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Full text of "Sekai no rekishi"

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世界の 歴史 


二 曰」 一 


千代 田 言 兼 
ナ曽井 経 夫 


教授 用 資料 


た 


三省堂 


THE  LIBRARY 
OF 

THE  UNIVERSITY 
OF  CALIFORNIA 
LOS  ANGELES 

GIFT  OF 

+  — 一 'も 


MB.  EBIEST  K.  imsl^A 


世界の 歴史 

やま した かつひろ 


g^fS 千代 田 謙 

金 沢 大学教授 :t 曾 #  II 夫 


教授 用 資料 


三省堂 


Digitized  by  the  Internet  Archive 

in  2015 


https://archive.org/details/sekainorekishiOOchiy 

i 


Oriental 

Library 

D. 
I ゆ 

J 

まえがき 


歴史 を 取り扱う 態度に は 多く の 分野が あって, その 中の 一つと して 社会 
科 的な 方法が あるに すぎない という 見解 は, 誤られが ちな 常識で ある。 今 
日, (歴史 を 社会科 的に 扱う 方法 こそ, 最も 歴史学 的な 方法 巧と は, 言いす 
ぎで あるか もしれ ない が 決して 不当の 言で はない。 なぜなら, '人間 はかつ 
て 個人と して また 集団と して 背負わされ てきた さまざまな 矛盾 を, 人間 以 
外の ものに 預けて 解決し よ う とする 習慣 を 持って いた。 神と か 運命と かが 
切実に 考えられ, 与えられ たものと しての 手本 を, 宗教に も 倫理に もまた 
歴史に も 生活に も 求めて きたつ その 場合, 神の 意志と いう 積極的な 方向 や 
あきらめ という 消極的な 方向が, 常に 解決の いと ぐちと して 見いだ された 
ので ある。 また その後に 人間の 背負った 矛盾 を 個人に 預けて 解決し よ う と 
もされた。 すなわち, 個人の 情緒 や 感懐に とけこんで, その 中に 解決 を 見 
いだ そ う と したので ある。 口  —マン 主義な ども その 一つの 表現であった。 
このよ うな 方法が 今日 消えう せた ので はない。 しかし 最も 多く は 社会に 預 
け 社会に 解決 を 求めよう とする ことが, 普通に なって きている。 

たとえば, 一つの 犯罪に しても, 神 判に よる 裁き を 待った 昔から, 善人 
すら 救われ るの だから 悪人 はな おさらの こと だとい う 慈悲へ, そして 社会 
悪が 根底 だとす る 見方へ, その 解決 を 求める 方向へ 成長して きている。 歴 
史も 社会の 動きの 中に 把握し, 社会の 進みの 中で 解決すべき, 人間の 背負 
つた 矛盾の 一つな ので ある。 社会科の 歴史 は, いうまでもなく 単なる 社会 
史 ではなく, 歴史の 理解 を 社会 を 基盤と して, 社会 をて ことして 推進し よ 
うとす る ものである。 本 教科書 はこの ような 意図で 編修され, 単に 従来の 
歴史学の 成果の 紹介 や 羅列で 終った もので はない。 ただ 教科書と いう 習慣 
と 効用に 制約され て 十分に は 意 を 尽く せなかった。 まだまだ 試みたい 企画 
や 拡充したい 面が 多く 宿題と して 残されて いる。 この 点, 賢明な 先生方の 
推察に お任せして, 歴史 教育 をよ り 意義 ある ものへ 育てて ゆき たい と 思 

ラ a 


まえがき 


教科書 は 出版 所肆の 良心 と 著者の 努力 と 使用者の 鞭撻に よって, よい も. 
のとな り, よい 効果が 期待され る。 著者と して は 出版部の 良心 は 他に 比類'— 
のない ほ ど 高い も の だと 確言で きる。 ただ 著者の 努力が 不足で 不備の 点の 
ある ことが 恥ずかしく, 使用者の 鞭撻で これ を 補い これ を 守って いただけ 
れば 幸甚に 思う。 本 資料 もまた かく 教 うべき だ, これと これと に 重点 を 置 
くべき だと, 先生方に 指示す るよ うな 不遜な 態度で 編修した も ので はな 
い。 教室と 授業と は ひとえに 先生方の 創意と 熱情で 盛り上がり, 生徒の 協. 
力と 真摯と で 実 を 結ぶ もの だからで ある。 ただ 多忙な 先生方が 多く の 参考 
書に よって 準備され る 余暇がない 場合, あらかじめ 目を通して いただけば 
参考と なり, また 自信 をつ けられる 手がかり になれば と 思い, 教科書の 項' 
目 を 追って 解説 を 試み, 諸説 を 紹介し, また 著者の 意見 を 開陳して みた。 
適当に 取捨し 適宜に 組み立てて いただければ しあわせ であるし, また 忌憚' 
ない 教示 を 賜わり たいと 願って やまない。  ' 

教科書の 序論 は, 社会科に よる 生徒の 学習 を 歴史へ 転換させる 用意 を挣 
つて 編まれた。 これに 対して, 本 資料の 冒頭に 掲げた 序論 は, 歴史 論で, 
著者 平素 の 念願 を 吐露した ものである。 したがつ て 両者 は 平行す る もので 
はない が, おのずから 通ず る もの を 観 取 されれば, 著者の 喜び これにす ぎ 
る もの はない。 また 教科書の 序論 を 学習の 最後に 回されても さしつかえな 

いし, 人類の 起源から 始められても さしつかえない。 いや 実は 第 3 編 の 
「近代の 世界」 から 生徒の 学習 を 始めて いただいても, かまわな いので あ 
る。 歴史 を 図式 的に 取り扱われる 場合で も, 図式 そのものよりも, 図式 を 
作る 協力が 学習で ある こと はい うまで もない ので, 教科書の 各 節 • 各項 ご 
とに 生徒 自ら 要点 を 摘 書す るよ うな 習慣 を 与えられたならば, よ り 効果的 
であろう。 また 歴史 を 問題 提起 を 主として 取り扱う 場合で も, 問題 その も 
のよ り も 問題 を 提起す る 能力が 学習に よって 養われたら よいので, 教科書 
の 各項に わたり 縦横に 生徒 自 ら 問題 を 捜す 習慣 を 与えられたならば, いつ 
そう 効果的であろう。 本 資料 も 先生方の 座右に あって その 一助に も 使用し 
ていた だける よ う 祈って いる。  , 

昭和 34 年 4 月  . 

千代 田 謙 

増 井 経 夫 


—— 2 


Oriental 
Ubrary 


次 


I 

3〜5 単位の 授業に ついて  '  2 

1 歴史と いう 学問の 回顧と 展望  •   4 

1 序 M   4 

2 歴史の 回顧  5 

I 歴史の 意識 以前の 態度 (5)       I 古代 風の 修史の 態度 (6) 
I キリス ト教 神学 史観と 中世 風 修史 (8) IV 近世 風 合理 主 
義的 歴史と その 進歩 及び 発展 (9)     T 近代 または 現代史 学の 科 
学 性 ひ 2)  ' 

3 歴史の 展望  15 

I 史実と 史観 ひ5)  I 史観への 目標 (16),  I 史観の 
具体的な 内容 を 検討す る 場合の 諸 目標に ついて (24) IV 歴 
史の 叙述と しての 歴史 教育 (28)  Y 世界史の 読みと り 方に 
ついて (29) 

4 教官の 参考書に ついて  34 

2 各 章 教授法に ついての 私見  36 

1 古代の 世界  36 

I 文明の 発生 (36)        I 大帝 国の 成立 (38)        H 地中海 
世界 (39)  • 

2 中世の 世界  41 

I 西欧 封建社会 (41) I 西 アジア 社会の 発展 (43)      I 南 
アジア 社会の 変化 (44) IV 東アジア 社会の 推移 (45) 

Z 近代の  46 

I 近代 精神の 発展 (46)     I 近代 社会の 成立 ひ8)     I ァ 
ジァの 変質 (49) 


g 


次 


4 現代の 世界  50 

I 資料 編 防 

人類の 出現と 原始時代 54 
第 1 編 古代の 世界  • 61 

第 1 章 文明の 発生  • 62 

第 2 章 大帝 国の 成立  80 

• 第 3 章 地中海 世界  一  103 

第 2 編 中世の 世界  •  121 

第 1 章 西欧 封建社会  122 

第 2 章 西 アジア 社会の 発展  143 

第 3 章 南アジア 社会の 変化  152 

第 4 章 東アジア 社会の 推移  158 

第 3 編 近代の 世界  185 

第 1 章 近代 精神の 発展  186 

第 2 章 近代 社会の 成立  208 

第 3 章 アジアの 変質  286 

第 4 編 現代の 世界  297 

序 現代史の 概念  •   298 

第 1 章 全体主義と 民主主義  300 

第 2 章 現代 世界の 動向  318 


一 2 一 


I 総論 編 


総       調  編 


3〜5 単位の 授業に ついて 

どの 教科で も 授業に 熱心な 教官 は 授業 時 数の 不足 を 訴えられる。 ことに 社会科の 各 
教科の ように, 生徒 自身の 持つ 前提に 基づいて 展開し, 教材に は 弾力性が 多く, しか 
も 省略 や 未完 部の 残存が 許されない 場合, 教官の 熱意 は 進度の 渋滞 を もって 報 われ, 

世界史 授業の 実情 も 5 単位 授業で なお 補習 や プリ ン ト による' 自習で 力 パーし なければ 
ならない のが 全国的の 現象で ある。 今 かりに 従来 5 単位 授業に 習熟され た 教官が, 急 
に 3 単位に 切 り 換えられた 場合な ど, おそらく 手の 施 し よ うのない 困惑 を 感ぜられる 
にちがいない。 もちろん 授業の あり方 は 教官の 全 人間的 投影であって, これ を 画一的 
に 想定す る こと も, その 利害得失 を 論断す る こと も, 軽々 しく はでき ない 問題で ある 
が, 時間の 過不足 は ある 程度 技術的に 解決で きる ものと 思われる。 ここに 授業の 短縮 
についての 私見 を 述べて, 3 〜5 単位の 世界史 授業 を 担当され る 教官の 批判 を 仰ぎ 

たい。 

まず 常識的に いって, 授業 を 圧縮しょう とされる と, 鑑賞 や 見学 や 討論の 時間が 第 
一に 省略され る ことであろう。 これに 次いで 研究 や 感想の 発表が 省略され, さらに 作 
業 や 復習が さかれる ことであろう。 学習の 重点 は 生徒 自 ら 構想 を 練る こ とから すでに 
考えられた 構想の 記誦へ 移行し, 記誦 を 正確に する ための 講義と 試験と に 努力が 集中 
される であろう。 この 授業の 形に こそ 平素の 抱負 を 生かし, 自らの 感懐 を 託する こと 
がで きる と 信ぜられる 教官 も おられる かも しれない し, これ は 歴史 以前への 後退 だ, 
素材の 羅列 なれば 175 時間の 内容 を 1 時間に すら 圧縮で きる と 嘆かれる 教官 も おられ 
るであろう。 しかし この 一見 常識的に みえる 集約 過程が, 実は その 逆の 方向の 可能性 
を も 示して いるので ある。 極端に いって 講義 を 略し: 復習 を 略し, さらに 研究 や 作業 
よ り も 討論 • 見学 • 鑑賞に 重点 をお き, 感性 的に 授業 を 盛り上げる こ と も あながち 荒 
唐の 方法, 無稽の 手段と はいえない。 ただこの 可能性 を 考える こと は, もっとも よい 
具体的な 集約 法 を 決定す る 姿勢 を 柔軟に して くれる こ とであろう。 

そこで | 来 世界史 授業 を 3 単位で 施行され ていた 例の 中から, 望ま し く ない 方法 を 

取り上げ, 望ましい 形への 方向 をし ぼって ゆく ことにしよう。 その 第一 は 従前の 西洋 
史の 体系 だけ を もって 世界史に 代えられる ことで ある。 西洋史が 東洋史に 比べて 世界 
史的 性格の 鍛練 を 経て 来て いる こと は 事実 だから, これが 世界史 を 標榜す る こと は 決 
して 否むべき ことで はない かも しれない。 専門家の 業績に も 西洋史の 展開 を 主題と し 


— 2  — 


歴史と いう 学問の 回顧と 展望 


て 世界史 と あ えて 名 づけた もの も 少なく はない。 ここで 日 本の 西洋史が 既製 課題の 解 
釈ゃ 史的 概念の 分析に 熱心だった こと を 指摘す る もので はない が, 自由な 素材の 組み 
合わせ, 日本史 を 含めた 課題の 展開に は 若干の 疑点の 残る こと はやむ を 得ないで あろ 
う。 今日の 日本の 立場から いっても, アジア を 没却した 視野 は 世界 を 展望す る 態度と 
して 不足が あ る 。 極端に い え ばな ん ら かの 形で 一応 ヨーロッパと アジアと の 対決の 自 
覚を 経験して こない と, 今日の 世界史 は 甘くな りすぎ るので ある。 ここに 素材の パラ 
ンスが 問題に なって くる。 

次に 教材の 無視と 主観的 構成の 過剰 を あげる こ とがで き る。 これ は 集約 授業に とつ 
て最 も 効果が ある とされが ち な 方法で あ る ため, 特に そ の 弱点 を 反省 したい と 思う。 
多 く の 教材が 罐詰 食品の よ う に 管理と 手入れ を 経て き ている のに, 教官の 自 らの 構成 
は 生鮮 食品の よ う に 魅力に 富んで いる こ と は 事実で ある。 と こ ろが や は り 生鮮 食品の 
ように 腐敗し やすい。 教官が 十年一日 のように 自己 陶酔 をく り 返されるならば, あら 
ゆ る 面に 破 锭が起 つてく る こと はいう まで もない。 もち ろん 常に 構想 を あらたに し, 
絶 え ず 素材の 選択に 留意 されるなら ば, 新鮮で しか も 十分 効果的 な 授業 は 期待 しえ よ 
う。 しかし 教官の 陶酔が 必ずしも 生徒の 開眼に 通じない ことと, 主観的な 偏向が 克服 
しがたい 飛躍 や 断絶 を 伴な うこと と を 覚悟 しな ければ な ら ない。 ここ に 素材の 選択が 
問題に なって くる。 

歴史の 素材に パランス を 与え, その 選択に 妥当性 を 持たせ, なお 圧縮され た 時間 内 

で 進度 を 維持す るに は, 教材 を 有効に 駆使す る 以外に 方法 はない ようで ある。 3~5 
単位 授業の 教官が, これに 加える に 適切な 設題を もってされれば, おそらく 授業 完遂 
に 不安 を も たれる 他の 条件 を 考える こと はでき ない ので はな かろ うか。 試みに 本 教科 
書に ついて 一例 を あげれば, 序論 を 省略して 「人類の 起源」 を 一覧し, 各 編の 序章 を 
省略され て 本題 を 整理し, 板書に よる 要点 摘出から 生徒の 自発的 要約 を 促し, かつ ク 
ラスの 共同作業 を 省略 して 個人 作業に 予 復習 を 兼ねられる ならば, 大過な き に 近いの 
ではなかろう か。 1 時間に 3 ページ 弱の 解説と 理解と は, 教官 • 生徒 ともに 重い 負担 
である こと はいう まで もない。 しかし 緩急よ ろしき を えれば, あえて 世界史の 素通り 
では なく, 躍動と 展開 の 真髄 を 把握す る こと は 難事 というに 当たら ないで あ ろ う 。 


一 3 一 


1 歴史と いう 学問の 回顧と 展望 

1 序  説 

歴史と は 何 か, という 問に 対する 答え 方 も, いろいろ ありうる が, おそらく 最も 歴史 
に ふさわしい 解答 は, 歴史 作業の 歷史を 見通す ことで はない かと 思う 0 もちろん この 
ような 答え 方 は, 史学 史の 研究と いう ものの 困難 さ を 別にしても, 古今東西に わたる 
多岐 多様な 歴史の 作業 を, いわゆる 修史 と^の 両面に わたって 論述しながら, その 
うちに 歴史と は 何かとい う 具象的な^ t、 を, それ こそ一 言 半句の 定義 づけ, すなわち 
抽象的な 概念 化で 満足し ないで, 大きく 豊かに 得ようと する ので あるから, 簡明に ま 
とめようと 思え ば 思 う ほ ど, 容!; な こと では ない o しかし, 歴史的に 物事 を 明確に し 
て ゆく という こと は, 元来 具体的 事実 的な 経験と いう 性格 を 持って いるもの である。 
たとえば 自分自身 を 何かと 省みる 時, 自分の 生い立ちから 今日に 至る までの 経験 やで 
き 事 を 顧みて, 自己の 性格な り 境遇な り を はっきりと 他 入 事なら ず 意識で きる。 ちょ 

うど そのような のが 歴史的に わかる という ことで ある 0 したがって, 歴史と いう も 

の をい ちばん 親身に なって 考える とすれば, 歴史の 歴史 を あとづける ことが 必要に な 
る。 もし 簡単な 表現と いう ことが そのまま 明瞭と いう ことであるなら, 歴史と は 過去 
の 事実 を 探求す る ことで ある と 言い切る こと もで きょう。 
さて 歴史 作業の 歴史 を できるだけ 大きく, しかも 要領よ く 見通そう とすると, 古い 

けれども, あのべ ルン ハイムの 3 分 法 (物語 的, 教訓的 または 実用的, 発展 的 あるい 

は 発生 的) の 標準が, すこぶる 有用で ある こと を 認めざる をえない O けれども, その 

3 段階 は 直ちに 年代 的に 固定 的に 考えられて は 十分で ないし, さらにこう した 簡約な 
図式 化が 漏れな く 史学の 具体的 発展の 諸相 を 含んで いる と 速断して は 正し く ない ので 
ある。 それ は 有用なる 仮標 として^ 3: する に 止めら るべき である。 ここで は あえて, 
ほぼ 5 段階ない し 5 類型の 仮り の 目標 を 立てて, 世界的な 史学 発展の 跡のう ちに, 歷 
史 という ものの 姿と 課題の あり方と を搮 求して みたい と 思う。 現代史 学の 主流と いう 
視点から も, 史学 史的 進 程の 現実と いう 見地から も, また 筆者の はなはだ 限られた 観 
点から も , 西洋の 歷史 作業が 中心の 対象と なること は 免れない。 


4 


歴史と いう 学問の 回顴と 展望 


2 歴史の 回顧 

I 歴史の 意識 以前の 態度 (原始) 

歴史 は, かって 起った 真実の 物事の 移り変わり を, 人間 を 中心に して 考える ところ 

に 始まる o それ は, かって ほんと う にあった こ とでな くて はならず, しかも それらの 過 

去の 事実が ただば らばら になん の 連絡 もな く 記憶され たり 記録され たり して あるので 

は, 歴史と は 言えない o それ は, 疑いない 真相が とにかく 理解され 説明され て, 人の 

智 情意の はたらきに なっとく を 与える もので なけ れば ならない。 古代 ギ リ シ ァ や 古代 
シナに 例 をと つても, 神話 • 伝説 • 説話な どと 呼ばれる もの に 類す る 理解 と 説明と で 
は, すでに 満足で き なくなり, シナ では 譜 '系* 牒な どと 呼ばれた ものの 系統に, う 
ら ないや 暦 や 王 命 • 行事 そ の 他に 関す る 皿 類から 世 本 • 帝繫の 類が できた と言われ 
るし, ギリシア では 特に 散^ 家 等の 見聞 博識の 雑記が 現われ, しかも 一方に はすで 
に 詩歌の 類が 発達し, 他方で は 広 く 世界の 真理 を 知ろ う と する 学問的 態度 一 な 古代 
ギリシアの 哲学 = 愛智 —— もまた 起り, そういう 心の はたらきに 促されて, 作り話 や 
人のう わさに とどまらぬ, しかもす じ 道の 通った 報知 を 希求す る, 理屈 や 推論が 主に 
なる のでな く, 事実と^^ を 主と する 証明 を 望む, そういった 態度の 現われが 歴史の 
始ま り である。 それゆえ 西洋で しばしば 歴史 は 事例の 哲学 だと 言われた こと も 意味の 

% o し とで ある 0 

いわゆる 歴史の 意識が めざめる 前の, いわば 薄明の 段階 は, 上に 見た ように 遠い昔 
にあった ばかりでなく, この 方面の 心の 未成 熟の 度合に よって, それ はむしろ 常に あ 
り, 現にた と. えば 幼い 入々 などに 存在す るので ある o この 歴^ 前から 歴史へ と進薆 
する 知識の はたらきに は, 二つの 要素が からみ 合って いるよう にみ える。 それ はい わ 
ば 記憶と 想像と に 帰す る ことができよ う ひ その 一は 系譜 や 先例 や 事件な ど を 忘れ去ら 
れな いよ うに 留め 残そう とする 実務 的な 作業すな わち fai 录の 類で あ り, そ の 二 は 詩 
歌 • 伝説な どに 示される 感興 • 詠數 • 讃美 • 同情 • 想像 等の 精神的 関心から 説明 • 理 
解 • 思索に 向かう 態度で ある。 古代エジプト のォべ リ スク その他 や, ベ ヒス タン 磨 崖 
の 碑文な どの 数多い 記念碑 類, ホメ  ロス や^^ゃ ヴ ェ 一 ダゃマ ハーバ— ラタ や, ゲ ェ 
ルギ リウス や ニー ベル ンゲ ンの歌 は, もとよ り それら の 間に はさま ざま の 違いが あ る 
けれども, それらの うちに は, 歴史 や^ゃ 哲学の まだ 分かれ出ない 境の 要素が 少な 
からず 含まれて おり, 同じような 性質 を 多分に 持って いるが, ヘシ オト、、 スの 記述 や 旧 
約の 歴史の 部分 や シナの 古典のう ちの 歴史の 部分な どに は, 歴史 固有の 世界が, 上に 


総嗣編 


見た 二つの 要素のから み 合いに よって 形成され て ゆく い く つかの 断面 を 示す も のが あ 
る。 cp.29 iv  r 世界史の 読みと り 方に ついて j 参照) 

I 古代 風の 修史の 態度 

歴史が 歴史と して, 他の 清 神 活動から 別れた 点 は, 上に 触れた ように, 事物の 経験 

的な 真実の すがた を, 過去と!^ との かかわりに よって, 人間ら しく 推移す るで きご 
と と して 理解し 認識す ると ころに あり, 事実の 保存と 搮求 という 態度 を 優位に 立てて 
讃美 • 同情 • 説明' 反省な どの 態度 を その 下に 置き, そ の 間にある 均衡と 調和と を 保 

つに 至った ところに ある o 史学が 文学 や 哲学と 深い関係 を 持ちながら, おのずから 別 

様の 天地 を 開いて, 文学の 必ずしも いっかど こかに 起った 事実で なくても, 仮作 签想 
を もい とわぬ 態度と は 異なり, また, 哲学の 事物の 時と 所と による 関係 を 深く 問わず, 
むしろ 論理' 思索 を 主と して 経験 を 照らし, 普 顧 当の 真理 を 求める 行き方と も 異な 
る, 史学の 領续の 独自性 を 発展せ しめたの は, 上の ような 経験的, 実証的, 客観的な 
事実 を— 歩 も 離れ ない という 点で あった。 いっかど こかに 起つ た 事件 という 性質が 歴 
史の框 であって, この 制限 を 押し破る わけに は ゆかない。 ところが, この わかりきつ 
たはず の 道理が, 実は 意外に 面倒な ものに なるこ と を 見の がせない ので ある。 

歴史の 輝か しい 目標 は, ま ず 古代 ギ リ シ 了 に B.  C.  5 世紀の ころへ 口 ド トス. ツキ 
ジ デスら が 出, 古代 シナに B.C.  2 世紀の ころ 司 馬遷が 現われ, それぞれ 西' 東 史学 
の 高峯と して 衆目の 仰 ぐと ころと なつ た。 西方で は^いで ク セノ フォン や, やや 連れ 
た 口  一マ 時代に 司 馬 遷と相 前後して ホ "リビオ ス 'プル タルコ スら, さらに n —  マ 帝政 
時代に リ ヴ、 ィ ウス や 遅れて タキ ッ 入 そ の 他 少な か ら ざる 史家が 輩出 して, へ ロド、 トス 
や ツキ ジ デスの 流れ を く ん だ。 東で は, 西の リヴィ ウス' タ キッスの 中間の 時代に, 
後 漢の班 固が 司 馬遷の 定めた 紀伝 体の 史体を 継ぎ, 断 代 (王朝 時代 史) p 史体を 始め 

たと 称せられる が, しかし 西方の 史 体の 自由な のに 比する と, シナ の史風 はすこぶ る 

形式的 伝統 を 固執す る 風が 強く, 遷 '固の 史体 は, 以後 代々 の 王朝の 官撰 である 正史 
の 典型と なり, 私 撰の 史書に もこの 史 体に ならう ものが 少 くなかった ので ある 0 こ 

の 点 西の 史風 はシナ 流に 言えば, おそ く宋 代に 現われた 紀事 本末 体に 近い 叙述の;!^ 
が 主と なって 早く 発達し, 編年体 的 要素 や 紀伝体 風の 要素の ある も の を 含んで い る 形 
だと 言え ■>  D ひ 

ともあれ, これらの 東' 西の 史学 は 当初から 少なからぬ 差異 を 示し, 同一の 史学と 
いう 概念で は 包括し がたい 趣が あるが, しかし 情感' 想像に 訴える 傾向の 勝った 物語 


歴史と いう 学問の 回顏と 展望 


風 歴史の 要素と, 報告に より 多く 傾く 教訓 風 (実用 風) の^^ 錢 との 両極 を 

持ち, しかも シナの もの は ギリシア •  ローマの ものに 比すれば, 概してし だいに 大義 
名分 論 的な 道徳 政治 を 目 ざして ゆく 傾向が あり , 西の もの は 概して 成敗. 盛衰の 原因. 

結果 を 求める 風が ある。 シナ における 三国^; 以降, 隋' 唐. 宋な ど, 13 世紀に 及 
ぶ 間に も 数多く の 史籍が 経学と ともに その 豊か さ を 誇って いるが, 先に も 触れた よ う 
に, 多^ 企の 試み も 史実の 範囲 や 叙述の^ などに とどまり, 西方に おける キリス 
ト « 観が 5 世紀 は 降, 深く 大き な 影響 を 歴史 作業 全体に 与え た の に比べ ると, 仏教 
などの 宗教 的 影響 は, 決して 胃で きぬに しても, 同日に 談 じがたい 開きが あると 言 
わ ねば ならぬ。 歴史 作業 という 角度 か ら 見れば, 西洋に おける ロー  マ 帝国 末期 か ら 民 
族 移動' 建国 時代の いわゆる 中世 初期に わたる 7,  8 世紀の ころまで は, 修史の 事業 
はとみ に 振わず, シナ において は 南北朝から 唐の 盛 世に わたる 時代で, ここで も初办 
混乱の 政 状を呈 したので あつたが, しかし こ の 方 は 古代 的 修史の 伝統の 水準が 高 く 保 
たれ, 外的な 史体論 を 中心とする 劉 知 幾の 「^SJ の ごとき 述作が, 資料 的 史実の 集 

成と とも に 唐の 文化 を 飾った。 西方で はこれ よ り 先, "一 マの M に 際し 聖ァ ゥグス 
チヌス の 「神国 論」 が 現われて, 史実の 研究 はさし おいても つばら 内的な 信仰の 史観. 

を 確立し, 将来の 歴史 意識の 根本的 変革 を もたらした 0  ' - 

以上, 古代 的の 史学 は, いわゆる 物語 的と 実 招 的との 二つの 型 を 含んで, 素朴な 経 
験^ « 的な 史実の 獲得と 素朴な 合理^^ 的な 史論の 展開と を, 時に よ り 人に よって一 
進 一 退 させながら, 優越した 少数の 史家 に その 頂点 を 形成され てきた 次第 を 述べた。 

そこに は 廣衰舆 亡す る 人生の M@ に 触れる ものが あり, 入 間の 意図 や 自力と, それに 係- 
わ りなく 風の  ように 変わり  やすい 違 命と  か 天運,  あるいは 神々 の 恣意の ような, 眼に 
見え ない 恐 るべき 外的 威力 を 痛感せ ず に はすまず, しかも それら の 作 招の 関係 は 暗い 
偶然 的な ものと いう 程度に しか 考えられぬ 段階から, やや 進んで は, 人間 行為の 利害 
• 得失と 正邪 • 善悪と の 両方 向に ついて 問題 を M し, 人間の なすと こ ろ も 森羅万象 
の 外的 自然に 共通し, 人間 相互に 類似し, 同様の 事象 を 繰り返す ように 見える 場合の 
少な く ない のに 気づき, そこに 一種の 因果関係 を 認める よ う になる。 しかし このよ う 
な 人生に おける 規範的な 当為の 表わし 方 も, 自然 的な 理法の とらえ 方 も, 一貫して 徹 
底す る こと は むずかしく, 雑然と して 難し, または 出没 常な しとい う 状態に 近い 0 
一方に 人間社会の 血緣的 関係が 歴史の 動力と して される かと 見れば, それが 宗教 
的 神人 関係と 連なり, そうした 非合理的な 作用 を 多く 認める 態度から, ようやく 権 方 
欲 や 物的 利害の 作用が 政治的 物 力 的に 激しい 波瀾 を 巻き 起し, 情熱と 打算に よる 諸 勢 
力の 強弱 度の^ # や 離合集散 •  fi» 利鈍の 変転 を 招く を 見る な ど, しだいに 合理的な 
説明が 加わって く るが, 帰す る と ころ はなお^^ 主義 を 脱しない a 歴史の 事実の 検討 


I 総       細  編 


^深く 立ち入る こと は, 明らかに: されて はいるが, しかし 実際 は それほどに は 進 
ま なかった きらいが ある と 同じ 段階で ある。 かくてた だ 変化し 続ける 一面 も あれば, 
いっこうに 変わらぬ一 面 も あり, 人生 は 黄金時代 または 完全な 段階から, しだいに 堕 
落し ゆく という 見方が される 反面に は, 繰り返し 輪廻 するとい う 見方 もあった。 しか 
し それらの 間に, 向上し ゆく 営み を 見る 考え方 も, 絶無ではなかった が, あまり 表面 
ィ匕 しなかった。 また 特に ローマの 現^ を 主 対象に した ものに は, 政治的 傾向 性の 強 

い 宣伝戦 術の 武器に 利用され た 場合が 少なく ない o 要するに 一貫した 一定の 史観に よ 
る 総合と いう こ と は 未発達の 坎 態であった o 

ffl キリスト教 神学 史観と 中世 風 修史 

西洋で は 古代の 文明が 変態し, 特に 修史の 領绒を 全 ョ—。 ツバ 的に 見る と, ョルダ 

ネス ゃッ —ル のグ レゴリ を 除いて 7 世紀 ごろが 最も 不振で あつ た。 しかし n —  マ史業 

の 影響 は 当初から いく らか 残り , 8,  9 世紀 以来, 教会 を 中心に 編年史 ま た は 年代記 
のた ぐいが 興って きた。 それ は, その 編年体 風の? a# 性 や 物語 風の 素朴 さに おいて, 

洗練され た 文体 や 文章 を 重んじた 古代の 歴史に 比すべく も なかった が, 12,  3 世紀 ご 

ろから 量 • 質と も に 著しく 高ま り , 修史に 携わる 者 も, 僧侶 のみでな くな り, 俗人 こ 

とに ようやく 市民た ちに 多くな つてき た 0 す でに 年代記 (Annals) に ffil 录性 • 資料 性が 
'強く, 編史年 (Chronicles) に 物語 風の 性質が 強く 示された が, また 他面 西洋 中世 を 
通して, 俗界 史と 聖界史 との 二つの 流れが 相対した ことが 見落せぬ 特色 をな した a 旧 
約' 新約の 堅い 伝統の 下に, 先に 聖ァゥ グスチ ヌス, のちに 12 世紀の フライジングの 
オット 一ら によって 画された キリスト 教的 世界史 観 は , 墙上 人間の肉 的 世俗の 営 為 と 
事象 を 異教 的 外道と して 軽蔑し, ひたすら 万物の 創造主た る 神意 を かしこみ, その 地 
上の 代理者に して 霊の 救搭を 使命と す る 教会の 奇癢的 大業 を 信仰 • 讃篛 すべ く  , しか 
も 他方 ひそかに 古来の 土俗 的 迷信 的な 感情 を も 入れて, 中世 千年の 表看板と なし, 最 
後の 審判に 至る 過去 • 現在 • 未来 を 連ねた, 聖 なる 摂理の 歴史 を 描いた a それ は 異教 
徒 はい うまで もな く, 信仰 薄き 俗人に も あるい は 不思議の 歴史の 動向 となる でも あろ 
う ひ 現世に う ごめ く 人間 は, 万象と ともに, 陰影の よ う に はかない 仮 象に すぎない 0 
しかも, 去りが たい 現実の 苦悩 • 欲念 は, 三世 を 通して 未来の 無限に 耐えが たき 苦 
難 刑罰 を 痛感 恐怖せ しめ, そこに 一貫した 目^の 神意が 究極の 目的に 向かって 次 
々に 顕現す る 次第 を 観念せ ずに はおられぬ o 世界の 推移 はこう した の 一節 一節と 
して, 世界 歴史の 諸 時代と なる 。要するに, 歴史 は 世界に 投影され た 不可 測 絶対の 神 
まの» である。 その , をた どって 敬虔に 全能の 神意 を かい ま 見うる 者 は, めぐま 


歴史と い う 学問の 回顧 と 展望 


れて 信仰 あっき わけで ある o 

ここに も, 古代 以来の 物語 風 • 教訓 風 歴史の 要素が, 微妙に 含まれて いて, さらに 

新しい 拡充 を 伴な つてい る a 古代史 学に 比較的 早く 展開した 経験的 合 S 主義 は, 萆な 
る M 性 を 越えて, つとに, 断片的ながら, 自然 的な 理法 を 想 見した が, このような 
哲学的 見地 を 形而上学 的に 推し 進める 程度に は, 修史の 枠内で は, まだ 至らな かつ 
た o それが 中世史 学で は, 自然の 理法 を 神意 摂理のう ちに 包摂して, 宇宙' 人類の 過 
去 • 現在 • 未来に わた る 統一的 意図の 絶対 i を 疑わず, ひたすら このよう な 神秘 • 
非合理' 不可 測の 桀さ • 大きさ を 伴な う 意志 を, 神学 的に 説明し 合理化し よ う と した。 
こうして, 人間の: S 的な 企図 や 英雄 '天才ら の 創造 も, それ 自体と して 意味 ある も 
のでな く, したがって 地上 現世の, 社会的な 生活 も 経済的な 営み も 政治的な 行動 も 文 
化 的な 活躍 も , 結局 宗教 的 信念の 重要 さに は 遠く 及ばぬ とせら るべき ことと なった。 
それゆえ, 現実の 生活に おいて 権力の 強 盛 を 欲する ような 事 は, きわめて いやしむ ベ 
く, おのずから そのような 事件 や 事実 は 軽ん ぜら れ, むしろ 弱くして しいたげられた 
民衆の 内なる 霊性が 顴み ら るべき 道理で あった。 中世 キリスト 教史 がー 貫 し た 内面的 
史観 を 確立した わけで ある o 

古^学が, 物語 風と 実用 風との 両極の, 後者 を 主として 含み 持った と 言いうる な 
ら, 中世史 学 は, 物語 風 を 主にして 教訓 風 を 含み 持った, と 言えよう か。 もとより, 
キリスト教 史観の 魏 力' 影響力と いう もの は, 深く 大きく, いくらか それに 似通つ 
た 形跡 を, 仏教 や 回教が 示す にしても, とうてい 比較 を 絶す ると 言いうる だろう 。し 
かも また, その キリスト教 カトリック 史観の 浸潤に も 限界が あり, 物語 的に しても 実 
用 的に しても, この 神学 的 見地の みに 立つ ことに 甘んじない 底流 もあった ので, 中世 
末期に 近づ く につれ, こ の 底流が, 市民生活の 進出 とともに, 合理的 経験 尊重の 態度 
と 結び、 ついて 浮かび、 上って くるので ある 0 

なお, 文字の 国シナ において, 11 世紀の 半ば, 司 馬 光の 編年体の 通史で ある 「資治 

つ がん  き 

通鑑 J が 現われて 一典 型と なり, ^いで 南宋の 朱熹 は, これによ つて 王朝 正統 主義の 
史論 を 推し 進めた 。また, この ころ 制度 史的 資料の すぐれた 集成 も 行れ わたが, この 
国の 伝統に よる 教訓的 並びに 実用的 史学 は, 西洋史 学の 尺度から すれば, むしろ 古代 

風 史学の M によって 測られる ほか は あるまい。 ィ スラ ム 文化の 影響が 西洋 中世 後期 
の史 風に 流入した こと は, やがて 歴史に おける 自然 的 • 地理 的な 条件 を 考慮せ しめる 
—助に もな り, 地上 俗世^ S 開 の 少 な からざる 刺激 となった。 


W 近世 風 合理主義 的 歴史 と その 進歩 及び 発展 


ふ        M  編 


西洋に おける 近世 史学 は, ルネサンス 及び、 ヒュ一 マユ ズムの に 伴ない, 上述し 
た キリス ト教的 史観に 対する 古代 的 実用 風の 歴史の 復興の 形で 起って きた 0 もちろん 
キ リ スト 教的 史観の 影響の ほかに, 東方 ビザ ン ッ 及び、 ィ スラ ム 圏に 栄えた 文化の 刺激 
も 加わった もので, 決して 古代の 復活に 止まる もので なく, その 効果 は 近世の 西方が 
成熟す るに つれて, インド や 中国' 極東の 文物 を も 知り, しだいに 顕著に 現われて く 
るので ある a 

それ は, マキ ァヴ エリ 'ギッ チヤ ルディニら の イタリア 人 史家の 群れ, トマス = モ一 
ァ 'フラ ン シス = ベー コン らのィ ギリ ス人 史家の 群れ, ァ ヴェ ンテ イン. プー フェン 

ドル フらの ドイツ 人 史家の 群れ な どが 続出 したので あるが, これらの 史述 と 並んで, 

そ の 基礎 作業 である 史料 蒐集 批判 • 博識 考証 法 の 発達 が 着々 と 進み, ヴァラ. ジャ 
ン= マビヨン • ライプ 二 ッ • ム ラトリら を, 飛石 伝いにた どる ことができる。 これ は, 

古代に は 見られ ぬ 近代科学 性 の 一端で ある。 ジ ヤン = ボー ダ ンらに 始まる 史学 概論 的 
研究 法 は, このような 歴史の 科学 性 を 正確な 史実 考証と, 自然法 則に 連なる 人事の 理 
法との 上に 見いだ そ うとす る ものであって, 摂理 信念の 介入 を 正面 切って 拒否す るの 

でな く, 気候 風土  (自然環境) による 人間社会 の 風習 • 制度 • 文物 • 政治 の 必然的 

動向 を 察知す る ことに 努力す る。  つ;"、 

しかし, これら 近世 前期の 史学 は, なお 古代 風 実用主義 によると ころが 大きく, 
事象の く り 返し を 重視す る 政治的 功利主義が 目立った が, いわゆる 啓蒙 主義 時代の 
近世 後期に なると, 旧式 古典主義 史学 を 乗り越え, 理性 文化の 道理 力 を 重んずる 進歩 
向上の 自負が, 目立って きた。 その 合理主義の 過信から, 時に 道理と 理想と を 絶対 
ィ 匕して, あまり に 容易 かつ 急速に 実現 完成 しうる かに 印象せ しめる 点が あ つ たけれ 
ども, また その反面に は, 経験と 事実と を 真理の 拠点として, 度数 を 重ねて 妥当な 
蓋然 的確 実 さに 到達しょう とする, 相対的 実証 を 重んずる 態度 も 強まった。 この 史 
学に おけ る 合理主義 的 態度 と 経験主義 的 態度 と の 両極 均衡の 仕方 は, さまざま に 試 
みられ, ロック 'ホップスの 流れ や, ことに ヴ オル テール' ルソーの 傾向 力 入 とも 
あれ 合理主義 的 色彩の 濃い 進歩主義 を 指示す るのに 対し, ヴィ コ • モンテス キュ 
ゥ' ヒューム' ュスッ ス=メ 一 ザ— . ヘルダー ら はむしろ 非合理的な 事情 因縁 相 寄 
つて 人間 生活 や 制度の 個性的な すがた を 生成 発展せ しめる という, やがて 発生 的な 
発展 主義 を 指向す るので あった。 近世 前期の 単純な 軽信 性 はいくら か 修正され, こ 

こに 広い 意味に おける 歴史主義 的な 傾向の 展開 を 18 世紀に 確認す る こ とがで きる。 
すなわち 客観的 事実の 報告 • 記録 性 を, ますます 実際的 技術的に 掘り 広げる とと も 
に, 従来の 自然法 的な 考え方の 観念的 抽象 性 を 退け, 具象的な 個体の 独自性 を 尊重 
しつつ, しかも それら を 通しての み 全体 的な 意味 形象 を 味 得する という 史観の 掘り 
下げ を 行い, こ う して 今やよ うやく 現代史 学に 近い 性格 を 帯びる よ うにな つたので 
ある。 

—— 10 —— 


歴史と いう 学問の 回顧と TO 


近世 初期に 栄えた 実用主義 優位の 史学 は, 後期に はいって 進歩の 史学と, それに 次 

ぐ^ M の 史学へ と 向かった。  母 お , 《せ %"^t^ お': 

西洋の 近世 的 史学が そ の 面目 をと とのえ たころ, 東洋で は 明 末 清 初に 当た つ て顴炎 
武' 黄宗義 '閻若 璩らを はじめと して, いわゆる 考証学 派が 起り, 宋 学の 思弁 や 直覚 
を 重んじた のに 対して, 綿密な 住疏を 主と する 精細な 研究 法 を 展開した。 洪亮吉 '銭 

大昕' 王嗚盛 '趙 翼ら の 諸 学が 続いた o また 崔述の 「考 信録」 も 有名で ある。 史学 や 

特に 文学と 哲学との 区別の 明確で ない この 国の 伝統に 立って, このよ うに 精神 史的 領 
绒 にも 触れる 風 は, 章 学 誠の 史学 at ^的な 「文史 a«j にも 見られる。 かく 東洋に お 
いても, いくらか 新しい 学問的 方法が めざめた けれども, 泰西の 科学 文化の 広汎な 生 
活 化の 一翼と しての 史学と いう 視角から 見れば, 極東の 風 は, 人生と 文明と 市民 
社会との, 大きな 視野と 関連と に 欠けて いる。 
ルネサンス 以降 フラ ンス 革命に 至る 西洋 近世の, 政洽 • 経済 • 宗教 • 文化 諸般に わ 
たる 社会的, 個人的な 活動 は, これまでの 東西 の^や 対立 を, いわば 加速度 的に 拡 
大して ゆく 基礎 を 置いた が, その反面に は いわゆる 西 力 東顦の 形で, 両洋の 関係 は, 

西 力に 主動と 優位と を 認めずに はいられ ぬよ うにな つた 0 このよ うな 泰西 学術の 一端 
としての 近世 史学 は, 旧来の 実 招 的 態度 を 主軸に して, 文学に おける 備忘録 的 随筆 的 
趣味に 通ず る 態度 を 加味し, さ ら に 世界の 拡大に 伴な う 地誌 的, 人種 •  土俗学 的 要素 
を增 加し, « 資料 的 データ と して 史述 のす みずみに 付 置され ていた ような かっこう 
であつ た 経済 事象 や 社会 • 民衆の 状態, あるい は 学問 • 思想 • 文芸 • 趣味 嗜好な どの 
文化 面な どが, 史的 関心の 重要な 対象と なる に 至り, 王朝 的 国家 史 • 政治 外^中 心 
の 既成 史風 に対して, 文明 史 ないし 文化史の 名に 包括され る 新しい 史野を 開いた。 そ 
れは 幾分, 西洋 中世に おいて 聖界 史観に 対する 俗界 史観の 解放 を まねいた 趣 に似てい 

る o ともあれ, はなはだ 大まかに 言うならば, 理性の 文化が, 権力の 政治と 結んで, 

身分 的な 社会 や, 資本主義 的に 推移しつつ あった 経済 や, あるいは 教会 化して しまつ 
た 宗教な どに 対して, その 指導力 を ふる うべき だとい う 主張 を 含んだ 段階で あつ たと 
も 言える だろう。 そして 歴史の 生成に は, 気候 風土な どの 地理 的 物理的な 条件 や, 動 
植物の 分布 及び、 人種 • 体質 • 性格な どの 最も 広い 意味に おける 生理的, 心理的な 基礎 
に 立つ 生活 や, あるいは 上の 物理的, 生理的, 心理的な 自然 的 環境 や 状態に 規定され 
て, 風俗 習慣' 社会制度な どが 形成され, さらに これらの 人間的 環境 や 条件に 伴な う 
政府 • 政体の 変遷, また そこ に 強弱 さ ま ざまに 作用す る 個人的 ま たは 集団 的な る 野心 
• 入 情 • 狡猾 • ^ • 道義 等々 によって 動き ゆく, 最も 広い 意味に おけ る 世間 的な 倫 
理 的な 生活, あるいは 信仰 や 理想 や 趣味 や 課題 やく ふう や 情熱に 熱中して, ひたすら 
そ の 道 を 楽しむ 三昧 境の 個性 発揮な ど, 入 生の 諸 層 面 を しだいに 清 確 • 克明に 把捉す 

—— 11 ~~ - 


るよう になって ゆく が, 歴史の 経過 を, 概して 自然発生 的な 因果 系列の 相に おいて 表 
象す る ことに 傾く。 かくて 歴史の 推進力と なる 諸 勢力の 関係 (こおいて, 強弱 度の 交替 
• 変化が一 段 と 問題 となり, 強 食 弱 肉 といつ た 強者の i が 直接 あ ら わに 働く 場合と, 
弱者と 見え る ものの 間接的な 受身 や 陰柔な 作用の 意外に 有効に 働く 場合な ど, それら 
は 武力と 財力, 権力と 正義, 現実と 理想, あるいは 偉人の 強剛なる 個人 力と 大衆の 雷 
同 的 圧力, 等々 さまざまな 対立 関係 を 住 目せ しめ, それらの 錯綜と 葛藤のう ちに, 近 
代 は 古代に まさり, 世界の 文明 は萆 なる 波状 を 描く にと どまらず, またく り 返しの 輪 
廻に とどまらず, また一 部の 急進派 は 急上昇 線 を 観念す るが, 必ずしも 直線 的 進歩 向 

上と 楽観し がたい 点の ある こと を 覚悟す るな ど, 近世 型の 史観 を 通観 すれば, 多岐 多 
様の 間に 複合 性と 周密 性と を 加え ゆく のであった。 

, V 近代 または 現代史 学の 科学 性 

19 世紀 以来の 近代史 学 と 呼ばれるべき 史風 もまた, その 多様 複雑で 見究 め が た い 流 
動 性 を 特に 目立た しめたが, そのうち について, おのずから 前後の 2 段階に 分けてみ 

る ことができよう •。 すなわち, 19 世紀 的 史学と それ 以後の 段階と 言って よい。 近世 的 
進歩の 史観が 近代的 発展の 史観 を 促して, いわゆる 史学の 世紀の 盛况 となり, 一面に 

は 歴史主義 横行の きらい さ え 感ぜし める に 至つ たもの の, 両度の 世界大戦 を は さんだ 
史学の 課題 と 苦悩 と は, 現代 か ら 将来に わたる 歴史 科学の 確立 をます ま す 要望せ し め, 
人類 は 自らが 作り出した 西洋風 文明と 技術と をます ます 欲求しつつ, 自己 自身の 不可 
解 と 不可 測 と 自制 自律の 困難 とに 当面する ことい よいよ 切実 な ものが ある。 20 世紀 の 
史学と 言わるべき も のが, 19 世紀の それの 延長 上に 発展す る こ と はいな まれない が, 

しかも その 科学 性 や 技術 性 はまた おのずから 面目 を 新たに しつつ ある こ とも もちろん 
疑うべく もない 0 

19 世紀の 社会的, 経済的, 政治的, 宗教 的, 文化的 躍進ぶ り は, 今日の 思慮な き 目 
からすれば, あるいは 言う に 足りぬ 程度の ものであった にしても, 当時の 入 類に と 
り, ことに 18 世紀 以前の 入々 にと つて, それ はま さに 瞠目 驚 戴に 値する ものであった 

ろう 0 歴史 作業 あその 一翼と して, 史料の 蒐集 整理, 史実の 考証 批判, 史述の ra 熟 ゆ 
練な どに おいて, その 領域の 拡大, 方面 • 対象の 分化, 方法 • 反省の 清 到な ど, 文学 特 
に 哲学の 清微 なる 動向に 影響され つつ, 史学 独自の 世界 を 確立した 0 後進 的ドィ ッに 
卓出した ローマン, 的, 理想主義 的 思潮 は, 歴史の 方法と 史観との 組織に 大きな 寄 

与 をな し, ユー ブール • ァゥグ スト = ヴ、 オルフら の 文 証, サ ヴィュ 'アイヒ ホ ノレ 


12 


歴史 という 学問の 回顴 と 展望 


ン ら の 歴史 法学, グ リ ム 兄弟の 民間 史料の 蒐集, とりわけ シュ タイ ンが 計画した ゲ ノレ 

マ- ァ 史料 集成 (M.G.H.) の 事業な どの 盛り上がる 風潮と ともに, 世紀の 巨匠 レオ 

ポール r = フォン = ラ ンケ お現われ, ヘーゲル 派 歴史哲学と は 独立の 実証的 諸国 民 世 

界 史学 を 大成 し, その他, F  ロイ ゼン 'モム ゼ ン • ジ 一 ベル 'トライ チケ 'フライ ター 
ク • ブ ノレ ク ノ、. ル ト 'グレ ゴ ロヴィ ウスら の 星宿が 輝 き, フランス は ルナ ン • ギゾー • 

ミシュレ' トツ クウ、、 イノ レ • テ 一ヌ • フユ ス テルニ ド = クーランジュら, イギリスに マ 
コー レイ. グ ロート. パック ルら の 泰斗が 出, そ の ほか 多数の 生彩 豊富な 学 匠が 輩出 し 

た。 それらの うち, 政治的 行動 や 国家' 国民 を 中心 対象と する 風が やはり 主流 をな し 
たが, しかし 前代に 引き続き 文明 史 または 文化史の 動向が 大き く 前面に 押し出され, 一 

方, 経済 史 • 法制 史 • 思想 史 • 芸術 史 • 風俗 史な どの 特殊 史的 側面が 急速 度の 展開 を 
示 し, 法制 史閧 係で は n マユ ストと ゲル マユ ストと の 陣営が あ り , 経済 史 関係に は 国民 
歴史学派 や 社会主義 證派が あ り, ここ ではわず かに, マウラー' マイツェン' ヴ アイ 
ッ • ギールケ • グナ ィ スト 'ィ- リングら の 法制 史家 や, リスト • ヒルデ ブラン ド • 
クニース • シュ モラ 一ら の 経済 史家 を 付け加え るに とどめよう。 マルクス' ェ ン ゲル 
スの 唯物史観 は, へ —ゲルの 弁証法 を 軸と して 転回し, フランス 社会主義 理念の 影響 
とィ ギリ ス 資本主義 経済の 分析な ど を もって, 人生に おける 意識 • 観念 も, 宗教 • 文 
化 • 国家' 社会い つ さいの 営み も , すべて 物質的な 社会的 経済的 生産 関係の 下部構造 

の 上に 形成 さ れ, こ の 下部構造の 進 S に 相応して 上部構造 も 変革され ざる をえぬ わけ 

で, 原始的な 共産 制が 失われ, 持つ 者と 持たざる 者と に, すなわち, 搾取し^ する 

階級と 搾取され^ 2 される 階級と に 分裂して 以来, 歴史 は両 階級闘争の 跡と なり, 後 
者が 前者に とって 代わる 革命に よって 進歩す る, となし, 他の 多くの 史学 を ブル ジョ 
ァ的 として 退け, プ" レタ リアの 立場 を 堅持 するとな した。 自然環境 や 経済活動が 歴 
史に 重要な 役割 を 演ずる こと を 認める 風 は, すでに 種々 の ものが あつたが, このよう 
に 革命的 階級闘争 主義 理論に 徹して 実践的と な つ た 歴史 科学 はな く  , そ の 史実の 扱い 
方な どに 問題 は 多い が, 以後の 現実 界に 深刻な 影響 を 与えた。 しかし 史界の 大勢 は, 
種々 差異 は あるが, 概して 自 然的 環境 や 物質的 条件 は 大きな 作用 を 及ぼす けれども, 
人間の 歴史 は 自然 的で あると と も に 精神的で あり, 意識の ほかに 動く こと ももと より 
大きい けれどもに 意識的な 行動 を 無視す べきで なく, 個人的に も 集団 的に も, 時代 的 
にも 個体 的 存在と 行為 • 個性的 独自性 • 人格 性 こそ 人間性 を 表現す る 本質的の も ので 
あると なし, このような 立場から 過去の 事実 や 伝統 を, 能う 限り 公正に 客観的に 把握 
しょうと する 方に 傾いた ので ある。 実践 性 は 強調 される とや や もす ると 傾向 性に 変じ 
やすく, 偏頗な 主観性 やかって な 戦術' 宣伝に 走り やすく, この 例 は 政論 的な 小ドィ 
ッ史派 などに も 特に 著しかった。 19 世紀の 後半まで は, 自由^の 主張と 並んで, 国 


—— 13 


総論  編 


民 主義の 要望が 時代の 指導 思潮で あつ たか ら , 歴史の 上に も そ の 色彩が, 濃淡の 差 は 

あるに しても, 染め出され ていた。 政論 的に しても 戦術 的に しても, あるいは また t 

董趣昧 的 せん 索 沙汰に して も , 歴史的な も の の 過重 と 煩瑣に 対 して, 二一チェら の ご 

と く 批判 を あえてす る 態度 もまた 傍流 をな した。  ソ 

歴史の 本領 を 清 神 的な ものに 見いだ す 歴史主義 的 主潮 は, ディルタイ • トレルチら 
や ク p  —チエ 'マイネッケ. ス ルビ クら のす ぐれた 代表者 を 出し, 社会と 経済と を 含 

む 文 / [匕史 の 流れに ラ ムプ レヒト' マックス =ゥ1 ーパ、 一, あるいは ロス トフ ッ エフ • 
ベ ロウら が あり, 史料の 1tM, 考証の 厳密, 見解の^ F 冷静に ひいでた 者に エド ヮー 
ド、 = マイヤー • ドプ シュ 'グーチ 'オーラ  一 ノレら:^ あ り , そ の他セ ィニョ ボス • ラヴ、 
イス 'セー • ピュア リー. ビ 一アト、、 等々, 枚挙に い とまが な い。 

要す る に 19 世紀末 葉から 20 世紀の 前半に かけて 現われた 現代史 学の 誇 流 は, 千 態 万 
様で, なかなか その 主潮 • 中心 動向ない し 学風と いった もの を 確かめが たいので ある 
が, その 科学的 実証 性に おいて, めざましい M をと げた こと は軌を 二に する。 それ 
は史斜 新究の 清敏深 達 をき わめよ うとす る こ とで あ り , ま た 史実の 遷択と 採用 • 評価 
について 問題意識の 専門的 明確 化と いう ことで ある。 人間社会の 推移に おける 意識的 
の 動因 と 意識 外的の 作 因 とのから み 合いから, 史的 評洒の 主観性 と 客観性 と の 錯綜 関 
係の 反省, あるいは 因果 必然的 分析の 発達と ともに, 他方 個性的 一回 限りの 生活 ■ 
や 意味 追求の 深化, などの 作業が こまやかに 丹念に 遂行され る ことであって, 研究の 
実際が ますます 拡充され 精到と なり ゆく ことで ある。 かく して 研究 領野は 日々 に 分化 
し, 主題の 専門化 • 特殊 化 は, 多数の 研究論文 • 調査報告の 刊行' 発表と なり, 学会- 
や 協同 作業の 組織 も 発達し, 歴史 研究 だ け です でに 見渡しが たい 広汎 さと 多岐と を訴 
えしめ るに 至った。 したがって 一個 入に して 19 世紀 史学に 読出した よ うな 大著 述を多 
産す る こと は, やや 困難 視 される 傾き もないで はない。 しかも こうした 縣 専門分野 
の鬵 く ベ き 細別と 拡大 は, これ を 統合し 帰一す る 作業の 必要 を ますます 強く 感ぜし め 
る にもかかわらず, これが 解決 は 容!; でない。 各国 • 各 学界が 競って 調査 • 研究 を 進 
め, 入 生の 諸 側面からの 考察 清查 はいよ いよ 增 すが, さて 人生の 帰趨, 文明の 運命に 
ついて 総合的 見通し を 立て ると なると, ブ ライジヒ ゃシュ ペン ダラー や アーノ  ノレ ド、 = 
トイ ン ビー' アルフレッド = ウェーバーら の ごと き 普 融 的 形態学 的 試み を 例示し う 
る 程度で ある 。再度の 世界大戦 を 挟んで 個人主義 '資本, • 民族主義 • 帝国, • 社 
会 生義な どの 相剋 を契饞 と す る 人類の 安危 存亡 と 7握 性の 問題 は, 近世 以来 世界の 覇 
権 を 握って きた 西欧 列強が, 今や シテ 役から 7 キ^に 転落 を 免れぬ 関頭に 立つ た 感懐 
も 含まれて, 西洋文明の 不滅 を 特に 信じよう とする 観が ある。 西欧 史学の 伝統 を 受け 
つつ, いずれ かと 言えば 社会学 的, 生钕学 的, 心理学的, 統計的 集成 を 特色と する 米 


14 —— 


歴史 という 学問の 回顴 と 展望 


国史 風 は, 従来 自由主義 • 民主主義 • 資本主義の 前途 を 順風満帆 的に 楽観して き た 

が, 今やよう やく 楽観すべく 努力す るよう になり, —方, マルクス • レー- ン 主義の 
祖述に より, 資本主義 • 帝国主義 社会の 矛盾と 崩壊の 必至 不可避 を 強調し, 革命 実践 
の 信念 を 鼓舞す る ソ連の 史風 は, やや もす ると 政治的 偏向に 従う 観が あつたが, 今や 
ようやく^: 過重から, 客観的 実証 性の 顧慮に 向かいつつ あるかに 見える。 ともに 史 
学の 自 生 性 • 独立性が, 力の 現実の 利害 '動向に よって 大幅 に^ されざる をえぬ に 
しても, しかも 決して そのよう な 実闬的 功利主義の 束縛に 甘ん じえ な い 性質の もので 
ある ぺき 課題 を, 露呈して いるので ある。 他方, 英 '仏な どに は 客観的 具体的 事実の 細 

密な 討究に 々として ^ を あげつつ ある 史風が あり, 西独 に は歷 史的 個 体 と 個性 と 
の搮 求に 歴史主義の 伝統 を 固執す る史 風が あり, あるいは 力 ト リ ック的 または プロ テ 
ス タント 的 キリス ト教の 信仰的 立場 を, 科学 性と と も に一 層 深 く 掘り下げよう とする 
史風 もまた, 胃で きない。 ここに も, やはり 歴史学の 科学 性 をい かに 現実 生活の 諸 
問題 と 結合す ぺ きかと いう, 自 主 性 の 枠内の 応用 性に 触れ る 課題が 露呈 されて いる。 

3 歴史の 展望 

I 史実と 史観 

歷史の 研究 法 以上き わめて 大づ かみに 歴史 作業の 発達の 跡 をた どった 結果, 歴史 
の 研究と その 報告に は, 史斜 '史実' 史観と いう 三つの 契機が 働いて いる こと, それ 
らの 扱い方に は 客観的な 記録 性 と 主観的 な 解釈 性と が, 古来し だいに 拡充の 度合 を 高 
め, かつ その 性質 を 改めながら, しかも 一貫して 含まれて いる こと, そして それが 文 

学 的な 想像 性の 優位 か ら, ようやく 科学的な 分析 性の 敬 重へ と 動いて きたと 見うる こ 
と, そして また, その実 証 性が しだいに 緻密 正確の 度 を 高めて きた こと, などが 明瞭 

になつ た 0 

史料 まず 史料と いう 証拠物件の 範囲 や 種類に ついて みると, さまざまな 分類の 仕 
方が あげられ るが, 範囲 は 研究の 主題に よって おのずから 定まる もので, 全般的に は 
限定し がたい。 種類 は 一般的に いって, 考古学 的 遣 物 類と 古文書 • 文献 類 その他 伝承 

類と に 分ける ことができよう o 努めて 広く 捜し求めて 蒐集し, 整理す る ことと, 鋭く 

真偽 を 判定し, 史料と しての 価値 評定 並び、 に 解釈に 細心なる べき ことと は 基本的 調査 

の 目標で ある 0 

史実 こうして いわゆる 史料の 批判に よって 厳密に 考証 せられた 史実 は, 歴史の 具 
体 的 姿 相 を 形成す る データと して, いわば 有機的に 全体 的史 相のう ちに (1) 先ず 年 

—— 15 —— 


I     総       論  編 


代 的に 前後 関係の 秩序に 従って 編み 込まれるべく,  (2) さらに, 事 がらの 縦と 横との 
因果 系列 中に 必然的 関係に 従って 織り込まれるべく,  〔3) そして, 動機 や 意図' 心情 
な どの 心的 内面 性を顴 慮す ベ き も のが あれば, その 理解と 追 験と に 繊細な 同情 を 注 
ぎ, (4) かつ 全 歴史 を 通して, その 史実の 意味と 影響と を 考える, これが 史実の 総 
合 的 摂取の きわめて 大まかな 目標で ある。 

史観 史実の 取捨, 軽重の 尺度 を 提供す る ものが いわゆる 史観で ある 。それ は 既得 
の 史実の 認識と 理解と を 総動員して, 研究者の 全 生活 経験 と 彼の 最も 妥当なる べき 世 
界観 • 人生観に よる 当為' 理想と 現実 • 実際と を 一貫して 誠実に 考慮す ると ころに 生 
ずべき もので, いわば 研究者の その 時の 段階に おける 広義の 哲学 を 離れない a ゆえに 

個々 の 史実 を 意味 づけ, 連 貫して, 生々 潑ら つたる 生命 体たら しめる 一種の 原理と な 
る ものである とともに, 新しく 探求し えた 史実に よって, これまで 既知の 史実に よつ 
て 既定の ものと されて いた 既成の 史観が, あるいは 大きく 修正され または 幾らか 改変 
され, 史観 そのもの もまた, 未知の 新 領绒を 可 知 または 既知の 世界に 摂取し, 成長し 
発展して ゆくべき である。 理論 は 事実 を 照 出す る 役割 を 果たす とと も に, 事実 は 理論 
の 不備 を 補修せ しめない では, その 意眛 がない。 史観と 史実と は, このように 相互 作 
用の 循環 的 進展 を 現 成す る。 それ は 決して 単なるく り 返しの 悪循環ではなくて, 弁証 
法的と 言う こと もで きる ところの 開かれ た 循環 作用 , すなわち 対立 • 否定 • 克服の 進 
歩 だと 言えよう。 史観の 原理 化に 熱中して, 史実の 探求に よる その 改修 を 等閑に 付す 
るが ごとき は, 歴史の 正道と は 言えない 0 史観 はあく まで 史実 を 照らし だす もので あ 
つて, ほしいままに 造 出しうる ものであって はならぬ o 

史截 形成の 目標 さて, ここで 前に 一瞥した 史学 史に よって, これまでに 出没して 
きた 諸 史観に ついて, 一応の 見通し を 試み, われらの 自覚に 資する 目標 を 求めて みたい 。 

I 史観への 目標 

無意識 界と 有意 識界 (歴史 における 物と 心との 関係) いかなる 史観 を 採 り, それに 拠 
るに せよ, その 最も 基本的な 一線 を 画する もの は, 既知と 未知, あるいは 意識 内と 

意識 外と の 二つの 領域の 関係で あろ う o 明らか にわ かってい る, という こと は 確か 
に 意識して いる ことで あり, まちがい なく 意識され ている ことで ある O もし われわれ 

に 絶対に 意識され ぬ 事物が あると しても, それ は, われわれに とって ある もない もな 
いわけで ある 。絶対に 意識され えぬ 何 か を われわれ はなお 意識し, 意識 を 越える, あ 
るい はまた 意識に 関係せ ぬ, いわば 無意識 界の 不可 測' 無辺の 存在 を, われわれ は 信 
じないで はいられぬ が, それ を "物質" と 呼ぼう と "神" と 呼ぼう と, と にかく 少な く と 


― 16 


歴史と いう 学問の 回顧 と 展望 


も 未知の 何 も のかが 既知の 世界 を とり 澄き, ま た 混じ り 合い, 推移し 合って いる こと は 

疑えない し, 絶対 無意識 や 相対的な 種々 の 無意識的 あり方 やまた さまざま な 有 意識的 
あり方な ど を さまざまに 区別す る こ とがで きる こ と も 疑われぬ。 古代 的な 史学で は, 
このよう な 入 間の 意力 以上の 力 を 感じて, その 人間的な 現われと して 神々 や 英雄 を 描 
き, 敬し, また 英雄 や 神々 の 恣意 や 意図の 上に も, それ を 越えて 神々 でさえ もどう に 

もで きない, 偶然で も 必然で も あるえ たいの 知れぬ 運命の 暗い 恐ろしい 力の 支 ga を 痛 
感し, または 人間の 徳 力が, この 運命の いくらか を 克服し うると 考えたり, あるいは 
間の 意識に 直接関係 のない 宇宙' 自然の 理法の 必然的 作用 を 認めたり した。 中世 的史 
学の 主潮で は, それ は 万能の 神意で あり 全智の 摂理であった 。唯一 絶対, 凡人の 思議 
しうべく もない, m を 包み 越える ところの 入 格 的 愛であった。 近世 史学から 近 ft^ 
学に かけて, それ は自 ^^則 に 基づ く 人間社会 関係の 法則 という 考え方が しだいに 抬 
頭す るに 至った。 必然性 と 蓋然性 と 偶然 性 と 自由 性との 問題と して さまざまに 取り 上 

げられ, 生物 的 生理的な 自然 必然性 や, 生理的 心理的な 規制 (自然 性) や, 社会的 経 

済 的 な 法則 や, その他の 考え 方が, いわゆる いろいろ な 社 ^14 学 的 な 見地な どか ら , 精 
度 を 加えつつ 論議 • 討究され 考察 • 調査され る。 もとより 現代人の 心のう ちに も, 原 
始的, 古代 的, 中世 的, 近世 的な どの 要素と みなされうる ものが 混在して いる こと を 
否定で きぬ。 そして 現代の 入 類 もな おあまりに 強く 自然 必然的な 合法 則 的な 現象のう 
ちに あり, また, 歴史的, 社会的 生活に も 少なからず 意識 外的な 法則 性が i してい 
る 趣が 見いだ される。 神意 や 違 命に 大まかに 任せて いて は, 明確で ない こ と を 意識し, 
知性の 進歩に つれて, 精神 現象 も またし だいに 科学的 法則 的な 現象 面が 精確に 取り 上 
げられ る 度合 を 強く する ので あるが, しかも 現在の 程度に おいて は, まだ 明確に つき 
とめられぬ 事 がらが はなはだ 多く, 蓋然的 知識 を 脱しない 場合が 少なくない。 それの 
みで なく, 合法 則 性の 網の 目 を 漏れる 特殊な 個性的な 意味 や 目的 や 価値に 関係す る 生 
活 内容が 残 る こ' とも 否定で きない。 こうして 無意識的 な 境と 有 意識的 生活 行為 との 関 
係 は, 歴史 研究の 基底に 大 いなる 課題と して 横たわって いる。 意識 を 越える 現実に 関 
心する 立場 は, 集団 的, 全体 的な 状態の 動向 や 関係に ついて これ を 認め やすいが, や 
や もす ると 必然性 を 強調し すぎる きらいが あり, また, それ を 形而上 的な 規定 力. 圧 
力に 化し やすい 傾きが ある。 意識的 行為 を 重んずる 立場 は, 個々 入の 人格 行為の 自由 
を 敬愛し, しばしば 上の 意識 外的な 状況の 構造に う とい 点 を 残し やすいう ら みが ある。 
たとえ ば 唯物史観 の 亜流 的 公式主義 や, ま た 歴史主義 の 人格主義 的 精神主義の 一面 
などに, それぞれ これら 二つの 短所が, やや もす ると 現われ やすい 。有 意識的, 無意 
識的 両界の 相互作用 を, いかに 具体的 事実に おいて とらえる か, 歴史 作業の 最も 興味 

ある 点で あろ う o 

一 17 一 


I 総         nffl  き M 


自然と 精神 • 必然と 自由 (歴史に は 両極が 認められる) 歴史の 事象 を 無意 ii 的な, 

無 目的な, 没 価値 的な 運命 や 変化と して 扱えば 扱う ほど, それ は 自然 的 物理的な M 
や 変化に 近づいて ゆき, 幾械 的な 作用の 動 • 反動と いったよう な 一般 ィ匕 的な 形に 還元 
される。 そこに は 目的ら しい もの も, 意味 や 価値の 追求 も 実現 も 取り上げられる こと 
なく, 没 価値 的な 自然 必然の 因果関係が, 結局 法則 的 自然科学 的に 連続す る だけで あ 
る こと を 求める。^ の 事象の 広大に して, しかも 測りが たい 側面ない し 深部 を, 無 
意識的な ものと して 科学的に と ら えよう とすれば, それに 徹底す る ほど, 歴史 は 自然 必 
然的 法則の 網の 目に よってす く い 上げ られる ものと なろう。 とこ ろが 入 間の あらゆる 
行動に は, 無意識的な 部分と, 有 意識的な 部分と が, はなはだ 複雑にから み 合い, 作甩 
し 合って いる 0 有 意識的な 行動が 全く ゼロに 等しいならば, 歴史の 必然 は, 人間の 意図 

や 努力に は 全 く 関係の な い 宿命の 絶対^ ffi になって しまう o このような 全くの 盲目の 

必然が 人生の 全部で はない ところに, 歴史の 成立が あるので あるから, それ はまこと 
にさ さやかな 程度に 過ぎない にしても, 人間の 意図 や 意識の 作用の 增大 しゅく こと を 
もって, 歴史の 発展の 尺度と す る こと は 正当で ある ひ 歴史 は 強大な 無意識的な 必然的 
な 領域と, 弱小な 有 意識的な 境地と が, いわば 表と 裏の ように 重なり合 つていて, し 
か も 歴史の 現 成に は, そ の 弱小な 有意 識界が 表に なる ベ き 道理が ある 。強大な 自然 的 
必然性の 主宰す る 裏 —— 下部構造 を 探求す る こと は, も ち ろん 肝要で あるが, 同時に 
そ の 上部構造で ある 自由' 創造の 有 意識的 企図 • くふうの 作用 を 忘れて はならぬ 。い 
わ ゆる 観念主義 的 史学 の 古い ものに は, この 強大な 下部構造 を 見落す 弊が 伴 ないやす 

かった o 必然と 自由, 無意識的と 有 意識的との 関係の しかたに は, 多くの 段階が 考え 

られ, そこに 入 間の 生き方に たとえて 言えば, 幾重に も 積み重ねられる 幾つかの 層の 
よ う に, 無 目的 • 没湎値 的な 変動が 少しずつ 目的 的, 意味 的な 行動 を 加えて ゆ く 価値 
追求に 向かって 上昇す る 姿が 見られる。 それ は 人間の 生活が 生理的 心理的な, いわば 
動物 的 人類 生活の 基盤の 上に, 倫理的, 道理 的な 社会 • 経済 • 政治 • 宗教 • 文化な ど 
の 多岐 多端な 文明 生活 を, 生きが い あるよう に 建設して ゆく 姿であって, この 因果 的 
な とら え 方から 意味 的な と ら え 方への 推移の 諸 段階 は, 生命 的 現象 を 媒介に して 展開 
する。 人間 は萆 なる 物質的 存在と しても 扱われる し, 生命の ある 生物と しても 扱われ, 
さ ら に 心理的に 生きる 高等な 動物と して 扱われ, その上に 幾らか 精神的な 目的 ゃ意眛 
を 求める 人間と して 扱われる と ころが あり, その 目的 や 意味の 内容に 熱中し 執着し 
て, おのれの 生侖ゃ 存在 を 賭ける こと も 少なくな いひ これらの もろもろの X 元と もい 

うべき ものが, 歴史 を 考察し 胃す る 場合, 組み合わせられざる をえない ので, それ 
が 歴史の 社会科学 性と 人文科学 性と して 両局 的に 現われる ので ある。 このよう な^; 

の 違い は, 歴史の 科学的 研究が いかに 進歩しても, 無視す る ことので きぬ 世界で あり, 


- ~~ - 18 


歴史と いう 学問の 回顴と 


いわば 高い^ B の 境涯 は, 低い^: の 立場から はと ら えよう のない 境地で ある a 

人生の 立体 性 (歴史 を 複雑な 組立て と 見る) このように 人生に 一種の 漦さ とか 高さ 
とかいうべき 場 を 見いだ す こと は, U を 美しき ものの 感じ 方 や, 信仰の 心境, ある 

いは 菜 遠な 学 的 理論の 追究な どが, 道徳 感 とか 趣味' 嗜好の 個性的 相違, あるいは 風 
俗 • 習 贋ない し 地方 • 民族, または 国民, 身分 '锴 級な どに よる 生活 感情の 相違に 至 
るまで, 実に さまざまに 働いて いる ひ 見方に よると 愚かに さえ 見える ことが, 立場 を 

変える と 神聖 無上と 見える o しかも そうした 微妙' 広汎な 差別の 相が, 人間の 希望 や 

熱中 や 執着 や 野心 を 駆 り 立てて, ^^と か 向上 と か 退歩 と か 衰亡 と かの 千態万様の 世 
の 姿が 織り出される o 生きが いの ある 生活と いう こ と に さまざまの 段階が あ り , 人間 

が 関心 を 持ち, 問題 を 提起し, 方法 をく ふうし, 解決の 実践に 努力して, あるいは 挫 
折したり, 失敗したり, あるいは 曲がりな りに 幾らかの 解決に 到達した りする 歴史の 
跡 は, 実に 生活力の 強: 弱と いうい わば 量的な ことのほかに, このような 目的 追求の 方 
向 や 種類の 質的な 立体 性 を, 見ない わけに ゆかぬ o こうして たとえて みれば, ピラミ 
ッ ド 型と でもい うか, 因果 観 的に 説明し うる 強大な 底辺から, しだいに 層 をた たみ 重ね 
て, 目的 観 的に 体験す る ほか 味わいよ う のない 頂点への 垂直 的 上昇 を 行う こ とが —— 
それ は 同時に 頂点から 底辺へ と 下降して ゆ く こ とで も あるが —— 歴史的 理解に は 欠く 
ベから ざる 作用 連関 をな している, と 言わねば ならぬ。 このような 立体的な 認識の 構 
造が, 歴史と いう 学問の^ をな し, それが 社会 '経済' 政治 »4 学の うちにます ま 
す 深い 関連 を 持ちつつ, しかも 依然として, 哲学 や 文学に 連なる ところの 大きい ゆえ 

ん であろ う o 

生活の^ 面 (歴史 は 多くの 活動 を 含んで いるが それ を 整理して みる) 入 生の 認識 
と 理解と を 歴史的に 進める というと, ほぼ 上に 概説した ような, 深 高 性 または 垂直 性 
を 縦の 軸と して, 重層 性 を 考えねば ならぬ が, 人生 文明の 立体 性 を 具体的に 現わそう 
とすれば, その 各層の いわば 横への 広がり, すなわち 諸 層の 形成す る 平面ない し 側 
面と いうべき もの を 考えねば ならぬ。 これが 入 生活 動 面の 広狭. 大小と して, 横の 軸 

となる であろう。 この!^ の 軸 を 結ぶ 翁 面 または 側面 ともいうべき ものが, 入 生に お 
ける 種々 さまざまの 活動 領域と 考える ことができる。 これ は 生の M 式と か, 歴史 現 
象の 実現 力と か, さまざまに 呼ばれる が, 要するに 諸方 向に 自己 を 表現し 発揮しょう 
と す る 人生の 胃 面であって, 社会 や 経済 や 政治 や 宗教 や 文化な どの 主要な 方向と 側 
面と に まとめられる。 もとより 法律 '制度' 風俗 '習慣' 教育 '教会' 結社 
通信' 技術 • 天災 • 地変' 疫病 • 戦争. 革命 等々, 多岐 多様 • 異質の 変動 • 動向 を 現 
出す る 人生 万般の 事象 を, わずかの 主要 活動 方面に 包括せ しめる こと は, なしうる こ 
とで はない けれども, しかも 歴史の 動向 を 通観しょう とすれば, いくつかの 主力 的な 


19 —— 


I 総  fffl  編 

方向 を 中心に して, 互に 相 またがり, 相関 連し 合う 活動 領绒 といった ような もの を 仮 
りの 目標に 立てる こと. は, 十分で はない にしても, ある 程度で きない ことで はない。 
社会 このよう に 考えて く る と , 歴史 事象の 一つの 分類と して 社会的 人間関係の, 
あるいは 血縁 的な, または 地縁 的な, さらに は職緣 的な 結合 e 分離の 作用 も 無視で き 
ぬが, しかし 人間が 集団 的に 社会 関係 を 結ぶ ことが 表であって, 分離 は その 裏に 潜む 
といった 性質 を 持つ) が, 人間 文明の 形成に 大きな 役割 を 演じた こと は, 氏族 的. 家 

族 的 • 部族 的 • 民族的 集団と して, ま た 性に よ り , 年令に より, 損得 • 利害に よ り , 
権力に よ り, 不安 • 恐怖に よ り , 信仰 や 趣味 • 嗜好に より, 言語. 思想 • 風習に よ 
り, 入 間の 協同 協力が, あらゆる 文明 生活 を 発展せ しめる 基礎に なって いる こと を 信 
じさせる。 歴史 は 人間社会 を 離れえず, 文明の 発達 は 社会の 成長 を 除いて は 考えられ 
ない a この 人間の 協力 関係 は, もちろん その反面に^ 裂' 対抗' 排斥の 激しい 作用 を 

含み, 不安 恐怖 • 利害 • 権力 行使が, しだいに 強大な 部分 を 占める にしても, なお 
一方 に 日 常 親近 • 和睦 • 妥協の 行為 も 増大す るよう に 見える ので, むしろ 結合と 分離 
と は 表裏の ごと く 藤して ゆ くと みなしう るよう に 思われる。 と にかく, 人間の 協力 
関係 は, 複合の 大きさ や 複雑さ を, いよいよ 見 究めが たい 尨大な ものにして ゆく と 言' 
うべ く, この 見地から すると, 経済 も 政治 も 文化 も 宗教 も, 社会的 基盤な しに は 考え 
られ ない a この 立場から 歴史の 動き を 理解しょう とする 時に, そこに 社会 史観が 出 
現す る。 ところで, 現に 今日まで 史学に おける 社会 史観と いう もの は, 経洛 史観 や 政 
治 史観, あるいは 宗教 史観な どが 表現され ている 著し さに 比べる と, それほど 明確な 
史風 となって いない 観が あり, 経 洛史ゃ 文明 史の 一部分に, あるいは 経洛 事象のう ち 

に 没入し, または 風俗 史 などと して 付録 的な 存在 を 保って いるに すぎない う ら みが あ 
る。 これ は 人間の 社会的 生活の 意識が 未発達で ある ことに も 関係して いるが, それと 

いうの も 社会的 協力 関係が, 社会生活の 複雑 化に 伴ない, 政治 ゃ経谘 ないし 宗教な ど 
の, 社会から 分化 • 分岐し ゆく 生活 側面に 含まれ, それ, らの 強大な » 方向に 対し, 
その 目立たない 基盤ない し 潜在的 契機と して 作用して いるた めで ある こ と は 者え やす 

い。 要するに 縁の下の 力 持 的な 下づ みの 地昧な 存在で, 社会生活 固有の 方向に 進展 
して ゆく いわば 純粋の 社会の 存在に, 入が 気づ く こ と が 遅れ たという ことによ るので 
あろう。 けだ し 社会 結合の 直接 結合 点 は, 妥協な い し 協調で あつ て, 和睦 • 平穏の 生活 
は 目立たぬ もので あり, 愛 倩に せよ 習慣に せよ, 現状維持 的' 没我的な 要素の 多い も 
ので あるから である。 合理的 計算 • 損得 • 能率な ど を 主と す る 生産 • 分配 • 流通な ど 

の 織 行為 や, 自我の 意志 を 他者の 上に 貫徹す る こと を 主動と する 権力 的, 政治的 行 
動と は, 歴史 事象の 変動に 寄与す る 仕方が 異なる と ころが ある。 純粋 固有の 社会生活 
がそれ 自体と しての 独立性に 乏しく, 歴史 創造力に はなはだ 微弱であって, 純粋 社会 

一 20  ― 


歴史と いう 学問の 回顧と 展望 


史観と いう よ うな もの は, 採る に 足りない と 難され やすい ゆえんで ある a 社会 日常 

の 生活 は, 歴史の 変革 を 招来し 推進す る 力に 乏しい のみならず, 他の 政治 や 宗教 や 経 
、搭の 動向 を 支持し, それらに 曳 かれ, しかも 文明 全体の 習慣 的 日常 化に 目立たない, 

それでいて 大きな 力 を 提供す る o 

政治 これに 比べる と, 古来 最も 目立った 変動と 革新と を 人為的 表面 & 勺に もたらす 
ものと して 重視され やすかつ たのが 政治的 動機であって, 政治的 企図が 歴史の 推進力 
と みなされる 政治 史観 は, 歴史 を 神意 • 摂理の 顕現と する 宗教 史観に 次いで 長く 史学 

界を瀾 歩して いる 観が ある o 

経済 近代に なって 生産 '流通の 技術が 躍進し, 文明の 変革に 経洛 的な ものの 作用 
が 著しく 增 強す るに 伴ない, その 意識 もめ ざめ, 経洛 的な ものが 文明の 基礎と して 運 
び 手と なり, いわゆる 唯物史観の 主力 は経洛 史観に 帰す るな ど, 文明 生活の 経 洛生義 
が 一般化す るよう になった。 入 間 生活の 一切が 経谘の メカニズム によつ て 必然的に 律 
せられる という 見方と, 神意の 接理 によって, 何等の 偶然 もな く 営まれる とする 一 神 
教的 見方と に は, はなはだしい 対照が あり, 想像 的と 実証的との 次元 的 へだたりに 雲 
泥の 相違が あるが, ただし, 時に 統一 絶対 性と 形而上 化に 執着す る 場合, やや もす る 

、と 幾分 相 TO を^す 亡と が ある cv  、 お^^:: W た. ―' 'ノ 

文化 文化が 人生の 向上 進歩 を 指導 するとみ る 人間 理性 中心の 史観 も, その 端緒 や 
萠芽 は, 社会 史観 ゃ経谘 史観な どの 源流と 別異の もので はなく, 古くから 混 流して い 
たが, 近世に なって 人為 • 人力の 自信が 高まる とともに, 宗教 史観に 対し, また 政治 
史観に 抗 して, 文明ない し 文化の 優越 を 実地の 史 風の 上に も 表現した。 その 際, 社会 
や 経萏の 方面と からみ 合う 度合が, やや もす ると 著しい のであった。 国家 史 とか 政治 
史 に対する 広い 意味の 文化史と か 文明 史と 呼ばれる ものである。 

宗教 最も 古ぐ から 人生に 作用 してきた 宗教の 力 は, 顕 わにせ よ 幽かに せよ, 歴史の 
動力の 一つと して^^す る わけに ゆかぬ。 ひろい 意味での 文化の う ちに 加える 場合が 
少なく ない が, ここで は 一応 区別して 考えたい。 宗教が 歴史の 動力と して 大きな 役割 
を 演ずる 場合 は, すでに 触れた ように, 社会 や 政治 や, あるいは 経瑤 ないし 文化と 結 
合した 形に なった 時で ある。 ■ 

諸 史観の 分化と 統合 (さまざまな 史観 はどうして できる か) 人間 生活の 発展が, い 
よいよ 多岐 多方面に 展開す るに つれて, 人生 を 理解す る 立場 もまた, 多様 多端になる 
わけで, その 多 方向に 進出し 伸長す る 先端から 全人生 を ふり 返って 眺め わ たす 時, 
その 立場 立場から, それぞれ 人生 全体の 姿が, それぞれの 立場の 発展 を 通して, 観 取 
される 道理であって, そこに 特殊 史* 専門 部門 史の 分化と 確立と が, 各々 の 立場が 明 
確になる につれ て, ますます 明細になる ので ある。 こ o 特殊の 立場が, 人生 全体 を 発 


21 


総       論  編 


展 せしめる 上に, 役立つ ことが 大きく 力強い と みられる 度合が 增 長す るに 伴ない, そ 
こに 一つの 史観が 現 成す る。 人生が 複雑の 度を增 すに つれて, よ り 多く の 特殊 史が分 

化し, それと ともに 全人生の 歴史 もまた, この 分業の 上に ますます 協業 的 統一 を 求め 

ずに はいない から, 専門化の 反面, それぞれの 専門的 特殊 的 立場 を S して, 全 一なる 

人生 史を 描こうと する, この 機関と なる ものが 史観で ある。 しかし, もちろん, 入 生 
のい かなる 側面 や^から も 全人生 を 見 透し う る わけで は ある けれども, そのうち': こ 
は, おのずから 本末 といった ような, 比較的 重要な 側面ない し 突端と, そうでな 
い 場合と に 分かれる 。その 際, 何が 現に 最も 強力に 歴史 を 動かして ゆく か, という 問 
題と, 何が まさに 最も 正当に 歴史 を 指導し 方向 づけるべき か, という 問題と が, 微妙 
な 関係に 編み 込まれる であろう ひ さらに における それらと, 過去の 諸 時代の それ 
ぞれ における それらとの 間の 異同と いう こと も, 問題と ならずに はす 诠 ないだろう o 
入 は それぞれ 自己の 好み, 親しむ ところの 立場 を, M 推進の 最適, または 最 有力, 
もしくはそう でなくても 最も 望ましき ものと して, 推称し 主張した く 思う であろう。 

さまざまな 史観 は, それぞれ このような 事柄と 関連す るであろう o さまざまな 史観 

は, 正確な 史実 を 内容と. する 限り, あるいは 推理 や 想像に おいて 全くの 誤謬に 陥らな 
い 限り, または 認識の 誇張 や 不足が 致命的で ない 限り, さまざまな 度合に おいてで は 
あるが, ともかく, ある 程度の 存在理由 を 持つ であろう o 同時に 全人生に 触れようと 

する 限り, 多数の 史観の 散在と 並存と にあき たりない であろう 0 かく て 入 は 統一され 

た, 唯^! ^の 史観 を, やや もす ると 安易に 確保した いと 思う 。人生 発展の 多岐 多端 
なる につれ て, さまざまな 立場が, ある 程度 その 存在理由 を 持ち, 正当性 を 主張し う 
ると すれば, その 統一 はいよ いよ 容!;  • 安易な ことで は ある まい。 

諸 史観の 重層的 立体的 統合 (多 く の 史観 を まとめる に はどうし たらよ いか) すでに 
みて きたよう に, もろもろの 史観 は, 没 腼値的 因果 必胃的 見地と 価値 的 意眛的 自由 
侔 験の 見地との 関係の 上に, 一応, 社会' 経谘 '政治 • 宗教 '文化の ほぼ 5 大方 面へ 
の 展開 を, かりの 目標と して, あげうる とするならば, これら 5 方向に よる 人生の 方 

面 を, 大約 5^ の 層 面と して, ほば 物理的 機械的 因果 作用の) から, 精神的 目的 追 
求の 自由 行為の 頂点に 至る, いわば ピラミ ッ ト 形の 重層 関係と して 構想す る こと を 許 
される ので は あるまい か o このように たとえるなら, 社会的 生の 層 は, 比較的 最も 無 
意識的な 自然 的な 土俗 • 習俗 的な 生き方の 要素が 強く, 主我 的 自由の 個性的な も のが 
人間の 生物 的 習性 的 種族 的な ものの 中に 没入し やすいの ではない か。 もちろん, 人類 
の 生で あるから, また, ましてす でに 有史 段階 以前からの 社会で も, その 進 ィ匕も 進歩 

も 相当の もので, 経済 '政治' 宗教な どの 作用 を^! すべく もない から, 一概に 自然 
族 的で あるな どと 形容す る わけに ゆかぬ こと は, 断る まで もない ことで ある n た 


22 


歴史と いう 学問の 回顧 と 展望 


だ, ここで は 経済 や 政治に しいて 比べて, それらの 基盤た るべき 性質 を ひき 出して 大 
写しに してみ ただけ のこと である。 歴史 を 動かす 現実の 力と して は, 今日 経済と 政洽 
とが, 最も 強大な 俸 力 を ふるう かに 見える。 これ ももち ろん, 社会的 基盤の 上に, 宗 
教ゃ 文化の 作用 を まっての ことで あるが, しいて 言えば, 経済 は 自然 を 対象と する 物 
質的 生産が 核心で あり, 人間の 自然 的 個体 的 生の 維持' 充足に 直結す る 度合の, 政洽 
的 生よ り 強い ものである。 政治 は, 社会に おける 対人関係 を 主我 的 支配, すなわち 主- 
体 者の 意志 を 他の 人類に 押し通す,  権力への 衝動と 企画と による 生であって, 自然 的 
肉体的 生の 保全 充足に 止 ま ら ぬ 威力 を 求め る 。こ の 点で 社会的 生の 対人 暴力 組織の 激 
しい 性格 を 帯び, 経済 や 宗教と つながって, やや もす ると 人生に おける 最も 入の 耳目. 
を そば だた しめる よ う な 事件 を 惹起し やすい o 経済的 生が 社会的 生と 方向 を 異にした 
点 は, 物資 獲得の 技術と 能率との 功利 性 を, 利己的に 追求して やまず, 萆 なる 習俗^" 

に とらわれぬ ようになる ところからで あろう a 

諸史截 相互 間の 垂直 的 上下関係 (多くの 史観 は それぞれ 役割 を 持って 現われる) 社 

会 '経済' 政治の 生の 3 要素 または 方向 は, おそらく 他動 物に 比し, 人類に おいて 特 
異な 発達 を 遂げた もので は あるが, しかし, それにしても 動物の 習性ない し 本能 的な 
生のう ちに も, 幾分 類似の 形 を 見いだ しうる のであって, これらが 人間 独自の 特性 を 
呈し えた 起因 は, 宗教 '文化と いう, 他動 物に 全く 見いだ しえない と 思われる 人間 生 
活の 展開に あると 考えられる a 社会 は 人類の 種族 的 生物 的ぎ 続 と 発展 を, つきつめれ 
ば, 推進す ると 言うならば, 経-翁 はつ まると ころ 個体 的 肉体的の 保存と 充足の 線 を 突: 
進し, 政洽は それらに 比する と, 心理的 観念的な 威力ない し 他人 支配の 権力 意欲のば 

く 進に 沿う o これら はいずれ も 自然 性 を 多分に 帯びる 人類の 生の 催促に, 強烈な 営 為 

力 を 与える ものであるが, 宗教と なると, さらに 一層 心理的 観念 性が 大きく, 感情と 
想像と が, 不安 や 恐怖の 苦悩 を そそって, 人間 をい よいよ 自然の なりゆき 任せから 分 
離させ, 呪物に せよ, 人格 神に せよ, なんらか 超自然的な 偉力に 胃 • 依存 させ, 信. 

