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解放感にあふれた生活
仁子にとって、泉大津の生活は忙しいけれど、解放感にあふれていました。
百福の仕事の付き合いも広がったため泊まり客も多く、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の軍人家族らがパーティーをするために訪ねてくることもありました。仁子と二人でダンスを習い始めたのもこの頃です。百福の方が一生懸命で、いつも汗びっしょりになるほど真剣に練習しました。
パーティーの日には朝から揚げ物です。仁子は前夜遅くまでかけて下ごしらえをし、朝は五時には起きて準備をしました。宏基(長男)の一歳の誕生日はまことに盛大で、たくさんの祝い客にごちそうがふるまわれたそうです。
給付生は最初の二十人が五十人になり、とうとう百人を超えました。須磨(仁子の母)と仁子が食事の面倒を見ていましたが、もう手に負えません。ご近所から何人もお手伝いさんに来てもらうようになりました。
塩作りに集まった若者には、いろんな人がいました。料理の得意な人、床屋さん、洋服の仕立屋さんもいました。いつのまにか、楽器を演奏する人が集まって吹奏楽団が作られました。百福が外出先から泉大津の自宅に戻ってくると、整列してにぎやかな楽隊付きで出迎えるようになりました。さすがにこれは「ご近所に迷惑がかかるだろうし、私も恥ずかしい」と百福が言うので取りやめになりました。
仁子は家事に追われて忙しかったので、家計は須磨が握っていました。いつも和紙をとじ込んだ大黒帳(家計簿=正式には大福帳)を作って、お金を管理していました。百福から預かった大事なお金です。お手伝いさんの買い物のおつりが一円、一銭でも合わないと、前に座らせたままパチパチとそろばんをはじいて計算し、勘定が合うまで動きませんでした。
須磨と仁子は若者たちの母親代わりになって、食事だけでなくいろいろな生活の面倒を見ました。しょっちゅう小遣いをせびられ、恋愛相談まで持ち込まれます。毎月一回、誕生会も開きました。仁子はどこで覚えたのか、アルコールにカラメルを入れ、ウイスキーまがいのものを作るのが上手でした。
料理には沖合でとれたカレイやチヌをさばきました。それらを並べるテーブルも、大工仕事の得意な若者が浜に打ち上げられた流木で作り上げたものでした。自給自足の生活です。楽しく酔い、若者たちは大声をあげて、夜の更けるまで語り合いました。
小学生だった冨巨代(仁子の姪)は休みになると、泊りがけで泉大津に遊びに行きました。浜辺はほとんどプライベート・ビーチです。夜になると、仁子に連れられてこっそりと浜に出て、二人とも裸で泳ぎました。仁子はどんどん沖へ出ていきますが、冨巨代は怖くて波打ち際で脚をバタバタしながら、仁子が戻ってくるのを待っていました。夏休みが終わって帰る時には、誰が作ってくれたのか、きれいな洋服が一着、できあがっているのでした。
脱税容疑
ある時、冨巨代が遊んでいると、一人の男が松の木に上って製塩所の中を覗き込んでいました。「おっちゃん、なにしてるん」と聞くと、「シー!」と言われました。
どうやら、警察か税務署の役人が、浜で若い連中が何をやっているのか調べていたらしいのです。
「若いもんがいっぱい集まって騒いでいる。どうもうさんくさい」
警察が周辺の聞き込み捜査を始めました。百福は憤慨しました。
「私利私欲のためにやっているわけじゃない。捜査をやめさせてくれませんか」
内務省の高官に頼んでみました。それが警察の耳に入り、かえって心証を悪くしたのです。
1948(昭和23)年のクリスマスの夜。
GHQの大阪軍政部長が転勤するというので、百福の経営する貿易会館で送別会が開かれました。赤間文三(当時の大阪府知事)、杉道助(当時の大阪商工会議所会頭)などが招かれて、盛大なパーティーでした。会が終わり、正面玄関から客を送り出したあと、会館の裏手に停めてあった車に乗ろうとすると、二人のMP(アメリカ陸軍の憲兵)が百福の身体を両側から抱え込んで、有無を言わさずジープに押し込んだのです。
容疑は脱税でした。
若者たちに奨学金として渡していたお金が給与とみなされ、源泉徴収して納めるべき所得税を納付していないというのです。寝耳に水です。戦後の復興のためにと思って始めた事業で、経営的には一文の得にもならない社会奉仕でした。善意が踏みにじられたという思いでいっぱいでした。
あっという間に崩れた幸せな生活
大阪のGHQ軍政部で裁判が開かれ、たった一週間で四年間の重労働という判決が出ました。百福の言い分は一切聞いてもらえず、財産が差し押さえられました。泉大津の工場、炭焼きをした上郡の山林、大阪市内の不動産もことごとく没収され、百福の身柄は巣鴨プリズン(旧東京拘置所。戦後GHQが接収)に移されたのです。
