韓国起源説の一覧

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韓国起源説の一覧(かんこくきげんせつのいちらん)では、韓国起源説の主張事例を一覧として掲載する。ただし、必ずしも韓国国内で信じられている訳ではないことに注意を要する。

本項で取り上げる事例は、次の基準による。

  • 「著名人が主張した説」または「メディアが報道した説」以上を対象とする。
  • 韓国国内外における、説の認知度・浸透度は問題としない。

日本の事物[編集]

武芸・武術[編集]

剣道、剣術、侍、武士道[編集]

韓国の主張

日本のインターネットで韓国起源説が注目を集めるきっかけとなったのが、剣道、剣術、侍、武士道の韓国起源説であり、特に剣道韓国起源説が注目を集めるきっかけとなった[1]。剣道韓国起源説がネットを介して流布されたことにより、全日本剣道連盟に対応を求める電子メールが殺到し、全日本剣道連盟は公式ウェブサイトで、韓国起源説を否定する事態になっている[2]。韓国最大の剣道団体である『大韓剣道會 (Korean Kumdo Association)』や『世界剣道協会 (World Kumdo Association)』が公式ウェブサイト等で、剣道の起源が韓国にあると主張しており[3]、『国際剣道連盟 (International Kendo Federation)』に参加していながらも、その正式名称は『剣道』ではなく剣道の朝鮮語音の『コムド (kumdo)』であると主張し、剣道の真の宗主国として当然であると主張している[4]

『大韓剣道会』の広報理事の崔民秀は「『剣道は日本のもの』という誤った認識を正す」と述べている[5]。また、『大韓剣道會』のソ・ビョンユン専務理事は「日本文化の多くが百済から流入し、刀も百済から日本に伝わったと日本人が話しているので、剣法も当然そのようなルートを通じた。刀の代表的なものが日本の神社に奉献されている七支刀で、百済王が日本国の君主に権威の象徴として下賜したというのが定説だ。日本王が『桓武天皇の生母が、百済の武寧王の子孫』だと表明したが、当時強大だった百済から武寧王の子孫の女性を送る際に、護衛の武士を同行させたのだろう。刀と武士が移動すれば、当然剣術も移動することになる」と剣道韓国起源説の根拠を述べている[4]

また、「バレーボールゴルフ野球レスリング卓球などの種目がどの国のものなのかと、熱を上げながら宗主国ばかりを突き詰めていたら、周囲からは当然変に思われるでしょう[4]」と、日本側の剣道の起源主張をけん制している。また、『大韓剣道會』の会長であり、国際剣道連盟(FIK)副会長のイ・ジョンニム氏は、剣道の近代化を成し遂げた国は「日本で間違いない」とするも、「日本で剣道という名称で定着する前には撃剣という名称が使用された。三国史記三国遺事などにあまねく登場する韓国語だったのだ。また、日本で11世紀以前まで使用した剣の形態も、三国時代に我が国で使用したものと同じだ。」と主張している[6]

また、韓国系移民が中心となり、米国を始めとした世界各国で『コムド』道場を開き、古代から伝わる韓国の武道として積極的に広報活動をしている。これらの道場では、日本のや日本刀を用いて、日本の剣術やそれを改変したものを「韓国古来の武術 (korean martial arts)」として『コムド』と同時に教えている場合もあり[7][8]、『剣道』と『コムド』の「他流試合」が行われることもある。

一方、『大韓剣道會』と対立する『世界海東コムド連盟 (World Haidong Gumdo Federation)』[9]や『統合世界海東コムド連盟 (United World Haedong Kumdo Federation)』[10]は、『海東コムド (Haidong Gumdo)』が剣道の起源であると主張している。彼らは、侍や武士道の起源は高句麗の「士武郎(サムラン)」にあると主張しているが、韓国内で裁判が行われた結果、士武郎起源説は捏造であったことが発覚している[11]。このように本国では捏造扱いされている海東コムドだが、韓流ファンのフランスの若者が組織し、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する組織「Korean Connection」が、パリで開催した「Korean Connection 2011」で、韓国起源の古代武術として海東コムドの演舞を行っている[12][13]

また在米韓国系移民たちを中心とした別のグループが、「新羅の『花郎(ファラン・Hwarang)』は1800年前から存在した古代韓国の戦士であり、この戦士が使った武術を『花郎道・ファランド・Hwa Rang Do』である」と主張して、道場を開いて、日本の伝統武術を改変したものを「古来韓国武術」として教えている[14]。彼らは「すべての日本の武術の起源は朝鮮半島にある」と主張をし、その主張に沿った武術の系譜を公開している[15]

2001年に日韓合作で、侍の起源を百済に求める映画『サウラビ』(朝鮮語で「ssaul-abi(戦う男)」を意味する)が製作され、韓国で公開された[16]。朝鮮日報は映画『サウラビ』を「三国時代、百済人が日本を開拓して文物伝播した歴史的事実を土台に、サウラビの魂が日本の侍精神に発展したという前提が込められている」と、侍の韓国起源説を歴史的事実として紹介した[17][18]。また、本作の制作発表会においてムン・ジョングム監督は「韓民族の魂と精神を再照明し、韓国人が忘れていた民族の優越性と民族意識を覚醒させることに焦点を合わせる」と発言をし、「侍」という日本文化を剽窃するばかりでなく、韓国文化の優越性にまで言及した[19]。なお、日本ではそのあまりにでたらめな歴史描写のためにDVD化されたのみで劇場公開はされなかった。2009年6月17日には毎日新聞 (韓国)慶一大学総長の李南教(イ・ナムギョ)が、「侍の起源は、二言なく韓国のサウラビ(戦う親父)である」と主張した[20]

また、『釜山日報』のチョン・タルシク記者 は、「若光(高麗若光)は高句麗の最後の王だった宝蔵王の息子だ。彼は666年、日本に渡る。日本の埼玉県に定着した若光は高句麗滅亡の知らせを聞いて716年、日本武蔵国周辺一帯に散って生きた1千799人の高句麗遊民らを集めて高麗郡を建設する。1千799人の高句麗人らは細工、織物、鉄製など技術に長けた人々だった。彼らは鉄製農機具を導入、農作物収穫を極大化させた。高句麗人らは鉄器導入だけでなく、日本人たちに紙の製造技術まで伝播した。彼らは日本の関東地方を中心に武士集団も形成する。これが日本武士集団の始めだと言う。武士集団が形成された背景には高句麗人の鉄製技術と馬があった」と主張[21]

反証

剣道は、韓国ではコムドと呼ばれ、テコンドーと並ぶ人気武道であり、日本の剣道との差は蹲踞(そんきょ)がないことやの色や形程度であるが、日韓併合時代に日本から韓国に伝わった日本文化である。剣道の韓国起源論に対して竹嶋渉は「これは風が吹けば桶屋が儲かるの上を行く拡大解釈であるとしか言いようがない。言ってみればこれは日本の自衛隊の起源は種子島鉄砲を伝えたポルトガル人だと言っているようなものである」「大した根拠もなく『剣道の宗主国は韓国』などと放言しているソ・ビョンユン氏の姿勢も、われわれから見ると当然変なのである」と批判している[22]日本刀についての歴史は当該項目参照)。そして、ソ・ビョンユンは自説の中で『当時強大だった百済から武寧王の子孫の女性を送る際~』と述べているが百済は346年から660年まで存在した国家であり、光仁天皇が生まれた709年にはすでに滅びている。また、高野新笠は光仁天皇側妾になるためにわざわざ朝鮮半島から渡来したわけではなく日本に帰化してから200年近くたっている帰化氏族出身の人物であり、『百済から護衛の武士が同行したはずだ』と言う主張は現実的にありえない。その上、当事の百済に刀や武士が存在していたと言う事自体が立証されていないため、論点先取誤謬になってしまっている。高野新笠の祖先とされている人物は武寧王の子である純陁(淳陀)太子だが日本書紀には『日本で亡くなった』と言う記述はあるものの淳陀太子が何時どうやって日本に渡来したかは明らかになっていない。日本書紀などの記述によれば武寧王は若い頃日本に滞在していた事になっているため、淳陀はその時期日本で生まれてそのまま滞在し続け(人質として日本に残された、とする説もある)同地で亡くなったと言う説が有力視されている。ソ・ビョンユンの主張する「七支刀は百済王が日本国の君主に権威の象徴として下賜した」と言う説も実際は定説とは言えず、一般的には「高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟のために贈った」とされている[23]

侍というのは、律令制が崩壊した10世紀以降に、新式の武芸を身につけて領地経営者や軍事専門家として活躍し始めた軍事貴族下級役人等が発祥であり、12世紀以降に幕府という軍事政権を開いて封建制により日本を支配した戦士階級の「武士」のことであり、日本語の動詞「サブラフ」が語源である。一方、朝鮮半島には封建制は存在せず、律令官制の中で訓練を受けた常勤の役人の「武官」や「武人」はいても、侍のような「武士」は存在せず、侍は明確に日本社会でのみ発生したものである。「武術」は、この封建時代の侍の存在から誕生したものであり、剣道などの「武道」は近代になってから「武術」を心身教育のために一般化したものである[24]。日本の武術や武道の発祥についてはほとんど記録が残っている一方で、侍や武術の韓国起源説の根拠となる歴史資料は一切存在せず、花郎が軍事組織だったという説も完全に否定されている。また現代の韓国の武道家が使用する衣服や刀や作法も、すべて日韓併合以降に日本の武道を模倣したものである。

流鏑馬[編集]

韓国の主張

民団サイトにて韓半島古代の武芸・馬射戲(まさひ)なるものを流鏑馬の源流として紹介している。馬射戲はユネスコ世界遺産にも登録された高句麗古墳群のなかの一つ、徳興里古墳の壁画に描かれた騎射競技を現代風によみがえらせたものと同サイトでは主張している[25]

反証

馬上から矢を射る騎射は紀元前8世紀スキタイ人がはじめたものといわれ、遊牧民に取りれられ古代から世界中に普及していったものであり、騎射そのものは珍しいものではない。一方で日本伝統の流鏑馬は騎射の稽古、儀式として、その弓馬礼法は、896年(寛平8年)に宇多天皇が源能有に命じて制定されたものである[26]

切腹[編集]

韓国の主張

朝鮮日報が、映画『サウラビ』の紹介記事で『百済のサウラビ達の衝撃的な割腹と断頭意識は、後日の侍の割腹とも深い関連があることを示唆する。(略)日本側の関係者がこうした歴史的事実に驚き、今後の文化交流の尖兵になるであろうと自認した点も興味深い。』と主張[16]

反証

百済において割腹・切腹の風習が存在したとする資料は存在せず、そして、朝鮮半島から日本に持ち込まれたと言う説を事を肯定する資料も存在しない。歴史上初めて「切腹」を行ったとされる人物は源為朝1139年1170年)だと言われている。

映画の中で見られるような殉死(追腹)は華々しく戦死を遂げる機会が減り儒教が広がった江戸時代になってから「忠臣の証である」と持て囃されるようになったものであり、1663年寛文3年)に幕府が殉死を禁止するまでかなりの盛り上がりを見せたが当初から一般的だったものではない。

日本刀[編集]

韓国の主張

韓国系移民が運営する世界各地の武術道場などで韓国古来の剣として使用している。また、刀剣職人のホン・ソッキョンらが、「日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承している」「我が国の刀剣技術は三国時代と朝鮮時代、日帝時代を経ながら、刀剣職人がほとんど日本に連行されてしまった」「元々、我が国の伝統刀剣製作技術は世界的なものであり、刀剣技術者を無差別に捕えて連れ行ったことはよく知られた事実だ」、「日本には我が国が使った正統技術がそのまま伝授されていて、今でも良い刀がたくさん出てきています」などと主張。「韓国刀の原型を取り戻すために日本に学びにいく」とまで主張している[27]

韓国の時代劇に刀剣などの武具を納める韓国の伝統刀剣製作企業の「高麗刀剣」のムン・ヒワンが日本刀の根は百済であると主張している。ムン・ヒワンの息子のムン・ジュンキは日本の無鑑査刀匠の松葉一路に日本刀造りを学んだあとに日本でたたら製鉄も学び、その技術を用いて「高麗刀剣」において高麗時代や朝鮮時代の刀剣を復元していると主張している[28][29][30]

反証

韓国で伝統的に使われた剣は、鉄鉱石から鋳造で作った、両刃の直剣か「環刀」と呼ばれる片刃の直刀で、製造方法や形状が日本刀とは違う。韓国で大々的に日本刀のような形をした刀が使われるようになったのは、17世紀以降のことであり、当初は日本刀を輸入して模倣したものを「倭刀」と呼んでいた。それ以降朝鮮半島で作られた刀もやはり日本刀とは製造方法が違う。

豊臣秀吉による朝鮮出兵時(文禄・慶長の役)に多数の陶工が日本に連行された記録はあるが[31]、「朝鮮人刀工の無差別連行」を行った記録は時代を問わず存在しない。また、「日本刀」と呼称される物が作成されるようになったのは武家の活動が活発になった平安時代後期(1051年以降)である[32]

現在世界中で知られている「日本刀」は、砂鉄からたたら吹きにより取り出した玉鋼鍛造して作った、緩い湾曲の形状を持つものであり、10世紀の平安時代後期に「太刀」として出現したものである。なお刀工の各流派が出現し始めたのもこの頃である。そして、現在の剣術家が使用する刃を上に向けて納刀する「打刀」の形式は15世紀の室町時代後期になって普及し始めた[33]。日本刀の持つ美的価値や武器としての価値は、11世紀の北宋の詩人の欧陽脩による『日本刀歌』でも歌われている。室町時代(1338年-1573年)に日本刀は中国に輸出もされている[34]

ムン・ヒワンはムン・ジュンキが松葉一路から伝授された日本刀作りの技術を用いて高麗や朝鮮の刀剣を復元していると主張しているが、日本の平安時代以降の古刀と慶長以降の新刀の鍛造方法は異なり、高麗や朝鮮の刀剣ももちろん日本刀とは別物である。古刀時代の鍛造法が正確に受け継がれなかったのは、吉井川の大氾濫により最大の刀工流派であった備前伝が壊滅したことなどが理由であり、松葉一路も含めた現代の日本の刀工が用いている鍛造方法は慶長頃以降の新刀時代に日本で発明された鍛造方法であるため、それは百済や高麗や朝鮮の鍛造法ではなく、それを用いて韓国の伝統刀剣を復元することは不可能である[35][36]

居合道、抜刀術[編集]

韓国の主張

韓国古代の武術コハプト (Guhapdo) として世界各地で道場を開いて広報活動をしている。正統武芸道場 正気館のイム・ヒョンス(林鉉洙)が「我々はいままで多くの物を日本に奪われました。今は我々の物を取り戻すべき時だと思います。居合道も高麗時代日本に渡っていった我々の剣術に過ぎません 我が国には新羅時代の花郎徒以前にも居合道という武術がありました。日本が国宝にしている七支刀も実際は百済の刀です。」と主張している[37]

反証

居合(抜刀術)は室町時代に本格的に体系化されたものであり、居合道は明治時代末期になってから「武術」を「武道」化したものである。

また、七支刀については、日本側は百済由来であることを否定していないが、実際の武器として扱うのは難しく、祭祀あるいは儀礼用のものと見なされており、剣術とは関係がない。

柔道[編集]

韓国の主張

剣道と同じように日韓併合時代に日本から韓国に伝わった日本文化であるが、Yudo(「ユド」と発音。柔道の朝鮮語音)の名で海外で普及活動が行われており、全米ユド協会 (United States Yudo Association) はその公式ホームページにおいて、柔道の起源を朝鮮半島にあるとし、「柔道は豊臣秀吉朝鮮出兵で日本に伝わりその後朝鮮半島では柔道は廃れ、20世紀になって日本から再輸入された」と主張している[38]。また、韓国の釜山で開催された2002年アジア競技大会では、韓国人で構成される大会組織委員会が、公式サイトに韓・日・中・英の4か国語で「柔道の起源は中国の春秋時代に生まれた柔術で、これが韓国に伝わり、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に伝わった」と記述し、全日本柔道連盟が抗議し記述を削除させる事態が発生している[39]。さらにアテネオリンピックの柔道73キロ級金メダリストである李元熹(イ・ウォンヒ)選手は韓国の京郷新聞のインタビューに答えて、「日本が柔道宗主国だと言いますが、本当は我が国の柔術(ユスル)を日本で細分化させてスポーツにしたんです。」と発言をし、韓国人有名柔道選手までもが韓国起源説を支持している[40]韓国日報のハン・チャンマン論説委員は柔道の起源をめぐる韓国側の主張として、「日本書紀などの闘技場面が 高句麗古墳角抵塚壁画 と一致し、日本の出雲地方を征服した高句麗系騎馬民族出身の天神系の人々の闘技術を土台に作ったのが柔術であるから韓国が元祖という論理だ。」と解説している[41]

反証

日本の体術の伝統は、文献によれば『宮中行事秘事』に伝えられる聖武天皇の神亀3年(726年)に行われたとされる相撲節会に遡ることができ、組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われていたことが確認できる。柔術と確認できる最古の源流としては天文元年(1532年)に竹内久盛が開眼し、子竹内久勝が広めた竹内流武術がある。江戸期には多くの流派が存在しており、明治期に嘉納治五郎が合理的な近代体術として整理体系化し、人間修養の精神を取り入れ「柔道」と呼称したものである。民俗学は史料や文献を非常に慎重に検証したうえで合理的に説明できる範囲で記述すべきところであるが、「YUDO」韓国起源説は史料や文献の提示がなく、憶測を基礎として結論を断定しているものであり、そもそも検証することができない。柔道韓国起源説に対して全柔連教育普及委員長、講道館資料館部長は否定コメントを出している[42]

合気道、大東流合気柔術、源義光(新羅三郎)[編集]

韓国の主張

正統武芸道場 正気館が「合気道は日本に移民した新羅人であるウォン・ウイグァン(源義光)、別名新羅三郎が興した大東流柔術が始まり」と主張している[43][44][45]。また、世界ハプキドー協会は「現代合気道(ハプキドー)のような武道技術はAD372年の高句麗への仏教の伝来と共に古代朝鮮に伝えられた。その証拠はその時期の古代壁画及び洞窟絵画、彫刻から見出すことができる」と主張し、またこれらの朝鮮武道で文禄・慶長の役の時に日本兵を撃退したと主張している。さらに、もともと朝鮮半島にあった合気道は日本の植民地統治時代に抹殺されたと主張している[46][47]。また、米国などでがHwa Rang Do道場を運営している韓国系移民が、「日本へ移民した新羅人である新羅三郎(源義光)が創めた大東流柔術は、その末裔である武田惣角まで伝えられ、彼が日韓併合時代に崔龍述(チェ・ヨンス)に伝授したことにより、大東流柔術が復活をし、ファランド (Hwa Rang Do) 等と混じってハプキドーに発展した。つまり合気道とハプキドーは兄弟の関係である。」と主張している[15]。さらに、「合気道」という名称は崔またはその弟子の池漢載が創案したと主張している。また、韓国の『毎日新聞』1991年9月3日で、「日本の早稲田大学のトミキ(富木謙沼)教授は『合気道は、新羅のサムラン ウォンウイグァン(三郎源義光)をその始祖にして、幕府のミナモト家(源家)に伝えた後、続いてタケダ家(武田家)に残り、7代を過ぎたタケダ・ソウガク(武田惣角)に伝わった』と記録している」とし、合気道は、「日本に伝わって発展…『日本武芸』は誤った認識」「韓国から伝承された伝統合気道の新しい脈を下ろしたわけだ」と報じた[48]。また、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する組織「Korean Connection」が、パリで開催した「Korean Connection 2011」で、韓国起源の古代武術としてハプキドーの演舞を行っている[12][13]