仰と 信念と を 切望させる o それが 社会的に 働き, 経済的に つながり, こ と に 政治 権 

力と 結ぶ と きに, 人間 生活に 驚くべく 畏 るべき 影響を及ぼす。 宗教 独自の 方向 を 

する こと は 必ずしも 社会 • 経済 • 政治な どを顴 慮す る を 要しない が, 歴史 展開の 動力 
として は, それらの 他の 生面と 連関せ ずに はいない a 文化 は, 広義に 解 すれば 文明 一 
般, 宗教 も 政治 も 経済 も 社会 も 包含す る ものと される が, 最も 狭義に 解 すれば, 真. 

美 追求の 活動で ある o 学問 • 思想 • 芸術から^^  • 趣味に 至る 文ィ匕 は, 観念的 精神的 

性質に おいて 宗教に 近く, 他の 諸 生面と 離れ ゆく 独自性と, 合し ゆく 現実性と におい 
て 似通って いるが, 真. 美 操 求の 世界 は, 宗教 的 情意の 執拗. 強烈 さに 比して は 幾分 弱 
かった 観が ある。 しかし 文化が, 社会 '経済' 政治 宗教な どと 分 合 さまざまに 歴史の. 


23 


I 総       pfffl  編 


推進力と なった こと も, 決して 軽視 さるべき ではない。 
物的 自然 的な 力の 強弱と 精神的な 価値の 高低 (強い 者が 必ず 正しく 貴い と は 言えな 

い) このように 社会' 経済な どのい わば 文明の 下層 または 下部構造と, 宗教' 文ィ 匕な 
どのい わば 上層 または 上部構造と の 重層的 構造に おいて, 現実の 作用の 強度から 言え 
ば, 政治 以下の 諸 層の 支配力が 大きく, 上層 精神 文明 は, それほど 現実 人生 を 指導 • 
推進す る 力がない ように 見える が f 人生の 目的と か 意味と か, 歴史の 向上と 進歩と を 

. 評価し 判断す る 生きが い を 明確に する 理想 や 自覚に とって は, 不可欠の 大事で ある o 

したがって 一応 か りに ビラ ミツ ド 形の 重層 立体 風の ものと して, 諸 史観の 普遍的 一般 
的 構造 関連 を, しばらく 図式 化する こと を 試みたい 。下層と 上層と は, 常に 一が 他 を 
予想し, 相互に 規定し 合う 関係 を 離れる ことができない。 

諸 史観 統一の 仕方に ついて (この こと もま た 歴史的 にな さるべき ではない か) す で 
に 述べた ように, 文化 • 宗教 • 政治 • 経済 • 社会の 各 史観の それぞれ も, 時代に より 
場合によって, もとより 一定せ ず, 多くの 変化 を 見, 変質 態も少 くないし, 現実に は 
邀 純に 孤立して 行われる という こと もない。 多く は そのう ちの 一, 二の も の を 中心に 
して, まとめよう とする。 かって は 宗^ 観が 他の 史観 を 意の ま まに する 権威の 座に 
ついた ことがあり, 政治 史観が 専制君主の ご と く 振舞つ たこと も あり, ま た 文化史 観 
が 啓蒙 家の よ う に 指導者 を もって 自任した こと も ある。 今日はい ささ か 経済 史観 万能 
の 思潮が 流行して いるよ うに 見える。 立場と 場合によって, ある 史観が 主力と なって 
• 他の 諸 史観 を 包含 '統一して ゆく こと は 必要で あり, 大切で あるが, しかし 他の 史観 
の 並立 • 共存 を 認め ぬと いつ た 独善 • 絶対主義に はしる こと は 慎 しむべき であろう。 
むしろ 歴史 事象の 実証的 具体性と と も に, 史家の 誠実な 自覚に よ る 諸 史観の 組合せと 
いったよ うな, 時と 場合による 相対的な 操作が, 必要と なる であろう。 それ は, その 
塌 その 時の 便宜主義で 定見な く 動揺す る こ と を 安易に 是認す る 意味で はない o 史家の 
. 個性 や 生活 条件, 社会的 環境 や 時代の 課題 意識な ど を. 検討した 上での 自覚と 信念で あ 
るべき であって, 目先の 利害 #1 ^によって 浮 草の ごとく, あるいは 右し または 左す る 
のと は, 何 か 似た 点が あるに しても 実は 全く 異なる。 いかなる 史観 を 選び 取り, かつ 
形成す るかが, 史家の いかに 生き, いかなる 風格 をな すかの 誠実な 表現た る^ * きで あ 

o かりで、 ある o 

I 史観の 具体的な 内容 を 検討す る 場合の 諸 目標に ついて 

(歴史の 発展 を 考察す るた めの 足場) 

歴史 をつ くる 活動力の 強弱 歴史の 動向 を 強く 推進す る 力 を, 結局 正しい ものと し 

て 認定す る 現実主義 ま た は 既成事実 尊重 主義 は, 歴史の 認識に つきまとい やすい 習慣 


24 


歴史と いう 学問の 回顧と 


である o ただし, 現実主義に は 現在から 未来 を 展望しつつ, 現在の 強大な 動向 を 正当 
視し, それに 適応し 進歩しょう とする 態度が 強く, 過去の 既成事実 を そのままに 認容 

する 現状維持と は 異なって いる a ともあれ, 歴史の 世界で は, 超 験 的 または 先験的な 
理想的 • 規範的な も の の 尊重の 基礎に なる ものと して, 経験的に 強力な^ 不屈の, 
: 不死 的な, 圧倒的な 現実 勢力の 作用 を 重視す る。 それ は 発展の 動力 を 尊重す る ことで 
あり, 生の 力の 強烈 • 強 観さの 尊重で あると 言いえ よう。 強者の 権利と か, 強 食 弱 肉 
とか, そうした 強力の 勝利 は, 物理的, 生理的, 心理的な 自然 的 生存 界 では, あるい 
は 必然に して, 当然の ことで あるに しても, 倫理的, 道理 的な 精神 生活に 高 まるに つ 
れて, 強弱 即 正邪 善悪 美醜と は 一概に 言い切れない ことになる。 ひるがえって 強弱が 
歴史の 規定 者で ある 世界で も, 物理的 勢力と 生理的 活力と 心理的 作用と は, 実に さま 
ざまな 強弱の あり方 を 示し, それらの 組成 も 端げ い を 許さぬ 変転 を 現わす o 

積極性と 消極性 (直接的 行動の みが 有効で は ない) そこ で 積極的 自発的に 顧き 出 
し, 働き かける 主体的な ものが 強いと 一応 考えられる が, しかしそう とも 限らない 0 

働き かける 者が 現われて こそ, 働き かけられる 客体 的な も の も 真に 実現す る わけ だ 
が, 働き かける 人間と 働き かけられる 自然, 逆に 自ら 働き 営む 自然と そのうち にさら 
にお のれの 働き かけ を 打ち 建てる 人間, というよ うな 関係 を 考える と, 人間 文明の 営 ' 
みに 見いだ される 必然性と, 萆 なる 外的 自然界の 必然性と は, すでに 同一で なく, 人 
生に は 意味 的な 価値 的な 契機が 関係して いる こ と が 必要と なる a 
単一性と 多数 性 (個人と 大衆との 関係) さらに, 英雄と か 偉人と か— 天才と か 呼ば、 れ 

る 人々, あるいは 指導 層と か 支配階級と かそうい つた ものと, 凡人 大衆と か 被 支 §H 階 
級と か 呼ばれる 人々 との 間の 関係 を 見る と, 一層の 微妙な 複雑さ を呈 し, 相互作用の 

人 替り方 は, まことに 定めが たいこと が 多い 0 人知の 粗朴 単純な 段階 ほど, 少 |^ 導 

者の 営 為 力が 比較的 大きく, 文明と 時代の 進む につれ て, 大衆 人民の 積極性が 強くな 
るよう に みられる が, これに は 時に 現象の 表面と それ を 見る 意識の 偏頗と に とらわれ 

る 危険が 潜む o 個人と 集団との 相互作用 は, 押しつ めて 言えば, 自発性 • 発起 性 を 個 
人の 側に 見出させ, 集団の 圧力 を, 拘束し 統制し 維持し 守成す る 性質の 働きに 見いだ 

させる a 新 企' 創造 は, 集団 そのものが 思いつく というより は, 集団の 中の 個人が 始 
める のであって, これが 結集' 組織され て 驚くべき 圧力と なって 大成す る 0 この 圧力 
は, やがて 個人に 直接 • 間 接に, または 服従 または 反撥の 順応 または 反応 を 起し, 思 
いっき, 反抗 '異端. 新 企と もなる。 順応と 反^と は 個性の 微妙な 自由 を 現ずる。 

内面 性と 外的 環境 性 (すべて を 環境の 力と 言う わけに ゆかない) 人類 は, 個人に せ 
よ, 大小 種々 の 集団に せよ, 同一の 環境 • 条件に 置かれれば, 個人と 集団と では 異なる 
にしても, とにかく 同一の 行動 をな す もの だ, というみ かたは, 人類 を 自然の 一部分 

—— 25 —— 


I 総 ffffl  |M 


または 一種 類と する, いわゆる 進化論 的 立場に よる ものであって, 上に 述べた 人生の 
下部構造 的 あり方から 観察す る 時, 無理から ぬと こ ろで ある。 科学と しての 歴史に お 
いて, このような 自然 必然的な 歴史 必然が ますます 重視され, しだいに 精密の 度 を 加 
る こと は, 史学の 発達に ほかならぬ。 適者生存, 自然淘汰 • 弱肉強食 という 言葉に 示 
される 系統に 立つ 原理 は, 歴史の 世界で も 強大に 通用す る。 すでにた びた び 触れた よ 
うに, 人が いかに 意識しょう とも, その 意図 や 意識の いわば 手の 届かぬ 強大な 動きが 
あり, その 意識 外的な 必然性 を 法則と して 意識 内に 確保す る ことが, 歴史 科学の 重要 
な 任務で ある。 しかし, すでに たびたび、 触れた ように, 人間の 歴史 を 動かす 力のう ち 
に は, はなはだ 微弱で は あるに しても, その 意識 外的な 推進力に 参加す る 意識的な 個 
性的な 力が 認め られ ねばならぬ。 これ は 主体的な 働き を 主体的な ら しめる 反' 芯の 内面 
性であって, 自然 的に みれば, 一種 例外的 • 不規則 的な 姿を呈 する 個性の 秘密と もた 
とうべき, 目的への 情熱 や 価値 感情, 問題解決への 方法の くふう '計量, 企図 遂行の 
努力, あるい は 推理 • 反省 等 々 の 意味 的な も の に 連な る 人間の 精神 生活の 体験 • 味 得 

の 内面で ある 0 追 験 によっての みさとり うる 特殊 境, 自 a の 道で ある。 この 内外 両層 
面の 転換ない し 相互作用の 渋滞し 疎隔す ると ころに, 外面 偏重の 弊 や 内面 偏重の 害が 
生ずる ひ すぐれたる 歷史の 表現 や 叙述 は, この 内外 両面 を 巧みに 貫通せ しめた ものが 

多く, その 一端が, 時に 科学に して 芸術た る 歴史と いう 形容に よって 示される o それ 

だけに, また, その 表現' 叙述の 芸術 性が 一 技巧 だけに 止まらぬ —— 実際 は 上に 科 

学 的ら しい 印象 を 与える こと も 少な く ない a 宣伝 を 主と する 傾向 的 論文が, 客観的 学 
術 論文で あるかの ごとく 装う 場合な ど, 現代の 狡智 はいよ いよいで て, いよいよ 多い 
ありさ まで ある a 

歷史 発展の 実相 (分 合 • 転換) (固定して は 発展 は むずかしい) 歴史の 自然 必然的 
な 法則 観 的 な 認識の しかたと, 意味 追 験 的 な 特殊 個性 観 的 な 理解の 仕方との II 係 を, 
下部構造 的と 上部構造 的との 関係に なぞらえて 想像し うると すれば, 問題 は, この 上 
下 両罾の 作用 と 反作用, す な わち 相互作用 の 関係に 帰 し, こ の 相互作用 を 歴史 事象に 
反映す る 場合の 目標と して, すべて 発動 • 凳 起す る 生の 力の 強弱 関係の 問題, その 主 
体 的 行動 〖こ おける 積極的 能動 性 と 消極的 受動 性 との 関係の 問題, 個人と 大衆と を 一例 
とする 統一的 萆ー 化と 分立 的 複数 化と の 関係の 問題, 精神 生活と 事情 • 環境と に 示さ 
れる 内面的 価値 関係と 外面 的 条件 関係と の 問題, 及び、 それら 諸問題 を 貫 く 両極 • 両 層 

の 合致と 矛盾, 浸透 • 支 • 融合な どと 排斥 • 対抗 • 分離な どの 関係 を 上に 述べた o 
歴史の 発展に, 文明 あ 進歩, すなわち 人類が それぞれ 生きが いの ある 生活 を 求めて, 
全般的に 見通すならば, とにかく 強くな り まさる 生活 意欲に 促され, 事物に 対する 関 
心が 量的に 増大し 質的に 向上し, その 課題 解決の 方法が 綿密 周到の 度 を 増し, 方法と 


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歴史 という 学問の 回顧 と 展望 


技術の 運営 皿が 旺盛と なり, かくて 漸^ 問題解決の 不完全 さが 減少す る, というよ 
うな 方向 をと つて 歩む ことで ある。 その 歴史の 歩み は, 概してな お, いまだ はなはだ 
局限され た, しかも まことに 徐々 遅々 たる もので, 前進 '後退' 停止 • 迂回 '旋回' 
逸脱な どもす こぶる 数多く, 直進 • 急進 を 求めて 焦る 者の 希求す るよ う な 直線 的 過程 
でな く, また 加速度 的 経過で もないで あろう。 しかし, これが ために 心 萎え, 意 沈み • 
たる 者の 悲観す るよ う な 盲目的 混沌, 輪回 不変の 無意味なる 暗黒の みで あると は 言え 

ない o 

歷史 における 有限の 生命 観 (個 態) (生 ある もの は 死ぬ) 歴史 発展 を 部分的に 取り 
上げて みれば, その 一節 一節 は, 民族に せよ, 階級に せよ, 個人に せよ, あるいは ィ歴 
々の 文明に せよ, 時代に せよ, 栄枯盛衰 興亡の 軌跡 を 残し, いわゆる 個体 的 生長 老病 

死と いったよう な 生滅 無常 的な 姿 を 現わして いる o しかも 一切の 個体 的な ものの 当面' 

する 問題の 解決 は, 最終的 完結に 達する ことから は, 従来はる かに 遠く, 不満と 不安 
と はつねに 新たに つのり きたり, 歴史 は 時代 を 画しつつ, いずこへ か 絶えず 動き ゆき, 
流れ ゆ く 趣が ある。 

永遠の 相に おける 歷 史観 (綜 態) 〔しかし 不滅の いのちが あるので はない か) それ' 
は 大小の 波浪 を な し, 高低 長短の 波浪 を 重ねつつ 遠 く 流れ ゆ く 潮汐の 動き にもた とえ 
られな く はない。 潮流 全体の 動向 や 速度 は, 一波 一浪 を 形成す る 一滴 一滴の 水滴に も, 
似た 入 間の 意力 や 為 力で は, いかんと も^ & しがたい ものである よ う に 見える が, そ 
れな ら 人間の 敏智 理性 や 努力 実践 は, 宿命 決定の ま ま に 放任す る に しかぬ ので あ ろ う 
か。 人間の 営 為が 零に 等しい ものであると 信じない 限り, 人間の 歷史 にある 方向が, 
たとえ はなはだしく 不定 不明で あるに しても, とにかく, いくばく か は 認め えられる 
であろう。 すなわち 有史以来の 僅々 数千 年 を, われわれが わずかに 獲得した 史実の 知 
識 によって, はな. はだ 不完全な 飛石 伝いにた どった だけで も, そこに 歴史の 軌跡と 動 
向と を 信ぜし めずに はいない も のが あるので ある。 

普逼 史的 試 図 (何時, 何処の ことに も 当てはまる 歴史の 公式 はない か) このように 
人類 を 通しての 歴史 を, いわば 人間 運命の 軌跡と して 大きく 見通す とき, 人 は それ を 

普 (Universal  history) とか 世界史と か 呼ぶ。 全人生と か 文明 全般に わたる 歷 
史の 意味で あ る が, たとえ ばボ シ ユエの ように 力 トリ ッ ク教の 立場から 世界 を 見通 そ 
うとし, へ— ゲ ノレの ように 絶対 理性の 文化 主義に よって 人生 を 把握し ようとし, マル 
クス のよう に 生産力の 経済 主義に よって,. あるいは ランケの よう に 政治的 関係 を 中心 
にして, もしくは リー^ら に 試みられた 社会生活 を 基本に して, 等々, それらの 間に 
は 優劣 種々 の 差が 大きく 存 する こと は, 肝要で あるが, ともかく 前に 述べた 諸 史観の 
うちの いずれ か を 主力に して 合成 せざるをえないと ころが ある こと を, 広狭 • 精粗 さ 

—— 27 —— 


1 総論 編 


まざ まに 展示して いる ひ ク/ レト =ブ ライジヒに 一例 を あげうる, コント— ランプ レヒ 
ト 風に 近い 社会 心理的 綜観, アル フレット、、 = ゥェ— パ-ら の 文化 ^ 学 的 立場, シュ 
ペン グラ一 や トイ ンビ一 の, それぞれ 特色 ある 形態学 的 普遍 史, ヤスパースの 試みな 
ど 入 間 文明の ゆ く えに ついての 歴史的 模索 は, 綜合 態と しての フ« 性に 触れる も の 

でめる ひ 

以上, 歴史の 認識に 当たって 史実 を 綜合す る 場合の 諸 目標に ついて, 極めて 概略 を 
述べた が, 最後に, 歴史の 表現, 叙述に ついて 一言 触れる 必要が ある。 . 

IV 歴史の 叙述と しての 歴史 教育 

すでに たびたび 指摘した ように, 歷史の 表現 は, 元来 その 記録 性. 資料 性のう ちに 
含まれて いる 。哲学に せよ 文学に せよ, その 文化財 を 遣 産 として 後世に 伝える という 
こと を 重んずる 点 は, 決して 歴史に 比して 劣る と は 言えない けれども, 歴史に おける 
曹》 性と いう もの は, 過ぎ去り ゆく 人事 現象 を 保ち 留めて, 同時代 やの ちの 時代 や 世 
代に 伝え 授ける という ことが, その 本質的な 目的に なって いるので, このような 社会 
性と 実用 性と いう 点で は, 他の 学問に 比べて, 特別の 性質 を 持って いると 言わねば な 

ら ない o 歴史が 科学的に 精練され, 変質しても, それが 具体的な 事実 を 尊重し, —回 

限りの 個性的な も のに 執着す る 限り, この 伝統 は 解消し 去る こ とがない ので はない か。 
ともあれ 今日 ま での 歴史 は, かくて そ の 記録 性 を 離れず, 元来, 世代 的 • 時代 的の 

社会性 を 離れない 性質 を 持って いる o 

^に, 歴史の 理解に おいて, その 対象 内容の 史実と いう ものが, 入 事の 経過と 人間 
の 行動 と を 核心に している, 元来 時間 的 性格 の ものである こと を 忘れて はならぬ。 歴 
史の 認識と か 理解と かに は, 具象 性と いう ことが 不可欠で あるが, それ は 必ずい つ 
か, どこかで 現に 経験的に 起った 事であって, しかも それ 自体が 生滅 変 》 移の 行為 
的な ものである。 そこに 変動の 継続, 行動の 持続, 変化の 連続, などの 過程 的な 流動 
が 必要で ある。 この 流れ ゆく 運動の 刻々. 節々 を 表現しょう とすれば, その 具象的 推 
移の 跡 を, 一々 物語る ほかない であろう。 いわん やその 出来事に 生命 的な もの を 認め, 

かつ それ を 表わそう とすれば, それ は 叙述の 形 を とらざる をえない であろう ひ. 

このように, 歷史は 本来, 表現. 叙述の 性格 を 持たざる をえない ものであって, そ 
のよう な 意味で 史文 一如 というべく, 単に 文体 文章の 文学的 美 しさ をと おとぶ という 
に 止まらぬ, 鹰史 認識の 根本的 性質に 拫 ざす ものが あるので あるひ もちろん, 史 十の 
発達 は, 近代史 学 をして, 古い 叙述 様式 を 墨守せ しめない ひ しかし かって 一部の 過激 

論者が 考 えたよう な M や 統計 や 図表の ごとき 定義 的 表現が, 歴史の 主潮た る こと は 

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m^. という 学問の 回顧 と 展望 


ありえぬ こと であ ろう O 

歴史の 表現の 不可欠 性と, 歴史の 叙述の 具象 性と は, 歴史が 元来す ぐれて 教育的 性 
質 を 具えた ものである こ と を 示す。 社会の 存続と 難と を, 過去の 経験の 利 招と 従来 
既成の 伝統と による 镁 によって 図る こと は, ユー チェの よう に その 弊害 を いましめる 
必要が あるに しても, なおかつ, 入 間の 敦 知に 属する 大切な 仕事で ある。 それゆえに 
歴史の 作業のう ちに は, 当然, 歴史 搮 求の 作業と 並んで, 歴史 教育の 作業が 伴な うは 

ずで ある o それ は 叙述の 作業のう ちに 相当の 領威を 占める のみならず, 歴史の 棂本的 

使命に つながる ものである。 けれども, 歴史が 神話. 伝説から 分離し きった ことが 示 
すよう に, 神話 や 伝説に よる 教訓で はない のであって, つまり 酔わせる ような 仮作 想 
像の 説話で はなく, 覚めさせる 真実 確証の 叙述な ので ある。 この 点で 歴史 教育 は, 萆 
なる 読 史的 態度に とどまる べきで なく, 進んで 修史 的 実践に 向かうべき である。 もと 
より 歴史 教育 一般 は, 専門 史学者 養成の 技術的 訓練と は 異なる。 しかし, 自然科^ 
: 育 に おける 実験 • 観察 の 方法 の 不可欠 な るに 似て, 歴史 教育 に おける 史実' 史観の 実 
証 的 批判の 手続 を 厳密に 実践す る 態度 を 養う こ と は、 最も 必要の ことであって, 高 学 
- 年になる につれ, 史論の 扱い方に 住 意すべき ゆえんで ある。 多種多様の 帰一 しがたい 

史料 史観 を 通して, 能う 限り 客観 確実の 真相 を 探求して, 大勢の 洞察と 実践 
の 判 新 • 決意に 妥当なる 自信 を 得よ うとす る, それ は ほとんど 直ちに 現実 人生に おけ 

る 合理的 経 Itt 活の 一端 につな がるであろう o 

V 世界史の 読みと リ方 について 

a. 世界の 原義  : 

「世界」 と 「歴史」 の 語義 まず r 世界」 の 意味で あるが, われわれが 今日 用いて い 

る 「世界」 という 文字 は, もと 梵語の 漢訳から 由来 するとい われる が, それ は 仏教 的 

に 過去 未来の 三世と 東西 • 南北 • 上下の 三界, すなわち 時と 所との 現わして 

いる 全 範囲と いったよ うな 観念 を 意味した。 漢字の 「世」 は, 十 を 三つ かさねた 形の 三 
十 年 一代の 「世代」 (よ) の 意味で あり, 「界」 は 土地の 境, かぎりで 場所 を 示す ひ わ 

れ われの 「よ」 も 同じような 意味で, 時に 「くらし」 または 「なりわい」 及び 男女の 
交り を も 意味した o かく て 世界 はよ よの く ぎりで あり, よの 広がりで ある 0 かよう (こ 
世間. 人生の 意味から 人間社会 '世 習 '大衆' 人類な ど を 含み, あるいは 地上, 大 
陸 '天体' 万物' 宇宙と いったよ うな 意味に もなる が, ことに 現代の もの は, 西洋の 

歴史に よる ニュアンス を 多く 含んで いる 。西洋の rWorldC^),  Welt (独:) J など は, 
Weor-uld,  Wer-eld などの 転じた 形で, Wer,  Uir は, 入, すなわち 壮年の 男 を 意 


29 


I 総       g 冊  編 


味し, eld,  aid,  alt は 年 ふること である 0 やはり 「よ」 (世. 代) 「ふる」 (旧. 古. 故. 

経) わけであって, 入 生 '世間の 意から 宇宙 (Cosmos,  Universe) の義 にも 及ぶ こ 
と も 似 つてい る 〔フ ラ ンス 語の monde の意眛 も 同様で ある〕 0 ただし これらの 似通 
つ た 観念の 具体的な 意味内容 は, 実に 世界の 歴史の 経過 そ の もの を 含む 複雑 尨大な 相違- 
と 発展と  を 含んで いる。  今日の いわゆる 世界と-数 百年 前の 世界と は, 決して 同一で は 
なく, またい わば 東洋 的なる 世界と 西洋 的なる 世界と も 決して 相等しく はない a その 
間の 差異と 変化の 驚くべき さ ま は, これら 二つの 世界が それぞれ 相似て いる とさえ い 
えない ものが ある 程であろう 0 わずかに そこに 共通の 概念 を 求めるならば, 世界 は 人 
生 を 離れず, われわれの^: にも かくに も 主体的たろう とする 生活の, 時間 的签間 的な 

全 領域 を 指示す る 点で ある £> 地球上の 全人 類, あるいは 地球 を 含む 全 宇宙と いう よ う 
な 客観的 現象 といえ ども, 世界と いう 時には, われわれの 主体的な 生命 をめ ぐる, 換言 
すれば、, われわれの 生活の 場と しての 意味の 働いて いる ことが 見逃され ぬので ある 0 

^に 「歴史」 の 語義に ついて 一言す ると, すでに 回顴 したと おり, 古く は 中国で も わ 

が 国で も , 「史 j という 字が 多 く 用いられた。 史は 字の 形 か らいつ て 記 il の 役 を す る 
入, ひいて 記録 • 文 書の 意な のであって, ふみ (文) である。 中正の 事実 を 公平に 記録 
するとい う 意味 は 付会され た C 説 文〕 ものと 見える が, それにしても この 事 も 全く 無意 

味で はない 。古代 ギリ シァの "な: opt'aj  (Historia) という 語に は, 真実 を搮 求して 
得られた 知識, または 情報の 意味が 与えられ たが, そこに 誤りない 事実の 伝達と いう 
こ と の 共通 性が 認められ ると と も に, すでに 言葉の 意味の ァクセ ントと ニュアンスに 

東西の 差異の 萠 しが 窺われぬ わけで はな い o  「史 J は 書 • 紀 • 志' 春秋 • 鑑 • 乗 • 檮: 

杌 などと 同類の もので, 役所と か 君 侯と かの 為政者の 言行 を 中心と した 備忘 的 記事た 
る 性質が 強く, わが国で も, 歴代史 学ない し 歴世 実録 を 修めた ものと しての 「歴史 J 

という 名に もこの ような に おいが 強 か つ た。 西洋に 発達した ヒストリ は, 古代 ギ リ シ 

ァ では いわゆる 散文 記事 ClogograplO や, 中世で は 歳 事 記 (Annales)  • 年代記 (Chro- 
nicles) な どが, 同じように 譜 • 系 • 牒な どの 系譜 的 記録と , 及び、 英雄 詩的な 神話 伝 
説 風の 想像 を 加味して まず 現われた が, その 真実 探求の 対象 は 社会 民衆的な 性格 を 比. 
較的多 く 帯びる こ ととな つた 0  C ドィ ッ 語の Geschichte は 記録 史書よ り も , 生起せ る 
事 伴 そのものに 重点 を 置いた 語で あるが, これ は 歴史に 事件 そのもの を 意味す る 場合 
と 書かれ た 歴史 を 意味す る 場合 と ある 例と なる )。 これら を ひっくるめて, 歴史 は 過去 
の 事実 を搮 求し, 表現して 伝える こと を 主眼と した 事実の 報告で ある, と言える。 も 

ち ろん, 歴史 (搮求 叙述) は, 現実の 歴史 〔事件 • 事情) の 推移 • 展開 '生成と 呼応 し, 
文学 や 哲学と 密接に 関係しつつ, やがて その 操 求す る 「事実」 という ものが, しだいに- 

驚くべき 発展性 を 示し, はなはだ 実証的 科学的な 性質 を增 伸し, 少な く も 近代史 学 は, 


—— 30 


歴史と いう 学問の 回顴と 展望 


—古い 史的 作業と 同日に 談 じがたい 性格 を呈 する に 至つ た 趣 は, すでに 述ぺ てきた と こ 

ろで ある o この 「事実」 は 人間の 行為 を 離れない o そして 歴史の 知識 は, その 社会的 伝 

-達, やがて 新しき 世代の 広い 意味に お け る 教養 • 教育と い う 面に 役立つ という 特珠の 
存在理由 を, 依然として 持って いる こと は 争われない。 

世界の 歴史 と言うと き, 今日 われわれ は, 普通 地球上 全人 類 を 包含す る 人間 生活の 
全. 体 的な 発展 進歩の 事実 を 知り, かつ 少しで も 一層 詳細に, 明確に する こと だと 考え 

るであろう 0 このよう な 世界史 は, しばしば 普遍 史 (Universal  history) と か 一般 史 
CAllgemeine  Geschichte) とか, 多く は 全く 同 じ 意味に 言い表わ される が, それ は 

全 M とか, 文明 全般と かの 歴史と いう 意味に ほかなら ぬひ しかし 世界が 具体的な 人 
生 を 離れず, 歴史が 人間 生活の 時間 的な 推移 を 主 対象と して 見いだ す ものである こと 
を 忘れて はならぬ。 もろ も ろの 入 生 を 統一的に 包括的に 扱う ところに アクセント を 置 
'けば 普遍' 全体の 性質が 強く 打ち出され てく る わけで あるが, 世の中の 出 束 事 を 一々 

すべて 知り &く すので はなく, 一滴 一滴の 露に 月影が 宿る ような, 具象的な 普遍 を 求 
めるならば, そこに 無数の 世代 を 含み, 多くの 時代 を 含んだ 歴史の 世界が, 人生 を 問 
題に する 限り, 結局 世界の 歴史と なる ゆえんが ある a 
要するに 世界史と は, 人生の 歴史的な 理解と いう ことで, 人の 世 を 考える 一つの 方 

法で あり, 道で あるひ 人の 世の 歩み ゆく 道理の 姿な ので ある o 

b. 世界史の 表と 裏 

世界史の おもて • うらと 言っても, 別に 子細 はない。 両面と か 両極と か 言っても よ 
いこと で, 普遍と 特殊の 問題と して, 昔から よく 考えられ てきた ことで ある。 

いるかし く 世界史と 言う こと を 認める 限り —— そして それが 必要と される 限り, 入 
間 生活の 水準が ,世界的, 人類 的に 向上し 進歩す る 大勢 を 描かずに はいられない。 こ 

れが ここに 言う 世界史の 「表」 である a 

人間 生活の 向上 進歩 を 「表」 とする 世界史が,' その 進歩 向上 的 発展 を 謳歌し ネし賛 す 
る ことに なること は, 当然 至極で あるが, それが 限られた 時間に, 限られた 紙面で, 
限られた 理解力に た よる ほかない 場合 "~ "このよ う な 場合が, われわれの 現実な ので 
ある ~ "それ は 全く の, いわゆる 表面の 素通りに 堕して しま う 場合が 佘り にも 多い よ 
うに 思われる。 いや, 表面の 素通り だけで も, できれば まだよ い 方であって, そこ ま 
で 至 らぬ こと が 少な くないと すれ ばら 素 通 り もま たやむ をえぬ こと であ ろう。 そうす 
ると, 人 額 31 歩の 素描 は, きわめて 大まかな 概念 化 • 類型 ィ匕' 法則 化 • 図式 化と いつ 
た 線 を たどり やすく, また そ れが 便利で あ り , そ して 必要で も あるであろう 0 

世界史の 表通り は, それが 簡明に 素通り される ほど, 人類の 快適な 加速度 的な 進歩 

—— 31 —— 


I 綏論編 


向上の 信念 を 盛り上げる であろう ひ このような 世界史が 単なる 記憶の 史像 にと どまら 
ぬと き, それ はや や もす ると, 希求 的 感情 を 多分に 含み やすく, そこから 希望的 想像 
の 公式と なりやすい。 そして ひるがえって 見る と, これ は 簡明な 世界史の 果たすべき 
役割の 一つで も ある 。けれども, それが, 世界史の 概念 を 科学の 外装で 固定 化する こ 

とに とどまるならば, それ はよ ろしくな いこと を 忘れて はなるまい o そこに 世界史の 
i —裏通り」 を 見逃して は, 十分な 歷史の 認識と は 言えぬ ものが ある。 

まこと にわかり 切つ たこと ではあろう が, はなはだ 限られた 時間と 限られた 能力と 
限られた 資料と によって, 簡明に 世界史 を 把握しょう とすると, 簡明と いう 趣 を ねら 
えば ねらう ほど, 表通りの 素通りが, いかに 一面 的な 不十分な 見聞で, そこに 不確か 

な 誤った 印象 を 多く 残す かとい うこと を さえ, 見落しが ちに なりやす いので ある o  % 

とより 世界史 は, 入の 世の 千変万化, 動 反動, 一波 万 波の 種々 相 を 遠く 見通して, 物 
に さまざまの 視角が あり, 事に 多くの 意見が わかれる 次第 を, あらかじめ 心得て, 独 
善浊' 新に 陥らぬ 判断と 行動 を 大^所から 実行し う る 能力 を, 育成す る 仕事に 資すべ 

きもので ある こと は 動かない。 歴史 をた どる こと は, 過去 を回顴 する ことで ある o も 

ち ろん 未来の 展望から 出発し, 将来の ために, 過去 を ふり 返る という ことで あるに 違 
いないが, しかし, とにもかくにも 現に 住 目' 住 意す ると ころ は 過去の 事実の 真相な の' 

である o できて しまった 過去の 真実に 興味 を 持ち 関心 を 持つ という こと は, 現在から 

未来へ と 歩み 入る 行動から 言えば, たしかに 回り道 をす る ことで ある。 いっきょに, 

直線 的に 希望と 理想の 実現と 達成にば く 進す る ことから みると, 一種の 後退で あり 

逡巡 であ ると 見えよう o けれども, こ の 過去への 沈 藩 は, 直ち に は 思 うま まに ならぬ 

事 がらの, 自分に 関係 は 深くても, 自分と は 全く 違った 他者で あるよう な 存在に, そ 
の ありのまま な 性質に, 観察 や 検討 を 加えない では —— その 事物の 成立ち や 事情 を 運 
解し ないで は, 事が 正当に はかどらぬ ところから 必要に なった ので ある。 こうして 歴 
史の 認識 は, 回り道な しに は 済まぬ というの で 起 つたので あると すれば, 急がば 回れ と 

いう ことわざ は, 歴史の 修道に よく' 当てはまる こと だと 言えよう o このよう にみ てく 

ると, 表通りの 素通り だけで は, それ は 本来の 歴史の 面目 を 十分に 示して いない わげ 
で, 裏通り や 袋小路に はいって ゆく こと も, 回り道と して, はなはだ 意味の ある こと 

になる 場合が あるので ある o 

世界史の 裏通りと は, 今まで 少しも 気づかなかった こと や, わかった と 思い込んで 
いた ことな ど, そうした 人生の 未知 • 複雑な 事 がらに 対して 鋭い 疑い を 持ち, 裏の 裏 
まで 黾 通そう とする 場合の 回り道な ので ある。 ドン == キホ— テ 風の 信念 を 衣と するな 
ら, ノヽ ムンツ  ト刑の 懐疑 を 裏と して, この 表裏が 一枚の ものと なると ころに 歴史の 生 

命が 生ず る 。 人生の 希望 を 純真に 信 じさせる だけなら, 歴史と いう 回り道 をす る こと 


—— 32 


歴史 という 学問の 回顴 と 要望 


は 必要で ないか も 知れない。 情熱 を かき 立て, 確信 を ふり 起し, 猪^: 進す るた めに, 
歴史 を 利用す る こと は, 決して 一概に 退けら るべき ではない としても, それ は 歴史 搮 

求の 本領で はない o 世界史 はこの ような 意^で, 人間 生活の 不安と 懐疑と 情念と を, 

できるだけ 気づかせ, 人 も 我 も, この 不安 性のう ちに 生きつつ, なんらか 一貫した 生 
き 方に あこがれる 姿 を, できるだけ 味わわせるべき であろう 。世界史の 表 は 人類の 営 為 
成功の 跡で あるが, 世界史の 裏 は, 人間に つきまとう しようのない 麵で ある 場合が 
多いで あ ろう。 こ の 苦痛 と 苦悩の 少 しも 示され ぬ 世界史 は ありえな いはず では ないか。 
世界史 を 最も 簡約な 図式に まとめれば, 課題の 提起と, その 解決の 努力と, そして 
結局 はなはだ 不完全な 部分的 解決, したがつ てまた 次の課 題の 提起, 努力 …… といつ 

たような ことに もな ろう o そう した 過程の 燕 数の 単元の 形成と 編成に たとえる こと も 
できる だろう o その 気づかれないで 残り, 不明の ままに 存 する 広大無辺の 「裏」 と, 

気づかれ, あきらめられる 微 /jf 弱な 「表」 とがから み 合って. 人間 生活の さまざま 
な 層と 面と が g 開す る と みて, そ こ に 入 間の 意識的な 意図の 手の 届かぬ 自然 的 必然的 
な 経過 や, 人 意 入力で なんとか いく らかは 持ち 扱いうる 自由ない し 意昧の 境地の 生活 
やが, ^^し 合い, 経^ や 社会 や 政治 や 文化 や 宗教な どの 活動 領续 を, かさなり 合う 
ような^に, しかも それらの 間の 関係 や 重点が, 常に 流動的に 胃す るよう に 分化す 

ると みる こと も, 不可能で ない 趣 は, すでに 述べた とおりで ある o 

最後 的 不可分の 単 子 的 原因と 考えられ たもの も, 理論と 実験との 進 S につれ, しだ 
いに 複雑な 構造と 機能と を 有し, 分 合 '盛衰の 経過 を 露呈す るに 至る 実洌 は, 自然 科 

学 だけにと どまらぬ ように 思われる o 進歩^ は, 固定 性 を意昧 しないと ころの 不定 性 

において 安定す ると も 言えよう か。 そう した 安定 を 世界史 は 直ちに 与え う るか どう 
か。 世界史 は 固定せ る 信念 を 授け る はずの ものではなくて, た だ II: 練の 場で あ るよう 

に 見える o 課題の 存在に 気づき, それに 対する 関心と 與昧と を 高めさせ, 解決への 方 

法の 揉 求と, その実 施 • 努力の # ^とに, 最も 均衡の とれた 合理性と 統合 性と を 発揮 
さ せ る 練磨の 場で あ る に 過ぎな い。 

歴史 は 必ずしも 悲劇に 終らない にしても, 皮肉な 痛よ う を 伴な う ものである かも 知 

れぬ o よく はわから ない 史実の 知識の 上に, よく わかった つもりの 世界史の 殿堂 や 偶 

像が 建造され やすい。 世界史に めでたし めでたしの 喜劇の み を 求める こと は, その 表 
だけ を旯 て, 裊を 察しない きらいが あろう ひ 人間の 善意 はもと より 悪意 も 恣意 も, 無 
視し 去られる 姿 は, 首尾よ く 成功す る 姿に 劣らぬ 大 いさを 持つ よ う に 見え る。 少な く 
と も, かかる 現実に たじろがぬ 向上心の^^と, かかる 現実に 対処して 生き抜く 力との 
育成と を, 世界史の ゆ く えが 求めて いるよ う に 見え る。 環境の 刺激に 反応す るのに 過 

敏 '遅鈍に 流れず, 内外 • 本末に パ ランスの とれた 適 S と 克服 • 創造と を 営み う る 主体 


33 


総論  編 


性の 確立に 向かう ほかない ように 見える。 軽信 や 妄信 や 狂信 を あたう 限り 少なく して 
ゆ く 合理主義の 立場が 世界史の 主軸で あるが, しかも それ は 現在の 人類の 知性が なお 
はなはだ 限られた ものにすぎ ぬと 痛感 • 自覚す る こと を 離れない。 砕かれた 心の 信頼 
こそ, 表と 裏 を 一枚の 世界と する であろう。 

このような 態度から, 簡約な 世界史の, 図式 的 理解 は 試みら るべき であり, しかも 
そ れが まがりなりにも 一応 できあがる やい なや, たちまち 破砕し 尽くさ れ ねばな ら ぬ 
ゆえんで ある。 

4 教官の 参考書に ついて 

教官 室で ふた り の 先生が 自 分の 子供に どの よ う な 参考書 を 与え よ う か, 自分の 家庭 
に 何 を 備えたら よい か 議論して おられた。 ひとり はよ い 百科全書が ほしい, 子供が こ 
れを 利用 して 自分から 学習す る 習慣が つけば よいが と言われ, ひとり は 百科全書 にな 
じむ こと は 安易な 態度 を 養う, 何でも これ さえ あれば となって 自分の 道が ひらけない 
と 賛成され なかった。 いや 安易な 道に せよ, 学習 しないより は 調べよう という 意欲が 
出よう。 その上 有名な 作家の 全集な ど 揃えて やれば しあわせ だと 言われる と, 調べる 
な ら 自分 は 各種の 図鑑 を 揃えて 実物と 比較で き るよう に してや り たい。 そして さらに 
写真 文庫な ど を 備えて 目 を 肥や してやった ら しあわせ だと 別の 方針 を 説かれた。 こ こ 
で それらの 可否 を 論ずる ので はなく, いずれに も 共通した 一揃えの もの を 身近に おく 
こと を 望んで おられる 点 を 考えて みょう。 

身の回りの 品々 が 揃えば 便利 だし, 部屋の 調度が 揃えば 満足感が ある。 参考書に 何 
か 一通りの ものが 揃ってし あわせ を 感じる の は, ある 設備の 中に おかれた 安心感, これ 
で 学習で きる という スター トの 姿勢の 整いな ので, 問題 はや はり その 先に あるよう で 
ある。 専門家で も 研究室の 中で は 何もで きない 人 もあろう し, 専用の 原稿紙 を 作らせ 
て も 手紙 を 書く よ り 他に 用がなかった りする 人 もあろう。 準備 はない よりある 方が よ 

かくまつ じゃく 

い。 しかし これが 活用され るかい なか は, 準備の 多少に よる もので はない。 郭沫若 氏 
せ 「中国 古代 社会 研究」 を 書いた とき, 「私 は 神 田の 古本屋で 十 銭で 買った 詩経 だけで 
これ を 書いた」 といった の は, 誇張と しても 聞きの がしえない ことばで ある。 しかし 
たまさかに 金の 卵 を 生む 専門家と 異なり, 教官の 担当す る 授業 は, 明日 は 準備がない 
から やめようと はいかない ものである。 これにつ いて 最近の 事情 を 二, 三 報告して お 
きたい。 


— 34 一 


歴史と いう 学問の 回顧と 展望 


それ は 同じく どう しても 一定 o 時間 内に 歴史の 課題 を 処理し なければ ならない 史学 

専攻の 学生た ちの 事情で ある。 近時す ぐれた 歴史 事典が 数 種 刊行され た 故 も あり, こ 
れらの 事典への 依存が 顕著な こと, そのため 学生が 検出 した 項目 を 執筆 考と 学生 自身 

との 距離が 埋められない まま, その 処理に 齟齬の 多い ことが 第一で ある。 執筆^^ 多 
年 研鎮の 結果 到達した 問題の 視野 • 把握 • 展開 • 評価へ 無自覚に つながる ため, ある 
いは 一つの 解釈が 至上命令 となり, あるいは 一つの 試案が 断案と なり, すぐれた 構想 
に 裏打ちの ない 史実が 列挙され る。 高校の 授業に もお そらく これに 近い 事態が 起って 
いる ことであろう。 また 何のた めに 学ぶ かとい う 大前提に 足踏みして, 学ぼうと しな 
かったり, あるいは 功利的な 態度に 終始す る ことの 多い のが 第二で ある。 これが 参考 
書 を 苦労して 探求し, 手に した もの をよ く 読解し f これ を 積み 重さね て ゆく 労苦 を 忌 
避 させて いる。 これ もお そらく 高校に おいて 若干 見受けられる 事態に ちがいない。 

このような 傾向 は, 学生 生徒た ちの 間に だけ あるので はなくて, わたしたちの 中に 
も 潜んで いるので ある。 熱心に 用意した 話題が 生徒の 一つの 質問から 流されて しま 

い, 折角 盛り上げた 緊張が 生徒の 一つの 笑い声で ゆるんで しまう。 わたしたち にも わ 
がま まが あ る ら しい。 これ を も 乗り こ えて, 授業 を 与えて ゆ く も の は, 一^ ^こ 教官の 意 
欲に あると いうより ほか はない。 そして その 意欲 を しぼま ず 腐 ら ずに 持ち こたえさせ 
る もの は, 教官 自身が 常に 課題 を 持って おられる ことが 必要であろう。 もちろん 教官 
は その 授業に 対し, 研究 や 報告の 負担 を 背負って おられる が, その上に なお 自分 を 打ち 
こんで 侮い ない 課題 を 持ち, 何年 かかって も これ を 仕上げて ゆ く 熱意 を 持つ て おらる 
べき だと 思う。 その 課題 を 見捨てる ことなく 育て, 一つ一つの 成果 を 積み上げて ゆく 
ことが, 実は 自分自身 を 見定める パロ メーター にもな り, そ の 熱意が 授業へ 最 もよ い 人 
間 的な 反映 を も たら す も ので あ ろう。 教官 は 自己の 課題に 対して どの ような 資料 を 操 
作すべき か は, 自分が 最もよ く 知って おられねば ならない。 しかも それが 常に 授業に 
無縁で な く, 時間 ごと に 映 発す る 材料 を 数多く その 中から 発見され る もの だと 思う。 


— 35  — 


2 各 章 教授法に ついての 私見 

1 古代の 世界 

i 文明の 発生 

歴史 教育の 現場 は, 教師と 生徒と が 教材 を 媒介と して, 問題の 提起と その 解決への 
努力 を 協力す る 作業で あり, 教師の 現に 発揮し う る 総力が 生徒の 現に 置かれて いる 状 
況に 呼びかけて 生徒の 反応と 関心と をし だいに 高め, 興味 を 持続 させ 操 求と 考慮 • 思 
索と を 自発せ しめる 過程で あるから, 型に はまった 方法と いうよう な ものが, もとよ 
り あろ う 道理 はない。 まず 教師が 各自の 冷静 謙虚な 自己 反省に よって 自己の 知識 • 技 
倆 • 教養 • 性格 • 境遇な ど を 判断し, そ して 自己の 人生と 歴史に 連な る 課題と 関心と 
の 中心 を 求め, その上, 生徒の 知能 • 心理 • 生理. 生活環境 等々 を 周到に 観察. 知悉 
して, さて 自分ら の 現に 生きて いる 世界 '民族 '地域 • 学铰' 教室の 現代的 意義と い 
う 大 問題から, 当面 ク ラ ス の 現在の 状況に 即応した 教材の 取 り 扱い方に 焦点 を しぼり, 
そこに おのずから 見いだ される いく つかの 問題点 を 教師の 胸中に 点描し, こ う して 教 
師は その 時間 時間の 指導に の ぞ む。 しか も そ の 教師の いだけ る 問題の 方向に 生徒 を し 
いて 誘導す る こ と は 極力 避け, 生徒と 協力して 新しく 問題 を 探求し, 遷択 し, 改めて そ 

の 問題の 解決に 歩み 始める という 心構えが 大切 だと 思う。 この場合, 教師 自身の 歴史 
を 読み 修める 熱意と 努力, したがって 教師 自身の 反省と 課題と いう こと は, 最も 大切 
であって, しかも それ は? ^ では できるだけ 抑制して, あらわに 表現し ない ことが 肝 
要 だと 思う。 教師が 自己 反省 をな し, 生徒の 現在の 実情 を 考慮し, 問題の 搮求 • 選択 
を 行う 際の 着眼点 を, しいて あげるなら, (1) われわれ は 現に はなはだ 不十分な 教養 

と 認識と しか 持って いない ことにつ いて 覚悟す る 必要が ある 0  (2) われわれの 気づ 

かない 意識の 外に あると いう よ う な 事物, すなわち 我々 が 今 直接 どうに もす る ことの 
できぬ あり方 や 動き 方, それに 近い ものが あるが, それ を 自己 や 生徒 を 取り巻い てい 
る 自然 的 及び、 人為的な 生活環境の 遠い ものと して 地理 的 • 歴史的に 者え る 必要が ある 
(世界 性 —— 地 威 性 )<>  C3) 自己 並びに 生徒の ありのままなる 生理的, 心理的 状況で 努 
力 すれば 幾分 改め うる か, または 大いに 改めうる もの。 (4) 自己 及び、 生徒の 求むべき 理 
想 的な 人間像の いろいろな 段階の もの (どんな 知識' 感情 *te など を 育成すべき か )。 
すなわち 教師 は 自分自身 について うぬぼれたり, 熱狂したり, 功名心 や 虚栄心に か 


各 章 教授法 についての 私見 


られ たりせ ず, 自己の 平凡な あり 万 を 出発点と して, 生徒の ひとりひとりの 生活と ク 
ラスの 性能 を 細かく 調査し, 世界 や 日本の 運命 を 考える とともに, 学校の ある 地域 社 
会の 事情に 通ず る ことが, 教材 を 扱う 第一歩で あり, 謙虚 冷静な 自己 反省と 生徒の 遠 
く さだかで ない 将来 を 望見して やる ことが, 一つ一つの 問題 を 選び出す ための 尺度で 
ある。 この 事柄に ついて まず 教師 は 苦しまね ばなる まい。 途方に くれたり, 迷ったり, 

憤慨したり, ずいぶん 悩み 続ける 覚悟が いる ことであろう 。苦しんだ 末に, このよう 

な 一切の わずらわしさ を, も はや 考えぬ こ と にす るか も 知れぬ o それなら それ もま 

たよい ことで ある。 ただ それ は 苦しみ もだえぬ い た 結果, 袋づ、 路 に 追い つめられ た 末 
のこと で, 初めから 予期すべき ことで はない ひ 

さて, この 章に ついて 取り 上ぐべき 問題 も, それぞれの によって さまざまに 重 
点の 置き 方 も 異な り う る わけで あるが, その 中心 を 人類が 自然の 一部分と しての 生物 
的, 野獣 的な 生から, はなはだ 徐々 に そしてず いぶん 徒労 をく り 返しながら, とに か 
く きわめて 限られた 範囲と 程度と では あるが, 入 間ら しい 生と 希望と を 自主的に 形成 
してきた 跡 を, できるだけ 体験 的に 悟らせる ことが 基本 線であって, 人生の 歩み は 短 
距離で ない こと, 長距離の 不休不 操の 一歩一歩が, 関心と 問題と そして その 解決の 方 
法の くふうと, 方法 遂行の 不断の 努力の 持続と を 離れぬ こと, そして 人類の 運命と い 
つたよう な 大きな 問題 も, 遠い いにしえの 異なった 地方の 人間の 生き方 も, 実はき わめ 
て 身近な 衣食住の 日常 性 を 離れぬ こと, こ と に 埋もれ 忘れられた 無名の 人々 の 企図 や 
努力の 蓄積の 意義と, 古い 人生が 必ずしも 完全に 過去の もので なく, 現に 形 は 変わつ 
て も 色 々残存して い る のみでな く, 人生の 進歩 向上に は な は だ しい 凹凸が あって, 世界 
の 文明の 明暗' 高低が 著しい こと, など 人類の ゆ く え と 関連して 考える ことにしたい。 
それ は 全編 を 読み 通す 際の 問題の 提起で も あるから, 人生と 世界の 問題への 関心 をめ 

ざめ させる 役割 を 果たすべき であろう o したがって 自己の 生涯に ついて, ものごころ 

ついて 以来の 心身 成長の 経過の 回顧 や, 他人の それの 観察な どと, 地 威の 社会 集団の 

あり方と の 比较ゃ 反省が か らまる であろう o 考古学 的な 調査な ども, このよう な 線 か 

ら 利用 さるべき である。 人間社会の 進化 というべ きものに は, 自然 生物 の 進化の 上に, 

人間の 欲望 '集団 '言語' 思惟 • 習慣 • 信仰 • 技術 等々 のし だいに 形成 • 集積され て 
強大と なって ゆく 制度 的, 組織的な 文明の 力と いわるべき も のが 加わ つて ゆく こと も 
注意 さるべき である。 要するに 人類と 人間 文明と について 考えたり, 感じたり する 興 
眛の 糸口 をた ぐり 出す こと が 第一の 問題 だ と 思う。 


37 


総論 


I 大帝 国の 成立 

第 1 章に おいて 扱われた ォ リ -ント • ィ ン ダス • 黄河 地方の 卓越した 古代文明が, 
その 周辺 ゃ近講 地方に 影響 を 与える とともに, それらと は ほとんど 絶縁され, あるい 
は 全く 隔絶した 多く の 野蛮 • 未開の 人類 を 背後に 残して, 西 • 東アジアに 広範な 帝国 
を 興亡せ しめる に 至った 世 界 史的 意義 は, 第 3 章の 地中海 世界との 対照に おいて 考え 

ちるべき であり, のち の 西洋文明 • ビザ ン ッ 文明 'イスラ ム 文明, 並びに ィ ン ド、 文明 
• シナ 文明な どの 発展への 素地が 築かれた 次第 を, 見通しつつ 把握 さるべき である。 
そこに 見いだ される 問題 は, もとより さまざまの 視角 や 重点に よる 色々 の 見地が あろ 
うが, その 中心の 一つ は, 入 間の 権力の 生活の 本能 的な 強さと 正義と 平和の 希望の 弱 
さ, 少数の 清 力 的 人間の 積極的な 働 きかけ と 多数の 無自覚 • 隸 従的 人間の 消極的 無 気 
力, その 社会的, 経済的, 宗教 的, 文化的な なりたちが, どのように 政治的 形態に ま 
とめられた か, そして それが 世界史の 発展に どのような 功罪 を 残した か, という 点で 
あろう。 それ は 文明の 進展に 必要な 一つの 段階と して 認められる 寄与 をな し, このよ 
うな 段階の 一つ を 経て, ようやく 人類の 生活 向上が, はなはだ 限られた 部分的な 水 
準の 上昇で は あるが, ともかくも それ を 招いた という 点で ある。 たとえば 猜神 文化 や 
- 宗教に おいて, たとえ 特権 的, 支配的 貴族 層の, 彼らに 隸従 せる 民衆の 撬牲 による 産 
物で あると いう 性格が 強いに しても, それ は ひとつに 今日 の われわれの 尺度から 計 
られる ことであって, 歴史的 必然性と いう 見地から すると, そうなら ずに はす まなか 
つた, やむをえない 発展 段階であった 事情が あると も 言えぬ こと はない。 これ は特 

権 貴族が いつまでも 存在理由 を 持つ という 意味で はない。 問題 は, それが その 段階の 
諸 条件に よって 規定され, 時代の 産物と して 時代の 関心と 課題と を 不十分ながら, あ 
る 程度 満た し 解決し, さ ら に 既成の ものと なつ た 文化 や 宗教が 移 り ゆ く 時代の 動向に 
さまざまな 影響 を 与えた, という ことのう ちに, 入 間 性の 成長に とって 少なからぬ 価 
値 を 持つ こと を どのよう に 認める かとい う, その 認め 方で ある。 簡単な 形に 図式 化す 
るな ら —— このよ う に 簡明 化する しかた は, 歴史に とって は 少なからぬ 危険 を 伴な う 

こ と であるが  定の 条件に 適応した 習性 〔文明) は, そ の 一定の 状態に と つ て 最適 

の ものが 最もす ぐれた 存在 を 確保す るか も 知れぬ が, 諸 条件の 組合わせ や 個々 の 条件 

の 性質が 変化 するとと もに, 習性 または 習慣に なず むこと が 強い ほど, 今度 はかえ つ 
て 不利になる 場合が ある。 そのよう に 経済の 機搆ゃ 社会の 習俗 や 政治の 形態な どを考 
える ことができ る。 宗教 や 文化 も もちろん この 例外で ない 部分が 多い a ある 段階 を 過 

ぎ, ある 時代 を 通り越し たか 否かと いう こと は, それらの 諸 条件の 総合的な 組合わせ 


 88 


各 章 教授法 についての 私見 


全体に 関する ことで あるから, 容易に 一概に は 断定し がたいと ころが あるので, こと 
に 観念的で, 色 々拡張 解釈 '鑑賞ので きな く はな い 宗教 や 思想 • 芸術 '文 ィ匕 は, 人間性 
が 全く 根底から 一変し 尽く さない 限り, すぐれて 古今 を 通ず る 人間の 知情意 を 打つ も 
の ほど 不朽の 生命 を 持つ ゆえんが あるひ しかし, そこに 段階 的な 推移 や 時代の 経過と 
いう こと は, なんとしても 認められる のであって, それが 人生 諸 側面' 諸 階層に 広ぐ 
- 深く わたり, 全体 的な 生活 状態の 進歩 向上に 近づく ほど, 歴史に とって 有意義な わけ 
である。 その 際 既成の 文明が その 当然の 推移 を 阻止し, 妨害す る 役割 を なすこと もま 
た 実に 大きい 。われわれの 感情 や 考え方, 習慣と いうよう な ものの 功罪 は, まことに- 
微妙 複雑 な 入り組み 方 を, われわれ の 生活の 成 り 立ちのう ちに 及ぼして いるので あつ. 
て, 表と 裏の よ う に 切り離しが たいと ころさ え 少な くないよ うに 見える o たとえば 仏 
教が 弱い 理性 • 強い 情欲の 人間 生活 を 導き 救つ た 一面と, 束縛し がん 迷な ら しめた 他 
面と を 伴な つた 事実の ごと き, その 功罪と もに よ く 考えられ ねばなら ぬひ 進歩的 役割 
を 果たす こと は 歴史の 前進 性に 最も 肝要で あるが, 複雑ぼう 犬な 諸 条件の 結集 体で あ 
る 文明 生活の 進展に は, 保守的な もののう ち に 漸進 性 を 浸透せ しめ る 程度の こと も, 
意外に 大き な 意味 を 持つ 場合が ある。 大帝 国風と その 文明と の 段階が 比較的 速く 過ぎ' 
去った 地域 や 民族と, 長く 停滞した 地方 や 種族と を 対照せ しめつつ, 人間性と いう も, 
のの 構造の 微妙 さと, 進歩' 保守 '反動の 複雑な 関係と について, 少しで も 関心と 考慮.: 
と 問題と を 獲得せ しめるべき である。 その 際 住 意 さるべき は, 簡萆 明瞭な 判断と 結論: 
と を 望む ことと, 安易な 速断と 軽信に 陥る こ と と を 混同し ない こ とであろう。 簡単に 
割り切る こと は 必要で あり, 望ましい ことで あるが, にわかに 割り切れぬ 事 がらに 忍 
耐 強く 取り組む 態度 を 強く 身に つける ことの 方が, はるかに 大切で あ ると 考えられ 

る o 特に 歴史 教育 はそう である o 複雑 • 面倒な, 容易に 確定で きぬ 事 がらに 対して, 

さまざまな 角度から 着実に 問題の 所在と 解決への 方法と を 探求せ しめ, その 搮 求の 苦- 
し さ  をし のいで ゆ  く 興 眛の持 読 を く ふう させねば ならぬ。 人生の 苦悩 を 手軽に 解決し 
な ければ 生き て ゆけ ない という ので は, おそらく 回り く どい 歴史の 遍歴 は 無意味で^ 
ろう。 大帝 国の 段階が, おそらく, ただ もつ ばらに ムダ たり 得なかった ところに, ま 
こ と に慨歡 す べき 今日 の 人間性に かかわ る ものが あるよう に 思わ れる。 

II 地中海 世界 

西洋文明の 優越性に ついて, どこに その 起源 を 見いだ すべき か。 その 著しい 現実 は. 
近世 以来, ルネサンス' 地理 上の 発見 • 宗教改革 以降の 数 世紀に 見いだ さねば ならぬ 
であろうが, しかし そのよって 来る ところ は, 結局, 地中海 世界の 古典的 文明にまで さ. 


