弘田三枝子

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弘田 三枝子
出生名 高木 三枝子
生誕 19472月5日
出身地 日本の旗 日本東京都世田谷区池尻
死没 (2020-07-21) 2020年7月21日(73歳没)
ジャンル ポップスジャズ、歌謡曲、R&B
職業 歌手
活動期間 1961年 - 2020年
レーベル 東芝音楽工業
日本コロムビア
キングレコード
公式サイト 弘田三枝子オフィシャルブログ「ミコブロ」

弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子、19472月5日 - 2020年7月21日[1])は、日本のポップス、歌謡歌手[2]。愛称はMICO(ミコ)[2]、(パンチの)ミコちゃん[3][4]

歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された[5]。後のミュージシャン(都はるみ大瀧詠一山下達郎竹内まりや桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた[6]。ジャズで鍛えたスキャットを得意とし、決まったコードの中で様々な絵が描けるので、あらかじめ決めないでスリルを感じながらその場でスキャットを奏でて楽しんでいたという。

晩年まで、空き時間に最新曲をIPodで聴き漁るなどして、採り入れ、学ぶ姿勢を失わなかったという。自らの歌唱待ちの舞台袖で椅子をすすめられても勉強になるといって立ったまま他の歌手の唄に耳を傾ける姿や、自ら先輩に良くしてもらったことを理由にスタッフをはじめ後輩らにも謙虚な姿勢で接する姿は、多くの同業者・スタッフに好意的に受け止められていた。

経歴[編集]

世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り[7]、幼稚園の頃FENのラジオに魅せられて歌手になることを決意。母の協力のもと、7歳の頃から自らの意思でティーブ・釜萢の「日本ジャズ学校」に週1回バスで通い、英語の発音の基礎からスパルタ教育を受け、8歳から進駐軍のキャンプで歌っていたともいい[4]駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた[7]。曲を提供されて自分の世界にもっていくために、家での練習(本人曰く「小稽古」)の際、歌詞を理解してメロディーを体に入れてから(本人曰く「儀式」)、自ら考案した記号を譜面に記載したうえで、自ら歌唱したテープを確認し歌をものにしたうえで収録に臨んだという。

ダイナマイト娘[編集]

1961年東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー[2][8](草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。翌1962年には各社競作で出された「ヴァケイション」(コニー・フランシスのカバー)[9]が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ伊東ゆかり金井克子らも同曲をカバーした。青山版は3万枚の小ヒットだった。同年NHK紅白歌合戦に初出場。1973年森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていたエラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に「養女にしたい」とまで言われている[10]

1964年10月に日本コロムビアへ移籍[2]。新幹線で移動中、グレンミラー楽団を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。その結果、1965年7月に、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した[2][11]。3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌い、トリを務めた[11]。その足でニューヨークに渡り、譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等のオリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム「ニューヨークのミコ」を制作した。

2か月ほど渡米・渡欧。その成果として1968年5月30日にはリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作し[12][13]、日本におけるリズム・アンド・ブルースの先駆けとなった。

カムバック[編集]

弘田は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年10月20日、「人形の家」でオリコン・チャート首位となり[4]第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した[14]。他方、1966年に雑誌スイングジャーナルの人気投票「女性歌手」部門でトップに立ち、小規模なジャズライブを中心に活動していた弘田が、カムバックという形で再度表立った活動を始めたことに対して、コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという。

ダイエット本出版[編集]

カムバックに際し、弘田はダイエットによる大幅な減量をしていたが[3]、この経験も踏まえ1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版した[15]。この本はベストセラーとなり「芸能人のダイエット本の先駆け」[16]、「タレントダイエット本の元祖」と評され、150万部を超えたともいわれる[17]。同年のベストドレッサー賞を受賞した。この後、イヴ・サン=ローランとタイアップしていき、ファッションリーダーとしても活躍していくこととなった。

後の2019年11月28日にNHKで放送された「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」の「ストレスの原因?単位のお名前」の回において、「カロリー」という言葉を日本に普及させた人物として紹介された[18]

