻とう で を 比べ る 覺悟を 定めた。 

二 疋のシ H パァド はの べつい たづら をし、 土 を 掘り、 木の 根を嚙 み、 自分 達の 住む 犬舍の 屋根 

を 被 壊し、 辦の外 を 通る 人に 吠え、 寸時 も靜 かなる 心境 を 樂む事 を 知らないの であるが、 我が ド 

ゥ ガル は ゆったり と寢そ ベり、 悠然と 步を 運び、 い たづら に 吠えす、 みだりに かけ 廻らす、 王侯 

の 威風 を 示して ゐ るので ある。 

私 は 川 喜 田さん に、 ドウ ガル 到着 後 二日 間の 動静と、 あはせ て小說 「小 公子, 一の 中に あら はる、 

セント. バ アナ アド 種の 名 をと つて ドウ ガルと つけた 事 を 報告した。 

ところが 其 後 近所に 住む 甥に 「小 公子」 を 借て 來て 讀ん でみ ると、 私の 記憶 は 全然 間違 ひで、 氣 

むづ かしい 老 貴族と 共に 古城に 住む 巨大なる 犬 は、 セント. バ アナ アドで は 無くて マ ス チフ だつ 

た。 おっかない 老 貴族と 共に 人 をお それさせて ゐる 犬と して は、 慈愛 深き セ ント. バ アナ アドよ 



ル ガウ ド のき 《我 



り も、 生傳チ 逢に して 飼養 宜 を 得 ざれば 兇暴と なるお それ ありと いふ マス チフの 方が 效果 的で あ 

つて 無理が 無い。 おい 「小 公子」 の 犬 は マス チフ だった、 しまった、 しまつ. たと 愚妻に 話す と、 だ 

つて メ リイ. ピック フォ ー ド の 小 公子と いっしょに 出て 来たの は、 たしかに セント .バ アナ アド 

でした よと 愚妻ながら も 亭主 を かばって、 有力なる 史料 を 提供した。 さう だ 「小 公子」 の やうな や 

さしい 物語に は、 セント • バ アナ アドの 方が 情景 あはせ 得た る ものが ある 害 だと、 勝手な 理窟 を 

つけて、 自分の 失敗 を 少しば かり 慰めた。 - 

我家の ドウ ガル は 未だ 二週間し かゐ ない の だが、 今やめ きめき 發 育し、 確 實にニ 貫目 位 は體重 

を增 したら うと 思 はれる。 犬 好きのお かつち やん は、 シャ ゥを曳 き、 ヂ ンを曳 き、 义 ドウ ガル を 

曳 いて 散歩に 行って くれる。 往来の 人が 目 をつ け、 ほめて くれる ので、 曳く人 も相當 得意ら しい 

が、 何分 亘大 なる 犬の 事 だから、 いたって か ぼ そいお かつ ちゃんの 瘦 うで f は、 引 擦られる 惧が 

ある。 嫁入 前の 大切な 娘さんに 怪我が あって は 申譯が 無い ので、 今後 犬の 散步は 私の 役目と する 

と 自ら 買って出た。 

ところが 我家の ドウ ガル は、 狹 くて 騷々 しい- 往來を 好まない。 彼 は 街つ 子の 性質 を 持って ゐな 

い。 そ- e /が 此の 種族の 犬の 先天的の 特性な のか、 或は 廣ぃ 所で 生れ 廣ぃ 所で 育った ドウ ガルの 習 



13 



性な のか、 Is- に 角 門外へ 出る 事 を 欲しない。 無理に 木戸の 外に 引す り 出し、 曳綱を 引 張る の だが- 

自動車 自轉車 荷車に 脅え て、 ちっとも 散歩 を享樂 しない-〕 そこへ 行く と シャゥ や ヂンは 散歩 好き 

で、 往來を かけ 廻り、 かぎ 廻り、 何 か 落ちて ゐる とやみ くもに 喰って しま ふ。 著しい 相違で ある- 

その上 不思議な の は、 我家の ドウ ガル は 大きな 象 を 見る と * いきなり 門內へ かけ 込まう とする 

癖が ある。 番 町の 事 だから、 近所に は 大臣 だの、 元帥 だの、 大將 だの、 偉い 政治家 だの、 偉い 實 

業 家 だのが づら りと 並んで わる。 その 家々 の 門 を 見る と、 安息 所で も 見つけた やうに 足 を はやめ 

て 人ら うとす る。 やっと 曳綱を 引きし ぼって 方向 を轉換 させる の だが、 何處迄 貴族的に 出 來てゐ 

るの か 驚く 外 は 無い。 あまり * 劎に 大家の 門內 にあ こがれる 姿 を 見る と、 我家へ 曳 いて 歸 るの が 

氣の 毒になる 位 だ。 _ . . - 

散步區 域の 中で は、 四 谷から 市ケ 谷へ つ く 見附の 土 堤が 一 番氣に 入って ゐる。 我家 を 出て 四 

谷へ 向 ひ、 双葉 女學 校の 角 を 曲る と、 忽ち ドウ ガル は 勢ひづ く。 綠の土 堤 は、 恐らく 津市 郊外の 

千歳 山 莊を想 ひ 出させる ので あらう。 步度を はやめ、 いそいそと 步き 出す。 犬が 喜べば 私 も 嬉し 

いから、 散 步は土 堤と きめて ゐ るが、 此の頃の 夜の 土 堤に は、 ぴったりと 寄 添って ゐる 男女が 少 

なくなく、 中にはお 湯屋へ 行く ふり をして 家 を 出て 來 たらしく、 ? B 道具 を 胸に 抱いて ゐる女 も あ 



14 



ノレ ガウ ド' の 家 我 



るから、 寸時 も惜ぃ 逢瀬な の だら うとお も ひやって、 こちらの 方で 遠慮す る 場合 も ある。 

ドウ ガルが 道行く 人の HI を 引く 事 はいふ 迄 も 無い が、 時には 人 を 驚かす 事 も ある。 旣に川 喜 田 

邸に 於て は、 電燈 工夫が 獅, 子と 間違へ て、 はだしの 儘臺所 口から かけ 込んだ 事件 さへ あった さう 

.ZJ It がれ 

だが、 この間の 黄昏に 四谷驛 前の 石段の 上に 立って ゐ ると、 下から 上って 來た 細君 同伴の 微醉の 

洋服 子 は、 あ 虎の子 だと 口走った。 

我家の ドウ ガル は その 性質 も 容姿 も 全く 貴族的 だ。 い、 犬です な あと、 稱 讚の 辭を浴 せて 行く 

人 はいくたり となく ある。 た 主人ば かりが ふさ はしくな いやう だ。 彼の 「小 公子」 フォン トル 口 

ィは、 亞米利 加で 乾物屋 や 靴 磨と 仲よ しだった が、 やがて 英吉利の 責 族の 城の あるじと なるべき 

品格 はふた ばより あら はれて ゐ たさう である。 だから、 老 貴族の 城に 飼 はれた 獰猛なる 犬 も、 初 

對 面から ぴったり はまった 伴侶で あり、 主從 であった。 それな のに 我家の ドウ ガル は、 彼の ドウ 

ガルに も 劣らぬ 名 犬に 相違ない の だが、 主人 は 主人と 見えない 程度の 主人な の だ。 

どこの ぢ いさん か 知らないが、 土 堤の 散 步の歸 道で、 もしもしと 呼びかけ たのが ある。 大變立 

派な 犬です が、 どちら さまので 御座いま すかと 訊く の だ。 私ので すよ と 中腹で 答へ たが、 ぢ^ い 

は 信じ 難い 額 をして、 犬と あるじ を 見 くらべた。 そこいらのお やしきの 犬の 世話役と 見た ので あ 



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らう。 だが 腹 は 立たなかった。 はなった らしの 子供で も、 い、 おこさん だと 云 はれ、 -ば 喜ぶ のが 

^、レ だ。 まして や 我家の ドウ ガル は、 もったいない 程の きり やうよ しだ。 主人が 見 劣す る 事に よ 

つて、 確 實に犬 は ほめられ たので ある。 (昭和 五 年 十月 五日) 

- , —— 「三 田 文學」 昭和 五 年 十一月 號 



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儲 名 浮 



浮 名 儲 



昭和 五 年 十月 一 日發 行の 「中央 公論」 に 「新聞記者 ュ モ レス ク」 とい ふ雜 文が 載って ゐる。 筆者 は 

日暮 一夫と いふ 人で、 私に は はじめて 見る 名前で ある。 この 人 流の いひ 方 を 以てすれば 「有閑 ブ 

ル ジョァ のお なぐさみに しかなら ない 愚劣なる 一文」 であるが、 大眞 面目で 途方 も 無い 出 鳕目を 

書いて ゐる のが、 見様に よって は 近代 心理 學叉は 病理 學の 參考 にもな りさうな 種な ので、 說明を 

加へ て 紹介す る。 

「スマ アトな 洋服、 氣の 利いた ネクタイ、 キッドの 靴が キ ユウと 鳴っても、 玄 關で脫 いで 上る 時 

靴下に 穴が あいて ゐ たら. それ は 正しく 新聞記者 だ」 とい ふま くら を ふって、 さて 世の中に は 新 

聞 記者 を 蛇赐の 如く 嫌 ふ 人間が あるが、 その 中で 有名な の は 故人で は寺內 正毅、 生きて ゐ るので 

は 山 本 權兵衞 • 文士で は 永 井 荷 風、 水上 瀧太郞 などが 代表的 だとい ふ。 私 は豫て 新聞記者から 



r 新開 嫌の 水上 瀧 太郞」 と 呼ばれて ゐ るので、 又き まり 文句 を 並べて ゐ るんだ なと 思った が、 その 

後 を讀ん でみ ると、 いかにも 世の中に は變態 心理の 持主が ゐる もの だとい ふ 事が わかって、 おも 

はす ひとりで 笑 ひ、 同時に 眉 を ひそめた ので ある。 

事柄 を はっきりさせる 爲に、 以下 數十行 原文 を 借用す る。 

その 水上 瀧 太郞が 「大阪 の 宿」 と 云 ふ醉拂 ひの 有閑 ブル ジョァ の、 大阪に 於け る 愚劣なる 生活 

を 書いた なかに、 日頃の 新聞記者 嫌の 一 端 を 見せて、 一 3 彼 を 訪問した 一 新聞記者が、 靴下 

に 大穴 を 開けて ゐた 無作法 を 痛烈に 罵って ゐる。 不幸に も 罵られた 男 は、 その 屬 する 大阪の 

大 新聞の 夕刊の 小說攔 にし かも 水上 瀧 太郞が 執筆して コッピ ドク やっつけられ たので ある。 

その 男 は 社會部 記者であった。 しかも、 彼 は 新聞記者 のなかで は、 際立った おしゃれで、 金 

廻の 好い 方の 男で、 身なりな ども 好い 方だった が、 彼の 絹の 靴下が 大阪ー の贅澤 洋品店、 P 

. ン ドン 屋で 買った 品物で あるに 拘ら す、 たまたま 一寸した はすみ で 穴が あいて ゐた、 めに、 

新聞記者の 靴下と いふ 概念に、 うまうまと 不幸に も陷り 込んで 御難 を 蒙った ので ある。 

日暮 君の 記述に 從 へば、 拙作 「大阪 の 宿」 の 中に 破れた 靴下 を 穿いた 新聞記者が あら はれる 事に 

たって ゐ るが、 「大阪 の 宿」 のどの 一 頁に も 破れた 靴下の 新聞記者 は あら はれない。 日 暮君は 多分 



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• 新聞社に つとめる 人で あらう が、 新聞記者の 出瞎目 はかくの 如き ものである。 

斯う 大上段に のし か、 ると、 それ は 「大阪 の 宿」 ではなくて、 「大 阪」 の 間違 ひだが、 どっちみ ち 

s 暮 君の 所謂 「有閑 ブル ジ ョ ァ の 愚劣な 生活」 を 描いた もの だから 同じ やうな もの だとい ひぬ ける 

だら うが、 こ つちに とって は 決して 同じ やうな も の ではない。 r 大阪」 は 大正 十 年の 作で 「大阪 毎 

曰 新聞」 に 連載した もの だし、 r 大阪の 宿」 は 大正 十四 年の 作で、 雜誌 「女性」 に 出た ので ある。 

しばらく 話が よそ へ それる が、 元 來私は モデル を その ま、 に 描く 側の 作家で は 無い。 自然主義 

勃興 時代から、 つい 最近 迄 日本 文壇に 流行した 身 邊小說 の 作家で は 無い。 だが 「大 阪」 と 「大阪 の 

宿」 にあら はれる 場面と 人物に は、 珍しく も 實景と モデルが 多い。 勿論 私の 遣 口で、 それ を 其傣描 

き はしない し、 又 架空の 人間 を 創造して、 都合よ く 事件 を 進展 させた。 たと へば 「大 阪」 の 主要 舞 

臺 面の 下宿屋 は、 私が 一年間 世話になった 家の 變形 であるが、 その 中に 出て 來る 人間の 半數 は、 

私が 勝手に こしら へ あげた 人格で ある。 

そんなら、 當 面の 問題と なって ゐる 破れし 靴下の 新聞記者に モデルが あるか、 無い かとい ふと- 

. 浮 あると 答 へても い、 し、 無い と 答 へても い、 ので ある。 

儲 些か 說明を 加へ ると、 r 大阪」 の 下宿に たづね て來た 新聞記者 はたった 一人し か 無い。 しかも そ 



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れ は 曰暮 君が 面白 を か しく で つ ちあげ た や う な-. 大阪 毎日 新聞社」 の 記者 では 無い。 赤い 色の 新聞 

の 記者で、 おしゃれ でもな く、 みなりの ぃゝ 人で もな く、 金 廻 もよ くな さきつな、 五十 がらみ の、 

旣に 人の 世に 疲れた 姿の 人であった。 彼の 靴下 は斷然 破れて はゐ なかった。 何故ならば、 彼 は 和 

服 を 着用して ゐ たから だ。 一 • ■ . . 

その 頃、 私 は 新聞の 出 鱒 目の 爲に 勘當 される 息子 だとい ふ惡名 をう け、 眞赤 になって 憤慨し、 

眞 正面から 抗議 を 申込 * み、 自由 平等の 精神 を 鼓吹す るかに 見える 新聞が、 その 實 いかに 封建的 根 

性 を 捨てない か、 斬捨 御免 を敢 てす るか を 難 じて ゐた。 折 柄 此の 赤い 新聞の 記者 は、 私の 下宿に 

押入り、 こっちが 話 もしない 事 を 書 立てた ので、 私 は 早速 訂正 取消 を 要求した。 しかし、 殿様 主 

義の 新聞と いふ もの は、 決して 誠意 ある 取消 をす る もので は 無い" 無力なる 一 小市民の 嘆願な ど 

12 御聽 入に はならない ので ある。 此の際 私の かんしゃく は、 小說 1 大阪 一の 中にはけ 口 をみ つけ、 

破れし 靴下の 記者 を 描き出した。 

何故 破れし 靴下な ど 、 いふ あくどい 描寫 をした かとい ふと、 それによ つ て 人間 を 明瞭なら しめ 

る爲の 手段と 考 へたから だ。 當時私 は トルストイの 小說 を耽讀 し、 彼が 或 人間 を 描く 場合に、 何 

かの 癖 をつ け 加へ て 姿 を はっきりさせる 常套手段 を學ん だ。 破れし 靴下の 如き も、 それと 趣 を 同 



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儲 名 浮 



じくす る ひとつ の描寫 法で、 此ー 一 か 類型に 過る 事 を 自ら 恥ぢ ながら 敢行して しまった。 

そんな 風に、 新聞記事に 對 して 正義 を 求め、 喧嘩腰に なって ゐ ながら、 若しも 大阪 毎日 新聞社 

が 小說を 書かせて くれなかったら、 私 は 大阪で 生活す る 事 は出來 なかった。 當時は 歐洲戰 爭の眞 

最中で、 物 價は滅 茶々々 にあがり、 月給 は あがらす、 下宿 代 はまた、 くひ まに 三十 圓 から 五十 圓 

になった。 ゐた、 まれなくて 轉宿 する 氣 になった 位 だ。 その 苦しい 生活 を 救って くれたの は 「大 

阪 毎日 新聞」 に 連載した 小說 「日曜」 「次の 日曜」 「大 阪」 のお かげ である。 その 頃文藝 方面の 主任者 

は 薄 田泣董 氏だった。 往年 氏の 詩 を 愛誦した なつかし さと、 どうしても お金の 欲い 心 持と をち や 

ん ぼんに して、 古びた その 社の 受附に 度々 刺 を 通じた。 幸 ひに して 「醉拂 ひの 有閑 ブル ジョァ の 

愚劣なる 生活 を 描いた 小說」 は、 好評 を 博し、 それが 緣 となって 新聞社の 人達と もち かづきと なり、 

私の 宿へ 遊びに 來る人 も 多かった。 しかし、 それ は 「大 阪」 の 下宿で はなく r 大阪の 宿」 の 方で、 そ 

の 中に おしゃれで 金 廻が よくて、 大阪 一 の贅澤 洋品店 口 ンド ン屋で 買った 賴の 靴下の 破れた の を 

はいた 人が ゐ たか どうか は 記憶し ない。 破れし 靴下 は日暮 君の 指摘す る 如く、 概念に 過ぎない の 

であって、 特定の 人から 誘引され た描寫 では 無い ので ある。 

LJi^lf- 私の 小說が 1^ 角 三面記事 的 事 實談の やうに 解され 易い 事 は 否定 出来ない。 何故か。 描寫 2 



の 冴えが 眞に 徹する 爲 ならば 名譽の 事で あるが、 實は 私と いふ 人間が 俗人で、 藝術 家的氣 禀に乏 

しく、 凡庸 通俗 だからで あるら しい。 

年少 未だ 些か は 詩情 を 有した 時代の 小說 は、 すべて 私の 生 ひ 立ちの 記の 如く 誤認され、 中年に 

して 早く も 詩心 を 失 ひ、 勤 人 小說を 描く にいた る や、 すべてが 私の 勤務す る 會社內 の 出来事の や 

うに 誤解され た。 ,. - 

先年、 矢 張大阪 時代に 「大 さの 下」 と 題す る 小說を かき、 盗癖の ある. 給仕 を その 中に 描き出した 

が、 これ は 私の 想像が つくりあげた 人物で、 私の 勤務す る會 社に、 さう いふ 少年が ゐ たわけで は 

無かった。 私の %阪 三年 間 は、 上記の 通り 物價 高値の 爲、 手堅い 會 社よりも は セな會 社 を 望み、 

或は 工場に 行けば 高い 勞 銀が 得られる ので、 給 化 は 幾人 も變 つた。 年中 はな を 垂らして ゐる こど 

も 、ゐた し、 ひどく 生意氣 なの もゐ た。 しかし、 手癖の 惡ぃ こども はゐ なかった。 「大 {仝ー の 下」 一 

篇は、 全く 私の 作った 話だった。 

ところが、 私が 大阪を 去り、 東京へ 歸 つて 數 年の 後、 大阪の ある 銀行に つとめて ゐる 人が 上京 

して、 あの 「大空の 下」^ 出て 來る 手癖の 惡 いこ どものお ゃぢが 死に ましたと 話す ので ある。 その 

こどもと 云 ふの は 何 處にゐ るので すと きくと、 あなたの 方の 會社を やめてから、 私の 方の 銀行に 



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來てゐ るので すと いふ。 私 は 何と 返事 をして. い \ かわからなかった。 小說の 中で、 私 は その 手癖 

の惡ぃ 給仕のお ゃぢを 中風 症に して 置いた。 それが 長 ゎづら ひの あげくに 死んだ とい ふの だから, 

話の 辻捿 はしつ くり あ ふので あるが、 いかに せん 一番 大切な 手癖の 惡ぃ 給仕なる ものが、 全然 乙. 

の 世の中に 存在し ない 害な ので、 何と 說 明して い、 かわからない ので ある。 私 は その 人に むかつ 

て 「大空の 下」 に は モデルの 無い 事 を確說 したが、 相手 は 現に その 給仕と 同じ 銀行で 働いて ゐ ると 

いふの だから、 私の 言葉 を 信じる わけが 無い。 それで は 銀行で も 時々 盜癖を あら はします かと や 

けにな つて 質問したら、 幸 ひに 私 どもの 方へ 來 てから は、 一度 も 間違 ひはありません とい ふ 返事 

だった。 

察する に、 その 銀行に 勤める 給仕 は、 曾て 私の 勤務先に ゐた こどもの 一人に 違 ひ 無い ので あら 

う。 それが、 小 說には 必す實 在の モデルが ゐ ると 考 へる 近代の 讀 者の 興味から、 人々 は そのこ ど 

も を 「大空の 下」 のわき 役者と きめてし まった ので あらう。 或は その 給仕 自身 も、 そんな 小說 なん 

か 讀んだ 事 は 無いだら うが、 人々 がい ふ 儘に、 自分 を モデルに した 小說が あると 信じて ゐる のか 

I もしれ ない。 拙作 を 例に とって ゐ るので 少しく 口 は 1/ つたく 思 はれる が、 I 間に は 自分が 小說の 

儲 モデルになる 事 を 喜ぶ 人 も 少なくない。 自分 を 英雄 化して 喜ぶ 心理の あら はれで ある。 犯罪 人の 



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多く は、 .B 分の 名が 大きい 活字で 新聞に 出る 事 を ほ こりと する さう である。 ニー: 十九 字 略〕 新聞種に な 

り 度い 爲に、 有名な. < を えらんで 肉體を 提供す る 女 も あると いふ 事で ある。 自分の 過去の 經歷を 

話す から、 それ を小說 にし あげて くれと いふ 人間 も 少なくない。 あたしの ロォ マンス きっとい、 

小說 になる わよ と、 得々 として 悲壯 がり、 噓を まじへ て 話す 藝者ゃ 女給 は無數 であらう。 先年 或 

文人が 他人の 女房と いっしょに 不自然な 死に 方 をした 時、 自分 も その 人と 關係 があった とか、 あ 

の 人 は 自分に おぼしめしが あつたと か 云 ひ 出した 女が 繽々 あら はれた さう である。 又 或小說 家が 

自殺した 時 * 遣窨の 中に * 自分と いっしょに 死んでも い、 と 云った 女人が あると 書いて あつたと 

ころ、 それ こそ は 自分の 事 だと 云 ふ 女が、 あちらこちら にあった さう だ。 有名な 通俗 小說の 主人 

公、 女 主人公 は 自分 だと 名吿を あげる 人 は 珍しくない。 有名で 無い 「大空の 下」 と雖 も、 一人 位 は 

物好きな 人間が あら はれても 不思議で は 無い かもしれ ない。 

义 これ を 一面から 見る と, 被害妄想 症と も 解され る。 日暮君 は、 たぶん 「大阪 毎日 新聞」 か、 义 

は その 系統の 新聞社に つとめる 人 か、 つとめた 事の ある 人で あらう が、 その 社の 同僚に、 自分 は 

「大 阪」 の 中の 破れし 靴下の 記者 その 人で あると 名吿る 人が ゐ るので あらう。 その 人 は、 恐らくお 

しゃれで 金 廻が よくて 平生 絹の 靴下 を 用る 人な ので あらう。 實に 面白い 人 ご、 ろで ある。 戀愛小 



24 



儲 名 fF: 



說の 主人公、 あれ は 自分 だと 信じる 人間が ゐる 害で ある。 

なほつ いでに つけ 加へ て 置く が、 私 は 「大 阪」 の 中で、 破れし 靴下 を ひとつの 類型 描寫の 手段と- 

して は 用 ひたが、 それ を 無作法 だと か、 無禮 だと か 云って 咎めて はゐ ない。 第一、 私自身が 常に 

破れた 靴下 を はいて ゐる 組な ので ある。 

被害妄想 といへば、 最近 私が 「中央 公論」 に發 表した 小說 「夏期 實習」 にも 亦、 モデル は 俺 だと 名 

吿る 人間 を 見出した。 この 小說は * 私が 從來 作った 「勤 人 小說」 或は 「食 社 小說」 の 系列に 加 はるべ 

きもので あるが、 一面から 見れば 主題 小說 でも ある。 しかし、 どの 會社を モデルに すると か、 誰 

を, モデルに すると かいふ やうな 意圖は 毛頭 無かった。 さう いふ 意味 あ ひに とられる 事 を 恐れて、 

いかにして 之 を 避くべき かに 心を勞 した 位 だ。 私の つかんだ 主題 は、 今日の 世の中で 保 險會社 程 

はげしい 競爭 をして ゐる もの は 無く、 それが 極端に はしり、 陋劣なる 手段 を 恥と しない 狀態 にあ 

る 事 を遣憾 とし、 殊に 相互 組織と 株式 組織の 優劣 を 論す る 手前 味嗜、 高配 主義と 低率 保險料 主義 

の 手前勝手な 宣傳 から 互に つのめだって 誹謗 中傷す る 愚かし さで ある。 ところが、 腔に 傷 持つ 連 

中 は、 あれ は 自分の 會 社の 事 だ、 自分の 事 だとき めて か k つて、 保險 新聞に 投書し、 見當違 ひの 

毒筆 を 振 ふ 人間 も あら は れた。 私 は 萬 一 特定の 人 を モデルに したと 受 取られて は 困る と 思って、 



25 



わざと 類型的な 人間の 輪郭に、 強て あり 得べ からざる 癖 をつ け 加へ て豫 防した。 例へば、 社長 は 

\ ^ル頭 白 とい ふ 概念に、 慢性 傻麻質 斯で足 を 引 擦る とい ふ特徵 をクけ 加へ、 課長 は短軀 肥大と い 

うべ か 

ふ 概念に、 破れた 管樂 器の やうな 微震 音 を 伴 ふ音聲 とい ふ 多く あり 得 可らざる 特徵 をつ け 加へ た „ 

然るに 不幸に も、 平生 最も 競爭 意識が 強く、 いかなる 手段 を もえら ばない ので 有名な 會 社の 社長 

が 禿 頭で あり、 その 下に 働く 課長が 短軀 肥大の 人物な の ださう だ。 白髯と ffi 麻 質斯、 破れた 管樂 

器の やうな 微震 音 を 伴 ふ 音聲 の 方 はどう だか 審 かで 無い が、 秀 頭と 短嫗 肥大 だけで、 直に 自分 の 

事 だと きめてし まったら しい。 私の方では? 恰も 破れし 靴下の 如く、 \ ^儿 頭と 短嫗 肥大 は、 容易に 

は 5 

モの 階級 を 代表す る 極めて 幼稚 月並な 描法で、 こ の點 些か 近頃 流行の プ P 文學 派に 類す る 事 を 恥 

てゐ たの だが、 主題 小說の 常と して、 簡單 明瞭 を 第一 に 心がけた のであった。 い たづら なる 偶然 

は、 特定の. 食 社に、 類型的なる 社長と 課長 を 存在せ しめた ものと 見える。 尤も 平生 四方八方から- 

非難 攻撃され てゐ るう しろめた さが、 被害妄想 を 起させた もの かもしれ ない。 短 纏 肥大の 課長の 

投書に 對し、 私 は 直に その 誤解 をと き、 !w せて こっちの 立場 を 明かに しょうと 思 ひ、 同じ 新聞に 

投書した が、 どうい ふ もの か褐 載され たもの は、 加筆と 省略に よって、 私の いひ 度い 事を盡 させ 

て くれなかった。 



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彼の 自殺した 文人 達に は、 美しい 女性が ひとと ほりで 無い 交涉 のあった やうに 名吿り 出た さう 

だが、 ^の 方 は 破れし 靴下の 記者と、 手癖の 惡ぃ 給仕と、 秀 頭の 社長と、 短嫗 肥大の 課長 だ。 い 

ゃぢゃ あありません か。. (昭和 五 年 十一月 十日) 

. • 1 「三 胡 文學」 昭和 五 年 十二月 驟 



澤木 四方 吉氏 素描 



澤木君 は 私より 一歳の 年長者で、 私が 慶應義塾 普通 部 一年生の 時、 彼 は 二年生だった。 澤木君 

は 優等生で、 私 は 落第生だった から、 忽ちのう ちに 三級 違って しまった。 天性 虚弱だった 爲か、 

その 性格の 爲か、 育ちの 爲か、 趣味の 爲か、 多くの 學 生と は 交らす、 夙に 老成の 風が あった。 鄕 

里 は 秋 田縣船 川で、 土地の 豪家の 坊ちゃんの、 しかも 末子と して 我儘に 育ったら しい。 兄なる 人 

と從 兄と 彼と、 三人が 寄宿 舍の 一室に ゐた やうに 記憶す る。 三人と も 東北 特有の 型で、 色の 白い、. 

額の 廣ぃ、 弱々 しい 學 生で、 いつも 絹物 を 身に つけ、 板 敷の 舍室を こ、 ろよ しとし ないで、 奇麗 

なう すべり を 敷き、 机の 上 は 常に 整頓し、 凡そ 亂雜 粗野の 風 を 嫌 ふ 一族と して、 他の 學 生と は 著 

しく 異る 存在だった。 惡童 ども は 蔭口 をき き 「別世界 一と 呼んだ。 同時に 澤木 君の 側で は、 その 惡 

童 共の 粗暴、 無趣味、 低能 を 悉く 輕 蔑して ゐ たに 違 ひ 無い。 私 は 澤木君 を 「別せ 界」 と 嘲り、 同 寺 



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描 素 氏 吉方四 木 (架 



に澤木 君から 悉く 輕 蔑され る 側の 學 生だった。 だからお 互に 顏は 知って ねても、 挨楼 もしす に 十 

年餘を 過した。 • 

私の 記憶 はたし かで 無い が、 一 生緣も ゆかり も 無 さ、 うに 思って ゐた澤 木 君が、 突然 私 を たづ 

ねて 来たの は、 明治 四十 三年の 晩秋の 一 夜と 覺 えて ゐる。 澤木君 は 旣に學 校 を 卒業し、 普通 部の 

英語の 先生に なって ゐた。 私 はやう やく 理財 科 一 一年 迄 こぎつけ たが、 多く 文科の 敎 室へ 傍 聽に出 

かけて ゐた。 恰も その 年の 新學 年から、 永 井 荷 風 先生 や 小山 內薰 先生が 文學 部の 先生と なり、 五 

月に は 「三 田 文學」 が 創刊され、 三 田 山上の 極めて 少数の 文學靑 年に 多大の 感激 を與 へた 時代 だつ 

た。 

澤木君 来訪の 用件 は、 同 君の 親友 小 幡直吉 氏の 詩集 刊行の 事であった。 この 薄命の 詩人 は、 福 

澤諭吉 先生の 女房役と して 慶應義塾の 創設に カを盡 した 小幡 篤次郞 先生の 令息で あつたが、 なが 

く 肺 を 病み、 この 年の 秋 死んだ ので ある。 はじめて 話 をして みて、 お 互に 話が 合 ひ、 夜 を 更かし 

た。 

それが きっかけ とたり、 間も無く 小 泉 信 三、 岡 田 四郞、 松 本 泰三氏 を 加へ た 五 人が、 1 母 月ー囘 

會 合して 無駄話 をす る 約束 をし 「例の 會」 と 呼んで ゐた。 小 rt^ 君 は その 年の 春 卒業して 學 校に 殘っ 



29 



てゐ たが、 未だ 敎鞭 はとら す、 矢 張 永 井 小山 內兩 先生の 講義 を傍聽 する 一 人だった。 岡 田 君は卒 

業して 或 商店に 勤めて ゐた。 この 人 は その後 川 村費 郞の 名で 「三 田 文 學.」 に 小 說を發 表した 事 も あ 

るが、 今 は大阪 で商賣 人に なって ゐる。 松 本 君 は 文科の 學 生だった。 

この 會合 はしば らく 績 いた。 五 人 を 中心とし、 その後 知合 ひに なった 久保田 万 太 郞氏を 加へ た 

り、 永 井先 生に 來て 頂いたり、 小山 先生 を 招待した りした。 小 泉 君 は 勿論 野心 を 持って ゐ なか 

つたら うが、 松 本 君 は 純然たる 作家 志望だった し、 澤木君 は哲學 専攻の 害だった が、 これより さ 

きに 學 生の 編輯す る雜 誌に ふたつの 小 說を發 表して ゐ たし、 岡 田 君 も 充分 色氣 はあって、 ひそか 

に 試作して ゐる 様子だった。 私 はこ どもの 頃から 讀む事 は 好きで、 人一倍 讀んで 居た が、 自分で 

書く 事 は 想像して ゐ たかった。 ひとつに は 私の 藝術 崇拜が 自己 否定と 共に 極端に 強く、 自分なん 

かに 何が 出来る もの かと 云ふ氣 分に 導いた ものら しい。 

私 は ニニ 田 文學」 とい ふ雜 誌が 出現し なかったなら、 或は その 創刊が 一 ニ年遲 かった たら、 恐ら 

く 一 生小說 作家と はならなかった であらう。 「三 田 文學」 が 誕生しても、 若し 「例の 會」 が 無かった 

なら、 私 は 創作の 野心 を 抱かなかった であらう。 殊に 「例の 會」 の 人の 中で も、 澤木 君が 私 を 作家 

たらしめ る爲に 一番 影響の あった 人で、 或は 澤木 君が ゐ なかったなら、 矢 張 私 は 作家に はなら な 



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^^素氏吉方四木^* 



かった かもしれ ない と 思 ふので ある。 

その 頃 澤木君 は 三 田四國 町の 甲 辰 館と いふ 下宿屋に ゐた。 半分 木造 洋風の 家で、 澤木 君が 占め 

た 一室 も、 窓は兩 方に 開く 硝子 張だった。 窓際に 机を据 ゑ、 金緣の 眼鏡の 奥で 細 いちひ さい 限 を 

しば だた き、 現實に 口角 泡 を 飛ばして 話す 彼であった。 恰も 森 田 草 平氏の 小說 「煤煙, 一の 出た 後で * 

その 作品の 力強 さと、 取扱 はれた 材料が 生んだ 紛糾せ る戀愛 問題の 興味と が、 多くの 若者の 心に、 

よくも 惡 くも 何等かの 影響 を與 へた 時代 だ。 澤木君 も 小 幡君も 「煤煙」 を愛讀 し、 殊に 澤木君 は そ 

の 作風 を學 ばう と 努力して ゐた。 

「三 田 文學」 第二 卷第四 號に若 樹末郞 の 名で 發 表した 小說 「夏より 秋へ」 は、 明かに 「煤煙」 に 刺戟 

されて 書き 始めた もので、 再びみ たび 書 直し、 叉 書 直す うちに、 次第に 森 田 草 平氏 を 離れて 澤木 

氏の 持 味に 移って 行った。 今日に して 見れば、 極めて 感傷的な 纖 弱な 作品で あるが、 この 原稿 を 

讀 まされた 時の 私の 感動 は 非常な ものであった。 その 頃 私な ど は、 小說 家と いふ もの は 特別の 修 

業 をし なければ なれない もの だと 考へ てゐ たので、 吾々 の 身近に さう いふ 能力 を備 へて ゐる 人間 

を 見出した の は 並々 ならぬ 事だった。 澤木君 は 名文家で、 殊に 叙景の 筆に 長 じて ゐた。 これ を 永 

井先 生に 見て 戴く 事に なり、 やがて 「三 田 文學」 にあら はれた 時 は、 吾々 一同の 上に 春が 來 たやう 



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な 喜びだった。 永 井先 生の 批評 は、 景色 は 上手に かけて ゐ るが、 人間 はいけ ない とい ふので あつ 

た。 . 

. この 小 說は、 澤木 君が 一 夏 を 過した 溫泉 宿の 娘に 對 する 思慕の 情 を 描いた もので、 娘 は その 頃 

は旣に 他家へ 緣づ いて ゐた。 未だ 婦女に 接した 事の 無い 純情から、 その 話 をす る 時 はほんと に淚 

を 流した" ■, 

「夏より 秋へ」 に 刺戟され て、 小 泉 君 を 除く 外の 「例の 會」 の 面々 は、 創作の 熱度 をた かめた。 私 

も おだてられて、 はじめて 小說を 書く 氣 になった。 , 

春の 休暇に 澤木 君と い つし よに その 溫泉 場へ 出かけ、 互に 机 を 接へ て競爭 的に かき はじめた。 

澤木君 は、 病弱な 學 生が 看護婦に 戀 する 戀 愛小說 にと りか、 り、 私 は 處女作 「山の手の 子」 を かき 

はじめた。 二人 は ひとつの 窒にゐ ながら、 お 互の 行動 を 制 肘し ない 約束 をし、 てんでん ばらばら 

の 生活 をした。 澤木君 は 寝坊で、 おまけに 床離れが 惡 いので、 いつも 私が 先に 起き、 湯に 入り、 

散步 して 歸 つて 來 ると、 やう やく 起きる。 いっしょに 飯 を 喰 ふと、 今度 は澤木 君が 散歩に 出て 行 

く。 二人とも 机に 嚙 りついて ゐる時 は、 互に 口 をき かない 事に して 十日 を 過した。 

私 は 「山の手の 子」 を 完成し、 澤木 君に 見て 貰って、 大變 おだてられた。 澤木 君の 第一 一作 は 「夏よ 



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描 素 氏 吉方四 木!' 峯 



り 秋へ」 よりも 更に あまくな り、 自分 も氣に 入らす、 私 も 感心 出来ない ので 無遠慮 に 批評し、 結局 

おけ 

中途で やめて しまった。 その後、 故鄕船 川に 於る 幼時の 追憶 を 小說の 形式に まとめよ うとした 事 

もあった が、 これ も 中途で 筆が つかへ て、 ものに ならなかった。 

それつ きり 澤木君 は、 小說を 書く 野心 を 捨て、 しまった。 根強い 精神力 を 持ち、 おのれ を 信す 

る 事の 厚い 人で ありながら、 他人の 言葉 を ひどく 氣に する 質だった。 私 は澤木 君に 誘導され て 小 

說を 書く やうに なった ので あるが、 澤木君 は 私の 無遠慮な 批評の 爲に、 小說を 書く 勇氣を 挫かれ 

たので は 無い かと 心配した 事 もあった。 尤も、 後に なって 考へ ると、 澤木 君が いちはやく 小説に 

見切 をつ けたの は 賢明で、 ながく 未練が あったら、 學者 として 大成す るのに 邪魔に なったら うと 

想 ふ。 

前に も 書いた 通り、 澤木君 はこ どもの 時から、 ほかの い たづ らっこと いっしょに 遊ぶ 事の 出來 

ない 性質だった。 その上、 地方の 豪家に 育ち、 且 優等生の 優越感 や、 肉體の 弱さが、 一 孤立 さ 

せる 種と なった。 その 結果、 粗野な 人間、 頭の 悪い 奴、 うす 汚ない 奴 を 嫌 ふ 事が 甚 しかった。 さ 

うい ふ 種類の 人間が 澤木君 を 批評したり、 或は 澤木 君と 違 ふ 意見 を 固執したり すると、 しんそこ 

から 憤り、 憎み、 唾棄し、 輕 蔑し、 罵倒した。 一寸 類の無い 褊狹な 性格だった が、 對人關 係に, I 



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も鍊 磨の 無い 一方に、 全く 人擦れの しない 正直 一 圖の心 を 持ち 績 けた 人で ある。 

甲-お 館 時代の 澤木君 は、 自分 は責族 主義で あると 云って ゐた。 それ は 二 イチ M の はげしい 強さ 

を 要求す る 心 持と、 ォスカ ァ* ワイルドの 唯美主義に 傾く 心 持との いりまじつ たもので あらう。 

ニイ チェに 就て は 「三 田 文學」 に、 その 「超人と 囘 歸說」 を 紹介した が、 ワイルドの 名 は黡々 彼の 口 

から 吾, ベ の 耳に 入った。 「タ アナ ァが 描いて から U ン. トンの 霧 は 深くな つた」 とい ふやうな 巧妙な 

る逆說 を、 澤木君 は 喜んで 口にした。 . 

曾て は ヮァズ ヮァス 流の 自然 詩人で も あり たかった 澤木 君が、 山川の 美の つまらな さを說 き、 

すべ て 人工 の 美に あら ざれば 美に あらす とする に 到った の も その 頃 だ。 男 も 紅白粉 をつ けて 化粧 

すべき だと か、 胸に 向日葵の 花 を さして 口 ン ドン を步 いた ワイルドの 如き 美的 服装 をし なければ 

いけない とか、 かなりの 熱情 を もって 說 いた。 季節の 變り めに、 自ら 選んだ 着物 を ほこる 事 も あ 

つた。 鼓に 於て、 根が い たづ らっこ 畑に 育った 吾々 は 「澤木 ワイルド」 などと ひそかに 冷 かした も 

ので ある。 

明治 四十 五 年の 夏、 澤木君 は 慶應義塾 留學 生と して 獨 逸に 行った。 專攻 科目 は 審美 學の害 だつ 

. たが、 ミ ユンへ ン 滞在中に 志 を かへ て 美術史の 研究に 移った。 



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#f 素 氏吉方 四木澤 



同じ年の 秋、 私 は 渡米した。 

大正 三年 戰爭が 始まり、 獨 逸に ゐた 連中 は 命から がら & ン ドンへ 逃げ、 澤木小 泉 兩君も その 中 

にゐ た。 P ン ドンと 雖も 安全で は 無い からよ せと 云 ふ 人々 の 言葉 を 振 切って、 私 も 亜米利加に 別 

れを吿 げた。 英京 パ ッ ディ ング トン 驛に 出迎へ て くれたの も兩 君であった。 

二 年の 間に 澤木君 は 大變か はって ゐた。 質素 儉約を 11 曰と する 獨逸、 統一 の 力 を もって 全世界に 

冠た らんと する 獨 逸の 旺盛なる 意氣 は、 甚 しぐ 澤木 君の 思想に 影響した。 男子 も 粉 紫 を 施すべし 

と 主張し、 纖 弱の 美 を專ら よろこんだ 「澤木 ワイルド」 ではなく なって、 同時に 叉 日本に ゐて は、 

日本 特有の ヂャ アナ リズムから、 新奇 を 尊ぶ 傾向に 導かれ 勝だった のが、 西歐 古典 藝 術の 眞髓に 

觸れ、 深い 感動 を 受け、 それが 全人格に 影響した。 

その 頃日 本の 畫 壇に は、 怫蘭西 印象派の 巨匠 マネ、 モネ 等の 理論と 技法と が 日本的の 簡便 迅速 

なる 流行 を 見た 後で、 セザ ンヌ、 ゴ ッホ、 ゴォ ガン 等の 畫 風が 最も 新しい ものと して 一般 美術 學 

生の 熱情の 對象 となり 始めた 頃 だ。 鈍 直な 西洋人に は 思 ひも 及ばない 事 だが、 これ も 亦 日本人ら 

しい 頭の よさで、 原畫は 見ないでも 寫眞 版で 早 わかりに わかり、, 美術 學生 も文學 書生 も、 新しい 

おち 

呼吸 をした 積り の 時代で ある。 吾々 と雖も その 方で は 人後に 落す 上野の 展覽會 を 見 て 後期印象派 



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め 理論 を あてはめ、 あれ もこれ も 古いと けなして 憚りない 程 勇敢だった。 ところが、 歐 米の 美術 

館で 古今の 名畫を 見る に 及び、 最新の 畫 風の 面白さ も、 その 理論の 必然性 も 認め はする が、 それ 

よりも 更に 厳として 吾々 の 審美眼 を 威 伏せし める 古典の 力に うちのめされた。 感激 性の 強い 澤木 

君が、 藝術觀 をー變 したの も 無理 は 無い。 最初の うちこ そ 町中の 畫廊で 見る 新しい 綺畫の 紹介 や、 

當 今の所 謂 尖端 的な 畫 論の 紹介に も 興味 を 感じたら しいが、 間も無く 文 藝復與 期の 美術 研究に 沒 

頭し、 それが 一生の 仕事に なった。 

ロンドンの 一 年 半 は、 私に とって は樂 しかった。 しかし 澤木君 は 英吉利 嫌で、 始終 不平 を こぼ 

して ゐた。 性格と して 英吉利 嫌だった らしい が、 一般に 歐洲 大陸へ 先に 行った 人、 殊に 獨 逸で 無 

遠慮に 振舞って 来た 人に は、 ロンドンが 窮屈で 堪らない らしく、 私の やうに 亞米利 加で 輕 蔑され 

てゐた 者と は餘程 感じが 違 ふらしかった。 

私 は 不平 をお し 殺して しま ふ 方の 質で、 粗衣粗食 でも 我慢の 出来る 方 だが、 澤木 君に は 我慢と 

か 辛抱と か. いふ ものが なく、 のべつ に 衣食住の 不平 を 云って ゐた。 部屋が 案-いと か、 食物が まづ 

いと か、 下宿の 婆さんが 不親切 だと か、 英吉利 人て 奴 はどうして 斯う 頭が悪い のかと か、 數へ切 

れ ない 事であった。 さう いふ 不平が 旅愁 を 伴 ひ、 心寂しく なると 私 を 誘 ひに 來た。 ハイ. ト. パァ 



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描 素 氏告方 四木澤 



クは 吾々 の 最もよ き 散步の 場所で、 カフ H • オヤ ルは 吾々 の 最もよ き 休息の 場所だった。 この 

カフェ は 佛蘭西 式で、 曾て はォ スカァ • ワイ ルドが 毎日 ゥヰス キイ 曹達 を 浴びながら 談話の 華 を 

咲かせ、 當時は H ブス タイ ンを 中心とする 藝術 家が 集って ゐた。 い つばい の 葡萄酒に 白皙の 顏を 

紅く 染めて、 澤木君 は 藝術的 感激 を 表白す る 事に 熟 中した。 不平 不滿を 忘れ、 眼 は 輝き、 唇 はう 

る ほひ、 つばき を 飛ばして 語って 盡 きなかった。 曾て は 情緖璺 かなる 藝術を 喜んだ のが、 今 は 立 

體 的な 構成 力 をた くまし くした もの を 讚へ、 ルゥベン ス より は レム ブラント、 シュニ ッラァ より 

は トルストイ、 メェ テル リンクより はシ M クス ピア を推稱 した。 

私はゥ H スト. ケン シン トン の 軍人の 家に ゐた。 戰 時の 事で、 主人の 少佐 は 兵 營にゐ て 留守 だ 

つた。 無闇に 家柄 を ほこる 世間 知らす の 夫人と、 三人の 娘と、 中 學に通 ふ 男の子が ゐて、 こども 

ら はい、 性質だった が、 夫人 は 象 計の 不如意から 極度の ヒス テリ ィを 起し、 S 々不愉快な 事が あ, 

つた。 英吉利 人と いふ もの は、 少數の 偉い人 間に 萬 事 を 任せ、 大多數 は 自國の 強大に うぬぼれて 

ゐて、 少しも 知識 を吸收 しないから、 餘 程間拔 なと ころが ある。 決して 日本人の やうに 悧巧で は 

ない。 主人の 少佐で さへ、 日露 戰爭で 日本が 露 西亞に 勝った の は、 日本の 軍艦に は 英吉利の 士官 

が乘 組んで ゐて 指揮した からだと 公言す る 位 時勢 遲れ だ。 三人の 娘のう ち、 一番の 姉が 尋常な 顏 



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立ちだった が、 澤木君 は 次の 妹の 方が 活潑で 面白い と 云って、 その 妹に 佛蘭西 語 を 習 ふ 約^ をし 

た。 三 四 度 通って 來 ると 夫人 はすつ かり 喜んでし まって、 クリスマスの 晩餐に 澤木君 を 招待した。 

ところが、 或 日 突然 澤木君 は 私へ 宛て、 手紙 を 寄越し、 自分に は お嬢さんと 云 ふ もの、 お 相手 は 

出来ない から 語學の 稽古 はやめる と 云って 來た。 あまり 早急で 且 理由が 理由 だから、 私 は 夫人 や 

娘に 傅へ 兼て 弱って しまった。 なんとい ふ 我儘ない ひ 分 だら うと 憤慨し、 かんしゃく を 起し 「友 

達なん て う る さい もの は 無 い 方が い、 」 と 澤木君 に書途 つた。 この 手紙に は 私の 心 持が はっき リ 

出て ゐ たと 見えて、 澤木君 は 後々 迄 興味 を もって 話題と し、 私 を 批評す る 時の ひとつの 材料と し 

てゐ た。 . 

だが、 間も無く 私 も トルストイ や ワイルドの 書、 英吉利の 中流 家庭に 於て は 異端の 書と 見られ 

てゐる もの を讀 み、 且娘 達に も讀 ませる のがい けない とい ふ 夫人の 抗議 を 近因と して、 その 家 を 

出て しまった。 

その 時 澤木君 は 大英博物館に 近い 下宿に 居た。 外に 行く と. ころも 無い ので、 私 も そこに 部屋 を ■ 

求めた。 三邊金藏^^も小林澄兄君も小泉信三君も泊った家だ。 時には それ 丈の 頭數が 揃った 事 も 

あった。 吾々 はめい めい 勝手な 生活 をして ゐ たが、 早く 起きた 者 も 寝坊した 者 も、 朝飯が すむ と 



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描 素 氏吉方 四木澤 



大英博物館 內の圖 書 館に 通った。 勿論 安宿の 事で、 待遇 は惡 く、 或 日 澤木君 は、 あまり まづぃ 物., 

を 喰 はせ る の で故鄕 をお も ひ、 淚が こぼれた と 云った 程 だ。 

その 下宿で 澤木君 は^ 血した。 朝顔 を 洗 ふ 時 咳が 出て、 洗面器の 中に 吐いた の だ。 しかし これ 

が 最初で は 無く、 獨 逸に ゐる時 も 同様の 事が あつたの だ。 私 は澤木 君の 命 をう けて、 澤木 君が 獨 

逸 以來の 友人 理學士 木 下 正 雄 氏 を たづね、 その 知合の 九州 醫科 大學 から 留學 して ゐた小 野 寺 氏に 

来て 貰 ふやう に賴ん だ。 診察 後 小 野 寺 氏 は 私 を 別室に 呼んで, 澤木 君の 體 質の よくない 事 を 話し、. 

深く 注意すべき やう 繰返し 念 を 押した。 . 

澤木君 はこの 事 を あまり 人に は 知らせ 度 がらなかった。 追々 恢復 期に 向 ふと、 大變 人な つっこ 

くな つた。 全快の 後 いっしょに 飯を喧 ひに 行ったり すると、 少量の 酒に 醉 ひながら、 「大丈夫 だよ、 

君。 大丈夫 だよ、 君。」 と 決して 傳染 する 程の もので はない とい ふ 意味の 事 をい つて、 私に み 安 を 

いだかせまい とした。 

私 は あまり 病氣 を惧れ ない 方な ので、 傳染 すると も 思はなかった し、 叉 出来る 丈 そんな 心づか 

ひ を させ 度ない ので、 若し 吾々 の 問に 獻酬の 習慣が あったら、 恐らく は 彼に 盃を さし、 返 K 孤 をう 

けて 乾した に 違 ひ 無い。 



ところが 澤木 君と いふ 人 は、 若し その 地位 を かへ て 他人が 肺 を 病んだ としたら、 平然として そ 

の 人間と 食事 をと もに する 事の 出来ない 性質だった。 おも ひやり とい ふか、 同情と いふか、 或は 

讓 歩か、 とにかく 相手 をいた はる 心 持 は 乏しい 人であった。 曾て 澤木 君と 私と が 或 人と 會食 した 

事が あった。 その 人 は 肺 患 を經驗 したと いふ^の ある 人だった。 多少 失意の 境遇に あつたので、 

吾々 と共に 食事 をす る 事 を 非常に 喜び、 平生た しなまない 洒を 口にし、 吾々 に K 孤 を さすので あつ 

た。 私 はう けて 飮ん だが、 澤木君 は 担んだ。 このはつ きりした 態度 は 私な どに は眞 似が 出來 ない。. 

一 寸 つめたい 感じ もす るが、 正直の あら はれと 見る 事 も出來 る。 

春に なったら 伊太利に 行く とい ふの は、 澤木 君の 何よりの 樂みだ つた。 戰爭 開始の 頃、 獨逸か 

ら眞 直に 出かける 積り で 準備して ゐ たの だ。 異國 人の 多く 住む ソォ ホォ . スクェアの 伊太利 料理 

店で マ カロ 二 を 喰べ、 キャン ティ を飮 みながら、 こどもの やうに 繰返して 希望と 計畫を 語った が、. 

大正 四 年の 春 宿志 を 達し、 私を殘 して 口 ン ドン を 立った。 彼が 如何に 伊太利で、 古典 藝 術に 歡喜 

し たかは、 その 旅先から 郡虎彥 君と 私へ 宛てた 手紙に はっきり あら はれて ゐた。 これ は 後に 「三 

田 文學」 に揭 出し、 更に 著書 「美術の 都」 に收錄 された。 殊に フロレンス に 於る 感激 は、 殆ど 彼の 一 

生 を 支配した と 云っても 差 支ない 程 深い ものであった。 「花の 都」 と 題す る 一 文は此 間の 消息 を傳 



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描 素 氏 古方 四 木 ぼ 



へる もので、 學者 であると 同時に 詩人であった 澤木 君の 強味と 弱味と を ひっくるめて 湛 ふる 代表: 

的の かたみで ある。 • 

その 年の 秋 私 は 巴 里へ 行き、 其 處で叉 澤木小 泉 二 氏と 同じ 安 ホテルに 住んだ。 所謂 羅典 街で、 

ソルボン ヌの敎 食の 前にあった。 旣に みんなの 歸朝期 も 迫って ゐた。 心の ゆるみに 旅の 疲れ も あ 

つて、 以前 程つ めた 勉強 はしなかった。 よく 近所の 島 崎 藤 村 先生 を迎 へ、 曉 方迄ブ リツ ヂを やや 

た。 

翌年 澤木 君先づ 日本へ 歸り、 つづいて 小 泉 君も歸 り、 やがて 私も歸 朝した。, 

澤木 君は學 校で 美術史の 講座 を 受持ち、 非常なる 抱負 を 持って ゐた。 叉つ ぶれ か 、 つた 「三 田. 

文學」 の 主幹と して 衰運 を挽囘 し、 若い 學生を 導いた。 南部 井汲 三 宅 宇 野 小島 水木の 諸君 は當時 

の學 生で あるが、 澤木君 は 殊に 小島 政 二 郎君の 才を 愛した やう だ。 小島 君 をして 國文學 を 專攻さ 

せ、 將來 慶應義塾の 中心 敎授 として 自分の 片腕に したかった らしい。 S 々此の 若き 學 徒の 事 を 語 

つたが、 小島 君に とっても 澤木 君の 古典主義 はかなり 大きい 影響 を與 へたで あらう。 幸か不幸か 

小島 君は學 者と してより も 作家と して こ、 ろざし を 延 ベ ん とし、 澤木君 の 期待に 背いて しまった。 

自分の 思 ふま \ にしたい 心 持の 一 圖に 強い 澤木 君に、 可愛 さあ まって 憎さが 百倍の 心 持が 無 かつ 



たと はい へない やうで ある。 

ひとり 小島 君ば かり. で 無く、 この 時代に 澤木 君の 敎を うけた 人 は、 いづれ も 熱情に 動かされ、 

強い 感激 を 分 たれ、 正しい 藝 術の 理解に 導かれた に 違 ひ 無い。 澤木君 は ざら にある 學究と 異なり、 

學間藝 術に 對し、 識る 事よりも 感激す る 事に 全身 を 打 込み、 更に その 感激 を 自分の 氣に 入った 人 

間に 強 ゐても 同感 させよう とする 傾向が あった。 むかしから 今に 到る 迄 幾多の 人が 口と 筆で 爭っ 

て爭 ひやまない 古い 間题 だが、 例 へ ば 藝術は 「形」 を 直ん すべき か 「こ \ ろ」 を 重ん すべ きかと いふ 

問に 對し、 澤木君 はへ レニ ズムの 信奉者と して 當然 「形」 に 重き を 置いた。 ところが 近代の 文學美 

術 は、 少なくとも その 騷々 しい 迄娠 かな 論評に 於て、 反 對の道 を 強く 主張す る ものである。 均整 

の 美 は 歪曲の 面白さに 脅かされ、 純 粹藝術 は 宣傳藝 術に 壓 倒され さう になる。 古典主義の 澤木君 

が こ の 傾向 を 喜ばな いのはい ふ 迄 もな く、 こ れ を 近代 民主 々 義の 罪に 歸 して 罵倒す るの を屢々 聽 

いたが、 恐らく 當 時の 學生 は、 否と いふ 字 を 封 じられ つ、、 甘んじて 傾聽 した 事で あらう。 第一 

期の 久保田 君 や 私に 對 して、 新 三 田 派と 呼ばれた 人々 の 間から、 文學の 作品の こころざす 可き は 

其の 描寫 のうま さであって 取材で は 無い。 文學 作品の 價値は 其の 描寫の 巧拙に よっての み わかた 

れ るの だとい ふ 極端 論が 出た が、 根源が 澤木 君の 「形」 を 重んぜよ とい ふ 主張に 發 した 事 は 疑 も 無. 



サ 2 



描 素 氏吉方 四木渾 



V 

澤木君 は 叉 繪畫の 鑑賞に 於ても 若き 畫家 を啓發 した。 叮嚀 明快な 批評 は、 眞 面目な 畫 家の 作品 

を推稱 する 時に 親切 を 極めた。 

想へば 私が 歸 朝して、 はじめて 澤木 君の 高 輪 泉 岳 寺 近くの 家 を たづね た 頃が、 澤木 君の 一 生の 

最も 樂 しく 生 甲斐の ある 時代だった らしい。 健康 も 惡くは 無かった。 いかに 若き 學 生が 素直に 自 

分の 指導 をう けて ゐ るか、 いかに 若き 畫家. が 自分の 批評に 感謝して ゐ るか、 いかに 若き 妻が 無 邪 

氣 であるか、 いかに 夫 を信賴 し、 いかに 純情 を もって 盡 すか、 いかに 料理が 上手で あるか、 彼 は 

語って あきなかった。 ほんと に、 澤木君 程 手ば なしでお のれ を 語る 人 は 珍ら しかった。 正直な 性 

格の 發露 である。 

叉 澤木君 は、 將來 慶應義塾 文 學部を 自分の 理想 通りに 改革す るの だと 抱負 を 語り、 且 私に 勸め 

て 同 塾の 敎師 になれ と 云った。 私 は、 若しなる ならば、 これから 直ぐに 歐洲へ 引かへ し、 みつち 

り 勉強して 來 なければ ならない と 云って 笑 ひ 捨てた が、 澤木 君と して は 冗談で はなく、 自分の. こ 

、 ろざす 改革に 手傳 はせ ようとし たもの らしい。 

間も無く 私 は 勤務先の 命令で 大阪へ 行き、 あしかけ 三年 を 過した が、 歸來 年毎に: n しくな り、 



43 



そのうちに 澤木君 は 健康 を 害して 鶴 沼に 居 を 移した ので、 愈々 互の 足が 遠くな つた。 時折 手紙の 

往復 はあった が、 それ も 段々 怠けて 間遠に なった。 、 

震災 後 鎌 倉で あ ひ、 お 互に 無事 を 喜び、 あへば いくらでも 話が 盡き なかった が、 重ねて 逢 ふに 

は 叉 時 HI がた ち、 澤木君 も 暴々 私の 象に 來 ると 豫吿し ながら、 遂に 果して くれなかった、。 

大正 十五 年、 ひとたび つぶれた 「三 田 文學」 再興の 計畫が 成り、 私が 代表して 澤木 君の 諒解 を 求 

めに 行った。 編輯 事務 を 引受けた の は 勝 本 淸ー郞 君で、 これ も 曾て は澤木 君の 指導の 下に 美術史 

を 専攻した 敎 子の 一 人で あるが、 小島 君の 場合と 同じく、 澤木 の 期待し ない 方向に 走って しま 

つた。 . : , - . 

さう いふ 風に 時た ま 逢 ふと、 澤木君 は 非常に 喜んだ。 喜 怒の こりな く 色に 出る 質だった から、 

此 一一 細な 事から 人と 不和になる 事が 多かった が、 私との つきあ ひ は 始終 變ら なかった と 信じて ゐる * 

大變な 見當違 ひか もしれ ない が、 私自身と して は、 澤木君 を 最も 喜ばせた 友人の 一 人で あり、 澤 

木 君に 最も 信頼され た 友人の 一 人で あると 確信して ゐる。 吾々 の 年配に なると、 若い 時と は 違つ 

て、 友達に 逢 ひたくて 堪らない とい ふやうな 心 持は簿 くな つて 來 るの だが、 澤木君 はっき あ ひの 

範 圍が狹 く、 义^ 介 狭量で 自分と 違 ふ 立場の 人間 を 認容し なかった から、 極めて 少數の 友達し か 



<}4 



k 素 氏 吉方四 木 f 車 



ない ので * 一際 私な どに 逢 ひたがる 事 切なる ものが あった やう だ。 それに も 拘らす 身邊の 多忙に 

紛れ、 W しく 疎遠に なって しまったの は、 私の 故人に 對 して 心苦しく 思 ふ 次第で ある。 

最近に 私が 鎌 倉に 澤木君 を たづね たの は、 去年の 冬から 春へ 移る 頃だった と 思 ふ。 霜 解の 道 を 

步 いた 記憶が ある。 澤木君 は大變 喜んで 款待して くれた。 健康 も 稍よ い 方で、 この頃 は 庭の 日 だ 

まりで 裸體 になり、 日光浴 をして ゐ ると 云った。 そんな 事 をして 風邪 を 引き はしない かとい ふと- 

抵抗 療法の 效 果を說 いて 健康 恢復の 自信 を 示し、 恢復 後の 著述の 話 や、 まだ 抱いて ゐる學 校 改革 

の 意見 を 吐いた。 食卓に せ 鯛の 照燒が あり、 それ を ほめた ところ、 「ね、 うまいだ らう、 うまいだ 

ら う」 と こ どもの やうに 得意 になつ た 笑 額が、 私 の 澤木君 を 見た 最後 の 印象と なって しま つ た 。 

その 時 こ の 分なら 新年 度から は學 校に も 休ます に 出られる から、 東京 へ 出る 機會も 多くなる。 

今度 は 僕の 方から 訪問す るよ といって ゐ たが、 なかなか 實 現せす、 やう やく 夏の 終りに 近くな つ 

てから、 奧 さん ともども 上京 訪問す ると 日 取 迄き めて 來た。 こっち も 待 構へ て 相客 もえらん で 置 

いたが、 突然 手紙 を 寄越して、 風邪 を 引いて 發 熟し 行かれぬ と斷 つて 來た。 

其の後 私 は 度々 鎌 倉へ 見舞に 行く 事を考 へ、 行かなければ ならない とい ふ 義務感 に 苦しめられ 

もし、 又 久保田 君と は屢々 相携 へて 行く 約束 をしながら、 これ も果 さなかった。 澤木 君の 命が そ 



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れ程 死に 迫って きと は 思 たの だ。 「どちら i とも 御疎蠻 なりまして」 と、 棺の 前で 

奥さんに いはれ た 時、 私 は 申譯の 無い 心 持で 參 つてし まった。 

奥さんの 御 話で は、 自分 はから だは 弱い が 霊 はい、 し、 年齢 も 四十 を 越した のでもう 大丈夫 

だ、 4.^ヒこそは丈夫にまかせて無理をし、 働き 1 る 上に 酒を飮 むから、 きっと 自分より 先に 死ぬ 

に 違 ひ 無い と 云って ゐ たさう である。 (昭和 五 年 十二月 四日) 

, . - . I n 一一 田 文學」 昭和 六 年 一月 號 



45 



年末 年始 



暮は 忙しく 正月 は樂 しい ものと 世間の 人の いふ 儘に ぼんやり 幾年 か 送って 來 たが、 ほんと に暮 

の 忙し いのは あきんどの 家の 事で、 親 代 々月給 取の 家に は眞に 忙しい 暮は 無く、 その 忙し さ を 切 

拔 けた 後の 正月の 樂し さも あり はしない。 

私の 父 は 初期の 慶應義塾に 學んだ 合理主義者 であり、 明治 初年の 潮に 乘 つた 尖端 人であった 爲 

か、 或は 生來の 無精の 爲か、 ありきたりの 儀禮を 守らす、 因習に 從は 無かった。 家に は 神棚 も佛 

壇 も 無かった から 神 佛を拜 む 事 をせ す、 盆暮の 贈答 を 好ます、 父 は 年賀 狀も 出さなかった。 私の 

記憶で は、 父 は 毎朝 額 を 合せる 人間に むかって お早うと いふ 聲を かけた 事が 無く、 又い、 お 霞 

だと か、 あいにく 雨 だと か、 時候 不順 だと かいふ 通り いっぺんの 挨拶 を 口にしなかった。 私共き 

やう だい はの は うづ-も 無く 育った。 ほんと に 吾々 は、 父母に 對 してお じぎ もせす、 お早うと か * 



47 



只今と か、 行つ て參 ります とかい ふ 挨拶 をし ないで 濟 ませた。 

父の 儀禮嫌 は餘程 ひどかった と 見えて、 先頃 その 遣 稿 を 整理した 時. 父が 大學南 校の 敎師 をし 

たり、 文部省の 役人 をして ゐた 頃、 おかみの 儀式に 參列 せす、 常に 病 氣の爲 不參の 旨 を 届出た 事 

が 記して あり、 その 届書の 雛 形まで 日記の 中に 書いて ゐ るの を 發 見した。 . 

「僕達の 無精な の も親讓 だから 爲 方が 無い や。」 

と 吾々 兄弟 は 絶好 の 避難所 を 見出した 喜び を わかちあった。 

さう いふ 父の 態度に 對 して、 不滿の 意 を 表明し つ けて 来た 母 は、 

「お前 達は惡 いとこば かり 似て ゐ るんだ よ。」 

と卽 座に おっかぶせて しまった。 

さう いふ 家に 育った もの だから、 墓 だから 特別に 忙しい とい ふ 事 も 知らす、 正月 だから 何 をす 

ると いふ 事 も 無かった。 父 は 年末 年始の 儀禮を 逃れる 心 持し か 持って ゐ なかった らしく、 元日 を 

自宅で 迎 へた 事 は 無かった。 大概 は 家族 を つれて 旅に 出て しまった。 その 父のお ともを 窮屈が つ 

て、 私 は 置々 一人 居殘 つたが、 別段 ふだんと 違 ふ 着物 をき る わけで も 無く、 ふだんと 違 ふ 禮式も 

なかった。 た^、 元 ni: に は 父の つとめて ゐた會 社の 小 使 達が 集り、 臺 所の 連中が 主人役と なって 



48 



き 末年 



酒宴が あった^け だ。 

私 も 一家 を 構へ てから、 曾て 正月 を 家で 迎 へた 事が 無い。 私の つとめて ゐる會 社 は、 その 仕事 

の 性質 上、 暮 だから 特別に 忙しい とい ふ 事 は 無い。 勿論 事業年度の 締切 だから、 平生よりも 仕事 

の 分量の 多い 事 は 免れ 無い が、 商品 を賣 買す る 店 や、 大きな 信用取引の 決濟 をし なくて はなら な 

ぃ會 社な どと 違って、 極端な 忙し さは 無い。 それに も 拘らす 雜用は 年の 暮 にかた まって 來る。 そ 

の 中で 一番うる さいの はいろ いろの 會 合と * 物品の 贈答 だ" 

私 は 友達と 氣樂 に顏を 合せる 事 は 好きだが、 おつとめの 會 はっと まらない。 それ をつ とめ る の 

が 出世の 途 であり、 世間の あたり まへ だと 先輩に 意見され る 事 も あるが、 私 はなるべく 避けて ゐ 

る。 だが、 避けても 避けても 避け きれない 程 各種の 會 合が 年末に かたまって 來る。 いったい 枇間 

の 人 は それ 程 迄に妄 會が 好きな のか、 好きで は 無い がお つきあ ひの 爲に 催す のか、 いづれ にして 

す- M 

も 宴 會は多 過る。 

それに もまして 私を惱 ます もの は、 年の 暮の貰 ひ 物 だ。 つとめ 先の 同僚の 申合せ は、 お 互に 物 

品の 贈答 をし ない 事に なって ゐ るの だが、 申合せ は 申合せと して、 實行 しない 人 も 多い ので ある。 

各地 方 在勤の 人から は、 各地の 名產を 送って くれる。 會 社に 出入の 商人から お歳暮が 來る。 會社 



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で 金 を 貸して ゐる會 社から お歳暮が 來る。 あ、 义來 たかと、 小包 を 前にして たんそくす るので あ 

る。 しかも その 多く はたべ もの だが、 なかなか 私の 口に は 入らない。 何故か。 斷 つても 斷 つても 

斷り 切れない 宴會 がつ いて、 自宅で 飯 を喻ふ 日が 少ない からだ。 せっかく 土地の 名物 を 喰 はせ 

て やらう とい ふ 親切なら、 ふだんで もい、 害な の だが、 それより 先に、 暮 だから 何 か 送らな けれ 

ばなら ない とい ふ 心 持が 働く ので、 斯くは 一時に 殺到す るの だ。 私 は 贈 主に 對し、 お 互に 物品 贈 

答 はやめに しょ うぢ や あない かと 申 送る の を 常と して ゐ るが、 慣習の 力 は 強く、 決してき いでく 

れ ない。 止む を 得す 返禮 をす る。 お 義理で 人に 物 を 送る 程 面白味の 無い 事務 は 無. い。 手数で、 面 

倒で、 時間 をと る。 いや だい や だと 思 ふせ ゐか、 大變 神經が 疲れる。 

さう いふ 習慣の 堆積に 疲れた からだで、 なほ 引つ き 正月の 儀式に 從 つて は、 元 氣囘復 の機會 

を 失 ふ 惧れが あるから、 大晦日に は • 汽車に 乘 つて 東京 を 離れて しま ふに 限る。 平生 用事に 追 はれ 

勝で、 且身內 の 者の 數が 多く、 いつなんどき 急用が 襲って 來る かわからない 私に は、 夜行の 汽車. 

の 寢臺程 安心して 眠れる ところ は 無い。 人の いやがる 車輪の 音響 も、 守 唄の やうに 睡眠 を 誘 ふの 

である。 

ひととせ 岡 田 三郞助 先生に 誘 はれて 京都へ 行った 時 泊った 宿屋が 氣に 入って、 折々 出かけて は 



50 



始年 末年 



厄介に なって ゐ るが、 今年 も そこ を 休息の 場所と きめた。 三 條大橋 西 詰の、 二階と したと 僅かに 

二 組し か 客の 出來 ないち ひさい 家で、 昔 は 職 園の 舞妓だった と 云 ふお かみさんと、 娘 分のお うの 

はんと、 おちよ ぼが 二人の 女所帶 で、 呑 氣專ー の 宿屋で ある。 その 下座 敷の 窓から、 東 山 を 眺め 

、 ぉほ 

加 茂 川 を 見て 暮す のが 私の 正月 だ。 京阪に は會 社の 同僚が 多勢 ゐ るが、 私 は 原則として 訪問せ す、 

叉 訪問され る 事 を 喜ばない。 せっかくの 休みに、 煩瑣な 會 社の 事務 を談 じたり、 思 ふ 儘に ならな 

い 不平 をい ひあった り、 なげいたり、 やっきに なったり して はもった いない。 そんな 冥利の つき 

る 事 は 出来ない。 

「まあ ま、 あんた はんようお こしゃし たな あ。」 

甲高で、 しかも 滑 かな 京都 ことばに 迎 へられ、 直ぐに 窓 を あけて 東 山 を 見た。 ちらちら 粉雪が 

降って ゐる。 

おかみさん は 去年 胃癌 を 患 ひ、 切開手術 をして 命 を 拾った 喜び を、 年頭の 挨拶から 引つ いて 

話さない では ゐられ ない のであった。 , 

「まあ、 あんた はん、 きいと くれやす。 まあ、 えらい ことで 」 

「まあ」 と 「あんた はん」 を連發 しながら、 ことこまかに きかせる。 



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年齢が とし だから 腹 を 切って は 助かるまい とみんな に 云 はれ、 何 處其處 へお まゐ りしろ、 何 を 

飮め、 何 を 喰べ ろ、 土 をな めろ、 石灰 をのめ と、 い、 智慧 を かして くれる 人ば かりだつ たが、 結 

局 府立 病院の 先生に 命 をお まかせした ところ、 幽門 をふさいで ゐた 石が とれ、 すっかり 健康 をと 

り戾 し、 只今 はこの 通りと、 忽ち 帶を 解き、 下紐 を 解き、 皺くちゃの お腹の 傷痕 を 見せて くれる 

ので ある。 

むかしの 舞妓 はんも こ の 年に なって は、 いくら あけひろげて 見せても 別段の 興味 は 感じない。 

私 は それ 程 熱心に 見た わけで はない の だが、 おかみさん は 頗る 滿 足して、 - 

「まあ、 あんた はん、 よう 見と くれやした。」 

とていね いに お 鱧 をい つた。 

お湯に 入り、 京都 風の 味噌 雜 煮 を喻 ベ、 近所の 都 ホテルに 前日から 來てゐ る 小 泉さん を 誘 ひ、 

大阪 で 島 崎 眞平さ ん とおち あ ひ、 花園 球場に 慶應と 京都 帝大 の ラ グ ビ ィ を la_ に 行った。 

花園の 蹴球 場 は、 さる やん ごとな き 御 方の 御聲 がかり で出來 たもの ださう で、 生 駒 山麓の 雄大 

な 風景 を バックと する もの だが、 不便で、 風當 りが 強く、 感心し ない。 もっとも、 球場の 芝生の 

手 入 はよ く、 選手に とって は絕 好の 球場 かも 知れない。 



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始年 末年, 



塞 さに めげ す、 IK 物 は 頗る 多く、 關 西の 運動 熱の 東京 以上で ある 事 を 知った。 金 を 出して 見る 

以上 は 俺の 勝手 だと い ふやうな 上方 根性 も ある ので あらう、 個人的 彌 次が 湧 起る。 

「京大 頑 •„ れ。, - . 

と 怒鳴る のは學 生で、 

「慶 應、 どない した。 阿呆。」 

と 叫ぶ の は 大衆で ある C 

試合 は 才, I プンに 終始し、 非常に 面白かった が、 得點は 二十 七對 六と いふ 開き を 見せて 慶應が 

勝った。 強いと いはれ た 京大の 前衛が た.. - 押す ばかりで、 連絡が 惡く、 弱い 弱い とい はれた 慶應 

の 前衛が 存外 頑張り、 巧妙なる ヒ ィル. アウトで 好機 をつ くり、 又 S 々鋭く 進む ドリ ヴ. ル のうま 

味 を 見せた。 後衛の 力量の 相違 はいふ 迄 も 無く、 殊に 京大の フル • バックの 拙な さは、 試合の 興 

味 を 損 ふ ものであった。 - 

中 一日 S いて、 岡 田 四 郞島崎 眞平ニ 氏の 案内で 甲子 園 球場に ベ H ス • ボ オル を 見に 行った。 音 

に 聞く 球場 は その 廣 さと、 スタンドの 大 さに 於て は 確に 誇り 得る が、 投手板の やけに 高く 盛 上つ 

すぎ av 

たのが 第一に: 向 白くな く、 义廣 過る 爲に ー壘 へ暴投 すると 一 擧に三 ■ 迄 かけて 行かれる やうな 馬 S い. 



鹿々々 しい 場面 を 展開す る。 恐らく は、 その 儘ホ ー ムへ 還って しま ふ 事 さへ あるので あらう。 

この 日の 試合 は慶應 新人 對祌港 商業、 慶應 新人 對 和歌 山中 學で、 はじめの 試合 は 慶應に 失策 續 

出して 神 港の 勝と なり、 次, の 試合 は實 力の 相違で 何等の 波 潤な く 慶應が 勝った。 祌 港の 岸 本と い 

ふ 投手が 大物の 素質 を備 へて ゐる やうに 見えた。 ベンチに は 本 鄕が控 へ、 腰 本 氏 は ネット 裏で 一 

心に 記錄 を つけながら 觀戰 して ゐた。 

見物 は 多く、 さかんに 個人的 彌次を 飛ばし、 屠蘇 機嫌の 喧嘩 もあった。 - に 

大阪で 飯 を 喰 ふ 事に なり、 何處 がい、 かとい ふから、 豫而 「文藝春秋」 で 提灯 を 持ち、 小島 政 二 

郞氏 も激稱 して ゐた鶴 源と いふ 家 を 望んだ。 小島さん は 食 味に 趣味 を 持ち、 些か 獨斷 的で は ある 

がて き はきと よしあし をい ふ 人で、 何處 がうまい かときく と、 卽 座に 大阪の 鶴 源と 答へ るので あ 

る。 ところが 此の 日の 大阪 方の 面々 は、 どうして 鶴 源なん か を ほめる のか わからな いとい ひ、 叉 

實際 行って 見て 感心 出來 なかった。 みりんの 勝った かんたん 明瞭な 味が、 菊池寬 氏の 小說 に似て 

非なる ものであった。 

次の 曰 は 終 s 雨の 加 茂 川 を 見て 暮らし、 夜 は 島 崎さん が 白 鷹 一升と、 德 島の 蛤、 土 佐の 干魚、 

あ ひ 鴨 かしわ、 大阪壽 司 をお 重に つめて 持込み、 遲く迄 飲んだ C 



元日 は 雪、 二日 は 雨、 三日 四日 は 時々 小雨、 五日の 朝に なって 始めて 快晴の {仝 を 見た。 

「あんた はん、 今年 は 若葉の 頃に おいでやすな。」 

おかみさん は 鼻に か、 つた 甘つ たれ 聲で私 を 誘惑しょう とした。 

「又 来年のお 正月 來 る。」 

さう いつ て 私 は 宿 を 出た" 

京都 はい、。 しかし 京都に 長く 住む の はたい くつで あらう。 私の 如き 俗人に は、 矢 張 東京の 亂 

雜な 生活の 中で もがき、 一年に 一度 やう やく 惠 まれる 休日に、 暮 がうる さいと か、 冗 月が 面倒 だ 

とかい ひながら、 京都の 靜 かな 山と 水 を 見に 來る 方が 樂 みが 深さう だ。 (昭和 六 年 一月 八日) 

11. ニー 一田 文學」 昭和 六 年 二月 號 



6 

5 



文壇き 泳 術 



「文壇と いふ 壤は 何處 にあ るんだ」 と 皮肉 を 云った 人が ある。 いつ、 誰が いったの か 忘れて しま 

つたが、 相當 有名な 小說 作家だった と 記憶す る。 實は あの人で は 無かった かと 名 ざし 度い 人 も あ 

るの だが、 記憶 違 ひ を あくどく 咎められ るの は 不愉快 だから、 玆 では 或 人の 儘に して 置かう。 

この 皮肉 は 何 を 意味す るか。 文學は 個人の 仕事で あると い. ふ 信念から 出た 言葉に 相違 無い。 察 

する に 或 作家が、 時の 流行に 頓着 無く こっこつ 仕事 をして ゐ るか、 暫く 休息して ゐ るかの 場合に, 

輕 率なる 批評家が、 例のお きまり 文句で 「彼 も旣に 文壇から 葬られた」 とで も 批評した のに 對 する 

反問で あらう。 言葉の 底に、 俺 は 俺 だ、 今に 見ろ とい ふ 意味が 含まれて ゐる。 

文壇と いふ 壞は 何處 にある のか。 この 質問に 對 して、 大膽に 答 へれば、 文壇 は 11 少なくとも 

現在 日 木の 文- M は J 母月發 行の 雜 誌と 毎日 發 行の 新聞の 文藝攔 から 成立って ゐ ると 云って 差 支 無い „ 



術 泳 游壇文 



今日の 日本 程、 雜 誌と 新聞が 勢力 を 振 ひ、 その他の 印刷物が 無勢 力で ある 國は 無い。 今日の 日本 

程、 雜 誌と 新聞が 讀 まれ、 單行 本の 讀 まれない 國は 無い。 今日の 日本 程 過去の 文 學を輕 蔑し、 雜 

誌と 新聞に 載る 文學を もてはやす 國は 無い。 ヂャ アナ リズ ム は 完全に 文壇 を 支配し つ、 あるので 

ある。 

私のと こ ろ に は 始終 作家 志望 の 若い 人が 出入して ゐる。 その 人達 は實 によく 今日の 雜 誌と 新聞 

の文藝 攔を讀 み、 叉實に 昨日の 文 學を讀 まない。 私 は 常に 過 まの 文學の 模範と なるべき 物 を讀む 

やうに 勸め るので あるが、 雜 誌と 新聞の 文藝攔 を讀む 丈で 充分 忙しい 人達 は 耳 を かさない。 圓本 

が 流行した 時、 こんど こそ は讀 むだら うと 期待した が、 矢張讀 まない。 無理に 勸 めて 讀 ませる と、 

過去に すぐれた 作品の あった 事 を はじめて 知り、 感服し、 嘆息し、 悲觀 して、 あんない V もの を 

譲 ま されて は當分 書け ない と 云って 後悔し、 叉して も雜 誌と 新聞 の 文藝 欄し か 讀 まない 事になる。 

中には、 むかしの 作品なん か 讀んで 感心して ゐて は、 文壇へ 出る 邪魔に なると、 はっきり もの を 

云 ふ,^ 敢 なの も ある 位 だ。 

文 擅へ 出る —— これ こそ 多くの 作家 志望者の 第一 の 望で、 よき 作品 を 作る とい ふ 事 は 第二の 問 

題の やうに 見 受られ る。 「どうしたら 文壇に 出られ るか」 「これから さき はプ ロ文學 でなければ 駄 



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目で せう か」 「新興 藝術派 聯盟に 入 つ た 方が とくで せう か」 とい ふやうな 文壇 處世 術、 文壇 游泳 術 

に 就て、 多くの 若き 作家 志望者が 常に 心 を 腐らせて ゐる。 かう いふ 質問に 對 して、 誰が 何と 答へ 

得る か。 勝手にし ろと いふ ほか はない。 

もう 一度 大膽 に斷言 すれば、 現在 文壇の 特徴 は、 文學 好きで ない 作者と 批評家に よって 成立つ 

てゐ ると もい へる ので ある。 一 時代 前の 作者 は、 大體に 於て 自分の 好む 文學の 作品 制作に 熱情 を 

そ、 いだが、 今 は 註文の 傣に 制作す るの が 常道と なった。 一時 代 前の 批評家 は文學 好きで、 何と 

かしてよ き 作者 を 紹介し 度い、 よき 作品に めぐりあ ひ 度い と 念じて ゐ たやう であるが、 今 は 作品 

を 篤り、 けなす ばかりでなく、 文學 そのもの を 撲滅す る 事に 努力して ゐる人 も ある やうで ある。 

或は、 文學 美術 音樂の 如き は ブル ヂョァ の享樂 する ものであるから、 速 かに 叩き つぶせと いふ 指 

令 をう けて 闘って ゐ るので はない かと 疑 ふ 位で ある。 

少なくとも 明治 年間の 作家 は、 貧苦 を覺 悟して 筆に 命 を 託した。 「小 說を窨 い て めしが 1 良 へ る 

か」 とい ふの は奧 論で あり、 常識で あり、 おや ぢをぢ さん 先生の 小言の しろであった ばかりで 無 

く、 作家 志願の 若 ^ 自身に も、 はっきり わかる 服 前の 事實 だった。 何故 喰へ なかった か。 文學に 

對 する 需要が 少なかった からで ある。 文字 を讀む 人間が 少なく、 叉 儒教の 精神から 戲作を 輕んす 



? 8 



る 風が あり、 知識階級の 半分 は 小 說戲曲 を 無益 有害と する 程度の 知識階級だった。 たと へば、 文 

部 省の 役人 は學 生に 小 說を讀 ませる 事を好ます、 その 鼻息 をう か ひ、 或は その 鑄 型に はめて 作 

ら れた學 校の 敎師 は、 小 說を讀 む學生 を、 女郎 買 をし、 女學 生に 附文 をし、 社會 主義に かぶれた 

靑 年と 同程度に 憎んだ。 

需要が 少ない から、 本屋 も 新聞社 も 雜誌社 も、 よき 報酬 を拂 ふわけ が 無い。 殊に 著作 權の 確認 

されて ゐ ない 時代に は、 作者 は 僅少の 錢を 受けて 原稿 を賣 渡し、 版 を 重ねても 印稅 をと る 術 も 無 

く、 まるまる 本屋に 儲けられて しまった。 驚く 町き 事に は、 今 も その 頃の 約朿 をた てに とって、 

版 を か へ 版 を か へ つ . -、 作者に 御禮 をし ない 老鋪も ある。 

さう いふ 時代に あって、 衣食 常に 足らす、 病んで 醫 薬の代に 事 を缺く 生活 をしながら、 なほ 且 

文 學の爲 に 一生 を 捧げて 悔 まなかった。 勿論 名 譽心も 功名心 もあった であらう が、 そんな 事より 

も- 何よりも 文學が 好きだつ たの だ。 何 處の雜 誌 社で 買って くれる とい ふ あても 無く、 こっこつ 

と 骨 を 削り、 肉 をへ らして、 こ、 ろざす 道に 勵ん だの だ。 恐らく、 當時 一流の 大家と 雖も、 後日 

自分の 作品が 圓本 となり、 遣 族に たん まり 金が 入り、 競馬の もとでと なり.、 錦紗 縮緬と なり、 力 

フエの ティ ップ とならう と は 夢にも 想 はす、 遣 族が 路頭に 迷 ふ 事ば かり 想 ひ ii ん だに 違 ひ 無い。 



55 



文學 では 飯 は,^ へない とい ふ あきらめが、 文學 でも 飯が 喰へ ると いふ 觀念 にか はり、 更に 文學 

程 もとで 入らす のぼろ い 商賫は 無い とい ふ 嫉妬 心 を さへ 培 ふに 至った の は 大正時代の 事で ある。 

欧羅巴の 戰爭 のお かげで 未曾有の 好 景氣が 来た。 出版 も 大量生産 になり、 雜 誌の 部數は 激增 し、 

人氣 作者 は 引 張 服で、 雜誌 新聞の 編輯 部員 は、 流行作家の 仕事部屋 I , 書 齋の事 も あり、 待合の 

事 も あり.、 妾宅の 事 も ある II のお 次に 控 へて、 一枚 二 枚出來 るの を 待って 印刷所に かけて 行く 

とい ふ:; ん小 色に なった。 ズ切 期日 を 守らす、 紺屋の 明後日の やうに 嘘 をつ くの が 流行 兒の 見榮 にな 

つた。 需要 者が 引 張 合 ふので、 供給者 は 値段 をせ り 上る。 昔 は 錢の事 を 口にする の を いさぎよし 

とせす、 稿料 は 向 ふま かせが あたり まへ だった が、 互に そろばん を 彈きぁ ひ、 四百 字 詰の 原稿紙 

一 枚が 十圓ー 一十 圓 五十 圓百圓 に 迄な つたと きく。 最も ぜいたくな くらし をす るの は 文士 だとい ふ 

ゴシップ さへ、 かなり 廣く 信じられた。 

そんなに 儲かる 商賣 なら、 俺 もなら うわれ もなら うで、 おや ぢをぢ さん 先生 も反對 しない 仕事 

となった が、 その か はり、 い、 作品 を 書かう とする 心がけよりも、 どうしたら 儲かる かとい ふこ 

V ろざし の 方が 強く 働き 勝になる。 

一 生 懸命に 書いても、 何等の 報酬が 無い とい ふの は あまりに 酷い。 原稿 を 書けば 賣れ ると い, i 



術 泳 游壇文 



の はい、 事に 違 ひ 無い が、 それ は ひとつの おとし 穴で も ある。 うっかり すると * 何 を 書いても 賫 

れる、 い、 惡 いは 二の次 だとい ふ 誘惑に 陷り 易い。 考邊雜 記 小說、 心境 小說の 流行 は、 多少 その 

邊の 消息 を 語る もので は 無いだら うか。 それ は 日本人の 細かい 情緒の あら はれで あり、 歌 俳諧の 

心の ゆく ところ 迄 行きつ いた 徹底した 味 ひで も ある。 寂 を 喜び、 極めて 微妙な 靜 けさの 中に 詩境 

を 見出す 國民 性の あら はれで も ある。 しかし、 问 時に それが、 構成 的 努力 を 要せす、 綿密なる 描 

寫を 必要と せす、 適確な. る 表現 を 要さない 手輕 さから 脈 を 引いた 流行で ある 事 も 疑ない。 一夜に 

して 一 作 を 成し、 容易に 小錢 をつ かむ 事 は、 我 國の藝 術 家に 惠 まれた 生活様式 である。 

しかし、 或る 傾向 を 代表す る 一 群の 作者が、 集 M として 長く 人氣 をつな ぐ 事 はあり. 得べ から ざ 

る 事で ある。 殊に 新聞と 雜 誌の 文藝瀾 から 文壇が 成立つ 時、 有 爲轉變 は 極めて 急速で ある。 この 

場合、 新聞 的價 値の 畳 富な 事が 何より 歡迎 される ので あるから、 年月 を かけて 基礎工事 をし、 ど 

つし りと した 完成品 を 待つ の は 馬鹿々々 しくなる。 レヴ ユウの 場面 展開の 如く、 目新しく 迥轉す 

る 事が 望まれる。 同時に、 或 時期の 流行 を 目が けて 粗製濫造 する 制作 者 側の 態度 は、 忽ち 供給 過 

剩を 招き、 その 一 群に 屬 する 亜流の 徒 -—— 豫備軍 を 夥しく する の は 必然で ある。 結局 或 時期. に 於 

て榮 えたる 一 群の 中の 僅少の 人數を 記憶に 止める のみで、 その 一 黨 のかげ は 薄くな つてし まふ。 



61 



この 際殘る 僅かの 人 は、 最も 腕 節の 強い、 個人と しての 値う ちの 充分 ある ものに 限られる。 3 

この 經過は 事 實が證 明し、 且 常に 繰 返されて ゆく。 硯友 社の 一 群 は 自然 派の 一 群に 市場 を. 奪 は 

れ、 自然 派 は 一時 壓倒 的に 文壇 を襲斷 したが、 夥しい 亞 流の 徒の 出現の 末に、 數 名の 代表作 家 を 

殘 して 崩 壤の途 は 急傾斜した。 . 

近時、 旣成 作家 は沒 落し ブ 派が 文壇 を乘 取った とい ふ 威勢の い 、かけ 聲を聽 く。 文壇が 新聞 

と雜 誌に よって 形成され てゐる 限りに 於て は、 五十 パ アセント 位 眞實 である。 少なくとも 其の 頭 

數と 紙面 を 占めた 量に 於て 疑ふ餘 地が 無い。 プ a 文學の 主張 も、 自然 派 擡頭 時と 同様、 各 態各樣 

である。 しかし 大別して、 プロレタリア 社會 運動のお 役に立つ 爲の プロ 文學 と、 プ C1 レタ リア 自 

身が プ ti レタ リアの 意識 を 持って 制作す るプ &文學 とに 分つ 事が 出来る f 吾々 の やうに 人間 活動 

の ひとつの 領域と して 文學を 他の 活動から 切 離して 考へ 得る もの は、 前者の 功利主義 を 喜ばない 

ので あるが、 現下の 狀勢を 以てすれば、 宣傳 文學の 方が 時 を 得て ゐる やうで ある。 いかに 月々 の 

雑誌に、 貧弱なる 材料の 寄せ集めから 成る 現實感 の 少し も 無 い 上す ベ り の した 爭議 小説が あ ら は 

れ るか。 社長 はでぶ で * 監督 は 助平で、 職工 は 正義の 櫓 化で、 女工 は 可憐で 勇敢で、 兒戯に 類す 

る レポが 飛び、 革命歌の きれつ 端が 高唱 され、 老父 老母 は 病床に 臥し、 女房 は淫賫 になり、 子供- 



術 泳 游壇文 



は 饑餓に 泣く。 雜 誌が 届く。 封 を 切る。 大雜 誌と 小雜 誌の 面 別無く, かう いふ 種類の 小 說が幅 を 

とって ゐる 事、 恰も 大通 を步 いて 朦朧 自動車に ゆき あ ふ 如くで ある。 叉 かと 思 ふ。 誰が こんな 小 

說を讀 むの かと 疑 ふの だが、 その 道の 入の 話に よれば、 爭議 小說を 喜ぶ の は、 ルンペン-イン テ 

リ 階級 ださう である。 彼等 は、 消防 出 初 式の 日の 模型 火事 を 見る やうに、 無責任な 好奇心 を滿足 

させて ゐ るの ださう だ。 

勞働 爭議は 現代に 於る 重大なる 社會 問題の ひとつの あら はれで あるから、 小說の 主題と して 適 

當な ものである 事 は 疑 も 無い。 だが、 かう 迄 如 實感の 乏しい やつが、 わん さと あら はれて はた ま 

つた もので は 無い。 社會 意識 を 充分に 持つ 小說の 出現 は歡迎 すべき だが、 すべて 社長と 監督に は 

馬鹿野郎と いふ 代名詞が つき、 女工に は 特に 女工さん と 地の文の 中で もさん を つける やうな おべ 

つかつか ひの プ 11 文學は 恥辱で ある。 

さう いふ 風に 型に はまった 作品 は、 忽ちに して 倦怠 を 催させる。 宜な るかな、 新聞と 雜 誌の 文 

藝 欄から 成立つ 文壇 は、 總 括して 新 與藝術 派と 呼ばれる 一 群に よって 半分の 天下 を 占められた。 

この 派の 主張 も 各人各様 であるが、 大ざっぱ にいへば、 プ p 文學 が共產 黨の爲 の文學 であるに 對 

し、 これ は文學 活動 を 切 離して、 その 純 粹性を 尊ぶ もの、 やうで ある。 文 學の獨 自性を 認める 點 



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に 於て 藝術 至上 主義と も 見ら る 、もので、 よく 理解され るなら ば 功利的 文學 よりも 勝れた る 作品 

を 生む 誘引 となる に 違 ひ 無 い 。 

けれども ノ實 際の 作品に ぶっかって 見る と、 この 派に 附隨し 易い 顏 廢的氣 分, 享 樂的氣 分が 度 

を 過し、 淺 草の レヴ ユウの 臺 本の やうな のが 大量に 生産され てゐ るの を 知る。 カフ H と ダンス • 

ホ オルと ァパ ァ トメ ントと 甘い 飲物と チヨ コ レ M 卜と ベ ッド とい つた 大道具 小道具 を 取 揃へ、 未 

亡 人と 不良 マダムと ダン サァと 女給と モガと モボ が、 いづれ も 舌たら すの 名前 か、 ti シァ 人の 名 

前 をつ けられて 登場し、 あぶらで いためた 五目飯の やうに つた 色彩が 入り 亂れ、 結局 入り 亂れ 

たま、 でお しま ひになる。 その 間 機會の ある 毎に ズ 口 ォス とい ふ ものに 言及し、 燐寸の 箱に 貼り 

つけた 祕畫の 程度の H ロティ シズム で 味 をつ ける。 雜 誌が 來る。 封 を 切る。 チヤ子へ ソ子 ワン 吉 

ピン 太郞の ともがらに 出つ く はすと、 叉 かと 思って 氣が 腐る。 新 與藝術 派に も 旣に豫 備軍は 編成 

された のか。 亞 流の 徒が ぼうふらの やうに 湧いた のか。 實際 湧く と 形容す る 外にい ひ あら はし 方 

が 無い 位、 大雜 誌に も小雜 誌に も、 チヤ子へ ソ 子のと もがら が 跳躍して ゐ るので ある。 

かう い ふ めまぐるし いうつ りか はりに は、 百貨店の シ ョォ. ウイ ン ドウ を のぞき 見る 面白さ は 

ある。 しかし、 その 硝子 窓の 中の 品物の ひとつひとつ を 手に 取って 見る 舆味は 無い。 



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術 泳 游壇文 



. だから 「早く 文壇に 出る に はどうし たらい、 でせ う」 とい ふ 人に 對 して は、 その 日の 新聞の 文藝 

攔を 一番 多く 埋めて ゐる 傾向の 文學に 走れと 云 はう。 それが 文壇 處世 術で ある" しかし、 間 もな 

くぼう ふらが 湧き、 その 人 は 更に 新しい 流行の 爲に 脅かされ るに 違 ひ 無い。 その 時 は その 時で、 

叉轉換 すれば い 、。 それが 文壇 游泳 術 だ。 泳げ 泳げ、 一 人で 步 くよりも 多勢で 泳ぐ 方が 寂しくな 

くて い k であらう。 

今や 時 を 得つ、 ある 共 產黨は 個人の 問題 を 蹴飛ばす。 今日 程 個性の 輕 蔑され た 事 は 無い。 文壇 

に 於ても 共同 制作の 提唱から、 やがて は 個人 作家の 署名 を廢 し、 その 黨 派の 作品と して 世に 問 ふ 

新しが り 迄 理論 は 延長す る 事が 出来る。 しかし、 二人 若く は それ以上の 人間の 心が、 感覺 が、 ぴ 

つたり とひと つに なり 切れる もの か。 义、 個々 の 異なる 思想 感情 官能 を 文字に 表現し、 それ をつ 

なぎ 合せて ちぐはぐの を かし さは 無い もの か。 いづれ の 場合に しても、 その 中心と なる 個性 は あ 

るに 違 ひ 無い。 それが 偉ければ すぐれ、 それが 下らなければ 劣る であらう" 一木 一草 を 描く にも 

ほんと に 見た ま、 感じた ま、 を、 互に 讓ら すお べっか をつ か はすに 描くならば、 千 人が 千 人 異な 

る 線 を 以て、 色彩 を 以て、 文字 を 以て 表現す るに 違 ひ 無い。 

その 千 態 萬樣の 表現の どれが 眞實 であるか、 どれが 價 値が 高い か は 勿論 問題になる。 恐らく 之 



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を 判定す る 人々 の 間に 意見の 全き 一 致 を 見出す 事 は 困難で あらう。 尤も 批評の 場合 は 創作の 場合 6 

6 

程 個々 に 異なる 事 は あるまい が、 しかし 同じく よしと する もの も、 そのよし とする 理由、 よしと 

する 程度 は 違 ふ 害 だ。 藝 術の 評 價は、 結局 主觀 によって 定める 外に 方法が 無い。 だが、 どれに も 

高下 をつ ける 事が 出来ない かとい ふと、 吾々 の 審美的 努力 は、 ある 點迄 これ を 決定す る。 しかし、 

科學的 正確さ を もって 決定す る 事 は 出来ない。 私 は、 藝術 批評の 方法と して、 科挙 的と 呼ばれる 

の は、 卽與的 印象批評に 對 して、 體系 をた てた 批評 方法 を 便宜上 呼稱 する に過ぎないと 考 へる。 

藝術 作品の 評價 にあたって、 數學 的に 正確な 値 踏 をしょう とする の は 無理 だ。 さう いふ 遊戯 を 好 

む もの は、 不老不死の 藥を 求める やうに 求める がい、。 文學 好きの 文學 制作 者 は、 おのれの よし 

とする 道 を步く 外に 方法が 無い。 -. どうしたら 早く 文壇に 出られる か」 とい ふ 質問に 對 して は、 今 

日の 新聞 を f あんで 身の ふり 方 をき めろ と 答へ れ ばい 、。 「どうした らい 、作品が 出來 るか」 とい ふ 

質問 こそ- la< に 一服 答に 窮 する 事な の だが、 それ は あまり 人々 の 心 を 煩 はして はゐ ない らしい。 

文壇 は 忙しい。 泳げ、 泳げ。 (昭和 六 年 二月 六日) , 

—— 「三 田 文學」 昭和 六 年 一一 一月 號 



難 職 就 



4 &難 



この間 あると ころで X X 新聞社の 人に あった 時、 ある 大學を 今年 卒業す る學 生で、 同社に 入社 

したが つて ゐる 人物が あるから よろしく 御 骨折 を 願 ひます と 頼んだ。 その 人 は 早速 手帳 を だして 

學 生の 名前 を 書留め、 

「あなた もちつ と 何 か 書いて くれません か。」 

と 隙間 も與 へす に 水 を 向けた。 こっち は學 生の 賣 込に 夢中に なって ゐる折 柄 だ、 いやと はい. へ 

ない ので、 

「書き ませう。 しかし、 どんな 事 を 書いたら い、 のです か。」 

とい A>J と 

「就職の 事に ついて 何 か。」 



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とい ふ 註文だった。 一瞬間の 話 合 ひだった が、 私 はこと ごとく 感服して しまった。 何とい ふ 素 

早い 取引 だら う。 手帳 を だして 學 生の 名前 を 書きながら、 直ぐに 原稿の 話に 移り、 しかも こっち 

おたま ,いに 

から 持って行った 就職 を 課題に した 頭腦の 働き、 これで こそ 大 新聞の 幹部な の だ、 すごい/ \ と 

舌 をまい た。 全く その 時 は ー藝に 秀でた 人の 演技 を 見せられた 時と 同じ 感激 を 受けた。 

無論 私と い へ ども X X 新聞社の やうな 多数の 人間が 入りたがって ゐる ところでは、 嚴 重な 試 

が 行 はれ、 實 力の 競 爭で株 否が 決定 せられる 事 は 知って ゐる」 社長に 賴ま うが、 編輯 長に お 願 ひ 

しょうが、 部長に すがらう がどうに もなら ない に 違 ひ 無い と 恩 はないで は 無い- - しかし、 かねが 

ね その 學 生の 熱心な 希望に 同情し、 どうかして 望み を かな へ させて やりたい と 切に 願って ゐ たも 

の だから、 溺る、 者 は 藁で もっかむ 心 持に なって ゐ たの だ。 

私 は 元来 新聞に 寄稿す る 事を好まない。 ごたごたした 紙面に 誤植 だらけで 組 込まれ、 ピリオド 

や コム マ は 勝手にと りの けられて しま ふ 虐待 を 忍ぶ の は 偸 快で ない。 よせば よかった、 御 願 ひだ 

けにして S けばよ かった と 後悔した が 追つ かない。 次の 曰 は 係の 記者が やってく ると いふ。 忙し 

いから 用件 は 手紙 か 電話に して くれと いふと、 この間 御 約束の 原稿 は、 一日 分 を 四百 字 詰の 原稿 

紙 四 枚と して 三日 問 連載の 事に したいと 矢つ ぎば やに 押して 來て、 ひとた まりも 無く 寄 切られて 



68 



難 ISli 就 



しまった) . 

さて 何 を 書かう か、 何も 書く 事 は 無 いぢ や あない かと、 す こやけ で 原稿紙と にらめつ こ をして 

數日を 過した 所へ、 何も 知らす に 當の學 生が 訪ねて 來て、 X y 新聞社の 採用 筆記 試 驗が日 比 谷の 

公會 堂で 行 はれ、 定 良 數 人のと ころへ 約 千 人 押 かけた とい ふ 話 をした。 成績 はい まだ 發 表されな 

いが、 自分で は滿點 のつ もりです と、 甚だ 自信の ある 樣子 なので、 私 も 大いに 喜んだ" 

この 學生は 政治 科に 籍を 置き、 學績 優等、 文學的 天分に 惠 まれ、 おまけに 事務的 才能 を 有し、 

なか 

眉目秀麗 かつ すこぶるの 元氣 者で、 新聞記者に はもって. こいの 人間な の だ。 あんまり ほめて は 仲 

うどぐ ち 

人口に なって、 知らない 人に は 却て 眞實性 を 失 ふか も 知れない から、 強 ひて 難 を 探して 見よう。 

彼 は 少し 身體 がき やしゃ かもしれ ない。 少し 元氣が あり 過ぎる かも 知れない。 少し 文學 がわ かり 

過ぎる かも 知れない。 少し 眉目秀麗 過ぎる かも 知れない。 これ 以上 缺點 として 數 へる 事 は 困難で 

ある。 鬼に 角、 彼 は 新聞記者 を 終生の H! 的と し、 自分の 才能 を 充分 發撣 すると ころ は 新聞社の 外 

に は 無い と 確信して ゐて、 私 もこの 人なら 役に立つ、 責任 を もって 推薦す る 事が 出來 ると 思って 

ゐ るの だ。 

人間が 右の通りで、 試驗 はう まく 行った とい ふの だから、 まづ 大丈夫、 XX 新聞 もい、 記者 を 



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つかまへ たなと 密に 慶賀す る ものの、 就職 試 驗の實 際 を 知って ゐる 私に は、 少なからぬ 不安 も わ 

いてく る。 何とい つても 試 驗は運 だ。 いくら 人間が 確りして ゐて も、 いくら 答案 をう まく 書いて 

も、 試驗 委員の 氣 にいらなければ それまで だ" 抹 ると 採らない は試驗 委員の 主觀 によって 決定 さ 

れる" こ い つ 虫 か 好かない ぞと思 はれたら それつ きりだ。 私 は 自分自身 試驗 委員 を つとめる 經驗 

から、 次第に 不安 を增 して 來た。 

人口の 過 剩と國 土の 狹 さは 今日 の 就職難の 根本 原因と 見られる が、 その上に 當 面の 不景氣 は、 

おしら ひ 

職 を 求める 人間 は 押 合へ しあって ゐ るのに、 人 を 求める 職 は 何にも 無い とい ふ 實狀を さらけだし 

た。 拂込 金額 以上の 株價を 保つ 會社 は數 へる 程し か 無い とい ふ現狀 で、 どうして 新規の 人間 を 雇 

ふ もの か。 どこの 會社 でも、 相手が 愚 圖愚圖 いはなければ、 幾人で も 首 をき りたい ところ だ。 そ 

こへ もつ. て來 て、 狹ぃ國 土に 高等 學 校と 大學を やたらに 作り、 毎年 春先に 產 出す る學士 の數 はお 

びた,. - しいので、 萬 一景 氣が 直っても、 みんなが みんな 學校を 出る と 直に 職に ありつく 事な ど は 

思 ひも 及ばない。 

» ちじ 

殊に 近頃 著る しい 現象 は、 敎育 程度の 高い もの 程 就職難が はげしい 事 だ。 昔 こそ 大學の 卒業生 

は 羽が 生えて 飛んだ が、 今 は 世間 一般の 知識 程度が 高まり、 銀行 會 社の 日常の 仕事に 大學 卒業生 



70 



謙 就 



を 煩 はす 必要が なくなった。 そろばん は彈 けす、 候文 は 書け す、 客 扱 ひが 下手で、 頭が高く、 月 

給が 高い と來て はとり えが 無い。 そんなの よりも、 もっと 年齢が 若くて 素直で 使 ひよ い 商業 學校 

出の 方が 歡迎 される 害 だ。 それに も拘ら す、 いまだに 大挙 を 就職 資格 を 得る 場所 だと 考 へて 通學 

はな .-J 

する 者の 多 いのは 時代錯誤 も 甚だしい。 もうい、 加減に、 大學 は學問 をす ると ころで、 月給 取の 

資格 證明 所では 無い とい ふ 事 を はっきり させたい ものである。 . 

こ 、に 面白い と 恩 ふの は、 目下し きりに 新聞紙 面を賑 はして ゐる 慶應義塾 高等 部 改革 問題 だ。 

つまんで いふと- 同 P の 高等 部と いふの は中學 卒業後 四 年間 を 費した が、 それで は 大學と 大差が 

無く、 特色が 薄い から、 これ を 三年に 短縮し、 若く して 世に出られる やうに しょうと, いふの だ。 

三年 學 ぶのと 四年學 ぶので は 四 年の 方 が學識 を 深め ると 考 へ る の が 常識 だら うが、 もし 當面 の 問 

題の 就職に これ を 限って 見るならば、 こ の 改革案 は 世間の 實 際に 照して 歡迎 さるべ きもので ある。 

先頃 ある 會 合の 席上、 實 業界のお 歷々 の 意見 を 求めて みたら、 いづれ も 改革に 贊 成で、 六 年間 を 

要する 大學 出よりも、 その 半分の 年限で 卒業す る 高等 部の 方が 賫ロ がよくな り はしない だら うか 

とい ふ豫 想だった。 

ところが、 現在 四 年 制度で 就學 して ゐる學 生 は 同盟休校 をして 反對 して ゐる。 いろ/ \ の反對 



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理由が 擧 げられ てゐ るが、 年限 短縮の ために 學 校の 格が 下り、 就職 初任給が 低下す る 事 を 恐れる 2 

7 

の も その 一 つ だとい ふ 事で ある。 成程 初任給 は 下る かもしれ ない が、 一年 早く 職に つくの だから、 

世間 普通の 例に より、 その 間に 一 囘 昇給す る 事 も 想像 出來 る。 叉、 就職 戰線 において 大學 出が 嫌 

はれて ゐる 現在の 情勢で は、 一年で も 大學と 遠ざかる 方が 就職率 はよ くなる と 見て 差 支ない。 冷 

靜に考 へる と、 改革案に よって 脅かされ るの は 高等 部で は 無くて、 大學部 かもしれ ない ので ある。 

それ 程 大學生 は、 彼等が 希望して ゐる 就職先から 荷厄介に されて ゐる。 方々 の會 社の 重役 や 支 

配 人 は、 

「今年 は 幾人 位 採用な さいます か。」 

ときく と. 

「この 不景氣 ですから、 一人 もとらない つもりです。 もっとも 大學 出で なければ 少し はとり ます 

よ。」 

と 答へ るので ある。 

さう いふ 風に 道が ふさがれ 勝な ので、 目 ぼしい 銀行- 會 社へ 就職 希望 を 申し いれる 人數 は大變 

だ) 何等の 制限 をせ すに 新 社員 を 採用す ると 宣言す ると 各學 校からの 希望者 は 忽ち 數百 人に 及ぶ 



であらう。 私 はこのと ころ 約 十二 年、 勤務先の 社員 採用 经衡 員と して 心苦しい 選拔を 行って ゐる 

が、 一度 や 二度の 面會 で、 數百 人の 中から 僅に 十 名 內外を 選ぶ 事 は、 時間と 勞カ に比べて 效果が 

疑 はしい ので、 大體學 校 側に 責任 を もって もらって 先方で この 人が い、 といへば、 それ を 信じて 

採る 事に きめて ゐる。 ^し 私自身の 好みと して は、 身體 強健 學術 優等 はいふまで もない が、 それ 

以上に、 のびやかな 感じで 且 おめす おくせす 口の きけ る 人が いい。. その 意味で * 大體 運動選手 は 

諸方で 歡迎 される のが 當然 で、 有名な 選手 を 引っ張 ダコ にす るの は、 必す しも マネキン. ボ オイ 

として 使 はう とい ふ 下心ば かりで は 無い やう だ。 . 

私 は 人 を 試す の は 不愉快 だから、 就 蛾 希望者との 面 會の際 も、 あまり いろんな 質問 はしない。 

四 五分で 會見を 終って しま ふ" それで は 勤務先に 對 しても、 就職 希望者に 對 しても 不親切で はな 

いかと いふ 非難が 出さう だが、 大體學 校の 意向 は 確め て あるの だし、 又 どんな メンタルテスト を 

したら 人物の い、 惡 いがわ かるの だ。 試みに 諸 銀行 會 社の 例 を 訊いて みると、 千 態 萬 様で、 どれ 

にも 一 理窟 あるが、 同時に どれ も 感心 出來 ない。 

お ほぜい 

重役 以下 多勢が 威儀 をた して ゐる ところへ、 一人 づっ呼 だして、 いろいろ 質問す る 遣り口 も 

ある。 これ は 衆議に はかって 決定 するとい ふ 美名の 下に、 寄って たかって おもちゃに する 弊害が 



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ある。 第一、 一番 勢力の ある 重役の 好みに 反して、 自說を 主張す る 勇氣の ある 下役が ゐる だら う 

か。 反對 しな いまでも、 重役 平素の 性癖に おもねる 選び 方 をす るで あらう。 叉、 社員の 採用 は 重 

耍事 であるから、 下役な どに は 住して 置け ない、 自分で やる とい ふ 社長 も ある。 まことに 責任 を 

おも ふけ なげな 精神で あるが、 そんなら どんな 質問 をす る の だら う。 

先年、 船 成金と 稱 された ある 船會 社の 社長 は、 候補者 を 眼の 前に 呼出し、 事細かに メンタル テ 

スト を 行った さう だが、 社長と 學 生との 年齢 も 思想 も 學問も あまりに へだたりが あり 過ぎて、 學 

生に は 社長の 質問の 眞 意が 飲み込めす、 社長に は學 生の いふ 事が わからないで、 甚だ トン チン 力 

ン だった さう である。 

殊に ひと つ の 笑話と して 語リ傳 へ るの は、 父親と 母親との どちらに 深い 恩 を 受けた と 思 ふかと 

いふ 質問 だ。 學生 は、 社長の 年齢から 推して、 男尊女卑の 甚だしい ものに 違 ひ 無から うと 考へ、 

異口同音に、 

「父親の 方に 一 肝 深い 恩 をう けて ゐ ます。. 一 

と 答へ たさう だ。 

「馬鹿な 事 をい ふな。 君 はお 母さんの お腹から 生れて 來 たので はない か。」 



74 



難 職 就 



社長 は 苦り切って、 眼前の 學 生の 愚 さ を 叱った。 

ほんと 

そんな 馬鹿な 話が ある もの かとい ふだら うが、 ゥソの やうな 眞實の 話な の だと、 その 社長の 身 

邊に使 はれた 事の ある 人が 語った。 

これ は少々 極端 だが、 メンタルテストなる もの は 凡そ この種の ものと 思って 差 支ない。 ほ とん 

どす ベて, 試驗 をす る 方の 勝手な 心 持で 可否 は 決定され るの だ。 たと へば 候補者の たれし も 訊か 

れる 質問に 下の やうな のが ある。 

「君 はどうい ふ 理由で こ の 會社を 志望した か。」 

そこで 學 生の 多く は、 もの 會 社の 有名な 事 だの、 社長の 人格 だの、 仕事が 自分の 性質に 適して 

ゐ ると いふ 事に つ い てあらん 限り の 辯 舌 を 振 ふとす る。 それ をよ しとす る 判定 者 も あるで あらう" 

知り もしない 癖に おべ つか を つか ふなと 怒鳴りた くた る 判定 者 も あるで あらう。 

それなら * 他の 一 人の 候補者が、 

「別段の 理由 はあり ませぬ が、 こちらで 人 を 採る とき 、ましたから 來 ました。」 

と 答へ たと する。 正直で い、 とい ふ 人 も あるで あらう。 そんな 氣の 利かない 返事 をす る 奴 は 落 

第 だと きめてし まふ 人 も あるで あらう。 要するに 試驗 をす る 者の 心々 でき まるの だ、 だから私t^ 



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試驗 らしい 試驗 をし ない。 . 

ところが、 かねて 就職の 際の 面 食に は、 いろんな 質問 をされ るぞと 先輩から 聞き 傳 へて ゐる學 

生 は、 さっさ- -, 濟ん でし まふ 私との 面會に 不安 を 抱く らしい。 中には、 自分 は 第一印象で 落第と 

きめられ たため 試驗 をされ ない ので は 無い かと 心配す る 人 も ある - 

これ 程賴 りない 採用 試驗 なの だから、 私 は 多年 その 時期になる の をお それて 居る。 いかに 學校 

の 意見 を 主として 考査す ると はい へ、 私の めはしの きかない ために、 素晴 しい 人物 をと り 逃がし 

てゐ るに 違 ひ 無い の だ。 それ を 思 ふと 曾て 面會 して かつ-小 採用と なった 人に は めぐりあ ひたくな 

い。 せめて 願 ふの は その 人達が どこかで 立身 出, して ゐる 事で ある。 • - 

氣の 進まない 原稿 を こ、 まで 書いて 来た 折 柄- XX 新閜 社に 一 生 を 捧げたい と 熱望して 採用 試 

驗を うけた 學鑌 優等に して 文學的 天分に 惠 まれ、 おまけに 事務的 才能 を 有し、 眉目秀麗 かつ 元氣 

者で、 新聞記者に はもって こいの 學 生から 手紙が 來た、 いはく 「X X 新聞の 方 は 落第し ました。」 

(昭和 六 年 二月 八日) 

11 「東京 朝日 新聞」 昭和 六 年 二月 十三 日 • 十四日 . 十六 日 



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ふ 1: なを 氏郎 四; I 宇 



宇 野 四 郞氏を 憶 ふ 



「三 田 文學」 の 同人 も、 新顔が 殖える 一方に、 古い 方が 缺 けて ゆく。 久米秀 治 氏が 死に、 井川 滋 

氏が 死に" 澤木 四方 吉 氏が 死に、 宇 野四郞 氏が 死んだり 

去年 十一月 澤木 氏が 死に、 その 告別式の 日に、 私 は 宇 野さん をつ かまへ、 澤木 氏の 追 掉文を 

T 三 田 文學」 に 寄稿して くれる やうに 頼んだ。 宇 野さん はこ、 ろよ く 引受けた が、 結局 書いて はく. 

れ なかった。 その 宇 野さん の 追憶 を 吾々 が 書かなければ ならな くな つた。 

その後、 十二月 十日に 宇 野さん は 拙宅へ 見えた。 私のう ちで は、 大正 十五 年 「三 田 文學」 復活::;、 

來、 毎月 第二 水曜日 を 同人の 集まる 日と 定め、 宇 野さん も 時々 來て は元氣 よく 談笑した。 しかし、 

十二月の 時は顏 色が 惡く、 膽石を 患った 後で 食餌に 注意 を 加へ てゐ ると 云 ふ 話 をした。 それでも、 

いつもの やうに 元氣 よく、 高調子で、 相手 を きめつける やうな 話 振だった。 たまたま 一座の 年長 



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の 人達が、 久米 井川 澤木三 氏の 次 は 誰の 番だ らうと、 いはない でもい、 事 をい ひ 合った 時、 宇 野 

さん も ともども 或 I 人 を 名 ざして 「おい、 こんど はお 前の 番だ ぞ」 とから かった。 祌經 質の 相手が 

いやな 顏 をして ゐ るのに は氣 がっかす、 獨 特の朗 かな 聲で 笑った。 

だが、 みんなの 歸 つた 後で、 うちの もの は 宇 野さん の 血色 甚だ^え す、 全身に 力の 缺 けて ゐる 

事 をし きり に氣 にして ゐた。 それが 宇 野さん と 私と の 最後の 食 見だった〕 

十二月 下句から 一歳 違 ひの 從 兄が 急性 肾臓 炎で 入院し、 重態に 陷り、 正月 十三 日に、 七十 四歲. 

の 母親と > 產 後の 妻と、 八 人の子 供を殘 して 死んだ。 病中から 葬儀に かけて 私 も 忙しく、 告別式 

を濟 ませる と、 がっかりした 身心の 疲に乘 じた 流行の 風邪に 襲 はれた。 いつもの 手で、 ウイ スキ 

ィ を飮ん でみ たり、 梅酒 を 飲んで みたが、 しつつ こく 咳が 出、 耳が 痛み、 鼻が つまり、 凡 一箇月 

を 不快に 送った。 その 間に、 宇 野さん が 腸 窒扶斯 で 鎌 倉 病院に 入院した 噂 をき いた。 私 も 十七 八 

の 頃 同病で、 夏 中 その 病院に 收容 されて ゐた 事が あるが、 此の頃 は醫療 益々 進步 し、 窒扶斯 で 死 

ぬ 者 は 極めて 少ない ときいて ゐ たので、 萬 一 の 事が あらう と は 想はなかった。 快方に 向った 頃 見 

舞に 行き、 あの 朗な 笑聲を 聞かう と 思って ゐた。 曾て 自分が 世話になり、 無事に 退院した 病院た 

とい ふ 事に も信頓 して ゐ たの だ。 



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ふ惊を 氏 郎四野 宇 



二月の はじめに、 和 木 淸三郞 氏から、 宇 野さん の容體 がよくな いさう だとい ふしら せ を 受け、 

私 は 次の 日曜日に は必す 見舞に 行く と斷 言して 電話を切 つたが、 その 翌日 叉 和 木さん から 電話が 

か、 り、 宇 野さん は 峠を越して おちつい たさう だから 安心し ろと いふ 知らせが あった。 日曜日 は 

ひどい 風で、 又發 熱し さうな 豫感が あり、 寒氣 がする ので、 申譯の 無い 氣 はした が、 終日 籠居し、 

遂に 鎌 倉に は 行かなかった。 その 夜中から 大雪に なり、 隙 もる 風 はことの ほか 冷めたかった が、 . 

嘵方宇 野 さん は 死ん だ の で あ る 。 

宇 野さん が 慶應義塾に 入った の は、 私が その 學校を 卒業した 直後で、 且私は 間も無く 外 國へ行 

き 數年を 費した ので、 學生 時代の 宇 野さん を 少しも 知らない。 叉 宇 野さん が 卒業した 年の 秋、 私 

は 勤務先の 命令で 大阪へ 赴任し、 足 かけ 三年 間え げつない 都に 住んだ。 だから、 私が 宇 野さん を 

知った の は、 その 人よりも その 作品の 方が 先だった。 とはいへ、 假に 私が 大阪 から 歸 つて 来て 間 

も 無くの つきあ ひとして、 旣に 十二 三年に はなる 害 だから、 古い 馴染の 一人に は 違 ひ 無い C 

その 癖、 私 は 宇 野さん と 二人き りで、 長く 對 座した 事 は 一度 も 無く、 しみじみ 話 をした 事 も 一 

度 も 無い。 年齢の 相違 は あるが、 私 は 宇 野さん の 正義感- 宇 野さん のかん しゃくの 起し 方、 宇 野 

さんの 公憤 を發 した 時の はっきりし たもの、 いひ 方な どに、 始終 同感 を 持って ゐた。 山の手の 子 



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として 5{乂け た 家庭の 敎 育に、 一脈相通じる ところが あつたの では 無い か, V 思 ふ。 それに も か、 は 

らす、 私 は 宇 野さん と 心 を 開いて 話 をした 事が 無い。 

「三 田 文學」 は 明治 四十 三年の 創刊で、 その 翌年に 同誌に よって 紹介され た 久保田 万太郞 氏と 私 

と を 一番の 古顏 とし、 それから 暫く 中が. 絶えて、 五六 年經 過した 後、 一時に 秀才 を 輩出した。 宇 

野四郞 南部 修太郞 井汲 淸治三 宅 周太郞 小島 政 一 一 郞 水木 京 太 の 諸氏が はなばなしく 世の中へ 打って 

出で、 rtn 分 達が いひ はじめた. のか、 世間で いひ はやした のか、 一 般に新 三 田 派と 呼んだ。 假 にこ 

、にあげた 六 人の 中で、 宇 野さん が 一番 早く 文學的 活動 を 始めた やうに 聞いて ゐる。 私 は 見た 事 

も 無い の だが、 「とりで」 とい ふ雜 誌に、 伊豆 四郞の 筆名で 何 か を 書いたり、 その 「とりで」 の 同人 

は、 帝國 ホテルで 芝 115 をしたり した さう で、 果して 宇 野さん がその 仲間の どうい ふ 役割 を 演じた 

のか 知らないが、 「とりで, 一の 伊豆 四郞 として、. 早くから 人に 知られて ゐ たらしい。 それ は 宇 野 さ 

んが 慶應義塾 大學 部豫科 時代の 事に 違 ひ 無い。 障 覽 強記の 久保 田さん は、 「とりで」 の 伊豆 四郞な 

る ものが いかなる 文學靑 年で あつたか を、 歷々 酒席で 公表して > 宇 野さん をい やがらせ た。 

人々 の傳 ふるところに 據れば 「とり で」 の 伊豆 四郞 は、 一 寸氣 障に 思 はれる 位の 文學靑 年だった 

らしい。 



80 



ふ 位 を氏郎 :3 野 字 



さう いふ. 風に 傳 へきいて ゐた宇 野さん が、 帝國 劇場 株式 會 社に 入社した 事 は、 吾々 を 驚かした。 

これより さき、 久保 田さん と 同級の 久米秀 治 氏が 帝劇に 入って ゐ たが、 久 米さん は實 にい、 人で、 

或は あまりにい、 人 過ぎて、 全然 芝居の わからない 人だった" その か はり、 帝國 劇場 株式 會 社の 

事務員と して、 頗る 適材だった。 然るに 宇 野さん は 生一本の 文 學靑年 だ。 藝術 至上 主義者 だ。 そ 

れ が 營利 本位 の 劇場に 入って どうして 勤まる か、 廣 向から 新しが つ た 意見 を 持 出 して 縮 尻って し 

まひ はしない だら うか —— それが 不安だった。 

ところが、 其 後 劇場であって 見る と、 宇 野さん は 始終 目尻に 微笑 を湛 へ、 腰 は 低く、 愛想が よ 

く、 決して 異 說を唱 へない。 時には あまりに 在来の 芝居 者 じみた 口 もき くので あった。 それが 私 

に はほんとの 宇 野さん で 無い やうに 思 はれた。 この、 ほんと で 無い と 云 ふ 感じ を、 私 は 最後 迄 消 

す 事が 出來 なかった。 

幸 ひに して 私の 杞憂 は 事實を 以て 打 破られ、 宇 野さん は 先輩 久 米さん と共に、 帝國 劇場 株式 會 

社 専務取締役 山 本 久三郞 氏の 信任 を 得て、 段々 重く 用 ひられる やうに なった。 玆で 一言した いの 

は、 山 本さん とい ふ 人 は 人一倍 熱情 家で、 まご、 ろ を 以て 人 を 使 ふ 親分肌の人と 見え、 死んだ 久 

米さん で も 宇 野 さんでも、 小屋 貸 業と なり 果てた 今の 帝國 劇場 に 踏みと まって ゐる 荻 野 忠治郞 



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さんでも、 みんなが この 人の 爲 なら どんな 事で も 忍ぶ とい ふ 心 持 をいだ いて ゐた事 だ。 荻 野さん 

の 如き は、 山 本さん が 死ねと 云ったら 死に 兼な ぃ位盡 し て ゐ る 。 

扭て、 うまく ゆくまい と 思った お 勤の 方 は、 とんとん 拍子に 行った が、 うまく ゆ くだらう と 思 

つた 文學的 活動 は、 遂に 充分に 伸びる 時 を 得ないで 終った。 宇 野さん に は、 小 說戲曲 演劇 評論の 

創作が あり、 戲 曲の 中には 上演され たもの も あるが、 それらの 分野の どの 方面で も、 あの人が 持 

つて ゐた 丈の 力 を 出して ゐ ない。 一 つす ぐれた ものと 恩 ふの は、 大正 八 年の 八月から 數 箇月 

に 亙って 「三 田 文學」 に 連載した 小說 「正義 派と 大野」 である。 これ は > お茶の水の 高等 師範 附屬中 

學に 通った 時代の 宇 野さん の自傳 とも 見る 可き ものであるが、 つとめて 客觀 的描寫 法に 據 つて 書 

いて ある。 この 一文 を 草す るに あたって、 再び 讀ん でみ たが、 今も^^新鮮感を失はす、 私 は 深い 

感動 を 受けた。. . 