39 


I 総  am 


かの ぼらずに はすまないで あろう。 アジア の 諸 世界が 局部 的に は 驚く ぺき 卓越 性を展 
開しながら, 何 かそ こに 全体 的な 状態の 徹底的な 革新 性に 乏しい, いわゆる 停滞 性 を 
示した のと 比較しつつ, この 点 を 考える ことが, まず 当面の 問題と なろう ひ ことわざ 
に 「十で 神童, 二十で 才子, 三十す ぎれば ただの 人 J というが, 個人に とって 伸び、 ゆ 
く 人と, さほど 伸び、 ない 人との 差 は, 年と ともに 開いて くる 。人間の 集団' 社会の 拡 
大す るに つれ, 個人 と 類比す る こと は 勿論 ;眞 ま ね ば ならぬ け れ ど, 民族に も 階級に 
も, それぞれの 社会に 個' 性と いうべき ものが しだいに 現われて くる こと は, 否定で き 
ない 事実で ある a 個性 は 個人に せよ 集団 的 個体に せよ, 自主 独立の 主体性が 確立され 
る こと を 離れない から, その ありかた はもと よりいろ いろ あるが, とにかく 自我の 理 

性的 意識に めざめ, 人格 的 行為の^^ 性 を 持って いる。 オリエント 的の 文明と 勢力と 
から ギリ シァ 的な 生活 を 解放し 自立せ しめた 東西の 対立 関係 は, 一概に このような 観 
点から 取り扱いう る わけで はない が, 都市国家の 市民 文明の 特性 をと ら える ための 手 
がかり として 見られて よいであろう a ギリシア' ローマの いわゆる 古典 文化が 近世以 

後の 西洋文明^! の 助 走路に なった こと は, これまで その 効力 を 余りに 重視され 過ぎ 
たきら いはあろう が, しかし それ だからといって, ^ 制の 基盤の 有閑階級 文化と し 
て, なんらの 敬愛す ベ き 価値 もない かの ごとく 速断す る な ど は 決して 正当 な 態度で は 
あるまい a 古典 白 代の 市民 的 自由 は, 社会と 国家と 自己との 関係 を 古代 的な 経済的 
機構 と 同一 共通 の 組織 形態 において 実現 した もので, 決して 近代 の それと 相似ない と 
ころがあろう。 けれども キリ ス ト教的 観念 形態と ともに 現代まで 影響 を 深く 残して い 
る こと は, 認めない わけに ゆかぬ o 従来の 影響が 深 く 大きい という a か ら の 古典 
の一 辺 倒 は, きび、 しい 批判 を 要する こと は 新る まで もない が, 現代 生活の 改善 向上の 
立 場 か ら 文化 遣 産の うちの M すべき 不滅 性を眛 得す る 仕事 は, これ を 見逃す ベ き で 
はない ひ 現代の 自主性と はこの よう な 取捨選択の 自由';: ほかならぬ。 文化と と も に宗 
:教 について もまた 同様で ある。 古代の 政治 • 社会 • 経瘩 の あり方 も, 今日で はむしろ 

文化 遣 産のう ちに 数え られる o 

さて ギリシア 入 •  《 —  マ 入の 活動 は, 地中海 世界の 地理 的 (物理的) 条件 を 離れず 
—— もちろん いわゆる 地理 的 決定論 的 な 意味 において ではなく —— 同時 に それに 働き 
かけた 生理的 心理的な 社会 &媳済 的な 営みが, 心理的, 倫理的, 道理 的な 政治. 宗教 • 

化と からみ 合い 作用 し 合って いった 姿に ほかな ら ない。 それ は 入 間 性が 政治的 社会 
の 層 を 中心に して 意識せられ, 元来 その外 圏に ある 異邦人 や 奴 隸罾に は 人権 的 自由 を 
認めなかった ものが, 古代 末期に 近づく につれ, ヘレニズム 文明 を 受けた ローマ帝国 
の^ 2 と, 並び、 に キリスト教の 優勝と が 大きな 契璣 をな して, この 古代 的 偏狭 性が ゆ 
- るめ られ, そ の 個人主義 的 傾向 と 世界 普遍 主義 的 傾向 とに 色 どられ た 世界の 謎 Mil 賢 


40 


各章教 g 法 についての 私 p」 


の 意識が, 現実の 政治' 経珞の 限界と 不振と 義微と を 遠く 打ち 越えて, 心 ある 人々 を 
導く ようになった。 この 過程のう ちに は, 人間と 自然との 関係 を 技術的, 科学的に 顴 
慮 • 観察す る 態度が 含まれて いたが, 古代の 地中海 世界で は, いまだ その 限界 を 打ち 

破る までに 発展し なかった o ここに その 古代 性の 一端が うかがわれる 0 これらの 過程 
を 通して, 西洋文明の 合理性と 実践 性の 鋭 さが 考えられる であろう O しかし それ は, 

単に それ 自体と して 自動的に 発達し ゆ く 素質と でも 呼ばるべき ものの 有力な 形成に 協 
力した ことであって, その後の 事情と 反応と 努力と に またねば, その 素質の ごとき も 
の も 発芽し 繁茂し 繁殖す る こ と は むずかし かつ たであろう。 そこに 地中海 世界の 立場 
からみる と, その内 部と それ をめ ぐる 外 圏との 東 • 西と 南 • 北との, 地域と 人類と そ 

の 歴史と が, きわめて 重要な 意味 を 持つ ことが うかがわれ るので ある 0 

このよう にして 地中海 世界の 古代史 は, 西洋文明の 母胎で ある ギリシア 人' n — マ 

人の 合理性と 実践 性と が, いかに そ の 不合理 的な 自然 性 能 的 衝動 性 • 習俗 的 制度 

性) や 非合理的な 情意 性 (風習 的 伝统性 • 偶像 的 信仰 性) とから み 合いつつ, す こぶ 
る 不完全ながら, とにもかくにもい かように 発揮せられ たか, その 限界と そして その 
意義と は どの ような もので あつ たかを, 考え させる であろう o 

西洋で は 古代文明が 没落した 姿 を, あらわな 著しい 形で 示して いる よ う に 見える。 
古代 世界 の 没落 と か 崩壊 とか ははた してい かなる 事 がらであろう か。 それ は 確か に そ 
う 言わるべき 結末の ような もの を 示して いる。 それな ら そのよ う' な 事象 はいかに して 

生じた のであろう か o 考察 は 当然 ここに 向かって く るであろう o 古代 地中海 世界の 創 

始と 終末に ついての 胃 は 明確な 断案に 到達し がたい 点が 残る かも 知れない a しかし 
一つの 文明な り, 時代な り, 社会な り について 興亡の 面が あり, ま た 猿 続の 面が ある こ 
と, しかも それらの あり方 も 決して 一様で ない こと, そして そのよって くると ころに 
も 必至 不可避 的な ものと, その 時代な り 段階な り においても 避けえ, 修正し う る ものと 
の ある ことな ど を 見いだ しうる であろう a たとえ ば奴隸 制に よる 技術 発展の 限界と い 
つたこと にの み 押しつけて しま う 前に, 政治的, 経済的な かたよ りが さま ざまの 事情の 

錯綜に よ つ て 事態 を 悪化せ しめた 点な ど を 考えさせ る 必要が ある。 n 一  マ 帝国の 崩 壌 

をと つて みても, 一, 二の 基本的 原因の み に 帰して 満足す る わけに ゆかない であろう c 

2 中世の 世界 

I 西欧 封建社会 

今日す ベての 旧弊 を 封建的と 呼ぶ ことが 流行して いるが, この 流行に ついてい ろい 


41 


I     総       論  編 


ろと 考察 を 加える ことから, 西欧 封建社会の ありのままな 検討に 移る こと は, 意味の 
ある ことで ある。 同時に それが 歴史の 必然性 を 形成す る もろもろ の 条件と, いかに 相 
応し, そして またい かに 適応し ない ものに なって いった か, 西洋の 封建制度の 持つ 意 
義は どんな もの か, そうした 点が 探求され る わけで ある。 この 際 常に 日本の 封建 制と 
呼ばれる もの を 念頭に 置く こと, 近世 的な ものとの 関係 を 考慮す る こ と が 必要で あ 

民族 移動の 波 は 第一 波' 第二 波と 相^いで, その 性質 もし だいに 変化し, 民族 移動 
の 概念から は 異なって ゆく が, しかし ノルマンの 活動, 十字軍, 地理 上の 璨険 などに 
水 尾を引く こと は 否まれない。 これに 東方からの サラ セン 人 や 蒙古 人の 西 侵 を 織り 交 
ぜて, 諸 民族 社会の 交流の めざまし さが, 中世 千年の 一つの 目標'; こなる。 東 か 
ら 西へ, 北から 南へ, 大小い く たの 波動が ョ— q ッパ 内外に 打ち寄せ, 引き去る うち 
に, しだいに 西から 東への 波動と 潮流と が たくましく 起って くる。 この間に 西欧から 

東欧に 向かって 進む につれ て, いわゆる 停 滞 性と い う 言葉 に 示される 古代 的 帝国 的 な 
彩 相に 類す る ものが 濃く 残り, 西欧に はさま ざまな 生活の 対立 と 連関と を 通して 自力 

信頼と 積極性が 強く 現われ, 近世 的 社会への 胎動 をき ざす a  V 

こ の 諸 民族の 社会 変動に 沿って, キリス ト教の 教会 的 活動が 執拗に まつわりつく。 
宗教 的 意識に 着色され, 作用され た 社会と 文化と 政治と 経済と が, おそらく 最も 組織 
的 徹底的 に ヨーロッパ において 形成 される。 動揺 と 分裂と を 秩序と 定着 とに 落ちつ け 
る 機構に, とに も かく にも 多大の 猜 神性 を 与えた こと は 争われない。 

こ う して 古代"— マの 法制 的な 性質 を 帯びた 遣 物 を も 加味して 中世の 経済と 社会と 
政治と が, しだいに^の 勢力 を 蓄積した。 ことに 自治 '独立の 都市の 発達 は 組合 精 
神 を 主体と す る 市民の 自由の 主張 を 助成した o 組合 制度 は 他方で は 自由の 一層の 発展 
を 阻止した けれども, しかし 独立 自営 的な 市民の 富 は, 独立自尊の 貴族 身分の 活動 性 
を 変質せ しめつつ 継承し, さらに 進展せ しめる 結果に なった ひ 貴族' 僧侶の 特権 身分 
階層と 農民の 隸 従的な と ころの 多い 身分 階層と が, 中世の 安定 的 保守 傾向 を 比較的に 

代表す る ことと なった のに 比し, 市民 階層 は 手工業よ り 商業 • 金 M 業に 進出しつつ, 
比較的 » 的 傾向の 推進者と な り , 都市の 支配と 農村の 変態との 推進力と に な つ た。 
かくて 市民 階層 を 中堅 • 主軸と して, 貴族 • 僧侶 階層 と 農民 階 鬵と を, ある 程度 均衡 • 
調和せ しめえ た 主権の 確立 を 達成し えた 者 C たとえば 英^いで 仏) は ほぼ 全般的に 繁 
栄し, この 三 身分 をう つて 一丸と する 方向 を 取りえなかった 者 (たとえば 独 • 伊) 

は, しだいに 遅れた と 見られる o 

中世の 観念的な 精神 文化 は, 宗教と ともに, 理想 や 希望の 主観性 を 現実 や 実際の 客 
観 性に す り かえ る 自慰 的 幻想 性 を 帯び、 るが, しかし 中世の 進歩 を 妨げた 面の み を 強調 


各 章 教授法 についての 私見 


する に 甘ん ずぺ きで はない。 それ は, ギルド や 十字軍の 役割に も 似た 功罪 を 持って い 

る ひ カタ コムから パジ リカ, ついで ロマネスク, ゴシック の 文ィ 匕が 反映す る もの は, 

中世の 歩みが, 古代と 近世との 間にあって, 粗野な 暴力の 現実 を 観念的な 精神力の 理 
想に よって 秩序 づけ 平和な らしめ ようとし, その まがりな り のい く ら かの 達成 裡 に, 

自由と 人権への さ さ やかな が ら 萠芽 を は ぐ く んだ 点に あると 言うべき である 0 

I 西 アジア 社会の 発展 

世界史に おける ァ ジ ァの 問題 を, こ れを 今日 だれが 扱 うにしても 7 令静で 客観的な 基 
準に よる こと は 困難で あ る ひ もちろん ヨーロッパ でも アメリカ でも, みな そ の 持つ 言 
葉の 意義 を 多少と も 肯定的に あるいは 否定的に, 感情 や 利害 を 超越して 用い かねる 点 
は あると しても, アジアに 比ぺて 安定した 評価 を 背景に, その 歴史 性 だけ を 純粋に 近 

く 洗い出す こと はでき る o と ころが アジア を 扱う ョ一 口 ッパ 人で も アメリカ人 でも, 

まして アジア 人 自身, 一種の 興奮が つきまとう。 これ は ただ今 日の 世界情勢 や 政治の 
動向 に だ け 帰せ ら るべき 問題で は な く  , な が い 伝統 となり 果て た 感情が 誘発す る もの 
である。 こ と に 今日の 日本の 置かれて いる 立場 は, アジアに 対して 微妙な 関係 を 持ち, 
明治の 大 アジア 主義 以来の 思、 想 的な 背景 も 生きて いる o 虚心坦懐 になろう としてな り 

え ない 衝動 を 各人と も に 持ち合わせ ている という よ り ほか はない o 

しかし 学問の 道 は 自己に 対して 冷静で 謙虚な 自覚 を 開く もので あり, 自己の 周辺に 
対して は 透徹して 厳格な 決断 を 与え る も のでなければ ならない ので, この アジアと い 
う 響きに 伴な う 興奮 を 分析して ァ ジァ史 を 世界史に 組み こ ま せる 今日の 方法 を 見いだ 
す 必要が あろう o ョ —口 ツバと は 語原 的に 夕 (ゆうべ:) と 同じで アジアと は 朝 (あさ) 
と 同じで あると 説かれた 場合, その 言語学 的な 当否よりも, ヨーロッパと アジアとの 
対決の 意識が, しか も アジア を 優位に 置 きたいと いう 意欲が 強 く 表現 されて いる こと 
はだれ の 目 にも 明らかな ところであろう。 こ れ がか り に 激越な 調子で 自己の 周辺に ふ 

り まかれる とすれば, その 優越 を どんな 歴史 事実で 満足 させよう と言うの だろう か o 

同一の 地 或に 同一の 民族が きわめて ながい 文化の 継続 を 生み出し, すぐれた 内省と 拫 

強い 努力 をく り 返して きたと いう 事実 を, そのために こそ 持ち出さなければ ならない 
のだろう か o 

アジアが ョ 一口 ツバの 産業革命 以後, ョ— 口 ッパ の^のた めの 檨牲 となった とい 
う 事実 は 動かしが たいこと である。 あるいは 植民地と なり 保護国と なり, あるいは 市 
場と なり 勢力圏に 編入され, そのために アジア 本来の 歴史に 歪みの 生じた こと も 事実 
である。 あるいは 都市に おける 文明の 急激な 発達, 国内の 諸 秩序の 再編成, これによ 


43 


I 総       論  辛扁 


つて 精神的に も 物質的に も 向上 を 約束され た 人た ちと, その しわよせで 生活苦の 桀ま 
-た 人た ちの 存在した の は 事実で ある。 恵まれた 人が 文明 を 謳歌しながら, なお 後^ 
の 悪い 鬼 屈 さ を 身に つけ, 恵まれな い 入が すべて の 悪の 根源 を 他人に 背負わせ るのに 
躊躇し な がら も, そ の 困難 を 新たに 迎え た 外来の 勢力の ゆ え に 帰した の も 無理 か ら ぬ 

ところであった o これまでの 長い 過去に それぞれ 別 掘の 世界 を 作り, 多く は 無縁です 

ら あった アジアの 諸 地域が, 帝国主義の もとに 一つの 運命 を 共通して になわされ, 同 
g 巨 憐れむ 共通の 意識 を 持つ に 至った という こと, すなわち それが アジアだった とい 
うこと も 奇矯の ごと く で, 必ずしも 不当の 言ではなかった であろう。 だから はじめ か 
ら アジア はいため つけられ たもの, おくれた もの, 不運な もの, あきらめに 慣れた も 
ので あり, したがって 回復され ねばならぬ もの, おくれ を 取り返さなければ ならない 
もの, 不運 を 克服すべき もの, あきらめ を 捨てるべき もの, という 方向 も 否応なしに 

与え られ たわけで ある o 

いわゆる アジアの 自覚と はこの よ う な 意識が いつもむ ち を 持って いるので, これが 
ilflj となれば 狂 熱 的な 興奮 を 伴ない, 過少な もの を叱咜 したり, 指導者 を もって 任じ 
て 予言者 的な 態度 をと つたり する ひ この場合, このような 意識が どんなと ころに 生ま 
れ, どんな 動向 を 含んだ ものであろう か。 トルコで も インド、 でも 中国で も, まず 恵ま 
れた 人た ち, あるいは 留学が できたり, ヨーロッパ などの 学問 思想 を 身に つけた 人た 
ちの 間から 生まれた も ので, アジアの 歪み を 真 向から ひっかぶつ た 人た ちからで はな 
かった。 アジア 自身の 持つ 歪みから 正さねば ならない のに, これ を 積極的に ョ 一口 ッ 
パと 対決す る こと だけで 正しく される ものと 信ずる 戦闘的な 人た ちゃ, 逆に 対決 を 避 
けて, 消極的に K 想 や 諦観に ァ ジァ的 解決の 方法が ある ものと 信ずる コマ ン 主義 的な 

入た ちが 多かった 0 その いずれも アジアの 過去の 偉大 さ を 回想す る ことが 多く, 前進 

の 意欲に 通ず るかの よう な 陶酔 を 持って おり, アジア 史を 世界史へ 組み こむ 態度 も大 
体 この 線で 止まって しまう のが 常であった。 日本で 日本史 を 論ずる のでな く, インド 
や 西 アジア を 論ずる 場合 は, その 距離のへ だたり が 意識 を も 希薄に して, ロマン 的な 

解釈の 多 か つたの も そのためであろう o 

ffl 南アジア 社会の 変化 

ローマが 没落し, ゲルマン 国家が まだ 成熟し ない ころ, 西 アジアの イスラム教 国が 
世界の 覇者と して, 西 は イベリア半島 をお さえ, 東 は インド、 をお おい, 中国の 盛大と 
呼応した。 サ ラセ ンの 活躍に 世界史の 焦点 を 定め ると, ここ に 新たな 時代が 観 取され, 

ィ ンド、 史に とっても 古代と 中世と をく ぎる 事象が 11 われて く る a このような 動かす こ 


44   


各 章 « 法 についての 私昆 


とので き ない 歴史 事実 を 指摘して, 歴史の け じめ をつ ける こと は 一]^ 当で は あるが, 
そのけ じめ が 地域的に 限られて, 事実が 偶然 性に 委ねられ がちな 不安 を 抱かせる。 
ま こ とに 間違いで ない こ と は 必ずしも すべて 正し く はない し, 正しい こ とが 必ずしも 
すべてい いこ とで はない。 南ァ ジァ 社会の 変化 をィ ス ラムの 到来 だけで く ぎる ことの 

ひ I 每 さは ここに ある a 

ィ ンド史 や 中 国史で 社会の 内容の 変化 を, 政治 や 文化 や 経済に はね 返った 形の 上 か 
ら 分析す る こと は, 今日 まだ 十分に 尽くされ ていない。 しいて 時代の 内容に けじめ を 
つけようと するならば, 近代 は 前に は 古代と 中世の 複合 的 性格が, いつも 濃厚に 社会. 
を 圧縮して おり, 近代の 出発 をお くらせ, その 道 を ジグザグ にさせた という ほか はな 
い。 ただ今 日の ィ ンド、 や 中国 を 見て, その 過去の 役割 をき わめて 否定的に 見る 場合 
は, いっさい を 悲劇の 連続と し, どこに も 光明 を 見いだ さない 不善の 歴史し か 現われ 
てこない。 また 過去 を 甘く 扱う と, 王朝の 光栄 や 貴族の 奢侈が, あたかも 浪費が 文化 
と 同義語の ように 受け取られ てく る 。ョー " ッパ 人が アジアの 驚異と して 認める もの 
が エジプトの ピラミ ッ ド、 に 続いて, 万里の長城に せよ, ター ジ- マハ一 ル廟に せ よ , 

17〜 8 世紀まで そ の 驚異の 対象が 作 り 続け られた 事実 を 無視して は ァ ジァ史 は とらえ 
え な い。 手軽に ィ ン ド、 や 中国 や, ま た 朝鮮 や ビルマ な どに 封建社会が なかつ た と し, 
その ゆえに これらの 地 或に 中世が なかつ たという に は, 余り に アジアの 中世に は 問題 
が ありすぎ るので ある。 かって アジア 史の 中世に 封建的 傾斜が 見られる という 表現で 
これ を 処理し よ う と した ことがあった。 それ ほ どまでに 封建 制と いう ものに 執着し な 
いで も, インド や 中国の 封建主義に は 古代 的で, かつ 中世 的な 封建 悪が 近代の 裁判 を 
受ける ために ひしめき 合って いたので ある。 

W 東アジア 社会の 推移 

日本 は 中 国史が その ま ま 東洋史 だ つ た な がい 期間 を 過ご し た。 戦争 中に 日本の 触手 
が 中国より 外までの び、 て, 大東亜共栄圏 の 呼号 は 東亜 史 をい ゃ応 なしに ひきずり 出し 
たが, その 東亜 史 がいかに 東洋史 的であった か。 試みに 昔の 中学 や 高校で 東洋史 を受 

講し たものに, 東洋史と は どんな ものだった か を 尋ねて みると, 10 人の 中 10 人まで 彦  1 

をし かめて 死に 学問だった こと を 答える であろう o かりに 興味が あつたと すれば, こ 

れを 講じ た 教師の 人間 にあって, 明治 20 年代に 設定 さ れ た 東洋史 と言われる もの の 持 
つ 香気ではなかった。 東洋史が 日本 発展のお 先捧 をつ とめ, しかも それが 青年の 自由 
さに 何も 訴える もの を 持たなかった の は 皮肉な く らい, 歴史 そのものの 審判 を 思わせ 
る ものが ある。 今日 世界史で な くと も, 東洋史 自体に も し 魅力が あると したな らば, 


45 


総論  編 


やはり 政治の 下僕た る 東洋史な のか も しれな い。 
しかし 中国 自体が み ご と な 近代の 展開 を なしつつ あるの を 見れば, すでに 東洋の!^ 

秘は その 種明かし をした の も 同然で ある a 種明かし されて, まだ 手品 使いの 風呂敷 を' 
不思議 そ うに ひねって いて は, それ こ そ 歴史 以前であって, "東洋史に すらな りえな 
い。 今日の 中国が 旧制度の 悪徳 を どんな 風に 屠った か, 三 反と か 五 反と か は 何 を 脱却 
しょうと したの か。 その 離脱 せざるをえない 社会の 諸 組織に 中世ない し 古代が あつた- 
ので, 何の ためらい を もって, 中 国史の 性格 を 暗中模索 する 必要が あるので あろう。 
もっとも 封建主義 と 官僚主義が 当面の 敵 だか ら といって, 封建的 官僚 制で い つ さい が 
納得した 中国の 中世 を 考える の は 早計で あるか もしれ ない o 敵 呼ばわり をして, 歴史 
の い つの 時代に も 悪徳ば か り を 掘 り 起す の が 歴史の つとめではなくて, 入 間の 真面 目 

な 努力が どんな 方向に 統一され ていた か, その 方向に 評価 を 加えても 努力 を 評価す る 
の は 潜 越の 仕草 かと も 思われる。 中国の 官僚 制に しても 当然 果たすべき 使命が あって 
登場した のに 違いない。 そして そこに こそ 古代の 悪 を 埋没して, 中世の 善 を 打ち 建て 
る 道が あつたの であろう。 中国の 宋 以後 を 説いて, 異 民族の 元 や 清に いためつけられ 
た 面ば か り 強調して 民族主義 を 謳歌 し, 岳 飛 や 文 天祥ゃ ま た 顥炎武 や 黄 宗義だ け を 大写 
しにす る 手法 は, 明治の 東洋史であった。 あるいは 長 城 を 越えて 中原に 制覇 を 遂げる も, 
のとしての, 征服 民族の 偉大 さや 統洽 法に 重点 を 置く の は, 大正から 昭和 初期の 東洋 
史で, めつ た。 

今日 後進国の 多く は, まだ 民族主義の 色彩が 濃い。 これが 安価に 受け取られる ところ- 
に 後進 性が あると  も 言え る。 排米 反ソの 日本 主義 を 口にする だけなら ばた やすい こ と 
である a ま して 中 国史で どこに 重点 を 置いても 歴史上の こ とだと して 責任 は 軽い こ と 
かも しれない。 しかし 国民の 大部分 を 占め る 農民が, 中 国史で 登場す るの は 農民 暴動ば 
か り だからといって こ れに 力を入れす ぎて は, 事実 中 国史 は 舌 史に なる より ほか は な 
い。 近代 清 神の よ り 所 は 調和 と 根気に あるよう だから, 中 国史に もき わめて よい パラ 
ンスを 伝統的 史実の 連鎖と 今日の 視野と から 新たに 育てる よ り ほか はない ので あ る。 

3 近代の 世界 

I 近代 精神の 発展 

近代 清 神の 発展 を 見通す とき, 実に さまざまな 問題が 引き出される であろうが, そ 
れは 人間と 自然の 発見と いう ことばに 示される ように, 主体と 環境との 関係の 生き 生 
きとした 新鮮な 形成で あり, 簡約に 自我の 主張, すなわち 中世の 没我的 傾向 を 表看板 
にして いたのに 対して, 主我 的 活動 を 建て まえにし たこ とで あると 言って よかろう o 


46 


各 章 教授法 についての 私見 


ルネサンス も 宗教改革 も, 反宗教改革 も, 地理 上の 発見 やそれ に 続く 植民 活動 も, 重 商 
生義的 近世 6% 対 国家 も, パ ロック 文ィ匕 も, 方向 や 性質 は さまざまに 異なる が, しか し 
中世 以来 養われて きた 主我 的 衝動が, さまざまな 色彩で は あるが, 合理主義 という 油 

で 溶か さ れた 絵の具で 塗 られ たよう な 格好で あ る 。 合理主義 的に 活動す ると 言っても, 

それ は 強烈 な 意欲 の 衝動 性 が 積極的 な 推進力 となって いるので, 情熱 と 暴力と 残忍 と 
謀略の からみ 合つ た 主我 的 行動に ほかなら なかつ た 点が 著しい。 近代 性の 明かる い 反 
面に は, 依然として, 否, むしろ 打算的 複雑さ を 一層 加えた 人間の 暗い 獣性 ともいう 
べき ものが 働いて いる。 この 点 近代 性 を 考察す る 際に, 深く 自己 を 反省す る ことと 結 
合する 用意が 必要であろう。 近代の 進歩 は 十分 尊重され ねばなら ぬが, それが やや も 
すると 凹凸の 激しい ゆがんだ ものに な り やすく, 近代から 現代に かけての 不満 や 不安 
め 少なからぬ ものが, そこに 胚胎す る。 人間性の 解放と いう 明かる い 進歩 そのものに 

: 深く しみついた 古代 • 中世 を 通じての 暗い 自我の 側面 こそ, 7 令静に 凝視され ねばなる 
まい ひ それ は 決して われわれの 日常の 幸 • 不幸から, そんなに 遠い もので はない ひ 気 
がつ いて 自粛 すれば, ある 程度 獲る こと も 避ける こと もで きる もので あり, それが 自 
由と 自律の 缚外に 残る の は, 愚昧 • 無 思慮と ともに 余りに も 主我 的に 走って, 不知 不 

識に 招いた 合理的 生活の 不徹底に 基づ くもので ある。 近代 精神の 勝利 は 偉大で あ る 
が, しかし, もとより はな はだ 不完全な 不徹底な ものであった。 

近代 精神が ョ— 口 ツバに その 主役 を 見いだ した こ と は, 東西のへ だたり を 空間 的に 

は 減 縮した が, 時間 的に はし だいに 拡大した o アジア やその 他の 停滞と 不振と を 目立 

たしめ, 優劣の 差 を 大きく していった。 それゆえに 近代 精神の 発展と いう ことと, 西 
.洋 文化 <p 現代に おける 優越 及び 欠陥と いう ことと は, 照応す ると ころが あり, われ わ 
れの 運命に 関係す る 影響の 直接 性の 発端と して 注目 さ るべき である。 その 際 一つの 問 
題と なりうる の は, 人間の 合理的な 生活 技術の 発達の 有無と, 民族的 団結 力の 強弱と 

いう こ とであろう 0 アジア その他の 植民地 化 はこの 二つの 焦点が ぼやけて いたからで 
ある 。その 相違の よってく る 原因 は, さかのぼれば 中世に, さらに 古代にまで 及ぶ で 
あろうが, しかし また, 顧みて 他 を 言う ことのみ に 終始し ない 責任の 立場 を とれば, 
西洋 近代 清 神の 覚 せいに 参与し, 寄与した 個々 の 人格 や 集団 • 社会の 自利 を 追う て篛 
合しつつ, しかも 全体 的な 均衡と 調整と を 大破す る ことのな かつ た 点に, その 最も 犬い 
なる 原因 を 帰すべき で は な いだろう か a 末梢的 な 事 がらの ために 根幹 的 な 物事 を 忘れ 
ない といった よう な 統一的 作用が, 経済活動に も 政治 活動に も , 近世 初期の 西洋人の 
人 意 人力 自負のう ちに, 摂理と して か 自然法と して か 運命と して か, とにかく 働いて 

いた o 個人の 自 由の 主張に 向かう 進歩 性 と 全体 的 安定 を 重んず る 保守性 との まがりな 

*> の 均衡と いつ たよう な 関係が, 潑ら つと 強烈に 競い合う 多く の 積極的 突出 力の 間に, 


I      総         offl  編 

ある 程度の 調和 を 持続せ しめたた めで はない か。 ルネサンス 'バロック '古典主義の 
芸術の 扱い方に も, こう した 顧慮が 必要な ので は ある ま いか。 

それ は それと して, 弱小 後進の 諸 民族' 諸種 族の みじめな 敗亡 • 隸属化 は, 古代に 
おける 奴隸 制, 中世に おける 隸属 民の 運命と 比較せ られつつ, 入 間と いう ものの まこ 

と に 至 ら ざる 一面が 伴ない がち な 姿の 考察に 向か う 手が か りと されるべき であろう 0 

そ う して 経済 • 政治 • 文化 • 宗教な どの 人生の 諸方 向への あく ことな き 発展が, 人間 
社会の 平等主義と 協調主義と を 紐帯と する 均衡 ~" "道徳の 上に 立つべく して, 実は, 

ややもすれば ひたす ら 力の 衝動に 支配 せられる 悲劇 を 十分に 味わ うべき である a 

I 近代 社会の 成立 

近代 社会の 成立と い う 概念に 含 まれる さまざまの 問題 は, 最も 複雑で あ り 重要で あ 
ると 言って よかろう が, それだけに, この 部分の 諸問題の 見いだ しかた や, それら を 

どのよう に 中心 問題に しぼって 取り扱う かとい う こ と は, いわば 現場の 教室の 外から, 

天降り 的に, または 干渉 的に 指示したり すべきで はない。 ただ 例によって 一, 二の 示 

唆と も なる であろう 事 がら を 付け加える にと どめる。 

政洽 的に 絶対主義 国家が 活動した こ と は, 経済的に は 重商主義 や 重農主義の 意識の 

実態 となつ た 農村 と 都市に またがる 農業 • 手工業 • 商業の 経営 と 技術の^ a • 発達で 
あり., とりわけ マ- ュファ クチ ユア 的 段階 か ら 産業革命 # を た ど り 資本主義 的饑搆 
に 移る ので ある a 社会的に は 貴族 • 地主 層の 優位が ゆらぎ, 農民 層に 対して 市民 層が 
概して めざましく 抬 頭し, 共同体 や 組合の 伝統に 対する 個人の 自由が 解放され つつ あ 
るが, しかし 一方に は 国民的 団結 も また 影 を 濃く してく る。 宗教 的に は 旧来の 新 • 旧 
諸派の 教会 的 勢力が 日常生活に, なお 強い 統制 を 加えた が, 一方 文化のう ちで 思想 面 

の 進出が 著しく, 理性の 支配 を 若々 しい 信念と して 主張した a これ を 要するに 市民 社 
会が 封建的 勢力に 対して 近世 国家と 結合し, 次いで 市民 的な 国民 を 形成す る, そうい 

う 経緯で あ ると も 言い えよう。 しかも こ の 市民 的な 国民の 網の 目から こ ぼれ 落ち た 多 
数の 人類が いる a 国内に おける 勤労大衆の 多くの 部分と, 国際に おける 後進 弱小の 諸 
民族 や 植民地 化 • 半 植民地 化された 諸人 種が こ れ である ひ  . 

人類の 生存競争 という 見地 は, この 経過に 伴な つて, 時に 不当に 強調され たが, とに 
かく, この 見地から, 敗残 者たら ざらん とすれば, 富強な 市民 的 国民たら ねばならな 
かった a 欧米の 先進 • 強力なる 社会 は, 国内 的に も 国際的に も, この 原理 を 実践 行動 
によって, 手痛く 教訓した ので ある 。中世 的 貴族に 代わった 近世 的 市民 は, 自由と 平 
等との 民主主義 的 傾向 を もたらし たが, 実態 的に は, なお 新たな 貴族 主義が 巨人 的 金 


48 


一 各 章 教授法 についての 私見 _ 

権 主義と 結合して, 特に 国際的に 猛威 を ふるった。 それ は 人間の 主我が 恐るべき 技術 
を 身に つけ, ために, いつしか 主我 意識 を 越えた 不自由な 技術の 下僕に なりあが ると 
いう ありさ まであった a 

近代 社会の 表と 裏, すなわち 喜ぶべき 長所と いむべき 短所と は 何 か o 短所と 胃 を 
えぐり 出す こと は, それ をた だすた めに, この 上 もな く 大切で あるひ 同時に 長所と 意 
義 とも 正当に 評価すべき であろう。 それ は 歷史の 進路 を 誤り な く 見通す 上に 肝要な こ 

とで ある o 近代 社会の 成立と いう 概念 はこの よ う な 判断 を 含むべき ものである。 

口一 マ は 一日に してなら ず, 近代 はもと より, 一日に してなら なかった o そのよ ゥ 

てきた つ た 筋道 をで き る だけ 冷静に 客観的に, そ して 事実に よ つ て 公平に 理解す る こ 

とが 努力され ねばなる まい 0 そのために 複雑な, こまごました 事実の, 迷路 を も 丹念 
にた どらねば ならぬ o 簡単に 割り切る こと は 切望され るが, 近代 性の 一 特色 は, その 

複雑 性に あると 言われる。 道 は ローマに 通ず ると いうが, はたして すべての 路が 坦々 
と して 必ず ローマ に 通ず るであろう か。 複雑 多岐 を 克服す る 道の 第一歩 は, そ の 複雑 
多岐の 恐るべき こ と に 耐え う る 力 を 養う ことであろう。 現実の 複雑 性 を 安易に 割り切 

りえた と 軽信す るの は, 観念的な 妄信に 堕する ことに 過ぎぬ 場合が 少なく ない o 歴史 

の 場 は, このよう な 具体的 訓練 を 分担す る ものと 思う。 近代に 至つ て, ひと は 人間性 

のな ぞ 的な 一面 を ィャ という ほ ど 味わわされる であろう O 

I アジアの 変質 

唯物史観 は 原始 社会 や 古代 国家 を 説明す るのに は 都合 よ い が, 人間が 大 き な 振幅 を 
も つて 歴史 そのもの. を 動かす 近代に 至って は, きわめて 困難な 歴史 把握に なるとい わ 
れるひ ファシズム も ナチズム も あとから 説明で きても, その 勢力 を 予見で きなかった 
し, 太平洋戦争の 拡大で すら 数字 的に つじつまが 合う か 否か 疑わしい。 といって 非 科 
学 的な 歴史観が どんな に その 場 限 り のお 座な り であ つたり, 時には 慰 間です ら あった 
か は, 思い知らされる ほど 見て きた 事実で ある。 欧米の 近代に 続いて アジアの 変質 を 
i る 場合, これ を 欧米 勢力の 影響 下にお いての 変質と 見る にせよ, アジア 独自の 到達 
した 脱皮の 時代と 昆る にせよ, ここに も 大きな 人間像が 現われて くる。 毛 沢 東の 中国 
は, 中国人の 中国で はない し, ネル一 の インド は, インド、 人の インドで はない にも かか 
わらず, この 両者の 映像が 歴史 を 左右して いる こ と は 否めない。 公式 的に 言う ならば, 

,  しっこ く 

アジア は その 自ら の 桎梏 を 突破す ると ともに, 欧米 勢力の 桎梏 を も 突破 し な け れば な 
ら なかった という 二重の 革命 を 経験 しつつ あると 言える であろう。 また 経済的に 産業 


49 


I 総論 編 


き はん 

革命 を, 社会的に 人間 革命 を, 政治的に 外国の 覊雜 離脱 をと 三重の 革命の 真只中に あ 

ると © 言え る a 

てんてい 

しか し こ の 公式 は 実は 理屈で, 歴史 事実の 中に こ れを 点綴す る こと は きわめて 困: 難 
である 0 かって 五 • 四 運動 を 歴史 教科書に 取り入れ るまで 何年 かかつ たかを 考えて み 

るが よい o 満州国の 成立が 同年の 歴史 教科書の!^ 題と な りえた のに, 五 • 四が 1919 年 
か ら 終戦 の 年 ま で 待 た な け れ ば ならなかった の は, い か に 世界史 を 動か している 思想 
が, 現実の 意欲と は 無関係に, 自覚の 有無に かかわらず, 思想 自体の 強さ を 持って い 

るか を 考えさせる も ので ある o この 思想 を 最も 素直に 取り入れ るの は 大衆であって, 

―, 二の 指導者ではなかった。 大勢の 赴く ところと か, 乾坤一擲と か, 大言壮語の 裏 

に は 歴史 はない ので, 刻々 の 時 を 刻む 歴史 はもつ と 純粋な 形で 動いて いる o アジアが 

その 歪みから 解放され, その 歪みの 傷が 癒着す るに はなが い 歳月と しんぼう 強い 治療 
が 必要な ので, なまじ 名医 顔して 出しゃばる ことの こつけ いさを, 日本 は 十二分の 悔 

恨 を も つて 反省す る 必要が ある o 歴史で 扱う アジアの 変質 は, 日本 を 含めて 上からの 

革命の 失欧 という 厳然たる 事実で ある。 与えられる という ことと 自分の 手で かちとる 
という こ との 大きな 相違 を 今更の よ う に 思い知らされる。 

唐 代の 史家 劉 知 幾の 「史 通」 に 自分の 歴史観 は襟腑 にこれ を 得た ので 染習 による も 
ので はない といって いる。 自己の 力での 開拓が どんなに 強い もの か, 私たちの 身辺に 

実例 はあり 余る ことであろう o 近時の アジア 史が 日本で, まず 日本史 家の 設定した 命 

題 や 解釈の 手法 を 取 り 入れて 右往左往し, さ ら に 西洋史 家の 想定 や 技術に ひきずられ 
て 表現 や 意匠に 苦心 惨胆 している の は, みじめで も あるが, これ を また 東洋史 家が 冷 
然と して 手 をお ろそう と しないの もみじめ を 通り越して 馬鹿らし いこ とで ある。 その 
分 を 知 ると 言っても 歴史家が 歴史 以前で 足踏み している の は, ウォーム-アップ だけ 
して 競技に は 出場し ない 輩に しかす ぎない。 アジアの 変質 を 説いて 清の 皇帝の 仁慈 を 
養 美したり, 義和団 ゃセ ボイの^ P だけ を 指摘して いて は 歴史に ならない し, また 太 
平 天国 を 目して 市民 成長の 一 証左と する よ うに 客観 状勢の みに 終始して は 歴史に な り 

すぎる も のであろう o 

4 現代の 世界 

本 教科書 は, 現代 を 近代の 未完成 部分と して 取り扱つ ている。 したがって 近代の 目 
標に 向かって 現代が, すなわち われわれ 自身の 生活 を 含めて, 今日の 世界が 歩んで い 
る もの, ただ その 目的地が 既製の 決勝点に 向かう もので なく, われわれの 手で 創造し 
ながら 歩み を 進めて いるものと している 。結局 歴史 そのものが 与えられる も のでな く , 


—— 50 


各 章 教授法 についての 私見 


自己の 中に 創造す る もので, これに は 希望と 躍動と が 絶えず 鼓舞して くれる ひ 理想 を 
言う ならば, 近代までの 世界史 は 大き く ブレーキ を かけた 教師の 解説と 生徒の 研究で 
積み 上 げ, 現代 で活潑 な 討論と 教師の 抱負と がー 時 に 爆発す るのお 望ましい ことで あ 
ろう。 あるいは 現代で 福 沢 論吉の 「福 翁 自伝 J や, ォ一 ゥェン の 「自叙伝」 など をテ 
キ ストに して 顼 代への もちこまれ 方, 日本の あり方, アジアの あり方, 欧米の あり方 
な どの 地域差と 世界平和 や 世界 連邦への 結び、 つ き を 考察す る こと も 一つの 方法で あ ろ 
うし, 新聞 や 雑誌に 見られる 世界の 潮流 を 課題と して 今日 を 整理す るの も 一つの 方法 

であろう o 

第一^ 大戦 か ら 第二^大戦へ か け て の 動向 ほ ど, 教師 と 生徒の 年令 差 を 如実に 物語 
る もの はない a 事実 その 時間 的ギ ャ ッ プが 世界史 形成の 動力な ので, 教室での 年齢差 

の 処理 はき わめて 重要な 技術と なって くる o もっとも, 世界 や 日本 を 動かす その 座に 

いた もので ない 限り 適確 な 回想 は 困難 に 違い な い が, 若い 世代が 生 まれる 前 を n ^の 
声 を 通じて 知りたい という 熱望 は, 放置して おいてよ いもので はない ひ しかし これ も 
教師 の 生活 経験 か ら 講談 風に 詳述され るべき もので はなく, 教師 自身の 反省と 時には 
悔恨と が, 生徒の 現代 認識の 大きな 拠点と なる ものであろう o 現代史 は 歴史で ない と 
して, あるいは 少く とも 半世紀 を 経ない もの は 批判の 対象にならな いものと して, 黙 
殺した の は 白い 手の 歴史家であった ひ 私たち は 二つの 世界と 言い, 冷い 戦争と いって 
も 生活 感情に その ま ま 持ち込んで いない 生徒た ちに, 現代史 こ そ 日常 身辺の 生活 を 分 
析 してた どれる だけ 世界情勢への 連関 を 求め, かつ その 歴史的 背景 を 摘出す る 勇気 を 
持つべき である。 現^ は 知 .情* 意の 意の 世界であって, 知で 厳重な 裏打ち をし, 
情 を ひそかに その 背景と する にもつ と も ふさわしい 場であろう 0 
なぜならば, 現代史に 至って 世界 列強の 代表 違 手ば かりの 顔が 揃い, 世界史に 登場 

して こ なかった 無名の 民族 は 最も 7 令 酷に 埋没の ま ま 見過ご される からで ある。 それ は 

政治 や 経済の 問題 と して 小 民族 ゃ» の 地域が 取 り 上げられる こと はあって も, 現代 
' 史 ばかり は 感傷 も 叙情 も わり 込む すきがない からで ある o かつまた 現代史 ほど 自己の 
立場, 日本の 社会の あり方 を 強く 反省させる もの はない ので, 平和, と 民主主義と 
を 野放しに せず, 最も 明嘹 にし ぼり 上げて ゆ く 大道 を ここで 発見させる ことができ る 
わけで ある。 その 日の 新聞記事が そのまま 教材に なりうる 場で, いたずらに 亡羊の嘆 
きを 発する ことなく, 混迷と 汚濁 を 乗り切る 自信 を, われひと ともに 持ちたい もので 

めな O 


「世界の 歴史 (三訂 版)」 学習 計画 表 


1.  授業 時 数 は, 5 単位で, 35 週 175 時間と 予定 さ 

れ ている が, 実情 は 試験 その他で 175 時間 実施 は 
困難で あるので, 155 時間と して 計画して みた。 

2.  課題 学習の 時間 は 組み入れ てない ので, それ を 

全部 教室で 行う という ことに なれば, 全体で さら 
に 10 時間 ぐらい を 必要と する。 

3.  編 全体の 指導 目標に ついては, 本 教授 資料の 
「歴史と いう 学問の 回顧と 展望」 「各 章 教授法に 

ついての 私見」 および 資料 編の 冒頭に 詳しい ので 
省略した。 それら を 参照され たい。  • 

4.  各 章節に ついては 目 標ぉ よ び 内容 を 簡単に 示 し 
たが, なお 本 教授 資料の 総論 編に 詳しく 述べて あ 


「111: 界の 歴史 c 三訂 版)」 学習 計画 表 


1.  授業 時 数 は, 5 単位で, 35 週 175 時間と 予定 さ 
れ ている が, 実情 は 試験 その他で 175 時 Ri] 実施 は 
困雜 であるので, 155 時間と して 計画して みた。 

2.  課題 学習の 時間 は 組み入れ てない ので, それ を 
全部 教室で 行う という ことに なれば, 全体で さら 
に 10 時間 ぐらい を 必要と する。 

3.  編 全体の 指^ [目標に ついては, 本 教桉资 料の 
「歴史と いう 学問の 回顧と 展望」 「各 5 教校 法に 

ついての 私見」 および 資料 編の 冒頭に 詳 しいので 
^略した。 それら を 参照され たい。 

4.  各 草 節に ついては [3 標ぉ よ び 内容 を简 1(1 に 示 し 
たが, なお 本教 投資 料の 総論 編に^ しく 述べて あ 
るから 参照され たい。 


n 書 

の 描 成 

学 S の 目 HI と 内 S 

時 » 

界 
史 

の/- 
学に 

in つ 

《 

て 

rtti 界史と は 何 か」 「世 

界! 1: の 学習 J    「時代と は 

何 か」 「時代の 動き」 「人 
の 進歩」 rut 界の 平和」 
「人類の 起 「世界の 
民族」 「社会の 変化 j  「政 
治の 推移」 「文化の 発達」 

[* 入〕 Ht 界史 学習の 心 榊え をつ くり, lit 界史へ 
の R9 心 を 呼び 起し, 世界史 学習の 目的に ついて 
考えさせる ズ 本文 学習 後に あらためて 肚 界 史学 
習の 目的 を 考えさせる 方法 をと つても いい,) 世 

ついて。 世界史と 進歩, 現代 平和の 問題。 人 Si の 
起源と 民族。 人間の 社会' 文化 • 政治 発 扱の «tt。 

5 

第 1 章 

文明の 発生 

々明のお 游. サ W の存ホ ん IS の 4f>(t  R 

±  • 人間 • 社会 • 文明の 閱迚, 人 冏 社会の 進化 

と 文明の? 

8 

1 

第 1 節 

オリ ユン ト 
猪 国家 

エジプト, パビ 口  ニァ, タレ タ, フエ 二 キア. 
ヘプ ライ 

4 

第 2 節 

ィ ン ダス 文明 

モ ヘン ジ ョ-ダ n アーリ ァ K の 到来 

1 

編 

第 3 節 

^河 文明 

荧土 股 周 束 周 

: 

古 
代 

第 2 萆 

大帝 国の 成立 

西' 東アジア における 広範な 帝国の^ 亡。 古代 
文明の 西洋文明 • ビザ ンッ 文明 • イスラム 文 
叨 'イン ド 文明 ■ シナ 文明への 発^の 菜 地。 そ 

政治 形 想に まとめられ たか, また, その 世界史 
の 発展に 果たした 役割。 古代の 成熟, 

13 

の 

第 1 節 

西 アジアの 
帝国 

アツ' ン リア 7 ケメ ネス 剡 ペルシア バルテ ィ 

ァ サ サン 彻ぺ ルシア 

3 

世 
界 

第 2 節 

南アジアの 
帝国 

仏 ft とジャ イナ!! t マウル ャ钡 アンドラ $11 

ク-ン ャナ朝 グプタ 朝 グァルダ一 ナ朝 

3 

第 3 節 

诋 アジアの 
帝 頃 

*  k 束 m  南北 ^  m  irt 唐 代 
文化 中国^ 辺の 小 帝^ 

5 

笫 4 節 

ァメ リ カ大 
陸の 古代 王国 

マヤ 文明 インカ帝国 

2 

32 

時 
問 

NI3* 

地中 海 世界 

ギリシア 文叨の 生成と?); 展, その 特笪, ヘレ- 

ズムと s  —  p ッ バ文叨 の 起 源。 

11 

Sffl 節 

ギリシアの 
ボ リス 

ギ リ シァ アテネ スパルタ ギ リ シ 7 文化 

5 

第 2 節 

ヘレニズム 

マケド ユア ヘレニズム 

2 

第 3 節 

ス ト教 

1 

お 

科 9 

の fi? 成 

学習の 目 ffl と 内容 

時 n 

第 

第 1 章 

西欧 封建社会 

民^ 移! W と 古代 世界の 激動。 キリスト の « 会 
活勑 とその: 新しい 秩序 —— 封 迚 制度の W 
K と 中世 ヨーロッパ 文化。 イスラム 'キリスト 
両 世界の 対立と 十字 眾- 中世 秩序の 動 ffl, 近世 
ヨーロッパ 社会への 眙 動- 

14 

2 
Ifiii 

第 1 節 

ゲルマン 民族 

ゲルマン 民族の 移動 プ リタ- ァ フランク 
ドィ ッ 'フランス ラテン 民族 ス ラヴ 民族 

' ノレ マ ノ 氏 &の枝 iW 

第 2 節 

キリスト教 
世界 

2 

ill 

i 

笫 3 節 

两欧 封建制度- 

封 a? 制の 成な. 騎士 is 封迚 王制 

3 

第 4 節 

中世 M 欧の 
経济と 文化 

荘阅 中 tit 都市 ギルド 十宇眾 中世 西ョ— 
a ッ パ 文化 

5 

III 

の 

第 2^ 

西 7* ンァ 社会 
の 発展 

イスラム教の 成立と 発展, 世界 帝国と その 合 
文化, 文化の 伝播' 交流 * トルコ 族の イスラム 

化と その 強 85, イスラム 社会' 文化の 特 ル 
ネ サン ス との 関係から する イスラム 文化の S 

5 

1让 

Wt  l I'll 

, A フ ム" UT 外 

■1 スフ ム BE    tt  ノ" cz*fftis  レ" 

第 2 節 

イスラムお… 
会と その 文化 

イスラム 社会 イスラム 文化 

2 

界 
33 

第 3 章 

南アジア 社 

会の 梦化 

イスラム 世界の 拡大と インドへの 波 抆* ヒン 
ドゥー' イスラム 両 文化の 交 淤 と 対な。 イスラ 
ム統一 帝国 —— ムガル帝国の 成立。 两教比 対立 
のが 化 

時 

第】 節 

ィ ン ドのィ 
ス ラム 社会 

イスラム教の 到来 ムガル帝国 

2 

第 2 節 

ィ ン ドー ィ 
ス ラム 文化 

イスラム 糸 文化 

1 

第 4 章 

東アジア 社 
会の 推移 

官 W (官 人) 国 * の 成立, 中国に おける 中世と 封 
ti! 制 l£f の IH] 蹈。 征服 王»1 と の 対決, 官 
制 W 制 完成への 動き。 それらと 迚 する 文 

,し "iRlffl, 

1 1 

W\% 

中国 官僚 国 
家の 成立 

宋 王朝 契 丹 • 党^ • 女 K 宋代 文化 

3 

第 2 節 

征服 王朝と 
民族 国^ 

征服 王朝 元 明 明 代 文化 内陛と 周辺国 家 

第 3» 

官僚 制 リ/ 制 
国家 

ffl 清 代 文化 

3 

» 科 »の《 成  学習の 目 ffi と 内容 I 時 数 


第 

^  1  P 

近代 精神の 
km 

人 IH] 性の 解放, 人 問と 自然との 発兑 —— ルネサ 
ンス • 宗教改^, 地理 上の 発見。 自然科学の 56 
逮, Fl 由と 独立の 要 *, 欲望の 追求— 経済社会 
の 変動, 戦乱, ffi 民 一揆-中央 IRHfi  • 近代国家 
の 成立と その » 力の 対立 • 拡大, 

3 

第 1 節 

文芸復興 

人 問 主 接 ルネサンス 文学 ルネサンス 笑 術 
ルネサンス 科学 

$|»| 

近 

お 2 節 

中央集権 国家 

農 動 百年 晩 争 近代国家の 発生 

; 

第 3 節 

宗教改^ 

只^迎欲カ ffiK とプ p テス タント カル ヴィ- 
ズム 反 宗教 改 V 宗教 紛争 

第 4 節 

^欧 努力の 
拡大 

新お お ボル ト ガル • ィ スパ -7 のき, W  «i 民 
地 

代 
の 
世 
界 

第 2 萆 

近代 社会の 
成立 

市 R» 力の 台頭 と 絶対 主 » の 成立。 市民 •  3 — 
マン » 力の 仲お と 自由の 主張。 啓お 思想と 市民 
革命, ナボレ オン 晚争 とその 窓 文化の 変 

n, 柽 済の 変^ — 産栾^ 命と その 影 h 本 

主 筏の 成立と 労锄迎 吡 の 生, 社会 主お の 主 
張. 反 ^体制と 自由 主班 ,民族 主 «• 国民 主 SS の 
近代 文化の 発展, 资本主 S の^ 屁と 独占 
の? 6®, 独占企^と 国家との 結びつき-帝国 主 

m. 努力 束 淅 と 世界の 分割 • 世界政^に 基づく 

国 的 対立の 化— 第一 次 世界大 晚。 

60 

釭1 節 

絶対主義 

絶対 打 主 フィリップ 2 世 エリザベス 女王 
ルイ 14世 フレデリック 大王 ョ ーゼフ 2 世 
ぺ— トル 大帝 

4 

時 
間 

第 2 節 

市民革命 

ィ ギリ ス苹命 ァ メリ 力の &立 フラ ンス 革命 
革命の 進行 ナボレ オン 1 世 17〜18 世紀の 文化 

筇 3 節 

き鮮命 

イギリスの 産浆 m 桀转 産 菜^ 命の 彩 » 

£f 本 主 S の究眩 

4 

節 

闻 民主 兹 

ウィーン 体制 0 由 主 8 の 発 屁 七月 本命 二 
月^ 命 ナボレ オン 3 世 イタリアの 統一 ド 
イツの ft—  e' ンァの 動向 南北 晩 争 近代 科 
学 近代 文芸 近代 思 湖 

12 

帝闰 主義 

西欧 » 力の アジア 進出 中国への 圧力 中国の 
柚ぽ地 化 探検と 征服 20 址紀 初めの [SRjtfiW 
! ft— 次 Ut 界大晩 

10 

第 3 窣 

アジ 7 の 変 質 

アジアの hftn; 他 化と ョ 一口 ツバ 文明の 伝^- -ffi 

(Tf f r— ょミ レ ソ: 1 し •    ,一,  M.^fJ  shva.     vr  iiniDCtai 

trw 政治, 帝国 主 接との 哦 i — 革命と 独立へ 
の 動き。 

第 1 節 

tri® 主義の 
mm 

中 k の 官僚と 茈人 太平 天国 戊戌の 政変 辛 
亥 ¥ 命 

3 

»2 節 

^民 地の 独 
, ■ 小 に ■ 

ィ ン ドの国 R 会 » 中国の 五 • 四迎動 中 国大 
苹命 トルコ 'イラン 

教 

*4  ® 

の 構成 

学習の 目 ffi と 内容 

曰お 

第 
4 

»1 寒 

全体主義と 
民主主義 

ヴユル サイ ュ 体制の 矛 屈, 国際 迚 盟 の^ 休 • 世 
界大 恐慌一 收牴国 ■ 後^国の 国家 主 旌 • 民 K 主 
36 の 台頭 —— 仝 休 主義の 台頭と ヴ: ^ル サイ ュ体 

iMM 化。 全体 主お 国家の 二次 世界 大映 

と 民主 主 K の |» 利, 

編 

Mi 1 Du 

'ノ エノ レサ "1 ュ 

体制の 崩 SR 

\>Hfh'iii  Hit       ロン/  ^UB       /  itfJJ^jK       /  ^    'J  71 

の イギリス' フランスの 困 » イタリア' 
ドィ ッの苦 «t 

: 

現 

お 2 節 

全体主義と 
lit 界晚予 

枢軸 闳 家の 結成 口木の 大逄進 IH  Sfl 二次 11  上界 
大哝 太平洋 牴^ 枢軸国の 崩琅 

代 

ぼ界の 

動向 

3Je-  • ソ の (BW  !•  fiisra の WtV  —つのれ ト Sm^f ゥ 
と ft 地域の 新しい 動き, 

現代 文化と その IKffl, 

111 

の 
lit 

第 1 節 

二つの 世界 

国際 as 合 牠 後の アメリカ 戦後の' ノ迚 戰後 

レン sj  —  口      '*|1iJ1iD     'IH pC^Jt^t  /  ✓  /      'Kit"-'  P 

m 晚 後の インド 晩 後の アジア 問 si 哝 後の 
s 本 世界の 現状と 日本 

: 

第 2 節 

現代の 文化 

科学と 技術 ffl 、想と 芸術 原子力 問 EH 

3 

界 

II  ¥ 

「世界史と は 何 か」 「世 
界史の 学習」 「時代と は 
何 か」 「時代の 動き」 「人 
類の 進歩」 「世界の 平和」 

「人類の 起源」 「世界の 
民族」 「社会の 変化」 「政 
治の 推移」 「文化の 発達」 


第 1 章 文明の 発生 


〔導入〕 世界史 学習の 心構え をつ くり, 世界史へ 
の 関心 を 呼び 起し, 世界史 学習の 目的に ついて 
考えさせる。 (本文 学習 後に あらためて 世界史 学 
習の 目的 を 考えさせる 方法 をと つても いい。) 世 
界史の 意義。 学習の 目 的。 時代 一 その 区分な どに 
ついて。 世界史と 進歩。 現代 平和の 問題。 人類の 
起源と 民族。 人間の 社会 '文化' 政治 発展の 概観, 


文明の 起源, 文明の 発生と 発展の 条件^ ^ 風 
土 • 人間 • 社会 • 文明の 関連。 人間社会の 進化 
と 文明の 発展。 


第 1 節 オリエント 


ェジプ ト 
へ フライ 


ビ ロニ ァ, ク レタ, フエ 二 キア • 


第 2 節 
第 3 即 


ィ ン ダス 文明 
黄河 文明 


モ ヘン ジョ- ダロ アーリ ァ 族の 到来 


黄土 殷周東 周 


第 2 章 大帝 国の 成立 


西' 東アジア における 広範な 帝国の 興亡。 古代 
文明の 西洋文明 • ビザ ンッ 文明 'イスラム 文 

明' イン ド 文明 • シナ 文明への 発展の 素地。 そ 
れらの 帝国が なにゆえに, そして, どのような 
政治 形態に まとめられ たか。 また, その 世界史 
の 発展に 果たした 役割。 古代の 成熟。 


第 1 節 西 アジアの 


アッシリア ァケメ ネス 朝 ペルシア パル ティ 
ァ ササン 朝 ペルシア 


第 2 節 南アジアの 


仏教と ジャ イナ 教 マウル ャ朝 アンドラ 朝 
クシ ャナ朝 グプタ 朝 ヴァル ダ一ナ 朝 


第 3 即 


東アジアの 
帝国 


秦 漢 東漢 魏 *晉* 南北朝 隋唐唐 代 

文化 中国 周辺の 小 帝国 


A-A-     a  A-A- 

第 4 即 


ァメ リカ 大 
陸の 古代 王国 


マヤ 文明 インカ帝国 


第 3 章 

第 1 節 


地中海 世界 


ギリシア 文明の 生成と 発展。 その 特質。 ヘレ 
ズム とョ一 口 ッパ 文明の 起源。 


ギ リ シァの 
ボ リ ス 


ギリシア アテネ スパルタ ギリシア 文化 


第 2 節 ヘレニズム 


マケドニア ヘレニズム 


教科書の 構成 


学習の 目標と 内容 


時 数 


について 

世界史の 学習 


第 3 節 ローマ 


共和制 口— マ ローマ帝国 ローマ 文化 キリ 
ス ト教 


4 


教 

科 書 

の 構成 

| 学習の 目標と 内容 

時 数 

^  1 早 

曲欧 封建社会 

民族 移動と 古代 世界の 激動。 キリス ト教の 教会 

活動と その 意義。 新しい 秩序 —— 封建制度の 特 

皙  >        ョ  一口  、リ y<^r^V ィ ヌラ丄 スト 
^ し " uL         — 、ン, ヽ つ し。 つ ハノム ,~1 ソ/ 

1 A 

第 

両 世界の 対立と 十字軍— 中世 秩序の 動揺。 近世 

ョ 一口 ッパ 社会への 胎動。 

2 

第 1 節 

>T7 丄 お 1」 

ゲ ノレ マ 、ノ ほ 1& 

ノ    ノ レズ z  JAj^X 

ゲ ノレ マ 、ノ ほ 佐 CPs  ^                       々一マ マ巧、 ノ々 

ノ  / レ <  ✓  X\i  UK      ^  gj]       ノ リグ  一 /        ノ   7  ノノ 

ドイツ' フランス ラテン 民族 ス ラヴ 民族 

4 

編 

ノルマン 民族の 移動 

第 2 節 

キリス ト教 

世界 

カトリック教会 修道院 法王権の 優勢 

2 

中 

第 3 節 

西欧 封建制度 

封建 制の 成立 騎士道 封建 王制 

3 

第 4 節 

中世 西欧の 

経済 と 文化 

荘園 中世 都市 ギルド 十字軍 中世 西ョー 
口 ッ パ 文化 

5 

世 

第^ 早 

西 ァシァ 社会 

イス フム教 の 成立と 発展。 世界 帝国と その rafi 合 

の 発展 

文化。 文化の 伝播. 交流。 トルコ 族の イスラム 

5 

の 

ィ卜>^"の%成 イスラム:^ • サイ 卜の ft 晳 ノレ 

1 し こ >'-> '! jK^mo つ/ s  ノ"^ ILL^S,       人 | し レ ソ 1T1 '一 

ネ サン ス との 関係から する イスラム 文化の 意 
義。 

世 

第 1 即 

ノ—    ―     ,    1 1 1  rn 

ィ スフ ム 世界 

イス フム教 サフ セン 帝国 トルコ 族 

3 

第 2 即 

ノー—     ,  t 

イス フム社 
^ y その サイ 卜 

~J^s しし V ソ 入 | し 

イスラム 社会 イスラム 文化 

2 

界 

第 3 章 

南アジア 社 

イスラム 世界の 拡大と インドへの 波紋。 ヒン 

/T\  Tfn  ノし 

会の 変化 

ト * ゥ— . a  -K=j  k  MXr ィ k のホ? iff  y  ir+TV イスラ 

r  y          つ z ヽノ ム |wj 人 i し レソ _j しジ | しこ 》、j 丄乙 o     i  z、  ノ 

3 

リ \j 

ム 統一 帝国 —— ムガル帝国の 成立。 両 教徒 対立 

—-. 、A'  /| 

の 激化。 

时 

第 1 即 

ィ ン ドのィ 
ス ラム 社会 j 

イスラム教の 到来 ムガル帝国 

• ,         ズ      一、 T>N  _  ノ        リ /|、           '  ,   z 一,         1  \4   t  1 

9 

間 

第 2 節 

ィ ン ドー ィ 
ス ラム 文化 

イスラム 系 文化 

1 

第 4 章 

東アジア 社 

官僚 (官 人) 国家の 成立。 中国に おける 中世と 封 

津^ の fiF 服不 翻; >辨 ^族の 対决 官^ P 
制 専制 国家 完成への 動き。 それらと 関連す る 文 

化の 展開。 

1 1 

第 1 節 

中国 官僚 国 
家の 成立 

宋乇朝 契 丹 • 党 巧 ,女 真 宋代 文化 

Q 
0 

第 2 節 

征服 王朝と 
民族 国家 

征服 王朝 元 明 明 代 文化 内陸と 周辺国 家 

%J 

第 3 節 

官僚 制 専制 
国家 

清 清 代 文化  | 

3 

教科書の 構成 


学習の 目標と 内容 


時 数 


第 1 章 近代 精神の 
発展 

人間性の 解放, 人間と 自然との 発見 —— ルネサ 

ンス' 宗教改革, 地理 上の 発見。 自然科学の 発 

達。 自由と 独立の 要求。 欲望の 追求— 経済社会 
の变き &' ぽ 1 喜 [?■  一; 由 本 律"^  . ;斤 枠围宠 

の 成立と その 勢力の 対立 • 拡大。 

16 

第 1 節 文芸復興 

人間 主義 ル ネ サン ス 文学 ル ネ サン ス 美術 
ルネサンス 科学 

5 

第 2 節 中央集権 国家 

農民 暴動 百年 戦争 近代国家の 発生 

4 

^  0  gff ま 翁 W 苗 

6 即 ポ奴以 平 

■Sv^^W"^! 與 ほ  >  フ°  ri チス々 、ノト 力 ノレ ヴ ノエ 

^yfnjj^^jj    j^zJ-\i こ ノぃノ ハノノ  r     ノ j/ レ' ノっー 

ズム 反宗教改革 宗教 紛争 

4 

第 4 節 西欧 勢力の 
拡大 

新 航路 ボル ト ガル • ィ スパ ニァの 争覇 植民 

地 . 

3 

第 2 章 近代 社会の 
成立 

1 市民 勢力. の 台頭と 絶対主義の 成立。 市民 • ョ - 
マン 勢力の 伸長と 自由の 主張。 啓蒙思想と 市民 
革命。 ナボレ オン 戦争と その 意義。 文化の 変 
質。 経済の 変革 一一 産業革命 とその 影響— 資本 
主義の 成立と 労働運動の 発生, 社会主義の 主 
張。 反動 体制と 自由主義 ,民族主義 • 国民 主義の 
展開。 近代 文化の 発展。 資本主義の 発展と 独占 
の 発達, 独占企業と 国家との 結びつき— 帝国 主 
義。 勢力 東漸と 世界の 分割。 世界政策に 基づく 

国際的 対^: の 激化— 第一次世界大戦。 

f ~ *  r ノ J、  u リノ、  J  -ii^.  ノ  VIK  1  t-j       *p\  y       iy\  lr.. つ 1 ノ  、- o 

37 

第 1 節 絶対主義 

絶対 君主 フィリップ 2 世 エリ ザべ ス 女王 

クし ズ 1 AW- マ 1 ノネ、 n      77 山 ~r  — r  1/  -7  9 搭 

ノレ つ 丄^ :JP7      ノレ フリ ッグ y\ 十      -  — セノ" iTT 

ぺ— トル 大帝 

A 
4 

お Z  g 卩 巾^;"^ ロ卩 

つ 干 リハ丰 bp      /^メリ 力 </J3™AL     ノフ ノス 平 p 卩 

革命の 進行 ナボレ オン 1 世 17〜18 世紀の 文化 

7 

第 3 節 産業革命 

イギリスの 産業 産業革命 産業革命の 影響 
資本主義の 発展 

4 

第 4 節 国民 主義 

ウィーン 体制 自由主義の 発展 七月 革命 二 
月 革命 ナボレ オン 3 世 イタリアの 統一 ド 

イツの 統一 p シァの 動向 南北戦争 近代 科 
学 近代 や 芸 ;斤 代??、 潮 

12 

第 5 節 帝国主義 

西欧 勢力の アジア 進出 中国への 圧力 中国の 
植民地 化 探検と 征服 20 世紀 初めの 国際情勢 

第一次世界大戦 

10 

第 3 章 アジアの 変質 1 

アジアの 植民地 化と ョ— 口 ッパ 文明の 伝播— 経 
済 社会の 変化。 アジア 民族の 覚醒— 専制政治, 
官僚政治, 帝国主義との 戦い —— 革命と 独立へ 
の 動き。 

7 

第 1 節 官僚主義の 
崩壊 

中国の 官僚と 商人 太平 天国 戊戌の 政変 辛 
亥 革命 

3 

第 2 節 植民地の 独 
立 運動 

インドの 国民 会議 中国の 五 • 四 運動 中 国大 
革命 トルコ. イラン 

4 

教科書の 構成 

学習の 目標と 内容 

時 数 

第 

4 

編 

第 1 章 全体 生義と 
民主主義 

ヴュル サイ ュ 体制の 矛盾。 国際 連盟の 弱体。 世 

界大 恐慌— 敗戦国 • 後進国の 国家主義 • 民族 主 
義の 台頭 一一 全体主義の 台頭と ヴ エル サイ ュ体 
制の 崩壊。 ロシア 革命, ソ連の 発展と 国際関係の 

t_  W   '    r  rr     w  t                      a         mm         v         、ん m  •       ■    -                t      i         *_.                #  ^  *  ,          .    k  #       lit      m       |       、、尸 I、 

複雑 化。 全体主義 国家の 侵略— 第二次世界大戦 
と 民主主義の 勝利 e 

15 

镇 1 節 ヴヱ ノレ サイ ュ 

yy7 丄 ぉ1」         ノ丄, - ノ  i 

体制の 崩壊 

国際 連盟 ロシア 革命 ソ連の 成長 アメリカ 
の 発展 イギリス 'フランスの 困難 イタリア' 
ドィ ッの 苦難 

7 

現 
代 
の 

世 

界 

25 

時 
間 

、 ノ 

第 2 節 全体主義と 
世界 戦争 

枢軸国 家の 結成 日本の 大陸 進出 第二次 世界 
大戦 太平洋戦争 枢軸国の 崩壊 

8 

第 2 章 現代 世界の 
動向 

米. ソの 優越と 両国の 対立。 二つの 世界の 成立 
と 各地 域の 新しい 動き。 
現代 文化と その 課題。 

10 

第 1 節 二つの 世界 

国際連合 戦後の アメリカ 戦後の ソ連 戦後 
の ヨーロッパ 問題 戦後の 西 アジア 戦後の 中 

国 戦後の インド 戦後の アジア 問題 戦後の 
日本 世界の 現状と 日本 

7 

第 2 節 現代の 文化 

科学と 技術 思想と 芸術 原子力 問題 

3 

I 資料 編 


人類の 出現と 原始時代 


人類史 をな がい 一つの 連続と して, その 大部分 を 占める 原始時代 すなわち 入 顎の 発 
生 を 含めて, その 社会が 文献の 時代に 接続す るまでの 経過 は, 世界史の 中で きわめて 

特異な 扱い を 受けて いる o 文明の 発生, 国家の 成立に 先行す る 各地 域の 先史 時代が 考 

古学 者の 手で 進め ら れ ている の に 対し, そ の 社会 や 生活に ついては 理論的に 人類学者 

かい り 

や 民俗学 者の 手で 解明 されつつ あって, 普遍性 と 特殊性 と が 乖離 した まま 容易に 近づ 

こうと しない o そもそも その 研究の 方法 やその 成杲の 受け取られ 方, 学問と しての 伝 

銃 や そ の 影響が 歴史学 と 異なり, もちろ ん 世界史の 一 課題で あつ て も , 今日 世界史の 体 
茶の 中に 融合した もので はない ひ 本 書が これ を 序論に 置いた の も そのためで, な 
ま じ 異質の もの を 一つの 系列の 中へ お さめて, 等質 的な 知識の 涛 型へ はめ込む 安易 さ 

を 避け たかった ので ある o 

19 世紀に モルガンが 北ァ メ リ 力 東海岸の ィ 0 コ ィ 族の 社会 組織の 研究から 始めて, 

原始 社会の 体制 を 論じ, 従来 土中に 残された 石器 • 土器 • 住居 址な どの 先史 時代の 遣 
#j の 研究 か ら ではう かがい えな かつ た 社会 関係の 究明に 乗 り 出し, モルガンと 平行 し 
て パッハ ォー フェンの 「母権 論 _|,  メインの 「古代 法」, クーランジュ の 「古代 都市」 

などが 発表され, タイラーの 研究 も 進んで, 1877 年 モルガン は その 古典的 名著 「古代 
社会」 を 大成した。 これ は, 人間の 集団生活が, 舌 隨 から 集団 婚を 経て 1 夫 1 婦 制へ, 
母系 氏族から 父系 氏族へ, 氏族 的 原始 共有 制から 個人的 私有 制へ, 血縁 集団から 地縁 
集団へ とた どつ た 変化が, あら ゆ る 民族に 共 速した 進化の 形式で あ る こと を 説いた も 
のであった o ところ がその 後 ウェスターマーク' シュノ レツ • リウ、、 ァ一ズ 'クロー パ 
一 'ブラウンら の 諸家の 研究で, モルガ ンが 進化と して 時間 的 先 後関 係に とらえた 事 
実が, 本来 相 隔離 した 異質の 環境に よる ものと され, 1920 年に は n  — ウイの 「原始 社 
会」, 年に はシュ ミットと コ ッ パースの 「諸 民族と 諸 文化」 な どが 著わされ, 氏族 

より 家族が 先行す る こと, 私有 権が なんらかの 形で 遍在した こと, 正確な 母権 制の 社 
会の なかった ことな どが 明暸 となり, 1948 年 ローウィ はさら に 「社会 組織」, 49 年 マー 

ドック は 「社会 構造 J によって, 人間の 社会が その 本能 または 遣 伝 因子と は 別に, し 

—— 54 一 


人類の 出現と 原始時代 


たがって 種の 進化と は 関係な く 変化し 進行し う る ものとの 考えが 普通と なった。 

以上に g 開され た 理論 は 各地の 未開 民族の 社会から 抽象 されて, 問題 を 家族の 搆 
成, 結婚の 規制, 集団の 支配, 聘物ゃ 儀礼の 諸 形式に 集中して, これ を 歴史的に 先 後 

の II 係に 置き換える こと はいつ もさし 控えられ ている ひ それ にもかかわらず, この間 

に 化石 人類 • 旧 石器 • 遣 物 遣 跡の 発見が 相次ぎ, 物質 文化財の 時間 的 前後 関係 やその 
絶対 年代の 測定が 進み, 各地 域の 特殊性が 認め られ てォー リ-ャ ック. マグダレンな 
どの 文化の 系統, 細 石器 ゃ彩陶 • 灰陶 • 黒陶で 代表され る 東アジアの 原始 文化の 広が 
りな どが, 理論的な 普遍性と どう 結びつく か, 歴史と しての 問題 を 今後に 残して いる 

のでめ O  o 

古 生 人類 

19 世紀末 か ら 20 世紀 初 め へ か け て 化石 入 類の 発見が 続いて 報告 さ れ, 人類学 に 新 し 
い 資料 を 提供す ると と も に, 人類の 発生に ついて 種々 の 噫 説が 発表され るよう になつ 
た o これ はまた 地質学 • 古生物学 などの 進歩に 伴な つて, しだいに 知識の 正確さ を 加 
えたが, まだ 今日の 人種 • 民族な どに ついて 数十 万年に わたる 系譜 を 作る に は 至つ て 
いない。 1 ^書に あげられた 人類 発生の 系統 図 も 全く 仮想に よる ものである。 今日 地. 
質 学から 一^ fi されて いる 地質時代と は, 1. 始生代 2. 原生 代 3. 古生代 4. 中生. 
代 5. 新生代 6. 現代で ある a 生命の 起原 はこれ を歴 づけうる としても, 人類 は- 

新生代の 後半に さかのぼり う るに すぎない o 


-第 3 紀一 


新生代 一 


—第 4 紀―匚 

古 生 入 類 は 第 4 紀の 洪積世から 現われた とされる。 それ は 化石の 含まれる 岩石の 罾位 
かち 推定 された もので, 最も 古い も の で 40~50 万年 を さかのぼる もの はない a 従来 公 
表された も のの 主な も の を あげてお こう。 

直立猿人 (ピテ カント ロプス— エレクト ス) ピテ カント ロプス は 猿人, エレクト ス 
は 直立の 意で 学名 となって いる。 1892—  4 年 オラン ダの 軍医 デ ュ ボアが ジャワ 島の ソ 

口 の 中流 ト リュールと サン ギラ ンで 発見した 頭蓋 骨片. 臼歯. 大腿骨な どから, 人 
類 的 形態と 猿 類 的 形態 を 併有した ものと して 有名に なった。 すなわち 臼歯の 特徴に 人 
類の, 下顎 骨に おとがい のない ことに 猿 類の 形 を 認め, 大腿骨から 直立 歩行した こと 
を 推定した もので, ジャワで は, なお スラ バヤ 附近から もより 古 形の ものが 出土して 


世世 世世 世世 世 

新 新 新 新 新 新 

暁 始漸中 鮮更現 


11 世世 

期 期 積 積 

前 後 洪沖 


J [資料 編 


お り, いずれも 洪積世の 初期から 中期に かけての 生息が 信ぜられ るに 至つ た a 

北京 入 類 (シナ ント n プ ス-ぺ キネ ン シス) 1926〜37 年 北京 西南 42 籽の周 口 店の 石 
灰 岩 か ら スウェーデンの ズ ダンス キー が 発見 し, カナ ダのブ ラックに よつ て 命名 さ れ 
た o この 化石 は 老若男女 43 体 分の 頭骨と 下顎 骨と 石器' 骨 器 '獸骨 などが 伴 出し, 頭 
部 以外の 骨 は 発見され なかった。 彼らが 洞穴に 居住し, 獣類 を 捕殺し, 火 をたい て 焼 
いて 食料と した ことが 想像され, あるいは 頭部と 四肢と は 別'. こ 埋葬した か, 食 人の 風 
があった かな どと も 言われて いるが, 人類学者 は 直立猿人よ り 進化の 程度の 進んだ も 
のとみ ている 。北京の 《 ッ タフ-ラー 病院に 所蔵した この 化石が 第 2  、次 大戦 中 紛失 
し, その ゆ く えの 搮 求が 騒がれた こ と は 耳新しい 事件で ある o 

ノヽ ィ デノ レベル グ \  (ホ モ -ノ、 ィ デル ベル ゲ ン シス) 1907 年 ドイツの ショー テ ンザ ッ 
々が ハイ デ ル ベ /レ グ 東南 10 秆 の マウ エル 村 で 地下 24 米 の 層から 下顎 骨 を 発見, 今日で 
は 前 2 者と ほぼ 同時代の ものと される が, 進化の 程度 はむ しろ ネアンデルタール 入に 

近い も の と 考えられ ている。 

ピル ト ダ ゥ ン人 1908 年 イギリスの サ セックス 州 ピ ノレ ト ダ ゥ ン 村で チ ヤー ルス = F 
ゥ ソンが 発見した ものと 報告され, 発見 当初から 疑義 を 持 たれた が, 前 3 者と 同時代 
—の 1 支 系と 考えられ てきた ひ ところが 近年, 遣 物の 科学的 研究が 進み, たとえば 炭素 

の 放射能の 減衰率から 年代 を 割 り 出す 方法が 行われて きたと 同様, 弗素の 蓄積 量から 
年代 測定が 試み ら れ, 1950 年ォ ク スフ ォ— ド、 大学の クラ一 クら による ビルト ダウ ン入 
化石の 再調査の 結果, こ の 化石 は チン パ ンジ一 の 骨な ど を も つ て 巧みに 縫合され た 偽 
物で ある ことが 看破され た。 史斜ゃ 遣 物が 美術品と して? W 価値 を 持つ 場合, 往々 偽 
造の 行われる こと はあった が, かかる 例 は 稀 有と して 学界に 衝動 を 与えた。 

ネアン デルタ一 ノレ 人 (ホ モー ネ アン デルタ一 レン シス) 1856 年 F イツの ジ ュ ッ セル 
ト、、 ノ レフ 付近の 溪谷, ネアン デルタ— ノレの 洞穴から 発見され た 化石 を, 58 年 シャフ ハウ 
ゼ ソ が 学界に 紹介 し, 64 年 キングに よって 命名され た。 これ は 洪積世 中期 か ら 後期 に か 
け て 生息 した もので, そ の 後 ドイツの シュ タイン ノ、 ィム • ェ 一リン グ ス ドル フ, イタ 
リアの チ ノレ ケォ 山. サッコ パス トレ, ユーゴ一 スラヴ ィァの クラ ピナ, ノ 、。レス チナ の 
ザ リリー. カルメル山, フランスの ラー キナ. ラ— シャぺ 口  一サン, マラ ノレ ノード、, ベ 
ルギ— のス ピー. ラー ゾーレ、、, ト, チェコの シプカ な どに 同形の も のが ま 々と 発見 さ 
れ, 人類学者 はこれ を いくつかの 群れに 分けて 時代 差 を 追求して いる。 なお 南 ァフリ 
力の ローデ シァで 発見され た ローデ シァ 人, ジャワ 島の ソロ で 発見され た ホモ —ソロ 
ユ ン シス も 進化 程度が ネ ァ ン デル タ  一 ノレ 入に 類似 した ものと されて いる。 

以上の 古 生 入 類の うち, ピテ カント 口 プス • シ ナン ト 口 プス • ハイデルベルク 人な 
ど を 先入と 一括し, ネアンデルタール 系 を 旧人と 一括し, 今日の 現生 入 類—— もちろ 


56 


人類の 出現と 原始時代 

ん これに もす でに ィ匕 石した 遣 骨 を 持つ もの も ある —— を 新人と 一括す ると, 先人から 
旧人へ 至る 時間 的 経過 は きわめて ながく 数十 万年 を 要 しても, そ の 進化 は 著 し く は 進 
まなかつ たが, 旧人から 新入に 至る 数万 年間の 進化 は 著しく, やがて 各種の 文化 を 創 

造す る に 至つ たので ある o これら の 古 生 人類が 今日 の 人類へ 結びつ く 系譜 は 十分 解明 

されて いない 力 ピテ カント ロプス 力、 ら ホモ-ソロ ェン シス, そして オーストラリア 
や 南洋の 現生 入 類へ 進化した とする のが やや 信ぜられる のみで, シ ナン ト ロプスが ァ 

ジァ系 諸 入 種へ, ネアンデルタール 人の 一部が ョ— 口 ツバの 諸人 種へ, ローデシア 入 
が アフリカ の 諸 入 種へ 結び、 つけられ るの は 安易に すぎ, むしろ 多く の 古 生 人類 は 絶滅 
してし まった も のと 考え られ ている。 

現生 人類 

現在の 人類 を 含め, その 基礎と なった もの を 学名で ホモ-ザ ピ エンス と 呼び, 現生 入 
類と して 一括して いる Q その 初期の もの は 洪積世の 後期に 現われ, 遣 骨 はィ匕 石と なつ 
ている ので, ホモ-サピエンス- フォン リス と 呼ばれ, 人種 差 も 現わ れ 文化の 相違 を た 

どれる ようになつ てきた。 化石 現生 人類 は 旧石器時代 後期 か ら 中石器時代に わたり, 

ヨーロッパ. アフリカ • アジア. ォ一ス トラ リア の 各地から 発見 さ れ てい る ひョ一 口 
ッパ では クロマニョン 人が 普遍 & 勺で, フランスの ォーリ ニヤ ク' ラマ デ レーヌ • ソリ 
ュ トレな ど, イギリスの バウ、、 ィ ランド、, ベルギーの ェン ジス, ドイツの ォー ベル カツ 

セル, チェコの ラウチ, イタリーの グリマルディな どから 発見され, 頭蓋の 中等 長 群 
で, 瑛 在の ョ  一口 ツバ. ァフ リ 力 北部の 諸 民族の 祖型と されて いる。 また ブ リ ユン 人と 

呼ばれる もの 力 S ,チェコの ブリュン, ドイツの ォー ベル カッセル, フランスの コム カぺ 

ュ な どで 発見 さ れ, 頭蓋の 極 長 群で, グ リマ ルディ 人と 呼ばれる もの も これに 属す る 。 
グ リ マル デ ィ人は 黒人 白 勺 形質が ある と されて い る 力 s, フランスの ソ リュト レゃ ベル ギ 
一の フ ノレ フー ズ から は 短 頭 群が 発見され ている。 これらの 発見 地に ちなん で, ォ―リ 
-ャ シャン • ソリュ トレ アン. マ グダ レニ アンな どの 文化 様式が 地方 差 を 見せて 区別 
され, 先史 時代の 解明が ヨーロッパ, ことに フランスに 先 べん をつ けられた こと を 思 

わせる o なお アフリカ でも クロ マニョ ン 人に 近い 化石 人類が アル ゼリ —地方から 発見 

されて いるが, モロッコ, サノ、 ラ のァス ラー, ヴィク ト リア i 胡 東南の オノ レド ワイな ど 

から は 黒人 的 形質 を 示した ものが 発見され た。 また シ ナン ト ロプスの 出土した 周 口 店 
の 同じ 山 項に 近い, いわゆる 上 洞から も 頊生入 類の 化石が 出て, クロマニョンとの 類 
似 や エス キモ— との 類似が 指摘され, ジ ャヮ島 や オース トラ リアから も 現 オース トラ 

リ ァ 土人に つながる 化石 人類が 発見され た。 


57 


I 資料 編 


さて このよ うな 人類学 的な 研究と は 別に, 先史 時代 を 人間の 持つ 技術から 石器 時 

代 • 青銅器時代 • 鉄器時代に 3 区分して 考古学 的な 基準 を 与え る ことが, 1836 年デソ 
マークの トム ゼン 以来 行われ, 1865 年 イギリスの ラボック によって, 石器に 磨 製の 有 
無 を もとと して 旧石器時代と 新石器時代 とに 分けられ, さらに 20 世 糸 己に はいって から 
その 間に 中石器時代 を 置く よ う になった。 先史 時代 を このよ う に 区分す る こ と は 最も 
普遍的と はな つ たが, 人類学 • 社^  • 民族学の 発達に 伴な う 研究の 成果 を こ の 区分 
で カバ— する ことができず, 今や その 啓蒙 的 役割 を 終った かの よ うな 観が ある。 北京 
人類に 石器 も 伴 出し, もちろん これ を さかのぼる, より 古 型の 石器の 存在 も 考えられ, 
下って 今日な お 石器 使用 の 民族が あるので, 旧石器時代 といっても 先人' 旧 入' 新人 
の 人類 進化の な がい 期間に わたって おり, 広く 世界の 各地 域 を 共通した 編 年 は 成立 し 
ていない。 先史 時代 研究の 最も 進んだ フランスで, フランス を 中心と した シェ ーュ期 
• ァ シ ユー ノレ 期 • ムス チェ 期 • ォ 一リニ ャッ ク期 • ソ リュート 期. マドレーヌ (マグ 

ダレ-アン) 期と 6 区分され るの も, すでに 過去の 一 試案と なりつつ あるひ また ァフ 
リカの 旧石器時代 として 代表的 遣 跡の ある カプサ (現 名 ガフサ) にち なんで 力 プサ期 

と 呼ぶ 一時期 を 設定す る こと も ある 0 教科書 は そのう ち 代表的な ォ一 リニ ャック • マ 

グダ レニ アン. 力 プサを あげる に と どめた。 フランスの 地名に よ る 先の 6 区分のう ち 
前 3 期 は 原生 人類に よる もの, ムス チェ 文化が ネアンデルタール 人の もの, 後 3 期 は 
現生 入 類に よる ものと される が, ョ一 ロッ パ 以外の 地域の もの を これら と 同じ 特徴で 
とらえる こと は 困難の よ う である 0 

人類 生活の 面から 言えば, 初め 果実 や 球拫の 採集, 小 動物の 捕食な どき わめて 低い 
生産力で, 衣服 や 装飾品 も 持たなかった 初期の 原生 人類から, 狩雜を 主と し 大形の 動 
物 を 捕食し, 集団の 群 をな す 人員 も增 加し, 洞穴 や^^に 生活して, 火の 使用 も 盛ん 
となり, 埋葬が 行われて 宗教 的 生活 も 起る ようになった。 これが 現生 人類と なると ォ 
—リ ニヤ ック. マ グダ レニ アン • 力 プサな ど, 弓矢 • 投槍 • 投石 器な どが 作られ, 偶 

像 や 護符 や 壁画が 現われ, その 使用す る 旧 石器 も 刃 を 持った ものが 多くな り, 生活 内 
容も 豊富に なって, やがて 中石器時代 とみるべき 特殊な 形態が 諸方に 発生す るに 至つ 
た。 すでに 氷河期 も 終り, 地域に よ つ て 骨 角 器 • 細 石器 •  土器が 起 り, 貝塚 も みられ, 
漁撈 や 若干の 植物 栽培が 狩狨と 平行して 生産 手段と な り, 舟 も あやつ るよう になつ 

た o. ただ, シベリア や モン ゴ リアに おびただしく 発見され る 細 石器 は 中石器時代の も 

ので はな く  , よ り 時代の 下る ものと 考えられ ている。 かつまた この 時代に 農耕 • 牧畜 
な どの 起原と も みられる 生活が, ォ リエ ン トゃィ ラン あた り に 発生した も の と 考え ら 

れ ている o 

なお 旧石器時代の 洞窟 絵画に ついては, 今までに 発見され たもの は 南 フランス • 北 


 58 —— 


人類の 出現と 原始時代 

スペインに 集中して おり, 約 70 か 所, ォー リニ ャック 期から マ グダ レニ アン 期に わた 
る ものと 推定され, 有名な 北ス ペイ ンの アルタ ミ ラ 洞窟 や 南 フランスの ド、 ノレ ドー 二 ュ 

の フォン - ド 、- ゴーム 洞窟な どで 代表され る o アルタ ミ ラの もの は 狐 を 追った 職人が 洞 

窟を 発見し, 領主の サゥト オラ 子爵が 考古学 上の 調査に 従い, その 幼女が 蠟燭の 灯で 

壁画 を 発見した という。 1879 年の ことで 当初 は 後世の 偽作と された が, 他の 洞窟 画が 
発見 される に 及んで 疑問 も 解消 した。 初 め 数万 年 は 前 の ものと は 信ぜられなかった ほ 
ど その 製^ はす ぐれて おり, 人間 最古の 芸術と して 驚嘆され る o 各所の 遣 跡 を 総合す 
ると, 単 彩 または 多彩の 彩色画と 線 刻の 刻 画と が あり, 洞窟から 塗 彩の 顔料 や 刻 線の 
尖 頭 石器 や 照明 用の 石製ラ ン プな ども 発見され ている。 絵画の 対象 は 馴鹿 '野馬 • 野 
牛. マンモス. 羚羊な どの 動物で 人物 はな く  , 洞窟の 奥深く の 壁面 や 天井に 画かれて 
おり, 観覧に 供したり 感興に 乗じて 画かれた ので はなく, 咒術 的な 意図 を 持って いた 
ことが 明らかで ある。 おそらく 洞窟の 聖 所に 野獣の 捕獲 を 祈って 画かれた もので, 矢 

かんせい 

や 槍の ささつ た 獣 や, 陥穽 を 象徴す る もの や, 呪術 師と 思われる 半 人 半 獣の 像が 多い こ 
と , 同一の 場所に 二重 三重に 違つ た 獣が 画かれた 跡の ある ことな どから 察する ことが 
できる。 また 東 スペインに は カプサ 期の ものと 思われる やや 後代の 洞窟 画が あり, こ 
れに は 獣の ほかに 人物の 群像が 画かれ, 狩激 • 舞踊 • 戦闘の 様子が 表わ されて いる。 

農耕-遊牧の 棻達 

採集 や 狩獵の 生活から, 一つ は 植物 裁 培の 道へ, 一つ は 牧畜の 道へ 進む ようにな ゥ 
たこと は 容易に 想像 される が, こ れが 促進 さ れた 事情 や 条件 は 必ず し も 十分 解明 さ れ 
ていない a 氷河期が 終って 地上の 諸 条件が 変化した こと, 集団生活 内部の 人間関係に 
も しだいに 変化 を 生じた こと, 集団 ごとの 生産力の 相違が 生産 意欲への 刺激 をな した 
ことな どが, い く えに も 複合して いつ たこと であろう。 ユーラ シァ 大陸の 南 辺の 温暖 
な 地域で は, 女子に よる 採集 生活から 植物 栽培が 早く 起り, 裁 培地と いう 土地に 価値 
を 生じて, これが 栽培 者た る 女子の 所有と なって 母系 的な 氏族 社会へ と 成長し, また 狩 

潞を 主として 獣 群 を 追ってい る 間に, 人間と 獣との 共同生活と も 言える 親和から 牧畜 
が 起り, 家父 長が 集団の 指導 権 を 握る 父系 的な 民族 社会が 成長した と考えられる。 も 
つと も 農耕に も あ る 程度の 牧畜が 随伴し, の ち に 耕作に 家畜が 使役 される 習慣 も 起 
り, 牧畜'. こ 牧草の 栽培 や 管理な どの 伴な うこと もあった。 ただ 牧畜が 狩獮 生活と と も 
に 引き続いて 内陸の 水草 地帯 を 転々 と 移動す る 生活に はいった もの は, 遊牧民 族と し 
て, 入 間と 家畜と その 周辺の 野獣と がと も に 移動す るよ うにな つた ものら しい 0 
農耕 や 牧畜に よる 生活の 安定と 定期的な 行事の く り 返しが もたらされ たこと は, 人 


59 —— 


I 資料 編 


類 生活の 革命であった。 そしてお そらく, オリエントの 地域が 最も 早く この 段階に 入 
り, 土器 を もって 煮沸したり 食物の 貯蔵に 当てたり し, 磨 製の 石器 を 用い, 新 石器 時 

代 を 現出した o これが B.C. 1 万年 を さかのぼる ことができる ようで あるが, 他の 地 
域で はまた 旧 石器に よ る狩雜 採集の 生活が 続けられ ていた。 しかし 新石器時代と な る 
と 文化の 進歩 も その 速度 を增 し, その 特色 も 濃厚と なり, オリエント を 中心に ョ 一口 
タパへ, また 中央アジアから 東アジアへ, また 南アジアへ, と 伝播した らしく, それ 

ぞれ 土着の 文化 を 刺激して いく つかの 文化圏の 母胎 をな していった 。 すでに 各地 绒の 
生活の 形に 応じた 氏族 制の 社会が 部族 集団の 中に 成立し, 土地 や 家畜の 所有 関係が 不 

平等に なって 階級 も 生じ, 地 或 的に は 豪族が 呪術の 家と して, また 武力の 所有者と し 
て 支配 を 確立す るよ うにな つた o ただ 農耕 や 遊牧ない し 狩猁の 社会 組織 は それぞれ 別 
個の 成長 をな した もので, 世界の あらゆる 地绒で 牧畜から 農耕へ, または 母系 的 氏族 
か ら 父系 的 氏族へ と 移行した ものと いうべき ではなく, 等質 的な 部族 集団が さ ら に 連 
合して 等質 的な 連合 体へ と 発展した ものであった。 

新石器時代から 青銅器時代へ かけ て 世界の 各地に 巨石記念物と 言われる 遣 跡が 多 く 
资 見され ている o ヨーロッパ では 早くから これが 住 意され, スペイン • イギリス. フ 

ランス • デンマーク •  F イツ • ス カン ディ ナウ、、 ィァ に 分布 し, そ の 形状 か らメン ヒル 
'(1 本の 石 を 立てた もの:) • ドノ レメン (扁平な 石 を 机の よ う に 数箇の 石で 支えた も の) • 
ストーン • サークル 〔ケル ト 語で クロ ムレ ッヒと も 言い 環状に 石 を 立て 並べた もの:) • 
ァ リニュ マン (柱状の 石 を 幾 列 かに 立て 並べた もの) などが あり, その 巨大な 構造に 
宗教 的 意義 や 天文 測定の 意義 を 考え る も のが 多かった。 今日で は 多 く は 豪族の 墳墓に 
関係した ものと して 理解され てい るが, ョ  一口 ッ パ ばか り でな く, ペルシア • ァ ラビ 
ァ • シべ リ ァ • 満州 '朝鮮. 日本. 南洋. ィ ン ド、 '北アメリカ. 南アメリカ な どに も 
- 発見 され, その 世界的 分布 と 時代 内容の 近似 か ら , 何 か 共通 した 信仰 や 文化の 系統 を 見 
いだそう とする 試みが しばしば 行われて きた 0 しかし 今日で はむしろ 別個の 発生と 意 
義とを 認めて いるものの ようで あるが, エジプトの ピラミ ッ ド • オベリスク • スフ ィ 
ン タスな ども その 地の 巨石記念物 とされて よく, 日本の 巨大な 墳墓 や, その 石槨な ど 

も 日本の 巨石 文化の 系統と 認めて よ さそう である o 

さて 各地 域の 文ィ匕 圏が 成立し, ことに 農耕 民の 富が 蓄積され, すぐれた 文化 や 技術 
が 知られる ようにな ると, 異質の 部族 集団 やその 連合 体の 間に 征服 関係が 発生し, 機 

動力に す ぐれた 遊牧民が 農耕 民 を 略奪す る 行動が くり 返され, さら に一 時 的の 略奪で 
はな く 永続 的な 貢納の 形の 隸属 関係が 起 り, 奴隸と して 農耕 民 を 使役す る 習慣 も 起る 

よ う になって, 初めて 国家の 形成が 見られる a 少な く と も アジア ゃョ一 口 ッパの 古代 
国家 は, 多く このような 異質 社会の 交流から 生じた ものと 言って よい。 


60 


第 1 編 古代の 世界 


第 1 章 文明の 発生 (62) 


第 1 節 オリエント 

諸国 家  

エジプト  65 

パピ ロニ ァ  66 

クレタ  67 

フ ヱ 二 キア  68 

ヘプ ライ  68 

第 2 節 ィ ン ダス 文明… 69 
モ ヘン ジ ョ-ダ 口  69 

マー リ ァ 族の 到来 "-… 70 
カス ト  71 

第 3 節 黄河 文明  72 

黄土  72 

灰陶  73 

彩陶  

黒陶  74 

殷墟  74 

周 代 封建制度 75 

春秋 戦国  7? 

