名盤と人 第16回 浮き沈み 『Leon Russell』 レオン・ラッセル|レコードが聴ける家
見出し画像

名盤と人 第16回 浮き沈み 『Leon Russell』 レオン・ラッセル

Leon Russellと言えば、"A Song for You"など数々の名曲の作者として知られる。また、スワンプの仕掛け人としてその総決算的なBangladeshでも大活躍し、70年代のロックシーンの中心にいた人物である。しかし、その後は我々の前からは姿を消して行方も知られることはなかった。そして2010年に突然復活した。浮き沈みの激しい彼の人生を再び追ってみた。

Leon Russellソロデビュー

白髪の老人のようなLeon Russell

1988年たまたま旅行で訪れたNew YorkLeon RussellのLiveを観た。
それはThe Ritzという小さなライブハウスで当時はEast Villageにあった。
その日はEdger WinterとのジョイントLiveで、その当時は2人で組んでライブ活動を行なっていたようだ。

「Leon Russellって懐かしいな」とVillageVoice誌にLIVEの告知を見つけて、暫く消息を聞いてなかった彼のLiveに足を運ぶ。
会場には有名な日本のバンドのベーシストも来ており、さすがレジェンドLeonと思ったほどだ。
だがステージに登場したバンドを見て目を疑った。
総髪が真っ白の白髪になった世捨て人のようなLeonがそこにいたのだ。
1942年生まれの当時は40代中頃のはずだが、どう見ても老人に見えた。

その数年後の1991年に来日したLeonは東京・九段会館で公演を行う。
全盛期の1973年は日本武道館だったが、会場も小さくなりたった1人でキーボードを弾き語りした寂しいものだった。
さらに見た目は老けて、弱々しいトボトボ歩きで杖をついてステージに登場した姿に衝撃を受ける。
彼についてはの山川健一氏の短編の中に記載がある。「レオンが身体の自由が利かなくなった頃に来日して、九段会館でひとりコンサートをやった。バックなしで、キーボードを叩いて一人で全部の音を出し一人で歌うライブ。小さなホールで(昔はすぐ近くの武道館でもやったのに)、客も少なく、一時間ほどで終了。「友だちがいなくなってしまったんだろうな」と思えるような寂しいコンサートだった。(『ふつつかな愛人達』「メロディとその他のもの」山川健一より)

1992年にはBruce Hornsbyがプロデュースした「Anything Can Happen」をリリースするが、話題になることもなかった。

BangladeshのLeon

自分が初めてレオンを認識したのは、後追いだがGeorge Harissonが仕掛けた1971年8月のBangladeshのLIVEである。
GeorgeClaptonを尻目に大物感満載の姿が目に焼き付いている。

タンクトップ姿でブロンドヘアの長髪で、イケイケだったのが印象深い。
そして、Bob Dylan、George Harissonとの3ショットでの演奏。
単なるビートルズファンの中学生の自分にLeonの大物感が刻み込まれた。

Dylanの参加はてっきりGeorgeのルートかと思ったが、Leonが口説き落としたらしい。
1971年3月にDylanLeonに新曲のプロデュースを依頼し、3月16日から3月19日にかけて「川の流れを見つめて(Watching the River Flow)」と「When I Paint My Masterpiece」を録音した。

録音メンバー
Leon Russell - ピアノ、プロデューサー
Jesse Ed Davis - ギター
Don Preston - ギター
Carl Radle - ベース
Jim Keltner - ドラム

とLeonのオクラホマ人脈が参加し、このメンバーがそのままBangladeshに も参加している。
Bangladeshの提唱者はジョージだが、裏の音楽監督はLeonとも言える。

Bangladesh九段会館の彼の姿のギャップに「人生の浮き沈み」を見て、何とも言えない気分になった。

Leonによるスワンプロックの幕開け

一般的にはLeonの存在より彼の作曲した曲の方が有名なのかもしれない。
多くの著名な曲が彼の作品と聞いて驚く。
Carpenters
で有名な"A Song for You"は、1972年に発売された彼らの4枚目のアルバムのタイトルにもなった。
その他ダニー・ハサウェイ、アレサ・フランクリンのカバーも知られるが、他にも無数のカバーがある名曲中の名曲。

この"A Song for You"をオープニングに据えた『レオン・ラッセル』(Leon Russell)がデビューアルバムとして1970年に発表された。

「Shelter Records」からの第1弾アルバム

LeonDenny Cordell(デニー・コーデル)が共同で設立した「Shelter Records」からの第1弾アルバムに当たる。
BeatlesからGeorge HarrisonRingo Starr、Rolling StonesよりCharlie WattsBill Wyman、それ以外にもEric ClaptonSteve WinwoodDelaney & Bonnie、Joe Cockerなどイギリスのロック界の大物が大挙して参加している。
既に1969年1月のルーフトップを経て、ビートルズ流スワンプを実践していたGeorge HarrisonRingo StarrもすんなりとLeonのスワンプワールドにハマっているから面白い。
クレジットは諸説あるが、GeorgeRingoは 3曲(Dixie Lullaby", Shoot Out on the Plantation" "Hurtsome Body" )に参加。George Harrisonは憶え始めたスライドギターで参加している。この体験はGeorge流スワンプを繰り広げた1970年リリースの「All things must pass」につながる。