渡米[編集]

その後、渡米し1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』[19]を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した[20][21]

1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する[22][23]

平成以降[編集]

2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売[24]。「Everything」「接吻」「SWEET MEMORIES」「いとしのエリー」 「駅」など、はじめて日本の楽曲をカバーした。ジャマイカでツインズ=スライ&ロビーと初めてのレゲエを吹き込む。

2015年10月21日、レコードデビュー55周年記念として32年ぶりの新曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。ボーナス・トラックに「人形の家」のピアノバージョンを収録した。

2020年7月20日、千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されるも、翌21日午後10時31分、心不全のため73歳で死去。葬儀は親族のみで密葬として行い、6日後の27日に訃報が発表された[1]。同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたという[25]。同年6月15日に公開されたYouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が公の場での最後の肉声となった[26]2019年11月12日夜に開催され、同年12月9日に放送された第46回日本歌手協会歌謡祭第1夜での「レオのうた」が最後のテレビ出演に[27]、同年12月8日名古屋市星神社で催された御本殿竣功奉告祭が最後のライブになった。

評価[編集]

小説家小林信彦は、「戦後の17年は無駄ではなかった」「大天才」と、弘田に賛辞を贈った。

1991年発行の評論本『日本のポピュラー史を語る』(村田久夫・小島智著)によれば、「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出した」と評価されている[28]

ポップスやジャズなどジャンルの垣根を超えた歌声を評価された反面[29]、歌唱スタイルの変化に対して好意的ではない見解を示す向きもあった[30]

1970年代後半以降はヒット曲が出なかったことなどから、活動後期は小規模のライブがメインでメディア露出が減っていた。そのため、訃報時にテレビ局の若手制作者がその存在をよく知らず、話題として取り上げない判断をしたワイドショーもあった[31]。取り上げたスポーツ紙等も、スキャンダルを前面に押し出す内容がほとんどを占めた。追悼メッセージを寄せた人物もほぼ60歳代以上に限られた。

  • 山下達郎「戦後最高の力量をもつシンガーのひとりであった。『悲しきハート』は当時16歳とは思えない歌唱力でオリジナルを凌駕した。追悼するメディアが少ないことは残念」[32]
  • 桑田佳祐「存在自体がポップ。ビート感満載のポップスで笑顔・ダンスをテレビ画面いっぱいに表現していた。チャーミングでみんなの憧れでとにかくナンバーワンだった。(一連のカバー曲は)明るい未来へ向かうアンセムのようだった」[33]
  • 中尾ミエ「同時期にデビューした戦友。すごいパワーで、この人にはかなわないと思った。『人形の家』からはパンチがなくなった」[30]
  • 菊地史彦「もし弘田三枝子がいなければ、戦後ポップスはひどくつまらなかっただろう」[34]

このような弘田に対する訃報時のマスメディアの対応に対し、何のリスペクトもない、と業を煮やした都築響一は、自身の番組「SUPERDOMMUNE 『都築響一のスナック芸術丸』」にて、2020年8月13日に7時間にもわたる追悼特番を組んだ[35]


人気ものまね芸人のミラクルひかるが「ものまね王座決定戦」にて弘田三枝子の「ヴァケーション」を物真似し、その映像が後にYoutubeなどにも広がった為(本人との比較映像なども出現した)、若年層や往時を知らない層にも認知されるきっかけになった。

ディスコグラフィ[編集]

カヴァー曲[編集]

弘田三枝子盤は20万枚を売り上げた。オリジナルは夏休みの歌であるが、日本語版は11月発売であったこともあり、春夏秋冬の休みについて歌っている。漣健児訳詞。

シングル[編集]