反証

合気道の源流である大東流合気柔術の始祖とされる源義光は11世紀の日本の武士であって、4世紀から7世紀に存在した国である新羅の人物ではない。「新羅三郎」という名は、源頼義の三男であり、近江国新羅明神前で元服したから名乗ったのであって、国としての新羅とは関係がない。さらに、「サムラン ウォンウイグァン」の呼称は「三郎源義光」を朝鮮語で発音したにすぎない。 また、富木教授は合気道韓国起源説を主張しているわけではない。この記者が「新羅三郎源義光」という日本人名の「新羅」と「三郎」の間に「の」を挿入して「新羅のサムラン」とし、「源義光」を「ウォン・ウイグァン」として、あたかも新羅人であるかのように訳したのである。

合気道の名称は、大東流の教授代理であった植芝盛平出口王仁三郎の命名により1922年頃から自らの武術を「合気武道」と呼称し内外に教授したのが始まりである。さらに、「合気道」という名称は1942年大日本武徳会が使い始めたものであり、植芝自身が「合気道」という名称を使い始めたのは1948年である。

他方、ハプキドーは、戦前に日本で大東流を修行をしていた朝鮮人の崔龍述(チェ・ヨンス)が、戦後に大東流を朝鮮古来の武術であると主張して指導を開始したのが始まりであり、崔の弟子が大東流を韓国人の気質に合わせて改変して現在のハプキドーの形にさせたものである。これを裏付ける事実として、大東流関係者に対する各種インタビューなどで戦前の大東流の修行者に複数の朝鮮人青年がいたことが明らかにされている[要出典]

芸道(道)の精神[編集]

韓国の主張

大韓柔道有段者会のヨ・サンファン会長が「柔道の発祥地は日本だが、『道』の精神は韓国から渡ったもの」と主張している[49]

そして、 韓国の全国弓道連合会はホームページに、「道という言葉は日本文化のほとんど全ての部分で使われている。これは外国の文物を受け入れる彼らの独特のやり方であるが、中国から我が国を経て日本に入っていった全ての文化には道という名前がくっ付く。書道茶道剣道のような言葉が全てそのようなのものである。我々が書芸、茶礼、剣術など、生活の必要によって名付けたものを日本人たちは精神、すなわち道の次元で受け入れたのだ」「日本は古代から最近に至るまで、朝鮮から全ての文化を学んでいった。日本という小さな島国には、朝鮮以外に知的欲求を満たすに値する国が周辺になかったのだ。壬辰倭乱時、彼らが略奪していった数多くの文化財がそれを証明している。彼らは朝鮮の物ならば何でもいそいそと持っていった。このように日本人たちは倭という蔑視を受けながらも、朝鮮を限りなく羨ましがっていた。朝鮮の学者たちが話していた哲学や思想を、彼らがどれほど羨ましく思っていたであろうかは、察するに難くない。だから、朝鮮の学者たちが口にしていた道という言葉がどれほど欲しかっただろうか? 欲しければ借りて使わなければならない。しかし、彼らにはそんな能力がない上に、社会的雰囲気がそれを許さない。それで、道という言葉の真の意味を理解する能力がなかった彼らは、その言葉を力の世界である刀に結び付けることで満足してしまう」と掲載している[50]

反証

日本の「道」とは「芸道」のことであり、中国の「」(タオ)の哲学とは別物である。日本の「道」の精神とは、実演者の日常生活における立ち居振る舞いと、専門的な技術的修練を同一とみなし、双方の向上により、実演者の人格と技芸を相乗効果的に高めることを目指したものであり、日本独自に発展体系化したものである。日本の「道」の精神は、中世期の秘伝説と伝授思想の確立と、師系を重んじるの発想に影響を受けているともいわれている。剣道、柔道、合気道、茶道、華道、香道、書道のほか、「道」の文字の付かない能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、邦楽でも同じ観念が見られる。

ヨ・サンファンは日本の朝鮮出兵が朝鮮の文化を奪うためのものだったと主張しているが、実際は「唐入り」の名前が示すように最終目的地は中国(当事の)であり、別に「知的欲求を満たすため」や「朝鮮を限りなく羨ましがっていたから」朝鮮に攻め込んだわけではない。この起源説に限らないが、ヨ・サンファンの主張は中国の存在や影響を矮小化しており、朝鮮半島の役割を過大に評価している。

空手[編集]

韓国の主張

韓国では、テコンドーの起源は三国時代以前から始まるテッキョンであると公式に認定されており、海外でも「韓国古来の武道」として普及に努めている。また、日韓併合時代にテッキョンが抹殺されたが、韓国がテコンドーとして復活させたとまで主張している[51]。さらに韓国の一部には空手の起源をテッキョンに求める言説すらあり、韓国の釜山で開催された2002年アジア競技大会では、韓国人で構成される大会組織委員会が、公式サイトに韓・日・中・英の4か国語で「空手の起源はインドの時代に中国と韓国に伝わり、その後韓国が日本に伝えた」と記述し日本側が抗議するという事態が発生した。日本側の抗議に対し同時に記述された「柔道韓国起源説」は削除されたが「空手韓国起源説」は結局削除されることはなかった[39]

反証

空手は琉球から日本本土に伝わったもので、テコンドーは戦後に空手を参考にして新たに作られたものである。また、韓国が国技院副院長が明らかにしたところによると、「テコンドーの起源を三国時代以前とすることが一般的だが、 歴史的想像力を動員してもそれには無理がある。中国から日本へ入り、日本が改良して韓国へ入ってきた。テコンドーは空手の変形である。私も創始期にはテコンドーの起源をテッキョンとして本を執筆したことがあるが、海外に普及させる過程で昔からあった韓国の伝統武術だとすれば名分が立つからである。」と告白している。 更にこの記事では「空手から派生したテコンドーだが、蹴りを主眼に置いて競技化したことで、型や手動作に重きを置いた空手の陰から脱した」とも述べている[52]。テコンドーの国際団体の一つである国際テコンドー連盟によると、テコンドーの由来は、崔泓熙によりテッキョン日本松涛館空手道の要素を取り入れ、1955年4月11日にテコンドーと正式に命名したものであるとしている[53]

相撲[編集]

韓国の主張

中央日報が、日韓文化交流を紹介する中で、韓国シルム連盟関係幹部の「日本相撲協会は相撲の本流である韓国シルムへの待遇がなっていない」との心境を紹介し、相撲の起源をシルムとして紹介した[54]

反証

日本における相撲の起源は古墳時代埴輪まで遡る事ができ、シルムの方も高句麗時代に描かれた壁画や後漢書にシルムに関する絵・記述がある事が確認できるためどちらかが起源と言うような関連性はなく、別々に似たような競技が発生しただけなのではないかと思われる。少なくとも日本の相撲の起源が間違いなく韓国のシルムだとするような資料は、現時点では存在しない。

文化[編集]

忍者、忍術、伊賀流、服部氏、ツツジ[編集]

韓国の主張

韓流ファンのフランスの若者が組織し、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する「Korean Connection 2011」が、「忍術は4世紀に朝鮮半島から日本に導入された韓国起源の武術」「多くのコリアンが忍者の里の甲賀や伊賀に移住した」と主張し、忍術をパリで公演している[12][13]

また、韓国系移民がイタリアで運営する「スルサ道場」が、新羅軍の「花郎」の中にある特殊部隊「スルサ」が忍者の起源であると主張している。この中で「幾人かのスルサ戦士が日本に亡命し、日本の忍者の理論にアイデアを提供した」「スルサドーを含むすべての韓国マーシャルアーツに見られる瞑想テクニックは、日本の忍術の秘技のなかに残っている。」「日本のマーシャルアーツは太平洋戦争でいち早く有名になっただけ」と主張している[55]。また、ファッション評論家の金硝子が、人気アニメ『美少女戦士セーラームーン』の話題の中で、日本の創作話の中に「変身」が多く登場することに言及し、日本人が頻繁に「変身」を創作話の中でモチーフにするのは、11世紀から18世紀にかけて日本で盛んであった忍術に起源があると主張し、さらにその忍術は、7世紀に高句麗を通じて日本に伝わったものであり、日韓両国で『セーラームーン』が人気があるのは、この歴史的な背景によるものであると主張している[56]。 さらに韓国日報が、特派員の日本の知人の話を紹介する形で、伊賀忍者の指導者だった服部氏は、新羅系の秦氏の末裔であり、日本に咲くツツジも朝鮮民族が日本に持ち込んだものであり、故郷の朝鮮半島を偲んだ服部氏が江戸のツツジの名所を作ったと主張している。さらに、伊賀地方の製鉄や陶磁器や酒造や祭祀の起源も韓国にあると主張している[57][58]


反証

服部氏を秦氏の末裔とする説はひとつの仮説に過ぎず(『三国地誌』と『永閑記』で否定されている)、秦氏を新羅人とする説も仮説である。また、服部氏が傭兵として各地で活躍するのは戦国時代以降、表舞台に初めて登場したのは16世紀であり、秦氏が渡来してきたと考えられている時代との時間的隔たりを考えれば、秦氏を忍者の起源とするのは無理がある。そして、ツツジの主張も根拠不明である。

そして、これらの韓国起源説は、各種メディアに登場する、派手な武術を使ったり、忍法変身したりする、空想上の「忍者」を思い描いて自説を主張しており、実在した忍者に対する基本的な認識が間違っている。実在した忍者は派手な特殊部隊戦闘員というより極めて地味な諜報員傭兵であった(実際の忍者が行ったのは「変身」ではなく「変装」)。「花郎軍事組織説」自体が否定されているので朝鮮半島に「スルサ」という戦闘組織が実在した信憑性も薄い。

さらに、仮に新羅が滅亡してからスルサが日本に亡命したのが事実だったとしても、新羅が滅亡した時期(935年)から、日本で忍者の原型のような存在が確認されている平安末期(11世紀後期)までにかなりのタイムラグがあり、金硝子の高句麗(668年滅亡)由来説の方はさらにタイムラグが大きく、これも信憑性が薄い。

茶道、千利休[編集]

韓国の主張

朝鮮新報』は「茶においては1千年前の新羅の時代の礼法がほとんどそのまま日本に取り入れられた」と主張している[59]

また、茶道の祖の千利休の祖父は千阿弥と名乗り、その名をとって千姓と名乗っていたことから千利休を朝鮮人と主張していた[60]

反証

茶を飲む習慣は遣唐使により中国から伝えられたものという説が有力であり、茶を飲む行為を哲学や教養や総合芸術にまで高めた茶道という文化は室町時代に体系化した日本起源のものであり、韓国の「茶禮(タレ)」とは全く関係がない。

千利休の祖父の千阿弥の阿弥号の出自はそもそも朝鮮半島とは無関係である。

韓国の茶文化の歴史については「茶の儀式#韓国の茶礼」を参照

華道[編集]

韓国の主張

ヤフーコリアが「生け花」の項目で、朝鮮半島には土着文化の一形式として原始的生け花が存在し、仏教伝来と同時に生け花の一様式が百済に伝来し、それが日本に伝わり、その後朝鮮半島独自の生け花は日帝(日本による朝鮮半島支配)により抹殺されたと主張している[61]

反証

花を愛でる行為は有史以前からある人類共有の行為であるが、生け花は室町時代に日本で本格的に体系化したものである。「朝鮮半島の原始的生け花」「日帝による抹殺」という主張も文献資料や考古学資料による裏づけが一切存在しなく根拠不明。韓国で約200の生け花団体を束ねる韓国生花協会の理事長は、日本統治下の女学校時代に毎週行われていた生け花の授業が、この道のプロになるきっかけをつくったという。自身のプロになるきっかけをつくり、韓国で生け花文化が一般大衆に普及していったのは1950年代末からであり、70年代までは日本の影響を受け、80年代以降は欧米の作風を取り入れるようになった、と韓国生け花の経緯を説明している[62]

盆栽[編集]

韓国の主張

中央日報』が、2009年6月17日版[63]において、イ・ギョンヒ記者が盆栽は日本で生まれたものではなく、14世紀に朝鮮半島にて生まれたもので、その証拠として『四季盆景図 4幅屏風』なる絵画を元に起源を主張している。

反証

実際の盆栽の起源は6世紀に中国で生まれ、遣唐使によって盆景として持ち帰られたものが、平安末期からの武士文化の中で磨かれ、日本独自に発展したものである[64]。『四季盆景図 4幅屏風』は14世紀に朝鮮に盆栽のようなものが存在したと言う証拠にはなりえるものの、何故それが即「日本の盆栽の起源」になるのかは根拠不明。記事内でも説明はない。

和歌[編集]

韓国の主張

韓国で唯一の和歌詩人の孫戸妍が「和歌は新羅(シルラ)の郷歌が起源」と主張している[65]

反証

主張を裏付ける文献資料も存在せず根拠不明。

演歌[編集]

韓国の主張

演歌の起源が韓国のトロットであるという起源説がある。韓国のケーブルテレビのinetTVが2012年1月3日に放送した『韓国人の音楽 トロット』で、NPO法人日本艶歌歌謡協会理事長(演歌ではない)の高樹一郎のインタビューによるものとして、「古賀政男は韓国人で、演歌の起源はトロットである」と報じた[66][67]

反証

古賀政男は福岡県生まれの日本人である事は間違いなく、7歳の時に日本統治時代の朝鮮に渡って少年時代の一時期をおくっただけである。なお日本艶歌歌謡協会は1997年に設立された組織であり日韓友好を大々的に掲げている。また、李奉来(元芸術文化団体総連合会会長)によると『演歌の起源を韓国とするのは、韓国人歌手の李成愛を日本で売り出す時、日本のレコード会社が考え付いたキャッチフレーズ』であるという[68]

折り紙[編集]

韓国の主張

2014年に韓国政府から国民勲章を受けたノ・ヨンヘ紙文化財団・世界折り紙連合理事長[69]は、1972年に色紙などの学用品会社「紙国」を作った後、1989年に折り紙協会、1991年に韓国紙文化院、2005年に紙文化財団を設立。紙文化財団は、テコンドーの世界化の成功例を目標に掲げ「折り紙の宗主国は日本ではなく韓国」の定着化に向けて、折り紙講師養成など関連教育課程の運営を担い、韓国内外に150の支部を置き、世界各地で折り紙イベントを開催するなど積極的な広報活動を行っている[70][71][72]。2010年に行われた紙文化財団創立5周年の記念式典で、ノ・ヨンヘ理事長が「折り紙世界化宣言」をした[73]。その後、活動が活発化している。

一部の在米韓国人の女性グループが「折り紙はもともと韓国(朝鮮)で作り出されたもので、日韓統治時代に日本人が自分たちの文化と偽って世界に広めた」と主張し、現地で折り紙教室を開いている[74]。また、社団法人韓国折り紙協会は、起源については明確に言及しないものの、「日本の植民地時代に日本は韓国の文化を全面的に抹殺し、韓国の伝統的折り紙文化も排斥した。」と主張し、日本とは別の折り紙文化が朝鮮半島に存在したと主張している[75]。また協会では検定制度により指導師を養成し、さらに、日本の折り紙を模倣したものを「韓国の伝統的折り紙」と称して世界各地で宣伝し普及活動をしている[76]

2012年10月10日、中央日報によると、ノ・ヨンヘ理事長は、20万人の折り紙講師を育てて、「モンゴルで3年間に輩出された約450人の講師が紙文化を伝えていく」と話した。さらに、「韓国でも864年道銑国師折り鶴を投げて落ちた地点に玉竜寺を創建したという話が伝えられる」ことから、「〔折り紙の〕宗主国は日本でなく韓国」であり、「610年に高句麗の僧侶・曇徴(ダムジン)が紙を日本に伝える時、折り紙も〔高句麗から日本に〕渡ったと推定される」と報道された[77]

2013年10月9日、世界国際結婚女性総連合会(World-KIMWA)主催「第9回国際結婚女性世界大会」で、ノ・ヨンヘ紙文化財団理事長は「5000年の悠久の歴史とともに伝えられる私達の優秀な韓国の折り紙文化が、日本の<オリガミ>に押されて世界化できずにいる。テコンドーが空手を抜いて世界に普及したように韓国の折り紙が<オリガミ>を押しのけて世界中に普及するよう、国際結婚した韓国人女性の皆さんに参加してほしい」と頼んだ。なお、同会にはVANKのパク・キテ団長も参加し、「韓国を正しく知らせる」特講を行っている[78]

紙文化財団は、毎年、日本に行く国費留学生を対象に韓国文化素養教育のための紙文化特講を行っており、2014年7月24日、ノ・ヨンヘ理事長は受講生に「私達は先祖から伝えられた世界一の紙文化と折り紙の伝統があるが、世界の多くの国で折り紙の外国語は<オリガミ>で通用している」とし、「空手(Karate)との競争に勝ち抜き、オリンピック種目に採択されたテコンドー(Taekwondo)の事例をモデルとして、韓国語そのまま<チョンイジョプキ>と発音し、表記する時も<Jongie Jupgi>にできるよう努力している」と紹介した[79]

2014年9月29日、オセアニア地域での折り紙講師奨学教育に乗り出したノ・ヨンヘ紙文化財団理事長は「<チョンイジョプキ>という言葉を失ってしまうのは、<独島>を<竹島>と表記するのと同じ」と主張し、同時に「三角折り(SAMGAK JUPGI)」、「折鶴(HAK JUPGI)」と用語の世界化も強調。また、ノ・ヨンヘ理事長は、韓国折り紙の体系化が日本より遅かったとしながら、「歴史については、韓国が日本よりも一歩先で速かった」とし、「鳳停寺創建伝説」と高句麗僧・曇徴が日本へ紙と共に折り紙を伝播したことが根拠だと述べている[80]。「鳳停寺#伝説」も参照。

2015年1月26日、第1回大韓民国の折り紙文化学術大会で、カン・ミョンオク紙文化財団理事は、紙で作ったコッカル朝鮮語版(頭巾)を「我が国の折り紙の始原」と主張。その事例として、高句麗土製コッカル、慶州・騎馬人物朝鮮語版土偶、農楽僧舞朝鮮語版のコッカルなどがあると紹介し、「これは、『折り紙宗主国』を主張する日本オリガミの論理を無力にさせる歴史的事実だ」とし、「私たちの悠久な歴史と伝統のコッカル折り紙を世界に広報し、折り紙主権を追求する方法になる」と強調した[81]

