張柔

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張柔(ちょう じゅう、1190年 - 1268年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の1人。字は世輝。保定を中心とする大軍閥を築き、真定史天沢済南張栄東平厳実とともに漢人世侯の四大軍閥の一人に数えられる[1]

概要[編集]

張柔の祖父は張湊、父は張辛という名前で、張柔は1190年に生まれた[2]。張柔の父祖については事績が全く伝わっておらず、張柔の母に至っては姓名も記録されていないことから、同じ漢人世侯の史氏一族とは異なりありふれた漢人の家系であったとみられている[3]

1213年よりチンギス・カン金朝侵攻が始まると、事実上金朝から見放された華北は荒廃し、各地で人望ある指導者を戴いた自衛団(郷兵)が組織されるようになった。張柔もまたその一人であり、張柔率いる一団は西山(太行山脈)の東流に身を寄せ、自営団を組織し、徐々に勢力を拡大していった[4]。一方、金朝の側ではこのような郷兵を対モンゴル戦争に利用すべく、義軍という名目で官職を与えた。その一環で張柔も清州防禦使という地位を与えられ、金の将軍苗道潤の指揮下に入った。ところが対モンゴル戦争に起用された金の将軍たちは内部対立で足を引っ張りあい、1218年(戊寅)に苗道潤は同じ金の将軍の賈瑀に暗殺されてしまった[5]

苗道潤の死によってその軍団は張柔と靖安民によって二分されたが、金朝の側ではモンゴルとの戦いを最優先として賈瑀の暴挙を咎めようとせず、賈瑀は使者を張柔らに派遣して自軍に参加するよう呼びかけた。しかし張柔はこのような賈瑀の態度に激怒し、張柔は賈瑀への報復を宣言して兵を集めた[6]。張柔が賈瑀への報復に拘ったのは、賈瑀への報復という大義名分を掲げることにより広く支持を集めるという意図があったと考えられ、実際に何伯祥のように一度は靖安民の下につきながら、張柔の考えに共鳴して馳せ参じる者も現れた[7]1219年(戊寅)、こうして軍勢を集めた張柔は遂に賈瑀討伐のため出発したが、ちょうど同時期にモンゴル軍もまた南下しており、両軍は狼牙嶺にて遭遇した。この戦いで張柔軍は敗れ、張柔も捕らえられたが、ここで張柔はモンゴル軍に降ることを決意し、助命されただけでなく従来の地位をも保証された。

モンゴルへの投降後も賈瑀討伐を第一目標に掲げる張柔の立場は変わらず、雄州・易州・安州・保州といった賈瑀の勢力圏を平定し遂に孔山で賈瑀を打ち取り、その心臓を取り出して苗道潤に捧げた。賈瑀の勢力をも吸収した張柔軍は更に拡大し、同年末に本拠を満城に移した。その後、張柔は西方の真定を拠点とする武仙と激しく争奪を繰り広げるようになり、1220年(己卯)には中山県などで武仙と激突しこれを破った。武仙から多くの領土を奪ったことで張柔の勢力圏は更に広がり、真定より東の30城余りが張柔の支配下に入った[8]1225年(乙酉)に真定の武仙史天倪を殺しモンゴルに反旗を翻すという事件が起こると、史天倪の弟史天沢は張柔に武仙討伐の協力を依頼し、張柔はこれに応えて喬惟忠らを派遣し武仙討伐に協力した。1226年(丙戌)には国王ボオルとともに山東の李全を投降させ、翌1227年(丁亥)には本拠地を保州に移した[9]

オゴデイの治世[編集]

1232年(壬辰)、新帝オゴデイを総司令とする金朝侵攻が始まると、張柔はトゥルイの指揮する右翼軍に加わった。金朝の首都汴京包囲戦では城の西北に陣を構え、金軍の反撃をことごとく撃退したという。金の皇帝完顔寧甲速が逃れ汴京が陥落すると張柔は真っ先に金朝の史書・図書を保護し北方に護送させた。その後、寧甲速が逃げ込んだ睢陽を包囲し、さらに金朝を挟撃するため同盟を結んでいた南宋の将軍孟珙とも合流した。追い詰められた金軍は南門を開いて決死の突撃を行ったが、張柔によって撃退され、遂に寧甲速は自殺し金朝は滅亡した。また、この時状元であった王鶚を助命している。金朝滅亡への多大な功績により、張柔はオゴデイより軍民万戸に任じられた[10]