諸子 百 家  78 

第 2 章 大帝 国の 成立 (80) 

第 1 節 西 アジアの^ 

国  80 

アッシリア  80 

ァケメ ネス 朝  81 


ゾロ ァスタ 一教  81 

パル ティ ァ  --82 

パク トリ ァ  83 

サ サン 朝  83 

第 2 節 南アジアの 帝 • 

g  84 

仏教の 成立  84 

ジャ イナ 教  85 

マノ、一 ノくー  ラ タ  85 

マウ ノレ ャ朝  -86 

ァ ン ドラ 王国  86 

クシ ャナ朝  86 

ガンダー ラ 美術  87 

大乗仏教 87 

グプタ 帝国  88 

ヒ ン ト、、 ゥ教  88 

ハ ノレ シァ = ヴ ァ ノレ ダ 

—ナ  89 

第 3 節 東アジアの 帝 
国  89 

m  89 

前漢  90 

中国の 古典  91 

後漢  92 


三国  93 

晉  94 

南北朝 94 

隋  96 

唐 97 
周辺の 小 帝国  99 

第 4 節 ァメ リ 力 大陸 

の 古代 王国  101 

マヤ 文明  102 

ィ ンカ 帝国  103 

第 3 章 地中海 世界 (103) 

第 1 節 ギリシアの ボ 

リス  103 

ポリスの 成立と 構造 104 
アテネ 民主 制の 完成 10G 
ギリ シァ 文化  108 

第 2 節 ヘレニズム… 111 

マケ ドニ ァ  111 

ヘレニズム  111 

第 3 節 ローマ  112 

共和制 ローマ  112 

帝政の 栄枯 115 

口  ― マ 文化  117 

キリスト 教  118 


第 u 


古 


代の 世界 


第 1 章 


文 


明の 発生 


古代史 は, &類 がその 発展の 最初の 時期に おいて, 現代 諸国 民の 全文 明の 源流 を 創' 

造し 発達せ しめた 時代の 歴史で ある o 文化 '文明と いう 概念 は, 広義で は 政治 • 社会 

• 経済 • 寺教 • 学芸の 諸相 面に おいて, 人間が 未開 録蕃の 状態から 向上して ゆ く 創造 
の 努力 を 指して いる 。西洋 古代文明の 源流 は, まず オリエント, 特に エジプト •  メソ 
ボタ ミア. 中央アジア • エーゲ海 〔多島海) 諸島 • パつレ カン 半島な どに « した。 「光 

は 東方より」 と言われ るが, 文明の 曙光 は 東方より 西 進して イタリアへ, さらに 全 西 
欧 へと 躍進' 向上しつつ, 時には 停滞と 衰微の 時代 を 含みながら, より 高次の 物質 文 
明. 清 神 文化 を 伝播し 創造し^ ^していった。 '  - ' 

この 文化 創造の 開花 期 は, まず B.C.3,  000 年 エジプト. パピ ロニ ァに, B.  C.  2, 000 
年 再び、 ェ ジ プ ト • 小ァ ジ ァ 及び、 ギ リ シ ァ の 一部に, B.  C.  8  一  6 世紀 ァ ッ シリア' パ ビ 
ロニ ァ. ペルシアに, 次いで B.  C.  6〜2 世紀に ギリシアに, さらに B.C. 1 世紀よ 

り 紀元 1 世紀に かけて イタリア 〔口— マ) に 移って いった。 そして 紀元 2 世紀 以後 は 
古代 世界 全般に わたつ て 文化 創造力の 停滞が 見 ら れ, 3 世紀 以後 はむ しろ 生活 諸 条件 
は 原始的 方向へ 逆行す るよう にさえ みえる。 しか し 古代 文化の 基盤 そ の もの は 滅亡 し 
去った のではなくて, イタリア 本土. ローマ帝国の 属州, ことに 西欧 や 東方 ビザ ンッ 
帝国, すなわち パル カン 半島と 小アジア において 維持^せられ たので ある。 そして 
西 ローマで は ゲルマン 諸 族, 東方で はパ ノレ カン や 口 シァの スラブ 諸 王国 及び 回教 ァラ 

ピア 人. トルコ 人ら に 継承され て 発展した ので ある。 

地理 的に 見れば, 西洋 古代文明 は, 西 亜' 中 亜の 一部, 地中海 周辺 部 を 舞台と し, 
特に 地中海 岸に 碰 し たの で, 地中海 文明 Mediterranean  Civilization と も 呼 は 
れる。 また この 文化 創遑に 参与した 諸 民族 は, 遠く パピ 《 ニァ 及び 初期 エジプトの ス 
メル 人, 西 亜の セム 人, 中 亜の ァ— リ ァ人, 中 亜 及び、 ぺ ノレ シァの イラ ン人, 小亜パ ノレ 
カンの ギリシア 人, イタリアの イタリア 人, ケルト 人ら である o そして これら 諸民叛 
の 中で 特に 文化 創造の 清 神に 秀でて いたの は ギリ シァ 入であって, 現代 西洋文明の 基 
礎 は 最も 多く ここに 負うて いる。 しかし, 誇り 髙き ギリシア 文化 も オリ- ント 文化財 
を 基礎と してお り, それが ヘレ- ズム として 世界 化して ゆく に は, 東方 文化との 融合 


—— 62   


古代の 世界 


を 必要と した。 そして オリエントと ギリ シァの 文化が, 西方 文明 ひいては 近代 ョ 一 口 

ッパ 文化の 基礎と なった の は, 言うまでもなく 主として 口— マの 功績であった o この 

故に 古代文明 は また グレコ - 。一 マン Graeco-Roman 文化と も 呼ばれる。 

現代 文化 は きわめ て 広範 複雑な 発展 M@ を たどって きている が, それ は 決して 新 し 
いものの みで はなく, 文化の 各方 面で 古代 はなお 現代に 生きて いるので ある。 古代と 
現代と の 文化の 差 は, 単に 量の 相違であって 質の それで はない と も 言われう ると ころ 
があろう ひ たとえ ば 世界的な 交通 商業, 大規模な 工業 生産, 諸種の 階級闘争, 新発明の 
諸 民族への 普及, 地绒と 人種 を 超える 普遍的 人間性の 確認な ど は, 現代の われわれが 
経験して いると ころで あるが, 同じ 発展の プロセス を, 古代人 はすで に小規 摸ながら 
経験した ので ある。 政治 面に おいても, 古代に おける 三つの 国家 形態, すなわち 君主 
国家' 民主国 家' 国家 連盟 は, 現代に 至る まで も, なおこの 三つの 統治 形式 を 超えて 
'いない 有様で, われわれ は 古代人と 等しく, 個人の 自由と 各地 或の 自治 • 独立と を, 
いかにしたら 萆ー の , 強力 に して 聰明な 統治 力 に 結合 せしめう るかと いう 重要 問題 に 
腐心して いる。 科学と 芸術に おいて, われわれが 古代', こ 依存す ると ころも また 甚大で 
ある。 経験の 帰納に 基づく 近代科学の 基本原理 は,. すでに B.C.  4〜3 世紀の ギリ シァ 
の 思想家が, 自然科学の 靳究 において 見いだ したと ころで ある。 われわれの 哲学と 道 
徳 における 抽象的 思考と 科学的 方法と は, 古代 哲学者, なかん ず くプ ラトン 'アリス 
ト テレスら に 負う ことの 多い の を 忘れえない。 文学 や 造形美術に おいて, われわれ は 
古代の 天才た ちが 創造した と ころ を どれ 程 超え る ことができ たと 言いう るか。 宗教に 
おいて はいわず もがな であろう o もちろん, これらの 例のう ちに は 中世 を 経, 近世 を 
含んで 複雑 • 繊細の 度が 高ま り, 新 企. 創造 をと おとぶ 多岐 多端な 近代 文明の 方向と 
性質の 大きな 相違が 予定され ている。 いわば 古典的な 古代の 立場から 近代 を 遠く 眺め 
た 趣で あるひ 

ギリシア •  n —  マ の 文化 を 古典 文化と 言 うが, クラ シ ッ ク Classic という 言葉 は, 
古い もの, 時代 を 経た もの, 古代の もの, という 意味と 同時に 第一流の 典型的な もの, 
模範的な もの, という 意味 をむ しろ 強く 持って いる。 この こと は, 西洋に おいて 古代 
文化が 現代 文化の 中に 占める 意義の 重要 さ を 端的に 示す一 つの 例と 見て よいで あろ 
う 。かくて 古代史の 研究 は, われわれに とって 迂遠 無用な 有閑 事で はなく, 古代に お 
ける 政治と 文化の 発展 を 明確に 理解す る ことによって, 現代 西洋文明, ひいては 世界 
文化 をより 深く 正しく 理解す る ことができる であろう。  ' 

,  第 1 節ォ リ ニン ト 諸国 家  :、, 

- —— 63 —— 


I 資料 編 


オリエントが ギリ シァ 文化の 先駆と して, また キリス ト教史 の 大きな 背景と して 有 

する 意義 は 大きい。 しかし そのこと は 古代 東方の 本質で も 全部で もない。 ギリシア 文 

化 や イスラエル 宗教の 起る ころ CB.C.  1,000 年) に は, オリエント 文明 はすで に 二 千 

年の 歴史 をけ みして 凋落 期に 向かって いる。 オリエント は それ 自身の 独自の 世界と 生 

活を 展開し, 独自の 歴史 時代と その 文化 原理 を 有して いて, 必ずしも 西洋史の 序幕. 
前奏曲と 考えるべき でない とも 言えよう。 このような オリエ ン ト 本質 論 は 別と して, 
西洋文明の 成立 と い う 立場 か ら, まず そ の 最古の ものと して オリエント を 考察す る の 
が 普通で ある。 オリエント 研究が 起った の は, 元来 キリスト教 界の 学問に おいて, キ 

n ス ト^ を 牛んだ ィ ス ラエル を 理解す るた めに オリ ェン ト を 考え, 研究が 進む につれ 

旧 約 聖書 を 離れ た 独 自 の 東方 学力1 成立 したので あ。。 

オリエント は 世界 文明の 五大 源流 (中国 • インド、. エジプト. メソポタミア' 中甫 
米) のうちの ナイル 及び 両河 地方 を 中心とし, ボス ボロス 海峡. コ— カサス 山脈に よ 
つて 欧州と 分力 ホ, イラン高原 及び イン ダス 河に よって 中国 及び、 イン ト、、 文化圏と 区分 
され, 古く アジアの 一部と 考えられた エジプト を 含む 広大な 地域に わたる 文化圏 をな 
している。 これ を 大別す ると, (1) エジプト C2) シリア. パレスチナ 及び その 沿岸 
島嶼 (3) 両河 地方 C4) 小アジア 高原 (5) イラン高原 〔6) アラビア砂漠の 
6 地 威に 分かれる であ ろう。 前 3 者 は 土地 肥よ くで 文化の 早く 開け た 農耕 地帯で あ り , 
(4) 以下 はこの 黒土 地帯 を 包む 周辺 部で 多くの 遊牧民 族が 住んで いる。 ォッ ペン ハイ 
マ— と いう 社会学 者 は, 肥よ く な 農耕 地帯へ 遊牧民 族が 侵入して 先住 農耕 民 を 征服し, 
支配 • 被 支配の 階級 対立が 生じて 国家が き すると 説いて いるが, この 学説 を 典型的 
に 示して いるのお オリエ ン ト 諸国の 興亡 史 である。 

古代 東;^ 国の 間に 早 く から 交通 貿易が 行われ, それが 文化の 交流 • 発達に 貝献し 
たこと は, バビ 口- ァ 地方の 経済が はやく も 商業資本の 蓄積 を 見せ, フエ-キア 入の 
逋商 技術が 高度に 発達して いた ことから も 察せられる。 パピ 口 ユアに は イス パ-ァ の 
銀, エジプトの 麻布. 金 弒ェ, 中央アジアの 金, アルメニアの 萄葡 酒, フエ ュ キアの 
染物, 中国の 絹, インド、 の 宝石. 木綿, アラビアの 香料. 塩な どが 売り さばかれた。 
铸造 貨幣が 現われる の は B.C.  7 世紀からで あるが, 貨^の^ 目 を 金環 や 銀 環に 果た 
させた の はすで に 遠く ビラ ミ ッ ド、 時代 CB.C.  2,500 年) の エジプトに 見られ, パピ 口 
- ァ 地方で は 銀塊 を も つ てこれ に 当てた ひ ナ ィ ノレ 及び、 両河 地方 は 穀物 • 野菜 • 果物の 
宝庫で あ り , 豊富な 木材 • 石材の 供給と, 天文 • 算数 • 測量の 進歩と は 神殿 や 宮殿の 
建築 を 発達 させた ひ 青銅器の 使用 は 古くから 見られる が, B'C' 14 世紀 ごろから は 鉄 
器が 用いられ, クレタ の 大工 はすで に 鋭利な 鋸 • のみ • 錐* 釘 'やすり 'おの を 使 
用し, 陶工' 織工が 腕 を 競い,. エジプトの 美しい 麻布 や 金銀 細工 は 人目 をみ はらし^ 


64 


古代の 世界 


た o オリエント 文明 は 悠久 数千 年に わたって 盛衰し, 各国の 文化, 民俗' 運命 もさ ま 
ざまで ある が, 大観 して 次の ごとき 共通 性が 指摘 される であろう &      政治 形態お 

一様に 絶対 専制 政洽 である こ と。 (2) 社会 組織が きわめて 厳重な 階級 制度の 上に 成 
立して いる こと。 (3) 宗教 生活が 非常に 重要な 力 を 持ち, ほとんど 多神教で ある こ 

と, などで ある a 

これら の 点で は オリエント は 西方 ギ リシ ァ •  ローマ の 都市国家 よりも 東洋 専制 社会 

との 類似 性 を 示して いる。 すなわち オリエ ン ト では 西方の ごとき 平等の 人格で ある 巿 

民の 共同体と しての 都市国家 は 生れず, 全国 土が 王の 所有で 住民 はすべ て その 臣民で 
あり, 一部の 官僚 や 神官が 広大な 土地 を 領有す るに すぎなかった。 主要 建築 は 神殿. 

宮殿で, エジプト 王ファ ラオ は 神の 子孫で あり, アッシリアの 大王 は 神から 政権 を授 

かった ものと 考えられた。 オリエント の 文書に は, 教訓 書 や 宗教 文書 は あっても, 政 

治 論 や 学術 書 はない と 言いえ よう。 叙事詩 や 物語 や 彫刻 は 残って いるが, 作者の 人格 

と 姓名 は 見られない。 へ ブライの 予言者と 諸国の 専制君主の ほかに は, 後世に その 名 

を 知られて いる 者が 少ない。 へ— ゲルの 言う 「一人 だけ (専制 王). 自由な 社会 J, マ ノレ 

タスの 言う 「総体 的奴隸 制」 の 社会であった。 このような 専制 王の 性格 を 示す ものと 

して, ェ ジ プ ト王ラ メス Rameses  2 世に 捧げ ら れた 碑文に 「君 は そ の 行 うと ころ ラ 
一 Ra  (日 神) に 似たり 0 君の 望み は 常に 満たさる。 君の 夜の 望み は 翌朝す でに かな 
えらる。 君が 世界の 王と なり しょ り, なし 遂げた る 多くの 奇跡に 並ぶ も のな し。」 と 言 
い, 農民の 状態に ついては パピルス 文書に 「おお あわれなる 農民よ 。土間に 残った 収 
獲 は 盗人が 奪い, 連 獣 は 脱穀と 耕作の 疲労に 倒れ, 税吏 はこん 捧を 手に して 穀物 を 出 
せと 言う。 何も ない と 百姓 を 打ちのめし 運河に 突き落し, 妻子 は 彼の 眼前で 縛られ 
る。」 と 言って いる ひ 税吏の 酷薄 誅 求に ついては 聖書の 中に も しばしば 述べられ てい 

ると こ ろで ある 0 

エジプト へ 口 ド トスに よって 「ナイルの 賜」 と 呼ばれた エジプト は, 天然の 城壁 

たる 砂漠と 海に よってへ だ てられた 豊穰 な地绒 に, B.C.  4,  000 年 以来 悠久の 王朝 文明 
を 築いた。 ピラミッド 、'スフィンクス. オベリスクな ど はこの 巨大な 古代 王権の 象徴 
である。 古代 王権の について は, ウィット フォーゲル は, 灌漑に よる 農業, 大河 
の 定期的 はん 濫に よ る 損害の 防止な ど, 治水 事業の 統制 者と して かかる 権力が 生まれ 
たと 説いて いる a すなわち 堤防 • 運河 • 貯水池な どの 大 土木 事業 を 行う に は 大河 流 或 
の 全部 落の 共同作業 を 必要と し, そ の 指導者に 絶対に 服従す る ことにより, 東洋 的専 
制 王権が 生まれる と 説く ので ある。 そして 官僚 は その 意志の 実行者で あり, 神官 はは 
ん濫の 予測 や, 農業に 必要な 磨, 天文の 知識の 所有者と して, それぞれ 梟 業 社会の 特 
殊 身分と して 成長す ると 説く。 


65 


JT 資 料 編 


ェ ジ プ ト の 歴史 は 30 王朝, 3000 年に わたる 悠久な ものであるが, 通常 3 期に 分け ら 
れる a 第 1 期 は メンフ イス を 中心とする ビラ ミ ッ ド 時代 ま でのい わ ゆ る 古 王国 時代 
(B.C.  3,  000〜2,  500 年) で, 地方 社会が しだいに 集権 化され, 南北の 対立 抗争 を 経て, 
全 エジプトが 铳 一され, 中央集権 国家が 形成され る。 それ は ビラ ミ ッ ド、 が 土砂 を 積 上 
げた 塚 (B.C.  5, 000—3, 400^) から, 日焼 れんがの 壁で おおい (B.C.  3400 年:), 
これ を 石材に 代え CB.C.  3,  000 年:), 段階 式 陵墓と なり CB.C.  2900 年:), ついに 現に 
見る ような ピラミ ッ ド、 となった 径路 や, 諸 神が しだいに 統合され て ゆく 姿に も 象徴 さ 
れ ている。 第 6 王朝 ごろに なると, 日 神 ラーの 信仰 隆盛に 伴ない, 僧侶 階級が 横暴と 
なり, 王 を 太陽の 裔と 崇める 風が 養われた。 ピラミ ッドに 蔵せられ た 数多くの 遣 物 は, 
当時 い か に 霊魂不滅が 信ぜ られ, いかに 農牧 商工の 業が 営 まれ たかを 如実 に 物語 つ て 

いる。 文字 は 古く 第 1 王朝 出現 以前から 使用 さ れ, 測量 • 算数 • 天文の 知識 も 発達 し, 
磨 も 早くから 行われ 月, 三十日, 年, 十二 ヶ月と して 年末に 五日 間の 祭日 を 設けた o 
シ一 ザ 一が 口  一マに 持ち') 帚つ たュ リ ウス 磨 はこの エジプト 磨で ある ひ 

第 2 期 はテ— ベ を 中心とする 封建的 文化の 中 王国 時代で ある。 古 王国 時代に は 主と 
して 自給自足の 閉鎖 経済であった が, この頃に なると 西北の リビア や 東方の シ ナイ, 
さらに 南方の 第 1, 第 2 暴 布の 方面に も 発展し, クレタ との ^ も 盛んにな つていた。 
第 12 王朝 (B.C.  2,  000〜1, 800 年) 以後 は, 王権 ふるわず 貴族 跋扈して 南北に 分裂し, 
混乱と 割拠 の 暗黒時代 を 現出す る。 この ころ 北方の 遊牧民 ヒク ソスが 来攻して デ ノレ タ 
に 拠つ て 圧迫 を 加 えた。 かく て 南北の 抗争 約 150 年, テーベの ァ 一メスが 出て, ヒクソ 
スを 駆逐し 全土 を 統一して, エジプト 最大の 帝国 を 建設して 新 王国 時代に 入る o 第 3 
期の 新 王国 時代 は, この ァ— メス Ahmes を 開祖と する 第 18 王朝 及び 第 19 王朝な ど, 
いわゆる エジプトの 帝国 時代 を 現出す る。 こ の 時代 は 古代 ュジプ ト の 近世 始期で あ 
り, 内外 両方 面に 国家 生活 は 極 盛 を 示し, ット メス Thutmosis  3 世 (B.C.  1501- 
1447) は パレスチナへ, ァ メンホ テツ プ Amenhotep  3 世 は ユー フラ テス 河 谷 方面 
へまで 支配 を 拡大し, エジプト 史上最大の 版図 を 領有した ので ある o しかし 第 26 王朝 
の 末年, B.C.  525 年に ペルシアに 征服され て 以来, 第 30 王朝まで, その 圧力 を 脱しえ 
ず, やがて ァ レク サンダー 大王の 遠征 を 迎える こ と と なる ので ある。 

バビ ロニ ァ メソポ タミ ァ 地方 は, 入 文 発展の 古さに おいて エジプトと 同様で あるが, 
地形が 東西 交通の 要所 を 占めて 開放 的で あり, ペルシア湾よ り シリア 海岸に わたる 一 
大弓 形の よ く  土, ブレス テ ッ ド、 の いわゆる 「肥よ く な 半月 地帯」 The  Fertile  Crescent 

は, 広く 東西 両洋の 文明 輻湊の 地と なり, 北方 山地と 南方 砂漠 地方から 押し寄せる 移 
動 種族 群の 争奪の 的と なって, 幾多 王朝の 興亡 を 見る ので ある。 パピ n- ァ 王国 はパ 


- 66   


古代の 世界 


ビ 口 ン地 方に 拠 り , 英王ハ ム ラビ Hammurapi  CChammurabi, 年代 不詳) いず る に 

及び 統一の 業 は 着々 と 進み, メソポタミア 一円 を 平定し, 運河 を 整え, 農業 を奨 め, 

土木 を 起して, バビロン を 中心に 大都市 を 営み, 国内の 法制 • 行政に 注意し, 名高い 
ノ、 ム ラビ 法典 を 集大成して 後世に 残した a この 法典 は, B.C.  21 世紀 頃 発布され, 主 

要 都市の 石柱に 刻んで 公布され た o 全文 282 条 より 成り, 前文に は, この 法典 力 S 正義 

を 広め, 奸 悪を滅 する ための ものである ことが, 王の 功業と ともに 述べられ ている ひ 

曰く, もし 人が 他人に 対し 重罪 (死罪:) を もって 告訴し, しかも その 証明 をな しえ ざ 

る 時 は, 原告 者 は 死刑に 処 せらるべし 〔第 1 条 )o 神殿 または 宮殿の 財宝 を 盗みた る 者 

は 死罪, 彼よ り この 盗品 を 受けた る 者 も 死罪 (6 条〕。 宮殿 や 自由 人の 奴 隸* 奴 裨が市 

の 城門より 逃亡す る を 援助した る 者 は 死罪 as 条^ もし 妻が 夫 を 嫌い 「貴君 は 我が 夫 
たるべからず」 と言う 時 は, まず 彼女に 過失' 欠陥 なきや を, その 経歴に ついて 調査す 
べし, 彼女が' 注意 深き 主婦に して なんらの 非難 もな く, かえって 彼女の 夫が 家に 落ち 
つかず, はなはだしく 妻 を 軽蔑せ し 時 は, 彼女に はなん の 罪過 もない。 彼女 は 嫁資を 

镌 えて 父の 家へ 帰る ベ し ひ4錄)0 他人の 目をつぶ したる 者 は その 目をつぶ さるべし 
(196 条) a 他 入の 骨 を 折りた る 者 は その 骨 を 折らるべし (197 条 儿 等々 ひ 

ノ、 ム ラビの 死後, 直系の 王朝 亡び、, 帝国の 豊か さは 四方 羨望の 的と なり, 北方に ァ 
ッ シ リ ァ が 興起す る に 及んで 圧迫 を こうむり, 衰弱 してし まった ひ アッシリア は, 新 
鋭の 鉄器に よ る 強大な 軍備 を も つ て 一大 帝国 を 樹立し, 専制と 抑圧に よ つ て 国威 を 張 
り, パピ 口 ンを 破壊し, エジプト を 征服し, 国 都- ネヴ、 ェの » は, 22,  000 の 粘土 板 蔵 
書 を 有した 図書館に, その 一端 を象徵 せられる o しかし, 強圧 的 軍事力に よって 産業 
'商業 はふる わず, 軍隊 は 傭兵 化して 内憂外患 相^ぎ, ついに カル デァ 〔新 パピ 口  - 
了ヽ に 亡ぼされた a 新バビ 口 ユア は, 一時 有名な 「バベルの塔」 の 物語に 示される パ 
ピロ ンの 栄華と 壮麗 を 誇った が, やがて ペルシアに 併吞 されて しまった a 

クレタ 地中海 沿岸の 東部, 多島海 池 方'. こ はすで に 古くから 文明が 栄え, エジプト。 
シリア' 小アジア 方面と 密接な 関係 を 結び、 つつ, 特色 ある 海洋 文化 を 築いて いた。 ク 
レタ島 を 中心とする ミ ノア Minoa 文明 は タノ ソス 'フェス トス 等の 宮殿 都市の 文明 
で, 使用され た 文字 は 残つ ている が, 今日 なお 解読され てお らず, およそ B.C.  IS 世紀 
ごろ を 絶頂と して, 以後 急速に 衰亡した。 この 文化に は エジプトの 影響が 大きい こと 
は, 発掘され た 青銅器 • 陶器, 壁画に よって 明らかで ある。 B.C. 世紀より 13 世紀 
に 栄えた ミケネ Mycenae, チ リンス Tiryns な どの 文明 は, ミ ノ ァ 文明と 異な り , 
城壁い かめし く, 獅子 門と 呼ばれる ミ ケネの 城門 や, ヴ、 ァフ ィォ 出土の 盃 など, 豪快。 
鐡钿, それぞれの 文化の 相 を 示して いるが, 文字 は 使用され ず, クレタ 文明より 程度 
は 低い。 へ レス ポンド 海峡 近く, 小アジアの 西 端に トロイ Troy の 基礎が 置かれた 

—— —— 


I 資料 編 


の はかなり 古く, 幾度 かの 興廃 を 経て, 多島海 文明の 一方の 旗頭と なった。 ホメ ロス 

(ホーマー) の 詩編が ト n ィ 攻略の 事跡に 始まる こと は 周知のと ころで ある。 
フエ 二 キア フ-ュ キア 人 は B.C.  2,  000 年 ごろ 来 住 土着し, B.C. 1£〜12 世紀に 

は, シドン 市 や チル市 の^を 見る に 至った ひ 元来 フユ ユキ ァ人 は, 商利 主義で 富と 
平和の 享受 を 第一と し, 庸兵 制度 〖こよった から, 国家的 政治的 基礎 は 固くなかった。 

通商 貿 に は 積極的 進取 的に 企画 冒険し, 経済活動 はすこぶ る 勇敢 敏 しょ うであった 
が, 政治 や 外交に は 無関心で, 一都 市が 侵略 されても, 他 都市 は 侵略者の ために 海軍 
を 供給 するとい う あり さまであった。 陸上の 通商 は, エジプト • アラビア • アル メ- 
ァ • パビロ ユアから, 遠く アジア 各地に 至り, 海上で は 多島海 '黒海. クレタ • シシリ 
一 • サルジ ユア • イス パ ユアよ り ヘラ ク レスの 往 (ジブ ラル タル:) を 越えて 大西洋に い 
で, アフリカ 北岸に はおよ そ 500 ばかりの 植民 市 を 建設した という ひ これらの 植民 市 

は 倉庫 や 商館 を 中心に, « を 構築した 商業 浪拠 地で, 内地に 深入り はしなかった o 

かくて 陸上に おいて は, 強力な 隊商 を もって, 海上に おいて は, おもに 春から 秋に か 

けて, 一 厘 夜に よ く 120 海里 を はせ 500 人 を 乗せる 船舶 を もって, 食料 • 羊毛 • 金属 細 
ェ • 染織 物 'ガラス' ^な ど, 東西の 貨物 を 貿易す る ことによって, 文明の 伝播に 
貢献した o フ-- キア 人の 文 ィ成的 功績 は, その 文字が 今日の アルファベットの 起源 
をな したと いわれた こと や, 「フ ェ- キア 人の 虚言」 「フ ェュ キア 人の 人 さらい」 (ホー 
マーの ォ デュセイの 中の 話:) など 種々 人口に 伝わって いる ことから も, その 活動の 一 

端 は 察せられる o 

へ ブライ へ ブライ 入 は 元来 アラビア砂漠の 遊牧民で, 族長 モ―ゼ に 率いられて ェ 
ジ ブトの 迫害 を 脱し, パレスチナ 地方の 先住民 力 ナン 入 を, 長い 苦戦の のち 征服し, 
その 文化 を 継承して 農業に 従事した ひ 旧約聖書の 出 エジプト 記に 曰く,  「こ こ に 新し 
き 王 エジプトに 起り しが, 彼 その 民に 言いけ る は, 見よ この 民 イスラエルの 子孫 われ 

ら よりも 多く かつ 強し。 また 戦争の 起る こと ある 時 は, 彼ら 敵に 組みして われらと 戦 
い 国 をいで 去らん と。 すなわち 督者を 彼らの 上に 立て, 重荷 を 負わせて これ を 苦しむ。 

泥 こね' 瓦 作り '田畑の もろもろの 業に 働かし めけ' るが, その 業 は 皆き びし かりき oJ 

と 0  B.C. 11 世紀に はサ ウル Saul 王の 下に 統一 王国と なり, その 死後 ダヴ イデ David 
CB. C. 1000〜%0) は エル サ レムに 拠つ て 強大 となり, さらに その子 ソロモン Solomon 
に 至つ て フ-ュ キアと 交わり エジプトと 婚を 通じ, 海上 遠征 を 企て 通商 を 奨励し 王宮 

神殿 を 造営し, いわゆる 「ソロ モンの 栄華」 をうた われた o しかし やがて 王 S は 南北に 

二分し, 北, イスラエル は アッシリアに, 南, ユダヤ は 新 パビロ ユアに 滅ぼされ, 1 バ 

ビ ァ 虜囚」 のうきめ に 会った。 パ ビロンに 拉致され た ユダヤ 入の 感清 は, パイブ 
ルの 詩篇に 見える が, その 第 137 篇に 曰く   「我ら バビロンの 河の ぼと りに すわり, シ 


 68  ~~ 一 


古代の 世界 


オン 〔エルサレム) を 11 いて 涙 を 流しぬ ひ 我ら その あたりの 柳に わが 琴 を かけたり o 

そ は 我ら をと り こ にせし 者, 我らに 歌 を 求めたり。 我ら を 苦しむ る 者, おのれ を 喜ば 
せんとて 我らに シ オンの 歌 一つ 歌えと 言え りひ 我ら 外つ 国に ありてい かで エホ ゥ、、 ァの 
歌 を 歌わん や。 エルサレムよ, もし 我なん じ を 忘れな ば, わが 右の 手に その 巧み を 忘 
れ しめた まえ ひ もし 我 エルサレム を わがす ベての 歓喜の きわみと なさ ずん ば, わが 舌 

を あぎと にっかし め 給え oJ と。 

ユダヤ 入 は 唯一 神 エホ ヴ、 ァ を 信じて, 遣 民 思想 を 発達 させ, 一神教 は 国難と ともに 

いよいよ 根強くな つたが, やがて 換 骨脱胎 されて キリスト教 を 生む に 至った ひ へ ブラ 

ィ 思想が キリス ト教を 通して 西洋 文化の 上に 及ぼした 影響 は, まことに 桀大 驚くべき 
ものが ある o 

第 2 節 イン ダス 文明 The  Indus  Civilization 

乇 ヘン ジ ョ-ダ a 人類 文明れ い 明 期の 遣 跡と して, オリエント に 匹敵す る もの は, 
ィ ン ダス 流 威に 発見され たモ ヘン ジョ - ダロ ゃノ、 ラ ツバの 遣 跡で あるひ もっとも イン 
ドの 各地に, これらと 同時代 または さらに さかのぼる 新石器時代の 遣 物 や, また 巨石 
記念物, 旧 石器な どの 発見 も あり, 古 生 人類の 存在 も 想像され るが, 今日 まだ 総合的 
な 研究 は 果たされ ていない。 第 2 節に モ ヘン ジョ -ダ n と して 一括した 内容 は, 前段 
の イン ダス 文明と 後段の ァー リア 族の 到来との 2 項に 分かつべき であるが, ィ ン ダス 
文明の 潮流 は アーリ ァ族 到来 後の ィ ン ドネ ±^ に も 拫強 く 残存し, ィ ン ド 本来 的な 要素 
を 形成して いったので, あえて 1 項目と して イン ト、 、古代の 前提 を ここに 求めた。 

イン ダス 文明 発見の 端緒 は 古く, 西北 インド、 の パン ジャー ブ州ノ 、ラッパで, 早く か 
ら 解読 不能の 印章が しばしば 発見され ていた。 この 地の 発掘 条件が 悪かった ため, 同 
種の 出土品 を 探究 している うちに, 1922 年, ジョン =: マー シャ ノレ 卿が シ ン ド、 州の モ へ 
ンジ ョ-ダ 。 (死人の 場所 または 死者の 丘の 意) で これ を 発見, 本格的な 調査が 1923 
~4 年に 着手され た 0 同時に 北 ベルチ スタンの ナ ルゃス ト レジ 河畔の ノレ パルな どの 遣 
跡 も 発見され て, イン ダス 文明の 包括した 地 或は エジプト ゃシュ メ —ノレよ り 広範な こ 
と を 推定 させた o モ ヘン ジョ - ダ 口 はハ ラ ッ パ より/ J  、さ な 者 (I 市で あつ たよう だが, 同 
質の 遣 物 を 持ち, 約 1 マイル 四方の 都市が インダス川の 沈 泥に 埋まって いた。 その 年 
代 は 同様の 出土品 を テル -アスマル や ウルの 発掘から 発見して B.C.  2,  500 年 前後と 比 
定 された o 両都巿 は 焼いた れんがで 造られ, 出土品 は 金 • 銀 '銅 • 青銅の 金属 器, 陶 
器 • 石器' 象牙 • 貝な どの 道具 や 装身具が あり, 小麦' 大麦' メロン' なつめやしの 
種子が 発見され, 木綿 布の 断片 も 出して いるので, これらの 栽培 は 想像され るが, 都 


69 


I 資料 編 


市の 住民 は 農業に 従った というより, 多く 商業 民で あり, 都市に 貯蓄され た 財宝 は, 

ベルチ ス タ ン 方面からの 掠奪 者に さ ら されて いた こ と も 想像され る o 

両都 市と も 巨大な 王宮 や 寺院 や, 威圧的な 神 像 は 発見され ていない。 そのため, ォ 
リエ ント のよう な 神権政治が 行われず, 自治 的で 自由な 社会だった よ う に 推定す る の 
が 常識と なって いるが, これに は 疑い を さしはさむ 論者 も 少な く ないひ 墳墓が 発見 さ 
れ ていないので, 死者 は 火葬に して その 灰 を インダス川へ 投じた も のと 信ぜられ てい 

る が, 街路で 横死した 一群の 遣 骨 は, 掠奪 者の 襲撃 を 物語つ ている。 そ の 遣 骨から 種族 
的に, 原 オーストラリア 族' 地中海 族' モン ゴ リア 族 • アル ピン 族と 考えられ, 単一 

ではなかった ひ その 中で 地中海 族の 身長 は 5 フィート 4〜 5 インチ 〔男) 4 フィート 
4〜9 インチ 〔女) と 計られ, モ ヘン ジ ョ-ダ 口の 家屋の 戸口な どの 大きさから/ j ヽ型 
の 人間の 生活が 普通であった ようで ある。 遣 跡の 上層 部 は, 晚 年の イン ダス 文明の 衰 
31 を 示して お り, たび 重なる 侵略と 洪水と によって 廃 糸 色して しまったの であろう ひ 共 
词の 浴場 や 各 家屋の 浴場の 設備 や 排水の 考慮な ど は, 水に よ る 浄化が 宗教 的な 大きな 
役割 を 占め, シヴァ 神の 原型と みられる ような こん 跡の 多い ことな ど, イン ダス 文明 
がの ちの イン ド 社会の 源流 をな したと みられる 傾向 は 大きい。 もちろん これ を 疑う 論 
者 は あるが, インド 社会の 主流 をい かに 把握す るかに ついて, この 遣 跡の 解釈 はま だ 

多く の 問題 を 生む ことと 思われる O あるいは イン ダス 文明の 主人公 を 侵略者であった 

とし, あるいは メソポタミア 地方との 関連 を 強調す るの は, ヨーロッパ 的 偏向と もい 
える ようで ある o イン ダス 文明に ついては, アーネスト = マッケー 著 (龍 山 章 真 訳) 
r イン ダス 文明」 (晃文 社 昭和 is 年) が あるひ 

アーリ ァ 族の 到来、 イン ダス 文明の 廃滅 は, アーリ ァ 族の 有名な g と は 関係が な 

い。 しかし インド、 の 西北 角 は, 先史 時代から 歴史 時代に わたり 異 民族が しばしば^ A 
す る 道に 当た り, イン ダス 流域の 古文 明が これ ら と 接触の あった こと はたやす く 想像 
できる ところで あり, また ァ— リア 族の 到来 もこの 道 を 通って, 幾度 かく りかえ さ 
れ たものと 思われる ひ アーリ ァ 族の ィ ン ド、 における 優越 は, ィ ン ド、 を 歴史 時代に 導入 
し, のちの インド 史に 決定的な 役割 を杲 たす ことにな つたが, インド、 艮入 以前の ァー 
リ ァ 族の 原 住 地に ついては 定説が ないひ それ は 日本の 高天原の よ う に, 時には ィ ン ト、、 
人の 民—) 矣 意識に さえ 左右され るが ごと くで ある。 彼らが 中央アジアで 遊牧 的な 生活 を 
送って いた こと は 想像され るが, これが さらに 裏 海 沿岸 や 北欧に 発祥した といい, 北 

極 圏より 南下した とする の は, いずれも 仮説に すぎない o 

B.C. 2, 000 年 ごろ ィ ン ト、、 に した ァ一 リ ァ族 は, ヴェ 一ダの 民と いわれる よ う に 
多く の 宗教 賛歌 を 残した a すなわち 1028 編 を 集録した リグ -ヴェ ーダを はじめ サーマ 
一 ヴヱー ダ, ャ ジ ュ ノレ- ヴ: ^ 一  ダ, ァ タル ヴ、 ァー ゥ 、、エ 一 ダの 4 ヴヱ 一 ダで, サン スクリ 


70 


古代の 世界 


'ノト 語の 古 形で 伝えられ ている ひ ヴ エー ダとは 知識の 義 である。 これらの 作製と 編 さ 

んの 年代 は 全 く 不明確で あ る が, リ グ -ヴ エー ダの編 さん を B.  C, 1, 400 年 ご ろに おく 

こ とが 通説と な つてい る。 すべてき わめて 古い 伝承 を 集めた も ので あるが, その 中から 
歴史 を 探り出す こ と は むずかしい。 ただ 中央 ァ ジァ から 西へ 向かつ たァ— リア 族が ぺ ノレ 
シァ 高原に はいり, 南に 向かった ものが イン ダス 上流に はいった こ と は 疑いな く, ヴ ヱ 
一 ダの 古代 経典の ァヴ エスタ ゃぺ ル シ ァ の锲形 文字で 残 さ れ た 碑文の 言語 と ぺ ノレ シ ァ 
と は, 深い関係の ある ことが 知られて いる 0 イランと アーリ ァとは 同じ 語源で あるひ 
この アーリ ァ族 は, ィ ン ダス 文明の 伝铳を 持つ 先住民の 主流と は 直接の 交渉 を 持た 
なかつ た よ うで ある。 彼らの 遊牧 的な 機動力 は, パン ジ ャ 一 ブの 原住民 を 征服し, ま 
た その 言語 や 文化 を も 浸透 さ せ, 自ら もま た 半農 半牧の 生活 を 営む ようになつ たらし 
い 。彼らが 擬 虫した 原住民 は, ド、 ラヴ、 イダ 族 や オースト 口-アジア 族で, 頊在 も南ィ 
ン ト、、 • ィ ン ド、- シナ 方面に 分布して お り , 前者の 代表的な もの は 日本語と 似 かよつ た 
タ ミ ノレ 語 を 持つ タ ミ ノレ 族, 後者に はムン ダ族 • ク メ  一  ノレ 族 〔力 ン ボジァ 人:) な どが あ 

る o ただ 現在の 言語 系統から 人種 を 推察す る こと は 危険で, ァ— リア 語 も 原住民の 間 

に 広がつ たこと が 想像され, また アーリ ァ族は パン ジ ャ 一 ブか ら ガン ジス 流-おへと 移 
動し 拡大して いった。 その 間 彼ら は, ヴェ— ダを 神授と し, これに 住釈 する ブラフ マ 
ナ, さらに 奥義 書なる ゥパ- シャツ ドを 作り, しだいに ブラ一 マンの 優越 を 維持す る 
神政 的な 社会 体制 を 築いて いった o バラモン 教 というの おこれで ある。 しかし これ は- 
後世の 宗教と い うより は ブラーマ ン 体制 ともいうべき 祭政一致の 社会 組織で あ つ た。 

そして この 社会の 秩序と して 厳重な カスト (caste) が 成立した。 

カスト カストと はた だ 階級と いうより は, 身分 • 職業' 種族な どを萆 位と した 排 
他 的で べつ 視 的な 制度で, 長く イン ド 社会 を 特色 づけ, 今日 の 賤民 制度の 因由 を も な 
した ものである o しかも その 拫は 深く インド 社会に くい 入り, 自分で は 意識せ ず, こ 
の 制度 を 呼ぶ 自分ら の 語 さえ 持たなかった。 しいて 言えば ヴ、 ァ ルナ (色) とか ジャー 
ティ (出身) が これに 当たり, 16 世紀 来航の ボルト ガル 入が 西欧 人の 目で その 奇異 を- 
とらえ, 力 スタ 〔ラテン語の 純血 を 意味す る カス タ ス から 出た ポル ト ガ ノレ 語で 血統の.' 
意) と 呼んだ のが 語源で ある。 その 成 S について は, 皮膚の 色に よ る 部内 結婚に よ る (リ 
ス リーの 説〕, 職業の 分化に よる 〔ネス フィールド、 の 説), 部族 種族の 相違に よる (ィ ベ 
ッ ト ソンの 説), 家族の 信仰の 差: こよる 〔セナ —ルの 説) など 種々 あるが, いずれも 

皮相の見 解た る をまぬ かれが たい。 厳重に 守られた 社会制度が, その 結果 ひき 起され 

た 事態 や 強調され た 主義 を その 最も 重要な 原因 とすると は 限らな いか らで ちる a 結果 
と して 職業の 世襲 や 結婚の 忌避 や 信仰の 踏襲が 起つ たと しても, そ の 成因 は 民俗学 的 
に 解釈 さる ぺ きで, おそら く 異種 疾 間の 交際 や 通 婚の循 環が 強い 外力で 新ち 切られた 


1 [資料 編 


ことから 起る 部族 内 循環の 習 慣へ 引き 移された もの, その外 力 こそ アーリ ァ丧 の^ 

では な か つた かと 想像 される o 

カスト は 司祭 者, 士 入. 庶民., の 4 種 を 原型と して 分ィヒ し, その後 数千 を 数え, 

しか も 近世に 至つ て もな お 増加して いつ た ひ 後世 仏教の 平等観 を もってしても, イス 
ラム 教の 世界観 を もってしても, インド、 の 習慣 を 打破す る こと はでき ず, イン ト、、 のィ 
ス ラム 教徒の 間に さえ カス トは し 守られた のであった ひ 極言 すれば カス トの^ 
は, 西欧 文化 を もってしても 成功せ ず, イン ト、、 解放 を ィ ン ド、 人の 手で 成就す る ま で 残 
される ことにな つたので あるひ ガン ジス 流域に 定住した ァ— リア 族 は, 原住民 を奴議 
身分と, た カス ト ネ±^ をつ く り 上げた といわれる。 これに 対し 同じ アーリ ァ族— し ^ あ 
とから 浸入した 〔海路に よると もい われる) もの は, カスト を 厳 里に 守らず, ヴ' エー 
ダの « を 犯し, やがて その 中から 仏教 ゃジャ イナ 教が 起った ともいう ひ ァ— リア 族 
の 侵入の 前後に よって そ の 社会秩序に 対す る 寛厳の 差が あつ たと す る 説 も , 今日で は 
信ぜられ ていない    ァ— リア 族の 到来 も 第一^' 第二^と いった もので なく, 断続的 
にくり 返された もので あろうし, M 秩序に 対する 変革 も 自らの ^ の 成長の 中に 芽 
ばえ たものと すべきであろう o 

ガン ジス 流 威に おける 原始的な 民族 共同体が, しだいに 地縁 的な 村落共同体 とな 
り, 富裕な 庶民 や 奴隸の 出現 は ブラ— マンの 絶対的な 神権 をく ずし, 祭祀に 对 する 武 
力の 勝利が いわゆる 史詩 時代 を 生んだ とすれば, このよ うな : ^に 仏教 や ジャィ ナ教 
の 出現 を 不可避と み る こと がで き, 古代 帝国への 成長 も 指さす こ とがで きる よう であ 
る 0 この間 ガンジ ス琉 威に^: した 数多くの 部落 国家 は, 仏灘 典な どから 跡 づける 
. こと はでき るが, その 紀 年に ついては 西方の 記録と 結びつく ァ レキサ ンダ— の 遠征 ご 
ろまで は, すべて 明確に する こと はでき ない 3 

第 3 節 黄河 文明 ' 

签土  CL5ss) 黄土が 中国 文明 の 母 だとい うの は, ナイルの エジプト 文明 に お け つ 

と 同様, 風土 的な 解釈の 一例で, 必要な 条件^ は あるが 十分な 条件で はない ° 黄土 は 
ョ一 口 ツバで は 英仏海峡から 黒海 沿岸に 至る 平原 地帯, アメリカ では ミ シシ ッ ピ 川の 
東 尹 • アルゼンチン, アジアで は 小アジア 西部 •  メソポタミア. イラ ン 高原な どに 分 
布して いるが, 最も 有名な もの は 黄河 流 或, 甘窗. 陝西 山 西に わたる もので 
ある。 これらの 分布 をみ ると 多く 肥よ く な^ 地帯 をな している ので, 主要な 成分で あ 
る;^  • 長石 • 石灰な どの 結合が 通気 性 • 保 水性 • 通 根性に 富み, 耕作し やすい 土壤 
^形成した こ と は 確かで あ る o しか し 一^ に 信ぜ られ ている 自己 施肥 説 は 必ず しも 正 

—— 72 —— 


古代の 世界 


しくな く, 有機物 や 窒素 は 少な く  , 施肥と 灌漑 は 必須な ので ある o 黄土が 低地に 推 積 

した 形状に より, その 成因に ついて リヒトホーフェンが 風 成 説 を 説いて から, 水 成 説 

• 火山 説 • 氷河 説な ど 20 種に 及ぶ^ が あ り , 奇抜な ものに ぺ ニン スト ンの 隕星の 砕 
片の推 積と する 説まで 現われた。 しかし ベルク (Berg) が 現地 成因 説 を 述べ, 乾燥 気 
候に よ つ て 風化 作用 か ら 形成され, 河川 や 氷河 や 風に よ つ て 拡大した ものと する 考え 

が 多く 支持され ている よ うで ある O 

黄河 流域の 黄土 も , ゴ ビの 砂漠 か ら西 北風に よ つ て 飛来した というより, オル ドス 
砂漠に 黄河に よ つ て 堆積し さ ら に 西北 風で 東南 方に 運ばれた も ので, 北京 人類の 生息 

した 当時が また 堆 債の 進行 期 だ つたと 想像 される o 黄河に も ナイルと 同じく 定期的 は 

ん濫 とその 後に おける 耕作と を 想像す る 者 も あるが, むしろ 洪水のお それの ない 黄土 
合 地の 各所に, 新石器時代の 農耕 定住の 部落 力 ^[多 くで きた ものと 考え る 方が 正しい。 
これらの 諸 部落の 発展が, 中国 古典に みえる 諸 夏の 基礎で あり, 周辺の 同種 族' 異種 
族に 比べて 優越の 地位 を 占める よ うにな つ たもの らしい。 古く フランスの ラクペリ 一 
ら によつ て 漢民族の 西 来 説が 唱え られ, 伝説の 黄 帝に 率い られて メソボ タミ ァ 方面 か 
ら 移住した ものと いわれた が, 中国の 先 史文ィ 匕に 西方との 関係 を 暗示す る もの は 多く 

とも, 民族 自体 はき わめて 古く 原シナ 人から 連続して いるものと 思われ る 。 ( アン ダ 

一 ソン 著 松 崎 寿 和訳 「黄土 地帯」 座右 宝 刊行会:) a 

灰陶 中国 先史 時代の 土器と して 出土す る 最も 普遍的な もので, 初め その 分布 や 焼 
成 度の 高さから, また 殷周 時代の 青銅器との 類似から, 歴史 時代の も の と されて い 
た o しかし その後 その上 限 を さかのぼらせ, 中国の 原始 土器と して 先史 時代 を 代表 さ 
せる よう になった が, まだ 定説と される に 至つ ていない 0  ffl や^ は 象形文字と して 3 
足の 器で あるが, 黄河 文化 を 特徴 づける 作品で, 青銅器に 多い が, 灰陶に はすで にこ 
れが 現われて おり, 長い 期間の 使用と その 伝統の 維持が 想像され る。 なお 今後に 問題 

を 多く 残して いる 遣 物と いえる ひ 

彩陶 (Painted  Pottery) 彩色 土器 または 彩 文 土器と も 呼ばれる。 先史 時代の 遣 物 
として 広く アジアの 各地に 分布して いるが, 1920 年代に 中国に 発見され てから 先史時 
代の 文化交流の 広さが 確かめられ 有名に なった。 この 手の もの は オリエ ン トの 諸国の 
遣 品 と して 発見 されて お り , /J 、ァ ジァ 'エー ゲ海 'ギリシア' シチ リア' 南 イタリア 
に 分布して 西方への 伝 II を 思わせ, 黒海-^' トル キス タン' ベルチ スタン' 南 イン 
K  • 西ィ ソ ド、 に 広がって 東方への 径路 をみ せ, 中国に 発見され て その 到達の 広さに 驚 
かれた わけで ある。 アンダーソン を はじめ 西欧 学者 は, このような 推定 を 動かせない 
ものと している が, 中国の 李 済な どの 考古学者 は, 中国の 彩陶は 独自の ものと 考えて 
いる。 その 事実 はいずれ にせよ, 先史 時代の 問題で も 現在の 民族 や M や 政治の 意識 

—— 73 —— 


I 資 料 編 

が 反映して いる 点 は 見過ごす こ とので きない 点で あろ う o 

黒陶 (Black  Pottery)  1930 年 山 東 省 歴城県 城 子 崖で 李 済 ら が 発見 したのに 始ま 
り, 山 東 • 河南' 山 西の 各地, 南は浙 江, 北は遼 東半 島な どで 発見され, 中国 先史時 

代の 解明に 新たな 問題 を 提供した 。 初め 彩陶が 西方の 影響 を 受け た の に 対し, 黒陶 
は 山 東に 癸 生して 東方の 勢力 を 代表し, やがて これお 設文 化の 基礎 をな した ものと 考 

えられ, ほとんど 通説 化した が, のちに 異論 も 多くな つた。 たとえば 彩陶の 系列の 中 
から 黒陶が 発生し, また 黒陶 から 灰陶 へと 発展した といい, あるいは 灰陶 から 黒陶へ 

と 連 読す ると もい い, なお 定説 を 得る に 至ってい ない o 以上の ほか 中国の 各地, 浙江 

の-; 膀ゃ四 )1 い 広東な どに 石器時代の 土器の 出土が あり, それらの 分布 や 特徴が 十分 
整理され るまでに は 日時 を 要する こ とであろう。 なぜな らば このよう な先史 時代への 
き コ片 的な 異眛 が, 多く 好事家の 手に ゆだねられ, 遣 物が 中国 金石学の 一分 野の 対象と 
な り がち だからで ある。 (梅 原末洽 「東亜の 古代 文化」 養徳社 )。 

殷墟 周知のと おり 中国の 古代史 は 夏 *殷* 周の 3 代が あり, さかのぼって 堯' 
舜 '禹の 3 天子が 相次いで 禅譲の 形で 統治 を ひ き ついで, 禹か ら夏 王朝が 始まつ た と 
され, さらに さかのぼって 3 皇 5 帝 (これが 伝説 上の だれ を さす か は 書物に よって 異 
なって いる:) が 悠久の:^ に 人間 生活の すべての 基礎 を 作った ものと されて きた ひ そ 
して これが 古代の 統治の 形 を そのまま 過去へ 投影した ものであると 考え られ るよう に 
なつてから も, 記録に よる 紀年を どこまで 信頼で きる か は 長く 問題 を 残して いた。 そ 
れは ただ 学問 上の M からだけ ではな く, 信仰 や 信念に よって ゆがめられる こ とが 多 
く  , 大正時代に 白鳥 庫吉 博士が 堯 • 舜 • 禹を天 • 入 • 地の 三才 を 擬人 ィ 匕した にす ぎな 

いと 論断した 時で すら, 多くの 非難 を 受けた ほどであった a 儒教の 倫理が, その 古典 

である 経書の 神聖 を 強調す る ことから きた 感情で あるが, また 古くから 緯書 C; 怪 書に 

対してい う) に は, 舜が堯 の 地位 を 奪い, 禹が舜 を 追放した の だとい つた 説 もあった 

ので ある o  f 

近代の 批判 精神が, 信頼で きる 中国の 紀年 としてまず 起点 を 置いた の は, 春秋 時代 
であった。 しかも それで すら 天文学から いって 種々 の 疑点 を 残して おり, 西 周 以前 は 
伝説の 中に 捨てて おかれた。 戦国時代の 雄弁家, 蘇 秦ゃ張 儀 も 伝説の 人物で あ り, 周の 
年中行事に 残る^^ の 筋 や 所作が 殷の 歴史に 構成され, さらに これ を 前代に 投影して 
夏の 歴史が 作られた などの 解釈が 行われて いた。 も ち ろん 伝説 的 要素 は 周 代 を 強く い 
ろ どって おり, 歴史の 構成が 記録で は な く 物語に たよって きた こと は 事実で あ る。 し 
かし 殷墟の 発掘から 伝説 を 歴史へ, 未知 を 解明へ 持ち込む ものが 多くな つた o 殷墟す 
なわち 殷 といわれた 街の 跡の 研究 は, 東亜 考古学に おける 最大の 収獲と なった ので あ 
る o 河南 省 彰徳 府安陽 県に おける 殷墟の 存在 は 古くから 知られて おり, 史記 にも 記載 

—— 74 —— 


古代の 世界 


されて いたが, 清 末 ここから 出土す る 獣 骨片 を 龍 骨と 称して 薬用に 供され, 1899 年 ご 
ろから これに 線 刻され ている 文字が 金石学 者の 住 意 を ひ く よ う にな つ おひ 
殷墟 出土の 獣 骨片の 多くが, 田 亀の 腹 甲の 破片で, 表面に 文字 を 刻し, 裏面に 浅い 穴 

りゅうがく 

を 掘り 焼 跡の ある ことから, 占卜に 用いられた 亀甲で あると 想像され ていたが, 劉鶚 
(鉄 雲) がその 収集 を 図版に して" 鉄 雲 蔵 亀" を 出版し, まず 文字の 解読 〖こ 興味が 集中 

そんい じょう おうこく い らしんぎ よく  しょうへ いりん 

した。 孫詒譲 '王国 維 '羅振 玉ら はし だいに 解読に 成功した が, 一方 章炳麟 のように 
そ の 信頼性 を 疑う 学者 も 少なくなかった。 一つに は 亀 甲 獣 骨 文 にみ える 殷代諸 王 の 名 
が 文献に 伝え られ たものと あま り よ く 一致す るた め, 作為が あるので はない かと 疑わ 

とうさく ひん りさい 

れ たわけで ある が, 甲 骨片 以外の 出土品 も 多く, 1929 年 以来 董作賓 • 李 済 • 梁 思 永 ら に 
よ つ て 組織的な 発掘が 行われ, 殷 王朝の 実在が 疑われな く な つ たばか り か, 殷代 文化 
の 諸相 も 多く 明らかになった o しかし 問題 は 一つ 明らかにな る と さらに 多数の 疑問が 
生まれて く る ものである。 殷 代に すぐれた 青銅器が 作られた のに, 青銅器時代に 先行 
する 銅器 時代の 存在が 確かめ られ ず, 青銅器 技術が どこから どのよ う に 移入され たか 
など は その 大きな 疑問の一 つで ある。 

甲骨文の 解読 は, 殷代諸 王の 神権政治, 兄弟 相続, 狩潲 • 牧畜' 農耕の 生活な ど を 示 
したが, 最も 成杲を あげたの は 文字 学に ついて である 0 漢字の 成立 や 用法で は, 古来 

きょしん  りくしょ 

後 漠の許 眞 の "説 文 解字" が 重ん ぜ ら れ, 宋代 以後 金石学の 流行に も 説 文の いう 六書 

(文字 成立の 6 法 貝び, 象形 • 指 事 • 会意. 形声. 転住 • 仮借) な ど は 動かす ベ か ら ざる 

ものであった。 しかし 甲骨文 は 後 漠の許 K すら 知らなかった 殷代 文字で, 漢字の 源流 
と して 象形と 会意との 意義 を 改めて 重視させる ことと なり, 説 文の 解釈 を 数 歩 前進 さ 
せる ことにな つた 0 ただ 漠字 について は, 象形文字の 成長への 興味 だけでなく, 文字 
を 難解の ま ま 支配者が これ を 独占して きた こと を, ェ ジ プト 文字' 模形 文字 • マ ャ文 
字な どと とも に 考察す ベ きであろう o  (貝塚 茂樹著 「中国 古代史 学の 発展」 弘文 堂) ひ 
周 代 封建制度 殷と 周が 同じ 漢民族ながら 異質の 文化圏 を 持った もの だと は, 早く 
上田 恭輔氏 らの 説いた ところ で, 昭和の 初め 市 村 瓚次郎 氏 も 貝 文化 と 玉 文化 として 東 
西の 文化圏 を 設定した。 そして 東方 平原に 定住して 農耕に よる 蓄積 を 誇った 殷と, 西 
方 辺境に 遊牧 的な 野性 を 保つ 周との 争覇が, 殷周 交替に 対す る 通説と な つてい る 。殷 
の 後半の 都 城であった 商邑 〔設は 自ら は 商と 称して いた) が 商すな わち 摟閣の 象形 文 
字で 表わされ, これが また 商業 行為 を もさした など, 殷の 富強 を 思わせる もの は ある 
が, 必ずしも 大きな 生活 体制の 相違が あつたと は 信ぜられない。 周の 始祖と される 棄 
(母が 巨人の 足跡 を 踏んで みごもつ たという 感生 伝説が あ り, それ を 不吉と して 棄て 
られ たので 棄 という) は 農業に 長 じ, 帝堯に 用いられて 農師 となり, 舜に封 ぜられ て 

こうしょく  こうりゃん 

后稷 となった と 伝えられ, 稷とは 高 梁の ことで, この 国が 農業 を 主体と した こと を 示 

― 75 一 


してお り, 殷が周 を 伐って その 蓄積 を ねらった こ と も 周の 富強 を 語って いる。 周が 殷 
を 滅ぼして のち, 殷の遣 民 を 分散 させた が, その 主流が 宋 S にあり, 宋 人が 周 一代 を 

通じて 異端視され たの は, 殷 文化の 伝統が 周に 同化され るの を 拒んだ もので, また 宋 

人の子 孫が 山 東に 移住し, その 系統から 孔子が 生まれた こ と も 有名で ある o 

殷も周 も 部族 的な 集団 勢力で, 中心の 都 城に 支配権 力 を 持つ た 氏族と これ を 擁す る 
親族 的な 団体が 居住し, 周辺の 同族 的 または 同盟 的な 集落 を 従え, それぞれ 付近の 農 

耕 民 を 統御して いたので あろ う o それ はギ リシ ァの ポリスよりも はるかに 血縁 的な 関 

ちゅう  ,  , . . 

係の 強い ものだった ようで ある。 周の 武 王が 殷の紂 王 を B.C. 11 世紀の 甲 ごろに 滅ぼ 

して 多数の 部落 国家に 君臨す ると, 殷の 神権 的な 統洽に 代わる 倫理的な 支配 を 固め, 
一族 功臣 を 各地に 封 じて 諸侯と し, 従来の 君 長の 支 S3 する 地域と 混じえ て 中央の 統制 
力 を 強化した 。武 王は宗 周すな わち 鎬京 〔西 安) を 都と し, 成 周すな わち 洛邑 〔洛 陽) 
冬 東都と して 天下の 中心 を 定め, その 周囲:^ 里 を 王 幾と して 王の 直轄地と し, その 

けい たい ふ 

周辺に 諸侯 をお いて 公 '侯 '伯 • 子 • 男の 5 等 を 分かち, 王 や 諸侯 は 卿 • 大天 '士を 

右して 統治 を 分掌 させ, 被治者と して は 農民 を 主と した 一 股 庶民と 奴婢 • 賤民な どの 

たん 

g を 区別 した ひ これら の 制度 は武 王の 弟の 周 公旦に よ つ て 定め られ たと されて いな 
が, ネ ±^ 組織と して は 多く 殷 代の 制度 を 踏襲した にす ぎず, いわゆる 周 代の 封建制度 
と は 血縁 的 基礎の 上に 成立した 統治 形態であった o これによ つ て 部落 国家の 連合 体に 
統制 力の 加わ つたこと は 想像 される が, 殷周 革命 (佐 野 学 氏) といつ た %t ^変革 を 想 

定 する こと は, にわかに は 賛成で きない o 

周 代 封建制度 は秦代 郡県制度 と 対比して 理解され てきた 用語で あつたが, これ を 日 
本の 幕藩体制に 転用 し, さら に 西欧の フユ一 ダ リズム に 適用す るよう になって から そ 

の 意義に 混乱 を 生じ, 各部 門に 多くの 論争 を 起した。 この こと は 各 時代 各社 会に 対す 
る 考察 を 深め, また 封建 制 そのものの 意義 を も 反省させる ことにな つたが, どの 判断 

が 最も 正しい かとい うこと よりも, なぜ そのような 問題と なった かが, まず 課題と な 
るべき であろう。 元来 中国で も 日本で も, 封建の: M にも 語感に も 排斥すべき ものと 
や う 感情 は 含 まれて いなかつ たが, フ ラ ンス 革命 当時 フュー ダ リ ズムを 廃棄す ベ き 旧 
制度と して 目指す ようにな つてから, これ を 封建 制 と 訳して 自由 '進歩' 革新 を 阻害 

する ものと いう 前提が 付加され るよ う になった o 文字が 一つの 志向 を 持つ とそれ 曰 身 

勸 き 始める。 廃棄すべき もの を 意識の 裏にお いて 組織 • 人間関係 を 追求し, 前 近 

代 的な:^ 構造の 中に 封建 制と しての 公約数 を とらえようと したので ある o 

もちろん 周 代の 封建 制と 日本の 幕府 下の M と 西欧 中世の 様相との 間に, 政治 • 社 
会 • 文化 • 道徳な どに 共通点がない わけ ではない ひ 同じく 封建 と 呼びなら わし た 習慣 
からだけ でな く, 相似た 統治の 形から 相似た M の 動向, 相似た 意識の 成長 はいくら 


76 


古代の 世界 


でも 跡 づける こ とがで き るであろう。 しかし 周 代 封建制度に 代わって 秦代 郡県制度が 
施行 された の を もつ て 中国の 封建 M が 終つ たと するなら ば, 用語の 混同ば か り でな 
く  , ネ i 進展の 本質 を 正視で き なかつ た も ので ある。 なぜな らば 周 代の 統治 は 封建的 

であっても, これ を 動かして いた 力 は 氏族 的な 血縁 関係で あり, ネ ±^ の 基底 は 奴隸生 
産に あって, 土地 を 媒介と する 主従 関係, 農奴 を 母体と する 生産 組織 はま だ 見られな 

かつ た 力、 らで ある o 

春秋 戦国 周 王の 統治 は 約 4 世紀で, 西方から 侵入す る 異種 族の 略奪で く つが え さ 
れ るに 至った。 伝説で は 周 室に 秘蔵され た 龍の 清に 触れた 宮 女が みごも り 女子 を 生ん 
だが, 不祥と して 棄 てた。 当時 童謡に 彤 弓が 周 を 滅ぼす と 歌われた ので, 朱塗りの 弓 

|- う じ 

を 作る 老人が 難 を 恐れて 逃亡し, その 女子 を 拾って 養育した o これが 褒姒と 呼ばれた 

美 入と な り , 周の 幽 王に 選ばれて 妃と な つ た 力 1 顔 を 見せな かつ た。 王 はこれ を 笑わ 
せる ため 偽りの 鋒 火 を あげて 諸侯 を 集め, ついに 犬戎 侵入に 諸侯の 来援す る 者な く滅 

亡した というの である。 こ の 説話 に は 中国 以外の か お り がす る 。 西 周 の 滅亡 は B.  C.  770 
年と され, 平 王が 東方 洛邑に 擁立され 周 王朝 を 復興した が, 魯 *衛'晉'鄭*曹* 
蔡 • 燕の 同姓 7 国と 斉 • 陳 • 宋 • 楚 • 秦の 異姓 5 国の 12 諸侯が 強大で, 百 数十の 諸侯 
はいずれ かの 勢力圏に 属す るよう になった。 このの ち秦 帝国の 統一が 完成す る B.C. 221 
年 ま で 東 周の 世で あ る が, こ の間晉 国が 3 分して 韓 '魏' 趙が^ : す る B.  C. 403 年 を 
境と して 前半 を 春秋, 後半 を 戦国と 呼んで いる。 

春秋 時代 と は , 魯国の 記録で あ る 春秋 を もと に 孔子が 編 さんしたと いわれる 春秋 と い 
う 歴史 書 (孔子 は 手 を 加えなかった ろうと もい われる) が 722〜481B.C. 間の こと を 
編年体に しる してお り, 大体 その 時期に 当たる ので かく 呼ばれ, 戦国時代 も 主と して 戦 
国策に しる された 時期に 当たる ため, 古くから こ う 呼ばれた もので, 前後 約 5 世紀に わ 
たって いる。 この 時代 は 氏族 的な 部落 国家が 少数の 領土 国家へ 成長し, やがて 古代 铳 
一 帝国が 完成され る 準備期間で, 氏族 的な 統制 力が 鉄器 農具 や 役畜の 普及に よる 農業 
生産力の 增大 と 異 民族の 侵入 や 部落 間の 抗争 とから 無力と なり, 代わつ て 実力 力1^ 揮 
される 活発な 時代と なった o 秦 代から 清 代まで 続いた 20 世紀 以上の 皇帝 政治の 前夜で 
あって, 中 国史で は 最も はなやかに 回想され る 多くの 事象 を 含んで いた。 おそらく 今 
日の 日本の 青年が 中 国史への 関心 を 結びうる な らば, この 時期と 最近 数十 年の 時期と 
しかない ので はない かと 思われる。 それ は 未熟な 文化, 発育期の M にあら ゆる 躍動 
が ひそ ん でい るからで ある 0 

当時の 状勢と して 住 目 される の は, 政治的に は 140 余と いわれた 部落 国家 (諸侯:) が 
春秋の 12 侯へ, やがて 7 雄 (燕 '楚' 秦 '韓' 魏 '趙' 衮) へ 集約され て ゆく 過程, 
春秋に はなお 氏族 的な 倫理が 諸侯 をし ばって おり, 周 王 を 中心と して 強大な 諸侯が 相 

—— 77 —— 


I 資 料 編 

次いで 他の 諸侯 を 統制し 異 民族に 当た る と いう 尊王 讓 夷が 唱えられ, 5 覇 (齊 の桓公 * 
晉の文 公. 楚の荘 王. 呉王 夫 差. 越 王 勾践な ど) が 秩序の 中心と なって いたが, 戦国 

に は 7 雄 « 力 抗争 を 展開 して 周の 王室 は 一地 方 都市の 主人に すぎな くな つたこと, 
こ う して 富国強兵が 諸侯の 目標と な り, 氏族 単位の 車 戦から 大規模な 騎兵' 歩兵の 動員 
に 移つ たこと, 経済的に みれば 都市と 近郊の 自給自足 圏が 貨幣 流通の 盛 行と と も に 交 
J; 範囲 を 広めて 領土 形成 を 助け, 富裕な 商人 階級が 製塩 や 冶 鉄の 業 〖こよって 出現, 賓 

り, し  **んナ- ん  n "ん 实 こヽ けき  广ロ 

の臨淄 • 趙 の邯鄲 • 魏の大 梁な どの 都市 は 肩摩鷇 撃の 盛況 を呈す る に 至つ たこと, 殷 
代に 始まつ た 貝貨が 南方の 楚 では 青銅 製と な つ て 古泉 家の いう 蟻 鼻 銭が 現われ, 北方 
では 農具 を模 した 布 または 刀 子を模 した 刀と いわれる 青銅 貨幣が 流通し, 戦国 末に は 

秦で おそら く 刀の 環が 独立した 形と して ra 形方孔 の半両 銭が ffl いられ, 中国 銭 貨の定 
型 を 生み出 した ことな ど, すべて 統一と 普遍への 性格 を とらえ るべき であろ う。 一方 
この間に 漠 民族が 異 民族に 対し, 中華の 意識 を 強く 持ち 始め, 戦国に は 北辺の 秦'趙 
• 魏 • 齊な どに 長 城が 築かれて 万里の長城の 母胎 をな した。 そ して 中華の 思想 は 伝統 
的な 文化の 護持 を 要求し, 一方 富国強兵の 必要から くる 革新的な 思想と 対立し, 氏族 
的な 身分の^^ から 個人の 活動が めざまし く な る につれ て, 思想界に も 室 前の 活況 力5" 

訪れた ので あつ た o 

諸子 百 家 漠の武 帝の 思想 統一が 儒家 を 正統と してから, 儒家 を 除く 諸 学派 を 諸子 
とし その 淵源 を 戦国に たどる 風 を 開いた が, 儒家 も もちろん 春秋 戦国 期に 成立した 学 

統の 一つで, 当時の 思想 体系の すべて を 含めて 諸子 百 家と 呼ぶべき である o 春秋 戦国 

の 思想界の 活発 さ は , 氏族き が 家族 単位に 分裂して 個人の 立身出世が 可能に な つ た 
ことに 因縁し, ギリ シァの ポリ スの » と 競争が 民主主義 による 個人の 立身出世 を 可 
^にして その 思想界の 盛況 を もたらし たこと と 相 通ず る ものが あるひ ただ その 地盤と 
背景 と の 相違 は , さらに その後の 受け 伝えら れ 方の 相違 と 相 まって いわゆる 東洋 思想 
の 性格 を 形作つ たわけで ある。 

当時の 思想と して 最も 典型的な もの は, 春秋の 末に 生まれた 孔子に 始まる 儒家の 説 
である。 儒と はの ちに 他の 学派から 優柔 濡 弱の 意で 儒と ち よ う 笑され 自ら も 儒と 称し 

た 名であった ひ 後世 中国 を 代表す る 思想と して 儒教が 成長した ため, 孔子 教の 原型 は 
かえって 今日 とらえに くくな つたが, くずれて ゆく 周 代 封建 制 を 復興し ようとし, こ 

れに 新た に 強 く な つ た 家族 単位の 道徳 を 適用 としょう とした こと は 想像 される。 封建 

制の 維持が 礼への 復帰, 分 を 守る 中庸の 唱導と な つ て 彼に 保守的 反動的 色彩 を 与え, 

家族 道徳の 強調が 人間 主義 • 人間 尊重の 唱導と なって, 彼に 解放 的 進歩的 色彩 を 与え 

ている o 清 末の 革命 以来 反 儒 義が潢 行し, 中国の 積 弱 をす ベて 孔子 教の 罪に する 

に 至った が, 最近 郭沫 若に よって 孔子 を 人間 解放の « と 見る 説 も 起って いる。 ただ、 

—— 78 —— 


古代の 世界 


彼のい う 家族 道徳が 最初 か ら 封建 臭の 強い も ので, 中国 や 日本の 封建社会で 十分 洗練 
された こと を 着え 合わせる 必要が ある。 戦国 期 に は 彼の 追随 者 や 批判者が 多く 現わ れ, 

諸子 百 家 は 多 く 儒家と 相対的に 成長した o 戦国 期に 流行した 学説に はまず 墨 子の 兼 愛 

説と 楊子の 唯 我 説 ('^説) が ある。 墨 翟の兼 愛 は 儒家の 仁 に似てい るが, 仁 は 近き 

ものから 遠い ものへ 及ぼす 順序が あつたが, 兼 愛 は 靜!] を 認めず, 戦争に 反対し 葬礼 
や 音楽 を 無用と し, 墨守の 語に みられる よ う に 同志的な 結合 を 強く 保つ たようで ある。 

ただ 兼 愛はギ リ ス ト教の 博愛と は 異な り , 卿 • 大 夫な どの 貴族の 特権に 抵抗した も の 
の 統一 国家への 順応性 を 持って いた と 見られて いる。 楊 朱の 唯 我 説 は 当時の %t ^変動' 
権力 競争 か ら 逃避 して 自己中心に とじこもる こと を 説い たもので ある が, 利己主義で 
はあって も 個人の 自覚 を 伴な う 個人主義 ではな く  , 家族 または 氏族の 中に 安住し よ う 
とする ものであった。 これ はの ち に 道家の 思想 と 一致す ると して そ の 系列 と 混同 さ れ, 
さ ら に 享楽主義 的な '^説へ 傾 き, 長く 中国人の M 観に 巣 食 う ものと なった。 
儒家の 孟子の 言に 「楊 朱墨 翟の言 天下に 満っ, 天下の 言 楊に 帰せ ざれば 墨に 帰す。」 

といい, 「楊子 はわが ためにす, これ 君な きなり o 墨 子 は 兼 愛す, これ 父な きなり。」 と 

言って 反撃し, 君臣 父子の 関係 を 強調して 人の 性質 は 天与の ものすな わち 性 善な り と 
し, 天人 合一して 封建 国家の 再建 を 理想と した。 孟子に ついで 荀子は 人の 活動すな わ 

ち は 偽なる もの, 性悪な りと して 天人 各々 その 分 を 守って 君 権の 強大, 覇者の 権 
威 を 是認す る 方向 を と つ た。 その 門下から 法 家が 生まれた と される の も ゆえ ある こと 

である a —方 儒家が 周 代與建 制への 執着 を 断ち切れな いのに 対し, その^: 主義 や 倫 
連 観に 真 向から 反対した の は 道家であって, 老子 • 荘子 • 列 子な どに よ つ て 体系 づけ 

られ 人為 を排 して 無為 自然 を 説いた。 その 虚無 説 は 一見 近代の ュヒ リズムと 表現が 似 
ている た め 混同 されが ちで あるが, 道家 は 宿命論 的に 天の ^を 認めて 強力な 専制 政 

治への 順応 を 志向して おり, 人間の 解放 や 旧制度への 抵抗 を 本質に 持って いなかつ た 

と みられる。 同じく 自然に かえれ を 呼号しても ルソーの それと 全く 立脚地 を 異にして 

'ハ たこと を 注意し なければ ならない。 後世の 道教 は 全く 道家に 付会して いるが, その 

戎立ゃ 内容 は ほ とん ど 別 系統の ものと すべきであろう。 

戦国に な る と 以上の 諸 学派 を こ えて 法 家の 説が 君 権に 結びついて 優勢と な り, 多く 

しょうおう しん ふ ifiv>  かん ぴ 

の 論客 や 政治家 を 出して 他派 を 圧倒した a 法 家 は商鞅 • 申不 害に 起り 韓 非で 大成され 

た も ので, 道家 ゃ荀 子に みえ る 時勢 順お; を 一歩 進めて 君主の 定め た 法と これ を 施行す 

る 手段と を 説き, 信賞必罰に よる 法治 主義 を 唱えた。 これが 秦 王国の 成長と 表裏して 

専制政治 を 裏付け, ついに 始 皇帝の 宰相 李 あ を 生む に 至った が, 後世の 儒教主義から 

は 酷薄に して 恩少 なしと そしられた O である。 なお 戦国の 列国 間の 外交に ついて 遊説 

した 縦^ 家 は, 6 国 を 同盟 させて 秦に 当たる 合 縦 策 を 説いた 蘇秦, 6 国が 各自 秦と 同. 