2015年7月24日、ヘラルド経済は、折り紙が韓日「歴史戦争」の新たな軸として浮上していると報じた。折り紙の歴史は、三国時代 (朝鮮半島)の巫俗信仰に始まり、610年、高句麗から日本に紙が伝えられたのと共に日本に入ってきたというもの。また、朝鮮前期の宰相・河崙が発明したと記録されている「陞卿図遊び」にも、韓国の長い折り紙文化の証拠が認められるという。 イ・ジュンソ紙文化財団事務所長は、「この問題は『独島か竹島か』、『テコンドーか空手か』というのと同じ」とし、「今は世界のどこに行っても『origami(折り紙)』という言葉(日本語)が優勢だが、海外の学校などと連携し、韓国式折り紙教育を2003年から続けている」と述べている[82][83]

反証

朝鮮半島には儒教祭祀で使われる折った紙の造形物は存在したが、日本のような多種多様な対象物を紙で折る「遊び」の折り紙文化は存在せず、祭祀で使われる造形物の様式も日本の伝統的折り紙とは全く異なるものであり、これらの主張は事実無根である。折り紙作家の新宮文明によると、1797年寛政9年)に刊行された『秘傳千羽鶴折形』が現存する遊戯折り紙に関する最古の著作物である。そして「遊戯折り紙よりもさらに古い『儀礼折り紙』の伝統を見逃してはなりません」と指摘して「鎌倉期には京の朝廷と幕府の間で頻繁なやり取りがあったことから礼法が形づくられ、包みの風習が儀式化されます。室町時代になり、武家の間で包みの礼法(儀礼折り紙)がさらに広がったと考えられます」と解説している。すなわち、鎌倉時代に始まる「儀礼折り紙」と江戸時代に始まる「遊戯折り紙」のふたつが現在の日本文化の折り紙の起源であると指摘している[84]

曇徴が日本に折り紙を伝えたとする史料がなく、根拠不明。

陞卿図遊びの源流は中国・の時代に発祥したと推定される陞官図のことで、官職が書かれた紙面上を賽と駒を使いマスを進めて遊ぶ出世双六ゲームである[85]。従って、折り紙とは全く異なる遊びである。

「折り紙」は韓国語で종이접기(チョンイジョプキ)と呼ばれ、종이(チョンイ)は「紙」、접기(ジョプキ)は「折ること」を表す。英語表記は「Jongie Jupgi」。

歌舞伎[編集]

韓国の主張

朝鮮日報が百済技楽の復元運動を紹介する記事の中で、歌舞伎の起源を百済技楽としている[86]。百済伎楽伝承保存会は「百済伎楽は西紀612年(百済武王13年)百済人ミマジによって日本の聖徳太子に伝えられた後、日本の舞楽、歌舞伎等の母胎となった」、「アジア仮面劇の源流は日本と思っている大部分の在欧韓人と欧州人たちに仮面劇の母胎が百済時代に起因したものだということを知らせる。」「百済文化の優秀性を知らせる」と主張し、パリロンドンで百済伎楽を披露した[87]。味摩之を「韓流の元祖」として祭り上げる等、その活動は2012年現在も続いているようである[88]

反証

確かに日本書紀には推古天皇20年(612年)に「百済人の味摩之(みまし)が日本に伎楽を伝えた」と書いてあるが、この時伝えられたのは「百済伎楽」ではなく中国南部の発祥の伎楽だとされている。日本書紀には「百済伎楽」に関する記述は無く、これが本当に実在したものなのか、また存在したとすればオリジナルの伎楽とどの程度違うものだったか等は資料的には明らかになっていない。日本に伝わった後、伎楽は国家によって保護され飛鳥時代から奈良時代にかけて寺院の法会でさかんに上演されたが、次第に衰退し鎌倉期にはほぼ上演されなくなってしまった。

百済技楽の詳細は現在も全く不明であるため、百済伎楽伝承保存会がロンドンやパリで行った公演で上演された伎楽も現代の創作仮面劇である。歌舞伎は安土桃山時代に「かぶき踊り」で一世を風靡した出雲阿国が元祖だとされており、今日も続く男性だけで演じられる「野郎歌舞伎」に落ち着いたのは慶安5年(1652年)の事である。また、最初から様式が決まっていたわけではなく江戸時代を通して洗練され変化して行った物が現在の歌舞伎であるため、現在の歌舞伎と様式が似ている[89]と言う理由で「起源」を主張するのは難しい。また、日本の伝統芸能で仮面を多用するのは歌舞伎ではなくである(歌舞伎にも仮面を用いた演目はあるが、主流とは言えない)。能は鎌倉時代後期から室町時代初期頃に完成されたもので、これも7世紀に滅びた百済との関連性は特に見当たらない。

花札[編集]

韓国の主張

韓流ファンのフランスの若者が組織し、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する組織「Korean Connection」が、パリで開催した「Korean Connection 2011」で、花札を「韓国ドラマに良く出てくる韓国オリジナルのカードゲーム」と紹介している[12][13]

反証

花札の原型となるカードゲームは安土桃山時代にポルトガルの宣教師が日本にもたらしたもので、花札の図柄やルールは日本独自のものである。韓国には日本統治時代に伝わっている。

扇子(摺扇)[編集]

韓国の主張

中央日報はコラム「噴水台」で、扇子は「団扇と摺扇に分けられるが、代表的な摺扇が合竹扇だ。」とし、たたんで広げる扇子(摺扇)は「韓国が元祖だ。」と主張。また、崔南善は『故事通』で「中国は元々団扇だけなのに、北宋時の高麗から摺扇が入って来て、たたむ扇子が一般化された」と言ったという[90]京畿日報で、韓国伝統文化「合竹扇」の指導講師が「折りたたみ式扇子である摺扇は我が国に由来し、日本と中国に伝わった大切な伝統文化」と主張している[91]

反証

「紙を折りたたんで製作する扇は日本で発明」とする説がある。

日本庭園[編集]

韓国の主張

2009年4月20日、『忠青トゥデー』紙社説にて、忠清南道扶余の薯童公園宮南池について「新羅の雁鴨池と日本庭園文化の源流という歴史的価値にもかかわらず宮南池が正しく評価されたことがないのは残念」と記載。その根拠を「新羅の雁鴨池より一世代以上先立って庭園を造成し、古代日本の飛鳥文化を誕生させる決定的要因として作用した」としている[92]

反証

5世紀前半代の奈良県巣山古墳別区の葺石や、巣山古墳や同時代の湧泉遺跡である三重県城之越遺跡には、すでに日本独自の州浜型池などの苑地の要素が見られる[93]

法隆寺金堂壁画[編集]

韓国の主張

韓国の中学歴史教科書には、「高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶彗慈聖徳太子の師であり、曇徴を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」という記述が存在する[94]

反証

確実な歴史的史料がないことから法隆寺金堂壁画の作者は不明である。勝岡寛次は「確たる歴史資料がないため作者不明とされているのをいいことに金堂壁画が朝鮮人の作だとする手前勝手な主張」と評している[94]

食文化[編集]

事例 主張 反証
おかず
日本の大部分の食べ物
2008年6月9日に行われた映画『食客』の制作発表会において俳優チェ・ブラムが「日本の人々の食べるおかずは、大体が我が国に由来したものが多いのに、私たちが(食の世界化に対して)和食に後れをとる理由がない」、「21世紀は文化戦争の時代であり、日本は金を投入して日本食を世界に伝えている」等と発言をし、韓国起源説を主張した。また同席したクォン・オジュンも「我が国の韓食は薬になるほど優秀で、競争力がある。日本に(食の世界化が)できて我々にできない理由がない」と発言をした[95]

米国のカリフォルニア州ASU副総長の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、『慶南道民日報』2010年6月22日で「日本の大部分の食べ物がその根元を韓半島に置いていて、今でも日本の食品学者、料理研究者、外食業者などは韓国に出入りして、朝鮮料理らを偵察しに通う」と主張[96]

主張を裏付ける資料も存在せず根拠不明。
豆腐
蕎麦
キム・ヨンボク慶南大学伝統食生活文化研究院長が「韓国のメミルククスを日本が模倣して蕎麦が誕生し、韓国のトゥブから日本の豆腐が生まれた。」と主張している[97]。また『ウィークリー京郷』が「日本の豆腐は朝鮮から伝授を受けたもので、壬辰倭乱(文禄の役)の時に晋州城主の朴好仁が教えてあげたのが始まり」「朝鮮が豆腐作りに一番優れていて中国と日本から教えを請いに来た」「日本に豆腐が一番遅く400年前に日本に伝わったのに、日本豆腐が世界を支配するのが切ない現実だ」「朝鮮の豆腐の伝統は日帝36年の間に消えた」「韓国豆腐の優秀性が世界に認められ、豆腐文化宗主国の位相を再確立するチャンスが来た」と主張している[98]。また、『国民日報』が「原産地は中国というが、韓半島で花開いて日本に伝わったトゥブ(豆腐)の場合もそうだ」と主張している[99]

キム・ヨンボクは、『慶南道民日報』2010年6月22日で、「そばの根元やはり朝鮮だ。日本の『本山荻舟』によれば『一説に江戸時代(江戸時代、1603~1867年)始めに、朝鮮の僧である元珍が南都東大寺に渡ってきて結着材として小麦粉をソバ粉と混ぜるニハチ(2:8)を教え、はじめて日本にザルソバが普及した』と記録されている。元珍僧侶が初めて日本に伝えた比率は2:8だったと伝えられるが、今でも日本のそば屋の中にはこのニハチ(2:8)を黄金比率と考える所が多い」「豆腐は辛い歴史を持って日本に伝えられた食べ物だ。日本、四国高知市県立図書館に所蔵された『皆山集』全10冊中、9冊の記録を見れば「豆腐に関してどんな本に伝えられている話を見ても、昔この国には豆腐がなかった。 1592~1595年に長宗我部元親が朝鮮の捕虜らを引っ張ってこちらに戻った時、その中に朴好仁という人がいた。その子孫もやはりこの国に住んだが、こちらの領主山内一豊が高知城を築く時、パク氏を今の唐人町に置いて働かせた。土佐郡鏡川の北側の土地で豆腐を製造し始めた』となっている」と主張[96]

豆腐は奈良時代に遣唐使により日本に伝えられたもので、韓国起源もしくは韓国を経由して日本に伝わったものではない。そして、日本人がよく知る現在のような豆腐は日本で発展したものである。さらにキム・ヨンボクは「日本は日本文化の形成に多くの影響を与えた国に中国を指し示したいだろうが、韓国が絶対的でその次が中国、ヨーロッパなどだ」と事実無根の主張をおこない、日本文化全般に対する韓国起源説までも主張している。

豆腐自体は紀元前164年頃に淮南王劉安が発明したとされているが、日本には遣唐使以前に伝わっていたと言う説もある。そして、鎌倉時代の古文書である「庭訓往来」には「豆腐羹(とうふこう、豆乳の意)」の記述がある[100]

また、作物としての蕎麦は中国から日本に伝えられたと考えられているが、蕎麦粉を麺の形態に加工する「蕎麦切り」の起源は明確ではない。蕎麦切りの確認できる最古の資料は1574年に修復工事が完成した木曽定勝寺の寄進記録だとされており、初期の蕎麦切りの記録が信州周辺に多いことから、一般によく言われるとおり信州蕎麦がその起源であったのは間違いないと見られている。二八蕎麦の由来は諸説あり確定していないが、韓国の僧侶元珍が伝えたと言う確定的証拠もまた存在しない。

日本酒 日本酒の起源は韓国の清酒という説がある。日本人研究者が慶州の法酒は日本酒の先祖のようなものだと語った。また、古事記の記述の誤読で起源を主張している場合もある[101]

さらに、近年、日本酒のルーツがマッコリであると多くの在日朝鮮人系酒店及び朝鮮料理店がWebサイトにて主張して問題となっている。

この主張は誤りであり、日本酒の本来のルーツであるどぶろくは口噛みの酒などに遡る事ができ、その発展と共に発酵方法や歴史的な流れも異なる。

なお現代のような清酒は、室町時代に奈良県の正暦寺で作られた僧坊酒「菩提泉」がその発祥であると考えられている[102]

寿司
刺身
ロサンゼルスのコリアタウンで寿司屋を経営しているキム料理長が「スシとサシミは元来、中国と韓国に由来するもので、日本にはスシが自分たちの食文化だと主張する権利が無い」「日本は第二次大戦以後にスシを食べ始めたが、韓国と中国は数千年間、スシとサシミを作ってきた」と主張した[103]。また、キム・ヨンボク慶南大学伝統食生活文化研究院長は「韓国の食べ物パプシッケを模倣したのがスシ(壽司:すうし)だ。1700~1800年頃寿司が最初に開発されて日本の代表的食べ物であるハコスシ(箱すし:サンジャチョパプ)が創造された。」と主張している[104]。また、韓国京畿道観光発展局が、中国版ツイッターの公式アカウントでも「韓国の美食・刺身」と発言し、韓国の公式アナウンスとして刺身が韓国起源だと主張した[105]2014年、『ヘラルド経済朝鮮語版』が「寿司や刺身は今から300年以上前に韓国人が考案し、日本人は戦後ソレを真似た」と報道[106] 「日本は18世紀、もしくは第二次大戦以後に寿司を食べ始めた」というのは事実無根で、浮世絵など江戸風俗を取り扱った作品を見れば江戸時代後期には今と同じような握り寿司が食されていた事がすぐ分かる。世界で一般的に「スシ」として知られている握り寿司の初出は19世紀初頭の華屋與兵衛が創作した江戸前寿司とされる。握り寿司が登場する前は箱寿司(押し寿司)が主流だったが、握り寿司が江戸を席巻した後も上方(関西方面)では箱寿司が主流のままだったとされる。酢飯を使った寿司の起源は必ずしも明確ではないが、少なくとも17世紀には存在したことが確かめられており、刺身の起源は14世紀までさかのぼることができる。魚介類の生食については日本では古代から広く行われ、『日本書紀』で磐鹿六雁命景行天皇に鰹と蛤の膾を出したとの記述があり、これが日本料理の起源という伝説がある。
醤油 韓国の液体調味料の専門企業トンウンFCは、「しょう油は韓国が元祖」であるとし、「世界市場で韓国の伝統醗酵食品のしょう油が日本の製品のように認識されていることを正したい」と主張している[107]。これについて、キッコーマンは「初耳です」とコメントした[108] 実際には第二次世界大戦後に朝鮮半島に残された(日本人が作った)醸造設備を利用して製造しており[109]韓国内で製造されている醤油の技術は日本発祥である。

韓国にはカンジャンという醤油に似た調味料はあるが、醤油とは別物である。2006年10月に韓国農魚業芸術委員会によって開催された韓国骨董食品芸術展でも、日本の醤油や味噌は本来の製法や味でないとして、韓国のカンジャンやテンジャンとは違うことを強調している[110]

味噌 National Defense Journal が、言うまでもなく日本の味噌も、味噌玉麹を使った古代韓国人たちが日本に渡って広めた食文化だと主張[111]。また、『国民日報』が「ミソが我が国の言葉、メジュ(味噌玉麹)に由来した名前であり、我が国が味噌文化の宗主国であることを強調し、テンジャン登録商標になっていればよかったという惜しさは残る。我が国の食べ物が世界の人々の味覚を捕らえれば、経済的、文化的波及効果は途方もなく大きいだけに、今後は食べ物の主権守りと食文化普及にもっと関心を持たなければならない」と主張している[99] 根拠不明。味噌に似た発酵調味料は東アジア各地に古くから分布したが、同一の起源を持つものかどうかは明らかではない。日本の味噌は、一般的には縄文時代に中国から伝わったか日本国内で作り出されたとされている。
味噌汁 朝鮮日報が、『薬師寺は大きなイベントがある度に韓国伝統の味噌汁を用意するなど、さまざまな面から韓国と深い関連があるものとみられる。天皇が自ら「韓国人の血を引いている」と明らかにしたように皇室の願寺だったためではないかと思われる。』と主張

[112]

根拠不明。そもそも薬師寺には味噌汁をふるまうようなイベントは存在しない[113]。そして、明仁天皇の発言は「桓武天皇の生母である高野新笠が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」というもので、これは「日本に帰化した百済系移民の約10世後の子孫が天皇家に嫁いだ」という意味であり、当時の百済と現在の半島では民族構成も全く異なり、「韓国人の血を引いている」とは言えない。

高野新笠が帰化人の家系出身であった事は間違いないとされているものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する声もある[114][114](詳細は高野新笠を参照)。

納豆 National Defense Journal の主張[111]によると、『納豆は韓国のダムブックジャンが起源である。「朝鮮出兵から帰った加藤清正が九州に納豆を広めた」という熊本の農業高校教師の菊池、平野の研究がある。一説には、7世紀中頃、朝鮮の僧侶が味噌玉麹豆を日本に持って行き、納豆を作ったという記録もある。』 朝鮮には、そもそも納豆菌を利用した食品自体が存在しない。また、糸引き納豆に相当する食品も朝鮮には存在しない。朝鮮の「味噌玉麹(메주・メジュ)」は納豆菌を使用しない。清麹醤(チョングッチャン)は広い意味での枯草菌類を利用するが、納豆菌ではない。なお、塩辛納豆に関しては、奈良時代に中国から伝わった豉が起源であると考えられている。
沢庵漬け
沢庵宗彭
National Defense Journal が、「沢庵は江戸時代初期に朝鮮から日本に渡った僧侶テックアムが初めて作り方を教えてあげたものだ。沢庵とはテックアムの日本名だ。沢庵和尚が考案したから沢庵を呼ぶようになった」と主張[111]。また、米国のカリフォルニア州ASU副総長の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、『慶南道民日報』2010年6月22日で、「沢庵は壬辰倭乱直後、朝鮮から当時江戸時代初期の日本に渡っていって京都の地、大徳寺(京都市)周知にあった高僧の沢庵(タクアン・1573~1645年)僧侶が作った漬物(野菜を塩漬けする日本保存食物)だ」と主張[96]。また、世界キムチ研究所の朴完洙初代所長は、「外国人にはキムチをコリアンピクルスと認識している人が多い。逆に言えば、ピクルスや沢庵など漬け物類がすべてキムチの一種ということだ」と主張[115] 沢庵宗彭は1573年12月24日に秋庭綱典の次男として但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれたとされている。

また、沢庵漬けも「沢庵が考案した」説以外に「沢庵が広めた」説、「『じゃくあん漬け』もしくは『貯え漬け』が『たくあん』に変化した」説など諸説ある。

奈良漬 National Defense Journal が、奈良漬は韓国の塩漬けの一種。出雲を征服した新羅人が、さらに南下し、奈良に国を作った。「ナラ」とは、新羅人によって名付けられたのだが、「国家」を意味する。「奈良漬け」とは「国キムチ」を意味すると主張[111] 出雲(今の島根県)が「新羅に征服されて、新羅人による奈良征服の橋頭堡になり、さらに南下して奈良をつくった」ことを示す歴史資料は全くない。従って、そこから発展した「国キムチ」説に至っては完全に創作である。

そして、奈良漬室町時代の『山科家礼記』や『言継卿記』に、その名前が初めて登場している。それより前の時代では「粕漬け」と呼ばれており、奈良時代の長屋王邸跡にて出土した木簡の「進物 加須津毛瓜 加須津韓奈須比」という記録が最古のものである。よって時系列においても、奈良漬という言葉を新羅と結びつけることはできず、韓国人による言葉遊びに過ぎない。