1235年(乙未)、オゴデイの第3子クチュを総司令とする南宋侵攻が始まると、先の金朝侵攻で卓越した功績を残した張柔がその補佐を命じられ、漢人部隊の総括としての地位を与えられた[11]。南宋に出兵した張柔軍はまず棗陽を攻略し、次いで徐州邳州を攻撃した。1237年(丁酉)、曹武に進出した張柔軍は激戦の末南宋軍を打ち破り、光州・黄州を占領した[12]1240年(庚子)、張柔は改めて南宋の討伐を命じられた。翌1241年(辛丑)には本拠地の保州が順天府に昇格となり、以後張柔の軍閥は順天張氏の名で知られるようになる[13]

モンケの治世[編集]

1251年(辛亥)、新たにモンケが即位すると、改めて軍民万戸に任じられた。1254年(甲寅)には亳州に移り、また孔子廟の建設を支援した。1259年(己未)よりモンケの南宋親征が始まると張柔はクビライの指揮する軍団に従車して功績を挙げた[14]

1260年(中統元年)、モンケが急死すると弟のクビライアリク・ブケとの間で帝位を巡って内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)が勃発したが、張柔はクビライに味方し勝利に大きく貢献した。1266年(至元3年)には大都の造営に携わったが、1268年(至元5年)6月に79歳で亡くなった。息子には張弘略・張弘範らがおり、張弘略が跡を継いだ[15]。張柔が築いた「保定張氏」軍閥は漢人世侯の中でも特に有力視されており、南宋からモンゴルに派遣された使者が記した『黒韃事略』では東平の厳実・真定の史天沢・保定の張柔・西京劉黒馬を並び称して「多くの漢人軍閥があるがこの4名の兵数の多さと強大さに及ぶ者はいない」と評されている[16][17]

参考文献[編集]

  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉 軍事拡大の時代』講談社現代新書、1996年5月(杉山1996A)
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉 世界経営の時代』講談社現代新書、1996年6月(杉山1996B)
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 野沢佳美「張柔軍団の成立過程とその構成」『立正大学大学院年報』第3号、1986年

脚注[編集]