発売日 レーベル タイトル 作詞 作曲 編曲 備考
1962年6月 東芝音楽工業 A 寝不足なの 永六輔 中村八大
B ブルージン・ブルース
1963年3月 A 明日をみつめて 青島幸男 桜井千里 森岡賢一郎 映画『河岸の旋風娘』主題歌。作曲の桜井はクレージーキャッツの桜井センリ。
B そっと一人に 小林郁夫
1964年5月1日 A 若い街角 岩谷時子 原六朗
B 気ンなるあいつ 前田武彦 三保敬太郎 ドラマ「気ンなるあいつ」主題歌
1964年8月 A ひとつぶの真珠 安井かずみ 宮川泰
B きっとね 岩谷時子 服部良一
1965年3月 日本コロムビア A はじめての恋人 What Do You Do 訳:漣健児 アイヴァー・レイモンド英語版 大西修 移籍後の初シングル。
B 砂に消えた涙 Un Buco Nella Sabbia ピエロ・ソフィッチイタリア語版 山屋清 B面ながらも、ミュージックライフ誌における売上チャート1位を記録。
1965年4月 A ナポリは恋人 Napoli Fortuna Mia
B レッツ・ゴー・ベイビー Hey Now Baby
1965年6月 A 可愛いマリア Would You Believe It 訳:安井かずみ エンジェリス
B 君に涙とほほえみを Se Piangi, Se Ridi
1965年7月 A 太陽の海 Stessa Spiaggia Stesso Mare 訳:三浦康照 ピエロ・ソフィッチ
B 夕陽のなぎさ Makaha At Midnight
1965年10月 A 夜の太陽
B 恋のシャンソン人形
1965年8月20日 A 恋のクンビア 三浦康照 和田香苗 河村利夫 日本コロムビア創立55周年記念曲。『第16回NHK紅白歌合戦』出場曲。
B 愛の言葉を
1965年12月 A
B ほほえみを忘れないで
1966年1月 A バイバイ・ブロンディ
B 別離(わかれ)
1966年3月 A スーベニールス
B そよ風に乗って
1966年5月 A 愛のゴーゴー 呉正泰 中島安敏
B 砂の上のひめごと
1966年6月 A 瞳の中の私
B 悲しみは空の彼方に
1966年6月20日 A 夜明けの海 滝口暉子 和田香苗
B 夢みる乙女 加藤和枝 原信夫 大西修 作詞の加藤(美空ひばり)の意向によりB面での発売となった。
1966年11月 A 恋はノン・ストップ
B 帰ってね、きっと
1967年3月5日 A 世界の国からこんにちは 島田陽子 中村八大 河村利夫
B 若さが燃えてる
1967年7月10日 A 渚のうわさ The End Of Summer 橋本淳 筒美京平 第18回NHK紅白歌合戦』出場曲。30万枚を記録し筒美の初ヒット作品となった。

コロムビア・レコードの文芸部「Pグループ」邦楽ポピュラーとして初めて発売された作品。(規格番号P‐1)

B 風とオトコのコ Cring Window
1967年11月1日 A 枯葉のうわさ 橋本淳 筒美京平
B 悲しみの足音
1968年3月15日 A 涙のドライヴ 橋本淳 筒美京平
B さざ波のバラード
1968年7月1日 A 渚の天使 橋本淳 筒美京平
B 恋のエンジェル・ベイビー 林春生
1968年9月15日 A 可愛い嘘 橋本淳 筒美京平
B 砂に埋めた手紙 GOOD-BYE SUMMER LOVE 林春生
1969年7月1日 A 人形の家 なかにし礼 川口真 カムバックを果たしたヒット曲。オリコンセールス44.5万枚。