海苔
海苔巻き
韓国CBSノーカットニュースによると「我が国の海苔養殖が日本より先立って事実上世界初という事実を知っている人はあまり多くなく、海苔をキムチのように我が国の代表的な食べ物に育成しなければならない。」と主張している[116]

また、のり巻き専門店「鐘路のり巻き」は、ウェブサイトで「残念ながら現在までのり巻きの由来に対する正確な歴史が定立されていないのが実情です。そこで、のり巻きを名実共に韓国の代表的な食べ物の一つとして位置付けた自負心を持って、のり巻きの歴史とその特性に関して資料を掲載しようと思います。我が国ののり巻きの由来については多くの論争を持っていますが、その代表的なものが『韓国固有食べ物説』と『日本由来説』に分けることができます」「多くの人々は『日本由来説』に比重を持って主張していますが、結論から言えば、どんな文献を探しても韓国ののり巻きが日本の関東地方の海苔寿司が伝わって変形して発展したという直接的な証拠はありません」「日本の場合、1800年頃から海苔を取り扱ったという記録があって、我が国は遥かに以前の新羅時代から、または少なくとも朝鮮初期である1400年頃から取り扱ってきましたから、我が国が日本に比べて海苔メニュー文化は遥かに先んじているという結論を容易に断定できます。同時に海苔の特性の上、ご飯を包んで食べる形態で取り扱うしかありませんから、当然、のり巻きの歴史も我が国のほうが日本よりも先んじているはずだという結論もまた容易に類推できます」「このような理由で、今食べている我が国ののり巻きが日本食海苔寿司に由来したものと見るのは非常に難しいのです。むしろ、我が国ののり巻きが日本に伝わって、彼らの習性や食生活に合わせて海苔寿司として発展し、私たちよりも記録が好きで、歴史歪曲を飯を食うように行なう彼らによって、逆として知らされたのではないかという疑問さえ起こります」と主張している[117]

韓国国立国語院 編著の

우리문화 길라잡이 : 한국인이 꼭 알아야 할 전통 문화 223가지 / 국립국어연구원 지음. -- 서울 : 학고재, 2002.2. -- 479p ; 23cm ISBN 8985846973(わが文化道案内 : 韓国人が必ず知らなければならない伝統文化223種類)GE121-K90 の90ページに「キムパプは近代になってからの日本由来である」ことが明確に記述されている。

これの日本語訳である日本の教育出版株式会社の韓国国立国語院 編、趙 完済・三橋広夫 訳『韓国伝統文化事典』2006年1月11日、479頁。ISBN 978-4316801032 にも同様の記述がある。これらは日韓双方で正式に出版され、駐日韓国大使館および、日韓双方の公的な図書館でも閲覧可能である。

また「海苔の特性の上、ご飯を包んで食べる形態で取り扱うしかありません」と主張しているが、ご飯を包む板海苔は、江戸時代に和紙技術が進歩してその派生技術として誕生したものであり、その起源が江戸期の日本であったことは各種資料と交易記録からも明白である。また、日本人の腸には海苔を含めた海草に含まれる多糖類を分解できる特有のバクテリアが住んでいるとする研究結果がある。これは他の民族には全く見られない特徴であり、長らく海苔を始めとした海藻類を日本人が食用としてきた名残でもある[118]

なお、大韓民国で養殖され、商品として流通している韓国海苔は、2011年まで、ほぼすべてが日本品種の海苔であった。朝鮮日報での記事によると「地場のノリ品種は使えるものがなく」2012年の下半期になって、史上はじめて韓国で開発された「海風1号」種の韓国海苔が商品化された、と韓国語版と日本語版双方で報道されている[119]

韓国三国時代 (朝鮮半島)に「쌈(サム)」の一種類で「福裏・보쌈(ポッサム)」と呼ばれ[120]、今の形は19世紀末から食べ始められたものであり、現在はボックサムより日本の海苔巻きと似ている」という起原を主張する意見もあるが、「쌈(サム)」とは茹で豚を野菜で包んで食べる朝鮮料理である。

そして、韓国ののり巻きは日本料理に使われる巻き簾(これは日本特有とも言える調理器具であり、中華文化圏には存在しない)を使用する料理法も同じであるし、名称も韓国ではのり巻きを表す言葉がなく日本語と同じ「ノリマキ」と発音してきたものが、1948年になって大韓民国では国語醇化政策より「キムパブ」と呼ぶよう指定した。しかし、1990年代に至るも一般では「ノリマキ」と呼ばれており、「朝鮮語の国語純化」として、国立国語院が1995年発行の『日本語式生活用語純化集』の中で「生活用語として朝鮮語の中に残っている日本語的語彙」700余点のひとつとして「ノリマキ」を挙げ、これを「キムパブ」と置き換えて表記するよう推進し、それ以降「김밥(キムパブ)」と言う呼び名が定着した[121][122]。つまり、大韓民国成立後に「キムパブ」という造語を韓国政府が創作して「ノリマキ」から置き換えたものである。この名称の経緯からも、のり巻きは名称とともに併合時代に日本から伝わったという定説でもある『日本由来説』のほうが信憑性が高い。

しゃぶしゃぶ 韓国の料理研究者らが、「しゃぶしゃぶは日本やモンゴルの食べ物ではない、高麗時代に韓国からモンゴルに伝わった料理である」と主張している[123] 根拠不明。定説としてはフビライ・ハーンの侍医である忽思慧の考案によるとされており、それが日本に持ち込まれた時点で羊肉から牛肉になったと考えられている。
和牛 韓国の『月刊外食経営』において弥生時代の中ごろに朝鮮半島から日本列島に持ち込まれた牛があることを論拠に起源を主張している[124] 和牛とは、明治時代に日本在来の牛と欧米の牛とを掛け合わされてできた、黒毛和種・褐毛和種・日本短角種・無角和種の食肉専門4品種の牛のことであり、公正競争規約上の定義では、上記の4品種間の交雑種及び4種の交雑種を含む5品種間内の交雑種が「和牛」と名乗ることを認められている。そして、南部牛のように、北方から日本列島に持ち込まれた牛の存在を無視しており、朝鮮島由来の牛の血統が混じっていることを拡大解釈し、日本列島で行われた品種改良を一切無視している。
うどん National Defense Journal が、 江戸時代の初期に朝鮮の学僧円陣が朝鮮通信使として日本に渡り、カルグクスの作り方を日本人に教えてあげたのがうどんの起源と主張。根拠として、現在の形態のうどんが食べられるようになったのが江戸時代以降であることを挙げている[111] うどんの起源は明確になっていないが、麺料理は中国から伝来したものと考えられている。また、室町時代には現代とほぼ同じ製法で作られるようになっている。
長崎ちゃんぽん 釜山駅近くで中華料理店「中南海(チュンナンヘ)」を経営する衣が、中国のチャオマメンという麺料理が韓国華僑たちにより韓国に持ち込まれ「仁川地方の独特な食べ物」となり、日帝統治下に「ちゃんぽん」という日本語名が付いたと主張をしている[125]。また朝鮮語版ウィキペディアでも、仁川由来説が記載されている[126] 定説では明治32年、長崎の中華料理店「四海楼」の中国人「陳平順」によって発明、となっている。
イカ徳利 韓国のヒュデム食品が、2007年5月18日に行われた第42回発明の日記念優秀発明品展示会で、イカ徳利を「韓国の優秀発明品」として展示した[127] イカ徳利は、北海道三陸地方などのイカの産地ならではの土産物として、古くから販売されている。韓国で発明されたものではない。この件を問題視する声が青森県の公式サイトに寄せられている[128]。青森県は、韓国の特許登録第10-0634290号「烏賊酒瓶の製造装置およびその方法」によって、 日本から韓国へのいか徳利の輸出・販売に影響が出る可能性があると回答している。
有田焼カレー 「九州駅弁グランプリ」で3年連続優勝・準優勝に輝いた佐賀県の「有田焼カレー」は、韓国の薬膳料理をモチーフに開発された[129] 「有田焼カレー」は1928年に桜沢如一が提唱したマクロビオティックをモチーフに開発されたものであり、韓国とは関係ない[130]
朝鮮飴 National Defense Journal が、飴は朝鮮通信使が日本に持って行き、直接作り方を教えてあげたのが起源。そのため日本では、飴のことを朝鮮飴とも言うと主張[111] 朝鮮飴とは、長生飴と呼ばれていた飴が、朝鮮出兵時の兵糧として用いられたため、朝鮮飴と呼ばれるようになったものであり、朝鮮半島起源ではない。最古の飴の記録は『日本書紀』に書かれている。
ワサビ 2013年、『ヘラルド経済朝鮮語版』がワサビの韓国起源を主張[106]

言語[編集]

朝鮮語起源説は、韓国人を中心に数多く広められている。古代朝鮮語に由来するとする議論もあるが、古代朝鮮語は史料が乏しく復元されていない[131]

根拠がない民間語源が韓国で広く流布されているのは、「日本人のルーツは韓国人であり、古代日本人は韓国人(百済人)である」「倭は百済の植民地であり、日本は百済人によって建国された国である」という主張[132]が韓国で広く支持されているからだという[133]

朝鮮語で「貧しさ」を意味する「カナン」が日本語の「悲しみ」の語源だとしたり、朝鮮語で「生きて再び会おう」という意味の「サラバ」が日本語の別れの挨拶「さらば」になったなどがある(「サラバ」にいたっては、登場するのは20世紀以降である)。このような話題は史学的あるいは言語学的根拠がない語源俗解の類であるが、一部にはこのような題材を好む読者を抱えていることから、いくつかの書物が出版されている[134]

日本人の朝鮮語初学者が一様に驚くのは「家族」を意味する単語としてカジョク、時間→シガン、準備→ジュンビなど、日本語と類似性のある単語表現がいたるところに存在していることであるが、これらの語の多くは明治以降に日本から朝鮮半島に移入されたもの、或いは中国語をともに語源としているものである。漢音呉音音読みを参照。

事例 主張 反証
日本」の語源 朴炳植が朝鮮語の「イルボン」が日本語の「ニッポン」の起源であると主張しており、朝鮮半島に存在した部族国家「ウガヤ」の国号が「ヤマト」であり、彼らが日本に渡り新しい国家「ナラ」を建てたと主張している[135][136] 古代朝鮮語は全く解明されておらず、「日本」の現代朝鮮語読みの「イルボン」を「ニッポン」の起源とするのは無理がある。

日本へ渡り「ナラ」を建てたとあるが、DNA調査で日本人は全くの別人種だと判明している。日本人は世界でも稀なY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ人種。朝鮮半島や中国人は南方系O系統である。

日本語 言語学者のシミズキヨシと元オーストリアのウィーン大学教授と九州産業大学の朝鮮語講師パク・ミョンミが、「日本語の起源は韓国語」と主張している。

数学者金容雲・檀国大客員教授が、著書『天皇は百済語で話す』を紹介する記事[137]の中で、『現代の韓国語は新羅語を中心に収斂され、日本語は百済語を中心に発展したものだ。朝鮮語と日本語は共通の祖語を持つが、数字の「3」「5」「7」は韓日で発音が全く異なることから、新羅語と百済語がそれぞれ朝鮮語と日本語に繋がったとが分かる。また日本語の語尾に百済語を見出すことができ、全羅道の訛りに似ている」「第26代継体天皇は、百済第22代王の弟の『昆支』と同一人物。『日本書紀』に出てくる継体の別名『男大迹』『昆支』も共に『大きい人』を意味することから同一人物」「日本で百済を『クダラ』と読むのは 『大きい国』という意味で、日本は百済の分国だった」と主張。

また、36年間外交官として働いてきたキム・セテクは著書『日本に渡った韓国語』(キパラン)で、日本語の語源を探るのは、和語がなぜ、訓読されるようになったかを探ることだと考え、約3000の語彙を分析し、「日本語の源流は韓国語にある」としている[138]
朝鮮語と日本語は語順、助詞の存在等文法的に似ている点が認められ、日本国内でも日本語と朝鮮語の関連性の研究は古くからなされている。しかし、現在は一般的に日本語・朝鮮語いずれも『孤立した言語』であり、少なくとも基礎語彙の関連性は無い。比較言語学では、言語の比較に当たって、文法よりも基礎的な語彙の方が重視される。

例えば、シミズの記事で紹介されている研究は、朝鮮語で顔を意味する「ナッ」と日本語の「なつく」を対応させているが、対応させている単語が恣意的で、本来対応させるべき「ナッ」と「カオ(顔)」の発音の違いを無視しており、学術的信憑性は薄い[139]

金容雲教授の主張は、日本語には音読み訓読みがある事を無視している。さらに、日朝言語比較論では、多くが「日本語と朝鮮語の違いは百済語と新羅語の差異から来ている」と言う前提条件のもとで研究されており、「百済語」や「新羅語」などの単語が登場するが、実際はそれらの古代朝鮮語はいずれも実態解明が全く進んでいないため、学問的な比較は事実上不可能である。金教授の主張は、現代日本語と現代朝鮮語の数字の数え方の差異を無理やり実態不明な新羅語と百済語の差に結び付けているだけであり典型的な偽言語比較論である。日本語で『男大迹』『昆支』『クダラ』が『大きい人』もしくは『大きい国』を意味するとの主張も、根拠不明[140]

敬語  
万葉集
万葉仮名
李寧煕が、『もう一つの万葉集』(ISBN 4163435603) を出版し起源を主張している。

韓国の東亜日報においては、「7世紀頃の万葉仮名は元々古代韓国で使われたもので、韓半島から帰化した人々によって考案された。この仮名文字は後に韓国では消えた」[141]と主張をしているが、その主張を裏付ける歴史的根拠は不明である。

韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授の文学博士洪潤基が出版した『百済は大きい国』では「万葉仮名」は古代百済人が作ったと主張。百済人の王仁が5世紀末頃、日本の王室に漢文の長詩「千字文」を持って渡り「万葉仮名」を創り、その後王仁と阿直岐の子孫が引き次いで作っていった文字が11世紀に47文字となり、現在の「平仮名」が完成したと述べている[142]

もし王仁が日本書紀などに書いてあるように応神天皇の求めに応じて日本に渡来した一人の学者だったとすれば、渡来した時期は応神天皇の在位期間、すなわち3世紀後半から4世紀前半(もしくは干支崩年に従った場合は4世紀後半まで)と言う事になる。しかし千字文は南朝武帝502年 - 549年)が周興嗣に命じて作らせたものであり、王仁が渡来した時期には存在していない[143]。従って千字文を元に王仁ら帰化人が万葉仮名を作ったと言う可能性はとても低い。そして、5世紀後半に作られた稲荷山古墳から万葉仮名の原型とも言えるものが発掘されている事から、その時期までにはすでに漢字の音を借りて固有語を表記する方式が確立されていたのではないかと思われる。

万葉集は複数の編者によって編纂され、最終的に大伴家持(718年 - 785年)が完成させたものである。

片仮名 鄭ジェヨン(韓国技術教育大学教授)と小林芳規(広島大学名誉教授)の共同研究によると片仮名は新羅の口訣が起源であり、東大寺諷誦文稿にそれを見ることができるという。慶一大学総長の李南教毎日新聞 (韓国)上の連載コラム「イ・ナムギョの日本語源流散歩」で、次の語句の語源を古代韓国であると主張している。「邪馬台国」「大和」[144]、「対馬」「磯原」[145]、「早良」[146]、「木綿」「柳」[147]、「本音」「建前」「楽しい」[148]、「幸せ」[149]、「恨み」「見舞」[150]、「いらっしゃい」「ありがとう」[151]、「ちちんぷいぷい」[152]、「せーの」「甘い」「我孫子」「卵」[153]、「鋤」「鎌」「肥」「鍬」「菜」「束」などのほとんどの農耕用語[154]、「さらさら」などのほとんどの擬音語[155]

吳相鉉(オ・サンヒョン)延世大学講師は、「(朝鮮語の)『仮病(クェビョン)』を日本語では『ケビョオ (kebyo)』という。つまり『仮病』の『クェ』を朝鮮語の固有語と見なした場合、『クェ病』という合成語的発想をして『ケビョオ』を通用させたのではないか、という推定には無理がない」と主張している。また、日本語のトンボは韓国の慶尚道大邱を中心に使われる方言のトルボに由来し、日本語のトンボを朝鮮語の方言のトルボに求めれば、様々な情況的に合理的な妥当性を確保できる、と主張している[156]。さらに、『釜山日報』2002年4月4日で、イ・ドンゴル論説委員は、「外来語や擬声語表記に使われる日本文字カタカナまでもやはり8世紀に韓半島から伝えられたという説が提起されて注目を集めている。先祖たちが行なった誇らしいことだ」としている。

片仮名は7世紀から8世紀にかけての人物である吉備真備が漢字を由来として考案した文字体系であることが判明している。
」・「」の語源
君が代
李南教が、『「君」は、邪馬台国を建てた伽耶諸国の狗耶国国王の「金」(キム)氏が語源。「僕」は、狗奴国を建てた金官伽耶の弥烏耶馬国国王の「朴」(パク)氏が語源。「君が代」は、本来「金家の世の中」と言う意味』と主張[157] 君が代は平安時代に詠まれた和歌だとされており、現在の文面とはやや異なる[158]
天下り」の語源 李南教が、『「日本に渡った当時の百済人は非常に優遇され、百済の職位をそのまま認められて官僚や将軍などに任命されたが、日本政府はこれらを受け入れるために行政組織を16官位から20官位に拡大改編までした。当時、日本政府の要職の国防大臣や文部大臣など、すべて到来した百済人を任命したことで発生した言葉が「アマクダリ」(天下り)だ』と主張[159] 百済王家の一族で日本に人質として滞在していた余善光が百済滅亡後に持統天皇より百済王の氏姓を賜り、比較的優遇されていた事は分かっているが、百済から亡命してきた帰化人全般がそのような扱いを受けたという記述はなく、またそれが「天下り」と言う言葉の語源になったという歴史資料は存在しない。
奈良」の語源 李南教が、『「ナラ」という言葉は「ウリナラ(我が国)」の略語として、当時日本の首都であった場所を百済遊民らは「ナラ」と呼び、後に漢字をあてて「奈良」になった。百済遊民らは消えた祖国百済を「大きな国(コンナラ)」といったが、この言葉が変わって「クンナラ→クダラ(百済)」になった。百済(ペクチェ)を「クダラ」と呼ぶのはこれに起因する』と主張[159] 古代の朝鮮半島の言語の詳細は殆ど今でも分かっておらず[160]、百済が滅びる前後の日本の都は飛鳥と呼ばれる地方に在り[161]、いわゆる「奈良」の地である平城京に遷都されたのは、百済滅亡から50年も後の事である。よって奈良という名の由来に百済を結びつけることは無理がある。そして、「奈良」の語源は「平(なら)の地」であるという説が有力であり、「平城山」と書いて「ならやま」と呼ぶ地名も奈良には残っている(詳細は奈良#語源を参照されたい)。自治体の領域名称として「奈良」が用いられたのは明治2年であり、県庁所在地のあった地名の名称に由来する。令制国の名称としては大和国(7世紀後半は「倭国」、遷都時は「大倭国」)と呼ばれていた。

ちなみに百済を「くだら」と呼ぶようになった由来は不明だとされているが、古代には「くだら」ではなく「くたら」と発音したとされている。そして、「ひゃくさい」という音読み表記も存在する。