. こ 、 に 正義 派と いふの は 勿論 嘲笑 を 含んだ 稱 呼で、 何 處の學 校に も ある 一 部の ものが、 正義に 

名 を かりて 圑 結し、 正當の 理由 も 無く 暴力 を 以て 制裁 を 加へ る 一群の 事で、 之に 對抗 する 大野 は 

勿論 宇 野さん 自身で ある。 不義 卑劣 を 憎む 熱情 家に とって、 正義 派の 存在 は 一大事 件に 違 ひ 無い- 

フット. ボ オルの 練習 をし、 模擬 戰の 勝敗 を 一生懸命に 爭 ふ中學 生が、 正義 派の si と 其 背後に 



82 



ふ 憶 を 氏 郎四野 字 



在る 官立 學校 型の 敎師 に對 し、 根強く 抗爭 し、 遂に は 暴に 酬 ゆるに 暴 を 以てし、 全校の 學 生の 大 

半が 圑 結して 逆に 正義 派に 制裁 を 加へ、 解散させる 事件 を 描いた もの だ。 各 場面の 描寫 はいきい 

きと、 明るく 朗 かに、 情熱 を もって 描かれ、 正義 派に 對抗 する 大野と その 同志の ほんとの 正義感 

なぐられても 脅かされても 屈せす、 百 千 萬と 雖も われ ゆかんと 云 ふ 精神 は、 發剌 として 躍動して 

ゐ る." 無理に 難 をい へば、 事件の 展開が 進めば 進む 程、 中心 主題が 弱くな り、 集中力 を 缺く點 に 

あるが、 鬼に 角 宇 野さん 一生の 傑作で あり、 叉當 時の 文壇の 水準 を遙 かに 拔 いた 作品であった。 

小說 家と しての 宇 野さん ははつ きり 手腕 を 示し、 廣 /、世間の 好評 を 博し、 忽ちに して 他の 雜誌か 

ら 寄稿 を 求められ るに 至 つた。 

宇 野さん 自身 も氣 をよ くし、 つ いて 二三の 小 說を發 表した が、 不幸に して 「正義 派と 大野」 の 

系統 を 追 はす、 全く 方角の 違 ふ 半玉 小說 など を 書いて、 吾々 を 失望 させた。 尤?. 「三 田 文學」 に は 

「遠 藤 先生と 大野」 と 題す る 小說を 寄せた が、 これ は 中途で 呼吸が 切れて、 未完の 儘で おしま ひに 

なった。 

そ の 後 宇 野 さん は 次, 第に 創作家 としての 努力 を盡 さなくな り、 「正義 滅と 大野」 に 感激した 吾々 

の 期待 を うらぎった。 



83 



その か はり、 劇場- c に 於け る 宇 野さん の 地位 は 確立した が、 不幸に して 帝國 劇場 は 震災の 打擊 

をう け、 且又 獨裁 君主の 強味 を 有する 松 竹に 對し、 臆病 未練の 老 i? 株主の 制 肘 をう ける 立場から、 

到底 太刀 打が 出來 なくなり、 遂に 本 城 を 敵手に ゆだね、 象 主として 存在す る だけにな り、 宇 野 さ 

お ほ 

んも 多勢の 男女 優と 共に 松 竹の 人と なった C ... . _ 

松 竹に 於る 宇 野さん の 地位と、 實 際の 働きに ついては 審に 知らないが、 帝國 劇場と 違って、 昔 

からの 芝居 者 根性の 人間が 幅 を 利かせて ゐる ところ だから、 坊ちゃん 育ちの 宇 野さん は、 いぢめ 

られ追 出され はしない かと 心配して ゐ たが、 消息通の 話で は、 宇 野さん を 敬遠し、 ほんと に は 腕 

を 振 はせ ないやうな 待遇 をして ゐ たと 云 ふ 事で ある。 それが 宇 野さん にと つ て、 すくな からす 不 

平だった 事 はいふ 迄 も あるまい.。 . • , : ;. 

宇 野さん とい ふ 人 は、 何事に も 無頓着な やうな 見せかけ をしながら、 實は何 か はでな 仕事 をし 

て 見せ 度い 慾 望 を 持って ゐた人 だと 思 ふ。 しかし 宇 野さん に は、 成敗 を 顧す に 突き進んで ゆく 押 

が 無. かった。 馬鹿な 目にあ ひ 度な く、 馬鹿にされ 度ない、 笑 はれ 度ない と 云 ふ 心 構へ が、 年中つ 

きまと つて ゐて、 野望 を 阻止した やうに 見える。 正義 派の 暴力に 對抗 して 屈しなかった 大野の 精 

神 は、 中學 時代の 宇 野さん にあって、 その後の 宇 野さん に は 乏しくなった ので は 無いだら うか。 



84 



ふ 傥を氏 郞四野 宇 



或は、 宇 野さん は 比較的 順調に 進んだ 爲め 底力 を 出す き つかけ を 持たなかった ので は 無いだら う 

か。 叉 或は、 宇 野さん は 自分自身の 強い 感情 を 赴く が 儘に 赴かせる 事に 危險を 感じ、 世馴れた 人 

の 態度 を學ん で處! ^の 術と する 事に 心 を勞し 過ぎて ゐ たので は 無いだら うか。 

宇 野さん は 酒 を 好み、 醉 ふと 上機嫌に なって 止 度が 無くなり、 とつ 拍子 も 無い 酔態 を 見せる と 

云 ふ^だつ たが、 私 は 一度 もさう 云 ふ 景色 を 見た 事が 無い。 時た ま 吾々 の會 合の 席上で は、 平生 

のこしら へ もの、 感じの する 程叮. i- 過る ものごし を 捨て、 極めて 親む 可き 宇 野さん となった。 私 

は * 程よ く醉 つた 宇 野さん に屢々 ほんもの、 宇 野さん を 感じた。 平生はせ 閒を 憚る やうに、 聲を 

ひそめ、 キ分 しか 物 を 云 はない 形式 をと つたが、 醉 ふと 自說を 明確に し、 日頃の 不平 をい ふに し 

て も 素晴らしく 明快 淸朗 だった。 それ は 決して 愚痴に ならす、 この 人の 心の中に、 仁俠の 氣を藏 

し、 常に 正義 を 愛し、 不義 を 憎む 精神の 1^ 勃た る もの、 あるの を 見せた。 ふだんから よく 壅 I く 高 

笑 を 得意と したが、 酔って 眞赤 になり、 胡 坐に 組んだ 自分の 卿 を 持った 傣 そっくり かへ つて 笑 ふ 

時 は、 思 ひよこし ま 無しと いふ 風格 を 示した。 こっち も醉 つた 嬉し さに 「おい、 宇 野さん、 近日 

いっしょに 飲まう か」 と聲を かける と、 「え、 飮 みませう」 と卽 座に 應 じる。 しかし その 次に あつ 

て、 酒の 氣 無しで 誘 ひ を かける と、 宇 野さん は 大概 冗談に して 笑って しまった。 「いや あ、 この 



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頃 はまる で飮 まな いんです よ。 え、、 どうも 體の 具合が 惡 くて」 など、、 眞顏 になって いふので 

ある" 同じ 言葉 を 二度三度 繰 返す 事の 出来ない のが 私の 性分で、 それつ きり 別れて しま ふの がお 

きまりだった。 良家に 育った 宇 野さん は 長幼の 別が 正しく、 私な ども 先輩 极ひ にし、 禮儀を 守ら 

れ たが、 その上に 宇 野さん の 個性 は、 出 來る丈 我 偉に 伸々 とする 事が 好きで、 年齢の 違 ふ 人間と 

飮 む窮: S を 嫌 ひ、 又 その 場合 年長者 に お ご られ るお ひめ を 喜ば なかった ので あらう。 

「宇 野 は 悧巧 過る」 と は、 壞 々彼の 友人から 聞かされた 言葉 だ。 私 は、 多分 それと は 違 ふ 意味で- 

同じ 言葉 を 口にした 事が ある。 私が 悧巧 過る と 云 ふの は、 前に も 書いた やうに、 宇 野さん には始 

終、 馬鹿な 目にあ ひ 度ない、 馬鹿にされ 度ない とい ふ氣が 働き 過ぎた事 だ。 宇 野さん が 小 說を書 

き、 戯曲 を 書き、 演劇 評論 を 書きながら、 その どれに も 一 生 懸命に なれなかった の は、 矢 張 この 

心 構への 爲 では 無かったら うか。 弱味 を 見せる 事 を 極端に 惧 れた爲 では 無かったら うか。 ひとつ 

の 事 を あく 迄 も 追及して 行って、 萬 一 へまをやったら どうしようかと 云 ふ 事 を 心配し 過ぎた 爲で 

は 無かったら うか。 例へば 何 か 仕事 をす る。 それが 評判に なった 場合に は、 同じ 系列の もの を 再 

び 手がけて、 單 なる 繰返しに 過ぎない と 罵られる 事 を 惧れ、 忽ち 手を變 へて しま ふので ある。 例 

へば 何 か 仕事 をす る。 それが 評判に ならなかった 場合に は、 これで も かと 云 ふ意氣 でもう 一度 同 



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ふ 憶 を 氏 郞四野 宇 



じ 手で 押して 出て、 萬 一 しくじれば ぬきさしなら なくなる から、 全く 違 ふ 手で 出直す 事に する。 

さう 云 ふ 意味の 倒 巧が 度 を 過して はゐ なかったら うか。 物 わかりが よす ぎる の だ。 都會 育ちの 入 

間に は、 押の 強さが 無い の だ。 

いったい 人間 は、 心的 活動の 範圍が 狭く、 方向の 一定した 人 程 早く 完成し 易い。 俳人 や 歌人が- 

年少に して 一家 を 成し、 同時に 早く 固まって しま ふ 傾向の あるの は 其の 證據 だ。 宇 野さん の やう 

に 物 わかりが よく、 ひろく 知識 を 求めた 人 は、 これ を 統一して 完全に 己の ものにす るに は 長い 年 

月 を 要し、 尙 多くの 齢 を 重ねなければ ならなかった。 

宇 野さん は 年齢 不惑に 近づいて、 今迄の 生活 態度に 革命 を 行 ひ、 自己 完成の 仕事に とり か、 ら- 

うと 欲したら しい。 「三 田 文學」 に 坂 下 一 六の 筆名 を もって、 演劇 評論と 海外 劇 信 を 連載した が、 

文に 精彩 あり、 熱情 あり、 忽ち 人々 の 注目す ると ころと なった。 私 はこれ を 宇 野さん の 筆と 氣づ 

かす、 編輯 者に 質 間して 始めて 知った。 これ を讀 むと、 宇 野さん が 最近 新 知識の 吸收に 熱中した 

事が うか f はれる が、 死後 奥さんから 伺った ところでは、 宇 野さん は 誰に も 知らせす 海外 留學を 

企て、 先づ露 西亞に 一年間 滞在の 豫定で 手續を 運び、 その 許可 證は 臨終の 枕頭に 送達され たさう 

である。 「俺 も 行き 詰った から.、 どうにか しなくて はならない 一と 云って ゐ たさう だ。 黉く 知識 を 



求め、 見聞 を 深める 欲求 もあった であらう が、 それよりも 自分の 生涯の 仕事 を 定め、 築かう とす お. 

る こ 、ろざし が、 やう やく 強くな つて 來てゐ たので あらう。 ほんもの 、宇 野さん が 大手 を 振って 

舞臺に 登場す るか ど 出の 海外 留學だ つたら うに、 意地の 惡ぃ 運命 は 死 を 以て 酬いた。 宇 野 さ ん こ 

そ はこれ からの 人た つたのに、 惜ぃ事 をして しまった。 しかし、 私 は 宇 野さん が 今迄の 安逸な 生 

活を なげうって、 新しい ー步を 踏み出さ うとした 決心 を 知った の は 嬉しかった。 その 悲壯 なる 決 

心 は、 吾々 を 鞭う ち、 我 友 宇 野 四 郞氏を 一 暦よ き 友達と して^ぶ よすがと なった ので ある。 (昭和 

六 年 二月 二十 八日) . 

: • . I 「一一 一田 文學」 昭和 六 年 四月 



け わ ひい 



いひ わけ 



「都 新聞」 は文藝 部に 若い、 進步 的な 記者が 居る 爲か、 常に 無名 作家、 新進作家に 貴重なる 紙面 

を 提供し、 力作 を 世に 紹介して ゐる。 甚だ 結構な 事で、 他人 事ながら 喜んで ゐる。 私のと ころに 

お ほぜい 

も、 若手の 作家が 多勢 遊びに 來 るので、 其 人達の 作品 も 世の中に 出し 度い と 思 ひ, 度々 一都 新聞」 

に 御 願 ひして ゐ るので あるが、 時々 は 古顔 も まぜた 方が 變 化が あり、 又い かに 新進作家の 方が 創 

作に 努力す るか を はっきりさせる 意味 も ある の であらう、 私に も 何 か 書け とい ふ 申入 をう けた。 

私 は 近年 非常に 多忙な ので、 毎日々々 追 かけられる 新聞 小說を 書く 事 は 苦しみが 大き 過ぎ、 樂み 

が 少な 過ぎる ので、 御斷 りする のが 當然 だ. つたが、 豫 ていろ いろ 御迷惑 を 願って ゐ るし、 將來の 

御 厚情に 浴し 度い ので、 それならば 新進の 引 立 役と して 凡そ 一 ヶ月 位で 完了す る 小說を 書いて 見 

ようと 約 してし まった 。ところが 身 逢の 雜事は あとから あとへ と 積みた まって、 なかなか 整理 が 



しきれす 昨秋 起稿した 「銀座 復興」 は 只今 やう やく 一 一十 日 分ば かり 片づ けたが、 果して 三十 囘で終 

るか 四七囘 になる か見當 がっかない。 しかも 困った 事に は 出來榮 頗るよ ろしから す、 \ 切 は 目の 

前に 迫って 來て、 書 直す 暇が無い。 やむ を 得す 笑 ひものになる 事を覺 悟して 原稿の 半分 を 新聞社 

に 渡した。 --' 

た 兹に 自慢の 出來 るの は、 挿緣を 描く 人 を 私に 選ばせて くれたので、 かねて その 才能に 敬服 

して ゐた 最近 佛蘭 西歸 りの 富 澤有爲 男 氏に 賴んで 引受けて 貫った 事 だ。 作品が 單 調で、 且 近代 風 

景に 遠く、 H 口 もグ 口 も ナンセンス も 御緣が 無く、 モボも モガ も 登場し ない の で 、 畫家 にと つ て 

は 面白味が 無いだら うと 思 ふが、 その 無味 單 調な 小 說を もてあまさす、 どんな 木偶の坊 でも 美事 

に 着飾らせて やらう と い ふ富澤 氏の 言葉に ほっと 一 息つ いた。 拙作の 活字になる 事 はお それな が 

, ら, 富澤 氏の 挿繪を 見る のを樂 みに して ゐる變 な 心 持 を經驗 した" 

終に 斷 つて 置き 度 いのは、 此の 小説に は モデルが あるが、 銀座 復興の 史實 には據 つて ゐ ない。 

モデル は 銀座の 岡 田と いふ 料理屋の 夫婦で、 あらかじめ 諒解 を 得た。 ^し 此の 小 說は細 叙 主義^ 

捨て、 簡單 明瞭 を 旨と したから、 夫婦の 描寫も 大ざっぱで、 ほんもの と比べて 大に違 ふとい ふ 非 

難 は 甘んじて 受ける 覺悟 である" その外の 人と 事件 は、 すべて つくりもの だ。 



?0 



け わ ひい 



讀者, よ、 つまらない 小說 だからよ せとい ふなら 喜んで 中途で やめます。 小說 はつ まらない が 挿 

獪 はい、 から、 繪 だけにし ろと いふなら、 私と して は それでもい 、。 御 遠慮 無く 都 新聞社へ 御 申 

聞け 下さい。 (昭和 六 年 三月 九日) 

. I 「都 新聞」 昭和 六 年 三月 十 一 H 



9J 



その後の ドウ ガ ル 



昨年 九月、 三重 縣津市 郊外 千歳 山莊の あるじ 川 喜田久 太夫 氏から セント たハ アナ アド 種の 牡 犬 

生後 五 筒 月に して 體重五 貫 五 百匁と いふ 逸物 を拜領 し、 ドウ ガルと 名 づけ、 我家の 自慢と した 事 

は、 その 年 十一月の 「三 田 文 學-に 書いた。 全く 拜領 とい ふ 文字 を もってい ひ あら はす 外に は、 適 

切なる 表現 を 見出さない 程 身分 不相應 に壯大 なる 犬で ある。 平生、 小說を かき、 戲曲を かき、 批 

評 を かき、 隨筆を かき、 時には 三十 一文字の 歌の 眞似 もして 見せる が、 っひぞ ほめられた 事 は 無 

いのに、 我家の ドウ ガルの 消息 を傳 ふる 一文 はいたって 好評で、 常日頃 息子が ろくで も 無い 事 を 

書き つらね、 ひとさまに 御迷惑 を かけはし ないか、 風敎 上よ ろしくない 事が あり はしない かと 心 

配して ゐる母 も、 あれなら い、 とほめ て くれた。 

その後、 人に あ ふとよ く 訊かれる" ドウ ガル はどうし ました、 無事です か、 病氣 はしません か、 



ル ガウ ドの 後の も 



發育 はよ ござんす かと、 拾 も 御宅の 皆樣 は御變 もありません か、 奥さん は 御 丈夫です かとい ふ 見 

舞, の 言葉に 代用され る もの、 如く 思 はれる。 一度 拜 見し 度い とい ふ 人 も あり、 現に 來て 見て、 あ 

なた の 書いた もので 想像した よりも、 實物 はもつ とよ ござんす と、 手 きびしい おせ 辭を いふ 人 も 

少なくない。 

扨て その ドウ ガル は、 伊勢の 國 から. 來た時 は 十二指腸虫で 些か 元氣が 乏しかった が、 麻布 畜産 

.學 校長 中 村道 三郞 先生の 丹誠と、 我家の をば さんお かつ ちゃんの 熟 心なる 努力で、 完全に 健康 を 

とり 戾し、 十月 六日に は 八 貫 五百^、 十一月 二十 二日に は 十 貫の 體直 となり、 威風 近隣の むく 犬 

を睡 する ものが あった。 

ドウ ガルの 讚美 者 は 頗る 多く、 久保田 万 太 郞氏も その 一人で、 あたし は ドウ ガルの 態度 を學ぶ 

よと、 叉 かと 思 ふ 程 繰 返す。 但し 飼主の 側から 見る と、 この 人と この 犬で は、 まるっきり 品行が 

違 ふ。 久保 田さん は、 あたし は 酒 は 嫌 ひです と、 いはなくて もい、 事 をい ひ、 叉實際 私の やうに 

晚酌を 樂む風 もない が、 扨て 飲んだ となると、 二次 會 となり 三次 會 となり、 身長 僅かに 五 尺ニ寸 

に, して 體重 十九 貫 にあ まると いふ 始末の 惡ぃ體 を もちあつ かひながら、 深更 滯 無く 我家に 歸る の 

は 上出来の 部で、 時には 我家 近くの 交番の あるじに 管を卷 いて 馴染と なり、 翌日 短冊 を 書かされ 



93 



たりして ゐる 位で、 おとなしく 自宅に 引 籠って ゐる 方で は 無い が、 我が ドウ ガル は 目下の 體重こ 

そ f 久保田 氏に 劣る かもしれ ない が、 我家 をよ そに した 事 は 一度 も 無く、 天性 極めて 內氣 で、 お 

もてへ 出る 事を好ます、 したがって 交番の あるじ を惱 ます 事 もない。 

尤も、 久保 田さん も 幼少の 頃 はおば あさん 兒で 無上に 可愛がられ たもの ださう で、 古来おば あ 

さんと 云 ふ もの は 孫 を 弱虫に する ものであるから、 家に 在って は 蛤 だが、 外へ 出る と^ 貝だった 

と 聞く。 或は 我家の ドウ ガル も 長 じて は 世間の 廣ぃ、 あっち こ つちと 引 張 取になる 人氣 ものと な 

るか もしれ たいが、 只今のと ころ は、 中 村 先生の 推定 體重 十九 貫と いふ づ うたいで、 せったれ、 

よだれ を 垂らし、 羞 しがり、 甚だ 意氣 地が 無い ので ある。 . 

拙宅に は ドウ ガルより 先に、 シ H パ アドが 二 頭ゐ た。 その 名 は シャゥ とヂン で、 シャゥ の 方 は 

佐 藤 春 夫 氏の やうな 剽 俘 な 風貌 を備 へ、 先頃 全國 畜犬 共 進會に 於て、 總裁 伯爵 淸棲幸 保と 署名の 

しかしな-^ ら 

ある 優等賞 狀と 銀メダル を拜受 した 程度の 犬 だ。 乍然、 彼 は 優等生に 似 もやら す、 頗るつ きのい 

たづら 者で、 植木 を嚼 り、 * を嚼 り、 自分の 住む 可き 犬舍 迄も喵 りこ はして しまった 程 だ。 

やがて は その 配偶者と なる 可き いひな づけの ヂン は、 發育 不良 か、 先天的 畸形 か、 ち ひさく か 

たまって、 きり やう は 決してよ ろしくな く、 しかも 毛色が 狐に 類す るので、 近所 を つれて 步 くと 



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ル ガウ ド' の 後の も 



や あ 狐が 來た 狐が 来たと、 腕白 どもが はやした てる。 こいつ は 人間の 前で は 頗る 柔順で、 おべ つ 

か をつ かふが、 人間の 姿の 見えない ところでは シャゥ にも 劣らぬ 不逞の 徒で、 隣家との 境の 高屏 

の 板 を はがして 嚼み碎 いてし まった 程齒が 強い。 

この 二 頭の シ M パ アド は、 最初 は ドウ ガルと 同じ 庭に 放 たれ、 仲よ く 遊びた は むれて ゐ たが、 

或 日 心た けき シャゥ は ドウ ガルに 喧嘩 を賣 り、 しつつ こく 體 あたり を 喰 はせ るので、 流石に 溫厚 

の ドウ ガル も 遂に 勘忍 袋の 緖を きって、 本氣 になった と 思 ふ 瞬間、 た ー擊で 相手 を 組敷き、 鼻 

柱 をわん ぐり やった。 あ、 あ、 大變 か々々々 と、 愚妻が 聲を ふりしぼ るので、 あわて、 かけつけ- 

棒で ひっぱたいたり、 緣臺 でな ぐって みたが、 旣に 眼が 据わり、 こ、 を 死 場所と 思 ひ 極めた シャ 

ゥは 捨身に なり、 夢中に なって かきむしる。 犬の 決死の 植 嘩は兩 後脚 を 持って 引離す 外に は 引 分 

る 事が 出來 ない と、 豫て川 喜 田さん からき かされて ゐ たので、 自分が ドウ ガルの 兩 後脚 をつ かみ- 

愚妻が シャ ゥの兩 後脚 を 持って、 やっとの 事で 引分けた。 それ 以後、 シャゥ の 方 はお もての 狹ぃ 

庭に 監禁した〕 その後 日を經 て、 試に いっしょにして みたところ、 シャゥ は 舊怨を 忘れす、 再び 

ドウ ガルに 喧嘩 を賫 り、 危く命 を 落し さう になった。 

元 來ヂン はい ひな づけの 事 だから、 シャゥ といつ しょ にして置く 可き だが、 ドウ ガル は 身が 重 



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く、 寢そ べつて ゐる ばかりで、 ひとりで 遊ぶ 術 を 知らないから、 當分ヂ ンを御 相手に つける 事に 

した。 同じ年 同じ 月に 生れた ので は あるが、 小智 惠の 働く ヂン は、 大器 ドウ ガル をから かひ、 無 

器用 者に 惡戯 を敎 へ、 庭の まん 中に 穴 を 掘ったり、 木の 根を嚼 つたり、 裏の 大家さんの ところへ 

出入る 人達に.^、 えたり、 何から 何 迄 手本 を 示し、 ドウ ガル は 一生懸命に 眞似 をして ゐる。 二 頭の 

犬 はの べつに 仲よ く ふざけて ゐ るが、 たまに ヂンを ドウ ガルの 側から 離し、 シャゥ の 方へ 連れて 

行く と、 シャゥ は 忽ち ヂンを いぢめ、 ヂンは シャゥ を 嫌 ひ 悲鳴 を あげて 逃 廻る〕 .. . 

ドウ ガルと シャゥ が i 且嘩 してから とい ふ もの は、 犬の 散步 がー & 5 大 仕事に なった。 三 頭が; S: よ 

くい つし よに 步 いて くれ、 ば 一 度で 濟 むの に、 どうしても 一 一度に 分けて 出かけなければ ならな く 

なった。 シャゥ とヂン は散步 好で、 シャゥ は 行儀 惡く 主人 を 置 去に して かけ 出し 、往来の 犬 を 脅 

ふん 

かし、 ヂンは 主人の 足下に 制 伏して はなれす、 あまり ひっついて 來 るので 厦 々踏 づけ さう になる。 

然るに ドウ ガル は、 門外へ 出る 事が 大嫌 ひだ。 いやがる やつ を 無理に 引 張り出す と、 大道の まん 

中に どっかり 腿を据 ゑ、 獅子頭の やうな 巨大な 頭 を いやいやして、 いっかな 動かない。 なだめて 

もす かしても 駄目 だ」 しかたが 無い から 力任せに 引 擦って、 約 半 丁 位 行く と、 やう やく あきらめ 

て 歩き 出す が、 自動車が 來 たり、 自轉 車が 来たり、 子供が かけ 出したり すると、 すっかり 脅え 上 



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ル ザ ゥ にの 後の そ 



つて、 手近い 大 邸宅の 門- s: へ 避難しょう ともが く。 やっとの 思 ひで 四 谷の 土手 迄 行き、 曳網 を 放 

すと、 俄に 元氣 になり、 ヂン とも つれあって 草 土手 を かけ 廻る。 

散步 はいつ も 夜分 だ。 四 谷 見附から 市 谷の 方へ 土手 づた ひに 行く あとさきに、 ドウ ガルと ヂン 

が 引 添って ゐる わけ だが、 a 々暗い 木蔭に ひそむ 勇 女 を 驚かす。 さう いふ 時、 きまって 男の 方 は 

ち ひさくな り、 羞 しさう にう つむいて ゐ るが、 女の 方 はさ も あやしまれ まいと 努める やうに、 さ 

りげ なく 何 かつぶ やくので ある。 あら 星が 見える わ、 とい ふやうな 事 を 云 ふ。 すると 男 は、 その 

あさはかな 女の たくみに 愈々 閉口した かたちになる。 靄が 深 いわねえ と 云った 女 も ある。 い、 犬 

だ わね えと ほめた 大膽 不敵な 女 も ある。 土手の 夜更の 男女の 多く は、 會 社員 風の 男と 職業婦人 風 

のが 多い。 月給 取 は 逢引 迄 もつ ましい のか。 

ドウ ガル は 寒さ を 知らない らしい。 川 喜 田さん から は、 夏に なったら 背中の 毛 を 刈 込んで やら 

ない と 暑氣に 負る かもしれ ない とい ふ 御注意が あり、 今に 夏が 來 たら、 その 通りに する 手 害に な 

つて ゐ るが、 冬の 間 はこつ ちが はら はらす る程氣 候に は 無頓着 だ。 雨が 降っても 平氣で 濡れて ゐ 

るし、 雪が 降っても 大地の 上に 寝そべり、 背中に 白く 積っても 驚かない。 そんな 事 をして、 二 

風邪で も 引かれて は 困る と 思 ひ、 犬舍に 入れと 命令す ると、 いやいや 起 上り、 腹から 氷柱 を ぶら 



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下げた ま、、 ^々と 降る 雪中 を かけ 廻り、 なかなか 犬 舍には 入って くれない。 . _ 

ところが、 これが 風と 來 ると、 全く 魂 も 身に 添 はぬ 様子で、 忽ち 緣の 下へ もぐり 込み、 飯 も 喰 

はす、 終日 出て 來 ない 事 も ある。 拙宅の 緣は あまり 高くな く、 ドウ ガルのから だは 極めて 大きい 

ので、 この頃 は 入る にも 出る にも 大變 な騷 ぎだ。 古い 家の 事 だから、 ドウ ガルの 出入の 度 毎に、 

家 鳴 震動す るので ある。 : ■ . .■ 

それ は 全く 嘘で は 無い。 彼が ヂンを 追 かけて 庭 中 を かけ 廻る 時 は、 づ しん づ しんと 地 響が し、 

夜中 歷々 夢 を 破られる。 おかげで 植木 は 枝 を 折られ、 草花 は 踏まれて 枯れ、 私が 好きで 植 ゑた 連 

翹は荅 を 持って まさに 薄黃 色い 花が、 春に 魁け て^かう として ゐ たのに、 むざん や 根元から 折ら 

れ、 數 年間つ ^けて^ Ja- つた 山 百合 は、 僅かに 芽 を 吹いた と 思ったら、 踏つ ぶされ、 岡 田 三郞助 

先生から 一 鉢 頂き、 それが 庭 中に ひろがり、 ひろがり 過ぎた 位に 思 はれた 月見 革 も 今年 はかげ を 

見せない。 毎年 养 先に は 庭に 下りて、 私が 拔 いて • も 拔 いても 拔 きれなかった 雜草も 出ない。 皮肉 

な 事に、 犬が 進出し ないやう にと、 はり 廻した 金辋の 外に は 春が 來て、 ^^が萌ぇ、 野蒜が 伸び、 

もろもろの 草の 若芽が、 今や さかんに はびこって ゐ るのに、 我家の 庭 はかた く かたく 踏み かため 

られ、 綠の色 はちつ とも 無い。 た ドウ ガルの ぬけ か はる 毛が、 綿の やうに 春風に 舞って ゐ るば 



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かりだ。 みなさん 我家の ドウ ガ, < は、 来る 四月 十五 日滿 一年の 誕生日 を迎 へます。 (昭和 六 年 四 

月 七日) 

. I 「一一 一田 文學」 昭和 六 年 五月 號 



「吉野 葛」 を H て感 あり 



近頃 は 面白い 小說が 無い、 力作が 無い、 小 說は旣 に 亡びん とする 藝術 形式で あると いふ 簡單勇 

敢な 言說が ひとつの 流行と なり、 例によって 同人雑誌に 據る 年少の 批評家 迄が、 さも 先見の明 を 

ほこる やうな 筆つ きで 亞流的 言辭を 弄する に 至り、 小說 そのもの 、亡びる 前に、 この 一 刀 兩斷的 

言説の 方が 月並に ならん としつ、 ある 狀態を 見る。 小說 作家の 方 も 制作の 與味を 失って、 或 者に 

お金の 儲かる 通俗小説 ばかり 書く 商人と なり、 或 者 は雜誌 社の 註文 次第で H P でも. ク H でも ナ ン 

センスで も 咄嗟の 間に合せる 職人と なり、 これから 世の中へ 打って出よう とする 若者 迄が、 その 

態を眞 似す る 事 を 以て 悧巧と 考へ、 勞作 のなかに もみ づ から 樂 むと いふ 風の 少なくな つたの は、 

せち 辛い 世の中の 止む を 得ない 姿に は 違 ひ 無い が、 叉 作家の 熱情の 不足 意氣 地な しの 結果で も あ 

るで あらう。 同時に、 描寫藝 術で ある 小說の 技巧 方面が 久しく 輕視 せられ、 宜傳價 値 或は 御用 價 



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り あ 感て躞 を La 野吉っ 



値が 重んぜられる 爲、 制作 態度 を 安 慰に した 事も數 へて 置かう。 どう すれば 金が 澤山 とれる か 

どう すれば 仲間の 機嫌 を 損じない だら うか、 どう すれば 始終 雑誌に 名 を 出して ゐられ るか 第一 

の 問題で、 どうしたら よき 作品が 書け るか は 多く 心を惱 まさぬ 事に なったら しい。 それ は 現在の 

社會 組織、 殊に 文人の 生活 を 左右す る經濟 組織の 自然の 結果で 爲 方が 無い の だと 考へ るの が 常識 

で、 最も 氣樂な 逃避で も あるが、 作家 自身 はさう いふ 他力に 鎚ら す、 自分自身 を 省みて 恥ぢ、 鞭 

うち、 精進す る 必要が あるで あらう。 

この 混亂 時代に、 島 崎 藤 村 氏の 「夜明け 前」 は、 その 制作 態度と 意氣 組に 於て、 吾々 を愧 死せ し 

むる に 足る ものが ある。 假令 この 作品 を 面白くない、 つまらな いと 思 ふ もの も、 その 組立と 表現 

の 用意と 努力に 對 して は 敬意 を 表する に 違 ひ 無い。 里見瞎 氏の 「安城 家の 兄弟」 も、 出 來榮は 別と 

し、 叉 或 人から 見れば 無駄な 努力と 見ら るべき 題 村 かもしれ ない が、 作者の はりつめた 根氣 と、 

制作に 對 する 執着 は 尊敬す ベ きもので ある。 

私 は、 天分 薄く、 いつ 迄 も 未熟な 作家と して、 心細い 存在 をつ ぐ-ける 者で あるが、 制作 その も 

のに 感興 を 持ち * 作品の 中に 熱情 を そ、 ぎ 入れる 事の 出來る 作家 を 尊敬す る。 その 意味で、 谷 崎 

潤 一 郞 氏の 偉 さ を 常にお も ふので あるが、 こ 、 に は 最近 讅んだ 同氏の 小說 「吉野 葛」 を 借り て 所感 



を 述べて 見 度い。 

「吉野 葛」 は 昭和 六 年 一月 及 二月の 「中央 公論」 に 出た もので, 私の: m に ふれた 限りに 於て、 文壇 

うけの 甚だ 惡ぃ 作品であった。 或 人 はこれ を單 なる 紀行文と 見誤り、 或 人 は 力の 拔 けた 作品 だと 

評し、 或 人 は 冗長 讀 むに 堪 へす 中途で 投 出した と 云 ひ、 殊に 旣成 作家 をけ なす 事で 新人と しての 

立場 を 見出さう とすると もがら は、 谷 崎 旣に衰 へたり と氣の 早い 批評 をした。 . 

それな のに、 私 はこの 作品 を 近 來讀ん だもの、 中で 最も 完成され たものと して 感服し、 試みに 

先輩 友人の 意見 をた..^ して 見たところ、 傳統的 文學の 素養 ある 人々 は いづれ も 高く 評價 して ゐる 

事 を 知った。 ノ ... -. 

「吉野 葛」 は 紀行文に 過ぎない と 云 ふ 批評 は、 山に 登らないで 山 を 論す るに 等しい。 假に 紀行文 

として、 何故 紀行文なら いけない のかと いふ 議論 も出來 ると 思 ふが、 それ は 別問題と して、 この 

作品 が單 純な 紀 行文で 無い 事 は、 全篇の 構想が 吉野 行の 寫景で 無い 事 を 見れば 明白で ある。 尤も、 

作者 は 此の 小說 の舞臺 として 歷史 と傳說 の寶 庫の やうな 吉 野の 奥 を え らんだの であるが、 その 主 

要地 點を いきなり 客觀 的に 描寫 する 方法に 據 らたいで、 吉野 口から 山と 山との 間 を 流れる 川に 沿 

たけな ふ i 

つて、 折から 秋の 闌 なる 山 ふところに 入って 行く 道筋 を、 傳說と 作者 自身の 見聞と 感想と 批判と 



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リ あ 感て賓 を L な 野吉っ 



を 加へ ながら 迪 つて 行く 方法 をと つた。 それが 此の 作者 一流の 格調の 正しい、 大河の 流れる やう 

に靜 かに、 しかも 力強く 押して 來る 文體で > 次第に 場面 を 展開して 行く 爲、 簿卷物 か 映畫の やう 

な 動的 效果を 充分に 現 はし、 山水 草木 氣象は 正確な 色彩 を 紙上に と めた。 その 爲に、 かへ つて 

紀行文で あると いふ 誤解 を 招いた ので あらう が、 玆には 所謂 寫生 文の 如き 行き あたりば つたり の 

平 叙 主義 はなく、 一見 何の 奇をも 求めない 淡々 たる 行文の 底に、 深く たくんだ 構想が 一糸 亂れす 

根 を 張って ゐ るので ある。 先づ、 いきなり 目的地 を 描き出す よりも、 次第に 山路 を 上って 行く 事 

によって、 此の 小說の 日常生活 を 離れた、 少なから す 現代ば なれの した 內容 を、 極めて 自然に 思 

はせ る效 果を擧 げた。 

さう して 置いて、 扨て 目的地の 吉 野の 奥に 作者 は 大人の 讀む意 話の 世界 を 展開して 見せた。 そ 

れは、 親の 無い 兒の 思慕の 情が、 やがて 山奥に 羝を すく 娘 を 嫁に 貰 ふ 迄の 因緣と 心理との 交錯し 

た 物語で ある。 現實 暴露の 小說 では 無い。 世相 描寫 の小說 では 無い。 問題と 批判 を 含む 小說 では 

無い。 何ら かの 主題 を 提供して その 解決 を 迫る 小說 では 無い。 讀 者に 訴 へる 小說 では 無い。 寧ろ 

それ ら の 現代的 興味と 面倒-と 煩 はし さ をよ そに した、 美しい 詩境 に 讀者を 誘 つて ゆかう とする 讀 

みもので ある。 その 意味で、 人間の 力が 山々 の 力に 及ばす、 人智が 口 睥に壓 されて ゐる地 哩的關 



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係が、 凡そ 近代 都會 風景に 緣 遠い 此の 物語の 世界 を 定める 上に、 決定的の ものであった。 吉 野の 

奥と いふ 恰好の 場所が 無かったら, 作者 は此- 物語 を 書かなかった であらう。 さう いふ. ぬきさ 

しならぬ 用意が 此の 作品に はぬ かりなく ゆきわたって ゐて、 いかにも 上方 風の 淨瑶璃 と 地唄の 持 

つうす 暗い 陰 氣な味 ひに、 童謠 童話の 哀切な 響 を 加へ、 しかも それ を 組立て る 手法に は 近代的な 

合理的な 明るさ を 見せて、 無理と 破綜を 招かなかった の は、 何と 云っても 作者の 素晴 しい 手腕で 

あるが、 同時に 叉 制作の 感興 を 強く 把持して ゐて、 はじめて 出 來る藝 なので ある。 

いったい 一人の 作家の 長い 生涯に 於て、 處女作 か 出世作 か、 先づ 文壇に はなばなしく 打って出 

た 頃 は、 野心と 感興で 制作す る 事が 出来る。 表現が 幼稚で も、 組立て が單 純で i ヽ 情 熟が その 隙 

間 をふさいで、 つやと 色と を 加へ るで あらう、 それが 若い ものに 特有の 色氣 であり、 イットで あ 

る 事、 いきた 人間の 姿態と 少しも 變りは 無い。 女の 一 生に 於て、 妙齢の 頃 は、 ちっと 位 眼 鼻 だち 

が惡 くても、 皮下脂肪が 薄皮に 光澤 を 加へ、 としごろの 者に 限る 美し さを與 へる。 それが 男 を 知 

り、 子供 を 生み、 所帶 にか まけ、 あぶらが 拔 けて 來 ると、 忽ち 生れつきの 道具が 露骨に なって 來 

て、 伸びて 行く 頃の 美し さは あとかたもなくな つてし まふ。 賣 出しの 作家 は氣 でもって 書く 事が 

出来る が、 一象 を 成した 後 は、 1^ 角 自分の つくった 型に 囚 はれて 新鮮 感を失 ひ、 ちょっと でも 氣 



1C4 



り あ 感て讃 を ij さ 野告っ 



が ゆるむ とだら け 勝に なり、 又 野心が 乏しくなって 劇れ で 書きなぐる おそれが ある。 それな のに 

谷 崎 氏 は、 いつ 迄 も 制作の 感興 を 失 はない 少^の 作家の 一人 だ。 殊に 私が 常に 敬服す るの は、 此 

の 作者の 好 學の志 深く、 何 を かくに も 充分 調べて か、 る 事 だ。 やっつけ 仕事 をし ない。 出 鳕目を 

書かない、 間に合せ を やらない。 すべてが 注意の 行 届いた 設計の 上に 築かれる ので ある。 旺盛な 

る 意思と 努力 の 賜で あ ら う 。 

「吉野 葛」 にも 何等の けれん が 無い。 出た とこ 勝負の 跡が 無い。 長い 物語の 全體を 支へ て ゐる幾 

筋 かの 糸 は みんなつ ながって ゐて、 中の 一 本 を 切っても 全體の 均衡 を 破る とい ふ 組立て 方 だ。 一 

見 この 物語の 本筋に 何の 關係も 無い 山川 草木が、 實 はなくて ならない 道具 だて i -、 とかく 平淡に 

流れ 易い おはなし を、 素晴 しく 立體 的な 吉 野の 奥の 秋の 描寫で がっしりと 組立て たので ある。 街 

道の 家々 の眞 白な 障子に 映る 日の 色 や、 熟柿の 味 を 描いた ところ は、 並ぶ もの 、ない 筆力で、 「新 

しき 古典 "として 當 代の 文範と すべ きもので ある。 

いったい 此の頃 は、 格調の 正しい 文章 は卽ち 古いと いふ 誤解が 行 はれて ゐる。 全く 眞實感 の 伴 

はない 大裂裟 な 表現の はやる 時代 だ。 內容 とそぐ はなくても、 新奇ら しい 眞似 をして 安心して ゐ 

る。 「誰某が 笑った」 とい へばす む 場合に 「誰某が 笑 を爆發 させた」 と 云はなくて は 不安心な の だ。 



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勿論 この 一 一 つのい ひ あら はし 方 は その 笑の 性質に よって 區別 さる 可き であるが、 少しも 爆發 らし 

くない 笑の 場合に さ へ 、 それが 最近 行 はれる 表現で ある 爲に 借用して ゐる實 例が 頗る 多い。 「くち 

びる がくち びる を 互に 征服した」 とい ふ 表現 は 新しい かもしれ ない が、 接吻の 實 感を傳 へ る效果 

は 稀薄で ある。 これら はすべ て、 孔^の 羽 を 身に つけた 揚が、 孔^の つもりで 步き 廻って ゐ るの 

と: g じ 心理で ある。 「僕 は 僕が 彼女の 爲に 僕が い、 と 恩 つ た 僕 の 最善 の 愛 を 僕の え らんだ 表現で 

示す 事で 彼女 を滿 足させた」 とい ふ 一句 は、 私が 何 かの 雜 誌から 寫 しとって 置いた もので * これ 

は 正に 新しい 表現に 違 ひ 無い が、 その 新し さは、 與太郞 が 使 ひさきで 述べる 口上の 新し さで ある.。 

同じ 事が 文章の 力と いふ 方面に もい はれる。 無暗に 喧嘩 面で、 馬鹿野郎 とか 畜生と か、 どつ こ 

いさう はいかない ぞ など 、 いふ 言葉 を 地の文に 挿入して 力んで ゐる やうな の は、 おもちゃの 刀 を 

振 廻す 兒戲に 等しく、 s 噓の 外の 何もので も 無い。 人 を 感動させる 力 は、 靜 かな 言葉の 中に も あ 

る 害 だ。 適確なる 表現が 何よりも 力強い ので ある。 よき 聲は必 すし も 大きく は 無い。 

r 吉野 葛. 一は 谷 崎 氏 生涯の 傑作と して 數ふ 可き 程の もので は 無いで あらう。 しかし、 作者 自身い 

つ 迄 も あきすに 繰返して 讀んで 愛着 を 覺 える 際の 作品に 違 ひ 無い。 何故な ら ば、 恐らく これ は 作 

者が 最初 計畫 した 筋 立の 通りに 描き、 作者が 期待した 丈の 效果を あやまち なく 盛 上げた ものと 推 



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定出來 るからで ある。 手に あまる 材料で なく、 手ごろの もの を、 自分の 好む が 像に 极ひ こなした 

感が 深く、 少しの 破 嫁 も 無い からで ある。 

私が 敬服した の も 主として そこに ある。 充分の 準備 を 整へ、 建築 技師が 設計 圖を 引く やうな 注 

意 深い 組立て をして, しかも その 準備から 仕上げに 至る 迄、 制作 そのものに 對 して 作者が 喜び を 

感じて ゐ ながら、 ひと 度 も 浮 足に ならない 底力の 強さで ある。 

r 吉野葛 I 一は そ の 物語 の 筋が 現 代 的 思想 感情に 緣遠 ぃ爲 に、 あわた し く 新聞 價値 を 追 かけ て ゐ 

る 現今 文壇のう けの 惡 S つたの は 止む を 得ない が、 この 作者のお ちついた 制作 態度と, その 素晴 

しい 素 現 力 は、 學ぶ 可く 尊ぶべき ものである。 (昭和 六 年 五月七日) 

11 「一一 一田 文學」 昭和 六 年 六月 ゆお 



「安城 家の 兄弟 一 を ra む 



里 見: 氏の 近作 「安城 家の 兄弟」 は、 四六判、 かなり 細かく 組んで 一千 数十 頁に 及ぶ 大作で ある, 

兎角 名 を 成した 作家が やすきに ついて、 作品 制作に も勞を 惜む陋 向が ありがち なのに、 つかんだ 

村 料 を 放さす、 しつつ こく こね かへ し、 ダ 切に 追 はれながら 強ても 感興 を わき 立た せる 事に 努め. 

いやで も應 でも 纏め あげてし まふ 作家 精神の 旺盛な のに は 完全に 頭が 下る。 元 來里見 氏 は、 書く 

事が 面白くて 堪らない とい ふ 側の 作家に は 違 ひ 無い が、 それにしても 二十 餘 年の 長い 文壇 生活 は 

大概の 人間 を 疲れさせて しま ふのに、 この 人 は 少しも 休ます、 疲れた 身心に 鞭う つて 氣の張 を 落 

十まい と 努力して ゐる やうに 見える。 その 爲か 「安城 家の 兄弟」 を讀ん で、 新進の 若い 作家の 希筌 

, ■ -っ け 

と 野心に 燃る やうな 明るさと は反對 の、 何 か 重苦しく 胸に つかへ る 感じ を受 る。 それ は 作品が 陰 

戀だ からで は 無く、 作品 は 寧 ろ その 反 對の朗 かな 場面 を 多分に 持って ゐ るので あるが、 完成の 爲 



む讀 をし 弟 兄の 家 城 安つ 



に 費した 氣魄の 疲れと でもい ふやうな もの を、 おの づ から 感じる 爲 では 無い. だら うか。 彼是お も 

ひ あはせ て、 此の 作品 は 作者が 完全に 极 ひこな した もので は 無く、 かなり もちあつ かった もの、 

やうに 考 へられる ので ある。 

それ は、 ひとつに は 月々 雜 誌に 分載され たので、 中途で 氣 分が 變 つた 爲か、 前半と 後半と に 調 

子の 高低、 描寫の 厚薄の ある 事から 來る 感じ かもしれ ない。 概してい へば、 前半の 方が 多角的 描 

寫で、 後半 は 稍 平叙體 になった。 尙 疑へば、 かきだしの 「醉眼 藤朧」 を 書く 頃 は、 もっと 規模の 大 

わけ 

きい 小說. を計畫 し、 安城 家の 兄弟の 一人々々 の 一 生 を、 或は 半生 を、 性格 運命 夫々 に 描き 分る も 

くろみ があった ので は 無いだら うか。 それが 書 進んで ゐる うちに、 昌 造と 瑛 龍との 交涉 にがん じ 

がらみ にされ、 二人の 存在 權を 主張す る 事に 忙しく、 他 を 顧る 暇が無くな つたので は 無いだら う 

/1 

力 

出版 書肆の 大製裟 な廣吿 文に もぬ からすつ か はれて ゐ たが、 此の 小說の 標題から 直に 聯想す る 

「カラマ ゾフ 兄弟」 の やうに、 特異の 性格 を 描き 分けたら ば、 もっと 面白かった らうと おも はれる 

が 「安城 家の 兄弟」 は、 文 吉壬之 助 健 吉昌造 隼 夫の 中、 小說 家で ある 四 男 昌造を 主人公と し、 その 

主人公の 心 持 を 主と し、 他の 兄弟 はし だしに 過す、 或は 主人公の 立場から 批判され る 役 廻 をつ と 



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めて ゐる。 全く 此の 小說 は、 加 島 家の 名跡 をつ いだ、 兄弟 中 一番ぎ ろり と 眼 玉 を 光らせて ゐる昌 

造の 感情 生活の 記錄 であり、 對 人生の 主張であって. 昌造 は卽ち 作者 自身 だから、 當代 第一流の 

描 寫カを 有する 作者が、 期せす して 主觀的 小說を 書いた ので ある。 その 意味で、 これ も ひとつの 

心境 小說 だと 云へ る。 た,. - 普通 所謂 心境 小說 が、 一般に 平淡なる 日常生活の 詩的 表現で あるのに 

反し、 これ は 何 處迄も 自分の 心 持 を 貫かう とする 主張 を 含んで ゐる違 ひ は ある。 さう だ、 一安 城 

家の 兄弟. 一は、 里見淳 氏が 自分の 心境 を 克明に 說 明し、 これで も かこれ でも かと 無理お しっけに 

他人に も 呑 込ませ 肯定 させよう とする 努力の 結晶な ので ある。 :. . • 

此の 小 說が雜 誌に 連載され て ゐる頃 「善 魔 I いふ 題の 用 ひられて ゐた事 を 記憶す る。 善 魔と は 

何 を 意味す るの か、 私に ははつ きりわからない。 昌 造の 心の 象徵 か、 おしげと 千 葉 其 他の 人々 の 

所爲 をい ふの か、 すべての 登場人物に からまる 眼に 見えぬ 支配力 を さすの か、 或は もっと 外の 意 

味なの か見當 もっかな いが、 少なくとも 「善 魔」 と い ふ 言葉 を考 へ 出して 喜ぶ 作者の 心 持 ははつ き 

り わかる。 世間 普通の 解釋 によれば、 魔物に 善と 呼ばる 可き もの は 無いで あらう が、 魔物に も 善 

を 見出す 事が、 此の 作者の 人生 解釋の 鍵で、 同時に 又 世間 並の 善に、 忽ち 鼻持ちならぬ 甘 さ を 見 

出す 心的 活動 も 敏速な ので ある。 私 は里昆 氏に、 天才 的 天の邪鬼 を 感じる。 彼の 鋭い 觀察 は、 世 



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む を L 弟 兄の 家 城 安つ 



間の 倫理 道德の 一 享ゥら を 見 透す 事の 面白さに 一 き 尖鋭の 度を增 すので ある。 

度々 繰 返す やう だが、 私 はせ 見 氏 を 現代に 於る 最も 描寫 力の 強大な 作家の 一 人に 數へ るので あ 

るが、 それ はこの 人が 客觀 的に 人間 を 描き、 場面 を 描く 時の 多角的な 描法の 冴えに 打 たれる 爲で, 

其處に 作者の 人生 哲學 がま じり、 その 說 明お 談義が 綿々 として 績く時 は、 甚 しく 筆力 を 鈍らせる。 

斷る迄 も 無く 此の 小說の 本筋 は事實 の記錄 であり、 人物 は殆ん どす ベ て實 在の 人 をモデ ル とし、 

作者 自身の la るが 儘に 如實に 描出した ものに 相違 無い。 現に 私 も、 本筋に は 何の 關係も 無い 一場 

面に、 河 律と いふ 名前で 登場して ゐる位 だが、 私の 知る 限りに 於て、 モデル は實に 生々 と、 ある 

が傣の 姿で 描かれて ゐる。 作者の 見る 眼の 銳 さと、 それ を 表現す るう での 冴え は 驚く 可き もので、 

たと へば 誰が 見ても 久米正 雄 氏に 相違 無い 昌 造の 友人 久保 某の 如き は、 誰 人が 描いても これ 以上 

久米正 雄 氏ら しく は 見せられない 程 生かし 切って ゐる。 言葉の 面白さで 無く、 久米氏 自身よりも 

遙 かに 久米 氏ら しく さへ 見える ので ある。 それ は 巧みに 夾雜物 を 除いて、 久米 氏の 特徵丈 を 力強 

く 再現した からで ある。 その 姿態、 癖 * 言葉 づ かひから 其 時々 の心づ かひ 迄、 憎らしい 程 はっき 

りっか まへ、 適確な 描 線で あくどい と 思 ふ 迄 描き出した。 た 作 中の 人物で 一番 不鮮明で あり、 

又 その 心理 解釋 にも 無理 を 感じる の は 主人 公昌 造と 女 主人公 瑛龍 である。 何故か。 要するに 他人 



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は邪險 につ っぱなし、 冷酷に 取扱へ る けれども、 この 二人 丈 はつ っぱなし 切れなかった 爲 であら 

う。 誰し も 自分 を客觀 的に 描き出す 事 はむ づ かしい ものであるが、 瑛 龍に 對 して は 明かに 遠慮が 

あり、 甘やかせ、 何でも 彼で も 是認し ようとし、 他の 人々 と對 照して 敷 不公平 を 感じる。 若し 

かする と、 この 小說 はた 一人の 瑛 龍に 讀 ませる 爲に 書いた ので は 無い かと 疑 はれる 位で ある。 

それ はあり 得る 事で ある。 たと へば 人の 恩義に 感激した とか、 情愛に 感じた とか 云 ふ 場合に、 口 

では 感謝が あら はせ ないで、 これ を 手紙に し、 歌に し、 詩に する 事 は 想像 出来る。 この場合. 自 

分が 常に 希 ふ 嘘 をつ くな、 赤裸々 であれ、 本氣 であれ、 一生懸命 であれと いふ まご、 ろの 顯 現し 

たやうな 女性に 對 して、 ー篇の 小說を 捧げる とい ふの も 浪漫的で 偸 快で は 無い か。 : 

私 は 曾て 此の 作者の 他の 小說を 批評した 時、 里 見 氏が 反覆して 說く 「まご. -ろ」 の說 を、 極めて 

我儘な ものであると 解釋 した。 それ は、 世間 並の 他人に 對 する 「まご、 ろ」、 或は 人に 對し ておの 

れを 忘れる 「まご 、ろ」 では 無くて、 反對に 自己 確立の 念願 を 「まご 、ろ」 と稱 する もの 、やうに 思 

はれる。 おのれに 忠 なれと いふ 覺 悟で、 時に 他人の 爲にほ だされ さうな 場合に も、 こんな ことで 

さう やみやみ ほ だされて 堪る もの かと 踏みと まり、 相 手を叩き ふせても おのれの 信奉す る 主義 

を 守る 爲の 「まご 、 ろ」 である。 



112 



む讀を L 弟 兄の 象 城 安- 1 



加島昌 造の 「まご、 ろ」 は、 嘘 をつ くな、 赤裸々 であれ、 本氣 であれ、 一生懸命 であれと いふ 事 

に歸 着す る。 昌造は 自分が 「まご、 ろ」 の 人で あると いふ 強い 自信 を 持って ゐ るが、 それに も增し 

て 他人に これ を 要求す る。 要求して、 相手の 「まご、 ろ」 が 不足 だと 認めた 場合に は、 相手に は 浮 

ぶ 瀬が 無く、 さんざんに 罵られる。 

何しろ、 世間 並の 「惡 魔」 とい ふ觀 念から、 直ぐに 一皮 ひつべ がして 「善 魔」 とい ふ 理想 を 見つけ 

て 來る位 だから、 世俗の よしと 見る もの をよ しと 見ない 精神が 強烈 だ。 そんな 甘口に 乘る もの か、 

感傷主義 は まっぴら だと、 始終 心 を ひきしめて、 ぎろ りぎ ろり と觀 察の 眼 玉 を 光らせて ゐる 作者 

その 人で ある 昌造 は、 大々 的セ ンチメ ンタ リストで ある 長兄 文吉 が、 人妻に 引 すられて 縊れて 死 

んだ 事件に 直面しても、 肉 身の 歎きに ひたる よりも はげしく、 その 兄の 中學生 程度の 感傷主義に 

苦り切って、 殆んど 冷酷と も 見える 態度 を 持し、 批判の 呵責 を 加へ てゐ る。 文吉の 親友 を 以て 任 

じて ゐる加 茂 や、 文 吉と關 係が あつたと みづ から 名 吿る落 合 夫人が、 此の 悲劇に 逆上し、 昂奮し 

てゐ るのに、 明白に 嫌 惡の色 を 示して 相對 して ゐる。 彼 は 明かに H ゴィ スト だ。 小禽 をね らふ 鷹 

の やうに、 高い ところで ひとり 鋭い 眼 をぎ ろつ かせ、 爪 を 磨いて ゐる。 おも ふに 安城 家の 他の 兄 

弟 達に とって、 一番 薄氣 味の 惡 いのは 此の 昌 造に 違 ひ 無い。 それ 程した、 かた 昌 造が、 ひとたび 



113 



瑛 龍の 前に 出る と、 全く 利^の 冴え を 見せない。 

瑛龍は 赤 坂 第一 とい はれる 大きな 藝者屋 の 娘 分で、 それもう ちが 贫 しいから 稼がなければ なら 

ない とい ふやうな し をら しいので は 無く、 もっぱら 兩 親の 趣味で 身 を 妓籍に 置いた 位で、 しかも 

百 三十 餘 人の 同じ 家に 屬 する 妓 女の 中で 誰よりも 我儘に、 云 ふ 目 を 出す とい ふ 運勢の 強さで、 大 

河內 とい ふ 金 持の 息子の ものと なりながら、 歌舞伎 役者の 蝦藏 ともい、 仲と なり、 忽ち 昌造 とも 

仲よ しから 進んで、 遂に は 他の 二人と ははつ きり 別れて 昌造 といつ しょになる。 怖ろ しく 钢 巧な 

女で、 安城 家の 兄弟 中 一 番 才智の すぐれた 昌 造と 一 騎 打の 出来る 人間 だ。 普通の 女らしくない、 

づ け づけ 物 を 言 ふところ や、 昌造 にも 劣らない お 談義 好 きの 性格が、 珍ら しい 型 をつ くって ゐて" 

作者が 筆を盡 して 書いて ゐ るの も、 この 女の 美し さ、 やさし さで は 無く、 特異の 氣 性と 其の 倒 巧 

である。 悧巧と 倒 巧、 お 談義 好きと お 談義 好きの 逢引 は、 かなり 理 につんだ もので、 作者 は 非常 

な 努力 を拂 つて、 二人の 理想的な 人間の 心が 步み 寄って ひとつになる 道筋 を 書き、 立派な 戀 愛の 

模範 を 示す といった やうな 意 氣組を 見せて ゐ るが、 存外 贖 者に とって は、 作者の 豫 期しない を か 

しさが 感じられ るので ある。 それ は 惚れた はれた の 沙汰で 無く、 昌 造が 瑛龍を 正しい 生活に 導く 

の だとい ふ 理論が、 讀 者に はう ベな へない からで ある。 



114 



む を L 弟 兄の 家 城 安"^ 



昌造 は、 自分で は氣が 弱い とか、 自分 程 反省の 深い 人間 はない とか 云って ゐる けれど、 實は怖 

ろしく 氣の 強い、 反省よりも 自己 肯定の 傾向の 強烈な 人閒に 見える。 彼が 反省 だと 思って ゐるも 

の は、 何とかして 自分の 行爲を 是認しょう とする 心意の 働 を 意味す るので はないだら うか。 それ 

よりも、 或 時 彼が 瑛 龍に 對 して、 自分 は 我儘な 人間 だ、 それが 寧ろ 長所 だとい ふやうな 事 を 云つ 

てゐ るが、 此の方が はっきりと 昌 造の 本質 を あら はして ゐる。 讀 者から 見る と、 彼 は 全く 我儘の 

人格化され たやうな 人物で、 そのう しろめた さも 感じす、 安んじて 人間 論 をお 談義す る 程の 強氣 

である。 私 は 彼が 醉拂 つて、 こんな 事 をして ゐては 駄目 だぞと 感じて ゐる 時の 昌造 をい、 人間 だ 

と 思 ふが、 殆ん どお も ひあがつ たやうな 態度で、 彼が 信す る 儘の 理窟 を こね かへ して ゐる 時の 昌 

造に 反感 を 持つ。 

由 來里見 氏はセ ンチ メンタ リズ ムを 極端に 輕蔑 する。 彼 は 大衆に おもねり、 ほろ りと させたり、 

淚を 流させた りする 甘い 倫理 や 道德を 排斥し、 寧ろ 大衆の 喜び さう もない 倫理 道德を 樹立す る 事 

に 舆味を 持ち、 努力して ゐる やうな 作家で、 或 意味に 於て は惡魔 主義と 呼ばれても 然る可き 傾向 

を 持って ゐる。 

この 感傷主義 を 嫌 ふ 心 は 勿論 昌造 にも 強烈で ある。 その 爲に、 兄文吉 ははげ しい 鞭 をう けなけ 



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れ ばなら なかった。 おしげ も 千 葉 も 同じし もとに 打 たれる 人々 である。 それが 餘 りに 苛烈で あり、 6 

我儘で ある 爲に、 本來 人に 好かれ さう もな く、 又 作者が そのよくな いところ をカ說 して ゐる やう 

に 見う ける 千 葉に さへ、 吾々 の 同情 は 向けられる 位 だ。 哀れなる 靑年千 葉 は、 地震の その 夜昌造 

の 象 族の 安否 をた しかめに、 命の 危險を 冒して 自轉 車で 逗 子に 急行す る。 その 曰昌造 はどうした 

かとい ふと、 赤 坂の 待合に 瑛 龍と 泊って ゐて、 家が つぶれて 危く 死に さう になった が、 共々 に 兄 

の 家に 逃れて 來て、 大地の上に敷ぃた^^團に、 瑛龍 と共に 眠った。 彼 は 妻の 事 も 子供の 事 もお も 

ふに はお も ふの だが、 何故 自分自身 逗 子へ 強行す る 心に はならなかった のか。 

瑛 龍が すっかり 理想化 されて ゐ るのに 反し、 おしげ は 容赦な く 表から 裏から 描かれて ゐる。 幼 

い 子供達 を 抱へ、 賴り 少なく 感じて ゐる 危急の 際に、 救援に 來た千 葉に 對 して 感謝 以上の 心 を 持 

つやう になる の は 極めて 自然で ある。 その 上昌造 は瑛寵 に 夢中 になって ゐて 自分 を かへ りみ ない 

ので あるから、 一 一人が 遂に 行く ところ 迄 行って しま ふの も 無理が 無い。 ところが こ の 不義 を 知つ 

た 時の 昌 造の 態度が、 又 世俗の 倫理 道德と 異なる 道に 見出される。 彼 は その 不義に 對 して 憤り は 

しない、 若しも 二人が 責任, V 持っての 上の 事なら、 眞劎 なら、 念力 かけての 上の 事なら 容認し よ 

う、 义 その 所 爲を 不都合 だとして 詰責 もしない とい ふので ある。 彼が 望む の は、 出来た 事は爲 方 



む讀 をし 弟 兄の 家 城 安つ 



が 無い として、 その 始末 を 三人が 平等の 立場に 立って、 公平に、 钢 巧に 處 置しょう、 決して 馬鹿 

な眞似 をし ないやう にしようと いふの だ。 こ の 寛大なる 心 持 は 當のー 一人に もなかな か 呑 込めない 

ので、 昌造は 例の 通り 嚼んで ふくめる やうに くどくど とお 談義に 及ぶ。 しかし、 昌 造と 千 葉で は 

決して 對 等の 立場に は 立てる わけが 無い。 昌造は 自ら 公平が りながら、 結局 千 葉の 劣れる 立場 を 

利用して 爾 倒した 結果になる。 二人が 無理に も いっしょ になって、 現在の 千 葉の 力で 幸福に 暮ら 

せる 自信が あるなら やって 昆 ろと いふ 昌 造の 言葉 は、 誰の 目に も 無理難題 である。 吾々 は 千 葉に 

同情す る外爲 方が 無い。 更に 义 おしげに 對し、 千 葉と からだの 關係 があった かど う か を 詰問す る 

場合、 昌造は それが あつたと しても 怒り はしたい、 たく かくす 事、 噓を つく 事が いけない としき 

りに 繰 返す が、 これ も 亦お しげを 一番 苦め る 攻め 方であって、 此の 場面に は サディズムの 徴候 を 

感じる 位 だが、 しかも 昌造 はいちい ち冷靜 なる 理窟 をく つつけ て、 自分の 心 持の 正し さに よって 

相手 を 導く もの、 や. うに 云って ゐる。 然し、 よき 解決 を 求めながら、 結局 此の 事件 は 未解決の 儘 

に 終って ゐて、 最後 は 極めて 漠然たる、 且 甚だ 突然に 感傷的なる 昌^の 感慨 を 以て 結ばれて ゐて 

何事 を も はっきりさせる 事の 好きな 彼の 主義 を 裏切る ものが ある。 

里 見 氏のう まさ は 今更い ふ 必要が 無い。 殊に 此の 小說 が、 明白に 主觀 的小說 であり、 作者 その 



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人の 心 構への 說明 であり、 主張で ある 限り、 吾々 も 主として その 心 構へ に 封して 批判 を 加 ふ 可き 

ものと 確信す る。 その 點で、 私に はどうしても 加島昌 造の 主張に 同感が 持てない。 彼 一流の、 お 

のれのお も ひ を 通す とい ふ 心の 強さ は 羨し く 思 ふが、 彼が 正しい と 信じて ゐる 事に 何の 據り どこ 

ろが あるの か、 いくら 反復しても わからない。 嘘 をつ くな、 赤裸々 であれと いふ 抽象的な 註文 は 

示されて ゐる けれど、 噓を つかす、 赤裸々 であるなら どんな 事 をしても い、 とい ふ 我 像 勝手 は理 

論と して 成立たない。 自分 は 何 をしても それが 噓 でない、 正直で あると いふ 確信 を 持ち 得る であ 

らうが、 他人の 所 爲に對 して は、 必す しも 嘘で ない とい ふ 事の みで 許し はしない ので ある。 おし 

げが千 葉の やうな 値う ちの ない 靑年 とた f ならすな つた 事に 對し、 昌造は 忽ち 役不足 を 感じて ゐ 

る。 彼 は 明かに 自分が よしと 見る もの は 正しい、 自分が 好む もの は 正しい と 云 ふ 勝手 氣 儘な 標準 

によって 他 を 律して ゐ るので、 第三者から 見れば 少しもうな づけない 信仰に 一 切 を 托して ゐ るの 

だ。 しかも その 一人ぎ めの 正しい 道に そむく 他人 を 攻る事 極めて 急で、 おも ひやり が 乏しい。 そ 

の爲に 登場人物が あまりにいた はられ 過る のと、 あまり に 背 酷に 极 はれ 過る のと 一 一種 類に 別れて 

しまった。 

「安成 家の 兄弟」 は、 一 償の 吿 白文 學 では あらう が 決して 徵悔の 心に 出る もので はない。 そんな 



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弱氣は 作者の 唾棄す ると ころで あらう。 これ は反對 に、 自己の 行爲を 肯定し、 叉 他人に も 是認 さ 

せようと する 努力の 結晶で ある。 しかし 主人公の 主張が 客觀 的に 正しい と 認められない 限り、 同 

感を 強る の は 無理で、 多くの 讀者は 寧ろ 反感 を 持つ ので はない かと 疑 はれる。 

私 は上來 述べ 来った 理由で、 この 作品 を 里見瞎 氏の 作品 中 上位に は 置き 兼る ので あるが、 好む 

と 好まない とに 拘ら す、 あく 迄 も 制作に 努力す る 氏の 態度に は 深く 敬意 を 表し 度い。 (昭和 六 年 六 

月 八日) 

. I ニー 一田 文學」 昭和 六 年 七月 號 



元 « 屋敷 



長い間の 獨身 下宿 生活に 馴れたから ばかり でな く、 生れつき 衣食住の 世話の か、 ら ない 性分な 

ので、 私 は 經濟が 許すならば ホテル 住居 をし 度い と 願って ゐ たが、 その 第 一條 件 は 何時 迄た つて 

もみた され さう も 無く、 义今 となって は 愚妻が 同意し さう もない ので、 一生 願 は 願の ま、 でお し 

まひになる かもしれ ない。 

大正 八 年の 募に 大阪 から 歸 つて 来て、 赤 坂の 氷 川 神社の 前の 坂の 中途の 新 建の、 まだ 壁 も 乾か 

ない 家に ひとりみ の 所帶を 持った のが 最初で、 翌年 三 田の 慶應義塾の 稻荷 山の 裏手の 幅澤 家の 御 

持 家を拜 借して 移り 住み、 二 年間 ゐる 間に 愚妻が やって来た。 吾々 に は 分に過ぎた 家で、 家 その 

ものに は 決して 不滿 はなかった が、 何分 車馬の 往来の はげしい ところで、 嘵 方から 深更 迄 物音が 

絕 えす、 殊に 自動車 や 荷馬車が 通る と 家 鳴 震動して 神經を 脅かし * 勉強の 妨 になる ので、 たまた 



120 



敷 屋祿元 



ま 知人が 知らせて くれた 靑山ニ 丁目の 墓地に 近い. 閑靜 なと ころへ 引越した。 家 は 古かった が相當 

の 庭が あり、 いろいろの 花の 樹果 の樹 があって 頗る 氣に 入って ゐ たが、 地方の 市長 をして ゐた持 

主が、 原 敬 氏の 急死が もたらした 政 變の爲 に 再選され す、 俄に 歸 京の 事に なった ので、 突然 追 ai 

される 事に なった。 

家事に 關 して は 極めて まめで 無い 質な ので、 自分で 借家 を 探したり、 新聞の 廣吿攔 を 見たり す 

る氣は 無く、 た た 困って ゐ ると、 

「それ はい 、家が あるの よ。」 

と^^鏡花先生の奥さんが敎へ て下さった。 ところ は番 町で、 泉 先生の 御宅から 半 丁と 離れて.^ 

ない、 窒數が 十二 三あって、 庭が 數百坪 あり、 門 長屋が あり、 瓦屋根 を 頂く 大門の 如き はまる で 

お 大名の 御門の やう だとい ふ 話な の だ。 それで は 駄目 だと てんから 問題に しないで ゐ ると, 

「い、 え、 それが そんなに お 高くない のよ 。- 

と 奥さん は 悉く 熱心 だ。 

「だって、 そんな 大きな うちが、 そんなに 安い 害が 無 いぢゃありません か。」 

だまされる やうな 氣 持で 警戒しながら 云 ふと、 



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「でもね、 うちが とても 古いんで すと さ。」 

奥さん は 魚屋の きょ 公と かにき いた 話 を、 その まゝ傳 へて ド さった。 それでも 私 は 半信半疑 だ 

つた。 人 を かつぐ 事が 好きで、 且叉 御主人 同様 かなり 話 は 大装裟 を 尊ぶ 泉 夫人の 事 だから、 うつ 

かり 引か 、 ると 笑 はれる ぞと 恩った ので ある。 

しかし 追 立てられる 日限 は 容赦な く 切迫して 來 るので、 或晚 一杯機嫌で 番 町へ 廻って 見た。 豫 

て 泉 夫人から 開いた 町 所 を あてに 行って 見る と、 煤けた 門燈が 暗く、 番地 を 認めた 木 札 も 古くて 

はっきりと は讀 めなかった が、 たしかに それらし い 家の 前に 出た。 お 大名の 御門の 扉 はし まって 

ゐ たが、 型通り 格子の ついた 出窓の ある 門 長屋が あって、 正に 旗本 屋敷に 違 ひ 無かった。 門の 中 

は 見えない が、 少なくとも 十 以上の 窒數が あり、 廣ぃ 庭の あるら しい 表 構へ に 見えた。 こいつ は 

とても 自分な どの 住む 可き 家で は 無い、 萬 一 これが 泉 夫人のお 話の やうに 中庸 を 得た 家賃なら ば- 

恐らく 何 か 曰くが あるに 違 ひ 無い、 番町皿 屋敷と はこれ だな と考へ た。 

夜分の 事 だから 門 を 見た 丈で 引取った が、 間も無く 愚妻 は 岡 田 八千代 夫人 を 顧問に 頼み、 泉 夫 

つ !4 さ 

人 を 煩 はして、 審に 家を拜 見して 來た。 象 はき、 しに まさる 古さ だが、 室 數は十 位 あり、 臺所も 

廣く、 庭も廣 い、 家賃 も 決して 高ぐな い、 それ は それ はい、 家 だとい ふ。 



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敷 屋祿元 



「庭なん て、 何處迄 あるか、 さきが 見えない 位です わ。」 

と 岡 田夫 人 もっけ 加へ た。 これ は 凄い ぞと 私も悅 喜して、 はじめの うちこ そ 半信半疑だった が" 

門 だけ は 自分で も 見て 来たし、 斯う 生證 人が あら はれて は、 却て 大が、 りな g 想 を 逞しく する 事 

になった。 先づ 芝生が あり、 植 込が あり、 木立の 茂みの 向 ふに は 大きな 池が あって 淸 水が 湧く、 

松 杉 檜の 大木 は晝 なほ 暗く、 五位 驚が 群って 飛 立つ であらう など、、 浪漫派の 小説の 舞臺を 想像 

して 心 甚だ 樂 しかった。 

私 は 早速 出かけて 行って、 門の そばに 住む 大家さんの 御 親戚の 方に 拜借 希望の 趣 を 願 出た。 そ 

の 方 は 寺 崎廣業 氏に ついて 學 んだ畫 家で、 今 は 某 校に 勤めて ゐ ると 名 吿られ た。 偶々 机の 上に あ 

つた かき かけの 怫畫を 見せて 頂き、 奥床しく 思った。 その 方の 御 話で は、 大家さんの 先代 は此處 

で 開業して ゐ た醫師 で、 早世し、 ふた 親に 別れた 相 續人は 幼少の 時から 信 濃の 國の 伯父さん にあ 

づ けられて 成人した ので、 今 はこ ちらに ゐな いと 云 ふ 事であった。 鬼に 角 家を拜 見させて 頂く 事 

になった が、 成程 古い もので、 恐らく 二百 五十 年 位 はたって ゐる だら うと 云 ふお 話だった。 以前 

はもう 二つ 三つ 室が あつたが、 それ は朽廢 して 取 毀され、 座敷の 雨戶も 腐って 落ちた ま 、で、 今 

は 硝子 戶だ けだと いふ。 その 硝子 戶を あけて 見る と、 折 柄 梅雨の 頃で、 雨に 烟る 築山の 樹々 に は 



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蔽 からし や 烏瓜の 蔓 がいち めんに 這 ひまつ はり、 その 向 側 は 成程 一寸見 透せ なかった が、 私が 空 

想した やうな 林 や 池が ある わけで はなく、 雜 草の 伸る に 任せた 空地が あるので あった。 何に して 

も 結構な ので、 是非 拜借 させて 頂き 度い とお 願 ひし、 身柄 を說 明して まかり さがった。 いづれ 信 

濃の 國に 住む 大家さんと 相談の 上 返事 をす ると 云 ふ 事であった〕 

やがて 御 許が 出て、 私共 は 夏の 始に 引越た。 それが 大正 十二 年の 事で、 旣に八 年の 歳月が 完全 

に 過ぎた。 

その 八 年の 間に はいろ いろの 事が あった。 先づ 引越した 年の 八月 三十 一 ョに、 私共 は 夏 休の つ 

もりで、 かき かけの 戲 曲の 原稿 を飽に 入れて 鎌 倉へ 行った。 愚妻の 兄と 妹が 來る。 私の 弟が 來る 

私の 兄の 子供達が 來る。 十數 人の 同勢に なって、 明日 は 船 を 出して さう だ 鰹 を 釣らう と 約束した 

其の 翌日が、 例の 地靈 で、 家 は ひとた まりも 無く 倒潰し、 危く 逃れて 裏山の 松林に 野宿す る 身の 

上と なった。 

その 時 私共が 一 番 心配した の は 東京の 家の 事だった。 何しろ 一 一 百 五十 年の 家で、 ふだん 歩いて 

も 根太が あやしく きしむ 位 だから、 到底 助かる 害が 無い、 それに は 留守番の 少し 足りない のと、 

無闇に 氣の 強い 二人の 小娘が、 共々 命 を 失 ひ はしなかったら うか、 足りな いのは 足りない ま、 に 



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# 屋 ili?;^ 



逃 通れ、 氣の 強いの は氣の 強い ま、 に 無益な 冒險 をし はしなかったら うか、 或は 正午の 事 だから、 

薹 所から 火事 を 出して、 大家さん はいふに 及ばす、 御 近所に 迷惑 を かけはしなかった か、 萬 一助 

かっても、 行く あてが 無く 途方に くれて ゐゃ あしないだら うかと、 松林の 梢遙 かに、 横濱 か、 ま 

だ その さき か、 何處 かに あがる 入道雲の やうな 火の手 を 眺めながら 心配した のであった。 だが、 

十日た つて 歸 つてみ ると、 所々 の 壁が 崩れ、 お 大名の 御門の 屋根 瓦が 落ちた だけで、 二百 五十 年 

の 家 は 無事だった。 無事だった おかげで、 泉 鏡 花 先生の 隨 筆に は元祿 屋敷の 名 をうた はれ、 有 島 

生 馬 氏の 山の手 風景に は、 永く 保存す ベ き番町 風景と して 記された。 

震災 直後 は 町內の 申合せで 戸毎に 一 人づ、 夜警に 出る 事に なって ゐた。 無益な 事と は 知りな が 

ら、 私 も應援 に來て くれた 弟と 半夜 交代で、 お 大名の 御門の 下で 町 5: の 義務 を果 した。 

震災 後の 修理 も 迅速に 濟み、 お 大名の 御門の 屋根の 瓦 は 亜鉛と なった けれど、 ついでに 方々 に 

手が 入って、 家 は 一 暦 がっしりした。 その後 も、 私の 家 は 小人数の くせに 疊ざ はりが 荒い と 見え 

て、 そこいら 中 を 損じ、 汚し、 金魚 を 飼 ふといって はやたら に 池 を 掘り、 犬 共 は 草木の 根 を 枯ら 

し、 殊に 氣の 荒い シ M パ アド は 板 稱迄も i& ひ 破り、 申譯の 無い 次第 だらけ だが、 大家さん は寬仁 

で、 あく 迄 も 親切に して 下さる。 



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地震の 翌年に は 信 濃の 國にゐ た 大家さん も 結婚して 上京し、 築山の 向 ふの さ 地の 樹を 移し、 草 

を はら ひ、 近代 風の 日 あたりの い、 潘洒な 住居が 出来て、 若い 御 夫婦が 住んだ。 築山の 植 込を自 

然の 境に して、 別に 垣根 は 無かった から、 若い 奥さんの 多彩の 着物の 色 は、 樹々 の 細かい 枝 をす 

かして、 はれ やかに 見える のであった。 間も無く 御子さん が 出來、 大變な 難産だった さう だけれ 

ど、 玉の やうな 男子が 生れた。 奥さん は 引つ- 乂き 長く 床 を 離れす、 御子さん は 滋養 藥で肓 つた。 

私共 は 此の 家に 越して 来てから、 い、 事ば かり 數 へて ゐた。 出入 は 便利 だし、 -: 至數は 多く、 庭 

は廣 く、 いろいろの 花の 樹が あり、 隣近所 は靜か だし、 町 內には 事が 無く、 大家さん はもった い 

たい 程よ くして 下さる、 い、 家 だい、 家 だと 云 ひ 合った が、 た ひとつ 缺點 として あげなければ 

ならな いのは、 夏 暑く 冬 寒い 事だった。 お 大名の 御門 は 正に 南に 向いて ゐ るの だが、 座敷 は 西 向、 

茶の間 は 北 向で、 冬の 風 ははげ しく あたり、 西日 は殘 りなく 直射した。 何故 これ だけの 地面が あ 

るのに、 東南 向の 象 を 建てなかった のか 不思議に 思った が、 或 人の 說 によると、 昔 は 多く 斯うい 

ふ 建て 方 をした もので、 樹木に は 表と 裏が あり、 その 表を觀 賞す る 爲には 庭 を 南 向に しなければ 

ならない と 云 ふので あった。 果して さうならば、 昔の 人 は 人よりも 草木 を 深く 愛した ので あらう。 

赵は 不圖、 人 問が 無闇に 權利を 主張し、 恭謙の 心 を 忘れる やうに なった の は、 南 向の 家に 住む や 



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うにな つてから ではない か、 或は その 逆に、 權利 思想の 發 達が 南 向の 家 をつ くるに 到らせた ので 

はない かな ど、、 無用な 事 を 想 ひ 浮べた。 

私 は その 南 向の 庭に 安物の 草木 を植ゑ 加へ た。 紫陽花、 連翹、 获、 芙蓉、 山吹、 紅蜀 葵、 蔓薔 

截の 類で ある。 又 岡 田 三郞助 先生に 貰った 月見草 は、 ひところ 庭 一面に はびこって^ いた。 

庭の 春 は 先 づ連翹 椿が まっさきに 花の 色 を 見せ、 大家さんの 家の 前の 二三の 大木の 櫻が 疾 いて 

散る と、 つ、 じ 山吹 紫陽花の 順に 花 を 開く。 庭の 眞 中に そ、 り 立つ 槐は、 白い かよわい 花 を 持ち、 

感じ 易い 若葉 は あるかな いかの 風に も そよ ぎ、 夏 は その 木に 蟬が來 てな き、 日ぐ らしが 來て なく。 

この 木 は 素晴らしく 根 を 張る もの ださう で、 植木屋の 話で は、 恐らく 庭 一面に 足 を 伸ばして ゐて、 

移し 植る事 は 不可能で あらう と 云 ふ 事だった。 秋、 落葉の 頃 は、 塞の やうに 葉 を 散らし、 眞 冬の 

梢の 技の なり も惡 くない。 落葉と い へば 隣家との 境に ある 朴の木の 廣葉 がか さかさに 干 反って、 

枯葉と 枯葉と がさ、 やき か はす やうに 風に 鳴りながら、 未練ら しく 散る の も 風情で ある。 楼も桐 

も 紅葉 も 散って、 俄に 眼界が 廣 くなる と、 眞靑に 澄んだ 秋の 空に、 あかあかと 柿の 實の 鈴な りに 

なる の も 毎年の 眺めで ある。 その 頃 はいろ いろの 小鳥 も來て 囀り、 冬から 春へ かけて は 毎年 忘れ 

すに 來る 山鳩が ゐ るし、 春から 夏へ かけて は、 これ も缺 かさす に來 て!^ がな く。 この 自然の 惠は、 



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身に あまる 仕事 をし よ ひ 込んで へ こたれ 勝な 私 を なぐさめて くれる。 私 は 廣ぃ庭 を 有する 家 を 借 

り て 住む 幸 ひ を 常に 感謝して ゐる。 

それな のに、 うちへ 來る人 —— 殊に 私の 近親の 者な ど は、 よくも あんな 家に 住んで ゐられ る も 

の だと 喷 しあって ゐる やう だ。 家が 古く、 歩く と 根太が きしみ、 簞笥ゃ 本箱が かたこと 鳴り、 窒 

數は 多い けれど 間 取が 悪くて かくれ 場所が 無い、 朝日が さ、 す 夕日が さし、 南風が 通らす 北風が 

つれな く 吹きつける、 暗い、 陰氣 だ、 しめつ ぼい、 庭 は あるに は あるが 荒れ はう だいに 荒れて ゐ 

ると 惡ぃ 事ば かり 數へ 立てる。 . 

さう いふ 相手と は、 いくら 爭 つても はてしが 無い から、 -. . 

「でも、 これ 程の 大家さん は何處 にも 無いだら う。」 .- 

と 話 を わき 道へ 持って行って 結論 をつ ける ので ある。 

恰度 大家さん 御 夫婦が 東京へ 来られて、 新居 を 構へ た 年の 夏の 事だった。 私 は 叉 金が 無くて 困 

り 切って ゐた。 保險 證券 を撸 保に して 借りた 金で 所得 稅を 納めた が、 その 月末の 始末が つかない。 

平生は、 自分の 借金 は 忘れない やうに 手帖に 記して 年中 懐に 入れ、 一 日 も 早く 返さなければ なら 

あい、 他人へ 贷 した 金 は 返って 來な いものと きめて 忘れて しま ふの を 本意と して ゐ るの だが、 扨 



128 



!& 屋祿^ 



て 斯うなる と不覺 にも、 何處 からか 返濟 して 來て もよ ささう だな ど、、 あてに ならない 事 を考へ 

るので あった。 止む を 得す 小說を 書いて 賣 らうと 決心した が、 短い ので は 金高が 少ない から、 長 

いのでなければ ならない。 眞 夏の 暑氣 にげん なりしながら、 夢中に なって 書いて ゐた。 その 日 は 

B 曜の 朝の 事で、 風通しの 悪い 座敷の 端近く 机 を 持 出して 稼いで ゐ たが、 少し 疲れて 足を投 出し、 

何とかして 手 取 早く 金の 入る 方法 は 無い もの かと {仝 想して ゐた ところへ、 裏木戸から 大家さんが 

入って 來た。 何の 御用 かと 思って ゐ ると、 かねて 御預 りして ある 敷金 をお かへ しします と 云って 

持參 された の だ。 私 は あまりの 意外に 大家さんの 心の 狀態を 疑った 位 だ。 い 、え、 もう 氣 心の 知 

れた 方から 斯うい ふ もの を御預 りして ゐ るの は氣持 がよくありません からと、 私の 手に 一 封を淺 

して 行った。 その 時の 私の 喜びと いふ もの は 無かった。 愚妻 を 呼んで ともども 感謝した。 だが 凡 

夫の あさまし さで、 その後 も 金に 困る と、 緣 側に 足を投 出して、 何處 からか 思 ひも かけない 金が 

飛込んで 來ゃ あしないだら うかと、 あてもなく 期待す る 事が ある。 

この 話 をす ると、 さんざん 家 をけ なした もの も、 一言 も 無く 感服して 引 さがる ので ある。 

大家さんの 住居に は離窒 があって、 誰か 獨身 者で 借りて くれる 人 は 無いだら うかと 云 ふ 御 相談 

があった ので、 多勢 集った 席上で、 誰か 借りない かと 叫んだ ところ、 言下に 手 を あげたの が 勝 本 



129 



淸ー郞 さんだつた。 恰も 「三 田文學 復活 號を 出す 頃で、 勝 本さん は 未だ 左翼の 闘士に はなって ゐ 

なかった。 時々 踊の 御 師匠さん などが たづね て來 たが、 鬼に 角 非常な 精力 家で、 その 勉強に は 驚 

かされた。 勝 本さん は、 よく 大家さんの ところの 御子さん を 抱いて、 往 來を步 いて ゐた。 淸 一 郞 

さんが 行って しまった 後に は 弟の 英治 さんが 入り、 英 治さん の 後に は 私の つとめて ゐる會 社の 若 

い 人が しばらく 居た。 - 

御子さん はすこ やかに 育った が、 奥さん は 病床に 就かれる 事が 多く、 又 御主人 も 層々 風邪 を 引 

かれる やうで. 時には 御 夫婦 揃って 寢てゐ ると き、、 私共 はいつ も かげながら 心配して ゐた。 私 

の やうな 強 突!^ は、 いくら 體を 虐使しても 患 はす、 あ、 いふ 方が 揃って 病 氣とは 何たる 事で あら 

うと、 槐の 梢の 暮れ か、 る 頃、 木立の 向 ふの 灯影 をす かして、 感慨に 耽る 事 もあった。 それが 去 

年の 秋、 長い間 御主人の 養育され た 信 濃の 國の 伯父さんの 看護に 赴かれた 後で 奥さん は 病臥され、 

時折 あわた f しく 馳 つける 醫 者の 姿に 驚かされ たが、 しめつ ぼい 雨の 降る 頃に、 遂に なくなられ 

た。 

大家さんの 方の 御 不幸に ひき かへ、 私共の 方は錢 町へ 來 てから 愚妻 も 丈夫に なり、 近年 久しく 

醫 者の 額 を 見ないで 濟ん だ。 :§; 町^に は 泉 先生が ゐる * 有 島 生 馬さん がゐ る、 里見淳 さんが ゐる、 



130 



敷 屋祿^ 



吉井 勇さん も 引越して 來た、 隣町に は 小 村雪岱 さん もゐ る、 何 かにつ けて 心丈夫 だ。 叉 附近の 町 

はすべ ておちつ いて ゐて氣 持が い、。 大きな 屋敷が 多い ので、 魚屋 八百屋 は不廉 だとい ふ 事 だが- 

一般に 町 內の人 は、 昨今 越して 来たので はなく、 十 年 二十 年 三十 年ゐ ついて ゐる 行儀の い、 市民 

だから、 人氣も 至極 穩か だ。 私 は 大家さんの 御 都合の 許す 限り、 元祿 屋敷に 永住し 度い と 願って 

ゐ る。 

近年 引繽く 不景氣 に、 諸方で 家賃 引下の 爭 ひが 起った が、 私共の 方 は、 こちらから は 何もお 願 

したいのに、 あちらから 多分に 引下て 下さった。 實を いふと、 私 はこ、 に 越して 来て 以来 一度 も 

家の 事に ついて 煩 はされ た 事が 無く、 何から 何迄滿 足して ゐ るので、 引下て 頂かなくても 結構 だ 

つたの だが、 ぉ斷 りすべき 筋合で も 無い ので、 ありがたく 御 受けした。 ところが 今年の 夏の はじ 

め、 大家さん は 庭の 一 部に 二階建の 東南 向の 曰 あたりの い 、家 を 建增て やらう と 云って 來られ た- 

愚妻 は元來 からだが 弱く、 暑さに も 塞 さに も 負る 方な ので、 かねて 出來る 事な- 大家さんの 御 許 

を 得て、 東 か 南 を 向いた 二階 をー窒 建てさせて 頂き 度い と 念じて ゐ たが、 私に は 懐の 都合が あり- 

f.s ひか へ 

又 あまり 我儘 過る 事な ので、 差控 ろと 申 含めて ゐた ところ だから、 愚妻に とって は 曾ての 日の 私 

ぉナ 

に 於る 敷金の 如く、 思 ひも かけない 惠に 見舞 はれた 譯だ。 よろしく 御 願 ひ 申ます と 返事 をした が- 



131 



もれきく ところに よると、 なくなった 奥さんが * 生前 あの 家 は 西 向で 塞 暑と も きびしく、 氣の毒 

だから、 一室な りと も 日 あたりの い、 窒を 建增て やり 度い と 云って 居られた の ださう で、 私共 は 

それ を 聞いて、 なき 人を义 新しく 追慕した。 折角の 庭が 狹く なり、 元祿 屋敷 を 近代化す るの は錢 

念の やうで も あるが、 それよりも :n 常 生活の 要求 は 強く、 赵共は 喜んで 仕事師 や 大工の 立 入る 事 

を歡迎 した。 - - - . . -- —— :-..-:■ . . 

建 增の家 は 今 正に 出來 上らう として ゐ るので、 或 日の 夕方、 まだ 壁の 乾いて ゐな いその 二階へ- 

愚妻と いっしょに 上って 見た。 東と 南が あいて ゐて、 その 東の 窓の 外に、 槐の 枝が 伸びて 來てゐ 

た。 今迄の 元祿 屋敷の 茶の間で は、 端坐して ゐても 汗が 出る のに、 こ、 は 夕風が 涼しく 吹き、 廣 

々とした 夏の 宵签 が、 ゐ ながらに して 見晴らせる のであった。 

斯う 迄して 頂いて は、 もう 此の 家 は 引越せません ねえと、 愚妻 は 心から 感謝して 云った。 何と 

か御禮 をし 度い, もの だとい ふ 心が 一 致した。 

- せめて 家賃で も あげて 賞 ひ 度い な あ。 あげる のが 當然 なんだ。」 

と 私は應 じた。 この 夏も懷 さびしく、 多年の 借金 は 少しも 減らす、 所得 稅の 納期 は 迫り、 叉來 

るべ き 冬の 洋服 も 外套 も滿 足な の は 一-着 も 無い 窮狀 にありながら、 私 はいくら 家賃 を あげて 頂い 



132 



たら 適當 であらう か を 只管 考 へた。 (昭和 六 年 七月 六 曰) - 

. I 「一一 一田 文學」 昭和 六 年 八月 號! 



喻 へない 文學 



陋巷に 窮死した と傳 へられる 鬼才 正直 正 太夫 は、 , 

按す るに 筆 は 一本 也、 箸 は 二 本 也。 衆寡 敵せ すと 知るべし。 -. - 

と、 文學 では 飯の 喰へ ない 事 を 嚼んで 吐き出す やうに 言っての けた。 - 

同じ 人 か、 或は 他の 人 か、 他人の 子供が なるとい ふの なら 止む を 得ない が、 我が 子 は 決して 小 

說 家に はしない とい ふ 意味の 事 を 云った。 まことに 吾々 は、 一本の 筆 を 以てして は 腹 を滿す 事の 

出来な か つ た 幾多 の 先輩の 悲慘な る 生涯 を 知って ゐる。 殊に 正直 正 太夫 在世 の 頃 の _ 作家 の 生活 は 

甚だ みじめな ものであった。 一 代の 寵兒紅 ffiK 山人 さへ、 決して 物質的に は酬 いられなかった。 槌 

ロー 葉 も 長 谷川 二葉 亭も國 木 田獨歩 も、 二 本の 箸の 不斷の 脅威に 惱 まされ 通した に 違 ひ 無い。 或 

作家の 家族の 如き は、 遂に 水盤の 中の 金魚 を噙 つたと さへ 傳 へられた。 それ は 勿論い たづら の^ 



學文 いなへ 喰 



に 過ぎまい けれど * 聞く 者が 多く 疑はなかった とい ふの だから、 如何に 悲慘 なる 生活 狀態 であつ 

たかは 想像す るに 難くない。 . . 

小說戲 曲の 制作の 如き は 男子 - 生の 仕事た る 可き もので ない とい ふ 想 は社會 一 般に 根ざし 深 

く、 その 作品 は 子女の 讀む 可き ものに あらす として 毒藥の やうに 遠ざけられた。 したがって 雜誌 

の,, f <1<ら す 

單行 本と もに 發行 部數は 少なく、 書肆の 儲 も 薄く、 作者の 報酬 も 充分で 無かった。 加 之 著作の 權 

利 を 認める 事もうと かった から、 原稿 は 僅かの 金で 書肆に 買 取られ、 偶々 版 を 直ね る 事が あって 

も, 作者 は その 印稅を 要求す る途の 無い 狀 態に 在った。 

私が はじめて 小說を 書いた 明治 四十 年代に 於て は、 正直 正 太夫の 時代より は遙 かによ き 環境に 

あった けれども、 新しく 世に 打って出ようと 云 ふ 作家 志望者の 多くが、 筆で 飯が 喰へ ると は考へ 

てゐ なかった。 強氣 で、 人に も 世に も 負ける 事の 嫌 ひな、 おのれの 力 を 信す る 事の 深い 里 見淳氏 

さへ、 果して 一 生涯 を 筆に 托し 得る や 否や を考 へて 躊 したが、 親戚の 名跡 を繼 ぎ、 その 家に 自 

分の 1 身 を保證 する 丈の 资產の ある 事 を 知って、 はじめて 作家た らんと する 決心が ついた と吿白 

して ゐる。 鈍根 私の 如き ものが、 遂に 一 本の 筆に 信賴を 置かす、 月給 取と なって 衣食の 資を 得る 

外に 方法が 無い と考 へたの は 當然の 事で あらう。 



J3S 



しかし, 歐羅 c の 大戰爭 は 日本の 社 會狀態 を 急激に 一 變 した。 俄に 金が 流れ込んで 來た 結果す 

ベての 方面に 發展 著しく、 出版 書肆 も大 資本 を 擁して 大量生産 を 行 ふやう になり、 雜誌も 新聞 も 

文藝欄を擴張して流行作家を引^^服にし、;恰も時代の潮に乘った作家は忽ちにして 一 本の 筆が 二 

本の 箸 を樂々 と 動かし 得る 事 を實證 した。 . 

文學 では 陰へ ない とい ふの が 常道だった 時には、 どうせ 金に は緣が 無い の だと 最初から きめて 

か、 つて るので、 恰もむ かしの 職人の やうに 金 錢には 淡白で、 原稿料 や 印税の 額 も、 向 ふま か 

せです まして ゐる 習慣だった が、 文學 でも 飯が 喰へ、 地面が 買へ、 家が 建てられる となると 職人 

氣 質が 商人 根性に 變 つた。 商談の 上手な 作家 は、 その 技倆 は 左程で なくても、 蛾人氣 質の 作家よ 

りも遙 かによ き條 件で 取引 を 行 ふやう になった。 本屋と いふ もの は 頗る こすい のが 定法 だから、 

昔の 通り 默 つて 原稿 を 渡せば、 知らん 面 をして 安く 踏んで しま ひ、 しつつ こくせ びる 相手に は、 

濺々 ながら 多く を支拂 ふので ある。 當 時の 出来事で あるが、 恐らく は 日本が 生んだ 第一位の 作家 

であらう とい はれる 老大家が、 一般に 稿料が 倍加した 事 を 知らす に、 多年 緣 故の 深い 書肆の 乞 ふ 

が 儘に 作品 を與 へて ゐた ところ、 或る 宴會の 席上で かけ 出しの 若い 作家 連と おちあ ひ、 談偶々 原 

稿料の 多寡に 及んだ 時、 はじめて その 若者 共よ リも 自分の 方が 安い 稿料 を 受け取って ゐた事 を 知 



136 



學文 いなへ 喰 



つて、 直ちに 書肆に 談判に 及んだ 事が あった。. のれんが 古いのと、 慾 張と、 物 わかりの 惡 いので 

有名な その 書肆 も, すっかり 閉口して 頭 を蠱に 擦り つけたさう である。 

その 頃 は 世 並が よくな り、 旣に小 說を讀 むの を 罪惡視 する の は 時勢 遲れ となり、 中學校 女學校 

の敎科 書に も 小說の 拔萃が 載り、 文藝 作家の 社會的 地位 も 高まった。 文人 は 俗事に 携 はらす、 霞 

を 吸 つて 生きて ゐる やうに 思 はれた の は 昔の事に なり、 俗 中の 俗なる もの こそ 流行 兒 として 幅 を 

きかす 時代と なった。 

. 一 方 明治時代の 一 大特徵 を 成した 畫ー 主義の 敎育 は津々 浦々 迄 行き 亙り、 歐 米に は 文字の 讀め 

ない 人間 も 澤山ゐ るが、 我 國には 半世紀 を經 すして 跡を絕 ち、 その 手 取 早い 敎育 方針 を 助けて 雜 

誌と 新聞が 通俗なる 知識の 普及に 著しい 功績 を擧 げた。 本 を讀む 人間が 殖える とい ふ 事 は、 筆で 

喧 ふ 事を樂 にす る 結果 を 伴 ふ。 私の 如き 臆病者 さへ、 大正 年代の 文壇の 狀勢を 見る 時、 自分の 程 

度の 作家と 雖も、 一本の 筆で 飯が 喧へ るので はないだら うかと 考 へた。 少なくとも 十數年 勤績し 

てゐる 私が、 勤務先から 貰 ふ 月給よりも 遙 かに 酬いら れさ うに 思 はれた。 さあ、 文學で 飯の 食へ 

る 時代が 來たぞ と、. 文學 志望者が 躍 上って 喜んだ の はもと よりだが、 曾て は 之 を 罪惡視 した 親 達 

迄、 我 子の 商賣の ひとつと して 一 應は考 へる 有様と なった。 



137 



しかし 其 處には 問題が ある」 私 は 此の 狀 態が 長く 績 くと は 認めなかった」 河 故 かとい へば. 曾 

て 純粹藝 術が 一般大衆に 理解され た 事 は殆ん どない からで ある。 小説の 畑で も、 いぜん は 少数の 

愛好者が 親に かくれ、 師に祕 して 讀ん だ。 その 人々 は無條 件に 旣 成文 學の 熱愛者で あるか、 或は 

相當 その 道の 批評 能力 を 持って ゐ たが、 讀 者の 範圍 が擴大 される と共に、 その 平均 素質 は 低下し 

た。 あらゆる 文化の 發展 形^が a{ 衆 化の 一路 を迪る 時に、 文學 丈が 反對の 道程 をと る わけが 無い。 

それ は 杭す 可らざる 力で ある。 だが、 古來藝 術の 諸 部門に 於て、 專門 批評家が 最高の 評惯を 下し、 

古典の 俗 印の 押された もの は、 い、 物 だとい ふ 先入 觀念 によって 大衆の 尊敬 を購 ふけれ ども、 作 

品 その物の 魅力が 多數を 引つ ける 場合 は 極めて 少ない。 左甚 五郎の 作品と 稱 さる、 もの は、 それ 

が 古来の 物語に よって 民衆に 親しい 爲 * 運慶の 作品よりも 遙 かに 人氣を 持って ゐる。 ひさかたの 

光の どけき 春の 曰に しづ 心なく 花の 散る らんと いふ 歌の 趣 は、 少數の 藝術家 的 素質 を惠 まれた 人 

に こそ 深く 味 ははれ るで あらう が、 ^いた 櫻に 何故 駒つな ぐ 駒が いさめば 花が 散る とい ふ俗謠 程 

に は 理解され す 喜ばれない。 洗練に 洗練 を 加 へられた, 江戸 音曲 は、 今や 浪花節の 大衆性に 比肩す 

ベく も 無い" 雪 舟 も若冲 も、 路谷 虹兒程 多くの 人 を うっとりと させない。 甚だ あいまいな 一一 一一 II 葉 だ 

が、 藝術 小說と 大衆 小說と を對立 させて 論じれば、 概念 は 手 取 早く 呑 込める であらう。 例 を 明治 



•138 



學文 いなへ!!^ 



文壇に とれば、 前者に 屬 する 紅葉 露 伴鷗外 二葉 亭柳浪 I 葉獨步 は、 後者に 屬 する 弦 齋浪六 淚香蘆 

花 程 多数の 人に 讀 まれなかった。 大衆 は 文章の 巧拙 を 問題に しない。 ー篇の 組立 方 や 表現の 適不 

適 を 問題に しない、 それば かりで 無く、 作家の 側で つとめて 排除す る 事に 成功した 諸 要素に 愛着 

を 持って ゐる。 たと へば、 駄洒落、 感傷主義、 千篇一律 性、 類型、 あり 得べ からざる 出來 事、 偶 

然、 不自然 等。 

卽ち私 は 出版が さかんになり、 讀 者の 數が 殖える 事に よって 文學 でも 飯が 喰へ る 事 を 認め る が 、 

それ はやが て 大衆 小說 にの み 限られる 運命 を 免れない と 思 ふので ある。 一 作が 當れば 一 代 は喧へ 

ると 云 はれる 亞米利 加で も、 それ は藝術 小說の 事ではなくて 大衆 小說の 話ら しい、 專門 批評家の 

批判の 對象 とならな いやうな 作品に 於て 見受ける 事ら しい。 こ の 傾向 は 民主的の 國に 於て 著しい。 

敎 育が 進み、 誰し も 本 を讀む やうになる 事 は、 とりもな ほさす 一般 觀 照の 水準の ffi 下 を招來 する。 

殊に 現 時の 我國の 如く 新聞 雜 誌が 悉く 商業主義に 支配され てゐる 時、 編輯の めやす は 大衆に ある 

から、 苦心して 仕上げた 藝 術小說 よりも 幾度と なく 繰返し 蒸 返された 講談の 燒 直しの 方が 歡迎さ 

れる。 

一 本の 筆で 飯が 喧 へ るか 喰 へ ないか は、 今後 世に出よう とする 若い 作家に とって の 大きな 惱み 



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である。 私が 日頃つ きあつて ゐる それらの 人の 殆んど すべてが、 果して 將來 自活して 行かれる か 

どうか を あやぶみ、 相談 をう ける 度に、 私 は 大衆 小說 ならば 喰へ るが 藝術 小說 では 喰へ ない と 答 

へる" 前に も 云った 通り、 私が はじめて 小說を 書いた 頃は喧 へない のが あたり まへ だった。 それ 

がー 時 大に酬 いられ、 昨今 再び 苦境に 直面して 來 たの だ。 それ を 私が 見 透して 月給 取と なった の 

ではない。 私の場合 は 主として 自分の 鈍根 を 知る 故の 用心に 過ぎなかった。 藝術 至上 主義の 熟 情 

re ん なりし 時代に、 私 は 新聞 雜 誌の 月評 家ゃゴ シップ • メ H カァ 達から 二重生活 者の 汚名 をき せ 

られ、 いはれ なき 排斥 を 受けた。 それに 對 して 私 は藝術 家め 生活が 二重で あるかな いか は、 衣食 

の 突 を 得る 道が 二つ か 一 つかに よって 分 たれる のではなくて、 その 制作の 態度が 生一本な らば 二 

重で はなく、 心に もない 制作 をして 金 をと る 事 こそ 寧ろ 二重生活 なので はない かと、 機會の ある 

毎に 反駁した。 

元より 多數 と少數 —— 或はた つた 一 人 11 の爭 ひで、 とても 私,. の 言 ひ 分 は 取上げられなかった 

が、 よくよく 考 へて みると、 明治 大正へ かけての 作家で、 最初から しま ひ 迄 筆 一本で 喧 つた 人 は 

衣食住に 些か も 心配の 無い 白樺 派の 人の 外に は 殆んど 無い。 鵡外 漁士が 陸軍々 醫 であった 事 は 誰 

も 知って ゐ るが、 紅葉 山人 さへ 讀賣 新聞社の 社員だった。 二葉 亭は 海軍省の 飜譯官 をつ とめ、 田 



140 



學文 いなへ 暗 



山 花 袋國木 田獨步 正宗 白鳥の 諸氏 も 新 閜社雜 誌 社から 月給 を 貰って ゐ たし、 島 崎 藤 村 氏 は 小諸義 

塾に 敎鞭 をと り、 泉 鏡 花 氏 も 一時 春陽 堂の 編輯 局に 通勤され た。 菊 池 寬氏は 時事 新報 社員だった 

し、 芥川龍之介 氏 は 海軍の 學 校の 敎 員だった。 久保田 万 太郞氏 は、 さきに は 慶應義塾の 講師、 今 

は: K 途局 に と き め く 課長 さんで ある。 

さう いふ 先人の 事 はどうで もい、。 今後 文學は 明白に 喰 へ る 文 學と喰 へない 文學に 分れる であ 

らう。 而 して 時勢 は旣に 移って、 他の 職業に よって 衣食の 道 を 求め、 同時に 喧 へない 文學に 精進 

する 事が 一 一重 生活の そしり を 受けす、 寧ろ 當 前の 事と 見られる 時代が 來てゐ るので は 無いだら う 

i 

力 

乍 然又ー 面に 於て、 他に 一 定の 職業 を 持つ と 持たない とに 拘ら す、 破壁殘 軒の 下に 生 をう け 

て パン を 嚼み水 を 飮む身 も 天なら す やと、 その 愛弟子が 貧苦 を訴 へる の を叱咜 して、 只管 藝道を 

勵 めと 說 いた 紅葉 山人の 意氣 は、 われひと ともに 忘れて はならない 事 だと 思 ふ。 (昭和 六 年 八月 五 

日) 

., . —— ニニ 田 文學」 昭和 六 年 九月 號 



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父と なる 記 



どうも あたし 變 なんです よ 11 と はじめて 家. s がいひ 出した の は、 去年の 暮の 事であった。 平 

生から 血の 色の 少しも あら はれて ゐ ない 顏は、 不安と 胸の 惡 さに、 冷い 風に 曝ら された やうに 白 

け、 額が 廣く 見える のであった。 毎年の 例で、 大晦日に たって 京都へ 行く つもりで ゐ たの を、 見 

合せた 方が よから うと 云った が、 まだ さう とき まった わけで は 無し、 別段 寢 込む 程の 事で は 無い 

と 云って 同行した。 . . 

京都 は 家內の 父が 勤の 爲に 長く ゐた ところで、 象- s: も 其處で 生れた 爲、 都と いふ 名 をつ けられ 

た。 數年來 私共 は、 正月 を 休息の 時に して、 加 茂 川べ りの 宿の 世話になる 事に きめて ゐた。 私 は 

よく 出步 くので あるが、 寒む がりの 家內 は、 いつも 炬爐 にあたって ゐる ばかりで、 W の爲に 京都 

迄 出向,、 のか わからない とも 思 はれる が、 家事の 面倒から 解放され て、 都雅な 京風の すべての 物 



142 



記 る な と 父 



に取圍 まれて 居る の は、 幼時の 追 懷をも 加へ て、 樂 しい 事に 違 ひ 無かった。 それが 今年 は 宿へ 着 

くと 床 を 敷かせて 寢 てし まひ、 旅 へ 出た の を 後悔す る やうな 氣色を 見せて 惱 んでゐ た。 

私共で は、 九 年 前に 死産の あげく、 象內も あや ふく 命 を 落し かけた 事が あって、 それ 以來 こど 

もは惠 まれない ものに きめて ゐた。 私 はこ どもの 規は しさ、 將來の 多難 を 考へ、 いっそない 方が 

しあ はせ であると 思って ゐ たが、 家内に は あきらめ 切れないと ころがあった。 犬 を 飼ったり、 鳩 

を 飼ったり > 小鳥 を 飼ったり、 金魚 を 飼ったり しながら、 それよりも 何よりも、 親類の 夥しい こ 

ども 達に、 洋服 外套 帽子 靴下の 類 を 縫って やったり、 編んで やったり する のが > 無上の 慰み だつ 

たやう である。 

こども なんか 無い 方が 氣樂 でい、、 金で も澤 山あるなら いざ しらす、 現在 及將來 のどう せ 苦し 

い 世の中に うみ 落し、 受驗 地獄で 難 漉させ、 就職難で 心配させる の はこ どもの 爲 にも 可哀さ うだ 

—:; と 私 は 常々 云って ゐ たが、 象^ は 口に は 出さないでも、 承服し 難い 色 を 示して ゐた。 

それが、 どうも からだが た..、 で 無い と自覺 したので、 家內は 胸苦し さに 靑ざ めながら、 一脈の 

希望と 多分の 不安に 緊- 張し、 私 は 今度 こそ は 家 內の命 を 奪 はれる ので は 無い かとお も ふので あつ 

た。 ふだんから 乘 物に 弱く、 汽車の 旅に は 大概 參 つてし まふの が 家內の あたり まへ だった が、 京 



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都の 宿で 元日 一からの びて しまった 姿に は、 いつもの 旅疲れよりも もっと 暗い 陰影が まつ はって ゐ 

た。 . , 

東京に 歸 つても 氣分は 少しもよ くなら ない ので、 九 年 前の 死産の 時、 ひと 方なら ない 御世 話に 

なった 杉 田 隼 人 博士に みて 貰った ところ、 正しく それに 違 ひ 無い と斷定 された。 博士 は 杉 田玄白 

先生の 幾 代 目 かに あたる 方で、 その 頃 は慶應 病院の 產 科に 勤務して 居た ので あるが、 その後 獨逸 

に 留學中 博士と なり、 今 は 赤 坂 見附で 獨カ 病院 を經營 して 居られる。 私共 は 博士 を 深く 信頼し、 

平素 も 御 心 やすく 願 ひ、 御 自慢の 淨 瑠璃 を拜聽 する やうな 御 つきあ ひも あるので ある。 それで、 

一切 を 博士に 任せる 事 はいふ 迄 も 無い の だが、 私と して は、 萬 一 母體に 危險が ある やうなら 事前 

にこ ども を 犠牲に する のが 道で あらう と考 へ、 直接 博士に 相談した ところ、 そんな 心配 は 先づ無 

いものと 思へ とい ふ 言葉だった。 それでも 私に は、 此の 前の 時の 凄慘な 病室の ありさまが、 強烈 

な 印象 を殘 して ゐて、 惡ぃ 場合の 事ば かり 想像され るので あった。 

又失欧 する かもしれ ないから、 あまり 人に は 話さない 方が い、 と 家- s: も 云 ひ、 私 も 勿論 同感な 

ので あつたが、 母體は 次第に ふくらんで 來 るので、 忽ち 諸方から 祝辭を 浴せられ、 それが 世間の 

御 *1 辭と 見えて、 きっと 男の子に 違 ひ 無い と 誰もき まって 云 ふので. あった。 ところが 私共で は 女 



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記るな と 父 



の 子 を 望んで ゐた。 家內は 女の子な らば 奇麗な 着物 をき せ、 髮を結 ひ、 人形 を あてが ひ、 遊藝を 

しこむ と 云 ふやうな、 ありきたり の 母親の 希望で 胸 を いっぱいに ふくらませて ゐた. に 違 ひ 無く、 

私 は 此の世の 中で は 女の 方が 男よりも 望ましい 地位 を 占めて ゐ てし あはせ な もの だと 確信して ゐ 

る 上に、 女の子な らば 親 を 邪魔 もの 扱 ひに する 度 も 低から うが、 男の子で はどうせ おや ぢに 叛逆 

する のが 當前 だから、 末始終 厄介 だとい ふ 利己的な 考も 持って ゐ たの だ。 うまれる ものなら 女の 

子の 方が い、 と 人に もき かせ、 うちで も 共々 いひ 合って ゐた。 家^ は 早く も 出産の 準備 を はじめ、 

うぶぎ 

うまれる の は 女の子と きめて、 產 着の 柄な どもえ らんで ゐ たやう だ。 

私共で こどもが 出來 たと 聞き 傳 へた 人が、 異口同音に、 今年 はお 産の 多い 年で ナょ 11 と 云 ふ 

のであった。 さう いはれ てみ ると、 私の 弟の ところでは 四月 頃う まれる 豫定 だとい ふし、 家內は 

男 一 人 女 一 一人の 三人き やう だいだが、 兄の 家で も 妹の 方 も 目下お 腹が 大きい と 云 ふ。 私の 勤務先 

の 同僚 中に も、 十指に あまる お 目出度が 數 へられた。 しかし、 私共の やうに 久しく 無くて、 うま 

れ ると 云 ふの は 一 寸 類が 無い やうだった。 奇蹟です よ 11 と 云 ふ 人 もあった。 尤も 私の 同僚で 結 

婚後八 年 目 だかに うまれ、 引つ いて 三人の 親と なった 人 もあった。 他の 同僚で、 十三 年 目 だか 

に 親と なった 人 もあった。 どうした わけ か、 この 二人の 同僚 は 共に 世 を 去って しまった。 殊に 後 



145 



者 は、 肺 患で 靜養 中に 妻なる 人が 受胎し、 出 產の翌 々年長 逝した のであった。 私 も 親と なって、 

間もなく 死ぬ のかな と、 不吉な 事 もお も ひ 浮べた。 . 

よくない 事 を 云へば、 四月に 出產の 害だった 弟の 妻が、 二月の 何日 頃 か 流行性感冒に 罹り、 中 

耳 炎を發 して 入院した が、 どうした わけ か 入院 後に 丹毒 を發 し、 こども は 八 ヶ月で-つまれ たが、 

母體は 長く 苦んで 三月の 末に 永眠した。 早く 母に 別れ、 父に 別れた 不幸な 身の上で、 カトリック 

敎を かたく 信じて ゐた 美しい 人だった。 • - 

弟の 妻の 死 は 私の 心 を 暗く した。 その 夫婦の はかない 別れ も、 あとに 殘 された 二人の こどもの 

事 も、 そのこ ども 達 を 引取って 世話 をし なければ ならない 今年 七十 歳の 私共の 母の 事 も、 勿論 深 

く间 情した が、 同じ 不幸が 萬 一 私共に も 起り はしない だら うかと 云 ふお それが 強くな つた。 家内 

も 此の?^ 報に 接した 時 は、 唇の 色 を 失 ひ、 繰返して 歎いて ゐた。 つい 先年 も、 私の 姉の 娘が、 二 

度 目の 產の 後で 死んだ。 その 事と あはせ て、 二度目の 產 のこ はい 事 を 或る時 家內も 口に 出した。 

元來 丈夫な 質で ない 上に、 最初の 産で ひどいめにあった 家內 に怖氣 をつ けない 爲、 私 はっとめ 

て. s: 心の 心配 を 口にしなかった。 家內も 自分の 不安 を かくし、 安產を 信じて ゐる やうな 態度 を裝 

つて ゐた。 それが、 弟の 妻の 死んだ 時 は、 言葉に も 表情に も 不安と 恐怖が かくしきれ なかった。 



146. 