日本レコード大賞歌唱賞受賞。

第20回NHK紅白歌合戦』出場曲。

B あなたがいなくても
1969年12月10日 A 私が死んだら なかにし礼 川口真 初回版ジャケットのみ、上半身を露出したセミヌード写真を使用。
B 鏡の中の天使
1970年4月25日 A 燃える手 なかにし礼 筒美京平
B 鍵を捨てたの
1970年8月25日 A ロダンの肖像 なかにし礼 川口真 第21回NHK紅白歌合戦』出場曲。
B 恋愛専科
1970年12月15日 A できごと 我谷和夫 佐藤健 服部克久 第1回東京国際歌謡音楽祭歌唱賞受賞[36]
B ささやき 片桐和子 和田昭治
1971年3月10日 A バラの革命 島田葉二 いずみたく 渋谷毅 第22回NHK紅白歌合戦』出場曲。
B 失われた月光 岩谷時子
1971年11月10日 A 裏庭の出来事 山上路夫 村井邦彦
B 恋人時代
1971年4月1日 A 美しかった場所
B 恋はフィーリング
1972年9月25日 A 都会の女 橋本淳 三原綱木 高田弘
B 誘惑
1973年4月10日 A 花の咲く朝 千家和也 馬飼野康二
B 危険な関係
1974年4月1日 A 蝶の雨 なかにし礼 馬飼野康二
B ひとりぼっちの海
1975年2月25日 A 女の癖 安井かずみ 川口真
B 別れた人
1975年11月 A 胸さわぎ 千家和也 川口真 高田弘
B あなたの口紅 川口真
1976年5月1日 A 絵空事 藤公之介 川口真 萩田光雄
B 後悔
1977年1月1日 A 川の向こうに 中里綴 川口真 ドラマ『私は忘れたい』主題歌。
B 他人事みたいに
1977年7月1日 A マイ・メモリィ 弘田三枝子 鈴木宏昌 映画『ドーベルマン刑事』挿入歌。劇中、歌手役のジャネット八田が歌う(歌声は弘田のものを使用)。
B 『ドーベルマン刑事』のテーマ 弘田三枝子
1980年9月5日 東芝EMI A ミスターシャドー おかどいくこ 高木エリカ 若草恵 帰国後に東芝EMIから発売されたカムバック盤。高木エリカ名義で、弘田が作曲。
B ボディトーク
1983年3月21日 キングレコード A 愛のNOKORIGA 茅野遊 大野雄二 大野雄二、大谷和夫
B IN THE MOOD
1983年9月21日 A ウイズアウト・ユー ピート・ハムトム・エヴァンズ 三菱自動車 ランサー・フィオーレCMソング
B 愛のブルートレイン(原題:Il Treno Blu) マッシモ・ジュリアーニ英語版
1984年3月 A O-KAY MICO サザンオールスターズ『MICO』のアンサーソング。作詞作曲は弘田。
B も・いちど 中村安佐子 MICO
2006年11月1日 日本コロムビア 1 恋のクンビア21 三浦康照 和田香苗 MICO Loves CUMBIA BROS.名義。DJ GOMIプロデュースによる『恋のクンビア』のセルフカバー。
2 恋のクンビア21 (English ver.)
3 恋のクンビア21 (Gomi’s Lair Club Mix)
4 恋のクンビア21 (Inst.)
2015年10月21日 1 悲しい恋をしてきたの 森雪之丞 合田道人 ラスト・シングル
2 ひうふうみいよう

コラボレーション[編集]

  • ピチカート・ファイヴ
    • 『pizzicato five in the bag』RECORD TWO収録曲『Darlin' Of Discotheque』(2000年1月29日)作詞・作曲:小西康陽。原曲はピチカート・ファイヴが1999年4月21日に発売したマキシシングル『Darlin' of Discothèque英語版』の表題曲。
    • 『REMIXES 2000』収録曲『パーフェクト・ワールド(A night at Organ b. MIX)』(2000年3月18日)作詞・作曲:小西康陽。原曲はピチカート・ファイヴが1999年10月21日に発売したシングル。アップテンポな原曲を須永辰緒がジャズにアレンジ。

オリジナルアルバム[編集]