「くだらない」の語源 韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授の洪潤基(ホン・ユンギ)が「くだらない」の語源は「百済ない」で、「優秀な百済の文物がないことはみすぼらしいこと=百済・ない」が「くだらない」の起源であると主張している[162]

李南教が、「『クダラナイ』という言葉は直訳すれば『百済にない』になる。言葉の意味は『つまらない』だ。『良くて立派なものはみな百済にあるのに、これは百済にない。だから、つまらない』という言葉だ。」と主張[159]

当時の否定形は「ない」ではなく「ぬ」であり、否定形は「動詞未然形+ぬ」で表記されるものであり、名詞の「百済」に直接打消しの「ない」や「ぬ」が付くはずもないのは言語学の常識である。「下る」という動詞が未然形に変化して「くだら」+「ぬ(ない)」となって「くだらない」となる。「下らぬ」とは公家言葉で下には行かないという意味も含む。さらに当時の一般大衆が「百済」という言葉の存在を知っているとは考えられず、ホン・ユンギの主張の信憑性は極めて薄い。また、江戸時代に酒の名所の伏見などの「上方」で造られて江戸に「下ってきた」酒が「下り酒」と呼ばれていたように、「上方から下ってこない地元で作られたつまらないもの=下らぬもの」が「くだらない」の起源であるという説があるが[163]、「下り物」という言葉が出来る以前より「くだらぬ」という言葉は使われていたため、この説にも信憑性はない。

野平俊水は自著『日本人はビックリ!韓国人の日本偽史』でもしこの説が事実であれば、百済滅亡後から「くだらない」という言葉が存在したはずだとしているが、「くだらない」と言う表現が使われ始めたのは遥かに後の時代である。そもそも文献を見る限り日本語の語彙として「つまらない」という意味で「くだらぬ」という表現が登場したのは17世紀に入ってからであり、それが「くだらない」に変化したのが江戸末期~明治初期の頃だとされている。江戸末期に入ってからいきなり「百済にない=くだらない」と言う表現が突如出現したとは考えにくいため、この表現の語源が「百済」である可能性は低い。

竹島」の語源 韓国地名学会が、「竹島」という名前が竹島の韓国名「独島」(トクド)に由来するという主張している。 ここで説明されている1900年10月25日大韓帝国勅令第41号の「石島」が今の「独島」であるという説の根拠は方言の発音という一点しかなく根拠に乏しい。日本の研究者には「石島」は現在の「観音島」を指すとするものもいる。少なくとも日本が現在の竹島を「竹島」と呼ぶようになったとき(1905年。それまでは「松島」と呼んでいた)には、朝鮮半島においても「独島」という語は一般化しておらず、また、「竹島」の呼称は自然発生したものではなく政府によって命名されているため、「独島」が訛って「竹島」になったという主張には無理がある[164]
釜石」の語源 韓国の製鉄メーカー・POSCOの人材開発院の教授で、児童文学者でもある李寧煕(イヨンヒ)が、地名の「釜石」は古代朝鮮語で「黒い上質の鉄」という意味の「ガマウッシ」が転訛したとの説を主張している。製鉄をした渡来人の存在と関連付け、「ガマ」は古代朝鮮語で「黒」「釜」、「ウッシ」は「上質(ウ)の鉄(シ)」を指し、 同市西部の「甲子」も「ガッシ」のことで、「ガ(磨く・製鉄する・鍛冶をする)シ(鉄)」に由来すると主張している[165] 古代朝鮮語はその存在からして全く解明されていない。日本の古い地名の多くがそうであるのと同様、釜石という地名の語源ははっきりしないが、公式には『釜石市史』で、アイヌ語の「カマ・ウシ・イ(kama・us・i)」→「カマ・ウシ(kama・usi)」の転訛で、その意味は「平盤岩が・ある・所」を語源としている。 またほかの説としてアイヌ語で「クマ・ウシ・イ(kuma・us・i)」→「クマ・ウシ(kuma・usi)」の転訛で、意味は「サケ干し竿の干し場が・多くある・所」というのも一般的である[166]
飛鳥地方」の語源 鄭永鎬(チョン・ヨンホ)檀国大碩座教授いわく「飛鳥の漢字表示は“飛鳥”だったのではなく、元は百済人が渡来して心安らかに定着したという意味の“安宿”(発音はアンスク)だったが、後に変わった」と主張[167] 実際は外来語由来説を否定してはいないものの、地形名称由来説など他の有力な説もあり飛鳥の語源は今でも解明されていない。また何度も述べられている通り古代の朝鮮半島の言語は今でも解明されていない。そもそも、「アンスク」という言葉は単に「安宿」という漢字を音読みしただけであり、朝鮮半島固有の言葉かどうかも疑わしい。
祭り
神輿
「わっしょい」
葦原中国
「至る」
の語源
慶一大学総長の李南教(イ・ナムギョ)が、日本の祭りの起源は、渡来人が死を覚悟した航海の後に日本の大阪近辺に無事たどり着いた喜びを皆で共有するために行った儀式の「団地里」が始まりであると主張している。また、日本の祭りの掛け声の「わっしょい」の起源は、無事にたどり着いたという歓喜の声を表した「来た」という意味の朝鮮語「ワッソ」であり、神輿の起源も「死の航海を超えやってきた」ことから韓国で棺として使った「喪輿」であり、これが無事にたどり着いた喜びの「神輿」に変化したものであると主張している。さらに古代日本を指す葦原中国(あしばらのなかつくに)という呼称の語源も古代朝鮮語であると主張しており、葦(あし)は、日本語の始まりの音である「あ」と古代朝鮮語の「セ」(新しい)を組み合わせたあとにあセ⇒あシと変化したもので、原(ばら)は朝鮮語の「ポル」(原野)から変化したもので「葦原」とは渡来人が到達した「新しい原野」の意味であると主張している。さらに「死を覚悟して到着すること」を純粋な朝鮮語では「イルダ」というが古代語では「イダル」であり、これが日本語の「至る」となったと主張している[168]

また、金達寿金思燁らの複数の在日韓国・朝鮮人や韓国人が、祭りのかけ声の「わっしょい」や「祭り」の語源が、百済との交流によりもたらされた古代朝鮮語の「来た」という意味の「ワッソ」や「マトゥリ」であると主張している[114][169]。これに関連して、在日韓国人らが「古代に先進文物を授けた朝鮮民族とそれを受けた倭人」という図式で、「四天王寺ワッソ」という祭りや「ハナ・マトゥリ」というイベントを開催している[170][171]

日本の祭りはあらゆる自然に対する畏敬の念を表し豊穣を祈願したアニミズムシャーマニズム的要素を持つ神道が起源であり、これに神仏習合の影響を受けて派生して現在知られるような多様な形になったものである。また神輿についても狩猟採集物を備えた祭壇が起源であり、これが農耕の発展により固定化し神社となったとする説が一般的である。

また「왔소(ワッソ)」は「오다(オダ)(来る)」という動詞の語幹「오-(オ‐)」に、過去を表す先語末語尾「-았-(‐アッ‐)」と終結語尾「-소(‐ソ)」が連結された形態であり、過去を表す先語末語尾「-았-(‐アッ‐)~-었-(‐オッ‐)」が現れたのは16世紀頃であることから、古代朝鮮語説の信憑性は皆無である[172][114]。「我背負う」「和を背負う」が転じて「わっしょい」になったという説がある。「だんじり」も「屋台」や祭壇を意味する「壇」を引きずることから「台ずり」「台にじり」「壇ずり」から変化したという説や、山車(だし)が一部方言化したという説、「台尻討った」が起源であるという説などがあり[173]古代朝鮮語が起源であるという信憑性は皆無である。

古代朝鮮語は全く解明されていないため、李南教や金達寿の主張は単なる言葉遊びに等しく科学的根拠は全くない。 "So"という英語の単語には「つまり」の他にも「そう」という意味もあるが(そう思うよ:I think so)関連はないのと同じである。

宗教・祭り[編集]

事例 主張 反証
神社 世界日報中央日報が、「日本の神社が古代朝鮮半島の直接的影響を受けて作られ、日本人は今も韓国の神を祭っている」「日本の神社の多くが韓国起源」と主張。高麗神社飛鳥戸神社といった渡来人を祭っている神社を根拠に神社そのものが朝鮮半島起源であると拡大解釈している [174][175] 実際に朝鮮半島で日本の神社に該当するのは棒の先端に木で作った鳥を突き刺した「ソッテ」とトーテムポールのような「チャンスン(ジャンスン)」であり日本の神社とは別物である[176]
祇園祭
牛頭天王
スサノオ
韓日文化交流研究所長のイ・ユンオクと青い松同胞文化研究所長のキム・ヨンジョが、文化ジャーナル21で洪潤基(ホン・ユンギ)の『日本の歴史歪曲』(学友社)を根拠に、牛頭天王は古代朝鮮半島の神のスサノオと同一であり、それを祭る祇園祭は韓国が起源である主張している。彼らは日本の各地にあるこのような祭りを「包装されている」と批評をし、「日帝によって奪われた多くの韓民族の祭りを再発掘し再現しなければならない」と主張している[177] 牛頭天王はインドの起源の仏教祇園精舎の守護神であり、スサノオは日本神話の神である。これらを同一視する考え方は日本独特の神仏習合における本地垂迹によるものであり、祇園祭は祇園信仰によるものである。
八百万の神
神奈備」の語源
」の語源
慶一大学総長の李南教(イ・ナムギョ)が、日本の神社の神々の全ての家系図を辿ると全ての故郷が伽揶、新羅、百済、高句麗等の古代韓国に行き着くと主張し、「どうして日本人たちは韓国人の先祖を自分たちの神として祭っておいて、祭祀を行って担ぐのだろうか?」と主張している。また、「スサノオノミコト」(素盞鳴尊)は新羅から大王神であると主張している。さらに、「神奈備」の語源は古代朝鮮語の「カムナム(神木)」であり、「神」の語源は朝鮮語の「熊(コム)」であり「コム→カム→カミ」と変化したと主張している[178] 古代朝鮮語の発声方法や読み方は全く解明されておらず、現代朝鮮語の音感を根拠とするのは信憑性が薄く、科学的考察も全くされていない。
ねぶた 韓国政府が、新羅の時代から続くと主張する「燃燈会」と称した祭りを無形文化遺産に申請した[179][180] 燃灯会の記事を参照
サッカーファン
(日本サポーター)
ごみ拾い
民団新聞の2014年6月23日の記事「W杯W杯試合後のゴミあつめ、1985年と 2014年」によると、85年にW杯の出場権をかけ国立競技場で行われた日韓戦の終了後、日本サポーターがゴミを投げ飛ばしていた一方で、韓国サポーターとして観戦した約5000人の在日韓国人は、ほぼ全員がゴミ拾いをしていたと主張。後の日本サポーターの代表となる人物がこの光景を見ていて、彼は97年の日韓戦では、少年の頃に見たその在日韓国人達のゴミ拾いを見習い、サポーター仲間に青いゴミ袋の持参を呼びかけたという。袋は、応援用グッズでもあるが、本当の利用目的は試合後にゴミ拾いをするためだったという[181] 試合後のゴミ拾いは、サポーターによる「応援のためのものが、ごみになっては格好が悪い」との呼びかけで始まった[182]。いずれにしても、件の85年の日韓戦とは関係がない。ちなみに、日本人サポーターがゴミ拾いをする姿に当初の韓国メディアは「地元職員の仕事を奪う行為だ」と非難しており、世界各国が称賛し、他国サポーターも見習ってゴミ拾いしてから主張してきた。韓国人サポーターも当初はゴミ拾いしていたが、予選敗退後はゴミ拾いせずに退場した。

人物[編集]

事例 主張 反証
東洲斎写楽
十返舎一九
作家の李寧煕が、『もうひとりの写楽―海を渡ってきた李朝絵師』(ISBN 4309902774) を出版し、写楽は朝鮮通信使だった。また、十返舎一九の父親もまた李朝の高官だった、などと主張している。また、韓国では檀園・金弘道と写楽が同一人物であるという説もある。映画化の話も持ち上がっている[183]。ちなみに事の是非に関しては言及していないものの、李寧煕の主張は民団のホームページでも紹介されている[184] 源義経がチンギス・ハーンだというのと同じ程度の主張。複数の文献の調査や写楽の肉筆画の発見により現在では写楽の正体は阿波蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であった事がほぼ確実視されている。

十返舎一九が李朝高官のおとし子だと言う説は、第11回通信使の一人が「日本人下女を孕ませた」と言う理由で対馬藩の通詞・鈴木伝蔵に殺害された事を根拠にしているが、この事件は日本人下女を孕ませたからではなく朝鮮の役人が鏡を紛失したのを聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめたのが発端とされている。そして、十返舎一九は駿河国府中生まれで父親は駿府町奉行所で同心を勤めていた重田家八代与八郎鞭助だとされており、母親が李朝高官に孕まされた下女だったとする資料は存在しない。

なお、元々重田宗家には十返舎一九を含む家系図及び重田他家とのつながる資料も確認されている上、事件が発生したのが大阪である事からも、十返舎一九の生い立ちと関係が有った可能性は全くない。

蘇我氏 公州大学校のイ・ナムソク教授が「石舞台古墳は7世紀ごろ百済系の蘇我氏が作った大規模な墓として推定されている」と主張している[185] 蘇我氏の出自については、河内の石川(現在の大阪府石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族であった、などの説があるがいずれも定かではなく、応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする蘇我氏渡来人説はそれら諸説ある一つの仮説に過ぎず、史料上の問題点が非常に多い[186]

問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である[187]

  1. 「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木刕満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
  2. 百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
  3. 渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
  4. 木刕満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
  5. 百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗の正名である高麗であること

満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている。

森公章浜田耕策は「木満致を蘇我氏の祖の1人である蘇我満智宿禰に比定する説は、現在では殆ど否定されている」と指摘している[188]

天照大神
卑弥呼
チェ・ユギョンが「日本の800万の神様のうち最高位である天照大神、つまり卑弥呼は韓国女性だった」と主張する『天照大神』という本を出版している。チェ・ユギョンはその根拠として「インカマヤのような高度文明を持った国で発達するといわれる太陽神が、当時韓半島よりも水準の低い邪馬台国で生じた事や、しかも女性であるということも変で、これが根拠だ」と主張をしている[189] 「八百万の神」は「非常に多くの神」を意味した多神教を意味する呼び名であり数を表したものではなく基本的な知識がかけている。また卑弥呼が天照大神であるという主張も全く学問的裏づけのあるものではなく、文明の発達段階と太陽神信仰の関連付けをするのも非科学的である。日本でも白鳥庫吉和辻哲郎が「卑弥呼=天照大神」説を唱えていたが根拠が薄弱であったため現在ではほぼ完全に否定されている。
天皇
応神天皇
舒明天皇
396年に沸流百済最後の応神が日本に渡り15代日王(天皇の韓国での呼称)となったという[190]。なお、根拠は広開土大王碑から出てきたとしている[190]。また、舒明天皇は641年百済宮で死去し、賓所を百済大賓とした点から見て百済系なのが明らかだとしている[190]。なお、根拠は日本書紀としている[190]

また、経済学者の洪元卓(ホン・ウォンタク)ソウル大学経済学科教授は、日本初の古代国家である大和国は、4世紀後半の百済人たちが日本列島に渡って建国した国であり、天皇族の根源は百済王族であると主張している。洪教授は「日本の15代王である応神天皇が大和政権の実際の設立者であり、彼は百済王族の子孫と推定される」と主張している[191]

李成市早稲田大学教授は「近代韓国の民族意識を古代に投影している」「韓国人による韓日関係史研究は日本民族に対する韓民族の優越性を古代史の中から追い求めることが疑問の余地もなく試図されてきた」などと批判している[190]。また、日本古代史学者の金鉉球高麗大学教授は『朝鮮日報』2001年12月25日において、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出ているが、史料の恣意的解釈など歴史研究者の立場からみるとき学問的成果として受け入れられない」と批判している[192]

『三国史記』によれば「沸流百済」は一応存在した事にはなっているが(正確に言えば百済になる前の段階に存在した沸流の国であり、百済と名乗ってはいなかった)弟の国ほど自分の国が繁栄していないのを恥に思った兄沸流が自決したため、弟温祚の国(当時は十済と号したとされる)に早い時期に併合された事になっている。温祚は兄の国を併合し、百姓を受け入れたので「百済」を名乗るようになったとされているが、346年頃以前、もしくは建国神話に従うのであれば紀元前18年以前の事になるため、いずれも主張されている沸流百済の歴史と符合しない。そもそもこの説に登場するような繁栄を極めた「沸流百済」と言う存在は大朝鮮帝国史などのトンデモ系の歴史書にしか登場しない(現在の遼寧省山東省・日本にまたがる大帝国だったとされている)ため、信憑性のある説とは言えない。

応神天皇
倭王武
ヤマトタケル
八幡神
大国主命
スサノオ
朝鮮新報』が、林順治の著作『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった』を紹介する記事で、応神陵に埋葬されているのは百済王の蓋鹵王の弟の昆支であり、仁徳天皇陵に埋葬されているのはその弟である余紀で、応神天皇と倭王武とヤマトタケルと八幡神と大国主命とスサノヲが全て同一人物の百済人昆支であると主張している。朝鮮新報は本書について「秘密を解き明かした本書」「驚くべき史実を明らかにする」と紹介し、この主張に同調している[193] 日本ではそもそもヤマトタケルが実在した人物であるか否かの議論の決着すらついておらず(2世紀に実在したとする説や、複数の英雄をまとめて一人の人物に仕立て上げた、と言う説などが存在する)応神天皇(201年~310年、もしくは393年)も応神・仁徳同一説が存在するなど今なお決着を見ていない。また、昆支の兄である蓋鹵王(生年不詳、在位455年 - 475年)の在位期間や息子である東城王(生年不詳、在位479年 - 501年)の在位期間などを考えると、昆支・応神天皇同一説を唱える場合、関係する人々の生没年等を相当曲解しないと計算が合わない。
応神天皇 大朝鮮帝国史の作家金珊瑚は画集『韓国105代天皇尊影集』で、高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇が、奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国を支配していた主張。日本に千字文を伝えた王仁博士の「王仁」と応神天皇の「応神」は、どちらも日本語で「オージン」と読めるから同一人物と主張[194] そもそも上記のように「大朝鮮帝国史」に資料的価値は存在せず、それに登場する「大百済帝国」や「奈良百済」も歴史上実在した国家ではない。また既に指摘されているよう「王仁」とは日本側の資料にしか登場しない人物だが、この説ではその王仁の存在は認めているものの応神天皇の存在は否定すると言う二重基準を見せている。
日延 円光大学校韓国文化学科の梁銀容教授は、李氏朝鮮第14代王宣祖の孫が、文禄の役のあった1593年に日本に人質として連れて行かれ、宣祖の長男である臨海君の息子太雄が日蓮宗の代表的な高僧に挙げられる日延だと主張[195]  
菅原道真
スサノオ
天照大神
洪潤基(ホン・ユンギ)韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授は、菅原道真新羅人の子孫であり、素盞鳴尊天照大神も新羅人であると主張している[196] スサノオに関しては日本書紀に新羅に関する記述が登場するため[197]新羅との関連性を疑う理由は一応あるものの天照大神に関してはそう言う記述は存在しない。そもそもスサノオの記述についても、スサノオが高天原(倭国)を一時的に追放されたと考えるのが通常である。天照大神はスサノオの姉であるためスサノオが新羅人なら天照大神も新羅人に違いない、と言う解釈のようだがそもそもこれは神話であり、実在した人をベースにしたものではないかもしれないという視点が完全に欠落している。上記の歴史教科書の項目に書いてあるような、日本書紀の都合の悪い部分は無視して都合の良い部分のみ取り出して拡大解釈する「つまみ食い」の典型例と言える。