—— 79 


I 資锊編 


盟 して 均衡 を はかる 連衡 策 を 説い た 張 儀 と で 代表 さ れ, 弁舌で 一躍 宰相の 地位 を 占 お 

けい し 

る 者の 出現 は, また 名家と いわれる 詭弁 的な 論理の 研究 を も 発達 させた。 すでに 恵 施 
や 公孫龍ら によって 概念の 遊戯 は 行われて おり, たとえば 公孫龍の 白馬 非 馬 論 は, 白 
は 色 に名づ けた もの で 馬 は 形に 名づ けた もの だか ら 白馬 は 馬で ない といい, 堅 白 石 論 
は 堅 石 と 白 石の 二つで あると いつ た 論理が 主張 された が, 結局 漢字 に 品詞の 別の ない 

盲点 をつ く にと どまって 論理学へ 発展す る こ と はでき なかつ た O 

' 第 2 章 大帝 国の 成立 


第 1 節 西 アジアの 帝国 

アッシリア メソポタミアに 興亡した 数多くの 王朝のう ち, いっから 古代 帝国 的な 
性格 を 持つ よ うにな つ たかは 斷定 しがたい。 あるいは アツ 力一 ド、 のサ ルゴ ン 王朝に ァ 
ッ カート、、. シ ュメ  — ル両 族の 同化が 進んだ 当時から 帝国 成立 を 考え, あるいは アム 一 
ル朝 (ハ ム ラ ビ朝) にパ ビ n ュ ァ 世界の 成立 を 認め る もの も あるが, 下つ てパ ピロ- 

ァ 人から 夷狄 視 されて いた 北方の ァ ッ シリ ァが 強大と な り, B.C.  745 年バビ n ユア を 
その 号令 下にお き, オリエント 世界に 君臨した の をのち の ペルシア 帝国の 先駆, ァレ 
キ サンダーの 世界 帝国に も 匹敵す る ものと して 扱う のが 一般的で ある。 もっとも アツ 
シ リア 帝国 1 世紀 余の 統治が 西ァ ジ ァ に 伝えるべき 伝統 を 十分 成熟 させな かつ た と し 
て, さらに 下って ペルシア 帝国に 古代 成熟の 中心 をお く こと もで きる ひ ただ 西 アジア 
がォ リエ ン トの 余風 を 受けて 最も 早く 文明 を 開き, したがつ てまた 最も 早い 古代 帝国 
へ 進んだ とする こと はよ いとして, それゆえに 最も 早い 中世 社会 を 迎え, また 最も 早 

く 近代 を 開花せ しめたと する ごとき は, なんの 意味 もない 歴史観で ある 。 

ァ ッ シ リア は パピ n ユアと 性格 を 異にする 文化 を 先史^から 築いて いた。 ただ 19 

世紀末から 20 世紀 初めに かけて 西欧 帝国主義 国家が 西 アジアに 進出 を も く ろみ, その 

要請から 楔形文字で 示される 古代 文化 • 古代 民族の 研究 を アッシリア 学 (Assyrio- 
logy) と して 発達 させた ため, アッシリア 文化の 評価に は 若干の ゆがみが ある こと は 
争え ま い。 楔形文字の 解読 は 1802 年 ドイツの グロ 一  テフエ ント (Grotefend) に 始ま 
り, ベ ヒス タン の 岩山に 残る ダ リウス 王の 灘 記念の 銘文 は ィ ギリス 軍人 ロウ リン ソン 
CRawlinson) によって 1847 年 読解され ている ひ イラン や イラクの 油田が 稷形 文字 を 
読ま した ものであろう o  了 ッ シリアが 世界 帝国 を 成就した のはテ ィグラ ト ピレ セル 3 
世で, その後 B.C.  7 世紀の 初めに は エジプトまで 遠征して 帝国の 全盛時代 を 現出し 
たが, 属 州の 反乱と 帝位の 不安定と は 各地に 古来 伝え られ ている 伝統的 支配者の 統御 

—— 80 —— 


古代の 世界 


を 完成す る こと はでき ず, B.C.  7 世紀の 末 バビロンの ナボ ボラ サールが 独立し, メ 
ディアの キュア クサ レスと とも に 首都- ネヴ- をお と しいれて 滅亡す るに 至つ た ひ こ 
の 時 エジプト は その 勢力 を 東方へ 伸ばす ため アツ シ リア を S^J したが, 再興す るに は 

至らなかった o 

ァケメ ネス 朝 西 アジアの 歴史 は 世界史の 盲点の 一つで ある。 日本の 過去に も 今 曰 
にも わた したち の 関心 を 呼び 起す 契機が 少なかった ばか り でな く  , 西ァ ジァ 自身の 廣 
史が 東アジア ゃ西ョ 一口 ツバの 目で はと らぇ にく い 内容 を 持って いるから でも あるひ 
この 中で 何れ か を 手が か りに するなら ば, 古 く ペル シァ 帝国, 中 ごろに サ ラセ ン 帝国, 
下って オスマン- トルコ 帝国の 3 者であろう ひ キロス 2 世 ( キュ ロス) が 小アジア を 
平定, 北方 をお さえて 最後に パビ 口- ァを 滅ぼして, パピ ロニ ァ 幽囚 中の ユダヤ人 を 
解放した のが B.C.  5S8 年, これ を 帝国 完成の 年と すると, 秦の 統一が B.C.  2必 年, ァ 
レキ サンダー のがい 旋が B.C.324 年, チャンドラ グプタの 即位が B.C.  322 年, ォ クタ 
ヴィ アヌスが ァゥグ スッス の 称号 を 得た のが B.C.  27 年, ペルシア 帝国の 先進 性 は 疑 
うべ く もない o ペルシアと は ギリシア 人の 称呼で, 自ら 呼ぶ パルス ァシュ または パー 
ルサと は 起源 や 由来が 異なる ようで ある。 ァケメ ネス 家 (ペルシア語 では ノ、 ノ、 マ— ュ 
シ ュ) の 始祖 ァ ケメ ネス は メディアに 属 していた が, 5 代 目の キロス2 世が 英主で ェ 

ジプト を 除く オリエント 世界 を 征服した o  . 

ァ ケメネ ス朝は 初めから 各地の 言語 • 宗教 • 習慣な どに 寛容で, 農耕 民と 遊牧民の 
上に 君臨 して 莫大な 蓄積 を. 駆使す る 黄金 政策に 依存 した。 キロスの 子 カン ビュ セスは 
エジプト を 征服した が, 本国に 乱が 起り, この 乱 をお さめた ァケメ ネス 一族の ダ リウ 
ス (ぺ ノレ シ 了 語で ダ ーラャ ヴァゥ シュ, ギ リシ ァ 語で ダ レイ ォス) が 帝国 全盛の 時代 

を 築いた (在位 8.(:.522〜486)0 帝国 は 20 の 州 (サ トラ ピー) に 分かれ, 首都 スサに 
集権 的 な 組織が お かれ, エタ パタナ や ペルセポリス などの 都 域の 造営, スサと 小 アジ 
ァ のサル デス を 結ぶ 幹線:!^, 車輛 '駄馬' 船舶の 整備, 広範囲な 物資の 交流, ダレ 
ィ コ ス 金貨 • シグ ロス 銀貨 銀 比価 1 : は. 5) の 流通な ど, 古代 帝国の 充実 は 各方 
面に 見られた o ダリ ウスに^: いで クセルクセス (タシャ ヤール シャ) は アテネからの 
亡命者 や 側近者に 動かされて ギリ シァ 遠征 を 行って 失欧, 次の アルタクセルクセス は 
ギリシアと 和して, ギリシアのへ 口 ド トス や デモ タリ トスら が 帝国 領内 を 旅行して 記録 
を 残して いる o その後 帝国 は 衰えた が, また ギリシア でも ペロポネソス 戦争で アテネ 
が 衰え, ァ レキ サンダーの を 迎えた ペルシア はダ リウス 3 世の 治下に あった 0 

ゾロアスター 教 ァケメ ネス 朝から サ サン 朝に 至る 間, ゾロアスター 教は ペルシア 
の 国民 宗教と して 栄え, イスラム教の と ともに 国外に のがれて 8 世紀 ごろ ィ ン ド 
に 入り, ボンベイ 付近に パノ レシ 一族と して 今日に 残存し, また 中国に はいった もの は 


81 


I 資料 編 


唐 代に 驗教 0^ は 新しい 当時の 造 字, つくり は 天で ある) として 知られた。 予言者 ゾ 
ロア スター (ツァラ トウ シュト ラオ, 黄金の 路駝の 意と いう) が 古代 ァ一 リ ァ 人の 持 
つ 原始 信仰 を 改革 して アフラ マツ ダ 〔アフラ は 神, マ ッ ダ または マズタ は 知恵の 義, 善 
霊 や 光明の 神と して 電燈の 商標に も 使われて いる) を 唯一 神と した もの, ゾ ロア スタ 
一 は 伝説で は 3.  C.  660—583 年 に 在世 し SO 才でサ パ ラ ン 山頂 に 天啓 を 受けた といわれ 
る。 その 経典 はァヴ エスタと 呼ばれ, 教祖の 1^ が 含まれて いる ひ ァヴ、 エスタ はァケ 
メ ネス 朝に 完成して いたが, ァレキ サンダーの 遠征で 散逸し, サ サン 朝で 再編成 さ 
れ, 祈とう '儀式' 賛歌な どより 成って いる a その 教義 は 一切 を 創造す る 善 神が 悪霊 
や 虚偽 を 破砕す る こと を 述べ, 寺院に は 不断の 聖火 をたい て 祭官が これ を 守り, 種々 

の 清 被の 式 を 行う。 火 を 清浄と して あがめる ので 拝火教と 呼ばれ, 死体 は 形の 塔で 
風に さら す 習慣 を 持つ ていた。 一神教の 信仰に アフラ マツ ダに 対す る 悪神 を 配す る 二' 
元 的 » 、が 加わった の は, 原始 信仰の 残存であろう が, サ サン 朝の 神学で は 二者の 総 

合に 努力し, 善 神の 支配 3,000 年, 悪神の 支配 3,  000 年, 両者の 争いと 善 神の 勝利に 終 
る 3,  000 年と いった 世界の 成長 を 考える よ う になった o 今日 ィ ン ド、 のパノ レシ一 10 万と 
イランに ダーリーと いわれる 同 教徒 1 万が 残存 している。 

パル ティ ァ ァレキ サン ダ— 帝国が g して その 西 アジアの 領土 は 大王の 遣 臣マケ 
ドニ ァ 出身の セレ ゥコス が 領有 して シリア 王国が 建設 された が CB.  C.  312 年), その 孫 
の アン ティ ォコス の 世に ペル シ ァ 帝国 以来の 一州 パ タト リア の 総督 デ ィォド 、トスが 自 
立して パク ト リア 王国が 建設され た CB.C.255 年) ひ この!^ に 乗じ シリア' バクト 
リアの ギ リ シァ系 2 国に 対し, ィ ラ ン 系の 遊牧民の 部長 アル サケス が パル テ ィ ァの総 
餐を 殺して パル ティア 王国 を 建てた (B.C.248 年) 。 パル ティア は 帝国の 1 州で 辺地 
の 人の 意と いわれる が, ペルシアの 伝統 を 継いで その 由来 は 異なる が, 地中海 世界 か 
らは 同義と して 扱われた わけで あるひ アル サケス の弟テ ィ リ ダ テス は パク ト リアと 同 
盟 して シリアに 当たり, 遊牧民 ス キタイ 族 を 軍の 主力と して B.C.  2 世紀に は 西はュ 
ーフラ テス川から 東 は ガンジス川 に 及ぶ 大帝 国 となった 0 

バルテ ィ ァ 帝国が ゾロ ァスタ 一教 ィ 匕した とはいえ, 初期の 宮廷 はギ リ シァ 風. が 圧倒 
的で, 公用語 はギ リ シァ語 を 用い, 貨幣 もギ リ シァ 式で, Philliellen  (ギ リ シ ァ愛 
好 者) と ま で 呼ばれた が, ペルシア の 伝統 は 失われず, ヘレ ュ ズム 世界へ 東方 的 色彩 

けん 

を 住人す る 役割 を 果たした o 漢 代の 中国に 安息 国 として 知られた の は張騫 の もたらし 

た 知識に 始まる が, この 国の 王が 始祖 アル サケス を 神格化し, 歴代 王が アル サケス の 
公称 を 持った からで, アル サケス 朝が 中国に その 名 を 伝えられ たこ と は 仲介貿易の 盛 

ん であった こと を も 物語って い る。 B.C. 1 世紀 ごろから 新興の 口 一 マとの 争いが く 
りかえ される ようになり, B.  C.  53 年に は a — マの クラッスス の 遠征 軍 を 破つ て その 


82 


古代の 世界 


首 を 得た り, アン ト ュ ウスが ク ラ ッス スの復 しゅ う 戦に 侵入した 時 も これ を 破って い 

るが, A.D. 1 世紀に なると ローマの トラヤヌス 帝の^ A を 防ぐ ことができず, 首都 
クテシフォン も 兵火に かかり, しだいに 衰弱した。 その 間 パー ルスに 起った サ サン 朝 
が 強大と な つ て, 226 年ク テ シフォ ン は そ の 手に 陥つ て パル テ ィ ァ は 滅亡した ひ 

バク トリ ァ ァ ケメネ ス朝 以来べ ルシアの 1 州 だ つ た パク ト リア は B.  C.  255 年 シ リ 
ァのセ レゥコ ス 家が エジプト と 争って いたのに 乗じ, f 、ィォ ド、 ト_ス によって 自立し, 
ギ リ シァ 系の 最も 東方の 王国が 出現した。 B.C.190 年 ごろ デメ ト リ ォス王 は 自ら ァ レ 
キ サン ダ 一 を 夢み てィ ン ド、 侵入 を 企て, マ ゥ ルャ朝 衰亡 後の パ ン ジ ャ―ブ を 占領して 
いる 間, 本国 はセレ ゥコス 家の 一族に 奪われ, 各地に 反乱が 起って, この 東方の ギリ 
シァ 入の 支配 は 急速に 衰えて いった。 パク ト リ ァは B.C. 139 年 トノ、 ラに 滅ぼされた 

が, やがて ィ ン n こ タシャ ナ 朝の 開かれる 先駆と な り , ま た 西北 ィ ン ドにギ リ シァ的 要 
素 を 多く 植えつ ける 因緣を もな したので あった。 中国で いう 大 夏が この パク ト リアに 
刍た るか, ト ハラに 当たる か は, 議論の あると ころで あるが, 従来は パク ト リアに 比 

定 している o 

レサ サン 朝 ギリ シァ 風の バルテ ィァに 代わって ペルシアに 国粋と 伝铳の 大国 家 を 建 
設 したの はサ サン 朝であった。 ァケメ ネス 朝と サ サン 朝と は 中国の 秦 漢と隋 唐に, ィ 
ンドの マウ ノレ ャと グ プ タ に 対比 される ひ 西ァ ジァ史 だけ をと ると 古代の ァケメ ネス, 
中世の サ サン, 近代の サラ センと 区分す るの が 妥当の ようで あるが, おのおのの 社会 
の 実体 はいずれ も 古代 的で あり, 今日の アジア の 状勢 を 考え 合わせても サ サン 朝に 中 

世 的. 歷史を 認める 意味 はない。 ここで は 古代 帝国の 復活と して 扱って いる o サ サンと 

はこの 王朝の 祖, ゾロアスター 教の 祭官サ サンに 由来す ると も, ダリ ウス 以来 用いら 
れた 「王の 王」 (ク シァ ― シ ャ一, ク シァ 一 シ ヤー ナ一 ム 転じて シァ 一, アル, シァー 

のな まり) によると もい われる o 王の 王と はま さに 古代 皇帝 専制の 象徵 語であろう o 
226 年 ゾ n ァス タ —教 再興の 理想 を 持つ た アル ダシール はパ ノレ テ ィァを 倒して クテシ 

フォンに 新 王朝 を 開き, ァ ノレ メ-ァ 地方の 帰属 をめ ぐって バルテ ィァ 以来の ローマと 
の 抗争 を 続ける 一方, ゾロアスター 教を 国教と して, 西 は メソポタミアから 北 は 黒海 

• 裏 海, 東 は 中央アジアに 及ぶ 大 領土 を 保った o  ' 

こ の 国に はコ ン スタン チヌ ス 帝の キリスト 教 政策に よ り 異端 とされた ネス ト リウス 

教 (景教) が 西から 流入し, 東から 匈奴が しばしば 侵入し, 東西 両 境に 事が 多く, ま 
た異 民族 '異 宗教に 寛大 だつ た といわれて も , 国粋 的な ゾ" ァスタ 一教の 神権政治 は, 
他 宗教への 迫害 を 強める 傾向が あった o たとえば 241 年 マ-が 創設した マ 二  (摩 尼) 教 
は 仏教 主義の 解脱 を 説いて 一時 宮廷に も 支持者 を 得た が, 3 世紀の 末に は 邪教と して 
マ 二 は 殺され 教徒 は 弾圧され た。 マ- 教は その後 中国に も 流 伝し 唐 代に 行われ, 西方 


83 


I 資料 編 


では ノン リア 'エジプトから スペイン '南 フランス • イタリア にも 伝わ り, ローマに 

多数の 教徒が あつたと いわれる。 次いで 6 世紀の 初め マ ズダク によつ て 財産 や 婦女の 
等な 所有 こそ 社会悪の 根元 だと して その 均等化 を 説き, 光明 世界 建設の ための 禁 
欲 を 唱える マ ズダク 教が起 り , 国王 は 貴族 や 軍人 をけ ん 制す る ためこ れを 擁護した が, 
貴族' 軍人の 反撃で 国王 は 幽閉され, マ ズダク 教徒の 大虐殺が 行われた o かくて ササ 
ン 朝の ゾ ロア スタ 一主義 は 確立した が, マ ズダク のよ う な 均 ^MSI] の 広まった こと 
は, 国内の 階級が 変化し よ う と していた 動勢 を 示す ものと 考えられ ている。 

サ サン の 芸術 は, 古代べ ル シ 了 の 造形が ヘレ ュズ ム 世界 と ビザ ン チ ン 勢力 とに 銀え 
られて 豪快な 気風 を 繊細な 手法で 表現し, クテシフォン に 残る ホス 口 一  1 世の 宮殿 や 

C だいぎれ 

ターク- ィ- ボス ターンの 岩く つな どに 代表作が みられ, わが 正 倉院 御物 中の 古代 裂 

ゃ法隆 寺の 四天王 紋 旗な どの 図案に ササ ン 的な も のが 明瞭な こと は 早く か ら 指摘され 

てきた。 サ サン 朝 は 6 世紀の ホス n —王の ころ を 全盛と し, 7 世紀に はいると 貴族 勢 
力の 類 鹿から 統治 力 は 弱まり, 東 ローマとの 抗争に 疲れ, アラビア のぼつ 興に たち ま 
ち 屈する ことにな つ た 0  632 年 当時 全盛の 唐へ ffigj を 請う たこと も あるが, 651 年ァ ラ 
ビア 軍に 敗れ クテシ フ ォ ンは陷 つ た o ペルシアの 命脈の 尽き ると ともに ゾロアスター 
教も 終えん を 告げた ので ある o 

第 2 節' 南アジア. の 帝国 

仏教の 成立 マウル ャ朝 における 仏教 は, 漢 王朝に おける 儒教, ローマ帝国 におけ 
る キリスト教, ァケ メ ネス 朝に おける ゾロ ァスタ 一教な どと 同じく 古代 帝国が 成熟し 
て ゆく 時, 必然的に 支配者に 取り上げられ, それ 自身が 持つ 民衆に 食い こむ 力が 利用 : 
された ものであった。 したがって:^ 教と して 成立の 事情 は ほぼ 共通して 理解され る 
が, これ を 越えて その後の 推移が すべて 異なって いる 事情 を, そのつどの 情勢に よる 
だけで な く  , すでに S^z: の 中に 伏在して いた こ と を も あわせて 考えて お く べきで ぁ& 
う。 イン ドの ブラ 一マン 体制 は 多 民族 混 住の ガン ジス 流绒で 社会秩序と して カス トを 
作り上げた。 そして 受け 伝えられた ヴ- ーダを 神聖 視し, これ を 展開して ゥパ ニシャ 
ッ ト、、 (奥義 書と 訳される) に みられる 晦渋な 宗教哲学の 中に ブラ— マンの 権威 を 燃焼 
させて いった。 ブラー マンが 自分の 権威に 固定して しまう と, シャ モン (沙門) と 呼 
ばれる 自由 思想家が 起り, ブラー マンの 至上 を 否定し 始めた が, これ はまた 多数の 部 
落 国家が 領土 国家へ 成長して ゆ く のと 平行し, 武力 を 持つ クシ ャ ト リアの 有力 化は沙 

門の 活躍の 背景 をな した ひ 
シャカ は 今日の ネ パー ノレに いた シャカ 族 (シャ 一キア) のゴ一 タマ (すぐれた 牛 ひ 


84   


古代の 世界 


意, 祭7 li 已 関係の 家柄であろう:) 家に 生まれた が, その 地 はァー リ ァ 族の イン ド、 東北の 最 
先端であった o カスト は クシ ャト リア o  ^^の 地 ルン ビ-苑 の 遣 跡 も 残されて いる ひ 
彼が 非ァー リア 圏すな わち ブラ 一 マン 体制 外の 社会 を 身近に 持って いた ことが, 人間 
の 平等 を 考え る 因縁と な つ たで あろ う し, 自覚に よ る 解脱 を 説いた の はァー リ ァ的伝 
統から かちとつ たもので ろ あう。 シャカ 族 は 隣国 コー サラに 合わせられ たが, コーサ 
ラ • マガ ダ • ヴ アンサ • ァヴ アン ティの 4 大国の 抗争が やがて マガ ダ 国の マウル ャ朝 

に 統一され る 状勢 は, すでに シ ャ 力の 生前 多く の 支持者 を 持つ た 教団 を 浮かび、 上がら 
せ, ァショ 力 王の 帰依 は 仏教 勢力 を 決定的に する に 至った o しかし カスト を 批判した 
仏教が, カスト を 解消させる こと はでき ず, 平等 を 説いた 理想が 新興の 王族 や 富豪 を 
鼓舞す るに とどまつ たの は, 改革の 目標が ブラ— マン 体制に あり, その他の 矛盾 は 観 
念の 中に 閉 じ 込め られ ていたからで あろう。 シ ャカ 没後 約 1 世紀で 教団 に 分裂が 起 り , 
し だい に 理論 を 高度 に組鐵 したが, いわゆる 出家 教理 は 在家 教義 と 遊離 していった。 
そ し て 民衆の 仏教 は つねに カストに けん 制され, ブラ一 マン の 権威 に 脅か される 事情 

は 消えな かつ たので ある 0 

ジャ イナ (耆那 ) 教 シャ 力と 同じく 自由 思想家た る 沙門で 同じく タシャ ト リア 出 

身の マノ、— ヴ イラ o ^勇の 意, 本名 は ヴァル ダマ— ナ) が あり, 仏«団 が 成立した 

より やや 早く ジャ イナ 教を 創設した 0 これ も ヴュ ーダの ii ^を 認めず, 万物の 輪廻 転 

生 を 説き, 不 殺生 •  ^^語 • 不 fi 盗 • 不 邪淫 • 無 所得 を 誓い, 極端な 苦行 ゃ不 殺生 を 

実践す る 宗派で ある o 仏教 ほどの 拡大 や 変化はなかった が, 今日 も 百 数十 万の 信徒 を 

有する といわれる。 ただ その 教義から 殺生 を 犯し やすい 農業 や 力役に 従事せ ず, 商人 
ことに 金融業 者に 多い。 インドに 仏教が 残存せ ず, ジャ イナ 教が 生き残り えたの は 在 

家 教団が カス ト に 調和しつつ 伝統 を 守つ たからであろう o 

マ ハーバー ラタ パ— ラタ 族の 戦争の 大 史詩の 意。 B.C. 10 世紀 ごろの ァ— リア 族 

の 戦争が 歌い 継がれ, 領土 国家 形成の 間に 形が 整い, ィ ン ド、 の 民族 文学と して 最高の 
位置 を 占めた。 今日 イン ド、 連邦 は, ィ ン ド、 • シ ン ド、 • ヒ ン ド、 ゥ な どの 称呼 は 外部 か ら 
名 づけた ものと して 自 らは 国名 を パーラ ッ ト といって いるの も この 史詩に 由来す る。 
この 詩 は パーラ タ 族の クル 姓に 異母 兄弟が あり, 兄 系の 百 王子と 弟 系の 五 王子との 反 
目から はげしい 戦闘と な り, 五 王子が 天界で 再会す る 話 を 中心に 長短の 揷話を 加えて 
18 編 約 9 万頌 から 成って いる a マ ハー パーラ タ と 並んで 有名な 叙事詩に ラーマ _ャ之 が 
ある。 これ も 同じ ころ 形成され たもので, コ ーサラ 国の 王子 ラーマ を 中心に ラーマの 
兄弟が 森林の 魔王と 戦う 話で, ? 編 2 万4 千頌 o 民族 文学と して 愛好され 多くの 影響 
を 後世に 与えて きた o この ニ大 史詩が 仏教 興隆の 間に 民間に 伝承され, ヴ工— ダの神 
神から ヒン ドウの 神へ と 民間 信仰 を 成長 させて いった 跡 を 思わせ, 結局 仏教が ィ ンド 


 85   


I 資料 編 


の 地に 深く 根 をお ろさない という 土壤の 性格 を 示 した もので もあった o  -. 

マウル ャ朝 ガン ジス 流 威に 多くの 部落 国家が でき, B.C.  6 世紀 ごろに は 仏典に 

いう 16 大国が あり, その 做] 、さな 氏族 国家が 多数あった が, これが マガ ダ 国に 統 —さ 

れてゅ ぐ 過程が ィ ン ド、 古代の 成熟で あつ た 0 マガ ダ国も 都 を パー タ リプ トラ に 定めた 
ころから 強大と なり, シャイ シュ ナーガ 王朝の 名が 伝えられ ている ひ これに 代わった 
のが ナン ダ 王朝で, ァレキ サンダーが イン ドへ 侵入 した 時 も こ の 王朝の 強大 を 耳に 
し イン ダス 以東の 侵略 を 思い とどまった といわれる ひ B.  C.  317 年 C332 年 ともいう) チ 
ヤン ドラ グプタが ナンダ 朝 を 倒して マウル ャ朝を 開いた が, マウル ャは 漢訳 仏 典 では 
孑 L 雀と 訳され 孔雀 王朝と もい う。 あるいは チャン ドラ グプタの 母ム ラ 一に 由来す る と 
もい われる が, おそらく 種族の 名で, それ も カスト 的に は 下層の もので あったらし 
い。 彼 は 宰相 カウ ティル ャを 用い, 諸国 を 併吞し 西北 ィ ン ドか ら ギリシア 人の 勢力 
(シリア 王国) を 追い, 統一 を 進めた が, 権謀術数 を 説いた カウ ティル ャは インドの マ 
キヤ ヴ- リ と 呼ばれ, その 著と いわれる "実利 論,, は 古代 ィ ン ドの 制度に ついて 詳し 
く 伝えて いる 0 

チャンドラ グプタに 次いで ビンド ゥサ ーラ, さらに ァショ 力と 王铳を 継ぎ, マガ ダ 
国 全盛時代 を 現出した。 ァショ 力 王の 仏教 心酔 は 有名で, 拡大した 領土の 各所に 石柱 
や 磨 崖の 碑 を 残し, 正 法に よ る 政治 を 目 ざし 公平 • 慈悲 • 柔和 • 報恩 • 克己な どの 徳目 
を 唱導して 仏教 以外の 宗教への 保護 尊敬 も 怠らな かつ た。 これが 統一 国家 を 官僚 制で 
ま 美 持す るた めの 必要 か らき たもので あっても, そ の 理想の 高 さは 今日 インドの 政治 思 
想の 上に も 大きな 影響を及ぼ している。 ァショ 力の のちな お 9 代の 王铳が 続いた が, 
B.C. 180 年 最後の 王が 大臣に 殺され, マガ ダ 国の 支配 はシ ュ ンガ 朝に 移る ことにな つ 
た o 

アン ドラ 王国 ィ ン ダス • ガン ジス 両流铖 にお 'ける ィ ン ド 中原の 勢力 消長 は, 常 
にィ ン ド史の 中核 をな している が, 南ィ ン ドの デカン高原一 帯の^ は 古くから 非ァ 
一 リア 圏と して 歴史の g 外に 置かれが ちであった a 今日 も なお 古い ィ ン ドの 民族 や 
文化が 歴史の 脚光 を 浴び、 ないで 置かれて いる こ と は, 中国の 四川 • 霉 南と も 比べられ 
る。 マウル ャ朝 全盛時代に マガ ダ 国に^ ぐ 強 盛 を 誇った デカンの アンドラ 国 は, マウ 
ルャ朝 衰退に 乗じ 西海岸に 進出して 遠く  口 一 マと 海上 貿易 を 行い, 口 一 マの プリ ニゥ 
スの 「博物 志」 にも この 国の 富強が 伝えられ ている。 ローマの 貨幣が 流入して その 単 
位ノ イナ リウスが ディ ナーラと して インドに 借用され たの も 東西 貿^の 盛大 を 物語 つ 
ている a しかし こ の 国の 歴史 は 後半が 不明瞭で 3 世紀の 中 ごろ 滅ん だものと 想像され 

る だけで ある Q 

クシ ャナ (貴 霜) 朝 中央 ァ ジ ァ の 民族 は 時代に よりそ の 転変 移動が 激 しく, 東 


86 


古代の 世界 


南西 3 方面の 文化圏が 鏡の 役目 をな して ここ に 反映す る もの 以外の 実体 はき わめて 把 
握し がたい もので, その 種族の 動向の 不明な ものが 多い。 戦国時代から 漢 代へ かけて 
の 中国 史料に 現われる 最もお もな もの は 月 氏で, 愚 氏と か 和 氏と かと もい われた a こ 
れがィ ラ ン入か トルコ 人 か は 明らかで ない が, 匈奴が 強力に な る と 追われて 西に 移り 
大月氏 国 を 作り, 漢 はこれ と 同盟して 匈奴 を挾搫 しょ う と した o 大月氏 は 東方の 中国- 
よ  り も 西方 ギ リ シ ァ 系の 文化に ひかれ, パク ト -リ ァ 方面の 経営に 熱心で 紀元前 後に は 
土着の 部族 長 を 支配して パミ —ル 高原から ヒン ド、 ゥ ク シ ュ 山脈 あたり まで 領土 化し 

きゅう  きつ 

た a その 部族 長が 5 翕 侯と いわれた もので, 中国に 休 密' 貴 霜 '雙 靡 頓' 高附と 
伝えられ ている。 翕 侯と は 諸侯の 意, 紀元 1 世紀 ごろ 貴 霜 侯が 他 を 圧倒し, 大月氏 を 

も 滅ぼして 中央アジアから 西北 ィ ン ド、 にも 進出した。 その 王 は 力 ドフ イセ ス 2 世で, 

その 死後 クシ ャナは 分裂した が これ を 統一して 全盛時代 を 現出した のが 力 ニシカ 王- 
で,  トル キス タン • アフガニスタンから ィ ン ドの 大半 を 領土 とし プルシャプラ (今の 

ペン ヤー ヮル) に 都した ひ 力 二 シカ王 は 144 年 ごろから 二十 数年 在位し, 仏教の 保護 
者と して 有名で あるが, 仏典の 所 伝に は ァショ 力 王の 事癀が 混入して いる ごと くで 
ある。 クシ ャナは その後 サ サン 朝の 藩 属国と なり, サ サンが 東口一 マと 争って 東方の. 
支配が ゆるむ とまた 独立 を 回復し, 紀元 5 世紀末まで 続いた が, エフ タノ レ族 によって 

滅ぼされた a その 間中 国で は クシ ャナ をい つも 大月 氏と 呼んで いた o 

ガンダー ラ 美術 西北 ィ ン ドの ペン ヤー ヮ ノレ 付近に 紀元前 後 か ら数 世紀の 間 発達し 
た 美術 様式で, この 地方へ 仏教が 流 伝し ヘレニズム 世界に はいると, ギリシア 美術の 
手法で 仏教 的 主題が 表現 される ようになった もので あるひ こと に 仏陀 そ の もの の 表現 
は ィ ン ド 、人の 手で な く, ギリ シァ 系の 工人の 手で こ そ 躊躇な く 行われた も のと 想像 さ 
れ, のちの 仏像の 原型 を みなこ こに 求める ことができる。 ただこの 様式が 初めに ギリ 
シァ 式が 強く 表わされ, しだいに インド、 的に なって, クシ ャナ朝 力 ュシカ 王の ころ は 
す でに 衰退 期 にあった とす る 通説 は 必ず しも 正しく はな いか もしれ ない。 今日 個々 の 
遣 物の^; を 明らかに できない ため, ィ ン ドの 学者から は イン ト、、 的な もの を 主流と す 
る 説 も 提唱され ている。 

大乗仏教 ァショ 力 王 以来 仏教が 国家的 権威 に 裏 づけされ ると, 原始 仏教の 倫理的 
な 性格 は 理論 や 実践の 諸 体系が できて, 教団に い く つかの 特色 を 生む よ う にな つ た。 
紀元前 後 か ら 新興 教団 は 既成 教団 を 自己の 解脱 だけ を 目 ざす 小乗と け な して, 一切の 
成仏 を 志す 理想 をいだ く ようになった。 クシ ャナ 朝の 国際色 豊かな 環境が これ を 成長 

させた にち がい な く  , 紀元 2 世紀 ご ろ 龍樹に よ つ て 大乗の 理論 も 組織的 となった 。乗 

ね はん 

と は 運 載の 意, 生死の 此岸から 涅槃の 彼岸へ 渡る 解脱の 道 をい う a その後 仏教の イン 
ド外流 伝の 波に 乗つ て 大乗 は 中央アジア • 中国' 朝鮮 '日本' チべ ッ ト に 広ま り , 小 


87 


1 [資料 編 


乗 はセィ ロン. タイ • ビルマ • 力 ン ボジァ に 広まつ た 0 前者が サ ン スクリ ッ ト語, 後 

者が パーリ 語の 原典 を 用い, 前者の 信仰的な のに 対し 後者の 研究 的な 性格 も 成長して 

いつ たので あるひ 

グプタ 帝国 西北から 北 インド、 へ はいった クシ ャナ朝 も, 南方から 北 イン ト、 、をう か 

がう アンドラ 朝 も 3 世紀 前半から 衰え, インド 中原 は 分^: 態とな つたが, 3 世紀 後 
半 に グ プタが マ ガダ 地方 に 起 り , そ の"^ チ ヤン ドラ = グプタに よって 4 世紀の 初め グ 
プタ 朝が 創設され た。 マウル ャ朝は 来の 統一と 文化と が 約 2 世紀 間の 繁栄 を 続け, 社 
会 も また わが 平安朝 をし のばせる 貴族的 遊戯的 雰囲気 を かも していた。 4 世紀の 終り 
から 5 世紀の 初めに かけて 在位した 第 3 代 チャン ドラ = グプタ 2 世の 時代が この 帝国 
の 全盛期で, 領土 は 拡大し, 西 インド、 海岸 を 制圧して 海上 貿^の 利 をお さめ, デカン 

ほっけん 

高原 一帯 を も 帰属 させた。 中国 僧 法 顕がィ ン ド、 を 旅行して 「仏国 記」 を 残した の もこ 
め 時代で, 中国に は 超 日 王と して 知られた 。都 は パー タリ プ トラであった が, この 王 

は 西方 ウジ ャィ ユーに も 造営 を 起し, この 宮廷に 詩人 カーリ =ダ —サが 出て いる o 
この 時代 はィ ン ドで 仏教と ヒ ン ドウ 教 とが 交替す る 時期に 当たって いた o 仏教 は 洗 

練され るに 従い, かっての ブラー マンが 晦渋に なって 民衆から 遊離した ように, 出家 
教団と して 高度に 発達し, 仏教 自体が イン ト、、 民衆 を 見限って, より 共鳴 を 呼び やすい 
地域へ と 逃避して, その あとに は 民族 体臭の 強い ヴ ェ 一 ダの神 々が ヒン ド、 ゥ 教の 装い 
を まとつ て 登場して く るので ある。 しかし 帝国の 全盛 は 多 く の 仏教 遣 跡と グプタ 式な 
る 美術 を 残し, アジャン ター 窟院の 壁画 や 浮彫 は 代表的な もので, バーグ や エロ ラの 
窟院 にも 優秀 作が みられ, 仏教と ヒンド 、ゥ教 との 混在が 住 目され る。 グプタ 朝 は チヤ 

ン ドラ = グプタ 2 世から 2 代 目 孫の スカ ンダ = グプタが ェ フ タルの^ X を 退けて 帝国 
の 栄光 を 守つ たが, その後 は 分裂して 8 世紀 ごろまで マガ ダ 地方の 一 君 長と して 読い 
たもの のよう である 0 

ヒン ドウ 教 仏教に 代わって 紀元 5〜6 世紀から 今日まで ィ ン ト、 、人の 意識 を 支配し 
てきた もので, 古く ブラー マンの 教義に その 哲学的な 根拠 を 求め, 多くの 民間 信仰 を 
—集成し, 仏教 を はじめの ちに は イスラム教 • キリス ト教の 教理 を も 包摂した インド、 の 
民族宗教で 中国の 道教に 似て 一層 民族 臭 を 持ち, 8〜9 世紀の 間に 多く の 祖師が 現わ 

れて幾 つかの 宗派 を な し た。 しか し 共通す る 主神 は ブラフ マ ン (創造) • ヴ、 イシ ヌ a 隹 

持) • シヴァ (破壊) の 3 神で, ヴェ 一 ダのァ グ 二  (火:) • ス ーリャ (太陽) • ヴ ァーュ 
(風) • ィ ン ド、 ラ (戦争) • ヴ ァ ル ナ (海) • ソーマ 〔月) などの 神, 史詩 以来 新た に 信仰 を 
# ったク ^ラ (富)' カーマ 〔愛 )• サ ラス ヴァテ ィ (学問) など も 3 神に 配され る 0 そ 
して 3 神の それぞれに ブ ラヴ、 マン 派. ヴィ シヌ 派. シヴァ 派な どが 宗派 を 作り, 11 世 
紀 ごろから 神学の 体系が でき, 霊魂の 不滅と 輪廻 を 信じ, 善悪の 業に よって 永久に 転 


88 


古代の 世界 


生す る ものと し, カスト 制の 神の 定めた ものと して 鉄則と 考える, まさに 土着 的な 性 

格 を 築いて いつ た a 

ハ ルシア = ヴ アルダー ナ グプタ 朝の 衰退で ィ ン ト、 、史の 古代 帝国 は 終了した とすべ 
きで あるが, 唐 僧 玄奘が インド、 旅行に よって その 盛大 を 「大唐 西域 記」 に 伝えた ノ、  ノレ 
シァ王 は, イン ト、、 における 仏教 保護の 支配者と して, 古代 帝国の 威容 を 再現した 王者 

で7 世紀の 前半 〔王の 治世 は 606〜647 年) に 最後の 光栄 を もたら した ひ 彼 は 兄 ラージ 
ヤコ ヴ、 アルダー ナの のち マ ガダ の グ プ タ を 服属 させ, 西 インド、 を 征服, シ ン ド、 地方 を 

おさめて 北 インドの 大部分 を 統一し, 首都 カナウジ 〔曲 女 城, ラ— マヤ ナの 伝説で 不 
信の 娘が みな 奇 型に なった とい う 話に 由来す る:) の 繁栄 は 唐 都 長 安に も 比べ られ たら 
しい。 王 は 漢訳 仏典に 戒日王 (シ ーラ ディ ティ ャ, 徳の 太陽の 意) としる され, 文学 
的 才能 も 豊かで 劇の 作品 を 残して いる。 647 年 に 唐 使 王玄策 が この 国に おもむいた 時 
は, 王 はすで に 死に, 国 は 分裂して いて, 玄 策の 一行 も 途中で 妨げられ, これ を 破つ 
てがい 旋し たこ とが 伝え られ ている 0 

第 3 節 東アジアの 帝国 :'考リ' : ま 
秦 中国で 中央集権 的な 統一 帝国 を 作 り 上げた の は 西方 辺境 か ら 起つ た秦 であつ た 。 

せい 

戦国の 7 雄 はすで に その 方向に 進んで いたが, 秦 王政すな わち 始 皇帝に よって これが 

成就した。 秦は 伝説で は舜 から 羸 姓 を 賜わった 一族で, 周 代に 秦に 封ぜ られ, 西方の 

ぼく 

異 民族との 争いに 武力 を 練ったら しく,  B.C.  7 世紀 穆公 のころ から 強大と なり, B. に 
4 世紀 孝 公が 商鞅を 用いてから 七 雄の 一とな つた。 そのころ から 都 を 威 陽 (川の 北, 

_  はん 1 い 

山の 南で みな 陽の 意) に 営み, 他の 列国が 合 縦 連衡の 策に 迷って いる 間に 范睢 による 
遠交近攻の 策 をと り, B.C.256 年 周 を 滅ぼした 。政 は荘襄 王の 子, 6 国 を 相次いで 滅 
ぼ して 即位 27 年 CB.C.221 年:), 徳は 3 皇に すぎ 功 は 5 帝 を かねる の 意から 皇帝の 尊 
号 を 称し, 万世に 伝える ものと して 始 皇帝 を 名のった a 周 朝 は 神器と して 鼎 を 有した 
が, 彼 は 玉璽 を 作り, 咸 陽に 6 国の 王宮 を 移して 再建, 自らの 王城と して 巨大な 宮廷 
を 造営し, その 前 殿 だけ 完成して 世に 阿房 宮と 呼ばれた o 阿房 宮は のちに 項 羽に 焼か 
れ 3 か 月 燃え 続け た と いわれる ひ 

始 皇帝 は 征服 した 6 国の 故 地 を 36 郡に 分かち, さ ら に 華南から 越南の 地を征 して 48 
郡に 拡大し, すべて 皇帝の 直轄地と して 官吏 を 派遣して 統治 させた o ここに 政治的に 
は 封建制度が 廃され, 郡県制度が 施行され たわけで, 彼 は 全国 統一の 手段と して さら 

り し  しんてん 

に 文字 • 貨幣 • 度量衡な どの 統一に 着手 した ひ 文字 は 宰相 李斯の 手で 整理され た秦篆 

を 採用し, 従来の 地方 的 差異 をな くす ため 焚書な ど を 行い, 貨幣 は 政府 涛 造の 形 方 

—— 89 —— 


I 資料 編 

けん 

孔の 半両銭 (黍 10 粒の 重さが 累, 10 累 が銖, 24 銖が 1 両) を 行わせ, 度量衡 は 権 〔分 
銅) • 衡 M 度) • 斗 桶な どに 基準 を 設けた o 万里の長城の 構築 も異 民族と 一線 を 画す 
る 統一 意識の 表現で, 戦国 各国の 長 城 を 修築し 天子の 国 は 方 万里と いわれた のによ つ 
て 万里と 称えられたら しい o 今日の 長 城 は 大部分 明 代の 築城で, 秦の 時の もの は 西 
方に わずか 残つ ている にすぎない。 秦の 強大 は 早 く 法 家の 説に よ る 富国強兵が 成功し 
たためで あるが, 始 皇帝 はついに 思想の 統制に のり 出し, 医薬 卜筮の 書 以外 を 焼き, 反 

あな  _ 

抗 的な 学者 460 余人 を坑に 埋め 殺した。 古 文官 書と いう 書物'. こ, 始皇帘 が 方術の 士の 

説に 迷い 不老 長寿の 薬 を 求める の を あざける 諸派の 学者 を 集め, 不老 長寿の 薬と して 

i  'ざん 

厳冬の 瓜 を 見せ, そのみの つてい ると ころ を 見たい という 学者 を 威 陽 郊外の 驪 山の 温 
泉へ 連れて行き, 谷底の 温 地の 畠 をみ て せん 索す る 学者 を 一挙に 土砂で 埋めた 話が の 
せられて いる。 焚書 坑 嚅 は 後世の 儒家から 始 皇帝の 暴政と してきび し く 批判され た 

が, それ 自身 は 挿話的な もので, 20 世紀に わたる 皇帝 政治の 創設に 当たり, 6 国遣臣 
で 代表され る 旧 勢力 を 弾圧した 力量 は 非凡な も ので あつたと 思われる。 

始 皇帝に 象徴され る 中国の 古代 帝国 は , 皇帝 一人の 恣意 の た め 全国民が 奴隸的 な 奉 
仕 を 強要 された ものと して 専制政治の 典型 と 考えられて いる。 東洋 的 専制政治 とい わ 
れる この 説の 当否 はと も かく, このよう にして 古代 帝国 を 理解し よ う と した 近代の 歴 
史観が, 古代 帝国に おいて 人間の 自由と 平等が 最も 苛酷な 状態に あった ものと した ゆ 

じゅんしゅ 

えであろう。 始 皇帝 は 治世 10 年で 地方 巡回 (巡狩) の 途上に 死に CB.C.210 年) その 
喪を祕 して 2 世 皇帝の 即位に 陰謀の 行われた こ と を 史記は 伝えて いる。 それ は 将軍 

てん  ふそ  C がい 

恬と ともに 匈奴 征討 中であった 長子 扶蘇 を排 して, 少子 胡亥 を 即位 させた 趙 高と 李 期 
の 計で, 李 斯は事 成っての ち 殺され, 趙 高が 胡亥 を 擁する という 内部 崩 壌が, たち ま 

しさい 

ち 四方に 群雄の 蜂起 を 招いた の であった。 秦は B.C.  206 年 3 世 皇帝 子 嬰が 劉 邦に 降 
伏して 滅びた o 

前漢 C 西漢) 始 皇帝が 死ぬ と, 全国的に 反乱が 起り, まず 陳 勝と 呉広が 有力で あつ 
たが, やがて 江 蘇の 沛に 起った 劉 邦が 率いる 農民 軍と, 同じく 江 蘇 出身 (蹵) の 項 羽 
〔名 は藉) が 率いる 豪族の 子弟 軍と が秦 都に 殺到し, 威 陽 は 劉 邦に 占領され たが, 項 羽 

の 実力 は 西 楚の覇 王と して 劉 邦 以下の 首領 を 諸 王に 封 じた o その後 割 邦と 項 羽と は 5 

がい か 

年に わたる 抗争 を 続け ( 漢楚の 争), 羽 は 垓 下に 敗 死して, B.C. 202 年 劉 邦が 長 安に 都 
し漢 王朝 を 始めた。 羽が 垓 下に 囲まれ 四面楚歌の 声 を 聞き, 自分の 郷党 も 敵側に 立つ 

ぐき,  すい 

たこと を 知って, 虞 姫と ともに 「力, 山 を 抜き, 気, 世 を 蓋う, 時に 利 あらず, 雖 (愛 
馬の 名) ゆかず, 雖 ゆかず, 虞 や 虞, 汝を いかんせん」 と 歌った 哀話 は 虞 美人の 悲命 

ととと もに 長く 語り伝えられた o また 漢王 朝が 長く 読いた ことから, 劉 邦 (高祖:) の 

寛仁 や 功績が 過大に 評価され, 微賤から 起つ て 皇帝と な る 可能性 を 中国人に 信ぜ しめ 


古代の 世界 


る ことにな つた 0  「将 相 あに 種 あらん や」 と は, 中国の 個人 活動 を 鼓舞す る 合い こと 
ばであった  ひ 

漢の 高祖 は 功臣 を 諸 王に 封 じ, 封建と 郡県と を 折衷す る 郡 国 制 を 採り, 楚王韓 信. 
梁 王彭越 • 淮南王 黥 布な ど 異姓の 大 諸侯が 生まれた が, ま た しだいに これら を 滅ぼ し 

て一 族の 者に 代え る 方針 をと つた 0 そ の 性 酷薄 だ といわれ たの も そのためであった 

か, 高祖の の ち 同姓 諸侯 も 的 となった ため, これ を 抑圧 して 呉楚 7 国の 乱 となり, 
第 7 代武 帝の ころ は 再び、 中央集権 的と なった 0 武帝は 張 騫を大 月 氏に 使 させ 匈奴の 挾 
撃 を 計り, 西 或と 通称され る甘粛 J ^西の方 面に 勢威 を 伸ばし, また 南方に 領土 を 広 
め, 空前の 大帝 国 を 現出した。 いわば 漢代は 黄河 流 或に 発達した 民族 勢力が, 吸収す 
ぺ きもの は 吸収し, 成熟すべき もの は 成熟して, 飽和点に 達した 時期で, 現在 を 規正 
すべきす ベての 制度, 過去 を 展望すべき すべての 視点が 確立した 時代だった といい う 
る o たとえば, 古代の 多くの 民族の 持つ 紀 年の 方法 は, 有力な 支配者が その 支配 を^ 
始 した 時に 始ま り, ペルシア • ィ ンド • 中国み な 王の 何年と いう 刻み 方 を 例と してい 
た, 武帝 はこれ に 6 年 ごとの 名称 を 用い, さかのぼって 即位の 年 を 建 元と して 年号の 
制 を 建てた の も, すべて が 皇帝 に 掌握され る 意欲 か ら の 規正で あった ひ 秦 以来の 法 家 
思想 をお さえて 儒家 を 正統と し, 秦の 焚書で 散逸した 古典 を 収集し, 国家 倫理の 基底 
を 家族 道徳に 求めた の も それで あり, 司 馬遷が 太古からの 歴史 を 編さん して 百科全書 
的な 「史 記」 を 著わした のも漢 代の 機運 を 物語って いる。 

54 年に わ たる 武 帝の 統洽は しば しばの 外征で 晚年 財政 窮乏 し, 塩 鉄 の 専売 ゃ均輸 
法 • 平準 法と い う 地方に よ る 物価の 相違 を 平均 化す ると ともに そ の 利 を 政府へ 収め る 
方策 をと り, 貨幣の 民間 私铸を 禁じて 五 鉄 銭に 統一し, 豪族 や 富豪 をお さえて 自営 夤 

とうちゅう じょ 

民の 首 成に 努めた が, 董仲舒 が 限 田 をと なえて 犬 土地 所有 ゃ奴隸 所有 を 制限し よ う と 
した こと も 効な く, 豪族の 勢力 は 皇帝の 専制 を ゆるがす ようになって いった。 

中国の 古典 古く 甲 骨に 刻まれ 金石に 残され, また 木簡. 竹 冊' 布帛の 類に 書かれ 
た 記録のう ち, すでに 春秋 時 ft に は 太古の 賛歌の 歌謡 を 集録した 「詩経」 と 支配者の 
ことば を 集めた 「書経」 と は, 古典的な 地位 を 占め, 戦国の 諸 学派が 自説の 基準と し 
て 「経」 (布 吊の 縦糸, 長く 続いて 絶えない の 意と いわれる) の 概念 を 作り, 漢 初に 五 
経が 並立す るよ うにな つた 。 易 は 占筮の 書で あるが, 古代の 世界観に 結び、 ついて 深遠 
とされ, 太古に 淵源す るよう 信ぜられて きたが, 大体 戦国 期に 楚の 地方で 作成され た 
ものら しい。 礼 は 周 礼 • 儀ネし • ネし 記の 3 礼が ある が, 「周 礼」 は 周 代の 制度 を しる した 
もので は あるが 前漢 末の ものら しく,  「儀ネ し」 は 支配階級の 冠婚葬祭の 儀式 をし るし, 
「ネ しじ」 は その 意義 を 述べた もので, ネ しと は 規律 を さす a 春秋 は 魯国の 歴史で 孔子に 
利用され てから 重要視され, その 注釈書に 左 氏 伝. 公 羊 伝 梁 伝の 3 伝が あり, は 


一 91 


I 資 料 編 


羊が 重んぜられ, のちに 左 伝が 愛読され た 。古典の 纏に 当たって 最も^で ■. 

しめ 公 羊 か 息ん  . , ^ レナの 荦の 音で 尙 書と もい う) で, 前漠文 帝の 

あつたの が 書経 〔単に 書と いわれた か 上古の 書の 葸简曰 ^v   ,ので、 MP が 

r き秦の 博士だった 伏 勝 〔伏 生) が9 除 才で議 の 口伝 を も つ て 二 るん = つのて^  = . 

て, 碰 しんこの とき 漢代 通行の 織 書で 書いた から 今文尙 書, 

==ュ 子の 旧宅 を こわした とき 壁の きら 出た 記麵 にで • 

+ チ ふ もさ 丹 拳と いった。 これが おのおの 派閥 をな し 古文 豕は 

V) 等方で 書かれて い た た め古乂 尙晋 とい つん ひ 4 ゾ 

滅 した 扉の こ ち ま た 古文 尙書を 求め え た と して 偽 を: 

た。 今 文. 古文の 争い は, 古代 官僚の 党争と みる ことができる ひ— 

為の 最も 加わ り に く い 韻文で はあった が, ,家元 ====== 

われた が, これ はすべ て なくなり, 毛 享. 毛萇 2 氏の 所 伝 かの, f 存^ 

t  ^れ る 。その内 容^' き しぎの 3 種が あり, そ の 翻に は • 賦 • 興の3 種 か あ 
" 古せ 詩の 六義 として 著名で あるひ 

もと 鼠靜 あって^  〔六 芸) だった といわれ るが, 翻に 楽 は 失われ, 
五き はもと, v>  -.. ポ 経の や 統は原 凰の 尊 « 持に 熱中 し, 
儒学が 国教と して 権威 を 持ち 始める と と も に^ 絰 の子轨 は ^ハ マ^ 

=な爹 り 字句の 注釈 を 重ねて 雞の風 を 作り上げ" ; r:s:;sf 
摘 例 主義と に 対応す るので あるひ かくて 儒教の 古典 は その 分量と, とよ の 

中 g 皇帝 政治の 読く 限りと め 度 を 知らなかった" r きで あ" このよつ ^= 
^^ゎ らな いものに は, 文学の 源流と しての 楚辞, 史書の 淵源と しての 史 まと 
=ま と しで 漠代 力、 ら そ の 位置 は 動か ゆつ た ひ 楚辞 は雞歸 北の 4 霞 ご ; I 

に£ 華南の 6 言 歌の 形で, B.C.  年の 屈 原の 作と その 弟子 === ら 

^幻 棚で 華麗な 長 詩で ある。 漢代に はこの 系統 を ひく 美文の 賦か 代表的 文学と し 
て 多く 作られた ひき 馬 遷の史 記 は 黄 帝から 当時 在世の 武 帝まで 歴代し のよ 魏者 神む 
した 編年史すな わち 1き2 巻, 年表10 巻, 制度 や 天文 地理 を 扱った 書8 巻, 彖族 名家 
を 中心とした 1条30 巻, 個 入の 伝記で ある 列伝 マ 0 巻から 成り, 本紀 列伝 を 主と つ なと 
' ろ^ら 紀伝 体と 呼ばれ, 中国 正史の 典型と なった ひ 歴史 叙述に このような 体裁 をと 
つたこと は 著者の 見識に もよ るが, ペル シァ' イン ト、、 の 史書 は もとより ギリ シ^^ 
- マの 史学に も 類のない 整然たる 麵は, 当時の 史官-単なる 祭祀の 司会者 や 古伝説 
の 口演 解説者で な く  , 国家の 要請 を 意識した 政治 • 経済 • 社会 全般に 対する 批判者で 
あつたが ゆえであろう o 

後漢 C 東漢) 戦国 以来の 鉄器の 普及と 灌漑 設備の 拡大から 華北の 畑作 は 進歩し, 開 

懇の 増大と 相 まって 漠代脸 の 中核 は 自営 農民で あり, 政策 もこれ に 2,= 了 
いん しかし 氏族脸 の なごりで ある 各地の 豪族 や 新たに 官僚と して 登場し 具 族 化し 

た 富豪 や 暴利で 蓄財した 富 商な どが 土地 を 蒙し, 政府の 対策に け かわらず 大地 王 


古代の 世界 


は しだいに 增加 していつ た ひ この こと は 王朝 変革 を 促す ほ どの 社会 不安に は な ら なか 

つたが, 専制 政洽 にっき ものの 宮廷の 内部の 勢力 不平 均から, 前漢は 紀元 8 年 外戚の 
王莾に 奪われて 滅んだ 0 王 莽は新 都 侯に 封 ぜられ ていたが, 幼少の 天子 を 擁立して 実 
権 を 握り, 儒教的 理想主義で 民心 をつ かみ, 皇帝 を 毒殺して 紀元 9 年 新 都 侯に 由来す 
る 新 を 国号と し, 周 礼に のっとり 官制 や 地方 制度 や 貨幣 制 を 変革し, 犬 土地 や 奴隸の 

所有 を 禁じた o 後世 王 莾は胃 者 •« 奪 者と 悪罵され たが, その 理想主義 的な 方策 は 

自営 農民の 確立に あり , ま た それで こ そ 豪族の 反撃 を 受けて わずか 15 年で 崩れて しま 

たので ある 

王莽を 倒して 漢を 復興した の は 劉 秀で あつ た。 当時 各所に 蜂起した 赤 眉 • 銅 馬 • 鉄 
脛 • 大 槍ら の 流賊 ゃ劉玄 〔更始 帝) • 劉秀 • 公孫 述らの 豪族の 入 り 乱れた 混乱 を 統一 し 

て, 劉秀が 25 年洛 陽に 都し 光武帝と いわれた o 前漢の 皇帝 はなお 豪族 勢力 を 抑制す る 
方針 をと つたが, 後漢 になる とむ しろ 皇帝 は 豪族 勢力の 均衡の 上に 立って, 豪族 は皇 
帝 を とりまく 貴族と なる か, 地方に 根拠地 を 持って 連合 体 を 作る かの 方向 をと り, 
早く も^: 代 3 国 分立の 形勢が 準備され ていった。 後 漢は剛 睫の 風が みなぎつ ていた 時 
代と いわれる。 豪族 群 は 師弟 や 上役 下役の 関係で 結びつき, 個人の 義理が 儒教 倫理で 
裏打ち された こと も 地方分権への 方向 を 示して いるよ うで ある o 前 漢の史 記が;^ か 
ら その 当時に 至る 通史で あつ たのに, 後漢の 漢書 は前漢 一代 を 限つ た 断代史 となった 

の は, 西域 を 通過す る 東西 貿易が 読 けられたり, 西绒都 護の 1^ が 甘英を 西方に つか 
わし, 口— マの 東方 領土 を 大秦と 呼ぶ ことまで 起った が, 後漠 が封鎮 的に なりつつ あ 

つた 証拠 かも しれない。 後 漢は桓 帝 霊 帝 以後 衰微し, 黄 巾の 賊の き 不安の 中に 3 国 
駢 立の 権力 分裂が でき, 220 年魏の 曹丕に 帝位 を 奪われて 滅亡した ひ 
三国 後漢が 滅んで 精の 統一まで 約 3 世紀 半 は, かっての 胃 戦国 を 再現した よう 

な異 民族の 侵入 と 内部 治安の 混乱が 続き, 古くから 中 国史の 中世に 入つ たと みられた。 
これ は 中世の 内容に 意味 を 持たせる よ う になって から も 支持され て, 今日 これに 従う 論 
者 も 少な く はない。 もっと も 中国 史家に は 春秋 戦国 以後に 中世の 成立 を 認める もの も 
あるが, S 由 は ほぼ 共通して いる ひ ところが 日本の 史家に は 内 藤 湖南 以来, 三国 以降 隋 
• 唐まで を 中世と して, 宋は後 を 近世と する 通説が 行われて いる。 この 説 は, 古代' 中 
世 •  « を 大体 同 じ 継続 期間と する 学説の 前提と なる 以外に は, さ して 重要な M を 持 
たぬ よ うで ある。 日 唐 通交 を 古代 国家と 中世 国家の 交渉と みるよう な 矛盾 や, 今日の ァ 
ジァの 動向に 対する 説明の 無力 さから, 本書 は秦漢 から 隋 唐に 至る 期間 をす ベて 古代に 
包含 さ せ, 古代の 基底た る 奴^^ 産の 奴隸の M を 拡大解釈すべき だ と の 説に 従つ た。 

黄 巾の 賊は 184 年 河北の 張 角に 率い られた 農民 暴動で 山 東 •  g  • 江 蘇に わた り , 
2^ すでに 死し 黄 天 ま さに 立つべし と 言って 黄 巾 をめ じる しにつ けて 荒らし まわった。 

—— 93 —— 


I 資 料 編 

あるい は 五行 思想に よ り漢 の火徳 (赤) に 代わる 土徳 (黄) を 用いた のか も しれお 

い この 舌し は 張 角の 死で おさまつ たが, 後漢の 権威 は 地に 落ち, 山 東の 誓お, ^^の 

驗ぽ 江 蘇の 孫 権, 遼 西の^^ 瓚らの 群雄割拠 となった ひ 3 世紀に 人る と 華北の 曹操 
と 江 南の 孫 権の 2 大勢 力の 対立と なり, 幼8 年 南下して く る曹 操の 軍 を 孫 権と 劉備が 
協力して 赤 壁の 戦いで 破り, 觀備 は名臣 諸葛亮 〔孔 明) の 献策に よって 四川 を 奪取し, 
天下 3 分の 形と なった。 220 年曹 操の 子 曹丕が 後 漢の献 帝に 迫って 位 を 譲らせ 洛 陽て 一 
魏の文 帝と なると, 銎: 備は 翌年 成 都で 帝位に つき 〔蜀 の昭烈 帝), 孫 は その 翌年 建 業 
(南京) で 呉の 大帝と なった。 3 国の 抗争 は 約 40 年で 蜀は魏 に 降り (263 年), 魏は その 
将軍 司 馬 氏に 奪われ C265 年〕, 呉 は 司 馬 氏の 晉に 降って C280 年), 群雄 並立から 約 70 

年で 晉 王朝の 統一が 完成した o  せいじゅん  ゆず 

3 国 それぞれ 皇帝 を 称した こと はの ちに 正統 論 〔 正閏 論) を 生み, 晋が魏 の 禅り を 
ミ けた ことと 中原の 大部分 を 占めた こ とから 当然 魏が 正統の 天子と された が, 南北朝 
I 一毛 民族の 侵入 を 受ける と, これへの 抵抗が 歴史観に 反映して 習 鑿 歯 は蜀を 正統と し, 
さた 遼. 金の 圧迫 を 受けた 南宋の 朱 熹も蜀 を 正統と した ひ北宋 ごろから 三 f ,代 を 主 

らかんち ゆう  l^1_T  %7  ^  , 

題と した 講釈が お こ り , 元 代に は 戯曲 化し 明 代に 羅貫 中が 集成した 三国志 演義 は 长ゝ 
中国 や 日本で 愛読され た 小説で あるが, 蜀を 正統と し, 劉備. 関 羽. 張 飛. 孔明 など 

が 神格化 されて 悲劇的 要素 を 強調した ものである0 

晉 魏の 将軍 司 馬 ^  〔仲 達) は晉 公に 封 ぜられ てい, 孫の 司 馬 炎が 晉 王朝 を 始めた が, 
統一 はわず か 30 余 年で, 諸 王に 封 ぜられ た 一族の 争い (八 王の 乱) とこれ に 乗じた 匈; 
奴な どの 侵入で 316 年に 滅び, 安東 将軍と して 南京に 駐在して いた 一族の 司 馬^が 晋 
朝 を 再興した。 これ 以前 を 西晉, 以後 を東晉 という。 東晉は 華北の 失地 を 回復で きな 
かつ たが, 江 南に は 塞 北の 名家が 多 く 移住して 揚子江 流域に 文化の 花 を 咲かせる こ と 

リ  き, >*  か <* れく  けつ 

になった。 華北で は 五 胡 .C 匈奴の 劉 氏. 沮渠 氏. 赫 ^  ,羯 といわれた 匈奴の 別種 ,羯. 

室に いた 石 氏, 鮮卑 の^よ i 氏 •  ^安 氏 • 拓践氏 • 段 氏 • 乞 伏 氏 • 充髪 氏, 氏の 李 氏 • 
符氏 • 吕氏, 羌の i 氏) の 豪族が 建て た 16 国 (成' 前趙' 後趙' 前 燕' 後 燕 • 南 燕 • 
北 燕 '前 秦' 後秦' 西秦' 夏 '前 涼' 後 涼 • 南 涼 • 北 涼 • 西 涼) が 相次い^ 興亡 し, 
—時 華北 を 統一した 前 秦の符 堅 は 江 南 を货吞 しょ う と して 東 晉の謝 玄に淝 水の 戦 〔383 
年) で 破れ, 南北 対立が 固定した。 その後 東晉は その 将軍 劉裕に 奪われて420 年に 滅— 

亡した o 

南北朝 北緯 40 度 線 を 中心と して 南北の 民族が 絶えず 抗争して きたと は 白鳥 庫" 以 

来 東洋史の 主流と して 説明され てきた とこ ろで あるが, 今日で は その 事 夭 は 認める と 
しても, 歴史 進展の 鍵 を ここに 見いだ そうとする 態度 はと られ ていない。 むしろ この 
歴史観 が 中日 戦争の 理念に 結びつい たこと を 反省し, それぞれの 民族が 独自の 発 K に- 

 94   


古 代の 世 界 

努力した こと に 留意し, 興亡と か 盛衰と かの 裏に ある 文学 や 政略 を 歴史から 取り除 こ 

うとして いる o 中国 史上 北狄の 南下 は 周 代から みられ, 戦国の 抗争に も その 影響 は あ 

つたが, 南北朝で は 中国の 北半 を異 民族に 占領され, 元朝に 至って 全土が あげて 蒙古 
族に 占領され たわけで ある o 民族が 南北 に 振子 運動 を するとい う 考え も, 文化が 東西 
に 振子 運動 を するとい う 考え も, 歴史 を 舞 合の 上の' » とみて おり, 歴史に おける 自 

我の 確立と いう 近代 性に は^ a いといわなければ なる まい ひ 

東晉 がその 将に 奪われ, 劉 裕が宋 を 建国 C420~4?9 年), 劉宋 (皇帝の 姓すな わち 国 
姓と 王朝 名 と を 合わせ 通称と す るの が 中 国史の 例と な つてい る) もま た その 将に 奪わ 

しょう  しょうえん 

れ, 粛道 成が 齊を 建て (479~502 年), 讃斉も その 大臣 蕭衍に 奪われ 梁 朝 〔502— 557 年) 
となった。 蕭衍が 梁の 武帝 である o 梁の 将軍 覇 先が 梁に 代わ つ て陳を 建て (557— 589 
年), 楊 堅の 隋に 滅ぼされ るまで, 4 朝み な建康 (南京) に 都し 華北の 政権に 対し 南朝 
と 呼ばれ, あるいは 同じく 建 康に都 した 三国の 呉と 東 晉を加 え て 文化史で は 六 朝 と い 
う 。 華北で は拓跋 氏の〕 TO 帝が 魏 C 北魏ま た は 後魏) を 建て (386 年), そ の 孫太武 帝が 
華北 を 統一して 〔440 年), 南北朝 を 形成した 。魏 では 第 7 代 孝 文 帝の ころ 全盛で, 都 

ぎょう 

を 平 城 〔大同) から 洛 陽に 移し (494 年), しだいに 漢民族 風に 化した が, 534 年 鄴の東 
魏と長 安の 西魏 〖こ 分裂 し 実権 は それぞれ 高 氏と 宇 文 氏 とに 握られ, 東魏は 550 年 太 原 
の 高洋に 奪われ 北斉 となり, 西魏は 557 年 宇 文覚に 奪われ 北 周 となった a  577 年 宇 文 周 
は 高斉を 滅ぼし, さらに 南朝の 陳を 討とうと したが, 外戚の 楊 堅に 奪われた o 

当時 は 世界史 的に 民族 移動 期に 当たった から, 東アジアの 状勢 をョ— 口 ツバの それ 
と 比較す る こ とがで きる。 ゲル マ ン 族の 動向と 北朝の 建国ば かりで な く, キリスト教 
の 役割と 仏教の 仕事, 経済 や 文化の 動き も 興味 を そそる ところであろう。 南北朝 約: L50 
年 9 朝 52 帝のう ち 廃され たり 殺されたり した ものが 30#? 人, 激しい 政権の 争奪が 王室 
をめ ぐる 貴族 間に 行われ, 南北と も に 貴族 勢力が 強大であった。 こ と に 江 南 は 水田の 
開発が すすみ, 貴族が 灌漑 設備 を 独占して 奴隸の 使役 は 盛んと なり, 漢 代に 富強 を 示 
した 商人 はち よ う 落して しまつ た。 この^の 中国 文化に めざ ま しい 足跡 を 残した の 

きんじん 

は 仏教の 新ら しい 流行で あつ た。 仏教 は 伝説で は 後 漢の明 帝が 金 入の 夢を見, 西域に 
使者 を 出して 新しい 教え を 求め 洛 陽に 白馬 寺 を 造つ たのが 中国伝来の 最初と いわれる 
が, 魏晉 南北朝の 社会 不安に 応じて 南北に 広がり 大勢 力と なり, これに 対し 廃 仏な ど 
の 迫害が しばしば 起った。 前 秦の道 安 は 当時 最も 名高く, その 招きで 西域から 鳩 摩羅 

じゅ ラ  え おん  ぴぁ くれん  ほつ 

什が 後 秦の長 安に 来て 訳怪に 従い, また 前 秦の慧 遠は廬 山に 白蓮 社 を 開き, 東 晉の法 

けん  ぼ だいだる ま 

顕はィ ン ドへ 旅行して グプタ 朝 を 見聞 し, やや 遅れて ィ ン ド から 菩提 達磨 (通称 達 
磨:) が 渡来し 中国 禅宗の 祖 となった。 梁の 武 帝と 達磨との 問答 は その 史実 を 疑われて 

うんこう 

いる a イン ト、、 系の 石窟 が敦瑝 (甘 粛) • 雲崗 (山 西) • 龍 門 (河南) な どに 作られ, 仏教 芸 


 95 


I 資料 編 


術の 精粋 を 今 曰に 残した ひ 

戦国に 活発な 展開 をみ せた 思想界 は, 南北朝に は 奔放 さの 代わりに 沈潜 を 加え, 素 
朴の 代わ り に 繊細 さ を 加えて, 儒. 仏. 道の 三教の 交流に 諸子 百 家の 活躍 を しのばせ 

I  ,、 

る も のがあった o こ と に 道教 は漢 代の 議緯説 C 前兆 や 予言の 説) や 神仙 思想 を 発達 さ 

せ, iitc よ つ て 神秘主義 を 加 え, 楊義ら によつ て 実践的な 摂生 修養が 説かれ, 陶弘景 

によって 仏 皿 義: 乗り入れられ, ^^之に よって 国家権力と 結びつく ようになつ 
た。 もっと も 貴族 社会 は 儒教の 礼の 世界 を 主軸と したが, 道 仏の 滲透 ははな はだしく , 
清談の 徒の ような 世俗 を 白眼視す る 分子, 陶淵 明の ような 隠遁 的 分子 を 生み, 葛洪が 

神道 仙に, 慧遠が 白蓮 社に こ もった の もこ の 風潮から である 。 の 沙門 不敬 王 君 論 

は これら を 代表す る 思想で あろ う o 

文学 や-国の 茛噪 とその 子の 曹丕 • 曹植 兄弟 はなお 豪壮な 韻文 を 残した が, 南 渡 後 

~      '  しょうと ラ  もんぜん 、^ 

の 陶淵明 ゃ認霊 運ら は 華麗と なり, 梁の 昭明 太子 (簫統 ) の 編んだ 文 違は漢 以後の 代 

表 作 を 集め, 蓥 ik の 文 心 雕龍は 文学 評論と して 最初の ものと される。 美術で 絵画の 遣 
品は漢 以後 六 朝の もの はき わめて 少ない が, 東晉 の顴愷 之の 論 画 は 絵画 論と して 取 も 
古 く  , 大英 t« 館 蔵の 女史 廣図は 初 唐の 模本ながら 六 朝の 遣 風 を よく 伝えて おり, 書で 
は 北 碑南帖 といわれる とおり, 華北で 漠代 以来の 隸 書に よ る 石碑が 多 く, 江 南に は 行' 
草の 優雅な 風が 流行し, 東 晉の王 羲之は 書聖と されて いる。 建築の 遣 構 は ほとんどな: 
いが 石窟の 彫刻から うかがわれ, 西方 系の ra 屋根な どが 作られた らしく, 仏像 彫刻に は 
壮大な 石仏 を 始め ガンダー ラ 様式の も のが みられ, 6 朝 芸術の を 物語って いる。 
隋 小 王朝の 興亡が 続いた のち, ある 時点で 大王 朝の 出現す る こと は 古来 天の 時と 
して 宿命的に 考えられ たが, これに も 説明の 可能な 必然性 はあった のであろう。 ただ 

その 説明に 指導者の 偉大 さ だけが 賞賛され ると すれば, 歴史 を 英雄 史に 呼び も どす もの 
である し, 自然現象 のよう にたと えば 寒暖の 周期に 重点 を 置けば 歴史 も 自然科学に 追 
い やられて しまう ひ 北朝の 宇 文 周の 外戚 楊 堅 は隨国 公と して 勢威 を 集め た が, 581 年 

i え 【一 ゆ う 

周に 代わって 隋 王朝 を 開いた。 隨 国の 隨を 王朝 名と したが i が 水の 流れに 従つ の を 

縁起 を かついで はぶいた ので ある。 隋は ぉ9 年 南朝の 陳を 滅ぼし, 大興 (長 安) に 都して 

ようてい 

南北の^ 裂 約 270 年の の ち統一 を 成就した。 楊 堅の 子の ) ムカ^ i 帝で, あるひ 父^ 殺し 

とつけ つ  ごよ く  》 "ん 

て 帝位に つき, 外征と 土木 を 起し, 北 は 突 厥 (トル-族:), ^吐 谷渾 (青 海に 建国し 

りん ゆう  りゆうき ゅラ  しっくり 

た鮮盅 族), 南 は林邑 (チ アン パ〕, 流 求 (台湾〕 を 征討し, 咼句麗 を 3 回返征 して 

失欧 した。 また 各地に 宮殿 を 造り 万里の長城 を 修築し, 有名な 大 MM の 開 さくに は婦 
女子まで 動員した。 隋は突 厥への 対抗 上 都 を 西 安に 定め, ここに 兵力 を 集中した 力 V す 
で に 生産地 帯 となった 江 南の 物資 を:^ する ため, まず 都から 黄河に 達する 広 通渠を 
開き, さらに 黄河と » 江 を 結ぶ 逼済渠 と刊溝 を, さらに 黄河と 北の 白 河 を 結ぶ 永 済 


96 —— 


古代の 世界 


渠を 開き, 帝国の 主要な 経済 地 威 を 首府へ 連絡す る ことに 成功した o しかし 高 句麗遠 

征の 失敗から 各地に 反乱が 起 り , 618 年 煬帝は 部下に 殺 され, たち ま ち隋は MtT す る に 
至った。 ちなみに 日本で は 煬帝を 「ようだい」 と 読む 例と なって いる ひ これ は 五山の 

僧侶が 街って 中国の 固有名詞に 当時の 中国 音 を 用いた のに 始まり, 鄭玄を 「じょうげ 
ん J 孔穎達 を 「く よ うだつ」 杜預を 「どよ」 曹値を 「そ う ち」 などの 人名, 月 令 を 「が 
ちりょう J        を 「つがん」 淮南子 を 「えなん じ」 などの 書名が 通用され た ひ これ は 
街 学 以外の 意珠 はなく, ことに 煬帝 だけ を 「ようだい」 と 読む 必要 はない ひ しかし, 
なかには 班 周の 妹を曹 大家 「そうたい こ」 というよ うに, 家 は 姑に 通ず るた め 「こ」 

と 読む ベ き 必要の ある もの も ある O 

唐 秦の 命脈 15 年で 約 4  iija 間の 漢 となり, 隋の存 読 3阵 で 約 3 世紀 間の 唐 を 開い 
たこと は, きわめて 相似 的な 形で ある o 隋' 唐 を 中 国史の た どり ついた 中世の 開花と す 
る よ り 古代 帝国の 再現と みる 方が 世界史 的に う なず かれる 点 は 多い が, こ の 問題 はな 
お 多く の 研究に よって 今後の 是正が 期待され ている o 煬 帝の 晩年 反乱の 中に 都で 天子 
を 擦 立した 唐 国 公 李 淵が 煶 帝の 死と と も 〖こ 帝位に つき, 子の 李 世 民と と も に 反乱 を 平 
らげ 6 年後に 統一 を 完成した 。唐 は 第 2 代太宗 (世 民), 第 3 代 高宗の 世に 国威 は 全 
盛 をき わめ, 中 国史で 最も はなやかに 回想され る 時代 を 現出した o 隋 • 唐の 統一 は 均 
田 法と 府 兵制に よ る 富国強兵が その 原動力だった よ う に 考え られる ひ 均 田 法 は 北魏以 

来 施行され, 大 土地 所有の 拡大 を 防ぎ 生 M を 王朝に 直結す る 土地 政策で, さかのぼ 
れば漢 代の 限 田 法, 晉 代の 占 田' 法な ど 公私の 所有地 を 限定す る 政策に 源 を 発し, 国家 

が 個人 に 一定 の 土地 を 与えて 生産 を 確保す る 方法 で, 土地 の 登記 により , を 固定し, 
これに 兵 農 一致の 府 兵制 を 配して 強力な 支配 体制 を 建てた ものであった。 府 兵制 は 西 
魏に 始まり 唐に 完成した 徴兵制度で, 3 年 1 回の 徵兵, 府兵 となった 者 は 租税 は 免れ 
るが 兵器 '軍装' 糧食 を 自弁し, 平時 は 農耕に 従い 農閑期に 訓練 を 受け, 番上 といつ 
て 交替で 首都の 防衛に 当たったり, 防人と いって 辺境の 守備に 当たった りした。 一-, 
^^の, 唐 は 北 は 突 厥 を 破り, 西 は 西 或 を 州 県と 化し, 南 は ィ ン ドンナ を も 服属 させ, 
東北 は 高 句麗を 滅ぼして 満鮮を 手に いれ, 異 民族の 統治に は 6  fT 護府を 置いて 華 夷 
と も に 治める 世界 帝国 を 作 り 上げた o しか し 高宗の 死後 そ の 皇后 だ つ た 則 天武后 が 
690^ 帝位に つき, 李 氏に 代わる 武 氏の 王朝 周 を 開いて 15 年間の 専制 を 行った。 則 天 