記るな と 父 



四月に 入って、 象- s: の 父が 急死した。 死ぬ 少し 前に 多 摩の 墓地 を 買 ひ、 古稀の 祝 をし、 やがて 

私共の 家に 孫のう まれる 事を樂 みに して、 もうお も ひ 殘す事 は 無い と 言って ゐ たのが、 その 孫の 

うまれる の を 待た すに 死んで しまった。 直ね 重ねの 一門の 不幸が、 た^で ない 家 內の體 に 障り は 

しない かと 人々 は 心^して くれたが、 私 は 自分 も 家內の 父と 同じ 時に 墓地 を 買った 事の 方 を氣に 

して、 少なから すかつ いだ。 それ は 弟の 妻が 死んだ 時、 かねて 私共の 父の 墓所が 廣く とって ある 

ので、 その 唐櫃の 中に いっしょに 納骨す るつ もりで ゐた ところ、 分家した もの、 骨 は 新規の 墓地 

に祖 葬し なければ ならぬ と 云 ふ 窮屈な 規則が あって 許可され ない。 止む を?. J す、 弟 は 墓地 を 買 ふ • 

事に なった が、 さう 云 ふ 規則なら ば いづれ は みんな 別々 になる の だから、 いっそ 今のう ちに 兄弟 

揃って 接續 したと ころ を 買 はう とい ふ 事に なり、 私共 兄弟 七 軒が 長屋の やうに 績 いた 墓地 を 求め 

たので ある。 その 時 家 內の父 も 希望して 仲間に 加った。 私 は、 その 新しい 墓地が 間も無く 役に立 

つので は 無い かと、 すっかり かついで しまったの である。 

その上 一層 私の 心 を平靜 にして 置か なくなつ たの は、 家內の 様子だった。 私 は 晝間は 勤が ある 

ので、 讀書ゃ 執筆の 爲 につい 夜分 遲 くなる。 十二時 一時 は 珍しくな いので、 うちの 者 はいつ も 先 

に 寢て貰 ふ 事に して ゐる。 殊に 大事 を とらなければ ならない 家內に は、 うるさく 就 寢を勸 める の 



147 



であった が、 寢 所へ 行った 害の が、 氣が 付く と 何時 迄、 も 起きて 何 かして ゐ るので あった。 夜 更か 

し は體に 障る からい けない と 云っても、 毎 晚遲く 迄 床に 入らない。 何 をして ゐる のかと 思 ふと、 

片づ けもの をして ゐ るの だ。 自分の 衣類 はいふ 迄 も 無く、 私の 簞笥 から 本箱 迄す つかり 整理して 

ゐ るの だ。 私 は、 はっとして 口が き けなかった。 家 內は覺 悟 をして ゐる —— 私 は その 覺悟を 無理 

が 無い と 思った が、 さう と は 云へ すに、 たゾ 早く 寢ろ寢 ろと 無駄に 繰 返す ばかりだった。 

恰度 その 頃、 月々 催す 飮み會 で、 旣に 充分 醉 つた 久保田 万太郞 氏が、 都さん どうして ゐ ます • 

大丈夫で すか Hi と 突然き いた。 久保 田さん は家內 がみ ごもった 事 を 誰よりも 喜んでくれ、 それ 

丈 なりゆき を 心配 もして くれたの である。 しかし、 酒席の 事で はあり、 又 私が おや ぢ になる と 云 

ふ 事に 對し 多少 揶揄す る やうな 調子 も 含んで ゐた。 私 はう つかり、 死ぬ 覺悟 をして 每晚片 づけ 物 

をして ゐ るよ —— と 答へ てし まった。 全くう つかり 口に 出して しまったの だ。 しまったと 思 ふ 間 

も 無く、 久 保 田さん は 義憤に 堪 へない やうな 態度で 詰問した。 そんな 事が、 そんな 馬鹿な 事が あ 

つてい、 んで すか、 よし、 あたしが 玄白 にあって 來 ます 11 うつち やって は 置け ない とい ふ意氣 

を 示した が、 なほ その上に 輿論に 訴 へようと して、 ねえ 先生、 そんな 事って あります か. 1— と 一 

燈語氣 を 強めた が、 幸 ひに して 泉 鏡 花 先生 は、 夙に 軟體 動物に 化けて ゐて、 世の 憂き 事に は 耳. を 



148 



id る な と 父 



藉 さなかった。 

久保 田さん は殘 酷な 事が 犬 嫌な ので、 家內が 決死の 覺悟 をして ゐ ると 云 ふ 事 も 好きな 事で なく- 

又 私が いかにも それ を 平然と 口にした のが 許して 置け ない 氣持を 誘った ので あらう、 しきり にヌ孤 

を ふくみながら、 恰も それが 杉 田 博士の 責任で も ある やうに 憤慨す るので あった。 玆に玄 白と 

は、 勿論 當 代の 隼 人 博士の 事な ので あるが、 久保 田さん の 記憶に は 有名なる 祖先の 名 だけが 殘っ 

てゐ たので ある。 

こどもの うまれる の は 八月の 十日 頃と いふ 豫定 だった が、 夏に なっても 家內 のおな か は、 世間 

の 妊婦の やうに 大きく はならなかった。 醫者は 順調 だとい ふけれ ど、 發育 不良の こどもで もう ま 

れ るので は 無いだら うかと 心配して ゐた。 

七月 二十 九 曰の 事であった。 夜の 十二時 頃、 家內が 様子が 變 だと 自分で いひ 出した。 お腹の 痛 

み 方が た 事で 無い、 或は 陣痛で は 無いだら うかと 云 ふので ある。 そんな 事が ある もの か、 昨日 

ぉ醫 者が 来て、 矢 張 来月 十日 頃 だと 云った さう ではない かと、 私 は 相手の 不安 を 一掃す るつ もり 

で- わざと 取合はなかった。 でも、 今にも 出て 來 さうな 氣持 がする から、 鬼に 角醫 者に 來て赏 つ 

て くれと 云 ふので、 私 は 寢てゐ る 女中 達 を 起さない やうに、 そっと 電話口 へ 立った。 病院の 事 だ 



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か、 り 深更で も 直に 通じた。 おやすみの ところ を 申 兼る が、 是非 來て 頂き 度い とい ふと、 こ、 ろよ 

く 引う けて くれた。 私 は玄關 のかけ がね をはづ し、 門の 一 妹 を あけて 夜更の 町に 佇んだ。 愈々 時が 

來 たなと 思って、 丹田に 力を入れ、 どんな 事が あっても おちついて ゐ なければ ならない と、 自分 

自身に いひき かせた。 角の 交番の 人が 不審 さう に 此方 を 見て ゐた。 . ... : 

引返して みると、 たった 數分閒 だった のに、 家 內の樣 子 は 事態の 頗る 切迫した 事 を 示 レてゐ る。 

眞靑 になって、 額に あぶら 汗 を 流し、 襲 ひか、 る 苦痛に 身の 置 所が 無い やうな 有様 だ。 女中 達 も 

物音に 驚いて 起きて 來てゐ た。 うまれさ うだ、 うまれさう だとい ふので 叉 電話 を かける と、 先生 

はもう 御 出かけに なりました とい ふ 返事だった。 僅かな 時間が、 おそろしく 長かった。 博士 は 病 

院の 助産婦 川 守 田さん といつ しょに かけつけた。 今にも うまれさうな 事 を 云って ゐ ますが、 出來 

る 事なら 病院へ 連れて行って 下さい、 本人 も 自宅で は 萬 事が 不行 届で いや だと 云って ゐま. i — , 

と, 私 は 素早く 博士に 頼んだ。 もともと 產は 病院です る 約束だった ので、 博士もう なづ いたが、 

扭て家 內の樣 子 を 見る と、 流石に 博士 も あわてた やうだった。 これ はもう うまれる かもしれ ない 

111- とい ひながら、 どっちに した もの か 迷って ゐ たが、 お湯 を わかして、 お? i を わかして 11 と 

繰返して、 うちのと しょりに 云った。 だが、 耳の 遠い としょり は 家 內の足 を さすりながら、 奧樣, 



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記 る な と 父 



大丈夫で 御座いま すよ、 大丈夫で 御座いま すよ- —とい ふば かりで, 博士の 言葉 は 聞えない ので 

ある。 よろしい、 病院へ 持って行かう —-と 博士 は 遂に 意 を 決して、 川 守 田さん といつ しょに 産 

婦を抱 上げた。 何しろもう 破水して ゐ るので 11 博士の 顏 面に は 歷 然と 疑惑の 色が 漂って ゐた。 

私 は 二人の 手から 家內を うけとって、 門前の 自動車 迄 運んだ。 果して 病院 迄 無事に 行く かな、 途 

中で 車の 中で ヾ もやったら 大事 だぞと 思って、 手の つけ やう もない 事柄に 茫然と して ゐ ると、 自 

動 車 は 急速 度で 走り出した。 それが 十二時 半だった。 

しひ 

私 は 女中 達に 心配 させ 度ない ので、 強て 床の 中に 入って 寢た ふり をして ゐ たが、 人の 命が うま 

れ るか、 奪 はれる かとい ふ 時に、 到底 眠られる もので は 無かった。 自分 も いっしょに 病院へ 行つ 

て やらなかった のが、 死の 危險 をも豫 想して ゐる 家内に 對 して 申譯 なく 思 はれた。 頭.^ 目 も 冴え 

て 困って ゐ ると、 電話の 鈴が 鳴った。 私 は それ を 吉報と は 感じなかった。 

■ かけつけ ると、 向 ふに は 博士が 自分で 出て ゐた。 一時 三分に 男の 御子さん がおう まれに なり ま 

した、 母子共に 御 異常 は 御座いません i- ふだんと は 全く 變 つた、 嚴肅な 切 口上で 報吿 された。 

私 も そちらへ 伺った 方が よろしい でせ うか 11 誰も 附 添がない の は、 何 かの 場合 病院に 對 し無責 

任の やうに 考 へられた ので、 かう 云って 見た が、 それに は 及びません、 明朝 御出でになれば 結構 



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です と 博士に はっきり 斷られ た。 

女中 達 も 心^して 叉 起きて 來てゐ た。 男の子が うまれた さう だよ —— 私 は 耳の 遠い としよりに 

聞え る やうに、 大きな 聲で 云って、 その 儘 床に ついた。 

朝, 會 社へ 行く 支度 をして 病院へ 行って 見た。 家內は 意外 千 萬に も あまり 疲れた 樣子 もな く、 

附 添の 女の人と 口 をき いて ゐた。 少し 離して 置いて あるち ひさい ベッドに、 引締 つた 眞 赤な 顏を 

した 男の子が 兩手を 1^ の 耳の やうに 頭の 近くまで 延ばして、 安らかに 眠って ゐた" 自分に 以 たと 

ころも ある、 家內に 似た ところ も ある —— それが 我が 子 だと 思 ふより 先に、 人間と いふ もの は 何 

とい ふ 不思議な もの だら うと、 生物のう まれて くる はかり 知られぬ からくり を 讚嘆した ので ある。 

(昭和 六 年 十月 四日〕 

. . 11 「一一 一田 文學」 昭和 六 年 十一月 號 



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記 る な と 父續 



續父 となる 記 



おやおや、 こいつ は 里見瞎 だぞ —— 私 は 赤 坊の額 を 指して いった。 有 島 兄弟の 特-设 である 面 擦 

の やうに 拔 上った 額 を、 生憎 聯想した ので ある。 

今に 濃くな ります よ li と 產褥の 家內は 赤坊を かば ふので ある。 なんて 赤い 顏 なん. だら う —— 

とい ふと、 生れた 時 赤ければ 赤い 程 色 は 白 いんです とさ、 ねえ 間 淵さん—; と附 添の 人に 應援を 

求める。 普通の 赤坊 より 餘 程ち ひさいの ぢゃ あない かな —— とい ふと、 それ は爲 方が ありません 

よ、 十日 も 早く 生れたん です もの、 その か はりお 產が輕 くて 濟ん だんです よ —— と 家內は 何處迄 

も 辯 護す る。 

さう です よ、 あなた はお 利口さん です ねえ、 お母さん を 苦しめない やうに 早く 出て 來 てあげた 

んで すねえ —— 廻 診に 來た 博士 も 赤 坊の顏 を のぞき 込んで いふので あった。 



家^の 母 やき やう だい は 早速 かけつけて、 一同 無事 を 喜び あつたが、 私の 母 は あまり 澤 山の 身 

の 者が 押 かけて は產 婦の爲 によくない、 自分が 率先して 辛抱の 範を垂 るから、 なるべくお 斷し 

て 絕對安 靜を心 が. t なければ いけない と 云って 来た。 

七月 三十日 の 佳日 に 男子 御安產 まことに めで 度 御 悅び申 上 候 早く 見た く 候 へ ども 今し ばらく 

靜 かに 過され 候 やうに とさし ひかえ 居候 五日 は 七夜に 候 ま 、附 添の 人々 に 赤飯 にても 持參致 

可 申と 存 候が い か ゾな ものに 候 や 御 遠慮なく 御 申 越 被 下 度 候 私の 手に て 出來候 事なら ば 何な 

りと 御 申 聞 被 下 度 候 當分ゅ つくりお やすみ 可 被 成 候 いづれ 遠から す 御め もじ 可 申上樂 しみ 居 

候 先 は あらあら かしこ 

またれ つると とせの 月日な がくして 世に あら はれぬ 千代の 若 竹 

母 は 一 週間 辛抱して 七夜の 日に はじめて 來て大 服 喜んで 行った。 

きの ふはつ 、 がな き 御 樣子を 見 嬉しく 存候 あっさの 析 から 猶々 たべ 物 朝夕の 冷 風 御用 心た さ 

れ たく 候 思 ひしよりも 男らしく よき 子に て 又 一 入 嬉しく 生た ちを樂 しみ 申され 候 

. めづ らしく 生し 若 竹 二葉より 

世に すぐれた るふし も 見えけ り 



154 



記るな と 父續 



御 申 越の ごまみ そ少 々 さし 上 候い つ にても こしら へ ますから とそ は 女よりも よろしく 申 上 候 

梅に 鵞 松に 鶴、 女の子が 生れ \ ぱ姬小 松で、 男の子が 生れ、 ば 千代の 若 竹と きまって ゐる 母の 

歌が、 この場合 たくみな 歌よりも かへ つて 眞 情が 流露して ゐる やうに 思 はれた。 ごま 味噌 は 家 

がね だった ので、 そ はと 云 ふの は 本家の 臺 所に 長く 働く 女で ある。 

こどもが 生れたら 何とい ふ 名 をつ ける か、 どこの 親 も 考へ迷 ふ 事で あらう。 こどもの 名 を考へ 

て 置いて 下さい 11 と 家內は 度々 私 を 促した。 お前の 好きな 名前 をつ けたら い 、だら う 11 と 私 

も 責任 を 通 避したかった。 同じ 言葉 を 互に 繰返し、 決し かねて ゐ ると、 兄弟 姉妹 友達から も、 名 

前 は 何とす る の だとし きりに 質 間され た。 

私共 は 男 八 人 女 四 人と いふ 非 近代的の き やう だいで、 しかも 血統 は爭 はれす、 總 じて 多産の 傾 

向が あり、 今年 七十 歳の 母の 孫 は 四十 餘人 (正確な 數字を 記憶し ない) に 及ぶ ので、 十 年 こどもの 

無い 私 は 珍しい 存在だった。 それが 愈々 おや ぢ になる と 云 ふので、 期せす して みんなの 興味の 中 

心と なり、 冷 かしの たねと なった。 それと いふの が、 今迄さん ざん 不 遠慮に、 どこの 子 は 鼻が 低 

いと か、 目つ きが 此 一一 かべ ン • タ アビ ンだ とか 勝手な 批評 をして 親 ども を 忌々 しがら せて ゐた むく 

いで、 あんな 大きな 口 をき いて ゐ たのが、 どんな はんばな 子供 を 持つ か、 どんなに 頓馬な 名前 を 



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. つける か、 手ぐ すね ひいて 待って ゐる 形だった。 

男が 生れたら 泰藏、 女が 生れたら 優 だ 11 と 私 は 叉 みんな を はら はらさせて やった。 それ は 私 

共の 父と 母の 名前で、 祖父母の 名 を 孫が 貰 ふの は 世間に よく ある 例で あるが、 凸 H のが 生れる か 

平べ つたいの が 生れる かわからない のに、 未だ 生々 しい 父母の 名を繼 がせる と 云 ふの は、 理窟ぬ 

きで 眉 を ひそませる 事だった。 义 やって や あがる と 云 ひ 度 さうな 顏が、 あっち こっちに ちらつい 

た。 それと 察して、 それだけ はよ して 下さい、 皆さんに 惡 いから —— と 家 內も赞 成しない ので あ 

つた。 , • 

そんなら、 夏 生れる の だから 男なら 夏 雄 女なら 夏と しょう —— と 私 も 素直に 撤囘 した。 た そ 

れ 丈の 事で、 別に 深い 意味 は 無い の だが、 近代 彫金の 名匠 加納夏 雄と、 薄命の 閨秀作家 樋 口 夏 子 

に 加へ て、 寂銳花 先生の 傑作 「三枚つ ゾき」 の 立 女形お 夏さん を 聯想して い、 氣 になって ゐた。 た 

す- W . 

些か 名前が すっきりし 過て、 日 淸戰爭 時代の い、 男い、 女 を 想像させる おそれ はあった。 しか 

し、 あ、 でも 無い かう でも 無い と考 へる の も 煩 はしく、 腹の 中で はこれ ときめた。 

ところが、 家內の 兄の 家で、 こちらよりも 二十日ば かり 早く 男の子が 生れ、 夏 男と つけて しま 

つた。 やった なと 思った が爲 方が 無い から、 こっち は 父と 母の 名 を 一字 づ、 とって 優藏と 命名し 



156 



記るな と 父續 



家內の 亡父 も景藏 だから、 それに も緣が あるの だと こじつけた。 そんなに 早くき, めなくて もい、 

と 云 はれた けれど、 自 出度い 事 は. 早い 方が い、、 私 は 出産の 翌日 區 役所へ 行って 届を濟 ませた。 

お七夜の 曰に は 一 命名 優藏 一 と 杉 田 博士が 筆 を ふるって 書いて、 赤 坊の寢 てゐる 頭の 上の 壁 

に 貼って くれた。 

あまり 方々 に 御知らせし なかった の だが、 聞傳 へて 御 祝に 來て 下さる 方が 多く、 病室に は 犬 張 

子 や でん でん 太鼓の 古風な のから、 セル イドの 新 與藝術 派 風の 玩具が、 づら りと 並んだ。 大學 

校 附屬の 病院な ど、 は 違って、 家庭的な ちん まりした 病院 だから、 院長さん や 奥さんから もさう 

云 ふ 品々 を 頂戴した。 犬張子の 中で 馬鹿で かいの を かつぎ 込んだ の は 銀座の はち 卷岡 田で、 拙宅 

の 巨 犬 ドウ ガルに なぞらへ た 別 跳の 逸品 だ。 

拙宅に, こどもが 生れた とい ふの は、 友人 知己の 間で 甚 しく 珍しがられた。 もう 生涯 こども は授 

かるまい と 私共 さへ 思って ゐた位 だから、 世間 は尙更 だ。 それが 先入主に なって ゐ るので、 始終 

遊びに 來る 人の 中ヒ さへ、 家 rS: のお 腹に 氣 がっかす、 へえ 赤ちゃんが 生れたん です か 11 と 驚い 

たの もあった。 孫で はない か, と 冷 かして 來 たの もあった。 勤務先の 人達 も 半信半疑だった らしく、 

お宅に こどもが 生れた とみんな が 云って ゐ ますが、 犬の こどもで すか —— と眞 面目に 訊いた 若い 



157 



人 もあった。 ド才 ガルの 親 もと、 伊勢の 川 喜 田さん から は、 自分が 犬 を 送った からこ どもが 授か 

つたの だと、 喜んで 下さった。 

犬と いへば、 家^が 安産の 後 間も無く、 或朝寢 床の 中で、 うちのお かつ ちゃんが あわた 1- しく 

廊下 を かけて 来る 足音 を 聞いた。 病院の 方に 何か變 事が あつたな と、 私 は 想像した。 

日ー那 さま、 大變 です。 シ ョ ォが死んで!!^:ます!:と呼吸を切ってぃふのだった。 變 事は變 事で 

も 病院で はなく、 我家の 犬だった かと、 ふし あはせ な 犬に は 氣の毒 だが、 先づ 安心して 起きた。 

ショ ォはシ H パ アド 種の 雄で、 去年の 秋の 展覽會 で 優等賞 を 貫った 家內の 愛犬 だ。 彼 は 朝日の さ 

し 込む 庭の 上に 橫 つて 動かす、 雌の ジンが 悲しげに 傍に ゐた。 前日 有名な 犬醫 者の 中 村 先生が 健 

康診 斷に來 て、 どこも 惡 くない、 元氣 だ、 完全 だと ほめて 行かれた のに、 突然の 此の 死 態 は: だ 

疑 はしかった。 念の 爲 麻布の 獸醫學 校で 解剖して 貰った ところ、 猫 入らす をの まされた 事が わか 

つた。 泥棒の しわざ か、 誰かの い たづら か、 先年 も 英吉利 セ ッタァ 種の 母 犬 を やられた 事が あり、 

重ね重ねの 不祥事であった。 

だが、 先年 家內が 死産で 命 を 落し かけた 時、 娘 時分から 飼 ひ、 里から つれて 来た 銀 鳩が 死に、 

それが 身が はりに なった の だとい ひ 合った が、 今度 も 亦 家內の 可愛がって ゐた 生ものが 死んだ の 



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記 る な と 父績 



は、 何 かの 因緣が あるので は 無い か、 意外に 產が輕 く、 意外に こどもが 丈夫な ので、 尙 更 そんな 

風に 想 はれる のであった。 

もう ひとつつ け 加へ ると、 象內の 妹で 私の 弟の 妻に なって ゐる のが、 これ は 三度 目のお 產 だが、 

八. 箇月で 死產 をして しまった。 それが 優 蔵の 七夜に 當る 日であった。 先年 家. s: が死產 をした の も 

八 箇月 目だった。 彼是 想 ひ 合せて 何 かの つながり を 感じる ので ある。 

病室の 窓から は 山 王臺が 見え、 夜 は 涼しい 風が 通 ふので あつたが、 日中 は 暑く、 優藏は 私に 似 

て 汗つ かきと 見え、 手の 中に いっぱい 汗 を 握り、 それ を 頭の 兩 側に 高く 突出して 寢てゐ た。 赤坊 

びっくり 

の 手 はし まって 置かなければ いけない、 物音に 吃驚し ないやう に ま 曰 はから だに 縛り つけた 位 だと 

聞かされ たが、 優 藏は手 をし ま はれる と 機嫌が 惡 くむ づ かるので ある。 

や たれなが 

御 近所の 泉 先生の 御宅で は 御子さん が 無く、 又 奇麗 好の 先生 は垂 流しの 赤坊 なんか 嫌 ひだらう 

と 思って ゐた ところ、 或晚 よそで 飲んで 歸 って來 て、 格子 先で 奥さんに 醉體を 引渡し、 さよなら 

を 云って 步き 出す と、 おいおい 優藏 のお ゃぢ —— と 後から 先生が 呼 止めた。 おい- 赤 坊を昆 に 行 

つてい、 かい —— と 追 ひすが る。 え、 どうぞ, —— と 答へ ると、 よお し 行って やる ぞ、 ほんと に 行 

つて やる ぞ、 僕 は 赤坊の 爪が 好きなん だ ! ふらつ く 足 を ふみしめて、 往來 のまん 中で、 小指 を 



159 



ぴ よんと 立て、 見せた。 

次の 曰、 勤の 歸 りに 病院へ 廻る と、 今朝 泉 先生が 來て 下さい ましたよ 11 と 家內は ひどく 喜ん 

でゐ た。 私 も 意外だった。 昨夜 は醉 つた まぎれに あ、 は 云った もの、、 飲んだ 晩の 事 は 大概 忘れ 

てし まふの が 先生のお きまり だし、 酒席の 翌日 は參 つて ゐる のが ふだんだ と 思って ゐ たの だ。 先 

生 はね、 赤坊の 爪が 好きだから 見て い、 かって、 手 を 開かせて 見て ゐ らっしゃい ましたよ- - わ 

ざ わざ 來て 下さった 事 を、 家 內は大 變光榮 に 思って ゐた。 

その 晚 先生の 御宅へ 遊びに 行き、 どうです い、 子で せう 11 と 先手を打 つと、 うんい、 子 だ、 

こんなに なって 寢て ゐたぜ 11 と 先生 は 握 拳 を こしら へ、 ひとつ を 頭の 上 高く、 ひとつ を 腰の 際 

迄 突 張って、 優藏 のかた ち をして 見せた。 い、 わ、 あたし も 見に 行って やる から -! と 長火鉢の 

向から 奥さんが 云った。 それ以来 泉 先生 は、 私の 顏を 見る と、 おい 優 蔵 君 はこれ かい: -i と 握 拳 

を 天地に 構へ て 見せる ので ある。 

三 週間た つて、 家內は 優藏を 抱いて 凱旋 將 軍の やうに 歸 宅した。 十日ば かり 早く 母の 體內を 出 

てし まった ので、 最初の うちこ そ 小粒だった が、 元來 丈夫な 質と 見え、 榮養 はよ く、 熟睡し、 め 

きめき 肥り、 忽ち 普通の 赤坊 よりも 大きくな つてし まった。 今に 濃くなる とい ふ 額 はい まだに 里 



160 



記るな と 父續 



見 型で、 生れた 時 赤ければ 赤い 程 ほんと は 色 は 白い 害 だと 聞かされ たが 相變ら す赤黑 い。 久保田 

万太郞 さん はこの 子に は 童顏が 無い と 云 ひ、 田 中 峰 子さん はこの 赤ちゃん 少し i はいた 方が 赤ち や 

ん らしくて い、 と 云 ひ、 平 岡 權八郞 さん は 留守に 来て 見て 御宅の 赤ちゃんお つかない 顏 をして ゐ 

ました ぜと 云って ゐた。 或 人 はこん なに はっきりした 眼つ きの 赤坊を 見た 事が 無い と 云 ひ、 义他 

の 人 は 凡そ 赤坊と いふ もの は 男と 女の 中間に あ る やうな もの だが、 この 赤坊 に は 全然 女らし い 要 

素が 無い と 云った。 おや ぢの 面つ きが 怖く、 且年 をと つて ゐ るので、 赤坊に 特有の 柔 味が 乏しい 

の に 違 ひ 無い。 こ の 子に は 一 寸 でも 紅い 色の ある ものなん か 着せられません よ —— と 家內は 度々 

云 ふので ある。 

着物の 事 をい へば、 あ、 今日はよ かった、 おば あさまに ほめられ ましたよ —— と 大した 手柄 を 

したやう に 云 ふ 事が ある。 年寄 は 洋服が 嫌 ひで、 時々 孫の 顏を 見に 來 るのに、 洋服 を 着て ゐ ると 

喜ばない。 たまたま きもの を 着て ゐ ると、 今日は 大變 可愛らし いと ほめて 行く ので ある。 だから、 

その 反對 に、 あ、 今日は 失敗し ちゃった、 恰度 洋服に 着かへ たと ころへ、 おば あさまが いらつ し 

や るんで す もの - —— と家內 の殘 念が る 曰 も 度 々あるの だ。 

年寄 は 洋服が 嫌 ひだと 云った 直ぐ 後で、 ^^先生の名を出しては叱られさぅだが、 先生 御 夫婦 も 



161 



勿論 洋服 は大嫌 だ。 いや あ 今日は 一 段と 男ぶ り を あげた ぞ —— はじめから 先生に 見せる 下心で、 

他所から お. 祝に 貰った きもの を 着せ、 近くの 親類へ 行く 途す がら 先生の 御宅の 格子 を 叩く の だ。 

先生と 奥さんが 出て 來て 抱いて 下さる 時の 效果 を、 家內 はちゃん と 心得て ゐる。 僕 は 指に さはる 

だけ だが、 どうも か、 あはな めたがって いけない。 若しな めたら 叱って やって 下さい 11 と 先生 

は 潔癖 だから、 幾度 も 繰返して 云 ふ。 奥さん は 奥さんで、 拙宅へ こども を 抱きに 來て、 うちの を 

ぢ ちゃん は 意地悪よ、 をば ちゃんが 毎日 遊びに 来たい つてい ふのに、 いけない つてい ふんで ちゆ 

よ -—— と 赤坊を 相手に お 話 をして ゐる。 

矢 張 男の子の 方が よかった ぜ、 町內に 男の子が 生れた つてい ふの は惡 くないよ —— とかね て 女 

の 子 好きの 先生が 云った。 こ つち も 持論に して、 女の子の 方が い 、い 、と 云って ゐ たの だが、 親 

になる と 馬鹿になる、 忽ち 變節改 論して、 泉 先生が 男の子の 方が い k つて 云った が 全く さう だな 

あ —— と 云 ふと、 ほんと にさう ねえ 1 1 と 家 內も悅 喜して 贊 成した。 

赤 坊が兩 親の どっちに 似て ゐ るか は、 誰も 與味を 持ち、 口に 出しても いふ 事 だが、 何分 優藏は 

頑丈 づ くりな ので、 か ぼ そい 家 內には 似て ゐな いと 云 ふ. のが 目下の 定說 である。 ぉ世辭 にもし ろ、 

い、 子 だい 、子 だ ! と 泉 先生 は ほめて くれる ので、 愚に か へ つた 親 は 圖に乘 つて、 い、 子で せ 



162 



ii る な と 父 接 



う、 僕 に似てる でせ う 1 1 と 追 ひすが ると、 お前さん なんか に似てる もんかい —— とすげ なく 突 

放された。 眼が 凑ぃ、 こどもら しくない、 かんしゃく 持ら しいと 人々 がい ふかと 思 ふと、 流石に 

女の子 はやさし いから、 親類の 年頃の 娘 は 可愛い 可愛い と頰 擦りして、 をぢ さん もこん なに 可愛 

かったん でせ うか 11 と 不審に 堪 へない 顔つきで、 私の 母に 質問した。 をぢ さんなん か、 こんな 

に 可愛かった もの かね 11 と 母 は 憤然として 否定した。 

優藏、 お前 は 誰に 似て ゐ るの だ 11 愚かなる おや ぢは、 是が非でも 自分に 似て ゐ るの だとき め 

てし まふつ もりで、 我 子の 顏を 見守る と、. こども はた 1/ すこやかに 伸びて 行く 肉體の 喜びで、 力 

い つ ぱい 手足 を 動かしながら. 無心の 笑顔 を酬る ので ある。 

此の 一文 は、 或 人が あそこの うちに も 赤坊が 生れた さう だが、 きっと 今に こどもの 事 を 書く に 

違 ひ 無い と 云って ゐ ると 「父と なる 記」 が あら はれた ので、 どうだい 俺の 云った 通り だら うと 得意 

になって ゐる とき、、 そんなら もう 一度つ :く けて やらう と、 あまのじゃくな 洒落 氣を 出して 書い 

たので ある。 二度目 は 前のより つまらなく、 若し 更に 重ねたら、 三度 目 は 二度目よりも 义 つまら 

ない 事 だら うが、 親 は 馬鹿 だ、 . 優藏が 自分で 自分の 事 を 記す やうになる 迄の 記錄を 書の こして や 

らうと い ふ 心 持 も 働い てゐ る。 



163 



间じ 心で、 家內 は家內 で肓兒 日記 をつ けて ゐる。 その 拔書。 

昭和 六 年 七月 三十日 午前 一時 七 分 、 . ■ . 、. ■ 

體重、 ニ瓧九 〇〇 (七 百 七十 三 匁) 身長 四九辗 頭 圍三ー 極 

夜 靜に睡 る。 

七月 三十 一 日 午前 三時 はげしく 泣き 砂糖 湯 三 〇 グラム。 午前 七 時 第一 囘の 母乳。 

八月 一 日 無意識に 笑 ふ。 幾分 黄" m の氣味 あり。 . - 

八月 四日 第一 囘指爪 剪斷。 - 

八月 五日 お七夜の 祝。 啼 乳より 哺乳 迄 三時 間 乃至 四時 間。 • 

體重 八 百 十三 匁 . - 二 

八月 八日 哺乳 十五 分 間にて 八 〇 グラム。 第二 囘指爪 剪斷。 

八月 九日 瞬帶脫 落。 此日 初めて 父親に 抱れ た。 夜半 三時より 六 時の 間 蚊に 四 箇所 さ、 れた。 

八月 十二 日 此 一週間 少し 暑氣 あたりの 氣味。 

體重 七 百 五十 九 匁 

八月 十三 日 第三 囘指爪 剪斷。 



164 



記るな と 讃 



八月 十六 日 午後より 元氣 なく 時々 泣く。 暑さの 爲 らしい。 便 面白から す。 

八月 十九 日 午前 十一 時 退院。 

體重 七 百 七十 三 匁 

小 兒科醫 金 野 先生の 來診を 乞 ふ。 

八 一 一十 一 日 第 四!: 指 爪 剪斷。 

八月 二十 九日 お宮 詣の rH。 第五 nrw 指 爪 剪斷。 物音 を 幾分 聞つ ける らしい 

體重 八 百 八十 四. 5- 身長 五 二 極 

九 _ 月 二日 母乳 あまり 充分なら す。 

體重 九 百 二十 七 匁 . 

九月 七日 第六^ 指 爪 剪斷。 

九月 九日 機嫌 ことのほか 良好。 足の 爪 初めて 切る。 

體重 一貫 二 匁 

九月 十三 日 物音 を はっきり 聞つ ける。 W 親の 聲を よく 聞 分る。 

體重 一貫 五十二.^, 



165 



九月 十四日 視力 漸く 幾分 あら はる。 第七囘 目指 爪 剪斷。 

九月 十九 日 金 野 先生 御 来診。 母乳 少なく 且 薄き 爲便惡 きものと 認め ク リイ ム 使用の 事き ま 

る。 第 八 囘指爪 剪斷。 , 

九月 二十日 午後 三時 及 十二時 ク リイ ム百 五十 グラム 宛與 ふ。 結果よ ろしく 便狀 よし。 殆ど 

泣く 事な し。 

九月 二十 一 日 初 外出。 杉 田 先生へ 御禮に 行く。 機嫌よ し。 歸途泉 先生の 御門. 口より 御 挨拶。 

體重 一貫 百 七十 欠 , 

九月 一 一十三 日 ク リイ ム 使用 後 睡眠 も 充分に て 一 日中 殆ど 泣く 事な く 機嫌よ ろし。 

體重 一貫 二百 四 匁 

九月 二十四日 レモン 汁 一 〇 瓦 使用。 早朝 ことのほか 機嫌よ く、 笑 ひ 話す。 

九月 一 一十 七日 足 をつ つばる。 

體重 一貫 二百 六十 六 匁 

九 riT 二 卜 八日 だっこのお ねだりら しき 話しぶ り。 . 

九月 二十 九日 視力 著明。 機嫌よ く 笑 ふ。 話 も 上手になる。 



166 



記るな と 父績 



■ 十月 七日 玩具 をな める。 

體重 一貫 四百 二十 四 匁 

十月 十日 大分 首が 据 つて 来た。 

十月 十四日 午後 泉 先生と 下 二番 町へ つれて 行く。 愈々 視力 はっきりして 物 を 追って 見る。, 

體重 一貫 五 百 十三 匁 

十月 十五 日 侯 野おば あさま を訪 ふ。 

十月, 十九 日 金 野 先生 御來 診。 發育 良好と 犬に ほめら る。 この頃 時々 大きな 聲を 出して 自分 

でび つくりす る。 

十月 二十 三日 咳く しゃみ 多 過る。 

十月 二十四日 午前 十 時 頃發熟 三十 八 度 二分。 金 野 先生 御 来診。 吸入 ニ囘。 頓服藥 服用。 午 

後 三時 頃より 全く 平 熟。 - 

十月 二十 五日 平熱。 發汗 多し。 吸入 ニ囘。 

十月 二十 七日 體重 一貫 六 百 五十六^ 

十月 二十 九日 下 二番 町 行。 



167 



十月; 一一 十日 靑山 行。 機嫌 極上。 

十一月 三日 はじめて 有形 便。 - 

十 一 月 四日 體重 一 貫 七 百 三十 二 匁 . 

- . (昭和 六 年 十一月 五日 稿 了) 

. . : . Ilrll 一田 文學」 昭和 六 年 十二月 號 



163 



題七洒 



酒 七 題 



. (そ の 一) ゲ ^^ ^ 乇 ッ ト 

すきと ほる たかつきに ヴ M ル モット をつ ぐ。 透明な がらに く 古びた 色 を帶び し 力 も 光り 力 

やき、 口に 含めば 甘く すっぱく ほろ 苦い 味が 幼い 時の 記憶 をよ び 起す。 私 は 麻布 E 飯 倉 三 丁目 

犬の 糞 横町に 生れた。 滿四 歳に な. ないで 芝に 越した が、 天文 臺の そばの 古びた 族 本屋 敷で 門 長 

屋 のあった 事、 臺 所に 近い 柿の 木に 赤く 實の なった 事、 庭の 池に あやめの いた 事、 父と 母の 間 

に寢 かされて ゐる枕 もとに ヴ エル モットの 瓶の あった 事 だけ は、 はっきり 覺 えて ゐる。 父 は 酒 を 

飲まなくて は 眠れない!? で, 晩年 迄 燜酒ニ 合 冷酒 一 合を寢 酒に し、 夜中に 咽喉の 乾く の をし のぐ 

爲、 枕頭に は必す 水視が 置いて あつたが、 若い 時 は その外に ヴ M ル モット を、 寢そ びれ た 時の 用 



169 



意に 備 へたので は 無いだら うか。 幼い 私が 其ヴ エルモ ッ トを飮 まされた 記憶が ある。 風邪 を 引い 

て 寢てゐ る 時で、 西洋 祟拜の 明治 中葉の 事 だから、 父 も 母 も 洋酒 は藥 だと 信じて ゐ たので あらう。 

この 藥は うまかった。 (昭和 六 年 十一月 九日) - , 

(その 二) 葡萄酒 ■ • 

父 は 甚だしく 酒 を 愛し、 慶應義塾が 新錢 座に あった 頃 は、 後進の 書生に 講義 をす る 時、 土瓶に 

冷酒 をし こんで 番茶と 見せかけ、 飮 みながら 英書 を讀 んでゐ たさう である。 . 私共が 知って から は、 

寢 酒が 何よりの 樂 みで、 宴會で 飲んで 來て も、 これ だけ は缺 かさなかった。 食卓の 上に 黑 塗の 瞎 

をのせ、 何 か X 有 を 前にして、 それに は あまり 箸 をつ けす、 手酌で 陶然と なった。 旅へ 出る 時 は 常 

つめ 

用の 酒 を飽に 詰た。 父 は 日本酒の 味に 惚 込んで ゐて、 洋酒 は 好かなかった。 客の 爲に備 へて ある 

の は、 私共 兄弟が 勝手に 飲んだ。 私共 はち ひさい 時から、 葡萄酒に 砂糖 を 入れ、 水 を 割って 飲む 

の を 好んだ。 風邪 を 引く と、 母が それ を あつい 湯で こしら へ、 レモン を 薄く 切って 浮べて くれた。 

ハ ンケチ を 咽喉に 卷 かれたり、 眞綿を 懐に 抱かされ たりして、 それ を 飲み、 頭から 蒲圑を かぶつ 

て、 ぼか ぼかして 眠った 事 を 忘れない。 私 は 葡萄酒 を グラスに つぐ 毎に、 その グラスの ほとりに、, 



170 



題七洒 



若かった 頃の 母の 白い 顏を 感じる ので ある。 (昭和 六 年 十一 月 九日) 

(その 三) 麥酒 

いくつ やし さあと 

幾 歳の 年の 春で あつたか、 向島の 佐 竹の 邸 跡で、 明治 屋の 花見が あった。 私 は 父に 連ら れて築 . 

地 河岸から 船に 乘り、 大川を 溯った。 船の 中で も、 向に 着いて から も、 立騷ぐ 人々 の 中で、 父の 

靜に 冷な 姿が 目立った。 殊に 立食の 皿 を爭ふ 景色に、 父 は 甚だしく 不機嫌だった。 いろいろの 人 

が來て 挨拶し、 不行届 を 詫び、 中には 腕力 を 振って 喰べ る 物 をと つて 來て くれる 人 もあった が、 

父 は 私 を 促して 土 堤に 出て、 早く 歸 つてし まった。 その 園遊會 で、 綺麗な 御酌が 麥 酒の 給仕 をし 

てゐ るの を、 非常に 美しく 感じた。 麥酒は コップの 緣を あふれて 光輝いた。 其 頃の 人達 は、 麥酒 

は 泡が うまい の だと 云って ゐた。 まあ、 こんな 泡が おいしい のです かと、 女の人な ど は 仰山に Hr 

をみ はった。 こども 心に それ を ほんと、 信じて ゐ たが、 大きくな つてから 飲んで みると、 泡 は 口 

の 端に くっついて 邪魔になる ばかりで、 ちっともう まくない。 想 ふに 麥 酒が 流行し はじめて 日が 

淺く、 泡立つ の は 新鮮で、 泡の 立たない の は 古いと 云 ふ 事實を 誤り 傳 へたので あらう。 後年、 力 

フ M 出来 始めの 頃、 銀座で 外人 數名 がー 息に 泡 を 吹 飛ばして 乾杯した 景色に 吃驚した。 (昭和 六 年 R 



十一 巧 十一 nl) 

(その 四) ゥヰス キイ 

今 こそ 亞: 米 利 加 は 呪 ふべき 禁酒 圍 となった が、 二十 年 前 私が 渡米した 頃 は、 町の 角々 は 大概 酒 

場が 占めて ゐた。 ところが 私の 住んだ マサ チュ セッ州 ケムブ リツ ヂは其 頃から 禁酒 地で、 酒屋 は 

一 1^ も 無く、 旅舍 でも 飲食店で も 酒 は賣ら なかった。 酒の 飲みたい 時 は、 鐵 道で ボストン 市 迄 出 

かけなければ ならない ので あつたが、 學资が 乏しく、 おも ふに まかせなかった。 私 は 安物の ゥヰ 

ス キイ を ポスト ンで 仕入れて 来て、 鍵の か、 る 机の 曳出 にかくし、 夜中 ひそかに 樂ん だ。 何故 ひ 

そかに 飮 またければ ならなかった かと 云 ふと、 二 ユウ. ィ ングラ ンドの 頑固な 宗敎 心に 凝り固ま 

つて ゐた 下宿の 婆さんが、 極端に 酒 を 罪惡視 して ゐた からで ある。 この 若者 はおとな しくて 勉強 

家で、 煙草 も 吸 はす、 酒 も 飲まない、 玉に瑕 は 基督 敎 徒で 無い 事 だと、 婆さん は 口癖の やうに 近 

隣の 人々 へ 私 を 紹介した。 私 は 今、 ゥヰス キイ を飮む 度に、 お前 も 基督教 徒にな つて くれ、 さう 

でたい と 吾々 と 同じ 天國 へ は 行かれな いと、 別離の 淚を 流して くれた 般若の やうな 婆さんの 顏を 

中心に、 .„s 米 利 加 時代の 貧乏 生活 を 思 ひ 出して 憂 1^ になる。 (昭和 六 年 十一月 十二 日) 



172 



(その 五) クン メ < 

H 11, 夫婦 者の 英 人と 知合に なった。 つい 先頃 迄 一流の 旅館で 贅 

,生活 をして ゐ たのが、 相場と 鷲で 失敗し、 俄に 下宿へ 1 て 来たの だと 聞いた。 細君 の 

乞」 つか ひ 果してし まつ £5 どく 氣の 毒が り、 氣 兼し、 機 f とる 亭主 鼻して、 豪 趣味」 の 

J ま、 被は實 では あるが 悧巧で は 無い と 云って ゐた。 この 夫婦の 友蠻 お観で 金 持の £ 

^^^rv い 4 をして、 白粉 を 厚く、 口 I 濃く、 大 I 股の ふちに 靑黑ぃ 塗料 を さして 一 

5 きく 見せて き。 未亡人 は S と 酒が 好きで、 殊に クン メル を 霞した。 或 日、 

の 門前で 偶然 出 あ ひ、 見せたい ものが あるから 來 ないかと 誘 はれて、 r=-run^.^^^w 

同人 雜管 夥しい 小説の 雷め いて 困る が、 おそろしく 紅い 色調の 室內 で、 H, 

ラス を誉、 白く す I る クン i 私に 勸め、 未亡人 も I。 41^^^ 

洲 大陸の 風景 資帖に 過ぎなかった。 酒で 唇が 濡れ、 H 見 上る 程 大きな?; H の 1 

M 迫った 時、 私 は 思 はす クン メルの グラス を 床に 落した。 年增 女の 愁 情の やうに、 強く,、 ク 

二 



七 

ン メル。 (昭和 六 年 十一月 十四日」 



173 



(その 六) 老酒 

シャン パ ンゃ 葡萄酒の い いのは 味 はった 事が 無い から、 大きな 口 はきけな いが、 さ d ど 苦勞し 

すに 吾々 の 手に入る 酒の 中で は、 日本酒と 老酒が 一 番 うまい。 蘭 陵 美酒 截 金 香と いふの は 此の 酒 

の やうに 想 はれる が、 水 滸傳の 豪傑 魯智 深ゃ武 松が 肉饅頭 を 看に 大杯 を 傾けた の は、. 高 梁 酒の や 

うな 強烈な やつで あらう。 老酒で は 上品 過ぎる。 私が 老酒の 味 を激稱 する ので、 支那の 土產 にく 

れる人 も あるが、 我家の 惣菜で はう まく 飲めない。 こって りした 支那 料理で こそ、 酸味 を帶 びた 

ふ.. みあ ぢ . 

この; -5 が 口 を淸々 しくして くれて、 底の 知れない 含味が 生きて 來 るの だ。 どこの 家で も 老酒に は 

氷砂糖 を 入れる の を 本道の やうに 心得、 それ を 拒む と田舍 もの 扱す るが、 あれ は 惡酒を ごまかし 

て飮む 一手に 過ぎない ので、 すぐれたる 老酒に 甘味 を 加へ るの はもった いない 限りで ある。 いつ 

だった か、 久保田 万太郞 氏の 御馳走で、 濱 町の 待合 を 直して 開業した 家へ 行き、 老酒 を 命じた と 

ころ、 冷い ま、 持って 來 たので、 燜 をして くれと 頼む と、 あら 御燜 をす る もんです か、 皆さん こ 

のま、 召 上ります がと 云った。 天網 恢 々疎 而不漏 こ の 家 は 間もなく つぶれた。 (昭和 六 年 十一月 十 

四 日). 



(その 七) 、バナナ 酒 , 

怫蘭 西の 農民が 林檎酒 をた く はへ、 薩摩 人が 薯燒射 を 造り、 或は 山家の 桑 酒木风 酒、 夫々 の 酒 

を 手造りす る 風習 は、 今 も 諸 地方に 行 はれる。 私の 母 は 毎年 梅酒 を 造り、 暑氣 はら ひに 用 ゐてゐ 

る。 拙宅で も傳授 をう けて 試みる が 本家の 程う まくない。 それでも 自慢で 客に す、 める。 たしか 

地震の 翌年だった。 銀座のう まい もの や、 はち 卷岡 田が 魚 を さげて 遊びに 來た 時、 いっぱい 飲ま 

せて みた 處、 これ も飮 める が バナナ 酒 もよ ござんす よと 敎 へて くれた。 瓶の 中に バナナ を 切 込ん 

で 密封し、 土中に ぎる 事 三年に して、 い、 酒が 出来ます よと 云 ふので ある。 三年 間 土の 中に 埋る 

とい ふの がお 伽噺の 面白さ を 加へ て 愉快 だ。 早速 實 行した。 しかし 三年 は 長い。 おい、 きっかり 

三年た 、なくたって い 、ん だら うと、 意地ぎ たなく 家內に 相談 を かけた が 相手に して くれない。 

やっとの おも ひで 三年 目にあけ てみ ると、 中 はすつ かり 徵が はえ、 水氣 など は 一滴 もなかった。 

これ は、 はち 卷の敎 へ 方が 惡か つたので はなく、 こっちの やり方に ぬかりが あつたの であらう。 

か^ , - - ほ ろぎ 

琥珀の 酒を湛 へる 箸だった 瓶 は 庭の 隅に 見捨てられ、 やがて 蟋 峰の 住家と なった。 (昭和 六 年 十一 

題 月 十 四 日) 



175 



5 
新 
m 

和 

年 

十 

月 
十 

至 
十 

曰 



176 



為い ろい め ンァプ 



ファンの いろいろ 



そ の 一 

あらゆる 階級の 人間の 見る ものと して、 芝居と 角力 は 長く 王座 を 保った が、 近頃 はべ H ス. ボ 

才 やにと! v め を さす。 

お., てれお ほい 事で あるが 天子 様 も御覽 になった。 宮樣方 は 始終 御 出かけに なり、 庶民と 樂みを 

わか たれる。 大臣 も來 る。 重役 も來 る。 文士 も來 る。 役者 も來 る。 つましい くらし を よぎなく さ 

れてゐ る 勤 人 も、 不景氣 を かこつ 商賣人 も、 職人 も、 職工 も、 凡そ 現代 商 賣往來 にあり と あら ゆ 

る 階級が、 その 日の 商賣を そっちの けにして 球場に 殺到す る。 球場に 行き そこなった 者はラ ディ 

ォ のお C 陣取って、 出嬉目 まじりの ァ十ゥ ンサァ の 放送に 夢中になる。 商機 を 逸しよう が、 おと 



177 



くい をし くじらう が、 賣 物が 腐らう が、 日給 を ふいにし ようが 頓着す ると ころで は い。 まして、 

男よりも 閑の 多い 女の ファンの 一 シ ィズン 毎の 增加率 は、 此の 國の 人口の それにち まさる 勢で あ 

る。 奥さん、 おかみさん、 マ マ、 令 嫂. 女學 生、、 藝者、 女給、 いろ とりどりに、 中には 見に 來る 

のと 見せに 來 るのと 五分々 々位の きんきん 光った のもゐ る。 選手 を 追 かけ 廻して サイ ンを 求める 

のもゐ る。 附文 をす るの もゐ る。 花 瑗を途 るの もゐ る- 合宿へ 押 かける のもゐ る。 最も 醜態 を 極 

める の は、 球場の は かりの 前 をう ろうろ して ゐて、 そこ へ 用 を 達しに 行く 選手に 色 眼 をつ かふ 

奴 だ。 ■ • • -, - -- 

何とい つても I,:!- の 多 いのは 女 畢生で、 中には 學 校をェ スケ M プ して 來 るの もゐる さう である。 

學校 をす る 休みし、 サイン を 強要したり、 は 、、、かりの 近所 を うろつく の は、 明かに 良妻賢母 主義 

に 反し、 善良の 風俗 をみ だる ものであるから、 或學 校で は 野球と ラグ ビィの 見物 を 禁じ、 教頭の 

老赎が わざわざ スタ ンドに 潜入して 監視の^ 鏡 を 光らせた さう だが、 そんな 事で 驚く やうで は 近 

代 女性の 恥辱で ある。 パパ や マ マ やお 兄 さまなる もの を楣 にして 堂々 と 入場し、 1 向 禁止の 實を 

あげなかった が、 そのうちに 肝心の 老孃敎 頭の 方が 男性 スボ. ォッの 魅力に 打 負かされて、 遂に 斷 

然ファ ンと 化し 去った さう である。 



178 



ろい ろい の ンァフ 



女 學校を 卒業し、 制服 や 持を脫 いで おも ふが ま、 に、 い 、きもの、 着られる、 所謂 家事の 御 

稽古に いそしんで ゐ ると 稱 さる 、階級 も 頗る 多い。 女學 生のから 騒ぎ はお 酌の 岡惚に 類す るが、 

こ の 年頃 の はお も ひ を輕 々しく 口に 出さない から、 陰に 籠って 物凄い のが ある。 無名 の 贈物 の 主 

は、 大凡 この クル ゥプに 学 る も の と 見 て 差 支 無 い 

時々 は 球場に 於て 見合 も 行 はれる。 現に 私 も 或 一 組の 野球 見合の 附添 役と して 現場に のぞんだ. 

事が ある。 白日 の 下に 行 はれる ので あるから、 人工的の 光線で きらきら する 芝居の 見合よりも 噓 

が 無くて い、。 た 缺點 をい へば スタンド は 直線 的で、 當人 同志 は 横 額し か 見合へ ない 事で ある。 

尤も、 横顔の 美しい 人なら ば、 其 特徴の 效果を 一際 はっきりさせる 事に もなる。 

新聞 語に 謂 ふ 所の ス ボォッ 時代 は 叉早慶 時代と も 呼ばれて ゐる" 大方の 野球 ファン は、 大概 早 

稻田! 負か 慶應 負に 分 たれる。 東に あら ざれば 西 * 西に あら ざれば 東と いふ 態度 は、 女性 ファ 

ンに 於て 殊に 猛烈 だ。 おや ぢ、 亭主、 息子、 兄弟の 學校關 係が あれば 小: 1: 更の 事、 さう でなくても 

住居の 地理 的關 係、 何となく 蟲が 好く 好かない の 感情から どっち か をえ らんで 我 身の 事の やうに 

肩 を 入れる。 私 は 曾て 姿 席に 於て、 一群の 早 稻田最 負の 藝 者に 包 園され、 喧嘩 面で 應援歌 を 合唱 

された 苦い 經驗が ある." 



179 



或 家の 一粒種の 令嬢 は 頗るつ きの ファンで、 別段 父親が その 學校を 出た ので も 無い の だが、 絶 

對の 慶應^ 負だった さう である。 近所の 人々 は、 試合 當日、 球場から 歸 つて 來る 令嬢の 足 どり で、 

慶應が 勝った か 負け たかを 判斷 する 事が 出來 ると、 いひあった さう だ ノ家は 富み、 本人 は 美しく、 

養子の 志願者 も澤 山あった さう だが、 慶應 出で なければ いや だとい ひ はり、 蓮 動 選手で ある 事 

を 希望した。 したがって、 慶應 出で 無い 者 はいふ 迄 もな く、 慶應 出で も 運動選手 でな いのは、 入 

り替リ たち 替り首 を 横に 振られて 引 さがった。 その 數: 貫に 二 卜有餘 人と きく。 斯うい ふとい かに 

も 蓮 葉な 娘、 手の つけられ ないした、 かもの、 やうに 思 はれさう だが、. さう では 無い。 令 嬸は小 

學 校から 女學校 卒業 迄 優等の 模範生で、 ひとたび.^ 浮いた^ など はない、 試合 開始 前の ボ オルの 

如く 純潔な の ださう である。 恐らく は 極めて 無邪氣 なので、 自分の 好み を 正直に 主!^ したに 過ぎ 

ない ので あらう。 扨て その 念願 は 届いて、 立派な お 婿さん を迎 へた-野球 では 無い けれども、 慶 

應で 鳩ら した 運動選手が ホォム . ィ ン となった の ださう である。 

久保田 万 太郞氏 夫人お 京さん は旣に 新聞 雜 誌に 野 に關 する 談話 筆記が 出た 位で、 天下 周知の 

ファン だが、 温良 貞淑 家 を 守る 事に のみ 心を碎 いて ゐた 人が、 どうして ファンに なった かとい ふ 

と、 此の 手引 は 實は私 だ。 去年の 舂 だか 秋 「三 田 文學」 の 連中が 學生 相手に 試合 をした 時、 無理に 



180 



ろい ろい の ンァフ 



引 張って 行った のが はじまりで、 やがて 病みつ き、 神宮球場の ネット 裏に 全シ ィズン 皆勤の ファ 

ン となりす ました。 设 性愛 百パァ セントの 夫人の 事 だから、 いつも 一人 兒の 幼稚 舍生耕 一 君の 手 

をと つて 球場に あら はれる。 子供 も 最初 は 面白が つたが、 一 時 中 だるみ が來て 「マ マ、 野球の 無 

い 土曜 はい つ?」 と 訊いた さう だ。 だが、 耕 一 君 も 忽ち 面白みが わかって 來て、 今では 庭の 芝生 

でさかん に キヤ. ツチ. ボ オル を やり、 お 相手 は ママが 勤めて ゐる。 宫武、 水 原な ど > いふ 名投手 

は、 どうい ふ 姿勢で プ レ M ト を 踏み、 どうい ふ モ オシ ョ ンで投 るか いち いち 型 を やつ て 見せる 位 

だ。 ス ボォッ には緣 遠い ク、 保 田 氏の 事 だから、 「どうも 困った、 うちの 奴まで キャッチ • ボ オル 

を はじめた よ」 と 嘆息した が * その 實時々 はお 相手 を 仰せつか りさうな 氣 配が 見える ので、 耕 一 

君の 耳に 口 を 寄せ、 パパと マ マと どっちが うまい ときいて 見たら、 - 子供 は 正直 だ 「ママ の 方が う 

まい や」 と 答へ た。 

その 夫人が 今年の 秋、 早慶 戰の濟 んだ顷 から、 ^だ 冴えない 顏 をして: もう 直き 野球が なくな 

つてし まふんで すが、 どうした らい、 でせ う」 と 浮せ はかない 樣子 なので、 又しても メ フィス ト 

は 人智 惠 をし、 ラグ ビィ を御覽 なさい と案內 したと ころ、 忽ち これ も 御氣に 召し、 風雪 を ものと 

もせぬ 熱心な ファンと なった。 野球場の 指定席 を 買 ふ粤, を 許して くれ」 ば、 着物 も いらない 芝居 



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も 見たい と 云った 人が、 ラグ ビィを 見る に 及んで、 今度 は 洋服 をつ くると いひ 出した。 御主人 甚 

だ 閉口し * ベ エス. ボ オルから ラグ ビィ になり、 洋服 を 着る と 云って るが 「この 次 はわ かってる。 

き-ちが ひになる 外ない や, 一と 酒 間 舌鋒 鋭く 嘲つ て ゐ る が、 叉 ひそかに 洋服 を 許して 然る可き や 否 

や を 相談す る 位 だから、 絕對不 許可と いふ 形勢で はなさ、 うだ。 私と 雖も 正直のと ころ、 今にな 

つて 愚妻に 洋服 を 着る と宣 言 されて は 閉口す るに 違 ひ 無い が、 ラグ ビィ とい ふやつ は 土砂 降の 雨 

の 中で も、 雪 や!^ が 降っても 敢行す るの だし、 その 際 傘 を さ、 れては 後の 人の 邪魔になる から、 

ぺらぺらの 和服で は 到底 無理 だ。 K 明なる 夫人 は、 自分の 裝 ひに ついては 誰よりも よく 承知して 

ゐる。 ^^して洋服の方がみづからを美しくするものとは考へ てゐなぃに違ひなぃ。 しかし そんな 

み つと もい 、とか 惡 いと かいふ 事 を 超越す る 程 ラグ ビィに 夢中に なった とすれば、 もって 美談と 

十る に 足る。 「そり や あ ラグ ビィを 見る に は、 洋服で なければ 無理 だよ」 と、 Islb 魔 はしき りに 主人 

を說 いて ゐる ところ だ。 

. 美談と いへば、 もう ひとつつ け 加へ 度い。 世間が 狭く、 吉 原と いふ 土地 を 知らない 吾々 夫婦に 

553 のまち の 賑ひを 見せて やらう とい ふ 久保田 氏 夫妻の 親切で、 つれて 行かれた。 お 茶屋の 二階で 

御酒 を 頂いた 際、 ひとりの 暫 間が 初對 面の 夫人に むかって 「ねえ 奥さん、 先生って 方 は 非道 いぢ 



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ろい るいの ンァフ 



やありません か。 與作を よんで あっし をよ ばな い つ て 事 はないで せう」 とお 座な り をい つたと 思 

へ" 夫人 は 極めて おだやかな 調子で 「さあ、 どうで せう か、 あたし は 野球のお 話の ほか わかり ま 

せんの」 とこた へた。 どうです、 ことば は おだやか だが 壤然 たる もので はない か〕 勿論 封 5 問 は 二 

の 句が つげなかった。 (E? 和 五 年 十二月 二十 二日) 

その 二 

凡 男子の 演 する 運動 競技、 觀覽物 を 見る 女性 ファンの 心 持 は、 何 處其處 の 行者 何々 敎の 生神樣 

に對 する 信者の 心 持で あり、 陸軍 大將を 仰ぎ見る 子供の 心 持で あり、 叉レヴ ユウ を 見る 男の 心 持 

に 類す る もので は 無いだら うか。 英雄 崇拜と 助平との いりまじった ためいき を、 私 は a 々劇場で" 

角力 場で、 球場で、 水泳 場で、 脂粉の 香と 共に 身邊に 感じる ので ある。 其處に 登場す る スタァ は- 

神で あり 英雄で あり、 戀人 であり、 叉 あとくされが 無いならば おもちゃ にもし 度い ので あらう。 

女 は 男よりも 批評 能力が 劣る か はりに 感^し やすく、 „©、 負 強い。 好き は 好き、 嫌 ひ は 嫌 ひと 簡 

,fs}; ちゃ 

單 にきめ て か、 り、 好きに は 有頂天に なり 嫌 ひに はお ぞけを ふる ふ 事、 芋 南瓜 药 親と 其の 對 

とかげ げちげ お 

蛇 蜥;^ 毛蟲: M 艇と 其の 一 黨が 代表す る 通りで ある。, 



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一, 

芝居 は 芋よりも 南 夙よりも 女の 好む ものであるが, か はりめ か 1i りめ に 見る 事 を ほこりと する 

者で さへ、 批評眼 は 極めて 乏しい の を 例と する。 批評が 無い 丈、 好きな 役者 を崇拜 し、 英雄に し、 

神に し、 ひそかに 戀人 にして 樂む 事が 出來 るので あらう。 菊 五郎が 好きだと すると 吉 右衛門 を 嫌 

ひ、 吉右衞 門が 好きだと すると 菊 五郎 を 罵る のが 女の なら ひだ。 雙 方の 長所 短所 を 明かに し、 雙 

方 を 認める と 同時に 雙方 にあき たらす とする が 如き 態度 は、 女の ファンに は 望み 難い。 女性 ファ 

ンの敲 負 役者に 對 する は、 祌 でなければ 戀人 である" , :- .. 

私 は 勤務先に 通 ふのに 毎日 省線 電車 を 利用して ゐ るが、 東京 驛 頭で 血^に たり、 据も 露な 若い 

女の 群に 途を 遮られる 事が 度々 ある" 最初 は、 現代 風景の 一 つで ある 工場 ストライキの デ モンス 

トレ ェシ ヨンに 女工が 騷 いで ゐ るの かと 思った が、 さに あらす、 たった今 汽車で 着いた 映畫 俳優 

歡迎の 女性 ファンの 狂態な のであった。 目 ざす 神 樣か戀 人の 袖に でも 裾に でも 取槌り 度い 一 心で、 

なりふり 構 はす 殺到す るの だ C その すさまじ さは、 恰も 人な き 山道で 旅の 娘 を 追 廻し 先 を 爭ふ雲 

助に 等しい。, 追 かけ ちれる の. つべ りした 男 は、 總理 大臣の やうに 屈強の 男 を 護衛に つけ、 危く血 

路を 開いて 自動車で 逃 出す ので ある。 若し 護 衞がゐ たかったら、 長さん も干惠 さん も、 傳 ちゃん 

も, 白晝 東京の ま, < 中で、 前後の わき まへ を 失った 女 群の 爲に 凌辱され、 もみく ちゃに されて し 



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ろい ろし、 の ンァフ 



まふで あらう。 

私 は 未だ 實見 しないが、 傳へ 聞く 所に よると、 これら 人氣 俳優が 舞臺 で實演 する 時の 女性 ファ 

ンの もの 凄 さとい つたら、 花屋敷の 徘々 に 自由 を與 へた 有様 だとい ふ 事で ある。 

肉體の 魅力で 女性 ファン を 熟 狂させる の は 昔 は 力士、 今 は 水泳 選手 だと 云 はれて ゐる。 ぴ つた 

り體 にくつつ き、 はち切れさうな 腕 や 股に 喰 ひ 込んで ゐる黑 か 紺の 水泳着が、 ひと 度 水に 濡れて 

つやつや 光り、 愈々 からだに 吸 ひついて 筋肉の 隆起 を はっきりさせる 時、 うっとり してめ まひ を 

感じる 女の ファン もゐ ると いふ である。 殊に 女流 水泳 選手が、 男性 選手 を崇拜 する 事 は 全く 神 

様で、 進んで 人身御供 となる 事を辭 さない もの も あると 云 ふ 話で ある。 

フィリッピ ンの 選手 を サイン 攻めに し、 その 宿 舍に押 かけ、 共に 外苑の 芝生 を 汚した 女 學生フ 

ァ ン の 夥しかった 事 は旣に 天下の 知る ところで ある。 異人 祟拜の 現代 女性 も 歐米人 は 何となく 近 

づきに くいが、 フィリッピ ンは 恰度 手ごろ だし、 叉 旅の 恥 はかき 捨ての うら を 行って、 旅人との 

たは むれに、 平生 间胞 選手に 抱いて ゐた悶 々の 情 を なぐさめ たの は、 ことわり せめて 哀れで あつ 

た。 始終 陸上競技 そ 見に 來る 評判の 姉妹が、 たやすく フィリッピ ン人 といつ しょに おかみの 手に 

捕 はれた 事 を 知って" 不良 學生 ども は 切齒扼 腕して 叫んだ さう だ。 「なんでえ、 そんなに お 安い 



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のか c そんなら 遠慮す る こた あ 無 かったん だ。」 

^球場に 常に 姿 を あら はす 人の 中に も、 厦々 見苦しい 迄 とりみだす のが ある。 ネット 裏に 一 人 

慶應 S® 負で、 紫の 旗 を 手に して 應援歌 をうた ふの がゐる さう だが、 校風の 相違から か、 概して 勇 

敢 なる 行 S を 以て 應援 する 女 は 早 稻田最 負に 多い。 昭和 五 年 秋の 早慶戰 にも、 幾多 醜惡 なる 女性 

ファン を 見た が、 遂に 一 人 洋装の 扠は、 進んで リイ ダァ となり、 物 笑 ひの 的と なった。 私 は早稻 

田の 野球選手の 熊 度 を 常に 稱讚 する ものであるが、 昔から 此の 學校最 負の 應援に は 場ち が ひが 多 

くて 氣の 毒で ある。 _ 

或 人の 話に よると、 野球選手の 合宿に 手紙 を 寄越し、 花束 をよ こし、 叉 時には 自分で 押 かけて 

來る、 女性 ファンの 數は 頗る 多い さう である。 中には 母親と 娘と いっしょ になって 選手に 接近し 

ようとす る もの も ある さう である。 案す るに 娘の 方 は 經驗の 乏し さから 選手 を 英雄 化し、 神化し 

て憧憶 欽慕す るので あらう が、 母親の 方 は、 これ こそ レヴ ユウ を 見る 男の 心 持で、 あはよ くば 選 

手 を 燕に しょうと たくらむ に 違 ひ 無い。 

いったい、 野球 や ラグ ビィを 見に 來る ママ 階級 は、 ひまと 金が あって 且 臆面の 無い のが 多い-》 

近代 野球 は 愈々 戰 術が 細かくな つて、 その 道の 素養の 無い 女に は 充分 味 は ひ 兼る やうで あるが、 



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; ^いろい の ンァフ 



ラ. クピィ はもつ と 手 取 早く わかり、 殊に 極めて 鬪爭 的な 瞬間 は、 痛切に 胸に 響く であらう。 野球 

よりも ラグ ビィを 好む 女の 多 いのは、 もっともに 思 はれる。 女 は 天性の かよわ さ を、 更に 幾 代 か 

か、 つて 人工的に なよなよ させた が、 自分自身 實行 する 事 は 思 ひも 及ばない 勇猛なる 鬪爭 を、 涼 

しい 顏 をして 眺めて 快と する 心 持 は 多分に 持って ゐる。 亜米利加で 眞に 拳鬪を 喜ぶ の は 女 だとい 

ふ,」 西班牙で 眞に鬪 牛 を 好む もの は 女 だとい ふ。 もこで 雨が 降っても 雪が 降っても 敢行す る ラグ 

ビィ 選手の、 眞 新しい ュ 二 フォ I ムが 泥土に まみれ、 顏も 手足 も 汗と 土で よごれながら 揉 合ふ壯 

觀は、 絹物 づ くめの 女達の 口 マ ン ティ シズム と、 或 種の 感激 を わきた」 せる 爲に 素晴 しい 魅力 を 

持って ゐ るの だ。 私の 見る 所では、 野球の 女性 ファ ン よりも、 ラグ ビィ の 女性 ファ ンの 方が、 遙 

かに モダ アンで あり、 同時に 猥感を 流露 させて ゐる。 

或 女 は、 ラグ ビィの 選手が、 戰前 奇麗に 分けた 髮 が亂れ 剃りた ての 顔に 流汗 淋漓と し、 砂塵に 

まみれた 勇姿 程 力の みちた 美し さは 無い と斷 言した。 さう い へば 近頃、 試合 當 日の 選手の みだし 

なみ は 念が 入り 過て ゐる やうで ある。 

去年の 秋の 或 試合の 日、 私の 座席の 後て 女性 ファンが、 あれ は 誰さん それ は 誰さん と戰 前の 練 

潜 をして ゐる 選手 を 指さして 話あって ゐ たが、 やがて 敵方の 選手と 交代して、 一 時 控室に 引 上る 



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時 「なんて 可愛 いんで せう」 と. 殆ん ど氣が 遠くなる や. つな 聲で 讚嘆した。 その 眞 情の 籠った ため 

息に 誘 はれて 思 はす 振 返って 見る と、 洋装のと 和装のと、 どっち も 四十 前後の 婦人だった。 その 

ママに 引 そって 妙齢の 娘 達が、 頰を あからめ、 うるんだ 眼 をして 罔くな つて ゐた、 よい かな、 こ 

の 實物敎 育。 ノ た., ノ.」 /- . -, :: ム •、, . ; 

その 試合が 濟ん で歸る 時目擊 した 光景 は、 更に 驚く 可き ものであった。 今、 た、 かひ 終った 二 

三の 選手が、 手拭 二 筋 持った ばかりの 素 裸で、 控室から 浴室へ 行く。 文字通りの 素 裸な の だ。 控 

窒の 附近に は、 恰も 東京 驛 頭で 映畫 俳優 を おっとり 圍む 女達の やうに、 うろうろして ゐる 女性 フ 

ァ ンがゐ て、 咽喉 迄 感激 を つまらせて 見送って ゐる。 r い ゝ からだね え」 一人の ママ は 、洋装の 娘 

の 肩に 手 を かけて さ、 やいた。 襟卷で 額の 上半 部 を かくしながら、 娘はぢ いっと 選手の 裸身 を 見 

送った 。■( 昭和 六 年 一月 二十四日) .,.:..,..::■ 

その 一 r 、 

早慶 野球 戰は つまらな いとい ふ 人が ぼつぼつ あら はれて 来た。 資本主義 は沒 落す る、 歌舞伎 芝 

罟 1,- 滅亡す る、 角力.^ ナ たった、 小說は 亡びる * ベ エス. ボ オル は 最早 あきられて、 これから は 



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ろ,.、 ろい の ンァフ 



ラグ ビィと 拳闘の 時代 だと 騷々 しく はやした てる チン ド ン屋的 新人の 言葉で は 無くて、 そのみち 

の 玄人の 言で ある。 . 

そ. の說に 曰く、 早慶戰 はほんと にべ H ス. ボ オルの 眞味を 味 はふ 可き 試合で は 無い、 兩 軍の 選 

手 はこち こちに 固くなり、 失策し、 拙策 續 出し、 應援圑 は 芝居が かりで 熱狂し、 中で も 一番 臆面 

の 無い のが リイ ダァ となり、 怒って 見せたり 泣いて 見せたり、 手 を 振り 足 を 振り、 頭 髮を亂 し、 

わざと 觀覽 席から 下の 地面に ころがり 落ちて 見せたり、 - これが 役者なら ば r くさい」 とい ふ 一 言の 

もとにけ なされる に 違 ひ 無い 様子 をして 皆々 さま の 御機嫌 を 取 結ぶ、 又 球場の 外- 1: 北 は 樺 太 北 

海道、 西 は 九州 臺灣の 果て 迄 も、 ラ ディ ォ、 號外 新聞で、 球場- s の 熱狂の 電波 を 受け、 祝 盃を擧 

げる 奴が あれば、 泣いて 憤る 奴が ある、 見す 知らす の 人間 をつ かまへ てお ごる 奴が あれば、 女房 

子供に あたりちらす 奴が ある、 これ は 現代 日本 國民 にと つてのお 祭で、 ベ エス. ボ オルの 眞味を 

味 はふべき もので は 無い * そのお 祭のお 祭た る や、 將來 若し 法 政 明治 帝 大立敎 がほんと に 強くな 

り、 早稻 田、 慶應が 六大阜 聯盟の 五位 六 位に 甘んじなければ なら なくなっても、 恐らく は 第一 位 

第二 位の 法 明か、 帝 立 か、 明 帝 か、 法 立 か、 帝 法 か、 立 明かの 試合よりも、 矢張滿 天下の 人氣を 

背負 ふに 相違 無い と 思 はれる 位お 目出度い お 祭 だとい ふので ある。 



18^ 



そんなら ベ H ス • ボ オルの 眞 味と は 何 だとい へば、 投球 捕球 打 擊走壘 等の 技術と、 その 技術 を 

活かす 判斷と 作戰と ティ I ム . ヮァク などの 味であって、 勝敗 は 二の次で あり、 應援 なん ぞは迷 

惑 至極のから 騷 ぎだと 云 ふので、 さしあたり、 ベ エス. ボ オル 至上 主義と 呼ぶ 可き 說 である。 

この 說 にも 充分 同感すべき 理由 は ある。 あまりに 度 を 過した 應援に は、 時に 厭惡を 感じる 事が 

あるが、 然しながら あの 熱狂 裡に大 飛球の 飛ぶ はなやか さも、 決して 捨てた もので は 無い。 まし 

て況ゃ 一 般 大衆 ファ ンに とって は、 早慶 のどつ ちかの 味方と して、 自分 も 登場人物の 一 人となり、 

整 をから して わめき 騷 ぐの は、 無上の 快 樂に違 ひ 無い。 むかしから 角力 場で は、 最 負々々 が 咽喉 

のつ,、、 く 限り 聲援 し、 壞 々客 s: 志の 喧嘩 を 引 起した が、 近頃で は 芝居に。 迄 此の 風が 及び、 所謂 左 

翼の 芝居に は 物騒な 應援が 場を壓 し、 活動 役者の 實演に はきい ちゃんみ いちやん の やるせない 聲 

援が 湧き か へ る。 「左翼の 芝居 は實に 面白い、 舞臺と 客席と を へだてる 何物 も 無い」 と 感激す る 人 

達 は、 ベ エス. ボ オルの 應援團 に 加 はり、 選手と 共に 活躍した 氣 持に なれる 幸福な 人々 と 同じ だ。 

されば こそ 早 慶戰の 切符 を 手に入れる 爲には 夜 を 徹して 球場 近くに 野宿す る も e 幾千 人、 下役 

、 -に なに だ L き 

を威壓 して 摔取 する 上? U あり、 下級生 を 脅して 奪取す る 上級生 あり、 敷に 至って は、 女 を 釣る 

のに これ 程 有 效な餌 は 無い と 豪語す る 不良 擧生も ありと 聞く。 拔て當 日 は 銀行 もき 社 も 商店 も、 



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ろい ろい の ンァプ 



日頃の 仕事、 肝心の 商賣を 忘れて ラ、、 ティ ォゃ プレイヤ ァ . ポオ ルドに 夢中に なり、 帳簿 は 誤り、 

札 は 勘定し そこな ひ、 心 こ、 にあら ざれば、 い たづら に 拘摸萬 引 をして 自由に 腕 を 振 はせ る 場 M 

を 展開す る。 役所 も、 學校も 同じ 事で、 全く 國を 擧げ てのお 祭 だ,^ 

お 祭に 喧嘩 はっき もの だ。 おみこし を かついで、 あの 町と この 町と つき 當り、 血 を 流す 風習 は 

津々 浦々 に殘 つて ゐる。 二十 有餘年 前. 早慶戰 中止の 馬鹿騒ぎ を 演じた 時 は、 兩 軍の 應援圈 委員 

は 前以て 會 見し、 人數 方法 等, の 打合せ を 行った が、 由來 政治家 揃の 早稻田 は、 ふところ 育の 慶應 

を 出しぬ いて、 人数の 制限 を するど ころ か、 當時 祌田邊 にう ろうろ して ゐた ごろつき 書生 迄 狩 集 

め、 前夜から 敵の 領土に 等しい 芝 山 に陣を 布く とい ふ大 がかり な計畫 をた て、 3- 器を懷 中す る. 

もの あり、 棍棒 竹刀 弓の 折 を持參 する もの あり、 審 判官に 脅迫 狀を途 る 者 あり、 噓 かほん とか、. 

"イダ ァ吉岡 某 は、 馬上 陣羽織 を 着て 指揮す ると さへ 傳 へられた。 政治 は 力なり と は その 學 校の 

創立者 大喂 氏の 言で あるが、 まことに 力 を 以て 慶應 を壓 倒した 觀 があった。 事 こ- -に 至て は、 片 

方 默 つて は ゐられ ない。 決勝 戰には 是非 勝てと 學校 中が m 狂し、 六十 餘 歳の 漢學の 先生 迄 年少 

の學 生に むかひ 「吾等 あく 迄 も 勝たん、 然ら ざれば たど 死す るの み」 と絕 叫す る 形勢と なった。 亂 

暴 しっこで はかな はない とわ かつ て ゐる丈 悲壯だ つた。 中止 は 止む 4i 得なかった ので ある。 



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復活 後 第一 囘の 早慶戰 は、 長年 中 絕の爲 に 一 曆人氣 を 爆った が、 力量 は 段 違 ひで 早稻 田の 大勝 

に 終った。 新聞紙の 報す ると ころに よれば、 早大 野球部の 生みの親、 安部磯雄 氏 は、 戰ひ 終った 

後、 人に 語って、 萬 ー早稻 田が 負けたら、 叉 中止と なるやうな 事態 を 生んだ であらう と 云った さう 

だ。 子 を 見る 事 親に しかす、 重苦しい 低氣壓 は、 球場の 外に 迫って ゐ たの だ。 

熟 狂した 應援圑 が 間違 ひ を 起して はいけ ない とい ふ 心配から か、 時勢の 進步 か、 近頃 は兩 軍と 

もに その 組織 統制に 充分 心 を 用 ゐてゐ て、 亂雜無 節制な 自由 應援隊 よりも、 すべてに 於て 立ち ま 

さって ゐる。 時々 あら はれる 便衣隊が、 秩序 ある 正式の 應援團 に 比して 如何に みっともな いか は 

誰し も 知る ところ だ。 いつも 早稻 田の 應援 をす る 肌着と 股引の ぢ いさんに 對 して、 慶應 側に は 日 

の 丸の 扇 を 開いて 大見榮 を 切る 呑兵衛が ゐて、 共に 顰 されて ゐ るの を 知らな いのは 本人ば かり 

だ。 

それ は 未だい、 が、 つい 近年、 連戰 連勝の 慶應 側が 薄 紫の 小 旗 を 振って スタンドで 亂 舞して ゐ 

るのに 業 をに やし、 木刀 だか 棍棒 だか を 握りし め、 た 一 人外 野の 芝生から 球場に 飛 下り 凱歌 を 

うた ふ 敵陣に なぐりこみ を かけよう として、 警戒の 人に 阻止され た 勇士が あった。 この種の 愛 校 

心に 燃 ゆる 青年 は、 銀座で 有頂天に なって ゐる 慶應ボ オイの 隊の 中に 割って入り、 何とかして 武 



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ろい ろい の ンァフ 



勇 を あら はさう と 示威運動 を 行 ふさう である。 

さう かと 思 ふと、 去年の 秋 は早稻 田の 自由 應援隊 の 中から 妙齢の 洋装. の 女が 飛 出して、 リ イダ 

ァの役 を 買って出た。 醜態 見る に 忍びす、 早稻 田の 迷惑 いかばかりと 慨嘆した が、 後で 豪傑の 學 

生に 鐵拳を 見舞 はれた とい ふ 噂 もき いた。 

その 晚 或る 處で 甲乙丙が 話して ゐた。 

「あれで も女學 生です か。」 

「な あに 女給 だら う。」 

「い、 え、 あれが スタンド • ガ アルと いふ 奴です よ。 いつも 來てゐ ますから ね。 うまい 商 賣ぢゃ 

ありま せんか。 面白い 野球 を 見ながら、 近所の のろ さうな 奴に 話しかける。 あら あなた もこつ ち 

の 味方なん です か、 まあ 嬉しい つてい ふやうな 具合に 持ち かけて ごらんなさい、 大概の ファン は 

共鳴し ちま ひます よ。」 

傍で き、 ながら、 まさかと 思 ふ 外 は 無かった が、 嘘と しても ゴシップ 子の 創作の 巧み さは 認め 

なければ ならなかった。 (昭和 六 年 二月 二十 六日) 



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その 四 

民主 思想 は 英雄 を 否定し 度が り、 社會 主義者 は 個人の 力 を 認めまい と 努力す るが、 ウィルソン 

を祟拜 し、 マルクス、 レ H ニン を 神様 极 ひする 心 持 は 消す 事が 出来ない。 自分が 英雄に なれ、 ば 

なり 度い のが 千 萬 人の, 心で あり、 自分が 英雄に なれなければ、 せめて は 英雄 を 我物顔して 見せ 度 

いのが 千 萬 人の 心で ある。 あれ は 自分の 國の者 だ、 あれ は 竹馬の友 だ、 あれ は 親類 だ、 あれ は 親 

類の 親類 だ、 あれのお ゃぢ はう ちのお ゃぢの 友達 だ、 あれの 女房 はう ちの 近所の 娘 だとい ふやう 

に、 何 かしら か、 り あ ひ をつ け 度が る。 濱ロ雄 幸 氏が 總理 大臣に たり、 玉 錦 三右衞 門が 大關 にた 

つたり 優勝 額 を あげたり すると、 土 佐の 國 では 戸毎に 祝盃を 擧げ、 早慶 野球 戰が 慶應の 勝と なれ 

ば、 せ! 1 武水原 井川 堀 を 生んだ 四國高 松で は、 醉拂 ひの 數を增 すと きく。 ぉ國 負 はもと よりで あ 

るが、 他人よりも 自分の 方が これらの 英雄に 何 か 近し ぃ關 係に あると いふ ほこりが 強い ので ある。 

有名に なり 度い、 然ら ざれば 有名な 人間と 知合に なり 度い とい ふ 心 持 は、 萬 人 共通の ものら しい。 

藝者は 役者の 座敷に 出た 事 を 自慢し、 女給 は映畫 俳優と 知合で ある 事 を ほこり、 文學 少女 は 文壇 

の 大家 を 訪問す る 冒險を 喜び、 叉 S 々進んで 肉體を 捧げ、 新聞 雜 誌の 特種と ならん 事 を これつ と 



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ろい ろい の ンァフ 



める 傾向が ある。 

昔 は 大名が 力士 を 抱へ、 明治に なっても 角力 ファン は、 最負 力士の 爲に 千金 を惜 ます、 化 班 廻 

を こしら へて やったり、 家 を 建て、 やったり、 女房 を 世話して やったり した もの だが、 近頃 はス 

ボォッ 愛好の 重役 は、 爭 つて 運動選手 を 雇 入れ、 恰も その かみの 大名の 抱 力士に 於る が 如き 優越 

感を味 はふ 事が はやって 來た。 , 

よく ある 事. だが、 運動 競技に 半解の 興味 を 持つ 先輩で、 選手 を引具 して 料理 茶屋に 行き、 いつ 

ばいの ませて 得意がる のが ある。 それが きっかけに なり、 田舍 から 出て 來て 忽ち 東都 運動界の 花 

形と なり、 心 持の 上に もお ちつき を 失 ひ 勝な 選手が、 奇麗な 座敷で 女達に ちゃほやされ、 つい 身 

を 持 崩した 例 は 少なくな い 。 

つい 近頃の 事 だが、 或人が憤慨して話した。,その人は休暇を利用して溫^^場へ出かけ、 ホテル 

に 宿 をと つた。 客 も相當 たてこんで ゐ たが、 ホ オルの 賑 ひがた ゾ 事で 無い ので、 のぞいて みると、 

或學 校の 運動選手で 頗る 人氣の あるの が、 お嬢さん 達のお 相手をして ピ ンボ ンを やって ゐ るの を、 

ホテル 中の 客が 集って 見て 居た の だ。 その 選手の 人氣 たる や、 濱ロ犬 養若槻 をし のぎ、 天 寵武藏 

山 朝潮 をし のぎ、 左 圑次猿 之 助 八重 子 をし のぎ、 千惠藏 傳次郞 妻三郞 をし のぐ ものであるから、 



195 



黑 山の 人た かり も 無理 は 無い。 殊にお 孃 さん 達 は 本妻の 子 か 妾の 子 か は 知らないが、 現代の 貴族 

富豪の 娘で、 素顔 は 鬼に 角、 お 化粧に は 手を盡 し、 衣裳 は贅澤 の阪り をつ くして ゐ るの だから、 

見物の 好奇心 を滿 足させる に は 充分 だ。 しかも、 一度 運動場に 立つ や 幾 萬の ファン を 熱狂させる 

みつ 

選手が、 お 相手役の 性根 を 忘れす、 わざと を かしな 身 振 をして 負て 見せる ので、 笑聲 堂に 滿る騒 

ぎだった。 目撃者 は 試みに、 ホテルの ボ オイ を とらへ、 その 選手が 誰と 來てゐ るか を たづね たと 

ころ、 返事が 手 きびしい。 「何々 樣 のおと もです。」 それ以来 その 人 は 其 選手 を 憎み、 その 選手の 

母校 迄 も 嫌 ひに なった。 

有名な 選手 を 連れて 步き、 ともに 遊ぶ 事 は 女の ファンの ひとつの 願と なった。 殊に 金 持の 女房 

などで、 選手 を 我家に 招いたり 御馳走したり、 小 遣 を やったり、 お 洋服 を こしら へて やったり、 

時には 泊めたり する のが 出て 来たさう だ。 昔 は 女の 浮 氣者は 役者と 遊ぶ 事を好ん だが、 役者 だと 

世間が うるさく、 亭主が うるさく、 あとくされの 煩 はし さが あるが、 學生は 面倒が 無く、 金が か 

、ら す、 おまけに 近代 味が あるので、 遙 かによ き 遊び相手 だとい ふ。 

私 はさう いふ 話 を 聞く 度に、 選手 を 非難す るよりも、 羨む よりも、 それ 程うる さい 誘惑の 網 を 

張られて ゐ るの を氣の 毒に 思 ふ。 大概の 人間なら、 その 誘惑に 負て しま ふで あらう。 年少の 選手 



196 



•JS いろい の ンァフ 



よりも、 擦つ からしの ファンが 惡 いの だ。 

あつめ 

運動選手 をお 抱 力士の やうに 极ふふ てん \ しいのに 比べる と、 サイン を 求め, 寫眞を 買 集る の 

なぞ は 甘い もので、 たかん \ 浴衣に 羅馬 字で 最 負の 學 校の 名 を染 出した の を 着て 步く か、 慶應な 

ら慶應 > 早稻 田なら 早稻 田の 味方で あると 宣言す る 意味で、 草履のお もてに 校 名の 歷然 たるの を * 

土 ふます の 少ない あぶら 足で 踏 づけて 得々 た る 程度に 過ぎまい。 

きくなら く 方々 の女學 校で は、 運動選手 を 兄に 持つ 生徒に 交際 を 求める 同窓生が 頗る 多い とか * 

將を 射ん とする 者が 馬 を 射る やうに、 先づ 妹と 仲よ しにな り、 おもむろに 御 兄 さまと 御 親密に な 

らうと する 深謀遠慮の いたす ところで ある。 花お を 贈ったり、 レタァ を 差 上げたり する の なぞ は、 

寧ろし をら し いとい はねば ならぬ。 

し をら しいと いへば、 曾て 早慶 庭球 戰の 日に、 頗る 可憐な 風景 を 見た 事が ある。 大 森の コ オト 

お ほ 

だった から、 慶應 負の 女學 生が 多勢 ゐた。 大概 は 特殊 階級の 子弟の 通ふ學 校の 生徒で、 いづれ 

は由緖 ある 家々 のお 姬樣 であらう が、 二三 人づ、 かたまって 步き 廻り、 叉 拍手の 應 援を途 つて ゐ 

た。 きけば、 この 連中 は、 平生 大 森の コ オトで 練習して ゐ るの ださう である。 凡そ 當今 流行の ス 

ダ 7 

ポオ ッの 中で、 庭球 程 貴族的な、 お 上品な の は 無く、 藤史 ある 對校 試合と 雖も、 ^して 見物 は 熱 ー 



( 



狂しない。 野球 や ラグ ビィの やうに、 たった 一度の 機會が もの をい ふやうな 緊張 感は 無く、 大宮 

人 はいと まあれ やとい ひ 度い 遊技で、 折 柄 微風に 散る 櫻の 花と. 女學 生の 見物 は、 ー曆柔 かい 色 

彩 を 加へ たのであった。 その 曰の 試合 は 慶應が 勝って、 女 學生は 胸 を 叩いて 喜び 合った。 選手 等 

は 更衣室に 引上げた が、 春の 日 は 長く、 昔の 選手 や、 これから 選手に ならう とする 連中 は、 コォ 

トに 下りて 行って、 打 合った。 遲れ 走に 一 人、. つい 前年度 迄 最も 有力な、 最も 人氣の ある 選手 だ 

つた 人が、 スマ アトな 姿態で かけて 来た。 とたんに 水兵服の 女學 生が、 その 行 手 を 遮った。 「ち 

よつ と 御寫眞 を」 女學生 風に、 頭 を 下げす に 胸 をつ き 出す やうな 挨拶 をして、 いきなり 小^の. お, 

眞機 をつ きつけた。 靑年 紳士 はに こ/ \ して、 ラケット を 持直し、 氣 取らない やうな 氣 取った や 

うな ボ オズ を とった。 「もうい 、 の. 一 靑年 紳士 は 相手の < ぬ くの を 見て、 い つさん に コ オトへ 飛んで 

行った。 

私 はこの 風景 を 偸 快に 見た。 靑年 紳士 は、 その 頃 女流 庭球 選手と 結婚した ばかりだった。 彼 は 

眉目 すぐれたる 優男で は あるが、 それ故に 寫眞機 を さし 向けられ たので は あるまい。 恐らく 水兵 

服の 令壤の 心の中 を おしはかれば、 現役の、 未婚の 選手の 寫眞 をう つす 事は氣 がさし、 は.、、 から 

れ るが、 旣に 卒業し、 結婚した 人に はおめ す 臆せす 接近す る 事が 出來 たので はないだら うか。 乙 



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ろい ろい の ンァフ 



女心 を 誰かし る。 (昭和 六 年 三月 二十 九日) 

、 その 五 

相撲 はすた つた、 もう 今日の 時代の もので は 無い とい ふ 者に はい はせ ながら、 今日の 國技館 は 

常 陸 山 梅 ケ谷對 立 時代の 囘向院 の 客の 三倍 を收容 して、 十一 日の 本場所 中 五日 や 六日 は賣 切って 

ゐる。 殊に 玉 錦 朝潮 天 龍武藏 山の 四 豪が 横綱の 榮位を 爭ふ壯 観に、 つい 此間迄 相撲 はすた つた 說 

の最 尖端に 立って ゐた 新聞 雑誌 も、 いつの 間に か 筆法 を かへ、 再び 特大の みだしで 書きた てる 事 

になった。 今日 世の中で 新聞 程 宣傳カ を 持って ゐる もの は 無い から、 相撲 はすた つた 說を ひろ め 

られ るの は 斯道の 痛 事に 相違 無い。 或 相撲 ファンの 如き は、 新聞が 逆宣傳 さへ しなければ 十一 日 

間賣 切る だら うと 云って ゐる。 それ は少々 大裂裟 だが、 半分の 眞理は ある。 

他の 多くの ファン は、 一寸 相撲が すたった やうに 見えた の は、 久しく 大 力士が 出現し なかった 

からだと 云 ふ。 これ も噓 とはいへ ない が、 私の 見る 所では、 昔 は 多數の 人の 觀覽 する. もの は 芝居 

と 相撲 丈 だ つたのに、 今 は 野球 蹴球 庭球 拳闘 競馬 水泳 陸上競技 その他 數 へ る のに 骨の 折れる 程备 

種の ものが 揃って ゐて、 血の 氣の 多い 人間 を 相撲 だけに 集める とい ふわけ に は 行か なくなつ たの 



199 



が、 抗す 可らざる 原因で あらう と 思 ふ。 

こ の 事 を 頭に 置きながら、 私 も 常 陸 山 梅 ケ谷對 立 時代 を もつ て 相撲の 全盛期と 見る ものである。 

常 陸 山と 梅ケ 谷が 相 鬪ふ日 は 全く 今日の 早慶 野球 戰の騷 ぎに 等しかった。 天下 を あげて、 常 陸 山 

最負 にあら ざれば 梅 ケ谷最 負だった。 初 顏合は 明治 三十 一年 五月で、 前者 は 幕下 貧乏神、 後者 は 

すぎ 

幕: S: 前頭 ニ妆: E で、 本来なら ば 位が 違 ひ 過て 顔の 合 ふ 害で は 無い の だが、 ファンの 熱望に 協會も 

商 賫氣を 出し、 二 曰 目に 取組んで 常 陸 山が 勝ち、 二度目 は 八日 目迄雙 方土附 すで 九日:;; 1( その 頃 

は 晴天 十日の 相撲で 幕の 內は 九日し かとらなかった) に 顔が 合 ひ、 再び 常 陸 山が 勝ち、 三度 目 は 

引 分に 終った が、 四 度 目に 又々 常 陸 山が 勝った。 その 晚或 旗亭で、 梅 ケ谷最 負の 藝 者が、 ロ惜泣 

きに 泣きながら、 常 陸 山の 腕に くら ひつ いたと いふ ゴ シップ が傳 はった。 

その 翌日が 常 睦 山と 荒 岩の 初 顔 合だった。 ひとたび 常 陸 山の あら はれる や- 向 ふところ 敵な く.. 

弱き を扶 ける 人心 は、 どうかして 彼 を 破る 勇士 を 見出し 度が つた。 荒 岩 は 地方 巡業 中 弄 花 事件に 

ひっか、 つて、 前場 所に は 出場し なかった が、 此$ 場所 は 頗る 元 氣で勝 放して ゐた。 當 時の 兩カ 

士は 東西の 關 脇だった。 私の 記憶 は 明かで 無い が、 立 上る と 常 陸 山が ー氣に 押し、 荒 岩 は 土 依 際 

で堪 へ、 掬投を 見せて 廻り 込む と 反對に 押切った ので ある。 四方の 桟敷から 帽子 羽織が 降って 土 



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ろい ろい の ンァフ 



S に 山 を 成し、 歡喜 熱狂した ファン は 銷圑を 投げ 茶碗 を はふり、 辨當箱 を 投げる 者 もあった。 現 

たし 1 一ぶ 

に 私の 從兄 は、 飛んで 來 た辨當 箱が 頭に あたって 痰 瘤 を こしら へ、 痛い よ 痛い よと 訴 へても、 昂 

奮し きった 父親 は あとの 勝負 を 見逃して なる もの かとい ふ 根性から、 痛くない 痛くない と 叫びつ 

斷然 痛くない 事に して しまったと 云 ふ 笑話 も ある。 

その 晚荒岩 は あっち こっちと ファンに 招かれ、 泥醉 して 歸 宅した 時、 無雜 作につつ こんだ 懐 や 

袂の 祝儀 は壹萬 圓に餘 つたと いふ 事で ある。 當 時の 壹萬圓 だから 素晴らしい。 

國技 館の 出來 たの は 四十 二 年で、 旣に常 陸 山 梅 ケ谷は 衰退 期に 入らん とし、 太刀 山 完成の 時代 

が 近づいて ゐた。 時代 を 異にする 力士の 強さ を 比較す る 事 は 不可能で あるが、 太刀 山の 全盛時代 

の 強さ は 常 陸 山の 盛時に まさる ものが あつたの では 無いだら うか。 それに も 拘らす 彼 は 不人氣 の 

力士だった。 容貌 性格 皮膚の 色が 陰性で あり、 相撲 振が はげし 過ぎ、 且 立ちの 汚なかった 事な ど 

が 原因した もので あらう。 たちが 汚ない といへば 常 陸 山 隠退の 直前に、 旣に 太刀 山の 強味 はこの 

先輩 を 凌いで ゐ るに も拘ら す、 氣を拔 いて 立って 勝 を 占めた 事が ある。 時の 新聞の ゴシップ 欄に 

よれば、 國技 館の 便所の 壁に らくがき をした ものが ある。 曰く 「ぺ テン タツヤ マ」 東北 鹿の ファン 

の 義憤の 凝って 文字と なった もので あらう。 



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力士の 人氣の あるな し は、 強弱より も 容貌 姿態 の 美醜 によって 決定 さ れる *、 役者 の それと 異 

ならない。 きり やうの い、 のが 何より とくは、 決して 女に は 限らない の だ。 美貌で 且 強し とくれ 

ば 申 分 はたく、 明治 二十 年代の 相撲の 人氣を 一身に 集めた 横綱 小 錦 八十 吉の 如き は、 身長 あまり 

高から す、 まるまると 肥った 白皙の 美 膚は玉 肌と 稱 して 差 支な く、 しかも 全盛 時の はげしい 鐵砲 

に は 立む かふ 敵 も 無かった から、 強くて 奇麗な おすま ふさんと して 一 代の 人氣を 背負った の も 無 

理は 無い。 荒 岩 逆 鋅國見 山鳳大 鳴門 浦の 濱 梅の 花 野 州 山 土 州 山 綾川 黑瀨川 兩國福 柳 常の 花 星 甲の 

如き、 或は 強くて 奇麗な おすま ふさんで あり、 或は 弱い が 奇麗な おすま ふさんと して 金 切 聲の聲 

援を 浴びた 面々 である。 現在で も、 天 龍 武藏山 は 強くて 立派な おすま ふさんと して、 グ! 1 いって 

ん ばりの 朝潮と は 比較に ならない 人氣を 持って ゐる。 

その 點で、 古來 常の 花 程の 素晴らしい 橫綱土 依 入 は 無かった らうと 思 ふ" 小 錦 は 美しく、 常 陸 

山 は 豪壯 にして 比ぶ 可く も 無い が、 常の 花に は露拂 に武藏 山、 太刀 持に 天 龍と いふ 附人 があった。 

昔から 横綱の 土 入に は、 當の 本人 を 大きく 見せる 爲に、 鬼 角ち ひさい 力士 を 露拂ゃ 太刀 持に す 

るなら はしが あった。 それ も 所期の 效果 を擧る 上に 充分 意味 は あるが、 常の 花の 場合に、 横綱よ 

り も體格 偉大な 二人 を 前後に したがへ たの は 逆手の 效 果を發 揮した。 しかも、 三者 いづれ も 容姿 



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ろい ろい の ンァフ 



の 整った 力士 だから、 滿場 をうなら せた の は 御 承知の 通りで ある。 . 

現在 誰が 強いと い へば、 玉 錦 朝潮 天 龍武藏 山の 四 人を數 へる のが 客觀 的に 正しい が、 中で は 一 

番 弱い やうに 思 はれる 天 龍が、 人氣 では 第一 位 を 占めて ゐる。 武藏 山の 引締 つた 筋骨の 美し さは、 

惜 いかな 煤けた 肌の 色の 爲に 割引かれ るが、 天 龍の きめ. の 細かい、 つや」 かな 肌の 色 は、 薄い 光 

澤と柔 み を 持って ゐて、 イット は 充分 あり、 大様な 態度 堂々 たる 相撲ぶ りと 相俟って、 人 氣をー 

に歸 せしめた る 所以で あらう。 天 龍 土 依に 登る や、 四方の 棧敷は 俄に 醉拂ひ 女の 存在 を 明かに す 

る。 

愚妻の 里の もの ども は、 極めて 嚴 格なる^ 育 をう け、 活動 寫眞 さへ 見た 事 は 無かった 位で ある 

が、 私 は 反對に 勝手 氣儘を 本則と する 生活 をして ゐ るので、 自然 先方の 型 を 破る 事に なった。 愚 

妻 は 幼少の 時から 弱蟲 で、 かけっこ をして 一着になる に はなる が、 テェプ を 切る と 同時に 氣が遠 

くな つたり、 遠足に 行って 目的の 山の 髙 きを 仰ぎ見る と 目が 廻って 麓の 茶屋で のびて しま ふとい 

ふ 難物 だから、 凡そ 戶 外の 運動 は 辛抱して 見て ゐ ない。 それが 相撲 を 見る に 及んで 忽ち 十一 日間 

か、 さない ファンと なった が、 第一 の最 負が 天 龍、 第二が 武藏 山と 型通りに 出來 上った。 芝居で 

音羽屋 の 寫眞を 買 ふやう に、 天 龍の 寫眞を 手に入れ ると いふ 有様 だ。 萬 事が 姉 ま さりの 愚妻の 妹 



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も 矢張り 天 龍、 母親 も ごたぶんに もれす 天 龍、 妹の 子供の ちび 迄が、 「テン リウ」 とか ぼ そい 聲を 

;!;^,^ る。 電車に 乘 つ て も氣 持が 悪くな ると いふ ひょろひょろの 愚妻の w: 下の 望が なんだ とい ふと、 

天 龍と 武藏山 を 左右に して、 新橋から 京 橋迄步 きたいと いふの だ。 畜生、 なまい つて やが る、 そ 

ん ならこつ ち は グロで 行けと 意地に なって、 私 は 朝潮と 出 羽 ケ嶽を 左右に して、 同日 间 時刻に 京 

橋 か ら 新橋 迄步 いて やる ぞと 宣言 し た 。 (昭和 六 年 四月 一 一 十九 日) 

その 六 

一 

天下の 人氣を 集めた 六大學 野球 聯盟の、 この 春の シィ ズン は、 昨秋の 覇者 法 政が 渡米 中で 些か 

寂しい が、 その か はりに 新聞 雜 誌で 一番 人氣の ある 早稻 田が 小川の 復活と 伊達の 投手 起用で 近來 

にない 大 評判 をと り、 優勝 確實の やうに t 寸 される 一 方、 久しく 早 稻田を 完全に 壓 倒した 慶 應が宫 

おち 

武山下 岡 田 三 谷 本鄕を 一 時に 失って 力量 俄にが た 落した と 認められ、 弱い 弱い とうた はれる 結果、 

數に 於て 斷然 多い 早稻田 „@ 負の 大向 は、 すっかり 張 切って 球場へ 押 かけた。 ところが 豫想は 全く 

裏切られ、 早 稻田は 新聞 辭 令に 所謂 「至 寶」 小川 をプレ M トに 立た せながら、 しょ. つばな から 明治 

に ひつば たかれ、 二 囘戰を も 失って 忽ち 優勝に は緣 遠くな つてし まった。 世間の 人 は氣が 早い、 



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ろい ろい の ンァフ 



昨日 迄 優勝 は 早稻田 だと きめこんで ゐ たのが、 今度 は 明治 を 第一 候補に 祭り上げた。 新聞 も 書く、 

カフ H、 バァ、 待合、 料理屋、 俱樂 部、 役所、 會社、 銀行、 曰 II 屋、 床屋、 女學 校の 運動場 :— 凡 

そ 人間の. 集る 所で 野球の 話が 出れば、 今春の 明治の 強さ を 最大 級の 言葉で 語 合 ふの が 常識と なつ 

た。 それな のに、 再び 豫想は 裏切られて、 弱い 弱い とい はれた 慶應 が、 強い 強いと いはれ た 明治 

をス トレ M トで 破って しまった。 

この 第二 囘戰 に、 負けた 明治の 應援圑 は 叉々 亂暴 狼藉 を 働き、 神宮球場に 石つ ぶて を 降らし、 

惡 意の 無い 相手 校の 學生を ふくろ だ、 きにし、 直應の 監督と 選手の か へり を 待 伏して 危害 を 加 へ 

ん とし、 その 暴 狀の證 據の殘 る 事 を 惧れて 新聞社の 寫眞班 を 半死半生 のめに あはせ、 六大學 野球 

聯盟 戰の輿 味を滅 殺し、 且 母校の 名譽を 傷つけ た。 

た ぶ ん 審判 圑に も 手 落が あつたの であらう が、 何等 發言 權を與 へられて ゐ ない 應援圑 が 觀覽席 

から 球場. s: に 飛 下りて 相手 を 威嚇し、 一 齊に 退場して 「統制 ある 待 伏せ」 を 企て 「統制 ある 投石」 を 

し 「統制 ある 暴行」 を 働いた. の はか へす が へす も昆 苦しい 事で ある。 私は當 日勤め があって 試合 を 

見る 事の 出来ない のを殘 念に 思った が、 後に なって みると、 そんな 不愉快な 光景 を まのあたり 見 

なかった の は 寧ろし あはせ だと 思 ふので ある。 



■205 



元來 應援國 なる もの は、 あっても なくても ぃゝ ものである。 自 校の 學 生が、 その 競技に 冷^で 

あり、 無關 心で あれば、 自然 士氣は 沮喪す るに 違 ひ 無い が、 それ は 寧ろ 半 素の 事で、 試合 當 日の 

餘 りに 犬が かりの 應援 は、 かへ つて 味方の 選手 を あがらせ てし まふ 結果 を も 招来す る。 正直な 監 

督ゃ 選手 は、 應援 が屢々 迷惑な 場合 も あると 言明して ゐる。 それに も拘ら す 應援圑 は、 勝てば 自 

分達のカで勝ったゃぅ^^顏をしたがり、 負る と 選手 を 罵って ゐる。 どうも、 應援は 選手の 爲に存 

在す るので はなく して、 應援團 自身の 陶醉を 深める 爲に 存在す る もの、 やうで ある。 まし て^や 

無用なる 長 髮長髯 を 振りた て、 日の丸の 扇 を かざし、 おか ぐらの ひょっと この 手つき をしたり、 

國 食 開設 以前の 壯士の 如き 口調で 激勵 演說を やる なぞ は、 Em 竞 應援團 長み づ から を 樂 ませる 事に 

過ぎ な い 。 

由來 明治の 應援圑 程よ くない 歷史を 持って ゐる もの は 無い。 蕃判員 を 脅かす 事 再三に 及んで ゐ 

るので、 今度と いふ 今度 こそ 相當. の 制裁 を 加へ、 叉 明治 大學當 局 も、 應援圑 自身 も 反省して 名譽 

囘復を 心が く 可き である。 誰 だって、 あんな 暴行 を敢 てした もの. に 同情 は あるまい と、 大 に愤慨 

して ゐ ると、 或 友人が せ k ら つて、 世の中 は廣 ぃぞ、 明治の 應援圑 に 同情して ゐる ばかり か、 

あの 暴行 を 讚美して ゐ るファ ンも あると 云って、 次の やうな 話 を 聞かせて くれた。 



206 



ろい > ^いの ンァフ 



あの 暴行 事件の 數曰 後、 或 夜 或 バァで 行 はれた 光景で ある。 うす 暗い 窒 に は灌々 たる 煙草の 

煙, 紫に 綠に 赤に 照明 は混亂 した 效果を 出し、 蓄音器の ジャズ . バ ンドは 天井に 壁に 反響し、 型 

の 如き 騷々 しさの た 中で、 又しても 慶明戰 を 論じて ゐる醉 客が あった。 明治の 應援 w はいけ な 

い、 フェア. プレイと いふ 事 を 知らない、 三十 一年 型の 明朗なる ス ポオ ッ 精神 を 解さない、 時代 

遲れ だ、 野蠻 だ、 學 生らし くないと 三人 四 人口 を 揃へ て 喋って ゐ るのに ぴったり 寄 添った 女給 達 

も、 靑森縣 秋 田 縣岩手 縣廣島 縣岡山 縣群馬 縣 茨城 縣 などの 訛の 歷然た る 橋 音 を 以て 贊 成の 意 を 表 

して ゐ ると、 突然まん 中 どころ の 卓子の 客が 突立ち 上った。 諸君、 何故 明大の 應援 はいかんので 

あります かと、 まな じり を 決して 叫び 出した。 大分 銘^の 様子で はあった が、 當今 流行の 型の 背 

廣を 一着した 月給 取 風の 人物だった。 つれと 見える 二三 人が 拍手した。 その 男 はい、 氣 になって 

椅子の 上に あがって 演說 をつ けた。 

私 は 明大の 出身者で は 無い、 しかし 明大 ティ ィム を 最も 好む ファ ン, の 一人で ある、 湯淺、 梅 田 

の 黄金時代から 終始一貫した 明治 2® 負 だ、 何故 明治が い 、かと 云 ふと、 慶應は 拔術を 以て 戰ひ、 

早 稻田は 訓練 を 以て 戰 ふが、 我が 明治 は 意氣を 以て 戰ふ、 これ こそ 學生 野球の 本道で あり、 學生 

選手の 本分で ある、 果して 然 らば 應援團 も 亦 猛烈なる 鬪爭心 、熱烈なる 愛校心 を 持たねば ならな 



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い、 不可解なる 審判の 態度に よって 母校の 勝敗の 分る、 時、 彼等が 純眞 なる 情熱 は 理性 を 以て 止 

むる 事が 出來な い 程 旺盛だった ので ある、 彼等と 雖も 暴行 の爲の 暴行 をよ しとす る もので は 無い、 

暴行の 爲の 暴行の よくない 事 は、 人 殺の 爲の人 殺が よくない のと is じで ある、 しかし 皇國 の爲に 

戰 場に 於て 敵 をみ なごろ しにす る 事は稱 讚され るで はない か、 何故か、 皇 國の爲 だからで ある、 

それならば 母校 を 熟 愛する あまり、 若人の 血に 燃 ゆる もの どもが、 死 を 決して 敵陣へ 殺到す るの 

は 今 曰の 惰弱なる モダァ ン . ボ オイに は 思 ひも 及ばない 事であって、 我が 明治の 學生 にして はじ 

めて 敢行し 得る 壯擧 とい はねば ならぬ、 私 は 感激した、 若し 日本の 國 民が すべて 斯 くの 如き 意氣 

もえ 

に 燃るならば、 亞米利 加 も 露西亜 も 決して 怖る、 に 足りない、 私 は 明治の 應援團 の 勇 氣を稱 讚す 

る ものであって、 且 慶應ポ オイの 意氣 地な さ を 慨嘆す る ものである、 慶應ボ オイよ、 君達 は 何故 

應戰 しなかった か、 拳 を 以て 来らば 拳 を 以てむ かへ、 劎を もって 来らば 劍を もってむ かへ、 然る 

に 慶應に はこの 意氣が 無い、 彼等 は 震へ 上って 神宮球場に 罐詰 となった、 そんな 意氣 地な しに 何 

が出來 る、 我輩 は 彼等 を 唾棄し 明治 大學 の應援 圑を稱 讚す るので あります、 諸君、 幸 ひに 若し 我 

輩と 所 33- を间 じくす る 方々 は、 もろともに 明治 大學の 校歌 を 合唱して 下さい。 

四方八方から 拍手が 起り、 彼 は 感謝のお じぎ をして 椅子から 飛 下りた。 



208 



ちいろ いの ン アブ 



白雲な びく 駿河臺 

眉 秀でた る 若人が 



その 男 を 中心とする 一群が うた ひ 出す と、 あっちから もこつ ちから も 合唱す る ものが 出て、 先 

刻 迄 明治の 惡ロを 云って ゐた 女給 達の 甲高い 聲 もこれ に 和した。 

かう いふて あ ひが ゐ るんだ から、 應 援の淨 化なん て 思 ひも 及ばたい よと、 當 夜の nil 擊者は 歎息 

して 語った。 

まさかと 思 ひながら 聽 いたの だが、 その後 球場に 行って 見る と、 ファンの 態度 は 益々 悪くな つ 

てゐ る。 殊に ひどかった の は 五月 三十日、 早稻 田が 立敎に 負けた 後で 行 はれた 慶應帝 犬の 試合の 

時だった。 先刻 迄早稻 田の 爲に 聲援 して ゐた ファンが 一 齊に慶 應を彌 次る ので ある。 審判の 判定 

に對 して 見當違 ひの 抗議 を 叫び、 なんでもな いのに ポオ ク、 ボォク とわめ き 立て、 又 自分 達の 目 

の 前に 守備す る 慶應の 選手に 無禮 なる 言葉 を 浴せ かけ、 しいのに なると、 歸 りに 見ろ とか、 叉 

罐 詰に されるな、 どと がな り 立てた。 いつもい ふ 事 だが、 早稻 田の 選手の 態度 は 極めて 立派 だが- 

その 早稻田 を聲援 する ファ ンの 態度の 惡 いのは、 早稻 田に とって 氣の 毒で ある。 



209 



祌宫 球場 は 新装 成り、 野球の 技術 は 益々 發 達した が、 ファンが 競技 精神 を 正解す るの はいつ の 

事で あらう か。 (昭和 六 年 五月 三十日) .: . . 

その 七 

時。 昭和 六年舂 季早慶 野球 第一 戰の 日の 夜。 - 

所。 酒場の 一隅。 : - 

人。 甲と乙。 - 

^。ァ .ラ* ポオ トル。 

乙。 チ エツ、 疲 だな あ。 斷然 勝って る 試合なん だが な あ。 

^。 ニ對ー さ。 ベ H ス. ボ オル は 得點の 多い 方が 勝で、 少ない 方が 良 だ。 その外に 勝敗 を 決定す 

る 檩準は 無い。 

乙。 それ はさう だけれ ど、 あんまり 馬鹿々 々し いぢ や あない か。 早稻田 の 一 點はァ アンド. ラ ン 

だぜ。 凑ぃヒ ッ トで 堂々 入つ たんだ ぜ。 それに ひき か へ慶應 のニ點 はなんだ い。 ッ ゥ . ダウ ン で 



210 



ろい ろい のン アブ 



土 井の 凡 飛球 さ。 あんなの なんか 川口 町の 藝者 ティ ィム の 選手 だって 落しつ こない ひょろひょろ 

フライ だ。 それ を . 

甲。 それ を 落したん だから 下手な のさ、 無 失策の 慶應の 勝つ のが あたり まへ ぢゃ あない か。 

乙。 馬鹿い へ 。 うまい まづ いぢ や あないよ。 運 だよ。 村 井なら 村 井、 三 原なら 三 原、 どっち か 一 

人 行けば 樂に とれた 球なん だ。 そいつ を 二人が 讓ら すに ぶっかって、 ぼろり と 落して ニ點 なんて 

いふの は、 運命の 惡戲 とい ふ 外 は 無 いぢ や あない か。 . 

甲。 冗談い つち や あいけ ない。 ひとつの 球 を 同時に 二人が とらう とする なんて、 頭腦的 失策 だ。 

ティ ィム 全體の 無統制 を 暴露した もの だ。 外の 誰か ヽ ファァ ストなら ファァ スト、 セカンドな 

ら セカンドと 怒鳴れば い、 のに、 みんなが ぼんやりして ゐる もの だから、 あ、 いふ へまをやった 

ので、 まるで 代々 木の 原の ベ ェ ス . ボ オル だよ。 神宮球場の もので は 無い よ。 負る のが あたり ま 

へ さ。 

乙。 運 だ。 全く 早 稻田は 不運だった。 あの 一 點 とった 時 だって、 若し ラン チアが 三壘で 滑らな か 

つたら、 右翼の 送球 は 間に合 はな かったん だ。 さう 十る とニ對 二の 同點 で、 同點 となったら 追 ふ 

、もの は 追 はれる ものより 強いんだ から、 當 然早稻 田が 勝った 害 だ。 



211 



甲 駄 HT 々々、そんな 事 を 云ったら ま,^; 。 

たら-若 も あ i.i たらなん リリ" よ J 敗" 決 た 後で、 f めの 時.! つ 

こっちに だってい くらで きひ 分 まる。 以上 だ。 それが 許されるなら 

トは 出なかった とも 云 i^ru J! ii た 球が 二 i れてゐ たら ヒッ 

ii 勝で、 !" 勝::: r :r ::痴に! い。 應。 勝負 

ろ だが、 ii 時代 だ。 麥 酒で 養 1 つ:: rr^r 無 い。 i と 行き度い とこ 

乙。 チ エツ、 疲 だな あ。 - - ノ 

V 

時。 昭和 六 年 春季 早慶 野球 第 爵戰の 曰の 夜。 . 

所。 酒場の I 禺。 

人。 甲と乙。 . 

乙。 おい、 三 鞭々々。 ほんと でよ。 チち レ 

甲。 からう じて ミ けち/、 するな い。 I 田が 勝った んぢゃ あないな 



ろい ろい の ンァフ 



乙。 何が からう じて だ。 え, ヒットの 數を 勘定して みろ よ。 

甲。 當り そこな ひの ゴ 口 も 安打に 勘定 すれば ね。 

乙。 冗談い ふなよ。 權威 ある 六大學 公認 記錄 によって 安打と 決定され るんだ。 

甲。 ふ、 ん、 權威 ある 記錄 か。 この頃 は 安打 廉賣 時代 だ。 眞 直に 來た球 を トンネルしても 強襲 安 

打 さ。 なるべく 安打に しといた 方が、 打者に は 功名に なり、 野手に は 傷が つかす に濟 み、 四方 A 

方圓滿 なんだ。 四 囘四點 の 時の 岡 見や 村 井の 打った 球、 あれ を 安打と 稱す るんだら う。 

乙。 立派な 安打; C や あない か。 君達 素人に はわ かるまい が、 岡 見の 打った 球なん か 完全なる 內野 

安打 だよ。 

甲。 嘘 をつ け。 若 も あの 時 牧野が 無理な 本投を やらす に、 三壘に 投げて 一 人 アウトに して 置けば、 

みすみ 十四 點 とられる 事 は 無 かったん だ。 

乙。 それが 頭腦的 失策 さ。 文句 は 無い よ。 

甲。 それから、 あの 村 井の 打った 球 を、 若 も 牧野が つかんで ゐ たら …… 

乙。 若 も 若 も か。 みっともな いからよ せよ。 

すぎ 

甲。 だけど さ、 あんまり 運が 惡過 るよ。 ふだん コ ント ti オルの い、 水 原が、 どうして あ、 四球 を 



213 



出した か、 實際 あの 一 ;! 丈で、 後は危 つかしい ところ は 無 かったん だからな あ。 

乙。 何 を 云って るんだ。 最初から 慶應 はおされ 通し ぢゃ あない か。 鐵腕 投手 伊達に 牛耳られて、 

手 も 足 も 出なかった ぢゃ あない か。 . . 

甲。 な あに 四球 さへ なければ 負る 試合 ぢゃぁ 無かった。 早 稻田は 四球のお かげで 勝つ たんだ。 

乙。 選球が うまい から-さ。 それに 打ちた くても、 あんなに ボ オルが 多くて は 打てない よ。 鬼に 角 

四球 連發の ふら/ \ 投手と、 三日 連投の 投手 を 比べれば、 どっちが 勝つ のが あたり まへ かわかる 

だら う。 いったい 伊達 程 あぶたつ けの 無い 投手が 今迄あった かしら。 宮武 以上 だね。 

甲。 馬鹿い へ。 慶應 はいつ もス ト レ H トで 勝つ もんだ から、 宫武に は 三日 連投なん て 必要 は 無 か 

つたんだ。 まあ 考へ て も 見た ま へ。 慶應の 勝つ 時 はい つも スト レイト だ。 早稻 田の 勝つ 時 は三囘 

もし 

戰迄來 て やっと. こさ、。 今度 だって、 若も^!^越、 上野が 病氣 にさへ ならなかったら、 慶應は スト 

レイトで 勝って るんだ。 

乙。 又 若 も 若 も か。 病人の 事 をい へば 早稻 田の 方が 尙更 だ。 第 一 投手の 小川が 病氣 さ。 リイ グ第 

一 の 打者 佐 藤 も病氣 さ。 

甲。 たった 二人 きりだら う。 慶應に はま だ あるんだ。 井川 は 肋 膜で 本當 なら 出場 出来ない の を 無 



214 



るいろ レ、 の ンァフ 



理 して 出て ゐ るんだ。 だから ふだんの 半分 も 打て やしない。 いつも 勝利の チャンス をつ くる ラッ 

キイ . ボ オイ 高撟は 練習 中に 負傷して 一 li! も 出場 出來 なかった。 さう だ、 若 も あの 九囘の 裏に 高, 

橋 を 起用す る 事が 出來 たら、 きっと 慶應が 勝って ゐ たに 違 ひ 無い。 

乙。 おい/ \、 いつ 迄 若 も 若 もに 執着して るんだ。 

甲。 だけど さ、 若 も 宮武、 山 下が ゐ たら どうだい、 問題に も 何にも ならな いんだ ぜ。 

とつ,、 

乙。 いや だい や だ、 卒業 だか 退校 だか 知らないが、 夙に ゐ なくなった 奴 を 引 張 出して 來て、 若 も" 

あいつが ゐ たらなん ていふの は、 若 も 俺が 百萬圓 持って ゐ たら、 若 も 俺が 總理 大臣 だったら、 若 

も 俺の 女房が 絕 世の 美人 だったらなん ていふ 類の 夢 だ、 愚痴 だ。 誰だった かな あ、 勝敗 を 決定す 

るの は得點 以外の 何もので も 無い、 得點の 多い 方が 勝で、 少ない 方が 負 だと 云った の は。 

甲。 それ は それに 違 ひ 無い が、 あの 慶應 後半の 追擊 力の 凄 さ を 見る と、 實際 負る 害 ぢゃぁ 無 かつ 

たと 思 ふんだ。 若 も 最後に 川瀬の 打った 球が、 もう ちょっと 左に 寄って ゐ たら …… 

乙。 あは、、 \。 まだ 若 も 若 も を 繰返して るの か。 氣の毒 は 氣の毒 だが、 まあ 飲めよ。 おい 三 鞭 

だ、 三 鞭 だ。 (昭和 六 年 六月 二十 八日) 



その 八 

ファン は その 2@ 負の 人物が 我物と なる 事 を 熟 望す る。 それが 役者で あっても、 力士であって も 

近代 スボ ォッ 選手で あっても、 何とかして 接近し、 知己と なり、 友達と なり、 パト 口 ン となり、 

親類と なり、 若し 叉 女の ファンな らば 夫婦に なりたがる 傾向が 著しい。 旦那 面 をしたがる ファン 

が、 役!^ や 力士 を つれて 遊びに 行き、 お供の 方が 大 もてに もてる の をい、 氣 になって 喜ぶ 景色 は, 

旣に 甚だ 古風で あるが、 野球 蹴球 水泳 等 現代の 人氣を 背負って 居る 學生 選手 を惡所 場へ 引 張って 

行き 度が るファ ンが 多く、 席に 恃る女 等 も、 往年 役者に 對 したと 同様の 熱狂 振を惜 みなく 示し 與 

へる さう である。 たと へば 何某 選手が 牛鍋 をつ、 いた 箸 を 貰って 歸 つて、 大事に しまって ゐる女 

も あり、 叉 それ を 自宅に 於て 三度々々 用ゐて 密かに 親 嘴の 感に なぞらへ る 者 も ありと 聞く。 或は 

何某 選手の 口にした 卷 煙草の 吸殼を その 傣掃 溜に 捨て、 はもった いないと あって 叮 導に 紙に 包ん 

で持歸 り、 自分で 吸って 樂む ばかりで は 冥利が 惡 いと 考 へる 同朋 感の 強いの は、 同じお も ひのき 

やう だい 達に 分譲して、 い 、顔になる 者 も ある さう である。 その 馬鹿々々 しさ は、 恰も 本願 寺 さ 

まの 御 入に なった 風呂の? § を ありがた がつ て飮む 信徒 の 狂態に 比ぶべく、 叉 湯 具ゃド ラウ ヮァス 



216 



ろレ、 ろレ、 の ンァフ 



を 盗んで 快と する 變態 症に も 似て ゐる。 女性 ファ ン の 側で はさう いふ 風な 岡惚 組 は澤山 あるが、 

パト 口 ン面 をして 料理屋 待合に 引 張って 行く わけに も 行かない ので、 物品 を 贈って * 負の 熱度 を 

示さう とする 者が 少なくない。 花束 や 菓子 果物 は 事 古り て、 わたくしの えらんだ ネクタイ だから 

是非々々 身に つけて K 戴、 心 を こめた 手 編の スゥ H タァ だからお 召 下さい、 とい ふの が あるかと 

思 ふと、 金 廻りの い 、不良 マダム は 洋服 外套 取 揃へ ておしき せの 如く 拜領 させようと いふの も あ 

る さう である。 どうも 近頃の 選手 は 貰 ひ 癖が つい て 困る と 嘆 じた 監督 も ある。 

それ 程 はっきり 接近す る機會 のつ かめない ファ ンの心 は いぢら しく、 悶々 の 情 同情に 堪 へない 

どうす る れん 

ものが ある。 その 昔 娘 義太夫 全盛の 時代に は、 堂 指 連の 名 を 以て 呼ばれた る ファン、 目 ざす は M 

嫔の 太夫が 掛 持の 寄席から 寄席へ 飛ばす 人力車の 後抻 をして、 遙々 山の手から 下町へ 呼吸 を 切ら 

して 追隨 した もの も あると 傳へ るが、 役者が 舞 臺を濟 ませて 歸 るの を樂屋 口で 待 構へ、 素 顏を拜 

まう とす るき いちやん みいち やん は當 今と 雖も其 の 數 を 減じ ない。 た 拜む ばかりで は滿 足しな 

い 積極的な の は、 何とかして 袖袂、 二重 廻の 端に なりと も觸 つて 見たい 愁 情に 驅られ て、 曰 頃の 

つ \ しみ を かなぐり 捨て、 おめ あての 乘る 自動車の 周 園に 潮の 如く 蠅の 如く 叉 蝶の 如く- 押 寄せ 

つきまと ひ 時にはし がみ つ かんと あせり いらだつ 者 も ある。 それが 小 芝居の 場合に は 一 段と 尖艇 



217 



化し、 充分なる 目的意識 を 以て 花道 際に 陣取る 娘 達 は、 厦々 仇 討に 出立つ 若き 武士の 袴の 裾に 手 

を 差 延ばす 悲壯 なる 場面 を 展開す る。 芝居 道で は 古くから 舞臺の 上で 女の 客から 聲 がか 、 ると 樂 

屋 一 統に禱 麥を 振舞 ふ 慣習が あると 聞いた が、 大 劇場の 女 客 は 野性 を かくして とりすまして ゐる 

からた まに 役者の 家名 を 叫ぶ の も 婆さんの 聲に 過ぎす、 おごり 榮 もしな からう が、 上記の 如き 小 

芝居の あられ もない 女 客に、 熱狂お のれ を 忘れて ゐ るので、 四方八方から 金 切聲の 聲援を 浴せ か 

け、 恰も 早慶 野球 戰當 日の スタンドの 光景 を 彷彿させる ので、 いちいち おごって ゐては 役者の 懷 

がた まるまい。 女性 ファンの 進出 は、 いづれ の 方面に 於ても 斷然 トツプ を 切って ゐる。 

ぬ 負の 身邊に 近づかう とする ファンの 心理 は、 六大學 野球 聯盟の 試合の 日、 神宮球場に 於て 白 

ョの下 赤裸々 に 見せつ けられる。 例へば 試合が 終了し、 腸に 響く サイレンが 悲しく 鳴り はじめる 

と、 出口に 殺到す る 幾多の 若い 女 を 見る であらう。 この 述中は 決して 歸りを 急ぐ 爲に 人波 を かき 

わけ、 大漁の 曰の 鰯の やうに 揉 合って ゐ るので は 無くて、 役者の 歸り を樂屋 口に 待つ きいち やん 

みい ちゃんに 等しき 阿子 魔 子 チヤ コ のと もがら なの だ。 今や 戰ひ 終って 引 上て 行く 選手 を拜 み、 

能 ふべ くんば その 身邊に 近より、 汗臭い ュ 二 フ ォォム の 端に 觸り 度い 野望 を 抱いて ゐ るので ある? 

最近 私が: n 擊 したの は、 春の 慶立 第二:! 戰の 日、 八 II 迄ー對 零で 立敎リ イドし、 辻 投手の 好投 



.218 



ろい ろい の ンァフ 



に慶應 の氣勢 あがらす、 殊に 七囘絕 好の チヤ ン スに ダブ ル , プ レイ を i& つて 退けられた 時 は立敎 

軍 は 互に 手 をと り 肩 を 組んで 躍 上り、 慶應軍 は眞靑 になって 一語 を發 する 者 も 無い 有様だった が. 