菅原道真に関しては渡来人とする説もある土師氏の子孫だと言う事は明らかになっているものの、それとて土師氏が渡来人だという証拠は存在せず、あまつさえ新羅系の渡来人だったと断定できるような資料は存在しない。上記の「奈良漬」の項目に書いてあるような「新羅による出雲征服説」をかなり真に受けて自説を主張しており、説としての信憑性はほとんどない。

佐藤栄作
岸信介
安倍晋太郎
金忠植東亜日報論説委員は著書『悲しい列島―永遠の異邦人四百年の記録』(ヒョヒョン出版)で、壬辰の乱直後の1598年日本に連れて来られた陶工の沈寿官家門の14代子孫をインタビューする過程で、佐藤栄作、岸信介は韓国系と明らかになったとし、「岸総理と佐藤総理は・・・韓国人の血統が混じっているわけだ。これと共に・・・80年代4期連続日本外相を引き受けた安倍晋太郎にも韓国系が多い山口県出身という事実は、安倍に韓国人の血が濃く流れていることを傍証する。『対韓半島タカ派の先頭走者が韓民族後裔だなんて』金委員は本で『日本総理の靖国神社参拜を積極支持するナショナリストに韓半島血統が伝えられているということはまことに皮肉だ』」と言った」と報道した[198]

また、『中央日報』も、岸と安倍の家門家政婦として40年を過ごした久保ウメによる証言として、「パパ(安倍元外相)は誰にも言えないことを私には言ってくれた」「(安倍元外相死去直後)入棺のとき、この人の骨格を見ながら本当に日本人の物ではないと思った」「頭からつま先までまっすぐに横になっていたが、完全に韓国人の体形だ。(安倍元外相)自らも『私は朝鮮人だ。朝鮮』と言っていたが、この人は朝鮮人だと思った」と報道した。また、安倍元外相は生前に安倍家の起源は10世紀くらいまで韓半島北で中国大陸にかけて存在した渤海に始まったという考えを持っていたが、日本での安倍家の起源は明らかではないとし、安倍家の起源については「安倍家の本流は青森県だ。安倍元外相が朝鮮だと言ったが、これは今の北朝鮮ではなく、その北と吉林省の下側にあった渤海」と「11世紀平安時代の武将だった安倍が今の安倍家の祖先と一致する」と報道した[199]

沈壽官のホームページにはこの逸話に関する言及もなければ、金忠植の著作に関する言及もない[200]。この説では佐藤栄作の祖先は「壬辰の乱以後(1598~)」日本に渡ったとしているが、これの主張にはかなり無理がある。山口県史学会の調査によると確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久で、寛文2年(1662年)頃から萩藩の士分になったとされるため「祖先が韓国人」と言う条件を満たすためには日本に来た時期は1598年以後で1662年以前である必要がある[201]。しかし文禄・慶長の役の後、日本と朝鮮はしばらく断交しており、対馬藩等の尽力により江戸時代になってから初めての朝鮮通信使が派遣されて関係が回復したのは1607年の事である。しかも1616年からは鎖国体制が実施されはじめ、外国船の長門[要曖昧さ回避]平戸[要曖昧さ回避]以外の来航は禁止された。貿易も外国との民間貿易は完全に禁止されており、李氏朝鮮の場合は対馬藩経由の管理貿易のみ許可されていた。

そもそもこの説は「佐藤元総理から聞いたと言っている人に私が聞いた」と言う根拠薄弱極まりない説だがその点を無視しても、全く現実的ではない。

宗重尚 韓国の言語学者である黄白炫(ファン・ベクヒョン)博士が、宗氏は本来韓国の宋氏であり、宗重尚は釜山出身であるとの研究を発表。[202] 宗氏は桓武平氏の後裔を称しており、現代の研究によれば実際には惟宗氏であるという説が有力である。

また同研究では宗重尚の墓が存在せず、釜山に墓があるとしているが、その根拠は不明。そもそも宗重尚は実在の人物ではないという説が有力。

継体天皇  
オヤケアカハチ 洪吉童八重山諸島に逃れ、オヤケアカハチになり、尊敬される指導者として活動し、民を苦しめる日本政府に対抗して戦い、このような事実が日本の歴史の本にも記されているという「同一人物説」をソル・ソンギョン延世大学教授と梁灌承が唱えている[203] 「同一人物説」そのものについては、時期的な一致やフルスト原遺跡から韓国の陶磁器や古銭が出土した等が根拠として提示されているのみであり[204]、日本では「韓国側の思い込み」として否定されている[205]
天照大神
西郷隆盛
吉田松陰
世界平和統一家庭連合(旧統一教会教祖文鮮明の「御言」を歴史的に保存している『御言選集』は、「日本の天照大神のルーツは韓国にある。百済の2番目の女王が日本に逃げてきて、天照大神になったんです」「西郷隆盛のような人も九州人だったので韓国人だったんです。吉田松陰という日本の啓蒙家も韓国人でした。それを知っていますか? 彼らの先祖が韓国と大陸につながっていたからです」「明治維新以前の日本人野蛮人でした。苗字もありませんでした。(略)それを吉田松陰を中心として訓練、教育したのは韓国人なんです。西郷隆盛も韓国人です」と記録しており、朝鮮半島と地理的に近い地域出身の人々のルーツは朝鮮半島にある、だから薩摩長州の人々も韓国人であると文鮮明は主張している[206]  

歴史[編集]

事例 主張 反証
勾玉 韓国MBC放送の「勾玉の秘密」(2006/9/20) において、「燦爛たる黄金文化を成した新羅人たちは金冠だけではなくすべての装身具に黄金で飾った勾玉を採用し、長い間日本国にまで伝えながら勾玉文化を形成して来たと見られる。青銅鏡、刀と共に日本天皇が持つ三種の神器に属する勾玉は、韓半島から伝来されて日本建国神話にまで影響を及ぼしたと思われる。」と主張[207] 勾玉は縄文時代の日本が起源で、朝鮮半島に伝わったものと考えられている。朝鮮半島で発見される翡翠製の勾玉については日本の糸魚川で産した物が発見されており日本から朝鮮半島に渡った物であり、朝鮮半島において遺跡より翡翠の生産跡地は発見されていない。(ヒスイ製勾玉を参照)
倭の五王 百済の棄民が日本で国を建国し倭の五王を名乗ったとするものから、新羅王族が実際の倭の五王であったする説など、韓国内でも幾つかの説が唱えられた。根底には、安東大将軍が中華世界における朝鮮半島南部の支配者とされたことによる影響と、日本の皇族批判(倭の五王を朝鮮人とすることで天皇を朝鮮系として貶める)の二重の意味合いを持つ。 倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋で各時代の天皇に対し用いられた名称、、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」(安東大将軍)と言う名称のもと、日本と半島南部の支配権を天皇が保持することが確認された。

朝貢の主な目的は、いずれも朝鮮半島での倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認にあったとされる[1]

熊本城 2007年10月、朝鮮日報は「400年ぶりに和解した蔚山市熊本市」と題して、熊本城の竹の丸特設ステージで開催された「友情コンサート」の模様を伝えた。この中で、約400年前に加藤清正が朝鮮に出兵した際、蔚山市に駐屯し、その後敗走する際に築城技術者など1000人を熊本へ連行、彼らの技術によって熊本城が築かれたとした[208] 熊本城が朝鮮式の築城方式から影響を受けたという記録や痕跡は存在せず、蔚山市で明・朝鮮軍と戦った蔚山城の戦いでは日本軍が勝利しており、この点で朝鮮日報の報道は事実と異なる。蔚山市に城跡が残る蔚山倭城は加藤清正が縄張をして毛利秀元浅野幸長らにより築城された日本式の城である[209]ため、蔚山倭城の存在も朝鮮日報の説を裏付けるものではない。
日本(国家) 日本の倭国は4世紀後半から百済の侯国であり、日王(天皇の韓国での呼称)はこれら侯国の君主のうちの一人であったとしている[190]。根拠は漆器としている[190]。カン・ドンミン韓民族文化研究院理事長が「日本の歴史は、古代に遡るほど、すべての部分で我が民族の歴史が現れる。その理由は我が民族が日本を作ったからで、日本のすべての文化が我が方から伝授されたものだからだ。」と主張し日本という国家を作ったのは韓国人であると主張している[210]

経済学者の洪元卓(ホン・ウォンタク)ソウル大学経済学科教授は、日本初の古代国家である大和国は、4世紀後半の百済人たちが日本列島に渡って建国した国であり、天皇族の根源は百済王族であると主張している。洪教授は「日本の15代王である応神天皇が大和政権の実際の設立者であり、彼は百済王族の子孫と推定される」と主張している[191]

玄ギョンビンの『韓国人は偉大な韓国を望む』(1992年)は、日本の古代から近世までの歴史を次のように説明する。「日本は7世紀未から国家形成期に入った。それ以前の日本は三韓・伽耶・百済などが自分の領土の一部として統治してきた。しかし660年、百済が滅亡し、その後裔らが続けて行った百済復興運動が失敗するや日本列島は自らの歴史期に入ったのだ。扶余氏家門が日王家を形成し、新羅系・百済系・高句麗系が武力で王族や貴族集団を構築した。彼らは新しい文化や伝統を普及させる一方で、土着原住民を制圧し、列島全域へと勢力を広げ、支配力を確保して日本を建設した」

李成市早稲田大学教授は「近代韓国の民族意識を古代に投影している」「韓国人による韓日関係史研究は日本民族に対する韓民族の優越性を古代史の中から追い求めることが疑問の余地もなく試図されてきた」などと批判している[190]。また、日本古代史学者の金鉉球高麗大学教授は『朝鮮日報』2001年12月25日において、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出ているが、史料の恣意的解釈など歴史研究者の立場からみるとき学問的成果として受け入れられない」と批判している[192]

水野俊平は自著の中で日本が4世紀後半から百済の侯国になっていたとしたら、その時期に百済が新羅と同盟して高句麗に対抗していたのにもかかわらず同時期に日本が新羅に侵攻を繰り返していたのはおかしい、とこの主張の矛盾を指摘している[114]。もし日本が実際百済の属国だったとしたら、勝手に宗主国の同盟国に侵攻する事などありえないはずだからである。それ以外にもこの時期百済は高句麗に圧迫されて北方の領土を次々と失っており(王弟が捕虜になると言うような事まであった)、とても日本に影響を拡大する余裕などなかったのではないかと思われる。また、広開土王陵碑に記載されている「倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった」や「百済は先年(398年)の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた」等の記述と完全に矛盾[211]してしまう。

この主張では遣隋使遣唐使や、日本仏教の歴史に大きくかかわった鑑真空海最澄が東シナ海を往来した歴代中国王朝との直接海上ルートの存在を無視し、日本列島で独自に発祥・発展したあらゆる文化の存在も一切無視している。

日本の国号 貿易会社サムエ社の朴定和(パク・ジョンファ)代表理事が、「日本」という国号を創案したのは7世紀の高句麗僧・道顕であり、それ以前の日本の通称である「倭」は伽倻の別称であった。つまり古墳時代はもちろん、奈良時代まで古代日本の支配階層および主流階級は大和民族でなく、韓半島からの渡来人だったと主張した[212]。また、朴定和は、著書『The Historic Long、Deep Korean Roots In Japan(歴史的に深くて永い日本の中にある韓国の根)』(ビンテージプレス刊 )で、日本の建国神話に出てくる大己貴尊と少彦名命は、奈良市の神社に韓国の神として祭られている、などと記述している[213] 「日本」と言う国号が7世紀~8世紀頃から使われ始めたのは史実だが、一般的には天武天皇の治世(672年 - 686年)に「天皇」号と同時に成立したと言う説か701年の大宝律令の制定に伴って成立したと言う2説が有力視されている。道顕は日本書紀の原資料となった「日本世記」を執筆した事で知られている人物だが、「日本」の国号成立にかかわったと言う説は有力視されていない。

「倭国」から「日本」への国号変更は当時の国際情勢(唐の隆盛)を理由とした律令国家への脱皮の一環として行われたものだと考えられており、なぜ国号を変更したことが大和政権内の支配者層が大和民族ではなく渡来人であったと言う理由になるかは不明。

琉球王国
(今沖縄県
韓国・成均館大学の博士学位である鮮于栄俊・首都圏大気環境庁長が、「沖縄の旧称である『琉球国』が『古代の鬱陵島住民の移住によって建国された』」と主張している[214] 真偽は不明であるものの、琉球の正史では沖縄の地に逃れた源為朝(鎮西八郎)の子が琉球王家の始祖舜天になったとされている(しかし源為朝は上記のように歴史上はじめて切腹した人物としても知られている)。ただし最近の研究で沖縄県の住民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっているため源為朝の説はともかくとしても、鬱陵島からの移民が建国したと言う可能性は低い。
島根
九州
対馬
大和政権
古事記
小説家のピョ・マヌンが、韓国中央日報に寄稿して、韓国で捨てたゴミが日本の海岸に漂着することを根拠に、慶尚道に住んでいた伽耶人が船に乗って島根に漂着し支配者になり、出雲大社はこれら伽耶人を祭ったものであると主張している。さらにピョは、古代九州も伽耶人が統治した土地で、大和政権を立てたのは百済人であると主張し、「伽耶と百済が征服した日本の地は韓国のものだ」と主張している。また百済人が書いた『古事記』に任那の日本統治説がでるのも伽耶が九州を統治したことを裏付けるものであり、慶尚北道と島根県や、扶余市と熊本市が姉妹提携しているのもこれらの脈絡からくるものであると主張している。さらに対馬は昔から伽耶人や百済人が往来した拠点だったから韓国の地であると主張している(文中で日本人を「原住民」と表現)[215] 国を建てるに足る人数が意図的に慶尚南道から島根を目指したと言うのは、慶尚南道と島根は決して近くはないことからも古代では相当な難事であり、偶然漂着した少数の伽耶人が支配者までに上り詰めという信憑性も薄い。そして、「伽耶が九州を支配していた」や「大和政権を建てたのは百済人である」という歴史資料は存在せず、主張には根拠すら提示されていない。さらに、仮に伽耶と百済が日本を征服して支配していたとしても、現在の韓国は、伽耶や百済の継承国というより百済や伽耶を滅ぼして朝鮮半島を統一した新羅の方がまだしも継承国といえる。

慶尚北道と島根県が提携していた[216]のは事実だが、島根県はその理由の一つに古代における新羅との結び付きをあげており[217]伽耶ではない。また、熊本市が扶余市と提携していると言うのはピョの誤認である(熊本県が扶余郡の所在地である忠清南道と提携している)。何らかの縁があって姉妹提携しているとは言え、それが古代に伽耶と百済が日本を征服していたからだと主張するのは曲解である。

旭日旗 高麗大学の金采洙教授が、旭日旗は古朝鮮檀君神話の「韓」という軍旗を元に作られており、「韓」は「朝の光がさんさんと輝く様子を示す旗」であると主張している[218][219] 主張の根拠を示す資料も一切提示しておらず完全な創作である。旭日旗の歴史は「旭日旗#概要」を参照のこと。

動植物[編集]

事例 主張 反証
錦鯉 金方園水族館が、池を作る技術が百済から日本に伝わったことと朝鮮半島の故事に鯉に関わるものがあることから、錦鯉のルーツを日本ではなく韓国にあるものとしている[220] しかし、4世紀の中国の書物にすでに様々な色のコイについての言及があり、この主張は韓国発祥や日本に伝わった説の証拠にはならない(コイ自体は西アジア原産)。錦鯉と呼ばれる種類が出来上がったのは19世紀の新潟[221]
生態系 韓尚勳・野生動物連合常任議長が、「日本の生態系の根は韓国」「韓国の優秀な生態系が日本に伝わった。日本の生態系の“根”が韓国であるということを日本人に知らせる」と主張している[222] この説は朝鮮半島と日本列島の地理的・気候的な差異を一切無視しており、主張の根拠となる資料・考察も明示していない。さらに、日本で最も一般的な潜在植生は中国南西部から日本列島にかけて広がる照葉樹林帯であり韓国では南部の一部にしかなく、日本と朝鮮半島では植物の生態系が根本的に異なる。そして、日本の針葉樹の中で最も一般的であり、歴史的にも木材として重宝されてきた (Cryptomeria japonica) は日本の固有種であり、庭園木や木棺に重宝される高野槙 (Sciadopitys verticillata) も日本の固有種である。杉と同じく木材として重宝されてきたヒノキは日本のみに見られる種であり、日本の生態系は韓国より台湾や中国南部に近い。
ソメイヨシノ
花見を含む桜全般)
韓国では官民一体となって強力に推し進めている起源説。毎年花見の季節になると、韓国三大紙や聯合ニュースといった主要メディアも取り上げる。政府系の韓国文化庁や韓国国立山林科学院もソメイヨシノは済州島が起源であると主張している[223]。また全米桜祭りとからめてアメリカワシントンD.C.ポトマック川川辺の桜も済州島原産であると主張している。2009年以降、ソメイヨシノ済州島起源説の主な根拠となっているのは、2009年4月6日に聯合ニュースが記事にした韓国国立山林科学院暖帯山林研究所のキム・チャンス博士の研究である。記事によるとキム・チャンスは2009年にワシントンD.Cを2度訪問し、ポトマック川川辺の桜の標本を採取して遺伝子 (DNA) 分析を数回行ったところ、ポトマック川の桜と王桜が同じであると確認されたという。キム・チャンスは、日帝強制支配期に日本人が済州島の王桜を改良、のちに大量増殖し、それを3000株アメリカに贈ったものがポトマック川川辺のサクラだと主張している[224][225]

なおこの件に関し韓国では「日本は歴史教科書まで改竄している」という主張もあった[226]。大田西区文化院事務局長は「桜花が日本に渡ったのは、韓国仏教が日本に布教された6世紀頃である」とし、その根拠として「日本桜の総本山と呼ばれる吉野山の所在地が538年から百済聖王が日本に仏教を布教した地である奈良県にあるから」と主張をしている[227]。チェ・ソンウク農協中央会教育院教授は、「日本には地元日本桜の自生群落地がないのに対し韓国には20か所も自生地がある」「桜が日本の花ではないもう一つの証拠だ」と主張している[228]。2009年4月10日、中央日報英語版が「多くの韓国人学者が、桜の木は日本ではなく、韓国から発したと主張します」と桜の韓国起源を主張する記事を掲載した[229]