Roll Away The StoneにはCharlie WattsBill WymanSteve Winwoodが参加。

ストーンズはその後はLet it bleedLeonを参加させLive With Meでホーンアレンジを依頼するなど、スワンプ路線を突き進む。Winwoodは前回で記載したように、Muscle Shoalsで録音をするなど南部に傾倒していく。

何れにしても、Beatles、Rolling Stones、Cream、Trafficというイギリス界の大物をLeonは使いこなし、言わばブリティッシュ・スワンプを展開する。
Delta、Plantationというアメリカ南部を想起させるワードを織り込みつつ、「スワンプ・ロック」を仕掛ける種蒔きをし、彼の濁声と共にこれぞスワンプという後世に残る名盤を世に出したのである。
Delta Ladyは当時交際していたRita Coolidgeに捧げられた曲で、先がけてJoe Cockerのアルバム『Joe Cocker!』(1969年)に提供された。

A
1.A Song For You 
2 Dixie Lullaby 
3 I Put A Spell On You 
4 Shoot Out On The Plantation 
5 Hummingbird 
B
1 Delta Lady 
2 Prince Of Peace 
3 Old Masters 
4 Give Peace A Chance 
5 Hurtsome Body 
6 Pisces Apple Lady 
7 Roll Away The Stone 

既に大物感が漂う

Delaney & BonnieとSuperstar

Carpnetersといえば"A Song for You"より先に"Superstar"を取り上げ、1971年アメリカでは2位に達するヒットとなる。
リチャード・カーペンターがテレビ番組でこの曲を歌うベット・ミドラーを見て、カレンにぴったりの曲だと思ったことから取り上げられた。
Carpnetersの数あるヒットの中でも五指に入る代表曲である。

"Superstar"はLeonBonnie Bramlettの共作で、Delaney & Bonnieの曲として1969年にリリース。元々は"Groupie"というタイトルでシングル「Comin' Home」のB面曲としてひっそりと発表されている。
Delaney & BonnieはDelaney BramlettBonnie Bramlettの夫婦からなるデュオで、当時実質的にプロデュースしていたのがLeonである。

Delaney BramlettLeonがバンマスを務めていた音楽番組『Shindig』のハウス・バンドのシンドッグズのメンバーに起用され知り合う。他にラッセルが集めたバンドメンバーは、Chuck Blackwell(ドラムズ)、Don Preston(ギター)などのLeonの故郷のオクラホマ人脈。
シンドッグズのメンバーだった若き日のLeon。

1966年には『Shindig』は終わるが、Delaneyとは縁が続き、1969年の「Home」「The Original Delaney & Bonnie & Friends」をLeonが仕切り、1969 年と 1970 年にツアーバンドの一員ともなる。そのツアーを通してジョージとも知己を得る。
この後に巻き起こる「スワンプロック」の起源こそ、このDelaney & Bonnieにあると言われているが、その背後にはLeonがいた。

その後にJoe Cockerが1970年3月から5月にかけて行ったアメリカ・ツアーMad Dogs & Englishmenをコーデルの要請でプロデュース。Delaney & Bonnie人脈のアメリカ人ミュージシャンを引き抜き関係は悪化した。(Rita Coolidge, Carl Radle, Jim Price, Jim Horn, Bobby Keys,Jim Keltner,Jim Gordon)
さらにはDon Preston、Chuck BlackwellらがLeon人脈で参加。
LIVEでは、SuperstarとしてRita Coolidgeによりカバーされた。

このツアーが終わったタイミングでLeonのソロデビュー作がリリースされるという周到さだ。
1970年には「Mad Dogs & Englishmen」、Leonのソロ、さらにDave Masonの「Alone Together」、「all things must pass」、クラプトンのソロデビュー作とスワンプロックの名作が満開となる。
「All things must pass」
以外にLeonが絡んでいて、スワンプシーンの仕掛け人であることは疑いない。