最終 囘 一死後 井川の 強 三 匍 を 野手 ー壘 に惡投 し、 二死後 土 井の 遊 越 直球に 同點 となり、 碟 石の ふ 

らふら 飛球が 安打と なって 幸運の 勝利 をつ かんだ 劇的 場面で、 嬉淚と ロ惜淚 にむ せぶ 選手が 夫々 

あげ 

引 上て 行く 折 柄 だ。 私の 目の前に 道 を 遮る 數臺の 自動車が あり, 危く 勝った 慶應の 選手 は 互に 抱 

合った 僮 車上の 人となり、 中には 面 を 覆って 泣いて ゐる のがあった。 それと 見て 待 構へ て ゐた棠 

摺女學 生 は 自動車 を 包 園し、 羞氣も 無く のぞき 込み、 あら 泣いて る わ、 あれ 誰? あら 何某さん 

だ わよ, と 口々 に 云 ひながら 自動車の 窓に 手 を 觸れる 者 も あり、 選手の 肉體の 一部で も あるか 

の やうに まるまると 肥った 車體を 撫でる 者 も あり、 中には あたし も 泣いて てよ、 いっしょに 泣か 

せて 頂きます わと 云 ひ 度 さうな 様子で、 半 巾 を 顔に 當 てた 小 妖精 もあった。 

こ の 種の ファ ンは 決して 選手と 面識が ある わけで も 無く、 曾て 一 度 も 口 をき いた 事 も 無い ので 

あらう が、 隙 さへ あれば 果斷 なる 盜壘を 企てん とする 心搆は 充分 ありと 見て 差 支 無く、 合宿へ 宛 

て 手紙 を 書いたり、 カレ ッヂ 浴衣 を 着て 見たり、 カレ ッヂ 草履 を 穿いて みたり、 又繪 葉書 を 買 集 

めて 日夕 我が 想 ふ 君の 勇姿 を拜 する 組で あらう。 縛 葉書と い へば 曾て ある 人氣 俳優 を密に 鐘し、 



? )9 



そ の 素顔と 舞臺 額と を 問 はす かりにも その 人の .Jil 眞な ら何か ら 何 迄 集め て 持って ゐる 令嬢と 呼ば 

れる 側の 女が あって、 寫眞の 數は數 百 枚數千 枚に のぼった さう だ。 ところが 此の 女性に とって 永 

遠の 戀人 でなければ たらない 役者 はお 定 りの 通り 大阪 の妓籍 にある 女を迎 へ て 妻と した。 それと 

聞いた 令嬢 は、 多年 買 集めた 寫眞に 針で 目 を 刺し 鋏で 鼻 を くりぬき、 小刀で 面 上 を 滅多 斬に して、 

こ れ を當 の 役者 へ 達 届けた さ う だ が 、 先年 早慶戰 の. 切符 を 買 求め ん と て 神宮球場 外に 夜 を 徹した 

者の 中に、 時の 慶應の 投手 宫武の 寫眞を 球場の 壁に 貼つ け、 その 心臓に 釘 を 打った 者が あつたと 

聞く。 犯人が 男で あるか 女で あるか はわから ない が、 丑の 刻詣 に 等しき しわ ざ は 女で な く て は、 

凄味が なく、 叉 呪の きゝめ も? 滩ぃ であらう。 (昭和 六 年 七月 二十 六日) 

その 九 

旣に 草相撲 あり、 草競馬の ある 以上、 草野球、 草 庭球、 草 蹴球 其 他い ろ/ \ の あるの は 當然で 

あらう。 就中 最も さかんな の は、 一番 大衆化 された ス ポオ ッ卽ち 野球で なければ ならない。 これ 

を 東京 近郊に 見ても、 i4l 地の あると ころ 必す 野球 試合が 行 はれ、 附近の ファ ンが 群り、 拍手喝采 

し、 彌 次り、 批評して 騷 いで ゐる。 その 代表的 風景 は、 毎日 代々 木の 原に 展開せられ、 土曜日 霍 



220 



ち、 、ろい の ンァプ 



の 如き は 一 時に 十數 組の 試合が 行 はれる 盛觀 である。 私 も 曾て 此處に 行 はれる 草野球の 應援に 出 

はなよ だし-、 

かけた 事が あるが、 さし もに 廣ぃ 原っぱ も、 幾 百の 無名 選手が 馳驅 する 時 は、 甚敷狹 隙 を つげ、 

あっちの 試合と こっちの 試合と 入り まじり、 甲の 組の 左翼 手が 丙の 組の 右翼 手と 背中 合せ や 向 合 

つて 立ったり、 しきりが 無い から 何處迄 もころ がって 行く 本 壘打を 追 ひかけ る 外野手 は、 他の 試 

合 中の 投手の 傍 を 通りぬ け、 更に/ \ 別の 試合 中の 捕手の 背中に 衝突す る やうな 場合 も 稀で は 無 

い。 よく 怪我 をし ない もの だと 思 ふが、 四方八方から 球の 飛んで 来る 危險 極まり無い 場所に 雲集 

する ファンの 熟 心に は 一層 驚かされる。 近所の ファン は 終日 見て 暮らし、 通行人 は 道草 を 喰 ひ、 

御用 聞 は 自轉車 や 岡 持 をお つぼり,: a して さ ぼって ゐる。 集って 來 る圑體 は、 役所 銀行 會社 商店 ェ 

場と いふ やうな 勤務先に よって 結合され たもの、 學校 友達の 寄 集った 俱樂 部、 隣近所、 何 町、 そ 

れ 町の ティ ィム、 いろ とりどり であるが、 こ、 にもお の.、 つから 二三の 傑出した 組が あって 斷然霸 

を唱 へ、 隱然繩 張 を 有し、 原の 中の 最適の 地 を 占領し、 選手 は 顏を賣 つて ゐる。 今 も 健在 かどう 

か 知らないが、 代々 木の 原の 草野球の スタ ァ., フレイ ャァに 片腕の 投手が ゐて、 ファンの 寵兒だ 

つた。 亞米利 加に も 片腕の 有名な 投手が ゐ たと かゐる とか 云 ふ 事 だが、 代々 木の 原の 隻腕 投手 は、 

球を投 する 時 は切斷 した 方の 腋の 下へ グラブ を 挾み、 球 を 投じた 瞬間に それ を 利 手に はめて 守備 



221 



に そな へ、 隻手よ くつ かみ、 叉 とっさに グラブ を脫 して 各壘へ 投球す る。 その 間 何等の 停 滯も無 2 

2 

く、 敏捷 圓 滑の 動作 は 見る 者 を 驚かせ、 ファンの 稱讚を 一身に 浴びる のであった。 打擊も 片腕で 

敢行し、 たま/ \ 私が 目撃した 時 は、 三 ニ壘に 走者 を 置き、 遊擊 手の 頭上 を 越る 安打 を 放って 易 

々と 一 一 者 を 生還 させた。 うまい もの だな あと 私 は 同行の 友人 を 顧みて 思 はす 感嘆の 聲を發 した。 

うまい もんで せう、 あれ は 有名な もんです よ、 片手で ピィ もやれば フワ スト もやり ます ぜ、 力 

アブ も 出す し、 安打 も 打つ し、 脚 だって 遲か あねえ し、 大した もんだ、 あれで もう 一本 手が あつ 

て ごらんなさいな、 竹內 だって 永 井 だって (その 頃の 早稻 田と 慶應の 投手) かな や あしない。 全く 

です ぜ、 嘘 だと 思 ふなら、 早稻 田で も慶應 でもい、 から 選手 は みんな 片手し か 使 はせ ねえで 試合 

を させて 見る がい 、や。 

突然 私の 横に 立って ゐた薄 禿の ぢ いさんが、 我が 事の やうに 自慢 を はじめた。 彼 は, 明かに 此 

もぐら 

の 原の 土 鼠 か 地蟲か 慕の やうに、 年中 棲息して ゐ るファ ンに違 ひ 無かった。 彼 は 目の前に 展開 さ 

れる俱 樂部戰 出場の 選手 を 我 子の やうに 知って ゐる。 伊藤 だか 井上 だか 山 田 だか 鈴 木 だか 加 藤 だ 

か 中 村 だか しらないが、 夫々 の 氏名 球歷を 知り、 得手 不得手 を 知悉し、 一 擧手 一 投 足に 稱 讚し、 

叱陀 して 飽く事 を 知らない。 彼 は見馴 ない 吾々 をい、 鴨に して、 自分の 知識 を 残り 無く 示し 度い 



ろい ろい のン ァ フ 



慾 望で 口 尻に 泡 を ふいて 居た。 

あ、 いけね え、 あんな バンドって ある もん ぢゃ あねえ、 ざま あみや がれ、 ゲ ッッゥ くつち まや 

あがった、 あいつ あいつで も へまをやり やが るんで すよ、 もっとも 未だ 若い から 爲 方が ねえが、 

あ、 うち や あがった, うち や あがった、 叉ー點 か、 これで ォ ー ル. セ ー ムだ、 なつち ゃぁゐ ねえ 

や。 

ぢ いさん は どっちの 味方 をして ゐ るので も 無く、 いづれ も 我 子に ひとしい 兩 軍の フ アイ ン . プ 

レ ィ を 期待して ゐ るの だ。 

ぢ いさんが しきりに 通俗 英語 を 使 ふのと 同様に、 選手 も 不思議な 英語 を 口にする のが 草野球の 

一 特徴で ある。 カム オン. ボ オイと か、 ドンマイ ン. ボ オイと か、 ゲッ ッゥ. ボ オイと か 無暗に 

ボ オイ を連發 し、 時に は 邪飛 球 を 追 かける 野手 を 激勵し て とれ/ \ボ オイと い ふやうな 和洋 混合 

も 出て 來る。 一番 面白 いのは、 邪飛 球が 遠くへ 飛び、 誰か 拾 ひに 行かう とする 折 柄、 新しい 球 

が 審判から 投手に 與 へられる。 その 時、 今 拾 ひに 行かない でもい、 ぞと いふ 意味と、 新 球が 出る 

ぞと いふ 意味 を こめて、 ネヴァ • ボ オルと 叫ぶ の だ。 これ は 原の 中の どの 組で も 通用す る。 我が 

薄 禿の ぢぃ さんの 如き も、 邪球の行衞をぼんゃり見5;1^っ てゐる選手がゐると、 やい ネヴァ • ポオ 



223 



ル:^ や あない か、 氣を つけろ、 まぬけ, など、 罵る のであった。 

草野球の グラウンドに は * も 柵 も 無い のが 通則 だから、 時には 緊張し 切って 守備 を 固める ナイ 

ナぎ 

ンの間 を 縫って、 美しい 日傘が 通り 過る 事 も ある。 ファン は 喜んで 鋭く 口笛 を 吹く。 ^母 車 を 押 

した 紳士が 悠々 と 突 切って 行く 事 も ある。 呑氣 なとう さん あぶね えぞと ファン は 絶叫す る。 まこ 

とに 朗 かな 景色で ある。 : . . . . ■ . 

草野球の ファ ン の 中には、 代々 木の 原の 薄秀ぢ いさんの やうに た 見て 樂む 丈で は滿 足しない 

のもゐ る。 たと へば, 町 の ティ ィムを 組織して せ 話 人に なり、 寄附 金 をね だり 歩き、 ュ 二 フ. h 

才ムの 柄 を 選び、 運動具の 保管 を 引受け、 隣接 町村との 試合の 交涉 にあたり、 愈々 當日は ベンチ 

に 在って 策 戰に參 加し、 彌 次り、 罵り、 喜 怒 哀樂の 限り を盡 す。 萬 一 町 tS: の 何某の 家で は 息子 を 

試合に 出す 事 を 喜ばない とい ふやうな 事が あると、 ファン の 中の 年寄 達が 羽織 を 一 着して 訪問し _ 

直談判に 及ぶ。 担めば 息子が いぢめ られ、 町內 づき あ ひ を 斷られ さうな ので、 いや/、 ながら 承 

知す る。 い、 え、 てまへ 共が 及ばすな がら 監督して 居ります から 決して 御 心配 は ございま せんと 

引受けて、 おい、 猛練習 を やらう ぜ、 隣村に 負けち や ぁ申譯 がね えだと、 恰も その 昔の 祭日に 神 

奧を かつぎ 出して 喧嘩 を賣 つたり 買ったり した 光景 だ。 つい 此の頃の 新聞に も、 芝 浦 あたりで 行 



224 



いろい の ン アブ 



はれた 草野球で 負けた 方の 選手 ゃファ ンが審 判官 を 袋叩きに し、 優勝 盃を 強奪して 質屋へ 持って 

行って 叉 あばれ、 ふん じばられ た 記事が あった。 

この 草野球 熱に うかされて、 老も 若き も、 心得の あるの も 無 いのも、 一度 は 試合 をして 見たい 

氣 持になる ものら しい。 現に 私 も、 さう いふ 連中に 誘 はれて、 臆面 も 無く 參 加した 事が ある。 勤 

務 先の 老童 達に まじり、 叉 「三 田 文學」 の 同人に まじり、 みづ から 戰ひ、 みづ から 彌 次った。 何し 

ろ 二十 有餘 年間 運動ら しい 運動 はした 事 も 無く. 年齢の せゐで 下腹に 無用の 脂肪が たまり、 骨 は 

固くなり、 足腰 はふら ついて ゐ るの だから、 ゴ a が來 ると しゃがむ のが 辛く、 飛球が 來 ると H: が 

廻る、 たまに 長打 を かつ 飛ばして かけ 出す と 心臓が 心配に なると 云 ふ 有様 だが、 矢 張 やれば 面白 

いの だから あさましい。 最近に も 私共 兄弟に 兄の 子 姉の 子 妹の 子 を 加へ た 一組で、 里 見 淳、 米 

正 雄 氏 等 の 組織す る ゲ ィ俱樂 部と 試合 をす る 約束 を した。 前の 晚惡 友に 誘 はれて 鎌 倉 の 砂 濱で成 

吉斯汗 鍋と 稱す る 羊の 炙 肉 をたら ふく 喰 ひながら、 老酒 を コップ で 鯨飲した お かげ で 、 腹具合 を 

害し、 炎 熟 酷し ぃ武藏 新田の 慶應 球場で 太陽 を 仰ぎ見た 時 旣に體 力と 氣 力の 衰へを 感じた。 我 軍 

は當年 五十二 歳の 兄が 事故 不參の 外 は みんな 揃った が、 先方 は、 めあての ゲイ 俱樂部 は 集まらす、 

上記の 二 氏の 外 は 方々 から 狩 出して 来た 連中で、 味方 问志 互に 顏を 知らない 烏 合の 勢だった。 し 



225 



かし 中には 現役の 中學 選手 も 二三 人 まじって ゐて、 tl.? 合なる が 故に 強味 を 増した 事 は 疑 も 無い。 6 

こんな 爲 鹿々々 しい 試合で あるが、 遙々 見物に 來て くれる ファンが 少なくなかった。 舉: 見久米 

兩氏を 花形と する 鎌 倉老童 連の 顏も あるので、 町- s: の ファン もつ いて 來た。 パパ ゃをぢ さんが 出 

るので、 雙方 とも 女子供の 彌 次が 多かった。 天下 周知 や 女性 ファン 久保田 万太郞 夫人 も來 場した。 

明治 十 年代に 霸を唱 へ た 溜池 俱樂 部で 投手で も 捕手で も 遊撃手で もや つての け、 好打 好守 好走 を 

うた はれ た帝國 美術 院會員 岡 田 三郞助 氏が 羽織 挎 であら はれる e 和 田 三 造 氏が 令息 令嬉 を つれ て 

やって来る。 今年 七十 歳に なった 私共の 母 も 應援に 来て、 何故 有 島 母堂 は 敵方の 應 援に來 ない の 

かと 物足りな がった。 , 

斯の 如く 見物の 顏は揃 つ た が 試合 は 草野球 の 草野球た ると こ ろ を遣憾 なく 發 揮し て、 結; 15 一十 

點對 十六 點で我 軍が 敗退した。 

た、 かひ 終って 岡 田さん の 感想 を 伺 ふと、 四十 餘年 前に 比して 打撃が 著しく 進歩した やうに 思 

ふと 云ふ眞 面目な 返事に 接して すっかり 參 つた。 兩軍 とも 投手が 恐くない ので ぼか/ \ 打つ、 打 

てばし くじる からどし/ \ 得點 する、 如何にも 打擊が 優秀の やうに 見える のだった。 

和 田さん は 口が 惡 いから、 よく 見に 來て 下さった と挨拨 すると、 うまい 野球 は 度々 見て ゐ るが 



るいろ いの ンァフ 



面白 を かしい やつ は 見た 事が 無い から 出かけて 來た。 いや 實に 面白かった。 この 次に も あったら 

叉來 ると 云 ふ。 

母 は 母で、 こんな 面白い 事 は 近頃なかった、 どうぞ 又 やって くれと 里 見さん に 頼んで ゐる。 か 

うなる と 草野球の 選手 は 忽ち 止 度が なくなって、 秋風が 吹く やうに なったら 有 島 一族 を迎 へ、 雙 

方と もべ ンチに 老母 を控 へさせ、 一 戰に 及ばう とい ひか はした。 

我國の 人口 は 急激に 增 加し、 秋津島 根 は 日に/ \空 地 を 減じて 行く に 違 ひ 無い が、 それと 反比 

例して、 草野球 は 愈々 さかんになる であらう。 

まことに 聖代の ありがた さで ある。 (昭和 六 年 八月 三十日) 

その 十 

熟 心な 相撲 ファン を さして、 十日の 相撲 を 十一 日 見る 人 だとい ひ はやした もの だが、 此の頃の 

相撲 は 十一 日間の 興行と なり、 言葉の 價 値が 零と なった 爲か、 あまり 耳に しなくな つた。 ところ 

が、 最近 これと同じ やうな 無意味に 誇張した いひ 過し で 野球 ファンに 呼びかけ るの を 聞いた。 m 

く、 何しろ この 人 は 一 年中 ネット 裏に 頑張って 居ようと いふんだ から 云々。 違 ふ 時に 違 ふ 人の 口 



227 



から 耳に したので、 或は 斯うい ふい ひ 廻し が 世間 一 般に行 はれて ゐ るので はない かと 想 はれる の 

である。 い-つれ にしても、 さう いふ 熱心な ファンが あらゆる 競技に 於て 見出される 事 は事實 であ 

る。 何故 冬期に も 野球 を やらない のかと 遣憾 がった 人が あるし、 夏期に も ラグ ビィを やれと 主張 

した 人 もあった。 ファンと いふ もの は、 それ 程 熱心で、 义 それ 程 無理解な のが 多い ので ある。 た 

とへば 相撲の 棧敷を 十一 日間 買 切って ゐる 人が 必す しも 角通で 無い やうに、 神宮球場 ネット 襄の 

指定席の ファン、 必す しも 球 通で は 無い。 しかし 通ぶ る 傾向の 著しい 事 は 忽ち 觀取 する 事が 出來 

る。 俺 は 始終 見て ゐる、 だから 知って ると いふ 簡單な 論理に 信頼して、 却って 斯 技の 細かい 味と、 

面白味の 勘所 を 見逃して ゐる やうに 見 受られ る。 彼等 は 明かに 知識階級 である。 だから 三階の フ 

アン や 外野の ファンの やうに 單 純に 熟 狂しない。 1^ くまで も 一方 を最 負し、 その 敵 を 露骨に 憎み 

罵る 態度 をよ しとせ す、 .S 心の 偏愛 は 押 かくし、 冷靜 公平 を 通の 道德と 心得て ゐる。 それならお 

となし く默 つて 見て ゐ るかと 云 ふと 決して さう では 無い。 喜 怒 哀樂を 色に 示し、 形に あら はす 事 

はい さぎよ しと しないが、 ィ ン テリの ィ ン テリた る弱點 で、 兎角 知識 を 誇示し 度が る。 3« 々競 

技 を 見す に 喋って ゐる。 っ儿來 相撲の 手 捌 は 頗る 早い 變化を 以て 行 はれる ので、 充分の 注意と 研究 

が 無ければ 見極められ. ないし、 野球の 複雑なる 技術と 機 會と作 戰とは 刻々 の 變化を 伴 ふので、 ぼ 



2?8 



ろい ろい の ンァフ 



ん やりして ゐて は判斷 しにくい ので ある。 だから ファ ン の 多くが 競技 を 他所に して 喋つ てゐる 事. 

は、 大概 當而の 勝負の 進行に は 痛切に 響かない 無駄話が 多く. 近所迷惑 は ー歷甚 しいの だ。 例 を 

擧れ ば、 土^の 上で は 東西の 力士が 眞劍 になって 勝負 を 決しよう として ゐ るのに、 その かみの 常 

陸 山 太刀 山の 強かった 事、 梅ケ 谷が 四十 餘貫 のま、 ならぬ 體 でありながら、 いかに 相撲が 上手で. 

あつたか, 荒 岩 逆 鉢が いかに 手 取で あつたか、 誰某 は 何縣何 郡の 産で 誰某の 部屋に 屬し、 身長 何 

尺 何寸、 體重何 貫 何百 欠で、 角界き つての 大飯 くら ひで あり、 誰某 は、 親子丼 を 十 杯 平らげ、 誰 

某 は ゥヰス キイ を 四 本 半 呑んで、 誰某 は 親孝行で、 誰某 は 柳 橋の 何 子と い、 仲 だとい ふやうな 知 

識を、 小 田 卷の盡 る 時な く 物語る が、 扱て 土 俊の 勝負 はどうい ふ 變化を 生み、 何が きまり 手で あ. 

つた かとい ふ 肝心の 事 は 無頓着と いふの が 典型的で ある。 野球の 場合 も 同じ 事で、 腰 本 監督 はい 

かに 強氣 であるか、 大下 監督 はいかに 厳格で あるか、 岡 田 監督 はいかに 智略 を藏 して ゐ るか、 何 

某 選手 は 何縣何 市の 庫; で 何 中 學に學 び、 何年 度に 甲子 園 大會で 優勝し、 何大學 から 猛烈に 引 張ら 

れ たが 結局 その 敵方の 何 大學に 入った。 身長 何 尺 何寸、 年齢 幾 歳、 何とかい ふ 女優と 浮 名の 立つ 

た の は宽罪 で、 何とかい ふ 不良 マダムに ロ說 かれた が 頑として はねつけ たの が事實 だと いふ やう 

な 知識の 數を盡 すので ある。 だが、 ィ ン フィル ダァ ス . フライ. アウト を 審判の 誤審と 見て 罵つ 



229 



たり、 滿墨 三振の 際の 捕手の 落球 を 問題に して ネッ ト裏 會議を 開いたり する 程實 際に はう といの 

である。 それに も 拘らす 一 球 毎に 批判し、 選手 監督 審判員の 頭腦の 程度 を 疑 ふやうな 言葉 を 口走 

る、 ^しその 所論 は 十 中 九 迄 結果論で、 投手 交代の 結果 救援投手が 打 たれる と 俄に 監督の 不明 を 

詰り、 危機打者の 起用、 バ ントと 強打の 適否、 すべて 結果が よければ 是認して、 流石 は 腰 本 だ、 

大下 だ、 岡 田 だと 我が 子分の 事の 如く 鼻を高くし、 反對に 結果が 悪ければ、 腰 本 どうした、 大下 

どうした、 岡 田 どうした となる ので ある.」 それで: K しく 優越感 を 味 ひ、 何しろ ネット 裏の ファン 

と 来た ら 選手 の 癖から 嗜好 迄 知 つて ゐ るんだ から 大した もんです と、 お 互にい ひ 合って 滿 足して 

ゐる。 

かう いふ 風に、 ファンの 興味 は必 すし も純粹 競技に あるので はなく、 深入り すれば する 程 熟 心 

になれば なる 程、 横道へ 入って 行く 傾向 も ある。 場所 中で も aM 負 力士 を 料理屋 待合へ 引 つれて 行 

き、 翌日の 勝負 を ふいにし てし まふ H: 那 ファン は 珍しくな く、 或は 醉 ひつぶ してみ たり、 或は 女 

を 取 持ったり する ファ ンも なく はない。 此の 種の 曰; 那ファ ンは 夙に 近代 ス ポオ ッ界 にも 出現して、 

選手 を 花 铕 へ つれて 行ったり、 あこがれて ゐる 女達の 環の 中に 同伴した りして、 自分の 威勢 を 見 

せ 度が るの が ある さう である。 力士 は 昔から 客に 祝儀 を 貰 ふ 習慣が あるから 止む を 得ない が、 學 



230 



ろい ろ、、 の ンァフ 



生 選手 を 同じ やうに 心得て ゐる ファ ンの あるの はなげ か はしい と 或 人 甲が 嘆 じたと ころ、 それ は 

未だし もい 、方で、 近頃 は 選手 を賣る 奴が 出現した と 或 人 乙が いきまいた。 

彼の 言葉 を 信じれば、 或 競技 界で 有名な 女性 ファン こそ は、 選手 ブ „1 ォカァ だとい ふので ある。 

これ は 頗るうる さ 型に 屬し、 その 道の 男女の 選手 を 年中 家庭に 寄せ集め、 をば さん をば さんと 呼 

ばれる のが 何よりの 樂 みだった のが、 何時の間にか 木戸御免の 形に なり、 地方に 競技の ある 時 は 

自分 も 選手と 同行して 監督 役 を 買って出で、 地方の 選手が 上京 すれば、 自宅に 宿泊させる と. いふ 

有様で、 その 道の 名 ある 選手で 手な づけて ない 者 は 一人 も 無い とい ふ 程 勢力 を 扶植した。 それが、 

各 中學の 選手 を、 各大 學へ賫 つける 顏役 になり すました。 隨分 前から 各 大學の 各種 選手の 爭奪は 

はげしく、 昨日 迄 銀行の 窓口で そろばん を彈 いて ゐ たのが、 今日は 大 學のュ 二 フ才 才ムを 藩て 運 

動 場 を かけ 廻り、 昨日 迄 何某 艦乘 組の 水兵が、 今日は 金釦の 制服で 角帽 を かぶり、 毋 校の 名譽の 

爲に 競走したり す る 裏面に は、 毎日の 衣食住から 小 使 錢迄學 校 持と いふの も ある さう だし、 入學 

試驗の 省略 は 勿論と して、 敎 場に は 一 度 も顏を 出さないでも 試驗 前に は 先生び 中の ファ ンが 合宿 

に來て 受驗の 要領 を敎へ て くれ、 最も 物 わかり のい 、學 校で は 運動選手の 試 驗の點 數は三 割增と 

す る 內規 さへ あると いふ tl- である。 果して 然ら ば 正钆附 の 選手 を 買 ふ か、 競賣す るか わかった も 



231 



ので は 無い。 或 人 乙の 知人 或 人 丙 は、 前記 をば さんに、 その 母校の 爲 一時金 數百圓 を 以て 有望な 2 

3 

る中學 選手 を 買 ふ 可く 勸說 された さう である。 不幸に して 或 人 丙の 母校 は 融通の 利かない 學 校で. 

此の 勸說 に應 する 事の 出来ない 空氣が 漲って ゐた。 せっかくながら 御斷 する 外 は 無い と 遣 憾の意 

を 表した ところ、 をば さん は 流石に 顏役 だ、 忽ち 啖呵 をき つて、 そんな 時世に 合 はない 野暮 を 云 

つてる から、 お前さんの 學校は あっちの 大學 にも こ つちの 大學 にも 年中 負けつ けて ゐ るんだ よ 

と、 うで を まくらぬ ばかりだった さう である。 (昭和 六 年 十月 二日) . 

. その 十一 一 

今年の 秋の 早慶 野球 第二 囘戰 は、 第一 囘戰を 失った 慶應 が壹對 零で リイ ド した 傣 押切る かと 思 

はれた のに、 最終 囘の 表に 早稻田 ー點を かへ して 同點 となり、 一方の 應援国 は 俄に 活氣づ くと 他 

方の 應援圑 は 意氣銷 沈して、 聲も しどろ になり、 殆んど 望 を 失った もの、 やうに 見えた が、 その 

囘の裏 二死の 後に 安打と 死球で 一 ニ壘に 走者の ある 時、 早 稻田內 野陣の 破綻で 慶應 側に 凱歌の あ 

がる 劇的 場景を 現出した。 悲喜 交々 の スタンドの 混雜の 中で、 私の 肩 を 叩いた 人が ある。 それ は、 

昔 慶應の 野球部に 淺 からぬ 關係 のあった 人で、 遠國 から 遙々 此ー戰 を 見に 來 たの だから、 むろん 



ろい ろい のンァ フ 



狂喜 して 然る 可 き 害な の が、 最初 に 口にした : 百 葉, を 何 だ と 思 ふ 。 

: 「も つ と靜か にべ H ス. ボ オル を 見たい な あ。,」 

と、 しかも 嘆. する やうに 云った ので ある。 

運動 競技 は 勝負 を 決する もの だから、 どっち を 鼓 負す る 見物 も、 興奮し、 熟 狂し、 喜 怒 哀樂を 

ちたり ま へ 

色に 出す のが 寧ろ 當前 だが、 自然に 色に 出る ばかりで 無く、 このき つかけ をい、 事に して、 自分 

はいかに 萬 人に すぐれたる 彌次 馬で あるか、 彌次 馬と しての 表現に 獨創性 を 持って ゐ るか、 熱情 

を もてあまして ゐ るか、 腕つ ぶしが 強さう に 見える か、 聲が 大きい か、 凄い か、 頑猛 か、 頓狂 か、 

何 かの 特徵を 誇示したくて 堪らなくなる 人物が 頗る 多い。 されば こそ 芝居の 大 向が 音羽屋 ァ播磨 

屋ァと 絶叫す る意氣 で、 伊達が 打棒 を 持って 出る と 大統領と 叫び、 田 部が プレ H トを 踏む と 野球 

の 神 樣ァと 怒鳴り、 些か 趣 は 違 ふが 川瀬が あら はれる と藍藕 玉ァと 罵る ファンが あるので ある。 

人 も 知る 三 田の 汁 粉屋のお ゃぢが 日の丸の 扇 を 開いて 見榮を 切れば、 鶴卷 町の 下宿屋の 婆さん は 

海老茶の 旗 を 振 立て、 對抗 する。 一高 三 高の 對杭 試合に は、 健兒 と自稱 する 兩 校の 應援圑 のな ぐ 

り あ ひ を 以て 幕を閉 るの が 慣例で ある。 

つらつら おも ふに 應援圑 が 味方 を最 負に する あまり、 熱狂す るの は 無理 も 無い が、 その 熱狂 振 



? 33 



を 誇示す る 事に 百害が あるの だ。 ほかの 仲間よりも 自分 は斷然 猛烈に 熟 狂して ゐるぞ と * 形に あ 

ら はしても 兑せ 度が る 根性が、 厦々 不祥事 を ひき 起す ので ある。 その 不祥事 を 避ける 爲に、 早慶 

明の 應援圑 が、 統制 ある 學生 應援團 以外 は 御 互に 責任 を 以て 取締ら うと 誓約した の は、 現在の フ 

ァ ン の 態度から 見て 歡迎 すべ き 事であった。 これ はもと より 今春の 明大 應援圑 の 暴行が 近因と な 

り、 各 應援團 に 自尊の 觀念 をいだ かせようと 云 ふ もくろみで、 新聞紙の 傳 ふる 所に よれば、 早稻 

田 側の 發意 に 基づ くもの だと 云 ふ 事であった。 流石に 政治家 の 生まれる 學校 だけ あると 感服して 

ゐた ところ、 早慶 第一 戰當 日に は、 早大 側の 便衣 應援隊 が騷々 しく 彌 次り はじめ、 これ を 取締 

かね 

る 害の 學生應 援國は 一向 責任の 實 を擧げ ない。 見る に 見 兼た リイ グ當 局が、 ラウ. ト • スピ イカ ァ 

を 利用して、 學生 應援圑 以外の 應援は 一 切し ない 事に なって 居ります と 注意 を與へ ると、 その 言 

葉が 終る か 終らない 瞬間に, 何 をつ と 云った 調子で、 畢生 以外の 便衣 應援隊 は ー齊に 立上り、 フ 

レイフ レイ 早 稻田を 絶叫し はじめた。 すると、 取締るべき 害の 學生應 援圑は 急 霰の 如き 拍手 を以 

て 却って 歡迎 したので あった。 立派な 誓約 はかた なしにな つたが、 更に 驚くべき はつい 此間、 早 

稻 田の 發 意で 三校の 間に 誓約の 出来た 事を稱 讚した 新聞が、 翌日 便衣 應援隊 熱狂の 寫眞を 掲げ、 

且 = 'ィグ 當 局の 注意 に 反抗した 彌次馬 の 態度 を r 斷然 痛快」 と いふ 文字 を 以て 爆 動して ゐ るので あ 



234 



つた。 

これ を 問題に して 早慶の ファンが 叉爭 つた。 いったい 早稻 田の 彌次は 紳士的で 無い. かりにも 

自分の 方から いひ 出した 誓約 を 無視し、 之 を 破る ものに 對 して 喝采 を 送り、 稱讚 すると は 何事 だ" 

あれが 若し 逆に、 慶應 側の 便衣 應援隊 が フレイ フレイ 慶應を 叫んだ としたら、 抗議 好の 早稻 田の 

事 だから、 應援圑 の 中から 決死隊の やうな 顔つき をした. のが 肩 肱 を 張って 慶應 側に 文句 をつ けに 

行 くだらう、 よしんば さう 迄で 無い にしても、 慶應 側の 便衣 應援 隊が騷 げば、 早稻 W 側の 便衣隊 

も默 つて はゐ ない に 違 ひ 無い、 ところが 慶應 側の 一般 ファン は 誰 一 人 騒がす、 肅 然として 己 を 守 

つて 居た では 無い か、 そこが 違 ふところ だよ、 獨立 自尊と は 此の 事なん だとむ きになって つつか 

、ると、 早稻田 ファン はせ、 ら笑 ひ、 その 獨立 自尊って 奴が 氣障 だよ、 たまらな いよ、 臭いよ、 

ちゃんち やら を かしい よ、 い、 かい、 あの 三校の 誓約と いふ もの は、 此の 春の 事件 を 互に ふくむ 

ァ 慶 明が 又 下らない 騷動を 起して は 困る から、 未然に防ぐ 趣 il 曰で 第三者が 提議した の だ、 しかし 早 

^ 慶戰は 天下 を 二分す るた、 かひ だ、 選手が 死を赌 して 奮闘す る 時、 應援國 丈が 涼しい顔して、 お 

^ 公家 様が 毬を 蹴る の を 御簾の 中で 透 見して ゐ る御姬 様の やうに おとなしく 見て は ゐられ な いぢ や 

ろ ないか、 此の 場合の 應援圑 は 選手と 異體 同心 だ、 It をから して 歌 ふの は、 堪 へようと しても 堪へ 



235 



ちれない 自然 の 叫び だ、 そ れ を何ぞ や 上品ぶ つて 御 義理 いっぺんの 應援 しか やらない 慶應ボ オイ 

は、 男の子 か、 あれで も 若き 血に 燃 ゆる ものな のか、 そんな 事 を 云って るから 立敎 にも 明治に も 

ス卜 レイトで 負けたん だ、 御 氣の毒 だが そんな 非難 は 御念 佛と 同じ だぜ、 とこれ も 口角 泡 を 飛ば 

した。 . 

しかし、 何でも 彼で も 一方 をよ しとし、 一方 をけ なさう とする ファンの 議論 は as 々裏切られる。 

流石に 早稻 田の 應援團 は 昨日の 非 を いちはやく 悟つ て、 第一 一 间 戰には 便衣隊の 跳梁 を 許さな かつ 

たが、 これに 反して 己 を 守り、 如何なる 場合に も 銃 制 を 失 はない 事 を自馒 にして ゐ る慶應 が、 慘 

憶た る 第三!: 戰の 大敗に は氣を 腐らし、 學生應 援圑中 リイ、 タァの 指揮に 從 はす、 個人的 彌 次に 墮. 

落した 者が 多く、 あまつ さへ 試合 終了後、 何故 第一 日の 試合 は 雨の 爲に 中止し、 今日は 何故 雨中 

にも 拘ら す續 行した かと、 審判員 を 詰 間す る やうな 態度に 出た。 この 現象 を 「衣食 足て 禮節を 知 

る」 勝った 方 はおとな しく、 負けた 方 はいけ ない の だと 悟りす ました やうに 評した 人が あった。, 

鬼に 角、 靜 かにべ H ス. ボ オル を 見 度い とい ふファ ン よりも、 熟 狂 己 を 忘れる ファ ンの 方が 絕 

對多數 である 事 は 疑 も 無い。 

あげ 

玆に :!:- を 忘れた 適例 を擧 ると、 第一 戰ニ對 一 で早稻 田が 慶應を 破った 晚、 その 試合 を 見に 地. 



23^ 



ろい ろい のン ァ フ 



方から 出て 來た 取引先の 人 を 客と し、 私の 勤務先の 會社を 主人と する 宴會が 新橋の 或 家で 催され 

た。 末席に つらなった 私が、 隣席の 上役と 無駄話 をしながら 酒 を 飲んで ゐ ると、 突然 甲高い 聲が 

耳に 入った。 床の間 をし よ つ て ゐる御 客の 一 人と、 若い 藝 者が しきり にい ひ 合って ゐ るの だ。 い 

や、 いひあって ゐ るので はない、 年配の 御客さんが、 藝 者に 叱られて ゐ るかた ちだった。 その 女 

は、 一寸 馬の 種類 を 想 はせ る、 たと へば 縞馬の やうな 顏 つきで、 長くて 下の 方が つき 出た やうな 

感じの 顏が、 醉 つて 赤くな り、 怒って 一 層 赤くな つて ゐた。 

「い 、え、 なんてつ たって 慶應は 嫌 ひです。 斷然嫌 ひだ わ。 第 一 慶應は 卑怯です。 やり方が 汚な 

いわよ。」 

「何が 卑怯なん だい、 何が 汚な いんだ。」 

「卑怯です とも、 汚な う ござんす とも。 ボ才ク 問題っての 知って ます か。 知って たら 默 つて ゐら 

つし やい。」 . 

「あら 叉 あの 妓 はじめた よ。」 

と 私の 目の前に ゐる年 增が眉 を ひそめた。 

「野球って いふと 夢中に なつち まって, 何時でも あれなん です よ。 困つ ちゃう わ。」 



237 



「 へ え、 そんなに 好きな のかい。」. 

「え、 なんてい ふの、 フ、 ヮ、 ンて云 ふの かしら、 あれなん です よ。 もっとも 兄さんが 選手なん 

だってい ひます けど。」 . 

「あら 選手 ぢゃ あない わ、 監督よ。」 

隣の 若い のが 大姐 さんの 無知 を 嘲る やうに 訂正した。 

「監督 だって、 どこの 監督 だい。」 

「それが XX 大學 なのよ。 だ もんだ から X X の 事って いふと、 もう 頭に 血が のぼつ ちゃうの ね。 

お客様 だら うが 出先の 御茶屋 さんだら うがみ さか ひ 無し、 なんでも フ レイフ レイ X X つ て 意氣な 

ん だから …… 。」 

「ほんと かい、 X X の 監督 は 〇〇 とい ふ 人 だ ぜ。」 

話が 面白くな つて 来たので、 私も乘 出した。 とたんに、 

「慶應 はとても 汚な いんです。 第 マ 腰 本って 人が いけな いんです。 なんだい、 負けさう になった 

もんだ から、 ボォク だなん てい ひが、 り をつ けて さ …… 」 

と、 しつつ こく 管を卷 いて ゐ たのが、 此方の 話が 耳に 入った ので、 くるりと 向 直る と、 恰も 戰 



238 



ろい ろい の ンァフ 



場で 武士が 名のり を あげる やうに、 

一— え、、 それが あたしの 兄さんなん です。」 

とあかり の 下で 姿勢 を 正した。 

「はゝ あ、 あれが 君の:^ さんか。」 

もた • 

と 一 座の 人が、 ^さんと いふのに 特別の 意味 を 持せ てからかった。 

「い 、え、 そんなん おゃありません。 實の 兄さんです。 正眞 正銘の::.^ さんなんです。」 

何 子 だか 何 龍 だか 小 何だか 何 菊 だか 何奴 だか 知らないが、 此の 勇敢なる 女性 ファン は、 y>- 大 

學最負 の あまり 錯覺を 起して ゐ るので あらう、 その 大學の 野球 部 監督 は 自分 の 兄 だとい ひ 張り、 

それが 叉 何よりの 誇に 見える のであった。 

「ね、 わかった でせ う、 あたしが X 負の わけ は。」 

もう 一 度 床の間の 御 客の 方に 膝 を 向けた。 

「わかった。 しかし、 だからと 云って 慶應を 憎む 理由 は 無 いぢ や あない か。 若し あの 時の 事が い 

けない とい ふの なら、 審 判官 にん J つて か、 るの が 當前ぢ や あな いか。」 

「え、 理窟 はさうよ。 だけど 感情って もの はどうに も 動かせない でしよ。 野球の ファ ン なんてみ 



239 



んな 同じよ。 片方が 好きなら、 片方が 嫌 ひ。 あたし は慶應 が大嫌 ひさ。 フレイ フレイ ,>〉 ハ。」 

4 

さに なった お 姚子を 持って 立 上る と、 應援歌 を 鼻歌で、 裾 を 長く 引いて 襖の 外に 消えた が、 そ 

れっきり 戾 つて 来なかった。 (昭和 六 年 十一月 一日) 

その 十二 

昭和 六 年 秋の 六大學 野球 リイ グ戰 が、 慘憎 たる 早慶戰 と、 だらけ 切った 慶法戰 でお しま ひに な 

り、 何となく 喰 ひ 足りない、 馬鹿を見 たやうな 感じで、 胸の 晴れ やらぬ ファンに とって、 全米 野 

球 軍と 稱 する 一 圑を迎 へ る 事 は 闇夜の ともしびに 違 ひなかった。 されば こそ 前賣 切符 を 手に入れ 

る 爲には 非常なる 努力 を 要し、 十圓の 通し切符が 二十 圓で 飛ぶ やうに 賣れ たとい ふし、 かぶと 町 

邊の 若い者 は、 此の 不景氣 の 折 柄 本業の 方 は當分 見送 氣 分と 達觀し * 切符の プレミアム 稼ぎに 沒 

頭した のも少 たくない と 云 ふ 事で ある。 由來 大衆 ファン は 英雄 崇拜 で、 又甚 しく 愛!: 心に 富む か 

ら、 當然 二つの 極端なる 期待が 生れた。 ひとつ は、 豫 てきく 本場の 野球 を 超人の しわざと 觀じ、 

本遷 打が 十五 本 出る か 二十 本 出る か を 賭け、 日本の 學生 軍が たちむかって、 三十 點 とられる か 五 

十點 とられる かと 豫想 しあ ひ、 神宮球場 外野の 觀覽席 の 上 を ぼん ぼんと 飛び 越す であらう とか、 



ちいろ いの ンァプ 



あまり に壯大 なる 光景 を 想像した 一 群で あり、 もう ひとつ は 平生 崇拜 する 六 大學の 選手の 或 者 を 

神の 如く 思 ひ、 いくら 先樣 がう まくった つて、 日本中から 選抜した 九 人が 死力 を盡 して 戰 ふから 

は、 おめお め 負て たまる もの かと 力む 一群で ある。 近代 日本 野球 史 中の 英雄 宫武山 下 伊達と 數へ、 

彼等が 六大學 リイ グ戰 記に 殘 した 幾多の 記 錄の中 最も はなばな しいの を 常態と 做し、 何しろ 宫 

武山 下が 本 壘打を かつ 飛ばし、 三日間 連投の 伊達が 投げ るんだ からこつ ち だって 強え もんだ と 胸 

を 叩き、 兩軍 火花 を 散らす 場面 を 想像して 夢中になる ありさま だ。 兩 極端の いづれ にしても. 想 

像 は 眞實を 遠ざかる 程樂 しい ものである。 前賣 切符に 法外の プ レミ アムの つ いたの も 無理 は 無い。 

ところが、 愈々 全米 軍が 渡来し、 數 度の 試合 を觀戰 して、 兩 極端の ファン は 完全に 期待 を 裏切 

られ た。 盲拜 主義者 も鈸國 主義者 も、 あまり の あっけな さに 呆然と し、 なんだ つまらない、 つ 

まりません な あ、 さつば り 力が 入りません な あと、 口々 に 云 ふので あった。 音に きくべ M ブ. ル 

ウスと 本壘 打数の 第 一 位を爭 ふとい ふゲ H リツ グは、 一 本の 本^打 も 打たない。 東京で は 僅かに 

シ モン ズが、 中竪 背後の 觀覽 席へ 打 込んだ 丈 だ。 三十 點と るか 五十 點と るか、 どいつ もこい つも 

安打 を 放ち、 いつ 迄 も アウトに ならない ので は 無い かと 心配した 程で は 無く、 多くて 十一 點 すく 

ない 時 はニ點 しか とられなかった。 くっきり 晴れた さの 行衞 もしら す 飛んで 行く 雪白の ボ オル を 



241 



ふ 仝 想した 浪漫派の 樂 しき 夢 は 破れた ので ある。 一方 鎖國 主義者 も 同じ 失望に 舌打ちした。 彼等 か 

ら 見て、 赤い 才ォ ヴァ. コ オト も癀 である。 觀覽 席に むかって 衔子 をと つて 挨援 する 外野手のお 

愛想 も、 いつも 見る 六 大學の 英雄の こちこちに 固くなり、 靑 ざめ、 こはばった 容貌 態度に 比べて 

す-さ 

あまりに 呑氣 過て 怪しからん。 あんな 奴等に 負けて たまる もの かと 思 ふの だが、 殘 念ながら 吾等 

の 英雄 はちつ とも 打てない。 立敎 頑張れ、 明治 打て 打てと 叫んでも、 て ごた へ は 無い。 それでも 

強烈なる 愛國的 情熱 は、 客觀的 批判 を 妨げ、 現在 大衆 ファンに 最も 人氣の ある 伊達が 出たら 何と 

かなる だら うと^す る 者が 多かった。 扨て 試合と なると、 六囘迄 ー對ー で 持ち こたへ、 七 囘の表 

に 早 稻田は 四球と 安打と 敵失で 一 擧四點 を 入れ 五對 一 とリ イドした ので、 滿 場の ファ ンは湧 立つ 

た。 流石に 早稻田 だ、 流石 は 伊達 だと、 どうせ 負ける ものと 見切 をつ けて そろそろ 立上り、 近所 

で 行 はれる 慶明 ラグ ビィ戰 を 見に 行かう として ゐ^ の も 坐り 直し、 勝った 勝った と 熱狂した。 と 

ころが、 今迄 のんびり やって ゐた 全米 軍 は 忽ち 態度 ー變 し、 きびしく 選球し、 よく あて、 よく 打 

ち、 すぐさま 七點 奪って 勝敗 を 決してし まった。 しかも 八囘 から は 第一 投手 グ p ォブが 出て、 白 

鳥の まさに 羽 打たん とする が 如き 優麗 なる フォォ ムで投 る 強 球に、 三人 宛 三振し、 投球 僅かに 二 

十一で 誰 一 人 かする 者 も 無く、 流石の ファ ンも、 た めつ と 云った ばかり で、 言葉 を發 する 者 も 



242 



るいる レ、 の ンァソ 



無かった。 その 光景 は 恰も 六 萬の 觀衆迄 もろともに 三振 を 喫した かの 如き ものであった。 稍し ば 

さっき 

らくして, な あんだ 先刻の 四點 はわ ざと sK れた のかと つぶやく のが あり、 本氣 になる と幾點 でも 

取り やが るんだ な あと、 忌々 しがる の もあった。 勿論 最初から 大人が 子供と 相撲 をと る 時の やう 

に 全力 は靈 さなかつ たに 違 ひ 無い が、 わざわざ 點を とらせた と 見る の は 皮相で、 一方の 油 斷に他 

方の 眞劍 がぶ つかり、 幸運が 機會 を惠ん だので、 早稻 田の 奮 鬪は稱 讚すべき ものである。 しかし、 

彼等が 緊張して か ^ ると、 容易に 相 當の點 を 稼ぐ 事 も 明白に なった。 こ、 らで 大衆 ファン も覺醒 

し、 技術の 面白さ を 味 ふ 方に 心 を 向ければ、 幸福に 享樂 出来る のだった が、 いかに せん 大衆 ファ 

ンは 野球 をスポ 才ッと 見る よりも、 はたし あ ひと 考 へたがる 精神が 強いので、 どうしても 彼等 を 

負かさなければ 腹の 蟲が 納まらないの だ。 そこで 最後の 全 曰 本選 拔 軍に 總 ての 期待 を かけ、 とど 

のつ まり 迄 夢を見て 夢が 破れて、 立腹し、 しま ひに は 味方の 不甲斐な さ を 口汚な く 罵り、 又 米 選 

手に 向って 林檎 や 姉 を 投げつ けた 者 も ある。 鼓に 於て ゆく りなく も 思 ひ 出す の は、 今から 二十 四 

五 年 前、 亞米利 加 野球 圑が 日本に 來て、 さんざん 惱 ました 時、 慶應義塾の 選手へ 宛て、 諸君す ベ 

からく 六尺 襌を 用ゐ よと、 忠吿激 勵の書 を 寄せた 有名なる 海軍 士官の あった 事 だ。 この 曰 犬氣喑 

朗浪髙 しとい ふ 日本海々 戰の 時の、 皇國の 興廢を 一 擧に睹 けた 將卒は 皆 六尺 襌を しめたと いふ。 



243 



して 慶應の 選手が 此の 忠告に 從 つた かどう か は 寡聞に して 審か にしない が、 今日 もな ほ 多くの 

ファ ンは、 その 士官の 如く どうにかして 勝た せ 度い 一 心から、 祌を輟み襌を賴み^^ぺの生膽を頼ま 

ん とする 熱情に 燃えて ゐ るの だ。 . , : : 

もっとも 中にはい とも 朗 かなる モダ アン の ファン も, Q る。 私の 見物して ゐる うしろに、 妙齢 

の 令 瘦が四 五 人 一列に 並んで ゐた。 彼等 は實に 喋る、 喋る。 ね、 ね、 どうせ 亞米利 加 人と やった 

つて かな はない とわ かって ゐ るんで しょ、 そんなら 誰が 出た つて 同じ 事なん だから、 なるたけ 綺 

麗な人 を 出した 方が い、 わね、 だって さ、 あっちの 人 みんな 大きくて 色が 白くて 立派で しょ、 そ 

れ なのに こっちが ち ひち やい の や、 貧弱な の や、 を かしな 額つ きの 人で は みっともな いわ、 恥よ、 

國 辱よ、 と 一人が 提議す ると 他の 令孃 にも 勿論 異議 は 無い。 さう ね、 その 方が い、 わね、 だけど 

綺麗な 人って だ あれ、 と 忽ち 膝を乘 出した。 ピッチ ャァ なら 誰で せう、 早稻田 かしら、 明治 かし 

ら、 キャッチ ャ ァは斷 然慶應 ね、 ファァ ストに は 困つ ちゃう わね、 だって みんな 變 なんです もの 

たと へば 斯 くの 如く * いづれ も 一般の 女學 生よりも 着飾った のが、 はしたない 品定め を やつ 

てゐ た。 (昭和 六 年 十一月 二十 五日) 

—— 「文藝春秋」 自 昭和 六 年 二月 號至 昭和 七 年 一 月號 



244 



脈 のばと こ 



ことばの 亂脈 



或 不良少年が 話した。 この頃 モダ アンが つた 女の子 は £. つの 子の 眞似 をして、 君と か 僕と かレふ 

代名詞 をつ かひ、 よせよ, 僕、 君の その 態度が いやなん だよ 11 など、 云って 得意がって ゐ るが, 

あいつ を 聞く と 無上に 腹が立つ、 なんでえ、 いくら 男の 眞似 をし や あがった つて、 とどのつまり 

は 違 ふぢ や あねえ か、 噓 だと 思 ふなら、 いきなり 横面 を ひっぱたいて、 ひつく りかへ して 見り や 

あ 直ぐ わから あ —— さう いふ、 反抗 心が むらむらと 來 ると いふの だ。 それで 或 日、 白晝 銀座の ま 

ん なかで、 斯る 小癀な 女の子が、 男の子の やうな 口の き、 方で 立 話 をして ゐ るの を、 通りすがり 

に不圖 聞いて、 自分で も 何故 だか わからな いの だが 途方 も 無く 腹が立ち、 斷然 許して は 置け ない 

氣; „il=- 二と つつかれた。 もっとも 其の 日 は あぶれて、 晝飯 にも ありつけ なく 中腹の 加減 もあった さ 

うだ。 かま ふこと あ 無い よ、 あいつ どんなに 极 つたって 怒り や あしない ぜ、 僕、 自信 あるよ ー—— 



245 



みそつ ばの 感じの 女の子が いふと、 ちえつ、 しょって やがら —— きやり こ 金魚の や-つな のが、 わ 

ざと 怒った 様子 をした。 とたんに 二人の ショ オト. スカ アツ を 力い つ ぱい まくりあげた。 まん ま 

るいお 尻の 曲線が あまり 露骨に むき 出された ので、 流石に こ い つ あしまつ たと 思った さう だが、 

あれえ —— きゃあつ てね、 女の子の 音 を あげや あがった、 いくら 眞似 をしょう つたって、 男の子 

でき やあって 奴はゐ ないやね -—— 彼 は 彼等が 正眞 正銘の 女の子で ある 事を證 明して、 一 目 散に 逃 

出した とい ふので ある。 . 

この種 類の 女の子が、 わざわざ 口に 馴れない 男の子の 言葉 を眞 似す る 心理 は、 ^段 ヂャ アナ リ 

ストの 批判 解剖 を 煩 はす 必要 は 無い。 新しが つた 人眞似 は、 多少 冒險氣 分 も 加って、 いかにも 尖 

端 を 行く が 如き 得意 を 感じる ので ある。 それ は 恰も 此 頃の プ tl レ タリ ァ小說 が、 無闇に 卷舌を 使 

ふこと につと め、 つい 先頃 迄 は 英語 まじりの 氣 取った 會話 をして ゐ た女學 生だった り、 女中が お 

ともをして 步 く令孃 だったり、 みつ 指つ いた 奥さんだった りした のが、 それで はプ ティ. ブル だ 

と 罵られ さうな ので、 あそばせ 言葉 を 無理に 振 捨て、 資本家の 豚、 畜生 ッ、 糞ッ - などと 十 人 

が 十 人 2^ じせり ふ を 用 ゐてゐ るのと 同じ だ。 

それが どうして 聞く 者の こらへ しゃう を なくなし、 白晝 帝都の まん 中で, 女の子のお IL^ を まく 



246 



る 暴 擧を敢 てす る 程 瘤に さはら せる のかと いふと * 身に つかない 事で あり-ながら 得意な 面 をして 

ゐる あさはかが、 他人の 感觸を 害する からで あらう。 年寄なら ば 苦笑 ひで 濟む ところ だが、 血氧 

の 者で は 手の 方が 先に 出る の だ。 . 

身に つかない 言葉 を 得意 面して 使 ふの は、 銀座 通 を 街娼の やうに 步き 廻る 女の子ば かりで は 無 

い。 往年、 永 井 荷 風 先生の 傑作 「すみ だ 川」 小山 内 蒸 先生の 作 中 最も 人氣 のあった 「大 川端」 などが 

あら はれ、 所謂 江戶 趣味が 人々 の 心を捉 へた 時代に、 . . 

川 波が - • 

5 一 >f になげ くよ . 

しんめり と 

と大 川端の 情緒 を 歌った 詩人が あった。 年少に して 未だ 苦笑 ひに 逃避す る 事 を 知らなかった^ 

は、 直ぐに 口が 先に 出て しんめり は しんみりの 間違 ひだらう と 指摘した ところ、 內心 弱った に は 

は 違 ひ 無い の だが、 しんめり でなくて は 心 持が 出ない の だと 詩人 は 強 辯した。 

^ ト川 未明 氏 は 越後、 窒生犀 星 氏 は 金 澤の產 で、 それが 御國の 訛で あらう が、 「おなじ」 と. - ふべ. 

K き 場合に 「おなじい」 と謦 く。 それが 少しも を かしくない。 何處 となく 陰性の、 ねつと りと ねばつ 



247、 



た 菜 日本的 文 K に は、 かへ つてし つくり はまる やう だ。 ところが、 まるっきり 鄉國が 違 ひ、 氣質 

が 違 ひ、 文 體の違 ふ 年少の 作家が わざわざ 眞似 をして、 衝 々一. おなじい」 と 書い てゐ るの を 見る と、 

白晝 銀座の まん 中で、 女の子のお:^ を まくる 不良の 心 持に. 寧ろ 同感 を覺 える ので ある。 

有名な 作者が 用ゐる 言葉 だと、 それが 普通 使 はれない もので も 忽ち 流行と なり、 何時の間にか 

在来の 同意語 を 押の けて 一 般的 となる 例 は 少なくない。 武者 小路 實篤氏 は 其の 姓名の 示す 通り 公 

家の 出 だ。 だから 上方 言葉が 自然に-: a て來て も、 あの 獨特の 文章の 色 を 強,、 こそ すれ、 此 一一 かも を 

かしくない。 たと へば、 東京で 「何々 して 貰 ひ 度い」 とい ふ 場合に 「何々 して ほしい」 とい ふ。 京、 

大阪 では それが あたり まへ だが、 東京で は、 少なくとも 武者 小路 氏 出現 以前に は 一般に は 用ゐら 

れ な い 言葉 づ かひだった。 ところが 今では 一, 何々 して 赏ひ 度い」 と 書く 入 は 極めて 少なく、 殊に 若 

い 人の 間で は 「何々 して ほしい, 一の 方が 以前からの 用語 だと 思 はれて ゐる やうで ある。 く 

これ も 武者 小路 氏の 出現の 前後に よって 違 ふやう に 思 ふが、 同氏 出現 前に は 「私 は洒を 好む」 と 

はいつ て も 「私 は 酒 を 好きだ」 とはいはなかった。 それが 今では 「何々 を 好きだ」 とい ふの が あたり 

まへ になった 形で ある。 これら は 單に耳 ざ はりだと いふに 止まる が、 流行が、 人眞 似が、 言葉の 

使 ひ 方 を 全く 逆にして しま ふ 例 も 少なくない。 



248 



脈亂 のばと こ 



宇 野浩ー 一氏 は 一 切 人の 意表に 出る やうな ねら ひどころ に 興味 を 持つ 作者で、 作 中 人物の 氏名な 

ども、 馬 琴 もどき の 名 誇自性 を用ゐ たり、 感動詞 や 副詞の 使 ひ 方 を わざと 變 てこに して 破調の 面 

ちげ 

白 さ をめ ざしたり, 自分 一流の 效果を 擧る爲 に 苦勞を 積んだ が、 氏の 作品が 世間に 受けた ので 忽 

ち 模倣者 を 簇生し、 有名なる 「等々 々 々」 の 如き は 明治 以前う まれの 學者 迄が 何の 疑 も 無く 借用し 

てゐ る。 あたり まへ なら r 何と 驚くべき 事で はない か」 とい ふところ を、 宇 野 氏 は 「何と 驚くべき 

事で ある」 と 肯定す る。 それ は 宇 野 式文體 であって はじめて 許される 事な のに、 多くの 追 隨者は 

正統派の 文體の 間に 突然 「何と 驚く ベ き 事で あるので ある」 など、 脫線 する。 

井伏 ま 一 一氏 も 宇 野 氏に 負けす 珍妙 不思議な 言葉 を 活かして 使 ふ 作者で ある。 それが 或 地方 獨特 

の 言葉な のか、 作者が ねら ふ 味 を 出す 爲 にこ しらへ、 又は 寄 集めた もの か 知らないが、 井伏 氏の 

神經を 持たない 亞 流の 徒が 不用意に 眞 似す るの は、 女の子が 男の子の 言葉の 眞似 をす るのより も" 

一 層 片腹痛い 事で ある。 

無闇に 名詞に 「お」 の 字 をつ ける の も 現代の 流行の ひとつで ある。 昔からの 習慣で 「お」 がつ いて 

も、 さほど 耳 ざ はりで 無 いのも あるが、 原則として は 名詞に は 「お」 のっかな いのが 正道で あらう- 

上方で は 男で も鲷を 「お 鯛」 と稱 し、 大根 を 「お 大」 とい ひ、 芋 や 豆 はさん づけ だ。 東京で も、 酒 や 



249 



醤油に は 「お」 の 字 をつ けて あやしまな いが * それ だからと 云つ て、 今更 物と い ふ 物に 「お」 をつ け 

て、 ト: u§ だと 思ったり、 やさしい と 思ったり、 叮嚀 だと 思 ふの は惡 趣味で ある。 此の 惡 趣味の 尖 

端 を 行った の は、 恐らく その かみの 華族 女學校 の 教師と 生徒で あ ら う 。! n 字 を 「お 習字. 一 圖畫を 

「お 输」 修身 を 「お 修身」 など 、唱 へたの は 正に その 學校 である。 しかし これ を ftt 々浦々 に廣 めた の 

は當今 の 童謠 詩人 に 違 ひ 無 い。 「み签 の 星」 です. むと こ ろ を 「お 空 の お 一と うたはなくて は 承お ^ し 

ない 詩人が ある。 空 おそろしい 事で はない か。 旣に 大人が 手本 を 示した ので、 小學」 おのませた 詩 

人た ちが 得々 として 「お 背戶 のお 柿に みがな つて」 など、 やって ゐ るの は 無理 も 無い,^ お餅- お 林 

檎、 お サイ ダァ、 お 自動車、 めったやたらに 「お」 をつ ける。 

それと 關 係が あるか 無い か 知らないが、 自他の 區別 なく 敬稱を 用ゐる 人間が、 頗る 殖えた。 他 

人に 向って、 自分のお や ぢの事 をお 父 様と いったり 姉の 事 をお 姉 さまな ど 、云 ふ。 曾て 一 私儀 母 

上様 御 逝去 被 遊 候に 付」 云々 と 云 ふ缺勤 屆を會 社に 出した 三十 餘 歳の 法學士 があった。 

外國 語で、 日本語 化した のに も隨分 困り ものが 多い" 女給と 云 ふ 略稱が 一般に 通用す るに 至る 

迄、 諸 所 方々 で 「女 ボ オイ 入用」 の 貼 紙 を 見た が、 或 女流 小説家の 作品 中には 「女の ゥ M イタ ァ, 一な 

る ものが あら はれた。 近頃の モダ アンが つた 小說に は、 * 々トランク を 手に 提げた 紳士 貴婦人 令 



250 



孃が あら はれる が、 これ は 明かに スゥッ • ケ H ス の 間違 ひに 違 ひ 無い。 或る 若い 作家に 此の あや 

まりを 指摘した ところ、 よしんば それが 間違 ひで も、 みんなが 手 提飽を トランク だと 思って ゐる 

の だから 差 支ないで はない かと 云って 相手に しなかった。 そんなら 若し、 作 中で 手 提飽と 大飽と 

兩方を 小道具に 使 はなければ ならない 場合に 困る ではない かと 突 込む と、 しばらく 考 へて ゐ たが- 

そんな 場面 は 書かない から 搆 はない と はっきり 答へ た。 

佛蘭西 語の シック をシ イクと 訛って ゐ るの も、 一 百 葉が 言葉 丈に 甚だ を かしい。 噓 かほん とか 知 

らたいが、 シ イクと いふの は 亞米利 加の 俗語で、 田舍 者の 事 だと 書いて ゐた 人が ある。 寡聞に し 

て 之 を 知らす、 手許の 辭書を 引いても みあたらないが、 果して ほんと、 すれば 此上 もない 皮肉で 

ある。 (昭和 六 年 十二月 二十日) 

! 「古東 多 Ft」 昭和 七 年 二月 號 



「福澤 諭 吉傳」 の 刊行に 就て 



石 河 幹 明 先生 玉 机下 . 

御 老體の 先生が 七 年 餘の歲 月 を 費して 完成され た 「福澤 論 吉傳」 の 刊行に 對し 感謝 致します。 先 

生 は 御存じ 無 之 事と 恩 ひます が、 凡 十五 六 年 前、 私 は大阪 毎日 新聞に 「先生」 と 題す る 一文 を 投じ 

た 事が あります。 それ は 私の 幼い 記憶に 殘 る福澤 先生の 事 を、 印象派 風の 描法で 書いた 小品で、 

別段惡 口 をい つた 覺ぇ はたい のです が、 慶應義塾 出身者の 中には、 福澤 先生の 事 を 鬼 や 角い ふの 

は 怪しからん、 生意氣 な. だと 憤慨した 人 もあった と 聞きました。 多分 福澤 先生 を神樣 として 書 

かなかった のが 御意に 召さなかった ので あらう と 思 ひます。 私 は 慶應義塾 子 飼の ものです が、 中 

學 時代 修身の 時間な どに、 福澤 先生 は 偉い 偉い と 神様の やうに 聞かされながら、 何故 偉い のか、 

いかなる 思想 を 持ち、 いかなる 功績が あつたの か、 はっきりと 說き 聞かされた 事はありませんで 



252 



.,- I 、> つ だ? e 鬼 は、 か/つて 福澤先 

- > 1 » 、ヒ づ ら-ざ . ^りび- ヲ牙 ヌ.^ プ, 

k Msi^fm i . .ik さ 度の 先生の 大 

::、h ひい p"Hr な, lili 

いなく 嬉しく Hs ます。 (昭和 七 年 二月 一 、 I- as 吉傳」 內容 見本 昭和 七 年 二月 



ひと 昔 前の 事、 たまで は あるが^ 山 書店へ 行く と、 眼つ きの 凄い、 異樣に 顔の 赤く、 ひとくせ 

ある 番頭さん が、 いつも 挨拶して くれたが、 それが 誰 だか、 ながいこと 知らなかった。 たまたま- 

つら だまし ひ 

大場 白水 郞 宗匠 の 句集 上梓 をよ ろ . こ ぶ 會が田 端の 自笑 軒で 催された 時、 この ひとくせ ある 面魂の 

人物 を、 世話人の 中に 發 見した。 

「あの人 誰 だい、 始終 粗 山 書店で 見る 顔 だが …… 」 

「長 谷川 春 草。」 

隣席の 久保田 傘 雨 宗匠 は、 あれ を 知らないの かとい ふやう に、 きつば り 答へ た。 

「あ 、俳人 か、 うまい のかい。.! 

よくない 事 だが、 俳句の こと は 何も 知らないので、 私 は * 々斯うい ふ 頭の 惡ぃ 質問 や. f する。 た 



とへば、 甲 宗匠と 乙 宗匠と は どっちが うまい のかと か、 大場 白水 郞 宗匠 はほんと にうまい のかと 

か、 現在 生きて ゐる 俳人で は 誰が 一番うまい のかと いふ 類で ある。 いづれ も 傘 雨 宗匠に きくので 

あるが、 最後の 質問の 場合 丈 は實に はっきりした 囘答を 得た。 曰く、 

「久保 田 万太郞 がい つとう うまい の であります。」 

考 へる 迄 も 無く、 めいめいの 持 味が 違 ひ、 藝 風が 違 ふので、 はっきり 優劣 をき める 事 は 無理 だ 

し、 善玉 惡 玉の やうに、 うまい まづ いの ふたつに 分る の は 不可能に 相違ない の だが、 素人の かな 

しさで、 かんたんに きめて か、 りたい ので ある。 义 ひとつに は、 大方の 俳句の 面白さが わからす- 

反對 にい やみの 方 ははつ きり 感じる ところから、 反抗 心が 斯うい ふ 口 をき かせる ので あらう。 た 

しかに 不心得な 事で、 よくない と は 思 ひつ、、 永年の かたぎと なった。 

そ の 時 傘 雨 宗匠が うまい と 答へ たかま づ いと 答へ たか、 うまい けれども 自分 より はま づ いと 答 

へた か 記憶 しないが、 その 後 「俳諧 雜誌」 や 「春 泥」 —— われわれの 仲間 は ひそかに 「はる どろ, 一と 呼 

は んでゐ る —— で、 春 草 宗匠の!? を 拾って るが、 もとより 私に はわから ない。 澤山 ある 中から、 

^ わざわざ 拾 ひ あげる の は、 あのひと くせ ある 面魂の 人間 は、 どんな 句 を 作る の だら うとい ふ 好奇 

? 心の させる わざで ある。 , 



255 



その 宗匠が 魏山 書店 を 勇退して おでん や を はじめ るから よろしく 賴 むと、 傘 雨、 白水 郞ー 一宗 匠 

に 紹介され、 元來 のみく ひ は 好きだから、 爾來 時々 御 * 話になる。 この 方 もいた つて 散文的で、 

無 聞に 分量 を 多く 頂く 丈で、 うまい かま づ いか は 他人に きかなければ わからない。 尤も、 先頃 或 

多 人 數の會 合で 卓 を 共に し た 食通 甲 と 乙が、 しきり に 銀座 界隈 のうまい もの や を 論じた あげく、 

甲が はせ 川で 1压 へる の は 釜飯 だけ だとい ふと、 乙 は 心外に 堪 へぬ 面 持で、 . 

「困るな あ、 かつい ふ 男 は、 江戸前の 料理が わからな いんだから。」 

と 歎息す るの を 聞いた。 信賴 して 然るべき であらう。 _ 

上方 料理 を よろこんで 喰 ひ、 江戸前の 料理の 何なる か を わき ま へない 私が はせ 川 へ 行く の は、 

あのひと くせ ある 面魂の 人間が、 どんな 樣 子で 商 賣 をして ゐ るかし-いふ 好奇心に、 一番 強く 誘引 

される 爲 らしい。 

いったい 小說 家、 ゑ かき、 役者と いった やうな 種類の 人の 經營 する たべものや、 のみやの 類 は、 

闢店 早々 の 新聞 雜 誌の 宣 傳は賑 かで、 ひとしきり 義理と 面白.、 つくの 客で たてこむ が、 元々 芝居 氣 

ト自惚 ばかり 強くて どっとしたい のが 本質 だから、 あまり 長繽 きしない の を 例と する。 よく 見る 

崇 色で、 主人が 客と 友達 づき あ ひで 飲んで ゐて、 ふりの 客 を かへ り みないの など は、 何の 爲の商 



256 



I' 己 雑 川せ は 



賣か 本心が わからない。 

「俳人のお でんや なんて 感心した もので はない ぜ。」 . 

はせ 川の 場合に も先づ 憎まれ口 を 叩いて から 出かけた。 うち は 奇麗で、 靜 かで、 場所が い、。 

銀座の 無秩序 無 反省な 雜杏を はなれた 出 雲 橋の たもと で、 窓 を あける と 三十 間 堀が 目の 下に 澱 

んでゐ る。 もろもろの 汚物の 沈んで 流れない 川底の どぶどろの 發散 する 臭 ひ は、 私 を 幼時の 追懐 

に 誘惑す る。 この 臭 ひ は、 昔 東京の 到る 處 でかいだ 臭 ひだ。 明治の はじめ 迄、 三十 間 堀に は 趣が 

いたさう だが それ は 時代が 違 ふ。 私共が 知って から は、 あれから 木 挽 町 築地へ かけて は、 新興 

日本の ハ ィ カラな 洋風と、 つめたい 水の 香 を ほのかに 感じさせる 寂し さ をな ひ まぜに した 景色 だ 

つた。 私 を 可愛がって くれた 母方の 祖母が、 木 挽 町の 河岸に 住んで ゐ たので、 祖母 や 伯父に 手 を 

鬼 かれて この 邊を步 いた ものである。 私 ははせ 川へ 行く と、 冬で も 必す窓 を あけて、 向 河岸の 家 

々を 眺め、 橋の 上 を 通る 人 を 見、 どぶどろの 臭 ひ を 深く 吸 ひ 込む ので ある。 その 臭 ひ は、 あまり 

に 強く 濃くない 限り は、 決して 惡 いもので は 無い。 支那 料理の 前菜に 出る 皮蛋の 香氣と 同じ だ。 

おでん やと は 云 ふ もの、、 わん、 さし、 酢の物 ひとと ほり は 出来て、 お 酒 も 結構 だ。 た 私の 

經驗 では、 甚 しく 出来不出来が あり、 一番 評判の い \ 釜釵 さへ、 ぐしゃぐ しゃのに 出會 した 事 も 



257 



ある。 或 時 はせ く、 或 時 は 辛く、. 味の きまらない 傾向 も ある。 これ は、 こ、 に 集まる お 客の 中心 

が、 いづれ も 一 見識 ある 宗匠 連で、 あ、 でもない かう でもない のお さ しづが うるさい 結果で は 無 

いかと 邪推す る。 とい ふの は、 或 日の 榮 蝶の 壶燒の つゆが あんまり あまから いので 不審 をう つと、 

「壷燒 とい ふ もの は 新う あるべ きが 本格 だと、 さるお 客 さまが おっしゃい ますので …… 」 

と 宗匠 は 持 前の いんぎん ていねい 過る ものごしで 答へ た。 察する ところ その 客 は、 鎵 曰の 夜の 

大道で 幼. い 日に 陰べ た 壺燒の 味 をな つかしが る 江戸 子で あらう が、 酒. の X 有と なる ベ き 場合、 殊 に 

料理屋 風 のぎん なんだ のみつ 葉 だの 景物の 多い 壶燒 は、 當然 うす 味 でなければ ならない ので はな 

いだら うか。 

とはい ふ もの、、 これ は 春 草 宗匠の 直接 負 ふべき 責任で は 無い。 何故ならば 宗匠 はお 茶 を 汲ん 

だり、 ぉ燜 をつ けたり ヽ サァヴ イス 專 門で、 みづ から^ 丁 はとらない からだ。 但し その サァ ヴィ 

ス ぶりに ついても、 私は滿 點を與 へない。 何が いけたい かとい ふと、 いんぎん ていねい 過ぎ、 腰 

の 低 過る 事が、 私共 を くつろがせない。 おでん やの あるじの 腰の 低い のが 惡ぃ害 はたい が、 どう 

も あのひと くせ ある 面魂で、 

へ い 左様で ござん 十。」 



258 



記 雑 川せ は 



など、 揉 手 をされ たり、 膝つ 子の 下 迄 手 を さげて 挨拶され ると、 正直のと ころうす 氣 味が 惡ぃ。 

おもだ か 

御 近所の 御 婦人 方が 澤瀉 やに そっくり だと 評判す る さう だ, が、 成程 肩幅の 廣ぃ、 がっしりした、 

四角い 感じの する からだつき、 殊に あの 凄い 限つ き は 猿 之 助 だ。 だから ふた 心 をいだ いて ゐ るの 

では 無い かな ど、 いふ 惡態 をつ くので はない。 野人 禮 になら はす、 いんぎん ていねい 過る 相手 は 

苦手な の だ。 

はせ 川の 柱 かけに 岡 本 癖三醉 宗匠の 句が ある。 

坐れば 沈 r 花の 風が まともに 

例によって 私に は、 うまい のか まづ いのかわ からない が、 こ、 に 癖三醉 宗匠の 筆践を 見る の も 

なつかしかった。 

岡 本さん はぶの 兄の、 慶應義塾 幼稚 舍 から 本 塾へ かけての 友達で、 よく. つちに 遊びに 來た。 兄 

と 私と は 七才違 ふので、 その 友達 ども は 私 を 馬鹿にしてから かひ、 怒らせて 喜んだ。 かんしゃく 

持の 私は緣 側のう すべりの おもしに かって ある 鐵の棒 を 振 廻して、 泣き わめいた。 五歲か 六歲頃 

から 小學 時代 へ かけて の 私の 記憶に も、 岡 本さん の 姿 は 他の 人々 と 違 ふ 特別の ものと して 殘 つて 

ゐる。 角力 をと つたり、 陣取 をしたり して ゐる 仲間 を、 岡 本さん 丈 は 築山の 上に しゃがんで、 令 



259 



かに 見下して ゐた 35:" 色が はっきり 想 ひ 浮ぶ。 畫を かいたり、 歌 や:? を 作る 事が はやり、. 岡 本さん 

は 皆から 一 枚ト: 手の 役者と して 尊敬され てゐ たやう だ。 岡 本さん はよ ほど ませた こども だったら 

しい。 平く も 外の こども 達と 同列の 事 は 馬鹿々々 しくな つてし まったら しい。 學 校なん かに は、 

まるっきり 興味 を 失って しまった らしい。 よくう ちに 泊って、 翌朝 兄 は 几帳面に 登校す るのに、 

岡 本さん は その ま、 うちに ゐて、 朝飯 をく ひ、 晝飯 をく ひ、 兄の 歸 るの を 待って ゐる事 もあった- 

今でも 岡 本さん の 話が 出る と、 • 

「あの 子 は 憎らしい 口 を きく子だった。 せっかく お菓子 を 持って行って やっても、 三人に 三 つづ 

k とい ふやう に 割 切れる のは氣 持が 惡 いなんて 云 つてね。」 

母 はき まって それ を 云 つ て 笑 ふ。 

塾の 運動 會の 時、 學生 がくじ を賣 り、 當り くじの 人に は、 菓子 を くれる とい ふやうな 事 を やつ 

てゐ た。 岡 本さん は かけっこが 早い ので、 きっと 勝つ から 岡 本さん のく じ を ひけと 兄が いふ ま、 

に 期待 を かけた 記憶が ある。 その 時 岡 本さん はだん 袋の やうな シ ャ ッに だぶだぶの 下ば きとい ふ 

異風で、 びりつ こだった。 子供心に それが 岡 木さん の 芝居で、 ざと 負けた もの、 やうに 思 はれ 

た。 同じく 運動 會當 曰學 生が 新聞 を 作って 費った が、 これ も 岡 本さん の 仕事だった と覺 えて ゐる 



260 



. 「兒戲 珍 報」 とい ふの だった。 

その後 兄 達 は 廻 覽雜誌 風の もの をつ くって ゐた。 勿論 岡 本さん が 筆頭で、 旣 に本氣 になって 俳 

諧の 道に 入って ゐ たの だら うと 思 ふが、 小說も か、 れた。 その 頃の 私に とって、 小說を かく 人と 

いふ もの、 偉 さは、 絕大の ものだった。 兄の 友達に さう いふ 偉い人が あると いふ 事 丈で、 胸が 躍 

る やう だつ た。 

中學の 頃、 机 を 並べた 疋田朱 泉さん から、 岡 本 癖三醉 がいかに すぐれたる 俳人で あるか をき か 

され、 曾て その 人 を 自分 も 知って ゐ たとい ふ 事に ほこり を 感じ、 わかり もしない のに 癖三醉 句集 

を 買って 長く 所藏 した。 さう いふ 因緣 で、 坐れば 云々 の 句に もな つかし さ を 感じた ので ある。 

昨年の 冬、 親類の 親の ない, こども 達 を つれて ラグ ビィを 見に 行き、 歸り. に はせ 川で おでんと 釜 

飯 をお ごる 事に なった。 问勢 十二 人が ぎっしり つまり、 こども 達 は 靴を脫 いで、 窮屈に 坐った。 

最初の うちこ そ 遠慮 も あり、 脚が しびれて 參 つて ゐ たが、 外の 御 客の 歸 つた 後で、 みんな 土間へ 

は 下り, ると、 一度 箸 を 置いた のまで 元氣 をと りかへ し、 签 飯のお か はり をし、 おでんの, しこみ も殘 

訓 らす 平げ てし まった。 " 

, 

f 翌日 こども 達から、 それぞれ 禮狀 をよ こした 中に、 小學六 年生の が色紛 筆で はせ 川內 部の 總を 



261 



描き、 

^れば しびれて 見えす 沈 T 花 . 

と ふざけて 來た。 ; r - : ■ : ■ - 

後 日 春 草 宗匠に その * を 話した ところ、 :.:•.. : :. . , 

1 V や、 この 方が うまい。」 ;-: ... ノ.. -. .:、 ... ... . 

と、 ひとくせ ある 面魂に 似す、 いと も朗に 響く 聲で うけて 5 た。 (昭和 七 年 g 月ズ 日) 

> : "1 「春 泥」 昭和 七 年 五月. 號 



262 



. 西洋 美術史 研究」 の 序 



澤木四 喜 君 は その 一 生 I 間と 藝 術に 對 する わきめ も ふらぬ 熟 情と I を 以て 貫いた。 生來 

虚弱だった 爲か、 幼少の 頃から 球 を 投げ、 力 を 角す るが 如き 遊戯に は 加 はらす、 ひとり 書 裏ろ 

彩管 鼻ぶ こと を 好んだ。 肉體は I だった が 精神 は 強く、 晩年に は 靈か血 を 吐きながら 學問 

を見捨 す、 學 事を廢 する より は 寧死 なんこと を 欲する が 如き 百 葉を 口にし、 學の 大成 を 期して 生 

「西 きんこと 皇んち しかも 君の 壽命は 短く、 大志 をいだ きながら 半蠻 死んだ。 5 明晰なる 學 

I 者の 頭腦 と 鋭敏なる 藝 術 家の 甚とを 兼備した 霧 豪で あり、 霧 評 霞であった。 該博なる 

i 知識 を 傾けて 研究の 成果 を 雲す る S はもと よりの 事で あるが、 ク てれより もま づみ、 つから 養 

ぼ の 隐悅に 感激し、 そのよろ こび を 他人に も 分たん とする こ" ろざし が 深かった 

I . 「西洋 美術史 研究」 上下 ニ卷 は、 君が 鑑賞の よろこび を f にわかたん とした あっき 賜で ある。 



263 



(昭和 七 年 e; 月 二十 一日) . 

二 つきに 



— 「西洋 美術史 £」s 七 S 月 二十 五 县ぉ 



. た 一 一 / 



昭和 六 年から 七 年の 春 へ かけて、 私が 一 番 感激し 5 んだ小 說は谷 崎 潤 一 郞 氏の 「盲 物語」 で 

一番 面白く 讀ん だの は 富 澤有爲 男 氏の 「。^ ハ i"t」 である。 「發端 地」 は 三度 讀ん で, 二度目 はは じめ 

よりも 面白く、 三度 目 は 二度目よりも 更に 深い 味 は ひ を 見出した。 

富澤 氏は畫 家で ある。 その 油繪は 帝展で 二三 枚 見た が、 氏の 持 味の あら はれの 乏しい もので あ 

「 つた。 私 は 寧ろ 装幀 畫家 としての すぐれた 天分 を 認め、 殊に 肉の 柔 かい 女の 曲線 か 或は はんぺん 

の やうな 氏 獨# の 描 線が 好きで、 先年 新聞に 小說を 連載した 時 は 特に 揷糟を かいて 貰 ひ、 叉將來 

^ . El ンパ ルチア 

^ 著書の 装幀に は 氏 を 煩 はし 度い と 恩って ゐる。 だが、 小說 作者と しての 资質 手腕 は 「發端 地」 の.^ 

者 る 迄 疑って ゐた。 



餘程 いぜんの 事になる が、 岡 W 三 郞&氏 夫人が > この 原稿 を 讀んで みてくれと 云って、 小說ー 

篇 を持參 し、 作者 は 岡田畫 伯の 遠い 親戚に あたる 人と きかされた。 それが 富 澤有爲 男 氏だった。 

その 小說が どんな もので あつたか、 私の 記憶に は 夙に 煙幕が か、 つてし まった が、 たしか 美しい 

一 人の 少年 だか、 半 男 半 女 だかの 官能の 惱 みが 描いて あった やうに 思 ふ。 最後の 場面 は、 畫室の 

やうな ところで、 硝子 窓 を 透して 來る 月光 を 浴びつ 、、 全裸の 肉 身に み. づ から 陶醉 する 景色が あ 

つたと おぼろげに 覺 えて ゐる。 それ は 私の 記憶 違 ひか もしれ ない が、 少なくとも 私の 頭の 中で は、 

そんな 景色が 幻影 化され、 しかも 實在 性を帶 びて ゐる。 何故かと いへば、 私 は その美し い 少年 だ 

か、 半 男 半 女 だかの 主人公 を、 作者 その 人と 結びつけて 考 へる 習慣 をつ くって しまったから。 

その 小 說には 多くの 獨 創と 特異 質 を 認め かね、 その 後 「鷲 の 巢」 と いふ 雜 誌で 氏の 書く もの を 見 

て も、 畫 人の 餘 技に 過ぎない やうに 思って ゐた。 岡 田畫伯 も富澤 氏の 畫才を 賞しながら、 あまり 

_ 多方面 に才氣 の 走る 事 を 心配して 居られた から、 氏が 小說 を 書, 、事 を. s: 心 喜ばす、 乂 それによ つ 

て 大成す ると も考 へて 居られなかった に 違 ひ 無い。 



26C 



者 (乍の し 地端發 



有爲 男と いふ 珍しい 名前 は、 常に 岡 田夫 人の 口から 聞き、 美貌で、 才人で、 氣 どり やで —— と, 

親愛の こ、 ろから 出る 惡ロを まぜて 傳 へられた。 . 

富澤氏 はいつ も黑の 上着に 縞す ぼんで、 澤 山あって つや、 かな 頭髮を 奇麗に 分け、 半透明の 石 

の 感じの する 蒼白の 皮膚 を 持ち、 稍 眼 尻の 下った 服 はよ く徵 笑し、 その 癖 つんと すます 時 は、 そ 

の 股 や 鼻 や 口の ほとりに 驟鵡 族の 氣 取と 愛嬌 を 見せる 人で ある。 名 古 屋の產 とお も ふが、 名古屋 

らしくない 訛の ある 言葉で、 口の き 、方に 技巧の あとが 著しい。 世間 一般が 美男 を もって 許す に 

違 ひ 無い が、 時に ふと 美女の 老いた る もの、 如き 寂し さが ある。 鼓に 氏の 風采 態度 を 描く の は、 

長 篇小說 「發端 地」 を 理解 十る 上に、 極めて 役立つ と 思 ふ 老婆心から である。 

ロン バル. チア グ i, 

r 發端 地」 は完 4! に 氏の 嗜好に よって 描かれた ものである。 作者 は 自分の 噴 好を滿 足させる 爲に 

つくりあげた 世界の 中に 陶醉感 を 味 ふ 事 を 喜び、 現 實の姿 を あるが 儘に 描く 事 や、 理想 や 欲求 を 

評. へたり 押賫 しょうと する 功利的の tci 的 は 持って. ゐ ない。 それよりも 美しい 人 を 美しい 場 景の中 



267 



に 送り出し、 もろもろの 誘引に あや ふく: 十;: れんと する の を、 一生懸命に 引戻して ほっと 安し した 

作者の 心 を 強く 感じる。 

u ン バル ギア 

r 發端 地」 は え らばれ たる 土地と 人と が旣に 異國 趣味 の 香氣と 色彩 を 濃厚に 漲らせ * 華麗 珍奇な 

場面が 繪卷 物の やうに 展開され るので、 テンポ は ゆるやか だけれ ど、 文字の 上に 極めて 上品な 映 

畫の效 fflK も 感得す る 事が 出来る。 誰かよ き 野心 を 持つ 映畫 監督が、 これ を 手がけたなら 必す 面白 

いものが 出来る であらう。 : . リ ;.- : . . - - 

自然 描寫の 美し さは 素晴らしく、 畫 家の 眼と 腕の冴え を 容赦な く發 揮した が、 それよりも 外套 

のうら の if 脂の 薄 親の 間に 危く はさまって、 いたいたしく 傷ついた 白 薔薇の 花や、 深夜 ホテルの 

1 室で 見知らぬ 女の ひとの 足に 戲れる 小犬の 姿な どの、 氣の 利いた 小品 畫の 趣を湛 へ る 描 寫に深 

い 理解と 同情の そ、 がれて ゐ るの を 嬉しく 思った。 . 

私 は 前に この 小說は 理想 を 押 資する もので はない といった が、 押賣 はしない けれども 作者の 理 



268 



者 作の し 地 端發' 



想 美 を鹳念 化した 努力 は 充分 認める ので ある。 殊に 異鄕 にある 一 人の 美しい 日本人の 奥さんが ま 

ど はしに 惱み又 祈る こ、 ろに は、 舊敎 徒の 古く 美しく 嚴 かなる 倫理 道德 さへ 感じる。 富 澤氏は 近 

代人の 銃い 官能 を 持ちながら、 古き 傳統 精神に 一 署美 しさと 正し さ を 認める ので はないだら うか。 

作 中にはげ しく あら はれる 美しい 人に 對 する 讚美 憧憬、 青春の 去り ゆく を 歎く こ、 ろ、 醜い もの 

に對 する 憎惡 は、 古典主義 的の 型に 陷 らんと しながら、 豊かに 新鮮な 情緒-と、 敏感な 感覺 によつ 

て 巧みに 救 はれた〕 

a ンバ ルチア 

「發端 地. 一の 中に つぎつぎ にあら はれる 場景 は、 吾々 の 服に は 新しい 歐羅 巴の はなばなしい 社交 

のち またに 多く とられ、 そこに 登場す る 人物 は、 男 も 女 も 美しい 姿を惠 まれ、 空 も 山 も 町 もホテ 

ルも 麗しく 描かれながら、 始終 深き 寂寞の 影に つきまと はれて ゐる。 それせ 何故か。 恐らく 此の 

作者 は 人生に 美 を 求めながら、 常に その 理想 のま どかに 滿 されぬ 惱み を 心に 持つ 爲め であらう。 

ロン バル M- ァ 

「發端 地, 一は 富 澤有爲 男 氏の よき 喰 好に よって 描かれた 唯美主義の 作品 だと 稱 しても い 、やうで 

あるが、 一面に 於て 氏の 理念 は絕 えす 額 敗 的 傾向に 反對 し、 均齊と 品位 を 保た しめる 事に 働いて 

ゐる。 そこに 新しい 宗敎畫 の 趣 さへ あら はれて ゐる。 



269 



「發端 地」 に は 富 澤有爲 男 氏が 完全に 表現され てゐ る 。 そ の 意味 は 作者が 作 中の 主 人 公 だ と い ふ 

ので は 無い。 否、 作者 は ひと 度 も 作 中に 姿 を あら はし はしない の だが、 彼の 美意識、 彼の 倫理 道 

德、 彼の 詩、 彼の 德が、 全篇 を 貫いて 完全に 織 込まれて ゐる。 その 爲に、 鸚鵡 族の 氣取を 感じる 

事 も あり、 类 女の 老いた る もの、 如き 寂し さ を 感じる 事 も ある。 .,.「.....,:•:•.,... -. 

r 發端 地, I は 僅かに その 一部が 發 表された けで、 今後 或 機會に 績篇が *i に 問 はれる の ださう で 

ある。 私 はな ほ 多くの 書きたい 事 を 持ちながら、 俗事に 妨げられて 筆 をお かなければ ならない。 

作品 完成の 日 を まって、 再び この 作者に ついての 感想 を 述べる つもりで ある。 (昭和 ヒ年 五月 三日) 

. I 「三 田 文學」 昭和 八 年 五月 號 



270 



辯の 誌 雜人同 



同人 雜 誌の 辯 



毎月 雜 誌の 出る 頃 は 郵便配達の 來る 度に、 あ、 又來 たの かと 歎息す る 程 夥しく、 第三^.^便物 

が T 寄せて 来て、 前 月 八 刀の が讀み 切れす、 もてあまして ゐ るのに、 机の 上に は 忽ち 数十 盼の雜 誌 

が 積み あげられる。 幼少の 頃 は 「少年せ 界」 を、 稍 長 じて は 「新 小說」 や 「文 藝俱樂 部」 を、 へる 出る 

か 明日 出る かと 待ち 伦び、 日に 幾度と なく 本屋の 店頭に 立ち、 新しい 紙と インキの 句に 夢中に な 

つ feQ に、 今 は 月々 その 頃になる と、 心 は 重く 背 立た しく、 自然に 眉間に 皺の 寄る の は 借金の 期 

限の 迫って 來 るのと 同じ だ。 

そんなら 讀 まなければ い、 の だが、 多年の しきたりで、 貰った 雜誌 はの こらす 讀む。 しかも 第 

一 la から 最終 貝 迄、 殆んど 無 選 擇に讀 み 通さない と 氣が濟 まない。 貴重な 時間 を 無駄に する 馬鹿 

.V 々しい If 口ち だと は a ふの だが、 どれ を讀み どれ を捨 るか、 捨る ものに 對 する 下らたい 良心が 働 



271 



いて、 廿餘 年間 愚なる 努力 をし つ け てゐ る。 

旣に雜 誌 を讀む 事が、 樂 しみよりも 仕事に なり、 勞務 になって しまった 形が あるので、 大概の 

場合 は 苦痛 を 伴 ふ。 だから 頁數の 多い 大雜誌 は、 外觀 だけで 肩が 凝り、 つい 手 をつ ける のが 億劫 

になる。 私が 同人 雜 誌の 丹念な 讀者 である 所以 は、 ひとつに は 頁数が 少なく、 短時間で 讀 了出來 

るからで ある。 しかし、 決して うすっぺら だとい ふ屬性 丈で 愛讀 する ので はない。 同人雑誌 木來 

の 使命と 特質 を 認める からで ある。 . 

同人 雜誌 は、 大體 市場 價値を 持たない 原稿の 持 寄と 見て 差 支 無い。 若しも 商賣雜 誌が 澤山 あり、 

誰の 原稿で もどし どし 買って くれる *1 の 中なら ば、 同人雑誌 は 殆ど 生れない に 違 ひ 無い。 したが 

つて 不景氣 が 深刻で、 商賣雜 誌の 數が 減れば 減る 程、 同人雑誌の 數は 殖える 傾向が ある。 しかも 

悲しい 事に は、 原稿 市場に 於て 需要が 供給と 均衡 を 保つ か、 或はより 以上で あると いふ 天 國の出 

現 は 想像す る 事 も 出来ない ので、 將來 同人雑誌の 數は 益々 殖える に 違 ひ 無い。 そこで 私 は 同人 雜 

誌の 使命と 特質 を 正し く 認識す る 事が 必要 だと 思 ふので ある。 

現在、 商賣雜 誌の 數は 少なく、 それら は 商 賣雜誌 本来の 性質から、 讀者を 多く 有する 旣成 作家 

の 原稿で なければ 喜んで 掲載し ない 一方に、 後から後から 原稿 製作者 は 出て 來 るので、 無名の 士 



272 



辯の 誌 雜人同 



は 相 集って 同人雑誌 を 作り、 初 登場の 舞臺 とする 外に 道が 無い。 由 來雜誌 編輯 者 は 僅かなる 例外 

を 除く ほか、 よき 批評家で もない し、 藝 術の 愛好者で もない。 彼等 は、 自分 達よりも 更に 藝術を 

愛好せ ざ る 大衆 讀者 の 好みに 應 する やうに 誌面 を 配備す る 事に 專 念であって、 大衆 讀者 の 知らな 

い 新人 を 世に 紹介す る 冒 險を敢 てす る 程 物好きで もない し、 親切で もない。 講談 筆記と、 如實性 

の 乏しい 時代物と、 型の 如き 美男 美女の 戀 愛小說 は、 容易に 大衆 讀 者の マ ン ティ シズム を滿足 

させる が、 所謂 藝術 小說は 少数の 文學 愛好者の 外に はかへ り みられな いのが 普通で ある。 眞に偉 

大な る藝術 は必す 大衆 の 心 を 促へ る もの だとい ふ說 は厦々 威勢よ く 宣言され るが、 果して さう だ 

と はうな づけない。 例へば 近代 小說中 で これ 程の もの はない と 幾多の 批評家が 折紙 をつ けた トル 

ス トイの 「ァ ンナ. カレ 二 ナ」 や 「戰爭 と 平和」 は、 何 處の國 でも 安易なる 探偵 小說ゃ 少女 好みの 戀 

愛 小 以上の 讀者を 持って ゐ るか は 疑 間で ある。 私 は、 將來 商賣雜 誌の 文學攔 は、 藝術小 說の發 

表機關 である 事 を 担み はしない か を 惧れる も の で ある。 少なく と も雜 誌販賣 上、 藝術 小說の 掲載 

の直耍 性の 薄くな つた 事 は 明白で ある" 書く もの、 種類 を 限定し、 枚數を 制限す る 事 は、 編輯 者 

當 然の權 利と して 誰も 不思 に 思 はなくな つた。 

さう いふ. m 向が 歷然 たる 以上、 純藝 術の 發表 機關 として、 同人 雜 誌が 重大なる 使命 を もって ゐ 



273 



る 事 を 認めた ければ ならない。 同人 雜誌 こそ、 自由に 大膽に 作品 を發 表し 得る 舞臺 なの だ。 單に 

數 人の もの、 手 習 草紙 だと 考へ てはいけ ない。 商賫雜 誌の 註文なら ば 一 生 懸命に 書く が、 :!: 人雜 

誌に 載せる の だからい、 加減で い、 とい ふやうな つきあ ひ 根性で はいけ ない。 これ こそ は 商 賣雜 

誌と 違って、 多数の 人に は讀 まれない が、 少数の 専門家と ほんと に 文學を 愛好す る 人々 の 批判 を 

■ わる や 

. 問 ふの だと 自覺 したい。 そこで はじめて、 同人 雜誌 本来の 特徵 である 可き 悪擦れし ない 純眞 性と、 

力強い 野心が すこやかに 伸び 漲る であらう。 ;-- 

ところが 同人 雜 誌の 現在 は、 稀なる 例外 を 除いて、 吾々 の 期待 を 裏切る ものが 多い。 うまい と 

かま.. ついと かいふ 事よりも、 其 意氣に 於て、 人 を 打つ 力の 乏しい のが 殘念 である。 よく Z 人雜誌 

の 同人が お ほつ ぴらに 歎く やうに、 批評家 は默 殺し、 旣成 作家 は 讀んで くれな いのは 事實 であら 

う。 しかし それ は 先方の 不親切、 不熱心 を 咎める 前に、 こっちの 無 氣カを 反省し なければ ならな 

い。 い たづら に 編輯 後記で 自 讚に 類す る 言葉 を つらね、 自分の 書いた もの は隨 分い、 もの だと 思 

ふと か、 自信が あると か、 同人 某の 作品 は 文 擅 を 刺戟す る だら うと か、 日本で は 今迄に なかった 

もの だと か、 次號 に. はもつ とい、 ものが 發 表される とか、 凡そ 實 質に そぐ はないき まり 文句 を 恥 

とせす、 しかも ニ號は 釗刊號 より 內容 外觀 共に 劣る のが 一般で- 三號 雑誌の 通り ことば を 其 ま、 



274 



辯の 誌 雜人同 



に沒 落す るの が 多い." よく ある 例 は、 一ヶ月 休. < で ニケ. 月 合併 號を 出し 頁 數の增 加 を ほこる が、 

あれ は斷末 魔のう めき 聲と 同じで、 合,: W 號が 出たら つぶれる と 見て 間違 ひ 無い。 實に 根氣が 乏し 

いので ある。 - 

叉 同人 雜 誌に こそ 當然 あるべ き純眞 性の 稀薄と、 新鮮 感の 缺乏も 遣憾千 萬で ある。 それ は當代 

流行の 傾向が、 感受性の 強い 若い 人達に 影響 を與 へる 結果、 その 流行の 埒外に 出る 事 を 極度に 警 

戒し、 不知 不識の 間に 自分の 持 味 を 失 ひ、 模倣に 傾く 爲 ではない かと 思 ふ。 

いかに 多くの 社長が 太鼓腹で タイ ピ スト を 誘惑して 京 濱國道 を ドラ イヴし、 ホ テルに 泊つ て 鼾 

を かく か、 いかに 多くの ブル ジョァ 夫人が 靑 年と 喫茶店で おちあ ひ、 自動車に 同乘 して ふと 股 を 

おしつけ るか、 こ、 には^ 上 多く 見る 膽汗 質の 重役 は あら はれす、 多産と 授乳に 美し さ を 失った 

奥さん は 登場す る 機 會を與 へられな いので ある。 プ P フ H ッサァ も拳鬪 選手 も、 女給 も ダン サァ 

も、 人形芝居の 人形の 首の やうに 模型 的で ある。 或は これ は、 作者の f 間 智が淺 く、 活社會 から 

人を學 ばす、 他人の 小說戲 曲の 中に 人間 を 知る 結果 かもしれ ない。 

同人が 同人 を 制 肘す る 事 も 獨自性 を 失 はせ る 原因と して 働く。 同人 間の 批評 を氣 にし、 動かさ 

れ、 集圑の 空氣の 中に 醉 はんとす る 心 持が 強く、 自分の 素質 を かへ りみ て、 一人 踏 止まらう とす 



275 



る 精神が 乏しい。 今 は 花形 作家 としてもて はやされて ゐる 某氏が、 會て 同人 雜 誌に 長 篇を 連載し 

た。 私 は 非常に 愛讀 し、 他人に も勸 めて 讀 ませ、 多くの 人が 感服した が、 完結に 至らないで 中止 

になった。 何故かと いふと、 其の 人の 特異の 作風が 同人と あまりに かけはなれて ゐて 仲間う けが 

惡く、 斷 絶の 止むな きに 至った の ださう だ。 ところが、 ひとたび 此の 人が 一般に 認められ、 小說 

き め 

集が 肽に 出る と、 その 長篇が 集中の 傑作と して 極 をつ けられた。 同じ やうな 實例 は隨分 多く、 強 

情に 自分 を 守る 事 はかなり むづ かしい 事ら レぃ。 

さう いふ 風に、 私 は 今の 多くの 同人 雜 誌に 滿 足して ゐな いので ある。 私自身、 多年 「三 田 文學」 

とい ふ 同人 雜 誌に 參 加して ゐ るので、 他人 事で は 無い の だが、 純 藝術を 培 ふ 重大なる 使命 を自覺 

して、 月々 雜誌を 出す とい ふ 御座な りの 態度 を 振 捨て、 新人の 力作 を 紹介す る 事に 努力した いと 

考 へて ゐる。 同人 雜 誌に 於て こそ 力作が 見出され ると いふ 喜びが 味 は、 れ るなら ば、 これに 越す 

よろこび は 無い。 (昭和 七 年 五月 三十日) 

1 1 「讃资 新聞」 昭和 七 年 六月 二日 • ;ー 一日 



276 



文學 生^ 答 ふ 



昭和 七 年 八月 五日の 「三 田 新聞」 に 「三 田 文學の 編輯 を學 生の 手で なせ!」 とい ふ 投書 力 出て ゐる 

が、 それにつ いて 一 言 答 へ て 置く。 

「三 田 文學」 は 明治 四十 三年の 創刊で. 大正 十三 年に 廢刊 し、 同 十五 年に 復活した。 どうして 中 

途で 一 度つ ぶれた かとい ふと、 最大 原因 は經營 困難であった。 一 文學 生が いかにも 大金の やうに 

いふ 年額 千 圓內外 § 補助金で は 不足な の だ。 これ は 今もって 變ら ない 惱み である。 創刊 當時は 物 

1 慣が 安く 知名の 文人の 原稿 も 一 枚 一 圓 位の ものだった から、 年額 千圓內 外の 補助金で も 立派に や 

K つて 行けた ので あるが、 . ^代が 變 つて、 忽ち 財政難に 陷 つた。 元來 此の 雜誌 創刊の 目的 は、 塾 か 

^ らも 文人 を 世に出さ うとい ふので、 旣 にある 帝 國大學 の 「帝 國 文學」 早稻田 大學の 一. 早稻田 文學」 に 

ふ 對抗 しょうと いふ 娑婆 ッ. 氣に發 したので ある。 しかし 塾內の 原稿 を 載せて ゐ たので は單 なる 手 習 



277 



草紙に 終って しまつ て 文壇に 人 を 送る 目的に か な はない か ら、 な る ベ く 文壇との 接觸を 深く し 度 

いと 願った ものら しい。 卽ち塾 外の 森鷗外 上田 敏兩 先生 を 顧問と し、 永 井 荷 風 先生 を 主幹と して 

三 田 文學會 なる もの を 作り、 雜 誌の 編輯 を 任せた。 當時學 生だった 吾々 は、 學 生の 原稿が なかな 

か 御 採用に ならない ので、 別に 自分 達 の 勝手 に 出来る 同人 雜誌を 作らう と 相談した 事 も あ つ た 。 

ところが 大正の なかばに なると 上記の 補助金で は 知名の 文人の 原稿 を 集める 事が 出來 なくなり" 

從っ て 「三 田 文學」 の 文壇に 於け る 重要性 も 薄くな り、 森 先生 も 上田 先生 も 永 井先 生 も 何時の 間に 

か雜 誌と 緣を絕 たれた。 爾来 今日に 至る 迄、 執筆者の 大部分 は 一 文學 生の 希望 通り 「教授、 敎師, 

塾 貫, 塾生」 に 限られ、 ただ 少しで も 文壇との 接觸を はかる 意味で、 塾 外の 人の 好意に よる 投稿 

を 仰いで ゐる に過ぎない。, ■ • - : 

一 文 學生は 「所謂 舊三 田 派に 屬 する 原稿の 賫れ ない 文士連の 發 表機關 になり 切って しまって ゐ 

るの は 不都合の 限りで ある」 と はげしい 言葉で いって ゐ るが、 世間で 謂 ふ 所の 舊三田 派と は、 大 

正 五六 年頃、 井汲、 三 宅、 南部、 小島、 水木の 諸氏が ー齊に 文壇に うって 出た 時、 それより 一時 

代 前の 久保田 水 土 等 を さして さう 呼んだ のであって その 意味で は、 現在 執筆し てゐ るの は 私 丈け 

だと 云っても い ゝ。 若し 叉 その 頃の 新 三 田 派の 諸氏 を も ひっくるめて 舊三田 派に 算入す るに して 



278 



ふ 答に 生 學文ー 



も * その 人達 は あまり 謦 いて はくれ ない ので ある。 何故ならば、 原稿が 外に 賣れる 力ら である。 

現在 雜 誌に 一 番 多く 執筆す るの はそんな、 古い 連中で はなく、 こ 、數 年間の 卒業生と 現在々 校 生で 

ある。 根據の 無い 漫篤 はつ 、しんで 賞 ひ 度い。 

义 「編輯 者の 個人的 偏見から、 精神的 主幹と 云 はれる 某氏の 趣味から 雜 誌が 發 行され て ゐ る や 

うなの は 怪しから ぬ」 とい ふが、 現 編輯 擔當者 和木淸 一二郎 氏 は 非常な 努力 を拂 ひ、 なるべく 個人 

的の 好悪 そ 避けて、 各方 面から 原稿 を 集める 事 を 心がけて ゐる。 昔の 「三 田 文學」 と 今日の それと 

比べて 見れば、 はっきり わかる 事で ある。 玆に 精神的 主幹と いふの は 私 を さす ものである 事 疑な 

いが、 この 言葉 は 久保田 万太郞 氏の 好んで 用ゐる 洒落であって、 他に は 一人と して こんな 呼び 方 

をす る 者 は 無, い。 その 私 もなる ベく 自分の 趣味 を 出さないで、 出來る 丈け 各種の 傾向の もの を 載 

せ る 事に 努め てゐ る。 但し 發禁 の 心配 の あ る も の は 絕對に 避け てゐ る。 一 度 發禁を 喰 へ ば、 雜誌 

は 財政 的に べし やん こになる からだ。 私 は 時に 自分の 辛抱 を 腑甲斐な いと 感じる 位、 自分の 趣味 

とは緣 遠い もの を 推薦して ゐ るが、 それに も拘 はらす 一 文學 生の いふ 如き 非難 は 絶えす うけて ゐ 

る。 何故かと いふと、 澤山. の 原稿の 全部 を 採用す る 事 は 實際上 不可能 だからで、 取捨 選擇は 止む 

を 得ない。 これ は 誰が その 任に あたって も 非難 を うけな いわけに は 行くまい と 思 ふ。 



279 



で 一寸 斷 つて 置き 度 いのは、 雜 誌が 一時 廢刊 された 時 • 時の 幹事 石 田 新太郞 氏から、 どうし 

たら 復活 出來 るか 考慮して くれと いふ 相談 をう けたの が 私で ある。 私 は 同人 諸氏と 度々 會 合しと 

もど もに 先輩 知己に 賴んで 前金 購讀 者に なって 貰 ひ 寄附 金 を 乞 ひ、 廣吿取 をして 補助金の 不足 を 

補 ふ 事と し、 それでも 不足の 場合に は 自分が 負擔 する 腹 を 定めた。 かう いふ 遣 口 こそ 合理的で な 

いので あるが、 さう しなければ やって 行けない のが 實狀 なので ある。 その 昔 對立關 係に あった 

「帝國 文學」 も 「早稻 田 文學」 も 夙に つ ぶれて しまった。 つ ぶれる のが あたり ま へ で 「三 田 文學」 が 今 

日な ほ存績 して ゐ るの が 奇蹟 で あると 云った 人が あるが、 いかに 雜 誌の 經營が 困難で あるか を證 

する もので あらう。 

又 一文 學生 は、 千 餘圓の 補助金に つ. いて 「その. 金 は何處 から 出る の だ」 とい ひ、 察する に その 意 

味 は、 學 生の 月謝から 出る の だとい ふので あらう が、 慶應義塾 は學 生の 月謝 丈け では 立ち ゆかな 

い。 維持 食 その他の 寄附 金が あって、 はじめて やって 行かれる の だ。 

編輯 を學 生の 手に うつす 事 は、 これ を唱 へる 事 も 試みる 事 も 容易で あるが、 永續 させ 效 fflK を擧 

げて 行く 事 は困雞 ではない だ らう か。 實は 吾々 もどう した ら學 生と 編輯 擔當 者と が 協力し て やつ 

て 行ける か、 いろ/ \ ためして みて ゐる。 



280 



ふ 答に 生 學文ー 



私 一 個の 意見と して は雜誌 創刊 當 初の 目 通 的り 文壇に 人 を 送る とい ふ 事 を 主と すれば、 現在の 

やうに 雜誌 編輯の 玄人で 文壇の 知合の 多い 人 を 中心 にして置く 方が まさり、 目的 を變更 して 學生 

が內輪 だけで 樂 しむ 手 習 草紙と する 積り ならば 編輯 を學 生の 手に うつす のがよ いと 思 ふ。 但し 後 

者の 場合と 雖も 原稿 選 擇に對 する 不滿は 止むまい し 經濟雞 は 一 層 甚だしくなる であらう。 

正直のと ころ 私 は 「三 田 文學」 の 御世 話 をす る 事に は旣に 疲れて ゐる。 早晩 休息 を 願 出なければ 

なるまい と 思って ゐる。 然し、 ひそかに 嬉しく 思って ゐ るの は、 十 數年來 土 を 耕し 畑 を拓く 事に 

努力しながら、 常に 默 殺の 憂目 を 見て 來 たのが、 この頃 やう やく 陣容 も 整 ひ、 「三 田 文學」 を踏臺 

として、 新人 相 踵いで 世に出る 盛況 を 見る 事で ある。 雜誌は 今日 「墮 落」 して はゐ ない。 やっと こ 

さと 頭 を 持 上げて 來た ところな の だ。 みんなが 下らなく 感情 問題に 囚 はれす、 協力して 守 育てる 

事に つとめ 度い ものである。 (執 達 月日 不詳) 

—— 「三 田 新聞」 昭和 七 年 九月 二十 八日 



281 



もう 一 度 「三 田 文學」 につ いて 



昭和 ヒ年 八月 五日の 「三 田 新聞」 に 出た 一 文學 生の 「三 田 文學」 に關 する 投書に は 大分 田ね ひ 違 ひが 

あるから、 早速 「 一 文學 生に 答 ふ 一と 題す る 一 文 を 投じた ところ 十月 七日の 本紙に 一 文 學生事 岸 井 

隆 氏が 再び 「三 田 文學」 につ いて 意見 を述. ベ、 私 を 名 ざして、 これ を默 殺す る 事 は 承認 を 意味す る 

の だぞと 附記して 居られる ので、 止む を 得す、 もう 一度 答へ なければ なら なくなった。 井 氏 は 

前囘の 私の 投書 を 「抗議」 と 見て 居られる が、 私 は 抗議すべき 程の 間 題と は考 へて ゐ ない。 間違つ 

た 事 を宣傳 されて は、 多数の 善良なる 讀者 にも 誤解させる 惧が あるので、 實狀を 述べ て^^^した 

ので ある。 

岸 井 氏が 「三 田文學 : を さかんにし 度い 爲に 意見 を 述べ られ るの は眞に 有難い。 吾々 は 二十 餘年 

間 その 事で 苦しみ 績 けて 来た。 ただ 井 氏の いふ * が、 屢々 事實に 反する の を 遺憾に 思 ふ。 ?i 井 



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ていつ に L 學夂 W 三 If 一う も 



氏よ、 文壇との 接觸を はかる ことによって 文壇へ 作家 を 送り出す など、 いふ 事 は、 今の 小 說家志 

望の 靑年は 夢み てゐ ない とい ふが、 それ は 事實を 無視した 論で ある。 理想論 をい へば、 歌 俳諧 を 

樂 しむ 多く の か くれたる 詩人 の やうに、 文壇なん ぞを 念頭に 置かす、 自分 の 文學を はぐくむ 事で 

滿足 出来れば 幸 ひで あるが、 多數の 作家 志望者が 當 面の 問題 は、 如何に すれば 文壇に 出られる か 

とい ふ 事に か、 つて ゐる。 私 は 個人と して 文壇 づき あ ひの 乏しい 人閒 で、 曾て は 三 田の 人 々から- 

あまりに 文壇 づ-き あ ひ を しないの が 「三 田 文學」 の 振 はない 所以で あると 非難され たもので ある。 

文壇と 接觸 を はかるな ど、 いふ 事に 重 耍性を 認めな い 岸 井 氏 の やうな 人の あら はれた の は 甚だ 心 

強 い 次第 であるが、 さう いふ 人 は 極め て 少数で 、 少なくとも 現在 眞劍 にな つ て 作家 を 志 て ゐる人 

々は * いづれ も 贊意を 表さないで あらう" 

「三 田 文學」 が 文壇 的に 意義の あつたの は 久保田 万 太 郞氏を 生み出した 唯美主義 運動の 頃 だけ だ 

とい ふ 岸 井 氏の 說は、 決して 私の 否定し ない 事で ある。 初期 「三 田 文學」 が 明治 文學 史上 有意義な 

活動 をし、 その後 久しい 沈滯 期に あった 事 は 誰よりも 私が 繰返して 書いた。 しかし、 こ、 でも 深 

く考 へて みなければ ならない。 當時 自然主義の 運動が 下火と なり、 一般に あきられて 來た折 柄、 

森, 上田、 永 井, 三 先生 を 中心とする 「三 田 文學, 一が、 その 頃と して は 充分の 財政 狀態 を備 へて 出 



283 



現した ので ある。 反 自然 派と 見られる 一流の 作家の 原稿 を 買 集める 事 は 容易だった。 ところが 其 

後の 文壇の 狀態は 急激に 變 化し、 商賫 本位の 大雜 誌に 檜 舞臺は 移り、 多くの 文 學雜誌 は經營 困難 

に陷っ て 「三 田 文學」 も. 帝國 文學」 「早稻 田 文學, 一と 前後して 姿 を かくした ので ある。 復活 後の 「三 

田 文學」 は 全く 初期の ものと は 性質が 違 ひ、 主として 未だ 名 を 成さない 若い 人の 爲の 舞臺 となつ 

てゐ るの だ。 よき 作家の 出現 は 何より 待 焦れる 事で あるが、 長い 忍耐 を もって 待たなければ なら 

ない ので ある。 " 

岸 井 氏 は 文壇 は旣に 崩潰した と 見て ゐ るので 「一二 田 文學」 が 文壇へ 作家 を 送る 目的で 刊行され て 

ゐ るの は 無意味で あると いふが、 文學が 世に 存在し、 活字に 組まれて 流布され、 之を讀 み、 批評 

する 事の 止まない 限り、 文壇 は 消滅し ない。 文壇 は 崩潰した と 云 ふ ヂャナ リストの 絕叫 は、 單に 

威勢の い、 言葉の 緩に 過ぎ な い 。 

乂岸井 氏 は 「三 田 文學」 を 足場と して 文壇へ 出た 三 田 出身の 作家が 振 はす 「三 田 文學」 以外の 三 曰 

閼 係の 作家が 有名な の は 一 考を煩 はし 度い とい ふが、 どうも 腑に 落ちない。 伹し 此の 問題 は 一 々 

人の 名 を あげて 數へ てみ なければ ならない ので- その 人達の 迷惑 を 察して 差控へ る。 

岸 井 氏の 所說の 中で 私が 一 番氣 にして ゐ るの は ニニ 田 文學. 一は 其. の 同人の 個人的 特定 關 係の人の 



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ていつ にし 學文 ra 三つ 度 一う も 



原稿ば かり を 載せ、 塾生なら ば日參 しなくて は 駄目 だとい ふ點 で、 これ は 全くの 邪推で ある。 度 

々いふ 通り、 今の 「三 田 文學」 の 執筆者の 大半 は 最近の 三 田 出身者と 學 生で その 人々 と 私共 編輯 委 

員の 者 は 何等の 特殊 關係 があった わけで もな く、 雜 誌へ 原稿が 出る やうに なつてから 知り合った 

ので ある。 廣く 原稿 を 集めたい 爲に、 何とかして 學 生と 接觸を はかり 度い と は、 かねて 吾々 がい 

ひ 合 ひ、 义屢々 會 合の 機 會も つくった。 岸 井 氏の あげて ゐる平 松 幹 夫 氏 提唱の 創作 硏究會 も その 

ひとつに 違 ひない が、 扭 てこれ がな かく 實效を あげに くい。 先輩 は 夫々 仕事 を 持ち、 家 を 持つ 

てゐ る- 暇が 少ない。 學生は 夏はゐ なくなる し、 試驗 前に は 出て 來 なくなる。 折角 集ま-つても 同 

級 生 は 同級生 丈の グル ゥプに 固まり 勝で、 縦の 結合 はむ づ かしい。 しかし 此の 事 は 始終 吾々 の 話 

題に のぼって ゐ るので、 岸 井 氏で も 誰でも、 實務を やって くれる 人が あれば 幸 ひで かる。 吾々 は 

決して 學生 の 參加を 阻む も の で はなく 常に それ を 望んで ゐ る。 

若し 學 生で 投稿し ようとい ふ 人 は 編輯 者 宛に 郵送す るか、 手交 すれば い、。 これ は 久保田 水上 

みんなの 踏んだ 道で ある。 さう でなければ 學 校の 敎 幟に ある 同人 西 脇、 井汲、 石 井、 横 山、 高 橋 

の 諸氏に 渡しても い、。 編輯 その他の 事務 を手傳 つて くれる 學生, 太 田、 二宮、 丸 岡、 今 川の 諸 

君に 渡しても い、。 吾々 の 方で は、 何處 によき 原稿が あるか はわから ない。 持って 居る 人の 方 か 



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ら 歩み寄る 位の 努力 はして 貰 ひ 度い" . 

玆に ひとつ 私の 感の惡 さを吿 白し なければ ならない の は、 岸 井 氏が 繰返して いふ 特殊 關 係の人 

間が 一人 ある 事に やう やく 氣が ついた。 それ は 私で ある。 今の 「三 田 文學」 は 若い者が 主として 書 

いて ゐ るのに、 原稿の 賫れ ない 舊三田 派の 作家の 發 表機關 だとしつつ こくい はれる ので、 そんな 

事 はない と 答へ たの だが、 成程 舊三田 派の 私 は每號 貴重な 紙數を 貰って ゐる。 正に 特殊 關係 だ。 

事が 自分に 關す るので 甚だ 申 上に くいが、 私と 雖も 忙しい 中で 毎號 書く の は 辛い。 もっとお ちつ 

いて 纏まった もの を 仕上げた いと 思 ふの だが これに は譯が ある。 とい ふの は、 今の 「三 田 文學」 が 

あや ふく 存績 して ゆく 支柱の 主たる もの は 前金 購讀 者で、 その 人々 の 多く は 秋 を 援助して くれる 

意味で、 高い 雜誌を 買って くれる の だ。 ぉ羞 しい 話で、 書いた もの を 讀んで くれる かどう か 知ら 

し^しながら 

ない が, 私が つ けて ゐる 限り は つて やる とい ふ 約お が 多い ので ある。 乍 然斯う いふ 變態を 

長く つ ^けて ゐれば ゐる程 私自身の 勉強が おろそかになる ので、 何とかして 「三 田 文學」 の ゆるぎ 

なき 基礎 を 定めて 暇 を 貧 ひ 度い と考へ てゐ る。 もう 暫 らく 御 見逃し を 願 ひ 度い。 

雜 誌の 値段の 高い 事 は、 吾々 の 心苦しく 思って ゐる ところで、 殊に 和 木 氏 は 編輯 擔 任と 同時に 

値 下 案 を 提出され たが、 値 下 を すれば 忽ち 窮乏の 度 を增す 事が わかって ゐ るので、 どうしても 斷 



286 



ていつ にし 學文田 三つ 度 一う も 



行 出来ない。 夢の やうな 話 だが、 誰か 特志 家が あら はれて、 基金 を 寄附して くれる 事ば かり を 待 

望んで ゐる。 

編輯 者 和 木 氏が 他の 雜 誌の 編輯に 力 を 貸して ゐ るの を 「奇怪」 であると いふが、 何も 奇怪な 事 は 

ない。 問題 は、 他の 雑誌の 編輯に 携 はった 爲に 一方が おろそか になって はいけ ない ので、 さう い 

ふ 事實が あれば 勿論 一方 はやめて 貰 ふべき だが、 さう でない 限り は 決して 差 支ない。 和 木 氏の 努 

力に 對 して 深く 感謝して ゐる の は 私の みで はないで あらう。 

岸 井 氏 はこ の 頃の 「三 田 文學」 はつ まらない とい ふが、 こ の 頃の 「三 田 文學」 はよ くな つたと いふ 

方が 定評ら しい.^ かう いふ 事は觀 方の 相違で 仕方がな いが、 少なくとも 文壇に 於て は 認められて 

来た。 默 殺された の は 一時 代 前の 事で、 最近 は然ら ざる 事 前述の通り である。 これ は 月々 の雜誌 

新聞が 立證 して くれて ゐる。 

「三 田 文學」 の 補助金に つ い て 「その 金 は どこから 出る の だ— と 大見榮 を 切って ゐ るので、 慶應義 

塾の 財政 は 月謝ば かりで は 立 ゆかない といった ところ、 更に 又 謝 云々 を 繰返して 居られる が、 

先年 かう いふ 實 話が ある。 慶應義塾の 財政の 苦し さが 問題と なつ,. 時、 或 先輩 は聲を はげまして 

之 を 救 ふに は獨 立經濟 のとれ ない 文學 部を廢 止す るか、 然ら ざれば 獨 立經濟 のた つ 丈け 高い 月謝 



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をと るの が 第一 の <01- 務 であると 云った。 出した けの 分 前に ぁづ からう とい ふ 合理論で ゆく と斯 

くの 如き ファ シ ストと 街 突し なければ ならない。 (昭和 七 年 十月 十五 日) 

し. - 11 「111 田 新聞」 昭和 七 年 十月 廿 一日 



曲戯 のん さ 子紀悠 宅: r": 



三 宅悠紀 子さん の戲曲 



三 宅悠紀 子さん は 故 三 宅 豹 三 氏の 令嬢で、 野球の 大輔 君、 劇評の 三 郎君の 妹で ある。 詳しい 事 

は 知らないが、 豹 三 氏 は 前に は 二 六 新報 社、 後に は 歌舞伎 座の 經營に 手腕 を 振った、 一種 凄味の 

ある 人物だった と 聞いて ゐる。 家が 近所だった のと、 年齢 こそ 違へ、 大輔、 三 郞兩君 以外の 早世 

した 人 も 知って ゐ るが、 女の子の ある 事 は 知らなかった。 昭和 五 年の 秋 「三 田 文學」 に 出た 戲曲を 

讀み、 編輯 者の 紹介 文に よって、 才能 畳 かな 三 宅 兄弟に 戯曲 作家 を, こ、 ろざす 妹の ある 事 を はじ 

めて 知った。 しかし 其の 戲 曲に は 感心せ す、 寧ろ 閉口して、 何故 編輯 者が こんな もの を 採用した 

のか、 尠 なから す 不平だった。 聞けば、 水木 京 太 氏が いくつか 讀んだ 作品の 中で、 稍よ しと 思 ふ 

もの を 推薦した の ださう だ。 

その 頃 恰度 同じ 雜 誌に 帝劇 專務山 本 久三郞 氏 令嬢の 戲 曲も紹 人:: T された が、 この 二 女流に 共通の 



289 



もの は 何れも 舞臺藝 術の 傳統的 定法に 心を牽 かれ 過ぎて、 新鮮 感の 乏しい 缺點 であった。 親が 舊 

劇 本位の 劇場 經營 者で ある 立場から、 ち ひさい 時から 舞臺に 親しみ、 歌舞伎 特有の 不自然 や、 役 

す ぎ 

者の 仕 勝手と いふ やうな ものに 何の 疑 もいだ かす、 かへ つて 同情 を 持ち 過る 結果、 いざ 自分が 戲 

曲 創作の 筆 を 執る 時、 生きた 社會ゃ 人間から 暗示 を 受ける より さきに、 曾て 見た 舞臺の 情景に 影 

響され、 不知 不識 模倣に 陷り 易い 弱味が あるので は 無いだら うか。 悠紀 子さん の戲 曲に は、 古い 

殼 がかな りしつ こく こびり ついて ゐた。 ノ 

兄さんの 大輔君 は 捕手 一二三 壘遊擊 手、 何處へ 持って行かれても 立派に しこなし、 好守 好打 好 

走の 器用な 選手だった が、 同時に 尖鋭なる 野球 理論家と して 並ぶ ものな き 筆力 を 示し、 三 郎君 は 

歌舞伎 劇の 眞 面目な 研究家で、 その 正統派 的 劇評 は 後 の 尊い 參考 資料と もなる べき もので、 い 

づれ もこ 、ろざす 道の 第一 流に 位して ゐる。 その 兄弟の 妹 だから、 並なら ぬ 才能 を 示す であらう 

と 期待した 人々 は、 矢張り #1 上 芝居 好の 娘つ 子の 代表 たるきい ちゃん、 みい ちゃんの 徒に 過ぎな 

いの かと 落膽 したに 違 ひない。 その後の 作品 も 同列 以上に 出る 事な く、 正直のと ころ は 此の 女流 

作家に 多くの 期待 を, かけなかった。 

ところが、 今年の 夏 頃 「三 田 文學」 に 出た 五 幕の 戲曲 「周 圍」 は、 まとまりの 惡 さと, 會 話の 拙劣 



290 



ぉ歲 のん さ子紀 悠^ さ 



と、 最初から ついて 廻って ゐる 舊獻仕 立の あまさ を脫 却し きれない ところ はあった が、 その 規模 

の 大きさに 少しもめ げす、 多数の 人間の 性格と 境遇と 紛糾した 關係 を、 かなり 突 込んだ 解 釋で見 

かつ 

且 表現し、 それ迄の 悠紀 子さん と は 段 違 ひの 力量 を 示した。 せ 評 もよ かった。 

此の 作品が 認められた 結果、 演劇 雑誌 「劇作」 の 求めに 應 じて 發 表した のが 同誌 十一 月號を 飾つ 

た 「晩秋」 四 幕で ある。 氣 力の 無い 小說 家が 巴 里から 連れて 來た 女との 日本に 於け る 家庭生活、 甲 

斐性 のない 良人と フ ラ ンス 語を敎 へて せつ せと 稼ぐ 妻、 東と 西の 習慣 訓練 觀念氣 質の 相違の 深さ 

が、 鬪 ふよりも かけ 違 ふ 結果、 それ は 不幸に 終る のが 當然 である。 今に 傑作 を 書く 書く といって 

長年 何もし ない 夢想 的な 良人と 違って、 妻 は 西洋人 一流の 合理的 家庭生活 を モット ォ とし、 舊敎 

國 流の 厳しさ を 強 ひる 爲め 女中が ゐ つかす、 臨時 手傳 ひとして、 良人の 妹の 友達の 近代的 令孃が 

介在して 來る。 富家の 娘で ありながら 働く とい ふ 事に あこがれ を 持つ、 s 本 近代 合理主義 婦人の 

ひとつの 型に 合する しっかり 者で、 一面 奔放な 感情 を 持ちながら、 同時に それ を抑壓 して あまり 

ある 意志と 理性の 持主で ある。 長い間 西洋人との 一 致し 難いい ろくの 事に 惱 まされて ゐ た小說 

家 は、 此の 令孃の 身邊に 出現した 事で、 久しぶりで 曰 本 を沁々 と 感じ、 愛 を 求める。 妻が 知って」 

怒り、 良人 は 家 を 出て 行く とい ふ 芝居 だ。 その 良人が 再び 妻のと ころへ 歸 つて 來 るか 來 ないか は 



291 



書いて ないから わからな いが、 解決の 無い 人生に 無理に 結着 をつ けて 幕 を 閉ぢる 必要 は 無い。 少 

なくと も 作者 は、 こ、 にえら ばれた 二人の 人の 悲劇よりも、 もっと 一般的の 東洋人と 西洋人との 

相違 * その 結合の 無理に 重點を 置いて ゐ るの だら うから、 目出度 目出度に 終らない 事 を 暗示 十れ 

ば 充分で あらう。 . 