また、アメリカ農務省のサイトに掲載された韓国人チョン・ウンジュ博士のDNA調査(2011年4月改訂)では、この2種は完全に別種と結論づけていたが[230]、2014年4月に、韓国KBSの取材に答えたチョン博士は、この論文は誤りであったとし、近くソメイヨシノの起源が王桜であるとする論文を発表すると前言を翻した[231]。2014年4月3日、テレビ・KBSニュースは "花の戦争...日本桜の起源は「韓国」"と題して報道した。キム・チャンス博士(韓国国立山林科学院)は「韓国山林庁が日本と韓国の桜のDNAを分析した結果でも、米国農務省が日本と韓国の桜の試料82個を採取して塩基配列を解析した結果でも、済州王桜と日本桜が遺伝的に同一であることが確認された。」と主張し、チョン・ウンジュ博士(元[232]米国農務省傘下・米国農業研究所所属)も「生態学的、科学的な分析を通じて、ソメイヨシノの原産地が韓国であることは明らかだが、日本は自分たちのものであるとの主張ばかりを繰り返している。」と続き、専門家の両氏による見解を根拠として紹介。また、番組では日本の主張に対して、「様々な文献から日本桜は済州原産であったことが見つけられるのに光復節後に立場を変えた」「前出の通り、韓国と米国で遺伝子研究結果が出ているにもかかわらず、エドヒガンオオシマザクラの交配雑種でソメイヨシノが生まれたと言っている。しかし、日本は自生地をまだ見つけられずにいる」などと反論。更に、日本が米国ワシントンに寄贈した桜についても「済州原産と同種」であると説明した上で、「問題は、このような桜の花を自分たちのものであると歪曲し、外交的手段として活用しているのです。」と言及。なお、済州王桜の現地リポートで映った案内看板には「ソメイヨシノ(染井吉野)の自生地」と4ヶ国語(ハングル・英語・中文・日本語)で書かれていた[233]

2014年4月16日、NEWSISによると、東洋美術史学者のジョンカーターコベル博士は、東京市長が最初にワシントンD.Cに贈った桜は病害虫感染により全量焼却処分されたので、二度目となる1912年には米国の風土に強く生き残ると考え済州島産の王桜を寄贈したと指摘したという。記事は済州島漢拏山にある王桜の自生地で苗木を大量採集して、東京で一時保管した後、米国に輸送した可能性が高いと補足した。 [234]

2015年には、アメリカン大学(AU)のルイス・グッドマン学長は、在米韓人科学技術者協会(KSEA)の第3回年例会議で、環境アナリストによって行われた研究の結果「DC地域の桜と済州島産桜が同じ種と確認された」とし、「DCの桜は韓国済州島が原産地である王桜」、「当該の桜の木が、珍しい植物を収集した日本に、遠い昔済州島及び鬱陵島地域で採集された可能性もある」と韓国起源説を後押しする仮説を立てた[235]。2015年、在米韓国人ジャーナリストのムン・ギソン氏が、東京市が1912年にワシントンに3020株、ニューヨークに3000株を米国に贈ったことについて、「短期間に6000本を超える桜を集め、米国に贈れるのか、納得がいかない」として、日本が済州島の桜を採取して贈ったものだと主張。同時に「今からでも、済州で1911年ごろにソメイヨシノが採取された記録があるかもしれない。政府レベルで隠された歴史の発掘に乗り出すべきだ」と訴えている。[236]

はヒマラヤ地域が原産とされ、北半球の温帯に広範に分布している[237][238]。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている[239]。ソメイヨシノの片親とされるオオシマザクラは伊豆半島を原産地とする日本固有種である。

2017年1月、国立研究開発法人森林総合研究所岡山理科大学と共同で、サクラの種間雑種について形態や遺伝情報に基づく最新の知見を踏まえて分類体系を再検討し、正しい学名を国際的に確立した。 その結果、ソメイヨシノ(Cerasus × yedoensis)はエドヒガン(Cerasus spachiana)とオオシマザクラ(Cerasus speciosa)の種間雑種であるのに対し、韓国の王桜はエドヒガンとオオヤマザクラ(Cerasus sargentii )の種間雑種であることが判明し、ついに王桜は学名Cerasus × nudifloraが命名され、ソメイヨシノと王桜は明確に区分・差別化されることとなった[240]

また、2014年4月にソメイヨシノの原産地が済州島であると主張した前述のチョン・ウンジュは、アメリカ農務省傘下の研究所に在籍していた2007年には、ワシントンD.C.ポトマック川川辺のソメイヨシノのDNA鑑定を行った結果、ソメイヨシノと済州島の王桜は別種であると結論づけていた[232]。しかし、2014年4月の韓国KBSの取材に対しては、2007年の論文の結論は誤認であったと主張し、ソメイイヨシノの起源が王桜であるとする論文を新たに発表するとして2007年の結論を翻している[231]。チョン・ウンジュの主張が反転し、キム・チャンスが行ったDNA鑑定もアメリカ農務省のサイトに掲載されたチョン・ウンジュの論文概要の2年後(2009年)であるが、アメリカ農務省のサイトでは、農務省傘下での研究結果のみを掲載していることから、2種が別種であると結論付けた2007年のチョンの論文概要が依然掲載されている[232]

そもそも済州島の王桜が発見されたのは1908年4月15日である。済州島西帰浦に住んでいたフランス人神父タケ (Taquet) がこの日、漢拏山北側の観音寺裏手の山、海抜600メートルの地点で採集した。採集された標本は1912年になって当時バラ科の権威だったドイツベルリン大学ケーネ (Koehne) 博士によって最初に同定された[241]。ところが東京市市長だった尾崎行雄が東京の桜の名所だった荒川堤の桜を穂木にしてアメリカのワシントンD.Cに12種類計3020本の桜を贈ったのは、1912年3月のことである(サクラの植樹式は3月27日) 。王桜がはじめて採集されたのが1908年4月で新種と同定されたのが1912年であるにもかかわらず、その1912年3月には日本がアメリカにサクラを贈呈している。日本が品種改良をして云々というキム・チャンスの主張はデタラメと言わざるをえない。なお尾崎がアメリカワシントンD.Cに贈ったサクラ12種類の内訳は、ソメイヨシノ(1,800本)、有明(100本)、フゲンゾウ(120本)、福禄寿(50本)、ギョイコウ(20本)、イチヨウ (160本)、ジョウニオイ(80本)、カンザン(350本)、ミクルマガエシ(20本)、シラユキ(130本)、スルガダイニオイ(50本)、タキニオイ(140本)で合計3020本だった[242]。この時、ニューヨークにも同様にサクラが贈呈された。

東京市長が二度目に寄贈した桜は1912年3月にワシントンD.Cに到着したが、この寄贈計画自体は1910年3月から始まっており、韓国併合1910年8月29日より前である。一度目の失敗を踏まえ、苗木の栽培から輸送に至るまで、専門家が携わり周到な準備で進められ[243]、病害虫に強いとされた兵庫県伊丹市東野産の桜を台木に、東京・荒川の桜を接ぎ木し、さらに青酸ガス燻蒸で害虫駆除も念入りに実施した[244][245]

王桜起源説の起源は1932年に小泉源一がソメイヨシノの王桜起源説を唱えたことによるものであるが、搾葉標本が残されておらず当時から疑問視されており、現在ではDNA鑑定により王桜とソメイヨシノの遺伝的形質が一致しないことから済州島起源は否定されている[246]。ソメイヨシノの起源は、江戸時代の染井村(現・東京都豊島区駒込)で開発された「吉野桜」であり、父をオオシマザクラとし、母をエドヒガンの園芸品種のひとつであるコマツオトメとする、交配で生み出された人工作出の可能性が以前から提起されており[247]、2007年の研究では父をオオシマザクラ、母をコマツオトメではないエドヒガンとする交配種の可能性が高いことが判明している[248]。また2014年の研究[249]では、核SSR(シンプル・シーケンス・リピート)マーカーを利用したDNA解析によって、ソメイヨシノの交雑割合が、エドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、その他5%であることを示した[250][251]

ソメイヨシノの名称は「吉野桜」から1900年に学術的に正式に命名されたものであり、またこの品種は奈良県吉野地方に古代より自生している桜(ヤマザクラ)とは異なる品種であり、名称の「吉野」は古来よりの桜の名所の地名にあやかったものである。またソメイヨシノは交配雑種にしばしば見られるように実成が非常に不良であり、接木などにより枝分けしなければならない。ソメイヨシノは他の品種の桜と交配することは可能でこのばあい結実するが遺伝子特性が変化してしまい別種となってしまう。

日本各地に見られる現代のソメイヨシノは基本的に明治あるいは第二次世界大戦後に、人間の手により枝分けされたものである。古今集など古代より歌われ愛されたサクラはソメイヨシノではない。自生するにしてもソメイヨシノからソメイヨシノの種が取れることは無いためオオシマザクラとエドヒガン系の混成自生地である必要がある。済州島にはヤマザクラとエドヒガン系の自生混生地があり、この雑種であるとされる1908年に発見された王桜がソメイヨシノと仮寓されたものと考えられるが、遺伝的形質や1720-1735年ごろ作出されたとする江戸時代の文献史料に一致しない。

またソメイヨシノはエドヒガンと伊豆諸島に固有分布するオオシマザクラとの交雑により誕生したことから、「ソメイヨシノ韓国起源説」は成立しないが、広義の種の定義ではオオシマザクラは、ヤマザクラの一種という意見もあり、ヤマザクラは4つの変種(通常はそれぞれ独立種とする場合が多い)からなり、そのうちのカスミザクラは朝鮮半島にも分布しているため、韓国でエドヒガンとカスミザクラを交配したら「ソメイヨシノそっくり」という場合も可能性としては有り得るが、仮にオオシマザクラとカスミザクラを「同じ種族」と仮定しても、DNA解析からソメイヨシノは伊豆諸島産の集団が親であることが確定しているため、仮に韓国で作られた「ソメイヨシノそっくり」が存在したとしても、それはソメイヨシノではない[252]

秋田犬 韓国動物保護研究会のユン・シングン会長が「秋田犬」を 珍島犬全羅南道珍島産の犬)が現地化したものと主張している[253] 一方、秋田県の公式サイトによれば、「秋田犬はヨーロッパからソビエト〔ママ〕を経て北海道を経由して秋田に土着したもの」とのこと[254]
田沢湖 韓国の音楽家であるユン・ソフィによると、日本に連れて来られた韓国徴用兵が掘った人工湖であり、作成の過程で多くの事故や犠牲者が出ていると、韓国のメディアであるニューシスの「ユン・ソフイの音楽と旅行」で主張している[255]

同主張は、朝鮮人労働者も動員し1940年に完成した田沢湖導水路工事を誤認したものと思われる。
田沢湖は最大深度423.4mで日本第一位、世界でも17番目に深い湖であり、当時の土木技術では工事不可能と言っても良く、そもそも、その工事記録もその痕跡も全く存在しない。周囲の地質調査の結果、田沢湖は180万年前から140万年前の爆発的噴火によるカルデラとの説が挙げられている[256]

技術[編集]

事例 主張 反証
カメラ付き携帯電話 朝鮮日報の趙義俊(チョ・ウィジュン)記者が、カメラ搭載携帯電話を韓国がはじめて製品化したと主張[257] 実際は1999年9月にDDIポケット(現ウィルコム)より発売された、京セラ製端末のVP-210が世界初のカメラ付き携帯電話 (PHS) である。
WiMAX モバイルWiMAX(韓国内でのサービス名はWiBro)は韓国が開発した技術であり、ロシアや東欧、日米等世界で急速に普及している[258] モバイルWiMAXはIEEEと業界団体WiMAX Forumが策定を進めているものであり、韓国が開発した技術ではない。「WiBro」は韓国独自のサービスであるが、(固定回線の)WiMAXをモバイル向けにアレンジしたサブセットであり、独自技術とは言い難い。さらに言うと、Wibroはあくまでも固定WiMAXの規格(をモバイル向けにアレンジしたもの)であり、正式な「モバイルWiMAX」とは別規格である。
カラオケ 釜山の地方紙国際新聞は、カラオケ機器の始まりとして、「ASSA (旧 永豊電子) は1988年にコンピューター音楽演奏機を世界で初めて開発したことに続き、釜山のロイヤル電子と協力して字幕機まで作った。」と主張し、釜山でのカラオケ文化の歴史を挙げ、「日本のカラオケとは異なり、釜山で誕生し世界に輸出された<韓国式ノレバン文化>を再評価しなければならないという指摘も多い。」「若い外国人観光客をターゲットとしてノレバン文化を体験することができる<ノレバン発祥の地、記念碑>を釜山に建設すべきと指摘が出ている。」と報じている[259]

韓国の歌手PSYが米国の番組『ジミー・キンメル・ライブ!』出演時に、「カラオケの出生地から来た」とコメント[260]

カラオケは日本発祥。

なお、「ノレバン(노래방)」とは韓国語で歌部屋を意味し、「カラオケ」「カラオケボックス」のことを指す。

中国の事物[編集]

事例 主張 反証
黄河文明 大朝鮮帝国史にて、黄河文明が韓民族により成り立ったとされている。この説に基づいた放送が韓国ヒストリーチャンネルでなされた[261] そもそも大朝鮮帝国史とは朝鮮民族は日本から中国にまたがる広大な土地を支配していた民族だと言う偽史を扱っているトンデモ本であり、韓国内でも正統な学者には全く相手にされていない。
古代東アジア文明 アメリカの Huntigton Career College(Career Collegeとは日本の専門学校の一種にあたる[262])の学長イ・ホンボム博士が、著書『アジア理想主義』において、「古代東アジア歴史文明の発源地は韓民族である」と主張している。さらに「古代の中国と日本の王国の政治権力基盤とパワーエリートたちの根は韓国人(古朝鮮人)である」と主張している。この著書について、韓国の毎日経済新聞は「この著書は、韓民族1万年の歴史の根を引き出すことで、古代中国と日本を支配・指導しアジアと人類文明の発展に貢献した韓民族の偉大性を世界中に知らしめる貢献をするだろう」と論評している[263]

2018年、ソウル大シン・ヨンハ名誉教授は自著の『古朝鮮文明の社会史』(知識産業社)において、古朝鮮文明が紀元前30世紀大同江流域と遼東半島で形成し、メソポタミア文明エジプト文明に続く世界三番目の古代文明であり、のち紅山文化などの中国の古代文明に影響を与えたと主張した。シン教授によると、世界四大文明のうち、東洋文明の代表者は黄河文明でなく、古朝鮮文明である[264]

古代東アジア歴史文明の発祥地は韓民族である、という主張には大きな矛盾がある。そもそも朝鮮の文化は確認できる限り紀元前8000年から6000年頃からの発祥(隆起文土器)であり、玉蟾岩遺跡に代表される紀元前12000年頃には存在したとされる長江文明とは数千年もの隔たりがある。また、日本の縄文土器も紀元前13000年頃には存在していた。このことから韓民族の歴史は東アジアでは比較的新しく、韓民族が歴史文明の発祥とは言えない。

そして、古代の中国と日本の王国の政治権力基盤とパワーエリートたちの根は韓国人(古朝鮮人)であると言う主張についての回答であるが、まず韓国人の遺伝子は中国人とは違い、日本人とは更に大きな違いがあり(Y染色体ハプログループの主な配分が大和民族はD2・O2b1であり、朝鮮民族はO3・O2b*である)、 古来より韓国人がそこまで強大な権限を持てるほど中国や日本列島に存在したという証拠が無い上に、古代の中国は多数の国家があり国家によって統治する民族系統も様々であった為、中国のすべての国家に遍かなければならない。

偉大性については、「韓民族の偉大性」という定義そのものがあいまいであり、その上中国文化・日本文化を色濃く受け継ぎ、また内戦と中国文明の隷属関係に長く存在した朝鮮民族には歴史上、世界的な目立った功績が見当たらない。

紅山文化
遼河文明
韓国航空大の禹實夏(ウ・シルハ)教授らが、蚩尤率いる東夷族、すなわち朝鮮民族が新石器時代遼河流域に発生した紅山文化を起こしたと主張しており、紅山文化は古朝鮮であると主張している[265]

高麗大学の金采洙教授は、古朝鮮を起こした遼河文明の主体は「漢民族」ではなく「韓民族」であると主張している[266]

 
蚩尤 韓国の複数の学者、歴史小説漫画、インターネットサイトが、中国神話に登場する蚩尤は、東夷族すなわち朝鮮民族であり、檀君神話に登場する古朝鮮に存在したとされる「倍達国」の天皇であると主張している。蚩尤は、2002年日韓ワールドカップサッカーで、韓国サポーターグループ「レッドデビル」のトレードマークとしても使われ、韓国で一般的に良く知られている[267]

根拠は『桓檀古記』であり、倍達国の第十四代天皇である慈烏支桓雄が紀元前2707年に即位して109年間国を治めたが、この慈烏支桓雄が蚩尤だという。ゆえに蚩尤は韓国人であり、その図案は、レッドデビルのトレードマークになり得るという。しかし、『桓檀古記』にも「慈烏支桓雄は蚩尤である」とはっきり書かれているわけではなく、原文の新たな解釈が必要であり、その役割を果たしたのは、コ・ジュナン京畿大学校教授の2002年の著書「赤い悪魔の元祖-蚩尤天皇」であり、その中で、蚩尤は倍達国の王・慈烏支桓雄にほかならないと主張する[268]

中国が反発している[269]

約4000年前に現在の湖北省湖南省江西省あたりの地を苗族が占めており、「九黎」を建て、君主は「蚩尤」と称していた。また、蚩尤は古代中国では軍神として崇められており、劉邦が尊崇の対称にしていた[268]

水野俊平は、コ・ジュナン京畿大学校教授の主張を、おそらく年代と名称がなんとなく似ている(蚩尤〔チウ〕→慈烏支〔チャオジ〕)からだろうとし、資料的価値が全く認められていない『桓檀古記』を根拠に、そのなかにすら書かれていない結論を導き出す逞しい想像力には感服するほかないとし、要するに、サッカーの応援、ひいては民族主義発揚という大目的の為には、学問的信憑性など、二の次、三の次である充分眉唾な話、と批判している[268]

孔子 孔子については、孔子が韓国人であると主張していると中国の新聞が報道した[270]。だかその後、韓国の報道官が孔子が韓国人であるというのは誤報であるとして打ち消した[271]

しかし、その後も孔子が韓国人であるという説は韓国で根強く存在し、イウルヒョン前崇実大学法学部教授は孔子が韓国人であると強く訴えている[272]

三皇五帝

「中国の上古史に登場する三皇五帝は皆我らの同胞である東夷族で、は東夷族が立てた国」と主張。 東夷族を同胞と定義づけている根拠が不明[273]なお夏と殷が漢民族以外の民族が王として君臨した国家であることは考古学的にある程度支持されている。
易学
八卦
河図洛書
科学
数学
現代文明
東方大学院大学の盧ジェファン教授が、「檀君神話に登場する桓雄の息子のテウが、河図と八卦を初めて描いて易学を創始し、一弱小国に過ぎなかった古代中国は、強大国である我が国の文明を受け入れるしかない状態だった」、「三皇五帝の一人の洛書魔方陣を初めて描いて、これらの易学が西洋に伝わって数学科学の元となり、西洋文明の大発展の原動力になった」、「現代文明のルーツは東洋易学である」と主張している[274]  
漢字 ソウル大学教授の朴正秀が漢字は韓国起源だと主張していると、人民日報が報道した[275]