制 字と いわれる 文字の^^  (天 を 丙, 地 を銎, 日 を 回, 月 を囝, 国 を^な ど) に みら 
れ るよう な 神秘主義の ほか, その 治世 は 唐 文化に 何もの を も 付加し なかった が, その 
後に も 中宗の 皇后 韋 后の 専権が あり, 唐の 国勢 は 下り坂に 向かった o  712 年 即位した 
玄宗は 中興の 事業 をな し 遂げた が, 徵兵 制度 は 崩れて 募兵 制と なり, 辺境 をお さえる 
軍団 の 司令官 た る 節度 使 は 半 となり, しかも 兵士 も 節度 使 も 異 民族で 占められる 


—— 97 


I 資料 編 


ようになった。 755 年に 起つ た安祿 山の 乱, こ れ に 続 く 安祿 山の 部将 史思 明に よ る 759 

年 以後の 乱, いわゆる 安史の 乱 は 節度 使から 起り, 8?4 年 ごろ 山 東から 起って 四川 以 
外の 全国に 猖 厥した 黄 巣の 乱 は 窮乏 農民の 流動であった o 唐が 安史の 乱 後な お 1 世紀 
半 の 命脈 を 保ちえ たの は 江 南 の » 地帯 を 確保 していた からだと いわれる ひ 初め 10 節 
度 使が 置かれた のに, その 数 はたち まち 40 を 越え, 藩鎮と 称された ように 封建 諸侯の 
ごと く なって 武人のば つ こ はなはだしく, 黄 巣の 部下であった 朱全忠 によって 唐が 滅 
び た の は 90? 年 であった ひ 

古く か ら唐代 は 漢民族の 到達し えた 最高の 世界 だつ たよう にい われた が, もちろん 古 
代 国家の 枠の 中での こ とであって その後の 発展 は 唐 を うわまわる 多く の 事態 を 示して 
いる。 しかし 制度 や 文化の 諸相 は 多く 完成され た 形 をみ せた o 中央 官制の 6 省 (;尙 書. 
門下 '中 書' 秘書 '殿中' 内侍〕 1 合 〔御史 合) 9 寺 (太 常 • 光祿 • 衛尉 '宗 正. 太 
僕' 大理' 鴻瀘 • 司 農 • 太府) 5 監 〔国 子 • 少府 '軍器. 将 作. 都 水〕 は漢魏 以来い 
く 度 かの 修正で できあがった 組織で, 尙書 省が 行政の 中心で 6 部 24 司から 成り, 6 部 

じょうかん 

と 9 寺と は 重複した ものが 多く 当時から 冗官の 皿が 説かれて いた。 官吏の 任用 は漢 

きゅう ひんち ゆうせい 

代の 郷挙里 選 (地方 ごとの すいせん 制), 魏晉 南北朝の 九 品 中正 (中正 官が被 任用 者 
を 9 階級に 分けて 推挙す る) に 代わり » 制 〔宋 以後 は 科挙と いう 試験 制度:) とし 進 
士科 • 明 経 科な どが 置かれた。 地方へ 赴任す る 官吏が 出身地 を 回避す る 回避 制 も 行わ 
れ, ようやく 官^^が 組織 ィ匕 されて きた。 一方 前代の 貴族 は 多 く 没落し 新 貴族が 官 
僚と して 登場し, 長 安 は 不在地主 たる 官僚で 満ちた こと は ^時代の"— マと 共通し 
ていた 。 これらの 貴族 は 奴隸を もって 私有地なる 荘園 を 経営した が, 中国の 荘園 は 国 
家 権力 を 担 否す る 不翰不 入の 持 権 は あま り 発達し なかった。 M に は 奴婢と 部 曲と あ 
り, 部 曲 はもと もと 軍団の 兵士であった のが 主将の もとに 奴隸 化し, 唐 末に はまた 節 
度 使の 私兵 を さすよ うにな つたが, ともに 家族 を 持つ 家内 奴隸 であった ひ 

均 田 法 は 18 才〜 59 才の丁 男に 口 分 田 SO 畝と 永 業 田 20 畝 計 100 畝 (日本の 約 5 町 5 段 
40 歩と いう) を 給し, 租は杲 2 石, 調 は 絹 2 丈 綿 3 両, 庸は年 20 日 を 課する の を 原則 
としたが, どの 程度 普及し たかは 日本に おける 班田と 同様 論議が ある。 8 世紀の 中 ご 
ろから 租の 代わ り に 地税 を, 庸 調の 代わ り に 戸 税を夏 秋 2 期に 徵 する 両 税法が 普及 
し, 戸税は 金納 化して いった。 税の 金納 化 を 裏打ちす る 流通 経済 は靖 まで 行われた 五 

銖 銭に 代えて 開 元 通 宝 を鍀て cm さ 2 誅 4 累) 唐 1 代行 わせ, 1 両の 10 分の 1 の 重さ 
で 銭と 呼び、 略して 匁と 書いた a 日本で 匁 を もんめと いうの は 文目の 意で ある。 

儒教 は 南朝 北朝 その 伝統 を 異にして いたので, 大宗の 命令で 「五経 正義」 が 作られ 
訓詁 を 統一した が, 唐 帝国の 貴族 官僚 は 新たな 経学 を 生まなかった a これに 対し 仏教 

は 前代に ひ き 続き 活況 を呈 し, 儒' 道 2 教か ら する しばしばの 迫害に も かかわ らず, 

—— 98 —— 


古代の 世界 


教理の 研究 や 教団の 伝道が 盛んで, 新 宗派が いく つか 生まれた o こ とに 17 年間の ィ ン 

ド 留学から 帰った 玄奘 は訳絰 (鳩 摩羅 什 訳 を 旧訳, 玄奖訳 を 新訳と いう) に 従い 成 相 
宗を 開き, 大唐西 绒記を 著わし, 義浄は 海路 インドへ 旅行し 南^^ 帰 内^^ を 著わし 
た ひ 道教 は 唐 王室が 同姓 (李) から 老子 を祖 とした こ とから 優遇され, 道徳 経' 列 子 • 
荘子 など を 経典 化し, 道教 書 を 集成して 道 蔵が 成立した。 また 西方との 交渉から ゾロ 
アスター 教' マニ教 • ネスト リウス 教 'イスラム教 などの 外 5^ 教も 伝来し, 都会に 
は その 寺院が できて g を 行った ひ 
文学で は 内容 签 疎な 6 朝の 美文に 対し, 個性的な 内容 を 持つ た 韻文が 律詩と なって 

ぼつ  けい  らく ひんのう 

大成し 空前絶後の 大家 を 輩出 し, 初 唐の 4 傑と いわれる 王 勃. 楊炯' 盧照隣 • 駱賓 王, 

こうねん  い 

盛 唐の 孟 浩然 • 王 維 (摩 詰) '李 白 • 杜甫 • 王昌 齢, 中 唐の 白 居 (楽天〕 • 韓憨 (退 

之) • 柳宗 元, 晚 唐の 杜牧 • 李 商 隠な ど 古今に 独 歩し ている。 史学で は 従来の 正史が 

個人の 著作であった のに, 多数に よる 編さん 物と なって きたの も この 時代の 性格 を 示 

し, その 過渡期に 当たって 劉 知 幾が 「史 通」 を 著わして 古今の 歴史 書 を 論じた の も ゆ 

ん める こと であ つた ひ 

えんり つぼん  じゅん ぐせいなん ちょ 

絵画で は 閻立本 • 呉道玄 • 李思訓 • 王 維な どが 有名で, 書に は 欧陽詢 • 虞 世 南 • 褚 

すいり よう 

遂良 '顔 真 卿な どが あらわれ ている ひ 彫刻 や 建築に は 仏教 関係の 遣 物が 多く, 龍 門の 
石仏の よ うな 傑作が 残されて いる。 工芸で は 先秦の 青銅器, 漢の 漆器に 代わる 陶磁器 

とうさん さい 

がよう やく 見え 始め, 唐 三 彩な る褐 • 緑 • 白 3 彩の うわぐすり を かけ た も のが 今日 に 
賞賛され ている ひ 

周辺の 小 帝国 唐 代の 中国が その 周辺に いくつかの, 唐 を モデルと した 帝国 を 衛星 
国家の よ うに 生み出し たこ と は 世界史の 偉観と いうべき である 0 唐と 突 厥 • 回 絵 • 吐 
蕃 '南 詔 • 林 邑 • 日本 • 新羅 • 渤 海な どの 関係 は, 突 厥 や 吐蕃な ど 西方 諸国 を 除 く ほ 
か, おおむね 平和で 友好的で あり, これ を 口一 マと カルタゴ, 東 ロー  マと サ サン 朝の 

よ う に 古代 帝国が 抗争に 明け暮れて, 周辺に 光 被す る 国家 を 成長 させえ なかつ たもの 
と は 異な る 状勢であった。 ただ 西北 は 匈奴 以来 漢民族との 対立が 続き, 匈奴に 代わって 
鮮卑, 鮮卑に 代わって 突 厥が 隋 唐の 対抗 者と なった。 匈奴が モンゴル 種, 鮮卑 はかつ 
て モンゴル と ッン グー スの浪 種と いわれた が, 近時 ト ノレ コ種 だつ たとの 説が あ り, 突 厥 
は その 音の 通り トルコ 種で ある o 突 厥が 独自の 文字 を 持った の は 民族意識と 生活環境 
が 成熟した 証拠で あるが, 隋 代に 東西 両突 厥に 分かれ, 唐との 争いに 衰弱して 744 年 
回紇に 滅ぼされた。 回紇も トルコ 種, 突 厥に 代わって 漠 北の 覇者と な り, 唐と は 約 1 世 
紀 友好関係 を 続け, 回 絵の 馬と 唐の 絹と が 交易され た。 回紇も 独自の 文字 を 作り マ- 
教 信徒が 多 く  , 東西の 文化 を 吸収す ると とも に 武力 的に 弱体 と なって 分裂し, 甘 蘭 方面 
の 回訖は 1028 年 西 夏に 滅ぼ される ま で^ 国 を な し, 西方へ 移つ たもの は イスラム教 

一 99 一 


I 資料 編 


徒と なり, モン ゴル 族に 滅ぼされ るまで 中央アジアの ィ ス ラ ム 化の 役割 を 果たした。 
吐 蕃は古 く羌 といわれた チベット 種で, 1 世紀の 初め か ら ラサ を 首都 とする 王国が 
建てられ, その 遊牧 生活 を 背景と する 軍事力 は 強く, 唐 は 結婚 政策で これ を 懐柔し 
た。 ここに は チベット 仏教なる ラマ 教が 成立し, その 地理 的 環境から も 独自の 生活圏 
をな したが, 安史の 乱 後 唐へ 侵入して 長 安まで おとしいれる ほどであった。 その後し 

だいに 消極的と なった が, 7 世紀 ごろ 独自の 文字 を イン ト、、 文字に 模 して 作り, 明 代 ご、 
ろから ダライラマ を 中心 とする 国と なった。 こ の 地 威 は アム F  • カム • ゥ • ツァンの 
4: 部に わかれる が, 後世 アム ド、 は 青^ € に 編入され, カム は西康 省と なり, ゥ 〔衛) • 

ッ ァ ン (蔵) の 二 地方 を 西 蔵と したので あるひ 
南 詔 は 雲 南の 大理に 建てられた n  n 族の 国, 唐 代に 雲 南' 四川 方面の 部族 国家に 6 

詔 国が あり, 南端の 蒙 舎 詔が これ を 統一して, 739 年 南 詔 国と なった。 この 国 は大理 
を 西 京, 昆明を 東京と し, 安史の 乱 後 強大と なって 大理 国と 号し 唐と 衝突 をく り 返し 
たが, 902 年 漢人の 宰相に 滅ぼされ, 大長和 国' 大天 興国' 大義 寧 国な どの 漢 AS 境 
の 独立国が 相次いだ o  937 年 以後 タイ 族の 大理 国が でき, 元に 征服され るまで 雲 南に 
拠って いた 。インド、- シナの 林邑は 早くから イン ト、、 文化 をう け, 漢 代に 建国され, 隋 
代に はィ ソ ト、 、ラプラの 首都が 栄え, その後 中心 は 南方に 移つ たが 9 世紀に 再び ィ ン ト、、 
ラプラが 首都と なり, 中国で は 占 城 C チャンバ) と 呼ぶ ようになった。 唐の 安 南都 護 
府 はハノ ィ にあった が 唐が 衰える と 越南が 独立国と な り, 中国 文化の 越南が ィ ン ド、 文 
化の 占 城 を 圧迫し, 15 世紀に はついに 越南に 併合され てし まった。 

朝鮮 は 古く その 南半が 三韓 〔馬韓 • 弁韓' 辰韓) として わが国に 知られ, それぞれ 
多数の 部落 国家の 連合 体で あ つ たが, 北半の 古 朝鮮が 漢に 占領 さ れ, 楽浪 • 玄菟 • 真 
蕃 • 臨 屯の 4 郡が 置かれた ころから そ の 影響 下に 入 り , 4 郡の 支配が 衰え る と 三韓 は 
それぞれ 铳ー 傾向 を 強めて いつ た。 313 年 満州に 起つ た 高 句麗が 楽浪郡 をお と しいれ, 
やがて 馬 韓の伯 済 国が 中心と な つ て 百済が 建国され, 辰韓 の斯盧 国が 新羅 を 建て, 

弁韓は 日本 勢力の も とに 任那 となった。 高 句麗' 百済' 新羅 を 三国と 呼ぶ が魏 '呉' 
蜀の 三国と ま ぎれ るので 日本で ひき 続き 用いた 三韓の 名に 従っても よい。 高 句 麗は南 
満か ら 北鮮へ か けての 強大な 帝国で, 各地に 残 された 山城な どの 規模 も 壮大で あ る ひ 
4 世紀の 末, 日本の 遠征 軍が 百済 • 新羅 を も 動員して こ の 国の 国境 深 く 侵入した こ と 

こ う たい 

は 驚異的な 軍事力だった と 思われる が, 紀 記に は なんらの 記載 もな く 高 句 魔の 好 太 王 

しゅう あん 

(広 開 土 王) の 碑文に よって 知られる。 高 句麗の 首都 は 丸 都 城 (輯 安) から 平壤に 移さ 
れ, 5 世紀に は 百済 • 新羅 を 圧迫した が, 7 世紀に 入って 新羅が 唐と 結ぶ や 高 句麗は 
百済と 結んで 新羅 を 圧した。 唐 は 660 年 百済 を 滅ぼし, 668 年 高 句麗も 唐に 滅ぼされて 
その 700 年に わたる 歴史 を 閉じた 0 なお 教科書 さ し 絵の 風俗画 は 古墳の 壁画で 舞踊 図, 


—— 100   


古代の 世界 


中国の ことわざに 「多 銭 善 く 買 い 長袖 善 く 舞う」 〔銭が 多け れば よい 買物が でき, 袖 が 長 

たもと  ゆき 

ければ 舞が 上手に 見える) という 長袖が 示されて いる ひ すなわち 抉が 長いので なく 桁 

が 長いので ある a 

百済 は 4 世紀の 初めに 建国され, 都 を漢山 〔広州) に 定め, のちに 高 句麗に 破れて 
熊津 (公州) さらに 扶 余に 移した。 高 句麗が 中国の 北朝 文化に なじんだ のに 対し 海路 
南朝 文化 を 取り入れ, 日本と 結んで その 地位 を 維持した が, 日本の 援軍が 白 村 江の 水 
戦で 唐 軍に 破れる に 及び, ついに 滅亡した。 新羅 は 金城 〔慶 州) を 都と して 350 年 ごろ 
建国され, 高 句麗と 日本との 進出の 間に 隋 '唐と 結んで 地歩 を 築き, 7 世紀の 末に は 
半島 南半の 統一 国家 となり 郡県 制 を しいた。 8 世紀 ごろ 全盛で 9 世紀の 末に は 各地の 
土 豪が 自立し, 935 年 松 岳 (開城) の 王 建に 新羅 王が 投降して 王 建の 高麗に 半島の 主 
権を讓 つた o なお 満州に は 高句麗 滅亡 後 モンゴル 種の 契 丹が 入り こんで きたが, 則 天 
武后 による 唐 室の Slffi で, 高 句 麗の遣 民の 大祚栄 が 69S 年 震 国 を 建て 玄宗 から 渤海郡 
王に 封 ぜられ たので 渤 海と 称する よ うにな つた。 この 国 は 5 京 (上京 • 中京 • 東京 • 
西 京' 南京) を 置いた が 近時 これらの 遣 跡が 研究され, 唐と 日本と に 通好した この 国 

* つ 

の 文化が やや 明らかにされ てきた。 渤海も 8 世紀 ごろの 全盛 を 境に, 国内の 政争と 契 

たん  やりつ あぽき 

丹の 圧迫から 衰弱 し , 927 年 契 丹 の 耶律阿 保 機 に 滅ぼされた。 

日本 も これらの 諸国と 同じく 部落 国家から 古代 国家への 道 を 歩んで いたわけ で, 三 

わ  やま たい  ひめこ 

国 志の 魏志 倭人 伝に み え る 邪 馬 台 国 と卑彌 乎と が 北 九州 か 大和 か は 断定で き な いが, 
3 世紀 ごろに は 部落 国家の 連合 体が 成長し, 4 世紀に は 大和が 北 九州 を も 支配し, 
南 朝鮮まで 勢力下に 置く ようになつ た。 5 世紀に 人る と 大和 朝廷 は 東 晉ゃ宋 と 交通 
し, 中国の 史書に 倭の 五 王と して 讃 '珍 • 済 *興 • 武の名 がみえ る ひ 讃が 仁徳? 珍が 
反 正? 済が 允恭, 興が 安康, 武が雄 略の 諸 天皇に 比定 されて いる a 当時の 日本 は考古 
学 的に は 古墳 • の 全盛期で, 半島に 植民地 を 持って 富強であった が, 大陸との 交通 
で 文明の 急激な 吸収が 起 り , 6 世紀に は隋の 統一に 刺激され て 統一 国家への 欲求が 強 
く なって いった。 すでに 大 伴' 物部両 氏が 脱落して 蘇 我 氏が 残された 豪族と して 勢威 
を ふるい, 仏教の 伝来 は 飛躍的な 文化の 成熟 を もたらした。 大 化の 改新 (645 年) で 甘 
代 帝国 を 完成, すでに 607 年 小 野 妹 子が 隋へ 遣わされ, 3 回の 遣隋 使に^い で 630 年 犬 
上 御田 鍬ら に よ る 遣唐使 は 後 838 年まで 13 回の 正式の 通 使が あ つ て, 東ァ ジァ 文化圏 
の一 環 を 形造つ たのであった。 ただ 9 世紀 以後 唐 周辺の 小 帝国が 多く 唐 帝国に 殉 じて 
衰えた のに 対し, 日本が 独自の 道 を 歩み 始めた こと を, 単に 異 民族との 翻 虫の 少ない 
島国の 条件に だけ 帰す る ことなく, 日本史 自体の 成長の 中に 求めたい も ので ある。 

第 4 節 アメリカ 大陸の 古代 王国 
—— 101 —— 


I 資料 編 


ァメ リカ 古代文明が, 旧大陸の 古代文明の 影響 を 直接に 受けた とす る 主張の 代表 
は, エリオットら の エジプト 起源 説で, ェ ジ プ ト 文明が, ィ ン ド、 'イン ト、、 -シナ を 通 

り, 太平洋の 島々 を 東進して アメリカに 達した と 考える ので ある o これ は 太陽神の 祟 

挥, ピラミ ッ ト、、 • 巨石 建造物 'ミイラ, 金銀の 尊重な ど, 両 文化に すこぶる 類似 性が 
見られる からで ある。 しかし 現在まで この 径路 を 実証す る 確証 はない ので, むしろ ァ 

メリ 力で 1 虫自の 発展 をした とする 自生 説の 方が 有力で ある o しかし, アメリカ では 旧 

石器時代の 人類 生息の g は 見いだ されない ので, す でに 農耕 文化 を 持つ 新石器時代 
の 人類が 旧大陸から 移住した とすれば, その 径路 は 二つ ある わけで ある 。第一 は, 北 
アジアから ベ一 リ ング 海峡 を 通り, 北ァ メ リ 力から 南米の 南端まで 移住 したと する 
か, 第二 は, 太平洋 を 東進して 中南米に 渡り, それから 南北に 拡がった とする かで あ 
ろう。 いずれにせよ, 太平洋の 島嶼 文化と, アメリカ 古代 文化と は, 種々 の 類似 性 を 

持って おり, 両者の 関係 は 住 目され ている O 

マヤ 文明 アメリカ 原住民の 作った 二つの 文明, すなわち 中米の マヤ 文明と, 南米 
の インカ 文明と は, 共通の 地盤の 上に 立つ 類似の 文明で あり, その上, この 二つの 文 
明が 発達した 年代 も 大体 同じ ころであった ひ したがって 両者の 間に 交渉の あった こと 

は 認められる が, それぞれ 別々 に 独自の 方向 をた どって 特色 を 発揮した ので ある o マ 

ャ 文明に おいて は, 天文 '磨 数 • 象形文字 など 知的 方面が すぐれてい たのに 対して, 

ィ ン 力 文明に おいて は, 建築. 織物 • 染色 '冶金' 道路 • 運河 • 濯'!? □: 事な どの 物質 

文明が 発達して いた。 中米に 発達した 文明 は 次の 4 時代に 大別され る。 (1) 最古 代 0 
マヤ 文明 以前の 時代で, 早くから 農耕が 行われて マヤ 文明の 基礎と なった ひ 〔2) マヤ 
文明。 6〜10 世紀 ごろに, ホン ジュ ラス • グアテマラ 'ユカタン半島に 発達した。 (3) 
トル テック 文明 ひ 8 世紀から メキシコ 谿 谷に 起り, 1220 年 ごろまで 続いた a  (4) ァズ 
テ ッ ク 文明。 前者の 没落 後 メキシコ 高地に 起つ た 文明で, 1532 年 イス パ-ァ 人に 滅ぼ 
される まで 続いた ひ 

マヤ 族の 社会 は 氏族 組織で, これが 単位と なって 土地 を 共同に 使用 収益し, 氏族 長 
が 統率した。 玉蜀黍 を 中心とする 農耕 経済が 発達し, 人口が 増加して, 一種の 都市 国 
家 を 作り, 商業が 発達して, 貧富 '地位. 身分の 差 を 大き く した。 上位 階級 は 王族 • 
貴族 • 司祭で, 平民 階級 は 農民と 商人で, 下位 階級 は 上位 階級の 奴隸 である。 政治 は 神 
権 政治的 色彩 を 持つ 貴族政治が 行われた o マヤの 建築 は 神殿 '宮 殿が 中心で, 石材 を 

積み重ねて しつ くいで 固め, 壁面 は 垂直で 屋根 は 平らで ある o 平民の 家 はやしの 葉で 

屋根 を ふいた 小屋であった。 神殿 建築に は 種々 の 装飾 図紋が 見られ, 奇怪な 神 像と 並 
んで 人面 蛇 身 • 怪獣な どの 動物 文 や 幾何 紋様 も あつ た。 土器の 製作が 発達し, これに 動 

—— 102 —— 


古 代 の 世界 

物 や 人物が 描かれ 彩色され た。 土器の 人物の 顔から, マヤ 族 は 抜歯 • 加工歯が 行われ, 
文身 もあった ことが 知られる。 装身具に は 軟玉ゃ 宝石 加工 や モザイク の 製作 品 もぁゥ 

た 。金 '銀 • 銅の 加工 はあった が 青銅の 涛造は 行われな かつ た。 あ^は 弓矢 • 投槍 • 

投槍 器. こん 捧 があった ひ マヤに は 象形文字で 書かれた 古写本が あり, びよ うぶの よ 

^ にたた まれた 紙片 を 張り合わせて でき たも P である。 紙の 表面に 細かい 石灰 粉を& 

つて なめらか にし, 象形文字 やさし 絵 を 黒色 その他の 色て  1® き, 内容 は 主として 磨 や 
宗教 儀式に 関する ものであった ひ 

インカ帝国 1532 年, ピサロに 率いられた イス パニァ 人の 一隊 力1 南米の ぺ7 レーに 米: 

た 時, インカ 大帝 国 は 北 は コロンビア. ェクァ ドル か ら ペル—. ボリ ビア を 経 し-, 
南はチ リ 一に 至る 南米の 太平洋 岸に 広がる 広い 地续を 魏 していた ひ ィ ン 力の 首府 ク 

スコは 雪 をいた だく 高山に 囲まれ た谿谷 にあり, 熱帯で ある が « 1, 2000 フィートの 
高原で 気候 温和な 土地で ある。 ここ は 国王の 居城' 貴族の 邸宅と ともに, 最高 賺家 神' 
たる 太陽神の 殿堂の ある 神聖 都市で, 全 帝国から 巡礼が 集まった。 政治 は 国王 〔イン 
力) の 専制政治で, 彼 は 神の 化身と して 地上に 現われた 太陽の 子で あり, 祭政' 軍事 
の 最高 権 を 握り, 国内の すべての ものの 所有者で ある o  /、民 は 国王に 接近す る ことが 
でき ザ, 国王の 手に 触れ たもの は AS の タブ— となる。 盗み • 姦通 • 殺人 や 太 神 冒 
と く ゃィ ン 力の 悪口 を 言う 者 は 死刑に 処 せられ, ィ ンカ 帝国に 反逆す る 者 は 一族 皆 殺 
しにされ た o 国王の 下に 小 王' 大名が あり, 平民 は 父系 氏族 組織に 結合され る 農業 共 
同体 をな し, 氏^^ 議 があって それが 政治と 結びつい ていた。 軍隊 は 帝国の 各 都市 及- 
び地方から 徵 集し,  国王 は 20 万の 軍隊 を 動かす ことができ たという o 宗教 は 発達して 
儀ネし 整い, 最高 神た る 太陽神の ほか, 月' 星 '雷電 も 神と あがめられ, 海岸 住民に は- 
海神の 信仰が あり, 各 家々 に は 玉蜀黍の 穀 神が 祭られた。 一番 大きな 祭典 は 首府 タス 
コの 夏^ 祭で, この 時 インカ 大帝 国の すべての 地方より 貴族が 集まり, 入々 は 盛装し 
て 夏至の 日の出 を 拝し, 最初の 光 を 見る と 大声 を 上げて 歌 を 歌い, 音楽 を 奏して 太陽 
,を 行う。 死者の 埋葬 は, 貴族 や M は 美しい 織物に 死体 を 包んで 埋め, 武器' 土 
器, 金銀の 食器, 食物 を畐 US する。 海岸 地方で は 死体 を ミ ィ ラ にして 埋葬した o 象形 
文字はなかった が, クイ ップと 呼ぶ 結繩 記録が 残って いる。  - 

第 3 章 地中海 世界 

-  第 1 節 ギリシアの ポリス 

ギリシア 史はョ 一" ッパ史 の 発端で あり 源流で あるが, 同時に また その 縮図で あり' 


—— 103   


I 資料 編 


典型で あると いわれる ように, 両者の 間に 幾多の 類似 性が 見られる o ギリシア 史は民 

族 発展 時代, 都市国家の 成立 発達 時代, 民主 制の 完成と 衰亡 時代と いう プ13 セスを 通 
るが, それ 自身 一個の 小さな まとまりと 完結 を 見せて いるので, 歴史家 はしばしば こ 
- れをョ  一口 ッ パ史の ひな 形' 先例 と して 理解の か ぎに している ひい わ ゆる 文化 循環 説 

という 史観の ごとき もこの 例で ある o ギ リ シ 了 の 地理 を 見る と 地形 縦横に 小 分 して 水 
陸き わめて 変化に 富み, 国土の 統一よ り も 割拠 的な 自治^: に 適して いる ごと く であ 
り, 温和な 気候と 小規模の 山海 は, アジアの 雄大に して 酷烈な, それゆえに 人間に と 
つて 恐るべく 隸 従すべき 大自然で あるのに 比 して, かえって 人間に ほほえみかける も 
のと して これに 親近せ しめたであろう し, 晴朗な 天候, 澄みと おった 室 気 は, 常に 人々 
をして 美的 情操 をつ ちかい, また 事物の 本質の 明徹な 透視と 赤裸の 真実の 究明に 駆り 
立てた であろう。 また 豊かな 鉱産, ぶどう • オリ— ヴ、 の 栽培, 森林, ^と 商 路の便 
など は 相 まって ギ リ シァ人 を 対外 進取の 気象に 富ま しめたであろう ひ もちろん さらに 
ギ リ シ ァ 人の 素質と 努力 は 無視 さるべき でな く, 人間 は 環境に の み 規定 される もので は 

ないひ トインビー も 言う ごとく, 人間 と 環境 と の 挑戦 Challenge と 反応 Response 
によって 歴史と 文化 は 創造され て ゆ く ので あるから。 また 先史^の 民族の 南下 移動 
-の跡 は 必ずしも 明らかで ない が, 短軀 にして 色 浅黒き 先住民 を 逐^ 迫して, インド、 
• ョ  一 b ツバ 系の 白せ き 長身の ギ リ シァ 人が, 新鋭 優秀の 鉄製 兵器 を もって, 数^に 
わたり CB.C.20 〜: LOfJ 己:) 相次いで 侵入し, 多島海 青銅器 文明 を 征服した といわれて 
いる。 高度 優秀な 文化の 発展 は, 民族の 素質 や 自然の 環境 も大ぃ に あずかつ ている が, 
決して 無から 一挙に さ 虫 創 完成され る も ので はない ので ある。 

ポリスの 成立と 構造 ァ リスト テレス は 「人間 は 都市 的 生物で ある 0J と 言った が, 

- 歴史 敍述に 現われて くる ギリシア はすで に ポ リ ス的 生活に はいって おり, ポリスと と 
も に ギ リ シ ァ は 滅びる 0 まことに ギリシア の 歴史 は ポ リ ス の 歴史で ある ひ もちろん ギ 
リシ ァ入も 移動 時代 か ら 定住 生活 に 入る ころ は 村落 的 定住 を 行った ものと 想定 される。 
ポリスの 成立 について は, クー— ラ ン ジ ュ の 宗教 起源 説, ィヱ— リングの 軍事 起源 説, 
マイヤ—. ブ ゾル ト の 政治 起源 説な ど, 長い間 多 く の 学説が あ り , ま た 実際に それ ぞ 

れ のポ リスに よって 異なった 事情と 歴史 を 有した であろう と 思われる。 若干の ポ リ ス 
は 初め 村落と して 散在して いたが, ある 程度の 成熟 を 遂げ, ある 指導者の もとに 一挙 
に 集 住 (シ ノィ キス モス Synoikismos) を 行つ て ポリス を 作った と 考えられ ている。 
アテネ はこの 例で, ここで. は 政治的 統一が 主で, 中心 市に 移住した の は 一部の 人々 で 
あつたと いう。 テセ ウスと いう 英雄に よ つ て 集 住が 行われた という 伝説 は 学者に よ つ 
—て も 根拠 ある ものと して 重んぜられ ている ひ ッ キジ デス は 言う。 「テセ ウスに 至る ま 


104 


古 代の 世界 

での 初代の 王の 時代に は, ァ ツチ 力の 人々 はおのお のの 役所に 役人 を 持って 各自^: 

に 政治 をし 評議 をして いた。 しかるに テセ ウス Theseus が 王位に つく と, 生来の 聰 

明に 権力 を 得て 手腕 を 発揮した が, アテネ 以外の 集落の 評議会 や 役人 を 解散 させ, 今 

日の 市に 全住民 を 集 住せ しめた。 誰でも^の 所有 を 失う ことなく, ただこの一 巿 

(アテネ) を 己の 市と する よ う になった ので この 市 は 大き く 発展した。 それゆえ その 

時から, アテナイ 人 は, 国費で アテネ 女神の ために 集 住 祭 Xynoikia を 行う 習慣が 

ある。」 (ッ キジ デス 1.15) とひ 

二つ * ォ 、。リス プ /レ タークの 伝える ところに よると, アテネ は 集 住の 際に 貴族 '農民' 職 入 を 分け 

れ祖 にち、、 7さ と あり, ポリスの 成立と 貴族 支配の^: が 並行した こと を 示して いる。 このような 

お i 义。 アッチカ 型の ホ 'リスの 成立に 対して, ラコニア 型の ポリス 成立 は, 少数の^^ 征服者 
 f アテネ 壤)   (久ハ つ 巧 せ i 一 

が 多数の 原住民 を^: 配 T る こ とに よって 生まれる。 ホーマーの 詩編に よって 知られる 
ポリス は, 中心 市に 戦士で ある 貴族が 住み, これに 少数の 手工業 者' 自由 農民が 住み, 
周辺に 不自由 農民 または 参政権な き 農民が 住んで いた。 ラ コ ユア 地方で はこの^: が 
のちまで 保 たれ, 中心 市 スパルタに は, 政治に あずかり 軍事 を 担当す る スパルタ 人が 
集 住し, その 周囲に 被 征服 民のへ イロ一 タイと 呼ばる 不自由 農民が, スパルタ 入の 耕 
地 を 耕し 生産高の 半分 を 主人に 納めて いた。 その さらに 外周に ペリ オイ コィ (周囲の 
民) と 呼ばれる 先住民で 参政権 はない が 自由な 人々 が 住んで いた。 この 形式の ポリス 
は クレタ や テッサリアで 後世まで 見られ, 植民 市に その 例が 多い ことから, 民族の 移 
住と 征服に よってで きた こ とが 知られる ひ ラ コ ユアの 場合, ペリオ ィコィ とへ イロ 一 
タイの 差 は, スパ ノレ タ 人の 征服の 際, 原住民の 中で 早く 服従した ものと 最後まで 抵抗 

した ものが あつ たために でき た も のとい われて いる O 

せに、 ボ リスの 構造 は, 市の 中央の 小高い 丘ァ ク n ボ リスが 国家の 政治的 宗教 的中 心と な 
つて, 市の 守護神 や 聖火 を 祭る 聖绒 とせられ, 市の 広場 ァゴラ は 市民の 日常生活の 中 
心で あり, 集合' 交際' 取引の 盛り場で あり, そのほかに 公共の 建造物 や 民家が あり, 
さらに 郊外の 付属 地 を も 合わせ 含んで, ホ" リ ス は 一個の 都市に して 同時に^: の 国家で 
あった。 したがって それ 自身の 法律 '制度' 祭神 • 軍隊 を 持って いる 。市民権 はき わ 
めて 貴重な もので, 市民の みが 国家の 宗教 的 儀式 を 行い, 国政に 参与し 国防に 従事す 
る 権利 を 持つ ている。 これ は 元来 そ の 都市に 永 く 住む ギ リ シァ入 を 父母 とする 成年 男 
子の 特権で, その 人口 は アテネ を 除いて は, 2 万 以上の 市民 を 有する ポリス はない と 
いわれる。 したがって 全市民 は 互によ く 知り合い, 一人の 演説が 全市民の 集合に 聞え 
;- • る 程度 を もって 適当と した o 彼らの 大部分 は 多く 城壁に 囲まれた 狭小な 市中に 住んだ 

が, ス パル タの ごと く  の ない ポリス もあった a 市民の 下に 外国 入と 多 く の 奴隸が 

いた。 外国人 は 実業 を 営む 自由 は 認められて いたが, 完全な 公民権はなかった。 かか 

—— 105 —— 


I 資料 編 


る 都市国家が ギ リ シ ァ 本土 か ら 多島海に わたつ て 数百 を 数える に 至つ たので ある a 

ギリシアの ポリス が 個人に 加 え た 制約 は ,今日の 国家 と 個人の 関係 か ら はとうて い 
考えられぬ ほど 強い もので あつ た。 確かに ギ リ シァ において は 個人に 大きい 自由が 与 
られ えていた。 言論 も 自由で どんな 職業 を遷 ぶこと も 許されて いた。 移動 も 自由で, プ 
ラトン は 「も し 国法が 意に 向かない な ら彼は その 持物 を 携えて 好む ところへ 行く がよ 
い。」 と 言つ ている。 しかし 一度 その ポ リスに 止まる 以上 は, その 法に 従わねば な らず, 
個人 よ り ポ リ ス が 先で あつ た。 ポ リ ス 第一 主義 ^ い う 点で は ス パル タも アテネ も 同様 
であり, 男子 は— 日の 大部分 を 屋外で 国事の ために 費やした。 ことに スパルタ では 市 
民 は 食事す ら 全市民 共同の 食卓で な さねば な らず, 一定の 年令に 達して も なお M で 
いる 者 は 罰せられ たと 伝えて いる。 ギ リ シァ では^ ^ も 個人の ものと いうより は 国家 
の 催し物で, 演劇 は 国 祭日に 上演され て, ほとんど 全市民が ひとしく 同時に 観賞した。 
ギ リ シァ人 は ffl 競技 を 非常に 愛好した が, これ も 祭事に 伴な う 公の 行事で あつ た。 

アテネ 民主 制の 完成 B.C.  5〜6 世紀に ギ リ シァ人 は 大規模な 植民 運動 を 行い, 
本土 や 小アジアの 各 都市が 独立に 黒海 岸 や 地中海 岸に 多数の 植民 市 を 作つ た。 これら 
の 新 者!^ 市の 中には ピザ ン チウ ム C コン スタン チノ 一  プル;) や マ ッ シ リア (マルセ ィ ュ、 
の ごと く 今日 まで 犬 者 E 市と して 栄えて いる もの も ある a こ の 植民 はギ リ シァ 人の 見聞 
を 広め, その 世界観 形成の 上に も 大きな 役割 を杲 たした 0 キケロ は 言う。 「沿海の 都 
市に 住む 者 は 居住地への 愛着 を 持たず, むしろ 飛躍の 望みに かられて つねに 故郷 を 遠 
く 去ろうと している。 カルタゴ ゃコ リ ン ト の 市民 は, 通商 や 航海 を 欲する 余り 農事 や 
軍事 を 放棄した a かかる 国に は 略奪 や 輸入に よる ぜぃ 沢への 刺激が 多い ひ さらに 場所 
の 快適 そ の も のが 入を欹 弱な らしめ る 官能的 胃へ 'の, を 含んで い る。 しかし これ 
らの 欠点の 中には 利点 も 併存す る。 世界の すべての 物産 を 海に よって 彼らの 佳む 市へ 
運びう る し, また 自己の 土地の 産物 を 欲する 国 に^^する こ ともで きる。」 (キケロ  「国 
家 論」 I.  4) と。 この 植民 運動 は 皿 の 社会に 大きな 変化 を 促した 。 商業が 発達し 購 
入 奴隸も 増大し 貨幣経済が 普及して 手工業 も 盛んにな ると, の 地主 貴族の 政権が 
動揺し, 貴族と 平民の 党派 争いが 起る ひ B.C.  6 世紀の 初め, ソ n ンの 改革 はこれ を 
調停し よ うとした も ので, 彼 は 財産の 大小に よ つ て 市民の 権利と 義努を 定めた。 

ソ—0 —ン Solon  C 前 640  ?〜 559  ? ) は 民衆 を 経済的な 苦しみから 救うた め, 身体 を 担 
保と して 金 を貨す こと を 禁じ, 一切の 負債 を 帳消しに する 英断に 出た。 また 今までの 門 
閥 血統に よる 参政権 上の 相違 を 撤廃して, 財産の 多少に よる 区別に 改め, 財産 政治 Ti- 
mocracy を 行った が, 「ソロ ンの楣 j といわれる その 折衷 的 改革 は, 貴族. 平民の いず 
れか らも 歓迎され なかった。 ァ リスト テレス は 言う。 「貴族の 多数 は 負債の 切棄 てに 
よって ソ《 ンに ifct をいだ き, 平民 も 彼の 新制 度が 期待に 反した ので 態度 を 改めてい 


106 


古代の 世界 


た。 民衆 は 彼が一 切 を 再配分す ると 思って いたし, , 貴族 は 彼が 再び 旧制度に 戾 すか, 
わずかの 変革に と どめる ものと 期待して いた。 しかし ソロ ンは そのい ずれに も 反対し, 
おのれの 欲する 側に 組みして 僭主と もな り えた にもかかわらず, 祖国 を 救い 最良の 立 

法 を 行って 双方から 憎まれる 道 を 選んだ。 そ して 彼 自身 その 詩の 中で 述べて 言う。 『私 
は 民衆に 充分な 権力 を 与え, その 名誉に ついては 何も 奪い はせ ず, また 何も 加え はし 

なかつ た。 権力 を 持ち 財産の ゆえに とおと ばれる 人々 に対して も, これに 不当な 取り 
扱い をせ ぬよ う に 図つ た ひ 私 は 双方の ために 強き 楣を 執つ て 立ち, いずれに も 不当の 
勝利 を 許さなかった。」 (;ァ リスト テレス 「アテナイの 国 制」 M'XD とひ 
' ソ" ンの 改革 も 特権階級の 優越 をお さえる こと はでき ず, 国民 は その 利害に 基づい 
て, あるいは 商 'ェ' 航 '漁業 者の 海岸 党, あるいは 地主 貴族の 平野 党, あるいは 貧農 
• 牧人の 山地 党に わかれ, 政党 政 派の 争い は 日増しに 激化した a この 時代に 出現す る 
僭主 政治 は, 従来の 門閥 尊重 • 家族 主義 か ら 自 由 競争 • 個人主義への 移行, 貴族政治 よ 
り 民主政治への 転換の 過渡期 的 産物と して 住 目に 値する ものである。 そして ペルシア 
戦争が ギ リ シァ 社会の 変革に 及ぼした 影響 は 大きい。 「終り を 清く する ことが, ものの 
ふの 道 なれば, 我ら こそ 万人に も 超えて, こ の徳を 運命 は 授けて くれたの だ。 ヘラスの 
ために 自甶を 護る と, きおい 戦い, 永劫の ほまれ をう けて, いまこ こに 我ら 眠る。」 〔ぺ 
ノレ シァ 戦役の 死者に 寄せて) と, シモニ デス Simonides  (B. C. 556〜46g 年) が 歌つ 
たこの 民族 戦争 は, オリ ユン トの 専制政治に 対する 西 ^Tf? 民国 家の 自由 独立の 戦いと 
して, まさに 世界史 的 意義 を 有する ものであった。 そして, ペルシア 戦争で 最も 功纘 
のあった の は アテネで あり, 了 テネ^^の 軍艦 を 漕いだ 無産 市民の 発言権 は にわかに 
増大した。 これによ つて, この 国に は 民主政治が 徹底し, 財産の 有無に かかわらず, 
市民の 総会た る 民 会が 国政の 最高 決定権 を 持つ 政体 を 生じ, これが 他の 都市に も 広が 
つてい つた。 すべての 官職 は 任期 一年で, その 選出 は 選挙に よる ほかに 抽せんに よる 
ことが 多かった ひ アテネ は 戦役に おける 功績の ゆえに, ペルシアに 備える デ ロス 同盟 
DelianLeague の 盟主と なり, そ の 資金 を 了 テ ネ 市の 戦災 復興 や 無産 民の 政治 参与に 
流用した が, アテネが 民主政治の 模範と なった の は, ペリ クレス Perikles  (B.C.49^ 
〜429) の 力に よる こと が 大き かつ た ひ 

ぺ リ クレス は アテネ 民主主義 を 誇って い う ひ 「我らの 政体 は 他の 憲法と 雲泥の差 を 
持つ o 我ら は 隣邦に まねた のでな く その 模範と なった の だ ひ 莠に 我らが デモ クラ シー 
と 呼ばれる の は 当然で ある a 政治 は 大衆の 手に あって 少数の 手に なく, 法律 は 各人に 
お しなべ て 正義 を 保証し, しかもな お 卓越せ る ものの 価値 を 認める にやぶ さかで ない。 
市民に して なんら かの 点です ぐれた る 者 あら ば、, 特権 としてで なく 長所の 報酬 と して 選 
ばれて 公職に つくので ある。 貧困 も 妨げず, いかに 身分が 微賤であって も おのれが 匡 家 


107 


I 資料 編 


に 貢献す る こ とがで きる。 我らの 都市が 偉大なる ゆえに, 全世界の 美果は 我らの もと 
に 流れ込み, 思う がま まに これ を 用いし める。 我ら は 美しき ものの 愛好者で あるが, そ 
の 趣味 は 簡素で 雄々 しさ を 失う こ とな く 魂 を » する。 アテネ はへ ラスの 報な り。 
そ して 多様の 活動に 対して 最大の 能力と 優美と を もって 適応す る 能力 を 有して いる。」 

(ッ キジ デス 「歴史」 1.37) と 0  B.C.  5 世紀 中 ごろの いわゆる 「ペリクレ ス^:」 の 
アテネ は, 古代 民主政治の 最も はなやかに 実現した 時代で あり, また 学芸に おいて 最 
高の 作品が つぎつぎに 生まれた g であつ た a それ はまた ペルシア 戦争と いう 民族的 
試練に 打ち勝つ こ と によっても たらされた ギ リ シァ清 神の 最高潮 期で も あつ た。 

ギリシア 文イ匕 古く は ホーマー Homer,  Homeros  (B. C.  9 世 糸 己, /J ヽ アジアの ギ 
リシ ァ 植民地の 吟誦 詩人, 実在の 人物 か 否か 不明:) のィ リア ド、 Iliad  (Ilias), ォデュ 
セ —Odyssey  (Odysseia) 以来, ギ リ シァの 思想 • 学芸に 関する 文献 • 資料 は 枚挙に 
いとまがない く らいで ある。 その 特色 は, 「と にか く 理' 性 Logos について 行 こ うで は 
ないか」 という プラ トン 哲学の 標語の ごと く, 合理的 知識 的で ある。 同時に 生活の 意 

欲' 衝動 • 情熱 を 豊かな 想像力に よ つ て 生き生き と 表現す る 美的 情操 • 芸術的 才能に 
恵まれて いる。 ギリシア 精神 は これらの 天分が 相 まって, 輝かしい 天才 的 文化の 数々 
を 生み出し たので ある o かかる 文化 創造の 物的 条件 は, 前述の 地理 的 好 条件 や 経済の 

mM や 奴隸 の 使用に よる 有閑階級の 存在 や を 考えさせる。 
ギリシア の 学問の 中で 後世への 影響の 最大な もの は, なんとい つても 哲学で あろ う 。 

哲学 は 初め 自^ 14 学と 未 分離の 状態で 小アジアに 発達した が, B.C.  5鄉 己, 民主政治 
が 流行した こ ろ, 青年 子弟の 立身出世に 必要な 弁論 術 や 修辞 術 を 教える 職業的 教師た 
るソ ブイ スト せ?11^  (智者) が 現われて, 探究の 対象が 人間と そ の 制度 • 風習な ど 
に 向かった。 ソフ ィ ストの 相対主義 (人間 は 万物の 尺度で あると いう) に対して, 客観 
的 真理の 実在 と 知徳 合一の 理を 対話 法 を もって (産婆 術:) 説い た ソ_ ^ラテ ^_So^;ates 
(B.C.469〜399) は, 人々 に その 自らの 無知 を 悟らし め, デルフィの 神話 「汝 自身 を 
知れ」 という 言葉 を もって 真理 認識の 眼 を 開かせん としたが, 市民に 誤解され, 伝統 
'的 宗教に 異を 唱える 不敬の 徒で あり 青年 を 誤る ものな り と されて 死刑 を 宣告され た。 
その 時 彼が 国法 を 重んじて 従容と して 毒 杯 を 仰いだ こと は, その 人格の 偉大 さ を 示す 
ものと して 有名で ある ひ そ の 弟子 プ ラ トン Platon  (B.  C. 427〜347) も 真理の 認識に 
よって まことの 道徳に 至らん と した。 真理の 認識と は 事物の 常住 不変の 本質た る イデ 
ァ の 認識で, ィ デァ は 知覚に よ つ て 触発 される が これと はさ^: の 働き である a  (知覚 
は 常に 真理の 影の み を 見る という 「洞窟の 譬 喩」 一国 家 論一 は 有名で ある。) 霊魂 はも 
とィ デァの 世界に 住して その 姿 を 見て いたが, 現世に 下る と と もに これ を 忘却して し 
まった。 しかし この 仮 象の 世界に 流転す る を 悲しみ, イデア を 慕い 求める ので あると 


108 


古代の 世界 


いう (思慕の 説)。 彼の 政治 論 は 哲人 政治 を 理想 国家と している が, 当時よ うやく 民主 
制が 衆愚政治に 堕しつつ あった 時代の 実情 を 反映して いるので ある。 ァ リスト テレス 

Aristoteles  (ca.  B.  C.  384〜322) は 博学 広才, まことに ギリ シァ 哲学の 集大成 者と い 
うべ く, 広 E な 科学的 思索 の 体系 を 樹立し, 後世 諸 科学 の^と 仰がれて いる 。彼の 哲学 
の 中心思想 は 形相と 質 料の 関係で ある。 プラ ト ンのィ デァ 説が 理念と 現実との 分離に 
傾く きらいが あるのに 対し, 現実の 世界 事物 を 形成す るの は 内容 (質 料) と 形式 (形相) 
であって, 両者 は 決して 別物で はない。 それ は 内在的に 結び付いて 存在し, ただ 概念 
的に 区別 抽象し うるに すぎない と した。 質 料 は 未発と 可能の 状態に ある 実体で, 形相 
は 実現と 完成の 状態に ある 実体と も 見られ, この 形相 も さらに 高次の 発展 状態に 対し 
て は 質 料 となる ひかくて 「質 料— 形相 == 質 料 —形相」 の 発展の 理がァ リスト テレスの 
根本 思想で, これによ つて 世界の あらゆる 現象が 説明され ると ころの, 一種の 目的論 
的 世界観で ある。 彼 はまた 倫理学に おいて 幸福 を 究極の 目的と した 中庸の 徳を 説き, 
有名な 「人 は 国家的 動物 〔都市 的 生物:) なり。」 とのことば を もって, 入 間の 完全な 活 
動 は 国家に あり と し, 国家 〔ポ リ ス) は 実に それ 自身 最高 善の 実現な り と した。 彼 は 
また 政治 論に おいて, プ ラトンの 哲人 政治に 対し, 人情と 風俗の 異なる 時代と 境遇に 
よって, 君主 政 • 貴族 政 '共和政の 3 者の それぞれが あるべき であると している ひ 

ギ リ シ 了 の 宗教 は 元来 自然 崇挥の 多神教で, ォ リ ン ボスの 神々 は 不死で 神 力 を 有す 
ると ともに, 激 しい 人間的な 喜怒哀楽の 情 を そなえ, 罪 も 犯せば 闘争 もす る 「人間 神 J 
である。 有名な 12 神 は, 雷電 を 手に し^ %の 支配者た る ゼウス Zeus  〔口 一 マで はジ 
ュピ ター Jupiter) を 最高 神と し, その 妻 ヘラ Hera  (ローマで は Juno) , 敏律 ポセ 
ィ ト、、 ン Posseidon  (Neptune), 地 神に して 豊穰 をつ か さ どる 女神 デメ テル Demeter 
(口— マ も 同じ), 火と かまど の 女神へ ス チア Hestia  (Vesta), 火 と igf 台の 神へ フ 工 
ス トス Hephaestus  (Vulcan), 軍神 アレス Ares  (Mars), 曰 神に して 芸術の 神 アポ 
口 ン Apollon  (Apollo), 月 神に して 狩狨を 好む 女神 アル テ ミ ス Artemis  (Diana), 
学問 知識の 女神 アテネ Athene  (Minerva), 美と 愛の 女神 ァ フロ ディ テ Aphrodite 
(Venus), 通商 • 商業の 神 ヘル メ ス Hermes  (Mercurius) などで あるひ 神々 の 祭 示 已 
は 都市国家 意識が 進む に つれて 重要な 国家 行事 となり, その 儀式' 祭典 • 余興の 盛ん 
になる に 連れて 文学 美術の 興隆に 刺激 を 与えた a 文学で はまず 韻文が 栄えに ついで 散 
文が 興つ た ひ 叙事詩の 最古 最高の ものと される ホーマー は ギリシア 人の 清 神 生活の 不 
可 欠の 糧 であり, ィ リア ド、 は ト 口 ィ 戦争の 物語 を 中心と し, ォデ ュセ— はト n ィ 戦争に 

武勲 を 建てた ギリシアの 勇将 ォデ ュセ ウス が 凱旋の 帰途に おける 冒険 譚で ある a 神話 

を 体系 づけて 「神統 記」 を 書いた ヘシ ォ ドス Hesiodos  Cca.  B.  C.  8c) は ま た 「勤労 
の 日々」 という 詩に よって 勤労の 尊 さ を 歌った が, 奴隸 制度の 古代 M では このよう 

—— 109  ― 


I 資料 編 

な 観 は 支配的に はなり えなかった ひ アテネの 黄金^に アイス キュ ロス Aisch- 
ylos ソフォ クレス Sophokles, ェゥ リ ピ デス Euripides の三大 悲劇 詩人が 出た ひ 
悲劇の 題材 は 主に 神話 伝説に よ つ たが, アリス トフ ァ ネス Aristophanes  Cca.B.C. 
451 — 381) を 代表と する 喜劇 は 当時の 政治' 人情 を 諷刺した ひ これらの 劇 は 俳 濠と 合 
唱団に よ つ て 演ぜられ, 酒神デ ィォニ ソスの 祭典の 国家 行事と して 露天の 公共 劇場で 
行われ, 市民 大衆 を 前にす る 劇作家の コンクールで もあって, 市民の 中から 違 ばれた 
素人が 没 票して 作の g、 を 定め た ひ このよう に 演劇 も ホ° リ ス的 行 爭 であつ たか ら , そ 

の 盛衰 はポ リスの 興廃と 運命 を と も にした ので ある o 

美術 も 神話 を 中心として, 明媚な 風光, 豊富な 大理石, ギリシア 入の 審美 能力, 調. 
和と 自由の 清 神な ど 相 まって, 彫刻' 建築に 優れた 作品 を 生んだ。 彫刻 は 神話' 伝説 
を 主題と して, 彫み 出される 神々 の 姿 は 市民の 生活 を ほうふつ させ, 美しき 入 間 理想 以 

外の 何物で もない 感が 深い a 神々 を 入 間の 姿で 考え, 同時に 人間の肉 体に 価値と 美 を 
認める こと, これが ギリシアの 彫刻 を 比類な き 作品たら しめた ひ しかし 神々 の 像 は 単 
なる 写実に 終る こと はでき ない o そこに は 一つの 理想が あり, ギリシア 美の 理想 は 均 • 
迄と 調和に 求められ たので ある。 ぺ リク レス^; は 彫 亥き 芸術の 最咼潮 期で, フィ アイ 

マス Pheidias, ボリ クレイ トス Polykleitos らの 巨匠 を 生み, ギ リ シァの 美術と い 
え ば、 ま ず 彫刻 を 思わせる ほどの はなやか さ を 展開した。 建築 は 神殿 ゃ么ま 堂の に- 
より,  しだいに その 技法 を 高め, 水平線と 垂直 镍の 組み合わせに, ふくら みのある 列 
柱の 縦 溝に よって 弾力性 を 加え, 均斉と 調和, 端正と の 美しき メロディー を, 戆 
澄の 青 室に くっきり と 定着せ しめた。 ペリ クレスが ペルシア 戦役の 勝利と 復興の 象徵 
として, 当代の 粋 を 集めて^ t した バルテ ノン 神殿 は, 清澄 明徹, 壮重 優美, まこと 
に ギ リ シァ 文化の 典型で あり 宝庫で あつ た。 

ギ リ シ ァ の 理想 市民 は, 暇 を も つ て 政治 • 軍事に 当た るべ しとす る M 観 を 持ち, 歴 
史家 も 都市の 政治 生活に 関係した ので, その S ^きも 政治 史, 軍事 史が 多い ひ 元来 
ギ リ シァ 史学 は 風土記と 叙事詩から 発達して, へ 口 ド、 トス Herodotos  Cca.B.C.484〜 
402、, ッ キジ デス Thucydides  CB.C.471〜400), クセノフォン Xenophon  (B.  C. 
445~3ぉ) の三大 史家 を 生んだ o へ 口  F トス は 歴史の 父と いわれ, イタリア' ェジプ 
ト 'パピ ロニ ァの員 方 を^ g して 見聞 を 豊かに し, これ を ペルシア 戦争の 経緯 を 中 
心テ 一 マに まとめて 「歴史」 を 書い たが, そこに は 従来 昆 ら れ ぬ 世界史 的 視野が う か ^ 
われ, ォ リエ ソトの 風俗 や g が 多く 鐵 込まれて その物 語 風の 記述 はすこぶ る 舆昧深 
いもので あるひ その 冒頭に 曰く,  「これ はノ、 リカ ルナ ソス のへ 口 ド 、トスの^^ であつ 
て, 入 間の 功業が 時と と もに 失われ, また ギリシア 人と 蕃 民との 間に 示された 体 火な 争 
柄, ことに 彼らが いかなる 理由から 相 戦う に 至つ たかが 顧みられな くなる ことのない 

― 110 一 


古代の 世界 

よ う に 発表す る ものである。」 と。 同時代の ッ キジ デス はべ" ポ ネス ス戰 争に 一軍の 司 
令官 として 出征した 経験から, その 鋭い 史眼と 雄大な 史筆 を もって 「ベロ ホ 。ネス ス戦 

争史 J を 書いた o その 史風 はすこぶ る 厳正 綿密で 批判的で あり, 史実 も 正確であって 

後世の 科 勃 勺 歴史の 袓と 仰がれる a 彼 はこの 史書に おいて 言う。 「恐ら く この 書が 説 
話 風で ないた め, 読んでも 余り 面白い もので はないで あろう ひ しかし 過去の 事実の 真 
相 を 知ろうと し, また 入 間の 本性に 基づいて, 同じ 形, 類似の 形で 将来く り 返される 
事柄 を 明確に 予測 せんとす る 者に とって, こ の 書物が 有益で あると 判断され るなら ば, 
自分に とって は 十分で ある。」 と。 クセノ フォン は 傭 兵隊に 入って アルメニアへ 出征し 
たが, 傭 主の 敗 死後, 自ら 指揮官と なって 辛苦の 後 帰還し, アナバ シス (一万 人の 退 

却) を 書いた ひ 下って B.C.  2 世 糸 己に はポ リビオ ス Polybios  (ca.  B.  C.  205〜125) カュ, 

ローマ の 世界 支配 確立 を 中心に 世界史 を 書いた が, そ の 政体! 1^ の 史観 は 有名で あ 

な ひ 

第 2 節 ヘレ- ズム 
マケ ドニ ァ いう まで もな く 東西 古今の 歴史に その 名 を 謳われる 英雄の 偉大 さは, 

単に そ の 武力 征服の は な やか さに あるので はない。 アレクサンダー Alexander  the 
Great  (在位 B.  C.  336〜323) の 大事 業 も その 短命の ゆえに 光芒 一閃 流星の ごと く 消え 

去った ごと く にも 見える が, 彼の 果たした 文化史 白^ E 義は 決して 小さい もので はな か 
つ た。 彼が 建設した アレクサ ン ド、 リ ァ 市の 数 は 70 を 超える といわれる が, こ こ にギ リ 
シァ人 を 移住せ しめて その 人口問題, 生活難の 解決 を 計り, かつ ギリシア 文化の 普及 
に 努めた。 また ペルシア湾よ り 東部 地中海に 貫ぬ く 東西 交通の 大 幹線 を 完全に 開通せ 
しめ, さらに 遠く 西方へ 志 を 伸 べんと して アラビア • エジプト 沿岸に 探検隊 を 派遣し 
た 0 彼 は 婚姻に よ る 東西の 民族 と 文化の 融合 を 計 り, 自ら パク ト リアの 王女 をめ とつ 
て範を 示し, 部下に ペルシア 婦人との 結婚 を 勧めた o そして 東方 風の 宮廷 儀式 • 風 
習 • 宗教 を 重んじて 東西 統一の 大業に ま い 進した が, そ の 業 未だ 緒に つい たばか り で 
にわかに 病んで 33 才を もって, 在位 13 年の 輝かしい 生涯 を 閉じた ひ 彼の 死後 その 大帝 
国 は 瓦解した ので, 彼の 政治 上の 事業 は 短命に 終った が, ヘレニズム 形成に 及ぼした 
影響 はき わめて 大きい。 

ヘレニズム ぺ " ポ ネス ス 戦争 以来の 世界主義 的 文化の すう 勢 は, 大王の 事業 を媒 
介と して 太き な 果実 を 結んだ ので ある。 彼 は 固有の ギ リ シァ 文化 を 破壊した のでな く, 
しかし また 大成した ので もな く, ヘレニズムへの 止揚の 契機と なった もので あるひ ブ 
ライジヒ という r ィ ッの 文化史 家 は, 歴史の 発展 法則 は 両極 的な 方向 運動 を するとい 


111 


] [資料 編 


う。 たとえ ば 政治 権力の 推移 も 古代. 中世 • 近世' 最近 世に わたり, 求心 的 集権 的 と 

遠心 的 分権 的の 交互 運動 をす る. という ひ 文化の 発展 も ギリシア. 口  — マの それぞれに 

おいて この 現象 を 見る。 ギ リ シァ 文化 はまず 小アジア その他 ギ リ シァ 本土から いえば 
その 周辺 部から 興り, その 最盛期に は アテネ を 中心とする 黄金 を 迎える が, 次の 

ヘレ- ズム 時代に 向かって 再び 文化の 拡散 運動が 起る というので あるひ —マ 文化 

についても 口  —マ 市 を 中心とする かかる 見方が できる かも しれな い。) ギ リ シ ァのポ 
リ ス的 政治 生活の 本領が ようやく その 峠を越して 下り坂に なり, マケド ユア 帝国の 出 
現と 崩壊, 後継 諸 壬 国の 対立に 伴な つて, 生産' 工芸の 技術 も 潮 次 東方 諸 都市に 移り, 
文化の 中心 はし だいに 東漸し, アテネ を 初め ギリ シァ諸 市は« の 優位 を 保持し がた 
く なり, 東方に 根強く^ する 文化と 融合して ヘレ ュズム 文化と なった0 アンチ ォキ 
ァ • ペル ガモン •  ロート、、 ス, なかん ずく ブト レミ 家の 治下の アレクサンドリ ァは, 通 
商. 生産. 学問 の 一大 中心と なり, 自然科学 '文献学 を 発達せ しめ, 末梢的 官 
能 的な 刺激の 強い 文学 • 美術 • 演芸な ど を 生んだ。 ギ リ シァ文 ィ隨衰 の テン ポは速 く , 

ポリスより 世界 帝国へ, ギリシアより ヘレニズム へと しつつ, しだいに 老 m に 向 

力、 つた ものと いえよ う ひ 

第 3 節 口 一  マ 

せ 和 制 ローマ 近世 ド、 イツ 史学の 泰斗 ランケ は, その 「世界史 概観」 (訳書 名, 岩 
波 文 「め を ローマ 史から 説き 起し, その 理由 は オリエント • ギリシア その他 古代 文化 
の いっさい の 流れ は"一 マ の 池に 流れ込んで 統合 され, ここから 再 び 中世 • 近世の 歴 
史が 流れ出る からで あると 述べて いる。 世界史に おいて 口  —マ史 の 占める 位置 は. こ の 
言葉に 尽く されて いる。 古代史に おいて 地中海の 占める 意義 は 実に 大きい が, ィ タ リ 
ァ 半島 はこの 地中海の 中央部に 突き出して これに 君臨す るに 適し, 半島の 臍 部に 位す 
る 口  — マ が やがて 地中海 世界 を 支配す るに 至った こと は, 地理 的 条件が 軍事 • 難 • 
政治な どの 発展と 密接な 関係に ある こ と を 示して いる ひ その 始め ラ テ ン 部族 を 中心に 

が, の 丘に 拠つ た 王政の 一 小 都市国家 口  —マ は, B.C.  6 世紀末から 共和制と な つ た 
七つ 当時の はなやかな ギ リ シァ 文化に 比べて, なお 貧弱 粗野な 農民の 威 を 脱しな かつ 
が b  —マ 人 は 家門 .ifiL 統を 重んじ 家長 権 は 絶対であった。 市民 は 貴族と 平民よ り 成 

り, 貴族 は 広大な 土地 を 所有し, 共和制と いっても 貴族が 政権 を 独占して, 執政官' 
元老院な どの 要職 を 占め た a 平民 は 小農 • 職工 • 賃金 労働者な どの 下層 民で 参政権な 

く 貧窮に 苦しんだ o 

国力が ようやく 対外 的に. 発展す るに 至り, 軍事' 財政に 平民の 協力 を 必要と する よ 

― 112 一 


古代の 世界 


うにな り, 平民 は 政治 上の 権利 を 要求して 護 民官が 置かれ, また 12 表 法が 成文 化され 
た。 これ は 刑法' 民法に 関する 法律 を 12 箇の 銅板に 彫りつ けた ものと いわれ, ローマ 

の 身分 闘争 史上の 画期的な もので あり, のちに なっても 口 一 マの 子供 は こ の 法文 を 

そら 

「必須の 歌」 として 誦ん じたと いわれる。 しかし この 立法 は 草 命 的な 新法で はなく, 
既存の 慣習法の 成文 化で あり, その 矛盾 修正 を 眼目と する ものであった ひ その 第 3 表 

「自認 または 裁判に よる 債務に ついて」 の 条文に いわく,  「債務者の 自認 または 判決 
のい ずれに よる も, 債権者-その 権利 を 行使す るに は, 債務 決定 後 30 曰 間の 余裕 を 置 

くべ し (第 1 条 )o  :& ^限 後 債権者 は, 債務者 を 捕えて 法廷に 出頭すべし (2 条) a な 

お 債務者が 賡務を 履行せ ざる 時 は, 債権者 はこれ を 自宅に 引 き 連れ 鉄の 鎮を 加える 
(3条)。 かかる 拘留が 60 日経 過して なお 弁済 も 調停 もな されざる 時 は, 債権者 は匱務 

者 を 殺す も, また^^と して チ ベル 河の 彼方, 外国人の もとへ 売 渡す も 自由な り (第 
5 条: ), うんぬん」 とひ この 立法に よって, 貴族 も 平民 も 判決な しに は 死刑に されぬ 
平等の 原則が 確立した a ただし この 平等 は"— マ 市民 間に 限られ, 家庭内で は 家長 は 
奴隸 '婦女子 を 任意に 処罰し えた。 このの ち, B.C.4 世紀に は リキニウス 法, B.C. 
3 世紀に は ホルテンシウス 法が 成立して, 貴族と 平民の 制度 上の 靜!] は 全く 解消 した o 
口— マの 貴族と 平民が, 参政権 '財産権' 身分 権に ついて 激しく 争いながら, 内外 
の 難局に 処 して 国勢 を 伸長して 行つ た 現実的 才能 は, 多くの 歴史家が 住 目 したと ころ 
である。 前述の ポ リビオ スは 言う。 「"—マの 国家に は 三つの 権力が あって, それが 巧 
みに 調節され 均衝を 保って いるので, その 政体が 貴族 政 か 民主 政 か 専制 政 か は, ロー 
マ 入で も はっき り わからなかった ひ 執政官 は あらゆる 政務 を 手中に 握って いるが, そ 

の 計画の 遂行 は 元老院に 依存す る。 元老院 は 国庫の 管理 • 出納の 統制, 国事犯の 処分 
など を 権限内に 有する が, 死罪 執行に は 人民の 批准 を 要する。 さらに 護 民 官が担 否 権 
を 行使 すれば, 元老院 は 判決 不能と な り 会議 を 開く こ ともで きない。 かく 諸 锴鈒の 権 
力が 相互に 助け合い, 傷つけ 合う ような (Power  for  mutual  help  or  harm) しく 
みに なって いるので, あらゆる 非常時に 処 する 強固な 団結 を もたらし, これ 以上の も 
の を 見いだ しえない ほどの 政体 を 構成した ので ある。 (Polybios,  AI.ll— 18)J とひ 

けだし 輿隆 期" —マの 健全な 共和政体の 長所 を 述べた もので あるひ 

「農業 論」 の 著 を もって 知られる カト— Cato  (B.C.234〜149) が, 第 2 ボェ- 戦後, 
元老院に おける 演説 を 常に 「ゆえに 余 は 叫ぶ, カルタゴ は 亡ぼさざる ベから ずと」 と 
いう ことばで 結んだ こ と は 有名な 話で あるが, 口  一マ は 地中海 上 不倶戴天の カルタゴ 
をせ ん滅 し, さらに マケドニア, ギリシア を 合わせて 地中海の 覇者と なり, 国運 はい 
よいよ ^jt した。 しかし この^; に 口 一  マの 政治' 経済 ー挫 は 非常な 変動 を 見せた。 
元老院 階級に は 富裕な 新 貴族が 加わり, 重要な 官職 を 独占し, 戦争 外交に 関する 事項 

—— 113 —— 


I 資料 編 


は 元老院の 独斷 専行に 任された。 彼ら は 外敵の ある 間 は 一致 協力した が, 外患が 去る 

と 醜い 党争が 現われる。 元来 n  —マ は 領土 統治の 才に長 じ, 「分割 支配」 Divide  and 
Rule の 原則で 征服 地 を 直轄地 • 服属 市 及び 植民 市 • 同盟 市な どに 分け, 被 征服 民の 
生活 をなる ベく もとの ままに して, 各 都市 間の 気脈 相 通ず る こと を 防止す る 統御 策に 
でた o しかし 半島 以外に 版図が 拡大す ると, 同盟 市と しない 属州 制度が 増大し, 1 «2 
年 任期の 総督が 守備 軍の 威力 を かさに して, 軍事 • 行政' 司法 • 徴税 をつ かさ どつ た。 
これらの 地方 官は 苛斂 誅求を 加えて 私利 私欲 を 計り, 巨富 を 蓄積した から, 属州 民の 
疲弊 は 大きく 帝国 瓦解の 一因と なった 0 

こ の 時代の 社会経済の 変化 は 最も 大き く,  ノ、 ン ニパ ノレ Hannibal  (B.C.  246^183) 
の 来攻に よって 土地 は 荒廃し, 公有地 経営 は 荘園 化し, 戦勝に よる 低廉な 奴隸 労力の 
増大で 大量生産が 可能と な つ た。 しかも 割 面な 輸入 穀物 は 本土の 小農 経営 を駆遂 して, 
むしろ 広大な 地面 を 必要と す るぶ どう • オリ— ヴの 栽培 や 牧畜 を 有利な ら しめ, 利潤 
の 追求に 熱心になる につれ て 奴 隸使甩 も 激増し, かつ 酷薄 をき わめる ものが 生じ, し 
ばし ば 有名な 奴隸の 反乱 を 見る に 至つ ナ: ひ かって 中小 地主であった 自由 農民に とって 
多年の 征戰 はか えって 自 ら 墓穴を掘る 結果 となり, 一部 富豪に よ る 大 土地 所有 制 Lati- 
fundium が^^し た ひ 兵士 ら は 最早 地道な 農村 生 活 に 帰農で きず 口  — マ の 遊民 と な 
り, 無産者の 都市 集中 はよう やく 諸種の M 問題 を 惹起す るに 至った。 口— マ巿 はこ 
のころ 50 万 〔のちに は 100 万に 至る) の 人口 を 擁し, 純然たる 消費都市 であり, 当時の 
M 経済 組織から 見て 過大の 人口で あつ たが, 当時の 海陸 運輸の 不健則 性 は 必然的に 
食料 問題 を 重大化した。 そして 権門' 勢家 は 食料 やき を 提供し, 主従の 保護 関係 を 
結んで おのれが 野心 を 達せん とし, 相 まって 大衆の 堕落 を 助長した。 ここに 「パンと 
サーカス 1 にす ベて を 忘れる ローマの 暴民 を 群 成し, このような 不建 全な 都市の あり 
方が また 国^^ 亡の 一因 となった。 一方 商業 • 土木 • 金融業な どの 新興 富裕 階 殺 と 旧 
元老院 階級との 対立 も 激化す る。 しかも 東方の 版図 拡大に よる ヘレニズム 文化との 接 
蝕 は 富者の 生活 を 豪奢な らしめ 「古 ローマ を 忘れるな」 との 憂国 者の 叫び、 も かいな く, 
" 一 マは属 州の 搾取の 上に, 表面 華麗な 生活 を 展開しつつ, とうとうと して 不嬉 全な 
状態に 陥って いつ た。 

共和制 末期の き 崩壊に ついて, B.C. 1 世紀の 歴史家 サ ルス チウ ス Sallusthis は 
言う。 「労勵 と 正義と によって 国家が 増大し, 強大な 諸 民族が 武力に よって 従えられ, 
ローマ 主権の きゅう 敵で あ つた カノ レタ ゴ が 絶滅せ られ て, 全 海陸が 口一 マ 人の 前に そ 
のと びら を 開いた とき, 違 命の 女神 はたけり 始め, すべて は 混乱に 陥った。 どん 欲 は 
真実と 廉直 をく つがえ し, 代うる に 尊大と 残虐と 瀆神を もってし, すべて を^ ^ で考 

えさせる ようになった o こ の 弊風 は 疫病の ごとく ひろがり, 国家 は 一変し, 最正 • 最 


- —— 114 


古代の 世界 


善な り し 主権 は 酷薄 耐ぅ ベから ざる ものと なった ひ C 力 ティリ ナの 反乱, X 以下)」 と o 

B.C.  2 世紀の 後半から ィ タ リア 内部の 社会的 動揺 激しく, ついに 内乱 状態と なった 
が, 元老院 を 中心とする 閥族 党 も 無産 市民 も 政権 を 独占で きず, かえって ロ— マ 人が 
最もき らう 独裁 支配への 道 を 開 くこと となった a 都市国家 本来の 市民 皆兵の 原則 は 破 
れて, B.C. 1 世紀に は 傭兵 制と なり, 軍隊 は 将軍の 私兵と 化した o そして 武力に よ 
る 党争' 政争 は 文字 どおりし のぎ を 削り 合い, 軍閥 政治' 3 頭 政治 'シ 一 ザ— (カェ 
サ ノレ Caesar  B.C.  100— 44) のさ 虫 裁の スペクタクル を径 て, オタ タウ、、 ィ アヌス Octa- 
vianus  〔 ァゥグ スッス Augustus)  (B.C.  63〜A.D.1C) の 天下 統一に 至って, グラ 
ックス 兄弟 Gracckus,  Tiberius  (B.  C. 163〜133);  Gains  (B.C.154〜121) 以来 1 

世^ j こわた る 舌し 世 はよう やく 治まって, これより 約 2 世紀の 間, 一 マの 平和 j 

Pax  Romana を |g 歌す る 帝政 黄金時代 を 現出す るので ある o 

帝政の 栄枯 ァゥグ スッス 〔尊厳 者の 意) はシ— ザ— の てつを 踏まず, 一層 共和制 
の 形式 を 尊重して 人心の 安定 を 計り, 傭兵 50 万の 大半 を 解散 就業せ しめ, 15 万の 市民 
正規軍と 同数の 被 征服 民 傭兵, 及び 少数の 近衛兵 を 備え, 辺境の 防備, 戸籍 ,産業の 
調查, 課税 基礎の 整備, 警察 制度, 植民 開発, 都市の 食料 供給, 土木 建築な どに 意 を 
^いたから, 文明の 施設 備わり 文運 大いに 栄えた。 元老院 は 表面 俊然 重要な 機関と し 
て 存続した が, ァゥグ スッス は 諸 要職 を 兼任して 帝王の ごとき 実権 を 握り, 属 州の 統 
治' 外交 及び 財政の 処理な どに 治績 を あげた ひ 続く 諸 帝 も, 理論 上 は 元老院と 人民に 
された プ リ ン ケプス Princeps  (第一 の 市民 の 意:) であった が, し だ い に 公然 と 

専制 的に ふるまい, 事実上 帝位 を 世襲し, 軍隊と 財力と 公共事業 によって 人民 を 操縦 
支配した a トラヤヌス Trajanus  (53~117) (在位 9S 〜; L17) 帝の 時, 帝国の 版図 は 
膨張の 極に 達し, "—マ 市 は 諸 民族の 参集す る 世界的 首都と なり, 内外の 商業 隆盛 を 
きわめた が, 同時に 文弱 • 奢侈' 利己の 悪徳とうと うとして 遊民 は 激増し, 不健全な 
暗黒面が, 表面 いんしん をき わめる 経済界に も 政治 界 にも, 道徳 生活に も 重苦しく 広 
ま り つつあった ひ 厳格な ス ト ァ 哲学が 五 賢 帝ら によ-つて 奨励され たが, その 実践 者 マ 
ルクス =ァ ウレ リウス Marcus  Aurelius  (121 〜: 180) (在位 161〜180) 帝の 死後, 再 
び 内憂外患 並ぴ 起って, 争乱 半世紀の 間に 選 立され た 26 皇帝のう ち, 天命 を 全うした 
も のわず かに 1 入の みとい う あ りさまで あつ た o その 主因 は 口 一 マ 軍隊の 腐敗で, 素 

質 は 低下し 兵数 は 増大し, 国家 を 忘れて 利欲 を 求める 豺 狼の 群れと 異ならず, 皇帝 を 
擁立して 欲望 を ほしいまま にした ひ また この ころよ り 国境 地方への 蛮族の 侵入よ うや 
く 激しく, これ を 防備す る 国軍の 頼む に 足らざる に 及んで, 各地 方 は 自己の 力に よつ 
て 防衛し 治安 を 維持せ ざる をえず, 中央集権の 実は 失われる に 至つ た。 加うるに 3 世 
紀 のころ, 疫病 流行して 生産 は 衰微し 民力 は 急速に 疲弊して 行つ た。 

一 115 —— 


I 資料 編 


ローマ帝国の 細胞た る 都市 自治体 は, 農業の 衰微, 課税の 胃, 戦乱, 疫病, 蕃族 
の 侵入な どに よ つ て 疲弊し, 公吏 は 政府よ り 課せら れる貢 納金の 徴集 責任 に 苦しん 

だ o 農村の 窮迫 も 著しく, 多くの 自由 農民 は コ" ヌス Colonus と 呼ばれる 一種の 農 
奴に 転落した。 これ は 東方の 小作 制度に 影響され ている といわれる。 けだし 大土 地所 
有 制に おけ る奴隸 制^^ 能率に は 限界が あ る し, 戦勝に よ る^ 供給が 今や 途絶し, 一 
方 盛んに 奴隸 解放が 行われ, 奴隸制 生産の 維持 はし だいに 困難と なった。 そして 弱小 
自由 農民の 歡 不能に よ る 転落 と 相 まつ て, 農奴 的 小作農 制度 コ n ナ トス Colonatus 
を 発展せ しめた。 ま た 古代人 は 労働 をべ っ視し たか ら , 技術 や 工業 生産 は 進歩せ ず, 農 
業 制度の 変ィ 匕と 相 まって 交換 怪済は 衰え, 自然 経済の 色彩が 濃厚と なった 。紀元 438 年 
公布の テオ ド、 シ ゥ ス 法典 Codex  Theodosianus に はコン スタン チヌス Cons ね nti- 
nus  (274〜337) 大帝が 発布した 農奴 条令が 載って いる 0 いわく  「他人の 権利に 属す 
るコロ ヌスが 誰かの もとで 発見 されれば, 彼 は 原籍地に 引き もどされ, 逃亡 期間 中の 
租税 も 支払うべし。 また 逃亡 を 企てた コロ ヌスは 奴隸の 扱いに より 胃に 縛し, 自由 
人に ふさわしき 仕事 を 奴隸的 処罰 法 を もって 果たさ しむべし。 (Cod,  Theod,  Y.17— 
DJ と。 農奴 は 法的に は 自由 人で, 奴隸の ごとく その 全人格 を 物と して 主人に 所有 
せられる ので はない が (たとえば 主 入の ねんぐ 不当 引き上げ を 官憲に 訴え う る), 土 
地に つながれて 主 入に 隸 属し, その 限りで は 不自由な 「土地の 奴隸 J  Servus  ferrae 
と 呼ばれる も ので あつ た ひ 

