牧牛者小経

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牧牛者小経[1](ぼくぎゅうしゃしょうきょう、: Cūḷagopālaka-sutta, チューラゴーパーラカ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第34経。『小放牛経』(しょうほうぎゅうきょう)[2]、『小牧牛者経』(しょうぼくぎゅうしゃきょう)[3]とも。

釈迦が、比丘たちに、自身を牛飼いに喩えて仏道について説く。

構成[編集]

内容[編集]

本経は、を求め、安らぎを求めて修行する沙門バラモン修行僧にとって、どのような宗教指導者を選べばいいかについての説話である。初期の仏教においては、ゴータマ・ブッダは、仏門に出家した人のみではなく、広く、世間一般の人々や求道者の区別をつけずに、その対象者のレベルに合わせて、ブッダの教えを説いていたとされる。沙門・バラモンの修行僧とあるのは、仏門はもとより、世間一般の人々や求道者全体を指していると見ることができる。

彼岸に渡ろうと欲するなら、この世のことにも、あの世のことにも通じた、ゴータマ・ブッダのような正しく目覚めた人を師とすべきであるとしている。 また、法を求め、ゴータマを信じる心がある人は、必ず、悪魔の流れを渡り、彼岸に到達することができるとしている[4]。法というのは、バラモンの修行僧にとっては、ブラフマーというものに該当すると思われる語である。この語は、宇宙の真理と言い換えてもいいようである[5]。「法を求め、ゴータマを信じる心がある人は、必ず、彼岸に到達することができる」という説話は、ブッダの教えを信じる人は、人のは彼岸に向かって転生輪廻をするという「不死の門」のうちに入ることができるという真理を説いたものであるといえる[6]。そして必ず、何転生ののちに、彼岸に到達することができるだろう、と説いたと見ることができる。

この経には最後に、不死の門について、ブッダが語ったとされる短い詩句が載っている。

智者によって、これが世である、あの世であると、たくみに説明された。

悪魔の至るところも、死神の至りえないところも

一切の世界を理解し、熟知している、 正しく目覚めた方によって

ニッバーナにいたる安らぎの不死の門は開かれた

悪しき者の流れは断たれ、壊滅され、破壊された

修行者たちよ、きみたちは歓びにみちてあれ、安らぎを求めよ

日本語訳[編集]

  • 『南伝大蔵経・経蔵・中部経典1』(第9巻) 大蔵出版
  • 『パーリ仏典 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇II』 片山一良訳 大蔵出版
  • 『原始仏典 中部経典1』(第4巻) 中村元監修 春秋社

脚注・出典[編集]

  1. ^ 『南伝大蔵経』
  2. ^ 『原始仏典』中村
  3. ^ 『パーリ仏典』片山
  4. ^ 『原始仏典第4巻 中部経典Ⅰ』第34経 彼岸に安全に渡るにはー小牧牛経 前書きP504 春秋社2004年 中村元監修 平木光二訳
  5. ^ ゴータマは、「ダルマ」というものを人格的なものと考えていた、という見解がある。(出典『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元)。そして、あるバラモンの青年に対する説話の中でゴータマは、知的にものを考える人は、「神はある」と、一方的に考えるべきだとしている。(中部経典 第100経)
  6. ^ もともと、魂のようなものは、カルマに起因し、悪しき転生を繰り返すとされていた。このことは、見方によっては、「悪しき不死」と言えるようである。そのことから見るならば、ここは、「転生消滅の門」とでも説かれるべきところであったといえる。しかし、そうはなっていない。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]