また、歴史評論家の李ドクイル(이덕일)が「殷が東夷族の国家という事実を信じたくなかった漢族たちが、意図的に殷墟の存在を意識から消してしまった」[276]、「漢字は東夷族の国家だったで作られたものである」[277]と主張している。韓国の少なくない歴史学者や知識人の間で「東夷族は朝鮮民族だった」という認識があるために[278]、李ドクイルは「朝鮮民族が漢字を発明した」と暗に主張している。また、韓民族史観定立意識改革会のポール・キム代表とキム・ムンチョ助言委員が、「檀君朝鮮はBC2333から2096年間実在した国家であり、漢字と漢文は朝鮮民族が作った文字であり、朝鮮民族の思想哲学が反映されている」と主張してニューヨークで講演している。さらにポール・キムは檀君王権が三神五帝教(三皇五帝)を祭る「蘇塗教」を作って堯王舜王、夏、殷、商信仰を中国大陸に広めたと主張している[279]

韓国における言語学の権威であり、国際漢字会議のメンバーでもある陳泰夏仁済大学碩座教授・漢字教育総聨合会理事長は、「漢字は韓国人の祖先が創造した文字。中国の学界も承認している」「漢字は中国の文字でない。われわれの祖先である東夷族が創造したもので、われわれのものだ。中国の学界も、この歴史的事実を認めている。韓国だけが知らない」と主張している[280][281][282]

KBSによれば、ソウル大学教授の朴正秀という人物は存在しておらず、また、朝鮮日報はそのような報道をしておらず、人民日報の誤報だという[283]

韓国では一般的に漢字は中国起源だとされているという意見もある[284]

中華民国総統馬英九は、繁体字世界文化遺産申請と関連して、「韓国に繁体字の世界文化遺産登載申請を奪われるかもしれない」と憂慮を示した[285]。これに対して加藤徹は、韓国人のなんでも韓国起源説はやりすぎと批判しつつも、漢字は稀な存在ではなく消滅する可能性もなく、世界文化遺産登録は過剰反応と指摘している[286]

陳泰夏教授の主張に対して、中国人有識者の高巍氏は「歴史事実を無視して自分の想像を美化し、わい曲するのは、不健全な心理状態だ。結果としておかしな主張が作り出されていく」「起源説の主張は、後ろ向きな考えで、応用方法を開拓することが前向きな考え方であり、この視点の違いが民族の将来を決定づける」と反論した。そして、韓国の漢字起源説の主張から教訓を学びとるべきとし、「他人の気持ちを顧みず、自分をひけらかすことは、国のイメージを損ない、人にマイナスイメージを与え、こうしたイメージを変化させるには大きな代価を払わねばならないことだ」と述べ、起源説の主張は、自信のなさや、気力不足の表れであり、大国の示す態度ではないと述べた[287]

漢方
施術
韓国固有の医術として世界文化遺産登録しようという動きがあり、中国医学会と論争を起こしている[288]

2008年6月18日、大韓韓方医協会は「WHOの“鍼灸経穴部位の国際標準”に韓国の鍼術方法が採択された」と発表した[289]

この発表は国際問題化し、WHOと中国が反発した。また、WHOが非公式ルートで中国側に謝罪し韓国に対する抗議内容を伝えた[290]
函普
阿骨打

韓国東洋大学校朝鮮語版の金ウンフェ教授は、著書『大ジュシンを探して』において、「満州族が建てたの歴史書が、自分たちの始祖を新羅出身の函普だと明かしていることに注目」しており、金と清の姓の「愛新覚羅氏」は、「新羅を愛し、記憶する」という意味だと主張している[291]。キム・ドゥギュ又石大学校朝鮮語版教授は、「韓民族とも血縁関係がある金の時代のこと。金の始祖函普が高麗出身だということは『金史』が明らかにしている」と述べている[292][293]。韓国の古代史を研究している高句麗研究会(理事長ソ・ギルス西京大学校教授)所属学者たちが、学術セミナーで「女真族満州族の清を広い意味で韓国史の一部に編入し、中国の悪意的な歴史歪曲に積極的に対処しなければならない」と主張している。キム・ウィヒョン明知大学校教授は「『宋史』には金の太祖阿骨打の8代祖が新羅王族出身の函普という記録がある」「統一新羅渤海南北国と記述するように高麗を南北朝に分類することができる」と述べている[294]韓国メディアの『ファイナンス・トゥデイ』は、「清はどういう国か!高句麗と渤海を継承して聖山とした白頭山を中心に活動した女真族は『金史』に記録された通り高麗から移住してきた函普の後裔阿骨打が糾合して開国した金を継承した国だ。清以前のも開国始祖はまさに明地図書『大明統志』で『朕の先祖は朝鮮人だ。先祖の墓は朝鮮にある』と話した朝鮮半島の朱元璋だ。結果的に今の広大な領土を所有した中国を存在させて与えた人物は朝鮮半島の後裔だ」と報じている[295]韓国放送公社(KBS)は、「中原で最初で漢族を押し出した阿骨打、彼の祖先は驚くべきことに新羅人である函普だった。これは伝説や外史に出るのではなく正史である『金史』と金建国時に宋人が書いた『松漠紀聞』に明確に出ている」「高麗から来た身分である新羅人の阿骨打」の生年から計算すれば函普が満州に行った時期は、統一新羅から高麗時代であり、「彼の姓が金であり新羅の後裔であることは確実」「新羅後裔である王族と渤海子孫の王妃族が建てた国、金」「金滅亡後、1606年、女真は再び中原を掌握した。まさに中国の最後の王朝清である。ところが、清の皇帝姓は愛新覚羅氏」であり、愛新とは、という意味であり、かつて女真族が興した王朝名であり、そして後にヌルハチが興した王朝からとった族名のため、「新羅王族の人種金氏は、彼の子孫である金皇帝、清皇帝まで、彼らの姓はすべて金氏だった」「満州の歴史は中国の歴史ではない」「古朝鮮夫余高句麗、渤海、金、清につながる満州の歴史は我が民族と深い連関性を持っている」「漢族の領土である中原を満州と合併して、今日の中国を完成した女真族、それらの先祖が新羅人であるという事実」というドキュメンタリーを報道した[296]在日本朝鮮人科学技術協会1977年に刊行した『朝鮮學術通報』の21ページには、「『金史』世紀によれば、完顔部女真の始祖は、その弟保活里とともに移住してきた高麗人函普」と記述している。   中国はもとより日本でもまったく認められていない。
泰山府君
十王
京都市左京区にある赤山禅院では、泰山府君(十二天の一人焔摩天に従う眷属の一人)が赤山大明神として祀られているが、中央日報は泰山府君は新羅人張保皐(790年頃–846年?)のことであると主張[297][298] 赤山禅院のホームページには「本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものです」と書かれており、張保皐の事には触れていない[299]
朱元璋 韓国のMBSテレビの番組『神秘な歴史サプライズ』が「明朝の初代皇帝である朱元璋は高麗人である可能性が高い」と主張し、中央日報をはじめとする他の韓国メディアも続々と追随し、韓国内では朱元璋が慶尚道出身だったとして、歴史を書き直すべきだとの主張が相次いだ[300]

「朱元璋高麗人説」の根拠は韓国に残る民間伝承という[301][302]

これを報じた中国の環球時報は、このような主張を「孔子は韓国人」「漢字は韓国人の発明」みたいなのと同じく荒唐無稽なものだとした[303]

史実では朱元璋は安徽省鳳陽県の貧しい農家出身とされている。

李白
李商隠
李賀
李渉
中国新聞網の報道によると、ソウル大学歴史学教授の金秉徳は李白を朝鮮民族の末裔であると主張した。さらに姓が「李」である詩人(李商隠、李賀、李渉など)はみな、朝鮮民族の末裔であるとし、「中国が歴史事実をわい曲し、韓国文化を剽窃した」と主張している[304] 中央日報の報道によると、ソウル大学に金秉徳という教授は存在せず、完全な小説と評した[305]。李は中国人にも多い姓である。
満州
愛新覚羅氏
完顔阿骨打
韓国KBSの番組『満州大探査』において、「満州はもともと韓民族の土地。清朝を樹立した愛新覚羅氏も、祖先は韓国人」と主張[306]

また大朝鮮帝国史の作家金珊湖は画集『韓国105代天皇尊影集』で、満州は元々韓民族の領土であり、「愛新覚羅」は「新羅を愛し、新羅を思え」という意味だから、新羅からの亡命者の子孫と主張。また、「金」の完顔阿骨打をキム・アグタという名で韓民族と主張[194]

高句麗渤海など半島を領土とした王朝が歴史的に満州地域の一部を領有していたのは事実だが(広い意味では扶余も入るのではないかと思われる)満州全域を支配していた事はない。また満州族のルーツである女真族と高句麗や百済のルーツは同じツングース系だとされる説があるが、ルーツが同じだからと言って「愛新覚羅氏の祖先は韓国人」とはならない。よって、高句麗は韓国人の祖先とはならない。

『韓国105代天皇尊影集』は『大朝鮮帝国史』と同じ著者による作品であり、こちらも実際の歴史ではなく空想歴史を扱っている図書なのでその信憑性はとても低い。

広西チワン族自治区
上海
また、韓国の圓光大学校教授が広西チワン族自治区の百済郷を調査し、「この地はかつて、百済の植民地だった」と発表。根拠は類似した民具があるほか、広西方言に朝鮮語に近い部分があるからという[307]。また、大田大学校哲学科の林均澤元教授が2002年12月に韓国書鎮出版社から出版した「韓国史」において、の時代に、高句麗、新羅、百済が中国の大半を有しており、唐の版図は雲南省四川省などのわずかな部分に過ぎず、高句麗、百済を滅ぼしたあとの新羅の版図は、現在の東シベリアモンゴル華北地域など中国北部全体、華中地域、チベット自治区新疆ウイグル自治区など広大なものとなり、唐は華中地域や華南地域をおさえるにとどまったと主張。また、2007年大韓民国大統領選挙に立候補した許京寧経済共和党総裁は、「中国諸国と連邦をしてアジア連邦を作り、失われた高句麗領土を取り戻したい」「失われた渤海の旧領と、三国時代にヨーロッパまで伸ばした韓半島の故土を取り戻すのが私の夢だ」としている[308] これに対して、上海大学の歴史研究者は「朝鮮半島南部の古代王朝の版図が朝鮮半島を越えて広がったことはなく、上海を統治したという事実もない」と批判している[309]
中秋節 『all that news』のカン・ソヒョン記者が、「中秋節は新羅の僧が唐に伝えたものなのに、中国が文化の源泉である韓国に、中秋節に行われる里帰りなどでの人口移動の人数を強調して、秋夕の文化が中国の文化だと圧力を加えている」と主張した[310]  
三足烏 三足烏が高句麗固有の代表的な象徴物ということが学界の共通した見解と主張。韓国古代史専攻のユン・ミョンチョル東国大学教授は「これまで我々が無関心だったあまり、先祖たちのものを日本に奪われた格好」と述べている[311] 金烏あるいは三足烏は考古学的には長江文明に古く発見されており、同様の神話的モチーフは世界各地で発見されている。
豆乳 韓国の豆乳メーカー・サンユク物産が「韓国は数百年前から家庭で豆乳を作っていた。韓国が豆乳の発源地」と主張[312] 中国が反発している[313]
太極図 陰陽魚と呼ばれる現在の太極図は西暦1070年に中国で発行された『太極図説』より388年も前の682年に建立された新羅の感恩寺の礎石に刻まれているという[314]

さらに全南羅州伏岩里古墳群隣近の竪穴遺構から出土した百済の泗比時期(538~660年)の木製品1組から太極文様が確認されたとしている[315]

 中国、及び日本では「中国の『周易』等の思想に基づいた模様」として紹介されることが常識である。
羅針盤 新羅が世界で最も早く羅針盤を作った」と主張[316]。根拠は主に『三国史記』の記述の中で「唐の僧侶法案が新羅で磁石を貰った」と書いてある事と、「羅針盤」の名称は元々新羅にちなんで「新羅針盤」だったからだとしている。 羅針盤は中国発祥だと考えられており、11世紀の中国で沈括が書いた『夢渓筆談』にその記述が現れるのが最初だとされている。また羅針盤の本来の名前が新羅針盤だったと言う明確な証拠は存在せず、また『唐の僧侶が新羅で磁石をもらった』と言う記述を羅針盤を貰ったのだ、と決め付けるのも相当な曲解である。
囲碁 仁済(インジェ)大碩座の陳泰夏(チン・テハ)教授が論文「文字学から考えた囲碁のえん源」で「囲碁の発祥地は韓国」であると主張[317] 囲碁の発祥地は中国説が有力。囲碁の歴史参照。
シャンチー
(象棋・中国将棋)
韓国チャンギ(韓国将棋)協会のサイトにおいて、昌原大学シン・ソクファン教授が、「韓国のチャンギは中国から伝わったものではない。チャンギの宗主国は韓国。中国のシャンチーは韓国のチャンギの模倣。」と主張[318] 韓国のチャンギは、中国のシャンチーが朝鮮半島に伝わったものと考えられている。「王将」に当たる駒が、「漢」・「楚」と中国の古代の国名となっている。
印刷 韓国はドイツで『印刷術の起源国―韓国』という展示会を開いた。印刷に金属板を使った世界最古の活字本は朝鮮の『直指心体要説』とされる。 ただしより以前に中国で木版印刷が確認されている。よって印刷術の起源が韓国というのは曲解といえる[319]
ロケット 北朝鮮の朝鮮中央通信は、我が民族はかつて火薬を利用したロケット兵器製造に優れた才能を見せ、「早くも高句麗時代に既にロケット武器が製作されて使われた」と主張[320]。また韓国の朝鮮日報は、「朝鮮王朝時代には世界で初めて2段式ロケットを開発した。」と主張[321]している。 確かに当時から、矢を火薬で飛ばす火槍という武器があったが、開発したのは中国()である。
趙法鍾ウソク大社会教育科教授によると、紙の起源は高句麗技術であったという[322] 紙の起源は古代中国であるとされており、世界最古の紙は中国甘粛省放馬灘から出土した紀元前150年頃に書かれた前漢時代の地図だとされている。高句麗の歴史が紀元前37年頃から668年までである事を考えると、紙の起源が高句麗であった可能性は低い。
大豆、豆 東亜日報が、「韓半島の約5000年前の畑が姿を現した」とする記事に関連し、「優れた健康食と評価されている大豆を韓半島で初めて栽培したことを知らない国民は多い。韓国の大豆は紀元前7世紀に中国から伝わったとされているが、京畿道楊平、忠清南道保寧で発掘された青銅器時代(紀元前10世紀~4世紀)遺跡で大豆が出土し、韓国が大豆の原産地で栽培の起源地であるという学説が説得力を持つことになった。」と主張している[323]ソウル新聞は豆がテーマのコラムで、「大豆の故郷は、韓半島である。大豆は、人類が食べる穀物の中で唯一、我が国に起源する作物である」と主張している[324]。韓国栄州市に世界初の大豆をテーマにした科学館が開館し[325]、同市は「韓半島での大豆栽培の歴史は約3000年前であり、私たちは、人類史上初めて大豆を植えて食べ始めた民族であることが研究によって明らかになっている。」と主張しているという[326] 諸説あり、定かではないが、豆の原産地は中国東北部からシベリアとの説が有力で、ツルマメが原種と考えられている。栽培の歴史も諸説あるが、約4,000年前に中国でツルマメの栽培が始められ、ダイズとして作物化されたと考えられている。大豆参照。
楊枝 外国人親善文化協会理事ホン・ナムイル氏は、韓国の歯磨き文化の始まりは欧州・中国とは異なり、「」の「枝」を現代の爪楊枝のように使ったことに由来すると主張。文献では高麗時代の「鷄林類事朝鮮語版」に記述されているという。また、日本人が爪楊枝のことを「Yo-Ji」(요지)と呼ぶのは、「Yang-Ji」(楊枝、양지)に由来するためで、韓国の歯磨きが日本へ伝ったことが分かると主張している[327] 楊枝は中国由来。韓国メディアが取り上げる楊枝の語源・起源のコラムには、「韓国が日本に伝えた」と強調するものが見られるが[328][329][330]、韓国の「楊枝」自体、元々中国から伝わったものである[331]

楊枝の始まりは、唐の僧侶、玄奘三蔵が、インドで修行し中国に帰り、歯木で歯を清掃する習慣を伝えた。中国では菩醍樹優曇鉢羅の木がなく、楊柳の小枝を使ったため「楊枝」と呼ばれるようになった[332]。なお、楊枝は中国語で「Yang-Zhi」。

、茶文化 仁川広域市無形文化財(第11号)閨房茶礼保有者であり、嘉泉大学名誉教授を務めるチェ・ソヨン氏[333]が、茶・茶文化の発祥地は中国ではなく、「韓国」と主張している。また、チェ氏は閨房茶礼保存会理事長及び韓国茶文化協会理事長を兼任しており、両会が主催する各イベントでも茶の韓国起源説を度々強調している。

京畿日報インタビュー記事で、チェ氏は「茶の発祥地は我が国だ」と述べている。新羅の僧侶金喬覚が、茶を稲やサプサル犬と共に中国に持ち込み伝えたのが根拠だという[334]

チェ氏は、2015年8月22~23日に堤川市で開催された茶礼式典に日本の茶人が参加したことに触れ、「これは現在日本で徐々に吹いている茶文化の韓流ブームのせい」とし、「これは、本来、茶文化が中国と日本ではなく、我が国の伝統文化であった事実を物語っている」と述べている[335]

2015年9月14日、チェ氏は茶礼競演大会が行われることに関連し、「新羅時代の茶が中国に伝わり、百済時代の陶工たちが日本の茶文化隆盛のために、日本に渡った」と述べている[336]

仁川日報は社説で、「韓国茶文化協会によると、中国と日本の茶もまた我が国から渡ったという記録を発見することができる」と報じている[337]

茶は中国発祥。茶文化を初めて体系化したのは唐の陸羽
太極図太極旗 韓国では、太極旗(韓国国旗)で使われる太極図は「古来(三国時代)から朝鮮人が伝統的に使ってきた文様」とされており[338]中国の『周易』(太極図説)で使われる太極図との関連を否定する研究が続けられている。それを受け、韓国政府は太極旗を「昔から私々の先祖が生活の中で楽しんで使っていた太極文様を中心に作られた」旗としている[339]。(詳細は大韓民国の国旗#大韓民国の太極旗を参照のこと。) 中国、及び日本では韓国の太極図も「中国の『周易』等の思想に基づいた模様」として紹介されることが多数である。(詳細は大韓民国の国旗#大韓民国の太極旗を参照のこと。)
サムゲタン [340] サムゲタンについて、中国最大のポータルサイト百度」の百度百科には「サムゲタンは高麗人参若鶏もち米を入れた中国の伝統的な広東料理である」「サムゲタンの源流は中国である」と記述している[340]

その他の地域の事物[編集]

韓国の学者邊光賢(변광현)は「イギリス人 は韓国人の子孫であり、数多くのイギリスとアイルランドの遺跡は移住した朝鮮族が残したものです」と述べた[341]

脚注[編集]

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関連項目[編集]