この 戯曲 を讀ん で、 私 は 驚き 疑った。 三 宅悠紀 子と はっきり 作者の 名前 は 認めた が、 今迄の 悠 

紀 子さん の 作 ng の 句 を何處 にも 感じない。 舊劇仕 立のから くりや, あまさ や 不自然が みんな 排除 

され、 人形 は 人間と なり、 舞臺の 上と いふ 感じがぬ けて、 其處 にも 此處 にも ある 實 世間の 生きた 

悲劇に 變 つた。 それ は 偶然が 生んだ 筋の 上の 悲劇で はなく、 誰 を 咎める 事 も出來 ない 免れ 難い 悲 

釗 である" 何の 誇張 も噓も 無く、 登場人物 ははつ きりと 個性 を 示し、 時代と 境遇と 敎 養との 相違 

を 背景と して、 くっきりと 描き 分けられて ゐる。 會話 もめつ きりう まくな り、 無駄が なく、 いき 

が あら はれ、 その 會話 丈で 他に 說 明がなくても、 人々 の顏 かたち 迄 想像 出來 るので ある。 たと へ 

ば、 私 はかう いふ 夫婦 を 現 實には 知らないの だが、 どうも 知って ゐる やうな 氣 がして: H 方が 無い。 

戯曲の 進行に 無理が 無い。 女流作家に 特有の 感傷 癖が 無く、 弱々 しさが 無く • 強く 大らかに どの 

性格の 缺點 も見拔 き、 どの 性格に も 同情して ゐる。 したがって、 どの 性格 も 無理な 行動 をして ゐ 



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曲戲 のん さ 子 紀悠' ir 二- 



な いし、 どの 性格 も 自ら かへ りみ て 恥 入らす、 自分の 言った 事 爲た事 を 肯定す るに 違 ひない と 思 

はれる。 それ 程 肉 づけが 畳 かに 出來 上って ゐる。 悠紀 子さん の 傑作ば かりで 無く、 近頃 最もす ぐ 

れた 戯曲の ひとつで ある。 短時日の 間に どうして 作者 は此處 迄來る 事が 出来た のか、 景氣 よくい 

へば 奇蹟で ある。 人の 勉強 努力が 斯うまで はっきりと 成長 を 示した 場合 はまこと に 少ない。 吾等 

鈍根の 者 は 勉強 努力 を 唯一 の 頼みと し、 それによ つて 自己欺瞞の 安心 さへ いだき 勝で あるが、 三 

宅悠紀 子さん の 實例を 見て は、 自分の 天 分 年齢 の 割引 も 忘れて、 まだ ま だ 勉強す れば どうにか た 

るぞ とい ふ 發奮を 得た。 . 

不幸に し て 「劇作」 は 多く の 人の 讀む雜 誌 で 無い から、 この 戯曲が 人に 知られす に 終る の は 残念 

だと 思 ひ、 私 は 逢 ふ 人每に 一 讀を勸 めた が、 今迄の 悠紀 子さん の 力し か 知らない 人達 は 私の 言葉 

を 信用し ない 氣色を 見せ、 讀ん だか 讀ん だかと 催促しても、 なかなか 滿 足な 返事に 接しなかった。 

ところへ 最近に なって、 久保田 万太郞 氏から 「晩秋」 は 非常によ かった、 築地 座の 連中 も讀 んで感 

心し、 忽ち 上演の 話が きまり、 自分が 演出 を 引受けた とい ふ 報告に 接した。 久保田 氏は殘 酷な 程 

採點の 辛い 人で ある。 それが 進んで 煩 はしい 演出 指揮 ま で 引受る とい ふの だか ら 「晩秋」 の 出來榮 

え は 立派に 裏書され たわけで、 私 は 私の 眼識 を 誇りたい 氣持 でい つばい になった。 作者 も さぞ か. 



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し 嬉しいだ らうと 想って ゐ ると、 人の 噂で は餘程 前から 病臥して ゐて、 この 作品 も 病牀で 執筆し 

たの だと 聞いた。 . 

私 は 作品 を 知って ゐて 作者 を 知らないの であるが、 長い間 勉強 努力して 戲曲を かきつづけ、 や 

うやく 雜 誌に 載る やうに なり、 自分で も滿 足して いい 作品が 出來 上り、 それが 他人に も 認められ. 

はじめて 舞臺に のぼると いふのに、 作者 は 今や 病 重く、 自分で は 見に 行く 事 も 出来ない とい ふの 

は、 まことに 人生の 悲劇で ある。 私 は、 せめて は 多くの 人に 此の 戲 曲の 上演 を 見て 貰 ふの が 作者 

を 慰める 唯一の 道で あると 考 へて、 これ を 書いた e (昭和 七 年 十二月 十八 日ソ - 

(附記) 築地 座 は 十二月 二十四日から 三日間 飛行 館で 公演す る 由 . _ 

n 「時事 新報」 昭和 七 年 十二月 二十日 ニー 十一 日. 二十 二 eL 



29^ 



書 落の 他の そ 屋宿 車汽夜 



夜汽車、 宿屋、 その他の 落 書 



あけて 七十 二になる 母が、 大阪の 兄の 家に 行って みたい とい ふので、 いつも 正月 は 旅行と きめ 

てゐる 私が 供 をして > 大晦日の 夜 東京 をた つた。 母に は、 先年 家內を なくなした 弟の 六 歳になる 

女の子が くつ、 いて ゐた。 

兄 はっとめ の關 係で、 小 樽、 倫敦、 紐 育ノ 京都、 門 司、 名 古屋と 二十 餘 年間 あちらこちらと 轉 

々し、 今度 は大 阪へ轉 任して はじめての 正月な ので ある。 二 男 二 女の 教育の 爲め、 何 處に轉 じて 

も 家族 は 東京 を 離れす、 學期 休の 時 だけ 任地へ 出かけて、 一家 族の 顔が 揃 ふとい ふ 生活 をつ ぐけ 

てゐ る。 私共 は 兄弟 姉妹 十二 人と いふ 大家族で、 それが 結婚して 子供が 生れ、 その子 供が また 子 

ひい ま fj 

供 を 生む 時代と なって 來 たから、 一族の 總大將 である 母に は 五十人 近い 孫, 曾孫が ゐる。 出来の 

い、 の も あ 比」. H, 惡 いのも あるで あらう。 私共が 父の 命日に 集まる と、 何 處其處 の 子供の 出来の 惡 



29? 



いのは 僕達の 血統 だと か、 あそこの 子供の 不出来 はう ちから 行った 女親の 罪 だと か、 勝手な 事 を 

いひ あ ふので あるが、 さう いふ 場合い つも 評判の い、 の は 此の 兄の 子供達で、 四 人が 四 人と も 出 

來 がい、。 年中お ゃぢが 留守で 出来る の だから、 あれ は 賢明なる 嫂 一人の 力で- 父親の 惡 影響 を 

蒙らない のが もっけの 幸 ひなので はない かと 私共 はいふの である。 その 嫂 も、 子供達 も、 暮 から 

おや ぢの ところへ 押 かけて ゐる。 母に して みれば その 娠 かなとこ ろへ 行く のも樂 みに 違 ひ 無 かつ 

た。 . 

私 は 夜汽車が 好きだ。 勤 先の!; E 僚な どで、 役: :!: の 上で 出張す るの が、 旅 もい、 けれど 夜汽車が 

いや だ、 寢臺 では 眠れない とか こつの を 聞く と、 不思議に 思 ふ。 私に は 汽車の 寢臺程 氣樂に 眠れ 

ると ころ は 無い。 家に ゐれ ば、 夜中で も 電報が 來 るか、 電話が か、 るか、 場合によって は 人の 訪 

問 をう けない とも 限らない 不安定の 氣持 があって 熟睡 を 妨げる が、 い つたん 汽車の 寢臺 に. 横にな 

つてし まへば、 翌朝 迄 は絕對 にうる さい 事がない。 私 は 何時も 汽車の 寢臺 で、 日頃の 疲勞を 完全 

に 振捨る やうに ふので ある。 仍し夂 、拳の 汽車の 人工 溫度は あつがりの 私に は 閉口で、 他人が 同 

窒 でなければ、 窓 を あけ 度い 位 だ。 だから、 折角の 安樂なる 寢所も 蒸 暑く 汗ばむ ので、 私 は 素 裸 

で寢る 事に きめて ゐる。 一夜の 旅なら ば寢衣 を持參 する 必要 も 無い。 今度 は 母と いっしょ なので、 - 



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書洛の 他の そ 屋宿 車汽夜 



寢卷の 用意 はした けれど、 いざと なって は 用ん なかった C 齊に 銀座の はち 卷岡 田で 飲んだ 酒の 醉 

で 身: e が ぼか/ \ して ゐる 上に、 例の 人工 溫 度が 加 はるので、 裸で 寢て さへ 暑かった。 

私 は 上段の 寢臺に 上って、 あした は 京都で 目 を さまさう ときめた。 自慢で は 無い けれど、 私 は 

何時に 目 を さまさう と 心で きめれば、 大概 その 通りに 起きる 事が 出來 る" 時々 は 失敗 もす る けれ 

ど 十中八九 迄 は 二十 分と 違 はない。 だから、 京都で 目 を さまし、 着物 をき て、 顔 を 洗って、 朝飯 

を途 ベ て 恰度 大阪 へ 着く 豫定 をた て 、安心して 眠った。 

ところが、 まだ 夜の あけ きらない うちから、 下段の 母が Mn を さまし、 上段の 寢臺を 下から こつ 

こつ 叩く ので ある。 年寄の 氣ぜ はし さと、 旅 馴れない 不安心で、 早く 起きて 身 仕度 をして 置かな 

いと 降り 遲れ ると でも 考 へて 居る らしく、 もう 直き 夜が あける よと 警告して ゐる ので ある。 知ら 

ない ふり をして ゐ ると、 なほこつ こつ 叩き、 しま ひに は 女の子が 命 を 受けて、 「をぢ ちゃん、 も 

うお 起きな さいつ て」 とい ひながら 梯子 を 上つ て來て カァテ ン の 間から 顏を 出す。 をぢ さん は 素 

裸 だ。 たうとう 起されて しま ひ、 かねて 樂み にして ゐた 車中の 熟睡 もなかば にして 破れて しまつ 

た ので ある。 

大阪 では、 母 は 勿論 兄の 家に 泊る の だが、 私 は 勝手 氣儘 をす るつ もりで、 別の 宿 をと る 事に き 



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めて ゐた。 最初 は簡單 第一 主義で 堂 ビルの. ホテルに 泊る つもりだった が、 東京の 先輩 友人 も、 大 

阪の 知人 も、 ホテル は 居心地が よくない からよ せとい ひ、 岡 田 三郞助 先生 は、 朝日 新聞社の 向 河 

i;!!; とかに ある 京屋 とい ふの を推稱 され、 是非 そこに 泊れ と 熱心な おす、 めだし、 平 岡 權八郞 氏 は、 

多年 花 月 で 働いて 居た 婦人が 堂 ビルの 裏手で やって ゐ る 若菜と いふ 家 を 紹介し ようとい ひ, 大阪 

方の 岡 田 四 郞君は 宿屋 は 自分に 任せて くれ、 南 區笠屋 町 の 大野と いふの が靜 でい、 と 云って 来た。 

す る と 東京 方 の 面々 の 中から、, 南の 大野 屋とは あん まり 月並 だ、 騷々 しくて いけないだ らう、 

ナぎ 

役者の 定宿 だから はで 過 や あしない かと いろいろの 注意が 出た。 或 人の 如き は、 先年 水 谷 八重 子 

孃と 同宿で、 二 時間 湯殿 を 占領され て 閉口した とい ふ 實際經 驗を持 出して 反對 した。 「永遠の 處. 

女」 「われ 等の 八重ち やん」 と 同宿 甚だ 結構、 同じ 御 湯に 入る なんて 寧ろな まめかし い 賜 だら うぢ 

や あない かと、 少々 いやしい 口 もき いた けれど、 結局 岡 田 君に むかって は、 役者の 泊る うちなら 

御免 かう むる と 申 送った。 

折返して 大阪 方から、 役者の 泊る の は 大野 屋で、 こっちの 負 は 大野と いふ、 開業して まだ 一 

年に もなら ない 初心な 家 だ、 間違へ て は 困る と 云って 來た。 

さう かう して ゐる うちに 出立の 日 も 近づいた ので、 私 は 大阪の 事 は大阪 方に 任せる のがよ いと.. 



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書 落の 他の モ 屋宿 卓汽夜 



考へ、 岡 田 先生 推稱 の京屋 と、 平 岡 氏 推薦の 若菜と、 その 大野の 三 軒のう ちで、 安くて 茶代 廢 止- 

で サ ァヴィ ス の惡ぃ のにき めて くれと 岡 田 君に 頼んで やった。 

安くて 茶代が 無い とい ふ氣安 さから、 私 は 最初 ホテル をこゝ ろざした ので、 多く 置いて 甘く見- 

られ、 すくなくて 罵られる 茶代なる もの は 實に氣 持の 惡ぃ 制度で ある。 これ あ f.c- が爲に 宿へ 着く 

前から 心配し、 宿 をた つた 後 迄 心に か、 る ものが ある。 

サァヴ イスの 惡 いの を條件 としたの は、 平生 簡易な 生活 をし、 人手 を 借りす に暮 して ゐる のが、. 

一夜 二 夜の 宿屋で 殿樣极 をう ける の は 甚だく すぐった く、 叉 私の 性質と して、 お 天 氣の挨 機 や、 

型通りの 世間話が 出來 ない ので、 おかみさん、 番頭、 女中と 入替り 立替り 出入し、 不必要に お茶 

を吞 まされ、 無益な 會話を 強 ゐられ るの は 苦痛 だから、 こっちから 用を賴 まない 限り は ±, c も. 

して くれない 事 を 希望す る 意味な ので ある。 

岡 田 君から は、 京屋と 若菜の 事 は 知らないが、 大野 は 御 註文 通り 安く、 茶代 は 決して 頃 かす、 

サァヴ イス は 精々 惡 くさせる から 安心し ろと いふ 返事が あった。 

梅 田の 驛に 出迎 へて くれた 兄の 自動車で 達ら れて、 笠屋 町の 大野の 格子 を あけた。 朝 も 九 時と 

いふのに 未だ 寢てゐ るら しく、 二三 度 操 返して 聲を かけ、 そろ/、 退屈し かけた 頃、 臺 所から 寝 



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ぼけた 女の 顔が 出た が、 うさんくさ、 うに 見て ゐる ばかりで、 返事 もしない。 成程 サァヴ イス は 

惡さ うだと とたんに 感服して、 自分 は 岡 田さん を 介して 宿 を 乞うた 者で あるが 上っても い 、 かと 

いふと、 はっきりした 返事 もしないで、 引 込んで しまった。 叉 暫く 待た されて、 今度 は 別の 丸 髭 

の 女が あら はれ、 お母さんと いっしょに 來て、 2^ さんの 家 迄 送り届け、 それから 引返して 來 るの 

だから 正午 近くなる だら うとい ふ 岡 田さん の 話 だ つたので、 こんなに 早く 來 ようと は 思 はな かつ 

たとい ふので ある。 私 は 愈々 安心して 一 一階の 一. { 至へ 通った" 

それから: 兀日、 二日、 三日、 四日、 五日の 朝 迄 世話にな つたが、 その 間 泊 客 は 私 一人で、 充分 

休息す る 事が 出来た。 この 宿のお かみさんと は、 元日の 夜 岡 田 君が 来て 酒に なった 時、 たった 一 

度顏を 合せた ぱ かりだ。 最初に 臺 所から 寢 ぼけた 顏を 出した をば さんと、 その 手傳 のお ちょぼが 

一人 ゐた. が、 これ も 一度 顏を 見た ばかり だ。 私の 窒の サァヴ イス は、 上記の 丸營 と、 おかみさん 

の 妹 だとい ふ束髮 婦人が 受 持った。 この 束 髮は大 阪の女 學校を 出て、 三菱 商事 會 社の 社員と 結婚 

し、 良人 は巴虽 駐在 を 命ぜられて 數 年間 別居し、 やう やく 歸 朝した と 思 ふと 間もなく 死別した と 

いふ 經歷 で、 これが 美人 だとい ふと、 いさ、 か 古い 型の 小說を 連想す る 人 も ある だら うが、 決し 

て 譲 者を饭 はす 容姿で は 無かった から、 御 安心 願 ひ 度い。 た、.^ いかにも 頭腦 明晰で、 素早く こつ 



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喾 落の 他の そ 屋宿 車汽; ffe 



もの 我儘 をのみ こんでくれ るのに は 深く 感謝した。 - 

この 頭の い ゝ 婦人のお かげで あらう、 私の 希望 通り、 うるさい サァヴ イス は 一 切廢 止で. 朝 は 

臺 所の をば さん 以外 は 私よりも 遲く 起き、 お茶 だ、 お菓子 だ、 炭 だと、 無用の 働き を 見せたがら 

す、 必耍 以上の 口 もき かす、 恰も 我家に 在る おも ひ を させて くれた。 その 爲に、 持って行った 雜 

誌 はまたい くひ まに 讀 了した。 精々 悪く しろと 賴んで 置いた が、 サァヴ イスの 點 はどう だいと 岡 

田 君に きかされた 時、 私 はノ才 • サァヴ イスと いふ 奴で 至極 結構 だ, 答へ た。 

歸京後 岡 田 君へ 宛て、 よき 宿 を 世話して くれた 禮を 述べ、 徹底的 ノォ. サァヴ イス は 偏に 束髮 

婦人の 賜で あらう といって やり、 岡 田 君 は それ を 大野へ 傳 へたと ころ、 頭腦 明晰なる 婦人 は を さ 

まらす、 ノ才. サァヴ イス、 ノォ. サ ァヴィ スと いふ けれど、 自分の 方で は 夜中 廊下 を 歩く にも, 

安眠 を 妨げまい として、 どの位 心 をつ かった かしれ ない のに、 それ は 御存じな いの だら うと 云つ 

たさう で、 サ ァヴィ ス の 極致 はノ ォ. サァヴ イスに 一 致す るの かと はじめて 悟 を 開いた ので ある。 

宿料が 安くて、 茶代 心附 一切 申 受けす、 サァヴ イス 滿點 とあって は、 何もい けない 事 はない や 

うだが、 こ、 に ひとつ 私 を 失望 させた 事が ある。 それ は、 此の 宿で は純粹 の大阪 ことばの きかれ 

な いとい ふ 事 だ。 おかみ さ ん 姉妹 はガギ グゲゴ に 強い Ji^ の あ る 九州 辯に 東京 大阪が 無逮盧 に 入り 



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まじり、 色 氣も氣 品 もない 言葉 だし、 丸 奮 は 東京 下町の 育ちで 大阪 ことばの 片影 も 無い。 旅に あ 

つて その 土地 特有の ことばの 面白さに 接しる 事の 出来な いのは、 日本料理に 洋酒 を 出され、 西洋 

料理に 日本酒 を 出される やうな 味氣 なさ だ。 もっとも、 今度 大阪 で、 あ、 大阪 らしい 言 ひ あら は 

し 方 だな と ひ、 そのこと ばから 大^ を はっきりと 感じた の は 僅かに みたび だった。 . 

ひとつ は 元日の 晝間、 場所 は 大野で、 大阪 のさる 大盡が 毎年 この 曰、 顏 馴染の 藝 者に 約束 をつ 

け、 あちらこちらのお 茶屋 の 義理 を するとい ふ 豪勢 なしき たりで、 大野 も その 御 aw 負に あ.. つかり" 

大勢の 藝者 がつ めかけて、 だんなの 御 入來を 待って ゐた。 何しろ 一 日に 幾 軒と なく 廻る の ださう 

だから、 大凡の 時間 はきめ てあつても 實際は 何時 來る のか わからない。 待って ゐる 方が 次. 第に 數 

を增 し、 階下の は かり, だけで は 間に合 はなくな つたと 見え、 二階の 私の 室の 近くのに も 殺到し 

て 來た。 戶の 外で 順番 を 待って ゐる のが 待ち 切れす, あけすけな 下がかった 事 を 云って 催促す る 

と、 中の 者 も 亦 負けない 騷々 しさで 應酬 する、 その かしまし さに 伴って 柔 味の ある わいせつな 問 

签は、 とても 筆に は寫 せない が、 大阪の いろまち を はっきりと 感じた ので ある。 

次 は 二日の 夕方、 住吉の 兄の 家 を 出て、 電車 通 をい つばい 機嫌で 歩いて ゐ ると 後から 來た 流し 

の圓 タクが、 大將々 々と 呼びかけた。 腹 ごな しに 少し 歩く つもりだった ので、 知らん 顏 をして ゐ 



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喾 落の 他の そ 屋宿 車汽丧 



ると、 すうつ と 側 を 通りながら、 窓から 首 を 出した 助手の 奴が、 大將々 々の あとに 靑大將 とつけ 

加へ、 同時に 逃る やうに スピ イド を 出した。 待て— —- 私 は そのから かひ づらに 誘 はれて 呼 止めた。 

いったん 引 込んだ 助手の 首が、 疑 ひ 深さう に 又 出た が、 五六 間 先に 行って 車 を 止めた。 逃 出さな 

いやう に 手招ぎ しながら 近寄って、 笠屋町 迄い くらで 行く かときく と、 五十 錢 やって 貰 ひます と 

いふ。 三十 錢だ 11 私 は 返事 をき かすに、 いきなり 取手 を 41 つて 中へ 入った。 三十 錢で 行く 事 は 

お ま へ んぜ、 正月の 事です さかい — 1 運轉手 はたった 今 靑大將 と 叫んだ 助手の 輕 率に 參 つて ゐる 

表情で なげいた が、 あきらめて、 行き まほと いふと 直ぐに ハ ン ドル を 廻した。 廻しながら、 こや 

ついらん 事 をい ひよ ると、 助手の 横面へ 吐きつ ける やうに 云った。 私 はこの 場面の 大阪 らし さに 

すっかり 滿 足した。 

その 次 は 四日の 夜、 友人 島崎眞 平氏が 來て、 何處 かで 御馳走して やらう とい ふ。 私 はかね て^ 

にきく 平野 町の 丸 治と いふうまい もの やに 連れて行って くれと 望んだ。 丸 治に は 銀座の はち 卷岡 

田の 甥、 長さん とい ふ 若い のが 見習に 入って ゐ るので、 様子 も 見 度い と 思った の だ。 其處 で飮ん 

で、 長さん の 大人に なった のに 驚き、 この 子 はち ひさい 時からの 馴染 だが、 どうにか ものに なり 

さう かと 親方に きいて みた。 も ひとつ 元氣が 足り ま へんな あ —— と 親方 は 言下に 答へ た。 li- とい 



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ふ 含みの ある、 しかも 適切ない ひ あら はし だら う。 これが 東京 だと、 から 意氣 地な しでし やうが 

ありま せんやと 來る ところ だ。 あ、 大阪 だ大阪 だと 沁 々感じた ので ある。 (昭和 八 年 一 ; 月廿六 日) 

「時事 新報」 昭和 八 年 三月 十日. 十 1 日. 十; 一一 HI . 十四日 



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說前 會老初 



初老 會前說 



若い くせに 年寄 じみた こと をい ふ 人間 をみ ると 片腹痛く 田で 4 が、 年寄の くせに 若が つ てゐる の 

を 見ても、 屢々 氣 障に 感じる ので ある。 そのく せ 私自身、 このところ 十 年ば かり、 どっちつ かす 

で、 年下の 友達と 騷ぐ時 は 御 老體扱 ひされて 忌々 しがり、 年上の 人に まじる 時 は 小僧 扱 ひされて 

內心 甚だ 平 かで ない。 しかし それ も 日 一 日と 本格の 年寄の 方 へ 近づきつ 、ある 事 は 否定 出来ない 

ので、 やがて 誰か、 らも 小僧 极 ひされなくなる 日の 寂し さも、 時に ふと 沁々 考 へられる ので ある。 

最初 に 私 が 年寄 极 ひされる 忌々 しさ を 味 はった の は 「三 田 文學」 のお かげな ので、 故人 澤木 四方 

吉氏を 主幹と する 第二 期 「三 田 文學」 の 同人 井汲 南部 小島 三 宅 水木の 諸氏が 轡を 並べて 文壇へ 打つ 

て 出た 時、 世間 はこの 連中 を 新 三 田 派と 呼び、 永 井 荷 風 先生 を 主幹と した 第一 期 「三 田 文學」 以來 

の久保 田 水上 等 を 舊三田 派 と^んだ。 旣に 世間が さう いふ もの だから、 所謂 新 三 田 派の 連中 もい ... 



、氣 になって、 たまたま 一座す る 吾, „< に對 して は、 さあ 御 年寄 は そちらへ など、 上席 をす、 めな 

がらけ じめ をく はせ ようとい ふ 下心と 見 受られ た。 その 實 年齢の 差 は 大した もので はなく、 殊に 

久保 B. さんと その 連中の 中の 年長者と は 二 歲か三 歳し か 違 は 無い のだった。 今に 見ろ、 人 を 年寄 

极 ひしゃ あがって、 直き 追 ひついて しま ふから 11 と 理窟に ならない 事 を 云って ゐ たが、 何時の 

間に か 一人 二人と 四十 を 越え、 たうとう 今年で 新 三 田 派も淺 りなく 初老と なった。 同じ 四十 代に 

なって みると、 いづれ も 頭髮は 薄くな り、 白髮 もちら ちら まじり、 或 者 は 持病に 懐み、 或 者 は 下 

腹 や 頸の 廻りに 無用な 脂肪の 溜った 年寄 塑 となり 切って、. 前途の 夢 は 乏しくなり、 後から後から 

頭 を もちあげて 來る 最新 三 田 派から は 完全に 年寄 极ひ される 身の上と なった ので, 舊も新 も 共々 

に、 いづれ か 秋に あはで はつべき の 嘆 を 味 ふ 事に なった。 かねて、 第一 着に 四十 代と なり、 不當 

に 年寄 扱 ひ をう けた 私 は、 みんなが 追 ひついて 來 るの を 待って、 盛宴 を 張らう と 宣言して ゐ たの 

で、 今 かう して 四十 づら がづら りと 並んだ の を 見る と、 嘆きのう ちに も 痛快の 感を 禁じ 得ない。 

何となく みんなが おないどし になった やうな 氣 がする ので ある。 卽ち 近日 日 をえ らんで、 初老 會 

を 催さう と 恩 ふ の である。 

こどもの 頃、 四十 代の 人間な ど は 立派な ぉぢ いさんだ と 思って ゐ たが、 自分で なって みると、 



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說前 會老初 



一 向 未熟 不毅鍊 で、 甚だ とりとめのないのに は 恥 入る 外ない。 鈍根 は 鈍根で 爲 方がない が、 その 

か はり 何時 迄 も 地道に 勉強して 目に 物見せ て やる ぞ、 いったい 日本人 は 早老で いけない、 ほんと 

に 人生の 味が わかり、 藝術 批判の 眼に 曇りの なくなる の はこれ からな の だと、 ひそかに 負 惜を肚 

の 底に いだいて ゐ たが、 そんなた よりになら, ない 覺 悟に 紘り つ いて ゐる うちに、 . い つ の 間に か自 

分に 老の來 て ゐる事 を自覺 して 吃驚した。 他人 は 知らす、 私の場合、 衰へは 先 づ肉體 に 感じられ 

た。 自分で 自分の 體が 重たくな つて 來た。 步く 時、 膝頭が がくん がくん と 無駄に 屈折す る。 咄嗟 

の 場合に 身 を か はす 事が 下手になる。 たと へば 電車の 釣 革の 必要 を 痛感す る。 車が 急に 止ったり、 

急に 動き 出したり する 時、 體の 方が 追隨 しない。 酒の 量 も 半分に 減った。 食愁が 乏しくなった。 

愈々 不精に なった。 あ、 衰へ たもの だな と齒が ゆく 思へば 思 ふ 程、 まんべんなく 年 をと つた 事が 

わかって 来た。 年 をと つたの は、 肉體 ばかりで 無い 事が わかって 來た。 何よりも 知識 愁が 乏しく 

なった。 新規の ものに 飛びつ いて 行く 氣 持が 薄くな つた。 流行に 反感 も 起ら す、 それに 遲れる 事 

も平氣 になった。 大言壯 語、 つけやきば、 鵜の 眞似 をす る 猿の を かし さが 沁々 わかって 來た。 

-こ し と 5 

年齢と ともに 食物の 嗜好が 著しく 變り、 西洋 料理 は 夙に 嫌に なり、 ま那 料理 さへ も 嬉しくな く 

なり、 まぐろの 刺身に 箸が 向かす、 混合酒の 技巧が 鼻に ついて 来たが、 それ は 我 身の 衰へ を證明 



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する ものと して 悲しむべき 事で は あらう けれど、 同時に 昔輕 蔑して ゐた 鯛の 味が 魚で は 一 番 だと 

いふ 事が わかり、 漬物で は澤 庵が 最も すぐれたる 味 を 持つ 事が わかって 來た。 文學に 於ても 同じ 

事で、 あぶらが 表 一面に 浮いて ぎらぎら したの や、 メチ ー ル. アル コ I ル のどぎ つ さや、 ジン タ 

.バ ン ドの賑 かさ をお も はせ、 氣取 や、 ごまかし や、 おさきばしりの 見え透く の はい やにな り、 

本格的な 骨法の もの、 値 打が わかって 來 たやう だ。 

おもへば 古い 事で あるが、 「三 田 文學」 が 創刊され た 頃、 吾々 は 二十歳 を 僅かに 越した 學生 であ 

つた。 當時 この 雜 誌の 主幹 永 井 荷 風 先生 さへ、 三十 を 多く は 出ない 年配だっ^ のに、 吾々 の 眼に 

映る 先生 は、 旣に 浮世の 浪を乘 切った 際の 人と しか 思 はれなかった 位 だから、 同誌の 顧 間 森 鶴 外 

先生の 如き は、 動かし 難き 老人に 見えた。 吾等 過剩 なる 感傷に 惑溺し、 天然 自然の 風物のう つり 

か はりに さへ 淚 ぐむ 程 の 文學靑 年に は、 先生の 厳正な る 客観主義 の 創作の 價値 はわから たかった。 

しかも わからない 事 を 恥と せす、 情緖旣 に枯渴 せる 老人の 文學に は、 人 を 感動せ しむる 力 は 無い 

と 放言し て 揮ら な か つ た」 それが 何時の 間に か、 そ の當 時の 鶴 外 先生の 年齢と 大し て 違 は 無い と 

ころ 迄來 てし まった。 鸛外 先生の 長年の 文學 生活に、 話 相手の すくなかった 寂し さも- この頃に 

なって 沁々 わかる ので ある。 その 點に 於て は、 吾々 凡庸の 徒の 方が、 かへ つてし あはせ だと もい 



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說 nil 會老初 



へる ので ある。 

愚なる もの、 無 反省から、 自分の 力 を かへ りみ す、 他人の 仕事 を 正確に 評價し 得ない の ほほん 

で、 仲間 同志 互に 空漠た る 夢 を 語って 滿悅 した あさまし さも、 今 は 寧ろな つかしい 位 だ。 吾々 の 

仲間に も、 當 時の 大家の 作品 を 認めない 事 を 以て ほこりと する 者 もあった」 曰 本に は 一人と して 

感心すべき 作家 はゐ ないから、 外 國文學 の 外 は 一 切讀 まない と 豪語す る 者 もあった。 今に昆 ろ、 

肽界を 驚かす 大作 を 完成す るから と、 深刻な 表情 をす るの を 常と する 者 も あれば、 仲間の 中で いち 

早く 文壇に 認められる 者が あると、 それ を 小成に 安ん する ものと して 輕蔑 する 者 もあった。 自分 

は片々 たる 作品 は 決して 發 表しない、 一生に 一作で い 、から 古今 獨步の 傑作 を 御 目に かけようと、 

繰返して 誓 ふ もの もあった。 だが、 その 大言壯 語した 人達 はどうな つた か。 威勢よ く旣成 作家 を 

罵倒した ものが、 遂に 自分の 作品 を もってして は 先人 をみ かへ す 事 も出來 す、 いつの 間に か 姿 を 

消し、 日本に は 一人と して 作家ら しい 作家 はゐ ない と 豪語した ものが、 通俗 讀 物の 作者と して 僅 

かに その 名 を 止めたり、 一 作 を 出せば 天下 爲に 驚かん と 見榮を 切った 者が、 遂に 一 作 をも發 表し 

ないで 鄕 里へ 引 込んで 地主の 且那 になり すましたり、 夢 はは かなく 消えて しまった。 私の 如き も、 

9 

文學 制作 二十 年間に、 後世に 殘 るべき 作品な ど は ひとつ も 無く、 い たづら に 年 をと つてし まった。 3 



私 は、 日頃 若い 作家と 談笑しながら、 未だ 自分の 力 を 知らす、 氣輕 に、 口が しこく 他 を 嘲り笑 

ふ 事の 出來る 相手 を 羨し く 思 ふ。 實際、 私の 知る 限りに 於て、 容易に 他人の 仕事 を 罵り 笑 ふの は 

年と クた旣 成 作家で は 無く、 まだ 廣く 名前の 知られない 若人で ある。 同人 雜 誌の 六 號 記事 を 見る 

と、 自己欺瞞 も 、強がり も、 てれ かくしも、 あるので あらう が、 大言壯 語 をた のしむ 若者の 心の 

奥底 をの ぞく 興味で、 おも はす 微笑す る 事が 多い。 

勿論 やみくもに 先人の 仕事に 感服して ゐる ばかりで は、 停滞が あって 進步が 無い ともい へ るし、 

感受性の 鋭い 若い者 は、 新しい 刺戟 を 求める 事に 忙しく、 古典 を かへ りみ る 暇が無 いのも 自然で 

あらう が、 はしりの 面白さと、 成熟した もの、 味と は、 色の ついた 飯と、 白い 飯の 相違の やうに、 

一方 は 片方の やうに 深い 味 を 持た す、 あき 易く、 滋味に 乏しい。 それ は 一時の 氣 分の 轉換に は 役 

立つ が、 所謂 我家の 米の 飯と はなり にくい ので ある。 

これ も 年齢の せゐ かもしれ ない が、 私 は 文 學の各 流派の 夫々 の 主義 主張の、 どれに もこれ にも 

或 程度の 面白さ を 感じる 事が 出來 るが、 その ひとつが 絕對の ものであって、 他の すべて は 泥土で 

あると は考 へられな いので ある。 どうい ふ 主義、 どうい ふ 表現形式 をと つても 成立つ のが 文學で 

ある。 自然 派に あら ざれば 文學 にあら すと いはれ た 時代 もあった。 プ a レタ リアの 文學 以外 は 外 



310 



說前 會老初 • 



道で あると 絶叫す る聲も 高かった。 しかし、 さう いふ 一 であって 他で ない とい ふ 議論の かまび す 

しさ を 裏切って、 あらゆる 形式 內容を 持つ 文學 が、 春 さきの 雜 草の やうに 土 を 破って 成長して 來 

る。 廣 大無邊 の文學 は、 何もの を も 担 否 しないの である。 

たまたま 文壇の 先達の 集る 席上、 醉へ るが 如く 文 學を談 する 人 を 見る 事が あるが、 文學 上の 主 

義を あげつら ふ聲 を-耳に する 事 は殆ん どない。 一 般に 作家 は 論爭を 得意と しないと いふ 點も ある 

が、 多年 身 を 以て 經驗 した 年配の 人々 に は、 おのれ を 築き あげた ものが 主義で あつたと は考 へら 

れな いので はないだら うか。 或 時代に、 或 主義の 名の 下に 一 からげ にされ た 作家 達が、 數 年なら 

すして 互に 共通の もの を 殆んど 持 合せて ゐ なかった 事を發 見す る 例 は 珍しくない。 ひとしく 自然 

派の 名 を もって 呼ばれた 田 山 花 袋、 國木田 獨步、 島 崎 藤 村、 德田 秋聲、 正宗 白鳥、 岩 野 泡 鳴の 諸 

氏の 個性 は、 ひとつの 旗 じる しの 下に 集めて 見て 不自然 を 感じさせ はしない だら うか。 里 見淳氏 

を 有 島 武郞、 武者 小路 實篤氏 等と 共に 人道主義の 名 を 以て 呼ぶ 勇氣の ある 人が、 今日 もな ほゐる 

だら うか。 久保田 万 太郞氏 さへ、 中學 時代に は 御多分に もれす、 演壇に 立って 自然主義 論 を演說 

した 事が ある さう だが、 數 年後 文壇に 顏を 出す と、 忽ち 享樂 诚、 唯 美诞の レッテル を 張られ、 や 

がて 遊蕩 文學 撲滅 論の 鎗玉 にも あげられた。 凡そ これらの 名 を 以て 呼ばる、 特徵が 久保田 氏の 作 



311 



品 を いろどる 最も 力強い もので あらう か。 誰し も躊 鎌な く 否と 答 へ るで あらう。 

年齢 は 人の 性質 を 柔らげ る 事 も あるが、 時には 人 を 頑固に し、 融通 をき かなく する。 多年 努力 

して 築き上げた 自分の 立場から、 ー步も 外に 出たがら なくす る。 個性の 相違が はっきりして 來て、 

合唱が 下手に なり、 人眞 似が 出来なくなる。 年配の 作 象が、 おのれ を 語る 事に は 熱情 を 失 はたい 

が、 主義 を 論す る 事に 輿 味 を 持た なくなる の も 無理 は 無い。 . . 

私 は 自分自身 これらの 年寄の 動脈硬化症 を 痛切に 感じて 來た。 しかし 同時に 自分自身と 他人の 

相違 を はっきり 知る 事 も 出来る やうに なった。 はなやかな 夢想 はけし とんだが、 四十 代に は 四十 

代の 人生が あり、 活動が あり、 努力が あり、 文學が あると 思って ゐる。 感覺は 鈍り、 花火の やう 

な 感激 はなくな つたが、 物 を 見る 眼 は廣く 深く、 社會 人事に 關 して 綜合 的に 考 へる 力 は 加った。 

人生 を 短篇 小說的 見方で 見す、 長 篇小說 的に 見る 能力 は、 次第に 惠 まれて 來る やうで ある。 恐ら 

く 往年の 新 三 田 派の 諸氏 も、 初老の 感慨の うらに、 なほ 自分々々 の 力い つばい の 仕事 をしょう と 

いふ 計畫を 持って ゐる であらう。 年 をと るに 從 つて 不精に なり、 ゆき、 の 間遠に なった 人-達と 久 

々で 額 を 合せ、 めいめい 勝手に てんでん の 心境 を 語る 初老 會を, 私は樂 しく 待って ゐ るので ある。 

(昭和 八 年 五月 六日) —— 「三 田 文學」 昭和 八 年 六月 號 



312 



序の し籍書 • 灰- • MP 



「師 • 友 •* 籍」 の 序 



大ざっぱな 言 方 だが、 吾々 の 父母の 時代 迄 は、 みだりに 他 を 評し、 おのれ を 語る こと をい やし 

みさげす,^ 風が 強かった。 それが 何時の間にか、 男 も 女 も、 老も 若き も、 地位 職業の 別無く、 口 

を 以て 筆 を 以て、 他 を 評しお のれ を 語る に 暇な きが 如き 時代相 を 現出す るに 至った。 よりて 來る 

ところの 社會的 原因の 存 する こと はいふ 迄 も 無い が、 狹く 文筆の 方面, に 限り.、 直接の 誘引 を 求む 

れ ば、. 隨 筆の 流行 を數 へる ことが 出來 る。 彼の 自然主義の 運動が 現實 暴露 を 提唱し、 平面 描寫を 

維持し、 やがて 崩れて 日本 獨 得の 心境 小 說の發 達 を 見る に 及んで、 作家 は 各自 曰 常 身 邊の雜 事 を 

綴る ことにな づみ、 その 傾向の 赴く ところ、 隨 筆の 流行 を 招来し、 この 文學の 形式 は、 最も 自由 

に 手 輕に他 を 評し おのれ を 語 るに 適す る ため、 專門 文筆 の士 にあ らざ る 人に も 筆 を 執 る こと を容 

; IJ^ ならしめ た。 ^の 如き も隨 筆と 呼ばる、 文學の 形式に つて、 他 を 評しお のれ を 語る こと やが a 



て 二十 年に 垂 として 未だに 倦ます、 あつめて 本と 成した る もの も旣に 數册に 及んだ。 

然るに小^3^信三君は、 專門學 術 上の 論文 發 表に は 不斷の 努力 を 借まない が、 專門 以外の 事に な 

ると、 みだりに 他 を 評しお のれ を 語る こと を爲 さす、 悔を 後日に のこさ :く らんこと を 期す る もの 

、やうで ある。 古より、 深き 淵は騷 がす 淺き瀨 に 波 は 立つ とい ふ。 小 泉 君 は うまれつき 言葉す く 

なく、 身 邊の事 を 語り、 友人 知己 の^を 賫る こと を 好まない。 他人の こと もい はない か はりに、 

自分の こと をい はれる の も 好まない。 他人が 他人の 下らない 噂 をす るめ を 耳に する こと さ へいさ 

ぎよし としない やう だ。 玆に 斯う 書く だけで も 恐らく は 眉 を ひそめる であらう。 それ 程隨筆 流の 

ひと、 なりで 無い ので ある。 - 

隨筆集 「師- 友. 書籍」 は、 師を敬 ふこと 深く、 友に 盡す こと 厚く、 書 を 愛する こと 人に すぐれ 

たる 著者の えらびた る 題名と して まことに ふさ はしい ものであるが、 この ひと、 なり 隨筆 流に あ 

ら ざる 人の 隨筆 集と は 如何なる もの か。 言 泉に よれば、 隨 筆と は 何くれとなく 筆の まに/ \ 記し 

つけたる 文書 だとい ふが、 當今 流行の この 文學の 形式 は、 もっと 廣ぃ 意味 を與 へられ、 或は 評論 

に 近き もの も あり、 或は 小說に 類す る もの も ある。 この 集 も、 何くれとなく 筆の まに/ \ 書きし 

るすと いふ 趣の もので はなく、 もう 少し 研究 的で、 批評と 主張 を 含む もので あらう。 それでも 著 



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^1|ぉ£してみれば、 祷を脫 ぎ、 胡 床 を かいた 姿 を 見せよう とした ものに 違 ひ 無い。 その 意味で、 

みだりに 他 を 評しお のれ を 語らない 小. n 水 君の ひと、 なり を、 か へ つてよ く あら はした ものと して 

輿 味 深く おも ふので ある。 (昭和 八 年 五月 十九 日) . 

. 1 r 師 . 友 ♦ 書籍」 昭和 八 年 六月 二十日 



,i< の 年 をと つたの は、 若い 時に 無理 をして、 やさしが つたり、 なまめかし がったり、 しとやか 

く つたり した 反動で 1 慾 張と 意地 惡の 表象の やうな 面が まへ になり 勝の ものであるが、 春 窓院さ 

ま は、 六十と 七 卜の まんなか どころ でお なくなりになる まで. 木の間が くれの 初花の やうに、 ほ 

のかな 色氣 をた もたれ、 御う まれ も江戶 では あるし、 長く 東京 下町の 御內 儀と して 世に 處 された 

ので、 おみな り も、 身の こなし も、 言葉.、 つか ひも、 粹で すっきりした ものであった。 私が はじめ 

て 御: n にか、 つたの は 昭和 五 年の 春で、 私の つとめさきの 秀才が * 舂窓院 さまの 御緣っ > きの 美 

しいお 孃 さんと めう との 契 を 結ぶ 事に なつ たのが きっかけ である。 御子 息の 白水 郞 さんと は隨分 

長い つきあ ひだが、 私の 生れつきの- 个 精が 氣輕に ひとの 象 を 訪問す る 事 を しないので、 つ ひぞ御 

E にか、 る 機會が 無かった ので ある。 



姉大 * 妙 譽梅院 窓 春 



私 は 春窓院 さまの 美し さに ひきつけられた。 細い 目に は 始終 柔 かいさ、.、 波を湛 へ、 形の い 、顎 

を 少しば かり 上に 向け、 極端に ち ひさい q もとに は、 寧ろ 小憎らしい 色氣 があった。 それに 大變 

御 話が 上手で、 それから それと 盡 きないの であった。 これに は 泉 鏡 花 先生 も 悉く 感服し、 どうも 

あの 左樣 でぎ ざん すと いふと こなん かたまら なくい 、よと 云 はれる ので、 そんな 事 を いひます か、 

いや あしない でせ うと 反間す ると、 い、 えい ひます、 横 寺 町 (そのむ かし 尾 崎 紅葉 先生 牛 込の そ 

の 町に 住みた まへ り) のお 年寄 もい ひました、 ごとぎ の 間の 音で ね —— 先生 は、 寺 木 ドクトル を 

度々 煩 はす 齒で、 齒 ぎしり をす る やうな 形 を 見せた。 私 も 依估地に なって 御 本人に きいて みたと 

ころ、 春窓院 さま は たまらなく を かしい とい ふ 風で、 誰が そんな 事 をい ふ ものです かとお 笑 ひに 

なった。 だが、 泉 先生 も 旋毛 まがり だから、 そんな 事 を 本人に きいた つて、 はい 申します とい ふ 

もの かと 承服 しないに 違 ひ 無い から、 私 はい まだに 向 ふ は 向 ふ、 こっち はこつ ちとき めて、 春 窓 

院 さま はぎ ざん すと はお <;\ しゃらなかった と 信じて ゐる C 

春窓院 さまの 四方 山の 御 話のう ちに、 よほどい ぜん 芝の璺 岡 町に 住んで ゐた 事が あるとう か 

つた。 私 は その 隣の 松 坂 町に 五 歳の 春から 二十 年間 住んで ゐ たので、 凡 四十 年 前の その 近所の 景 

色が、 對 座して ゐる 春窓院 さまと 私との 間の 數 0/ の {rJJ 間に、 忽ち あざやかに 浮び 上った。 春窓院 



317 



さまの 御 住居の あつたと ころ は、 水の 谷の 原と いふ 名で、 私の 記憶に ありあり と殘 つて ゐる。 そ 

の 原 は、 水の 谷と いふ 大名の 屋敷 跡 だと 聞いて ゐ るが、 林が あり、 竹 藪が あり、 大きな. 池が あつ 

て、 近所の 子 你が服 を あげ、 球 を 投げ、 蜻蛤 をつ り、 螽斯を 追 ひかけ、 蛙 を いぢめ る 好適の { や: 地 

だった。 その 池 はもつ ともつ と 大きく 深かった の だが 次第に a もれ、 その 原 はもつ ともつ と廣か 

つたの が、 段々 家が 建ち 並んで 狭ば めら れ たの だと 聞いた が、 しま ひに は 水たまり もな く、 雜萆 

のかげ さへ 見えない 町に なって しまった。 , - 

先年 久保田 万太郞 氏の 句に、 水の 谷の 池 うめられつ 空に 服と いふの があって、 水の 谷と いへば 

芝 區三田 畳 岡 町とば かり 心得て ゐ た^は、 淺草 生れの 傘 雨 宗匠が、 どうして 知って ゐ るの か不思 

議に 思った。 然るに 久保田 氏の 水の 谷 は吉 原の 近く ださう で、 水の 谷 家の 下屋敷の 跡 だとい ふ 事 

を 白水 郞 夫人の 御 話で 承知した。 

意外に も 水の 谷 家 は 春窓院 さまの 舊 藩主で、 春窓院 さまの 生家 中 野 家の 本家 は、 家老 格の 家柄 

だった。 春窓院 さま も 若い 時、 舊 主の 屋敷に 御 奉公 をされ たさう で、 さて こそ 芝區三 田璺岡 町に 

住ま はれた 害な ので ある。 

鼓に 面白い といって は 少し を かしい が、 水の 谷 家の 事に ついては、 春窓院 さまの 實 子の 白水 郞 



318 



姉 大昔 妙譽梅 院窓眷 



さん は 案外 何も 知らす、 夫人の 方が 姑の 昔 語を審 さに 閜き覺 えて 居られる ので ある。 よめし うと 

めの 仲む つましい 御 家庭の さま もお も ひ やられて 床しい。 たと へば 上記の、 濁りの 無い あざやか 

な 景色の 中に 昔な つかしい やるせな さ を 籠め た 傘 雨 宗匠の 秀句に ついても、 白水 郞 さん は 料理屋 

の 庭の 跡 だら うとい ふやうな 解釋を 下した。 或は 水の 谷家沒 落後 その 下屋敷が 料理屋の 手に 渡つ 

た 事 も あるか もしれ ない が、 句意 はあく 迄 も 大名屋敷の 跡の あれ 果てた S 地に 殘る 池、 それ も 握 

めら れた あたりの S にあがる 服に、 詩人の 感傷 を 托した ものと 見なければ 面白くない。 あれ はお 

ば あ ちゃんの 殿様のお 下屋敷です よと、 その 時 夫人が 私に 敎 へて くれたの である。 夫人のお 話に 

よると、 水の 谷 家 は 山陰 地方に 領地 を 持って ゐ たが、 關東關 西お 手 ぎれ の 際 西方に 味方した かど 

で德 川に 憎まれ、 元來 大名の 一番ち ひさい ものだった のが、 旗本 格に 下げられて、 旗本と して は 

一番 大きい ものと して 殘っ たとい ふので ある。 もとより 春窓院 さまの 直話で あらう が、 口から-; liT 

へ傳 へ られ たもので、. はっきりした よりどころ は 無い ので ある。 さう いふ 事が あった もの かどう 

か、 取調べる 與味は 私に は 無, い。 それよりも、 大名の びりが、 旗本の 頭に 格下げに なった とい ふ 

昔渐の 面白さ. で 十分で ある。 

その 水の 谷 家 は、 後年 不敏の 殿様が つぐいて あら はれ、 明治 年間に 完全に 沒 落して しまった。 



319 



別段お 家に まつ はる 怪談 は 無い さう だけれ ども、 代々 残虐の 行 爲に驅 られる 殿様が 出て、 最後に 

は 庭の くさむらに 蛇、 蟇 を 探し 求めて 鐵砲 をう ち、 池に 遊ぶ つが ひの 鴛鴦 をう ち、 松 上に 舞 ふ 鶴 

をう ち、 それが 次第に 嵩 じて は、 鵞鳥の 羽に 油 を そ、 ぎ 火 をつ けて、 火炎の 立 上る の を 池に 放つ 

て滿 足す る. とい ふ變 質の 殿様 も あら はれた。 あれで はお 家の つ ぶれる の も あたり ま へ で ござんせ 

うと、 春窓院 さま は 物語られ たので ある。 

私 は 芝居 や 草双紙で 養 はれた 知識で、 忽ち 悪逆無道の 殿様 や、 侫 奸邪智 の家來 や、 忠義の 士ゃ、 

美しい 腰元の あら はれる グ p テスタな 御殿 を 空想し、 陰謀、 切諫、 拷問、 御手 打、 切腹、 ^^^傷な 

どの 場面 を いろどる 金 襖 や、 血 紅の 色彩の 中に、 高島田に 紫 矢 耕の きもの、 帶を たて やの じに 結 

んだ 妙齢の 春窓院 さま をお も ひ 描いて 氣が氣 でなかった。 殿様 か、 若殿 樣か、 惡ざ むら ひか、 無 

體の戀 慕 をし かけ、 狼藉に 及ばん とした もの は 無かった か。 き、 ての 私が 勝手な 想像 をして ゐる 

事に は 氣.. つかれす、 話 手の 舂窓院 さま はいつ に 變らぬ にこやかな 表情で、 昔 をな つかしむ もの、 

やうに 話 をつ けられた。 

御家沒 落の 後、 若殿 様の 一 人 は 下級 船員と なり、 もう 一 人 は 春窓院 さまのお 里の 本 象に あたる 

その 昔の 家老の 家柄で、 當時 新派の 俳優と して 聞え た 中 野 信 近 をた よって 弟子と なり、 しだしに 



320 



あ lj' 大 1f 妙 譽梅院 窓 春 



使 はれて 舞臺を 踏んだ 事 も ある さう だが、 いづれ も 香ばしい 事 は 無く、 御 家 再興の 望み は絕 えた 

ので ある。 この 春窓院 さまの 御 話 は、 近年 物語 風の 小說に 完璧のう で を ほしい ま、 にして ゐる谷 

崎 潤 一郎 氏で も 煩 はしたら、 何 か 根深い 因緣 をから ませて、 豊かな 想像の 赴く ま k に、 傻 奇凑艷 

なる 口 マ ンス を 構成す る で あらう。 . 

春窓院 さま は、 まだまだ 面白い 御 話 を、 いくらでも 持って 居らつ しゃった が、 私 はいたつ てき 

、下手で、 話の いとぐち をみ つけても、 それ を 何處々 々迄 も 手繰って ゆく 才覺が 無い ので、 後で 

は 惜ぃ事 をした と 悔みながら、 ついき、 もらして しま ふので あった。 そのく せ 春窓院 さまの 御 話 

の 面白さと、 お 年寄に は 珍しい 色氣の ある 御 やうす に 心 を 引かれ、 白水 郞 さんが ゐ ると ゐ ない と 

に 頓着な く、 象 や 枠 を つれて 伺 ふ 事を樂 みに した。 

去年の 夏 は、 春 窓院 さまの 養老 保險が 目出度 滿期 になった ので、 その 金子で お 庭に はなれ を 建 

增 され、 座敷 開きに 御 招き をう けた。 私 はいつ もの 事で、 遠慮 もな くした、 か 頂戴した が、 この 

日 は 珍しく 春窓院 さま も 二つ 三つ は盃を 重ね、 ほんのりと 色に 出る 位だった。 いつ 迄 も 美し さの 

消えない、 上品な お 年寄の 少し は 心 浮 立つ さま、 すぐれてな まめかし く拜 したので あるが、 その 

新築の はなれが、 やがて 臨終の 床に ならう と は、 まことに はかない 事であった。 



321 



殊に 遣憾 なの は、 年の 始の 忙し さに、 御 病 氣とは 知りながら、 つい 例の 不精が 51 て、 衆 內に度 2 

2 

々叱られながら 御見舞に も 伺はなかった ところ、 如月 十二 曰 風 寒き 日に、 最後までお 若い 時の 美 

しさの 傯 ばれる のが、 紅梅の 散る やうに 永き 眠に つかれた 事で ある。 おもへば 長から ぬ御緣 では 

あつたが. お 年 をめ しても 美し さとな まめかし さ を 失はなかった; tg 人と して、 春窓院 さま は 私の 

記憶に いつ 迄 も 生きて ゐ らっしゃる であらう。 (昭和 八 年 六月 二十 六日) 

. —— 「文 鶴 春秋」 昭和 八 年 八月^ , 



差の 輪 年 



年輪の 差 , 



わが 國に は、 大人の 讀む 小說が 無い 11 と は、 本邦 近代 小說 勃興 期の そもそもの はじめから、 

一 部の 讀者 一 部の 批評家 からのべ つに 聞かされた 文句で ある。 今 はなつ かしい 思 ひ 出と なった が、 

私 は^ 學 時代から 小說 を耽讀 し、 汚損 を 嫌って 他人に は 一 指 を も觸れ させたがらなかった 兄の 本 

箱から、 視友社 全盛時代の 小說本 をぬ き 出して、 盗み見る のが 何よりの 樂 みだった。 兄 は 中學時 

代に 早く も 友達と 廻 覽雜誌 を 出したり、 高 濱虛子 を かついで 俳句の 雜誌を 印刷 配布した りして ゐ 

た。 その 兄が、 よく ある 畫家 ゃ藝 人の 番附 になら つて、 小說 家番附 とい ふ もの を こしら へたの を 

見た 事が ある。 たしか 鷗外 逍遙が 年寄で、 紅葉 露 伴が 東西の 横綱 だか 大關 だった と 記憶す る。 も 

とより 明治 二十 年代 は 此の 二 大作 家が はなばなしく 活躍した 時代 だから、 劇界に 於け る圑 菊、 そ 

3 

の 後の 角界に 於け る 梅 常 陸と 同じく、 文學 といへば 紅 露と、 必す對 立 させて 指 を 折る のが 一般の 3 



常識で、 :;^ のこしら へた 番附は 決して 不當な もので は 無かった の だが、 文壇の 事 は 何も 知らす、 

た ..、 無闇 に 小 說を讀 んでゐ た 私に は 甚だ 意外な 事だった。 一 色孅悔 一 で も 「拈華 微笑」 で も 「心 の 闍」 

でも 「多情多恨」 でも > 紅葉の 書く もの はよ くわ かり、 面白く. その 作品の 悲喜 哀樂に 心 を 奪 はれ 

て 感激した が、 露 伴の 作品 はむ づ かしく: 風流 佛」 も 一. 對髑 i!. 一 も- 一 ロ劍」 も 少しも 面白くなかった- 

幼い 頭で は小說 とい ふ 文學の 一 形式に 屬 する ものと は考へ られ なかった。 しかし 私 は 兄の 才智 を 

祟拜し てゐ たので、 自分な ど に は 全く わか らた い 露 伴 の 小 說を讀 み、 こ れ を 高く 評價し てゐ るの 

を大變 偉く 思った ものである。 . : 

その後 も 長く, た、. - 一 つの 例外の 外 は 露 伴の 小說 はわから なかった。 例外 は 一, 少年 世界一の 臨時 

增刊號 に 載った 「休暇 傳」 とい ふこ どもの 爲に 書いた もので、 これ とても 並の 少年^ 界物 に比べ て 

はむ づ かしい ものだった。 「五重の塔」 は 名文 だと 聞嚼 り、 一 生縣 命に 讀 返して 見た が, どこが 名 

文な のか わからなかった。 當時何 かの 雜 誌に 出た 勝 海 舟の 談話 筆記と いふ ものに、 日本 現代の 小 

說の無 s: 容を 罵り、 僅かに 露 伴の 思想と 學識を 認める に 過ぎ 無い と 云 ふ ものが あった。 中 學の下 

級 生-た, つた 私の 文 學熱は 愈々 はげしく、 小說 作家 を 神の 如ぐ うやまって ゐ たから、 この 德川 幕府 

のさ むら ひとして- 意 氣地を 捨て、 利口に 江 戶城を 敵手へ 引渡した 老人が 1 當時 一流の 大家 を 十 



324 



差の 輪 年 



把 ひと からげ に 漫罵して ゐ るのに 憤慨し、 やつあたりに 露 伴に 對 する 反感 を 強めた。 後に してお 

もへば、 露 伴に は 想が あると いふの は 其 の 頃 の讀者 批評家 の 常套語 だ つたに は 違 ひ 無 いが、 漢學 

思想で 缎 へられた 海 舟 その他 當 時の 大人に とつ て、 未だ 小說は 婦女子の 慰みに 過ぎす と考へ られ、 

世態 人情の 描寫は 卑俗と 思 はれ 勝だった 折 柄, 博學 多識佛 典に 參し、 東洋 思想 を 深く 藏し、 好ん 

で 超 世間 的 理想 を說 き、 a 々悟道の 人 を 描く 露 伴 は、 容易に 尊敬 を かち 得た ので あらう。 乍然吾 

々年少の 輩に は、 露 伴の 理想 小說は 到底 理解 出来す、 私の 如き は 此の 作者 を眞に 明治の 大作 家で 

あると 認めた の は、 近年の 事に 腸す るので ある。 

この 挿話 は 何 を 語る か。 恐らく 勝 海 舟 や、 その 同時代の 文壇 外の 大人に は、 小 說を味 はふ 力 は 

無かった であらう。 又 努めて 理解しょう ともしなかった であらう。 それでも * 學業 を. 放擲して、 

小 說を讀 む 事に 夢中に な つて ゐた 中學 生の 私より は、 少なくとも その 文章 のうま さ だけで も わか 

つたに 違 ひ 無い。 よき 藝術 は、 鑑賞す る 側の 人間が 大人で ある 事 を 要求し、 之 を 味 はふ 爲に は鍛 

鍊 を 必要と す るので ある。 

紅葉 露 伴が 文壇の 花形と して 一 世の 人氣と 尊敬 を あつめた 時代が 過ぎ、 紅葉 は 逝き、 露 伴は默 

し、 我國 の文學 史上 最初の 犬が かりな 目的意識 を 有する 自然 派の 運動が 成功 を を さめ、 その 派の 



325 



推薦した 作家 を 第一線に 送出した が、 その 選手の 中で も、 秋 聲白烏 泡 鳴と いふ やうた、 今: n にな 

つ て も 明かに 自然 派の 作家と 見られる 人々 は、 今日に なって は 果して これが 自然 派 かと 疑 ひ 度く 

なる 獨步藤 村 花 袋の 如き 詩人ら しさ を 多分に 有する 作家に 比して、 若 もの- : 殊に 女の わかいの、 

並に 素人に は甚 しく 人氣が 無かった。 その 結果、 これらの 立派な 作品 を殘 した 自然 派の 作家 は、 

時の 拍子で 自然 派の 中に 數 へられた 作家よりも、 その 派の 運動に 貢獻 すると ころ 少なかった とい 

つても 差 支ない やうな 皮肉な 現 實を爆 露した ので ある。 何故かと いへば、 當 時の 文 學靑年 は、 理 

論と して は 時代の 波に 乘 つた 自然 派 を 承認しながら、 自分 達のう ちに 潜在す る 若さ は、 陰慘 にし 

. て 希望の ない 自然 派の 人生 觀に 共鳴せ す、 その 派の 敎義に そむく 夢 多き 感傷主義に 自然と 心 を 寄 

せて ゐ たから だ。 

おもへば、 幼少の 折の 私に とつ て 小波 山人の 「日本お 伽渐」 「世界お 伽, 一 程 面白い もの は 無 かつ 

た。 「少年 ft 界」 で愛讀 した 幾多の 讀物 は、 今でも 暗誦して ゐる もの さへ ある。 今日 私共 は 所謂 少 

女 小說の 馬鹿々 々 しさに 愛想 をつ かして ゐ るが、 濱の眞 砂の 如く あとからあとから 出て 來る 妙齢 

の 女の 淚を しぼって しぼり 盡 きない。 さう して 見れば、 旣に 世間の 需要に 應 じて 「幼年 世界」 が あ 

り、 「少年 世界一が あり, 「少女 M 界」 が あり、 一中 學 世界」 が あり、 「女學 世界一が あり, 「令 女界」 が 



326 



差の 輪 年 



あり、 「主婦 之 友」 が あるの だから, もう ひとつ 年輪 を はっきり させて r 大學 世界」 を さかんな らし 

める 必要が あり はしない か。 曾て、 明治の 時代が 若く, 潑刺 たる 成長期に あった 時、 大學生 はた 

しかに 大人であった。 學者 として 通用した。 自分達で も、 立派な 大人 だと 自負して ゐた。 しかし 

明治 以後の 日本の 文化 も 古び、 社會 も複雜 となり, 大學 のね うち は 下った。 大學 そのものに 變り 

はなくても、 物品と 貨幣の 關 係の やうに、 相對 的に 値 下り をく つた。 今日で は、 大學生 は その か 

みの 中學 生に だ も 及ばぬ 子供 扱 ひ をう け、 自分 達 も 子供の つもりで iw つたれ てゐ る。 その 階級の 

讀物 として 「大學 世界」 は 存在の 必耍が あり、 繁昌の 理由が ある。 

■ さう いふ 分野が はっきり 認められす、 たった ひとつの 繩 張の 中で、 年輪の 差の 著しい ものが、 

全くお 互に 同情 も 理解 もな く、 てんでん ばらばらに くひ 違った 事 をい ひ 合って ゐ るの は、 雙 方と 

もに 無益で あり、 迷惑で ある。 たと へば、 古典 は 大人の 世界の もので、 若い もの、 飛込んで 行き 

たからない 境界の 中に ある。 新 知識の 追及に 一 生 懸命で、 それ 丈で 人間の 一 生の 盡き てし まふ 忙 

しい 時代に、 古典の かへ り みられな いのは 當然 であり、 東洋 固有の 文化 を 勇敢に 振 捨て、 西洋 文 

明の 吸收に 急厘轉 した ものが、 自國の 古典 を 役立た せる 機會の 極めて 乏し いのも 當然 である。 し 

かし 西洋文明 移植の. 事業 も 一 應は 完成し、 明治 大正の 文 學も旣 に 近代 古典と しての 格附 はき まつ 



327 



た。 それに 血と なり 肉と なるべき ものである にも 拘ら す, 若い 人に、 これ を! i く 事 さへ 惊 1^ がる 

程 興味 を 感じない。 改造 社の 一圓 本 刊行 は 非常に 有益な 企業で、 私 は 天才 的 出版者 山 本實る 氏の 

功績 を 表彰すべき ものと 思 ふが、 しかも 此の 一圓 本 さへ、 若き 文學の 徒に は 案外 讀 まれなかった 

とい ふ 事で ある。 年輪の 差が 超え 難い 溝 を 深く して ゐ るからで はないだら うか。 

繰返して いふが、 明治の 時代 は 我國の 近代 文明が 未だ 若く、 頭の 上の 邪魔者 を追拂 つた 若者が、 

新しい スタ アト を 切って、 歐米 文化の 後 を 追 かける 事に 夢中だった が、 維新 曰 本 も 古くな つた。 

小説の 作家 も 二十代の 人々 が 代表して ゐた日 淸戰爭 時代と は 違つ て、 五十 代 六十 代の 人が づらり 

と 並ぶ 事に なった。 大人の 讀む^ 說 出で よと いふ 要求 は、 社會に 古びの ついて 來た 今日 以後に 於 

て、 比較的 容易に 滿 たされる ので はないだら うか。 果して さう とすれば、 まことに 慶賀すべき 事 

だが、 同時に 若い 作家に とってに、 愈々 自分 達の 舞 臺の狹 さ を 痛 歎す る 事になる ので あらう。 文 

學 修行の 苦し さは、 時代と 共に 深刻の 度 を 加 へ るば かりで ある。 

明治 初期の 小說 は、 作家 も 若かった が、 描かれた 作品 も、 皮膚の 滑 か ir 色白の、 おしゃれの 

若者 を 想 はせ る 薄手の ものが 多かった が、 大正 昭和と 年を經 て、 頭髮は 薄くな り、 肌の 色艷 は^ 

つて 來た かもしれ ない が、 骨 は 太く、 下腹に 脂肪の たまった 逞 ましい 姿と なって 來た。 會 ての 小 



328 



差の 輪 年 



說は、 枠 張の 舞臺の 中で、 美男 美女の 所作事ば かり を 見せよう とする 傾向が 強く、 何 をして その 

日 を 送り、 いかなる 生活 をし、 どんな 社會の 一員な のか 全く 無關 心で、 飮 ます 喰 はす、 た 戀を 

する やうな のが 多かった。 いぜん、 私 どもが 辭書を 引き 引き 外 國の小 說を讀 み はじめた 頃、 一番 

驚いた の は、 異人の 手に か、 つた 小說は 素晴らしく 人間 臭く、 どんな 人間の 背後に も廣ぃ 社會が 

嚴 として 控へ てゐる 事であった。 そこに 大人の 小 說を發 見した 喜びが あった。 當 時の 日本の 小說 

が r 大學 世界」 向な らば、 これ こ そ は 大人の 讀む 小說だ つたので あ る 。 

勿論 年輪の 差 は 一 方 的に 働く もので はない。 年寄 は 年寄で、 自分の 昔經て 來た經 驗の範 國 內に 

於ての み 若者の する 事に 同情す るが、 自分の 經驗 しなかった 新しい 事に ぶっかる と、 之 を 理解す 

る 力 は 乏しい。 卽ち 年輪の 差の 內 輪と 外輪が 觸れ合 ふ 事 は 容易で ない ので ある。 彼の 階級 鬪爭の 

說に從 へば、 資本家と 勞働者 は 遂に 鬪 ひやまない 對立 であるが、 年輪の 差の 一致 融合せ ざる 事 も 

之に 等しい ので はないだら うか。 

試みに 同人 雜 誌の 中で、 最も 「大學 世界」 らしい もの、 六 號雜記 を 讀んで ごらんなさい。 何等の 

へ化理 も迪ら すに 旣成 作家 を漫篤 嘲笑 揶揄す る もの を隨 所に 發見 する であらう。 あれ は 一般に、 S 

負惜 みに 過ぎない と 思 はれて ゐ るが、 實 はさう ではなく、 年輪の 差 をい かんと も爲 方な く、 



329 



大人の 世界に は 入り切れない、 自然の 叫び、 正直な 聲 ではないだら うか。 (; 昭和 八 年 七月 五日) 

■ . ,.v 11 「!一 一田 文學」 昭和 八 年 八月 號 



330 



記の 鹿 馬 親 



親馬鹿の 記 



われ 鍋に とぢ ぶたが 出 來て十 年 目に 生れた 優藏 も、 七月 11 一十 日で 滿ニ 歳に なった。 體重三 貫 二 

百 十 匁。 健康で、 腕白で、 水に 濡れ、 土に まみれ、 かな ぶんぶん や 蟻 を踏躏 つて 遊んで ゐる。 年 

とってから 出来た 子供 は、 生れつき ませて ゐる 惧れが あるが、 優藏 もお ない 年 位の 子供に 比べる 

と、 おしゃべりで、 お ませの やう だ。 き やう だいがな く、 大人とば かり. 遊んで ゐ るので、 つい 智 

惠 がっき g るので はない かと 思 ふ. - 物心の ついた 時から、 おや ぢの本 を 讀む姿 を 見つけて ゐる爲 

か 「ゴ コン」 ,11 御 本 .1 は 早くから 好きだった。 まる 一年になる かならない 頃から、 新聞 ゃ雜誌 

を兩 手で 持ち、 仔細ら しく 小首 を 傾けながら、 タドタ ドタド と讀ん だ。 この頃 は、 自分の 知って 

ゐる 限りの 言葉 を 組合せて、 大きな 聲 で朝讀 する。 「鸦 はお 山へ 行きました」 とい ふの が 最も 得意 

だが、 時には « のか はりに 太郞 さんがお 山へ 行ったり、 次郞 さんがお 山へ 行ったり する。 果して 



331 



これに 類す る讀 本が あるの かどう か、 未だ 明かで ない。 綺 本の 中に 自分の 知って ゐる鳥 獸虫魚 を 

見出す 時の 得意と. 自分の 知らない ものに 出あった 時の 驚と は、 瞳の 色に も はっきり とうか は 

れる。 或 時 は 又、 其處に 父親 を發 見し、 母親 を發 見し、 自分 を發 見す る。 白い 割烹着 をき て 食卓 

の 用意 をして ゐ るの は 母親で、 背廣 姿で 電車 を 追 かける サ ラリイ • マ ンは 父親で、 赤い 水着で 蟹 

に 手 を 挾まれて ゐ るの は 自分に たと へ、 背囊 しょって 學 校へ 急ぐ 子供に は 未来の 自分 を 空想して 

ゐる。 大家さんの 御子さん 達の 學 校へ 通 ふの が、 今 は 何よりの 羨し さ だが、 やがてお ゃぢと 同じ 

やうな 學校 嫌になる ので はない かと、 行末^*1だ心許なぃ。 、 

優藏 のもう ひとつの 樂 みは 音樂 である。 生れて 間もなく、 銀座の 大勝 堂で 買って 來た才 ルゴ ル 

は、 一番 氣に 入った おもちゃ である。 蘇 格 蘭の 民謠 や、 佛蘭 西の 俗曲の 五つ 六つ 入って ゐ るの を 

枕 もとに 置き、 螺旋 を まくと、 赤坊は その 音を捉 へようと する らしく、 耳と 眼で 音 樂の後 を 追 か 

ける 様子だった。 

ラヂォ が 家に あると、 つい 聽 入って 時間 を 空しく する から、 私 は 長く 担んで ゐ たが、 女中 達の 

慰安の 爲に、 女中 部屋に 引く 事 を 許した。 これ も 優藏の 喜ぶ ものに 違 ひない と 思った が、 どうい 

ふ もの か あまり 興味 を 持た す、 それと は 違って 蓄音機に は 夢中に なった。 目の前で くるくる 廻る 



332 



記め! ^■t! お 親 



しかけが 面白い のか、 子供 向の 曲譜が 氣に 入った のか、 或は 子供の 耳 は 正直で、 ラヂォ よりも こ 

の 方の 音色 を 美しい と 感じる のか、 鬼に 角 「コ ンキ」 —— 蓄音機 —— は、 朝 も 晝も晚 も、 一 ョも缺 

かさす 鳴りつ ける。 白狀 すると、 この 蓄音機 は 借物 だ。 先頃 優 蔵が 病氣 をした 時、 愚妻の 妹が 

御見舞に 貸して くれた の で、 爾来 「雀の 學 校の 先生」 や 「かつ ぼかつ ぼかつ ぼ 兵隊さん が 通る」 や 

「出て 來ぃ 出て 來ぃ 池の 鯉」 は、 彼が 砂 いぢり の 時で も、 飯 を 喰 ふ 時で も、 身 邊に据 ゑて 置いて、 

聞かなければ 承知し ない ものと なった。 つまり、 樂隊 入りで 暮らして ゐ るの だ。 何しろ 使用 囘數 

が 多く、 おまけに 自分で 手 を 出して 機械 操 縱を樂 む もの だから、 レコ ォドは 罅が 入ったり、 缺け 

たり、 粉微塵に なったり する ので、 早く 返して しまへ とい ふの だが、 氣に 人り 方が 一通で ない の 

で, 愚妻 も 取上げ 兼る と 見え、 いまだに その 儘に なって ゐる。 私 も 先年 蓄音機が 欲しく、 弟の 世 

話で その 友達のお 古を讓 受けた が、 折 柄 愚妻が 病氣 になり、 ものいりが 多く、 レコォ ドを買 ふ ど 

しばらく 

ころで はなくな つて、 結局 鳴らない 蓄音機 を 暫時 身邊に 眺めた ばかりで、 乂 人手に 渡して しまつ 

たが、 それから 今日 迄 凡 十一 年、 今度 こそ は 好きな レコ才 ド數百 枚と 共に 買って 見せる ぞと思 ひ 

ながら、 矢 張 こ、 ろざし を果 さない うちに、 思 ひも かけない 子供が 生れて 來た。 子供が ゐ てはい 

、機械 を 買っても 滅 茶々々 にされ るから、 やめに しょうと 思って ゐ ると、 かほ ど 迄 「コ ンキ 遊び」 



333 



に 夢中な ので、 滿ニ 歳の 誕生日に 優藏專 用の を S つて やらう と 云って ゐ たが、 愚妻 は その 妹のお 

ともをして、 雙方 子供 連で 逗 子へ 行く とい ひ 出した ので、 彼是 そろばん を 弾いて、 うやむや にし 

てし まった。 どうして 斯う 迄 蓄音機に 緣 遠い のかと 嘆息した が、 さりと て 子供 向の レコ才 ド專門 

で、 朝から 晚 まで 「夕 燒小燒 で 曰が 暮れて」 や 「たん とんたん とんたん とんとん」 ばかり 聞かされる 

ので は、 無い 方が 遙 かに まし だから、 二十 幾年 來の 夢で ある 蓄音機の 事 は、 二度と 口に 出すまい 

と 思つ てゐ る. - • 

旣にォ ルゴ ルと 蓄音機に 一 心に を 煩け る 位 だから、 母親 や 女中 達が うたって 聞かせる 唱歌の 

ひとくさり を覺 え、 舌の 廻らない うちから よくうた つた。 一番 最初 は、 雨の 日に 母親が 傘 を 持つ 

て學 校へ 迎 ひに 來る、 迎 ひに 来られた 子供 は 得々 として 家路へ 急ぐ と、 傘の 無い 子が 柳の 根元で 

泣いて ゐる といった 風な 歌詞の 唱歌で、 その 繰返しが 何の 意味 か 「ちつぶ ちつぶ ちゃ つぶち やつ 

ぶらん らんらん」 とい ふやつ だ。 それ を 僅に 「ちつぶ ちつぶ」 とだけ 覺 えて、 之 を 口にする 時は必 

す 得意と 羞 しさとの 入り まじった 表情 をして 見せた。 それ を 大人 も 面白がって、 いっしょ になつ 

てち つぶち つぶち やつぶ ちゃつ ぶな ど、 いふ もの だから、 子供 は 益々 ぃゝ氣 になり、 何 か 失敗し 

たり、 い たづら を たしなめられ ると、 「ちつぶ ちつぶ」 とそら とぼけて はぐら かしてし まふので あ 



334 



つた。 

メ ー トル 法の 實施 は、 最近の 國粹 主義、 ファシズムの 流行と 共に、 又々 議論 百出し、 さきに は 

これに 反對 する もの は 固陋の そしり を 受け、 今度 は 之に 赞 する ものが 國賊の 如く 篤ら れ、 目下 行 

惱 みの ありさまで、 今更 メ ー トルで 難雜 する 不便に 心配し て ゐた吾 々 に 一 息つ かせて くれたが- 

-百. }■ 七 字 略」 同じ 大和魂で、 私 は 我 子に パ 、と 呼ばれる 事 をい さぎよ しとせ す、 幸に 愚妻 も 頑固お や 

ぢに 育てられ たので、 マ、 と 呼ばれる くすぐった さは 知って ゐる。 いったい 私共 幼少の 頃、 東京 

の 一般 家庭で は 父親 をお とつつ あん、 母親 をお つかさん と 呼ぶ のが 普通だった が、 文部省の 方針 

か、 田舍 出の 敎 員が 無闇に 上品ぶ つてき めた のか、 今ではお とつつ あんお つかさん など 、いふと- 

小學 校で 笑 ひものに される さう で、 隨分 前から おとう さま おかあさまに 變 つた。 優藏は 口が きけ 

る やうに なると、 父親 を 一. タッタ ァ チヤ ン」 と 聞え る 呼び 方 をし、 母親 を 「ヂ ャァ チヤ ン」 と 呼んだ 

東京の 或 一部で お母さん とい ふところ を ああ ちゃんと いひ、 ち ひさい 子供に 對 してち や あち やん 

親く 一と 呼ぶ が、 それに 倣った わけで はなく、 他の 者が 母親 をお 母 さまと か、 お 母 ちゃんと かいふの を 

^ 耳に して 「チヤ ァ チャン」 と轉 訛した ものら しい e 今では 父親 はお 父ち やまに なった が、 母親の 方 

紀 はお a ちゃ まと 呼ばれる 事 も あり、 相變ら すの 「ヂ ャァ チャン」 の 事 も ある。 私と して は 昔な つか 



335 



しさに、 おとつつ あんお つかさん と 呼ばせて 見たかった が、 それ は 望んでも 無理だった。 何故か 

といへば、 周 圍の誰 一人 そんな 古風な 呼び 方 はしない からだ。 .. - . 

佛蘭西 人 は H を發音 しないが、 日本人で も 彼 地で 生れる と 鼻 を 一. アナ」 とい ひ 星 を 「ォ シ J とい ふ 

さう である。 優藏 もどう した もの か、 つい 先頃 迄 鼻 も 花 も 「アナ, 一であった。 マ ミム メモの 發音も 

むづ かしい ものら しく、 まだが 一 バグ」 みんなが 「ビ ン ナ」、 もう ひとつが : ボウ トツ」 だった" 

その 廻らぬ 舌で お 話 をす るの も 得意で ある。 まだ あんよ は 出来ても 上手で ない 頃だった と 思 ふ 

が、 二階の 緣 側で 遊んで ゐる 時、 象の 形 をした おもちゃ を 庭に 投 捨てた 事が ある。 忽ち 下に ゐた 

大 がくはへ て 逃げた ので、 母親が あわて、 かけて 行って 取 戻して 来たの を、 ー篇の 物語に 仕組ん 

だ〕 

ジャゥ バ アン バイ ャ ァ ツチ ヂャァ チャン ノ オノ オノ ォ 

「ジ ャゥ」 はもと より 象で 「バ ァ ン」 は 自分が 投げた 勢 を 形容し;. バ ィャ」 はセ ント. バァ ナ アド 種 

の 雌犬 マリヤ の 事で 「ァ ッ チ」 は あちら 「ヂ ャァ チヤ ン」 は 上述の 通り 母親で、 そ の 母親が 「ノ オノ 

オノ ォ」 いけない いけない と 犬 を 叱った とい ふので ある。 うっかり 投げた 象の 玩具が、 忽ち 手の 

届かない ところへ 飛んで 行き、 犬に さら はれた 出來事 は、 深い 感銘 を殘 したと 見え、 この 話 はし 



336 



ばらく の 間 繰返して 人に 聞かせた。 これが 彼の 經驗 にも とづく 第一 の 創作であった。 今日 此頃は 

言葉 數が 多くな つたから、 自分の 見聞 を 語る 事は樂 になり、 時には 人に きいた 桃 太 郞の話 を 翻案 

して、 ぉぢ いさんが 柴刈 のか はりに は かりへ 行く やうな 筋に もなる ので ある。 - 

言葉の 創作 も 子供に とっての 大 仕事で ある。 それにつ いて 私が 一番 面白く 思った の は、 誰かの 

吳れた 花火の 中に、 しゅうしゅう 4^ 花の 散った 後で、 蛇の やうな 形に 灰の 固まる のがあった。 こ 

れは 子供 を 嬉しがらせ たが、 彼 は 花火と いふ もの を はじめて 見た ので、 その 名 を 知らない。 數日 

後に これ をね だる 時 「蛇 出る の 物 頂戴な」 とい ふ 表現 を 考案して 用ゐ た。 それに 成功した ので、 當 

分の 間 「バ ィャ 喰べ るの 物」 11 犬の ごはん —— だの 「蟻 叩く の 物」 11 蠅た、 き 11 など、 いふの 

がつ,.、 けさ まに 出て 來た。 しかし 斯うい ふ 自分の 工夫で でっちあげた 言葉 は、 周 園の 者が 一人 も 

使 はない ので、 忽ち を かしい と 思って やめて しま ふ。 

拙宅 は 市 內に似 もやら す、 附近に 樹木の 多い 屋敷が ある 爲か、 一年の 中 五ケ 月 は 蚊帳 を 釣る 位 

で, 虫の 飛來 する ものが 頗る 多い" それに 馴れたの か、 生れつき か、 まだ あんよ も出來 ない 頃 か 

ら、 金 ぶんぶん を 握りつぶしたり、 黄金虫 を もみく ちゃに したが、 手足の 自由が きいて 來 ると、 

目 に 觸れる 虫 は みんな 踏躪 つてし まふ。 こ の 間 「を かちな 虫」 がゐ ると いつ てつまんで 來 たのが、 



337 



百足の 死骸-の 頭と 尻尾に 大きな 蟻 の くら ひついて ぶら 下って ゐる やつだった。 御本尊 の 百足 は, 動 

かないが、 蟥が 懸命に 引す るので、 生きて ゐる ものと 思ったら しい。 私 は 芋虫で も 毛虫で も 手づ, 

かみ だが、 愚妻 はいたって 弱虫で、 それらの 虫 を 見る と 悲鳴 を あげて 震へ あがる 方 だから、 息子 

の やり 口に は ほと ほと 閉口して ゐる。 殊に、 夏に なって 金魚の 季節と なり、 緣曰 もの、 丈夫な の 

を 水 鉢に 入れて あてがった ところ、 うっかり すると 手づ かみに して 握り つぶす。 そんな 事 をして 

はいけ ない とたし なめ、 可哀 さう だからお よしと い はれても 「可哀 さうな い. 一と 云 つてき かない。.,. 

私 は 恐く も 氣味惡 くもない が、 いたいけ な 虫を殺す 事 は 好まない。 どんな 虫で も、 よくよく 見る 

と、 實に 可愛らしく 美しく 出 來てゐ る。 人の 喜ぶ 蝶 や 玉虫 は 申す まで もたいが、 人の いやがる 蜘 

?; つ とかげ 

蛛 でも 蚰蜒で も 蜥蜴で も とりどりの 美と 面白さ を惠 まれて ゐて、 見れば 見る 程 味が 深い。 人間の 

やうに 大ざっぱな グロテスクな もので はなく、 精巧 を 極めた 造 物で、 まことにい つくしむべき も 

のに 思 はれる。 そのいつ くしむべき もの、 命 を 奪 ふの は 全く 可哀 さう に 違 ひない し、 暴 性 をつ 

のらせる 心配 も あるで あらう が、 さて この 浮世に 生れて、 はげしい 人間 鬪爭の 舞臺べ 登場す る も 

のが、 虫 も 殺さないで 生きて 行かれる かどう か、 かよわい もの を憐 みいつ くしむ 心 も 勿論 ほしい 

が、 あまりに 纖 弱な 祌經を 養 ひ 培 ふの は、 行末の 爲 にどう であらう か。 私 は淬の 殺生 を獎勵 はし 



338 



ない が、 強ゐて 押と.、 め もしす、 默 つて 見て ゐ ようと 思 ふので ある。 その 昔 私 も 常習的の 金魚 設 

しだった。 どうい ふわけ で 殺し 度なる のか わからな いが、 追 廻し 追 5~ してと つつか まへ、 ^!&の根 

をと めた のは數 知れす だ。 おや ぢ似 だとい はれる 悴に、 こんな 事 迄遣傳 する のかと a ふと、 自人 „^ 

の 持って ゐる いやな 根性が、 やがて 優藏 にも はっきり あら はれて 來 るので はない かと. 流;;: の 親 

馬鹿 も 心が 寒くなる。 

さう い へば、 旣に その 一 端 はかくせ ない。 先づ第 一 に 強情で、 これに は:^ 親が 一 番難 ^ して ゐ 

る。 例へ ば 夜中に 目が 覺め ると、 きまって 「瓶 バイ バイ」 を ほしがる" 「バイ バイ 一はば いば、, "の 4i 

で、 母親の 乳が 出 なくなつ てから、 代用の ク リイ ムが卽 ち 「瓶バ ィバ ィ」 である。 「あ ゝヂ ャァチ 

ヤシ、 瓶 バイ バイ" 一と 一 人 E ざめ た優藏 は、 知らす に 寢てゐ る 親 共 を 呼び 起す。 今 こしら へ て來 

あげ 

てと るから 待って ゐ らっしゃ いと、 母親が 臺 所へ 行かう とすると 「待てない よう-とじぶ くる。 寺 

てます と 重ねてい ふと、 「待て まちえん 一と 向 ふ も 繰 返す。 優藏 はお 利口 だから 待てます とほ 親 も 

親 意地に なって 來る。 「優藏 お 利口ない」 い、 え、 お 利口です,、 「お 利口ない よう」 わいわい j はきな 

I がら、 十分で も 二十 分で も 雙方讓 らす爭 つて ゐる。 しっこの 時 もき まって そっくり かへ つて 反抗 

..-# - する。 -. まだ 無い よう 一とい ふの が斷 りの 言葉で ある。 い、 え、 出ます.、 「まだ 無い よう」 ありま 



339 



十よ、 一 無い 無い 無い」 手 網. の. 中の 姥の やうに 全身で あばれる の を 抱 上げて お まる に 力 、ると 

あく 迄 も:. まだ 無い よう 一 を 叫びながら、 勢よ くしゃ あしや あやつ てゐ る。 そし てけ ろり として 

-i. おしま ひち やんちゃん」 と宣吿 する。 いや だとい ひ 出したら あく 迄 もい やで 通さう とする 片實地 

に、 母親 は S 々てこ すらされ、 どうして 斯う 強情なん でせ うと 嘆息す る〕 それが おや ぢ 似なん だ 

とさと、 いひたがら、 親馬鹿 は肚の 中で、 あく 迄 も 所信 を 貫かん とする 精神 もこ k から 生れて 來 

るの だぞ と、 內々 頼 母し く 思って ゐ るの だ。 

子供の 聯想と いふ もの は 意外に 鋭い。 優藏 はたった 一 度 母親に つれられて 鎌 倉に 行った のと、 

父親の 旅の 歸りを 二度 程出迎 へた 丈で あるが、 或 時 海軍省の 赤 煉瓦の 建物の 前 を 自動車で 通る と、 

「東京 驛 々々々二と 叫び 出した。 それ を 東京 驛と 間違へ たの か、 或は 東京 驛 に似て ゐ ると いふの か、 

どっち だか わからな いか、 必す しも 間違と は斷 じられ ない。 或晚、 優藏の 夕方の 散步 に、 il^ 先生 

御 夫婦 を 誘 ひ 出? -、 町 を 呑氣に 歩いて ゐ ると、 突然 「キ" ン、 キリン」 といって 上の 方 を ゆびさ 

した。 或 家の 稱の 外に、 百日紅の 滑 かな 幹が、 にゅうつ とっき 出て ゐ るのから 麒麟 を 聯想した の 

である。 この場合 は 確かに 麟麟と 間違へ たので はなく、 それに 似て ゐ ると 感じた ので あらう。 も 

う ひとつ 例 を あげる と、 魚屋から K つた 餘 をば けつに 入れて やった ところ、 一見して 「ォ ネズ」 と 



340 



記の 鹿 馬 親 



叫んだ。 あれの 顏 つきと いふ もの は、 全く 鼠 そっくり ではない か、 

優藏は 勿論 おん もが 好きだ。 自動車が 通る。 自轉 車が 通る。 ォ ート* バイが 通る。 馬に 乘 つて. 

兵隊さん が 通る。 交番の をぢ さんが 抱っこして くれる。 子供が かけ 出す。 物賣 が來 る。 驢馬に 車 

を曳 かせ、 喇叭 を 吹いて パン屋が 來る。 それよりも 何よりも チン ドン 屋は 面白い。 だっこして、 

おんぶして おん もに 出たがった が、 あんよ が 上手に なつてから は、 靴 を はいたり、 結 ひつけ 下駄 

で 出かける。 頭が 大きく、 肩 や 胴 廻りが ふと 過る 爲か、 同い年の 子供に 比して、 實は あんよ は 上 

手と はい ひにくい。 よたよ たかけ て 行った かと 思 ふと 轉ん でし まふ。 足馴らしと、 腹 ごな しの 目 

的で、 私 は 優藏を つれて 毎夕 町內を 一 廻りす る 事に きめた。 「チヤ ンボ、 チヤ ンポ」 と 喜んで 出る 

に は 出る が、 途中で きっと 「アッコ」 —— だっこ —— になる。 どうも 上體が 重た 過る やう だ。 

この 散歩に は、 ^„^先生の御宅の前を通り、 二階の 萬 年 床で 新聞 ゃ雜誌 を讀ん でゐる 先生 を 呼び 

おろしたり、 お 風呂 最中の 奥さん を 誘 ひ 出したり する。 先生 は 子供 を 面白がらせる 爲に、 ^5^から 

烟 草の 煙 を 出して 見せて 下さる 。「汽車々. と 喜ぶ ので, 先生の 汽車 はさかん に 煙 を 吐く。 あ、 

苦しい。 こいつ は なかなか 樂ぢゃ あないと、 ひといき 入れよう とすると、 子供の 方で は 「もっと、 

もっと」 と あとね だり だ。 それ ぢゃ あ、 もう 一本と、 先生 は 奥さんの 敷 島 を 貰って, 又 鼻孔から 



341 



煙 を 吹く。 この 一代の 文豪が、 往來 のまん 中で. か、 る藝富 をして ゐ るの は、 まことに 御 氣の毒 

な、 もったいない 風景で ある。 散歩に 疲れて 父親の 腕に 抱き あげられ, すこし 眠くな つて 家路へ 

歸る! a !、 首が がくん となって 上 を 向く と、 高い 高い 大 穴ニ に、 滿 月に 遠い 「こ はれた お 月 さま」 を發 

見す るので ある。 た: - -.. . 、に.. . ノ ;.; 

斯う 書く と、 いかにも: ナ供は 父親に なついて ゐ る やう だが、 實は なかなかお やおの 側に は 寄つ- 

かない。 女中が 何 か氣に 入ら. ない 事 をす ると 「ダイ ドコ、 ダイ ドコ J と 叫び、 裏 所へ 引 込んで ゐろ 

とい ふのと 同じく、 父親が 叱ったり、 いましめたり すると 一お 父ち やま、 勉強」 といって しりぞけ 

る。 餘 計な 世話 を燒 かないで、 机に 向って ゐ ろと いふ 意味で ある。 さ. つかと 思 ふと、 何 か 新しい 

遊び事 を 見せたい やうな 場合に は、 一 一階に くすぶ つて ゐ るお ゃぢ にむ か つ て 「お 父ち やまお りて 

來ぃ」 と 叫ぶ。 おや ぢはダ 切の 迫った 原稿 をお つぼり 出して 飛んで 行く が、 間もなく あきられて 

しまつ て 「お 父ち やま 勉強々 々」 を くらつ て、 再び 一 一階 へ 追 ひ あげられる。 

これ はつい 此間、 愚妻が その 妹の. 御供 を 仰せつかって 返 子へ 貸家 を 見に 出かけた 曰の * だ。 妹 

の 方に は小學 校と 幼稚園へ 通, ふ 男女の 子供が あり、 その 體の爲 に 夏場 を 海岸で 過 さう とい ふので- 

愚妻 も優藏 を つれて!: 居させて 貰 ふと いふの だった。 私が 机に 向って ゐる 隣に 書 一 寢の優 藏を寢 か 



342 



記の 鹿 馬 親 



しっけ、 愚妻 は 足音 そ 忍んで 出て 行った。. 間もなく 目 を覺 まし.、 いつ もなら 、おす 母親 を 呼ぶ 害な 

のに、 ぼつ. かり 目 を 開いた まゝ起 上らない。 女中が 何 かおめ ざ を 持って 來ても 「いけない-一と 云つ 

てみ, けない。 大好物の 冷した 番茶 も 「いけない」 と 云って 押戾 す。 何 をしても 「いけない」 の 一 點 

ばりで、 おそろしく 不機嫌 だ。 女中 はお やおの 邪魔と 見て、 抱いて 階下に 下り、 やがて 庭に 出て 

砂遊び や 水遊びが はじまった やうだった が、 暫 しての ぞいて 見る と、 元氣 なく 女中に 抱かれて ゐ 

る。 あやしい ぞと 思った ので、 私 も 下へ, おりて ゆき、 額に 手 を あて、 見る と 熟が ある。 檢溫 器で 

はかる と 三十 七 度 少しだった が、 やがて 高 熟と なる 豫感 があった。 これ はいけ ない と 思って 二階 

へ つれて 行き、 床の 上に 置く と、. ぐったり 横にな つて 動かない。 そのうちに 吐蕩し 1 熟 は 三十 九 

度 七 分に のぼった。 早速 甲乙 兩醫に 電話 を かけた が、 いづれ も 留守 だ。 全身 火の やうに あつくな 

つて 「お 母ち やま は」 と 訊き 出した。 女中が 手 を 出しても 承知し ない。 お 母ち やま は 御用が あって 

遠くへ 行き、 お 留守 だと 云って きかせる と、 素直に あきらめて、 それつ きり 母親の 事 は 何もい は 

なくなつ たが、 その か はりに 私に ぴったり 抱きついて 離れ なくなった。 二度目の 吐瀉が あり、 大 

事に 至. らんと する もの、 やうに 想 はれる ので、 おや ぢ はすつ かり あわて、 しまった。 そのぉゃ;^^ 

の 懐に 手 を 差 入れ、 s™^ を さぐりながら 不安心な 顏 をして ゐ るので、 抱いて 步 いたり、 添寢 をした 



343 



り、 いつ 迄も歸 つて 来ない 愚妻 を 憎ん たり * なかなか やって来ない 者 を怨ん だり、 手の つけ や 

う もな くへ こたれ てし まった。 やう やく 甲 醫が來 て 診察し、 呼吸 音が 切迫して ゐる けれど 平生 丈 

夫 だから 大した 事 は あるまい、 暑氣 あたりと 見受 るから、 腹の 中 を 洗って しま はう と、 浣腸し、 

鹿 麻 子 油 をの ませて 歸 つたが、 それ もちつ ともい やがらす、 ぴったりと 父親に 嚼り ついて 離れな 

い。 ふだん はちつ とも やって来な いの だから * 私に とって は 我 兒の體 HI を、 斯うまで 直接に 肌に 

感じた の は はじめて だ。 けだもの 、情愛の やうな、 いふに いはれ ぬ ものが あった。 嗚呼 男親と い 

ふ もの は、 女親が 感じる 程の 親子の 情 を、 ふだん は 知らす にゐ るの だな と、 その 時沁々 思った の 

である。 子供 は 結局 母親の もの だと、 嫉妬に 近い 感情 も 胸 を 打った。 きいき が 直ったら 優 藏の好 

きな 物 を あげ ませう と、 氣カ をつ けて やる と、 「な あに」 と 眼 をみ はった。 っひぞ 父親の 口から 聞 

いた 事の 無い 言葉だった。 何でも、 何が ほしいと いふと、 「ジ ャゥ」 と 答へ た。 象のお もちやが い 

、とい ふの だ。 

夜に なって 乙醫 も來、 やがて 極樂蜻 蛇の 愚妻 も歸 つて 来た.^ 子供 は手當 がきいた のか、 熱 も 下 

り、 元氣も 稍囘復 し、 口 も 少し はきく やうに なって ゐ たが、 母親の 姿 を 見る と 忽ち 父親の 手 を 離 

れて、 しがみついた。 なんだ、 今迄 あんなに 頼りに して ゐ たくせに、 もぅ御用はなぃ のか、 ^S^Itf 



記の鹿^?5親 



憤懣 ニ甚 へす、 こっちへ 來 いと 手 を 出す と、 子供 は そっけなく 「お 父ち やま 勉強々々」 と あらね 

方 を ゆびさす のであった。 

翌日 はけろ りと 直った が、 約束 は 約束 だから 象のお もちや を 買って やって くれと、 愚妻に こと 

わけ を 話して ゐ るの をき いて、 優藏は 忽ち 元氣 百倍し 「行き まちよう、 ミチ ュ コシ」 1. 三越 li 

と、 母親の 顏を のぞき 込んだ。 

こいつ 馬鹿で はない ぞと 父親 馬鹿が いふと、 母親 馬鹿 はたぐ さへ 目尻の 下った 目 を 皺の 中に く 

し; 5、 くしゃに して、 滿 足さう にうな づ くので あった。 (昭和 八 年 八月 四日」 

, I, 「一ーー 田 文學」 昭和 八 年 九月 4 お 



345 



筋道」 散策 



「瀨戶 君の 書いた ものが、 はじめて 本に なった お 祝の 會を する t 出て, - さい。 一 

と久保 田さん が、 いつよう いふ 場合に 見せる 勢 込んだ 擎で なた。,. ぎし そも 

と、 い ふ 心 構が、 言葉に 墨,? 礙へ てゐ. る 6 ご-. -.. ,.、 一,. . ,, ひく-; . ... : . 

「:H: の本ビ にに.:; 一 :/-, リ. ヶ 人,、 . 

「二筋道。」 二 に 

「はじめて 本が 出る.: のか. _ か, や。.」 一: 

「全く はじめ て。 一..」. _ : 

. /.- w、 一 . 

意外に 思 ふの を 尤も だとい ふやう に、 久保 田さん は 受けて くれた, 

「出 ませう。」 - 



私 は躊路 しすに 應 じた。 この 古ぐ からの 芝居の 作者、 澤 山の 脚^ を 書き、 兎角 不振 勝だった 新 

派に 度々 當りを とらせた うでき、 が、 今日 迄 脚本 集 を 持つ てゐ ない とい ふの は 嘘の やうな 氣 がす 

る。 讀んだ 覺ぇは 勿論 無い が、 曾て 何處 かで 瀨戶 君の 脚本 集なる もの を昆た 事が ある やうな 疑 さ 

へ 抱いた a 今 は 知る 人 も 少ないだ らうが、 この 人 は 少年の 閻太郞 の 名で- 鬼太郞 費阿彌 流の 

劇評 を 書き、 ま だ 文 學雜誌 として 相當の 格式 を 失 はな かつ た 「文 藝俱樂 部 一 を 服 かにした 經歷を 持 

つ。 それ は 私共が 何 か 書き はじめる よりも 前の 事で、 しかも 年齢 は 向 ふの 方が 餘程 若い の だから- 

恐らく 十代に して 早く も 大人の 口 をき いた 稀なる わせに 違 ひ 無い。 當時 芝居の 廊下な どで、 あれ 

が閣 太. 郞 だと 敎 へられ、 な あんだ、 あんな 小僧つ 子 かと 思った 事 を 忘れない。 發育 不良 兒み たや 

うな 靑白 いのが、 強度の 近眼の 爲か 顔に 陰影が 深く、 泣いて る. やうな 笑って る やうな 印象, を與へ 

つ、、 持 を 引 擦って 歩き 廻って ゐ たもの だ。 その後 瀬戶 君と 口 をき くやう になった の は、 尾 張 町 

に カフ H • ライオンなる ものが 出 來た常 初で、 物珍し さ. も手傳 ひ、 銀座へ 出れば 必す 立. 寄る 事に 

一 ^ きめて. ゐ たが、 小山 內 先生. か 吉井勇 氏 を 介して 其處で 知合った の だと 記憶す る。 爾來 二十 有 除 

^ 年、 閻太郞 は 本名の 英ー となり、 洒落と 皮肉 をな ひ まぜに した 短文 劇評 家 は、 義理 人情と 淚を經 

策 とし 緯 とする 通 狂言の 作者と なった が、 何時も 逢 ふの は 酒席で、 しらふが つきあ ひ は 無い ので あ 



347 



る c 

「隨分 古い 瀬戶君 だが、 今迄 本が 出て ゐ ない のかな あ。」 : . . , . 

私 はあく 迄 も腑に 落ちないで、 幾度 も 首 を ひねった。 久保 H さんの 話で は、 今度 出る 本 も、 本 

人が いやがる のを勸 めて 納得 させた ので、 春陽 堂の 日本 小說 文庫と 稱 する 安物の 叢書の 一 册 だと 

いふので あった。 

「^話 人 は 新派の 連中なん だが、 こっちから は吉并 勇、 里 見淳、 あなたと 私、 それに 泉 先生のと 

ころへ 行って 頼んで 見ようと 思 ふが、 どうで せう、 出て くれる かしら。」 

久保 田さん は、 ひとつ の 仕事 を片 づけて、 もう ひとつ 仕事 を 持つ てゐ ると いふ や. つなせ きこん 

だもの、 いひ 方 をした。 

「さあ、 むづ かし さう だな あ、 何分 世話人が せ 話 人 だからん」 

いや、 私 は 御免 かう むり ませう —— と はっきり 斷られ る 事は豫 想しながら、 わざわざ 久保田 さ 

んが 行かないでも、 同町 內 の 私が 諾否 を 確め ようと 引受けた。 曰 は 何日、 場所 は濱 町の 何 象、 會 

費 はいくら とき かされ、 その 晚泉 先生の 御宅の 格子 先から 申入れ ると、 意外に も, 

「瀬 戶君は 好きだから、 出かけ ませう。」 



348 



锒-散 L 道筋 二' 



とい ふ 返事 を 貰った。 珍ら しい 事 だから、 私 は 得意に なって 久保 田さん へ 報告した. - 

ところが 當日 になって みると、 おなかの 具合が 惡 いから 失禮 するとい ふ 御斷に 接した。 先生の 

お腹 は 薄手 だから、 ぃ大 みやす いのは ふだんの 事 だが、 殊に 藝 者の 侍る 席で 役者と 一座す る 時と、 

雷の 鳴る 日が いけない やうで ある。 雷 は 犬、 蠅、 さしみ、 氷と 共に 恐い ので 致 方ない が、 片方の 

方 は 別々 に 逢 ふ のなら^ 段 こはく もお そろし くも 無い の だから、 まづ 一 種の 食 合せと い つた やう 

な もので あ ら う 。 • 

なんだい、 出る といった ぢゃ あない か —i 私は少 々中腹だった が、 泣く 兒と 地頭と 同じで、 お 

腹が 痛くて は爲 方が 無い から、 一 人で 會 場へ かけつけた.^ 

玄關に は 花柳 伊志井 瀨戶 日出 夫と いった 面々 が控 へ、 行 届いた 世話人ぶ り を 見せて ゐ たが、 奥 

へ 通って みると、 正客の 瀨戶 君の 外に は 井上 正 夫が ゐる 丈で、 定刻 を 少し 廻って ゐ るのに、 甚だ 

心 もとない 景色 だ つ た。 元々 時間の 觀念 の 持 合せ のない 連中と は 承知し てゐ たが、 それにしても 

ひどい。 三十 分た ち 一時間た つても、 やう やく 半分 位し か 集まらない。 集まらないでも 搆 はない 

から はじめ ませう とい ふので、 御 腾 が 出た が、 床の間 をし よった 瀨戶君 は、 兩隣も その 隣 も その 

义隣も 空席で、 宴會の 餘與に まかり 出た 落語家の やうな 恰好 だ。 それでも 酒が はじまる と、 稍 か 



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たち はついて. 來, たが、 凡そ 薄情な 會で、 御 が 出て-ぬ を 手に したから は、 もう 義理が 濟ん だとい 

ふやう に、 さ. つ さと. 歸 つて 行く 人が 一 人 二人で 無い。 ぼつぼつ やって 來る 一 方に は、 逢 慮な く 姿 

を 消し. て-しま ふの だ がら、 い つ 迄た つ て も 座敷い つばい に 人が 揃 ふとい ふわけ に は 行かない。. 就 

中怿 しからな いのは 久保 田さん で、 人 を 誘って 置きながら、 七 時に なり 八 時に なっても 姿 を 見せ 

す、 何處へ 電話 を 一 かけても 行衞 不明で、 御 勝に 出るべき もの は みんな 出て しまび、 旣に 座敷 も あ 

ら. けた 頃、 最後の 着 到と して 名吿を あげた。 

, この 日の 會は 至極 <r: 輪の 集まりで、 その後 間もなく 東京 劇場で 公式の 祝賀 會が 催された。 今度 

は 泉 先生の. お腹 も 痛ます、 わざわざ 私の 勤務先へ 車 を 廻して 下さった, 折 柄 この 劇場で は、 泉 先 

生の 「義 血俠 血」 を 脚色した 「瀧の 白糸」 を やって ゐて、 昔 源 之 助が やり 河 合が やり 喜 多 村の やった 

水藝の 太夫 を 花柳が 初役で 大當 をと つて ゐた。 瀧の 白糸の 名に ちな むで、 おもてに はっくり 物の 

斷-: に 本 水 を 落して, Q たが、 その 瀧壺 とも 見える 所に、 誰か を 待合せ るの か、 女が 一 人 本 を 讀ん 

でゐ た。 夜なら ば このつ くり 物 も 涼しく 見える の だら うが、 眞晝 間の 日輪の 下で、 これ は 不思議 

な, 色だった。 こ、 は 客席に 冷房装置 のして あるの が 自慢 だが、 費用の 鼴 係で 上の 方に は & ばな 

いから、. 會 場に. あ-てられた 五喈は 頗る 暑い。 



350 



策 散 L 道筋 二' 



いったい 出版 記念 の會 とい ふ もの は、 何時頃 か ら 流行し はじめた のか はっきり 記憶し ない が, 

大概 は 文 境の 仲間 同志の 寄 集りで、 競 ふやう に澤 山の 卓上 演說が あり、 夫々 の 機智 も諧 is も、 乂 

かと ふば かりで、 主客と もに うんざりして 御開きに なるなら はしで、 そもそもの はじめに は 殿 

1! たるま 氣も 感じられ たが、 近頃の やうに のべつ まくな しで は、 刺戟 も 與味も なくなつ てし まつ 

た。 ところが 此の 「二筋道」 の會 は、 何分 二十 有餘 年間 文筆の 業に 携 はりながら、. 雜誌 新聞に は緣 

の 薄い 爲、 文壇 づき あ ひ は 乏しい 作者の 事 だから、 集まる 人 も 文靖: 人 は 少なく、 この種の 會 合に 

は 比較的に すれて ゐな いのが 多い ので、 何時もの 出版 記念 會とは 趣 を 異にする ものが あった" 殊 

に 「一 一筋道」 は芳 町に 舞臺 をと り、 張と 意氣 地を榍 にして 藝 者の 爲に氣 を 吐く 事で 終始して ゐる の 

だから、 その 土地の人 達が、 何 か 御手 傳を といった 様子で、 一流の 顏を 揃へ てゐ るの は 無理 も 無 

いが、 これが おきまり の 出版 記念き 風景 を 根底から 打破った。 

さう いふ 來會 者に 取圍 まれ、 瀬 戶君は 老齢 且步 行-.^ 自由の 父 半 眠 氏と 並んで、 よき. 子ぶ り を 

見せ、 非常に 嬉し さう だった。 兎角 かう いふ 會 合の 主賓と いふ もの は、 固くなり 過ぎたり、 神妙 

がったり、 さう かと 思 ふと 逆手 に 出て、 こんな 事で は 喜ば な い ぞ と い ふ 態度 を とったり する もの 

: だが、 當 曰の 主賓ば いかにも S; 氣 なく、 =g はれる 身の よろこび をつ 、み 切れない 有様で、 1® めて 



3^1 



明朗なる ものであった c ひとつに はお 父さんが 本人よりも 喜んで ゐ るので、 それ を 又 息子が 嬉し 

く 思 ふとい ふ 二重の 目出度 さもあった であらう。 何に しても、 皮肉に 拘 はらない 美事な 態度 だつ 

例によって 宴席で は 誰彼の 卓上 演說が ある 箸で、 世話人 は 先生に も賴 みに 來 たが、 先生 はな 

かな かうんと いはない。 先生の 出席 を 瀨戶君 は 何よりも 喜んで ゐ るの だから、 ひとつ 祝って おや 

りなさい と橫合 ひから 口を出して、 やう やく 承知して 貰った。 實は私 も久保 田さん に 誘 はれて、 

前後 二度の 會に 出る と 約束した 時、 少々 酒氣 もあった ので、 卓 上演 說迄も 引受けて しまった。 し 

かし、 何もい ふ 事 はなく、 しらふの 時には 馬鹿々々 しいと 考 へる のが 本筋 だから、 泉 先生と いふ 

大 もの をロ說 落した 功績に 免じて、 自分 だけ はかん べんして くれと 申出た が、 司會 者の 久保田 さ 

んは 承知し ない。 扨て どんな 事 を 喋る ベ きかと 考 へながら ばくつ いて ゐる心 持 はい 、もので ない 

果物が 出て、 珈琲が 出て、 M 話 人 代表の 北 村 喜 八 氏が 挨拶 を 述べ、 司 會者久 保 田さん は 第 一番に 

泉 先生 を 指名した。 

先生 は 立 上って、 瀬戶 君と はじめて 逢った の は 愛宕山の 放送局で、 その 時 瀨戶君 は大酩 Is だつ 

たが、 その 次に 逢った 時 は 容姿端麗なる ジ ェン トル マ ン だった、 卽ちこ の 人 は 生れな がらに 二 筋 



352 



策 散 L 道筋 二"" 



道 云々 とい ふので あった。 私 は 泉 先生の を 聞いて すっかり 參 つてし まった。 じ やの 道 はへ び だ。 

何故かと いへば、 ばくつ きながら 私が 頭の 中で でっち あげたの も、 醉拂 ひの 瀕戶 君と、 今日 此の 

席に お父さんと 並んで ゐる 孝行 息子の 瀨戶 君と を 二筋道に 引かけ て 落 をと らうと して ゐ たの だか 

ら。 その外に何がぁ^c-。 私 は 「二筋道」 とい ふ 芝居 を 見た 事が 無い。 本 は 勿論 讀ん でゐ ない。 近頃 

はまる つ きり 芝居 を 見ない し、 昔 見た 新派の 芝居の どれが 瀨戶 君の 作 かも はっきりと は覺 えて ゐ 

ない。 こいつ は 弱った、 何 か 別の 一一 一一 a 葉 を 組立て なければ ならない と混亂 して ゐ ると、 そんな 事に 

は 頓着な く、 久保 田さん は 私 を 指名した。 私 はすつ かり 閉口して、 自分の いふ 事 はすつ かり 泉 先 

生に いはれ てし まひ ましたと 正直に 悲鳴 を あげてし まった。 

長 田秀雄 伊藤 痴遊喜 多 村 綠郞河 合 武雄川 村 花菱 花柳 章 太 郞大谷 竹次郞 諸氏が 夫々 祝辭を 述べた 

が、 中で 私は大 谷と いふ 人の 長々 と 喋る のに は 辟易しながら * あく 迄 も剛復 らしく、 どんな 機會 

も 逃さす に商賣 一手で 押さう とする 態度に 打 たれた。 投げ 手 も はたき こみ も用ゐ す、 眞 向から 害 

おし 

押い つてん ばりの 相撲 取の やうな、 がっしりした 風格だった。 成程、 これで は 東京の 人の い、、 

遊び半分 洒落 半分 の 興行師が^ になった つて かな はない わけ だと 思った。 

最後に 瀬戶 君が 答辭を 述べ、 义半眠 氏が 親と しての 感謝 を 認めた もの を讀 上げた が、 感極まつ 



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て 嗚咽し、 滿 足に は 完了し なかった。 私 は 彼が 醉拂 ひで ある 事 は 知って ゐる。 彼が 感情家で 淚臉 

い 事 も 知って ゐる。 彼が 仁俠の 志の 厚い 事 も 知って ゐる。 會て或 家の 夫人に 非行がん ると いふ 噂 

が傳 へられ、 更に その 主人が 相手方 を 脅迫して 金錢を 授受した とい ふ 噂が つけ 加 へられた 時、 そ 

の 腐った 根性 を 罵って 號 泣した とい ふ 事 も 聞いて ゐる。 大凡 彼の ひと、 なり は 承知して ゐ たので 

あるが、 親 をお も ふ 心の 流露 かくの 如き ものが あらう と は、 私の 今迄 知らなかった 所で ある。 息 

子の 成功に 滿 足して ゐる半 眠 氏と、 父親 をいた はり、 喜ばせようと 丁む になって ゐ る瀨戶 君の 並 

んだ ところ は、 まことに 美しい ものであった。 _ 

散會 後、 眞 直に 歸 宅し、 今日の 會の 記念に 貰った 「二筋道」 を 一 氣に讀 了した。 

私 は瀨戶 君の これが はじめての 本 だとい ふの を、 最初 は ひどく 不思議が つたが、 考 へて 見る と 

それ 程 不思議で はない ので ある。 昔から、 脚本 は、 1^ 角獨 立した 文 學とは 認められない 勝だった。 

殊に 瀬戶君 は、 松 竹の 祿を はむ もの かどう か はっきり しな レカ .^^なくとも實質上そ の 铜抱カ囑 

託 かに 相當 する 作者で ある。 永い 間の しきたりで、 自分の- e 部に 湧く 感興に もとづいて 自由に 制 

作の 筆 を 執る よりも、 先づ 役者の 顏觸 をき かされ、 その 一人々々 の 柄に あてはまる 芝居 を 書いて 

賞 ひ 度い とか、 或は もっと 立 入って あらまし の 筋 立 をき め、 それに ころも を 着せ 味 をつ ける 事 を 



354 



策 散 L 道筋 二. 1 



註文す ると か、 受動的に 働く 場合が 多い ので あらう。 その 間の 消息 は 「二筋道」 の 「序に 代へ て」 と 

いふ 文章の 中に も はっきり うか ふ 事が 出來 る。 「唯 # 間の 評判の 波に 乘 せられて 後から 後へ と 

書かせられた けで」 とか 「もう 一 度 繰 返す が 唯 書かされた けだ」 とか、 作者 は 自分の 立場 を 明 

白に して ゐる。 斯うい ふ 立場で 制作す ると すれば、 自分の 制作の 第一 の 目標 は、 如何に すれば 役 

者の 仕 勝手が い、 か、 いかに すれば 當 面の 見物の 氣に 入る か、 いかに すれば 劇場 經 t5« 者の 唯一の 

目的で ある 大入 をと る 事が 出來 るかと いふ 事に あって、 脚本 そのもの 、戯曲 的. 惯値 或は 廣ぃ 意味 

に 於る 文 學的價 値 は 直接 のめ あてと はならない 勝で あらう。 玆 にも 座附 作者 或は それに 近 い 作者 

の 書く ものが、 芝居の 觀客を 構成す る 大衆よりも 一 段 高い 敎養を 持つ 讀書 階級 を 相手に して は、 

出版され る 事が 稀 だとい ふ 理由が 見出される。 

しかし、 いくら 劇場 經營 者の、 又は 役者の 註文に よって 書く とはいへ、 あらゆる 座附 作者の 作 

品が 本人の 藝術 制作 衝動 によらす して 書かれる と は斷言 出來な い。 彼等 は その 註文に よって 制限 

を 受ける 事 は 確か だけれ ども, 自分の 創作 愁を 全然 殺す 事 は 出来ない 害 だ。 手近い 例 は、 河竹默 

阿彌の 如き 代表的 座附 作者の 脚本に、 いかに 畳 かなる 獨創的 詩情が 盛られて ゐ るか、 それ は渾々 

として 流る、 泉の 如く 自由 奔放に、 註文 や 制限 を 洗ひ淸 めて あまり ある ものである。 吾々 は 今日 



335 



のい たづら に廣く 明るい 舞臺の 上で、 默阿彌 が 描いた 類廢 期の 因緣 物語 や 人情話 を 見る よりも、 6 

寧ろ 書齋に 於て 之 を 縮く 方が 感興の 深い 事 を 知って ゐる。 

私 は瀬戶 君の 「二筋道」 が、 同 君の 作 中 最も 勝れた ものである かどう か は 知らない。 しかし、 こ 

れ程 人氣を 煩った 作品 は 外に は 無いで あらう。 いかに それが 評判に なつ たかは、 最初の 「二筋道」 

が あてた ので、 r 續 二筋道」 (正しく は 何とい ふ外题 か、 私 は 知らない。 以下 同) を 書かされ、 これ 

が 叉う けたので r 繽々 二筋道」 を 書かされ、 第 四の 一 二筋道」 を 書かされ、 第五の 「二筋道」 を 書か さ 

れ- とめどが なくなつ たので 「お 名殘 二筋道」 を 書いた ところ、 不幸なる 偶然 は、 これ を ほんとの 

ぉ名殘 として、 立 役者 伊井 蓉 峰の 死 を もたらした。 若 も 作者が 逃げ を 張らなければ > 松 竹 は 第 七 

の 第 八の 第 九の 第 十の 「一 一筋道」 を 書かせた かもしれ ない ので ある。 さう いふ 立場に ある 座附 作者 

とい ふ ものが、 いかに 強い 腕つ ぶしと、 太い 神經を 持って ゐ なければ つとまら ないか は、 今更い 

ふ 迄 も 無い 事 だ。 その 點で瀬 戶君は 申 分 の 無 い 作者 だ とい は な ければ ならない。 記念出版 會 の 日 

に、 松 竹 社 長大 谷 氏 は、 此の 作者の 健康 を 憂 ひ、 吳々 も氣 をつ けて くれと 繰返して 云った が、 正 

に. 松 竹に とって 之 以上 調法な 作者 はなく、 此の 人に 健康 を 害されて は、 折角 甦生 をうた はれる 新 

派の 將來を 暗く する し、 松 竹の 營業 にも 差 響; に 違 ひ 無い。 それ 程 調法 がられる 丈 「二筋道」 は 伊 



策 散 L 道筋 二つ 



井 喜 多 村 河 <1 口の 所謂 三 頭目に ぴったり はまった 1:」 トで、 且又 義理 人情、 張と 意氣 地と いふ 通俗 道. 

德を眞 向から ふりかざし、 おまけに 必す淚 の 薄墨で 畫 面の 統一 を はかる 事 を 忘れない から- 今日 

の 新派の 觀客曆 に は 叉な き 心の よすがで あらう。 in! なる かな、 花街の 子女 は 此の 芝居に よって、 

自分 達の 精神 生活 を 再認識し、 玄人の 身の上の あはれ を 深く 知る と共に、 達 引に 生る 矜持に 胸 を. 

躍らせた とい ふ。 玄人で ない 者 も, 今日で は藝 者と いふ ものが、 いぜんの やうに せに はびこる 存. 

在で なく、 どっち かとい へば 影の 薄くな り ゆく 階級 だから、 弱者の 爲に氣 を 吐く 作者と 共に、 同 

情の 淚を惜 まなかつ たに 違 ひ 無 い。 「一 一筋道」 の 成功 は當然 の 事と いふ 外 はたい。 

しかし、 これが 本と なった 場合、 吾々 は 默阿彌 の 脚本 集 を 愛誦す る やうに、 深い 感激 を 持って. 

かんながら 

讀 了出來 るかと いふと、 乍遣憾 否と 答へ る 外 はない。 明白に、 書いた 自然 さが 稀薄で、 書かされ 

た 無理が 濃厚で ある。 この 缺點は 舞臺の 上で も、 心 ある ものに は 忽ち 觀取 さる、 に 違 ひ 無い が、 

色彩と 音樂で 眩惑し、 注意 を 散漫なら しめる 舞臺 よりも、 ひたむきに 文字 を 追つ て ゆく 書 齋の方 

が 明確に 感じる に 相違 無い。 爭 はれない もので、 第一の 一 二筋道」 が 一 番 書いた 自然 を 多分に 持ち、 

書かされた 無理が 少ない。 それが 第二 第三と なると、 心が おろそか になり、 形の 上の 無理 も 露骨 

になって 來る。 舞臺の 事なら 何でも 知って ゐる 作者 は、 自分で も 純 15 の; 5g 薄に なった 事 は 承知し 



てゐ るで あらう が、 そこが 座附 作者の 太い 神經 と、 強い 腕つ ぶし を 要する ところで、 構 ふ もの か、 

どうせ 見物に は 此處の 所の 無理 はわ かるまい、 こ つち は 書き 度て 書いて ゐ るので はない、 書か さ 

れて 書いて ゐ るので; 兀々 無理 はわ かって ゐる 位の 心 持 で、 うで を 頼ん で 書 流 してし まふので あ ら 

う。 モの 結果が 最も 穀面 にあら はれる の は、 そもそもの 成立ちから 役者 本位で 人間 本位で たいの 

が、 愈々 舞臺 本位で 世の中と かけ 離れた 實感の 乏し さに 走つ てし まふ 事で ある。 

そんなら. 作者 は 全く 制作の 喜び を 味 は 、す、 た > 劇場に 對 する 義務と して 書いて ゐる のかと 

いふと、 それ は 違 ふ。 作者に は純粹 創作の 樂は 少ない かもしれ ない が、 大衆 相手の 仕事に 共通の、 

いかに すれば 受ける かとい ふ ー點に 充分の 感興が あり、 叉 註文 主 を 喜ばせる 滿足、 役者 を 嬉しが 

ら せる 滿 足と あはせ 行 ふ 事が、 とりも 直さす 自分の 腕 を 確認す る 事になる の だから、 その 目的の 

したがって 

爲 にも 制作の 熱情 はあり 得る ので ある。 從而 作者 自身が、 書かされ たから 書いた とい ふの は 一面 

の眞實 では あるが、 その 儘 うけとつ てはいけ ない。 腕つ ぶしに 自信 を 持つ 作者と して、 この場合 

註文 主の 無理が ひどければ ひどい 程、 腕の ふる ひ 甲斐が あるので ある。 もう 一 つもう 一 つと 書か 

される 度に 雜面 をつ くりながら、 作者 は その 無理に 負けない 自分 を 顧みて 快 心の 笑 を もらした に: 

違 ひ 無い。 第二義 的の もので あらう が、 之 も 亦 制作の 喜びと 稱 して 差 支ないで あらう。 



358 



此の 種の 喜び は、 一般に 腕つ ぶしの 強い 座附 作者に 共通の もので あらう が、 私 はこ、 に 他の 人 

々と 瀨戶 君を距 てる 一線が あると 思 ふので ある。 それ は瀬戶 君の 場合、 無理な 註文と は 知りな が 

ら、 註文 主の 望みに そふ 作品 を 書 上る 心 持と 同時に、 あく 迄 も 自家の 米の 飯で なければ 客膳に 供 

し 度ない とい ふ 心 持 を 失 はない 事で ある。 いつ 迄 も 文學靑 年の 純情 を 忘れ 兼る 精神が あると 思 ふ 

ので ある。 そこに、 全くの 工人であった 松 居 松 翁 氏 や、 甘んじて 工人と なる 外に あこがれ のない 

巖谷三 一 氏な ど \ の歷然 たる 相違 を 見る。 果して 私の この 見方が 正しい ものと して 許されるなら 

ば、 私 は 松 竹と 新派の 爲に 進言して、 瀨戶君 をしても つと 思 ふま、 に 冒險を させ、 之 を 支持す る 

方針 を とらせ 度い。 卽ち、 あまりに 多くの 役者に 役 をつ け、 各々 の 仕 勝手 を考へ 過る 今汔 j の やり 

口の 外に、 時には 活社會 から 生の ま、 の 材料 をつ かませ、 他 を 顧慮す る 事な く 書かせて 見る ので 

ある。 叩き込んだ 腕つ ぶしの この 作者の 事 だから、 いくら 勝手 氣像を させても 必す 上演 價 値と 同 

あげ 

時に 興行 價 値の ある もの をつ くり 上る であらう し、 昔と 違つ て 今日 の 新派 は 素晴らしく 技藝 がう 

ま まくな つて ゐ るから、 これ を 仕い かすに 違 ひ 無い。 新派の 廳 生と いふ 聲に 安んじて、 明治時代の 



^ 新派 ffii に歸れ とい ふ 議論 も ある やうで あるが、 それ は 新派の 使命 を おろそかに する もので、 やが 

策 て 衰滅の 途へ 導く 因と ならう。 新派 はあく 迄 も 腕と 元氣に まかせて、 少しで も 新派の 世界 を擴げ 



359 



て 行かなければ IT た。 一時 その 存在の 危 期を唱 へられた 新派に 對 して、 多大の 同情 を 持ち、 主と 

6 

して 內 部の 結束に 力 を 貸した の は久保 田さん で、 新派の 大御所な ど、 呼ぶ 者 さへ あるが、 新派 最 

近の 隆昌に 直接 貢獻 した 第一人者 は、 誰が 何とい はう とも 瀬 戶英ー 君で ある。 恐らく 今後 も 「二 

筋道, 一 以上の 人氣を 博す 作品が あら はれる ので あらう が、 もう 一 筋 他の 道を步 かせて 見る の も 面 

白く はない か。 無類の 腕 達者 をして、 束縛な く 腕を援 はせ てみたい のが、 私の 愁 である。 (昭和 八 

年 凡 Ifli: 日) 

Inn 一一 田 文學」 昭和 八 年 十月 號 



記の 鹿 馬親纔 



續 親馬鹿の 記 



ひと 夏を逗 子で くらした 優藏 は、 眞黑 になって 歸 つて 來た。 留守番 をした 父親に、 面白かった 

逗 子の 話 をき かせよう とする ので あるが、 意 あまりあって 言葉 足らす、 「ね、 ね、 ね、 ね」 といつ 

まで も 相手に 呼びかけながら、 結局 話に ならないで、 おしま ひになる 事 も あれば- 「え、 と、 え 

、と、 え、 と、 優 ちゃんね、 逗 子に 行った。 おもちろ かった。」 と 冒頭から 直に 結論に 飛んで しま 

ふ 事 も ある。 しかし、 海の 偉大と- トンネルの 不思議と、 大船 驛で 買った 鯛め しのう まさ は、 こ 

の 夏の 間の 彼の 經驗の 中で、 最も 忘れ 難い ものと なった やうで ある。 朝、 目が さめる と- 蚊帳の . 