LAで活躍した若き日のLeon

さらにカーペンターズはLeonのThis Masqueradeも取り上げているが、ジョージ・ベンソンのThis Masqueradeが後に大ヒットする。

泥臭い音作りの名手として知られるが、ツボを心得たメロディ作りは数多くの名曲のバッキングをしていた若き頃に吸収したのか。

オクラホマ州出身のLeonは16歳でLAに移住し、The Wrecking Crew(ザ・レッキング・クルー)という当時業界で最も指名率の高かったセッションマン・グループに加入。
Leonのように歌手として成功したGlen Campbellなどのギタリスト、ベーシストのCarol Kaye、ドラマーのHal Blaineや伝説のプロデューサーPhillip Spectorらの凄腕と仕事をする様になる。
その流れでバーズ、フランク・シナトラ、ハーブ・アルパートなど多数のアーティストのアルバムのレコーディングにも参加。あの名曲「Mr. Tambourine Man」のピアノはLeonだったし、ビーチ・ボーイズの「Pet Sounds」にも参加している。

頂点を極めた男の落日

1971年5月にはソロ2作目の「Leon Russell and the Shelter People」を発売。Elton Johnが好んだという"The Ballad of Mad Dogs and Englishmen"は屈指のバラード。

続く1972年の「Carney」はBillboard では自己最高の2位に達し、シングル「タイト・ロープ」はBillboardで11位を記録した。

ここまでが彼の上り坂。

その後に路線変更したカントリー関係の作品はそれほどセールとはならず、1975年の「Will O' the Wisp」が30位、シングルの"Lady Blue"が14位となるのを最後にチャートから遠去かる。
そして残念ながらシェルター・レコードは1976年に倒産し、Leonもシーンからフェイド・アウトしてしまう。

一度 ウィリー・ネルソンとの共作のOne for the Road (1979年) が、カントリーチャートでヒットしたのを最後に自分の脳裏から彼の名前は消え去る。

1991年に来日したLeonを観た時に、今後は健康的に音楽活動は難しいと思われた。
華麗な人脈を誇っていた彼も当時の仲間との交流は見られず、レコードのクレジットも寂しいもので、手を差し伸べる相手もいなさそうだった。

盟友のCarl Radleは1980年に麻薬の影響で死去。Jim Gordonは1983年母親を殺害し刑務所に収監され投獄されたままである。

その後リリースはいくつかあったものの話題にもならず埋もれ、その後はレコード契約もなくなり自己破産した噂も。
2000年以降はさらに健康も優れず脳脊髄液漏のため手術を受けており、心不全の治療も受けていたという。

どん底にいたLeonを救った男

2010年、そんな彼に意外な人物が手をさしのべる。

音楽番組で「世の中で忘れられたシンガーソングライターは?」と問われた
Elton Johnは「Leon Russellだ」と答えた。
ピアニストという共通項はあるが全くスタイルの違う意外な組み合わせだが、Eltonの1970年11月21日フィルモア・イースト公演でゲストとしてLeon Russellが登場。9分に渡る豪快なジャム・セッションを繰り広げたという。
それ以来、EltonはLeonに敬愛の気持ちを持ち続けたようだ。

そしてLeonを探し出し電話する。「最近どうしてる?」約30数年ぶりの会話だった。次にT Bone Burnettに電話しデュオ作のプロデュースを依頼。OKの返事をもらい、それを伝えるとLeonは即答した。

2010年、2人はロサンゼルスのレコーディング・スタジオに入り『The Union』が録音された。当時68歳のLeonは脳の大手術をした直後だった。

オクラホマからの盟友でMad Dogs & Englishmenでも叩いたJim Keltnerが参加。さらにBrian Wilsonもかつてレオンがビーチボーイズの多くの作品に参加した縁でやってきた。旧友たちの来客によって、手術で衰弱していたレオンが突如精気を取り戻した。

The Union』は2010年10月発売。全米3位、全英12位。
これはエルトンにとっても1976年以来最高のチャートとなる。
ローリングストーン誌ではその年のベストアルバムで第3位

寂しい晩年になるはずのLeonに最後に大きなスポットライトが訪れた。
2011年にはEltonのInductで「ロックの殿堂」入り。

そして実質的な最終作『Life Journey』はTommy LiPumaに委ねられた。
Tommy LiPumaは1976年、George Bensonのグラミー賞獲得作の『Breezin』をプロデュース。
その中にはLeonの「This Masquerade」が含まれていた。
This MasqueradeはLeonのものを聴いたときはぴんとこなかったが、デイヴィッド・サンボーンがカヴァーしているヴァージョンを聴いたところぴんときた。歌詞が気になったので『Carney』を買ってきて、歌詞をチェックした。インストゥルメンタルで録音しようかと考えていたが、この歌詞をGeorge Bensonが気に入り、ヴォーカル曲として録音することになった」とTommy LiPumaは語る。
さらにLeonが関わったDave MasonAlone TogetherのプロデュースもTommy LiPumaの仕事で、そこからの長い奇縁である。

Life Journey」は2014年にリリース。

そして2016年11月13日、ナッシュビルの自宅にて死去した。享年74歳。

ある時は縁に見放され、ある時は縁によって助けられたLeonの人生。不遇の時代を経て、晩年は旧友に助けられ大きな花を咲かせてこの世を去る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?