  • ヒット・キット・パレード(1962年2月/JP0-1150)モノラル
  • ヒット・キット・パレード 第2集(1962年7月/JP0-1197)モノラル
  • スタンダードを唄う(1963年3月/JP0-1288(モノラル)・JSP-3086(ステレオ)):『第15回NHK紅白歌合戦』出演曲「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」含
  • ヒット・キット・パレード 第3集(1963年4月/JP0-1285)モノラル
  • 日本民謡を唄う(1963年11月/TR-5001(モノラル)・TP-5001(ステレオ))
  • ヒット・アルバム(1963年11月/JLP-3005)モノラル
  • ヒット・キット・ミコ 第1集(1965年3月20日/JPS-5029)
  • ヒット・キット・ミコ 第2集(1965年10月20日/JPS-5067)
  • ニューヨークのミコ(1966年1月20日/JPS-5072)
  • ミコ・ミュージカルを唄う(1967年4月5日/JPS-5110)
  • ポップス・デラックス・シリーズ(1968年2月10日/JDX-10)
  • 弘田三枝子70~ポピュラー・ビッグ・ヒッツ(1970年2月10日/JPS-5203)
  • ミコより愛をこめて(1971年7月25日/JDX-52)
  • 弘田三枝子の世界(1972年6月25日/JDX-76)
  • 愛の歌~弘田三枝子オリジナル・アルバム(1972年12月10日/JDX-92)
  • JAZZ TIME~弘田三枝子ベスト・ジャズ・アルバム(1973年7月25日/NCB-7022)
  • The Nearness Of You(1974年6月25日/JDX-7028)
  • Good Old Days Forever(1974年9月25日/JDX-7036)
  • イエスタデイ・ワンス・モア(1974年10月1日/4PX-9010)4chステレオ
  • 愛のめぐり逢い(1975年5月25日/4PX-9024)4chステレオ
  • 私の好きな唄~帰り来ぬ青春(1975年9月25日/JDX-7064)
  • My Funny Valentine(1976年5月10日/SP-7008)
  • IN MY FEELING(1977年3月25日/SP-7009)
  • Step Across(1978年/25AH-555)
  • MIEKO HIROTA 76/45(1980年/DOR-0086)
  • TOUCH OF BREEZE(1983年3月21日/K28A-385(LP)・K35X-4(CD))
  • 華麗度 ~ MICO is Kaleidoscope(1998年6月25日/MSI-10121(CD))
  • 東京27時(1999年5月21日/COCP-50087(CD)・SCL-5019(LP))小西康陽Fantastic Plastic Machineなど参加したミニアルバム。
  • 弘田三枝子・これくしょん マイ・メモリィ~ミコより愛をこめて(2001年8月1日/COCP-31461/6(CD))歌手生活40周年記念企画盤
  • 弘田三枝子 MICO TODAY(2005年10月25日・2013年5月25日廉価版/MSIL-190/1(CD))新録音盤。
  • 弘田三枝子 グレイテスト・ヒッツ Go Go MICO(2015年12月16日/COCP-39369-70(CD))デビュー55周年記念
  • ゴールデン☆ベスト 弘田三枝子(2019年2月20日/COCP-40706(CD))ラスト・アルバムとなった

ライヴアルバム[編集]

  • 弘田三枝子リサイタル(1964年8月/TR-7004)モノラル
  • ミコ・イン・コンサート(1966年9月10日/JPS-5093)
1966年3月17日・都市センターホールにて収録。
  • ミコR&Bを歌う(1968年9月1日/JPS-5155)
1968年5月30日・サンケイホールにて収録。
  • ミコR&Bを歌う 第2集(1969年11月25日/JPS-5192)
1969年7月16日・京都会館第1ホールにて収録。
  • MIKO LIVE(1972年6月10日/QB-9018・復刻版2013年12月18日(タワーレコード限定)/TWCP-68)4chステレオ
1971年12月・クラブ“リヴィエラ"にて収録。
  • MIKO LIVE at RIVERA~ミコ・ライブ'73(1973年4月25日/JDX-99)

  1972年12月22日・クラブ“リヴィエラ"にて収録。

  • Recital At The Festival "The Golden Orpheus '73" (Live From Bulgaria)