中で あっち こっち ころげ 過り、 殊に 蒲圑の 外の 疊の 上で 手足 をば たばた やる のが 海の 思 ひ 出を樂 

むしぐ さで、 時々 「波が 來た」 と 叫ん. で 母親の 懐に もぐり 込む。 トンネルの 方 は、 座敷の まんなか 

に 立 はだかり、 大 の 字の 形で 之 を 示す ので あるが、 その 股 ぐらに 汽車のお もちや を 通させたり、 % 



よ つんば . 

おや ぢ にく れと 命令した りする。 親馬鹿 は 忽ち 四 這 ひに なり、 がう がつ たんが うがつ たんと い 

ひながら、 トンネルに 頭 を 突 込む ので ある。 こども は 有 頂 1K になって 喜び、 トンネルの 位置 を變 

へて は、 東京、 品 川、 横濱、 鎌 倉、 逗 子と 知って ゐる 限りの 驛名を 叫ぶ ので あるが、 汽車 は厦々 

鹏 めし を 聯想 させ、 「おいちい かった ねえ」 と眞劎 になって 親の 顏を のぞき 込む。 御 近所の ありが 

たさで、 そんなに 好きなら うちで こしら へ て やら うぢ や あない か、 うちの はもつ とうまい 力 

と、 泉 先生が 約束して 下さった。 先生のと この 奥さん は、 これが 御 得意なん だ。 いつ 來 るかい つ 

來 るかと 待って ゐ るが、 まだ 來 ない。 こども は 忘れて しまったら しいが、 親馬鹿 は 忘れす、 先生 

ん とこの 溯め し、 いつ 來 るんだら うと、 愚妻 を かへ りみ て 怨みが ましく いふの も 一度 や 二度で は 

無い。 

先生 御 夫婦 を 誘 つて 上野 の 動物園 へ 行く 約束 も 久し いものだった。 優藏が 最初に 動物園 へ 行 

く. S- は、 をぢ ちゃん も をば ちゃん もい つし よに つれて 行つ てあげ ませう と、 こどもが 生れて 間 も 

無い 頃から、 おや ぢの 馬鹿が いひ 出して、 よし 行かう とい ふ 返事 を 受取った。 その後 親類の 子供 

達の 出かける 時 誘 はれた 事 も あるの だが、 先生との 約束 を 重んじて 參加 させなかった。 何しろい 

きもの は 好きだから、 戶 外に 馬蹄の 響 を 聞けば かけ 出さう とし、 近所の 犬に ゆき あへば 尻尾 をつ 



362 



記の!^ 馬親镇 



かんで 放さす、 繪 本の 中で も 動物の が 一番の 氣に 入りで、 獅子 も 虎 も 熊 も 象 も 麒麟 も 形 丈 は 知つ 

てゐ るの だから、 「ほんとの 動物園」 を 見せたら どんなに 喜ぶ でせ うと、 母親の 方が その 日 を 待 兼 

てゐ た。 

, じふし まつ 

うちに も セント. バ アナ アド 種の 犬が ゐ るし、 鳩もゐ るし、 十 姉妹 もゐ るし、 金魚 もゐ るし, 

鯉もゐ るし、 近頃に なって は 白 驚もゐ るので、 これ を 「優藏 の 動物園」 と 名 づけ、 しきりに おや ぢ 

は 面白がって 見せる の だが、 こども はとつ くに 見飽きて しまった。 「驚さん、 けんかん していけ 

ないから > ひとつ 返し ませう」 など、 生意氣 をい ふの である。 

いったい 此の 白 驚 は、 今年の 夏の 或 日、 私の 留守に、 横 山さん の 御 使と 名吿る 人が 持って 來た 

とい ふば かりで、 最初 は 何 處の横 山さん が、 何處 でっか まへ たの かわからなかった。 まだ 十分に 

は巢 ばなれし ない 二 羽の 雛 を、 とりあへ す 犬舍に 入れた が、 ひとりだちの 出 來る迄 は、 口 を 割つ 

て驗を 咽喉へ 入れて やらなければ ならなかった。 皆が 厄介が つて ゐる ところへ、 叉 三 羽 追加して 

来た。 この 時 は 私 も 在宅し、 玄關へ 出て 見る と 、洗濯した ての 糊の よくき いた 白地の かすりの 着 

物に、 小 倉の 袴 を 裾 短 かに はき、 白 足袋、 白 緒の 薩摩 下駄と いふいで たちの、 若い 坊さんが、 竹 

籠 を さげ、 上野の 寬永 寺から 參 りました といって 添狀を 出した C それによ ると、 慶應義塾の 國文 



363 



學の 先生 橫山重 氏の いひつ けで、 更に 白 驚 三 羽 を 御 届 するとあった。 私 は 十つ かり 恐縮し、 實は 

先日の 二 羽で 旣に 充分な ので、 これ は御斷 したいと 云った が、 若い 坊さん は 恰も 聞えない もの、 

如,、, 竹 籠の 紐 を 解き はじめた。 佛に 仕へ る 外に は 一 切 他念の 無 さ、 うな 人柄 だから、 俗人の 言 

葉 は 耳に 入らない らしい 。- 先日 御 屈した の 、樣子 も 見 届て 歸り 度い と 云 ふので、 私も觀 念して、 

庭先 の 犬舍に 案 s: す ると、 二れ ならば t 等 だと 大署滿 足 し て くれた。 そ の 犬舍に 新參 の 三 羽 も 放 

たれた が、 今度の は 前のより も發 育が 惡く、 きり やう も 劣る やうだった。 坊さんの 話で は、 上野 

のお 山に は 毎年 驚が 來て巢 を かける が、 今年 は 特別で、 一寸 數 へた 丈で も 凡 六 百の 巢を營 み、 五 

位 驚 一 千 羽、 白鷺 百 羽 位 群って ゐ ると いふ 事だった。 偶々 古文書の 研究に 通って ゐる横 山 氏が そ 

れを 見て、 こどもの 慰みに 實 つて くれたの であった。 不幸に して、 後から 來た三 羽 は 死んで しま 

つたが、 前の 二 羽 は 日に日に 大人び た 形に なって 來 たので、 池 を 掘り、 禽舍 をつ くって 移した。 

どうい ふ 性質な のか、 この 鳥 は 好物の 龌を與 へる と、 めいめい^々 に 喰べ ようと はしないで、 一 

方 がくはへ ると 他の 奴 は その 嘴から 奪 ひとら うとす る。 異様な 聲を發 して 爭 ふの を、 こども は喧 

嘩と 見て ゐ るので、 「しゃぎ しゃん けんかんして いけない から、 ひとつ 返し ませう」 としたり 顔で 

し- C 

親 どもに 同感 を 強る ので ある。 正邪 いづれ にある か は 別と する も, 暄 嘩 する 者 を 成敗し ようとす 



364 



記の 鹿 馬親镜 



る 心 持が 働き はじめた の だ。 

先 生 に は 「白 驚」 と 題す る 長 篇小說 が あ る 位で、 凄 艷な姿 のこの 鳥 は 御! 負と 思 はれる か ら 、 

うちの 白 驚 を 見に 來て 下さいと いふの だけれ ど、 驚 は 見たい が 犬が ゐゃ あがる ので、 —— と 身 震 

ひまでして 眞 平の 形 をし、 それよりも いっそ 動物園へ 行かう とい はれる ので、 愈々 豫 ての 約束 を 

果す 事に なった ので ある。 日曜 は混雜 する に 違 ひ 無い から、 平日 を えらび、 私 は 勤 を 休む 事. にし 

た。 九月 下旬、 これが 今年に なって はじめての 休暇 だ。 先生 は 何處へ 行く にも 故さない 魔法 * に 

熱 燜の酒 を つめたの を 大事に 抱へ、 奥さん はお 晝 のお 辨當の 包 を 持ち、 親馬鹿 はい たづら もの を 

燒香 場の 三 法師の やうに だっこして、 申 分の 無い 秋晴の 朝、 上野の 山へ 出かけた ので ある。 先生 

は 動物園 なんか、 幾年に も 來た事 は あるまい と 思 ふと、 案外 さう ではなく、 園內の 改造 も 知って 

ゐる。 私の 方 は、 記憶 はお ぼろ だが、 たしか 一番 上の 兄の 長男が 小學 校へ 通 ふ 前に つれて 来たの 

が 最後で、 その子 供が 上野の 森の 據を つかま へ ろと 云って、 この 叔父さん を 困らせた 事 を 思 ひ 出 

した。 それが 今 は 三十 歳 近いの だから 正に 二十 四 五 年 前の 事で ある。 

門 を 入る と、 とつつ きが 白鳥の 池で、 自分のから だよりも 大きい 鳥が 悠々 と 水に 輪 を 描いて: 冰 

いで ゐ るの を 見る と、 こどもの 足 は 早く も 釘.、 つけに なって しまった。 動物園々 々 "、とき かされて 



365 



たが、 かほ ど 迄に 廣大な ものと は 想像 もっかなかった らうから、 た た 目 をみ はり、 きょ 

とんと して、 傍に 親 どもの ゐる事 さへ 忘れ 果てた る 様子だった。 默 つて 放って置いたら、 いつ 迄 

でも 動き さう もない けしき だ つたが、 さきに はもつ と 喜び さうな ものが 澤山ゐ る の だから、 促し 

て 進んだ。 かねてお もちや ゃ緣 本で お 馴染の けだもの、 巨大な 象 は 長い 鼻 を 振り、 よその 子供の 

投る ビスケット を まき 上げて 喰 ひ、 河馬 は 盥のロ を あけて 水の 中から 面 を 出し、 獅子 はたて がみ 

を 震 はせ て咆吼 する。 何から 何 迄 珍ら しく、 不思議で、 面白い。 ひと 廻り するとす つかり 疲れて 

しま ひ、 親馬鹿に だっこし ないで は ゐられ なくなった。 恰度 正午だった ので、 園內の 茶店で 優藏 

は 母親の 用意して 來た ビスケットと チョコ レ ー トを たべ、 その上 奥さんの 手づ くりの、 でんぶと 

海笞 のか、 つた 御飯 を 頂き、 ^^先生と私は魔法壜の御厄介になった。 

親馬鹿 はこの どんた くに 味 をし め、 その 翌日、 もう 一日 休暇 を 貰 ひ、 この 日 は 終日 家に ゐ て、 

優藏と 遊びく らした。 效驗 いやち こで、 その 日 以来 父親 は 一勝く みし やすい 遊び相手 として 認め 

られ た。 いったい 父親 は、 いくら 勉強した からって、 四 這に なって 股 ぐら をく つても、 熊に な 

つて ひつく りかへ つても、 こども を ひきつける 事に かけて は 母親の 敵で ない。 向 は 叱っても、 か 

まひつ けなくても、 時々 は 押入に 入れても、 こども は 益々 慕 ひ 寄って 來 るが、 こっち はの べつ 幕 



336 



纪の鹿 馬親績 



なしに 御機嫌 をと り 結ばう としても、 忽ち あきられ てし まひ 勝 だ。 哺乳動物に はかな はない —— 

と 常々 嘆息す るので あるが、 此の 第二 日 目の 休暇に 發 明した 「お 馬 遊び」 だけ は、 父親の 專賣 とし 

て 我 子の 嘉稱 すると ころと なった。 我家で は 一 番廣ぃ 八疊の 窒の眞 中の 疊ー 一枚 を 座 蒲團で 埋め、 

その 周圍 をぐ るぐ るかけ 過る 丈で、 一向 智惠の 無い 話 だが、 こいつが ことのほか 氣に 入った。 湖 

來 父親の 姿 を 見る と 「お 馬 遊びしょう」 と 誘 ひに 來て、 着物の 色から 自分 を 白い 馬、 おや ぢを黑 い 

馬に 見立て、 ぐるぐ る 廻 を 強請す る 事に なった。 黑ぃ馬 は 忽ちく たびれ て、 蒲圑の 上に 寢 ころび、 

はあはあ 云って ゐ ると、 白い 馬 はいつ かな 承知せ す、 r 黑 いお 馬、 もっと かけ 出せ」 と 命令す る。 

黑ぃ馬 は從順 だから、 むつく り 起きて、 叉しても ぐるぐ る 廻 だ。 おかげで はじめて 知った の は、 

四十 五 歳 十 箇月の 男子よりも、 二 歳 二 箇月の 男兒の 方が、 ぐるぐ る 廻の I- 吸が 續 くと いふ 事 だ。 

「お 馬 遊び」 に關聯 して、 私が 不思議に 思 ふの は、 優藏は 左ぎ つちよ では 無い のに、 この 遊びの 

場合に は、 どうしても 右 廻 を しないの である。 あまり 一方からば かりだと 目が 週る から、 今度 は 

こっちと 敎 へても、 「う、 ん こっち」 といって、 絕對に 承知し ない。 時計 は 左!! だが、 野球 も 競馬 

も 右 過 だ。 將 來の爲 にも 右 廻に させようと 努める が、 まだ 一 囘も 成功し ない。 古 溪波多 野 承五郞 

先生に は、 右姬左 廻の 研究が あつたが、 私に は 我 子の 左 廻が 何故で あるか、 どうしても わからな 



367 



レ 

こどもに 對 する 私共の 自戒の ひとつ は、 なるべく もの を敎 へない とい ふ 事 だが、 遊び相手の 女 

中に 敎 はったり、 往来で 聞嚙っ て來 たりして、 とんでもない 事 を 口走る。 眞 面目な 顔 をして、 ァ 

ィゥ H 才力 キク ケ コ と、 何の 事 かわけ も わからす に 叫んで ゐ るかと 恩 ふと、 ァ ラョィ ョィョ ィと 

轉 向して 行く。 一 ッ、 ニッ、 三ッ、 四ッ、 五ッ、 六ッ、 七ッ、 八ッ、 九ッ、 十、 十一、 十二と 數 

へ、 誰に 敎 はった の だら うと 父母が 驚いて ゐ ると、 その 次 は 十三 七ッ とうたって けろ りと する。 

凡骨の 中に Why と Hsv が 無け れ ぱ進步 はない と 云 はれる が、 智惠 のつ くさかりの こども 

にと つて は、 あらゆる 事が 「何故」 であり 「どうして」 である。 「お 父ち やま、 何處へ 行く の」 と殆ん 

ど 毎朝き く。 會 社へ 行く のと 答へ ると、 「何 處の會 社」 とか 何の 會社 とた、 みかけて 來る。 この 返 

答 は 頗るむ づ かしい。 何故かと いへば、 こどもの 理解の 届く 範圍內 で 適當の 返事 を 見出さな けれ 

ばなら ないから である。 丸の- 2: の會 社な どと いったの では 返事に ならない。 止む を 得す、 東京 驛 

の そばの 會社 とい ふとうな づ いて くれる。 「お 父ち やま、 何して るの」 とい ふのに 對 して、 御本讀 

んで るのと 答へ ると、 必す、 「何の 御 本, 一と 來る。 「三 田 文學」 を讀 んでゐ るんだ よで は 返事に なら 

ない。 御 話の 御 本と いふと 「何の 御 話 一と 何處迄 もき りが 無い。 いろんな 御 話と 逃げても 「何のい 



368 



記の 鹿 《^親 镀 



ろい ろ」 と あく 迄 も 追 かけて 來る。 苦し まぎれに、 こどもに はわから ない 御 話と いふと、 甚 しく 

不滿 足で 「優ち やん わかる」 と 怒った顔 をす る。 試みに こっちから も 質 間して みた。 優ち やん 此間 

何處へ 行った のとい ふと、 卽 座に 「逗 子」 と 答へ たから、 こ、 ぞと ばかり、 何 處の逗 子 だとき いた。 

恐らく これに は 困って、 海の 逗子 だと か、 汽車の 逗子 だと かいふの だら うと 思って ゐ ると、 こど 

もの 頭に は 迷 ひが 無く、 言下に 「葉 山の 逗子」 と 答へ た。 尤も、 一寸 間を置いて、 「優 ちゃんね え、 

鯛め しみんな お 姉 ちゃんに やつち やった」 と つけ 加 へ た。 例の 大船の 綱め し を 思 ひ 出した ので, 

お 姉 ちゃんと いふの は 親類の こどもの 事で ある。 

父母と 同じ 食卓で、 優藏 だけ はい たづ らを しな いやう に 籐椅子 の 上に 乘 つて 食事 をす るので あ 

きラり 

るが、 大人の 喰べ る 物 を 1& ベて みたい 慾 望 は 頗る 強い。 殊に 漬物の 茄子 や 生 瓜の 色彩 は 目 を ひく 

ものと 見え 「優ち やん もお つけの ものた ベ る」 と 毎日せ びる の である。 これ はこ どもの たべ る 物で 

ない とい ふと、 大概 は 一度で あきらめ るが、 旋毛 を まげる と 「優ち やん、 もう 大きくな つた」 とい 

つてき かない。 漬物と いふ もの は 三度々 々目に 觸れ るので、 始終 頭 を 去らない らしく、 何 かの 拍 

子に 「大きくな つたら」 とい ふ 言葉 をき くと、 直に そ い つ を 思 ひ 出す。 優藏も 大きくな つ たら 學校 

へ 行く の だとい ふと、 「そしてお つけの ものた ベ るの」 とつけ 加 へる ので ある。 



369 



して はいけ たいとい ふ 事 を わざとしたり、 大人の いふ 事に わざと 反對 したりす るの も > 今日 此 

頃の 道樂の ひとつ である。 そんな 事 をして はいけ ません とい ふと 「してい 、のよ」 とい ふ。 優藏は 

い 、子 だからよ しませう とい ふと 「優 ちゃんい 、子で ない, 一とい ふ。 親類へ 遊びに ゆく 時、 向 ふの 

子供と 仲よ くす るんで すよ とい ひき かされる と 「いや、 ,けんかん する」 と 叫ぶ。 何處 かで 聞嚼 つて 

來た 唱歌の ひとくさりに、 ごめんください 花 子さん とい ふの があって、 得意に なって 繰 返す から 

親馬鹿 も聲を 合せて うた ふと 「違 ふ、 花 子さん でない。 優藏 しゃ まだ」 とい ふ。 そんなら、 さう し 

ようと、 ごめんください 優藏 さんとうた ふと ー優藏 しゃんで ない。 花 子さん だ」 いふ。 花 子さん 

といへば 優藏 しゃ まだと いひ、 優藏 さんと いへば 花 子さん だとい ひ 張って さいげんが 無い。 それ 

程 まがった 旋毛 もい つか 眞 中に を さまって、 親と 子が い つし よに うた ふ 時 こそ 親馬鹿の しあ はせ 

で あ る 。 

雀、 雀け ふ もまた 

暗い みちをた ひとり 

林の 奥の 竹 藪の 

寂しい おうちに かへ るの か 



370 



ねの 鹿 馬 親!^ 



斯うい ふ 風に、 こどもの 相手をして 親馬鹿の 限り を盡 して ゐる 時、 私 は a 々亡父 をお も ひ 出す。 

八 男 四 女の 父と して、 亡父 は 曾て 親馬鹿の 態 を 見せた 事が 無かった。 極端に 鉦 マロで、 我 子と も 口 

をき く 事 は 稀だった から、 まして 況ゃ 馬に なり、 犬に なり、 河馬になる が 如き 事 は 到底 出來 なか 

つた。 生来の 氣むづ かし さ を、 自制す る 事で 一 生 闘った やう、 な 父に は、 親馬鹿の 味 はわから たか 

つた か、 或は わかって ゐて も敢て 行ふ氣 持に なれなかった ので あらう。 父の 性格の 不幸だった 事 

をお も ふと 共に その 父に 心配 を かけ 通した 自分 を、 今にな つて 遣 瀬な く考 へる ので ある。 , 

そんな 事が おや ぢの 胸に 去来して ゐ ると は 知る よし もない 優藏 は、 或 時 膝の 上に 乘 つてお ゃぢ 

の顏を つくづく 見て ゐ たが、 「お 父ち やまの 顏、 きたない 顏 ねえ。 どうしたの」 としん そこから 汚 

. ハンケ チ 

なさ を 痛感した やうな 聲を發 した。 不覺 にも 私 は、 半 巾で 自分の 顏を 拭いた が、 それ は 墨が つい 

てゐ るので もな く、 泥が ついて ゐ るので もない。 老いた る 父の、 皺の 多い、 髯の 密生した、 しみ 

だらけの 顏が、 こどもの 目に は r„il 々しく 映 じたので あった。 私 は 苦笑して、 傍の 妻 を かへ りみ る 

と、 愚妻 は 半分 は 痛快 だが、 半分 は 嬉しくな さ k うな 顔つきで、 これ も 苦笑 ひの 外に 手 を 知らな 

かった。 (昭和 八 年 十月 五日) 

. I 「一一 一田 文學」 昭和 八 年 十 一 月號 



371 



根 a くらべ 



^和 八 年 十月 十八 nn の 時事 新報に 「父と 子の 入れ 替り」 とい ふ漫畫 入の 噂 話が 出た。 

宇 野 信 夫と いつ て も 知つ て ゐる人 は あまり あるまい。 苦節 何年になる か. しろ 長い 劇作の 

隱忍 時代から、 いつまで 經 つても 浮ばれなかった 人で ある。 . 

とい ふかき だしで、 新 潟に ゐる 父親が リヨ ヒ ォクッ タス グカ へ レ とたび, \ 催促した あげく、 

勘當の 代りに 禁足した ところへ、 築地 座から 電報で、 戲曲 「ひと 夜」 を 上演した いとい ふ 申 いれが 

あり、 しかも 師匠 久保田 万太郞 氏が 演出 を 引受, けたから、 息子よりも おや ぢの 方が 夢中に なり、 

卽刻 息子 を 引 つれて 上京し、 目下 毎日 息子よりも 先にお ゃぢが 稽古場へ 顏を だして は、 久保田 氏 

に 叱られて ゐ ると いふので ある。 漫畫の 方 は、 久保 田さん のつ もりら しい 肥った 人物の 前に、 頭 

を かいて ゐ るの か顏を かくして ゐる のか、 おや ぢに違 ひ 無い 人間が、 いづれ も 極めて 拙劣な 筆致 



372 



ベら く 氣根 



で 描い て ある。 

宇 野 信 夫君 は、 全く 長い間 勉強 をつ > けながら、 認められない 人であった。 それ はたし かに そ 

の 通り だが、 その外の 事 は 例によって 出騰 目な 揑造 であり、 現在 父親 は 埼玉縣 熊 谷に ゐる。 新 潟 

は 姉の 嫁入 先 だ。 今度 「ひと 夜」 が 上演され る 事 は、 もとより 宇 野 君 一家の 喜びに 相違ない が、 父 

親が 息子 を 引 つれて 上京した とか、 毎ョ 稽古場に 顏を だして 叱られて ゐる などと いふの は、 大嘘 

である。 凡そ この種の^ 話 は、 面白さの ために は どこ 迄もう そっぱち を 書く のが あたり まへの や 

うに 思 はれて ゐる。 ついでに いへば、 久保 田さん は 宇 野 君の 師匠で はなく、 彼に は 寧ろ つれない 

先輩だった。 

宇 君が いっから、 いは ゆる 苦節 何年の 勉強 を はじめた のか 知らないが、 私のと ころへ くる や 

うにな つてから でも、 旣に數 年は經 つ。 最初 は 突然 戯曲の 原稿 を 送って 來 たので ある。 當 代に は 

珍しく、 半紙に 毛筆で, 一字 一 甸も書 損じの ない 見事な もので、 無類の 悪筆に 惱んで ゐる私 は、 

それ を 手に して 驚歎した。 謓ん でみ ると、 江戶 末期の 芝居 か 草双紙の 流れ をく む もの、 如く、 一 

見 甚だしく 現代ば なれの した ものだった。 しかし 私に は相當 面白く 思 はれた ので、 たしか 鶴屋南 

北の 戲曲ゃ 月岡芳 年の 錦緣 に比べて 批評した や-つに 記憶す る。 直に、 彼 は 別の 原稿 を 持って 來た。 



373 



驚いた 事に は * この 能書 家が、 惡筆ぞ ろ ひの 慶應義塾の 學 生で、 國文學 を 修めて ゐ ると いふの だ 

つた。 東京の 下町の 息子に よく ある 刑 +: で、 無意味に はづ かしがったり、 てれた 風 をしたり、 頭 を 

かいたり、 叮嚀に かしこまって ゐ るかと 思 ふと 突然 卷舌 になったり、 どこから 見ても 近代の 學生 

型から かけはなれた 人物だった。 私 は、 こ い つ H ンコ の 與太者で はない かと 疑った。 . 

初對 面の その 翌日 だと 思 ふが、 朝早く 叉 やって 來た。 私 はっとめ の ある 體 なので、 玄關で 用 を 

濟 ませたい とい ふと、 昨晚 はありが たう ございました、 これ はつ まらない 物です がと いって、 ふ 

ろ 敷 を 解き、 紙に 包んだ 場の 形 をした もの を 差 出した。 私 は、 物品の 贈答 は 面倒で 大嫌 ひだから 

貰 ひたくな いとい ふと、 い、 えう ちで 出來 たもので すから といって、 無理に 置いて 行った。 あけ 

てみ ると ジョ ニイ- ゥォォ 力 ァ赤標 一 本が あら はれた。 ゥヰス キイ をう ちで つくる 奴が ある もの 

かと 家人と 共に 笑った が、 何 かさう した 出 まかせ も 多分に 持 合せて ゐる らしく、 愈々 與太者の 疑 

を 深く した。 それ以来のお なじみで、 度々 遊びに 來る やうに なり、 來る時 はきつ と 原稿 を 持って 

来た。 

彼に は 書きた めた 戯曲が 澤山 あるら しかった。 淺草界 暖から 隅 田 川 へ かけての 風景 をと り 入れ 

たり、 田舍 のお 寺 を舞臺 にしたり して、 おくみお とせと いった やうな 型の 娘 をまづ 登場 させ、 そ 



374 



ベら く 氣根 



こに 直 助 權兵衞 や 髮結新 三と つきあ ひの ありさうな やくざが あら はれ、 かど はかし だと か 手 込 だ. 

とかい ふ 場面が 展開され、 無殘に 虐げる 事に 深い 與味を 持って ゐる やうに 見えた。 どこかに 江戸 

讚美 論 を髙唱 された 頃の 永 井 荷 風 先生 や、 嗜虐性 ゃ變態 性慾に 創作の 基調 を 置いた 時代の 谷 崎 潤 

一郎 氏の 影響もう か、 く はれ、 淺草 附近の 市民生活の 寫生 劇に は、 久保 田さん になら ふところ も あ 

る やうだった。 その 事 を 本人に 話す と、 實は 最初 久保 田さん のと ころへ 原稿 を 送って 見て もら は 

うとした が、 相手に して くれなかった とい ふの だった。 久保 田さん に 逢った 時 その 事 を 話したら, 

あ、 あの 筆で 書いた 原稿 かと、 それだけ は覺 えて ゐ たが、 作品に は 全然 感服し ない もの、 やう だ 

つた。 

私の 所に は 若い 文學者 志望の 學 生が 多勢 來 るが、 その 人達と 比べて、 宇 野 君 は 何等 共通の もの. 

を 持って ゐ ない。 物腰、 態度、 趣味、 嗜好、 何から 何 迄 右と 左 だ。 試みに 外國の 作家の 話 をして 

も、 殆んど 何の 知識 も 無い やうに 見える。 わざと 知らない ふり をして ゐる のかと も 疑 はれた が、 

更に 明治時代の 我國の 大家の 作品 を 話題に しても、 これ また 何も 知らない らしい。 いったい 君 は 

どうい ふ 作品が 好きな のかと 聞く と、 西 鶴 や 南北 は 大分 讀 みました と 答へ た。 突 込んで 聞いて 見 

ると、 近代の 文 學には あまり 興味 を 持た す、 德川 期の もの、 方が 心 を 引く らレく * 談偶々 落語 講 



375 



釋に 及ぶ と, 待って ましたと ばかり 活氣 づき、 完全に 卷舌 になって、 藤蓄を 傾けた」 口 を 開けば 

プル ウス トを 論じ、 ジ イドの 言葉 を 引用す る 人々 と、 一致す る 害が 無い ので ある。 

ためしに 彼の 毛筆で 書いた 奇麗な 原稿 を、 甲乙丙丁に 讀 ませようと つとめた が、 いづれ も その 

原稿の 外形に あら はれて ゐる 時代の 古さに 辟易して、 手に 取る 事を肯 じない。 たまに 二三 枚め く 

つて 見て ゐ るかと 思 ふと、 忽ち 放り だして、 斯う 假名 を 崩されて は 僕達に は讀 めません よと 苦笑 

する。 私 は 自分の 認める 宇 野 君の 特徴 をまづ 述べて、 「三 田 文學」 の 編輯 者に?^ 載 を依賴 し、 今日 

迄に 二つ か 三つ は 印刷に なった が、 いづれ も 編輯 者の 歡迎 する もので は 無かった。 私に 對 する 義 

理 に過ぎないの である。 あ 、あの 筆で 書いた 原稿です か 11 これが 同人 間の 宇 野 君の 作に 言及す 

る 時の 表現と なった。 言葉の 意味に は價値 判斷は 無い が、 その 言葉 を 口にする 時の 態度、 語調に 

は • 輕 蔑す るか、 迷惑が るか、 いづれ かひと つ を 明示す るので ある。 

しかし、 宇 野 君の 原稿で 毛 嫌され るの は、 た に その 毛筆、 半紙、 變體 假名の 爲 ばかりで は 無 

い。 作 中に 出て くる 人物が 當 代の 好みに 緣遠 いので ある" こ 、に は 近代 靑年 文士の 好んで 取极ふ 

種類の 人間、 たと へば ダン サァ、 女給、 有閑マダム、 女學 生、 ス ポオ ッ マン、 會 社員、 勞働 運動 

者, 畫家、 詩人、 小說 家な ど は 出て 來 ない。 その か はりに、 人力車 夫、 行者、 香具師、 錢? IS の 主 



37^ 



ベら く 氣根 



<, 映畫 館の 下足番、 三味線 ひき、 お 店 もの、 女郎 あがり、 だいこく、 といった 連中が あら はれ 

る。 それ を 戯曲の 第一 頁に 見出す 時、 早く もうん ざり してし まふ 若人が 多い ので ある。 

いつの 間に か 學校は 卒業した が、 いつ 迄經 つても 原稿 はすら すらと 活字になる に 至らない。 大 

學 校まで 卒業して 遊んで ゐ てはいけ ない とい ふので、 父親の 投資した 丸 之 內の赤 煉瓦の 建物の 地 

下 室の 食堂の 帳場に 坐った 事 も あるが、 もちろん 失敗し、 何とかい ふ 大衆 向 娯樂雜 誌の 編輯 局員 

にもな つたが、 雜誌 社が インチキで 月給 も くれない、 八方 ふさがりの ていたらくだった が、 その 

間い つも 感心 させられ るの は實に 書く ことが 好きな の だ。 こんなの は 駄目 だとい つ て 突 返す と、 

二度で も 三度で も 書 直して くる。 こっちが 怠けて 讀 まないで ゐ ると、 忽ち 五つ 六つの 戯曲が 私の 

机邊に 積まれて ゐる。 うまい まづ いは 別と して、 彼程 制作 を樂 み、 玉 を 磨く やうに 自分の 作品 を 

いつくしんで ゐる人 は 少ない。 私 は その 熟 心に 同情し、 何とかして 世に だしたい と 思 ひ、 若いて 

あ ひに はいくら 勸 めても 駄目 だから、 年寄の 方に 目 をつ けて、 久保 田さん に 賴んで 見た" 同じく 

淺 草に 材 をと り、 これ も 今時の の 中の はなばなしい 表面に は 出て 来ない 人間 を 手がける の だか 

ら、 多少の なさけ は ある だら うと あてに したが、 いけなかった。 あれ は 駄目です よと 一蹴され て 

しまった。 この 感傷 詩人に とって は、 宇 野 君の 陰傪 にして や、 きたならしい 感じの する 戯曲が、 



377 



かん 

」 せに さはる もの 、やう に 見えた し 

そこで 八 r 度 は 手 を かへ て、 「三 田 文學」 以外 Gn^ 誌 を 目 ざし 「劇と 評論」 に 掲載 方 を 依頼した。 こ 

の雜 誌の 連中 は、 新ら しがった 事 をい ふけれ ども、 根 は 古い 敎 養に 培 はれた 風が あるから、 密か 

にたの むと ころが あつたが、 この 方 も 何時 迄 待っても 握りつぶ しだ。 どうで せう、 あの Ig 稿 はい 

けません かと、 腌 物にさ はる 氣 持で 催促して みると、 あ、 あの 筆で 書いた 芝居です か、 あれ は讀 

みにくい のでつ い 見る 氣 になり ません、 と 極めて はかない 返事だった。 

手 も 足 も 出ない ので、 私も^ を 投げ、 甚だす まない 事 だが、 宇 野 君が 原稿 を 持って くると、 思 

はす 舌う ち をす る氣 にさへ なった。 私 は 彼が あく 迄 も 戯曲の 活字に &る事 を 希望す るなら ば、 ま 

づ 明治 大正 昭和の 我國の 作家の 小 說を讀 み、 西洋 諸國の 近代 小說を 勉強して みろ と勸 めた。 あま 

り に當 代と かけはなれた 彼の 教養で は、 今日の ジャ アナ リズムに 迎 へ られる 事 は 望めな いからで 

ある。 それ はい、 が、 こ X に を かし いのは、 それと 同時に 今後 原稿 は、 半紙に 毛筆で 書く 事 を や 

めて、 普通 原稿紙と 呼ばれる ものに、 ぺ ンと インキ を 用ゐて 書く 事 を 希望した。 白い §1 は黑ぃ 鴉. 

より 美しく とも、 仲間 はづれ になる 事 を 免れない から、 せめて は 羽の 色 だけで も 同じに させよう r 

とい ふ 老婆心だった。 



ベ ら !、 氣根 



宇 野 君 は 素直に この 勸吿を いれ、 圖書 館に 通って 讀 書し、 ペンと インキ を もって 書く やうに な. 

つた 。次第に 彼の 作風 も變 り、 今日 この頃 は、 直 助 權兵衞 の 徒輩 は 出現し なくなり、 f 界は 現代 

日本に なり 切った が、 しかし 彼が 好んで つかんで 來る 市井の 悲喜劇 は、 常に 陋巷の 無學 文盲の 連 

中 か、 野心 も贅澤 もな く 小體に 暮らして ゐる 小市民の、 あと 十 年も經 てば 完全に さう い ふ 型 の 人 

間 はなくな りさうな 人々 である。 

そこ で 不幸に してせ にあち はれない 宇 野 君の 戯曲の 特徵を かい つまんで あげる と、 時代 は 現代 

に 違 ひない が、 丸 之. や 銀座の 代表す る 新興 現代で はなく、 さう いふ 新 勢力に 壓 倒されて 亡び ゆ 

く 前 時代の 名殘 であり、 場所 は 多く は淺 草の 裏手の 方の 路地の 奥で、 人物 は 無智で 呑氣 であると 

同時に 一面 わるものの 根性 も 持ち、 助平で も あり、 おしなべて 道 德觀が 乏しく、 久保 田さん の 描 

く 小市民 程 義理 人情に 拘泥せ す、 もっと 卑俗 下賤で ある。 つまり 社會の 最下 層の 人生に、 かなり 

鋭い 眼 を 向けて ゐ るので あるが、 あまりに 希望 も 野心 も 憧憬 もない 階級な ので、 明日に 夢 を 持つ 

人に は、 これが 今の せの 事と はお も はれない 程む かしの 事の やうな 印象 を與 へる。 彼 はこの 濕地 

に うごめく 人々 に對 し、 義憤 も發 しなければ 同情 も 示さす、 あく 迄 も 突 放して 書き、 時には 悲劇 

を 悲劇ら しく 見せす、 わざと そらつ とぼけた やうな 態度で 臨む 事 も ある。 



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^の 中なん てこん な もの だぞ、 どうに もなる もの かとい ふ 虚無 思想もう かぐ はれる し、 苦しん 

でゐる 人々 の 姿態の 中に、 嗜虐性の 滿足を 感じて ゐ るので はない かと 思 はれる 節 も ある。 從 つて、 

彼の 未發 表の 作品の 中には、 陰慘な 人生の どん底の 影の 濃く 漂 ふ ものが 多い。 しかし 一面に は 江 

戶兒の 機智と 諧謔 を 持って ゐて、 裏長屋の 人生に も、 たくまない を かし さの ある 事 を 見逃さない リ 

今日 迄の 所、 比較的 評判の 惡 くないの は、 この 傾向の 物の やうで、 今度の 「ひと 夜」 の 如き も、 陰 

惨の 味に 別れて、 を かし さの 明るさに 移らん とする 作者の 一面 を 見せた もので、 或は その 點が, 

築地 座の 好みに かなった のか もしれ ない。 - , 

うまみち 

場所 は 例によって 淺 草で、 馬 道邊の 路地の 奥と 指定して ある。 登場人物 は、 日蓮 宗の 行者、 錢 

,湯の 主人 (元は 浪花節 語り)、 映畫 館の 下足番、 映畫 館の 三味線 ひき、 三味線 ひきの 女房 (元は 牛 

屋の ねえさん) の 僅に 五 人 だ。 その 五 人の 生涯に とって、 恐らく は 何等 重 耍な關 係の ない 夏の 一 

夜の か、 り あ ひ を、 寫實 風に 取扱った 味の 輕ぃ戲 曲で ある。 決して 宇 野 君の 代表作で もな く、 力 

作で もない。 寧ろ 氣樂 な氣 持で 書いた ところに、 淡い 味が あると 見るべき ものである。 この 戯曲 

も、 私の 手許に 送り届けられた 數十篇 の 中の ひとつで、 重量 は 乏しい が 無難の 作と 認め 「三 田 文 

學 一の 編輯 者に 依賴 して 置いた ので、 近く 掲載の 運びと なって ゐた。 ところが 本人に して みれば * 



380 



ベら く 氣 ffi 



いつも 落第の 不運に 遭遇し つけて ゐ るので, どうせ 今度 も 駄目 だら うと 見切 をつ け、 同じ もの を 

「劇と 評論-に 投書し、 それが 珍しく 祙 用され たばかりで なく、 築地 座の 座頭 友 田恭助 氏と * 同座 

の文藝 部員と もい ふべ き 劇評 家大江 良太郞 氏の 御 眼鏡に かな ひ 上演と 決し、 同座の 顧問 格の 久保 

田さん が 演出 を 引受ける 事に な つ た。 

この 話 をき い た 時、 私 は久保 田さん にむ かって 宇 野 君の 作品と して 「ひ と 夜」 は 決し て 上 乘のも 

ので はなく、 あの 程度の ものなら 十 位 あると いふと、 い、 ぇ大江 君の 話で は、 今迄 發 表された も 

の は皆駄 ほで、 今度の だけが い、 の ださう だとい つてき かなかった。 果して 大江君 は 今迄の 宇 野 

君の 作品 を讀 んでゐ るか どうか、 いさ、 か 疑 はしく 思 ふので ある。 しかし、 本人の 喜び は 非常な 

もの だし、 私と しても 長い間 浮び 上らなかった 此 人の 作品が、 脚光 を 浴びる 事に なった の は 何よ 

りうれ しい。 來る 原稿 も來る 原稿 もい たづら に 返送す るば かりで, 乂來 たかと 眉 を ひそめた 私が、 

これで も かこれ でも かと, ひたおしに おして 來た宇 野 君に、 根氣 比べで 負けた やうな 感じが する。 

「ひと 夜.」 は 傑作で も 力作で もない が、 この 書く 事の 好きな、 ねばり 強い 作者 は 今度の 上演 を 機と 

して、 やう やく 世に あら はれ、 將來 もっとい い 仕事 をし あげる であらう。 (昭和 八 年 十月 二十 一 日) 

—— 「東京 朝日 新聞」 昭和 八 年 十月 二十 八日 • 二十 九日 . 三十 HI . 三十 一 rn 



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「三 田 文學, 一 編輯 委員 隱 居の 辭 



私 は、 今度 「三 田 文學」 の 編輯 委員 を辭 する 決心 をした。 他人に と つ て は 可で もな い 事で あるが、 

. ^に は 感慨 深く、 おも ひ は 筆紙に 盡し 難い。 . , , 

私の はなやか ならぬ 文筆 生活 も 一 一十 二 年の 久しき に 及んだ が 「三 田 文學」 は その 搖籃 であり、 苗 

床で あり、 母の 懐であった。 明治 四十 四 年の 春、 處女作 「山の手の 子」 を、 當 時の 主幹 永 井 荷 風 先 

生に 見て 1 き、 掲載 を 許された のが はじまりで、 大正 五 年澤木 四方 吉 氏が 主幹と なつてから は、 

殆んど 毎月 休みな き、 一番 熱心なる 投書家と なった。 いちど、 大正 十四 年に 此の 雜誌は 取 つぶさ 

れ たが、 同人の 協力で 翌年 復活し,、 爾来 私 は 一箇月 も缺 かさす 書きつ け、 同時に 雜用も 引受け 

て 今日に 及んだ。 

かへ り みれば、 私の 文筆 生活 は 「三 田 文學」 のお かげで 芽 を 吹いた ので、 これが. かったならば、 



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齢の 虜隱 員委輯 編し 學文田 三"^ 



生涯 か、 はりの 無い 事だった やうに 思 はれる。 私 は 自分の 才能の 乏し さ を 知悉して ゐ るので、 進 

んで 文士た らんと する こ 、ろざし を 持たなかった。 若 も 「三 田 文學」 創業 時代の 嵐が 身邊に 起ら な 

かったならば、 私に は 創作の 筆 を 執る 機會は 遂に 惠 まれなかった であらう。 全く 人の 一 生 は、 思 

ひも かけない めぐりあ はせ に 支配され る ものである。 

怖々 永 井先 生の 御手 許に 差 出した 「山の手の 子」 が、 意外に も 世間 受が よかった ので、 私の かど 

では 幸運だった が、 自分自身に は その 好評に 何等の 根據が 無い やうに 思 はれ、 ざ; かの 自信 も 持て 

なかった。 そ 0. 上當時 は、 歐羅 巴大戰 後の 文壇 好景氣 時代と は 違って、 文學 では 飯の 喻 へない の 

が あたり まへ だった から、 私 は 勤 人と なって、 所謂 二重生活の 道 をえ らんだ。 斯く する 事が、 却 

て 自分の 文學 をけ がさす に濟む 賢い 方法 だと 考 へたので ある。 私 は 勤 人と しても 鈍根 を 免れな か 

つたが、 決して 怠惰で は 無かった。 だから 自分で は、 文 學の爲 に 勤の 邪魔 をされ たと は 思 はす、 

叉 人並 以上に 精力 はつ いたから、 勤の 爲に 文學が 邪魔され たと も 思はなかった。 勿論 時間の 乏 

しさ は 常に かこちつ けたが、 その か はりに 心に もない 無理 を して 筆で 稼ぐ 苦痛 は 受けす に濟ん 

だ。 私が 「三 田 文學」 の爲 に、 永年た 奉公 をす る 事の 出来た の も、 二重生活の 賜であった。 萬 一 

筆で 1& ふ氣 だったら、 私と 雖も 此の 雜 誌の 爲に無 報酬で 働く 事 は 出来なかった に 違 ひ 無い。 その 



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ム思 味で、 學 校が 力を入れ たくな つてからの 「三 田 文學」 にと つて、 私の 如き 型破りの 人間の ゐた事 

は - f 思議な 缘と もい ふべ き である。 

そもそも 「三 田 文學」 復活 運動の 起った 時、 同人の 多く は、 傳統 にした が ひ、 結束 力 を 強め、 且 

責任 を 明かに する 爲に、 主幹 を 置く 方が よいと いふ 意見で、 年長の 故に 私が その 候補者に 推され 

た。 しかし 學校當 局 は、 敎 職員に あらざる もの は 不可な りと いふ 理由で 許可し なかった。 久保田 

R 太 郞氏は 此のい きさつ を 三 田 山上の 大ホ オルで 報告し、 私 を 呼ぶ に 精神的 主幹 を もってした。 

止む を 得す、 吾々 は 形式と して 委員 制度 を 採用し、 石 井 誠、 井汲 淸治、 西脇顺 三郞、 横 山 重、 南 

部 修太郞 、久保 田 万 太郞、 小島 政 ニ郞、 水木 京 太、 水上 瀧 太 郞の名 を 並べ、 曰 常 編輯 その他の 事 

務を 取扱 ふ 人と して は 勝 木淸ー 郞氏 をえ らんだ。 委員 は雜 誌の 出る 迄 は厦々 會 合し、 いかに すれ 

ば經濟 がた つか を 主として 論じ 合った。 或 人の 如き は、 雜誌を 背負って 街頭で 賫 らうと 叫んだ。 

私共 は 先輩 を 訪問して 寄附 金 をせ びり、 廣吿の 掲載 を勸 誘し、 又 三田關 係の人 達 や 親戚 友人に 前 

金購讀 者と なって 貰 ふ 事 を 再三 依頼した。 「精神的 主榦」 は、 何よりも 物質 上の 心配に 一 番頭 を惱 

ました。 當時 私の 友人の 中には、 私が 何 か 言 はう とすると、 又 rn 一田 文學」 の 話 かと 先手 をう つて 

笑 ふ 者 さへ あった。 



384 



辭の居 li 員 * 輯編 'は タ、 • 田 三"! 



表面 は 委員 制度 だけれ ど、 忙しい 人間が 年中 寄 合つ-て も ゐられ ないし、 同人 間の 諒解 もお のづ 

から 私 を 中心とす るの をい、 事に して、 學校當 局の 認めない 私が 勝手に 事 を 運び、 幸 ひに 大過な 

かった ばかりでなく、 今日の 隆昌 を 見る に 至った の は、 實は 編輯 事務 擔當 者の 功績で ある。 この 

點で 「三 田 文學」 は 非常に 惠 まれて 來た。 我儘で、 自主 共同の 精神に 乏しい 文學靑 年に、 のべつ 無 

理解な 悪口 をい はれながら、 割の 悪い 仕事 を 一身に 引受けて 來た 人々 のお かげで、 この 雜誌 は存 

續し、 次第に 基礎 を 固めた ので ある。 私は歷 代の 編輯 擔當 者、 勝本淸 一郎平 松 幹 夫 和 木 淸三郞 三 

氏に 對し、 あらためて 感謝の 意 を 表し 度い。 

全く, 復活 當 初の 「三 田 文學」 は、. どの 方面から も 相手に されす、 默 殺され 勝だった。 殊に 吾々 

は、 此の 雑誌 を 主として 同窓の 後進の 爲の 道場と し 度い と 思って ゐ るのに、 かんじんの 其の 人達 

の 中には、 * 間で うた ひ はやさない 張 合 ひな さから、 先づ輕 蔑の 眼 を もって 見る 傾向が 強かった。 

恰も うすっぺらな 同人雑誌の 装 出し はじめた 頃だった から、 或る 利口 さうな 學 生の 如き は、 自分 

達の 抱負 を 語り、 今更 ニニ 田 文學」 なんか を 復活 させた からって、 吾々 若い者 は 相手に しゃ あしま 

せんよ と、 私共の 愚 さ を 嘲笑した。 當時 はなやかな 夢 をいだ いて ゐた 若人 達 は、 その後 どうな つ 

たか 知らないが、 苦節 幾年と いふの か、 今日の 「三 田 文學」 は 純 文學雜 誌と して、 やう やく 廣く認 



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めら れる やうに な つ た。 

もう 大丈夫、 よくも こ 迄 持ち こたへ て來 たもの だと 思 ふ 安心と 同時に、 私 は 自分が 非常に 疲 

れてゐ るの を はっきり 知った。 勤 人と しての 私 も 一年々々 忙し さを增 し、 殊に 最近 は 地方へ 出張 

を 命ぜられる 事が 多い ので、 每月雜 誌へ 寄稿す るの が苦勞 になって 來た。 何も 毎月 書く に は あた 

ら ないで はない かとい はれ、 ば 正に その 通り だが、 私が 「三 田 文學」 の 前金 購讀者 を勸說 し、 先輩. 

に 援助 を 求める 時、 毎 號必す 書く 事 を 誓った ので ある。 よく 考へ て みれば 無意味な 約束で あるが、 

私の 心 持 は 之を果 さないで は濟 まなかった。 手前勝手に 考へ れば、 斯うい ふ 強情が 經營 難の 「三 

田 文學」 を 今日 迄存繽 させた の だとい へない 事 も 無い やうで ある。 

それが 年 一年と 無理に なり、 月々 苦痛が はげしく なって 來た。 どんな もので もい、 から ズ切 Q 

迄に 書く とい ふ 事 丈が 當 面の 目的み たやう になって、 おざなり 原稿ば かりつ 1^ き、 豫て 書き 度い 

と 思って ゐる 長い ものに は、 何時 迄た つても 手 をつ ける 事が-出 來 ない。 義理 を果 すと いふ だけで、 

樂んで 制作 をす る 熱 もなければ 餘裕 もない。 その上に、 雜誌を 廻っての 雜 用と 人事の 交渉が 一層 

私の 時間 を 喰 ひ、 責任感 を 脅かす。 原稿の 選擇は 主として 編輯 事務 擔當 者が 責任 を もって 行 ふの 

であるが、. いろいろの 關 係から、 抹 るか 採らぬ か 相談の 意味で、 私の 手許へ 退って 來 るの も 少な 



386 



^の 居隱 員委輯 編し 學文 w 三 1 



くな. い。 叉 事情 を 知らない 人 は、 一切の 仕事 を 私が やって ゐる ものと 誤解し、 直接 原稿 を 送って 

來 るの も澤山 ある。 それ を讀 み、 短評 を 添へ て 返送す る 役目 は隨 分つ らい。 就中 煩 はし いのは 身 

の 上 相談 だ。 金策、 就職、 戀愛 > 結婚 —— どれ もこれ も 出来る 事なら かなへ て やり 度い が、 大概 

は 心配 を 分 つ 丈で 力に な る 事が 出来ない。 「精神的 主幹」 も 層々 精神の 疲 勞に堪 へ 兼ね、 自分の 

「三 田 文學」 に對 する 仕事 は、 文學 ではなくて 人事で はない かと 疑 ふ 事 もあった。 

悲しい 事に は、 私の 肉體も 精神 も 著しく 年 をと り、 衰へ、 疲れ 易くな つた。 無理が きかな くな 

つた。 それ を自覺 して、 こいつ はう かう かして ゐられ ない ぞと、 深く 考 へる やうに なった。 元来 

私 は、 下手の横好きの そしり をまぬ かれない が、 文學が 好きで たまらな いの だ。 他人の 仕事に も 

卜 分 興味 を 持つ と共に、 自分の 仕事 も樂 みたい ので ある。 それが、 名 は文學 であって、 實は雜 用 

に過ぎない やうな 此の頃の 文學 生活 を、 何時 迄 もつ.. - けて ゐて は、 悔てか へらぬ 事に なり はしな 

いか,、 先づ rn 一田 文學」 の 雑務と 責任から 逃れて、 自由 氣 儘な 立場と なり、 追 ひか けられる 氣持を 

忘れて 制作に したが ひたいと、 切に 願 ふやう になった。 この 心 持 は、 この 二三 年絕 えす 私 を惱ま 

しつ-、、 けて 來 たが、 みだりに 口外し なかった。 今度 編輯 委員 隱 居の 決心 をした の は 甚だ 唐突の や 

うで ある けれども、 實 はながらく 肚 にあった 事な の だ。 深 寧なる 援助 を 賜った 方々 は、 私の、 レ持 



387 



を 御 諒察 下さ る 事と 信じる。 

■S ち 私が 編輯 ts^ 員を辭 する の は、 もっと 文學に 親しみた いとい ふ 心から 出た 事であって、 文學 

と 別れる 意味 は 毛頭ない。 叉 編輯 委員 はやめても r 三 田 文學」 と 手を切ら うとい ふので はない。 雜 

誌に 關 する 雜 用から 解放され、 責任者と しての 重荷 をお ろし、 もう 一度 昔に かへ つて、 投書家と 

して 迎 へて 貰 ひ 度い ので ある。 それが 私の 我儘な 希望で あると 同時に、 明日の 「三 田文學 一の 爲に 

もよ い 事 だと 思 ふ。 

私 は 同人 中の 年長者の 故に 「精神的 主幹, 一に 推された。 ところが、 雜 誌の 性質と して、 年々 若い 

同人が 殖え、 私と 多数の 人との 年齢の 距りは 次第に 遠くなる ばかりで ある。 こちらに は 何のへ だ 

て もない 氣持 でも、 時代の 差が、 年輪の 差が、 先方 をけ むった がらせる。 それが 雜 誌の 潑刺 たる 

飛躍 を は み、 精彩 をく もらせる 事 は當然 である。 私の 存在 は、 たしかに 雜 誌の 無事 を保證 し、 

輕 浮に 流る、 事 を 救った であらう が、 淸 新の 感じ を 奪った 事 も 疑たい。 「三 田 文學」 は 幾度 も 取つ 

ぶされ さう になった が、 同人の 頑張りで 動かし難い ものと なった。 たと へば、 その 根 を 張る 時代 

に、 私と いふ 人間が 必要であった といっても 差 支ないで あらう。 そして、 完全に その 任務 を果し 

たといっても 叱られ はしない であらう。 けれども、 旣に枝 は 伸び、 葉 はしげ り、 今後 は 花 をつ け、 



388 



辭の 居隱晨 '憂輯 編し 學文田 三 



I つ,。 皮し ヒも のこ は 休き 與へ、 野心と 霊に 燃 ゆる 若い 人 f ^ ^?. 

SUA f / もの; i?, はなやか ならぬ 私の 文 

努力すべき 時が 來 たの だ。 ひ:::; た U つ 私の 爲に後援を惜 まれなかった 方々 - 

筆生 舌の 最後に、 ひと 花 咬 かせて 見た > と 田し < つてね る ,^禾 ノ 

: ェ,£1^を笑ひへーロふな。 (昭和 八 年 十一月 六日) 

並に 同人 諸君よ、 私の ぎなる 夢 を 笑 ひ 1 な ー! 「一一 一田 文學」 昭和 八 年 十一 一月 號- 



389 



なか 4W ま屋 の. 酉 



友人 中島 芳男 君、 慶應義塾 英文科 を 優等に て 卒業しながら、 碌々 として 徒食し 居た ると ころ, 

この度 親の なさけに て、 八丁 堀に 立派な 店 を 構へ、 ついでにと いふの はどう かと 思 ふが、 美しい. 

お嫁さん ももた せて 贳ひ、 そろばん は 下手 だが、 酒 はうまい の を 飲ませる と、 健氣な 決心の 臉を. 

かため、 小賣と 酒場 を 開業 致し 候 間、 ぉ臺 所の 御用 は 申す 迄 もな く, 御 散 步の御 こやす みに、 

寸 いっぱい、 御た めし 被 下 度、 しらふに て 奉 願 上 候 r 昭和 九 年 一月 二十 八日) 

: 「なかぶ ま屋 廣告」 昭和 九 年 二 



39Q 



Bp- & 



鎌 田榮吉 先生 逝く。 

先生 は 慶應義塾の 大 先輩で、 私共の 恩師で あると 共に 慈父の 如くな つかしい 方で ありました 9 

先生が 多年 一世の 師表と して 仰がれ、 慶應義塾々 長と して、 貴族院 議員と して、 大臣と して、 榧 

密 顧問 官 として、 帝國敎 育會々 長と して、 國象社 會に盡 された 功績 は 今更 數へ あぐる 迄 もない 事 

であり ますが、 私共 は その外に、 慶應義塾に 學ん だお かげで、 先生の 如く 慈愛 深き 先輩に、 時に 

は ほめられ、 時には 叱られ、 一家 内の 者の 如く 敎へ 導かれた 樂 しさと かたじけな さ を、 生涯の し 

あはせ として、 いつ 迄 も 忘れ は 致しません。 先生 はお かくれに なりましても、 私共の 心の中に は 

^ 昨日の 儘に 生きて 居られ > 私共が 死んだ 後々 迄 も、 同窓の 後進の 人々 に、 义 私共の 子孫に 語りつ 

€ その 人々 の 胸の 中に 永遠に 生きて ゐ らっしゃる 事と 存じます。 



391 



慶應俱 樂部は 先生 を 顧 間に 頂き、 ■ 

は 極めて 少なく、 その 金額 

た i 非 I あ f l」uui 御 渡 下 lil が、 ii 

i 磨 i 薦 ilf ngdiiili し-先 

と 思 ひます。 (昭和 九 年 二月 八日) t 御 酉まず ました 厚き 御 志の 一端に 酬いたい 



I 「赛 翁供樂 部」 昭和 九 年 三., き 



9 



ふ を 生 先吉榮 



鎌 田榮吉 先生 を 憶 ふ 



管 先生のお かくれに なった の は、 gs 九 年 二月 五 曰の 夜であった。 風邪で 寢てゐ ると ころへ 

電話の しらせ i け、 愚妻 は 直に 御手 傳に 行く かと 促す やうに きいた が、 私 は 氣の張 を 失って、 

ろくに 返事 もしす、 又 i の 中へ もぐって しまった。 翌朝 御宅 S 問し、 心 甚だ 樂し I、 勤 先 

、出ても I お々 として ゐ ると、 慶 應俱樂 部から 電話で 召集 をう けた。 析惡く 重 耍會議 開催中だった 

ので 斷 つた。 その 晚纏 すると 再び 俱樂 部から 電話で、 鎌 田 先 生吿 別 式 當日 si ま 事と な 

つたが、 今 曰の 臨時 役員 食で、 あなたに 書いて ま 事に 評議 一決し ましたから よろしく 願 ひます 

とい ふ。 私 は どきん とした。 私 は弔辭 とい ふ ものが^ 常に 嫌 だ。 ぁゝ 悲しい かな II とい ふの を 

朗讀 される と、 怫も 浮ばれまい とい ふやうな はかない 氣が」 r るので ある。 S 駄 ほです、 弔辭向 

の 人間で 無い、 軟文學 の 徒に そんな 無理な 註文 を 出す 事 はない と 一生懸命で 斷 つたが、 今更 そん 



393 



な 事 をい はれて は 困る、 中 一 日し かないの だから、 他へ 交涉 する 暇が無い、 皆さん 一致で あなた 

に賴 むと きめた の だか ら 是非とも 承知し て 下さいと 云って 肯 かない。 いはれ てみ ると 先方の 困る 

の も 想像 出來 るので、 それで は、 どうせ 後で 非難され るに 違 ひ 無い が、 一切 私の 流儀で やります 

から 其のつ もりで ゐて 下さいと 念 を 押して 置いた。 

暮の 二十四日に 引 込んだ 風邪が こじれて、 熟が 出たり、 咳が 出たり、 痰が からんだ りして、 す 

つかり 氣カを 失 ひ、 勤の 外に は 外に も 出す、 本も讀 ます、 もの も 書かす、 出来るだけ 寢る やうに 

努めて ゐ たので、 久々 で 机に 向 ふと 勝手が 違って、 我家の 書 齋とは 思 はれなかった。 僅 原稿紙 二 

> . るし 

三枚の もの だが、 ひどく 苦んだ。 私 は 先生の 死 を 悼む おも ひに 於て は 誰に も 劣らない つもり だが- 

そのお も ひ を 述べ るの は 弔辭の 形式が 一 番 いけない。 殊に 弔 辭は之 を朗讀 する 風習が あるから、 

萬 一 そんな 事になる と 短く たくて はいけ ない。 柩の 前で 芝居が かった 姿勢 を 長々 と 曝して ゐ るの 

は 堪らない。 さう かとい つて 例の きまり 文句 を讀 上る の も氣羞 しいし、 あまり 自由な 形式に 流れ 

て も ふさ はしくない。 あ ゝ でもない 斯うで もない と 考へ迷 ふ あ ひま あ ひまに、 俱樂 部の 役員 達の 

中の 一言居士の 顏も おも ひ 出されて、 一層 苦勞 になる のであった。 - 

それでも どうにか 形 だけ はついた が、 われながら 實 にまづ い。 そのく せ、 それ を讀 返して ゐ る- 



394 



ふ惊を 生 先 W 榮 w 嫌 



うちに、 不覺 にも 涙が 出て 來て 止める 事が 出来ない。 文章 は 拙くても、 先生の 死 を 悼み、 殘 念に 

おも ふ 心 持が、 淚 腺を壓 迫して 容赦 しないの である。 これ はいけ ない、 若 も 式場で 朗讀 する 事に 

でもた ると, みっともない 泣 面 を さらしものに しなければ ならない。 どうしても 平 靜を失 ひ 度な 

いと 思 ひ、 今度 は ひそかに 聲を 出して 讀ん でみ ると、 愈々 淚は 止め 度な く 流れて 來た。 

もとより 私 は意氣 地な し だ。 屢々 人前で 不覺 の淚を 見せ はす るが、 此の 場合 鎌 田 先生で な か つ 

たら、 かほ ど 迄に 意氣 地な く はならなかった であらう。 私 は 先生に は 一方なら. ぬ 御せ 話に なって 

ゐ るが、 さう いふ 關係を 離れても、 今日の 日本から 先生 を 失 ふ 事が 實に惜 い。 殘り 少ない 一 生の. 

うちに、 再び 先生の やうな 風格の 人に 接し 得ようと は考 へられない。 まことに 二な き 人物で あつ 

た。 假に範 圍を狹 めて 慶應義塾 社中に 限り、 幅澤 先生 以後の 人物 は 誰で あるかと 問 ふなら ば、 誰 

しも 鎌 田 先生の 名 を あげて 答へ るに 違 ひ 無い。 それ 程 先生の 存在 は 大きかった。 

今 はなつ かしい 田 5, ひ 出で あるが、 私共 幼少の 頃 は、 福澤 先生に 直接 敎を 受けた 人々 は、 多く 一二 

田 を 中心として 住居して ゐた。 小幡 さんや 岡 本さん は 山上 塾. s: に 住み、 濱 野さん や 笠 原さん は稻 

荷 山の 下に 屏を つらねて ゐた。 私共 も 庭の 築山から 塾の 森 を 見る 位置に 住み、 その他 多くの 敎職 

鼠 も 近くに 家 を 構へ てゐ た。 三 田 は、 完全に 慶應義塾の 町であった。 當時鎌 田 先生 は- 川 ひとつ 



395 



向 ふの 麻布に 居られた やうに 記憶す る。 

私 は 父母、 叔父、 兄 達の 口から、 絕 えす 塾の 先輩の 噂 を 聞いて ゐた。 當時 世間で 三 田の 十哲な 

ど、 いひ はやした の は 誰々 の 事 か 知らないが、 小幡 さん も莊 田さん も草鄕 さん も 松 山さん も、 度 

々將棋 を さしに うちに 來た。 さう いふ 高名た 人々 に對 し、 父の 方が 香 一 枚 強いと いふ 事 を 知って 

ひそかに 得意に なった 事も覺 えて ゐる。 中 上 川さん、 朝 吹さん, 豊 川さん、 門 野さん とい ふやう 

な 名前 も 始終 耳に し、 殊に 朝 吹さん や 門 野さん の 輿さん は、 母のと ころへ 来られる ので、 よく 承 

知して ゐた。 しかし 鎌 田 先生の 名 は 私 は あまり 聞かなかった。 今にして おもへば、 鎌 田 先生 は始 

終 塾に 居られた わけで はなく、 地方の 學 校の 校長 をして 暫く 東京 をよ そに された 關係も あり、 私 

の 父と は 一寸 年齢 も 違 ひ, その上 鎌 田夫 人が あまり 外へ 出られない 方だった 事な ども、 その 原因 

として 數 へる 事が 出來る やうで ある。 少なくとも 私の 小學 時代に 於て、 私 は 塾の 偉い人の 中に 鎌 

田 先生 を 加へ てんなかった 事 はたし かで、 これから 見ても 先生 は 新時代の 三 田に 多く 關 係し、 影 

響した 方 だとお も ふので ある。 

私が 塾の 普通 部に 入った 時 は、 先生に 旣に 塾長だった。 福澤 先生 は 大患の 後で、 もはやよ ぼよ 

ぼして ゐ らっしゃ つたが、 矢 張總元 蹄に 違 ひない ので、 私共 は 塾長と いふ もの を、 後日の やうに 



39^ 



i 、'ほ: を 生 先 f^'^W 嫌 



偉い ものと は 思って ゐ なかった。 しかし. 福澤 先生 もお かくれに なり、 小幡 先生 もお かくれに な 

り、 門 野 先生 は 學校を 去って 實業 家と なられ、 鎌 田 先生 一人 三 田 山上に 並ぶ ものな き大 先生と な 

り、 その 全貌が はっきり あら はれて 來 ると、 次第に 先生の 偉 さが わかって 來た。 先生 は 自分の 偉 

さ を 認めさせる 爲に 強ゐて 努力 をしたり、 あせったり、 芝居 をしたり する やうな 方で ないから、 

嘵の 光が 次第に 闇を拂 ふやう に、 自然に 大らかに f にあら はれた。 

私 は 私共の 學んだ 頃の 慶應義塾が、 未だ 多分に 私塾の 風を存 して ゐた事 を 嬉しく 思 ふ。 先生の 

數も 少なく、 生徒の 數も 少なく、 大學と 普通 部と 合せて 一千に 足らざる 人數 だった から • 山上で 

顏を 合せる もの は 互に 其の 名 を 知って ゐた。 學 生が 狹ぃ 運動場で 野球 を やり、 庭球 を やって ゐる 

向 ふの 方で は、 長い 袂を ひるが へして 福澤 家の 令嬢が 自轉 車の 稽古 をしたり- 小幡 家の 令, 瞎が 

を ついたり して ゐる 風景 は、 極めて 長閑た ものであった。 殊に その 令嬸 達が 申合せた やうに 美し 

かった の も、 學生 どもの しあ はせ であった。 

その外に 米 人 敎授ヴ イツ カァス 氏の 一族 も、 ゆたかなる 色彩であった。 敎 授は秀 頭 瘦樞、 英國 

刑.^ の 紳士で、 混血 兒の 奥さんと、 仲よ く 腕 を 組んで 散步 したり、 雪の 日に は 夫婦で 雪 合戰を やつ 

たりして ゐ るむ つまし さ を、 私共は大謦新鮮な1^3?色に眺めた。 奥さん は 割合に 多產 で、 みごもる 



397 



と 時なら ぬ 時に も 薄い 外套 を 身に 纏った。 あ、 叉 妊娠した —! と 口さがない 學生 は、 夫人の 姿態 

の變 化に も 注意 を 怠らなかった。 その ヴ イツ カァ ス敎授 の 御宅の 隣が 今の 萬來舍 で、 最初 は福澤 

一太郎 氏が 住み、 大 先生 歿後 一太郎 氏が 本邸に 移られる と、 あとに 鎌 田 先生が 入った。 先生 は大 

型の 鳥 打 帽子 を 深く 前 のめりに かぶり、 偉大な 體 格に 似合 はない ふらふらした 足 取で、 袴の する 

つ こけさう なのに つま づき はしない かと あやぶまれる 形で 塾監 局の 煉瓦の 建物に 通 はれた。 何 か 

考 へて ゐる のか、 無念無想 なのか、 わきめ も ふらす、 しかし ふらふら 步 かれた が、 學 生が おじぎ 

をす ると、 相手の 顏も 見す、 衔子 もとらす 首 だけ 一寸うな づ いて、 义ふ らふ も 行って しま ふの だ 

つた。 : 

賴澤 先生 程の 人物の 後に 登場した の だから、 兎角 先人 をよ しとす る 迷信から いっても、 鎌 田 先 

生の 値う ち は 割引され るの が あたり まへ かもしれ ない が、 生 意 氣な學 生 共 は、 先生 は 不得要領で 

いけない など 上 M ひあった C 不得要領 は當 時の 流行語の 一 つで ある。 

たしか 私共が 未だ 普通 部に ゐた 頃、 塾, s: に 鎌 田 排斥 派が あつたと 聞いた。 排斥の 理由 は 無爲無 

能 だとい ふので、 嘘 か本當 か、 二三 少壯 の敎授 がー 部 評議員と 結んで 立った の だと "喷 された。 し 

かし、 何の 會議の 席 か、 その 洋行 歸の少 壯敎授 は、 激論の あげく、 鎌 田 先生に 襟が み をつ かまれ、 



398 



ふ 位 を 生 先 吉榮田 鎌 



.會 場外に つまみ- 31 され たとい ふ 評判が 一 切 を 解決した。 單純 無智なる 學生は 此の 武勇 傳を傳 へ 聞 

き、 不得要領の ふらふらの 塾長に か、 る 決斷と 力の ある 事 を 知って 非常に 偸 快に なり、 俄に 先 

生 を崇拜 する 心 持に なった。 

一年々々 と、 先生の 塾長と しての 實 力と 貫 祿は 認められ、 いつの 間に か 不得要領 など、 いふ 漫 

駕は 消え失せ、 全 塾の 學生、 全 卒業生の 信望 を檐 ひ、 慶應義塾の 發展 と共に、 先生の 輪郭 も 大き 

くな つた。 先生の 偉大 さは 海の 如く、 どんな 器 を 持って行っても 漫々 と湛 へて あまり ある 趣が あ 

つた。 どんな 偉い人で も、 六十 七十に なると、 その 能力 は發 揮し 盡 した 觀が あり、 その後に 多く 

を 望めない 氣の する ものであるが、 先生 丈 は あの 高齢に 達しても、 少しも 精祌的 動脈硬化の 症狀 

がな く、 機會 さへ あれば、 いくらでも 伸びて 見せる ぞと いふ 底力が あった。 先生 は 一 生涯、 自分 

の 偉 さ を 誇示しょう とした 事が 無く、 あせらす、 いらだ、 す、 ふらふらと 步む姿 その 儘で、 何の 

こだ はり もな く、 去る もの は 追 はす、 來る もの は 担ます、 呼吸の 切れた 事なん か 一度 もな しで、 

あそこ 迄の し 上って しまった。 先生 こそ は、 最も 犬なる 非凡の 凡人で ある。 

何事に もこ だはらない とい ふ 事 は 先生の 一大 特徵 である。 二十 五 年間 塾長 をして ゐる うち、 塾 

長の 社會的 地位 は 平 大臣 なぞの 及ばない ものと な つ てゐる 害な のに、 いったん 誘 はれる と 15 氣も 



399 



なく 去って 文部大臣 になって しまった。 世間に は大 臣 病と いふ 惡疾が あるが、 先生 は 大臣になる 

事 を 一生の 望みに したわけ でもな く、 大した 出 ぼと 思った ので もな く.' 子供が 新しい 玩具 を 喜ぶ 

位 の 氣持 で 引受け てし まった。 これが ざら にある 人間 だと、 自分 を 高く 買 はせ る爲に も 大臣 を獄 

飛ばし、 蹴飛ばした 事 を 自慢に したがる 所 だが、 先生 は 例によって 水の 低き に 流る、 が 如く 自然 

に、 古き を 捨て ^ 新しき についた。 福澤 先生 は 革命家 魂が 強く、 意氣の すさまじ さと 共に 芝居 氣 

も あり、 華族 を 斷る時 なぞ は、 待って ゐ ましたと いはんば かりの 意氣 がう か.. - はれる が、 鎌 田 先 

生 はくれ ると 云ったら 平然と 男爵に でも 子爵に でもな つたで あらう と 思 ふので ある。 心頭 を 滅却 

すれば 火 も 亦 涼し。 先生 は 誘 ふ 水に 誘 はれて 溺れす、 ふり か、 る 火の粉 を拂 はすして 傷つかす、 

しかも 坊主 臭いつ めたい 悟 顔がなくて、 誰 人 を も 懐に 抱く? J かさが あった。 塾長と して は 申 十 迄 

もな く, 貴族院 袋 員と して、 文部大臣 として、 樞密 顧問 官 として、 帝國敎 育會々 長と して、 何處 

に 行っても 並びなき 人と 認められ たが、 就中 交詢 社 理事長と して は、 先生の 後に 又 あるべし とも 

思 はれぬ 名 理事長で あつたの も、 この 風格の 爲 であった。 

お ほや-, 

先生 は 日本人ば なれした 體 格と、 みづ から 求める 事の ない 大様な 態度から 見て、 年少 血 氣の者 

には^-得要1^に昆ぇたかも知れなぃが、 實は 極めて 行 画いた 觀 察と 判 斷を藏 し、 又 咄嗟の 間に 機 



400 



ふ 愤を生 先吉榮 w 嫌 



智 諧謔 を 弄する 畳 かな 才能 を 持って 居られた。 その上 讀書を 怠らす、 交際 談笑の 間に 新 知識 を 吸 

收 して 自家 藥籠 中の ものと し、 常に 若々 しい 心 を 失はなかった。 その上に 明朗なる い たづら を 好 

む 童心 を 多分に 惠 まれて 居られた。 これが 交詢 社の やうな、 うるさい 人間の 集會 所で、 誰 一人に 

も 後 指 を さ、 れす、 親しまれ、 なつかし がられた 所以で ある。 一人の 敵 も 持たない とい ふ 人 を、 

私 は 鎌 田 先生の 外に 知らない。 

交詢 社に はいろ いろの 會が あるが、 先生 は どの 會 にも 顏を 出し、 おめす 臆せす 衆と 共に 樂 まれ 

た。 書の 會、 繪 の會、 和歌の 食、 俳句の 會、 漢詩の 會, どの 方面で も 柄に なく 感の よさ を 示され 

たやう である。 最も 驚くべき は、 近年 西洋 舞踏の 流行に つれて、 ダンスの 會の 牛耳 もとって 居ら 

れた。 深き 童心から 出る 彌次 馬氣分 は、 先生の 得意がり、 嬉しがる 事であった。 交詢 社 俳句 會の 

宗匠 格、 大場 白水 郞 氏の 談 によれば、 句會 席上 これ は 新しい と 思 ふ ものに、 蜃々. 先生の 句が あつ 

たさう だ。 型に はまらす、 自由に 遊ぶ 先生の 心境の 賜で あらう。 私の 家に 先生の 書かれた 一 軸が 

ある。 「大夢 出門 矣」 の 五 文字が 大書して あって、 何となく 先生の 犬なる 理想の 片影の やうな 氣が 

する の だが、 本當の 意味 はっかめ ない ので 來る人 毎に 聞いて みたけれ ど、 首 を 捻る ばかりで 埒が 

. あかない。 止む を 得す 先生に お たづね したと ころ 「タイ ム. ィズ • モ 二 ィ」 時 は 金な りさと、 さも 



401 



嬸 しさう に 笑 はれた。 かう いふ 種類の 洒落 は 自由自在に 頻發 し、 叉み づ から 非常に 樂 まれた。 

私が 今、 何よりも なつかしく おも ひ、 度々 人に きかせる 話が ある。 大正 二 年の 秋. 私 は 亞米利 

加 合衆國 マサ チュ セッ州 ケムブ リツ ヂの 下宿で、 紐 育三 田會 からの 電報 を うけとった。 明日 鎌 田 

先生が 行く から 出迎 へ よと いふの だった。 同じく 慶應義塾 を 出、 同じく ハ ァヴァ アドに 學 んでゐ 

た 川 崎 吉兵衞 さんと いっしょに、 ボストン 驛で待 受けた。 この 時の 先生の 用件 はヴ イツ 力 ァス敎 

授の 後任と して、 塾の 經濟學 部に 米 人 敎師を 雇 入れる 事であった。 たった 一 晚 しか ゐな. いと 云 は 

れ るので、 直に 大學に 案^し、 總長 ti ゥ H ルと經 濟學の 大家 タウ シッグ 敎授を 訪問され た。 この 

時 は、 たしか ホイ 卜 ナックと いふ 人が 選ばれて 日本へ 赴任した と覺 えて ゐる。 

用件 を濟 ませ、 ボストンに 引上げ、 支那 飯屋で 食事 をし、 先生の 發議で 寄席に 行った。. 當時 

米 利 加 は 未だ 禁酒 國 ではなかった が、 ケムブ リツ ヂは 例外の ドライ. タウンであった。 私共 は 地 

下鐵へ 避って ポスト ン へ 出る 外 は、 酒 を飮む 場所 を 持って ゐ なかった から、 たまに ポスト ン へ 行 

く 事 は 何よりの 樂 みだった。 行けば 必す 飲んだ。 したがって、 缣田 先生に くっついて ゐれば 一杯 

飮め ると 思 ふの は 當然の 事で ある。 吉兵衞 さんと 雖も 同様に 違 ひ 無い。 ところが 支那 飯屋で も 酒 

は 出す- いきなり チヤ ブス ィで 御^だ。 支那 料理 は 咽喉が 乾く から、 寄席に ゐる 閒は甚 しく 渴を 



402 



ふ 憶 を 生 先 吉榮田 嫌 



覺 えた。 咽喉の 乾く の は 偉い人 だって 同じた から、 戶 外へ 出る と 直に、 何か飮 まう と 先生の 方 か 

ら切 出された。 何か飮 まう といへば 少な.、 とも 麥 酒の 事と 解す るの は 私共の 常識で ある。 しめた 

と 思って 珈琲 店に 行く と、 先生 は 大きな 聲でゥ M イタ ァと 呼んだ。 給仕の 男が やって 來 ると、 麥 

酒と 云って 一寸 間 を 置き、 ひとつと つけ 加へ、 更に 珈琲と 切って、 二つと 註文され た。 いふ 迄 も 

なく 麥酒は 先生 自身の 爲で、 珈琲 は 吾,^ 兩 人に 下さった ので ある。 何を飮 むかと も, 何が 好き か 

ともき かすに、 いきなり 註文して 押つ けられた の だから、 役お の 違 ふ 私共に は、 ぐう もす う もた 

かった。 

その 晚 先生 を ホテルへ 送り込む と、 二人 は 直ぐ さま 近所の 酒場に 飛込んで, 麥酒 ふたつと 命じ- 

かちり と 合せて、 ぐっと 飮み 干す と、 互に 顏を 見合せ て、 偉い もの だな あ -! と 感嘆の 聲を發 し 

た。 (昭和 九 年 三月 十二 日) 

, ——「ー 一一 田 文學」 昭和 九 年 四月 號 



403 



■i.^ 郞」 立 見の 記 



三 宅 大輔君 は、 そのむ かし 慶應 野球部の 萬 能 選手で、 後に は その 監督と なり、 叉 徹底的 理論家 

として 著書 も あり、 斯道の 權威 であるが、 近頃 は 脚本 制作に 沒 頭し、 旣に その 第一集 も 出版され、 

つ 5. いて 集中の 一幕物 「雪女郎」 は、 歌舞伎 座の 檜 舞 臺で菊 五郞吉 右衛門に よって 上演され た。 三 

宅 君 は 今日 迄のと ころ、 野球の 三 宅で 知られて ゐ たもの だが、 弟の 三 郎君 は篤實 なる 劇評 家と し 

て 聞え、 妹の 悠紀 子さん は 新進の 劇作家と して 知られて ゐて、 今や この 三人き やう だい は、 廣ぃ 

意味に 於て、 同じ 道に こ、 ろざす 身と なった ので ある。 

私 は 三 宅 君の 幼少の 頃から 知って ゐて、 三き やう だい 夫々 直接 間接の 交渉が ある 爲、 大輔 君の 

著書 も 貰 ひ、 叉 「雪女郎, 一 上演に 際して は、 愚妻と 共に 招待 を うけもした。 ところが 暮の 二十四日 

から 引 込んだ 惡 性の 風邪が 何時 迄 もぬけで、 遠鎵 にあた る 醫師の 語 を かりれば、 萬 年 風邪に とり 



404 



記の 見 立し 郎女 雪つ 



つかれたの ださう で、 少しよ くな つたと 思って 外出す ると 又ぶ りか へし、 咳が 止ます、 痰が から 

み, 時には 微熱が あり、 惡 感を覺 え、 一月 二月 三月と 長引いて しまった。 その 間 約 一週間 は 暇 を 

貰って 完全に 寢て みたが、 別段 何のき、 め もな く、 その後 は晝は 勤に 通 ひ、 夜 は 早くから 床に 入 

つて 團を かぶって しまった。 風邪と はい ひながら、 三 箇月に も 及ぶ と、 からだ も疲勞 し、 氣カ 

も衰 へ、 殆ど 雜誌を 讀む事 もな く、 無爲の 夜長 を もてあました。 全く、 八 時 や 九 時から 床に 就い 

て は 夜中の たいくつに 堪 へられな いので ある。 私 はっく、、 つく 寢 あきて しまった。 それでも 時々、 , 

むに 止まれぬ 用事で 外出す ると、 不圖 した はすみ に 襟首に 風が あたり、 寒い なと 感じる と、 そ 

の晚 きっと 咳に 惱 まされた。 私 は 出来る 丈つ. き あ ひを斷 り、 深窓のお ゃぢ となって 風邪と 闘った。 

さう した 折 柄な ので、 脚本 集 も資ひ 放しで なかなか 讀 ます、 この 野球 理論家が どの やうな 戯曲 を 

書いた か、 それが どんな 舞 臺效果 を あげる か、 好意と 好奇心 は 充分 持ちながら、 さて 外に 出る 勇 

氣 がなくて、 折角のお 招も斷 つてし まった。 

私 は 近年 劇場に 足 を 踏 入れる 事が 稀に なった。 殊に 歌舞伎 劇 は、 時間の 長さと 劇場 內の 签氣が 

个愉; ^で、 たまに 勤務先のお つきあ ひで 出かけても、 中途で 逃 出す 程 辛抱が 出來 たくな つた。 自 

分から 進, なで 行く * なぞ は絕 無で ある。 だから、 たと へ 風邪で なくても 歌舞伎 # "へ 招かれる の は 



405 



苦痛で ある。 それに も 拘らす * 三 宅 君の 芝居 だけ は 見 度い 氣 持が あり、 見ないで は 氣が濟 まなか 

つた。 結局 私 は 風邪の ぶり かへ し を惧れ るのと、 時間の 惜 さから、 一幕 丈 立 見す る 事に きめた の 

である。 愚妻 も 誘って みたけれ ど、 この 方 は 世間の 女 並に、 一 曰 見て ゐても あきす、 二日つ...^ け 

て も ぶ 方 だから- 一幕 見 なぞ は眞平 だ、 どうせなら 同じ 日に、 一番 目から S して 見る と 云って 

ilH じない。 尤も、 先年 私の 妹で、 これ も 別段 芝居が 嫌 ひとい ふので はない が、 立 見 はした 事の な 

いのが、 その 亭主の もの 好きに そ、 のかされ、 その かみの 十二 階の 如く 登って 登りつ きない 感じ 

のす る 歌舞伎 座の 階段 をえん やら やっと 上って、 これが かねて 聞く 立 見場 かときよ ろき よろしな 

がら、 何處に 舞臺が あるの だら うと、 人々 の 頭 を 越して 遙 かの 向 ふ をの ぞいた とたんに、 腦 貧血 

を 起して へなへな とく づ ほれて しま ひ、 亭主に 助けられて 廊下に 出て、 長椅子の 上に 伸びた ま、、 

一幕 も 見す に 引返した のであって、 吾々 身內の 笑話に なって ゐ るが、 愚妻 も髙 いところ へ 上った 

り, 高い ところ を 見上げたり すると、 忽ちめ まひの 十る 賈 だから、 笑話 も 笑 事で なく、 笑 ふ 者 を 

憎んで 居る ので、 立 見と きいて お ぞけを ふるった。 

當日、 愚妻 は 早くから 勇んで 出て 行った が、 こっち は 悠然た る もので、 風邪のお まじな ひに 銀 

座で いつば いひつ かけ、 欹舞伎 座へ 行く と、 切符 賣 場に は 数十 人が、 金魚の 棻の 如く 並んで ゐる。 



記の 見 立 L 郎女 雪' 



私 もモの 末端に 加 はった が、 まだ 前の 幕が 濟 まない ので、 行列 は 少しも 動かす, 忽ち 私の つし ろ 

に 人が つ. くき、 人が つ S/ き、 人が つ いて 延びて 行った。 私 もい ぜん は 方々 の 芝居 を 見て 廻りへ 

下駄ば きの ま、 は ひれる 立 見場の、 鐵 格子の はまった うす 暗い 中で、 中 賫の駄 薬 子 を嚼る 人々 に 

まじり、 一種の 空氣を 感じて 昂奮した もので あつたが、 それもニ十餘^:^の昔となった。 行列 をつ 

くって 切符 を 買 ふ 辛抱 も、 歐米遊 學當時 を 打 止めに して、 久しく か > り あはない 事に なった。 

行列 をつ くって ゐる 人々 は、 いづれ も 芝居 馴れ 行列 なれた 顔つきば かりで、 。ほっと 出の 田舍者 

など は 一人 もゐ ない。 お上りさん ならば 舞臺の 上の 芝居と 共に、 きらびやかな 劇場 內 部の 設備 装 

飾に 驚き、 其處に ゆるゆる 半日 を 費した 滿 足を購 はなければ 承知し ないで あらう が、 立 見の 客 は 

演劇 正統に 理解す るか どうか は 別問題と して、 芝居の 數は 見て ゐる 連中で ある。 晚 飯の 後、 寢 

る 迄の 時間 を樂 しまう とい ふ 下町の 人が 多い。 芝居と いへば 最上の 他听 行で、 さかんに 塗りた て _ 

見る ばかりでなく 見られる つもりで 押出す マダム や 令 孃の姿 は 見えす、 巿村は 左 衞門尾 上う め 幸 

と 呼んで 平然たる 紳士 もゐ ない。 ふだん 着の ま、、 一寸 近所に 買物に 出た のと 同じ 心 持の 人達で 

ある。 しかし 何となく、 自分 達 こそ 本當の 芝居 好な の だぞ、 劇通な のだぞ とい ひたさうな 表情 は 

持 合せて ゐる やうで ある。 



437 



私 は、 その 長い 行列の なかに、 目 ぼしい みいち やん は あち やん はゐ ないかと 見廻した が、 前に 

も 後に も、 時間 を 忘れさせ、 心を樂 ませる に 足る 姿 は 見出せなかった。 あいにく、 風 は 都 大路の 

アスファルト を 吹き まくって、 舞 上る 埃 は歷々 横面 を ざら りと 撫でる" ... 

ど ど ど ど ど どっと、 すさまじい 勢で 人間が 吐出され た。 前 席の 勸進 帳が おしま ひに なった ので 

ある。 どうい ふわけ か、 立 見の 客 は 幕が しまる と あわた しく 戶 外へ かけ 出す のが 常 法で ある。 

狹 苦しい ところで 押 合 ひ、 汚ない さ氣を 吸って ゐ たので、 生理的に も戶 外の 風 を 欲する のか もし 

れな いが、 ひとつに は 寸閑を 盗んで 一幕の ぞいた ので、 之から 先に 用事 を控へ てゐ るの も ある だ 

らうし、 主人 や 亭主 や 女房に は^ 緒で 來た氣 の咎を 感じて ゐ るの も あるので あらう。 又もう ひと 

つに は、 おしま ひに なった 事に いつ 迄 も 愚圖々 々か 、りあって ゐ るの をい さぎよ しとし ない 江戶 

子の 作った 慣例で も あるので あらう。 鬼に 角 不必要に あわた. くしく、 海 嘯に 追 はれる 人の 姿で 場 

5^ へ 散って ゆく。 

忽ち 吾等の 行列に は 生氣が 漲り、 叩きつ けられた 蛇が 蘇生した やうに うねり 出した。 列の 七 分 

通う しろに ゐた私 も、 押され 押されて 場 內に吸 込まれ、 長い 長い 階段 を 幾 曲 も 幾 曲 もまが つて 上 

つ. た。 暗い 立 見場へ 踏 込んだ 瞬間、 耳の 側で.、 音羽屋 ァと 叫んだ 男が ある。 忽ち 四方から、 播磨 



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Ili の 見 立し 郎女雪 1 



屋ァ 音羽屋 ァの聲 が 應援圑 の 如く 湧 起り、 芝居の 神様と 怒鳴る のが ゐ ると、 踊の 神樣 とわめ きか 

へす。 いふ 事 は 月並 だが、 叫ぶ 人の 心 持 はたかぶ り、. 意氣と 意氣が 反響し、 叉 反響した。 

それ は 昔 馴染の 聲だ。 雰圍氣 だ。 私の 魂の 中に 眠り 呆け、 正に 枯死 せんとして ゐた 若い 時の 感 

激が、 搖り覺 まされ、 思 はす 知らす 伸び 上って 見る と、 意想外, に 遠い 遠い 谷底に、 舞臺 がち ひさ 

く 見え、 人形芝居の 人形よりも 稍 小型の 芝居の 神様と 踊の 神様 を發 見した。 うす 暗い、 疊 もしい 

おもて 

てない 汚ない 家で、 文字 張の 戶 外に は 降る 雪が しんしんと 積る らしかった。 菊 五郎の いきばんで 

しかも 低い 聲と吉 右衛門の 肚の 底から かすれ 切った 聲は、 はっきりと は 聞 分けられな いが、 せり 

ふ 毎に 土間 棧 敷から、 わ あっとい ふ 笑聲が 起り、 三 宅 君の 芝居 は 正に 大受と 見受けられた。 その 

笑聲の 中には、 愚妻の もま じって ゐる 害で ある。 しかし、 立 見の 客 は 笑 はない。 笑 ひたいに も、 

笑 ふ 丈 はっきり 聞えない ので ある。 . 

恐らく 此の 劇場, g: で、 立 見の 客 程 緊張して 見物して ゐ るの は 無いで あらう。 元 來立見 は その 料 

金 は 比較的 高く、 しかもよ く は 見え もせす 聞え もしない の だから、 よくよく 時間の 乏しい 人 か、.. 

よくよく 好きな 人に よって 存立す るので ある。 だから 聞きに くいの を 聞きと らうと し、 見に くい 

の を 見極めようと 努める の は富然 で.. 虛榮と 見せびらかしで、 かたちをっけた積り でゐる土間3^ 



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敷の 客と は ぶ 場 が 違 ふから、 うす ぼんやりして ゐ るの は 少ない。 

生憎, 寫賞 派の 役者 は 低聲で > 舊派 では 菊 五郎、 新派で は 喜 多 村の 如き その 派の 代表者 は、 立 

見, の 客. を惱 i, す事簽 しい C 「雪女郎」 は、 かなり あくどく i 刖受を ねら ひ、 しぐさ も 誇張され てゐる 

が、 それでも 菊 五郎の せりふ は 通りに くい。 私 も. 何とかして 一語で も 多く 聞 取らう と、 爪立ち- 

首 を 突出し、 あらゆる 努力 をして、 やう やく あら 筋 をつ かむ 事が 出来た。 雪の 降る 夜に、 共同生活 

をし てんる 二人の 三下奴が、 無い 金 をし ぼ つ て 酒 を 買 ひに ゆき、 歸り みちに 墓場 をぬ ける ところ 

で 雪女郎ら しい ものに 出つ く はして 脅え ると いふ 丈の 事で、 それ を 器用に 賑やかし、 菊 五郎に は 

早口の 卷舌 をつ か はせ、 吉 右衛門に はしつつ こく 訥ら せ. その 對 照で を かしがら せ、 手際よ く 半 

時間 を樂 ませる。 その 時 私 は 原作 を 讀んで 居なかった が、 直感に よれば、 吉 右衛門 は 原作に 忠實 

に從 ひ、 菊 五郞は 自由に 氣儘. にやって 居る G ではない かと 思った。 したがって、 三 宅大輔 君の 欲 

する ものと は 違 ふ 演出な ゆで はない かと 思った。 何故かと いへ, ば、 假 にも 野球 理論家と して は、 

一 切の 妥協 を 魔し、 最高 理論の 實 行を耍 求して ー步 も讓ら なかった 人が、 斯う 迄 新味の 無い、 理 

想. の 影の 微塵 もない、 あり. きたりの 手で 行かう と は 想像し なかった からで ある。 おも ひ 起す、 往 

年 a. 慶 野球 戰が 二十 年 振で 復活し、 戶塚 原頭に 凄 壯の氣 を 漂 はせ た 時、 慶 軍の 監督 は、 三 宅 君で 



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記の 見 立し 郞女 雪つ 



あった。 彼 は學生 時代.. から 徹底的 理論家で, 試合 前の 選手 會に 列席す る 先輩の 古い 理論、 或は 無 

理論に 辟易し, その 連中の 居る 間 は, 多く 語らす、 彼等が 辭去 する 後 姿 を 見送り 果て、、 さあ これ 

か ら が本當 の 選手 會 だと 宣言す る の を 常と したと い ふ 。 當時 新聞 批評家 は 彼 を 智將と 呼ん だ が、 

彼 は 決して 權道を 歩む もので はなく、 米國 職業 野球 團 並の 盡さ るな き 訓練と、 高級なる 戰法を 

求めた ので ある。 しかし、 それ は 二十 年 三十 年 前の 戰場 生殘の 先輩に は 理解し 難い ものであると 

同時に、 中學を 出た ばかりの 選手 連に も、 望んで しかも 行 ひ 難い ものであった。 復活 戰當 時の 

稻田 は、 みつち りし こんだ 古強者が 揃 ひ 所謂 黄金時代に あるに 反し, 慶應は 年少 未熟の 者が 多く、 

試合に 一方的の ものに 終始した。 恐らく 三 宅 君と 雖も、 この ー戰を 得る 事に 多くの 望 を かけて は 

ゐ なかった であらう が、 その後に 來る 時代の 爲に、 最高 理論の 適用に 進まん と 努めた 事 は 觀取出 

來 るので ある。 彼の 思 ふ 儘に やらせた 結果が どうなる か は ひとつの 謎で あるが、 不幸に して 彼の 

しか レ 

理想論と、 非 妥協 性 は 先輩 同輩の 支持 を 得る 事 難く、 永く 監督の 任に ある 事な くして 退いた。 乍 

然 球界に 於け る 三 宅 大輔君 は、 厳として ー國 一城の 主で ある I 久しく 沈默を 守って 居る が、 觸る 

、者 あらば 斬らん とする 氣魄は 未だ 失 はない やうで ある。 さう いふ 三 宅 君に 與味を 持って ゐる事 

が、 私 をして 風邪 を 冒して 立 見 を させた 原因の 最 たる ものであるから、. 今 まのあたり 小手先の 器 



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用の 外に 何物 をも發 見し なかった の は、 滿 墨の 好機に 望 を かけた 最強 打者が 空しく 三振した の を 

見た 時の やうな、 力の 拔 けた 感じだった。 土間 棧 敷の 割れる やうな 笑の 前に、 重々 しく 锻 帳の 下 

り はじめた のを昆 ると、 私 も 立 見の 客の 常 法に 倣って、 最 先に 階段 を かけ 下りた。 . 

家に 歸り、 風邪の ぶり かへ した 形跡の 無い のに 安心し、 貰った 儘で 封 を 切らなかった 三 宅 君の 

戲曲集 を 滞圑の 中に 持 込んで 「雪女郎」 はもと より、 ついでに 他の 戲曲 も讀 了した。 どれ もこれ も 

極めて 普通の 意味での 上演 向 脚本で、 構想 も 表現 技巧 も會話 も、 すべて 在來 のお 芝居と 少しも 變 

らす、 尖鋭なる 野球 理論 象の 片影 だに つかむ 事が 出來 なかった。 妹の 悠紀 子さん は 將來に 期待 を 

かけ、 約 弱なる 肉體を 虐げても、 最高級の 藝 術に 憧れ、 常に 野心 的. な 重量の ある 戲 曲の 制作に 力 

を盡 し、 寧ろ 悲壯 の感 をいだ かせる が、 大輔君 は 野球に 於て こそ 毅然として 俗論 を 担 否し、 理想 

主義の 孤 蟲 を 守って 降らなかった のに、 ひとたび 轉 向して 戲曲 制作に 從 ふや、 全く その 反 對の今 

日 主義 を 頂いて ゐる。 曾て 村 正の 妖劍の 如き 切味の 理論家と して、 その 理論に は 頭 を 下げても、 i 

ナ ぎ 

あまりに 理論の 鋭 ど 過る 爲に、 かへ つて 實績を あやぶませる 嫌 さへ あった 人が、 上演 用 脚本の 水 

平 線に 達する 事 を 目的と して ゐる やうな、 平 調 無事 を ねらって ゐ るの は 意外だった。 恐らく 三 宅 

君の この種の 戯曲 は、 今後 も a 々舞臺 照明の 光 を 浴びる であらう が、 それが 三 宅 君 程の 人物の M~ 



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記の 見 立し郎 女 雪つ 



であって は 寂し 過る。 . 

そこで ひとつの 間 題が 殘る。 何故 三 宅 君 は 野球の 三 宅と 戯曲の 三 宅と で、 かほ どに 態度が 違 ふ 

のか。 彼 は 野球 理論家と して、 彼の 理論が 大衆に 容 れられ ない 事 を 知り、 た、 かひ 破れた ものと 

觀 じて、 あらたに 戯曲 家と してう つて 出る に は、 今日 主義の 賢明なる を 痛感した 爲 であらう か。 

それで は あんまり みじめ 過る。 彼 は 今でも、 談 ひとたび 野球に 及べば、 昔に 變らぬ 一家の! a を 持 

して 讓ら ない と 聞く。 想 ふに 彼 はあく 迄 も 野球の 三 宅で ある 事に ほこり を 持ち、 戯曲 制作 を餘技 

と 見下して ゐる 人で はない のか。 私 は 明白に さう だとい ひ 切って、 さっぱりした 氣持 になり 度い 

ので ある。 戲 曲に 於て は 決して 一流た る 事に 願 を かけす、 素人の 氣安 さで、 只管 上演され る 面白 

さ を ねらって ゐ るので はないだら うか。 殊に 三 宅 君 は 菊 五郎と 仲よ しだから、 その 方面の 影響 も 

うけ、 何時 上演され るか わからな いやうな 戲曲を 書く 馬鹿馬鹿しい 努力 を輕 蔑して ゐる かもしれ 

ない。 想像 を 逞しく すれば、 三 宅き やう だい は、 兄 は 妹の 妄想 を 笑 ひ、 妹 は 兄の 通俗 を 蔑視して 

ゐる かもしれ ない。 

义、 三 宅 君の 戯曲 制作の 根本に は、 戲 曲の 文學的 一面 を 無視す る考が あるので はないだら うか。 

彼 は 戯曲の 筋に 興味 を 置き、 情緒し-か 雰圍氣 とか、 會 話の 味と かいふ やうな、 素人 見に は 一寸 形 



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に は あら はれない 方面に は 何等の 關心を 持たない。 嚴密 なる 客觀 主義 を 標榜す る 作家 は、 厦 々自 

己の 主觀 を壓摔 する 事に 惱む ものであるが、 三 宅 君 は 努めて 之 を 排除した ので はなく、 はじめ か 

ら こんな 惱みを 持 合せて ゐな いので ある。 その 意味に 於て、 この 筋 立の 器用な 作者 は、 舊來の 座 

附 作者の 流 を 追 ふ ものと いふ 可き である。 最も 驚く 可き 適例. ir 「雪女郎」 について 作者 自らが 靳 

ういって ゐる。 「これ は 喜劇で はない。 自分が 幼時に いだいた 雪の 夜の 情緖を 描かん とした もの 

である」 云々。 しかし、 この 戲曲 を讀ん でも、 舞臺を 見ても、 何處 にも そんな もの は 感じられない。 

雪の 夜の 象徴 は 微塵 も 無く、 人の 世の 諧 誠が 多分に ある。 誰 を 演出 者に しても、 これ を喜釗 とし 

て 取扱 ふ 外に 道 は 無い。 私 は 立 見場の 一隅で、 菊 五郎の 奔放な 藝 風から、 私が 原作 を 勝手に 變更 

して ゐ るので は 無い かと 疑った が、 戯曲 集 を讀ん でみ ると、 多少 あくどく 誇張した 事 は 否めない 

にしても、 決して 作者 を 迷惑 がらせる 程甚 しき 變更は 加へ てゐ ない 事が わかった。 彼是 想 ひ あは 

せ、 三 宅 君 は 戲曲は あら 筋 丈で いく ものと し * あと は 役者の 遣 万で どうに でもなる とい ふ 考を根 

本に して ゐて、 文字の 上に は 雪の 夜の 情緒 を あら はさなくても、 演出に よって あら はさる べきで 

あると 信じて ゐる の であらう。 

それ は 無理 だよ —— 今度 逢ったら 彼の 肩 を 叩いて、 さう いって やちう と 思った。 そして、 私 は 



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三 宅 君に 對し、 何 を 希望し ようか。 あく 迄 も 素人の なぐさみ として 甘んじるならば 爲 方が 無い が- 

さう でなければ 天下の 三 宅大輔 として ::: 寢 つかれ 一ぬ 床の 中で 無理な 要求 を 組立て 、ゐ ると、 と 

つくに 歸 つて ゐ たので あらう、 愚妻が 枕頭に 寢覺の 水 を 持って 來て、 「三 宅さん の 芝 とても 面 

白かった わ」 と、 亭主の 友達の 成功 を 喜び、 芝居き ちが ひの 曰 S 奮 を かくし 切れない 様子だった。 

ここに も ファンの 代表者が ゐる。 三 宅 君が 今の 芝居 道に 割込んで ゆく 餘地は 十分に ある、 今後 も 

彼の 戲曲は 上演され、 多くの { 各を滿 足させる であらう。 吾々 が 自分に も 出来ない 最高 要求 を 提出 

する 事 は、 誰 を もし あはせ にしない かもしれ ない ,,| I 私 は 先刻の 歌舞伎 座の 土問梭 敷から 湧 起つ 

た樂 しい 笑聲 と、 昔 羽 屋ァ播 磨 屋ァの 應援圑 の 熱 叫 をお も ひ 出して、 安らかに 服 をつ ぶった。 

(昭和 九 年 五;: 二十 六日〕 

. 1. 「改造」 昭和 九 年 七月 號 



. 6 

借家 運 



錢町下 六" 番町常 田家の 持 家を拜 借して 住んで、 十 年に なった。 泉 鏡 花 先生の 奥さんが 見つけて 

下さった 家で、 二百 五十 年を經 過す ると 傳 へられ, 先生 名づ くると ころの 元祿 屋敷で ある。 占び 

荒れ、 天井 も 床 も 低く、 西北 向の 一 見 甚だ 住みに くさうな 家で、 私の 親戚知己の 間に は 頗る 評判 

が惡 く、 物好き を 笑 ふ もの もあった が、 大きな 贅澤 のい へ ない 吾々 に は、 存外 住 心地の よい、 あ 

りが たい 家だった。 いったい 番 町と いふ 土地 は、 屋敷町 だから、 商工業に は緣 遠く、 東京 市内で 

ぉほ わう 

最も 近代 風景 を 持たない ところ だ。 住民 もな がく 居つ いた 人が 多く、 一般に 大様で、 町內の 親和 

の 深い 所 だ。 よく 新聞で る やうな、 お 祭の 時に 若衆が あばれたり、 何 かの 時に 靑年圑 が 威張つ 

たりす る やうな 事 を 聞かない 土地柄で ある。 殊に 私共に 幸 ひだった の は、 大家さんが 非常に 親切 

な 方で、 何から 何 迄氣を 配り、 おも ひやり 深く して 下さった 事 だ。 いつも、 右から 入れば 左へ a3 



違 家 f 嗇 



てし まふ 放漫な その 曰 暮らしに 祟られ、 夏 霜 枯を嘆 じつ、、 長 篇小說 を 書いて 急場 を 逃れようと, 

汗み どろに なって ゐる 時に、 氣 心の わかった 以上 は 不要 だとい ふ 理由で、 敷金 を 返して 下さった 

時の 難 有さ は 今でも 忘れす、 幾度 も 他人に 話す ので あるが、 此の の 中に そんな 大家さんが ある 

かしらと、 聽 者が 信用して くれないし 

結婚 後 十 年 目に、 おも ひも かけない 子供が 生れる 事に なり、 子供が 生れたら、 この 西北 向の 家 

では 困る、 何處 かに 引越さな. ければ ならない と 相談して ゐ ると、 それ を 知って か 知らない でか、 

庭 さきに 上 ニ窒下 ニ窒の 二階 を增 築して 下さった。 勿論 家賃 は あがる ものと 覺 悟して ゐ たが、 そ 

んな 心配 は 無用だった。 新築の 二階に 勉強机 を 移した 時、 今迄 低い ところに 住んで ゐた 自分の 眼 

に、 近々 と 迫る さの 廣 さが 新 ii なる 驚きであった。 

斯うまで して 頂いて は、 もう 何處 にも 越せな いわねえ —— と、 引越 を樂 みに して ゐた 愚妻 は、 

嘆息す る やうに つぶやいた。 引越せない、 全く 引越せない、 上下 二 窒づ、 殖えて、 しかも 家賃が 

元の 儘で い、 とい ふので は、 何としても 引越せる もので はない、 私 は 大家さんに 追 ひ 出されない 

限り は、 此處に 住んで ゐ ようと 思った。 

.. それから 足 かけ 四 年 たった今 年の 春、 大家さんの 御 庭 さきに 叉 一軒 貸家が 建つ 事に なった。 私 



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は あわてた。 大家さんのお 庭 さき は卽ち 私共の 拜 惜して ゐる の 座敷の 眼の 前 だ。 そこに 二階家 

が 建つ とすれば、 とりもな ほさす 我家 をう か ふ 望樓の 如き もので はない か。 私 は 深く 嘆息した。 

今日 迄の 大家さんの 御 親切 を 思 ひ、 自分 達の 內 心の 誓 を 思 ひ 出す と、 俄に 引越す 氣に はなれな か 

つた。 それでも、 服の 前の 空が 又 暗くなる やうな 氣 がして、 つい 愚痴に なると、 かねてから 二百 

五十 餘 年の 家に 反感 を 持って ゐた 親類 や 友達 は氣が 早く、 何 處其處 に 素晴らし くい 、贷 家が ある 

とか、 手頃の 分讓 地が あるから 一軒 建て、 はどう だと か、 ひとの 懐 も 知らないで、 さかんに はや 

したてる。 その 分讓 地が 一 坪 二百 圓 だったり、 素晴らしい 货 家と いふの が 家賃 一 千圓 だったり、 

一一 一一 n 句 も 出ない ので ある。 いったい 一千 圓の 家賃の 貸家 なんても のが あるか しらと 反問す ると、 某 

ェ學 博士の 持 家で、 南 向の 崖の 上で 窒の數 が 二十 幾つかあって、 曾て は 某 省 大臣の 官邸だった と 

いふ。 ひと を 馬鹿にする なと いふと、 そんなら もう 少し 安いので は、 山の手の 何處 とかに 地坪 二 

千 五 百、 窒數 四十 三で、 六百圓 とい ふ 格安の が あると いふ。 私 は 愈々 驚いて しまった。 それだけ 

の 家なら 六 百圓は 格安 かもしれ 無い が、 なんだ つて 四十 三の 室が 必要な の だ。 宿屋 か 料理屋 か 病 

院 かと 疑った が、 まぎれ もない 個人の 住宅 だとい ふ。 實に 世の中 は廣 い。 吾々 の 想像 も 出来ない 

お 伽の 國が 到る 所に 發 見され るので ある。 だが、 さう いふ 風に 周 圍が騷 ぎ 立つ と、 こっちの 心 も 



418 



運 家 1W 



動いて 來る。 恰度 そこへ、 萬 事に 氣 のきく 友人が、 朝日 新聞の 廣古欄 を切拔 いて 來て、 これ は ど 

うだと 見せて くれたの が、 私の 六感に ぴ いんと 来た。 「九 段 坂 上 眺望 佳」 I . 誰の 持 家 かわから な 

いが、 三 井信 託の 管理す る ものである。 

豫而私 は 市 の. 高 臺の嶽 の ふちに 住みたい、 廣々 とした 空 を 眺め、 東京の 町 を 見下した いとい 

ふ 野心 を 抱いて ゐた。 九 段の 上で、 萬々 一 崖の ふちなら、 其處 から 見晴らす S は どんなに 廣 いだ 

らう。 私 は 勤務先から 程近い 三 井信 託に 足 を 蓮んで みた。 係の 方に 切拔を 見せる と、 あ、 その 家 

です か、 隨分 古いう ちです が、 番人が ゐ ますから、 何時でも 御 都合の よい 時に 御覽 下さいと いふ 

ので、 直に 出かけて 行った。 門扉 は閉 され、 貸家 札が 貼って あつたが、 く > り を あけて 入って、 

玄關の 呼 鈴 を 押した。 明治 初年の 變 革で 祿に はなれた とい ふやうな 風格のお おいさん が、 來意を 

聞いて 案內 して くれた。 雨戶は 久しく 閉し たま、 らしく、 中へ 入る と徽 くさい 匂 ひが 鼻 を 打った。 

老人 は 頗る 飾氣の 無い 口調で、 何しろ 八 年閒空 家に なって ゐて借 手が なく、 荒 放題に 荒れて ゐて、 

鼠の 住家と なって しまったし、 肝心の 南側 は 隣家の 方が 一 段 高い ので 風通しが 惡く 日が 當ら ない、 

したがって 晝も 暗く、 夏 は 暑い、 おまけに 水洗便所 はこ はれて ゐ るし、 ボイ ラァ 焚の 風呂 も 駄目 

になって ゐ, て、 とても 住めた ものではありません とい ふ。 その 言葉 は 半分 は本當 らしく、 半分 は 



嘘ら しく 聞え た。 しかし 老人 は 繰返して、 私に 警吿 を與 へる もの 、如く、 かう いふ 古くて 大きい 

家の 住みに くさと、 不經濟 を數へ 立てた" それ は 私 も 同感だった。 この 家の 缺點 は、 何よりも 私 

すぎ 

共に とって 廣 過る 事 だ。 こんな 大きな 家に 入って、 俄に 經濟が 膨脹し、 にっちもさっちも 行かな 

くな つたから といって、 信託 會社は 敷金 を 中途で 昃 して くれる やうな 神業 はして くれまい と、 今 

迄の 大家さんの 寛大な 心 持 を 思 ひ 出し、 矢 張 引越 は 見合せ た 方が 後日の 爲 ではない かと 二の足 を 

踏み はじめた 折 柄 だ。 老人が 力を入れて あけた 緣 側の 雨戸の 外に、 芝生が あら はれ、 その 芝生の 

向 ふに、 東京の 町々 が 展開され た。 私 は あや ふく 叫ばう とした。 あ、、 何とい ふ廣 い. S だら う。 

签と いふ もの は、 して 仰ぎ見る ばかりの もので はない。 高臺に 立って 見る と、 見下す 事 さへ 出 

來 るので ある。 私 は 夢中に なって しまった。 試みに 崖の ふちに 立って 見る と、 北の方に は 小石 川 

の 兵器廠が 見え、 本 鄕の帝 國大學 が 見え、 眞 東に は お茶の水の 土手が 見え、 二 コ ライの 會 堂が 見 

え、 南の 方に は 日本銀行の 建築 場の 起重機が 見え、 三越の 屋上の 旗が 見える。 遠くに タンクが 二 

つ 霞んで 見える の は 本 所 か 深 川 か —— それ 丈の 廣さを 一 望に を さめて、 私 は 呆然と して 佇んだ。 

その 晚 家に 歸 つて 今日 見た 貸家の 事 を 愚妻に 話す 時、 私 は 自分の 本音が 吐け す、 彼の 番人の 老 

人の 言葉 を 借りて、 高臺 のい、 場所 だけれ ど 家 は 古び 荒れ、 南が ふさがり、 晝も 暗く、 おまけに 



420 



運家浩 



風通し も惡 いさう だと 氣の ぬけた 事 を 云った。 何故かと いへば、 自分の 見た 儘 を報吿 すると、 忽 

ち 愚妻 は乘氣 になり, 後の 經濟の 事なん か 頓着な く、 明日に も 引越さう とい ひ 出し さう に 思 はれ、 

愈々 さうな つた 曉の 家計の 不如意が、 想像す る 丈で も 重荷だった の だ。 

それに も 拘らす 、 愚妻 は 翌日 その 家 を 見に 行き、 すっかり 昂奮して 歸 つて 來た。 家 は 荒れて は 

あく あら ひ . 

ゐる けれども、 灰汁 洗 を すれば 綺麗になる、 東が すっかり あいて ゐて、 南 も 隣 象との 間が 十分 あ 

るから、 暗く もない し、 風 も 通る、 あのお ぢ いさん は あの 家が ふさがる と、 立 退かなければ なら 

ない ので、 いやがらせ を,、. ふので はない か、 第 一 子供の 健康の 爲 にも、 芝生の 庭が い、、 思 ひ 切 

つて 引越し ませうよ と乘氣 になる。 待て 待て、 家 はい、 かもしれ ない が、 家計費が 嵩んで やりき 

れ まいと いふと、 い 、え 今度 こそ は儉 約して 見せます と 力 を こめて いひ 放った。 しかし こいつ は 

あてに ならない。 自分で も 今度 こそ はとい ふ 位で、 從來の 成績 は あまり 昏 ばし くないの だ。 だけ 

ども, 拭 掃除 だけで も大變 だぞ、 女中が 可哀さ うぢ や あない かとい ふと、 い 、え あたし も 一 生懸 

命手傳 ふから 大丈夫で すと いふ。 これ も 言葉 は 頗るけ なげだが、 實 行の あがらな いのは わかって 

ゐ るから、 あまり 信用 はしなかった。 うやむやに 濟んだ 積り だった が、 又 次の 日に は、 里の 母親 

を 引 張り出し、 大工め 棟梁 を つれて ゆき、 その 足で 三 井信 託に も 猶 つて、 水洗便所 も 直して 貫へ 



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る 事 迄た しかめて 來た。 女中 達に も 話したら > みんなが どんなに でも 働きます といった とい ふ。 

當前ぢ や あない か、 誰が い、 え 働きません とい ふ もの かと 笑った が、 家事 は 一切 愚妻が 支配して 

ゐる 我家の たてまへから、 次第に 壓 迫され て來 た。 どうしても 套發 しなければ ならない かなと 考 

へて ゐ ると、 滿ニ歲 十 箇月の 枠まで が、 富士 見える とこに 行き ませうな どゝ いふ。 富士見 町と い 

ふから に は、 富士山が 見え るに 違 ひ 無 いと 大人 どもの 話 合 つて ゐ るの を 小耳に 挾んだ ものら しい。 

愚妻の 母親 も激稱 し、 楝 梁の 如き は 無責任に、 いっそ 御 買 ひに なって はな ど、 * まるで 冷 かす や 

うな 事 をい ふ. のだった。 • - 

はたから おだてられ ると、 凡夫の あさまし さで、 私 はやたら 無性に、 高臺の 崖の ふちの、 東京 

を 見下す、 空の 廣 さに 酔って しまった。 夜、 街々 の燈 火が ついたら さぞい、 だら う、 それが 霧 Q 

晚 だと 一 廢ぃゝ だら う、 月夜 は 素晴らし いに 違 ひ 無い、 朝日. の 上る 頃 もい、 だら う、 雪の 日 はき 

つと い、 ぞ、 夕立の 時 も 面白い かもしれ ない と、 四季 いつでもい、 事に きめて、 段々 熟が 高くな 

つた。 遂に 私 は 自分の 心に 鞭う つて、 大家さんの ところへ 引越の 事 を 申 述べに 行った。 私の 方で 

は申譯 無い 氣 持に 苦しんだ が、 先様 は 他意な く 聞いで 下さった。 

.2* や-つ 

私 はあく 迄 も 大家 運が よく、 今度の 三 井信 託 は 名に しお ふ 大所 だから 萬 事大 様で、 あの 家は隨 



運 家 借 



分 古く 荒れて ゐ るから 住みに く、 はない か、 外に もっとい、 のが あると いって、 同じ 富士見 町に 

近代 洋式の 貸家 も あるから 一度 見て はどう かと 勸 めて くれた。 私 は、 高臺の 崖の ふちと いふ 條件 

を 伴 はない 限り は、 どんな 家 だって 魅力 を 感じない の だが、 會 社の 親切 を 無にする のも惡 いと 思 

ひ、 行って 見た が、 洋風 嫌の 私に は- r 部に 入って 見る 氣も 起ら す、 數秒時 門前に 佇んだ > けで 引 

返した。 

愈々 引越と きまり、 私の 方で も 少し は 手 を 入れても い、 と 申出た が、 先樣 では 何から 何 迄して 

くれて、 留守番のお ぢ いさんが とても 住めた もので はない と 警告して くれた 家が、 忽ち あかるく- 

淸 潔な 家に 變 つた。 

何月 何日に は 引越さう と 準備 をして ゐ ると、 或晚大 象さんが 見えて、 實は町 の 人が 御宅の 引 

越の 事 をき、 つけ、 その 原因 は 自分のと ころの 新築に あるの だから、 それ を 見合せ て くれと 云つ 

て來 たが、 果して さうならば 考 へやう も あると いふ やうな 御 話だった。 私 は 答へ て、 その 新築 も 

勿論 引越の 動機の ひとつに は 違 ひない が、 決して それば かりで はなく、 子供の なかった 昔と 今で 

は 一家の 事情 も變 り、 心境の 變化も あり、 その上 多年の 夢であった 高臺の 崖の ふちの 廣ぃ 空に 心 

を 奪 はれた 爲 であって、 永,"!; の 御 親切に 對し當 方 こそ 心苦しく 思 ふ 旨 を 述べ、 御 諒解 を 得た。 町 



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-s: の 口き 、 が 誰で あるか、 いかなる 理由で 吾々 如き もの を 引 留めよう として くれたの かわから な 

いが、 餞 町 も番町 界隈 は 戶數も 人口 も 少なく、 商賫 家に とって は 四 人 五 人の 家族で も 引越される 

の は 苦痛な ので、 馴染の 床屋の 親方 か、 IS 屋の 主人 か、 打 揃って 出向いた ものと 想 はれる。 

さう いふ 町內の 人達に 對し、 又 大家さんに 對 しても、 あとに 入る 人 を 紹介して 立 退きたい と 思. 

つたが、 なかなか 適當な 人が なく、 一脈の 心咎を 感じつ 、、 五月 二十 八日に 移轉 した。 幸に、 間 

もな く、 私共で も 御世話になった 事の ある 小兒 科の 先生が 私共の あとに 越して 來 たと 聞いて ほつ 

とした。 尙 その上に、 新築の 貸家 も出來 上り、 同時に 或る 高名の 小說 家の 控家 となった と き、 

かげながら 喜んだ。 ...... 