  1. ^ 愛宕1988,192頁
  2. ^ 没年からの逆算(野沢1986,2頁)
  3. ^ 野沢1986,2頁
  4. ^ 野沢1986,3頁
  5. ^ 野沢1986,4頁
  6. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「張柔字徳剛、易州定興人、世力農。柔少慷慨、尚気節、善騎射、以豪侠称。金貞祐間、河北盗起、柔聚族党保西山東流寨、選壮士、結隊伍以自衛、盗不敢犯。郡人張信、假柔声勢、納流人女為妻、柔鞭信百、而還其女。信憾之、謀結党害柔。未幾、信有罪当誅、柔救之得免、於是驍勇之士、多慕義従之。中都経略使苗道潤承制授柔定興令、累遷清州防禦使。道潤表其才、加昭毅大将軍、遙領永定軍節度使、兼雄州管内観察使、権元帥左都監、行元帥府事。継而道潤為其副賈瑀所殺、瑀遣使以好辞来告曰『吾得除道潤者、以君不助兵故也』。柔怒叱使者曰『瑀殺吾所事、吾食瑀肉且未足快意、反以此言相戯耶』。遂移檄道潤部曲、会易州軍市川、誓衆為之復讐、衆皆感泣。適道潤麾下何伯祥、得道潤所佩金虎符以献、因推柔行経略使事。事聞、加驃騎将軍・中都留守、兼大興府尹・本路経略使、行元帥事」
  7. ^ 野沢1986,5-6頁
  8. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「戊寅、国兵出紫荊口、柔率所部逆戦於狼牙嶺、馬蹶被執、遂以衆降、太祖還其旧職、得以便宜行事。柔招集部曲、下雄・易・安・保諸州、攻破賈瑀於孔山、誅瑀、剖其心祭道潤。瑀党郭収亦降、尽有其衆、徙治満城。金真定帥武仙、会兵数万来攻、柔以兵数百、出奇迎戦、大破之。乗勝攻完州、下之、獲州佐甄全。全慷慨就戮、柔義而釈之、且陞為守、使将部曲以従。己卯、仙復来攻、敗走之、進抜郎山・祁陽・曲陽、諸城寨聞之、皆降。既而中山叛、柔引兵囲之、与仙将葛鉄鎗戦于新楽、流矢中柔頷、折其二歯、抜矢以戦、斬首数千級、擒藁城令劉成、遂抜中山。仙復会兵攻満城、柔登城拒戦、復為流矢所中、仙兵大呼曰『中張柔矣』。柔不為動、開門突戦、皆敗走。略地至鼓城、単騎入城、喩以禍福、城遂降。又敗仙於祁陽、進攻深・沢・寧・晋・安・平、克之。分遣別将攻下平棘・藁城・無極・欒城諸県、闢地千餘里。由是深・冀以北、真定以東三十餘城、縁山反側鹿児・野貍等寨、相継降附。一月之間、与仙遇者凡十有七、毎戦輒勝。方献捷于行在所、行次宣徳、而易州軍叛、逐其守盧応妻子、拠西山馬頭寨。柔聞之、即棄輜重還、出奇計破其寨、而誅叛者、帰其妻子。加栄禄大夫・河北東西等路都元帥、号抜都魯、置官属、将士遷授有差。燕帥孱赤台数凌柔、柔不為下、乃譖柔於中都行台曰『張柔驍勇無敵、向被執而降、今委以兵柄、戦勝攻取、威震河朔、失今不図、後必難制。常欲殺我、我不敢南也』。行台召柔、幽之土室、孱赤台施帳寝其上、環以甲騎、明日将殺之、孱赤台一夕暴死、柔乃得免。金経略使固安王子昌、善戦知名、與信安張進連兵、阻水為固、遠近憚之。柔出其不意、率兵逕渡、生擒以還」
  9. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「乙酉、真定武仙殺其帥史天倪、其弟天澤使来求援。柔遣驍将喬惟忠等率千餘騎赴之、与仙戦、敗之。遂分遣惟忠・宋演略彰徳、徇斉魯;聶福堅略青・魏・山東。璽書授柔行軍千戸・保州等処都元帥。丙戌、遣将以兵従国王孛魯、攻李全于益都、降之。丁亥、移鎮保州。保自兵火之餘、荒廃者十五年、盗出沒其間。柔為之画市井、定民居、置官廨、引泉入城、疏溝渠以瀉卑湿、通商恵工、遂致殷富;遷廟学于城東南、増其旧制」
  10. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「壬辰、従睿宗伐金、語其衆曰『吾用兵、殺人多矣、寧無冤者。自今以往、非与敵戦、誓不殺也』。囲汴京、柔軍於城西北、金兵屡出拒戦、柔単騎陥陣、出入数四、金人莫能支。金主自黄陵岡渡河、次漚麻岡、欲取衛州、柔以兵合撃、金主敗走睢陽。其臣崔立以汴京降、柔於金帛一無所取、独入史舘、取金実録並祕府図書;訪求耆徳及燕趙故族十餘家、衛送北帰。遂囲睢陽、金主走汝南。汝南恃柴潭為阻、会宋孟珙以兵糧来会、珙決其南、潭水涸。金人懼、啓南門求死戦、柔以歩卒二十餘突其陣、促聶福堅先登、擒二校以帰。又遣張信拠其内隍、諸軍斉進、金主自殺。汝南既破、下令屠城、一小校縛十人以待、一人貌独異、柔問之、状元王鶚也、解其縛、賓礼之。入朝、太宗歴数其戦功、班諸帥上、賜金虎符、陞軍民万戸」