  1973年ブルガリア音楽祭にゲスト出演した模様を収録(ブルガリア国内でのみ発売)。

  • MIEKO IN PERSON~弘田三枝子リサイタル(1976年7月25日/PP-7007~8)
1976年5月11日・中野サンプラザにて収録。

サントラ[編集]

テレビ[編集]

  • レオのうた(1965年12月10日、ジャングル大帝
  • アイウエオ マンボ(1966年6月20日、ジャングル大帝)
  • ドロップスの歌(1966年10月20日、みんなのうた

CM[編集]

映画[編集]

  • マイメモリィ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事
  • ドーベルマン刑事のテーマ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事)ソウルミュージックをベースにしつつも、タイトルのイメージを崩さないようにするため、詞をできる限り少なくし、スキャットでまとめたという

ナレーション[編集]

  • X+Y presents Midnight Ebisu [Analog] (2005年11月3日/THLP364)「春風のうわさ」「渚のうわさ」収録。都築響一プロデュースのナレーションレコード。

出演[編集]

テレビ番組[編集]

音楽・バラエティ番組[編集]

テレビドラマ[編集]

みんなのうた[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 紅組司会 確認済みの現存フィルム 備考
1962年(昭和37年)/第13回 ヴァケーション 03/25 飯田久彦 森光子 紅組最年少出場(当時)
1963年(昭和38年)/第14回 悲しきハート 01/25 田辺靖雄 江利チエミ モノクロキネコ
1964年(昭和39年)/第15回 アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド 16/25 植木等 江利チエミ
1965年(昭和40年)/第16回 恋のクンビア 14/25 ジャニーズ 林美智子 カラー、モノクロキネコ
1967年(昭和42年)/第18回 渚のうわさ 17/23 バーブ佐竹 九重佑三子 モノクロ(状態が悪い)
1969年(昭和44年)/第20回 人形の家 13/23 橋幸夫 伊東ゆかり モノクロ 後半トップバッター ※
1970年(昭和45年)/第21回 ロダンの肖像 08/24 美川憲一 美空ひばり カラーキネコ
1971年(昭和46年)/第22回 バラの革命 22/25 布施明 水前寺清子 カラー

                   ※ポピュラーヒットメドレーにて、「ラブ・ミー・トゥナイト」、「西暦2525年」をザ・ピーナッツ、伊東ゆかりらと歌唱

映画[編集]

  • 魚河岸の旋風娘(1963年3月3日)若林三重子役 : 松竹入社第一回作品。主題歌「明日をみつめて」「そっと一人に」と、「おてもやん」「ソーラン節」を歌唱。
  • 独立美人隊(1963年4月28日)西本道子役 : 「ブルージン・ブルース」を歌唱。
  • 女弥次喜多 タッチ旅行(1963年7月13日)堀江和子役 : 「タッチ旅行の歌」「ギャンブル節」を歌唱。この作品を最後に、再び歌手活動へ復帰。
  • 栄光の黒豹(1969年12月17日)歌手役 : 「人形の家」を歌唱。
  • 華やかな女豹(1969年12月31日)森下まゆみ役
  • 開運旅行(1971年3月3日)歌手役 : 「できごと」を歌唱。

著書[編集]

  • ミコのカロリーBook、集団形星、1970年
  • マインド・ビューティ痩身法 : より美しくへの挑戦、講談社、1986年

弘田三枝子を題材とした楽曲[編集]

サザンオールスターズ

演じた人物[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この当時、朝日放送(ABC)とTBSはJNN系ネットワーク局の関係にあった。朝日放送はテレビ朝日(NETテレビ)とネットチェンジを行ったのは1975年4月からである。

出典[編集]

  1. ^ a b “弘田三枝子さんが死去 73歳「ヴァケーション」「夢みるシャンソン人形」など”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2020年7月27日). https://www.daily.co.jp/gossip/2020/07/27/0013547695.shtml 2020年7月27日閲覧。 
  2. ^ a b c d e 湯浅学. “チーム・クンビアって? 弘田三枝子(MICO)”. 日本コロムビア. 2020年2月20日閲覧。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]