また 同じ テオドシウス Theodosius  (346~395) (在位 379〜395) 法典 OE.1  — 5) 
に, 都市 民の 没落 を 示す ユン スタン チヌス の 勅令 (362 年 発布) が 見える。 「キリスト 
教徒と してのお のれの 義務 を 免れん とする 市参事会 員 decriones は 呼び も ど さるべ 
し。 市会議員 Curiales の 中には 権門勢家の 下に 逃亡す る 者 あ り との 報知 あ る ゆえ 
に, かかる 逃亡 を 禁ずる ため, 余 は 罰金 を 定め, 逃亡者 は 1 人に つき ソリ ドス 金貨 を, 
これ を茈 護せ る 者 も 同額の 罰金 を 支払わし む。」 と o これ は 都市 民が 自ら^: を 捨て, 
権門に, を 求める 例で あるが, 当時 都市の 疲弊 はなはだしく, 都市 を 捨てて 離散 逃 
亡す る 者 も 少な く なかつ たこ と は, 紀元 5 世紀の マルセ— ュの僧 サルヴ 、ィ アヌスが 躍 

如と 描いて いる。 「都市 民 は 教養 ある 者 も 貧しき 者 も, 政府の 重税に 死 せんより はむ 
しろ 蕃族の 支配 下に 逃亡して, せめても の 人間ら しさ を 求めん とした o  ローマの 支配 

は 自由の 15 面の 下に 誅求 あく ところがない。 かって は 名誉と 希望の 的であった 市民権 
や 公職 も, 今ではい と うべき 厄介 ものと なった。 都市の 窮艺 せる 納税 担当者た る 市民 
達が, このような 仗 態の 下で は, ことごとく 都市から 逃亡して しまわない のがむ しろ 
不思議な くらいで あるひ (神の 支配, 第 5 巻)」 と 0 帝国の 衰退 かくの ごとき 秋, ディ 
オタ レチ アヌス Diocletianus  (245~313) (在位 284〜308) の 治績, コン スタン チズ 

—— 116 —— 


古代の 世界 


スの 中興な ど 見るべき ものが あつたに せよ, 帝国の 頹勢, 古代 世界 秩序の 崩壊 は, よ 

く 1, 2 の 英主に よって 阻止 さるべ くもなく, テオ F シ ウスの 時 帝国 は 東西に 分離 さ 
く, 西 ローマ は 早く も 5 世紀 後半に, その 政治的 生命 を 失う に 至った ので ある。 

ローマ 文化 ギリシアと" 一 マの 両 文化 を 比較す ると, 前者 は 精神 文化に, 後者 は 
現実 生活に, おのおの その 本領 を 発揮した と 称される。 ギリシア 人の 理知と 情熱 は, 
学問 • 思想'^ のさん ぜんた る 花 を 咲かせた が, ^  —マ 人 はき わめて 実際的 政治的 
な 国民性から, 真美 価値の 追求に おいて はギ リ シァの 模倣 以上に 出な かつ た。 哲学 は 
実践的 倫理的 要素に 富む ス ト ァ 派の 思想が 行われて, セネカ Seneca  (B.  C.  6 〜A. 
D.65) や マルクス • ァ ウレ リウスら を 代表と して, 自然の 理法 を 諦観して 安心立命の 
境地に 達せん とした。 ローマ の 歴史 叙述 は 実用的 政論 的 色彩 強 く, ギリ シ ァ人ボ リ ビ 
ォスは 政治の 成!^ に 強い 関心 を 住ぎ, プル タルコ ス Plutarkhos,  Plutarch  Cca.46 
〜120) はギ リシ ァ •  口  —マの 英雄 列伝 を 残し, 口 一  マ人サ ルス チウ スは 内乱の 傾向 的 
な 記述 を も つ て 現われ, ま た リ ヴィ ウス Livy;  Livius  Patavinus  (B.C.  59〜A.  D. 
IT) の 大作 「口 ーマ史 J や, おそく タキ トス Tacitus  (ca.55 〜: 120) の 「ゲ ノレ マ ユア 
誌」 その他に も, 教訓的な 意図が 濃く 示されて いる a 文 学で は ギリシアの ホーマーに 
比せられる ヴァージル Virgil;  Vergilius  (B.C.  70〜19) や, その他 ォヴ イド、 Ovid; 
Ovidius  (B.C.43〜A.D.rO, ホラ チウ ス Horace  ;Horatius  CB.C.65~8) らお 有 
名で ある a 自^! "学で は 博物学の プリ 二 ウス Pliny ;Plinius が 知られて いるが, その 

大 集成の 風 は ともかく も, ギリシアの 盛況に 比すれば 同日の 談 でない と 言わねば なら 
ぬ。 しかし" 一 マの 本領 は 華麗' 高尙な 思想^よ り も 有用 実際の 法制 土 建に あった O 
古代 世界の 大 統一 を 完成した n — マ 人 は 組織と 立法の 才能に 長 じ, 早く より 慣習法 
を 成文 ィ 匕した が, かの 12 表 法に よる 民権の 規定 以来, ローマ 共和国に は 固有の 慣習法 
を 集成した 民法 Jus  Civile がで きた ひ すなわち 市民権 を 持つ 者 は 絶大な 家長 権 を 有 
し, フ オノ レムに おける 裁判に 出席し, ^の 立法者の一 員と なり, 戦時に はいで て 軍 
役に 服す る 権利が ある a ボェ- 戦争 は 来, 外国人の 来 住 特に ギリシア 人の 在留 者が 增 
加して, これに 適応す る 共通の 民法 を 必要と して, いわゆる 「万民 法」 Jus  Gentium 
の 立法 を 見た o これらの 法 観念 はギ リ シァの 法律' 哲学 思想 こ とに ス トァの 世界^ • 
A3! 主義に 立つ 「自然法 J の 考え方 を 理想と した。 ローマの 諸 法律 は 帝政 • に 整理 
集成され て, ハ ド リア ヌ ス 法典 • グレゴ リア ヌ ス 法典 'テオ ド、 シ ウス 法典な どと なり, 
とりわけ 東 ローマの ュスチ 二 アヌス 帝に よる 「民法 全集」 Corpus  Jurius  Civilis は 
現行法 典 及び 法典 解釈 を 集大成し たもので, 遠く 今日にまで 恩恵 を 与えて いる。 ュス 
チニ アヌス Justiniamis  (527〜565) 帝 は その 勅令で^: の よ う に 述べ ている 0  「国家 
の 最も » な 保障 は, 武力 及び 法律 を もって 基礎と する。 国力の 安定 は 実に この 両者 

—— 117 —— 


I 資料 編 


: にった: ^つてい る。 多幸なる 口 一 マ 市民 はかって この 保障に よってす ベての 国民に 優 
勝し, すべての 人類 を 統治す る をえ たと 同じく, 将来に おいても 永久に 既往の ごとく 
であろう。 なんと なれば 武力と 法力と は 相 依り 相 助けて 常に 旺盛と なり, 武力 は 法 を 

まって 強固と なり, 法 は 武力に よって その 存在 を 保つ が ゆえで ある 0J と。 

口 一 マの 建築 は エト ルス ク 式の アーチ 天井と ギ リ シァ 式の ra 往法を 巧みに 結合した 
ものである o 規模の 宏大と 堅牢な 点 はよ く 民族性 を 象徴して いる a パンテオン 〔万 神 
W) の 殿堂 はァ ゥグス トスの 名将 ァグ リッパが 建て, 内外 新旧の 諸 神 を 一堂に 祭って 
怪しまぬ ところ, "—マ 入の 集大成^^ をよ く 示して いる。 n 一 マ は 水質が 悪く, サ 
ビネ 山地より 水道 を 敷設し, 共和制 献 に 4 条, 帝政 時代に は 1條 となり, 水源地 も 

- 遠く に 求められて 水道の 長さ 55 マイルに 達する に 至った 0 これら は 地下に 埋没したり 
高い 橋梁に したり, カンパ ユアの 平原の ごとき は 長蛇の列 をな して, 今 も 遊子の 心 を 

そそって いる ひ ra 形 競技場 は楕 ra 形 4 階 建, 内面 すりばち 形, 周囲 約 ぉ5 米, 高さ 

44 米, 第 1 階 はド、 リア 式, 第 2 階 は イオニア 式, 第 3 階はコ リント 式の 半 H 柱 を もつ 
て 飾り, 内部に は 4 万 乃至 5 万人 を 収容す る, 闘 獣と 闘 奴の 血 なまぐさい 享楽 場で, 
「コロセウムの あ ら ん限 り ローマ は あるべし, コロセウム の 滅びる 時 口 一  マ もまた J 
と は ローマの 豪華 を鬵 じた ことばで あるひ フ オノ レム は 敷石 をした 広場 を 中心とし, そ 
の 周囲に 公共の 諸 多の 営造物が あ り, 市場 '祭式' 裁判 • 集会の 場と な つ た。 浴場の 
規模 もす こぶる 広大で, 浴室の ほか 読書室 • 図書室' 運動場な ど を 設備して 数千 人 を 
入れる も のが あり, 特に 有名な の は カラ 力 ラ 帝の 大 浴場で ある。 「すべての 道 は 口 一 

マに 通ず る oJ のこと わざの ごとく,     ローマ は その 広大な 版図の 防備と 統治の 必要 か 

ら 軍道 を 開いて 交通 運輸の 便 を 図つ たが, n  —マ を 中心として 地中海 を 取り巻く  . 遊 各 
網が 敷かれ, 主要な 8 大 軍道 を 初め 大小 数百に 及んだ という。 こ れ が駅沄 制度の 整備 
と 相 まって, 帝国 铳治 成功の 一因 をな している。 ァゥグ スッス は 「余 は 瓦 石の — マ 
を 大理石と して 残した 。_! と 言った というが, 国威 を 張る ための 壮大な 土木 建築 は, 
ローマ 【こ 不滅の 首都 「7j^ の 都 ローマ」 の 印象 を 与えた。 年間 170 日 を 数えた n — マ 

の 祝祭日 は, 犬 饗宴の 連続と なって 壮大な 消費の 祭典 をく り 広げた。 私人の 邸宅 も 豪 
奢 をき わめた ものが あり, 暖房 設備 を 施した 室で 一 樽 百 金の 黒海の 塩魚 を 賞美した と 
いう。 属州 都市 も 規模の 大小 は あっても, そ の 性格に おいて は ローマ と 同様で あつ 
た。 このよ うな 都市の 消費 文 ィ匕は 盗賊 国家 Raubstaat と 呼ばれる 口— マの, 世界 征 
服に よる 地方 農村の 搾取 と 奴隸 生産の 上に 築かれ たもので, その 崩壊 はむしろ 自 然の 
なりゆきであった ともい えよう。 

キリスト教 地上に 偉大な 《 — マ 帝国が 完成され る ころ, 精神 界に 不滅の 神の 国 を 
提唱した キ リ ス ト教が 起って, 幾多の 大 迫害に 堪えながら 帝国の 衰運と 反比 洌 して, 


118 


古 代 の 世界 

古代 世界に 支配的な 勢力 を 築いて 行つ ナ" 元来 ギリシア や ローマで は, 「政治的 人間' 
(社会的 動物, 都市 的 生物な どと も 訳す) J とか 「賢者」 とか を 人間の 理想 像と した。. 
そして ある g 家 は, 「古代に おいて は 神と 人間と 自然 は 未 分 一体で あり, 古代 末期 

になって 神が 析出 分離す る cJ と 言った が, ギリシア や 口— マの 世界観 は 人間 主義 的 

代 世で あ り, 神 もど ちらかと いえ ば 人間的で あ つ た。 しか しか かる 世界観 • 価値観 は, 
古界の 全面的 矛盾 崩壊と いう 事実の 前に は 支持され なくなる。 ここに 「霊的に なりつ 

とする 人間 J による, 主我 的愛ュ n スから ,神 的 愛 ァガぺ —への 価値 転換が 起る。 キリ 

ストが 「新しき 入」 neos  anthropos  (コ。 サイ 書) と 言った の は, すでに 初期 キリス 
ト 教的 な 人間 革命 を 示唆す る ものの ようで ある。 しかし, 確かに キリスト教が 搴々 2  , 
3 世紀の 間に 古代 世界に 広がって, 紀元 4 世紀に は 支配的 勢力と なった の はまこと に 
世界史の 奇癀 であるが, もし それが 古代 末期の 社会 不安に 対して, 夭 匡の 福音, 彼岸 
の 救済と いう 現実 逃避の 原理に 立つ のみの ものなら ば, かかる 発展 は 不可能で あろ 
う 第 19 世紀に マルクスが はなやかに 叫んだ 世界 革命 を, キリス ト教は 千 数百 年 前に 
は る か に 広範に して 底-架い 人間 革命— 社会 革命 という 線で 遂行 したので は なかろう か。 
わ れ わ れ は 福音書の 至 ると ころに, 溻富を 捨てて 貧者 を 救えと 説かれて いるの を 見 
るが, これ は 単なる 道義の 胃で なく, かなり 実行され た 運動で ある こと を 知ってい 
る。 キリス ト教が 奴隸制 における 労働 蔑視 観 を 退け, 勤労 清 神 を 鼓吹して 「神の 仕 
M  !  Opus  Dei, 働く こと は 祈る ことなりの 理念 を 高揚 実践した こと は, M 経済 史 
上に も 重要な 意味 を 持つ。 こ のこと は 紀元 4 世紀 以来の 修道 運動が, 教会の 改革と か 文- 
献の 存続と かそうい  う 精神 史上,  宗教 史上の 意義 のみでな く, 荒 地の 開墾, 農業 を 主 
とする 諸 « の 発達, 技術の 指導な ど, 経済 史 _hS: 犬な 役割 を 果たして いる ことから 

も 察せられる o 

エンゲルス は 「原始 キリスト教 史考 J  (訳書 名, 岩波 文庫) の 冒頭に おいて 「原始 キ 
リス ト教の 歴史 は 近代の 労働者 運動との 著しい 接触 点 を 示して いる。 も し 口  —マ 皇帝 
治下 の 土地 所有 の 巨大 な 集中と, ほとんど もつ ばら 奴隸か ら 成って いた 当時の 労働者— 
階級の 極端な 苦悩 にもかかわらず, なぜ 西17  —マ 帝国^ M の あと を 受けて M 主義が 
現われなかった ので あるかと 問われるならば, まさしく この いわゆる す± ^^^なる も 
の は, 当時 可能であった 限りに おいて は, 事実 キリスト教 において 成立して いたし, 

し 力、 も キリス ト教の 牛耳 を 執って さえいた というべき であ る。」 と 5 つてい る o この 

ように 見て くると 「なぜ キリスト教 は 古代 末期 以来, あのよう に 強力な^ SH 的 要素と 
なりえ たのであろう か。」 という 素朴に して 重要な 疑問に 対して, ある 一つの 核心 的 
^答 を 持ち う るので はな かろ うか。 この こと は 求道者の 真剣 誠実 さや, 布教 者の 夠教 
的 献身 や, 道 者の 人格 才徳の 卓越, 教会 組織の 有効' 優越, 不安 はなはだしき 時代: 


119 —— 


I 資料 編 


の 恐怖の 心理, あるいは 人類に つきまとう 非合理的な 情意 生活の 不定 性, 時代 を 風靡 
する 病的 不均衡の 衝動. 感情 性な ど を 疎外して 考えられる も ので はない。 キリスト教 
の 含み 持つ 宗教 的 純情と 熱情との 普及と 持久と の 偉大 さ を, 裏 づけ る 無意識的な 基盤 

として, 考えら るべ しとす るので ある 0 


第 2 編 中世の 世界 


第 1 章 西欧 封建 社 

会 ひ22) 
第 1 節 ゲルマン 民族 124 
ゲルマン 民族の 移動 124 

フランク  125 

ドィ ッ • フラ ンス • 

ィ タ リ ァ  126 

ノルマ ン 民族の 移動 丄 26 
第 2 節 キリスト教 世 

界  127 

 127 

 128 

 130 

第 3 節 西欧 封建制度 131 
封建 制の 成立 131 
騎士道  • 132 

封建 制の 完成と 封建 
'. 王制  133 

第 4 節 中世 西欧の 経 
済と 文化 135 

荘園  135 

中世 都市 137 
ギル ド  138 


十字軍  139 

[^ョ ― 口 ッパ (D タ 

ィ匕  140 

第 2 章 西 アジア 社会 
の 発展 (143) 
第 1 節 イスラム 世界 143 

ァ ラ ビア  143 

イスラ ム教  143 

サ ラセ ン 帝国  144 

セノ レジュ— ク = ト ノレ 

n  146 

ィ ルカ ン国  146 

テ ィ ム一ル  147 

ォスマ ンー ト ノレ コ ••• 148 
第 2 節 イスラム 社会 . 

とその 文化  149 

イスラムの 世界史 的 

意義…'  149 

イスラ ム 社会  150 

イスラ ム 文化  151 

第 3 章 南アジア 社会 
の 変化 (152) 
第 1 節 インドの イス 

ラ ム 社会  152 

イスラ ムのィ ン ド 歪 lj 


来  152 

ムガル帝国  154 

第 2 節 インド-イス 

ラ ム 文化  157 

イスラム 系 文化 …… 157 
第 4 章 東アジア 社会 

の 推移 (1 お) 
第 1 節 中国 官僚 国家 . 

の 成立  158 

宋 王朝  …" 158 

契 丹 • 党 項 • 女 真… 161 

宋代 文化  164 

第 2 節 征服 王朝と 民 

族 国家  167 

征服 王朝  167 

元 王朝  169 

明 王朝  171 

明 代 文化  174 

周辺諸国 家  175 

第 3 節 官僚 制 専制 国 

m  177 

清朝  177 

清 代 文化  181 


第 2 編 中世の 世界 


第 1 章 西欧 封建社会 

西洋史に おいて 通常 紀元 4 〜 5 世紀 か ら , 14〜 5 世紀 までの 約 1, 000 年間の , を 
さす 「中世」 Middle  Ages という 概念 は, 由来 近代と 古代との 中間の, 介在 的な 時 
代と いう 消極的な 意味の ものであった。 これ は あ の 輝か し い 近代 精神の 発展が, 中世 
を 否定して, 古典 文ィ 匕の 再生に その 理念 を 見いだ した ことに 深く 関係して いる。 イタ 
リア- ルネサ ンス 人が 古代 口  一 マ の 思想 文ィ 匕に 強い 瘇憬を 示し, フラン ス 啓蒙 主義の 
文化史 家ヴ オル テ―ル や モンテスキューが, 古典 古代の 偉大と 光輝 をた たえ, 中世 を 
未開 野蕃の 世と 見た こ と は 周知のと ころで ある。 こ こに 蛮族 ゲルマンの 浸入と 破壊に 
始まる 中世 は, いわば 古代 • 近代と いう 二つの 輝く  , 舞 合の 中間に 介在す る 薄暗い 
背景に 押し やられて きたので ある。 いわゆる 「暗黒時代」 Dark  Ages という ことば 
が 示す ように, 中世と は 人間が 抑圧 さ れ, 社会が 停滞 し, 文化が 衰微 し た 時代で あ る 

と 考えられ てきた。 封建 す检 という 概念の 中に もこの よう なュュ アンスが 含まれて い 
る。 この こと は 今日 われわれが 「封建的」 と 言えば, 直ちに 隸 従と 迷妄の 代名詞の ご 
とく 考える ことから も 察せられる。 このような しいたげられた 中世 観 は, 実は 近代史 
学に 久しく 見られた 傾向で, 現在に も その 名残り をと どめて いるので ある。 しかし 19 
世紀 中葉 以降に ドィ ッを 中心に して ゲルマン 主義 的 浪漫主義 的中 世 研究が 活発に な つ 
て, 彼らの ネ! ^ゲルマン 民族が 中世史に おいて 演じた » 的 意義 を 再評価し, 政治. 

経済 •  t±^  • 文化の 各方 面から 中世史の 積極的 意義 を 厳正な 学 的 認識の 上に 照明し よ 
うとす る 傾向が 強 くな つてき た。 そう して 現在 学界の 主流に おいて は, 最早 素朴 単純 
な 中世 暗黒 観 は 支持 されない ので ある。 

したがって われわれ は 封建社会なる 概念に よって, 搾取と 隸 従と, 野 蕃と迷 蒙の m 
惨な 時代 を 想定す る 素朴な シ - マティス ムス の 立場 を 再検討 したい ものである。 確か 
に そこに は 近代的な 自由と 個性の 自覚 は 乏しかった けれども, 個 我 を 越え て 秩序 と 調 
和 を 重んじ, おのが じし 地续 的な 共同体 を 構成し, もって 相互 依拠と ヌ. 保 友愛の 社会 

を 成熟せ し 力 たので あ る 。 われわれ は 中世の 農村に も 都市に も ; 諸種の 宗教お 会に も , 

封建的 機構に も こ の 精神と 現実 を 見る であろう。 それ は 古代の 崩 壌が 招いた 不安と 動 
揺, 無秩序と 混乱と いう 不可避の 歴史的 必然に 処 して, 中世 人の 苦悩が 見いだ した 知 

—— 122 —— 


中世の 世界 


恵と 愛情で はな かつ たか。 否, かかる 社会生活よ り ほかに 彼ら は 生き よ う がな かつ た 
ので はない か。 また 中世の キリスト教 特に カトリックに 対しても, その 罪悪と M に 
対して M 多く の 非難 攻撃が 加えられ てき た。 われわれの 身辺に も キリス ト教 嫌い は 
多い。 それ は 神の 偶像 的 権威の 前に 人間 を 奴婢たら しめ 偽善者た らしめ, 天真の 人間 
性 を 殺した とする ものの ごとくで ある。 しかし, たとえ^^が 人間性 を わい 劭し, 封 
建 制が 個性の 伸長 を 抑圧した 面が あった としても, なお かかる 宗教 や 制度が 中世に お 

いて 果たした 史的 意義 を 忘れて はなら な い o   「人の 主と なる 日 を われ 求めた る こ 

と な し。」 と は 人間 主体性の 徹底的 否定の 理念で あ ろ う が, それ は 決して 卑屈と 無 気 
力 を 語る も のでな く , かえって 強い 人間の 激しい 自己 投機の 清 神と 努力 一 これ こそ 
自己主張 を 生活 原理と する 近^ 人に 最も 欠けて いる も の 一 を 示す ものと 思われる。 
古代が 神と 人と 自然の 渾 一体で あり, 中世が 人間 を 越えた 神の 発見の 時代で あるな 
らば, 近代 はさら に 人間から 自然が 析出され る 〔自 »4 学の ともい えよ う。 
さらに 大胆に, 全 中世に ついて その 特色 を 求めよ う とするならば, その カラー はも 
し 近世 を 理性の 緑と 見る と, 中世 はむしろ 心情の 赤と 言うべき か。 したがって ある 史 
家が, 「我々 と 中世との 間に は, 越えが たき 湾が 横たわつ ている。」 と 嘆 じたよう に, 
ラム プ レヒトの いわゆる 「心情の 懸隔」 を 考えるべき かも 知れない 。近代史 学 上に お 
ける 中世史への 無理解の— 因 はこの よ うなと ころに も あるか も 知れない。 も ち ろん 中 
世に は 入 間の 屈従と M が 少なく はなかった。 (いつの もそう であるよ うに。) し 
かしこの 中世 こそ, 永遠なる 力が 顕示され', 宗教と 世俗の 対立 緊張の 中に, 熱烈な 社 

会 的 精神的 エネルギーが 活動した 時代であった。 近代 清 神の はなやかな 発展 は, 実は 
中世 1,000 年の きびしい 宗教 的 訓練に 養われた もので あり, その 精神的 S 铳の 中よ り 
光輝 あ る ルネサンス の 花が 咲い たというべき であ ろう。 「あら ゆ る 時代が 神 に 直結す 

る」 ならば, 中世 は 否定 さるべき 介在の B#f ^ではなく, まさに 「ョ  一口 ツバの 形成 
期 J として 独自の 積極 白 ^« を 持つべき である。 
中世史 はだいたい 初期 • 中期 • 後期に 3 区分して 考えられる。 初期 は f^54~5 世 

紀から 始ま り , 民族 移動に よ る 全欧 的 社会 不安と 動揺の 中から 封建制度が 漸^ 成さ 
れて 行き, 8〜9 世紀に 至り, チヤ— ルス 大帝の 統一に より 一応の 安定に たどりつく 
までの 時代で, この 時期に キリスト 教会 は めざましい 発展 をす る。 中期 は 9 世紀より 
12 世紀までの 封建社会の 完成' 成熟期で, M と 俗 権が ようやく 強化して 両者の 対立 
抗争が 見られ, 十字軍に 至って 法王権 は 最高 頂に 達する。 後期 は 13〜 4 世紀で, 封建 

的 組織力お 育 壊に 向かい, 新生 命が 胎動す る 時代で ある。 中世 初期に おける 文明 を 古代 
の 古典的 文化の 尺度で 見る と, 一時 はるかに 水準 を 低下した こと は 否定で きぬが, そ 
れはロ 一  マ 文明の 変態が 主で, ゲルマン 人の 蒙昧 野蛮に よるので はない とする 見方 は, 


123 


1 資料 編 


ド プ シ ュ の 古代 中世 連続 を 主張す る 絰済的 社会的 史論 を 初め, ド ゥ ヴ イルン ャック の 
キリス ト教清 神の 独自性 を 説く 美術 文化史 論, その他の ド、 ィ ッ 人的 立場から と 見られ 

る もの や, アン リピ レンヌの イスラム 勃興に よる 地中海 世界の しゃ 断 説, あるいは ビ 
ザン ッ 'イスラムな ど 東方の 台頭に 伴な う 外来 圧力に よ る 西欧の 変革に ついて 考え る 
ドーソン その他の 中世史 家ら の 西欧 力 ト リ ック的 立場から と 見られる ものな どが ある。 

第 1 節ゲ/ レ マン 民族 

ゲルマン 民族の 移動 旧 ローマ帝国 内に 諸 王国 を 建設した ゲルマン 諸 族 は, その 性 
格 や 環境 を 異にし, 終局の 運命 も 多彩であった が, 彼らに 共通の 特性 は^の 諸 点で あ 

つた。 (1) 血族 集団 Sippe を 基本 型と する もので あり, (2) 自由 民の 集会 Concilium 
に より 政 洽 • 軍事 • 裁判 その他の 国事 を 議決し, ( 3) 強力な 首長 制 Lordship が あ つ 
て 国王' 貴族 は 従者 群 Comitatus を 従え, ( 4  ) 移住者 ゲルマン は 多くの場合 農民と 
な ら ず 地主 Landlord となった。 これら の 特性が すでに 古代 ゲル マ ン の 民族性に 拫 
ざす ものである こと は, シ一 ザ 一の 「ガリア戦記」 (B.C.55) や タキ トスの 「ゲル マ 
ユア」 (A.D.100) に 明らかで ある (両書 共 岩'^: 庫: )。 前書 はシー ザ— 自ら ガリア 征 

對の戟 記 を" —マの 元老院に 報告した 詳細に して 生彩に 富む 記録文学 であり, 後書 は 
ゲル マ ソ の 社会 • 経済 • 制度 • 民俗 を 簡潔 雄勁な 文体 を も つ て 正確に 伝え た ラテン 文 
学の 一清 華で あ り, 相と もに ゲ ノレ マ ン研究 者 必読の 書で ある。 タキ トス は 言う。 「ど 
ぅ猛な 青き 眼と 赤き M«, 偉大な 体躯, それ はこと に 攻撃に 強力で あるが 拫 気と 忍耐 
に £ しく, 鶴と ロ渴に 弱く 寒気と 飢餓に 強い。」 と。 

民族 移動 は ひとり ゲ ノレ マンに 限らず, 紀元 1〜2 世紀 ごろより 全 中世 を 通じて, 東 
西の 諸 民族に わたる 広範な 移動が 間歇 的に 見られ るので ある。 しか し 西欧 中世の 初期 
に 重要な 役割 を 果たした の は, もちろん 糸 己 元 5 〜6 世^ _ よ り 以後 200 年に わたるい わ 
ゆる ゲルマン 民族の 大 移動で ある。 その 直接の 契機 は フン 族の 西 進で あるが, なお 幾 
多の 条件 を 考えねば ならぬ。 第一 は 口一 マ 帝 権と その 防備 力の 衰亡, 第二 は ゲルマン 
ネ ±^ の 変化 成熟, も しゲ ノレ マンが 文字通り 未開の 野 蕃人なら ば 移動 は 一時的な 破壊に 
終って, その後の 中世 世界の 形成 者と はなり えなかった に違いない。 マの 制度 文 
物 を 理解 受容し, その 社会 • 文化と ゲルマン 精神 を 融合 発展せ しめた 能力 や, 技術 は 
—朝 一夕に 修得で き る 性質の も ので はない。 すなわち ゲルマンに は ある 程度の 民族的 
団結 や 政治的 訓練が で きて おり, また そ れを 要請す る だ け の 内部的 M 的 発異が あ り , 
おそらく 人口 も 増加し 人間の 欲望 も 増大して, 「南への あこがれ」 がお さえが たくな 
つていた ところへ, フン 族の 西 進と いう ショックが あって, この 衝動 を 奔流せ しめた 

—— 124 —— 


中世の 世界 


も のと 思われる o 

口 一  マの 衰亡が 招いた 統一 権力の 室 白 は, ゲ ノレ マン をして 旧 帝国 領を 分権 的に 
すべき 地位に 立た しめた。 しかし 彼らの 多く はョ— 口 ツバの 運命 をに なう に 足る 強固 
な^^と 組織 を 築く に 至らなかった。 当時 ビザ ンッが 東欧の 一角に 有力な 勢力 中心 を 
形成 し, さらに イスラムが 3 大陸に わたつ て 急激に そ の 勢力 を 伸張しつつ あ るの: 二 対 
抗 して, 西欧の 中心 舞 合への 登場 を 約束され たの は 新興 フランクであった。 

フランク フランク 王国 は 紀元 5 世紀末 クロ ヴ イス Clovis  (4S5〜511) (在位 481 
〜511) によって 建国され 着々 国運 を 発展せ しめた。 この間の 歴史 は 紀元 6 世紀の ッ 
'一 ノレの 司教 グレゴ リウスの 「フランク 史 10 巻」 に 詳しい。 これ を 読む と 乱世の 英雄と 
しての 野性の 力に 満ちた フラ ン ク諸王 や, 貴族の 豪快な 風貌 を ほうふったら しめる も 
のが あ る o  「そのころ カンブレーに は ラグ ナカ 一ル 王が い たがお ごり に ふけり, 一族 

の 者から も 非難され ていた。 クロ ヴ イス は 偽って 金メ ツキの 腕 環と 太刀 吊 り を その 家 
来に 送って 手な づけ, いくさ をし かけた。 ラグ ナカ 一ノレ は 味方の 敗戦 を 見て 逃げん と 
したが, 家来に 捕らえられ 後手に 縛られ, 弟と ともに クロウ、、 イスの 面前に 引き出され 
た 。王い わく 『我ら 一族に 恥 を かかせ, その上 縛り上げられ ると は 何事 じ や。 罪 万死 
に 値する わ。』 とおの を 振り上げ 頭 を はね, 弟に 向かって 『お前が 助けさえ したら 兄 

貴 もこん な 目に会わずに 済んだ もの を』 と 言い, その 首を切った。 裏切った 家^! は 
王の 贈物が 偽物なる こと を 発見して 文句 を 言う と, 王 はこう 答えた。 『主君 を 裏切つ 

みょうが 

たよう な 奴ら には^^で 沢山 じ や。 命の ある だけ 冥加と 思え。 さもな く ば 裏切りの 罪 
によって 責め 殺して やろう か。』 王 は そのほかに も 片端 か ら 諸国の 王 を, どんな 身内 

の 者で も容 凝な く 滅ぼして, その 領土 を ガリア 一 に 広めた。 そして ある 時 家来の 集 
まった 時 こ う 言つ た。 『ああ 余 は 異国に 住む よ うな も の だ。 万一の 時 助けて く れる 身内 
の 者 もない ありさま じ や。』 しかし これ は 肉親の 死 を 悲しんで 言った ので はなく, な 

おも 殺して やる 相手 はいない もの かと 計略 を も つて 言つ たもので ある。 (I 巻 42 章)」 
フランク は 8 世紀の 末チ ャ 一 ルス 大帝 Charles  the  Great  (742〜81め 〔在位 771〜 

814) に 至って 大 統一の 理想 を 実現し, ここに 西欧 は 一応の 安定 政権に 到達した わけ 
である。 彼 は 中世 初期の 動 舌 L 時代と 中期の 安定 時代の 分水嶺に 立つ 人物で, その後の 
歴史の 方向と ゲルマン 族の 使命と は, 彼に おいて 定められた ともい えよう。 ドイツの 
文化史 家 フライ ターク は 言う。 「カール 大帝 は, その 生活 を ト、、 ィ ッ 的な 戦士と して, ま 
た 農夫と して 始めた。 そして 強力なる 貴族, 教会の^ ^者と して その 生涯 を 終えた o 
彼 は その 統治 を 始めた 時 は, その 国民と 同じよ う に 無知であった。 彼が 死んだ 時 は, 
多くの 大きな 文化的 建造物, 数千 巻の 書物, 学殖の 深い 僧侶 や 俗人 を, 帝国の すべて 
め 地方に 残した。 野蕃 なサク セン 人が 人間 檨牲を 好んだ 所, フ リ —ゼン 人が 伝道者 を 


125 


1 [資料 編 

打ち殺した 所, ァヴァ —ノレ 人が 矢筒 をつ けて 豊穣な 谷間に 乗り入れた 所に は, 今や 鐘 

楼ゃ 王の 農場 や 修道院 学校な どが そびえた。 彼の 大帝 S は その後 練 者の 間に 分割され 

てし まった。 しかし 彼が 農地 や 人間の 心の中に 植え込んだ 生命の 萠芽 は, すぐ^の 時 
代の 荒廃に も 堪えて 成長して 行った ので ある0  c 向坂 逸郎 訳ト、 、イツ 文 ィ匕史 )」 と。 ; 

ドイツ • つ ランス. イタリア フランク 壬 国で は チヤ— ノ レス 大帝の 死後, その子 ル 

ィ 敬虔 王が 位に ついた が, ノ レイの 3 子 は 紛争の 末, 国土 を 東西 フランク 及び 中部 フラ 
ンクに 3 分して 領有し, ここにの ちの ドイツ 'フランス' イタリア 3 国の 基が でき た。 
そ の 間 地方の 豪族 は しだいに 勢力 を 得て, 大帝が これ をお さえる ため に 置い た 公 • 伯 
などの 地方 長官 も かえって 大 豪族と なり, 封建的 地方分権の 傾向が 強くな つた。 ト、、 ィ 
ッ では 国王に 傑出した 人物が なく, 犬 諸侯が 強大と なって 国内が 乱れた。 が 世紀 初め 
カロ リン ガ王 朝が 絶え, 諸侯 違挙 によって サクソ ユア 公 ヘンリーが 王位に つき, その 
子 オット 一 1 世 Otto  (the  Great)  (912〜973) 〔在位 962 一 973) は 東 マジヤール 族 

^罄 退し, ィ タリ ァ 北半 を 占領して 武名 を 上げた。 彼 は 古代 口— マ や チヤ 一 ルス 大帝 
の 版図の ごとき 大帝 国 建設の 夢 を 抱き, これ を キリ ス ト教 擁護の 理想と 結び付けて 口 
一 マ 法王から 帝冠 を 受け, 「神聖 n — マ 帝国」 Holy  Roman  Empire の 皇帝と 称し 

た 〔962 年: )。 その後 王位 はス タウ フ-ン 家に 移った が, 歴代の 皇帝 は 国内の 不統一 を 
そのまま にして, イタリア 経営に 熱中し,' ド、 イツに 表面的な 栄光 を もたらし たが, 同 
時に 多く の 不幸の 種子 をまい たので ある。 

フランス でも 有力 諸侯が 地方の 実権 を 握り 国王の 勢力 は 弱ま つた。 さらに ノルマン 
人の 侵入 はこの 国に 最も 激しく, 彼らの 一部 は 定住して ノ  ノレ マンジー 公国 を 建てた く 
らいで ある。 かく して 10 世紀の 末 カロ リン ガ 王朝 断絶 後, パリ 一 伯 ユー グ= カペー 
Hugues  Capet が 壬に 選出され, 国王 は 実質的に は 二流の 一 諸侯に すぎな く なった。 
フランス では 支配者 はゲ ノレ マ ン 人で あ つても, ローマ の 伝統が 強 く 残り, 言語 もラテ 
ン 系の フランス語が 発達し, 封建制度の 典型的 発展と 相 まって, 中世 西欧 文化の 模範 

となる に 至つ た。 

ィ タ リア は ローマ の 故 地で, フランス 'スペイン などと ともに ラテ ン文 ィ 匕. 'ラテン 

民族の 国で ある。 しかも 今や 西欧 世界の 指導原理 たる 力 ト リ ック 教会の 緩 本山, 法王- 

rf の 所在地であった から, その 文化的 地位 は 高かった。 しかし フランクの 王統 は 早く 
絶えて, 諸侯 や 都市が 各地に 勢力 を ふるい, やがて ドイツ 皇帝の 勢力が しばしば この 
国に 干渉し, さらに 法王が 政治的 勢力 を 得る に 及んで 皇帝と 相 争い, かくて 国内 は 乱 

ォ しカュ ちで あ つた o 

ノルマ ン 民族の 移動 ノ ル マ ン 民族 は 9 世紀 か ら 11 世 糸 己 にわた つて ほ とん ど 全欧 に- 

—— 126 —— 


中世の 世界 


活躍した。 その 原因 は ゲルマン ゃサ ラ センと 同様, 経済的 政治的な も のが 主で あ つ た 
-と 思われる。 ス カンジ ナヴ、 ィァは 山 多く 海岸の 屈曲 大で, 住民 は 農業 を 営む ことが で 
きず, もつ ばら 漁業 を 生命と した。 しかるに 人口の 増加 は 不毛の 郷土に 養い 切れず, 
早くから 海上に 活動して 漁獲 や 海賊 を 行い, 他国 を 侵略す るに 至った。 さらに 当時 ス 
カンジ ナヴ、 ィァは 国内の 政治的 紛 えず, この 圧迫 を 逃れん として 海上に 出た もの 
も 少なくない 。彼らに 伝わる 北欧の 古伝説 は, 海上に 死す る を 名誉と し, 一帆 風 を ほ 
らんで 他国の 土地 を-奪 骆 する は 男子の 本懐な り と 考え, 刀剣に よって 命 を 落した もの 
は 神の 楽土に 生まれる との 信仰 は, 彼ら をして 進取 勇敢, 他国^^に 駆り立てた 。実 

に 海賊 は 彼ら にと つ て 正当 行為で あ つ た。 

ノ ノレ マン 人の 浸 略 は 海賊に 端 を 発し, 船隊 を 組んで 他国の 海岸 を 略奪しつつ 各地へ 
移動した が, の ち は侵珞 地へ 定住す る に 至つ た。 ノルマ ンの 侵略に 最 も 苦しんだ の は 

ズ匕 フランスで, 遂に/ルマン ジ一 の 地 を 割譲した し, 885〜86 年に わたる パリ一 の 包 
囲 攻略の ごとき は, 辛うじて 陥落 を 免れた とはいえ, ノ  ノレ マンの 勢力 は 侮り 難い もの 
が あ つた。 そ の 他 11 世紀に は ノルマ ン ジ一 侯が 英国 を 征服して ノ ルマン 王朝 を 開き , 
また ビザ ンッの 农頼を 受けて 南ィ タ リア を 平定し, シシリ 一島に 百年の 治世 を 開き, 
コン スタン チノ一 プル か ら シ リ ァの 海岸に 達し, パ ノレ トを 越えて ロシア に 人 り, スラ 
ヴを 征服して 建国す るな ど, 全く 縦潢 無尽の 活躍ぶ り を 示した。 彼ら は 勇武 精かん の 
みで なく, 定住地 方で は 海賊 的 旧習 を 捨てて その 地の 習俗に 同化し, 旧来の 文物 制度 
に 調和す る ことに 努め, 文ィ匕 活動の 方面で も 種々 見るべき 業續を 残して, 民族性の 優 
秀さを 示して いる。 しかし 他面から みると, 政治的に 彼らの 民族的 伝铳を 長く 維持し 
た 者 は 少な く  , 幾らか 中国に はいって シナ 文明の 高度に 融解した 北方 民族の 運命に 似 
たと ころ "2" 示した o  . 

p;^-  第 2 節 キリスト教 世界  遷^ 

教会 纖 カトリ ッ ク 教会 は , そ の 伝道の 必要 か ら 各地に 僧侶 を 駐在せ し め たが, 
その 教区 (管区) は 大体 ローマ帝国の 行政区に 一致して いた。 すなわち 初め 各 都市に 

司教 Bishop を 置き, その 都市の 付近 は 彼の 管轄に 属して いたが, その 都市の 従属 地 
テリ トリウム territorium が 広大と なる に 及んで, 管轄 区の 区分と 教階 制度 Hiera- 
rchy を 生ずる に 至った。 教区 は 都市 教区 Diocese と 県 教区 Province とに 分かれ, 
前者 は 司教の 下に 犬 長老 Patriarch これ を^ §2 し, 後者 は 大司教 Metropolitan, 
Archbishop の 下に 大 長老が これ を 支配した。 大司教 は 管轄 区 威が 広く 数 司教 を 包容 
するとき は 自ら 有力と なって, 彼らの 間の 裁定 者と なった。 大司教の 上に 法王が 位す 

—— 127 —— 


1 [資料 編 . 

る。 教階 制度 は 司教 を 最高 位と して, その 下に 清 神 的 補佐 者と しての 長老 (司祭 ) 

Presbyter と, 行政 的 職務の 補 者と しての 執事 Deacon とがあった。 このほかに 
細かい 教階を 設け, g 制と 相 まって 厳然たる 縣 政治 を 成立せ しめた。 今 ローマ ひ 
教会の 組織 を 見れば その 教 階の 複雑さ と 世帯の 犬な る こと は 驚く ばか り である。 す な 
わち 司教 1 人, 長老 47 人, • 執事 7 人, 副 執事 ? 人 (SubdeacorO, 侍僧 Acolyte  42 
人, 悪魔 祓 Exorcist, 聖書 誦唱者 Reader,  Door-Keeper 各 52 人で ある。 そ 

して これら 僧官の 昇級 も"— マ の 文官 進級 制度に ならって, —定年 限 を 経て 順次 高僧: 

の 位に のぼるの である o 

「神の もの は 神へ, シ一 ザ 一の もの はシ— ザ— に 返せ oJ と は キリストの ことばて, 

宗教と 政治 は 元来 はっきり 区別され る はずであった0 しかし 社会 教化に 当たって は 精 
神 力の みならず, 現実的な 勢力 を 利用す る ことが その 効果 を— 層 容易に 収めうる ゆえ 
ん である。 ゆえに 両者の 妥協 は 早く 起り, コン スタン チヌス 大帝が キリスト教徒の は 
つらった る 元気 を もって ローマ帝国の 統一 を 全から しめんと し, 他方 キリスト教徒が 
皇帝の 権威に よって 信仰 を弘 布せ しめんと した 時から, 両者の 結合が 始まった。 しか 
しかく して 教会が 世俗の 政権と 結んで 強大な 教会 組織 を 持つ ようにな ると, 宗教の 純 
粋 性 は 失われて ゆく。 その 失われる 純 宗教 性 を 回復 せんと するとき, ここに 修道院 述 

動の 起る 一原 因が 見い だされる。 

修道院 元来 修道院の 起源 は 東方の 禁欲 • 苦行の 修業, とくに ュ ジ プ ト の 隠 と ん生 

活の ごとき ものに 求められ るが, 西欧に 伝わ つ た 修道 主義 は, ベネ ディ ク トス Bene- 
dictus,  St  Benedict  of  Nursia  (ca.  480〜543) によって 脸 的に 重要な 麓 を 持つ 
ものと なった。 彼 は モンテ-力 シノに 僧院 を 建て, 厳格な 戒律 Regula を 作った が, 
こ れ は 高遠な 理想 を 掲げつつ も 常識的 実践的で 中庸 を 得, 東方の 極端に 走 りが ちな の 
> 異なり, 西欧の 生活に 適した ので, 各地の 修道院 は 漸次 彼のお きて をと つて 生活 を. 
+日 守す る ト う にな り , 中世 中期 は Benedictine  Centuries と さ え 言われる 程に, こ 

の 派の 修道院が 栄えて, 欧州 文ィ 匕の 重要な 要素 を 構成した ので ある。 おきて' 戒律と: 
いっても 普通の 書物に して 百 頁に わたる 詳細 '懇切な もので, 全 章73 章, 区分 も 系統. 
もない が, 大体 次の ごとく まとめられよう 。第 1 章 修道のお きての 意義, 第 2〜3阜 
修道院の について, 章 修道の 諸 原則, 8〜20 章 院内の 正課 〔祈 禱 • 誦唱 • 
勤行;), 21〜22 章 別 監督と 宿坊な ど, 23 一 30 章 ざんげのお きて, 31〜34 章 庶務の 差 
配, 35〜52 章 日課のお きて, 53〜63 章 新参者の 受け入れに ついて, 64 一 65 章 院主' 主 
監の 起用, 66〜67 章 俗世との 離隔の こ と, 68 〜マ 2 章 共同生活に ついて, 73 章 結語。 この: 
おきてに よれ ば 修道院の 目的 はェ ジ プ ト 型 禁欲主義の た めで はなく, 神への 奉仕の 学 
校で あり, 修道 者 は 一大 家族と して 集団 共同の 生活 を 行い, キリストと してお それ,. 

—— 128   


中世の 世界 


父と して 親しむべき 院長 Abbot に 絶対 服従すべく, 外部と あまり, のない 所で 簡 

素な 生活 をし, 集団の ために 農業 や 家内 仕事 をな すべきで ある。 放縦と 怠惰 を 戒める 

厳しい おきての 中に も 常に 弱者への 思い や り を 忘れず, 至る とこ ろ 共同 友愛の 清 神 を 
看取す る ことができる。 この おきてに は 人間性への 顧慮が よく 払われて おり, 当時の 

ィ タリ ァ 農民の 貧窮 生活に 近い 生活が 標準と されて いるので, « の 奇攝な 禁欲 生活 
よりも 人間的で, 各地に このお きて が 迎え ら れ たので あ る 。 

の 指導力 と して 修道 僧が 世俗 僧に 異なる 点 は, 言葉に よ らず 実践躬行す ると こ 
ろに あった。 いつの でもそう であるが, ことに 中世の ごとき 心情 的な 時代に は, 
観念的な 思想よ り も 実践 行為が を 導く 力 は 大きかった に違いない。 しかも 修道院 
は 肉体労働 を 奨励す る。 ベネ ディ ク トスの 戒律に 曰く  「怠惰 は 霊魂の 敵で ある。 この 
ゆえに 兄弟 (修道 僧) は 一定の 時間 は 筋肉労働 をな し, 他の 時間に は 聖書の 誦読 をな す 
べきで ある 。 (中略) 日曜 もまた 種々 の 職務な き 者 は 読書すべき である。 もし 読書め 
い 想 を 好まず, またな し 難き 者 は 怠惰に 流れざる よう 労黝を 与えるべき である。 ただ 
し 病弱 者に はこれ に 適した 勤労が 与えら るべ く, 重労働に よって 身体 を 破壊せ ざる よ 

う, 院長に よって 配慮 さるべき である。 うんぬん 〔 第 48 章 「日課 労働に ついて」 の 一 

節: >」 と o 

古代 以来の, 労 勵は奴 隸の賤 業で 自由 人の なすべき もので ない との 偏見 は, 修道院 
によつ て 打破 さ れ, 労働 は 神の 仕事, 神への 奉仕 と して 诸遠 の 救済に はいるべき 道の 訓 
練と 認められた。 しかも そ の 労働 は 近代の ご と く 報酬 を 目的と してな される もので な 
く , また 古代の ごと く むちの 恐怖から 行われる 強制的の もので もない。 神の ために 喜 
ぶべき » としてな さるべき も ので ある。 これ は 中世の 経済 生活 を 古代の それと 著し 
く 異ならし めた 点であって, 一般社会に 労働 尊重の 念 を 喚起し, 経済的^^ を もたら 
す 素因と なつ たこ と は 軽く 見逃して はならない。 ベネ ディ ク トスのお きて において 労 
働が 重要な 生活 要素に な つ て 以来, 粛正 の 都度, 忘れら れんと する 労動の 尊重が く 
り 返し 実践され たので ある。 こうして 荒涼たる 山林 原野に 修道院の 建設 を 見, 末 開拓 
地 は 開墾され て, 農業 を 中心とする 経済的 発達に 資する と ころ まこと に大 であった の 
である。 修道院 は 個人の 所有 を 禁ずる 一種の 共産 • であるが, 院 財産 は 認められて 
いたので, 節欲 勤労に よる 諸 多の 収入と 蓄財, とくに 農地の 経営, 開拓と 信者の 土地 
その他の 寄進と 相 まって ようやく 富^^と なり, 院長 は 地主と なって, ともす ると 本来 

の修 31^ 活が 忘れられが ちに なろうと する。 クリュニー 修道院, またべ ノレナ 一ノレ St. 
Bernard  (1091~1174) の, フランチェスコ St.  Francis  of  Assisi  (1182 〜; L226) の, 
ドミ 二 タス St.  Dominic  (1170 一 1221) の, それらの 相^ぐ 廓清 MSf] が 行われた こ 
と はこの 間の 消息 を 物語. る も ので ある rt 


129 


I 資料 編 


まこ とに 修道院の 富と 権力と は 中世 社会の 一大 勢力た る を 失わな かつ た。 たとえば 

イタリアの ファノ レフ ァ Farfa の 修道院 は, その 領地 内に 2 市 500 町村 を 含み, 修道 
別院 Priory と 教会の 数 638 に 達して いる。 また サン- ジ エルマン- デ -プレ St- 
Germain-de-Pres の 修道院に は 4 万の 小作人と 従属 者が あり, その他 独仏の 修道院 
はいずれ も その 富力に おいて 著しく 強大であって, したがって その M 的 勢力の ほど 
も 想像に 難く ない ところで ある。 そこに 種々 の 弊害 も 生じた であろうし, また 元来 清 
貧 を 説く 修道院が 巨富 を 蓄積した こと は, 一見 皮肉な 矛盾の よ う に 見える かも 知れな 
い。 しかし このような, 熱烈な 宗教 的 心情と 無私 共同の 勤労 精神の 上に 築かれた M 
経済力 を 背景と して こそ, 周知の, 中世 文化 史上にお ける 修道院の, あの 数々 の 偉業 
が 生み出され たこと は 十分 理解すべき 点で ある。 

法王権の 優勢 教会の 社会的 勢力が 強大と な る に 従い, 世俗 権力と の 抗争が 激し く 
なる のは自 然 であ る 。 法王 グ レゴ リー 7 世 Gregory 1 (ca. 1020〜1085) (在位 1073 
—1085) と ト、、 ィ ッ 皇帝へ ンリ— 4 世 Henry  IV  (1050〜1106) 〔在位 1056 〜: L106) と の 
劇的 闘争 は 有名で あるが, イン ノ セント 3 世 Innocent  I ひ160~1216) (在位 1198 
-1216) が 法王 位に つく やその 権力 は 絶頂に 達し, 彼の 雄 俸の 器 は 僧職 叙任 権 を 世俗 
君主よ り 取り上げて 自己の 手中に 収め, 高僧 は 法王の 任命に よる ものと すると と もに, 
1215 年 全欧の 君主 高僧 を ラ テラ ン 宮殿 〖こ 招集し て, ^の ご と く 述べた。 「法王権 は 太 
陽の ごとく, 世俗 支配権 は 月の ごとし。 はおのお のの 王国 を 支配し 法王 は 全土 を 
統制す。 法王権 は 神の 造り 給いし ものにして 皇帝 権 お 人間の 巧知に よ りて 作らる。 キ 
リスト は 主の 宇宙の 代理者と して, 万物の 上に 一^ 者 を 立て 給う た。 天地 霊界 万物 
はこと ごとく キリスト を 拝す ると 同じく 主の 代理者 を 拝すべし。 一羊 群に は 一 牧者 あ 
るの み。 王者 は 地上に 権力 を 有し 法王 は 魂の 上に 権力 を 有す。 霊魂が 肉体に まさる 以 

4: 法王 は 王者に まさる。」 と。 まことに この 大ラテ ラン 会議 は, イン ノ セント 法王の 
中央集権 確立の 承認 会議 の 観が ある。 ここに 注目すべき は 政教 両 権の 争いが しばしば 
教会 財産 を 中心とし てく り 返された ことで ある。 すなわち 僧職 叙任 権 を 有する 君主 は. 
教会に 司教 を 置かず ,これ を 室 位 として そ の 教会 財産 權の 収入 を 目 己に 収めん とする。 
グレゴ リ 一 及び、 ィ ンノ セント の 僧職 叙任 権剝 奪の 努力 もこ こに 一つの 理由 を 持って い 

た。 ィ ンノ セントの ごとき は 英国 王ジ ョ ン John  the  Lackland 失地 王 ひ166 〜: L216) 
(在位 1199〜1216) を この 理由から 破門した が, のち 和解 成って 英国の 教会 財産から 
10 分の 1 の税 その他の 公課 を 徴収した。 法王権が 強大で 諸国 家が 西欧 ギ リ ス ト教国 
Western  Christendom として 統制され ている 間 は, 法王庁への 諸税支 キム も R 滑に 行 
われた けれども, ひとたび、 国民: ftfi が めざめれば, 外国の 主長た る 法王への 朝貢 は 指 
導 的 国民の 潔し とせざる ところであって, 近世 初期に おける ドィ ッ • ィギ リ スの 宗教 

—— 130 —— 


中世の 世界 


歆革 は, このような 《  —マ 法王への 従属に 対する 国民的 不満の 爆発で あつ た。 

第 3 節 西欧 封建制度  ' 

封建 制の^ 5: われわれ はや や もす ると, 旧弊すな わち 封建 制と 早合点し やすいよ 
うだが, 一口に 封建 制と 言っても, その実 はそう 簡明な もので ない こと をまず 住 意せ 
ねばなる まい。 今 かりに 過般の 第 2 次 世界大戦 末期の 筌襲下 日本の 不便' 不安な 生活 
が 長期に わたって -—— 数 世紀に わたって 一 継続した と 想像しょう。 交通 '通信' 運 
輸な ど 近代 文明の 便宜 はいつ さい 奪われ, 国家 生活 は 支離滅裂と なって 小 地域に 寸断 
され, 人々 は それぞれ は な は だ 限 られた 法と 社会 と 経済 生活 を 営む に 至る。 日 夜 生命' 
財産の 危険に 脅え, 弱者 は 強者の 保護 を 求め, 強力 者が 生産の 手段 を 押さえ, 社会 生 
话の 統制 は 彼の 支持に よって 行われる。 彼 は なんぴとの 指示 も 要せず, 一切の 権力の 
所有者で ある。 …一 いわば 幾らか このよ うな 状態が 古代 末期から 中世 初期に 存在した 
と 想像し よ う。 封建社会 はこの よ うな 状態から 生み出され たと 想像す る こ とがで きょ 

う。 土地と 人間と 権利の 私有に よる 領主 制的大 土地 所有, 自給自足 的 生活, 政治 権力 
の 地方 分散。 それ は 確かに 封建的 社会の 本質的 特徴で ある。 ロー マ 衰亡 〖こよる 統一 権 
力の 签白 と, フン' ゲル マン. サラ セン' ノルマンな どの 相次 ぐ 侵略戦争の 不安 動揺 
の 世に 人々 が 熱望 した 秩序と 安定 は, 生産 手段 たる 土地 を 媒介と し 実力 を 規準 とする 
入と 人との 上下 主従の 結合 を 中軸と しても たら されねば ならぬ。 

通常 封建制度 成立 の 2 要素と して 恩 貸 制度 と 従士 制度が あげられる。 ローマ 時代 か 
ら. ガリ ァ地 方に は 権門勢家の 大 所有地 制度が 行われ, 地主 は 地 内の 領民に 対して 絶大 
の 権力 を 有して いた。 弱小 自由 民 は その^ 自衛が 不可能と なり, これ を 大地 主に 寄 
進して, 自ら 臣下の 地位に 立ち, 新地 主から 改めて 恩恵 的に その 土地 を 与えられて, 
これ を 耕作す る。 時代の 大勢 は 大地 主の 土地 兼併と 保護 関係の 傾向 を 助長し, 恩 貸 制 
度 はます ます 増大して 行った。 また フランク では, 君主が 有力 臣下に 対して, その 忠 
勤 と 奉仕に 対す る 反対給付 として 土地 を 与える 慣習が あり, 8 世紀の アラビア 人の 侵 
入に タ^ C して 騎兵 軍の 增強を はかった 時, 宮宰 チヤ— ルス = マル テル Charles  Martel 
(ca.688〜741) は ^11 を 取り上げ てこれ を 与えた。 しかし 寺領は 元来 教会法に よれば 
M 渡す ベ か ら ざる ものであるから, 目 的 を 達した の ち は 教会に 返却 されねば なら な 
い。 そこで 土地の 保有者 は 教会に 一定の 地租 を 納め, 保有者の 死と ともに 土地 は 教会 
に 返り, 国王 は 改めて これ を 他に 封 与しうる という ことにな つた。 だから この 土地 貸 
与 法 は o  — マ 法的な 教会法に 基づく もので, 土地 は借戾 請求権 Jus  Precaria を 伴な 
つて 与えられ たので ある。 それ は 当時 ローマ 法的 土地 貸与の 一 股 形式で, あらゆる 種 


131 


I 資料 編 


類の 土地に こ の 形式が 行われた が, 土地 恩 貸 制度 は こ の 土地 貸与 法が 軍事的 奉仕 義務 
を 伴な う 土地の 譲渡に 適用され て 生まれた ものである。 そして この 恩 貸 制度 はし だい 
に ー股ィ 匕して, 王 領ゃ大 領主の 土地 貸与に ついても 行われた^: 第で ある。 

次に 従士 制度に ついて 見る と, 元来 ゲルマン 社会 は 自由 民と 不自由 民の 二階 級から 
なり, 自由 民 はすべ て 軍役に 服す る 義務 を 持つ 一種の 軍隊 組織の 社会であった。 そし 

て 王侯, 貴族 は 若干の 自由 民 を 自己の 従士 として 養成す る o 従士は 主君の 役務に 服し, 

そ の 所有す る 士地 人民 も 主君の 保護 下に 置かれ る が, そ の 代わ り 彼ら は 主君 か ら 特別 

の 保護 を 受ける こ とがで き る。 こ の従士 制度 は 民族 移動 後, ゲルマンが 旧 n — マ 帝国 
領内に 王国 を 建設す るに 及んで ますます 発達した。 一方 口一 マ 社会 ゃケ ノレ トネ 检 にも 
早くから 庇護 制度が あり, ゲルマンの 従士 制度 は これらと 結合して, 主従 君臣の 情宜 
的 私的 結合 関係 を ますます 助長せ しめた。 これらの 傾向 は 土地の 恩 貸 制度と 相 まつ 

て, 初期 中世の 舌 L 離の 時代に 非常に 発達した ので ある。 中世 社会経済 史の 権威 ドプシ 

ュは, 封建 制 はすで に 6 世紀に 成立した とさえ 言って いる。 しかし 通説に 従えば, 8 

世紀の フランク の 兵制 改革 を 飛躍的 契機 として, こ の 二つの 制度が 大規模に 発達 • 普 

及 し 結合す る 時期 を もつ て 封建 制の 成立 期 と考えられる わけで ある。 しか し 住 意す ベ 
き は 決して この 時代に 突如と して 封建 制が 出現した のでな く  , その 萠芽 • 原型 は 非常 

に 古く から 成長しつつ あつ たこ とで, こ の 意 眛でド 、プ シュの 卓見 は 認められ ねばな ら 
ぬ。 そして このとう とうたる 封建的 傾向が, チヤ 一 ルス 大帝の 時 その 強大な 中央集権 
によって 切断され たと 考える の も また 誤りであって, むしろ 大帝の 政策 はか かる 傾向 
を やむ をえ ざる 前提 と して 認め, 新しい 主従 関係 を 利用す る ことによ つ て統一 国家 を 
成就し, ゆるみが ちな 地方行政 組織 を 再編成し よ う とする もので あつ たと 言うべき で 
ある。 そして 紀元 843 年, フランクが 3 分す るに 及んで 中央 権力 は 有名無実 となり, 
ノルマ ン人 ゃノ、 ン ガ リ 一人の 侵入 は 封建 化の 傾向 をい よいよ 進めた。 地方 権力者 は そ 
の g する 土地と 人民との 上に 主権 を もって 君臨し, 貴族の 割拠 政治の 世 を 現出した 
わけで ある o 

騎士道 封建社会に おいて 支配階級 を 構成す る 武士 は, 封建 制の 完成 期 12,  3 世紀 
ごろに 騎士 制度 を^^せ しめた。 十字軍 時代の 教会の 影響で, 騎士 叙任 式に も 宗教 的 
儀式が 加わり, ゲルマン 的 道徳 以外に キリスト 数 道徳が 重んぜられる ようになり, 宗 
教 騎士 団 さえ も 生まれた。 騎士になる 修養 は 少年 時代から 始まり, 最初 は 小姓 Page 
と して 騎士に 仕えて 馬術 槍術の 武技 を 習い, ま た 城主 や 貴婦人の: に 侍して 殿中の 
ネし儀 を 習わねば ならぬ。 14,  5 才 ごろ 従士  Squire となり 騎士の 従者と して 武装 や 乗 
馬の 手伝い をな し, 武術の 練習 はます ます 猛烈になる。 また 武術 修業の 旅に いで, 騎 
士に 従って 戦場に 従軍す る。 この 見習 期間 を 経て 21 才 ごろ 叙任され て 騎士  Knight 


- >~ 132 


中世の 世界 


となる。 叙任 式 は 新 騎士が 主君に よって 甲 '盾 • 槍な ど を 与えられ, 他の 騎士 または 
貴婦人が よろい を 着せたり 拍車 をつ けて やったり する 。武装が 終る と 主君が 指 ま た は 
剣の 先で 歸士の 首 を 軽く  3 度 叩いて, 「余 は 神と 聖 ミカ エルの 名に おいて (または 父と 
子と 聖霊の 名に おいて), 汝を 騎士に 叙す 。忠誠 '大胆' 幸運で あれ。」 と言う。 ひざ 
まずいて いた 騎士 は 馬に 乗り 槍 を 携えて 走り, 颯爽た る 英姿 を 列席者に 示す ので ある。 

こ の 儀式 は 叙任 式 前に 断食な どの 宗教 的 儀式 を 行つ た り , 僧侶が 立 会つ て 祈とう を捧 
げ 神前に 誓約 を 立てたり する。 
日本で も 「花 は 桜 木, 人 は 武士」 と言われた が, 西洋の 騎士 制度 も 封建社会の 花と 

して 多くの 詩歌 • 文 学に- IE われて いる 。武勇 を尙 び、, 神 を 信じ, 婦人 を 敬い, 礼節 を 
守り, 弱き を 助け, 強き をく じくのお 騎士道の 理想の 精神であった。 しかし 日本の 武 
士道 における 切腹の 習慣の ごとき ものはなかった。 騎士 生活 の 中で も 特に はなやか な 

もの は 闘技 または 演武 会 Tournament  (日本で は 御前 試合:) であった。 雲の ごとく 
集まつ た 武士 や 貴婦人の 環視の 中で, 互に 一人ず つ 騎馬 武者^ 美 々しく 武装して 広場 
の 双方から 現われる c /合図と ともに さつ と 槍 を かい 込み 盾 を 構えて 疾駆し, はせ 違い 
ざま 相手の 騎士 を 突き落す ので ある。 また 両軍 集団して、 « 試合 をす る こと も あつ 
た。 トーナメント は 初期の もの ほど 勇壮 質朴で 実戦 的であった が, 後期になる に 従つ 
て 華美な ものと なった。 この こ と は 騎士の 武器' 武装に ついても 言える。 百年 戦争 は 
多 く の 騎士 達の ェ ピソ  一 F を 生んだ が, 戦争 そ の もの はも はや 封建的 騎士道 原理で は 
解決され な くな り, 国民 国家 成立の 方向に 進んだ ので ある。 騎士道に おいて は 体面 • 
名誉と いう ことが 非常に 重大視され たが, これ は 支配階級の 道徳と して, 彼らの 品位 

を 保つ 上に 必要な こ とであった に違いない。 しかし 上に 見た 騎士道の 理想 は 理想と し 
て ロマンチックな は なや か さ を 残した が, 現実に は 随分 殺伐 • 残忍 '粗暴' 狡猾 • 恣 

意の 醜い 蛮風 も 免れな かつ たと 見なければ ならない。 

封建 制の 完成と 封建 王制 初期 中世 以来し だいに 発展して 行つ た 封建 化の 傾向 は, 
13 世紀の 後半に 至って ほぼ その 形式 を 完了した と言える であろ う。 この 時代になる 
と, 封建的 主従の 関係が 国家の 全 構成に 及び、, 封建 関係 を 持たぬ 一人の 臣下 もな く, 
いかなる 土地と いえ ども 封土で ない 土地 はない という, いわゆる 「領主な き 土地 はな 
し。」 とこ とわ ざに 言われる 時代と なる ので ある。 (もっとも これ は 大勢 を 形式的に 言 
つた もので, 子細に見れば 「領主な き 土地」 も あり, 独立 自由 民 も 全 中世 を 通じて 少 
数 は 存在した と 見る のが 事実に 近いので はない か。 現に ドプシュ あた り も そう 見て い 
る。 しかし 巨視的に 通観 *概 言 すれば 上の よ うに 言っても さしつかえない かと 思われ 
る。) かくて 完成した 封建 関係 は, 上 は 国王より 犬 諸侯 '諸侯' 騎士と いう ふうに 結 
び 合わされ, 下 は 自ら 封 与すべき 何物 も 持たぬ 武士に 及び, いわゆる ピラミッド 的搆 


—— 133 


I 資料 編 


成 を 持つ に 至る わけで ある。 そして 原則的に いうと, 命令が 中間層 を 越えて 下層 
に 及ぶ こと はない はずで, また 主君の 権力 も 絶対で はなく, 主従 関係 は 一種の 双務契 
約であった。 しかし 封建社会 は 厳然たる 階級社会であって, その 中堅 は 貴族すな わち 
高級 武士で, アリストクラシー Aristocracy を もつ て 一貫して いた。 そ して 領主が 

領土の 支配 を 部下 役人に 任せて 自ら は その 上納 を 収める にと どまる よ うになる と, 領 
地の 実権 は 漸次 役人 や 代官の 手に 移る ようになる。 封建制度の 完成され た 時代に は, 
貴族 はすで に その実 権 を 失いつつ あつたので, 完成 期と 見られる 時代が 早く も 崩 壌 期 
に はいって いる 点 は, . 住 意 せらるべく, やがて 封建 貴族に 代わる もの は, 上 は 国王で 

あ り 下 は 一般人 民, と り わけ 有力 市民で あつ た。 そ う して 民権 拡張の 時代が 訪れる 前 
に, まず 貴族 をお さえて これに 代わった もの は 王権であった。 しかも この 王権の 拡張 
も 初めは 国家 全体の 強 盛と いうより は, 王室の 盛大 を 目的と した ものであった。 もと 
よ り 当诗は 国王の 勢力い かんが 国家の 運命に 重大な 関係 を 持った から, 王室 即 国家の 
観が あつたの も 当然で あるが, それにして もまず 王室の 家 権が 重んぜられ たの は, や 
はり 公私 混交 未 分の 一端' である。 中世 末期 はこの 家 権 主義の 時代であった が, これ は 
従来 大小 領主が 土地 人民 を 私有 視 し た 慣習 や 通念が, 転 じて 国王が 国家 を 私有 視す る 
に 至った ものと いえよう。 ともあれ ここに 政治 権力の 推移 は, かって 古代に 見た よう 
に, 再び 求心 的 集権 的 方向に 動いて 近世に 向かう ので ある。 
封建 王制が 早 く か ら 発達 したの は イギリス 'フランスで あるが, な かんず くィ ギリ 

スは 王家の 勢力が 概して 強かった。 そして ジョ ン 王の ごとき は 国家 を 私有 視 して 専断 
悪政 を 行った。 そこでつ いに 貴族の 反撃に 会い 大憲章 を 成立せ しめたの である。 かく 
てまず 王権と 貴族 権 の 闘争と いう 場に おいて 自由の 理念が 練成され, 近代^^ 政治 の 
赛端が 開かれ たので ある。 すなわち マ ダナ-力 ノレ タ の 前文に いわく,  「天祐 を 保有す 
る イング ラン ド王 • アイ ラン ド、 王 'ノルマン ジ 一及び、 アキ タ ュ ァ公, アンジュ 一 伯な 

る 朕ジ ヨン は, ここに 汝ら 大司教 • 司教 • 僧侶 '諸侯 '裁判官' 林務官 • 地方 執行 官 

その他の 諸官 及び 忠愛なる 臣民に 勅す る を 喜ぶ。 朕 は 今 神明の 啓示に よって, 朕と 祖 
宗 ならびに 子孫の 霊 を 慰め, 神明の 光栄 を あらわし, 神聖なる 教会の 発達 を 計り, 朕 
が 王国の 安寧 を 増進 せんがた めに, 朕が 敬愛す る 諸 皿 と 諸 司教に はかり, また ロー 
マ 法王の 副 執事に して 余の 親友た る 司 長 • 英国 寺院 騎士 長 • 諸 貴族, 忠愛な る 臣民と 
讓 して, この 憲章 を 定めて まず 神明に 捧げ, 朕 及び 子孫が^に 遵守す ると ころ を 確 
認 して, これ を 汝らに 知らし める 0J と。 第 1 条 「英国 教会 は 自由にして 完全なる 権 
利 を 有すべく それ は 破らるべき でない。 英国 教会に とって 重要な 選任の 自由 は, 朕が 
この 憲章 を もって 許 与し… (中略) …朕 は 朕 及び 後継者の;^ に 尊重す ると ころと し 
て 余の 王国の 自 由 民に 許 与す る の に 以下 記載す ると ころの 諸 自由 を もって し 下略) J 


134 


中世の 世界 


第 2 条 r 朕の 諸侯 または 臣民に して …… 死亡し 後継者が 古例に よ り 御用 金 を 納める 時 
は, 遺産相続 をす る こ とがで き る。 …… 」 第 12 条 「お よ そ 軍役 • 免除 税 • 御用 金 は 公 
民 会議に よるので なければ これ を 朕が 王国に 課する こ と はでき ない。」 等 々。 

大憲章 は 総数 60 か条 から 成る 膨大な も ので あるが, 第 1 条は 教会の 司教 遷挙の 自由 • 

を 認め, 全条を 通じて 主張され ている 「自由」 は 大部分が 封建 貴族の 自由であって, 
国民 全体の も ので はな かつ た 。こ の 意味で マ グナ -力 ルタ はま だ 多数 人民の 利益 を擁: 
護す る 「人民 憲章」 という こと はでき なかった ので ある。 

第 4 節 中世 西欧の 経済と 文化 

荘園 荘園 は 封建制度の 基礎 をな す 経済 単位で, 11 世紀 以降 西欧 各国に その 完成が- 

見られる が, 最も 典型的な もの は 英国の マナー Manor である。 マナー は 周囲に 村民 
の 耕作地 及び 牧草地 をめ ぐらし, さ ら に その外 周に 森林 原野 を 有する 一つの 村落から 
成立し, 一人の 領主 をいた だくの を 普通と する が, その 特色と して 最も 住 意すべき は 
常 に 一個 の マナ— は それ 自 身 独立 し た 組織 を 持つ 協同 体であった 点で ある。 各 農民 の 

耕作地 持 分 は 分かれて い, て も , 耕作 は 協同で あ り , ま た 各 農民が その 持 分権 利 を 主張 
しうる の は 播種より 収獲までの 間 で, 収獲 後 は 垣 を 除き 放牧地と して 共同に 使用した ひ 

森林 原野が 入相 地と して 村民の 共同 利用に 任せられ たこ と はもち ろんで ある。 かかる 
事実 は マナ— が そ の 村落共同体 的 伝統 を 持し, この 伝統 は 慣習と いう 不文律 〖こよって, 

ちゅう 

ややもすれば 村民 を 私有 視し, 土地 を 私有 化する こ とから 生ずる 領主の 專潢を 制 肘し 
たので ある。 しかし はたし て 村落共同体が 領主 制 に 先行す る 原始 共産 体 的 な ものに 由 
来す るか 否かの 議論に なると, マウラー' コ ヴァレフスキー 以来の 土地 総 有 制と 私有 
制の 長い 論争 史 お示して いるよう に, 今日な おはつ きり 断定 はで きないの である。 私 
有 制 説 を とる クーランジュ や ドプシュ の 立場 か ら 言え ば, 村落共同体 的 諸 規制 は む し 
ろ 領主 制 下に 生まれた ものと 考 うべき である。 

通常 封建社会に おいて は, 農民 は 領主の 生活 を 支持す るた めに 働き, 領主 とその 2  , 
3 の 代理者に よつ て 搾取せられ ている かの よ う に 考えられ ている。 しかし 荘園 は 元来 
営利 経済 組織で はなく, 自給自足の 消費 滏済 組織であった から, 搾取 欲が 無限に 走る 
ような こと はなく, マノ レタスの 言葉 を 借りて 言えば 「領主の 胃壁が 搾取の 限界」 であ 
つ て, 両者の 関係 はむしろ 相互依存の 精神に 結ばれて いたと 見られる。 

マナ— の 農民 は 自由 小作人 Free- holders 半 自由 小作人 Villein 小屋 住み Cotter 
などに より 権利^^に 相違が あり, 後 2 者が 普通 農奴 Serf と 称せられて 農民の 大部 
分 を 占める。 農奴の 地位 は 低く 不安定で, その 財産 も 領主の 恩恵に よって 所有 を 許さ 
れ たもので あるから, 何時でも 領主の 自由意志で 回収し うると 考えられ ていた C 領主- 


135 


I 資钭編 


権の 側 )0 しかし 実際に は 農奴が 労働 讓を 怠る とか, 領主に 服従 を 承諾せ— ぬと か, 
無 許可で 離村す る と かの M 行為 あ りと 判定され なけれ ば こ の 領主 権 を 実行 しえない 
慣習が あり, 裁判 も 領主が 専断 強制す るので なく, 自由 民 〔小作人) と 農奴の 代表者 
が 陪審す る 裁判に かけて 判定した から, いわゆる 領主の 絶^ s なる もの も, マナ— の 

村落共同体 要素が 「慣習」 として 強く 働いて 相当に 制限 を 加えた から, それほど 専制 
に 走る ことはなかった ようで ある。 この マナ— の 慣習と 規約と に は 領主と いえ ども 従 
わな けれ ば ならぬ 。領主 やその 役人 な ど 非 生産 階級 は 農民に よって 生きて いるので, 

これ を 逃散 させない ため に 不文律の 公平 正義の 慣習 を 守らねば ならぬ。 マナ— は 一つ 

の 協同 体で 全体の た め に 個人が あるの だから, 領主と いえ ども 全体の 利益 を 無視して 
- 専横 を ふるまう こと は 許されぬ。 マナ— 成立の 根本原理 は 領主 と 領民 と が 相 依 り 相 助 
け て 自給 生活 を 営む 協同 体た るに ある 。そして マナ— の 領主 権 は 慣習の 限界 を 越え ざ 
る 範囲 で 発揮 されねば ならぬ 。すなわち それ は 経済的 社会 単位 であった のみでな、, 
: 同時に 司法 行政の 地方 的 単位で も あ り, 領主 は その 権力 執行 者と して 臨んだ ので ある。 

このよう な 荘園の 農民 生活 を 述べた も の に 中世 社会経済 史家 ァ ィ レ ン -パヮ —の 「甲 
世の 人々」 第 1 章 「農夫 ボ ト、、 J が ある。 以下 その 一節。 「荘園に 働く 農奴の 生活 を 想 
. 像す る に 都合の よ い 資料 は, パリ— 近くの サン- ジ エルマン- デ-プ レ 修道院 まィ ノレ 
ミ , ン (チ ャ ― ノ レス 大帝 待 代〕 の 作つ た 荘園 管理の 土地 合 帳で あ る ° こ の 台帳に ボ ト、、 

Bodo という 農奴の 名が 見える。 彼 は 妻と 3 人の子と ともに 小さな 木造 小屋に 住み, 

まの 敷地と 耕地と 牧草地と 2,    3 本のぶ どうの 木の ある 土地と を 借りて いる。 1 週に 

3 日 は 自分の 小作 地 を 耕し, 他の 3 曰 は 修道院の 直営 地へ 行って 働き, 日 躍 日 は 必ず 

休む。 彼 は 朝早く 起き, 隣の 家々 の 傍 を 通って 他の 農奴 達と 一緒に 直営 地へ 行く0 直 

営 地 は 広い 農園で その 中央に 石造の 家が あり, 口 やかましい 管理人が 住んで いる o そ 
の 傍に 女 奴隸が はたお り など をして いる 小屋が いくつか 固まって 建って おり, 奴隸の 

住む 小屋 • 仕事場 • 調理場 • パン 焼 場 '納屋' うまやな どが 並んで いる。 直営 地の 一 
部 はこの 小屋に 住む 奴^ i お見張り をう けながら 耕す ので あるが, 大部分 は ボド、 のよ 
うな 農奴が 耕す ので ある。 彼ら はこ こで 一日中 働く。 家に 残った 彼の 妻 はどう か。 彼 
女 もまた 忙しい。 家の まわりの 菜園の 手入れ もしなければ ならない。 沢山の 鶏の 世話, 
はたおり, その上 赤ん坊が むず がる。 だが 今日は 管理人の いる 荘園 事務所へ 鶏と 卵 を 
納めに 行かねば ならない。 ボド、 は 1 週 3 日 働く ほかに も, いくらかの 小作 斜 纖 貝' 
羊な ど:), それから 若鶏 3 羽, 卵 15 箇, 豚 一つが い, その他 さまざまの もの を 年貢と し 
て 納めねば ならない。 彼の 妻 は 管理人 を 捜し出して, ていねいに おじぎ をして 持って 
来た もの を 差 出す。 家へ 帰る と 今日は はたお り に 精 を 出さねば ならない。 明日 は あの 
やかまし 屋の 管理人が 仕上がつ た 織物 を 集めに 来て, 新しい 仕事の 材料 を 持つ て 来る 


136 


中世の 世界 


からで ある。 あたりが 薄暗く なるころ ボド: ^疲れて 帰って くる。 自家製の 小さな ろう 

そ く の 火の 傍で 5 人が 集まって 夕食 をす ますと す ぐ 寝て しまう。 ろうそくが もったい 
ないし, それに みんな 疲れて いるから …- '- 。(赤 木 俊, 同名 訳書)」 (三 好、 羊 子 訳 も ある) 

中世 都市 マックス = ゥ: n  —パー は 有名な 「都市, 一つ の 社会学 的 研究」 な る 論文 
て 喉 界 史的 観点. か ら 西洋 都市 の 特質 を胃づ けて いる。 東洋 や オリエントの 都市 は 西 
,市の ごとく 軍事的 権力 を 持たず, 強大な 王権 やその 官僚に 屈服し, また 宗教の 多 
元 性の ゆえ に 災い さ れて, 西洋 都市の ご と き 共同体 的な 自治 自由の 独立 意識 は 成長し 
なかつ た。 西洋で は 平等な 立場の 市民が 誓約 団体 コ ン ミュー ンと して 結成され る。 こ 
れ は 東洋に は 絶対に 見られぬ ものである。 しかし 同 じ 西洋 都市 といっても ,ギリシア' 
口  — マ の 都市 は, 地主で あ り 戦士で ある 消費 市民 を も つ て 構成要素 とする 政治 都市で 
あり, 消費都市 である。 これに 対し 中世 都市 はなに よ り も まず 商工業に 直接 従事す る 

市民, ゥ-— パー の 言葉 を 用 うれ ば 経済人す なわち ホモ- ェコノ ミクス homo  econo- 
micus と 呼ばれる 画の 人間 集団で, 生趨 市た る こと を その 特色と する。 この 経 
済 都市た る 点で は 近 市と M を 同じく する が, 両者の 相違 は, 近代 都市 は 政洽的 
にも 経. 済 的に も 法制 的に も, 完全に 国家 内に 包摂^ H されて いるが, 中世 都市 は 農村 
に 対立し, 封建的^ @5 に 対し 異質 的に 発展して 封建制度 崩壊の モメン トを 形成す る。 

さらに ゥ: n  —パ— は, 中世 都市の 性格 を 南欧 型' 北^ M に 分けて 考える。 イタリア を 

中心とする 南欧 都市 は, 都市国家, つまり 古代 都市と 類似した 領土 を 持った 都市に な 
つてい る。 これに 反して アルプス 以北の 都市 は 郊外の 小地绒 テリ トリウム を 除けば 決 

して 領土 を 持たない。 北欧で は 農村と 都市の 政治 関係が, 農村で は 封建 諸侯が^ し, 
都市で は 市民が 自ら 治める, という 明確な 対立 を 示して いる。 そして この 市民 共同体 
は 自 主 的 な 誓約 団 体で あるから, 自治 自由と 独立 不覊 を 本質と する 西洋 近代 清 神 は 実 
にこ こ につち かわれた のであって, ゥ よ ーパ一 は 中世 都市の 世界史 ft 義を このよう 
なさ、 に 見いだ している ので ある。 