仁子にとって、ようやく手に入れた楽しく幸せな生活が、あっという間に崩れてしまいました。生まれてすぐに亡くなった娘にどこか面差しが似ていると、大切にしていた人形までが競売のために持ち去られてしまいました。悪い夢を見ているようでした。子どもの頃何度も、逃げるようにして家を追われた悲しい光景が脳裏によみがえってきます。
そんな仁子を支えたのは須磨でした。「私は武士の娘」といつも気丈だった須磨は、この時も落ち着いて、「起こったことは仕方がない。クジラのようにすべてを呑み込みなさい」といつもの言葉で仁子を勇気づけたのです。それだけではありません。財産が差し押さえられ、競売にかけられていく中で、しっかり自分のへそくりを守り通しました。百福が巣鴨にいた間の生活費はそれでまかなわれたのです。
仁子ら家族は泉大津の家を立ち退き、知り合いを頼って大阪府池田市呉服(くれは)町の借家に移り住むことになりました。その時、仁子のおなかには新しい命が宿っていました。ほとんど臨月で、仁子は大きなおなかを抱えて、差し入れを持って巣鴨まで面会に出かけるのでした。
百福は会うなり、自分の不在中にやっておくべきことをあれこれと指示します。仁子はそれをメモするだけで精いっぱいで、ほとんど何もしゃべれません。あっという間に時間がたって、百福は、「おう!」と手を上げて廊下の向こうに行ってしまうのです。仁子は自分の気持ちを少しも聞いてもらえず、いつも唖然と見送るだけでした。
娘の誕生
年が明けた1949(昭和24)年1月26日、長女明美が生まれました。
百福は巣鴨の獄舎で、娘の誕生を知らされました。
戦後の日本は、深刻な歳入不足に陥っていました。GHQが厳しい徴税策を迫ったため、国民の間では反税運動が起きました。新しく着任したGHQの大阪軍政部長が新聞談話を発表しました。
「アメリカでは税金を納めることは国民の義務である。日本人も納税義務を果たして国家に貢献しなければならぬ。違反者は厳罰に処す」という強い方針を打ち出したのです。記事の中で、百福の事件が名指しで紹介されていました。どうやら、見せしめに使われたようでした。
納得がいきません。親しかった政治家も同情はしてくれましたが、GHQの前では動きが取れず、助けにはなりません。とうとう百福は税務当局を相手に処分取り消しの訴訟を起こしました。京都大学法学部の黒田覺教授にお願いして六人の弁護団を組織してもらい、徹底的に戦うことを決意したのです。
巣鴨には、戦争犯罪の容疑やパージ(公職追放)で逮捕された軍人、政治家、評論家、実業家などが収容されていました。元将校でも、貴族院の議員でも、学者でも、商売人でも食事は平等でした。百福は「米兵と同じ食事だったので、食糧難の一般国民よりよほど恵まれていた。さすがアメリカは自由の国だ」と感心したのです。
裁判が進むうちに、税務当局から「訴えを取り下げてくれないか」と言ってきました。「取り下げるなら、即刻、自由の身にしてもよろしい」。
もし裁判で負けると、世の中の反税運動を勢いづかせることにもなりかねません。旗色が悪くなってきたので、妥協を迫ってきたのです。
「正義を貫きたい。ここで折れるわけにはいかない」
百福は訴訟を継続しました。
無罪放免
明美がまだ小さくて動かせない時は、仁子は一人で面会に出かけました。夜行列車で日帰りです。母乳がよく出るようにと、須磨が餅を焼いて持たせましたが、おっぱいが張って困り、帰るなりすぐに明美に飲ませました。離乳食がなかったので明美は栄養失調気味で、一歳になっても歯が生えてきません。須磨が心配して、米を粉にして、トロトロに炊いてくれたお粥で生きのびました。仁子は、面会に行っては「もう訴えを取り下げてください」と涙ながらに頼みました。
百福は「あとしばらく辛抱してくれ」と突っぱねます。
百福が折れたのは、仁子が宏基の手を引き、一歳を過ぎた明美を抱いて面会に来た日でした。前日、大阪発午後十一時の夜行列車に乗り、翌朝東京駅に着きます。午前中に事務手続きを終え、午後一時からようやく面会が始まります。時間はたった四十五分しかありません。金網をはさんでお互いの顔を見つめ合います。
さすがの百福も、二年の収監で疲労の色が隠せません。仁子は離れ離れになった寂しさと生活苦を訴えます。いつものように、あっという間に時間が来て、百福と家族は引き裂かれました。幼い子どもたちが小さな手を振って帰っていく、その後ろ姿を見て、さすがの百福も「もうこの辺が潮時かもしれないな」と感じたのです。自分一人の正義を押し通すのも限界に来ていました。
逆に弁護団からは「最後まで闘えば、必ず勝てます」と励まされましたが、訴えを取り下げました。取り下げると同時に、即刻、無罪放免となりました。
釈放された日は、神田の若喜旅館に泊まりました。二年ぶりの一家団欒です。百福の頭の毛は半分白くなっていました。明美は長期不在の父親になかなかなじめず、のちに仁子から「あなたはお父さんのこの大きなおなかから生まれてきたのよ」と言われて、ようやくなつくことができました。
本稿は、『チキンラーメンの女房 実録安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。