Sincere No.11 2019.1 page 2/24 | ActiBook

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概要

Sincere No.11 2019.1

02 Sincere|No.11-2019日本国内で最初に医学博士の学位を取得した女性は、吉岡彌生が創立した東京女医学校の卒業生・宮川庚子である。1930(昭和5)年のことだった。それより四半世紀も前の1905(明治38)年、ドイツの大学から医学博士の学位を授与された日本人女性がいた。それが宇良田唯である。唯は1873(明治6)年5月、現在の熊本県天草市牛深町で生まれた。宇良田家は「萬屋」の屋号を持つ大店で、のちに唯がドイツへ留学できたのもその財力のおかげだった。結婚適齢期を迎えた唯は、地元の豪商「塩屋」の若旦那と祝言を挙げた。だが、向学心が旺盛だった唯は、「もっと勉強がしたい」という手紙を残して婚家を出奔してしまう。それは盛大な宴が催された婚礼当日のことだったともいわれている。遠縁の薬種商「吉田松花堂・諸毒消丸本舗」に身を寄せた唯は、1890(明治23)年11月に私立熊本薬学校(熊本大学薬学部の前身)へ入学。2年後に卒業して薬剤師試験に合格し、1894(明治27)年8月に国の薬剤師名簿に正式登録された。現在の熊本市中央区新町で漢方薬局を開業した唯だが、眼科医になりたいという夢を強く抱くようになった。当時、生まれ故郷の牛深には眼病を患う人が多かったからだ。意を決して薬局をたたみ、1895(明治28)年に上京して済生学舎に入学。通常は3年間の修学を要するが、薬学を修めていた唯は1年半で修了。医術開業試験もスムーズに突破し、1899(明治32)年6月に医籍登録された。医師免許を取得した唯は、北里柴三郎が率いる国立伝染病研究所に入所し、引き続き医学修業に打ち込んだ。2年後に母から懇願されて故郷へ戻り医院を開業したものの、ドイツ留学を見据えていた唯はわずか1年半後に再び上京してドイツ語と英語を猛勉強。そして1903(明治36)年1月、唯は北里柴三郎の紹介状を携えてドイツのマールブルク大学へと旅立った。出発前、日本女医会の新年会を兼ねた送別会が行われたが、その幹事を務めたのが吉岡彌生だった。マールブルク大学に留学した唯は、附属眼科クリニックのルートヴィヒ・バッハ教授の指導を受けることとなった。眼科の研究だけに没頭したかった唯だが、バッハ教授は病理学や生理学、産婦人科学、内科学、外科学などあらゆる授業を受けるよう命じた。学位取得の際の口頭試問に備えるためだったが、これがのちに中国・天津での医療活動に大きく役立つこととなった。毎日下宿と大学を往復しながら勉学に励んだ唯は、1905(明治38)年2月、晴れて医学博士の学位を取得した。これは、マールブルク大学初の女性医学博士誕生という快挙でもあった。帰国した唯が念願の眼科医院を牛深に開業したのも束の間、学習院女子部から教員として招聘され上京することとなった。だが、「自分の天職は教育者ではなく医師」だと再認識した唯は、教員を辞して神田に宇良田眼科医院を開業した。1907(明治40)年、唯は北里柴三郎のすすめによって中国・天津で仕事をしていた薬剤師の中村常三郎に嫁いだ。天津に渡った唯は、眼科のほか産婦人科、内科、小児科を備えた3階建ての同仁病院を開設し、院長に就任。夫・常三郎はその1階で薬局と印刷所を経営した。同仁病院には日本人のほか、ヨーロッパ人や中国人の患者も訪れたが、唯は中国人を差別することなく診療。そのうえ貧しい人からは治療費を取らず、ときには往診に行ってそっとお金を置いてくることもあったとか。こうした唯を現地の人たちは“女神さま”と呼び、深く敬慕したという。同仁病院での唯の診療活動は20年以上におよんだが、1931(昭和6)年に夫が急逝し、戦局も激化してきたことから、翌年に帰国。その4年後の6月、肝臓がんのため波瀾万丈の生涯を閉じた。◆婚家を出奔して学問への道を歩む◆中国・天津で現地の人たちに慕われる参考文献/『ドクトルたちの奮闘記??ゲーテが導く日独医学交流』(著者:石原あえか、発行:慶應義塾大学出版会)、『道徳教育用郷土資料「熊本の心」中学校』(発行:熊本県教育委員会)◆医師になる夢を追ってドイツに留学医療の歴史を彩った女性 第11回医学博士の学位を授与された宇良田 唯初の日本人女性(うらた ただ 1873~1936年)