さて 引越に はっき もの 、向 一一 一軒 兩 隣に 薷麥を 配る 段に なって、 あまり 相手が 堂々 として ゐて羞 

しくな つた。 向 三 軒の むかって 左は嘵 星中學 校で、 眞中は 地方の 豪家の 控 家で、 右 は 何とい ふ 家 

か 門 礼 も 古びて ゐ るが、 自家用 ガレ H ジも ある 家で ある。 兩 隣の 南 は 有名な 富豪の 一門で、 北 は 

曉星 小學校 だ。 どっち を 向いても、 もり そばの 五つ や 六つ 持って行かれた 景色で ない。 どうした 

もの かと 迷って ゐる うちに、 うやむや になって 缺禮 した。 

家 は 古い けれど、 障子 も疊も 新しくな つてみ ると、 留守番のお ぢ いさんの 言葉 を 裏切って、 あ 



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運 家 



かるく、 住 心地よ く * 風 は 涼しく 吹いて 通る。 たった ひとつお ぢ いさんの 警吿を もっともと 思つ 

たの は、 家が 大き 過ぎて 人手の か、 る 事ば かりだ。 どうして こんない、 家が 八 年間 も ふさがらな 

かった のか、 格安の 家賃で 借りる 事が 出来た のかと 不思議が つて ゐ ると、 或 人が 來て、 この 家に 

はけち がつ いて ゐ るからで すと いふ。 その 話に よれば、 大正 十二 年の 大地震の 時、 庭 さきの 崖が 

崩れて 下の 家 をつ ぶし、 たしか 一人 死んだ 害で、 おまけに その 當 時の 持主だった 某 は、 關係會 社 

の 財政 を 左前に して 行衞 不明に なった とい ふ」 しかし、 そんな 詮索 を すれば、 どんな 貸家 だって 

けち はっくに 違 ひ 無い" 崩れた 崖はコ ンクリ イトで 固められ、 その 堅牢なる が 如く 今度の 住人 は 

榮 え るで あらう とうらな つても よいで あらう。 

新居の 庭は廣 く、 大部分 は 芝生で、 高臺の 見と ほし をき かせる 爲に 多く 樹木の 植ゑ てない のが _ 

この 家の 前の 持主の よき 趣味 を 物語る ものと 思 はれる。 八 年間 S 家と なって ゐた、 めか、 その 芝 

生の 中に、 或は 外に、 雜 草の 夥しい のが 嬉しかった。 れんげ、 たんぼ ぼ、 草 あやめ、 水引 草、 あ 

かの まん ま、 ir かたば み 草、 月見草、 その外よ く 見る 草で 名 を 知らない のが、 風に 乘 つて 來た 

種子が 自然に 根 を 下した のか、 叉 は わざわざ 好んで 植 ゑた のか、 荒れた 庭の 趣 を 深く して ゐ るの 

で. ある。 私 は その 數々 の雜草 を、 前の 持主が 好んで 植ゑ たものと おも ひ 度かった。 關係會 社の 經 



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營上鬼 角 の^が あり、 ^の 非難の 的と なった 一人の 實業 家が、 その 全盛の 日に、 庭に 石 を 置き、 

松 や 梅を植 ゑる か はりに、 野の花 を 移し 植 ゑて 樂ん だとい ふ 風格 を 想像して 見 度い ので ある。 

その 雑草の 中に 立って、 遠く 下町 を 見下す のが、 越した その 日からの 日課に なった。 はじめて 

の 日、 崖の ふちに 佇んで ゐ ると、 眼の 前の 靑 空に 蔦が 悠然と 輪 を 描いて 舞 ふの を 見た。 東京の { 仝 

に 蔦 を 見ざる 事 久しかった ので、 幼い 曰の 事な ど 恩 ひ 出しつ、、 何時 迄 も その 姿から 眼 を 放さな 

かった。 おい、 ^が 飛んで ゐるぜ と、 うちの 者に も 喜び を 分ち、 ひどく 喜んだ が、 數日 たっと 家 

の 者 達の 間に、 あの 篤 はお 隣で 飼って ゐ るの だとい ふ嗥が 生れた。 その 4JE、 私 も 蔦 を 飼った 事が 

あり、 恰も 日 淸戰爭 の 後の 事で、 彼の 黄海の た、 かひ 最中、 高千穗 艦に 鷹が とまった とい ふ 瑞祥 

が 生々 しく 語り 傳 へられて ゐた頃 だから、 とまり. 木に 足 を 縛って とまらせ たの を、 それに なぞら 

へて 樂ん だが、 鳶を 放し 飼 ひに する 事 は 出来さう に S はれない。 お 隣の 大木に でも 巢が あるの だ 

らうと 否定した が、 何とい つ て も 崖の 上の 自分と 同じ 高さに 鳶の姿 を 見る の は 嬉しかった。 

移轉後 間もなく、 私 は 臺灣へ 出張 を 命ぜられて、 約 一箇月 留守に したが、 歸 つて 來 ると 家の 者 

は逗 子へ 行って ゐて、 九月の 末 迄歸ら ない とい ふ。 廣ぃ 家に 一 人ゐる 所在な さから、 私 は 毎日 勤 

務 先から 歸 ると、 雜 草の 庭に 出て、 時には 芝生に 寝ころが つて、 暮れ 切らない 夏の 夕 さ を 仰ぎ見 



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運 家 借 



た。 そんな 時、 珍しく 歌の やうな ものが 湧いて 來る。 私 は それ を 筆紙に うつして 推敲す る 程の 氧 

にもなら す、 大氣の 中に 出 まかせに 放送した。 

東京 のなかば をの ぞむ 高臺に 貸家 あり たる 夏の よろこび 

十 年 程 住む 人 もな く 荒れ はてし 家の めぐりに 月見草 く 

鬼 薊 待宵草の はかなげ に 咲く 庭 荒れて 住む 人 もな し 

春 來れば 土筆つ ばな の萌 ゆるた のしみ を かけて 借りし 家 かも 

. 隣屋は 分限と きけば 引越の 费麥も 配らす その 曰 草 摘む 

素 はだしの 子が かけ 孅る靑 芝の ほかに 木の なき 庭の よろし も 

かれ がれに なりてな ほ唤く 植木屋が 盆に くれたる 朝顔の 花 , 

芝よりも 雜草 多く はび こ り し 庭 の 月夜に しげき 虫 の 音 

高臺 に はじめ て 住め ば 月 靑き空 近み か も 雁な きわた る : 

廣吿の 風船 あがる 南の さの かなたに 海 見 ゆらん か 

深 川 か 本 所 かし らす遠 霞た な び く果 て を 飛行機 の 飛ぶ : - 

寝て 見れば 芝生に まじる 草 あやめ 風に ゆる 、 も あはれ なる かな 



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口 をつ いて 出る た ごと 歌 は、 風に 乘 つて 崖の 向 ふの 空に 消えて ゆき、 身の めぐりに もの 柔か 

な 感傷が 漂 ふ。 セン ティ メンタ リズム は 文學の 外道で あると して、 極力 これ を 排除す るに つとめ 

たの は 愚かな 事ではなかった かとさ へ 思 ふので あった。 (昭和 九 年 九月 三十日) 

. 11 「三 田 文學」 昭和 九 年 十一月 號 



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しらち し 譜畫凝 文 註' 



「註文 帳畫譜 一ち らし 



泉 鏡 花 鏑木淸 方 11 と兩先 生の 名が 並んだ、 -、 けで、 吾々 は 忽ち 美しい 人情 風俗 のみち あ il れ る 

理想 世界 を 想像し、 感情 陶酔に 誘 はれる。 鏡 花 先生の 名作 「註文 帳」 は、 ひとたび 人の 心に しみ 入 

ると、 一生涯 忘れられない 凄艷悲 調の 物語で、 恐らく 淸方 先生 も、 鏡 花 世界の 因緣の 絡ち 雞 さか 

ら、 どうしても 繪 にしない では ゐられ ない、 みこまれた 心 持で、 二の 畫譜の 制作 をお も ひた、 れ 

たので はないだら うか。 

明治 大正 昭和に わたる 我國の 文學の 主流が、 廣ぃ 意味に 於る 寫實 主義、 世態 描寫 主義で ある 事 

は 疑 ひない。 その 中に あって、 鏡 花 先生 は 超 時代 作家と して、 けなしても、 篤っても、 嘲け つて 

も、 遙に 高い 頭上に 燦 として 輝く 明星の 位置 を 占め、 兎角 時代と は 無緣の やうに おも はれ 勝 だつ 

1 一が、 今日 こなって みると、 先生の 作品の 中に 最も 強く 「明治」 の 感情が 描かれて ゐる。 因 緣を作 



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のく さびと し、 幽靈 さへ あら はれる 「註文 帳」 にも 1 今や 吾々 は 作品 そのもの、 魅力と 共に、 限り 

なき 「明治」 のな つかし さ をお も ふので ある。 

今日の 淸方 先生 を 浮世 緣 派と 見る の は 少しく は かられる が、 世態 風俗 をう つす 事 を 3 曰と する 

流派に 數へ るの は 差 支 あるまい。 しかし 先生 は、 當世 婦女の 姿 を 描く 場合に も寫實 風ではなくて、 

あく 迄 も 理想 派で ある。 先生の ひと k なり は、 この 世の中に はびこる 粗野 稷雜を 潔癖に 排除して、 

理想 美 の 創造に 專念 せられる やうに 見 え る 。 そ の 結果 世態 風俗 畫 の 陷り易 き 卑俗、 な まな まし さ 

とは遙 にかけ はなされた 域に 達し、 淸楚 極まって 神韻 生す るが 如き 幽艷 なる 線と 色 は、 觀る者 を 

恍惚たら しむる と 同時に、 肅然襟 をた^ させる。 先生 は 風俗 畫家 として 大正 昭和の 世態 を も 描く。 

しかし その 作品に は 何 處迄も 明治時代に はぐ、 まれた 感覺 がつ いて 廻つ て 離れない。 吾々 は 先生 

の 作品に 接する 時、 畫 面の. g: 代の 如何 を 問 はす、 限りなき 「明治, 一の なつかし さに 打 たれる ので あ 

る 

鋭 花 淸方兩 先生 は、 お 互に 相手の 藝術を 尊敬し ぁふ羡 むべき 仲よ しで あり、 义 文と 槍と これ 程 

うつりの い、 とりあ はせ も 珍しい が、 しかも 各々 獨自の 個性に 生きて、 文 品と 畫品は 決して 同種 

の もので は 無い。 たと へば 鏡 花 先生の ii 術 は 己れ の 道德を 他人に も 求め、 情 熟の 高潮す る 時、 a 



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々氣を 負って 唤呵を 切る 積極性に 富んで ゐ るが、 淸方 先生の 畫品は 何 處迄も 己れ を 守つ て 動かす" 

靜に來 る 者 を 待つ もめ、 やうで ある。 從而新 小 說社版 「註文 帳 畫譜」 も、 鏡 花 先生の 原作の 趣 をう 

つす 事に 忠實 なる ものと 見る よりも 1 その 作品の 中に 見出した 淸方 先生 獨自の 情緒の 丹靑 による 

表現と 考 へる のが 至當 である。 その 意味で、 原作と 畫譜と あはせ 見る 時. 一 5^ 感興 は 深いので あ 

る。 (昭和 十 年 三月 三日) 

. I 「時 新報」 昭和 十 年 三月 五日 



輝く 編輯 者 



「輝く 三 田の 編輯 者 和 木 淸三郞 氏」 と、 新聞だった か雜 誌だった か 忘れた が、 文壇 @ ^話の 中に 書 

いてあった。 若い 時から 頭の 地肌の 透いて 見えた 特徵 をから かふ 意味で は 毛頭 無い。 今日の 「三 

田 文學」 の はなばな しさと、 その はなばな しさ を招來 した 編輯 者の 風爽 たる 姿 をた 、ふる 言葉で 

ある。 その 噂 話 は、 もとより 眞 面目な もので は 無かった が、 私に は 見過せなかった。 長い間、 冷 

醉に默 殺され、 不 當に輕 蔑され た 「三 田 文學」 が、 冗談に もしろ 洒落に もしろ、 「輝く」 とい ふ 文字 

を 冠せられ るに 至った の だ。 それ は 和 木 氏の みが 頂くべき 形容詞で は 無い。 輝く 「三 田 文學」 の 輝 

く 編輯 者と 解して 差 支ない ので ある。 

さう かと 思 ふと 或雜 誌に は、 いろは 歌留多に なぞらへ て 「ふる はぬ 三 田文學 水上 瀧 太郞」 とい ふ、 

七色 唐 辛から 唐 辛を拔 いたやうな、 き、 めの ないい やがらせ も 出て ゐた。 人間と いふ もの は、 本 



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者辑編 く 趣 



當の事 を あまり 突 込んで 云 はれる の は 喜ばない から、 若しも 「ふる はぬ 水上 瀧 太郞」 なら、 私 も 苦 

ぃ顏 をした かもしれ ない が、 今 曰 私 は 老い、 氣カを 失 ひ、 只管 休息 を 願 ふの みで あるから、 振 は 

ざる 事 勿論 だが、 「三 田 文學」 の 方 は 次第に 滿 潮の 勢 を 示し、 その 存在 價値 はやう やく 一般に 認め 

ら れて來 たと ころで ある。 いろは 歌留多の 思 ひっきの 淺 さは、 何 か 根性の 卑し さ を 想像させる ば 

かりで、 痛く も 痒く も 無い 見當 はづれ は、 た 笑 ふ 外ない ので ある。 

しかし 「三 田 文學」 が 「輝く 三 田 文學」 となる のに は、 完全に 十 年の 歳月 を 要した。 一代の 文亲永 

• 井 荷 風 先生 を 主幹と し、 學校も 大乘氣 で、 廣く當 時の 新人 を 糾合した 前期 「三 田 文學」 の 功績 は 別 

とし、 澤木 四方 吉氏を 主幹と した 第二.^ r 三 田 文學」 は、 種々 なる 原因で 衰運に 傾き、 遂に 大正 十 

四 年 、何の 豫吿も 無く、 吾々 同人に さへ 通告 もせす、 風船 玉の しぼむ やうに、 ひっそりと つぶれ 

てし まった。 その 衰滅の 原因に ついては、 私 は 凰々 書き、 叉 公衆の 前で 喋った から、 兹には 略す 

が、 大正 十五 年 復活 以後 は 身 を 以て 當 つた 一 人な ので、 つぶさに 辛苦 をな めた。 勢 ひよくい ひ 切 

れば、 私 は 「三 田 文學」 の 爲に鬢 髮霜を 置き、 精神 肉體 共に 疲れ、 人生の 働き盛り を、 とり かへ し 

の つかない 事に してし まった。 

二十 五 年 前、 學校は 「三 田 文學」 を 創刊す る 勇氣を 起した。 初期 慶應義塾 こそ 各方 面に 人材 を 出 



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したが、 官界から は 夙の 昔に 追ひ拂 はれ、 敎育界 から も 繼子极 ひされ、 た、.^ 一筋に 銀行 會社 方面 

の 月給 取 を 供給す るに 過ぎない 學塾 となり 果てん とした 時、 せめて は 文筆の 士を 送り出さ うとい 

ふ 野望に は 十分 意義が あった。 多年 寶 込んだ 月給 取 養成 所と しての 世間の 人 氣と學 內の氣 風 は、. 

頗る 根強い もので、 雜誌 創刊 前後の 塾の 文科の 卒業生 は、 年々 數 名に 過ぎなかった。 さう いふ 土 

壤を 耕し、 種子 を 蒔き、 牧穫を 得る に は 長い間の 忍苦がなければ ならない。 しかも 學 校に は 其の 

辛抱が なく、 待ち 疲れ、 つちか はす、 十四 年 廢刊の 時の 如き は、 當然爲 すべき 手配 さへ 怠って、 

うやむやに 終った 事 上述の 通りで ある。 , - . 

, けれども 「三 田 文學」 は、 學校當 局の 希望す る效果 を、 多少な りと も擧 げた 事 は 否定 出来ない。 

近代 H 本文 學 史上最大の 運動だった 自然 派に 對抗 し、 「スバ ル」 「白樺」 と共に 次代の 文學を 誘導す 

る 事に 貢獻 したば かりで なく、 僅かながら も 作家 を 生み、 文學 志望の 學生を 三 田 山上に 集めた。 

それ は 全く 永 井先 生の 力で、 當 時の 先生の 活動 程 はなばなし いのは、 前後に その 比を見ない。 人 

生の 無意義と 退屈 を說く 文學に 暗澹たる 氣持を 背負 はされ て惱ん でゐた 若者 共 は、 淸 新なる 情緒 

感 覺を璺 富なる 文字で 描き出した 文章の 魅力に 陶醉 し、 風 を 望んで 來る 者が 俄に 增 した。 私の 如 

きも, その 頃の 學 生の 一 人と して、 親しく 先生の 風格に 接し 得た 感激 は、 一 生の 幸福と して 忘れ 



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者輯編 く 讎 



ない。 永 井先 生 は、 慶應義塾に とっても 偉大なる 功勞 者であった。 しかし、 作家 は 短時日に して 

輩出す る もので は 無い。 學 校は當 初の 熱情 を 冷却 させ、 あくび をし、 永 井先 生が 辭 任される と 間 

もな く、 雜 誌に 對 する 興味と 期待 を 失ひ盡 してし まった。 

第二 代 目の 主幹 澤木氏 は、 歐 洲留學 から 歸 ると、 塾內に ひとつの 文化 運動 を 起し 度い 希望 を 持 

ち、 學 生の 指導に も 熱心だった。 幸 ひに して その 頃 は、 永 井先 生の 文名 を 慕って 來た學 生 も 多く、 

小島 政ニ郞 南部 修太郞 井汲 淸治三 宅 周太郞 水木 京 太 宇 野 四 郞西脇 順 三 郞石井 誠 勝本淸 一 郞 諸氏の 

如き、 後年 有名に なった 人 も 揃って ゐ たの だが、 旣に 石と 化して しまった 學校 は、 吾關 せす の 態 

度 をと り、 愚圖々 々して ゐる うちに 澤木氏 は 健康 を 害して 鎌 倉に 引 込み、 「三 田 文學」 は 生 氣を失 

つてし まった。 

雜誌は 翌年 復活した。 しかし、 當 時の 學校當 局が、 心から 此の 復活 を 希望した かどう か は 疑 は 

しい。 少なくとも 一部に は、 初期 以来の 形式. E 容の雜 誌の 復活 を 喜ばない 人 もあった。 私の 役 廻 

は、 今日 あるが 如き 雜誌 復活の 急を說 いて 廻る チン ドン 屋 であった。 臆 而もな く 先輩 を 訪問し、 

その 人々 の 評議員と しての 力 を 借る 運動 もした。 當 局に とって は、 うるさい、 こざかしい、 出し 

やばり として、 鼻つ まみだった に 違 ひ 無い。 



435 



, 鬼 に 角 雜誌は 復活 の 運びと なり、 同人 間の 年長者 として、 叉 最も 熟 心 な る 復活 論者 と し て 其 の 

實 行に 當 つた 私が、 推されて 主幹た るべき であった が、 敎 職員 以外の 者で はいけ ない とい ふ 理由 

で. 學校は 之 を 許さなかった。 資金 乏しく、 人手 少ない 仕事 だから、 同人 は 多大の 犧 牲を拂 はな 

ければ ならなかった。 或 人の 如き は、 雜誌を 背負って 街頭に 立た うと 主張した が、 私 も ひそかに 

其の 位の 事 をし なければ 立ち行く まいと 考 へて ゐた。 しかし 學校關 係の 有志、 吾々 同人の 友人 知 

己の 伙援 があって、 微々 たる 存在 を 持ち 堪へ、 輝く 今日 を迎 へたの は、 滿足 此の上 も 無い 事で あ 

る。 その 間、 編輯 事務 を擔當 した 二人の ひと、 勝 本 淸ー郞 氏と 和 木 淸三郞 氏の 功績 は 頗る 大きく、 

雜 誌が 今日 迄存 續し且 次第に 隆盛に なって ゆく の は、 主として 兩 氏の 賜で ある。 

勝 本 氏 は、 暫く 私と 同じ 大家さんの 邸 に 住んで ゐ たので、 その 苦勞は 私の 眼前に 生きて 動い 

た C いったいに 文 學者は 自我が 強く、 共同の 精神に 乏しい。 實 行よりも 批判に 鋭く、 編輯 者の 遣 

口に 不滿を 抱く と、 忽ち 攻撃の 火蓋 を 切る か、 然ら ざれば 背いて 去って しま ふ" 勝 本 氏も氣 性の 

勝った、 他に 屈しない 人で あるが、 編輯 者の 立場 を 顧みて、 よく 不愉快 を 忍んで くれた。 もう 厭 

だとい ひ 出した 事 もあって、 それ をな だめる の も 私の 仕事だった。 氏が 種々 の 事情で 辭 任した 後 

は, 平 松 幹 夫 氏が 引受けた が、 間も無く 大息に 罹って 和 木 氏と 變 つた。 正直に ぶちまけ てし まふ 



436 



者輯編 '、 も 



と、 和 木 氏 は 直情 徑 行の 爲か 非常に 誤解され 易い 人で、 久しい 閒私は 鬼 角の 評判 を 聞かされて.^ 

た。 けれども、 何が 惡 いとい ふ 筋の通った 事 は 無い の だから、 單 なる 毛 嫌に 過ぎない やうに 思 は 

れた。 て 「改造」 の 編輯に 從 つた 事 も あり、 書店 を營 み、 出版の 經驗も あるので、 最適の 人と 認 

め、 依賴 する 事に 決した ので あるが、 之が 何よりの しあ はせ だった。 原稿 を 集め、 取捨し、 校正 

をす るば かりで なく、 何よりも やりきれない 廣吿 取り もしなければ なら や、 しかも さう いふ 苦勞 

に 同情 もない 小言、 注 言、 不 平 を さ ばく, 一切の 仕事 を 一身に 引受け て や ら な ければ ならない の 

すぎ 

である。 和 木 氏 は 熱情 あまりあって、 時には 人 あたりが 強 過る から、 反抗 を 招き、 衝突し、 中に 

は短盧 にも 去って 歸らぬ 人 もあった。 或は 排斥運動と 見ても い 、策動 も、 無かった と は 云 ひ 切れ 

ない。 しかし、 氏の 熟 心と 實行 力と 時日と は、 やがて 總てを 解決し、 今日 誰 人 も 氏 を 不適任と い 

ふ 者 はなく、 人々 の 感謝 を 一 身に 浴びて 「輝く 三 田の 編輯 者」 となった。 

いったい 私 は 出 無性の つきあ ひ 下手で、 文學は 好きだが 文壇 は 嫌 ひで ある。 この 態度が 雜 誌の 

爲 にも 後進の 爲 にも 損な 事 は 百 も 承知 だが、 持って 生れた 性分で 如何にもなら なかった。 ところ 

が 和 木 氏 は 常に 文壇との 接觸を 心がけ、 同人 を廣く 世間に 紹介す る 事に 努めた。 他人の 爲に 進ん 

で 働く 事 を #1 まない 事、 氏の 如き は 珍しい。 輝く 編輯 者た る こと は、 すべて 此の 美 德の爲 といつ 



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て も 差 支ない。 同時に 叉、 和 木 夫人が、 常に 雜 誌の 用務で 出步き 勝の 良人の 留守 をぁづ かり、 家 

業 一 切 を 引受けて 後顧の 憂な からしめ たかくれ たる 功績に 對 しても、 吾々 はよ き 機會に 感謝の 意 

を 表し 度い。 

一方 私 は、 次第に 疲れて 來て、 和 木 氏 不斷の 鞭撻 をう けながら、 之に 酬 ゆる 事が 出來 なくなつ 

て來 た。 もともと 熱心な 投書家だった のが、 復活 後 は 一 囘も 休ます、 毎月 寄稿した。 それ は 同人 

への 約 であり、 叉 私 を 支援して くれる 雜 誌購讀 者に 齡 する 義務 心の あら はれであった。 單に毎 

號額を 出して ゐ ると いふ 事 は、 些か も 誇る に 足りない。 文人と して は、 よき 作品 を 書く 事 こそ 意 

義が あるので あって、 百の 駄文 は 千の 駄文と 同じく 無價 値で ある。 さう いふ 愚かなる 意地 を 張る 

爲に、 私 は 貴重なる 時間と、 たど さへ 殘り 少ない 精力 を 浪費して しまったの は、 悔いて か へらぬ 

事で ある。 それば かりで なく、 私自身で は雜 誌の 經營に 白紙 を もって のぞみ、 自分の 好み を出來 

る 丈 出し 度ない と 思 ひ、 いひ 度い 事 もい はす、 やって 見 度い と 思^ 事 も差控 へ、 次第に 意氣 地の 

無くなる 自分 を はかなく 思 ふ 位だった が、 他人が 見る と、 「三 田 文學」 は 水上 臭芬々 として 鼻 持ち _ 

ならす とする 人 も あり.、 その 爲に雜 誌が 迷惑し、 雜 誌に 作品 を 載せる 若い 人達の 出世の 妨 となる 

事 さへ 想像され るので あった。 この 邊の事 を くどくど 述べる の は 略し、 最もよ き 例と して、 もさ 



一 度 文壇 いろは 歌留多 を 借用しょう。 「ふる はぬ 三 田文學 水上 瀧 太 郞」。 

身心 共に 疲れた 私 は、 自分自身 を 救ふ爲 に、 同時に 叉 「三 田 文學」 そのもの \內 部から 湧 起る 精 

氣 を蔵剌 たらしむ る爲 に、 昭和 八 年末 を 限りと して、 我が 「三 田 文學」 の 編輯 委員 を辭 した。 隠居 

の 私 は 一二 年 完全に 休養す る 事に し、 叉 若人の 邪魔と ならぬ やう、 つとめて 會 合に も顏を 出さす. 

「三 田 文學」 を 見る 世間の 眼から、 一 日 も 早く 忘れて 貰 はう と 望んで ゐる。 

ところが 情誼に 厚い 和 木 氏 は、 老いた る 私 を憐ん でか、 なかなか 解放して くれないの である。 

事毎に 相談に 来られ、 原稿 を 書かせよ うとし、 諸會 合に 引出さう とし、 元氣 づけ、 おだて、 娑婆 

氣を 起させよう とする。 その 心 持 は 難 有い と 思 ふけれ ども、 私の 隱居 のこ \ ろざし を 完全に 遂げ 

させて くれな いのは 迷惑で ある。 それや これ やで、 私と 「三 田 文學」 との 關係 を、 世間 は 相 變らす 

切 離して は考 へて くれない。 たと へば、 「三 田 文學」 が 賞 を 懸けて 學 生の 創作 を 募る と、 或 新聞 は 

これ を 私 個人の 思 ひ つきに 出で、 私の 懐から 直接 賞金が 與 へられる もの 、やうに 報道した。 又 

最近の 「三 田 文學」 に 復活 十 周年 記念 賞金 五百圓 を、 今年度 「三 田 文學」 に揭 載せられた 作品 中 最も 

編 優秀な も. のに 與へ ると いふ 豫吿が 出る と、 あれ は あなたが 御 出しになる のです かと 訊ねる 人が 二 

者 三に と 5- まらない。 すべて 斯 くの 如く、 「ふる はぬ 水上 瀧 太郞」 と 結びつけて 考 へられて は 「輝く 



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文學」 の 迷惑で あるが、 これ とても 一半 は 和 木 氏の 罪で、 記念 賞金の 發 表に 際し、 「右 作品 を 

二 V 、へき 委員 は 水上 瀧太郞 これ を定 む」 と 堂々 と 規定して ゐ るので、 隱 居が 隱 居に ならす、 忽 

ち 賞金と 私と を 結びつけて 想像され るので ある。 「三 田 文學」 にと つて、 腐れ 緣と いふ 外 は 無い。 

先頃の 新聞紙 傳 ふるところ によれば、 實業家 望月 軍 四 郞氏は 慶應義塾 敎 職員 養老 資金と して S 

百 萬圓を 寄附され たさう である。 望月 氏 は、 獨立獨 行の 成功者で、 私 も 面識が あり、 その 風格 を 

深く 尊敬して ゐ るが、 豫而 學問敎 育の 爲に 資財 を さかれる 事 多く、 殊に 慶應義塾の 學 風と、 その 

理事 者に 信頼す る 事 深く、 今囘の 如き 思 ひ 切った 申出 をされ たので ある。 官學と 違って 私學に は、 

恩給の 沙汰 も あり 得ない 實狀 だから、 此 度の 望月 氏の 美擧 が、 塾內に 異常の 感動 を 捲 起した 事 は 

いふ 迄 も 無い。 望月 氏 は 勿論 富豪に は 違 ひ 無い が、 財閥と 呼ばれる 程の 際で は 無いで あらう。 よ 

しんば さう であった にしても、 百 萬の 金 を 無償で 投出 すの は 容易で ない。 從來 とても、 富豪が 社 

會の爲 に 寄附 行爲に 出た 事 は 稀で は 無い。 自發 的の 場合 も あるで あらう が、 多く は 他の 慫慂 に應 

じ、 又屢々 或 種の 壓迫を 句 はせられ て 之 を 行 ふに 至った 場合 も あるで あらう。 その 爲に勳 章 を 貰 

ひ、 位 を 貰 ひ、 貴族院 議員に なった 人 も あるで あらう。 しかし、 私學 慶應義塾 は、 た、、 感謝の 意- 

を 表する 外に ノ望月 氏に 酬 ゆべ き 何物 を も 持たない。 



440 



者輯編 く 輝 



この 望月 氏の 美擧は 天下の 人が 知って ゐ るが、 殆んど 時 を 同じく して 「三 田 文學」 に對し 有意義. 

なる 寄附の 行 はれた 事 は、 義塾 關 係の人々 も 承知して ゐ ない。 これが 「三 田 文學」 復活 十 周年 記念. 

賞金と して、 同誌に 豫吿 されて 居る もので、 或る 匿名の 人から、 年々 五 百 圓づ、 向 十 年間 寄附の 

申出が あつたの である。 百 萬圓と 五千圓 では. その 金額に 距 りのある 事 勿論 だが、 寄附の 對象を 

比較して 見る と、 「三 田 文學」 にと つての 五千圓 は、 慶應義塾 敎 職員 養老 資金と しての 百 萬 圓に劣 

らぬ 感動 的 出来事で ある。 此の 申出に 接した 和 木 氏が、 吉報 を もたらした 時の 昂奮 は、 今 も 私の 

もし 

眼前に ありあり と 浮んで ゐる。 若 も 私が 氏の 感激 を 煽り 立てたならば、 氏 は 手放しで 淚を 流しつ 

ヾ けたで あら, う。 

寄附 者 は 絕對に 名 を 出 し 度く ない とい はれる ので、 遺憾ながら 其の 約束 を 守 ら なければ な ら な 

いが、 曾て 慶應義塾に 學んだ 人に は 違 ひ 無い。 文學を 愛し、 何等か 文化的の 仕事に 貢獻し 度い と 

いふの が眞 意と 推察され るが、 叉 一 面に は 「三 田 文學」 同人が 多大の 犧 牲を拂 つて 雜誌を 守り 育て 

、來た 努力に 對し、 殊に 編輯 者 和 木 氏の 勞 苦に 對 して 多大の 同情 を 寄せ、 復活 十 周年 を 好機と し 

て 今囘の 申出 をされ たので ある。 その 寄附 金 を 如何なる 方法で 使用す るか は、 私に 一 任し 度い と 

いふ 申 添が あつたと いふ 事で、 その 信 賴に對 して 深く 感謝す ると 同時に、 穩居の 身 を 顧みて 躊 



した。 おも ふに 寄附 者 は、 多年の 私と 雜 誌との 關係 及び 同人 中の 年長者で ある 點 から、 私 を 名 指 

された ので あらう が、 こ、 にも 亦 隱居を 認めざる 世間が あつたの では 無い かと も 思ひ當 る。 赏金 

は 年々 異なる 方法で 使用され る 事になる だら うが、 斯 かる 有力なる 後援者 を 得て、 我が 「輝く 編 

科 者」 の 光輝 は 一 暦赫々 たるに 違 ひ 無い。 (昭和 十 年 四月 R 日) 

- , III 「三 田 文學」 昭和 十 年 五月 號 



442 



負 a ら か 



から A 負 



何が 面白い といって、 相撲 程 面白い もの は 無い。 私 は生來 勝負事が 好きで、 暇が あるなら 將拱 

も 花 合 も 洋式 骨牌 も 麻雀 も 凝って みたい 方で ある。 運動 競技 は 野球 も 庭球 も 蹴球 も 水泳 も、 その 

他 いろいろの がの、 どれ も, これ も 面白い。 ところが 俗事 多端、 s 常 生活の 營 みに 追 はれ、 ほしい 

ま、 に 之 を 追及す る 事 は 許されない。 そ. こで 自分の 慾 望 整理 を斷 行して、 數年 來將棋 骨牌 を 手に 

せす、 麻雀 は 流行の 最初に あたって 遊び 方 を 習った 丈で 深入りせ す、 運動 競技の 見物 も 制限 をき 

びし くし、 今では 野球と 相撲 をの こすば かりだ。 なほ 今後 その ふたつの どちら か 一 を 選んで 他 を 

捨てなければ ならない 場合に たち 至ったら、 私 は躊黯 なく 野球 を 捨て、 相撲 を 守る。 一月と 五月 

の 本場所 を、 思 ふが 儘に 見る 事が 出来れば、 他の 一切の 享樂 はなくて もい、 と 思 ふ 事が ある。 

誰もし る 常 陸 山 梅 ケ谷對 立 時代 は、 未だ 西洋 近代の スポ 才ッが 一般大衆の 興味 を ひかす、 勝負 



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事の 好きな 人間 は、 こぞって 相撲に 血 を 湧かした。 恰も 後年の 早慶 野球 戰の 如く、 天下 を 二分し 

て 常 陸山黨 にあら ざ れ ば 梅 ケ谷黨 で、 , 一 _ 度 も 本場所 を のぞいた 事の 無い もの 迄 も、 いづ れ か を最 

負に して その 勝利 を 祈る 有様だった。 今 も 吾々 年代の 者、 或は それ以上の 者 は、 當時を 追懐して 

感傷 癖に とりつかれ、 昨日が すべてに 於て まさり、 今日が 一 切 劣る が 如き 言辭を 弄び やすいが、 

これ は愼 重に 考 へなければ ならない。 :ノ .., 

殘 念な 事に は、 相撲 は 時代 を 異にする とその 強弱 を 比較す る ことが 出来ない。 人 は 角 過去の 

力士 を 囘顧 する 時に は 其の 最盛期の み をと りあげ、 之 を 現代の 未完成 の 力士と 對 比して 論じ た が 

る 傾向が ある。 同じ 番附に 名前の 對峙 する もので も、 その 生涯の 上り坂に ある ものと- 下り坂に 

ある ものと を 比べて は 公平 を 失し 易い。 たとば へ、 常 陸 山と 太刀 山 は、 私の 知る 限りに 於て (私 

より 一時 代 前の 人 は必す 初代 梅ケ 谷の 名 を あ げ て 異議 を さしはさ むに 違 ひ 無い) 明 治 以 後 最強 の 

力士であった。 此の 二人 は 幾度と なく 土 使で 勝負 を 決して 居る。 それでも、 兩 者の 最盛期に 於て 

どっちが 強かった か を斷定 する の は 困難で ある。 常. 陸 山 は 早く 死んだ が、 太刀 山 は 現存し、 唐々 

雜 誌に 談話 を 載せて ゐる。 それ を 見る と、 if 記者の 無智 も手傳 つて ゐ るが、 常に 自分の 方が 強 か 

つた やうに 話して ゐる。 しい 時 は、 初 顔合せの 場所で も 常 陸 山 を 負かした とい ふ大 法螺 迄 書い 



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負 轟ら 力' 



て ある。 しかし、 當時を 知る 者が 公平に いへば, 兩者は その 盛時 を 異にする もので、 太刀 山 入幕 

の 頃、 常 陸 山 は旣に 最盛期に 在って、 後年 無敵と 稱 された 前者の 鐵砲 も、 決定的に 效果を あげる 

事 は出來 なかった。 太刀 山が 常 陸 山 を 連破す るに 至った の は 常 陸 山の 土 保の 晩年で、 そこに 太刀 

山の 完成 期が 来たの だ。 互に 勝負 を爭 つた 力士で さへ、 その 強弱 は 俄に 決し 兼る ので あるから、 

時代 を距て 、は その 無理が 一 層 大きくなる。 殊に 土 俊の 廣 さが 違 ひ、 東西 對抗 が總當 りと なり、 

更に 加 ふるに 相撲 技 そのものが 革命的 進步を 遂げた 今日と 往時 を 比較して、 彼 を 強し とし、 これ 

を 弱し とする が 如き は、 動脈硬化 的 偏見と いはなければ ならぬ。 もとより 上例の 二 力士の 如き は- 

稀代の 強豪で あるから、 時代 を 超越す る もの かもしれ ない が、 それにしても 當 時の 取 口で、 果し 

てよ く 玉 錦の はげしい 寄 身に 對し、 必勝 を 期し 得る や 否や、 まして?^ や 梅 ケ谷國 見 山 駒ケ嶽 等が 

武藏 山男 女の 川と 對畤 して、 よく 之 を 連破し 得る や 否や。 

こ、 で 先づ考 ふべき. は、 今日の 相撲が 昨日の 相撲で ない 事で ある。 今日の 相撲 はあくまで も 積 

極 的で ある。 出足が 早く、 變 目が 早く、 互に 攻めて 攻めて 攻めぬ かう とする。 實カ 第一 と稱 され 

ながら、 未完成の 強さの 故に J* 々期待 を うらぎる 男女の 川の、 最大 缺點と 思 はれる 出足の 遲 さも" 

明治時代だった ならば、 さほど 際立たなかった に 違 ひ 無い。 私 は 常 陸 山と 男女の 川 を 同時代に あ 



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らしめ て、 これ を 力闘させる 事 を 空想す る 丈で も、 十分 感激に 醉ふ 事が 出来る。 

強い 弱い を 別にしても、 なほ 且 昔の 相撲が 面白く、 今の 相撲 はつ まらない とい ふ 人が ある。 所 

よつ すま ふ 

謂寬政 式の 四 相撲 を 古典 美と して 尊ぶ 事 は 結構で あるが、 私見 を 以てすれば、 最初から 雙 方が 四 

に 渡る 事 を 型の 如く 心得、 それから 一 呼吸して 揉 合 ふ 相撲よりも、 先づ 出足 早に 突かけ て、 互に 

攻め 勝たん と 先手 を爭 ひ、 力の 均衡が 破れす に、 はじめて 四に つが ふ 相撲の 方が 遙 かに 面白み は 

♦ リズム 

深いので ある。 今日の 相撲 は、 立 上った 時から 勝負の きまる まで、 千變萬 化が 一 の 律動に よって 

機械の 如く 展開し、 その 間 一瞬の 休 .4 もな く、 寸隙 も 許さない。 闘志の 旺盛、 出足の 迅速、 技法 

の 巧緻、 緊張 感、 第一 の わざと 第二の わざとの 變 HI の 細かい 味、 一一れ こそ は 現代 積極的 相撲 技法 

の 面白さで ある。 不幸に して、 毎 場所 初日から 千秋 樂迄梭 敷に 姿 を 見せて ゐる ファンの 中に も * 

か、 る變 草の 行 はれた 事 を、 看過して ゐる 人が あり はしない か。 隙 だらけ、 むだ 手澤 山の 勝負で 

も、 四 相撲で ありさ へ すれば 習慣 的に 讚稱 する 傾が 未だに あるので はないだら うか。 

何が 相撲 技法に 革命 を 起させた 原因 か、 これ は彥山 光三 氏 あたりの 研究に ゆだぬべき もので あ 

るが、 人智の 發達ゃ 力士の 切 磨に よる 外に、 近代 社會 思想が 影響した 事 も考へ 度い。 強い ものに 

はかな はない とい ふ 封建思想が 土 俄の 上に あら はれて、 上位の 力士に つかまる と、 早く も 勝負 を 



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晶らか 



投げて しま ふ實例 は、 いぜんに 多く、 今日は 殆んど 無い。 たった ひとつの 得意の 手 を、 相手 かま 

はすに 連日 用ゐ て、 勝つ も 負る も洒然 たる 力士の あった 事な ど は、 樂 しき 夢と なった ので ある。 

いかに 相手が 強くても、 僅かなる 破綻に つけ 込んで、 勝 機 をつ かみ 得る 瞬間の ある 事 を、 どの 力 

士も 強く 意 識 する やうに なった。 土 保 上の 民主的 思想 は、 總當 式と なって 一 奮 はっきり したやう 

に 思 はれる。 

同時に 叉、 革命の 動因に、 英雄の 力の 働いた 事 を 忘れて はならない。 私 は 思 ふ、 若し 常 陸 山 谷 

右衛門の 出現がなかったなら、 今日の 相撲 は斯 く迄發 達しなかった であらう。 太刀 山 は 強かった。 

梅 ケ谷は 上手だった。 私の 最も 好んだ 荒 岩の 技の 冴 は、 殆 んど藝 術の 域に 達して ゐた。 その他 も 

ろ もろの 名 力士 を 見た。 しかし 彼等の 大多數 は 個人的 英雄だった。 ひとり 常 陸 山 は 角 道 をし よつ 

てた っ概 があった。 彼程 將來の 角 道に 對 して 大 なる 力 を發撣 し、 影響 を與 へた 者 は 無い。 その ひ 

とつに、 彼が 弟子 達に 與 へた 訓練が、 後日の 角 技に 根本的 革命 を もたらした。 彼 自身 は、 前へ 出 

て 行く 方で はなく、 受けて 立つ 力士で あつたが、 弟子 達に はあく 迄 も 突進して ゆく 相撲 を とらせ 

た。 小 常 陸大の 川碇潟 以下、 比較的 體 力に 惠 まれない 者が、 舊 態を脫 しない 相手方の 錦鎗 相撲の 

弱 點に乘 じて、 身上 不相應 の 働き をした の は、 偏に 出 羽の 海 部屋の 積極的 取 口によ つて 猛練習 を 



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15 んだ おかげで ある。 やがて 相手方 も、 消極的 取 口で は對抗 出来ない 事 を 悟り、 遂に 今日の 如く 

進步 した 相撲 を 招来した ので ある。 

相撲の 面白さ は、 土 依の 上の 勝負ば かりで は 無い。 時代と 共に 進步 する 動向 や、 一人の 有望 力 

土が あら はれ、 之が 次第に 完成され て ゆく 過程、 次に 又 他の 有望 力士が あら はれ、 前進 者に 迫り、 

やがて 自ら を 完成す る 推移の 如き、 廣大 無邊の 面白さで ある。 相撲の 發 生が 古く、 その 形式 も 古 

風 を 守って ゐる ところから、 兎角 守 舊的觀 方に 迷 ひ 込み 易い が、 それ は 相撲 を 正解す る もので な 

い。 相撲 も 亦社會 人生の 諸相の 如く、 常に 進展して 止まぬ ものと 考へ、 觀者も 共に 新鮮なる 感覺 

と、 明晰なる 理智を もってつ いて 行かなければ、 その 眞の 面白さ を 感得す る 事が 出来なくなる。 

(昭和 十一 年 一一; 月 十八 日) 

11 「相撲」 昭和 十一 年 五月 號 



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記 雜撲相 



相撲 雜記 



はじめて 本場所の 相撲 を 見た の はいつ であるか、 正確に 語る こと は 出来ない が、 私のう す ぼん 

やりした 記憶の 中に、 初代 西の 海が 大戶 平と 組んで、 東の 二字 口まで 持って行きながら、 力士 溜 

へう つち やられた 光景が 浮び 上る。 果して 西の 海と 大戶 平の 勝負だった か、 或は 他の 力士の 取組 

と混亂 しながら、 勝手に 西の 海と 大戶平 だと きめてし まって ゐ るか、 それ もた しかで は 無い。 し 

かし、 あかぐろい 西の 海と、 うす 黄色い 大戶 平の 肌の 色まで、 我が 記憶の 幻燈に はう つし 出され 

る。 それが 私の 最初の 相撲 見物で あるか どうか はわから ない が、 それより 古い 記憶 は 何も 無い。 

恐らく 明治 二十 五六 年、 私の 五六 歳 頃の 事で ある。 

明治 二十 年代 は、 維新 以來 一番 はりきった 時代ではなかった らう か。 洋風 をと り 入れる 事に 忙 

しかった 社會 が、 鬼に 角 一段のお ちつき に 到着し、 議會は 開かれ ノ新 組織の 企業 は 起り、 政治 も 



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經濟も 若々 しい 希望に みち、 文學は 紅葉 露 伴の 新風が 一世 を 風靡し、 芝居 は團 菊が 顏を 合せ、 や 

がて 起った 日 淸戰爭 の 大勝 利 は、 國民的 自覺を よびさました。 上に 明治 大帝 を 頂き、 萬 民 一致 國 

運の 隆昌 を 疑 はない 時代 だから、 世の中 は 幼稚 單 純だった だけ、 あかるく ほがらかだった。 學問 

は 直に 實 世間に 應用 され、 うで 次第で 立身出世 のみち は 開け、 富 も 名譽も かち 得る 事が 出來 ると、 

誰 人 も 信じて 疑はなかった から、 他人の 思惑 を は かる 事な く、 樂み をた のしむ 事が 出来た。 外 

に 各種の 享樂が ある わけではなかった から、 見る ものと いへば 芝居と 相撲に と V め を さす。 私 は 

太平の 御代の 相撲 場の 光景 を 思 ひ 出す。 囘向院 境- s の 小屋が けの 場所 は、 幾人 を收容 したの かし 

らな いが、 犬 幕 張の 事 だから、 川風に はたはたと あ ふられる 度に、 その-お 間から 見える 靑空 は、 

大きくな つたり、 ち ひさくな つたり した。 春場所の 寒さ はもと よりだが、 夏場所 は 西日が さしこ 

んで、 當 節の 國技 館よりも 蒸 暑かった。 場內の 取締 も、 社會 大衆の 嫉視の 眼 も、 きびしくない 時 

勢 だから、 觀衆は 互に 勝手 氣 儘だった。 肉體を 露出す る 事に ひけめ を 感じす、 夏 は 肌ぬ ぎが 多く、 

一 齊に圑 扇 や 扇子が 白く ひらめく のが、 桟敷の 緋 毛氈の 爲に 際立ち、 はでな 浴衣に 白 縮緬の 兵兒 

帶 を幅廣 くまき つけた 勝 力士が、. as 負 客へ 挨按 に迥る 景色 も 印象が 深かった。 春場所で は 1 何と 

いっても 藝 者の 姿が 目についた。 明治維新の 波に 乘 つた 田舍 者が、 官員 となり 實業 家と なり、 俄 



450 



id 雜撲相 



に 大盡氣 分に なった のに 連れて、 藝者 は素晴 しい 人氣で 社會の 表面に 躍 出た。 女 役者 はあって も, 

今の 女優の やうに ははび こらす、 ダン サァも 女給 もレヴ ユウ. ガ アル も 存在せ す、 引 込 思案の 素 

人の 奥さん や 娘さんと は 懸絶した 社會 環境の 中に、 確固たる 地位 を 占めて、 嘴の 中心と なり- さ 

かり 場の 華であった。 封建時代の 遣 風で、 相撲 を 見る 婦人 は 少なかった 時に、 藝者は 別格と して 

場內を いろどった。 藝 者と 力士の 色模様 は、 當然の 事と して、 役者と 藝 者の それの 如く、 人々 の 

口にの ぼった。 私 は 今でも、 劇場で 見る 藝 者より 相撲 場で 見る 藝者 姿の 方が 美しい と 思 ふ。 尤も 

相撲き ちが ひの 藝 者と いふの が、 例外 無 しに 或る 關 取に 對す る 負 強 さに 凝り かたまって ゐる丈 

で、 相撲 を 正解して ゐ ない 事 驚く ばかりで ある。 場所の 數は澤 山 見て ゐて も、 本當の 見方 を 知ら 

ない ので、 誰某 は 男ぶ りがい、 とか、 無邪氣 だと か、 愛嬌が あると か、 親孝行 だと か、 親方お も 

ひだと か、 稍 進んでも、 あの人 は 水 を 二度 はっけな いと かいふ 風な 感心の しかたし か 知らないの 

である。 • 

もの を 見て 休む 時、 飲食が 必す つきまと ふの は我國 のなら はしで あるが、 これ も 亦い ぜん は 一 

署 行儀が よくなかった。 醉漢と 喧嘩 はおき まりで、 場^の 签 氣も 甚だ 殺伐だった。 學 生の 應援 M 

とい ふ、 い たづら に騷々 しい ものはなかった が、 ^人々々 の 聲援に は屢々 女の 聲も まじった。 鳳 



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凰が とり ざ かりの 頃、 か ぼ そい 聲で その 名 を 呼ぶ 少年が あり、 官員 安藤 則 命と いふ 人の子 息 だと 

聞かされ たが、 その 細く とほる 聲は 極めて 特徴が あって、 私 は 今日 も尙 耳の 近くに 聞く やうな 氣 

持が する。 その 人 は 今 も 存命で、 相撲 を 見て ゐる であらう か。 當 時小學 生の 私 も 髮髮霜 を 置く に 

至った 今日, その 人 も 亦 薄 禿の 老人で あらう が、 幸に 健在な らん 事 を 祈る ものである。 

投 纏頭 も 亦當 時の 風景の ひとつで ある。 自分の 聲援 した 力士が 勝つ と、 土 依 をめ がけて 帽子 や 

^織 を 投げる。 行儀よ く 端坐して ゐ たらぶ 正面 淺 敷の 大名 貴族に 對抗 する、 商工 階級の 意氣 とも 

見え、 昆榮 でもあった であらう。 二れ は國技 館の やうに 廣ぃ 所では 效果 もう すらぐ が、 何時の 頃 

からかお かみの 禁 する 所と なった。 

力士が 鼓 負 客の 桟敷に 挨拶に 行く 事 も、 いっか 協會 が自發 的に 禁じた 樣 子で、 今 は 僅かに 後援 

會と稱 する 阒 體 見物に 對し、 羽織袴の 力士が 幹事に 引き つれられて、 頭 を 下げに ゆく だけにな つ 

た。 !@ 負 力士が 棧 敷へ 來 ると いふの は、 これ こそ 客の 見榮 で、 相當 嬉しい もの、 やうに 想 はれる 

が、 今日の 如く 世の中が せ、 こまし く、 嫉妬深く なって は、 これ を 林-^ じる のが 穩當 であらう。 曾 

て 常 陸 山 を 中心とする 一 方 は あまり 棧敷迴 をせ す、 梅. ケ谷國 見 山 太刀 山 等の 雷 友 綱 部屋 はしき り 

に 愛 嫋を賣 つて 歩いた。 力士 一流の、 二つ 三っつ けさ まに 頭 を さげ、 敷の 間の かよ ひ をい つ 



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ばいに ふさいで 客と 話 をして ゐる姿 を、 當 時の 私 はい さぎよ しとせ す、 出 羽の 海 一門の 態度に 贊 

成だった が、 今日に なって みると、 それ もな つかしい 場 風景の ひとつだった と 思 ふ。 

日 淸戰爭 は 我國の 飛躍 を 現實に 示し、 せ界の 認識 を 改めさせ、 國 民の 自覺を 深めた。 凱旋した 

將軍 連が 胸間に 勳章を かがやかし、 相撲 を 見物す る 光景 も、 強い 印象 を殘 した。 〔五. H; 字き 國 民の 

信賴は 深く、 尊敬 は 厚く、 英雄 崇拜 の氣 持が 頗る 強かった。 山路 獨眼 龍將 軍と か 佐 藤 鬼 大佐な ど 

、いふ 劇的 人物が、 土 依 を 園んで、 吾々 と共に 樂む 光景 は、 心強く 樂し いものであった。 

力士に 對 しても、 吾々 は 英雄 崇拜心 を 多分に 持って ゐた。 そのく せ、 子供 は 女に ひとしく、 最 

強 最大の 力士 を 好ます、 稍 型の ち ひさい、 手 取と 呼ばれる 力士 を 愛する 傾向が ある。 私の 如き も- 

小 錦 を 破り 常 陸 山を惱 ます 荒 岩 を 好み、 梅 ケ谷を 苦しめる 逆鋅を 愛した。 この 二 名 力士 は 今も阁 

顧して、 我が 好みの あやまり, でない 事 を 思 ふが、 同時に 私 は 長す るに 及んで、 往年 多少の 反感 を 

い だ い た 常 陸 山の 如き 大金 剛力 士 を 喜ぶ 心境 を 養 ひ 得た。 

大衆 は 女 こどもと 違 ひが 無い。 朝潮 は 堅固な 四つ相撲で、 その 相撲ぶ り も實績 も、 立派な 大關 

だった が、 不幸に して 醜貌無 愛嬌の 爲に、 人氣の 無い 力士であった。 何の 取得 も 無い 梅の 花 も、 

紅顔の 美少年だった 爲に、 相當 の人氣 があった。 武藏山 は 容貌と 姿體 にど ことなく 二枚目 の 所 



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が あり、 殊に 祌經 質ら しい 沈痛 さが、 女 こどもの 感傷に はまって 同情 雨の 如く、 男女の 川 は外觀 

極めて 粗 豪の 爲, 大衆の 支援 を 得る 事 比較的に 乏しい。 假に 富の 山犬 八洲の 如き 塑の 力士が、 今 

後 犬に 強くな つたと しても、 双葉 山大邱 山と 人 氣を爭 ふ 事 は 不可能で ある。 名前 は 一寸 申 上 かね 

るが、 昔 美人の 名の 高かった 或る 良家の 未亡人が、 大邱 山の 土 に 上る の を 見て、 「い、 お 相撲 

さんだ わね え、 うちの 〇〇 (息子の 名) も あ、 いふ 風になる とい、 ん だけれ ど」 と、 つ、 しみ を 忘 

れた 歎聲を もらした の を 聞いた 事が ある。 つい 此間、 よそのお 嬢さん 達に 相撲 を 見せる 事 を敏ま 

れて 引受けた が、 はじめて 相撲 を 見る とい ふのに、 令 孃達は その 例に もれす、 双葉 山大邱 山が 御 

負で、 「叔父 さま は 誰が お好き」 ときく から、 男女の 川が 好きだと 答へ ると 「あら、 いや あねえ」 

と 眉 を ひそめた。 やがて 知合 ひの 角狂責 族に 賴ん で、 双葉 山の 綺 葉書に サイン をして 貰って 來た * 

か 、 る 時、 力士 と映畫 女優 のゴ シップの 傳 へられる の も、 角 道 復興 の 兆と 見る ベ き で あ ら う 。 

もう 一度 昔に もどって、 ^の家には大^^とぃふカ士が出入り した。 彼 は 母の 生國 出羽庄 ts: の產 

で、 その 親 共 は 母の 里から 多少の 恩顧 をう けた 農家の ものであった。 明治 初期の 大力 士梅ケ 谷と 

對峙 して、 強力 無双とう たはれ た大達 は、 鄕里を 同じく する ので、 これ を 頼って 弟子 入した が、 

骨太で 上脊も あり、 幕下 時代 は 今 <s ^北海 外 ケ濱 等と 共に 髙砂 部屋 の. 四 犬 王と 呼ばれ た さ うだが、 



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前頭 二枚目 位 迄 進んだ ぐけ で、 惡疾に 祟られて 振 はなくな り、 一度 脫 走して 大阪 相撲に 加 はった? 

後に 歸參が 叶って 再び 囘向院 の 土 保 を 踏んだ が、 旣に 衰退 期に 入って ゐて、 少しもい い 相撲 を 見 

せなかった。 若い 頃 はい ざしら す、 私が 知って からの 彼 はう つち やりの 名人で、 敵の 土 俊で 勝つ 

事 極めて 稀なる、 面白くない 力士だった。 おまけに、 あばた 面の 鬼瓦の 如き 容貌 だから、 人氣の 

無い 事 はいふ 迄 も 無い。 相撲 好の 私 は、 此の 最負 甲斐の 無い 力士で も、 やって来れば、 種. < 相撲 

に關 する 質問 を發 し、 得る ところ 少なくなかった が、 た 相撲 場で 彼に 口 をき かれる の は、 あた 

り 近所の 人に 對 して 羞し かづた。 今日 も 亦 負ける に 違 ひ 無い 彼が、 棧 敷へ 廻って 來 るのに は 閉口 

した。 わざと 知らない ふり をして 横 を 向いたり、 話しかけられても 返事 をし なかったり、 見え透 

いた 手 を用ゐ たもので ある。 家に 來 ると 酒 を飮 み、 い、 きげんに なって、 力士 獨特 のつ ぶれた 咽 

喉で、 相撲 甚句 や 追分 をうた つた。 彼 は 私 を 部屋へ つれて 行き、 稽古 を 見せたり、 牛鍋で 御飯 を 

たべさせて くれた。 その 牛肉に 山椒と 唐辛子の 粉 を澤山 かけて 喰った のが、 幼い 私に は 珍しく、 

その- 藥 味の 鋭い 香 を 何時 迄 も 忘れなかった。 私 は 彼に、 高 砂 部屋の 若い者で、 いまに 強くなる の 

相 

^ は 朝 嵐と 浪の音 だ. と 聞かされ 、嫗幹 長大の 朝 嵐 はたし かに、 大關迄 もの ぼる だら うと 思った が、 

S" からだの ち ひさい 浪の 音が 果して 幕に 入れる かどう か 疑 はしい と 思 ひながら も、 さう いふ 三段目 



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邊の 力士に 注意 を 向けて 見る 興味 を覺 えた。 朝 嵐 は 後の 朝潮で 大關 となり、 浪の音 は 小兵ながら 

相撲が うまく、 三役と なって その 地位 をはづ かしめ なかった。 

今でも 私 は 相撲の 面白さの ひとつと して、 若い者の 中から 後日の 幕內 力士 を 探し出す 興味 を 多 

分に 持って ゐる。 一見 小粒で、 素人 眼に は 物に なり さう もな く 見えながら、 脚 腰の しっかりした、 

取 口に 味の あるのに 目星 をつ け、 その 眼鏡に 狂 ひの 無かった 時の 嬉し さは、 我 子の 成長 を 見守る 

母親の 心に いもので あらう。 旭川 や 巴 潟 は、 こ の 喜び を 私に 與 へ て くれた 力士で ある。 

三段目の 中 どころ に、 沖ッ 海を發 見した 時の 心地よ さは、 今 も 私の 忘れ 得ない 所で ある。 斯う 

いふ 大物に なると、 角 道の 將來 に對 する 深き 安心 を 伴 ひ、 自分の 氣持迄 強く たくましくなる 感じ 

かする。 

さう はいふ もの、、 よく 相撲 好と いはれ る 人の 中で、 勝負 は 幕下の 方が 眞劎で 面白い など、、 

いかにも くろつ。 ほが つてい ふ 人 を 見る が、 私 は その 人々 の 相撲 眼を輕 蔑す る。 下の 方の 力士の 面 

白 さは、 その 將來を 期待す ると ころに あるので、 かんじんの 相撲 は 若く、 隙 だらけで、 面白くな 

いのが 常 だ。 二 段 目 三段目の 面白さ は、 砂 中に 珠を 求める 面白さに 過ぎない。 彼等 は 素人に 近く、 

無闇に 投を うち <In つたり、 さし 手 を さし かへ たり、 土 依 いっぱいに 動き 廻る であらう。 それ を 相 



456 



記 雑撲相 



撲の變 化と 見る のは大 間違で、 互に 隙 だらけ だから 動け るので、 之 を幕內 力士と 比べる と、 靜中 

に 動 あ る眞 の 相撲 の 味と は 雲泥 の 相違 である。 

相撲 は 大昔から あった。 その 形式 は 今も尙 甚だ 古風 を傳 へて ゐる。 しかし 相撲 技術 そのもの や、 

競技 方法 は、 吾々 が 知って からで も 隨分變 つた。 殊に 最近に は、 土 依の 擴大が あり、 仕切 時間の 

制限が あり、 土; S 中央に ニ條の 白線 を 引いて 仕切の 位置 を 限定し、 引 分 預の取 直し を させ、 東西 

對抗 を總當 りに するな ど、 急激な 變 革が 行 はれた。 明治 年代の 横綱 大砲 萬 右衛門 は、 九日の 相撲 

(當時 は 晴天 十日の 與 行と いふ もの > 十日 H 千秋 樂に は慕內 力士 は 登場し なかった) の 大半 を 引 分る 程 超 時 

代 的 存在だった が、 彼 をして 今日に あらしめば どうす るで あらう か、 私に は 想像が つかない。 稀 

代の 小兵 力士、 長く 三役に 位した 玉 椿の 如き は、 引 分 取 直 制度の もとに、 あれ 程の 名聲を あげる 

事 は 不可能で あらう。 

古くからの 相撲 ファン は、 東西 入 まじりの 總當式 取組 を 喜ばない が、 いったん 味 を 占めた 吾々 

は、 總當の 面白さに 別れたくない。 これ は 天 龍 一派の 脫走 ばあって、 俄に 顔ぶれの 寂しくな つた 

窮餘の 策に はじまつ たの だが、 これが 爲に 吾々 は、 毎日 好取組 を 見る 事が 出來る やうに なった。 

今 假に舊 制に 戻る とすれば、 玉 錦武藏 山男 女の 川の 三巴戰 のどれ か を 失 はなければ ならない。 或 



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は 此の 三大 力士に 對す る 淸水川 双葉 山 等 の顏 合せの 中、 い く つか を犧牲 にしなければ ならない。. 

贊澤に 馴れた 吾々 は、 その 寂し さに 堪 へられない であらう。 た 總當 式が 氣の 毒な の は 力士で あ 

る。 今の 關脇 小結 前頭 二 三枚目 位の 力士の 辛 さは 察する にあ まりある。 舊 制度なら ば、 彼等 も 立 

派に 星 を殘す 連中で あるが、 總當 の爲に 勘定の 惡 くなる の は 心外に 違 ひ 無い。 私 は 此の 點に 於て、 

自然の 解決 を 待つ 自由主義者 である。 卽 ち將來 或る 一 つ 又は 二つの 部屋が、 幕 の 半數に 近い 力 

士を 一時に 輩出した 時、 おの づ から 東西に 分れる の を、 氣 長く 待た うとい ふので ある。 

大體に 於て、 私 は 現在の 相撲に 十分 滿 足し、 感謝し、 殆んど 何等の. 註文 も 無い。 天 籠 一派の ト 

ォナメ ント式 相撲な ど は 見た くも 無い。 場所 一 番の 相撲に 全力 を盡 すので なければ 滿 足しない。 

又 部屋 制度 を 解消し、 力士 全部 を 協 會直屬 とせよ とい ふ 新ら しがり 屋の說 に は 大反對 である。 そ 

ん なやり 方 は、 相撲の 眞劍味 を 奪 ひ、 必然 力士 を 弱くする。 海の ものと も 山の ものと も 知れない 

若者 を つれて 來て、 手鹽 にかけ て 育て、 訓練し、 しあげる 現 制 なれば こそ 今日の 發達を 招来した 

の だ。 ひとつ 签の飯 を 1& ひ、 起居 を 共に して ゐる者 同志が 取組む ので は、 八百長 を 助長し、 相撲 

を 見世物 化する に 違 ひ 無い。 

預、 引 分 も、 昔の やうに 其の儘 預り、 义は 引分けて しま ふ 方が よいと いふ 說も ある t これに は 



458 



言 d 雜撲相 



もー應 首肯す る。 下位の 力士が 惡戰 苦闘して 、やう やく 引 分、 預 となった の を、 乂取 直させら 

れ ては堪 るまい と 思 ふ。 殊に 體 力の 劣る 力士が、 操み に 接んだ あげく、 二度:; Z の 勝負 を 強制され、 

あっけなく 負る の を 見る 時 は、 最初の 勝負の 感激まで も、 ふいにし てし まふ 感じが する しかし、 

これ も 總當と 同じ やうに、 あくどい 御馳走に 馴れた 吾々 は、 今更 ちょっと 捨て 難い。 殊に 此の 取 

直 制度 は、 今日の 相撲の はげし さの ひとつの 原因と も考 へられる ので、 これ を廢 する 爲に 耳び iao 

極 的 相撲に もどる 惧れも 無しと はいへ ない C 

た-く^が 他の 人々 に對し 異說を 立てた いのは、 旣に引 分が 取 直しと 定まった 以ト、 水 を 入れる. 

事 はやめて はどう かと 思 ふので ある。 雙 方が 疲れ、 呼吸が 苦しくな り、 互にし かける 氣カも 乏し 

くな つた 際、 ー應 引分けて 水 を 入れる の は、 更に 勝負 を 新鋭なら しめる 方法と して 案出され、 雙 

方 をいた はりながら、 あく 迄 も決戰 させようと いふ 武士道に よるので あらう が、 相撲 は 同じ 人間 

がと つても、 完全に 同じ 體勢を 二度 繰 返す 事 は 望まれない ものである。 一見 前と 同じ 組 手に 見え 

て も、 本人 達に して 見れば、 からだの 各部の 位置の 一分 二分の 相違 さへ 非常な 力の 增减を 招く。 

實 際の 土 俄で、 吾々 の 遠い 棧 敷から 見ても、 前の 體 勢と は 違 ふ 事が はっきり 認められ、 冷々 する 

事が 多い。 まして や 取組んで ゐる 本人に して は、 堪へ 難い 事に 違 ひ 無い。 層々 水 人後 直ぐに * あ 



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つけなく 勝負の きまる 事の あるの. は、 單に 鋭氣の 囘復の 早い 方が 有利になる ので はなく、 行司に 

よって 人爲 的に 行 はれる 體 勢の 些少の 相違が、 とり かへ しのつ かない 重大な 結果と なって あら は 

れる 場合が あるので ある。 あくまでも 勝負 を 決する とい ふ精祌 は、 旣に引 分 取 直しに よって 達せ 

られ るので あるから、 引 分 取 直しの 行 はれる 限り は、 不自然なる 水 入は廢 止すべき であらう。 私 

は、 水 人後に 決する 勝敗に つき、 常に 不快なる 疑念に 惱 まされる。 

なんでもかんでも 昔 をよ しとす る 論者 も すくなくない。 il 切 時 問の 制限 はいけ ない とい ふ。 土. 

i: ^中央の 白線 は 無用 だとい ふ。 これら を やめて、 雙 方の 自由 意思 を もってた、 か はせ なければ 眞 

の 相撲の 味 は 出ない とい ふ。 ー應の 理由 はたし かに ある。 しかし、 旣に土 依 そのもの さへ 個人の 

勝手 を 無視して 廣さを 限定して ゐ るの だ。 ニ條の 白線 を 引く 事に よって、 不快なる 頭の 密着 を 許 

さす、 時間の 制限に よって、 無理な 註文 をつ けて 何時までも 立たない 卑怯 を 防ぐ の は 止む を 得な 

い 事で ある。 野球の 投手 も 球 を 持って 長く 身 構へ て ゐる事 は 許されない。 競拔の 興味の 爲 にも 之 

等の 制限 は 必要で ある。 

話 を 昔に 屍す と、 子供の 頃 親戚の 相撲 好の 老人に、 常に 本場所 を 見せて 貰った 事 は、 私の 一 生- 

の しあ はせ で、 深く 感謝す ると ころで ある。 後年 自分の 淺敷を 持つ やうに なつてから、 私 は 自分 ■ 



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の 昔 を かへ りみ て、 親戚の 子供達に 占據 させる 事に した。 愚妻 は 娘の 頃、 嚴 格なる 父親の 挂の下 

に 育てられ、 芝居 も 映畫も 見た 事がない とい ふ當代 稀なる 記錄 保持者で あるが、 いったん 嫁して 

野放しと なり, 十分の 反動 を 伴 ひ- 芝居と 共に 相撲 は 大好物と なった。 みめかたち すぐれたる 常 

の 花 武藏山 天 龍の 勝利 を 祈る 女子供の 常識から 入って、 一歩 も 進まない 事 勿論で ある。 これが 體 

質 虚弱で、 寒暑 共に きびしく こたへ、 冬は棧 敷に 炬燧が 欲しく、 夏 は 六 人 詰の 蒸 暑さに 辟易す る。 

しかし 私 は、 過去の 追憶のう ち 最も 樂 しかつ, た, 相撲 見物の 喜び を、 なるべく 多勢の 子供達に 分け 

て やりたくて、 滿 員の 桟敷に 脚 や 膝の 痛 さ を 忍んで ゐる。 「何とかして ゆっくりと 相撲が 見 度い」 

と 愚妻 は * 々歎息す る。 

その 子供達 は 時々、 荒 岩 は 現代の 力士の 誰に 一 番 似て ゐ るか、 逆 鋅の取 口 は 誰に 似て ゐ るかと 

いふ やうな 質問 を發 して 私を惱 ます。 力士に は 大別して 數 種の 型が あるが、 いざと なって 考へ る 

と、 ぴったり. 相似の 二人と いふ もの は 無い。 何とかして 子供達に、 昔の 名 力士の おもかげ を傳へ 

度い と 思 ふが、 とても 出来ない。 私 は 裸 業の 力士 を 見る 毎に、 この 地上に ありあまる 人間の 中に 

は、 親子 兄弟 姉妹 をの ぞいて、 同じから だ つきのもの はお にゐ たいの だと 思 ひ * 造化の玄妙-.^' 

可 思議に 驚く ので ある。 



■161 



相撲 技法の 變遷 について は、 多くの 觀 客が 入 く氣附 かすに ゐる。 誰も 彼 も、 た、. -單に 撲の 

多かった 昔 をな つかしが る。 社會の はげしい 推移 は、 相撲 を も 一 變 した。 私の 友人が 三十 年ぶり 

で 相撲 を 見て、 「僕に は當 今の 相撲 はわから ない. 一と 歎いた が、 それ は 正直な 告白で ある。 全く そ 

の 言葉の 通り、 三十 年 前の 相撲と は大違 ひなので、 見る 方の 心 構へ も變っ てゐ なければ ならない 

ので ある。 ... , 

この 變遷は 角界の 玄人に も往々 見逃され 勝 だ。 連中の 中に も、 觀 客の 馒 言と 同じ 事 を 云つ 

てゐる 者の あるの はなげ か はしい。 

私 は 近年 稽古場 をの ぞいた 事が 無い ので、 果して どうい ふ 稽古 振 かしらな いが、 今の 相撲 は稽 

古が なま くらだと いふ 聲は よく 聞かされる。 しかし 私 は、 これに も 疑 を 持ち、 稽古の やり方が 變 

つたので はない かと 想像して ゐる。 多分 昔の 方が 嚴格 であり、 無理 強 ひで あり、 階級 的であった 

であら-:,'。 師匠の 型 を ひたすら 敎へ 込まう としたで あらう。 だが、 當 今の 方が、 もっと 個性 を 生 

かし、 义肉體 の 條件を 考慮に 入れた 合理的な 稽古が 行 はれて ゐ るので はないだら うか。 現在の 土 

依の 上の はげし さと、 變 化の 早 さ を 見る と、 なま くら 稽古 だと は考 へられない。 よく、 學生 あが 

りの 力士な どに、 彼 は 頭で とる と 一 口にい ふが、 相撲 は 決して 頭で とれる もので は 無い。 稽古 を 



462 



記 雜揆相 



1W ん だのが 頭 を 働かした のでな けれ は、 之 を 土 依 上に 活用す る 事 は出來 ない。 

私が 見た 過去 四十 餘 年の 力士の 中で、 最も 好んだ の は 荒 岩龜之 助で ある。 しかし 今日の 私 は 常 

陸 山 谷 右衛門の 堂々 たる 相撲 振 をな つかしく 思 ふ。 年齢に 伴 ふ 心境が 其處に 到達した の だと 考へ 

る。 現在の 力士で いへば、 若し 私が 荒 岩 を 見た 頃の 年齢なら、 大方の 女性 ファンと 共に 矢 張 双葉 

山 を あげる かもしれ ない が、 實は 男女の 川が 一番 好きだ。 彼の 未完成の、 粗奔 なる 取 口に は屢々 

苦笑 させられ るが、 豪快 無比なる 大 力士と して 一 場所々 々 々完成に 近づく の を 見る の はまこと に 

目出度い。 それにつ けても ふの は、 力士に とって 何よりの しあ はせ は、 その 力士の 全能 を發揮 

する 事の 出来る 好敵手 を 持つ 事で ある。 常 陸 山 は 自分よりも 重量 ある、 相撲 巧者の 梅ケ 谷が あつ 

て、 はじめて あの 強力 を 十分に 發撣 する 事が 出来た。 太刀 山と 駒 ケ嶽は 身長 殆んど 同じく、 組ん 

でも はなれても 互に 力 を 出し切る 事が 出来た。 ところが、 武藏山 病んで、 玉 錦と 男女の 川の 一番 

を 時代の 代表的 取組と E る 時、 男女の 川に とって 如何にも あ ひくち の惡ぃ 敵手で ある。 相撲の 巧 

ナ, ぎ , 

拙 は 勿論で あるが、 それよりも 何よりも 男女の 川の 身長が あり 過る ので ある。 不用意な いひ 方 だ 

が、 若し 男女の 川の 身の 丈が、 もう 三四寸 低かったら、 彼 は 今日 迄の 玉 錦との 戰鑌 を、 逆にして 

ゐた かもしれ ない。 少なくとも 玉 錦に 對 して、 十分 全力 をつ くし 得る 相撲 をと る 事が 出来た であ 



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らう。 しかしもう ー步 進んで、 今の 儘 あの 偉大た る 體軀を 完全に いかし 切る 事が 出來 たら、 その 

雄大なる 事 誰 人 を もってしても 比較に ならない であらう。 その 期待 は樂 しい。 (昭和 十一 年 五月 十 

一日) . —— . 

. --. . 11 「中央 公論」 昭和 十一 年 六月 號 



464 



i 信 邦樂棒 I ぉ文修 



修文院 釋樂邦 信士 



六月 十六 日、 南部 修太郞 氏が 腦 溢血で 倒れた とい ふしら せ をう け、 麻布 新 龍 土 町の 宅へ かけ 

つけた。 表. 門 は 堅く 閉 されて ゐ るので、 勝手口から 入り、 刺 を 通じて 暫時 待つ と、 夫人が、 陲" 眠 

不足の 疲れた 様子で 出て 来られ 昨夜 深更 火事が あり、 それ を 見に 門前 迄 出て、 突然 意識 を 失った 

もの だと 聞かされた。 御 舞の 言葉 を 述べて 辭 したが、 モ れっきり 意識 を囘復 せす、 廿 二日の 朝、 

世に 珍しき 善良なる 魂 は 天に ts した。 

南部 氏は實 にい、 人だった。 を かしい 位い、 人だった。 田い. ひ 出す と 古い 事 だが、 大正 五 年の 秋 

外國 から 歸り、 旅疲れ をロ實 にして、 私 は 湯 河原に 出かけた。 今 は 代が はりに なったら しいが、 

當 時の 中 西 屋は學 生 時代からの 馴染で、 主人の 龜 さんと は 友達 づき あ ひだった から、 口り-館の I 等 

の 部屋 を」 是 供して くれた。 二三 日た つた 或 日、 晝の御 を はこんで 来た 女中が、 本館の 方に 南部 



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修太郞 さんが ゐ らっしゃ いますと いふ。 私 は 南部さん の 名前 も 知らなかった。 若い、 ぶくぶく 肥 

をん な 

つた、 笑 はないでも 笑って ゐる やうな 婢は、 私が 彼 を 知らないの を あやしみ、 南部さん の 方で は 

私の 事 をよ く 知って ゐ ると 云った。 そんなら、 南部さん とい ふの は どんな 人 だとき くと、 慶應の 

學 生さん で、 こ はい やうな ハイカラ さんです わと 答へ た。 さう いひながら、 顏を 染め、 羞 しさ を 

笑 ひに まぎらして しまった。 近顷 こそ、 こ はいと か^いと かいふ 言葉 を いろいろの 意味に 使 ひ 美 

しいと か 偉い とかい ふ 方に も 流用す る ことにな つたが、 その 頃 斯うい ふ 表現 はま だ 流行らな かつ 

た。 しかし、 山家 育ちの 溫泉 宿の 小婢の 口から、 こ はい 様な ハイカラさん とき かされ、 何となく 

はっきりと、 一人の 美男子 を 想像す る 事が 出来た。 こ、 に ハイカラ さんと は、 勿論 頭髮を 奇麗に 

分け、 みだしな みのい、 若人と いふ 意味 も 含んで ゐ るが、 同時に それ は 美しい とい ふ 意味 も 含ん 

でゐて 平たく いへば、 い、 男と いふ 事に 違 ひ 無かった。 若い 女に は、 靑年客 の^をす るのに、 日 

常用 ゐる 「い、 男」 では、 あまりぬ きさし ならぬ 事になる ので、 ハイカラ さんと いふ 曖昧な 言葉 を 

えらんだ ので あらう。 あ、 あ、 あれが 南部さん です と婢 はお 盆 を 持った ま、 立 上った。 緣の攔 干 

を 越えて、 庭 をへ だてた 本館の 二階の 窓に、 上半身 を 見せ、 その 人 は 一寸 默禮 する やうな 様子 を 

した。 いちど 瞎を さげに 行った のが 戾 つて 來て、 南部さん が 逢 ひたいと いふが 都合 はどう かとき 



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士信 邦樂釋 院文修 



、に來 たので、 どうぞと いふと、 直ぐに 御 本人が あら はれた。 かすりの 着物に 對の 羽織、 なる 程 

長く 延ばした 頭髮を 奇麗に 分けた 美貌の 青年だった。 

それが 最初の 對 面で、 いっしょに 散步 したり、 互の 部屋 を 訪問し あつたが、 元来 私 は 座談の 呼 

吸の つ かない 方 だし、 南部 氏 は 非常に 早吞 込で、 折角 こっちが 順序 を 立て、 話さう としても、 

それ は 知って ゐ ますよ とか、 そんな 事 はわ かって ゐ ますよ とか 云って、 打 切って しま ふ 人な ので, 

まとまった 話と いふ もの は、 した 覺 えが 無い。 交遊 二十 年、 遂に 變らぬ 事だった。 

た 一度、 南部 氏が 非常に 親切に、 私に 忠言 を くれた 事が ある。 それ は 氏が 「三 田 文學」 の 編輯 

を檐當 し、 新進作家 として 世に 認められ、 文壇の つき 合 ひも 廣く なった 頃で、 暫く 大阪に 行って 

居た 私が 東京に 戾り、 赤 坂 氷 川 町に 獨身 世帯 を 持って ゐた時 だ。 恰も 私の 著作 集が 上梓の 運びに 

なって ゐて、 その 部數が 僅に 一 千 部 だと 知って、 南部 氏 はいかに も 驚いた やうに、 今 文壇に 登場 

したば かり の 自分の 本 さ へ 三千 部 は 間違 ひなく 刷る のに 旣に 幾册 かの 著書が あり、 新聞 小 說も書 

いた ものが、 一千 部と は 何事で あるかと いひ、 結局 それ は 文壇 づき あ ひ をし ないから いけない の 

だとい ふ 結論で、 私の 不心得 をい ましめ て くれたの である。 新 建の 壁土の まだ 乾かない 借家の し 

めつ ぼい 六疊 で、 暗い 電燈の 下に 對 座して ゐた 彼と 私 を 今 もな つかしく 思 ひ 出す。 



467 



當 時の 南部 氏 は、 持って 生れた 善良なる 魂の 爲に, 世間が 考へ てゐ るよりも 高く 自分 を K ひ、. 

かなりい ゝ氣 持に なって ゐ たやう である。 日に 月に 文壇 人との つきあ ひの 廣 くなる 喜び、 ファン 

• レタァ の 來る樂 しさ、 殊に 女の 愛讀 者からの 手紙 や、 時には 浮氣な 人妻から はげしい 誘惑 をう 

,t る 得意 さ を、 素人 作家の 私に きかせて、 大に發 奮 させようと したので あった。 意見され、 忠吿 

されながら、 私 は 私な りに 南部 氏に 危險を 感じて ゐ たが、 次第に 彼が 純 文學を 離れ、 少女 小說の 

作者と なり、 文壇の 遊び事、 たと へば 將棋 ゃ麻银 にば かり 耽って ゐ るの を 見て、 今度 はこつ ちが 

忠告して やる 番 だと 思った が、 扨て 少しで も 切 出す と、 それ は 知って ゐ ますよ、 そんな 事 はわ か 

つて ゐ ますよ と、 彼 は 笑 ひ を 以て 中斷 してし まふので あった。 . . 

そのく せ 彼 は 意外に 勘の 惡ぃ 人であった。 同人 中、 珍しく 洒落の わからない 人であった。 丹念 

几帳面な 強味 を 持って ゐ たの だら う、 勘の 惡 さや、 洒落の わからな さなん か 意に 介 さす、 寧ろ そ 

んな事 も 特徴の ひとつ だと 圖 太く 肚を きめてし まへば 面白かった の だが、 善良 なる 彼 は反對 に、 

何でも 彼で も 承知して ゐ るぞ、 わかって ゐるぞ とい ふ 態度 をと つた。 その 結果が、 他人の いふ 事 

を 皆まで 聞かす、 わかって ゐる よと JiK ひ 消し、 その 實 わかって ゐ ない 事が 多かった。 作家と して 

の 彼 も、 文字に 對 する 勘 は 鈍い 方であった。 そのく せき、 覺 えの 言葉 を 使 ひたがる 方で、 * 々を 



4&8 



士信邦 樂釋院 文修 



かしい 間違 をし でかした が、 最も 有名な の は鬥前 雀羅で、 彼 は それ を 繁昌の 意味に 解して ゐ たの 

だ。 しかも 友人が 之 を 咎めよう とすると、 よせよ、 わかって ゐる よと 笑って 打消した。 

幼少の 頃から 喘息に 苦しみ、 よくも こ、 まで 生きて 來 たもの だと 述懐し、 二、 迄來 たから は大 

丈夫 だとた のむ 所 も あり、 大に酒 をた しなむ 私に 向って は、 い、 加減に しないと 腦 溢血に なり ま 

すよ と 常に 忠告して くれたが、 少しも 酒 を 飲まない 彼が、 かへ つて 腦 溢血で 倒れて しまった。 

昨日に か はる 修文院 釋樂邦 信士に 對し、 私が 甚だ 遣 憾に思 ふの は、 いつもい つも、 そんな 事 は 

知って ゐ ますよ、 わかって ゐ ますよ で追拂 はれ、 遂に 一度 も 私の 思 ふ 事 を、 彼に 傳 へる 事の 出來 

な か つ た 果無 さで ある。 (昭和 十一 年 六月 二十 五日」 

I 「時事 新報 .- 昭和 十 一 年 六月, 二十 七: H . 二十 八日 



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吐 反の 家術藝 



つたので あらう。 人間 は不圖 した はすみ で、 死なう と 思 ふ 事 も ある。 殊に 牧野 氏の やうな 氣 まぐ 

れの 詩人 は、 宿酔の 胸の 惡 さから 低 を 厭 はない とも 限らない し、 つかまへ ようとした 油蝉に 小便 

を ひ つ かけられた 氣まづ さから、 え 、 ま 、よと 思 ひ 極めない ともい へない の である。 

私と 牧野 氏と は 殆ど つきあ ひが 無かった。 はじめて 氏の 訪間を 受けた の は、 中 戶川吉 _ 二 氏が 雜 

誌 「隨 筆」 を はじめ、 その 編輯 者と して 私に 寄稿 勸說に 来たの だから、 關東 震災の 年 か、 モの 翌年 

である。 氏 は、 當時旣 に 新進作家 として 認められて ゐた。 小兵、 童顏、 綠 色の 洋服に 赤い 襟 飾で、 

いかにも 羞 しさうな 物言 ひ をし、 氣ど りと はにかみと がちゃん ぼんに なり、 それ を まぎらす 爲に 

突か k る やうな * からか ふやうな 口 もき いた。 

二度目 は、 それから 餘程 後で、 夜遲 く、 拙宅の 近所に 住む 氏の 友人と いっしょに 押 かけて 來た。 

した、 か醉 つて ゐ たが、 なほ 酒 を 呑ませろ とい ふので、 燜を つける と、 K 孤 を 口につ ける かっけな 

いで、 食卓の 上に 夥しく 反吐 を はいた。 惡臭を 放つ 汚物の 洪水の 中に、 眞白 なの は 米粒で、 赤い 

の は 鮪の さしみ か、 黄色 いのは 澤庵、 靑 いのは 茱葉 であらう。 色彩 は豐 かだった。 水 を 飲み ませ 

んか、 横にな つて はどうです かといた はっても、 にゃにゃ 笑 ひながら、 もっと 酒を飮 むと いふ。 

そのく せ、 本 當に飮 む 餘カは 無く、 食卓に もたれ か、 り、 閉口した やうな、 閉口して はゐ ない ぞ 



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とい ひ 度い やうな、 悄氣 たやうな、 さう かと 思 ふと 痛快が つて 居る やうな 様子 を 見せて ゐた。 ど 

うだ、 參っ たかと でもい へば、 參 つてなん かゐる もの か、 わざと 反吐 を はきに 來て やつたん だぞ 

とい ひさうな、 一 一段 構へ が はっきり 認められた。 

斯うい ふ 場合 * 吾々 俗物 は 氣樂な もので、 ごめんなさいと あやまっても、 もういけ ない と 手 を 

振って 逃 31 しても すむ の だが、 神經 のこ まかい 藝術 家の 辛 さで、 引く に 引かれぬ はめに 陷り、 う 

、ん砍 むと いって は盃 をと りあげる が、 口まで 行かたい うちに 胸 を 濡らし、 膝に こぼれた。 「隨 

筆」 時代の 童 額 は 些か ふけて、 額に 皺が 深くな り、 瘦 せた 背中 や 肩に 不健康な 疲れが 見え、 それ 

が氣を 張って 飮 めない 酒を飮 まう とする ので、 非常にいた いたしく、 氣の 毒だった。 

その後 は 一度 か 二度、 銀座の 岡 田 か 長 谷川 か、 飮屋で 偶然あった 事が あるば かりで、 遂に 親し 

く 口 をき く 機 會も無 か つ た。 

去年 十一月、 久保田 万 太郞氏 夫人が 急死され、 私 は その 葬儀の 御世 話 をした が、 甚だ 不適任で、 

最初 敏む といった 久保田 氏 もよ せば よかった と 思ったら うし、 うかう か 引受けた 私 も 後悔し、 や 

り 切れない 思 ひで ゐる折 柄. たまたま 久保田 氏に 義絶され たかた ちの 人 を 葬儀に 參 列させる させ 

ないで 意見 を 異にし、 勝手に しゃがれ と 中腹で お 通夜の 人々 の 屯して ゐる ところ へ 救 を 求める 氣 



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吐 反の 家 術 整 



で 入って ゆく と、 水上さん —— 牧野です と聲を かけた 人が あった。 若しも あのう るんだ やうな 美 

しい 眼がなかったら、 私 は 誰 だか 思 ひ S す 事が 出来なかった らう。 それ 程 牧野 氏に は 久しぶりで、 

.綠 色の 洋服に 赤い 襟 飾りの 印象 を 一番 あざやかに 持って ゐる 私に は、 年と つて、 ひどく 素朴な 樣 

子に なった 氏が、 その 時名吿 りかけ なかったら、 たと へ 美しい 大きな 股に ぶっかっても、 誰 だか 

思 ひ 出さなかった かもしれ ない。 人と 爭 つた 後の たよりない 氣 持の 爲か、 私に は、 牧野 氏の 呼び 

かけた 時の 聲が ひどくな つかし さうな ものに 聞え た。 そのく せ、 簡單な 挨拨を か はした ばかりで、 

おしま ひだった。 肚の 中で は、 一度 此の 人と 飮んで 見よう かなと 思 ひ はした が …… 

それつ きりで 牧野 氏 は 死んで しまった。 芥 川龍之 氏の やうに、 氣 取った、 人騒がせの 遣 書 も 

なく、 催眠 藥を嚥 むと いふ やうな 奇麗事で なく、 鼻 をたら し 舌 を 出し、 あさましく 死んだ。 私 は 

その 記事 を 新聞で 見た 時、 直ぐに 色彩 豐 かなる 反吐 をお も ひ 出した。 その 日の 氏の 二 段 構へ を 思 

ひ 出した。 文學の 事なん かで 死ぬ もの か、 生活苦 たんかで 死ぬ もの か、 死んでも い、 と 思 ふから 

. 化んで や るんだ ぞ、 俺が 死なう と は 思はなかった らう、 ざま あ 見や がれ —— 首に 繩を か..!:、 踏臺 

を 蹴倒す 時まで、 深刻な 額 つきはなるべく やめようと 思 ひながら、 此の 氣 まぐれの 詩人 は、 自分 

を 嘲り、 人 を 嘲り、 舌 を 出す 效果に ほく そ 笑み もした ので はないだら うか。 . (昭和 十一 年-ベ 月 三十 



473 



曰 



. 1— 「時事 新報」 昭和 十 一 年 七月 四日. 五日 



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鈴 木 三重 吉 氏の 酒の 上 



鈴 木 三重 吉 氏が 死んだ。 個性の 豊かな、 獨自の 作風に 徹した、 すぐれた 作家で あつたが 晩年 

は 小 說の筆 を 執らす、 童話と 小 學生 の 作文の 指導に 力 墓し、 此の方 面に 於ても 十分の 功績 をの 

こした。 文壇の 垣根 は 自然 派の 手に よって 完全に きづかれ、 . ^鏡 花 先生 は 時代 遲れ として 虐げら 

^, 森鷗外 先生 は. ディレッタント として 輕 蔑され、 新星 夏 目漱石 先生 も 遊 戲文學 として 排斥され 

鈴 た 時代に、 鈴 木 氏の 「千鳥」 「山 彥」 は 出た。 人生の 眞實を 探求 するとい ひながら、 單 調なる 日常 生 

iS 活の 平面 的 議に墮 せんとす る 小說の はびこる 中に、 稚拙と いっても い、 程 純粹淸 新な 若き 憧憬 

I のみち あふれる 作品の あら はれた 事 は、 新 文學を 求める 吾々 にと つての 喜びであった。 もとより- 

•I 垣根の 中の 連中が これ をけ なす 事に 努めた の はいふ 迄 もない が V いつの 間に か 垣根の 外に は 春が 

^ 來てゐ て、 氏の 文學は 立派に 生育した。 やがて 氏の 作風 は 次第に 空想 を 去って 現實的 傾向に 進み 



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軍 純な 夢 は 深刻なる 嗜 慾と 變り、 遂に は 病的な 神 經と感 覺の文 學に迄 行きつ いたが、 私 は 自分の 

少年の a の 夢 を はぐくんだ 氏の 第 一 著作 集 「千代紙」 を 何時 迄 も 愛讀, 一、 その美し い 幾 節 か は 暗誦 

して ゐる 位だった。 後年 幾度と なく 蔵書 を 整理し、 或 もの は賫拂 つて 小遣錢 とし、 生活費と し、 

或 もの. は圖書 館に 寄附し、 或 もの は 友達の 救濟 費と したが、 その かみの 思 ひ 出の なつかし さから、 

一千代 紙, 一は 手放す 事が 出来す、 今日な ほ 本箱の 隅に 美しい 装幀 を 見せて、 つ、 ましく 納まって ゐ 

る。 , : , 

私が 處女作 「山の手の 子」 を 書いた の は 明治 四十 四 年で、 たしか その 年の 秋の 三 田文學 講演 會に 

鈴 木 氏 は 出演され、 晚餐會 後 吾々 學 生と 親しく 談笑され た 事が あった。 私の 幼稚な 作品 を 大變ほ 

めて くれたので、 羞 かしくて 口が きけ なくなった。 後進に 對 していた はりの ある、 よき 先輩 だと 

思った が、 それから 十 幾年た つて 再び 逢った 時 は、 あや ふく 暖嘩 になら うとした。 

それ は、 私が 長 稿, 大阪の 宿」 を雜 誌に 連載し、 やう やく 完了 を 告げた 時 だから、 多分 大正 十四 

の暮 であらう、 思 ひも かけたい、 鈴 木 氏から、 r 大阪の 宿」 完成 祝賀 會を 開く から 來て くれと い 

ふ 案 ts: をう け、 日本 橋の 灘 家に 行った。 灘家は 先年 なくなつ たやう だが、 うまい 酒を飮 ませる 家 

で * 殊に 大關 を賣 物にして ゐた 私の 馴染の 飮屋だった から、 鈴 木 氏の 像て 御巍 負と きいて 大變嬉 



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上の; の 氏 吉重三 木 鈴 



しかった。 相客 は 泉 鏡 花 先生と え 保 田 万太郞 氏で * 平生 私 一人の 時 は 土間で 飮 むの だが、 特に 二 

階 を 借りて 酒宴と なった。 • 

鈴 木 氏 は 言葉 を盡 して 拙作 を ほめ、 殊に 結末に 篇 中の 主要人物 を 一箇所に 集めた 手際 は 見事 だ 

つたと 犬に おだてさ かんに 盃を くれた。 話が 文壇の, 事に 及ぶ と、 當 時流 行兒の 誰彼 を 罵倒し、 巾 

はお 目出度い 馬鹿野郎 だと か、 乙 は 天 をお それない 根性が いけない とか、 • 丙 は 卑俗 極まる 商賣人 

だと か、 丁 はとつ ちゃん 小僧に 過ぎない とか、 一言の もとにけ なしつ ける。 

久保田 氏 は 今日の 如く 大家の 風格 を備 へる に 至らす、 高飛車に きめつける 流儀の 奥義に は 達し 

てゐ ない 時代 だから、. あたらす さはら すの 挨拶 をし、 三重 吉最 負の 泉 先生 は旣に 頗る 御機嫌で、 

「そり や あ 今 ぢゃぁ 谷 崎と 三重 吉が 一等う めえ や」 と 相槌 をう つ。 然るに 主賓の 私 は、 さんざんお 

ほめの 言葉 は 頂いた けれど、 一々 鈴 木 氏の 說 にも 服し かね、 異說 もた てるし、 口返答 もす るので、 

こいつが もともと 酒癖の 惡ぃ 御主人の 痳に さはり、 段々 言葉 は あらくな り、 眼は据 り、 額 色 は 蒼 

くな つて 來た。 かねて 此の 人の 酒の 上の 惡ぃ事 はき かされて ゐ たが、 何しろ こっち は 招かれた 客 

だから、 まさか 酒亂の 犧牲に はなる まいと 多寡 をく、 つて ゐ たの だが、 つい 今し がた まで、 お前 

はうまい ぞ とほめ て くれたの が、 忽らド 手 糞 だと きめつけられる 事になる と、 私 も 些か 考へ なけ 



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れ ばなら なくな つた。 

鈴 木 氏の 作品に は 「千鳥」 のむ かしから、 必す 一人の 無智な し をら しい 女が ゐて、 初期の もので 

は、 これ をい とほし みなつ かしむ 感情に ひたって 滿 足して ゐ たが、 後期の ものに なると、 さう い 

ふ 女 を 自分の 我 像な 思想 感情に 絕 對忍從 させようと あせり、 女が 思 ふ 通りに ついて 來 ない のに 苦 

しみ 惱み、 時には いぢめ、 踏みつけ、 呪 ひ、 一 生 を だいなしにして しま はなければ ゐられ ない 1? 

虐的 傾向 を 示して 來てゐ た。 成程 これ だな と氣 がっくと、 私に は 自分の 立場が はっきり わか つた" 

鈴 木 氏 は 無智な、 あはれ な 境遇の 女 を 好んで 描いた と 同じ 心 持で、 文壇の はじつ こに、 ゐ るか ゐ 

ないかの 私 なれば こそ 冃を かけて やらう、 いた はって やらう と 思 ひたった の だ。 作 中の 女が、 作 

ひたすら 

中の 男の 思 ひの ま、 に ついて 行かなければ ならない のと 同じく、 私も亦 鈴 木 氏の 一 言 一 行に 只管 

赞 成し、 感服し、 時には 我慢しても、 堪へ 忍んでも、 隨從 して ゐ なければ ならない 役目 を 背負 は 

されて ゐ たの だ。 誰も かま ひつけない 凡庸 作家 を、 わざわざ 招いて 喜ばせて やらう とい ふのに、 

その 態度 は 何事 だ、 ありがた がり 方が 足りない ぞ、 もっと 感謝して 然るべき だら う、 よし、 そん 

ならこい つ いぢめ て やれ、 やま ひづ かせて やれと、 持 前の 酒癖が むらむらと 湧 上った の だ。 少し 

大裴裟 だが、 山 雨欲來 風滿樓 とい ふ 雲 行と なった。 



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上の洒 の 氏 吉重三 木 鈴 



さあ、 もうい、 加減に 切上げよ うぢ や あない かと、 泉 先生が 煙管 を 筒に しま はれる と、 もう 一 

本 飲まう と 鈴 木 氏 は 私の 方に 向いて いふ。 私も飮 むと いふ。 それが {„ ^になる と、 叉 一本 飲まう と 

いふ。 私も飮 むと いふ。 これ はいけ ない と 思って か、 泉 先生 は 久保田 氏 を 促して、 行かう 行かう 

と 立 上られた。 二人の 姿が 廊下へ 出た と 思 ふとたん に、 責樣は 生 意 氣だぞ と 鈴 木 氏 は 立 上った。 

別段 暴力 を 振 ふ 積り は 無かった の だら うが、 それだけ する もの; があって、 _ls- 々して 堪らない 

焦躁の さま は、 どんより と 濁った 儘に 凄味 を 加へ た 眼の 色に も はっきりと あら はれた。 ^も 立 上 

ら なければ ならなかった。 鈴 木 氏 は、 こ い つどう したら 一 番手 きびしく 踏ん づけて やる 事が 出来 

るかと 考 へて ゐる やうに、 餌食 を 前にした 惡獸の 身の 構へ で、 喘いで ゐた。 

二 をん な , 

運よく 小婢 が、 おつれさ まがお 待ちに なって ゐ らっしゃ いますと いひに 來て くれたので、 私 は 

助かった。 どうも 今日は ありがたう 御座いま したと 挨拶して、 おつれさ まの 後 を 追った。 暫く 三 

人で おもてに 待って ゐ たけれ ど、 鈴 木 氏 はな か/ \ 出 て來 ない ので、 その 儘失禮 してし まった が- 

そ れっきり、 相 a? ざる 事 十 年餘に 及んで、 突然 その 訃を きいた。 もっとも、 その 事の あってから 

數 年後に、 数寄屋 橋の 上で 擦れ違った 事が ある。 もともと 不健康な 人だった が、 一 病的の 度 を 

加へ、 おまけに 步行 困難の 樣 子だった。 先方 は心づ かす、 こっち はさ はらぬ 神に 祟りな しと 思つ 



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て 知らぬ ふり をして 過ぎた。 讀者 はあく 迄も讀 者で、 作者に は 逢ばない 方が いい。 私 は 今 も變も 

ぬ 鈴 木 三重 吉 氏の 愛讀者 である。 (昭和 十一 年 七月 五日) 

1 1 「時事 報」 昭和 十一 年 七月 十 1 日. 十二 H 



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街 * 



會 社員 を 父と し、 私立の 學 校に 學び、 會 社員と なった 私 は 位階 勳 等の 高い 官吏 や 軍人に 近づき 

の 無い 事 夥しい。 殊に 軍人と は緣 遠く、 海陸 あはせ て、 面識の あるの は數 人に 過ぎない。 その 數 

人の 中に、 今 をと きめく 陸軍大臣 寺 內壽ー 閣下と、 海軍大臣 永 野 修身 閣下 を數へ 得る こと は、 私 

に は 不思議な 氣持 がする。 尤も 寺 s: さんに は 三十 餘年も 逢った 事が 無い から、 先方で は覺 えて ゐ 

ないか もしれ ない。 何しろ 日露 戰爭 以前の 事な の だ。 

私共の 家に は、 鎌 倉に 別莊 があった。 別莊 とい ふと、 いかにも 贅澤 な、 洒落た もの、 やうに 聞 

える が、 それ は 全く 子供の 健康の 爲に 建てた 實用 一方の 家で、 海に 近く、 庭 は 平面の 芝生で, 相 

撲を, つたり、 球 投げ をす るの が 目的で、 石 を 置いた-り、 苔 をつ けたり する 趣味と は、 全く 緣の 

嵌 無い ものだった。 



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子供 本位の、 暑中休暇 用の 別莊 だから、 時期 はづれ には戶 をし める つもりで、 門の 側に は 番人 

の 住む 小 家が あった。 だが、 當時は 父方と 毋 方の 二人の 祖母が 年中 住んで ゐ たので、 番人の 必要 

はなくて 濟ん だ。 その 不用の 小 家 を、 たった 一 夏 他人に 貸した 事が ある。 元來、 父 は 家 を 貸して 

賃錢 をと ると いふ やうな 煩 はしい 事 を 嫌 ふ 人間だった。 芝の 松 坂 町に 永く 住み、 晚年 白金 三 光町 

に移轉 した 時な ど、 これから 土地 家屋の 値段の 上る の は 疑 ひ 無い から、 1: く 他人に 货 して 置き、 

後日 高値 を 待って 賫 却して は 如何 かと 勸吿 する 人 もあった が、 家主 商 賣は不 偸 快 だから、 安くて 

も 構 はない、 賫拂 ふとい ふこと で、 私が 命ぜられて 賣買談 の立會 ひや、 登記の 手績を させられた。 

父 は 理論 を 重んじ、 自分の 經營 する 會 社の 事 や、 會計 監督 を 引受けて ゐた 母校の 事になる と、 非 

常に 冷靜嚴 格に 利益 を 圖る事 を 忘れなかった が、 自分 一個の 事になる と、 存外 氣分 本位で かたづ 

したがって 

けて しま ふ 風が あった。 從而、 家 を 貸して 賃錢 をと る 事な どに は、 寧ろ 厭 惡の心 を 抱いて ゐた。 

その 父が、 どうして 別 莊番の 小 家 を 他人に 貸す 氣 になった のか、 どうしても 私に はわから ない。 

つましい 祖母の 主張だった のか、 年寄と 子供ば かりの 不用心よりも、 屈強の 學 生の ゐる 方が 安心 

だとで も考 へたの か。 

借 手 は 帝國大 學の學 生で、 村 上 隆吉同 圭彥平 佐 純 俊の 三 氏だった。 中學 下級生の 私に は、 大學 



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. 卒業 前の 學生は 立派な 大人に 見, えた。 殊に 兄 村 上 氏の 如き は、 動作 も 口 も 重々 しく、 髯は 濃く- 

老成 人の 風が あり、 卒業論文の 制作に とり か、 つて ゐた爲 か、 あまり 海邊 にも ゆかす、 机に むか 

つて ゐる ことが 多かった。 弟 村 上 氏 は 一高 時代 野球選手 として 鳴らした 人で、 體格 雄大、 眼が 大 

きく、 鼻が 高く、 その上 頭髮が 縮れて ゐ るので • 泥 血兒の やうな 風貌だった。 村 上 家の 血統な の 

であらう、 此の 人 も 極端な 無口だった。 平 佐 氏は瘦 身の 祌經 質さうな 人で、 よく 仲間う ちの 者の 

からか ひを眞 にうけて 憤って ゐた。 

三人の 大學 生のと ころに は、 いろんな 人が 遊びに 來 たが、 母屋の 方の 吾々 と 交渉の あつたの は、 

髙 木さん 中 村さん 寺內 さんだつた。 高木 舜三氏 は 高 商の 庭球 選手と して、 日本の 第一人者 とうた 

はれた 人 だ。 私 はこの 人に 波 乘を敎 はり、 それに 自分の 工夫に 改良 を 加へ、 當時 未だ 幼稚だった 

鎌 倉の 河童 連の 中で、 波乘の 開祖な ど、 稱 されて 犬 得意に なった。 それ 等の 人達の 中で 一番 人氣 

のあった の は 中 村さん と 寺 s: さんで * 二人の 祖母 はこの 人達の 來 るの を 待 兼て ゐた。 手品 を やつ. - 

て 見せたり、 冗談 話で おばあさんの 笑 を 止まらな くさせたり、 掌に 鍋墨 を 塗って 來て、 ていねい 

街 に 頭 を 下げる 女中の 頰邊 になす りつけ たり、 機智と 諧 請と 惡戲 で、 年寄 子供 を 喜ばせた。 寺- s: さ 

歌 んは、 その 時旣に 中尉だった。 この 連中 は、 いづれ も お茶の水の 附 屬中學 出身だった らしい。 



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私 は 子供の 頃、 素人 初段だった 父の 眞似 をして 將棋を さし、 子供と して は 強かった" 上記の 人 

.A る た 

達の 中に まじって 勝負 を爭 つても、 負けなかった、 西洋 骨牌 も 私の 得意だった。 さう いふ 遊び事 

を やる 時 も、 中 村さん と寺內 さん はふ ざけ て、 わざし-こすい 事 をしたり、 それが ばれる と 座中 を 

ひつく りかへ して 逃げて しまった りした。 义、 寺 さん は、 勝負事 をしながら、 年中うた をロ呤 

んでゐ た。 いつも 變らぬ ダイナマイト 節で、 將棋の 形勢 非なる 時な ど は、 殊に 力強く うたった。 

私 も 聞き 覺ぇ、 今 も 記憶して ゐる。 

民權 論者の 涙の 雨で . 

みがき あげたる 大和魂 ... 

國利 民福 増進して 民力 休養せ 

若しも 成 らなき や ダイナマイト • * トン 

三. f 餘 年の 歳月 は 流れて、 その 間に 村 山さん 兄弟、 平 佐さん、 高木さん は 亡くなつ たが、 寺- 2: 

さん は 武運 強く、 陸軍 大將 となった。 

前に もい つた 通り、 私 は ダイナマイト 節當 時の 寺- s: さんし か 知らないの だが、 その後 彼 を はげ 

しく 憎んだ 霧が ある。 それ は 恩師 永 井 荷 風 先生が 附屬中 學に學 ばれた 頃、 所謂 硬派の 寺內 さんが _ 



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先生 を 軟弱の 徒と して 大に いぢめ たと 知った の だ。 私 は 義憤 を 感じ、 今後 何 かの 機會 に相會 する- 

事が あっても、 言葉 はか はすまい と 思った。 . 

然るに、 突然 寺內 さん は 非常時 陸軍大臣 として、 肅 軍の 大任 を 引受け、 〔千 五 字. 5 身命 を 賭して. 

起った。 〔七十 九 字. S 正直 率直 長い 髯を蓄 へない 大臣の 此の 明朗なる 態度 こそ、 幾年 國 民が 待望んだ 

ものであった。 機會が あらば 私 は寺內 閣下に 昔の 寺內 さんに か へ つて 焚って、 昔敎 はった 歌 を 共 

にうた ひ 度い。 

悔 むまい ぞゃ苦 は 樂の種 

やがて 自由の 花 が^く 

國利 民福 增 進して 民力 休養せ 

:: (昭和 十 一 年 七月 十二 日) 

—I 「時事 新報」 昭和 十一 年 七月 十八 日 • 十 九日 



ちゃん ぼん 生活 



「お父さん、 僕のお うち 何處 にある の。」 • 

ことし 六歲 になる 枠が、 深き 疑 ひ を 眼の 色に も 見せて、 突然お や ぢの額 を のぞき 込んだ 

「こ 、 にある おや あない か。」 

S ひも かけない 質問に、 謹の 程 も はかり かねた が こども S つき は眞劍 で、 不安に 堪 へない 

やう、 にも 見えた。 

「う ゝん違 ふよ、 僕のお うちだよ。」 

「だから こ、 だよ。」 

一 違 ふ e し 

自分の 質問の かんど こ をつ かんで くれない 腹 だ tl、 おや? した。 . 



486 



活 生ん ぼん やち 



「こ、 僕のお う ちぢ や あない、 拜借 だよ。」 

おや ぢ はぎ や ふんと 參 つて、 「僕のお うち」 を 持たない 伴の 忿懣の 態 を 見て 默 した。 

「拜昔 だ つてい、 さ、 こんな 立派な おうち だもの."」 

なだめて みたが、 俘に はすこし も 通じない。 

「お父さん、 今度 建てる 時、 い、 おうち 建て、 ね、 屋根で 遊べる やうな のね。」 

は、 あ —— おや ぢに もやう やく わかった。 

只今 拜 借の 家 は、 東京の 眞 中の 見 晴 のい 丄 n 问臺 で、 家も廣 く、 庭も廣 く、 大家さん はおう やう 

で、 家賃 は 安く、 申 分 は 無い。 強て 勝手ない ひ 分 をつ ければ、 廣 過ぎ、 立派 過ぎる だけ だ。 普請 

の 立派な 事、 障子 襖の 贅澤、 ? 11 殿臺 所は廣 く、 おまけに 自動車々 庫 迄 ある。 なかみの 無い 車 It の 

存在 は、 か へ つて みっともない 位の もの だが、 こ 、には子 供の 三輪車が 納まって ゐる。 何とい つ 

ても鼋 車で 通勤す る 月給 取の 住居と は 見えない、 身分 不相應 のおう ちな の だ。 拜借 なれば こそ 住 

んで ゐられ るおう ちな の だが、 そんな 事 は 子供に はわから ない。 始終 遊びに 行く 親類の、 近代 式 

洋風の 家の 屋上に 出られる 面白さに、 すっかり 魂 を 奪 はれ、 純日本風の 我家に 谦ら す、 他人の も 

の を 羨し がって ゐる折 柄, 誰から 聞いた のか、 この 象は拜 借物 だと 知った ので、 恐らく 何處 かに 4. 



眞赏の 我家が ある ものと 思 ひ 込んだ ものら しい。 

「お父さん、 僕のお うち 何處 にある の。」 

と 子供心 をいた めた ので ある。 . 

おや ぢは 悄氣 た。 おや ぢに とって は、 學校を 卒業して 四 半世紀、 夏 も 冬も滿 足に は 休暇 も贳 に 

す、 働 きづめに 働いて、 未だに 「僕のお うち」 を 持たない はかな さに、 自責の 念 そ, V ろに 深いの だ 

が、 伴の 方は必 すし も 拜借を 非難して ゐ るので はなく、 それよりも、 屋根に 出て 遊べる 家に あこ 

がれて. 9 るの に 遠 ひない。 

;. よお し、 今に 建てる 時 は 屋根で 遊べる おうち だ ぞ。」 - 

入る だけ は 出て しま ふ 生活 を 多年し つ、 V けて、 家 を 建てる 見込の 無い おや ぢは、 無責任に 空 虚 

な 聲を發 したが、 

「きっとね。」 

とと > め を さ &れて 恥 入った。 

近代 日本 獨特の 和洋ち やん ぼんの 生活様式 程、 複雜 多- 岐 珍妙 不思議な もの は 無い。 衣食住に 例 

をと つても、 結婚 披露のお 婿さん はモォ ニン グ. コ オトが 定式と なった のに、 お嫁さん は 高島田 



488 



生ん ぼ 人 やち 



につの かくし、 うちかけ を 着たり いまだに 色直しな ど \ いふ 下らない 見榮も 保存して ゐる。 國粹 

主義の 親玉と 雖も、 必す しも 洋服 を 着ない と は 限らない。 況ゃ 一般 勤 人に とって は、 洋服 は勞働 

服で あり 乂禮 服で、 和服 は 浴衣と 寢 衣の 用途に よって 僅かに 對立 する 傾向に なった。 殊に 學生 は、 

男女 を 問 はす 洋服が 制服と なり、 これが 除外例と して は 應援圑 長と、 寶壤 少女 歌劇の 濃 綠の持 か 

ら足を 出して ゐ るお 嫂さん を數 へる 位の もの だ。 更に 一 新時代の、 小學生 並に それ 以下 は、 生 

れた 時から 一度 も 和服 を 身に つけた 事の ない のさへ ゐる。 否々、 小學 校から 女 學校迄 押 通して 和 

服 を 着た 事が なく. お嫁さんになる 事に きまって、 はじめて 自國 本來の 衣服 を 肌に つける 娘 も 珍 

しくない。 

かう いふ 育ちの 坊ちゃん や お嬢さんの 中には, 疊の 上に 坐る ぉ惯を 積んで ゐ ない の もあって、 

椅子と 西洋 机で ない と 勉強が 出来ない といったり、 無闇に 洋風 ベッド を戀 しがった りする。 そん 

な 育ちで ない 者で も. 何となく 洋式が 新鮮で 感覺的 だと 思 ひ 込んで ゐ るの も ある。 從 つて 家屋 も、 

明治時代 は 大體は 日本風で、 應接窒 だけ 洋風に する 一種の 様式が 流行った が、 昭和の 今日で は、 

全部 洋風の 家が 都市 を 取卷く 勢と なった。 まして? 仇 ゃ發育 盛の もの ども は、 野菜と 魚肉 を 主と す 

る 日本料理 では 食べた 氣 がせす、 一 皿に 盛り あはせ た あやしげな ランチと 稱 する 物で も、 西洋 料 



489 



理と あれば たんのう する。 此の 傾向 は何處 まで 行く のか、 まっしぐらに 洋 化して、 我國 固有の 一 

切の もの は 形 を 失 ふか。 

そんな 事 は 無い とい ひ 度い ところ だ。 例 を 自分に とって みても、 靑年時 かなり 長く 外國に 在り、 

その後 は會 社員と して 洋服と は緣が 深く、 洋風 事務室で 仕事 をして ゐ るので あるが、 何時もお も 

ふの は、 一刻も早く 靴 をぬ ぎ., 洋服 をぬ ぎ、 和服で 疊の ト: に寢轉 びたいと いふ 事 だ。 袋の 中に と 

おこめられて ゐる やうな 洋服、 蒸れて 汗ばむ 靴の 不愉快に 比べ て、 さらり とした 和服に 素足の 心 

地よ さ。 殊に 不安定な 洋風 ベッドと 違って、 疊の 上の 寢床は 夢 まどか だ。 それと 同じく 食事に し 

て も、 私 は 今や 洋食 を 口にする に堪 へない。 洋風 实會 のおよ ばれ は、 ひとつの 苦痛に なった。 す 

ベて が 年齢の 關 係で、 年 をと ると 祖先 傳來の 曰 本人の 血が よみが へり、 何事 も 日本が よくな り、 

戀 しくなる の だとい ひ 度い ところ だ。 

しかし、 吾々 年代の もの こそ さう かもしれ ない が、 今の 子供が 大人に なった 時、 果して 同じ や 

うに 疊を戀 しがり、 さしみと 酢の物で いっぱい やる 舌 を 持つ であらう か。 旣に 出立 點の違 ふ もの 

が、 同じ 道 を 通る だら うか。 

「お父さん、 もっとい、 おうち 建て、 ね。」 



490 



と あやおに 迫る 枠が、 いくつに なったら 立派 過る 程の 拜 借の 家の 住 心地 を 解す るの だら う。 彼 

の 一 生涯、 それが わからな いのもお ゃぢ として は 寂しい。 だが、 全くお ゃぢと 同じ やうな 思想 感 

情趣 味 嗜好 を 持つ 年寄に なられて は、 ー詈 寂しい。 

萬々 一、 私が 家 を 建てる としたら、 どうす るか。 私 は 枠の 欲する ま、 に、 屋根に 出て 遊べる, -0 

うち を 建てよう。 おや ぢは 梅んでも、 ぢ だんだ 踏んでも、 もはや 生涯の 終に 近づ (て來 と。 ゆよ、 

君 は 君のお も ふが ま、 の 道 を 進め。 (昭和 十 一 年 七月 二十 三日) 

. I 「時事 新報」 昭和 十 一 年 七月 二十 五日. 二十 六日 



老父 歎 



四い 五歲 にして はじめて 父と なった 私 は、 もとより 人後に 落ちぬ 親馬鹿で ある。 こども は $t 親 

の 偉 さとこ はさ は 知って ゐ るが、 父親に は 尊敬の 念 を 持って ゐ ない。 愚妻 は 世間 並の 考 へで、 何 

とかして おや ぢを うやま はせ ようとつ とめ、 敎へ、 心 をく だく さま は 笑止で あるが、 效果 はすこ 

しも あがらない。 . .... ■ ■• • . 

I 間の、 自分と 同年 配の こどもの 父親と 比べて、 我 父 は 何たる 年寄で あらう とい ふの が、 先づ 

こどもの 頭に 浮んだ 不審で ある。 おやお の 膝に 乘り、 髯面を 撫でたり、 叩いたり して ゐ たのが、 

突然、 

「お父さんお ぢ いさんに なり かけだね え。」 

と 云った。 あんまり 本 當の事 をい はれて、 おや ぢ はぐつ と 詰まった。 



歎 父老 



i ねえ さう でしよ。」 

た、 みかけて 來 るので、 本 當の事 は本當 だから、 

「あ 、 、 さう だよ。」 

と 答へ ると、 今度 は つくづく 顔 を 見て、 

「お父さん 0- ぉ顏、 どうして そんなにば つちい の。」 

と來 た。 年 をと つて 皺が 深く. 費 肉が 出來、 たるみが 出來、 皮膚に は汚點 がいつ ぱい はびこつ 

てゐ るの だから、 こども 心に も 汚なら しく 思 ふの は あたり まへ だ。 だが、 あんまり 適切な 事 をい 

はれる の は 愉快で ない。 おや ぢは むっとして 僅かに 苦笑 を もらした。 

二の こどもが 小學 校に 入り、 中學 から 大學へ 順調に 進む としても、 その 卒業の 喜びに めぐりあ 

ふのに は、 ざっと 七十 迄 生きなければ ならない。 萬 一 こども もお ゃぢと 同じ 根性 を 持ち、 學校を 

嫌 ひ、 先生に そむき、 父母に 歎き を かける ものと 十れば、 愈々 命ながら へなければ ならない。 そ 

の 上、 f 間の 親 並に、 こどもの 結婚に 關 する 一切の 負擔 もして やらなければ ならない とすると、 

こ い つ はう つかり 死ねない ぞ —— と嚴肅 に、 行末 を 想 ふ ことがある。 

親馬鹿 は、 あらゆる 亡と を犧牲 にして 御 機 li "をと りむす ばう とする が、 こどもの 方で は 十分に 



493 



買って くれない。 

「僕ね え、 藤さん がー 等 好き。 それから お母さん、 それからお 父さん。」 

と 正直に 數 へたて る。 內 藤さん は 腕の い、 西洋 家具の 職人で、 机 もこ しらへ て くれる し、 椅子 

もこ しらへ て くれる し、 おもちゃ 箱 もこ,, J ら へて くれる し、 こども を 遊ばせる こと も rM 手 だ。, 

藤さん が 遊びに 來 ると 約束した 日 を 指折り 數へ、 .s: 藤さん が來 たと なると、 おや ぢが 一生懸命に 

お 相手して ゐる 時で も、 忽ち ふり 捨て、 

「僕、 藤さん と 遊んで 來 る。」 

とい つて かけ 出して しま ふ。 ... .... 

愚妻 は眞劎 になって、 • 

「うちで 一 番優 ちゃん を 可愛が つて 下さる の はお 父さんで しょ。 だからお 父さんが 一 番 好きで し 

よ。」 

と、 だまさう とする が、 

「う、 ん、 僕內 藤さん が 一 番 だよ。」 

といって きかない。 あんまりうる さくなる と、 母親と 父親の 順位 を變更 して、 その 場 を 逃れよ 



494 



歎 父老 



うとす る。 

「それ ぢゃ あお 父さん 二等に して あげ る。」 

と讓步 の實を 示し、 母親よりも 手強くない おや ぢの 背中に かけて 來て、 

「ね、 お父さん 二等なら い、 でしよ。 だって 爲 方がない よ。 僕. r 藤さん が 好きなん だもの。」 

と 耳の 中に あつたかい 息 を 吹き込む。 おやお はまる で 他愛なく、 

「い、 よい、 よ、 僕び りつこで もい、 ん だよ 。」 

と 云って、 母親の 眉 を ひそめさせる。 

どうして 內 藤さん はそんな にい、 のか、 おやお は 多少の 嫉妬 もあって、 , こどもと 遊んで ゐ ると 

ころ を、 のぞきに 行って みると、 成程 こいつ はかな はない。 積木で お 城 をつ くる こともう まいし、 

木片 や 空箱 を 利用して 玉 ころがし も 出来る。 鐵鎚と 釘 さへ あれば 忽ち 動物の 住む ァパ アト メン 

ト . ハ ウス も出來 上る。 何しろ 腕に 職の あるのと、 まるっきり 不器用な のとで は競爭 にならない。 

「內 藤さん に はかな はない よ。」 

おや ぢは 嘆息し、 • 無理に も 父親 を 一 等に させよう とする 妻の 愚かなる 企 を、 ひそかに たしなめ 

た。 i 



ところが、 今年の 春から 幼稚園に 行く やうに なり、 友達が 出來 ると、 久しく 保った 內藤さ A の 

主 座 も、 やう やく 搖らぐ 事に なった。 . , : + 

「お父さん、 僕の 仲よ し、 誰 だか 知って るか。」 

「知って ると も、 內 藤さん だら う。 一 . - 

「う、 ん違 ふ。」 

こども は、 おや ぢの 想像の うら を かいた 得意と、 秘密 を 喜ぶ 心 持で いつば いだ。 親馬鹿 は あは 

れ にも、 さて は 自分が 一等に cd: 格した かと 早合點 して、 . , . 

「それ ぢゃ あお 父さん かい。」 - 

と乘 出した。 

「う 、 ん違 ふ。 - 

「お母さん かい。」 . 

「違 ふ。」 . .. 

「富 士子 かい。」 

「違 ふ に 



496 



数 父老 



去年 生れた 赤坊 でも 無い とい ふ。 全く 見當 がっかなかった。 . 

r 敎へ てあげよ うか。」 

こども は、 おや; T の 想像の 糸が 切れた と 見る と、 愈々 得意に なり 自分から 種 あかし をしょう と 

いふので ある。 

「僕 XX さんが 一等 好き。 二等 は X >; さんの 兄さん。 三等 は、 だ あれ だ。」 

「お父さん。」 

「違 ふよ。 內 藤さん だよ。」 , 

おや ぢは四 等 か 五 等 か、 今後と も あがる 見込 は 無く、 さがる 可能性 は 十分 ある。 XX さん は 幼 

稚 園のお 友達 だ。、 はじめて 友達の 出来た 嬉し さに、 流石の 藤さん も 三等に なった。 

こどもに とって、 目下 最大の 數は 五十 だ。 何 か 物 をね だる 時 も、 澤山 ほしいと. いふ 心 持 を、 此 

の數 字で あら はす 事が 多い。 

「金魚 五十 疋 買って ね。」 

「花火 五十ば つ あげ ませう。」 

などと いふ。 どうした もの か 少食で、 ごはん は 大概 いちぜん しか 食べない。 どうかして 二 ぜん 



497 



食べさせようと 努力して ゐ るの だが、 中々 いふ 通に ならない。 そのく せ、 他家の こどもが 三 ぜん 

食べた とか、 五 杯 食べた とかい ふと、 

「僕 五十ば い 食べ て やる。」 

と 威張る。 - 

或^お ゃぢの 側に ぴったり 寄 添って、 

「お父さん、 五十に なっても 死まない でね。」 

といった。 東京の こども は、 どうい ふ もの か、 む まない 死み さう と 訛る が、 うちの も 御 多 

分に もれない。 

「大丈夫 だよ、 死な、 いよ。」 

その 時 四十 九 歳のお ゃぢ は、 叉しても 苦笑の 外に 手はなかった が、 • こども は 一 生 懸命だった。 

象 中 方々 に 飾って ある 祖父の 寫眞を 見て、 おおいさん は どこに ゐ るの かとき、、 おかくれ になつ 

たの だと 敎 へられ、 最初 はかく れんぼの やうに 何處 かに かくれて ゐる ものと 思って ゐ たのが、 お 

かくれと は 死ぬ 事で あり、 年 をと ると 死ぬ もの だと、 うすうす わかって 来た 折 柄、 おや ぢは來 年 

五十になる ときいて、 最大の 數に 達して は、 死ぬ ので はない かと 氣づ かった ものら しい。 



498 



數 ノズ老 



「きっと 死まない でね。」 

「大丈夫 だよ。」 . 

「五十よりも もっとお ぢ いさんに なって、 年が なくな つても 死まない でね。」 

五十 を 越して、 こどもに は 勘定の 出來 ない 年に なっても 死んで くれるな とい ふの だ。 あんまり 

眞劎 なので * おや ぢは 返答が 出来 なくなった。 こっち は 七十 迄 も 八十 迄 も 生きて、 こどもの 卒業 

を 見、 嫁を迎 へて やらなければ ならない と 心配して ゐ ると、 こどもの 方で は 物心つ いた 時から お 

ぢ いさんに なり かけの 父親の 壽 命に 不安 を覺 え、 いつ 迄 も 死な、 いで くれと 頼んで ゐ るの だ。 老 

いたる 父の はかな さに、 親馬鹿 も淚 ぐみ、 こどもの 背中に 手 を 廻し、 

「死な K いよ、 死な、 いよ。」 , 

そんな 心配 を かけて すまない と、 あや ふく 泣き出し さう になる ので ある。 (昭和 十一 年 七月 二十 

九日) 

—— 「時事 新報」 昭和 十 一 年 八月 一日. 二日 



499 



"郡 虎彦 全集」 に 就, て 



よは ひ う ひ 

齢 二十 一 にして、 文壇に 初見 參し、 これ を 記念す る爲 か、 一時のお も ひっき か、 萱野 二十 一 の 

筆名 を 用 ひ、 小說 「松 山 一家」 は雜誌 「太陽」 の 懸賞に 當 選し、 戯曲 「道 成 寺」 は 自由 劇場 第 六 囘の上 

^脚本に 選定され て 脚光 を 浴び、 後 歐洲に 遊ぶ, や、 英語 を 以て 戯曲 を發 表し 倫敦に 於て 公演され * 

更に 獨佛伊 諸 國譯も 出る とい ふ 華々 しさで、 世界的 文豪た らんこと を 期した のが、 不幸に して" お 

こまり とら ひ I- . 

み、 三十 五 歳で 瑞 西に 客死した 郡虎彥 氏の 全集が、 友人 志賀直 哉、 武者 小路 實篤、 里見淳 諸氏の 

盡 力で、 やう やく 出版され る ことにな つた。 

彼 こそ は、 島國 根性に みちみち たる 日本 文壇に 嫌ら す、 これ を輕 蔑し、 直に 日本 生れの シェク 

ス ピアと して 世界的 文 學を殘 さう と 志し 勇敢に 執拗に 目的 を果 さんと した 稀なる 人間であった。 

全く 彼 は 類の無い 人間だった。 多くの 文學靑 年が、 文壇に 出る とか 出ない とか、 右 を 見たり 左 



500 



て 就に L 集 全 ま 虎 郡つ 



を 見たり、 恨んだり、 ひがんだり、 歎いたり、 愚痴 を こぼした りして ゐ るの をし り 目に かけ、 最 

初から 自分 こそ はせ 界 第一流の 作家 だと 信じて ゐ たもの、 やうに 見える。 天分 薄く、 氣の 弱い 吾 

々に は、 時に それ は 誇大妄想 か、 出鳕目 か、 おどかし か、 つけ 元氣 か、 噓っ きか、 大山 師か とも 

思 はれた が、 彼の 短い 生涯 は、 彼が 決して 口 さ き ばかりの 法螺 吹 でなかった こ と を立證 した。 

とはいへ 私と 雖も、 彼の 仕事が 果して 世界的の ものである かどう か は 疑問 だと 思 ふが、 彼程 積 

極 的に 自己の 力 を 世界に 示さう と 努力した 人間 は 珍しく、 まことに 心地よ き 浪漫派と して、 その 

業績 を推稱 したいの である。 

私 は 大正 三年の 秋から 約 一年間、 英京 倫敦に 於て、 彼と 親しくつ きあつた。 未だ 英語で 作品 を 

發 表する 前で、 今から 想へば、 歐羅 巴で 古典 藝 術に 感激し、 それ迄 かなりの 感化 を 受けた ォスカ 

ァ. ワイルド、 ダヌン チォ、 ホフマン シ ユタ アル、 シ ュニッ ッラァ に 別れ を 吿げ、 ミ ケ ラン ジ ェ 

&とシ H ク スピアに 藝 術の 本道 を 見出し、 身 を 以て 之 等の 巨匠と 競 はんと こ,^ ろざし つ、、 ひそ 

かに 心の 準備 を 整へ てゐた 時代 だ。 尤も、 日本人 經營の 喫茶店に ゐる 日本 娘に 戀し、 何も 手に つ 

かないと いふ 時代で もあった。 私 は、 彼が 倫 敦の眞 中で、 日本 娘に 戀 する 事の 不思議 さ を、 屢々 

口にしてから かった。 それが、 他の 日本人なら 不思議 はない。 いつも 日本料理 を戀 しがり、 自室 



501 



では 浴衣 姿で くつろぎ、 米の 飯 を 夢に 見る 普通の 日本人な らば、 異鄕に 同胞と 相 語って 思 鄕の念 

を 癒さう とする かもしれ ない。 ところが、 郡 氏 は 日本に ゐる 時から、 凡そ 日本 趣味に は 遠い 人閒 

だった。 和服 を 着た 事が 無い。 米の 飯 は 嫌 ひだと いふ。 小うる さく 他人の 身の上に 干涉 したり、 

話に 曰 も 足りない 日本人 は 好きで ない らしかった。 さう いふ 彼が、 どうして 日本 娘に 參 つたの 

か。 これ こそ、 彼に とって は 一種の 異國 趣味な ので はない か。 彼 は 私の 誘 問に 對し、 持 前の ほが 

ら かな 笑聲を 以て 答へ るば かりだった。 

しかし、 此の 戀は 失敗に 終って、 間もなく、 彼の 晚年 を、 日本の 妻の 如く 貞節に 忠實 にみ とつ 

た 苦吉利 婦人と 相 許す やうに なった。 

彼 は 日本の 文壇 を輕 蔑して ゐた。 反感 を 持つ とい ふやうな なまやさし いもので はなく、 頭から 

蔑 する 態度だった。 西洋 好の 彼の ひとつの 強味で あり、 同時に 义 何となく 妄想 的な、 芝居が、 

りに 見 え る 原因 でもあった。 

彼 は, i2 崎 藤 村 先生と 间じ頃 に 巴 里に ゐ たが、 此の 大家 を 自分よ りも遙 かに 天分の 乏しい 作家と 

見做して ゐ たやう だ。 先生 一流の、 日本的な、 謙譲な 態度 を こ、 ろよ しとせ す、 叉旣に 完成 期に 

達 した 人の 常と して、 歐羅 巴の 文化の 中に 在っても、 情熱 を 以て 之 を 感得す るので なく、 離れて 



502 



て 就に し 集 全 彥虎郡 1 



觀 察する 傾向の 著しい の を、 鈍感と さへ 斷定 して ゐ たやう だ。 

大正 九 年に 彼が 歸 朝した 時、 私 は « 々彼と 逢った。 最後の 時 は、 二人で 或る 待合であった の:?^ 

が、 偶然 同じ 家の 別 座敷に 泉 鏡 花 先生が 見えて ゐて、 しま ひに 一座した。 その 時、 彼 は 私が 此の 

天才 作 象に 對し、 心からの 尊敬 を もって 先生と 呼ぶ、 その 敬稱 をよ せとい つて 止まなかった。 「先 

生 は を かしい な あ」 と、 朗 かに 笑 ひながら、 肚の 中で は 強く 非難して ゐた。 

彼 は 鏡 花 先生の 作品なん か、 ろくに 讀 んでゐ なかった。 讀ん でも、 あの 日本人の 感情に あ ふる 

、作品 は、 西洋 好 の 彼に は緣 のない ものだった かもしれ ない。 若し^ 界 の 言語が ひとつだった ら. 