  11. ^ なお、オゴデイ時代にはもう一人の漢人有力者史天沢の動向がほとんど記録に残っておらず、なんらかの政治的地位の変動があったものと見られている(野沢1986,16頁)
  12. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「乙未、従皇子闊出抜棗陽、継従大帥太赤攻徐・邳。丁酉、詔屯兵曹武以逼宋。道出九里関、柔欲率所部逕往、或言関甚険、宋必設伏、不若与大軍倶進。不聴、与二十騎直前拠関、方解甲而食、宋兵出両山間、囲数重、騎皆失色、柔単騎馳突潰囲。大軍継至、遂達曹武、悉下縁山諸堡、攻洪山寨、破之、遂営山下。柔率衆出略地他処、宋兵乗虚来襲、柔還、与之遇、自旦至暮、凡十餘戦、大敗宋師、斬其将校十有三人。遂会諸軍取光州、又進趣黄州、破三山寨、至大湖中、得戦艦、沿江接戦、壁於黄州西北隅。有乗舟出者、柔曰『此偵伺我隙者也、夜必襲吾不備』。乃分軍為三以待之。二鼓時、宋師果至、柔遮撃之、俘数百人、溺死者不可計。攻其東門、矢石雨注、軍少却、柔率死士十餘、奮戈大呼、所向仆踣、執俘而還。宋師懼、請和、乃還軍。大帥察罕攻滁州、柔以二百騎往。時廬・泗・盱眙・安豊間、宋屯戍相望、斥候甚厳、或勧柔勿行、不聴、且戦且前、凡二十餘戦。比至滁、察罕以滁久不抜、欲解去、柔請決戦、従之。既陣、宋驍将出挑戦、柔佯却、宋将驕、柔馳及之、檛撃墜地、宋将執柔轡曳入其陣、飛石中柔鼻、両軍鬨、柔得還、裹瘡復戦。夜遣鞏彦暉劫其営、焚城東南隅、柔率鋭卒五十七人先登、抜之。己亥、以本官節制河南諸翼兵馬征行事、河南三十餘城皆属焉」
  13. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「庚子、詔柔等八万戸伐宋。辛丑、升保州為順天府、賜御衣数襲・名馬二・尚厩馬百。柔率師自五河口済淮、略和州諸城、師還、分遣部下将千人屯田于襄城。察罕奏柔総諸軍鎮杞。初、河決於汴、西南入陳留、分而為三、杞居其中潬。宋兵恃舟楫之利、駐亳・泗、犯汴・洛、以擾河南。柔乃即故杞之東西中三山夾河、順殺水勢、築連城、結浮梁、為進戦退耕之計、敵不敢至。会諸軍攻破寿州、柔欲留兵守之、察罕不従。又敗宋師于泗州、還杞上。帳下吏夾谷顕祖得罪亡走、上変誣柔、執柔以北。大臣多以闔門保柔者、卒辨其誣、顕祖伏誅」
  14. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「辛亥、憲宗即位、換授金虎符、仍軍民万戸。甲寅、移鎮亳州。環亳皆水、非舟楫不達、柔甃城壁為橋梁属汴堤、以通商賈之利;復建孔子廟、設校官弟子員。入奏、帝悦、賜衣一襲・翎根甲一・金符九・銀符十九、頒将校之有功者。己未、分裨将張果・王仲仁、従憲宗征蜀;王安国・胡進・田伯栄・宋演、従宗王塔察児攻荊山;柔従世祖攻鄂。世祖由大勝関、柔由虎頭関、与宋兵遇於沙窩、柔子弘彦撃破之、進与守関兵戦、敗之。世祖自陽羅渡江、促柔会兵攻鄂、百餘日不能下。世祖諭之曰『吾猶猟者、不能擒圏中豕、野猟以供汝食、汝可破圏而取之』。柔乃令何伯祥作鵝車、洞掘其城、別遣勇士先登、攻其西南陬、屡破之。会憲宗凶問至、宋亦行成、世祖北還、命柔統領蒙古・漢軍、以俟後命、城白鹿磯、為久駐計」
  15. ^ 『元史』巻147列伝34張栄伝,「中統元年、世祖即位、詔班師。阿里不哥反、世祖北征、詔柔入衛、至臚朐河、有詔止之。分其兵三千五百衛京師、以子弘慶為質。二年、以金実録献諸朝、且請致仕、封安粛公、命第八子弘略襲職。至元三年、加栄禄大夫、判行工部事、城大都。四年、進封蔡国公。五年六月卒、年七十九。贈推忠宣力翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国、諡武康。延祐五年、加封汝南王、諡忠武。子十有一人、弘略・弘範最顕、弘範自有伝」
  16. ^ 『黒韃事略』頭項分戍,「万戸四人、如厳実之在鄆州、則有山東之兵。史天沢之在真定、則有河東・河北之兵。張柔之在満城、則有燕南之兵。劉黒馬之在天城、則有燕薊山後之兵。他雖有領衆者、倶不若此四人兵数之多、事力之強也」
  17. ^ 井ノ崎1954,27-28頁