堺奉行
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堺奉行(さかいぶぎょう)とは、織豊政権や江戸幕府の役職の1つである。
生涯[編集 | ソースを編集]
- 永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、義昭に願って和泉国堺を自らの直轄地とした。これが織豊政権の堺支配の起源である。信長は家臣の松井友閑を置いて支配した。
- 当時、堺は天下の台所であり、南蛮貿易の中心地であった。そのため、信長からは重要視されていた。
- 信長の死後、天下人となった豊臣秀吉も堺を支配下に置き、そこに後に五奉行となる石田三成らを奉行として置いて支配した。ただし、秀吉が九州を支配下に置くと、秀吉は神谷宗湛ら博多商人を重用するようになった。今井宗久ら信長に重用された堺商人らがこの頃になると高齢化したり死去していったことも、堺の重要性が薄まる原因となった。
- 秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、天下の覇権は徳川家康が掌握。家康は江戸幕府を開き、堺は江戸幕府の幕領(天領)となった。家康は堺に奉行を設置した。これが堺奉行の起源である。なお、この堺奉行は江戸幕府における遠国奉行の1つであった。
- 江戸時代初期の職名は、堺奉行ではなく堺政所(さかいまんどころ)であった。職務は大坂町奉行と協力して和泉国の政務を担当する事、堺に入る船舶や荷物を点検する事であった。定員は1人であった。
- 江戸時代中期の第5代将軍・徳川綱吉の時代である元禄9年(1696年)、一時的に大坂町奉行の兼職とされた。6年後の元禄15年(1702年)、兼職を外れて再設置となる。
- 第8代将軍・徳川吉宗時代の元文3年(1738年)の記録では、奉行の役高は1000石、役料は1500俵、老中支配で江戸城の詰間は芙蓉間席、官位は従五位下で、付属する与力は当初は6騎、後に10騎に変更され、同心の数は最初は40名、後に50名に変更されたという。
- 信長、秀吉、家康の時代は堺は海外貿易の拠点として重要視されたが、江戸時代になるとその窓口が長崎に移ると、堺の重要性は一気に衰退した。大坂の陣では堺は戦乱のために焼かれたりもして、衰退には拍車がかかった。このため、堺奉行も次第に名誉職のような存在となり、重要性も低くなっていった。そして、幕末の慶応の改革で再度、大坂町奉行の兼職とされて消滅した。
就任者[編集 | ソースを編集]
- 松井友閑(1570年)
- 石田三成(1586年)
- 小西寿徳(1586年)
- 成瀬正成(1600年 - 1607年)
- 細井政成(1600年 - 1613年)
- 米津親勝(1600年 - 1613年)
- 朝倉宣正(1613年)
- 芝山正親(1614年)
- 長谷川藤広(1614年 - 1617年)
- 喜多見勝忠(1616年 - 1627年)
- 嶋田直時(1628年 - 1629年)
- 水野守信(1629年 - 1632年)
- 石河勝正(1633年 - 1652年)
- 石河利正(1652年 - 1664年)
- 水野元重(1664年 - 1681年)
- 稲垣重氏(1681年 - 1688年)
- 佐久間信就(1688年 - 1696年)
- 天野重義(1702年 - 1705年)
- 桑山一慶(1706年 - 1711年)
- 浅野長恒(1711年 - 1729年)
- 水谷勝比(1729年 - 1742年)
- 山田利信(1742年 - 1747年)
- 稲生正甫(1747年 - 1756年)
- 池田政倫(1756年 - 1758年)
- 小笠原信用(1758年 - 1760年)
- 坂部明之(1760年 - 1772年)
- 石野範至(1772年 - 1777年)
- 佐野政親(1777年 - 1781年)
- 山崎正祥(1781年 - 1784年)
- 贄正寿(1784年 - 1796年)
- 成瀬正定(1796年 - 1797年)
- 仙石政寅(1797年 - 1800年)
- 矢部定令(1800年 - 1807年)
- 土屋廉直(1807年 - 1809年)
- 黒川盛匡(1809年 - 1811年)
- 依田政明(1811年 - 1813年)
- 松浦忠(1813年 - 1815年)
- 小菅正容(1815年 - 1816年)
- 三宅康哉(1817年 - 1819年)
- 松平正卜(1820年 - 1823年)
- 水野信之(1823年 - 1829年)
- 久世広正(1829年 - 1831年)
- 矢部定謙(1831年 - 1833年)
- 跡部良弼(1833年 - 1836年)
- 曲淵景山(1836年 - 1841年)
- 水野忠一(1841年 - 1842年)
- 伊奈斯綏(1842年 - 1843年)
- 永井尚徳(1843年 - 1844年)
- 牧野成綱(1845年)
- 柴田康直(1845年 - 1847年)
- 中野長風(1847年 - 1849年)
- 石谷穆清(1849年 - 1852年)
- 川村修就(1852年 - 1854年)
- 関行篤(1854年 - 1858年)
- 一色直温(1858年)
- 駒井信義(1858年 - 1863年)
- 鳥居忠善(1863年 - 1864年)
- 滝川元以(1864年)
- 長井昌言(1864年 - 1865年)
- 池野好謙(1865年 - 1867年)