最も 日本的な 此の 作家 こそ 世界的 名聲を かち 得る に 違 ひ 無い と、 私 は 熟 心に 說 いた けれど、 彼 は 

決して 耳 を かさなかった。 その 晚彼は 私に 好感 を 持たなかった。 それつ きり、 何の 知らせ もな く 

出立し、 英吉利に 行って il 或は 歸 つて I 'しま ひ、 異鄕の 灰と なって しまった。 

鬼に 角 彼 は 異常な 天分 を 持って ゐた。 不幸に して 病弱だった が、 精祌は 強かった。 若し 彼が 壽 

を 保ち、 今日 もな ほ^に 在ったら どうな つたで あらう。 四十に なっても 五十に なっても、 日本に 

る氣は 起さす、 歐羅 巴人 を讀 者と し、 觀者 として、 小說 戯曲の 制作 をつ; -け、 日本 生れの シェ 

ク スピア を 以て 任じて ゐた らう か、 或は 义 年齢と 共に 故 鄕が戀 しくな り、 日本に 歸 つて 來て、 



503 



日本的な もの を 見直し、 今迄 氣の 付かなかった 美と 力との 發 見に 感激した かどう か、 私に は 想像 

力つ 力な.^ , . 

私 は 繰返して 彼の 西洋 好を說 いたが、 だからといって 彼 は 決して 日本 を 嫌った ので は 無い。 彼 

は 日本 を 愛し、 日本人で ある 事 を 誇りと さへ して ゐた。 愛國的 精神に 於て は 誰 人に も 負けない も 

のがあった。 けれども、 島國 根性で、 無批判に、 獨善 的に、 曰 本の 一 切 をよ しと はしなかった。 

日^の いやな 所、 卑小な もの、 脆弱な 點は 極端に 嫌った。 愛する が 故に 憎む とい ふ 心 持で あらう 

X- 

力 

彼が 死んで 十餘 年、 今日 郡 虎 彥の名 を 知らない 人 も 多いで あらう。 二十 一歳に して 突如 文壇の 

新星と して あら はれ、 忽ち 我國 近代劇 運動の 最 尖端 を 切り、 華々 しく 文壇に 地步を 占めたと 思 ふ 

と、 唾 する やうに 之 を 見捨て、 今度 は 英吉利に 腰を据 ゑて、 英語で 戲曲、 詩、 評論 を發 表し、 

短い 生涯に 輝かしい 才筆 を 示した、 浪漫派 精神の 滿々 たる 詩人の 業績 を 知る の は 無益で 無い。 

(昭和 十 一 年 七月 三十日) 

11 「時事 新報」 昭和 十一 年 八月 八 H • 九 P 



土?? 樂極 



極 樂淨土 



勤 先の 寧 5 接 室で、 或 曰 或る 品物の 賫 込に 来た 人と 對談 して ゐた 時、 何のき つかけ か、 突然 そ Q- 

人 は 緊張した 姿勢と なり、 聲も 一 變 して、 

「失禮 です が、 西方 淨 土と いふの は 何處を さしてい はれた のか 御 承知で 御座いま すか。」 

といって、 私が 返事に 迷って ゐ ると、 

「それ は 大日 本 帝國の ことで 御座いま すよ。 西方 十 萬 億 土 を 過ぎた る 所に ありと いはれ る淸淨 * 

界 は我國 のこと で 御座います。 阿彌陀 さまの 御いで になる ところで 御座います。 全く ありがたい 

事で ::: 」 

南無 阿 彌陀佛 々々々々々々とい ひ 出し さうな 敬虔な 態度で、 その 人 は 私に 敎 へて くれた。 いふ 

まで もな く滿 洲事變 後の 事で.' 歷史も 地理 も 法律 も. あらゆる 學問 を、 明治 以來の 西洋 流と 絕緣 



505 



し、 天上から 見ようと する 精神 蓮 動の 興隆 せんとす る 時であった。 商 ひ を もってな り は ひとす る 

人ながら、 時 を 得た る 或 宗敎の 信仰者の 一 人で あると 後で 聞いた。 さう いふ 方面の 精神 生活に 緣 

遠い 俗物 は、 かねてき く極樂 が我國 のこと だと 敎 へられても、 た 茫然た るば かりだった。 

もとより 吾々 は、 萬 *1 一系の 天子 樣を 頂く 世界 無比の 大日 本 帝國に 生れた 事 を ほこりと し、 身 

の 幸 を 喜ぶ ものであるが、 さりと て 此の 國が、 西方 淨土 だと は 思はなかった。 吾々 は 小學校 一年 

の 時から、 我が 國體 について は 明確に 敎 へられて 来た。 二- -Itil 

されば 吾々 は、 大日 本帝國 臣民た る 光榮を 身に 沁々 と 感謝して ゐ るので あるが、 更に 此の 阈土 

が 西方 淨土 であると 敎 へられて、 あまりの ことに 心が 顚 倒し、 實は 相手の 心 狀に疑 ひ を 持った 位 

であるが、 全く 眞劍に 緊張して ゐる樣 子 を 見る と、 質問 をす る 隙 さへ 見出す 事が 出來 なかった C 

私共 幼少の 頃に、 惡ぃ事 をして 死 ぬと 地獄に おちる とお どかされた。 嘘つき は 閻魔 さまに 舌 を 

拔 かれ、 叉 或 者 は 六道の 辻に 踏 迷 ひ、 賽の河原に 石 を 積み、 血の 池に もがき、 針の 山に 追 ひ あげ 

られ、 ャ頭 馬頭の 呵責 をう ける の だと、 如 實感の たっぷり ある 鎗畫を 見せつ けられて 震へ 上った。 

尤も その 一方に は、 善い 事 をして 死ねば 極樂に 行かれる とい ふ 話 もき かされた けれど、 何しろ 怖 

ろしい 方 は 心魂に 徹し、 繪の 印象 も 地獄の 方が 強く 鮮明 だし、 一度で も 惡ぃ事 を すれば 地獄へ お 



506 



ちる とすると. 大 消の 人間 は その 方に 違 ひ 無い から 自分 も 御多分に もれまい と 思 ひ あはせ.' 針の 

世 果無い 心地に 堪 へなかった。 全く 地獄の 綺と いふ もの は、 サド 侯爵に 見せたら さぞ かし 舆 奮す 

る だら うと 思 はれる やうな、 怪奇 錢 酷な もので、 幼 衆の 心に は壓 力が 強 過る。 私 は 今でも はっき 

りと 思 ひだす。 裸に された 男女が、 靑 ざめ、 血 を 流し、 肉體を 苦痛に くねらせ、 泣き叫ぶ さま は 

恐らく 生涯 忘れる 事が 出來 ないで あらう。 それな のに 極 樂の方 は、 どうも 印象が はっきり しない。. 

蓮の 花 は^いて ゐた であらう。 しかし、 どうも はっきりと は 思 ひ 出せない。 然るに、 實に 突然、 

この 吾々 の 住む 曰 本が、 その 極 樂淨土 だとい ふの だ。 實に 人間の. t 仝 想 程、 ゆたかに 樂し いもの は 

無い。 

その後 間もなく、 或會 合の 席で、 私 は 日本 淨土說 を 紹介した。 正直のと ころ、 私 は 一座の 人達 

は、 恐らく 途方 も 無い 此の 空想 を 笑 ふで あらう と 期待した ので あるが、 意外に も 強い 支持者が あ 

ら はれた。 

「全く 日本 は極樂 です よ。 極樂 とい ふの は、 日本 を 更に 理想化した ものです よ。」 

畫 壇の 大家 は 決然と してい ひ 放った。 その 意 氣込は あたりの 人が 笑 はんとしても 笑へ ない 位、 

おさへ つけて あまり ある ものであった。 



507 



「いったい 日本 程、 春夏秋冬の 變 化の 趣の 深い 國が 何處 にあります か。 日本 程 山水の 美しい!: が 

何處 にあります か。 日本 程 多種多様の 草木の 惠 まれて ゐる國 が何處 にあります か。 日本 程 美しい 

c| や 魚 ゃ蟲の 棲む 國が 何處 にあります か。 しかも 人間 は 強く、 利口で ある。 全く 極樂 です よ。」 . 

流石に、 自然の 觀察 描寫に 精神 を うちこむ 畫 人の 說は 面白い。 成程、 人の 氣 のっかない 野 山の 

雜草 にも、 とりどりに 細かい 美しい 花が" 咲く。 小鳥の 聲も樂 しい。 四面 海 もて 圍 まれる 國 だから、 

魚貝 はもと より 種類が 多い。 今でも まだ 東京の 町中に 蝶々 蜻蜍が 飛び.' 蟬 ども は 合唱す る。 紐 育、 

倫敦、 巴 里、 伯林に 於ても 斯く 長閑なる 景色 を 見る ことが 出來 るか。 佛敎 のこと は 少しも 知らな 

いが、 山川 草木の ゆたかなる 事に 結びつけられ ると、 さて は 自分 は 極樂淨 土に 生れた のか、 善根 

をつ くす まで もな く、 か、 る 果報に 惠 まれた のか —— こいつ は 面白い ぞと 一 人 密かに ほ、 笑んだ。 

私 は 得意に なって、 逢 ふ 人 毎に 說 いた。 

「西方 淨 土と いふの は 日本の こと ださう です ねえ。」 

すると 相手 は 非常に 驚いて、 或 者 は 最初 私が 經驗 したと 同じく 呆然と して 目 をみ はる。 或 者 は 

笑 ひ 出す。 或 者 は眞意 を捉へ かねて、 私の 精神 狀態を 疑 ふ。 そこで 私 は、 畫 伯に きかされた 說を 

うけ 賫 する。 此の 說は餘 程 我が 同胞の 愛國 心に 媚 ると 見えて、 感心す る 者が 多い。 私 は 偸 快に な 



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土淨樂 極 



-り、 無 反省に なり、 相手 をえ らば なくなった。 

「先生, いったい 西方 淨 土と は 何の ことです か。」 

一人の 文 學靑年 は、 私の 心の 狀態を あやしむ もの. - 如く 反間した。 これに は 私も當 惑した。 し 

きりに 口に はして ゐ るが、 他人に 說明 する 程の 知識 は 無い。 地獄の 方なら 充分に 說明 出来る の だ 

けれど。 

「待てよ、 字引 を 引いて 見よう。」 

^?4は早速字典を引張出した。 

さい はう じ やう ど はごくら くじ やう どに 同じ。 西方 十 萬 億 土 を 過ぎた る 所に あり。 阿 彌陀怫 の 

住む 所。 淸淨 にして、 生死、 寒暑、 憂惱 等の 一 切の 苦痛 無く、 七 寶の莊 厳と 微妙の 快樂に 富む 云 

畫伯 がと りあげた やうな 春夏秋冬の 變化 はなく、 年中 のん ベんだら りと 同 一 溫度を 保つ もの \ 

やうで ある。 山川 草木 鳥蟲 魚貝の 事 は 書いて 無い。 どうも これ 丈で は、 我が 住む 國 土と は 違 ふや 

うだ。 山川 草木 は 美しい かもしれ ない が、 こ、 に は 複雑なる 人間 社 食の 一切の 憂惱が 渦を卷 いて 

ゐる。 _x 十六 字お〕。 知らざる もの、 幸が、 忽ち 脆く 崩 遣した ので、 私 はすつ かりてれ て 苦笑した。 



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靑年は 私の へ こたれ たの を 見て、 甚だい 、氣 持ら しく * 

〔二十 五 字お〕 , • . , 

ひと 頃 はやった、 を かしな 三十 一文字 を、 何氣 ない ふり をして くちす さみ、 バットの 煙 を 鼻 か 

ら 出した。 (昭和. f- 一年 八月 五 Ro - 

. I 「時事 新報」 昭和 十 一 年 八月 十五 日 . 十六 日 



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右の 產上 



土 產の石 



つい 此間讀 んだ雜 誌に、 誰の 書いた もの か 忘れた が、 旅行の 先々 で 石 を 拾って 来て 記念と する 

樂 しみが 記して あった。 それ は その 人の 獨創 か、 义は 世間 一般に、 郵便切手 を 集めたり、 燐寸の 

商標 を 集めたり する やうな 流行な のか 知らないが、 實は私 は 今日 迄 * 私の 母の かしこき おも ひつ 

き だと 思って ゐた。 

「ほかに は 何も いらない から、 お前の 行く先々 で、 石 を 拾って、 お土産に 持って来て おくれ。」 

今 は 早 や 二十 餘 年の 昔と なった が、 大正 元年? 秋、 亞米利 加へ 行く 時に、 母 は 私に 註文した。 

石 は 美しくな く ともよい、 ち ひさい もので よい、 みちばたに, ころがって ゐる もので よい …… 

-兀來 私共 一族 は 不精で ある。 世間 並の、 あけまして 御目出度う だと か、 暑さ 塞 さに お障り は 御 

座い ません かと か、 い、 お 天氣で 結構 だと か、 惡 いお IK 氣で 困る とか、 皆さんお 變りは 御座いま 



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. せんかと かいふ 挨拶 は 略してし まふ 性格 を遣傳 して ゐる。 父 は、 明治維新の 變 革に 際し、 さう い 

ふこと は 不必要 だと 考へ、 意識的に 排除した のか もしれ ない が、 吾々 子供の 代になる と、 極めて 

自然に 口に 出て 來 なくなつ たもの、 やうで ある。 か、 る 性格に 關聯を 持つ ものと 思 ふが、 私 は 父 

から、 お土産 を 貰った 記憶が 無い。 隨分 旅行 もした 害 だけれ ど、 父の 旅 飽から 子供達への 土 ii- の 

出た 事 は 無い。 

よくない 事 はう けつぐ もので、 私 は學生 時分 友 逢と 遠足したり 旅行した りしても 1 ほかの 者 は 

旅に 土產 はっき もの だと 考 へ てゐ るら しいの に、 何 を 買 ふ氣も 起らなかった。 第 1 買物 をす ると 

いふ 事に 與味を 感じないで、 寧ろ 嫌忌す る 方 だから、 商店の 店頭に 立って、 あれこれと 品物 を 選 

ぶの が 愉快で たい。 それが 必要品の 場合で も、 私 は 一刻も早く 店 さき を 離れたい おも ひが いっぱ 

いで、 品物の il^ 否、 價 格の 適否 を判斷 する 暇 もな く、 勸 めら れる物 を その 儘 受取って すませて し 

まふ 遺 口 だ。 だから、 友達が お 土 產屋の 店頭で、 何彼と 品物 を 手に 取上げ、 さも 樂 しさう に 比較 

し、 眞劍に 値切る 有樣を 見る と、 その 心境 を 羨ましく 思った が、 さりと て 自分 も 進んで 之に 倣 は 

うと はしなかった。 母 はもと より 並々 ならぬ 我が 兒の 不精 を 承知し、 且又 留學 費の 極端に 乏しい 

拿 も 知って ゐ るので、 どうせ あたり まへの 土 產物を 買って 來 いといった とて、 おい それと 實 行し 



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右の * 土 



はしない だら うと、 根性 見 透し の 事に 違 ひなかった。 

私に しても、 みちばたの 小石 を 拾 ふ 位の 事なら わけなし だから、 きっと 忘れす に 持って 歸 ると 

誓って 故國を 後に したの だが、 さて 亞米利 加に おちつき、 足 かけ 三年 まる 二 年 完全に 忘れて しま 

つた。 忘れた とい ふよりも、 例の 根性が 出て、 無視して しまったと いふ 方が 適切で ある。 みちば 

たの 小石 を 拾 ふ 事 は 不正で もなん でもない が、 知らない 人が 見る ときち が ひじみ てゐ るし、 うし 

ろめ たい 氣の する もの だ。 

愈々 亞米利 加 を 去る とい ふ 時に なって、 私 はやう やく 母との 約束 を 思 ひ 出し、 先づ ハァヴ アド 

こみち 

大學の 校庭の 芝生の 中 をう ねる 小徑に 小石 を 拾 ひ、 ボス ト ン 美術館の 周圍を 取卷く 連翹の 生垣の 

間に 見つけ、 その外 あちこちで 拾った の を飽の 底に しま ひ、 英吉利に 渡った。 倫敦 でも、 巴 里で 

も、 歸途の グアバ ン でも、 シン ガボ オルで も、 上海で も、 鬼に 角 一 つ は 拾って 來た。 今にして 殊 

に 痛切に 思 ふの は、 大國 民と いふの か 老大國 とい ふの か、 寛容と いふべき か、 怠慢と いふべき か、 

戰爭眞 最中の 非常時で も、 歐羅 巴諸國 では、 稅 吏と 雖も飽 の 底 迄 ひつく りかへ して 探す 精神 を 持 

つて ゐな いので、 此の 石 ども は 安らかに 眠って 来たが、 大日 本 帝國の 吏員 は 職務に 熱心 だから、 

神戶に 於て はじめて 飽の 底の 石が 問題に なった。 母に 約束の 土產 です と說 明した が、 うさんくさ 



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い 眼で, 幾度 も 石 ども を檢査 した。 異人の 國の稅 關吏ゃ 警官 は、 人前で も 平 氣で五 拾 錢玉を 手に 

受け、 大に 融通-. どき かせる さう である-が、 日本で はそんな ふしだら は 許されない。 それに も拘ら 

す 裏面に 於て は、 役人の 關係 する 疑獄の 絕 えない の はどうした 事 か。 それ は 本筋に 關 係ない が、 

兎に角 飽の 底から 澤 山の 小石の あら はれた 事 は、 吏員の, 疑 ふ 所と なった ので ある。 

星霜 二十 餘年、 今 も 母の 住む 本家の 座敷の 床の間に は、 水盤に 並ぶ 石ころ を 見る。 その 中には 

私の 旅の 記念が 澤山 ある。 もとより みちばたの 小石 だから、 形 も 色 も、 石 そのもの 、美し さは 乏 

しく、 若し それが 我家の 門前に ころがって ゐ たと したら、 下駄の 齒 にかけ て 溝の 中へ 蹴飛ばした 

に告, ^ひ 無い しろものば かりだ。 だが、 石 どもの 片面に は 拾った 場所と 年月日が 記して あるので、 

その 時の 景色が まざまざと 思 ひ 出される ばかりで た < く、 その 頃の 感傷まで も 浮んで 來る。 ナイ ャ 

ガラ^ 布の ほとりで 拾った 平べ つたい 石 を 見て ゐ ると、 初秋の 空に 音 もな く あがって 消えた 花火 

に、 懷鄕 のお も ひ を 誘 はれた 日が 蘇へ り、 ケ エブ. タウ ンの 赤茶けた 石 を 手に とる と、 夏 八月と 

いふのに 桃の 花の^いて ゐた 夢の やうな 景色が 眼に 浮ぶ。 寢臺と 洗面 臺と 一 脚の 椅子で いっぱい 

になり、 身動き も出來 なかった 紐 育の 下宿の 暑さに 堪へ かね、 夜毎 ハドソン 河畔の 共同 椅子に ル 

ン ペンの 如く 茫然と して、 對 岸の 灯の きらめき を 眺め、 金の 無い 身の 伦 しさに、 血の した、 るビ 



314 



右の 產_ 七 



ィフ • ステ H キの 事ば かり 考へ てゐた あさまし さも 思 ひ 出す。 まるいち ひさい 石 は 共同 椅子の 下 

にで もころ がって ゐ たので あらう。 倫敦 では なかなか 石ころが 昆 つからす、 人工で かためた 近代 

都市の 不都合 を 忌々 しがり、 結局 ハイド. パァク で 手に入れ たが、 當時 英京 は燈火 管制 下に 在り、 

しかも 獨 逸の 飛行船に 襲擊 された 時であった。 それでも 物に 動じない 英吉利 人 は、 極めて 冷靜沈 

着に、 芝居 氣を 起さす、 安つ ぼい 情熱 を まき 散らかさす、 默々 として 多難の 途を 踏んで ゐた。 公 

園の 芝生に は 俄 仕 立の 兵隊さん が、 情人と 相 抱いて 日光に 浴して ゐた。 E 里で はルク サン ブゥ. ル 

公園で、 肌の 滑 かな 白い 石 を 拾った。 ソルボン ヌ大學 の 近くの 安 ホテルに、 月極めで 下宿して ゐ 

たの だが、 そこに は 故人と なった 澤木 四方 吉氏 もゐ た。 小 泉 信 三 氏もゐ た。 島 崎 藤 村 先生 も、 日 

本へ 歸る閒 際に 少時 同宿され た。 公園 は 直ぐ 近くに あった。 詩人 文人の 胸像の 立 並ぶ 小徑の 椅子 

にかけ、 美しい 花園 を. 見て、 ぼんやり 時間 を 消す のは樂 しかった。 

土産の 石 は、 決して 外國の ものば かりで は 無い。 我國に 於ても、 北 は 北海道 南 は 臺灣、 その 最 

^端の 鵞鑾 鼻の 燈臺 下の まる 石 も ある。 この 夏 は 勤 先の 命 をう けて 北海道へ 出かけた が、 旭川に 

は 甥が 入營 して ゐ るので、 その 孫の 身の 無事 を 祈る 老母の 爲 めに、 白い 小石 を ポケット にしのば 

せて 來た。 » はう す 汚い、 何の 取得 もない 石 を 押 頂き、 亡父の 怫 前に そな へて、 手 を 合せた。 



515 



(昭和 十 一年 八月 廿 一 日) 

. I 「時事 新報」 昭和 十一 年 八月 二十 二日 • 二十 三日 



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空襲 



食卓に 蠅が 飛んで 來 ると、 うちの こども は、 

「空襲々々。」 

と 叫んで 追拂 ふ。 救 年來、 年中行事の やうに 行 はれる 防空 演習のお かげで 覺 えた 戰鬪 知識の 活 

用で ある。 いかにも 軍 國の兒 童の 勇まし さ を 示す やうに 想像され るで あらう が、 實 はいたって 意 

病で、 防空 演習の 砲聲を 聞いたり、 飛行機の 爆音 を 耳に すると、 戰爭? といって 怯える 弱蟲 であ 

る。 空襲々々 は人眞 似に 過ぎない。 〔七 百 九十 七 字き 

防空 演習に ついて 思 ひ 出す の は、 歐 洲戰爭 のさな かに、 英京 倫敦 がう けた 空襲の 實況 である。 

めで 私が 倫敦へ 行った の は、 大正 三年の 秋で、 この 大都は 旣に燈 火 管制 下にあった。 人の 話 をき いて 

も, 別段 演習 も 行 はす、 町 會ゃ靑 年 圑ゃ國 防 婦人 會の 熱狂 的 活動に 援助 せらる、 事 もな く、 Is- の 



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手數も かけす、 いっぺんの 布吿を 以て、 靜に穩 に 行 はれた もの、 や.. つで ある。 屋 -2: の 燈火を 消し 

たり: m く/たりす るので はなく、 窓の カァテ ンを 下す だけであった。 偶々 カァテ ンを 下し 忘れて 

も、 愛嫡 あるお ま はりさん が、 門口から やさしく 注意す るば かりで、 S 十一 いつ 敵機が 來 襲す 

るか わからな いの に、 少しも 興奮の 色 を 見せなかった。 

大正 四 年 九月 八日、 今 は 故人と なった 戯曲 家 郡 虎 逢 君と いっしょに 音 樂會に 行き、 夕刻 ハイ 

ド. パァク の 近くの 喫茶店の 二階で、 安い 食事 をして ゐた 。突然、 砲聲 が連績 して 聞え て來 た。 

s 襲々々 と 口々 にい ひながら、 往来から 逃 込んで 來 る人數 で、 屋: T はいつ ぱいに なった。 空に ii 

探 照燈が はげしく 交錯し、 何處 から ともなく 一 齊に 人の 叫びが 起り、 全都が うわ あっとい ふ不氣 

味な 聲に 包まれた。 敵機 を 見た とい ふ 者 も ある。 十 數機來 襲した とい ふ 者 も ある。 何 處其處 に 爆 

彈が 投下され、 多數の 人間が 死んだ とい ふ 者 も ある。 砲聲は 益々 さかんだ。 急に 窓の 硝子が 血の 

色に 變 つた。 大 都の 眞中 あたりに、 火の手が あがった の だ。 念 佛を唱 へる やうに、 火事 だ 火事 だ 

とい ふ聲が ひろがった。 っゾ いて 叉、 他の 方角の 空が、 不自然に あかるく なった。 その 場に ぎつ 

しりつ まった 人達 は、 身動き もしす に、 しかけ 花火 を 見る やうに、 窓外 を 凝視して ゐた。 芝居が 

かりの 英雄 も 出なかった。 人 を かきわけ、 突きの けて 前に 出ようと する 狼狽 者もゐ なかった。 他 



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人に 對 して 命令 を 下す、 世話 燒も あら はれなかった。 各自が めいめいの 運命 を 信じて 冷靜 であつ 

た。 まだ 砲聲 はやまなかった が、 次第に 絕ぇ 結えに なった ので 吾々 は戶 外に 出た。 意外に も、 火 

事 は 下宿の 方角だった。 私 は 郡 君と 別れ、 眞 暗な 道 を 急いだ。 旅人の 身の 氣安 さに は、 父母 もき 

やう だい も 心配になる 者はゐ ない。 たった 一人の 自分の 命 だと 思 ふと、 膽は据 つて、 少しも 怖い 

と は 思はなかった。 私 は 自分の 蓮の 強さ を 信じて ゐた。 爆 彈の爲 に 火を發 したの は 二箇所で、 一 

方 は 下宿の 直ぐ 近くだった。 それば かりで はなく、 下宿の 前の 道路に も 爆彈は 投下され たが、 幸 

に 不發彈 だった さう である。 

私の 記憶 は あやしく なり 當時獨 逸の 飛行船が 幾 機 来襲した のか、 倫敦 市民の 幾人が 死に、 幾人 

が 傷ついた のか 忘れて しまったが、 その 夜の 英吉利 人の 態度と いふ もの は、 關東 大震災の 時の 我 

同胞に 比して、 極めて 冷靜 沈着だった 事 だけ は 忘れない。 戰 時の 敵機 来襲 は、 不測の 地震と は 違 

つて、 豫 想し 得る 度合が 強いから、 周章 狼狠 しなかった の だと も 云へば いへ る。 石と 煉瓦と コ ン 

タリ イトで 固めた 都會 は、 木の 紙と 土で つくった 家に 住む 吾々 と は 安全 度が 違 ふと もい へる。 m 

々の 場合 を 見れば、 悲鳴 を あげた 女 も ある。 失神した 女 も ある。 しかし、 市民 全體 として、 忌 は 

襲 しき 流言 蜜 語も傳 はらす、 各自の 分 を 守り、 他人に 干涉 せす、 運 を 天に 任せ、 自制 を 忘れな かつ 



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た 事 は 確で ある。 偉大なる 平凡の 底力が、 大地と ひとつに なって 根 を はやした 感じであった。 翌 

日 は、 お ま はりさん や 〔二十 字お〕 平素の 通りの 生活が いとなまれた。 歐羅 E の戰時 は、 我國の 平時 

よりも 平靜 だとい ふやうな 氣持 がした。 . 

〔r も 十七 ネき 自分 一個の 考 へから、 戰時签 襲の 危機に 際し、 國民は 徒らに 興奮 輕躁の 態 を 示さす、 

冷靜 沈着で あらねば ならぬ。 然ら ざれば 不測の 困 亂騷擾 を ひき 起す 憂 ひが ある。 だから 平素の 演 

習 も 出來る 事なら 一 枚の 印刷物で 指令し、 あと は 各自の 自制 を俟っ 方法 をと り 度い とい ふ 主張な 

ので > 倫敦 市民の 物に 動じない ありさま を學ん では どうかと 思 ふの だが、 〔二百 一一 十ネ. S —— 私の 如 

きも 此の 非常時に 際して は、 目の あたり 見た 空襲の 實況 を、 夢幻の 一場面と 觀 する 事に 努力し な 

ければ ならない のかと 思 ひ 迷った。 (昭和 十 一 年 八月 二十 八日) 

. . . I 「時事 新報」 昭和 十一 年 八月 二十 九日 ニー 一十 H 



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るいろ:、 淚 



淚 いろいろ 



マリア • テ レジ ァ三 宅由岐 子の 一生 こそ は、 まことに あはれ 深い ものであった。 はたち を こし 

ていく ば くもなく 病牀 にっき、 まる 六 年間 死病と 鬪 ひながら、 戯曲 創作に 努力し、 やう やく 認め 

られ て、 一 二の 作 は 脚光 を 浴びた が、 作者 は 僅に その 一場面 をラ ディ ォで聽 く 事が 出来た ばかり- 

作品 集の 世に出た の も、 作品の 映畫 化された の も、 , この 薄命の 靈 魂の 天に 歸 して 間 もない 今日の 

事に なった。 せめて はか、 る 喜びに 逢 はせ た 上で 死なせたかった と 思 ふの は、 私ば かりで は ある 

ま い 。 

マリア. テ レジ ァ三 宅由岐 子の 「春愁 記」 が こ の 度 「君と 行く 路」 と 改題され、 PCL によって 

映畫 化されました ので、 來る 八月 二十 八日 午後 三時 半より、 翻 町 區有樂 町 日 劇 ビル 三階 東寶 

映 畫試寫 室に 於て、 試寫會 開催の 運びと なりました 云々 



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由岐 子さん の 師匠と 親んだ 水木 京 太 氏と、 U 凡-一一 郎君の 連名の 案 を 受けた。 私 は 映 畫には 馴染 

が 無い。 ちっとも 見に 行く 氣 持が 起らない。 この 二十 年間に 映畫 らしい 映畫を 見た の は、 凡 七 八 

年 前の; ァス フ アルト」 と 二三 年 前の 一夢 見る 唇」 だけで ある。 前者 は、 世の中に とり 殘 され さうな 

私に、 新時代の 感激 を 吹 込んで やらう との 親切 か、 庄野誠 一丸 岡 明 二宮 孝顯の 諸君が 引 張 出しに 

來て、 私と 家- S がお ごって 赏 つた。 後者 も 同じ 目的から であらう、 美 川き よ 子 女史に いっぱい 飮 

ませて 貰った 上で、 おともした。 美しくな まめかし き 女史と 二人で 映畫を 見に 行く 果報 は、 誰か 

知人に 見せ 度い 位の ものだった が、 かう いふ 時には 誰に も 逢 はない ものである。 見て ゐる間 は 別 

段つ まらない とも 思 はない が、 あまり 感服 もしなかった ので、 愛想 をつ かされた と 見え、 少壯文 

學者も 閨秀作家 も、 その後 二度と は 誘って くれない。 要するに 自腹 を 切って 映畫を 見た の は、 一 < 

十 年間 皆無な の だ。 今度 も、 由岐 子さん の 作品が 映畫 化され、 映畫 館で 興行 されても 多分 見に 行 

く^に はならなかった らう。 案 tS: 狀を 受取った 、くけ では、 矢 張 不精 をき め 二んだ であらう。 とこ 

わ V.--- - 

ろが 弟子お も ひの 水木 師匠が、 前もって 態 々やって来て、 必す來 いとい ふ 熟 心に 釣 込まれて しま 

つたの だ。 試寫窒 とい ふの は 想像した よりも 狹ぃ 所だった が、 冷房 設備が あるので 涼しく、 集ま 

る 人 も、 由岐 子さん の 兄さんの 大輔 三郞兩 君、 水木 氏、 その他 三 四の 知った 顔と、 全く 知らない 



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ろい ろい 淚 



女性 數名、 あはせ て十數 人に 過ぎない ので、 大變 氣が樂 だった。 

大輔君 は旣に 一 度 見て ゐる さう で、 最初に うつし 出される 標題 を 見た けで、 淚を 止める 事が 

出來 なくなり、 最後 迄 悲しき 泉 は滾々 として 盡 きなかった とい ふ。 さも あるべき ことで、 殊に 逆 

緣の 不幸に あはれ た 母堂の 如き は、 この 映畫を 見て、 どうお 思 ひになる だら うか。 . 

私 は 全く 映畫の 技術に ついて 無學 文盲で ある。 しかし この 映畫 が、 極めて 原作に 忠實 に、 何等 

餘 計な もの をつ け 加へ す、 素直で けれん の 無い の を 心地よ く 思った。 それ は 原作が 小說 でな く戲 

曲で ある 爲に、 自由 解 釋の餘 地の 無い 結果 かもしれ ない。 俳優で は、 築地 座の 舞臺 でも 評判の よ 

かった 淸川玉 枝の 元は 藝 者だった とい ふ 母親が 圖拔 けて うまく、 これ も 同じ 座に 屬し 同じ 没 を 手 

がけた 經驗の ある 佐伯秀 男の 弟 夕 次がよ く、 ほかの 映畫 畑で 育った 俳優 は、 うまい と 思へ なかつ 

た。 . 

その 人達 は、 由岐 子さん の 創造した 人柄と は 違 ふ 出 牛 一と 教養, -11 或は 無 敎養を 持って ゐた。 た 

とへば、 山縣直 代の 霞と いふの は、 本 所 深 川で 生れ、 代用 小學 校に 通 ひ、 長 じて は藝 者に 賫られ 

て 行く 明治 年代の 娘であった。 この 人 は 風邪 を 引いて ゐた のか、 聲が惡 く、 トォ キイの 役者と は 

思 はれなかった が、 又 鼻の つまった やうな、 舌たら すの やうな のがお 芝居ら しくな く、 現 實感が 



523 



深いと い ふ 逆 說も考 へられた。 津紀 子と いふ 霞の 親友 こそ もっとも つと 理智的 であり た かった が、 

堤 露 佐 子と いふ 人 は、 下町 生れの タァ キイ, ファンと いった かたちで、 义春 さきの 若き 獸 類の や 

うに、 ホルモン 過 剩を想 はせ" 無智な フ ラッパ ァに 過ぎなかった。 大川平 八 郞の兄 朝 次 も 亦、 丸 

の內に 行けば 幾人で もゐ る現實 感は備 へて ゐ たが、 由岐 子さん の 世界から は 遠い 人だった。 最も 

緣 なき 衆生の 感 深き は 藤 原 釜 足と い ふ 俳優の 空 木と い ふ 華族 ,で その 板に つかない, こと 氣の 毒と い 

ふ 外なかった。 ひと, ことで いへば、 配役の あやまり か、 人 不足 か、 或は もっと 致命的に、 作品の 

描いた 世界の 人格 も 敎養も 詩 も 些 か 高 過ぎ て、 そこ 迄 は 行け なかった ので あらう。 さう いふ 不滿 

を 感じながら、 しかも 私 は 感慨無量で、 淚の あふれさ うになる の を、 あや ふくこら へこら へて ゐ 

たが、 時には こらへ きれないで、 薄暗が り を 幸 ひに 思 ふ 事 もあった。 

私 は 「春 愁記」 を舞臺 でも 見た。 それと これと 比べて、 勿論 舞 臺の方 を 面白く 思 ふの だが、 此の 

戯簡の 主題 は、 かへ つて 映畫の 方が 強く はっきりと 感じさせた。 舞臺の 上の 悲劇 は、 スクリ イン 

の 中の それよりも、 立 體感が 深く、 餘 情が あり、 詩が あり、 殊に 間が ある。 しかし、 スクリ イン 

の 中の 悲劇 は、 觀者 をして 考へ、 迷 はせ、 味 ははせ る 隙を與 へす、 な 一筋の スト オリ ィを まつ 

し ぐらに 進行 させて、 端的に 感動させる 強味 を 持って ゐる やう だ。 精神の 深き を 汲ます、 簡單に 



5 お 



みいん、' m 



筋 を 追って 喜ぶ 大衆が、 演劇 を 見捨て 映畫に 走る の は あたり ま へ だ。 

私の 淚も、 悲劇の スト オリ ィを ぐいぐいと おしつけられて 感動した 淚 であらう か。 それ も ある。 

だが、 それよりも、 はげしく 胸に 迫って 來 たの は 青春 再び か へらす の 歎であった。 

私 は由岐 子さん がお 嫁に 行った ことの ある 人 か 許婚のう ちに 破局 を 見た 人 か、 そんな 事 を 聞い 

た覺 えがあって しかも 確かで ない。 きむすめ のま、 死んだ のかと も 思 ふ。 いづれ にしても、 戲曲 

象と して は、 女性に 似合 はぬ しっかりした 構成 能力 を 持ち、 行 届いた. 5< 生 観察の 眼 を 持ちながら、 

どこ 迄も淸 純利 發な 少女ら しい 理想と 夢 を 抱いて ゐた 人の やうに 感じられる。 頭腦 のよ さが、 少 

女 小說の 甘い 憧憬に な づむ事 は 許さなかった から、 斯く あれ、 斯く ありた しと 願 ふ 世界が、 反對 

の 醜い ものに 崩されて ゆく 悲劇 こそ、 現實の 人生 だと は觀 念しても、 なほ 由岐 子さん に は 美しく 

樂 しき 青春の 夢が、 常に 璺 かな 空想と して 浮んで ゐ たやう に 思 はれる。 至純の 戀愛、 夫婦仲の 眞 

實、 親子の 情愛 —— . あらゆる 人の 心の 美し さ を、 病牀 にある 身 なれば こそ、 なほ さら 強く あこが 

れ たので はないだら うか。 「春愁 記」 に は その あこがれが 感じられ、 マ リア • テレジア 三 宅 由岐子 

の 短い 生涯の あはれ とお も ひ あはせ て、 私の 淚は 愈々 止 度が なくなった。 

それば かりで はない。 それよりも 強く 鋭く 私 を 動かした の は、 ぉ羞 かしい 話 だが、 我が身に か 



525 



へらぬ 靑 春への 歎き だ。 朝 次と 霞の 戀、 夕 次と 津紀 子の 戀、 その 悲しき 破局 さへ 羨ましく 思 はれ 

る 年齢の 悲し さが、 何よりも 私の 淚の 源だった。 元せ 藝 者の、 妾腹の 子と 生れても よい、 失戀し 

て 死ぬ 運命で も 構 はない、 風邪 引で 鼻の つまった やうな 聲の 娘で もい、、 春 さきの 獸 類の やうに 

肉感 v< かりの 娘で もい ゝ * さう いふ 世界に 生きる ことの どうしても 出來 ない 老の 寂し さが、 深き 

後悔 を 伴って 私の 心 を とらへ た。 私 は 五十 年の 過去 を かへ りみ て、 とり かへ しのつ かない 途を踏 

んで來 たもの だと 思 ふと 人の 一 生の はかな さが 沁々 おも はれた。 どんな 悲劇で もい ゝ、 もう 一度 

靑 春よ 来れ。 (昭和 十一 年 九月 二日) - . . -• ; : 

. I 「時事 新報」 昭和 十一 一 年 九月 五日. 六 H 



526 



衝流 



流行 唄 



夏になる と 避暑に 行く。 山 か 海 か、 別莊の ある 者 や、 宿屋に 長く 滞在す る 本格的な の も あれば _ 

日歸で 近くの 海岸へ 出かける 簡單 なの も あり、 責賤 貧富 を 問 はす、 一 夏に 一度 は 出かけなければ 

氣が濟 ます、 幅が利かす、 女房 子供が 承知 しないと いふの が 近代 都市 生活 者の 樂 みとな り、 惱み 

となり、 苦み となった。 

私 どもで も、 夫婦 二人き りの 時代に はおくび にも 出さなかった が、 子供が 生れ、 よちよち 步け 

る やうに なると、 夏 中 海の 水 を 浴びさせ ると、 塞くな つても 風邪 を 引かない とい ふ 學說を 家 C が 

熱心に 唱へ はじめ、 爾來 毎年 逗 子に 借家して、 出かけて 行く。 世の常の 一家の あるじ は、 かう い 

ふ 場合 妻子と 共に 出かけ、 休暇の 貰へ ない 者で も、 避暑地から 通勤す るの が あたり まへの やうで 

あるが * 列の 不精で、 私に は その あたり まへの 事が 出来す、 いつも 留守番と きめて、 妻子 を a ざ 



527 



る こと 久しい のがお きまりと なった。 どんな 場所に、 どんな 家 を 借て ゐる のか 一 切 知らす に 過し 

て 来た。 

今年 は關 西に 住む 友人の 娘が、 たまに は 父母の 膝下 を はなれ、 他人の 家の 飯 を 食 ふの も 何 かの 

爲 に..^ る だら うとい ふので、 八月な かばから 遊びに 來て くれる ことにな つた。 何しろ 妙齢の 娘の 

一人旅 だから、 ふだん は 威勢の い、 おや ぢも、 心配で 堪らない 様子 は 手紙の 上に あら はれて ゐる 

ので、 先 づ小田 原 迄出迎 へ、 その後 も 土曜 日曜に は、 なるべく 逗 子へ 出向いて、 令嬢の 御機嫌 を 

親 もとへ 報吿 する やうに 努めた。 令嬢 は 近代の 敎養を 多分に 持ち、 世の中の まんなかへ はふり 出 

しても ぉぢ おそれない 健 氣さを 示し、 昔の お嬢さんの やうな 意氣 地な しと は 違 ふから、 大阪 から 

東京へ 來る 位平氣 なの だが、 親馬鹿の 方 は 無益な 心配 をして ゐる らしい。 お父さんが 一番 心配し 

てゐ るので す —— と、 父 を 見る 二と 娘に しかす、 令 孃は輕 く 笑った。 けれども、 吾々 としても、 

大事の 大事の 嫁入 前の 娘 をぁづ かって、 萬 一間 違 ひがあって は 取 返しが つかない。 い、 え、 令嬢 

に は 間違 ひがなくても、 世の中に は 馬鹿 もき ちが ひも ゐる、 海岸の 無防備の 家 だから、 兇 惡な奴 

が 忍び込まない とも 限らない * それが 何より 心配 だと 家 の大眞 面目 も 尤もな ので、 この 備 へに 

は 東京から 猛犬 を 差遣して、 令孃 守護の 役 を 仰せつ けた。 家內の 心配す るの も 道理で、 拜 借の 家 



は、 私の 幼少の 頃の 記憶に も ある 海岸の 異人 館 だ。 西洋, 造の 珍しかった 時代に、 たしか 二 軒並ん 

. でゐ て、 その 塗料の 色に ちなん で、 土地の 者 は、 赤 異人 靑 異人と 呼んで ゐた。 櫛 風 沐雨幾 十 年、 

今ではべ ンキも はがれて まだらと なり、 羽 H! 板 は 隙間 だらけと なり、 硝子 戶は狂 ひ、 窓の 鐵 格子 

は錡び 朽ちて、 耍害 極めてよ ろしくない。 持主の 異人さん は 近年 祌戶に 住んで ゐ るので、 かくは 

荒れる に 任せた の だが、 椅子 も 卓子 も 寢臺も 食器棚 も その 傣拜 借し、 客間の 本箱に は 書籍 も 入つ 

てゐ る。 主として 英米の 通俗 小說本 だ。 

庭 は廣ぃ 芝生で、 海に のぞむ 木戶を あける と 石段が あつて、 直ぐ 砂濱 だ。 右手に は 波 切 不動 改 

め浪チ 不動の 岬が 見え、 左に は 櫻 山から 鳴 鶴が 崎 を 望み. 晴れた 日に は 遠く 伊豆の 山々 も 見え、 

乂 その上に 富士の 高嶺 を 仰ぎ見る 事 も ある。 申 分の 無い 場所と いひ 度い が、 申 分 は ある。 

春秋 冬 は 申 分ない かも 知れない が、 夏 は 申 分が ある。 近代 避暑地 風景と して、 せっかくの 砂濱 

に、 休 茶屋、 カフ H 、 喫茶店, 射的場、 大弓 場、 球投、 釣堀、 ピン ボン、 コ リント. ゲ ー ム そ の 

他 小屋が けの 娱樂 場が 軒 を 並べ、 我が 借家の 緣に 立てば * それらの 小屋の 屋根が 見え、 庭に 出れ 

^ ば 裏面が まる 見え だ。 晝は 波の音 を 消す ばかりの 人聲 が濱邊 いつば いに 漲り、 海 は 濁って しま ひ 

^ 湯に 入る やうな 有樣、 夜 は 夜と て さかり 場 ー帶の 鳴らす 蓄音器が、 十 時に なっても 十 一時にな つ 



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て も 止ます 鳴りつ ける。 "や ひに して 「忘れち やい やよ」 は、 發賣 禁止と なった が、 これに か はる 

「とんがら かつち や 駄目よ」 は、 今や 賫 出された ばかり だから、 麥 畑の 出 あ ひで 風邪 を 引いた やう 

な鼻聲 は、 南風に 乘っ. て絕 間な くやって 来る。 客の 好み か、 商 賫の遣 口 か、 「とんがら かつち ゃ駄 

目よ」 を かけた となると、 それ を 繰返し 繰返し 三十 分で も 一 時間で もっ^け る。 どうも あの 聲 はい 

けない。 低級 だ、 卑猥 だ、 淺薄 だと 嘆いても、 流行の 力 は堪を 切った 水で、 止む 可き 術 もない。 

六 歳の 男の子 は、 忽ち 聞覺 え、 い たづら をして 母親に 叱られる と、 

立場 の 違 ふ 時 はお 互 さまよ 

それでも あなた はとん がら か つち や 駄目よ 

とうた ひながら 逃げて 行く。 母親の 方で も、 子供が じぶ くって ゐ ると、 

都合の 惡ぃ時 やお 互 さまよ 

それでも あなた はとん がら かつち や 駄目よ 

と はぐら かすと、 忽ち 釣 込まれて いっしょにうた ひ 出す。 末期の m ノも 效果は ある。 菲 常時に 藉 

口して、 無闇に 福 狹な說 をた て、 良民 を 苦しめる 奴が あったら、 すべから く とんがら かつち ゃ駄 

目よ を 以て 應酬 すべき だ。 流行 唄 は a 々時の 社 會狀勢 を 反映す る。 庶政 一新 だ、 電力 統制 だ、 一魚 



530 



nj_ 行 流 



市場改革 だと 矢つ ぎば やに やって来る 官僚 ::: に對 し、 大衆の 心の中に、 とんがら かつち ゃ駄 H! 

よ をうた ひ 度い 韻律が 動いて ゐ るので はない か、 波は靜 かに、 月 はよ し。 明治の 御代に は 武男さ 

んと浪 さんと、 手 をつな いで 散步 した 逗 子の 濱邊 が、 今 はとん がら かつち や 駄目よ の 氾濫 だ。 

その 唄の 聲の 湧出る 濱邊の 小屋 は、 雨が 降れば 漏り、 風が 吹けば 吹き飛ばされる かも 知れない 

の だが、 勇敢に も 妙齢の 婦人が 住んで ゐる。 住んで ゐる 限り は、 飮み もし、 食 ひもす る。 飮み食 

ひすれば、 排泄し なければ ならない。 だから 共同の は かり は、 ぬかりな く 建て、 あるが、 個々 

の 小屋に 屬 して は ゐ ないから、 え \ 面倒とば かり、 砂濱を 利用す る。 我が 借家の 石 斑の 下の 如き 

は 最も 好都合の 場所で ある。 物 を 煮 炊す る.:? ひば かりで なく、 一 種 異様の 臭 氣が來 る。 . 不幸に し 

て、 海 は 大概 風上で ある。 

はじめて, この 家に 泊った 時、 寢 所の 變 つた 爲か嘵 早く 目が さめた。 朝の 海 氣を吸 はう と、 ひそ 

かに 戶 外に 出た。 芝生に は 露が 置き、 朝 w の 海に は 未だ 日が 上らない。 私 はは だしの ま 、港に 下 

りて 行かう と * 裏木戸 を あけて 出た。 あ、 驚いた。 何たる 光景で あらう。 石垣の 下の カフ H- の 女 

の 子 か、 射的場の 娘 か、 たった今 目が さめ、 催した ので あらう、 寢 衣,., の据 をく るりと まくり? 女 

は 女 同志; TO: よくお 尻 を 並べて 砂地に H み をつ くって ゐる のが、 一人 二人 三人。 失 禮々々 、 私 は 決 



531 



して さう いふ ぼ 色 を 見ようと 期待した わ 1: ではない。 すべて これ 廻 合せ だ C 狼狽て、 木戶の 中へ 

引かへ したが、 用 をす ませた 彼女ら は 「ねえ、 ねえ、 戀 すり やつらい」 と、 あてつけが ましく- ュた 

ひ 出した r : /ノー., , 

都合の 惡ぃ時 やお 互 さまよ . , . : 

それでも あなた はとん がら かつち や 駄目よ : • 

. (昭和 十 一 年 九月 十 一 日) 

! 「時事 新報」 昭和 十一 年 九月 十二 日. 十一 一一 日 



532 



番守留 



留守番 



w-_.」 なると、 家內も 子供 も 近くの 海岸に 出かけて、 一人 留守 番をする のが、 數年來 のなら ひと- 

な つた。 さぞ かし 御 不自由で せう、 お 寂しいで せう と 他人 は 同情し、 家^も 心配し、 子^もお ハタ 

さん 一 人で 可哀 さう ねえ、 来年 は 海の ある 所に つれて 行って あげようと、 氣づ かって くれる が、 

お 父 さん は そ の 來年も 亦 留守番 だ 。 

私 i,- 世の中の 亭主と いふ もの、 手數 のか、 るのに は、 常々 驚いて ゐる。 どうして、 あ、 まで 女 

房の 手 を 借りなければ 生活 出来ない のか、 不思議に 思 ふ。 そこへ ゆく と、 多年 獨身 下宿 生活で 毅 

へ あげた 私 は、 人手 を 借りる 事 はわ づら はしく、 手 輕に暮 す 方法 は 身に ついて ゐる。 食事 は、 街 

頭で 鮪 をつ まみ、 驚麥を 食っても 濟む。 茶よりも 水 を 好む から、 火の 氣 はいらない。 間食 はしな 

、。 silBL も 吸 まま ハ。 酒 は 日本 Is を 好む けれど、 燜を つける 手間 を 省いて 麥 酒で 我慢す る。 氣の 



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進まない 時の 對談は 非常に 辛い が、 沈默の 耐久力 は 畳 かに 持って ゐる。 年中 忙しく 日 を 過して ゐ 

るの が、 一人 靜 かに 留守 番をする の は、 決して 惡ぃ 心境で 無い。 沈思し、 反省し、 叉 時に 感傷に 

耽る 事 も、 情 緖涸渴 せんとす る ものに とって は、 思 ひがけない 樂 である。 平生 俗務に 追 はれ、 看 

過し 勝な 自然の 推移、 鳥蟲 草木の 姿に 氣の つくの も、 獨居の 賜と いふべき であらう。 

: 炭 二月 は 勤 先の 執務 時間 も變 り、 歸 宅しても 未だ 日 は 高い。 いつもな らば 玄關の 鈴が 鳴る と, 

子供が 飛びつ いて 來る、 家內の 甲高い 聲と 人々 の 足音に 騷 がしい 家の 中が、 古寺の 如く ひっそり 

と {4! 氣も 動かす、 夏草の 丈 伸び、 雜 草の はびこる 庭 は、 もろもろの 小 蟲の樂 天地と なり、 虻の-つ 

なり が 高く 聞え る。 

只今 拜 借の 家 は、 高臺 の見晴 しのい、 崖の ふちに あるが、 その 崖 は 大地震の 時に 崩れ、 下の 家 

を 倒し、 人命 を 奪った と傳 へられ、 先々 住の 成金 は步に 還り、 先住の 事業家 は會社 をつ ぶして 行 

方 も はかなく、 けちの ついた 家と して 八 年間 住む 人 も 無かった おかげで、 頗る 惠 まれた 條 件で 借 

る 事が 出来た。 元々 廣 過ぎる ので、 人手不足で 埃 だらけと なり、 虻 や 蜂 やばった の 類 も 飛込んで 

來 るし、 夜 は 馬 追 やきり ぎりす が 哀切な 吸 をうた ふ。 

-e に 傾く 日 ざしの 中 を、 麥藁 崎蛉、 Si 辛蜻 蛤、 ぎんち よ、 やん まが 飛び かひ、 油蝉- みんみん- 



534 



番守留 



つくつく法師 は椎ゃ 檜の 梢に 鳴きって ける。 日が 沈み、 風が 涼しくな ると、 猿の 腰かけ 位の 靑竹 

の臺を 崖のと つばな に 持ち出し、 暗くなる 迄 ぼんやりして ゐる のが、 何よりの 休息と なり、 叉 留_ 

守番 甲斐 を 強く 感じる きっかけ となる。 夏の 夕 空 は 大方 晴れて、 淸く 美しく、 猥雑な 海岸 避暑地 

ひぐ らし 

などに 行く よりも 爽か である。 その 時分に なると、 蜩が 鳴き、 月見草 は 吐息 をつ くやうな 微かな 

氣 配の 中に、 ひとひら づ、 花瓣を ほころ ばせ.、 見て ゐるぅちにi^、き揃ひ、 心 弱く 震へ る。 小石 川 

本 鄕神田 日本 橋の 町々 に 灯が ともり、 ネオ ン. サイン の 赤 や 紫が、 夜の 色の 深くなる 程 輝き を增 

して 來る。 それ は、 家族の 者が ゐて もゐ なくても 同じ 戶 外の 景色に 過ぎない の だが、 た 5- 一 人留 

守 番をする 身と なって、 はっきりと 眺め、 沁々 と 感じる ので ある。 

よりも 美しく 思った の は、 七月の 下旬 か 八月の はじめ か、 おはぐろ 崎 蛤が ひとつが ひ、 芝生 

の 上 を 高く 低く、 離れて は 近より、 近寄って は 離れ、 仲よ く 飛んで ゐ るの を 見た。 此の 種の 崎蛉 

は、 小川 か沼澤 か、 水の 邊 りに 多く ゐる もの、 やうに 思 ふが、 何處 から 來た のか、 三日 程つ け 

て來 て、 その後 姿が 見え なくなった。 隣家の 大木に 巢を 持つ 鳶の、 滑走す る やうな 姿 も 美しい が、 

每日 夕方 五 時 頃に、 遠く 本 鄕臺の 方から 一 羽 二 羽 三 羽、 白鷺が 飛んで 來て、 目の前 を 近々 と 通り、 

皇居の 方へ 消えて 行く の は、 珍しく 美しい 風情だった。 それよりも なほ 大らかに 美しく、 悠然と 



5?5 



大空に 圓を 描いて 舞 ふ 鶴 を 見た 時の 驚き は、 今 も 胸のと きめく 程で ある。 誰が 東京の 签に 白! Jl が 

日毎に 飛び、 又 時に 鹤の舞 ふ 事 を 知って ゐ るか。 自分 は 特別に えらばれた 人間の やうな、 自惚に 

醉 つた。 

崖 下の 町々 の 人 も、 晝 日中 は 夫々 の商賫 にい そしみ、 夕暮の 風の 吹く 頃 は、 ほっと 一息つ くの 

であらう、 家々 の陸屋 * や 物干 臺に、 肌 襦抨と 下ば きの 男の 姿、 猿股 ひとつ、 六尺 越 中 一本の 裸 

體も あら はれ、 浴衣 や あつば つばの 女 も 登場す る。 敷物 を 運んで 涼をとる 人 も あり、 鉢物に 水 を 

やる 風流 も ある。 蓄音機 を 持 出して、 流行 小 を 聽く人 も ある。 平生、 心なく、 高い 處 から 見て 

ゐ ると、 た 5^ 一枚の 瓦の 屋根と 見えた のが、 つくづく 見る と、 俩性 を發撣 しいろ/ \ の樂 みの あ 

うさ? V- り 

る 事が、 はっきり 浮彫になる。 盆栽 草花 は 一番 多く、 狹ぃ 所に 禽舍 をつ くり、 水盤 を据 ゑて、 小 

鳥 金魚 を 飼育す る 者 も あり、 傳書鳩 を 夕暮の 空に 放つ 人 も ある。 とつぶ りと 日が くれる と、 街路 

樹の 下に 涼み 臺を 出して、 東京 特有の 夜風に 吹かれる 風俗 も 未だ 殘 つて ゐる。 無闇 やたらに 金錢 

慾に 夢中に なり、 贈賄したり、 收 賄したり、 無闇 やたらに 政權 慾に あくせくし、 人 をお としめ た 

り、 「七十 九 字 s して ゐる 時勢に も、 善良なる 臣民 は默々 として 働き、 僅の、 暇 を 盗んで 慎み深い 樂 

みに 心 を 慰めて ゐ るの だ。 〔七十 15 略〕 あ、、 政權 をね らふえ げつない 者 共よ、 東京の {C|j を 白 驚 や 鶴 



535 



科留 



の 舞 ひ 遊ぶ 姿 を 知る や。 1, 昭和 十一 年大月 十五 日」 

. 1 「時事 新報」 昭和 十一 年 九月 十九 H • 二十 H 



637 



取 越^ 勞 



皇紀 二 千 六 百年、 我國の 首都 東京に 於て、 オリンピック 競技 會が 催される ことにき まった。 朝 

野 を あげて 躍起と なり、 懸命の 運動 努力 を盡 した 賜 だとい ふこと である。 これ こそ 躍進 日本の 實 

力 を 世界に 認めさせた 證據 だとい つて、 早く もお 祭氣 分に 醉ひ、 祝 K 星 を あげ、 萬歲を 叫んだ もの 

も あれば、 今から 五色 五輪の マ ァクを 衣服 髮 飾り 持物に あら はして、 い ^ 氣持 になって ゐる もの 

す- 

も あり、 これが 半世紀 前に は 尊王攘夷 を唱 へ た國 民の 裔 かと あきれる ばかり だが 一 方に は オリ ン 

ビックに 夢中になる 國 民の 態度に 憤慨し、 此の 非常時 に 遊び事に 熟 狂す る は 何事 だとい きまく 右 

翼 も あり、 スボ ォッは ブル ジ ョ ァの 慰みに 過ぎぬ とい ふ 第 一 課を眞 向から ふりかざして、 いやが 

らせ をい ふ 左翼 も あり、 さう かと 思 ふと、 此の 前 色の 黑ぃ フィリッピ ンの 運動選手が 來た時 さへ 

女學 生が サイン を 強要し、 その 代償に 貞操 を與 へた もの も あるから、 色の 白い 世界的 選手が 來た: 



538 



勞苦越 取 



ら大變 な 事になる だら うと 心配す る もの も ある。 自分の 素行に ついては 極めて 寬大 であるが * 他 

人の 情事に は祌經 過敏で、 決して 看過 しないば かり か、 異人 種に 女 を とられる 事 を 許し 難しと す 

る國民 性に 強烈な 嫉妬 心が 油 を かけ、 才 リン ピック 反對 論の 中で、 最も 多数の 共鳴 を 得る かの や 

うに 見える の は、 貞操 提供 心配 說 である。 田舍の 村落の 靑年 達が、 自 村の 娘 を 多 村の 者に とられ 

る 事 を 恥と し、 S 々流血の 惨事 を ひき 起す やうな 不祥事が、 皇紀 二 千 六 百年 を 汚さ れば幸 ひで 

ある。 さう いふ 事 を 未然に防が うとい ふの か、 その 筋で は、 ひどく 眞劍 で、 日本 娘に 手 を 出す 異 

人 は、 どしどし 國 外に 追放し ようと 宣言した と傳 へられる。 或は 保護 檢 束に 等しい もの かもしれ 

ない。 さう かと 思 ふと、 フィリッピ ン人ヒ 乳繰 合った の は、 僅に 数人のお 茶つ ぴぃ に過ぎないの 

で、 我國 一般の 女性 は 決して 浮氣 ではない、 それに も拘 らす斯 かる 心配で オリンピックに 反感 を 

持つ の は、 認識不足 であり、 女性 侮辱で あると 憤慨す る 女 も ある。 いったい、 露 を だに いと ふ大 

をみ lU f • し 

和の 女郎花が、 どうして 斯く迄 人々 に 心配 を かける やうに なり 變 つたの か。 異人と い へば 邪宗 を 

信じ、 魔法 を 使 ひ、 四 足 を 食 ひ、 人倫の 道 を わき まへ ぬ、 あだい やらし. いものと 思 ひきめて ゐた 

のが、 一に も 西洋 二に も 西洋と なり、 毛 嫌 ひが 逆に 盲拜 となった 時勢の 推移 も考ふ 可き であるが- 

それよりも 當 節の 浮氣 娘に は、 日本の 男 を 相手に する よりも あとくされが 無く、 旅の 恥と 同じ や 



うに、 間も無く 遠くへ 去って しま ふ 相手なら ば. 口を拭いて すまし てんれば 人に 知られす に f いむ 

とい ふ 利口な 考 へが、 強く 働いて 居る ので は 無いだら うか。 つい 先日の 或 地方 新聞の 報道に よれ 

ば、 その 地方の 港に 碇泊した 異 W の 軍艦が、 一般 市民に 觀覽を 許した 處、 見物の 大和の 女郎花 ど 

も は、 異人の 水兵と 抱 合たり、 接吻したり、 痴態 を 演じ、 ふる あめりかに 据 まで 濡らし さうな 有- 

様、 その 筋 も 見る に. 見兼ねて、 嚴戒を 加へ たもの 凡 四十 名と いふので あった。 

されば こそ、 時勢 を 見る 事 は 頗る 神經 質な …… の 代表者が、 四 年 先の 女の子 達の 行 狀に對 し、 

一本 釘 を さした の は、 まことに 故 ありと いはなければ ならない。 その上 ::: に は、 西洋風の 運動 

競技 を 好まない 風潮 が ある。 近代 スボォ ッは國 民の 體格 をよ く するとい はれて ゐ る が 、 そ れは噓 

だとい ふの が、 現今 …… の定說 らしく 見える。 かけ くらべ や 飛び くらべの 結果 か、 國 民の 身長の 

仲び た 事 は 認める が、 一朝 事 ある 時、 身長の 高い とい ふ 事 は卽ち 敵の 彈 丸の 命中率 をよ くす る 事 

であり、 乂塹潦 を 深く 掘る 必要 を 伴 ひ、 決して 歡迎 すべ き 事で 無い とい ふの はよ く 耳に する 言葉 

である。 それば かりで なく、 オリンピックの ひとつの 使命と して 贊成 者の 數 へる、 運動 競技に よ 

る n ハ 十六 字き 往年 亞米利 加 の 職業 野球 圑が 渡來 した 時、 これ こ そ は 大統領 ルゥズ ベルトが、 示威 の 

さしつ.?, は 

爲に差 a したの だから, あくまでも 打 敗らなければ ならぬ と 腕 を まくった …… があった。 運動 競- 



う 4Q 



勞苦越 $t 



技 を 運動 競技と して 見す、 命が けの 仕事に させなくて は 承知し ない 傾向の ある 我國の ファンが、 

次の オリ ン ピックに 如何なる 態度 を 見せる か は、 心 ある 者の 心配の 種で あらう。 或は 叉國士 ぶつ 

たり、 強硬が つたり する 暴漢が、 競技場で 劍 舞を演 する やうな 芝居 を やらなければ い、 がと、 心 

配して ゐる人 も ある。 

とはい ふ もの 、、 反對派 は數に 於て は 極めて 少なく、 國 民の 大多数 は 早く も 熱 を あげ はじめ、 

オリンピック 迄に 東京の 河川 を 碟 しろ、 オリンピック 迄に 便所 を 水洗 式に しろ、 オリンピック 

迄に 我國 祖先 傳來の 瘦唾を 所 構 はす 吐き 散らす 惡習を 改めさせろ、 オリ ンピ ック 迄に 吉原 をと り 

つぶせ、 オリンピック 迄に カフェ を淨 化しろ、 オリンピック 迄に あれ もやれ"' これ もやれ で、 恰 

も」 此政 一新 論者の 如く かしましい。 それ は 元より 結構で あるが、 論者 は 河川の 不潔、 便所の 汚據、 

その他の 存在 を甚 しき 恥辱の やうに 感じ、 外人の 眼に 觸れ させたくない とい ふので あるが、 私 は 

更に 犬に 恥づ べき は、 オリ ピック 競技に 封す る我國 民の 熱狂 度の はげし さで は 無い かと 見る。 聞 

;所 によれば、 最も 熱心な 亞米利 加 さへ、 西部 地方が 熱 を あげて ゐる だけで、 東部 地方 は 極めて 

冷淡 だとい ふ 事 だし、 英怫の 如き は 全く 單 純な 運動 競技と 考 へて ゐ るら しく、 我國の 如く 國を擧 

げて 夢中に なり、 戰爭の 如く 血眼に なり、 之に 諸々 の 利益 を 結びつけて、 有史 以來 の出來 事の や 



うに 大騷ぎ を 極める の は、 何となく 貫祿の 不足 を 暴露す る やうな 不安定 感を伴 ふので ある。 擧國 

一致の 熱情 は 大日 本帝國 を、 短時日の 間に 今日の 地位 迄 引上げた。 しかし、 何事に も國を 擧げて 

感激す るの は、 晚き 地盤の 上に 建てられ たる 大度の 如く 不安で ある。 贊成 者に も反對 者に も、 心 

の ゆとりが 欲しい と 思 ふ。 

私 は 元来 運動 競技 を 好む ので あるが、 何となく 四 年 先の 心配が 胸に つかへ、. この頃 は それが 苦 

勞の 種に なって しかたが 無い。 人 を 見る と 同感 を 強る ので あるが、 或 人 は 私の 取 越 苦勞を 笑って、 

四 年 先の 事です ぜ、 その 頃日 本 は戰爭 です よ、 オリンピック なんか ある ものです かと、 嚼んで 吐 

き 出す やうに いっての けた。 (昭和 十一 年 九月 二十 £ 日) 

. . I 「時事 新報」 昭和 十一 年 九月 サ 六日 • サ七 日. 



542 



#舍 籠 旅 




この 二三 年、 勤 先の 命 をう けて 旅へ 出る 事が しげくな つた。 本島 は 殆んど 隙な く 四國、 九州、 

北海道、 臺灣、 滿洲も 一巡し、 残す ところ は 朝鮮と 樺 太 だけ だが、 その 朝鮮 も 二三 日中に 出かけ 

る 事に なって ゐ るので、 間もなく、 足跡 全國 にあ まねしと 稱 しても 差 支へ ない 事になる であらう。 

つい 先頃、 何 かの 同人 雜 誌に 私の 出張と いふの は 物見遊山 だとから かって 書いて ゐ たが、 文學靑 

年ら しい 生嚼 りで、 とんでも 無い 當 推量で ある。 九州 は 年に 一 二度 行く が、 耶馬溪 を 見す、 別府 

を 知らす、 仙臺に 赴いて 松 島に 立 寄る 暇な く、 北海道に 渡って 湖沼 を 探る 機 會を與 へられない。 

徹頭徹尾 人事に 終始し、 名所 舊 跡に は 緣 遠い 旅行で ある。 その上 時間 を 切 詰めた 日程 を 組む 習慣 

になって ゐ るので、 自儘の 行動 をと る餘裕 がな く、 拾 も 奴隸の やうに、 人の 手から 人の 手に 渡つ 

て 行く の だ。 こんな 物見遊山 があって 堪る もの か。 



543 



いったい、 旅を樂 むの は 若い うちの 事で、 老人に は 苦痛ら しい。 私の場合、 赵も 決して 若い と 

はい へない が、 旅行 そのもの は 苦しく 無い。 若し 勤 先の 用務 を帶 びす、 自前で 氣隨に 旅行す るの 

だったら、 どんなに 樂 しいだら うと 常に 思 ふ。 幸 ひ 頑健な ので、 他人の 苦にする 事が 苦にならな 

い" たと へば、 汽車に 乘 つて は 眠れない とい ふ 人 も あるが、 私 は 汽車の 方が よく 眠れる。 船なら 

ばな ほ更 い.、。 平生の 忙し さから 逃れ、 身 邊の雜 事に. 遠ざかって、 ほっと ひといき する 安心の 結 

3^ らしい。 その か はり、 一般の 人が. とまりと まりの 旅籠 屋で 休息す るの を 喜ぶ のと 反對 に、 私 

に は 宿屋と いふ もの ^ 居心地が よくない。 宿屋に 泊る 事 さへ なければ、 つとめの 旅と 雖も、 もつ 

と樂 しいに 違 ひ 無い。 

元來 私の 日常生活 は、 多年の 下宿 住居の 延長で、 我國 古来の 亭主 關 白の 位に ついて ゐ ない。 世 

問の 關白 ども は、 隨 分手數 のか、 る ものら しく、 一人で は ネクタイが 結べない、 一人で は 袴が は 

けない、 一人で は 御飯が まづ い、 一人で は 留守番が 出來 ない、 一人で は 寝られない. 1- いろいろ 

我儘 をい ひ、 何 か ら何迄 女房 の 手 を かりな けれ ば暮せ ない もの ださう である。 何とい ふ 意 氣地無 

し、 そんなの は さぞ かし 女に 嫌 はれる だら うと 思 ふと、 意外に も 世の 女性 は、 さう いふ 風の 手數 

のか、 る 亭主 こそ、 ひとし ほいと しがる もの ださう である。 



544 



勢 吿籠族 



芋數 のか、 る ものが 世の常の 事と すれば、 今日の 宿屋の 客 あっか ひも、 まことに 行 届いた こと 

、云 はなければ, ならない が、 何分 こっち は 下宿 育な ので、 その 行 届く のが 窮屈で 堪らない。 ひと 

たび 宿屋の 敷居 を またぐ と、 俄に 殿様 待遇と なり、 何 をす るに も 女中が ついて ゐ て手傳 つて くれ 

る 宿屋に よると、 ひどく はきち がへ た 親切で、 頼み もしない のに、 勝手に 飽を あけ、 中身 を 整 

理 して くれる のが ある。 三食の 時の 外、 一切 飮食 しない 習慣の 私に は、 執拗に 茶を勸 めら れ るの 

も 迷惑 だし、 手酌で 呑み、 手盛りで 食 ふ 平素の 氣樂 さと 違って、 一 々給せ 人の 手 を 煩 はすの も 難 

有くない。 特に 酒と いふ もの は、 自分の 呑み 度い 時に ついで 呑む のが 一 番 うまい ので、 酌 はた ぼ 

などと いふの は 外道で ある。 まだ 盃 中に なみなみと 港 へ てゐ るの に、 せつ、 い て 勤められて はう 

まくない。 

殊に 近年 サァヴ イスと いふ 外國 語が はやり 出してから、 無闇に 心 を 配り 氣 をつ かふ 事の 意思 表 

示 を 競 ふ 傾向に なった ので、 客が 就床し、 鼾 を かく 迄 は 次の間 か 廊下に 樣子 をう か. -ひ、 朝 も 早 

くから 待機して ゐて、 咳拂 ひひと つ 聞いても、 ぉ目覺 めです かと 入って 來 ると いふ 有様で、 恰も 

監視つ きの やうな ものである。 野人 は 宮殿に 招かれて 只管 恐縮す るば かり * 荒 大名 は 茶席に 坐し 

てた しびれ を きらす のみ、 下宿の 延長に 過ぎない 家庭の あるじ は、 かく 迄 行 届く サァヴ イスに 



545 



, 出逢 ふと. 煩 はしく、 面倒臭く、 息苦しく、 一 吾に 自由 を與 へよ」 と 叫び 度なる ばかりで ある。 そ 

れ故私 は、 旅の 先々 で、 洋風 旅館が あれば 其處に 泊る。 名 古 のせ 水 ホテルの 如く、 蚊の 出る 時で 

も 蚊帳が なく、 蚊取線香の 煙 を 立てる 素朴な ので も、 福 岡の 茶 ホテルの 如く、 銀座 裏の アバ アト 

に 比すべき 簡素な ので も、 大阪 京都 名 古屋長 崎の 名 だ、 る 旅館より 居心地が い、。 これ は 世間の 

H: 那 方の 申される 事で はなく、 下宿 者の 私の 好みに 過ぎない の だから、 各地 第 一 流の 旅館 は、 愈 

々サ ァヴ イス を 競って 御: <g 負の 御客様 方に、 殿様 氣分 を滿 喫させる がよ い。 つまり は、 〔十 SH+S 

他人の 生活 をなる ベ く 脅かさす、 自分の 生活 もなる ベ く 脅かされ 度ない と 希 ふ 者の よま ひ 言と 思 

つて 貧へば 結構で ある。 それよりも、 何よりも、 茶代 心附 とい ふ 難物が ある。 法外に 澤山 置く の 

は大 馬鹿で あり、 桁 は づれに 少な いのは 恥 だとい ふ 通念が あって、 しかも 目安が 無い。 宿に 着く 

前から 其の 事 を 心配し、 愈々 勘定 をす ませて 出立した 後 迄 心に か、 る。 あ、 皇紀 一 一千 六 百年 オリ 

ンピ ッ ク大會 開催 迄に、 而ほ 一 新す ベ き 諸 件 中の 最 たる もので は 無いだら うか。 

更に これにつ け 加へ て、 お 土康と いふ 厄介物が ある。 茶代 を 置く の は 愈々 最後で、 旣に飽 も 整 

へ、 さよならの ー步 手前 迄 來てゐ る 時な の だが、 その 茶代に 對 する おかへ しの 心で、 土産 を くれ 

るなら はしが ある。 手拭 一本 風呂敷 一枚なら、 手輕 に處理 する 事 も出來 るが、 土地の 名物の 某 子 



54S 



勞苦籠 旅 



折 だと か、 かさばった 箱 入の 物な どになる と、 手荷物 一個 殖えた かたちで、 先々 の 旅の 邪魔に な 

り、 文字通り 重荷に 小附 だ。 いらない と 云って 捨て 、來 るの も失禮 だし、 氣障 だし、 會て臺 It 全 

土 を 一 巡す る 月餘の 旅で は、 その 處 置に 閉口した。 たまたま 尾 道の 宿で、 茶代が へ し を くれない 

のに 感激し、 それからの 旅の 先々 で、 其の 宿の 別 嫂のお かみさんの 心意 氣を ほめた、 へ、 扨て 家 

に歸 つてみ たら,、 あるじより 先に 茶代が へし は 届いて ゐた。 私と して は、 あまり 先走って ほめた 

、へた 關係も あり、 これ とても 餘 計な ものに 思った が、 此の 遣 口 は 重荷に 小附 式に まさる 事 萬々 

である。 

谷 崎 潤 一 郞氏は 日本の 便所の 臭氣 になつ かし さ を 感じる さう であるが、 俗物の 私 は 便所 も HI 殿 

も 洋式が い、。 殊に 湯殿へ、 背中 を 流す サァヴ イス を 強ゐる 男衆の 來 るの も 偸 快で 無い。 高貴の 

御 方なら ばい ざしら す、 吾々 が 背中 を 他人に 流して 貰 ふの なんか、 おごりの 沙汰と いはなければ 

ならない。 恐らく、 今時 錢 湯で 流し をと るの は、 下らない 毘榮を 張る 藝者 位の もので はない のか- 

餘計 4- だが、 藝者 諸君よ 考 へて みろ、 みっともない ぞ。 

私 は 旅籠 屋の 三助 君に、 辭を 低く して 斷 るので ある。 赤ん坊の 時 は 別と して、 他人に 體を 洗つ 

て 貰った 事 は 一 度 も 無い の だから、 勘辨 して くれと いふの だが、 なかなか 勘辨 して くれない。 或 



547 



地方の 宿に 泊った 時、 三助 君 はすつ かり 機嫌 を惡 くし、 H: 那の やうな 人 は 出 I しません よ、 私共 

は、 これで 女房 子供 を 養って ゐ るんで すぜ と、 たんか を 切った。 私 は そこそこに 湯から 上り、 あ 

てが 鉱れた 窒の緣 に 出て、 高 いさを 仰いだ。 か、 る 時 こそ 旅 はは かなく、 我家 戀 しくお も はれる 

ので ある。 (昭和 十一 年 十月 一 B) . : • , 

11 「時事 新報」 和 十一 年 十月 三 H • 四: H 



548 



む^な 萆 



草 を路む 



二十 幾年 か 前、 亞米利 加の 學 校に 學んだ 頃、 その 大學に 日本人 は 四 五 人し か ゐなカ V た 力 朗 

に 家庭 を 持ち、 妻子 をの こして 來た人 は、 寄る とさ はると 故 鄕の戀 しさ を 語 合 ひ 亜米利加の ィ者 

合 を數へ 立て だ。 私 は 若かった から 適應 性が 畳 かだった し乂 執着す ベ きもの を 故鄕に 多く 持た な 

かった から、 金の 乏し さに は 弱った が、 その外 は 氣樂な 海外 生活 を 苦勞に はしなかった。 年寄 達 

の 歎き は 愚に もっかな いもので、 一軒の 家に 幾 家族 かが 住み、 互に 挨探 もしな いのは 不届き だと 

か、 昇 機に 女と 同乘 すると、 男の 方が 帽子 をぬ ぐ 習慣 は恢 しからん とか、 往来で 女房の 靴の 絲 

の 解けた の を 亭主が 結んで やる の は 恥辱で あると か、 折角 上等の 綠茶を 土產に 持って来て やった 

のに、 ヤ^と 砂糖 を 入れて 飮 むと は 何たる 惡 趣味で あるかと か、 いろいろ ある 中で、 たった ひと 

つ:; £ の 同感に 甚 へなかった の は、 何處べ 行っても 路面が 石と 煉瓦で 固めて あって、 柔 かい 土 を 踏 



549 



む 快感 を 味 は ひ 得ない 歎であった。 その 頃 我國に 於て は、 帝都 東京と 雖も 銀座の 步 道に 谏 瓦が 敷 

いてあった 位で、 一般に は 自然の 土の 儘で、 雨が 降れば 全市 泥土の 海と なる 有様だった。 然るに 

^米 利 加で は、 新開 住宅地が 出來 ると、 家より 先に 先づ 道路が 出来、 その 道路 は 錦 装され てゐ て、 

道 を 歩く に は 必す石 質の 堅い もの、 上に 踵 をぶ つけなければ ならす、 その 抵抗 は 頭の てっぺんに 

響いて 来る 感じで、 故鄕の 泥土の 海が、 か へ つてな つかしく 思 はれる のであった。 私 は 夜中 屢々 

學 校の 庭 や 公園の 芝生に 忍び込んで、 時には 靴 をぬ ぎ、 土 を 踏む 快感 を 味 はった。 マサ チュ セッ 

州ケ ムブ リツ ザ は 楡の樹 の 多い 所で、 人氣の 無い 木立の 中の 芝生 を、 た 一 人 狂人の 如く 踏み 廻 

る 日本人の 頭の 上に は 栗鼠が けたたましく 叫び か はし、 梢遙 かに 濕氣の 少ない 大陸の 淸 澄な 空 高 

く、 月 や! ill がくつ きりと、 冷く 輝いて ゐた。 - 

ニ卜餘 年の 歲月は 容赦な く 過ぎて、 東京 も 今では 土 を 踏む 事の 出来ぬ 町と なった。 尤も 最近 市 

に 合^された 地域 は、 まだ 其處迄 行かない と 見えて、 東京 驛で 下りる 丸の 內の勤 人の 中には、 長 

靴 を はいて ゐる人 も 見かける が、 先づ 大體、 雨が 降っても 足駄の 必要 はなくな つた。 その か はり、 

例の 踵から 頭の て) つ べん へ 響く 不快なる 感じ は、 た さへ i 可々 して ゐる神 經を絕 間な く 刺戟す る。. 

家に ゐて も、 戸外 を 走る 電車 自動車の 響 はの べつに 耳 を 襲 ひ、 全く 物音の 聞えない やうな 靜 けさ 



55Q 



む 踏 を 草 



は、 東京 中何處 にも なくなつ たが、 步 いて ゐる 自分の 足音に 迄惱 まされる の は 堪らない。 

私共 幼少の 頃, 旣に 下町の 子供の 中には 稻を 知らす、 麥を 知らす、 蟬も靖 蛤 も 蛙 も、 目で 見た 

事 は ある けれど、 手で つかまへ た 事の 無い のがあって、 山の手 育ちの 私共 は 驚いた が、 近頃で は、 

山の手の 緣日 でも、 おたまじゃくし を賣る やうに なった。 私共 子供の 時分、 東京 も 到る 所に 原つ 

つくし つばな すかん ぼ 

ばが あり、 春秋の 草の 花や、 小鳥 小蟲の 生活 も 自然に 知る 事が 出來、 土筆 茅 花 を 摘み、 虎杖の 酸 

つ ぱい 味 もな つかしく、 蟬も 靖餘も きりぎりす も, たやすく つかまへ る ことが 出來、 田圃に 行け 

ば 蛙 も 目高 も ゐて樂 しいい たづら の對 象と なった が、 今では 石と 煉瓦に 圍 まれ、 靑さ さへ 狹く限 

られ てし まった。 おや ぢは燒 いて 食 はう と 赤蛙 を 追 かけ 裸足で 泥 田 を かけ 廻った のに、 子供 は緣 

日で 買った お 玉 じゃくし を 鉢に 飼って、 僅に 動物の 成長 を 見守る ばかり だ。 

曾て 亞米利 加で、 夜半 人知れ す 芝生 を 踏んで、 土に 觸れる 快感 をみ たした のと 同じ やうに、 今 

日の 東京に 於て、 墨々 草 を 踏みたい 衝動に 堪 へぬ 事が ある。 雜町 下六番 町に 住んだ 頃 は、 市ケ谷 

と 四 谷 見附の 間の 土手に 行き、 斜面の 草 生 を かけ 下りたり、 寢 ころがった りして、 僅に なぐさん 

だ。 今日 此頃 は靖國 神社の 境內 の、 祭日に は 曲馬 團ゃ 猿芝居の 出る 空地に 茂る 雜草を 踏みに 行く。 

夏の 夕方な ど、 勤 先から 疲れて 歸る 我家 近く、 この 草原 を 横切る と、 柔 かい 踏 心地 は 一時に 疲勞 



551 



を 忘れさせ- 足下から 薄 靑ぃ羽 をき しませ、 ばったの 飛び立つ の も 昔な つかしく、 暫時 佇む 事が 

t そ-. ^ れ 

ある。 この 草原に は、 黄昏 頃、 人 を 待つ 若い 女の 姿 も 見え、 男女の 學 生が 肩 をく つつけ 合って 步 

く 風情 も ある。 アスファルトで 固めた 路を步 くよりも、 草 を 踏む 逢引の 方が、 戀 人の 心 をし つか 

りっかむ 事が 出來 るので はないだら うか。 , 

私 は廣ぃ 東京に、 公園の ふえる 事 を 希 ふ ものであるが、 願 はくば 庭園の 美し さに 緣 のない、 た 

^雜 草の 茂る に 任せた 公園 を 欲しい と 思 ふ。 そこで、 市民に 草 を 踏ませ 度い。 花の 樹も、 花壇 も、 

池 も, 石 も、 奇麗な 芝生 も いらない、 草 を 踏む 心地 さへ 味 は ひ 得れば い、 ので ある * (昭和 十一 年 

十月 六日) . , 

11 「時事 新報」 昭和 十 一 年 十月 十日 . 十一 n= 



552 



晴鲜皁 月 



.Hu^ 魚 



朝餘 とい へば、 夏 はむ やみに 暑く、 冬 は 極端に 寒く、 長雨と 洪水と、 早魃と 饑饉と、 姦通と 殺 

人と、 すべて 悲惨 陰鬆な 事件ば かり 聞かされて ゐ たので、 この度の 旅行 も 雨と 風と 寒さ は 免れな 

いものと 覺 悟して ゐた。 ところが 釜 山に 着いて 第一 の 印象 は晴 渡る 秋の 空の 美し さであった。 宿 

の 二階から 見える 岡の 上に 誰か 偉い人の 銅像が たち、 朝の 風に かすかに 梢の ゆらぐ 楊柳の 下に 佇 

んで海 を 見る 婦人の 白衣、 その 白 さは 夜の 間に 降 積んだ 雪 を 知らす に、 雨戸 を あけた 時の まば ゆ 

さであった。 十月 は內 地の 空 も 美しい に 違 ひ 無い が、 その美し さに は濕氣 が拔け 切れない 感じが 

殘 つて ゐ るのに、 朝鮮の 空氣 はからり と 乾き、 しかも 極めて 肌理 こまやか である。 私 は 茫然と 岡 

の 上の空 を na, てゐ た。 白衣の 婦人 は 立 去り. 暫時 穴 の 美し さばかり となった が、 間もなく、 又 一 

人 同じ 場所に あら はれて、 白い 光 は 何時 迄 も 動かなかった。 



55^ 



ほんと に 朝鮮の 婦人の 服装 は淸楚 優美で、 これに 多少の 改良 を 加 へ 裾 を 短く して 輕 快味 を 多分 

にと り 入れた 京 城の 女學 校の 制服 は、 內 地の 娘 達が 得々 として 身に つける 洋服よりも 遙に 美しい 

ものであった。 仍 しその 女學生 達の 言葉た る や 大阪、 九州、 山 口、 廣島を 主と した 各地の 混交 語 

で、 偶々 大 通の 四角で * 二人の 娘の 話 合 ふの を 耳に したが 「あたし 買物に 行きよ るん よ」 といつ 

たやうな 粗野な もので、 美しき 制服の 手前 羞か しかるべき ものであった。 夜毎に つ,. -く 宴席で、 

藝 者と 妓 生と 座 を 共に しても、 金 絲銀絲 の きらびやかな 豪奢な 帶、 總 模様の 色彩 畳 かな 衣服の 裾 

を 引く 大和撫子 は、 單 純な 色彩の 妓 生の 衣裳の 效果に 負けて 濁りく すんで 見える ばかりだった。 

か うがい 

私 は、 簡素な 結髮に 銀の 弃を さした 妓 生と 並んで、 馬鹿々々 しく 大きい 島田髮 が、 いかに グロ テ 

スクな もので あるか を發 見した。 妓 生の 本場 平壌の 一 夜 は、 日淸戰 役に 原 田 重 吉が名 を あげた 玄 

武門の ほとり、 大同 江 を 見下す 牡丹 臺に 過した が、 妓 生の 優艷 なる たち ゐ ふるま ひと、 高く 澄ん 

だ愁心 歌の 哀切なる 節 調 は、 旅人の 感傷 を そ、 る もので あつ. た。 若し それ 夏の 夜 涼に 月 を 眺め、 

妓 生と 薬酒 をのせ て 船 を 江上に 浮べ る 事が 出来るならば、 傷心 いかばかり かと 想像され るので あ 

る。 長 鼓 をう ち 鳴らしつ、 うた ふ 聲は淸 く、 rw: 地 人の 獨 つた 聲とは 比べ ものに ならない。 彼の マ 

ラ ソン 選手 を 生んだ 半島 は、 將來 すぐれたる ソプラノ 歌手 や、 勝 太郞、 市 丸の 人 氣を奪 ふ 流行歌 



554 



啧鮮朝 



手 を 輩出す るで あらう。 九州 あたり か ら輸 出さ れ て 來た藝 者 の 言葉 も 動作 も 粗野 を 極めて ゐ るの 

と、 歌舞 音曲 琴棋 書畫、 客の 應對 宴席の 作法 を 十分 敎 育され た妓 生と は、 恰も 鐵道 沿線に はび;』 

る 荒 地 野菊と、 溫窒の 蘭との 相違が ある。 

いったい、 地で 吾々 の 接する 鮮人 は、 自動車の 運轉 手で も、 土工で も、 反抗 精神に いらだつ 

爲か、 眼つ き錢く 兇暴の 相, を帶 びて ゐ るが、 それ は 本來の 朝鮮人の 相貌で は 無い ので はない か。 

田野に 働く 農夫 も、 市に 物賣る 商人 も、 我 朝の 公家 殿上人の 如く 柔和で、 溫順 圓滿の 相を備 へて 

ゐる。 殊に 婦人の 美し さは、 近代の 好みに 屬 する 性格 的 表情 美に は緣 遠い が、 我國の 傳統的 理想 

型 その ま、 の、 おとなしく やさしい 額 だち 多く、 色白く 肌理 二 まやかに、 春 信 も あり 淸長も あり 

歌 麿 も ある。 . 

私 は、 草 亂れ、 落葉の 降る に 任せた 祕苑の 岡に 上り、 池を姬 り、 樓臺 にい こ ひ、 栗 良の 走る 小 

徑を步 み、 鵲の 鳴き か はす 林 を 踏み分けて、 その 昔 榮華を 極めた 王 や 后が、 參數の 美女 を從 へて 

曲水の 遊に 耽り、 花見の宴 を 張った 有樣を 想像し、 美しい 鎗昇風 を 心に 描く 事が 出来た。 まこと 

に秘苑 こそ は 世界に 稀なる 美しき 庭苑 であるが しかも 今 は 荒れ果て ゝ、 ひとし ほ 深き 趣き を 加へ 

微かに 啼く 虫の 昔に.? を 傾けつ 、、 私 は 林間の 高き 穴ェを 仰ぎ見て 佇んだ。 先年 北京に 遊んだ 時 も 



555 



同じ 願 ひに 堪へ 兼た が、 許されて 此の 庭に 數曰 を. 送る 事が 出来るならば、 私の 枯渴 した 詩情 も > - 

再びよ みが へ るので はない かと 想 ふので あった。 

朝鮮の 山 は 地肌 あら はに、 樹木 少なく、 野 は 平らかに 變化 なく、 奇勝 稀なる 嘆 は あるが、 その 

か はり 金剛 山の 奇峰 峻嶺 は 天下の 絕景 である。 恰も 紅葉の 頃 だから、 その 壯麗 なる 眺め はたぐ ふ 

IE- きもの も 無かった。 一 萬 二 千 峰と、 な へられる 峰々 の 中、 僅かに 萬 物 相と 九 龍 淵 をき はめた ば 

かりで あるが、 その 規模の 大きさ を 表現す るに は、 どうしても 支那の 繪畫 文學に 任せる 外 はない „ 

こ、 でも 亦晴 渡る 秋の 空の 美し さ、 私 は 新 萬 物 相の 絶頂の 岩に 立って、 その 空の 一片 を吞む や-つ 

に 深く 呼吸した。 

釜 山 京 城 金剛 山元 山 平壤大 田と 廻って、 多く は 汽車に 陲る 忙し さで あつたが、 空 はいつ も 美し 

く 晴れて ゐた。 再び 釜 山に, 戾り、 連絡船の 出る 迄 を、 白雲 ムロ溫 .0^ 場で 晝寢 したが、 私 は 其 處のホ 

テルの 三階の 緣 側から、 海の 上の空の 美し さ を 眺めて、 秋の 朝鮮に こそ * 木當の 日本晴の ある 事 

を沁々 感じた。 (昭和 十一 年 十月 十六 日) 

—— 「時事 新報」 昭和 十 一 年 十月 十七 日 • 十八 《: 



556 



昂 激人老 



老人 激昂 

下關 から 一路 東京へ 走る 急行列車 は滿 員だった。 車中、 私の 筋 向に 講釋師 一 龍齋貞 山が、 どつ 

かりと 胡座 を 組んで ゐた。 彼が 先頃、 滿洲に 在る 皇軍 慰問の 爲に 出かけた 事 は、 新聞で 知って ゐ 

た。 則に 一 人、 袴 を 長く 引 擦る やうに はき 鼠色の 羽織に 縫紋. の、 どう 昆ても 高座の 人と し 力 見え 

ない のが 附 添って ゐた。 二人 はしき りに 旅の 思 出 を 語 合 つて ゐ たが、 その 話に 引かれ て 前 の 座帟 

に ゐた實 業 家 型の 人が 名刺 を 出して ちかづき を 求めた。 隨 分大變 だった でせ う、 御苦勞 さまでし 

たと ねぎら ひ、 貞山は 答へ て、 滿洲の 野に 在る 兵士の 勞. 苦、 その 兵士の 慰問の 爲に 自分 達ば 國境 

近く 迄 出かけた ことな ど を、 咽喉 を 使ふ藝 人に 特有の 噴 がれた 聲で 話して ゐた。 

それと は 反 對の筋 向で は、 七十 前後と 見える 老人が 三 四 人知 合ら しいのに むかって、 昔の 瀬戶 

s: 海の 海賊の 話 をして ゐた。 



; は飽を 机に し、 右の 話 も 左の 話 も 耳に しながら、 明日に 迫って ゐる 新聞の 原稿 を 書いて ゐた。 

食堂の 給仕が、 お 食事の 用意が 出来ました。 お 待 申して 居ります とい ふやうな, ことの 書いて あ 

かみきれ 

る 紙片 を、 め 、めいの 膝の 上に 置いて 過ぎた。 や あ、 もう 晝か、 釵 でも 食 ふかな、 海賊 を 語る 老 

人 は、 外套 を 着た ま、 ステッキ を 持った ま、 の 姿で、 連 を 促して 立 上った。 

どうです、 ごいつし よに 如何で せう、 無事に 歸 つて 来られた 歡迎 とい ふ 意味で、 いつば い 差 上 

ませう。 貞 山に 話 かけた 人 は、 この 有名な 講釋師 と 卓 を 共に する 事に 多分の 興味 を 持つ もの、 如 

く、 繰返して 勸 めて、 この 一組 も 食堂に 去った。 私 は 朝が 遲 かった ので、 食愁 がな く、 K に話聲 

の なくなった 車中の 靜な 間に 原稿 を 書き 進めたい と 思って、 一 段と 馬力 を かけた G 

やがて、 寅 山の 組が 先に 戾 つて 来たが、 それ を 追 かける やうな 形で、 背廣の 紳士が あら はれて、 

貞 山の 隣に 腰かけ、 極めて 盤 勲に話 かけた。 この度 は 御苦勞 さまでした、 どの 邊迄 お出かけ でし 

たか、 いづれ 彼 地で 得りれ た 材料 を 種に してお 話になる のでせ う、 と 質 をす ると、 貞山 は、 矢 

張 行 つて 見なくて は實際 の 事 はわ かりません ねえ、 實に 我が 兵士 達の 苦心 は 大した ものです よと 

いふ やうな 返事 をして ゐた。 私 は 此の 背廣の 紳士 を 新聞記者 だら うと 思って ゐた。 ところが 背廣 

の 紳士 は、 貞 山のと ころ を 切 上る と、 今度 は 私の 前に 立った。 私 は …… の 者です が、 どちら 迄お 



昂 激人老 



出かけで すかと いふ。 私 はぎよ つと した。 ::: とい ふと、 吾々 を 保護して くれる ものと 考へ るよ 

り 先に、 叱られる か、 縛られる か、 留置され るか、 いづれ にしても い、 事 一ん はない と 思 ひ 勝な の 

だ。 朝鮮に 行き、 今 は 東京に 歸 るので すと 答へ ると、 直ぐに 職業 はと 追 かけて 來た。 會 社員です 

と 答へ ると、 案外 手輕 に、 お 邪魔し ましたと 云って 去った。 

背廣の 紳士 は 順々 に 車中の 人 を 調べて、 後部の 車 室に 移って 行った。 その 時、 海賊に ついて 語 

る 彼の 老人が、 先刻と は 見 違へ る 赤い 顔 をして、 連の 人達と いっしょに 戻って 來た。 實に 怪し か 

らん、 人 を 侮辱す るに も 程が ある、 何 だ 見す 知らす の 人間が いきなり 名刺 を くれと は 何事 だ、 無 

禮ぢゃ あない か、 我輩 は 云って やった、 俺 は 斯うい ふ もの だ、 逃げ も かくれ もせん、 貴様 達に 疑 

はれる やうな 人間で はない ぞ とね。 酒の 爲に 相貌の 變 つたの が、 車中 全體に 聞かせようと、 高聲 

で 怒鳴り はじめた。 醉拂の 癖で、 同じ こと を 幾度 も 繰 返す。 無禮ぢ やない か、 侮辱お や あない か、 

名刺 を 出せと は 何事 だ、 あれ は 何 だ、 あいつ は 何者 だ。 

連の 人 は少々 もてあまし 気味で、 あれが です よと なだめよう とすると、 …… だら-うが 

何 だら うが 無 禮ぢゃ あない か、 人が 食事 をして る 最中に 名刺 を 出せと は 何事 だと、 愈々 たけり た 

つ。 



559 



背廣の 紳士 は 最後 尾 迄 行った と 見えて、 再び 吾々 の 車 室に 戻って 来た。 前の 時には ゐ なかった 

老人 を 見る とその 隣に 腰 を 下し、 何 か 話 かけた と 思 ふと、 老人の 憤激 は 極度に 燃え 上った。 

もう 一度 名刺 を くれと いふの か、 人 を 馬鹿にするな、 たった今 食堂で、 君の 仲間の 奴が 無 禮な事 

をぬ かした から、 我輩 は 斯うい ふ もの だ、 逃げ も かくれ もせん と 云って やった、 然るに 又 名刺 を 

出せと は 何たる, こと だ、 人 を 侮辱す るに も 程が ある、 我輩 はお 前 達 を 相手に する 人間で はない、 

東京へ 行って に 逢って 談判す る、 無禮 だ、 侮辱 だ、 怪しからんと、 ステッキで 床 を 叩い 

て わめきたてる。 背廣の 紳士 は、 つとめて 物柔 かく、 名刺 を 頂く の は 決して 侮辱で はない、 それ 

が 自分 達の 任務な の だと 說 得しよう とする が、 老人 は 何が それ 程 痛に さはった のか、 すっかり 冷 

靜を 失って 無禮 だ、 侮辱 だと 叫びつ:、、 ける。 連の 人が 見 兼て 口を出す と、 ー署 威勢が よくな り、 

いったい 近頃 新 官僚と い ふ 奴が 跌屋 する やう になって か ら、 地方 の 小役人 共 の 威張る こと 非常な 

もの だ、 政黨の 腐敗と いふが、 官僚の 腐敗 はもつ と甚 しい ぞ、 备 地に 起る 濱職 事件 はどう だ、 吏 

道肅 正な どと 口で はいふが、 その 實は 少しも あがつ とらん ぢ やない か、 それに も 拘らす 人 を 見て 

ば 泥棒と 考へ、 いきなり 名刺 を 寄越せと は 何事 だ、 無禮 だ、 侮辱 だ、 此 IM に はす まされん と 止 度 

が 無い。 流石に 背廣の 紳士 も 手の つけ やうが なく、 失禮 しました とい ひ 捨て 、立 去った 。しかし 



560 



昂 墩人老 



老、 "手が ゐ なくなっても、 なほ 慨の ほとばしる ま、 に、 怒鳴りつ i..- ける。 あまりし つっこ 

過ぎる ので、 私 は 聞き辛く なり、 席 を 立って 食堂へ 行った。 

實に 痛快な ぢ いさんだ つたな あ、 同じ 食卓の 窓際に 差 向で、 正宗の 瓶を眞 中に 話 合って ゐ るの 

は、 恐らく 食堂車で、 他の 背廣の 紳士に 對し 彼の 老人が 怒 罵 を 浴せ た 時、 ゐ あはせ た 人な ので あ 

らう。 いや、 近頃 は 若い者 は 駄目 だ、 元氣 のい、 のはぢ いさんだ よ、 いっか も 汽車の 食堂で、 醉 

拂 つた ぢ いさんが、 〔一一 一十 六 字 略〕 紳士 を惱 まし、 しま ひに は 拳骨 を 相手の 頭上に 加へ た、 流石に 門松 

をく つた 數の 多い 人間 は 違 ふな あ …… 

二人の 人 はか、 る 老人の 元氣、 氣 概を稱 讚しながら を 傾けて ゐ たが 私 は その 時 はじめて、 何 

故 あの 老人が 些細の 事に 止 度な く 激昂した かが わかった やうに 思った。 彼 は 車中 突然 名刺 を 求め 

られた 事 をき つかけ にして、 平素 抱いて 居る もっと 深い 憤り を爆發 させた の だ。 自分 達が よいと 

信じて 行って 來た 一 切の 事 を、 全く 立場の 違 ふ 新 勢力の 爲に 蹂躪され 足下の 大地が ゆらぎ 出した 

やうな つかまり 所の 無い 不安の 中に 置かれた の だ。 若い者に は 未来が あるが 老人に は 無い。 社會 

の 急激なる 變革 は、 老人に は 致命的 打擊 である。 S 十八 字 略〕 警察官に つかまつ たとい ふ 記事が 新聞 

にあった が、 彼是お も ひ 合せる と、 決して 笑 へない 悲劇で ある。 〔十字き は、 老人 を 不治の ヒ ス テ 



561 



リイ 症に おとしいれる もの か。 (昭和 十一 年 十月 二十 二日) 

1 「時事 新報」 昭和 十一 年 十月 二十四日-二十 五日 



562 



友の 女 H 



賣 女の 友 



しら V も A 

調 物の 爲に、 ク、 しく 手 を觸れ なかった 本箱から、 二三の 英書 を 取 出して 見て ゐ ると、 その 一冊 

の 間から、 變 色した 封書が 出て 來た。 怫蘭西 語で 綴られた 手紙で ある。 我 友よ * 次の 木曜日 午後 

三時、 フライ 氏 夫妻と ごいつし よに、 わたくし 共の 新居に お出で 下さい、 お 待 申 上ます とい ふ簡 

單な もの だ。 私 は それ を讀 み、 赤面し、 微笑した。 二十 餘年 前、 恰も 歐羅 巴大 戰の眞 最中、 私 は 

倫 敦の安 下宿に ゐた。 中年 獨 身の 主婦が、 その 妹と 二人で 經營 して ゐる 此の 宿に は、 大陸から 戰 

禍を 逃れて 来た 人達が 多く 泊った。 時には、 いか はしい 婦人 も 同宿した。 あ、、 遠き 故 鄕の父 

母 は、 我が 子が 異鄕に 於て、 賣 女と ひとつ. 屋根の 下に 起居す ると は 想像 もしない であらう と、 友 

人と 語 合 ひ、 共に 苦笑した。 零落した 英人 フライ 夫妻. 獨 探の 嫌疑 濃厚な 白 耳 義人と 稱 する 男、 

3 

跛の 印度人、 いろいろの 止宿 人が いり か はり、 私 はやが て 古顔に なって ゐた。 手紙の 主も獨 軍に 5 



蹂 ii された 地方から きのみき のま 、逃げて 來た佛 蘭 西の 女で、 一 一人で 一 窒を 借りて 住んで ゐた。 

二人とも 美人で は 無かった。 一人 は 蒼白い、 ぶよぶよした 肉 づきで、 あかぐろい 斷髮を 縮らせ、、 

步く 時に 上體を わざとら しく 振る 特徴が 著しかった。 もう 一 人 は、 百姓 女の やうに 血色の い 、、 

しかし 小柄な 女だった C 元々 商賫 をして ゐた のか、 戰爭の 爲に其 處へ落 込んだ のか、 一見して 身 

柄 は 想像 出來 た。 その 爲 であらう、 宿の 主婦 は、 此の 二人に は-: a 入口の 鍵を與 へなかった。 それ 

では 不便 だ、 そんな 下宿と いふ ものが ある もの か、 不都合 だと、 こ 人 は 吾々 の 前で しきりに 不平 

をい ひ、 度々 交涉の 結果. やう やく 目的 を 達した が、 或 晚男を 引 入れた ところ を 見つかって、 ヒ 

ステ リイ 症の 主 51 はかん かんに 怒り、 罵り、 退去 を 命じる 事件と なった。 主婦 は、 獨 探の 嫌疑の 

濃厚な 男と ねんごろ になって ゐ たが、 そんな 事 は 少しも 恥ぢ す、 哀れな 女達に 對 して は、 英吉利 

人 特有の 人 を 見下した 態度で、 居丈高に 罵倒し、 叱責した。 英語 をよ く 話さない 二人の 女 は、 辯 

解の 言葉 もな く、 次の 朝 追 出されて しまったの である。 

其の 日の 午後、 英人 フライ は 私の 窒 にやって 來て、 あの 怫蘭西 女達 は實 に可哀 さう だ、 勿論 尊 

敬すべき 婦人で はない が、 憎む 可き 獨 逸人の 爲に 住むべき 土地 は 占領され、 此の 倫 敦に來 て も、 

身 寄 もなければ、 食 ふ 術 も 無い、 もとより 感心 出來 ない 商賣 だが、 外に 爲樣が 無 いぢ や あない か、 



564 



友の 女資了 



自分 は 深く 同情す る、 ところが、 今朝 あの 二人が 新しい 窒を 見つけた の だが、 前金で 無い と 入れ 

て くれない、 彼女 等 は 一文 も 持って ゐ ない、 そこで 自分に 泣きつ いて 來 たが、 自分 も 御 承知の 通 

りの 始末で、 助けようと 思っても 助けられない、 ついては 此の際 申 兼る が、 あの 二人の 爲に、 一 

週間 分の 窒代 を货 してやって くれない かと、 曾て は 第一流の ホテルに 泊って、 競馬と 骨牌と シャ 

ンパ ンで 日を暮 したと いふ 善良 無能なる 老人 は、 一 生 懸命に 私 をロ說 くので ある。 ^も 金に は不 

自由 勝な の だが、 むらむらと 安價な 俠氣に 唆され、 了 打の 金貨 を 老人の 掌に 置いた。 凡 一週間 後 

に、 私 は 此の 招待 狀を 受取った。 フライ 夫妻と いっしょに 佛蘭西 女のと ころに 行く と、 二人 は佛 

人 特有の 人な つっこい 様子で 歡迎 し、 珈琲 を わかし、 菓子 を 切り、 私の 爲には 葡萄酒 を拔 いてく 

れた。 そして 金貨 一片 を返濟 し、 窮狀を 救 はれた 感謝 を 大袈裟に 表白す るので あった。 

私 は、 二人の 女が、 兎に角 餓死し ないで やって 行かれる の を 祝福し、 叉 私に とって 大切な 金の 

速 かに 戾 つて 來 たの を 喜んだ が、 扨て その 金貨が 如何にして 得られた もので あるか を 想像す ると 

何ともい へない 氣持 がした。 

その 晚私 は、 フライ 夫妻と 二人の 怫蘭西 女 を 誘 ひ、 オック スフ ォ ー ド. サァ カスの 支那 料理屋 

で、 チヤ プスィ を 御馳走し、 返濟 をう けた 金 をつ かってし まった。 間もなく 私 は 倫敦を 去った の 



565 



で、 二人の 佛蘭西 女との 交際 も それつ きりで おしま ひだった。 

私 は相當 長い 年月 海外で 暮 したの だけれ ど、 その 國の 人なら ば當然 知って ゐる事 を 少しも 知ら 

ない。 例へば、 結婚 葬式の 事、 正式の 宴會の 事、 中流 以上の 家庭の 有様、 それ もこれ も 知らない 

安 下宿で、 零落 者 や 避難民 ゃ賫 女と ひとつ 屋根の 下で 暮らした の だから、 普通 一般の 事 は 知らな 

いので あ K -。 大方の 旅人の 見る 外國 とい ふ ものが、 如何に 贫 しい 觀察、 淺 薄な 解釋に 終始す るか 

その 原因 は 此の 邊 にある ので はないだら うか。 (昭和 十一 年 十月 二十 九日) 

, . 11 「時事 新報」 昭和 十一 年 十月 三十 一日, 十一月 一日 



566 



家 評批の 席定指 



指定席の 批評家 



野球 季節と なれば、 神宮球場で 必す 見る 顏々々 が ある。 お 互に 顏 だけ 知って ゐて、 あ、 あいつ 

叉 來てゐ るな と 思 ひながら、 その あいつが 誰な のか わからす に、 五 年た ち、 十 年た つの も ある。 

氣の輕 い 人達 は、 いっか 挨拶 を か はし、 球場 丈の 交際 を はじめ、 季節の 終になる と、 叉來年 はと 

か、 この 秋 はと かいって 別れて、 次, の 季節の はじめに、 御久 振で となつ かし さう に 相 逢 ふの もゐ 

る。 試合の 數は 見て ゐ るから、 選手の 顔 はよ く 知って ゐ るし、 新聞の 運動 記事 もよ く讀 んでゐ る。 

過去の, 戰績も 十分 承知して ゐる。 選手の 成績 も 記憶して ゐる。 しかし、 大概 は 中年 仕込の 悲し さ 

で、 阡 の 野球 そのもの を 知らす、 又 選手の 素質な 知らない。 すべて を 近き 過去の 成績 本位で 判 

斷 する。 しかし、 いづれ も 知識階級 を もって 任じて ゐ るから、 遠慮なく 批評す る。 どれ もこれ も 

論 だから、 SS で聽く 者に はうる さいば かりで、 面白く もなければ 得る 所 も 無い。 私 は 應援團 5 



とい ふ もの も ft たから- 廣々 思 ふの は、 試合 開始の サイ レ ン から 試合 終了の サイ レ ン迄, 數 萬の 

見物が 一 言も發 しない 靜肅 なる 緊張の 中で、 試合 を 見物した いとい ふ 事で ある。 

今年の 秋の 季節 も、 此の ー戰を 最後と し、 早稻田 は旣に 優勝の 名譽を 獲得し、 昨日の 一 囘戰 も、 

危氣 なく 大勝した のに、 相手方の 慶應 は、 帝 犬に 一 勝した ばかりで、 法 政と 一 一度、 立敎と 一 度 引 

分. 引 分で も慶應 にして は 大出來 だと 云 はれる 程の 不始末で • 天下の 奧 論は對 等の 勝負と は 見做 

さなくな つた。 論より 證據、 この 日 九 段から 靑山四 丁目 迄 私の 乘 つた 電車の 客 も 「勝負 は 問題で 

はありません よ、 應援を 見に 行 くん で す」 と い ふ 心細 い の や 「お ぃ歸 りに 何處 か で 祝杯 を あげよ う 

ぜ」 と 肩 を い か ら す早稱 田の 書生 や 「叉 負 やが るんだら う、 いやん なつち や ふた」 と自 軍の 不振 を 

語 合 ふ 慶應ボ オイ を滿 載して ゐた。 全く 此の 數年、 うち 績く 慶應の 不振に、 多年 指定席に 額 を 並 

ベた 同窓の ファン も 辛抱し きれ なくなって 姿 を 見せす、 野球部の 先輩 さ へ 愛想 をつ かして 見に 來 

ない 位 だから、 英雄 祟拜の 一般大衆に 評判の 惡 いのは 當前 だ。 それよりも 衰運の はかな さ を 明に 

描出す るの は、 所謂 天下の 早 慶戰當 日、 勝利 を 信じて 緊張して ゐる 早稻田 側の スタンド は、 學生 

席 も 一般席 もぎつ しり 詰まって ゐ るのに、 慶應側 は 學生席 さへ さ 地が あり、 滿場 立錐の 餘地 無し 

と は、 新聞 辭 令に 過ぎす、 正確なる 報道 を 尊し とすれば、 實は早 稻田側 立錐の 餘地 無しに 過ぎな 



56S 



家;; 1; 批 のお 定指 



い 有様 だ。 今日 も 勿論 麼應 側に は 立錐の 餘 地が あり、 學生 席の 如き は 八 分の 入り だ。 慶應, みつ 

ともたい ぞ。 

兩 軍の 練習 中、 出場 選手の 顏觸が 放送され ると、 忽ち ネット 裏 指定席の 批評家 達 はいき まき は 

じめ た。 「何故 高 稼 を 出さない の だ、 高木で もい、 ぢ やない か、 楠 本で は 駄目 だよ」 「監督が いけ 

ない、 これで は 問題に ならない」。 楠 本 は 不幸に して 制球に 難があり、 稀代の 偉 村 を 未だ 十分に 

發 揮して ゐな いので > 極端に 不信用な の だが、 旣に 前日 高木、 中 田、 高壤を 使って ゐる 以上、 楠 

本の 剛球に 頼る 外に 途は 無い 害な の だが、 批評家 達 は 承知し ない、 不滿 の聲は 次々 に傳播 して 舆 

論と なった。 その 時、 先生々々 と 私 を 呼ぶ 人が ある。 「今日 慶應が 勝ったら、 御馳走し ますから 

是非 來て 下さい」 あたりの 人の 視線 は 私に 集中した。 誰 一 人、 慶應が 勝つ と は 思って ゐな いさ 氣 

を 破って、 かう いふ 聲を かけた の だから、 聲を かけた 人よりも かけられた 私に、 附近の 人の 輕蔑 

の 眼の 集まる の は 不思議で ない。 私 は大に てれて、 實は 明日から 旅に 出る 身の、 今夜 は 自宅で 子 

供 達と いっしょに 御飯 を 食べようと 思って ゐ たの だが、 周 圍を憚 かる 心から、 手 取 早くうな づぃ 

てし まった。 笑って ゐる人 もあった。 

試合が はじまる。 第一 打者が 第一 球 を 右翼に 打 上る と, 後の 席で は 「早 稻田は 打つ ねえ」 と 感嘆 



569 



する。 平凡な 飛球な の だが。 次の 打者が 遊擊 頭上 を拔 くと 「楠 本で は 駄目 だ」 とい ふ聲が 一 層 高く 

なる。 高須の 右翼 三壘 打で 一 點を 先取す ると 「監督 はどうし たんだ、 早く 楠 本 を 引 込ませろ」 「こ 

すぎ 

れ では あんまり 面白くな さ 過る」 「此の 調子で は 十點は 開きます ぜ」 と、 偸 快な のか、 不愉快な のか 

兎に角 勝負 はき まった やうに いひ 出した。 ノ . • 

慶應 は、 國方樱 井 共に 外野 へ 凡 球 を 打 上げ、 早く も 一 一死と なった の で r 慶應は 打てな い な あ jr 打 

てる もの か、 若 原です もの」 との 早 稻田禮 讚の 聲が あがる。 勝 川 は 捕手の 打擊 妨害で 出壘 し、 灰 山 

の 左中間 ニ壘 打で 生還 同點 となった と 思 ふと、 岡 本 田 楠 本 いづれ も 物凄い 當 りで 安打 を績 け、 .ー 

舉四點 を擧げ てし まった。 ネット 裏の 批評家 は、 若 原 は 打 たれない、 早稻 田の 勝 だと 放言して ゐ 

た 手前、 いふ 可き 言葉 を 失って、 沈默 してし まった。 若 原 も 自信 を 失 ひ, 自ら ひっこむ つもり か 

ベ ン チに戾 つたが、 慰撫され たので あらう、 水 を 飲んで 又 プレイトに 戻った。 若 原 は 私の 好きな 

選手な の だが、 此の 時の 態度 はよ くなかった。 

二三 囘は 事な く濟ん だが、 四!; 早稻田 二死後、 淺井柿 島に 四球が つぐき、 楠 本 は 叉しても フ才 

1 ムを失 はんとし 頗る 苦境と 見えた が、 斯うい ふ 時には 運惡く 失策の 出る もので、 勝 川 は 左程 困 

難と は 見えない 球 を 後逸し、 安打が つどき 四球が つ どき、 遂に 髙 塚と 交代し なければ ならな か 



570 



家評批の/?^>-定)"旨 



つた。 批評家 達 は 凱歌 を あげる が 如く 「だから 楠 本で は 駄目 だと 云つ たんだ」 「何故 最初から 高 塚 

を 出さな かったん だら う」 「監督の 頭が 惡 いんです よ」 と 時 を 得て 一 齊に 喋り はじめた。 結局 此の 

囘、 早稻田 は四點 入れて 五 針 四と 形勢 を逆轉 した。 「もう 駄目 だ」 「早 稻田は 打つ からね え」 「絶對 

に 勝 味はありません な あ」 と, 批評家 達 は あらためて 先見の明 を 誇る のであった。 

ところが 五: 1 の 裏、 たった今 大 失策 を 演じた 勝 川 11 後で 聞いた 話 だが、 彼 は 失策の 申譯 なさ 

に、 試合が 濟ん だら 故鄕名 古屋へ 逃げて 歸 らうと 思って ゐ たさう だ —— が、 見る からに 奮起した 

様子で、 バット を 振り 振り出て 來 たが、 果して 三 壘打を かつ 飛ばし、 灰 山 も 安打して 同點 となり、 

岡 も 亦ニ壘 打して 無死 走者 三 ニ壘の 危機と なり、 若 原 は 叉 水 を 飲みに 行った が、 今度 は 慰撫す る 

者 もなかった のか、 其傣引 込んで しまった。 勢に 乘 つた 慶應 は、 代った 近 藤 を 攻めて 總計 四點を 

加へ、 八對 五と リ イドした。 批評家 達 は、 全く 豫 期しなかった 形勢に、 暫時 寂と して 聲も無 かつ 

たが、 「若 原 を かへ る 手 はない よ」 「近 藤で は 駄目 だ、 若 原 は必す 立直る 投手なん だが な あ」 「ベ ンチ 

が惡 い、 これで は 慶應の 勝 だ」 と 手の 裏 を かへ す 斷定を 下す 者 も 出て 來た。 此の 日の 若 原 は 球 速 

なく、 力 アブ は 入らす 一方 遲れ 走せ に 打棒の 冴えて 來 た慶應 は、 選球 もよ く、 若 原 得意の コ ンビ 

ネェシ ヨンの 裏 を かいて、 五囘 丈に して 八本の 安打 を 放って ゐ るの だ。 いくら 豪氣の ベン. チと雖 



571 



も、 立直り 上手の 若 原で も、 これで は 交代の 外に 途は 無い と 思 はれる が、 批評家 は 自分 達の 絕對 

に信賴 した 若 原に 實を負 はせ る 事 は、 卽ち 自說を 裏切る 事な ので、 此の 交代に 責任 を 負 はせ よう 

とする ものら しい。 冷 靜に考 へれば、 交代が 敗因で はなく、 交代し なければ ならない 投手 不振が 

敗因な の だ。 . , , ,, 

勝敗 は 問題で ない と 云って ゐ たのが、 打てない 害の 慶應の 得 點は總 てァァ ンド • ランで、 あく 

迄 も 積極的 攻 法で 壓 迫を續 ける ので、 流石の 批評家 達 も 「試合 は 水 もの だ からね え」 とか r 慶應に 

も 勝た せて やらなくて は可哀 さう だよ」 とか、 嚴正 批判の 辟 外に 出て しまった。 

不幸に して 高壤 は、 柿 島の 強襲 球 を 大事の 左手に あて、 負傷し、 六囘 から 高木が 代った。 彼 は 

對 法政戰 にこ そ 好投した が、 前日 も 巧 味 を 示さす、 今日は、 一 曆 不手際で、 近 藤、 佐武、 村瀨に 

連續 安打され 一 點を 尊 はれた。 先刻 は、 棉 本で はいけ ない、 高 嫁か髙 木に 限る と 主張した 批評家 

は 「何故 高木 なんか 出したん だ」 n 莨に 監督の 頭腦は 不可解 だ」 「私 は 結局 早稻 田の 勝 だと 思 ひ ます 

よ」 試合の 經 過の 變轉 と共に 風向 も變 つて 行く。 しかも 七囘ー 死後 吳 の三壘 打に 四球が 連續 して 

滿趣 となった ので、 高木 は 中 田と 交代した。 中 田 は 前日 極端に 不調だった ので、 批評家の 信用 は 

目下の 處零 だ。 殊に、 一 曼 手の 勘の 惡 さで 一 點を 許し、 安打が 出て 叉 一 點を奪 はれ、 同 點に追 ひ 



572 



つかれたので、 批評 は 愈々 うるさく なった。 「だから 云 はない 事ぢゃ あないよ」 「中 田なん か 出し 

て ど うす る 積り な んだ」 「監督の 頭の 惡 さで すね」 「絕對 に早稻 田の 勝 だ、 實 力の 相違 だね」 「しかし 

慶應 にして はよ く鬪 ひました よ」 「負けても あきらめ は つくで せ う」 「でも 慶應 可愛 さう ね」 と 婦人 

の 同情の 聲も まじった。 

八對 八で 九囘 となり、 廣ぃ 球場 も 息苦しく なった。 宫 崎が 淺 井の. 三 匍 を 懐に 抱き そこなった 一時 

は、 あ、 あ、 あ、 とい ふ啞の やうな 聲が 諸方に 聞え た。 「これでお しま ひだ」 「もういけ ない」 「ね、 

矢 張早稻 田で せう」 と、 若 原の 交代の 時 慶應の 勝 だと 宣言した 聲が勢 ひよく 云 ふの だ。 しか レ海 

野の バ ント三 飛と なり、 淺 井の 二 盜は櫻 井の 好投に 斥けられて 二死と なると、 「延長 戰 だぞ」 とい 

ふ聲が 聞え た。 かと 思 ふと 近 藤 左翼に ニ壘 打し、 佐 武の遊 匍 を 勝 川低投 して 生かし、 四球が 出て 

滿壘 となると、 球場 は 感激と 不安の 交錯で 騷 然とな つた。 「最後に 来る 所へ 來 ましたね」 「しかし 

指 , 慶應は 大出来で したよ」 と、 病人が 最後の I- 吸 を 引と つた 時の 醫師の やうに 斷案を 下した。 しか 

定 

^ し慶應 は切拔 けた。 「延長 戰 だ. 一とい ふ聲が 再び 起った。 誰も 彼 も早稻 田が 負ける とは考 へない や 

の 

g うだった。 

家 岡の 三 匍 は 難球だった が、 髙須 巧に 處理 して 一 死と なれば、 愈々 延長 戰を 期待す る聲が 高くな 



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つた。 しかし 本 田 河 瀬と 三 遊 間の 安打が つ き、 慶應の 好機と なった が、 批評家 達 はあく 迄 も 其 

の 勝利 を;^ じない。 「打順が 惡 いな あ」 r 宫崎 では 駄 HT です よ」 「ピ ンチ ヒッタ ァはゐ ない のか」 「監 

督の 頭の 惡さ、 お 話に なりません ね」 としきり に齒が ゆがる。 だが、 その 宮崎は 第一 一 球 目の 高目の 

直球 を 切る やうに 左翼に 打った。 わ あっとい ふ 歡聲の 中 を、 本 田 は 三壘を 過ぎて 本壘に 突進して 

來る。 前進 守備 位置に ゐた長 野 は、 ワン . バウンドで 捕った 球 を 本 墨に 投げた。 彼 は 強肩 だ。 本 

田の 突 込 は 無理と も 云へ る。 しかし 九囘 裏の 混亂裡 に、 これ を 敢行し ない 法 はない。 球 は 稍 外に 

それて 且 高い。 球 は 佐武の ミットに 入った が、 タ ツチ はむ づ かしい。 本 田 は 本壘に 滑り込んだ。 

わ あっと あがる 三 墨 側の 歡聲の 中 を、 五色の テ I プが 飛び違 ひ、 人々 は 一 齊に立 上った。 批評家 

の聲は 歡聲に 消されて しまった。 (昭和 十 一 年 十 一 月 五日) 

—— 「時事 新報」 昭和 十一 年 十一月 七日 • 八 HI 



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の も る わのお' せわ 



わせ だの わるもの 



身 tS: の 年寄に 病人が 出來、 かなり 心配になる 容態な ので、 見舞に かけつけた ところ、 枕に 半分 

顏を 埋めて ゐる のが 「わせ だの わるもの はどうした」 ときいた。 あまり 突然で 何の 事 かわから す、 

返事に 困って ゐ ると、 看護の 者が 說 明して くれた。 つい 此間、 枕 もとで  

ろの 要望の 中には、 決して 學問 をし ろと いふ 事