しかし ゥ ェ —パーの 研究 は 社会学 的 的 考察であって, 歴史的 な^^に 即した 考 

察と は 言えない 。彼の 考察 はもつ ば ら 経済 都市の 勃興す る 中世 後半期 に 向けられた c 

ま た 普通 中世 都市 研究 は ほ とん ど 法制 史な い し 経済 史の 立場 か ら なされ, したがって 

前期の 都市 は 疎外され ている 。有名な アン リ = ピレンヌの 「中世 都市」 においても, 

前期の 宗» 市と 城郭 都市に ついては, 「少なく とも これら は 都市と しての 性格 を備 
えてい ない。 そこに は 商業 も 工業 もな く, 彼ら は 何物 も 生産せ ず, 消費 経済の 役割 を 

演ずる のみで ある。」 と言う。 しかし 経済的 機能の みより 中世 都市 を 定義 づけ, また そ 
れに よ つ て 生ずる 社会的 政治的 機能 や 機構 をのみ 都市 現象と して 考察す るの は, 歴史 
右 勺 研究 として はせ ますぎ はしない か。 われわれ は 中世 都市 を そ の 成立の 由来に ついて 


137 


I 資 斜 編 

考え, 「。—マ 都市」. 「司教 都市」' 「城郭 都市」 •「 建設 都市」 などと 呼ぶ。 しかし こ 

れ ら は 商工業 都市へ の 前駆 的 形態 としての みとらえ るべき でな く, それぞれ がそれ ぞ 

れ の 時代に お いて 存在の 役割 を 持つ たという ふうに 考えたい と 思う。 

もちろん アン リー- セ— がいう ごとく, 中世の 都市 は 紀 以後 勃興す る 商業の 隆 
盛 を 契機と して 画期的 発展 を 遂げた ものである。 そして 十字軍の 際, ヴ- ニス ゃシェ 
ノ ァ の 商人が 活躍した こ ろから 西欧 各地に 多数の 都市が でき て, 商工業者の 存在が 目 
立って きた。 そして 封建社会が 安定に 向かい, 手工業 も 盛んと なり, «• 商業の ^ 
達に 伴ない, しだいに 大きな 都市が 現われる。 これらの 大都市 は あたかも 独立国 家の 
ごとき 観 を 備え, 自治権 を 獲得して 封建 領主の 支配から 独立し, あるいは 皇帝 直属の 
都市 と して 諸侯と 並ぶ 地位 を 占め, あ るい はノ、 ンザ 同盟の ご と く 強力な^ ¥ を 有 して, 
14 世 f 己に は イギリス 王国 ゃデ ン マーク を さえ 圧迫す る ほ ど の 優勢 を 示 した。 とも か、 
中世の 都市 は その 自治' 自由 を 享有し, 貨弊 経済 を 発達 させ, やがて 資本主義 を 生む 
原動力と なった もので, そこから さまざまな 近代的な ものが 生まれた 母体と して, そ 
の 意義の 最 も 大きい こと は, ウェーバー のっと に 指摘 した 通りで ある。 近世 初頭の ル 
ネ サン ス 運動が ィ タ リ ァ都 市から 起つ たこと も, このよう な 事情 と 深い関係に あるの 

で、 め。。 

ギル ド 西洋 都市の 特質と しての 都市 協同 体コ ン ミ ュ ンが, 市民の 平等の 立場での 
咢約 団体の 形 をと る こ と は 前述した が, その 典型的な も の は 中世 都市の ギ ノレ ド、 である。 

ギル r は 都市の 同業組合で そ の 趣旨 は, 「一人の 市民 は 一種の 職業に つき , 一つ の 職業 
は 一種 類の 商品 を 作るべき である oJ として 内部的に は 自己の 組合の 利益 を 確保し, 外 

に対して は 他の 組合の 利益 を 侵さない よ うにす るに ある。 弓 職 は 矢 を 作って はなら 
ず, 宿泊 業者 は パン を 焼き 酒 を 造って はならぬ。 力、 くての ちになる と ギル ト、、 は 公^ 
人 • 両替人 • 医師 • 埋葬 人 • 掃除 夫 • 乞食 • 娼婦に 至る ま で 結ばれた と言われ てい 

る 0 ま た 9 世紀 ごろから ロン F ン • ウィンチ エスタ一 • カンタベリーな ど 主要 者に 市に 
は, 友愛 組合 Cnihts  Gild が あり, また 古くより 各 都市に 宗教 ギ^ド、 • 保護 ギルドが 
あつたが, これら はいずれ も 別に 経済的 職能 を 果たした もので はない。 ギルドの 起源 
に関する 諸^が 示して いる よ う に, その 前駆 的 形態 はすで に 中世 初期の 都市に おい 

て 人間の 社会的 結合 本能 と 宗教 的 衝動に 基づいて 結成され てお り , 中期 以降の 都市 興 
隆' の 時代に 至って, 経済的 機能 を 帯びて その 存在意義 を 増大す るので ある。 まことに 
都市の 具体 像 は ギルドの あり方 を 通して 現われ, いわゆる 「自由 市」' 「自治 市」 と 呼 
ばれる 都市の 自治権 獲得 運動 は, この 都市の ギルド、, 特に 商人 ギルドに よって 典型的 
に 遂行され たこ と は 周知のと おり である。 _k ^せる ご と く  , ギル ドは 子細に見れば 多 
種 多様で あるが, 主要な もの は 大別して 商入ギ ノレ ト、、 Merchant  Gild と 工業 ギル ト、、 
Craft  Gild である。 そして 中世 市民の 社会的, 経' 翻 勺, 道徳的 その他の 関心事が 常 


138 —— 


中世の 世界 


に ギルド、 という 形 をと つ て 展開す るので ある。 

今 大まかに 見て, 中世 ギルドに は 功罪 両面が 認められる と 思う。 一面から いえば, 
それ は 中世の 社会的 環境が 自然に 形成せ しめた 団結であって, 自治 的な 連 体 責任 負担 
組織に よって 抜け駆け 行為 を 禁じ, 不正な 取引 や 生産 を 厳重に 取り締まって, 生産者 
と 消費者の 双方の 利益 を 保護した。 たとえば 「正当なる 価格」 の 観念 はこれ を 示し, 
それ は宗 義 にも 通ず る も ので あつ た。 ま た ギル ドは 宗教 的 社交的 職能 を も 営み, 

地域 団体と して ネ 堂 を 持ち, 教会 維持の 単位 をな し, 守護神の 祭礼, 組合員の 共同 葬 
儀 を 行い, 相互 • の 目的で 共同 資金 を 出 して 組合員の 貧窮 者 を 救済し き 金 を 与え 
た。 ギルド、 会議の 開かれる Gild  Hall は 同 待に 組合員の 社交 場で も あった。 ギル F 
は 実に 細かい 種々 の 規定 を 設けて 社会秩序 の 維持 と 団結と 組合員 相互 の 利益 を 計つ た 

が, やがて しだいに 排他的 となり, 組合 内部に も 新しい 隸属 関係 (た と え ば 親方. 
職人 '徒弟 制の 凝固 化) が 作られ, 過度の 統制に より 生産の 自由, 販売の 自由 は 失われ 
て ゆく。  「都市の 签気は 自由 を 作る。」 と躯 われた 都市の 中に 新しい 「不自由」 が 生ま 

れる。 しょせん 中世 都市の 自由と は, 荘園 を 基盤と する 封建的^ gH からの 解放と いう 
SB^ において 相対的 に 理解 さるべき であろう。 g の 自由と は 常に 理念 的 要請 であつ 
て, 歴史的 現実で はない。 しかし ともかく 中世 都市の この 相対的 自由 こそ, 近代 市民 
社会 胃の こよな き 温床で あり, その 前段 階と なった こ と は 忘らるべき ではない 0 

十字軍 十字軍 は 封建 制の 完成 期, 法王権の 全盛期に 起り, やがて 王権の 発達, 都 
市の 勃興, 荘園の 崩壊へ と 向か う, すな わ ち 中世 中期 か ら 後期への 転換 を は ら む 画期的 
事件であった。 このよう な 大事 業 は 決して 単一の 原因 や 条件の み を もつ て 説明 さるべ 
きで なく, 西欧諸国の 社会経済の 成熟, それに 伴な う 対外 発展の 気運な ど はなかん ず 
く 重要な モメントであろう。 しかし 前後?〜 8 回, 200 年に わたる 全欧 的大 遠征の 直 
接の 原動力と なった もの は, なんとい つても ローマ 教会で あり, また これに 呼応した 
当時の 西欧 人の 宗教 的 情熱で あつ た。 かの 1212 年ドィ ッ 'フラ ンス諸 地方の 少年に よ 
つ て 企て ら れ た 少年 十字軍 の ごとき は, 遠征 として は 無謀 • 無価値 な 悲しい ェ ピソ 一 
ド、 として 終った が, 当時の 「時代 心膚」 を 察する に は 最も 顕著な 好例で ある。 聖地が 
どこ にある か を さえ 知らぬ 10 余才の 少年が, しだいに 幾 百 幾千と 隊 をな して 僧侶の 先 
導に 従って 聖歌 を 高らかに 唱えながら, 陸続と して 地中海に 向かった 光景 は, 現代 か 
ら はとても 想像ので き ぬ 奇跡で あ る o 宗教 的 狂 熱, 赤い 心情 は ここ ま で 高揚 したの だ。 
こ の 宗教 的 心情が 国家 や 領土の 境界 を 越え, 封建 割拠の 世に 西欧諸国 を して 協同 一致 
した 大事 業 をな さ しめた こ と は, キリス ト教的 統一 体と しての 西欧の 姿 を はつ きり 映 
し 出した ものである。 法王 ウルバン 2 世 Urban  I  Cca.  1040—1099) が 「名誉 欲 や 物 
欲の ためで なく, ただ 献身の ためにの み, 神の 教会 を 解放すべく エルサレムに おもむ 

—— 139  ~~ - 


I 資料 編 

く も の は, なんび、 ととい えど も その 征旅 はいつ さいにつ いての 讀 罪と 見なされる であ 
ろえ。」 と官考 する や, 全欧の 武士が 「これ 神の 御 心なり。 J と 叫んで, 十字の 旗の 下 

に 集まる もの 幾 十万, 大規模な 国際連合 軍 を 起しえ たこと は, 中世の 人心 を 支配した 

統一 思想の 発現と も 見られよう。 
中 ,ヨーロッパの 文化 中世の 世界 はすべ てキ リ ス ト教の 信仰の 下に 動いて いたと 

r ぎい 切れぬ にしても, それに 近い 姿を呈 した o それ は 単に 精神 界 のみでな く, 教会 

という 社会制度 を 形成して 世 俗界に も 活躍した こ と を意眸 する。 かかる 教会の 理論的 

基礎 付け をした のはァ ゥグス チヌス Augusthms  の 「神の 證」 で, 中世 

の 世界観 もこ こに 淵源す ると いわれる。 地上の 国 は 肉の 自我に 基づく 厄の 宿に 過ぎず 
神の 国 は 肉の 自我 を 去って 霊に 生きる, まことに 神の愛に 基づく 永遠の 国で ある。 押 

の 恩寵に よる 救済 は 罪深い 凡俗の 人力で はどうす るすべ もな く  , ただただ^^て せね 
れる 塾^^ サ クラ メント を 媒介 とする 。すな わち 救済に は 教会 という 介在 機関 を 必須 と 
す る 。 現実の 教会 「見える 教会」 と 違 ばれた る 者の 精神的 団体た る 「見えざる ^」 は , 
前者が 後者より 転移し くる ことにより 成長し, 地上に 神の 国 を 現出す る。 した かって 

地上の 国の 立法者 も 司法 者 も 真実 は 教会の 目的 を 遂行す ベ き そ の 使用人 となる べきで 
ある。 ここに 地上に おける 神の 王国と しての 中世 教会の 理論の 萠芽が 見 られ るので あ 

る。 かかる^^ の 信条 を 理論 づけた の は 中世 思想 を 代表す る スコラ 哲学で, その 結晶 
^ トマス- ァク ィ ナス Thomas  Aquinas  (1225~127 め の 大著 「神学 大全」 Smnma 

Theologica に 見る ことができる。 彼 は 従来の スコラ 哲学に おける 実在論 演在 する 
は 普遍。 個 物 は 15 相。) と, 唯名論 C 普遍 は 名目の み。 個 物 こそ 実在す。) との 対立 を 
調和し, 普遍 は 実在す る も 個 物 を 離れず として 総合 哲学 を 大成した。 これ は 室 論で は 
な く 当時の 個人と 社会の 関係 を 示唆す ると ころに 意味が ある。 国家 は 個人 格の 完肽の 
た め に 存在す る。 教会 も 社会で ある が, 国家が 人間 の 自 然的 目 的 達成の 手段 た る に 対 

し, 教会 は 超自然的 目的 達成の 道具で ある。 神の 恩寵に より フ« の 喜び をう ける のが 
人間の 究極の 目的で ある。 この 目的 達成 は キリ ス ト及 びその 代理者の みよ く なしうる。 
かくて ァ クイ ナス は 教俗両 主権の 間に 上下の 秩序 を 立て, 人間の 自然 的, 超自然的 両 

目的 達成の 任務 を 分担せ しめ, 最高 原理 を 法王に 帰一せ しめた。 国家 と^は 別個の 
存在で なく 一大 社会 g の 部分で あり, 相よ つて 完成の 目的 を 達する という, 調和と 

統一の 総合 社会 観で ある。 当時, 世紀 は 市民社会 や 大学の 興起で ようやく 個人の 自 

覚が 新しく 始まる ところであった。 しかもな お 信仰の 権威 は 知識に まさり, 神学 は 学 
問の 首座に あった。 しかして 教権と 俗 権の 争い は, 盛衰 を 重ねつつ なお 継続 中で あつ 

た。 このよ うな 目 を反呋 しつつ 究極に は 彼岸 的 目的に 帰— すべき 理を 求めた とこ 
ろに ァ クイ ナス の 思想に 対す る 史的 興味が あり , そ の 総合 大成の 思想 は 中世 文化の 特 

—— 140 —— 


中世の 世界 


色 な る 宇宙 的 統一 観の 一つ の 現われで あ ると いうべき である。 
この ァク ィ ナスの 大成した スコラ 哲学 を 継承して, これ を 翳 賞に 値する 大 詩篇に 表 

現した の は ダンテ Dante  Alighieri ひ262〜1321) である。 彼 は 中世 思想の 最高峰で 
あると とも : こ ルネサンスの 萠芽で も ある。 定かなら ぬ 実在の 少女 ベア ト リ 一 チヱへの 
'恋心 を 歌った 「新生」 は 近世 思想への あけぼの を 感ぜし める が, 彼女が 神秘的な もの 
に 神化され, 神の 恩寵の 示現と なって ゆく 姿 はいかに も 中世 風で ある。 「神曲」 は ダン 
テが 古代 文化の 権化 ヴァージルに 導かれ 地獄' 煉獄 (淨 罪界〕 を 経て 罪悪の 本質 を 知 
り , 神化せ る ベア トリー チェに よつ て 天国 神の 救済に 飛し よ う して その 救済に あずか 
る。 けだし 中世の 人間 罪悪 観と 神の 救済に よる 彼岸 的 目的 を 語って 最も 卓抜, どう 目 
に 値する。 彼の 国家 観 '政治 論 は 「神曲」 の 「煉獄 篇」 と, 別 著 「帝政 論」 に 見える。 
ァク ィ ナスが 法王 を 最高 原理と したのに 対し, ダンテ は 現世 国家と 永遠の 教会と が 協 
力して 人間の 統治 を完 うすべく, 法王が 政治 に 干渉す るの は 政教 の 混同 で 教会 の 腐敗 
を 招く として 教会 至上 説 を 否定し, 地上 世界 はす ぐれた 皇帝が 統治す るの を 理想と し 
た。 彼が 教会の 腐敗 を 怒り, 祖国 フ p レンスの 政争の 終結と ィ タ リアの 安定 を 願い 古 
代 口  —マの 統一に あこがれる という 総合 統一 を 思う 心に は 多分に 中世のに おいが する 
が, その 統一 原理 を 神と 法王に 求めず, かえって 世俗 皇帝に 望み を 託し, かつ 祖国の 
運命 を 案じた ところに 近世への 転回 を 認め うるので ある。 

以上 は 中世 末期の 代表的 心情 '頭脳で あるが, 一 股に 中世 人の 思想' 感情 • 生活 を 
知る 好 資料の 一つで ある 文学 は, キリス ト教と 武士道との 結合した ものが 多い うちで 

r 二べ/レン ゲンの 歌」 は 13 世紀 ごろ ド、 ィ ッを 中心として 栄えた 民族的 叙事詩で, キ リ 
スト 教 のにお いが うすく, 英雄 ジ ークフ リート の 横死 と ブ ノレ グ ン ド 、族の 没落 と の 二つ 
の 伝説 を 素材と して, 雄大な 構想の 下に 民族 大 移動 期 を 舞 合と し, 美男 美女の 恋愛 
物語の 色彩 を 織 り 混ぜつつ, 主眼と すると ころ は 愛と ともに 激しき 憎. 復響 心の 恐ろ 
しさで あり, 人間の 運命の 避けが たい 悲劇 性で あり, しかも 武人の 壮烈なる 勇気で あ 
る ひ 「ローランの 歌」 は 北 フランスの 吟遊詩人に 歌われた 叙事詩 「チヤ一 ルス 大帝 物 

語」 の 中の 代表作で, n  — ランと いう 半 歴史的 人物 は, よ わい 200 才の 老王チ ヤー ノレ 
ス 大帝が サ ラセ ン 人をィ スパ ニァに 攻めた とき, そのお い と して 従軍し 回教徒と 戦つ 
て 死ぬ が, 彼の 勇壮な 武勇 談を 骨子と している。 そして 恋人 オードが 悲嘆に くれな が 
ら ローランの あ と を 追うて その 薄命 を 絶つ という とこ ろに 哀れ を 添えて いる。 こ の 従 

属 的な 添え物で ある 恋愛が 「アーサ— 王物 語」 になる と はるかに 濃厚な 色彩 を 帯びて 
く る。 この 王 は 花 も 実 も ある 騎士道の 典型と して 完全に 英雄 化された 伝説の 人で あり, 

物語の 舞台 は 大体 英国で あるが, 独 *仏' 伊 '北欧に 伝えられて, ほとんど 中世の 世 

界的 伝説と なって, いかに 当時の 人心に 投合し たかを 察せし める 。有名な 「ランス" 

—— 141 —— 


料  編 


ト物 r ,  •  「トリスタンと ィ ソ ノレ デ 物語」 は その 付属物 語で ある。 刖者 において は 

士道と 宗教と 恋愛と が 平等の 比重 を もって 扱われて いるので あって, アーサ— 壬の11 1 
卓騎 山中の 最 勇者 ランス n ット ははな やかな 試合の 勝者で あるが, 王妃との 破倫の 恋 

に 悩む。 二人 は 王の 死後 そのめ い 福 を 祈つ てと もに 出家 して 神の 救済 を 求め るので あ 

る これが 「トリスタンと イソ ノレ デ」 になる と, 恋愛に 徹して, むしろ 婁徵の 趣 を 帯 

びた 悲恋 物語と なる。 やはり この 二人 も 道ならぬ恋の 甘酒に 恼む 力1, ついに はこの ァ 
—サ— 王の 宮廷で 武名 を はせ た 勇士 ト リス タンが 毒 剣の 儀牲 となると, ィ ソル デは彼 

の 上に 倒れ伏して 絶命す る。 恋愛 そのものに 徹して 騎士道 も 宗教 も 捨て去った ト リス 
タンの 心情の 中に も, 当時の 騎士の 生活 感情の ある 一面 は うかがわれる であろう0 四 

欧で 中世 文学の はなやか さ を 加えた の は, やはり I2,  3 世紀 ごろで, それ 以前に もし 
だいに 興りつつ あつたので あるが, 年代記 風 を 主と する 歴史の 記述な ども, このごろ' 
から 俗人 市民の 手になる も のが 現われ, それまでの 僧侶の 筆に よる 教会 関係の もの と 
は, 異なった 性質 を 帯びる ようになった。 

教会 建築 を 主体と する 中世 美術 も, キリスト教 を 離れて は 考えられ ぬが, 現世 否定 
の 宗教 的 情 慈 は, 初期 中世の 美術 をして, 古典的 均整 調和の 巧緻な 優美 さと は 全く 対 
驄 的な, 一見 稚拙' 晦渋 きわまる 手法と 印象のう ちに, 形 や 色 やすべて 感覚的の よろ 
こび を 退け, 暗く 醜い 此岸 を 厭離して, 見えない 彼岸への 魅力 を 痛感せ しめた 趣が あ 
る o  「カタ コムから バ シリカへ, パ シリカ 建築より ロマ ネク へ, そして ゴシックへ」 と 

は, 古代 末からの 中世 建築 様式の 変遷 を 示す 標語で あるが, 暗い 地下の カタ コムから 
出て ローマ帝国 なごりの, かって は 市民 公会の 建物で あった パ ジ リ 力 Bajilica を 

ネし拝 堂に 用いた 例に ならい, 外見 は 地味で 内部の モザィ ク 装飾な ど きらびやかな 寺院 
となり, 東方の ビザ ンッ 式な どと 異なり, 10 世紀 ごろから, パジ リカ 式に アーチ 形 天 
ヰと 外観の 美と を 加えて 1:1 マネスク 式が おこり, 12 世 糸 ift も 栄えた。 それ は パジリ 
力 式の T 字形 ブラ ンを ラテン 十字形 プラ ンに 改め, 数個の 塔 も 全体と 調和す るよ う, 
落ちついた 中世 風の 基本 型 を 示した。 しかるに 12 世紀 後半, 十字軍な どに より 東方 風 
の 影響 を 受け, 軽快な 麵ァ 一チを 加えて ゴ シ ッ ク 式が 13 世紀に 流行す る ことと なつ 
た。 それ は 石材の 重く 堅き 自然 性 をた めて, ひたむきに 天上 を さして かけり 行かん と 
あ こ がれ る 心と, しかもい つ しか 形相の 快感に ひ たる 現世 地上 的 感覚の 喜び、 を 求め る 
心との, 驚くべき 技巧 化で あ り 技術 化で あ つ た。 彫刻 もス テン ド グラス も, 内心の 宗 

教的 g'!f が 知らず しらず 自然と 肉体の 地上 的なる 美に 移り ゆく 心の 姿 を 刻み, 描いた 
のであった。 中世 末期の このような 精神 は, トマス = ァ クイ ナスの 思想の 大 いなる 建 
築 性 や, ダンテの 詩想の 並びなき 彫琢 性に も, その 一端が うかがわれる こと は, すで 
に 触れた 通りで ある。 ^ 上の 時代な り 社会な り 人物な り 文化な り を, 簡単な 定義で 


—— 142 


中世の 世界 


—言し 切る こと は, ともす ると 誤り を 犯す 危険が あるが, 古代の 地中海 世界 国家の 崩 
壊の のちに, 現われき たった 中世 千年の 西欧 ^は, 決して 古代の ような 国家的 政治 
的な まとまり を 持たず, それに 代わろ うとした カトリ ック 教会の キ リ ス ト教界 統一 も, 
宗教 的 想念の 性質 を 脱しない。 想念 は 現実に 即して 映 出される が, しかも いつしか 現 
実から 離れ, ゆがんだ ものと なりやすく, そうして それが 現実に 働き かける ところが 
少ない。 中世の 文化の 想念 的で ある こと は, 古代 や 近代に 比して, かなり 著しい 特色 
をな している といい うるであろう。 この 想念 的な ものが, 中世 を 通して 相当 強く その 
指導 的 生活に 勵 きかけ たこと もま た 認め ね ばな ら ぬだろう。 

第 2 章 西 アジア 社会の 発展 

第 1 節 イスラム 世界 

ァラ ビア オリエント に 興亡した パピ ロニ ァ 'アッシリア • へ ブライな どの セ ム種 
族 はみ な アラビアから 西方へ 移動して 他 民族 と の 接触 や 農業 生産の 増大 か ら 古文 化 を 
生んだ ものであった が, アラビア半島 自身 も 富裕な 土地と 思われて いたらし い。 そし 

て 南部の ィ ェ  ーメン 地方 を 中心に B. に 13 世紀 ごろから ミ ナ 王朝 • サバ 王朝 'ヒ ムャ 
ノレ 王朝な ど アラブ 族の 王国が 紀元 6世紀 ごろまで 興亡して いる。 L かし 多く の 民族 は 
一度 は 世界史に 雄飛す る 時代 を 持つ たもの だとい われる よ う に, アラブ 族が 世界史の 
树 光 を 浴びて 登場した の は, 7 世紀の イスラム教 興隆 以後の ことであった。 ところが 
イスラ ムが 拡大して 中央アジアから 大西洋 岸に 至る サラ セン 文化の 花 を 咲かせる と, 
発祥地の アラビア はまた メ ッカ . メジナ を 除いて 暗黒の 中に 没し 去る ので ある。 ァラ 

ビアが ァフ リ 力 • 中央アジア などと 同様, その 奥地 を 19 世紀 以後の 探険に よって 再び、 認 
識 される に 至った こと は, イスラム 世界に 対する 世界史の 評価が ギリシア •  ローマ や 
ィ ン ト、、 • 中国と 著しく 異なる ゆえんと もなる ので ある。 大体 西 アジア 史が アジア 人の 
目を通して でな く 19 世紀 以後の ョー 口 ッパ 人の 目を通して 組織され たこ とが, 今日の 
世界史の 最も 大きな 弱点な ので, アラブ 諸 王朝の 伝統が ィ ス ラム 世界に どのよ うに 受 
容 されて いるか, アラビア 独自の 形 を 見出す より, サラ セン 文化に ギリシア '口一 マ 
の 系铳 を 見つけ そ の 性格 を 西に 向ける 傾向が 強 か つたので ある。 

イスラム教 マホメット は 571 年 ごろ メッカの クライ シュ 部族の 一門 ノ、一 シム 家に 
生まれ, ネ奴 の 手で 育てられ たが, 12 才 ごろから 伯父に 従って 隊商に 加わり シリア 方 
面に 往復した。 やがて 豪商の 未亡人 ハ ディージ ァの 手代と なって 隊商 を 宰領し, 25 才 


143 


で こ の 未亡人と 結婚し, 610 年, 40 才 のこ ろ メ ッカ 近郊の ヒ ラ 一山の 洞穴で 神ァ ッ ラー 
の 啓示 を 受け たと 伝えられる。 彼 は 想像され る よ う な 狂 熱 的な 宗教家で はな く  ,初み 
は 温和で 布教です ら ためら いがち であ つ たが, アツ ラー の 前に は 万人が 平等で あ る と 
説く こと は, 力一 パ神殿 を 利用す る 豪族の 専横と 多数 の^^や ^^化して ゆく 貧民の 
多 力、 つた アラビア 社会で は 革命的な 言辞で, 最後の 審判 や 天国. 地獄 を 教え, キリス 

ト教 • ユダヤ教への 親近 を 示す こ と は, 原始的 信仰に 固まつ たァラ ビア 人に は 解放 的 
な 態度で あ つ た に 違い ない。 そ の 信者が 貧民 • 奴隸 • 女子な ど に 広が つたの も 当然で 
あつたし, 翅 権力 か ら 迫害の 起った の も 当然で あ つ た。 彼が メジナに 起った ァ ラビ 
ァ 部族 間の 紛争の 調停者と して 迎えられ, ぬ2 年 メッカ を 脱出して から は, その 致 
活動が 積極的と な り, 自ら の 教義 を も キリスト教. ユダヤ教の 上に 置 こ うとす るよう 
'-な た 0  622 年の 脱出 をへ ジラ といい, 同年 ? 月 16 日 を イスラム 麿 元年 1 月 1 日と 
している が, イスラム 麿の 1 年 は 354 日で あるから, 1,000 年で 約 30 年の 差が できて 

いる o 

イスラムと は その 聖典 コ 一ランに も 出て く る 語で, 「まことに アツ ラーと ともに あ 
る 教え こそ イスラム なれ J というよ うに, ') 維と か 正義と か 平和と かの 意義が 考えら 
れる。 その 信者 を ムス リムと いい, 告白. 断食. ネ購. 喜捨. 巡礼の 5 行が 要求され 
る ムス リムが 転じた ムス ノレ マン を 中国で は 菩薩 蛮と 音訳し, 回紇 族の 教えと して 回 
新と いっている。 一説で は そ の 教義に い う 真理に 回帰す る義 をと つたと もい われる が, 
支持す る もの は少 い。 マホメット は 630 年 メッカ を その 手に おさめ, 632 年 病 狡した 
が 当時 アラビア 全土 は ほとんど メジナへ 朝貢す るよう になり, したがって 統率者た 
る カリフが 必要で, マホメットの 友が 第 1 代から 第 3 代まで, アブ一 = パク ノレ 'ゥ マ 
ル • ウス マーンと 相^いで 力 リ フ となって アラビア 族の 統一が 完成し, さらに 半島 外 
へ 勢力 をのば すよう になった。 すなわち, ウマル は ペルシアに 侵入して サ サン 朝を滅 
I ギし (642 年) 東口 —マ^ら エジプト を 奪い, サラ セン 帝国の 基礎 を 作った が, 一力 箫 
4 代 カリフの ァリ 一は マホメットの いとこで, また 娘の ファティマの 婿で あり, シサ 
ァ 太守の ムァ— ゥ ィャが これと 力 リ フを 争って 内部 分裂の きっかけ もで きる ようにな 
一た。 第 代の 力 リ フが IE 統カ リ フ 時代と いわれ, ァ リ 一が メジナから ク —ファ 
へ 移って 暗殺され ると, ムアー ウイ ャはダ マスク ス によって ゥ マイヤ 朝 を 開き, カリ 
フは 41ft| となり, ィ ス ラムの 中心 も アラビア 外に 出て しまったの である o 
•• サラ セン 帝国 サラ センと は 古く   「砂漠の 子」 の義 だとされ ていたが, これに は皤 
かな 典拠 はなく, ギリ : ノア •  口 一 マの 文献に アラブ 族の 1 種族と して サラ ケネの 名が 

にえられ たのが C プリ-ウスの 博物 志, プトレマイオスの 地理 志な ど), ァラ フ 族 全体 

の睬 称と なり, ^いで イスラム教 国の 緩 称と なった もので, 丁度 サラ ケネに 隣る タイ 


中世の 世界 


ィ 一族が 中世 ペル シァ 語で タ ジ ッ ク, 近世 ペル シ ァ 語で ター ジと いわれ, こ れがぺ ノレ シ 
ァ人を 通じて 中国で 大食と なり, イスラム教 国民の 緩 称と して 通用され たのと 同じで 

あ 一た 0 ゥ マイヤ 朝 (661〜750 年:) は北ァ フ リカから ィ ベリ ァ 半島 を 征服し, マ7  丁 
ノレ- ラ一 マ ン に 率い られた 1 軍はビ レネ 一山脈 を 越えて フランス にな だれ こ み, 732 年 
フ ランク 軍と ロア一 ノレ 川の ほと り ッ 一ノレと ボア テ ィ ェの 間に 戦い, チヤ 一 ルス = マ ノレ 
テ ノレ に 敗れて 了 ブ デ ノレ = ラーマン は 戦死 した。 この1 戦 は 西 ョ— R ッ パ に 危機 を 自見 
させた もの や イギリスの 史家 マコ一 レ —も 「この 戦いに 敗れれば オクス フ オート ひ 
聖書の 代わ りに コーラン を 講義して いただろ う 」 と 評して いる。 一方 サ ラ セ ン軍は 中 
央 マジアか^ ベルチ スタンに 渡り, インダス川の 河口へ も 進み, その' 爆発的な 拡大 は 

逆に 内部の^ as 体制 を 変質 させ, ァ リーの 一党が 教義の 相違 を 中心に ゥ マイヤ 朝に 仄 
対し シ ― ァ派を 建て, ゥ マイヤ の 正統派 (ス ン 二 派) と 対几 した。 

こ の 対立 は 古い ァ ラ ブ族 間の 対立 や ゥ マイ ャ 朝の ァ ラ ブ 偏重に 対す る イラ ン 族の 反 
感 などが 加味され, 貴族 間 の 勢 力 争い と 合致して ,シーア 戮を 利用 した アツ パ ス 朝が ゥ 

マ ィ ャ朝を 倒して パ グダ 一 ド、 に 新 王朝 ひ50〜1258 年) を 建てた。 このと きゥ マイヤ 朝 
の 一族が スペインの コル ドヴァ に新ゥ マイヤ 朝 C 後ゥ マイヤ 朝 756〜1031 年) を 建て, 
東西 力 リフ がで きたが, サラ セン はこの 両カ リ フ 以外の 多元的な 政権に 分裂し 始め, 各 

地の 古文 化の 伝統が 吸収され また 新しい 勢力が 加わって, 多彩な サラ セ ン 文化 を 成長 
させた。 アツ パス 朝で は イラン 人 や トルコ 人の 進出が 目立ち, ペルシアの 伝統 はこの 

国の 専制 的 傾向 を 強め, 力 リブ は 貴族的な 官僚 群に 囲まれて 神格化し, パク ダ— F 以東 
に は メル ヴ 、を 都と した シーア 派の タ— ヒル 朝 (820〜872 年) が 独立 化し これに 代わつ 
てシ ジス ターンに イラン 系の サッ ファール 朝 C867〜903 年) が 起り, また ボノ、 ラ にも 
ィ ラ ン 系の サー マーン 朝 (874〜999 年:) がで き た。 シ リ ァ 地方で はノ、 ム ダーン 朝 〔944 
〜1003 年) が あり, さらに 東方で は アフガニスタン 方面 に ガズ-  —朝 (962~1186 年) 
が トルコ 系の 傭兵 隊長に よって ガズ- に 建てられ, ィ ス ラム 教のィ ン ド 進出の 基地と 
なり ィ ラン 系の ゴール 朝 ひ186 一 1206 年) と 交代した が, これ はィ ンド、 史の 領分と な 
て, る。 また トル キス タン に はサ 一マーン 朝 を 滅ぼした ィ リ ク ハン 朝 (999〜1212 
年:) 'おあり, ァ ッ パス 朝の 統治が 地図 を 1 色に 塗る よ う な もので なかつ たこ と は 明瞭 
であろう。 一方 新ゥ マイヤ 朝が スペインで 建設され たころ, 北 アフリカの モロ ッコに 
は ファース を 者 「) として ィ ドリ一 ス朝 〔768〜974 年) が ァリ— の 一党に より シ— ア^ 王国 
として 成立し, その 東に は カイ ラヮ ーンを 都と して スンニ 派の ァ グラブ 朝 CS00〜S09 
年) が 独立 化し, エジプト では ト ウル— ン朝 C868〜905 年:) が トルコ 系の 軍人に よつ 
て 建てられ, 続いて ィ フシ一 ト、、 朝 〔935〜969 年) が 同じく トルコ 系に よって 作られた。 
9 世紀 以後の 分裂の 深 ィ匕は 東 は セル ジ ユー ク朝 ひ 039〜1194 年) による スンュ 派の 復 


145 


I 資料 編 


活で 一応 食い止め られ, 北 アフリカ では カイロ を 都と した シ— ァ 派の ファティマ 朝 

(909 〜; L171 年) が 力 リ フ を 称して 君臨し, 西の ィべ リ ァ 半島で はゥ マイヤ 朝が 宮廷 内 
の 腐敗で 衰え, 1031 年 滅亡した のち は, 北部 ス ペイ ンに 起つ たキ リ ス ト教 国に とって 代 
わられ, モ" ッコの ムラ一 ビット 朝 (1061 〜: L147 年:), ム ヮヒッ ド朝 ひ147〜1269 年) 
と イス ラ ム 政権の 余命 をィべ リ ァ 半島に 持ち続け たが, しだいに 縮小して 最後に グラ 
ナダの ナスル 朝 (1232〜1492 年:) が 残存, これが カスティ ラ 軍の ため 滅亡した のが コ 
ロン ブスの ァ メリ 力 発見の 年に 当たって いた。 

セル ジ ユー 夕- トルコ トルコ 族が バグダードに 侵入して セル ジ ユー ク朝を 建てた 
こと は, サラ セン 帝国の 変質 を 意味した。 もともと キル ギス 草原に 遊牧の 生活 をお く 
つた トルコ 族の 一種 族 セル ジュ— ク (族長の 名に よる:) が西遷 して トルコ 系の ィ リク 
ノ、 ン 朝と ィ ラン 系の サ一 マーン 朝との 争いに 乗じて ホラ サン 地 或 を 占領し, ィ ラン 北 
部に 勢力 を 張つ て 1055 年ァ ッ バス 朝に 招かれて バグ ダ— ド、 に 入つ た。 その 部長 ト ゥ グ 
リ ル = ベ グ は 武力で ァ ッ パ ス 朝の 保護者 となり ス ノレ タン の 称号 を 得, そ の 支族 ル ーム - 
セル ジュ一 クは 小アジア を 統治して 東口一 マと 文航 し, シリア- セル ジ ユー ク はシリ 
ァを, イラク - セル ジ ユー クはィ ラタ を それぞれ 支配して 分裂 過程の サラ セン を トル 
コ 化しながら つなぎとめ ていた。 十字軍の 遠征に 対し, セル ジ ユー クが アラブに 比し 
て キリス ト 教徒に 苛酷だった ようにい われる の は 事実で はない らしい。 十字軍に 対抗 
したの はィ ラタ- セル ジュ一 クに 属し た ザ ン ギ で, アレッポ に ザ ン ギ朝 〔1127〜1262 
年) を 興し, その 孫に サラ ディンが 出て 十字軍の 最大の 敵と して 有名と なった。 .. 

パ グダ 一ト、 、のセ ル ジ ユー ク は 各地 を 一族に 分封す る 方法 を と つ たが 武力 政権に つ き 
ものの 骨肉 相剋 や 軍団 離反の 内紛が 続き, 一時ィ ラタ-セル ジ ユー クがパ グダ— ド、 を 
支配し, これと 中央アジアの ホラ ズムと 紛争が あって, ホラ ズムは イラク を 破り アツ 
パス 朝 を も 倒そうと した。 このような 混乱の 中に モンゴルの 南下が 起り, モンゴルの 
フ ラ グ 軍が 津波の ように アッバス 朝の カリフ も ホラ ズムも 併呑して, 1258 年パ グダ一 
ドは その 脚下に じゅう りんされ てし まつ たので ある 0 このと きモ ンゴル 軍に 対しわず 
か トルコ 族の 面目 を 保ちえ たの は エジプト にあつ た マ ム ルー ク朝 〔1250 〜: 1517 年〕 
で, これ はサラ ディンが ファ ティ マ 朝に 代わ つ て 建て た アイ ュ―プ 朝 (1171〜1252 年:) 
の トルコ 人 傭 兵隊で, モンゴルの 西 進 を 食いと め, 十字軍 を 破り, その ひょう かんさ 
を 長く うたわれた 軍団であった。 

ィ ルカン 国 C 伊児汙 国) 急激に 占領地の 膨脹した 民族が, またたち まち 分裂 衰弱し 
たこ と は 史上 常に 見る ところで あるが, 分裂した サ ラセ ンがセ /レジュ ーク - トルコに 
よってい つたん 固まる かにみ えた ものの また 分裂 傾向 を 増した とき, 拡大 過程の モン 
ゴル に— 蹴され, その モンゴル も ま たたち ま ち 分裂へ 追い こ まれて いつ たので ある。 


—— 146 


中世の 世界 


ジ ン ギ ス 汗の 孫, クビ ライの 弟 フラグ (旭 烈兀) はク リル タイ (蒙古の 部族 会議) の 
決議で バグ ダ— ド の イスラ ム 政権と 力 ス ビ海 南方の 狂信的 ィ ス ラムの ィ ス マイ 7 レ派 
(いわゆる ムラ ヒ >、, 国王が 麻薬で 青年 を 陶酔 させこれ を 利用して 反対 骶 を 暗殺 し た 

という 説話で 有名で ある) を 遠征し, 1256 年 アム 川 を 渡って ムラ ヒダを 滅ぼし, 58 年 
に は バグ ダ 一 ド 、をお と しいれ, さらに シリア に 進み ダマ スクス を 囲んだ が, 兄 憲宗マ 
ン グの訃 をき いて 本国へ 帰還の 途中 マム ノレ— ク 軍に 追撃され 殿軍 全滅す るに 至つ た。 
このため 帰国 を 断念し タブ リ ーズを 都と して ィ ノレ-力 ン国を 開いた が, ィル とはト ノレ 
コ 語で 国の 王の 意 だ という。 

この 国 は イラン. 小アジア を 中心に 北 はコ— カサス, 南 は インド洋, 東 は アム 川, 
西 は 地中海に 及ぶ 領土 を 形成して 約: 150 年 存続した。 フラグ は 兄クビ ライの 即位 を 承 
認 して 元朝と 友好関係 を 続け たばか り か, シ リ ァ 奪取の 政策から イスラ ム教ょ り キリ 
スト 教に 好意 を 持ち, フラグ を 継いだ ァパカ は イギリス' フランス' ローマ 法王に 使 
節 を 送り, 自ら 東 。一 マ 皇帝の 女と 結婚した。 ところが イランの 地に 定住す ると, 王 
室に も イスラム に 同化され る 傾向が 起り, 第 3 代ァ フメッ ド、 が イスラム に 改宗して 殺 
されるな ど, 王族 間の 争い もこれ に 結びついた。 1295 年 即位した 第 7 代ガ— ザ— ン = 

カン は 名君で イスラム を 国教と し, 諸 制度 を 改革し, 宰相で あり 歴史家で もあった ラ 
ンー ド =ゥ= ディンが 出た の も 王の 治世で あつ たし, ェジプ ト のマム ルーク 朝 を うって 

シリア を 奪取した の も 当時であった。 ところが 14 世紀に 入る と, ようやく 財政の はた 
ん, 武力の 減退が 目立ち, ティム— ルの 勃興で 1411 年 滅亡した。 

ティ ムール C 帖木 児) 内陸 アジアの 民族の 舆亡, 勢力の 消長 は 激しかった が, 中国 
史ゃ インド 史は 多く これ を 背面から ながめる 態勢であって, 西 アジアが その 直接の 活 
動 舞台 となつ て 応接に いとまの な い 変化が ひ き 続い た。 そして これら を 一色に 色 ど る 
のが イスラム教 であり, これら をい く つかに 分裂させる の は 各地の 土着 的 伝統で あつ 

た。 アラブ' トルコ • モンゴ ノレの 盛衰 も その 軌道から はずれて いない 0 ィ ル-カン 国 
に 続く 第4 の 支配 は ティ ムール 帝国であった。 ティム —ノレ ひ336〜1405 年) は ジン ギ 
ス := カンの 子孫と も 微賤な トルコ 遊牧民の 子と もい われる が, トルコ 系 小 貴族の 家に 
生まれ, ジ ンギス = カン に 傾倒す る モン ゴ ル的 自覚 と イスラム を 信仰す る トルコ 的理 
想と を 持って いた ものと, 思われる。 びっこの ティム 一ノレ (Tamerlane タメ ルレー ン) 
と あ だ 名 さ れ た 彼が, 支配者 となって から 少年 期の 逸話が 潤色 された の は 当然で あ る 
が, 蜘蛛が 風に 吹き ちぎられて も ついに 巣 を 張る の をみ て 発奮した という 話 は 有名で 
ある。 彼の 生涯 は 征服 戦争の 連続で, これ を 可能なら しめたの はす ぐれた 機動力と 略 
奪に よる 蓄積であった であろう。 サマ ノレ カン ドに 都して ホラ ズムを あわせ, チヤ ガタ 
ィ- カン 国 をく だし, イラン を その 手に おさめ, バグダード を おとしいれて ィ ノレ-力 


—— 147 


I 資料 編 


ン国を 滅ぼし, 南 ロシアに 転じて キプ チヤ ク- カン 国 を 従え, マム ルーク 朝 をう つて 

シ リ ァを 荒ら し, ィ ン F へ 進入して はデ リ 一 の 町 を B 各 奪, 、ァ ジァの オスマン 一 ト ノレ 
コ を 攻めて アンゴラの 戦いに ス ノレ タ ンの パャジ ッ ト 1 世 を 捕らえ, 最後に モンゴルの 
敵で あり, ィ ス ラムの 異端で ある 中国の 明朝 を 征服し よ う と して 途中で 病死した。 

ティ ムール は その 大 領土に 一族 を 分封して いたので, 死後の 統一 はく ずれ, 互に 争 
つてた ちまち 分裂 状態と なった が, なお サマ ルカン ド、 は 帝国の 中心と なり, ティム 一 
ルの第 4 子 シァ一 =ノ レフ やそのお いの アブ一 = サイ F のころ は 盛況 を 示し, また ィ ラ 
ンの ヘラ一 ト に 都した フ サイ ン = パイ カラの 統治 も その 地方の 文化 を 成熟 させた。 し 
かし ティ ムール の 死後 1 世紀で ゥ ズべ グ 族の 侵入で サ マルカン ド は滅 び、 (1500 年), ィ 
ラン もまた サファ ヴィ 朝の ぺ ノレ シァに 合わされ るに 至つ た 0 このと き アブー = サイト"" 
の 孫の パ— ブルが ィ ン ド、 へのが れム ガール 朝 を 開いた ので ある。 

オスマン- トルコ 始祖 オスマン ひ258~1326) の 名 を 負うた オスマン-トルコ も 
セノ レジュ ーク- トルコと 同じく 中央アジアに 発生した 部族で, モン ゴ ノレの 西 進に 押さ. 
れて 13 世紀の 初め アル メニァ 方面に 移動し, その 中小 アジアに 進んだ 部族 は セル ジュ 
一 ク 朝に 属して ィ ス ラ ム教に 帰依し, 半 遊牧 的な 生活 を 営んで いた。 1288 年 族長と な 
つた オスマン は セル ジ ユー ク. か ら さ 虫 立 し, 東 ローマ 領 への 勢力 拡大 を 図つ た (1299 年 )。. 
14 世紀に 入る と 小 アジ ァ 全域から パル 力 ン に 進出 し, 首府 を ブル ザから ァ ド、 リア ノー 
プルに 移して, 第 3 代 ムラート 1 世 は マケドニア. セルビア 'ブルガリア を 征服, 第 
4 代パ ャジ ット 1 世 はノ、 ン ガリ一. フランス. ドイツ • イギリスな どが お こ した 文ォ ト 
ルコ 十字軍 を ュコボ リスで 破 り (1396 年〕, パル 力 ン全绒 を 制圧した。 東 口  — マの コン 
スタン チノ  一プル は その^^に 孤立して いたが, サマ ルカ ン ド のテ ィ ムールが 20 万の 大 
軍で トルコに 当たり, パャジ ッ ト は 12 万の 軍 を もって アンゴラ に 敗れ, コン スタン チ 
ノ 一  プルの 命脈 は 約 半 世 糸 己 延び、 る ことにな つ た。 

バヤ ジ ッ ト の 遣 子 は ァ ン ゴ ラ の 敗戦 後 立ち直 り , 15 世紀の 半ばに は 再び コ ンスタ ン 
チノ 一 プルの 攻略 を 図り, メフメット 2 世 は 1453 年, 包囲 約 3 か 月で これ をお としい. 
れた。 かくて 黒海に^?: を 浮かべ, さらに サファ ヴィ 朝の ペルシア を 破って メソ ボタ ミ 
ァ • シリア. ァラ ビアの 全土 をお さめ, エジプトの マ ム ルーク 朝 を 滅ぼして カイ 口 を- 
と  り,  東西 交通の 要衝 はこと ごとく その 手に 帰して, 従来 イスラムの 宗主と しての 力 
リフは 名義 的に は アラビアの クライ シュ 族に 受け継がれて いたのが, 1538 年 正式に ォ 
ス マン- トルコの ス レイマン 1 世に 譲られる に 至つ た。 16 世紀の トルコ はァ ジ ァ •• ョ 
一口 ッパ. アフリカの 3 大陸に またがる 大帝 国と なって, 地中海の 制 M を 得, 陸で' 
はゥ ィ―ン を も攻擊 して 西ョ 一口 ッパ 諸国 を 脅かした。 この 全盛 は 17 世紀に やや 衰退 
の 色 をみ せた が, ァフ メット 3 世の いわゆる チ え リ ップ 時代 ひ703〜1730 年) に最使 


—— 148 


中世の 世界 


のらん 熟と 開花の 期 を 迎えた。 当時 トルコに チ ユリ ップの 花が 輸入され て大 流行と. な 
り, その 花の ごとく 文化 も 栄華 をき わめた ので この 名が おこった。 しかしす でに 近代 
列強 となりつ つあった ョ— 口 ッ パ 諸国, こ と に 背後 か ら する ロシア の 圧力 は この アジ 
ァの旧 帝国が それ 以上 ョ— n ッ. パの 土地に 君臨す るの を 許さなかった し, 内部 も 軍事 
力の 低下, ことに 清 鋭 を 誇った イエ ュチ -リ 軍団の 弱体化, 宮廷の 腐敗, 市民の 微弱 

性な どが こ の 帝国の 命脈 をむ しばみつつ あつ たので ある。 

第 2 節 イスラム 社会と その 文化 

イスラムの 世界史 的 意義 西 アジア は 民族 混 住の はなはだしい 場所であった。 もつ 
と も 民族と は 何かとい う こ とになる と 解釈の 困難な 問題で は あるが, 単に 入 種と いう 
より はるかに^^ 的な もので, たとえば 同種 族で も 生活様式 を 異にし, 集団と しての 
后統を 異にすれば, たやすく 異 民族た るの 意識が 生まれた ことであろう。 ことに 生活 
の 上で 利害 を 異にすれば, 反抗と 憎悪が 累積し 排他的と なって 民族 伝統の 中に 織り こ 
まれ, 利害が 一致 すれば, 親近感が 濃くな つて 共通の 意識 を 成長 させた こと はたやす 
く 想像され る。 それにしても 西 アジア は 遊牧民' 農耕 民' 商業 民が 3£ 接 交錯し, ある 
地 威に 居住す る 集団に も その 土着の 先 後が きわめて 多様で あり, 言語 や 信仰 や 習慣 や 
感情が 多数の 圏 を なして いた。 これ は 日 本人の 持つ 歴史観で 把握 し 難い 様相で あつ 
たに 違いない。 ここに ともかく 広範囲に わたる 一つの 世界 を 現出した のはィ ス ラム 教 
の 世界史 的な 第一の 意義 を 認めなければ ならない。 かって ゾロ アスター 教も マ- 教も 
果たしえ なかつ た 役割 を 果たした ので ある。 アラビア でも 南部の ャマ ン 族と 北部の マ 
ァ ッ ド族は 水と 油の ご と く だつ たとい われ, ャマ ン 族の 中で も ヒ ジ ャ ーズ 地方と ナジ 
ュド 地方と は 相反 目して いた。 アラブ 族の 間に も 反感が あり, その 周辺に は アラブよ 
り 古い 文化 を 持つ 多数の 民族が あった。 イラン' シリア' メソポタミア 'エジプトと 
オリエントの 地绒を 数えた だけで も 思い 半ばに すぎる ものが あり, その上 トルコ 'モ 

ンゴ ノレな どきび す を 接して 出現す る 東方 民族が あった。 これらが みな 多数の 種族 を 持 
ち, 複雑な 利害と 統とを 背負って いたので ある。 これ を 一つの 世界へ 持ち込んだ 力 
はィ ス ラムが キ リ ス ト教と 仏教と ならんで 世界の 3 大 宗教と いわれる 実体で あり, サ 
ラセ ンゃ 大食の 名が 西に も 東に も 広く けんでん された ゆえんでも あつ た。 

しかし ィ ス ラム 教は その 世界の 中の 各 民族の 亀裂 を 縫い合わせても 融解 調和 はさせ 
えなかった。 これが イスラム教 自体に はね 返って きて, いくつかの 宗派に 分裂した の 
であり, 政争 や 内訌に 現われて 帝国 を 寸断した ので もあった。 それ にもかかわらず, 
なお ィ ス ラム 世界 は 活発な 通商 路を もって 東西 文化の 流 伝 を 盛んな らしめ ている。 了 


149 


I 資資編 


ジァ史 で 蒙古の 世界が 遠く 西方へ 窓 を 開いて マルコ = ポー n を 初め 多く の 西欧 人 を 中 
国へ 招き 入れた こ とが 指摘され るが, それに も ま して ィ ス ラムの 世界 は 文化 流動の 立 
役者であった 。中国の 紙, インドの 砂糖が 西欧へ 伝わった の もこの 道に よるし, 南海 

ぜん 

の 物資, 香锊 • 樟脳 • 象牙 • 黒檀 • 龍 涎 香な どが 世界に 散布され たの も 彼らの 手に よ 
つ た。 こ の 東西 交渉の 要衝 を 運転した こ と こ そ 世界史 的な 第二の 意義と いわねば な ら 
ない。 もちろん これ は 仲介 貿 だけで できる 仕事で なく, 自ら 家内工業 や 農産物. 海 
産物 の 大生 産 圏 をな していた からこ そ 可能 だった ので ある 。西欧 人に 新 航路 の 発見と 
ほめたたえられる 出来事 も 実際 は, た だ ヴ ァスコ =ダ- ガ マが イスラム 世界の 交通路に 
便乗 したに す ぎ なかった のであった。 

また この 世界に アラビア 語が 通用し 始めた ことに, 第三の 意義 をみ ておいて よい。 
アラビア 入 自身の 主権が 衰える ころに なって ィ ス ラム 世界に は アラビア 語が 他の 多く 
の 民族の 在来の 言語に 代わって 流通し だし, この 世界 以外へ も アラビア 語が 多く こん 
跡 を 残す ように さえな つた。 これ は イスラム 文化の 浸潤 を 示す よい 尺度で あり, より 
ィ ス ラム 的で あつ たこと は アラビア 語の 慣用に あつ たわけで ある。 日常生活の 言語が 
たやす く 他 民族の 言語に のりかえられる こ と は 日本の 歴史観から は 想像で き に く い 現 
象の 一つで あるが, インド や 西 アジアに は 多く みられた 出来事で あり, 言語 的 征服と 
もい える わけで ある。 もちろん 自己の 言葉 を 守り 固有の 宗教 を 捨てない もの も 多く こ 
の 世界に 介在した が, ァ ラビ ァ語 がの ち の 英語の 役目 をした 時代の あった こと は 見の 

がしえない ところであろう o 

イスラム 社会 イスラム 社会の 主力 は アラブ 族で あり, その 点 は^ 世界と 同じく 
遊牧民の 支配で, その 強大な 武力 • 経済力 • 征服 意欲な どに も 類似点 を 求める こ とが 

でき る。 した かって こ こ に 成熟した 社会 もサ ラセ ン 社会に ついていえば 共通の 色彩が 

濃厚であった。 たとえば 支配階級 たる アラブ 族 は^ 族に 当たり, カリフ は 皇帝に 当 
たって いた。 次に イスラムに 改宗した 異 民族で, 原則として は イスラム教の 平等主義 
から ァ ラ ブと 同等の はずで はあった が, アラブと の 差別待遇 は 争えず, 蒙古が 色目 人 を 
遇する がごと く であった。 第三 は 異教徒が 納税に よって その 信仰 を 許された ことで, 
蒙古に 降服した 漢人 (高麗な ど を さす〕 の 地位 を 占め, 第 四が 奴隸 で, 蒙古で は 服属 を 
がえん じなかった 南 人 (漢族 を さす) がその 境遇 を 共通に した。 その後 イスラムの 主 
人が ィ ラ ン • トルコ • モンゴルと 交替す るに つれて 階級の 構成 は変ィ 匕した が, 貴族的 
官僚 制の 本質 は そのまま 受け継がれ, これ を ささえる 軍事力 は 遊牧民の 常で, イスラム 
教徒の 男子 はすべ て 兵士た る の 原則が 貫ぬ かれた。 そ して この 軍隊が 終始 ねらつ た攻 

擊 目標 は 東 ローマの コン スタン ティ ノー プルで, 7 世紀 ごろから 15 世紀に 至る 間, 幾 
多の 攻防 を 続けた わけで ある。 しかし イスラム教徒の 攻 盤が 「左手に コーラン, 右手 


150 


中世の 世界 


に 剣」 とたと えられた ような 好戦的の ものでなかった こと は, コーラン にも 宗教 は 強 
制すべき でない といつ ている とおり で, 全く キリス ト 教徒 側の わい 曲に すぎない。 十 
字 軍 だ け が 聖戦で, フン • アラブ. トルコ. モンゴルの ョ— ロッ パ 進出が 略奪 殺人的 
な も の だつ たと する 見方 を いつまでも 踏襲して は, 世界史 は 成立 しないの である。 

フ ラ ン クのチ ャ —ルス 大帝 (力 —ル 大帝) 時代 はサ ラセ ンのァ ツバ、 ス 朝の ノ、 ルン = 
アツ-ラシ— ト、、 の 時代で. その 勢力と 文化 はサラ センが はるかに 西ョー n ッパ を凌駡 
していた。 アッバス 朝 は スペインの 新ゥ マイヤ 朝 を 敵と 考え フランク を 味方と し, フ 
ランク も 東口  —マ を 敵と 考え サラ セン を 味方と して, 双方から 使節の 交換が あり, な 力 i 
くノ、 ル ン - アツ = ラシ 一 ド 時代 をィ ス ラム 世界の 黄金時代 とする 因縁と も なった。 こ 
のよう な カリフ の 全盛が 過ぎて, 各地に トルコ 族の 軍団が 武力 を 持つ てス ルタン 〔王〉 
を 称する ようにな つたの は, 中 国史の 唐 末の 藩鎮を 思わせ, したがつ てまた イスラム 
社会に 地方分権 的な 封建主義の 到来 を 思わせる こ と は 事実で ある。 _し かし 中国 社会^ 
封建社会に ならなかった ように, イスラムの 世界に も 封建社会 は 成立し なかった。 中 
国史で 封建 制の 不成立 を 単に 宋 代の 文 洽 政策に 帰す る こ と の 世界史 的な 弱点 も ここに 

見られる ので, セル ジュ— クゃ オスマンの 社会と ともに イン ド 、のィ スラ ム 王朝 や 中 ■ 
の 宋元明 清 を と も に 説明す る こと の 必要が ある わけで, こ の 点 は ま だ 解答が 与え ら れ 

ていない o 

ィ ス ラム 文化 イスラム の 文化が 西ョ 一口 ッ パのル ネ サン ス の 刺激 斉 [1 となった こと 
は, 逆に イスラム 文化 を インド や 中国が 拒否した ことで, イスラム 世界が 西向きの 世- 
界だった  という  だけでなく,  これ を 摂取 融合し, さらに 高次の 文化に 育て上げる 能力 
をィ ス ラム 世界 自身 を 含めて アジアの 専制政治が 持た なかつ たこ と を 意味して いる。 

文化が 高ければ 必ずしも 四方に 光 被す る もので ない こ と は, 現代 諸国の 文化 相 をみ て 
もた やすく うなずけ ると こ?) で, 受容の 形に こそ 問題が あるので あろう。 イスラム 文 

化 を 2 大別して 固有の 学なる ィ ス ラム 教 的な 自生の 文化, 神学と 法学と で 代表され る 
ものと, 外来の 学なる ギリシア 文化に 由来す る 摂取の 文化, 哲学と 自然科学 とで 代表- 
される ものと する の は 常識で あるが, 神学 や 法学に も n  —マ 法ゃキ リ ス ト教 神学の 影 
響 は 見られる ので ある。 8 世 糸 己 ごろから パ グダ一 ド、 では ギリ シァの 科学 書 哲学書の 翻 
訳が 行われ, プトレマイオス .ェ ゥクレ デス • アルキメデスな どの 科学, プラ トン • 
アリス ト テレスの 哲学が 訳読され, ィ ス ラムの 神学に 合理主義 を 付加し コ一ラ ンの教 _ 
理 と の 対立す ら 起り, 結局 プ ラ トン ゃァ リスト テレス をのり 越える 思想 は 成長せ ず, 
ィ ス ラムの 神祕 主義 を 色 どるに 終った。 

イスラム 神学が 中国 的 訓詁に 低迷して 自由な 思想の 体系的な 成長 を 許さな かつ たの 

に^ [し, 科学で はこの 遊牧民 国家が チグリ ス • ユー フ ラ テスの 下流に 運河 網 を 建設す 


一 151 


I 資 料 編 

る ほ どの 技術と 知識 と を もたらして おり, 数学' 天文学 • 地理学 • 化学な どに は 外来 

の 文化財 をよ り 大き く 成長 させた ものが あった。 数学で はィ ンド から 10 進 法. 算術. 

数字 (アラビア ^^は アラビア では イン ト、、 数字と いう〕 を 輸入し, 0 の 使用, 三角法' 

代数 • 贿学 • 高次方程式な ど を 進歩 させ た。 12 世紀に フワ 一 リズ ミ の 代数 書 「 ヒ サ 
—ブル- ジャブ ノレ-フル- ム カー パラ」 が ラテン 訳され, アルジェ ブラの 語原と なつ 
た 。天文学で は 巧妙な 測 天 儀が 作られ, 地球の 球面 や 経緯 度の 測定 を 知り, イド リー 
シ— や ビル— 二 の 業績 は 正確に 近づ い た 。 星座 表 もで き ,日月の 蝕 も 予測 さ れ, 地動説 
まで 老 えられた が, これ は コーランの 教理から 妨げられた o 地理学 は その 広大な 領土 

の 統治 か ら 交通 の 整備 や 地方の 案内が 必要 となり, イブ ン = ホルダ— ド、 べィゃ クダ— 
マな どの «が でき, 自ら 施行して 見聞 を 著わした マス ウディ • アブ— = ザィ ド、 • ィ 
ブ ン = バ ッ —タら が 現われ, ワーク ヮ一ク (倭 節 • シーラ 〔新羅) が 伝聞 されて いる。 

ィ匕 学で は 濾過 法 • 蒸溜 法 を 案出 した ジャー ビル == ビン = ハイ ヤーンが あり, ラン ビキ 

. の 語に その 名が 伝えられ, アルカリ • アン ティモ 二な ども 彼の 始めた 用^ " ご あった o 

コ— ランに は 偶像 を 禁止す る 規定 は な いが, イスラ ム教は 偶像 禁止 を しだいに 強化 
した も ので, 初期の 壁画に 力 リ フ の 像が 描かれて いるのに, ス ン -派は 植物 や 幾何学 
獏様 しか 表出し なかった。 シーア 雜は あまり これに こだわらなかった が, イスラム 世 

.界 に 彫刻. 絵画の 発達し なかった の は, 宗教 的 制約に よる もので, 装飾に はァ ラベ ス 
クが 使われた ので ある。 これに 対し 建築 は イスラム 美術 を 代表す る ものと なり, こと 

に 西方に 多くす ぐれた 遺構 を 見せて いる。 グ ラナ ダ のァ ノレ ノ、 ン ブラ 宮は 13〜 4 世紀の 

せん  、 

作で, その 壮麗 を う た われて いる 随一の も ので あろ う。 工芸に は刺繡 •  %R  • 陶ぬ fe' 
七宝' 纖§' ガラスな どに 特異な 技術 を 持って, ながく ィ ス ラム 世界から 東西へ 輸出 

されて いた o 

第 3 章 南アジア 社会の 変化 

,  第 1 節 インドの イスラ ム 社会  まま" 

イスラムの イン ド 到来 中部 ィ ン ト、、 に 君臨した ヴァル ダ―ナ 朝の ハル シャ 王が647 

キ死 ぬと, 帝国 は 分裂して インド、 を 代表す る 支配者 は 現われず, 記録の 上から も イン 

ドは 暗黒時代に 入った。 8 世紀から 10 世紀ぐ らいまで を 一般に ラ ジプ— ト 時代と いう 
の も, こ の 侵入 民族 (モ ソ ゴ ノレ' トルコな どの 雑種 とみら れ ている) の 武力が 諸方に 
.'j  、乇国 を 作って 興亡した こ とが, わずか 当時の 状勢 を 記録の 上で 特色 づける からに ほ 


152 


中世の 世界 


かならない。 いわば 後世から 顧みられる ような 創造 も 破壊 もなかつ たので ある。 イン 
ドに は, 古代 帝国 は 崩 壌した が, 中世 を 組織す る 力が 生まれなかった といえ よう。 と 
こ ろが 中 国史で 隋 唐から 五代の 起伏 を 経て 宋 朝の 出現 をた どって みる と, 民族 も 文ィ匕 
も すべて 同一の 伝統の 上に 打ち 建てられて いるのに, ィ ン ド、 史 はこの 暗黒時代の あと 
にィ ス ラ ム教 という 異質の 勢力が 大挙 進出して きて, 少な くと も イン ド、 中世の 色彩 を 
こ の 面から あざやかに 塗りつ ぶす こ と になった。 したがつ てまた イスラム に対する ヒ 
ン ドウの: を この ラジプ 一 ト時 代に 求める こ とが, 当然の 操作に なって くる。 ラジ 
ブー ト時 ft はヒ ン ドウ 敎の墓 盤が ィ ン ド、 に 確立して いった 時期と みられる わけで ある。 
異 民族 や 異質 文化の 侵入 は, ィ ン ド、 では 西 アジアに は 及ばない が 中国よ り はるかに 

多い 纖が 与えられた。 中国で は 異質の 侵入が やがて 漢民^ [匕され る こと を 誇り とも 
したが, ョ 一口 ツバの 到来に はこれ を 同化す る こと はでき なかった。 インド はョ 一口 
ツバの 到来 以前に ィ スラ ムの 侵入で これ を經 験した ので ある。 インド もまた アーリ ァ 
族 以後の 異 民族 をす ベて ィ ン ト、、 化した 地域で あつ たが, ィ スラ ムの 進出 か らヒン ド 
ゥ 'イスラムの 2 元 的な がっち かわれ, 今日の インドと パキスタン の 分裂 ま で, 

その 因縁 を 残さ ざる をえ なかつ た。 ィ ン ド、 への ィ ス ラム は 西方 ァフ ガ ニス タ ン から 入 
つた。 9 世紀に イランに はサー マーン 王朝が イスラム 王国と して 出現した が, これ か 
ら 独立した ト' レコ 系の ガズュ 王朝が サブ クタ ギンに よって 972 年 カー ブル 地方に ィ ス 
ラム 政権 を 建て, その子 マ一 ム―ド 王が インド 侵入の 先駆者と なった。 もっとも マ— 
ムー ド、 をィ ン ドへ 導き 入れる 道 はすで にィ ス ラム 教徒の 通商 路 によって でき 上がって 
いたが. マー ムード 、は イスラムに とって 偉大な 征服者, 尊厳な 信仰者と なり, ヒンド 
ゥに とって は 狂暴な 破壊者, 悪虐な 略奪 者と なって, 15〜 7 回に わたる 遠征で 力 ナウ 
ジゃ マツ ラ一 まで jil^ したので ある 0 

マー ム— ド 王の 麾下に は ペルシア の 詩入フ ェ ノレ ドウ シ— が あり, 王の た め 叙事詩 シ 
ャ 一— ナマ— (王 紀) を 残して いる。 王が この 詩の ため 約束した 下賜の 金 を 銀に 代え, 
あ と で 悔いて 金 を 贈つ たと き は フェル ド ゥシ一 の 葬列が 出 る 日で あつたと は, 有名な 
説話 となって いる。 ま た 王の 遠征に 従つ て イン ド、 見聞 記をァ ラ ビ ァ文で 残した アルべ 
'レニ— も, 王の 功績 を 不朽なら しめたが, 一方 寺院 や 神 像 を 徹底的に 破壊され たヒン 

ドウ 教徒に とって は, マ —ムード ほど 憎むべき 敵はなかった のであった。 しかし ガズ 
二 朝 も, 11£0 年 これに 代わった ゴ一ル も その 本拠 は アフガニスタン にあり, パン ジャ 

一 ブ 地方 は 占領地 と して 朝貢 し 非 回教徒の AM 税のジ ズャを 徴収す るに とどまつ たが, 

こ の 地方の ヒ ン ド ゥ 土侯の 勢力が 弱 ま り , 庶民の 間に は ジ ズ ャ を 回避す るた めな どか 
ち イスラ ムに 改宗す る も の も 多くな つた。 この イスラ ム 勢力が ィ ン ドの 根拠地と して 

建設した のが デリ 一で あり, ここに!]! 在す るィ スラ ム 支配の 代表者が やがて スルタ ン 

一 153 一 


I 資料 編 


となり, インド、 一 イスラム の 実權を 握る こ とに なった 0 

はじめて パン ジャー ブに 居住して ラージ プー トと 対立した ィ ス ラム 主権者 は ゴール 
朝の ムハ マツ ド 、であつ た 力 デリーの ス/ レ タンと なった の は そ の 部将の ト 'レ コ 系の ク 

トウ ブ = ゥッ ディン- ィ パークで, その 出身 か ら 奴隸 王朝 (1206〜1290 年) と 呼ばれ 
ている 3 デリーの ィ ス ラム 玫権は その 武力で ささえられ, トルコ 語ゃィ ラ ン語を 用い, 
被 支配者の ヒ ン ド、 ゥ 語 民族 との 交流から ウル ドウ 語と いう 混成語 を も 生じた。 ゥ ルド 

ゥとは トルコ 語で 墓の 意, すなわち デリ 一 墓府を め ぐ る 用語で あ る 。 奴隸 王朝の 時代 
に モ ン ゴ /レ族 は ジ ンギス = カンに よる 拡大が 起 り , 1221 年 そ の 軍隊 のた め イン ダス 河 

畔で 破られた が, モンゴル は それ以上の^ を あえてし なかった。 デリーの トルコ 系 
支配 は その 軍隊の 中心 をな した アフガン 人に とって 代わられ, キル ジ (ノ、 ルジ) 族に 
よる キル ジ 王朝 〔1290〜1320 年:) が 建てられ たが, これ はまた 土着の 王侯';! よる トウ 
グ ノレ ク 王朝 〔1320~1412 年) に 奪わ れた。 トウ グ^タ 朝の 時代に デリ一 はテ ィ ムール 
によって 略奪され 〔1398 年), 全く 弱体化して ィ ンドの 中原 は 分裂 状態に 陥って しまつ 
たが, これら の 諸 王朝 は ァフガ ン 人の 建て たもの ばか り では なかつ た に も かかわら ず, 
パ タ ― ン諸 王朝と 呼びな ら わされ, イスラム 勢力 は そ の 間に 南ィ ン ト、、 に も 足跡 を 残す 
ようになつ た O 

な お デリー では アフガン 人に よる サイ ッ ド、 王朝 ひ414〜1451 年:), これに 代わる 口 
デ ィ 王朝 (1451〜1526 年:) があった が, 宮廷 内の 争い が 続 き, 再び トルコ 系の ム ガル 
の g 入 を 招 き 寄せ る ことにな つた。 父が テ ィ ムール の 子孫で 母が ジン ギス = カンの 子 
孫だった といわれる パーブ ノレ は, 口 ディ 朝の 軍隊と パー-パットで 戦い, デリーに 入 
城した が, パン ジャー ブ 地方 はこの 新しい^ A 者に 服従せ ず, ム ガルの 基礎 は 容易に 
樹立され なかつ た。 このような ィ スラ ム 教徒の デリー を 中心とする 支配が^ 2 して ゆ 

く 間に, かって インドに 開花し 南 インドから 南海の 島々 に 広がって, 北方 中央アジア 
へ 流 伝 していつ たものと 別 の 道 を 進む ようになつ た 南 伝 仏教の あと を 追うて, ヒンド 
ゥ 教ゃィ スラ ム教も また 南ィ ン ト、、 から 南海の 島々 へ 広がって ゆ く  ^が 到来した ので 
ある。 かの ジ ャ ヮ 島で 8 世紀から 9 世紀に かけ 造営され た と 信ぜられる ボ ロブ ド ゥ 一 
ノレの 仏^ I 跡が, イスラム教の^ A に その 破 壌 を 免れる ため 土 を もってお おい, 19 世 
紀 初頭に 発掘され る まで 保存され たという の も そのため であ り, ィ ン ド- シナの アン 
コ —ノレ (首府の 意 だとい う) 遣 跡, アン コ —ル 一 トム C 大 アン コ —ル) • アンコール- ヮ 
ット 〔アンコール 寺院) などが 仏教 美術から ヒン ドウ 美術へ 転化して いったの を 示し 
ている の も そのため である 。 

ムガル帝国 (Mughal 莫臥 兜) 西 アジア や インド 固有名詞の 読み方 は, かって一 
度 英文に なった も の を 通して 読む 習慣が つ けられた ので ひどく 混乱 している 。今日な 


154 


中世の 世界 


おなん の 意味 も な く  口 一  マ 字で つづられ がちな の も, こ の 習慣と n —  マ 字に 権威 を感 
じ る 以外の 何 もので もない。 ム ガル も な がい 間 ム ガール と 読み 習 わされて きた。 誤り 
では ない が ム ガル と 読む 方が より ヒン ドウ 音に 近いので あ る 。ム ガ ノレ 帝国 は イギリス 
支 §2 以前の ィ ン ド、 統一 政権の 代表者 だつ たという だけで な く, イン ト、 、における イスラ 
ム 支配の 完成 者で あり, 同 の 中国の 清朝, 曰 本の 江戸 幕府との 比較に 堪える こと 
のでき る イン ド、 的な 歴史の 結実 者で も あつ た。 初代の 皇帝と なった パーブ ル の統洽 
は, その子の フマーユーン によって 保 たれえなかった 。デリ 一は 口 ディ 朝 下の 族長 シ 
ェ ノレ- シ ヤーに 占領 さ れて ス  一 ノレ 王朝が 建て られ, フマーユーン は ペルシア に 亡命 し 

た。 シ- ノレ = シ ヤー は 土侯 世襲の 分立 的な 支配 体制に 強力な 中央集権 的 統制 を 加え よ 
うとす る 政策 をと つたが, これが フマーユーンの 子ァク パル, ム ガルの 真の 建設者に 

よって 踏襲され たのであった。 

中央集権の 強化 は 江戸 幕府に も みられた ところで あるが, ム ガ ノレ は 土侯 を 中央政府 
から 俸給 を 出す 官僚に 切り 代える こ と と 軍隊の 整備と で これ を 強行した。 また これ を 
可能なら しめたの は 財源の 確保, 徴税の 正確, 検地の 施行であって, ァク パルの 権臣 

ト ダル = マルが 検地 を 実行した の は 偶然に も わが 太閤 換 地と 相 前後して いた。 そ して 

これら は その 背後に おける 流通 経済, 商業資本の 発展な どが 条件と して 想像され る と 
ころで, ム ガル 帝国 は こ の 線に 沿 う て 成立 していった とみる ことができよう。 フ マー 
ユー ンが シェル- シ ヤー なきあとの ス一/ レ朝を 倒して デリーに 'J 帯 還 したと き, ァ クバ 
ノレ はま だ 13 才の 少年であった が, やがて スール 朝の 権 臣ヒ— ムー をパ— 二 パット (第 
2 回パ— 二 パット 戦争) で 破り, ヒン ドウ 勢力 を 代表す る ラージ プート 族と 結婚 政策 
で 和解 して 帝国の 基礎 を 固めて いった。 まさに 西ョ— ロッ パ 勢力が ァ ジ ァ に 到来 し よ 
う とする 前夜, ィ ンド 自体に 成長した 商業資本と 封建 武力との 均衡の 上に 咲いた ァク 
パル 時代 は, 日本の 挑 山 期 を 連想 させ, 自らよ つてた つ イスラム 勢力と インド、 土着の 
ヒ ン ド、 ゥ 勢力 と の 妥協で み のった ム ガル 文化 は, 蒙古 朝廷の そ れ をし のばしめ る。 

ムガル帝国が 帝国と いえる 実質 を 備えた の は, ァク パル • ジ ヤノ、一 ンギ ノレ • シ ヤー- 
ジ ヤノ 、ン. ァ ウラン ジープの 4 代, 16 世紀 後半から 18 世紀 初頭まで であった。 そして 
そ の 間に 最も 著しい こと は, いったん ヒン ド、 ゥ 勢力 と 妥協した^ S2 権力が しだい に ィ 
ス ラム 的 傾向 を 明らかにし, ヒン ドウ との 距離 を增 すに 従って 政権が ィ ン F 社会から 
遊離して いった こ とで ある。 一つに はィ ス ラム 勢力が 宮廷 内の 諸 勢力 を 独占して いた 
ことに もよ るが, イスラム 勢力が 背後の ぺノ レシ ァ との 連絡, 商業資本の 供給源 を 押さ 
えていた こ とに もよ ろう。 ムガ ノレ 的ィ ン ド、 が ペルシア を 先進国と して その 文化に 傾倒 
したの も ゆえ ある こ とで あ る 0 イン ド-ィ ス ラ ム 文化の 基礎 もこ こに あり, 専制君主の 
も と に 宮廷 文化の 栄え たの もこ の 期間で あ つた。 しか し 民衆 生活の 向上 も イン ド、 的な 


155 


I 資料 編 


意識の 自覚 も 生まれる 機緣を 持たない まま, ム ガル はィ ス ラムと ヒン ドウ との 亀裂 か 
ら 急速に 衰えて いった。 ただ ム ガルが 遊牧民から 出て モンゴルの 元朝より も 満州の 清 
潮に 似た 推移 を 示した の は, おそらく アラブ や トルコと 同様, その 都市 定住の 期間が 

長く なった ためで あろ う 0 

全盛^^の 帝国 は デカン 地方の 覇権 確立に 全力 を あげ, ァ ウラン ジープに 至って ほ 
ぼ これが 完成した 時 は, 帝国 は 崩 壌の 前夜に あった わけで ある。 エリザベス 朝の ィギ 

リ ス と 比較され た ほど 富強だった 帝国 も, 中央で は 王位 継承 ごとの 争乱 と 陰謀が 続 
き, 統治 下の ヒン ドウ 諸侯 は 宮廷の イスラム 化と ともに 反抗 を 増し, 商業資本の 発展 
が 市民の 成長へ 還元され ず, 産業の 盛大 も 宮廷の 奢侈に 奉仕す る だけ の 専制 主義の 国 
家で は, 軍事力の 統制が くずれれば 統率 は 急に 弱化す る。 アウラ ンジ— ブがス ンニ派 
のィ スラ ム教に 忠実に なれば なるほど, その 手足と なって いた ヒ ンド、 ゥ の 武力 を 失 
い, ラジプ —ト 族の 離反, マラー タ 族の 勃興 を 誘い出す 結果と なった 。ことに デカン 
4 匕 西部の マラ— タは シヴァ ジ 一によ つ て 新た な 活力 を も つ て 帝国の 前面に 立ち上が る 

X つに なった o 

ィ ン ド史 における マラ一 タには 従来き わめて ゆがめられた 評価が 与えられ ていた。 
いや 今日で すら これ は 見直され ていない。 ィ ギ リ スのィ ン ド 制覇に とって 最も 大きな 
障害であった マラ— タは, イギリスに とって 最も 憎むべき もので あり, すでに 弱体と 
なって 無害であった ム ガル 政権 こそ 主権 をィ ギ リ スに讓 つた ものと 考えられ がちで あ 

つた o これが ガンジー にも, 今日 ネール その 人に もま だ 抜けき つてい ない 歴史観で あ 

る。 ィ ギ リ ス 人が 「最も 低級な ラ ジプ— ト でも 最も 高級な マラ— タ より 上品 だ。 J と 
言つ たこと は, 事実で あ ると ともに ィ ギリ ス的 観察 だつ たといわなければ ならない。 
文化 も 伝統 も 持たない マラ一 タに, ムガ ノレに 対し また 西ョ 一口 ッパ 勢力に 対し インド 
を 代表す る ヒ ン ドウ 勢力の 動向 を 与えた 歴史 は, 中国で 広 西の 1 寒村に 満州 朝廷に 対 
し, ま た 欧米 勢力に 対する 中国 的 勢力 を 生み出 した 太平 天国 を 思わせ る ものが あろ 
う。 貧寒な マラー タ族を 結集した シヴ、 アジ 一は アウラ ン ジープと 交わり を 断つ と, こ 
のヒン ド ゥ 教徒た ち を 終始 反 ム ガルの 線へ 成長 させ, ついに は マラー タ 諸 族が 同盟 と 
か 連邦と いわれる 勢力と なる 基礎 を 築いた。 

アウラ ンジ一 ブは 同^; のフラ ンスの ルイ 14 世と 比較され る。 両者と も 全盛の 帝国 
を 代表し, また その 王朝 を 救いが たい 危機へ 追い込む 戦争の 常習者であった。 フラン 
スを 襲つ た 革命の 危機 と , ム ガル に 訪れた マラ一 タ の 進撃 と は, ともに ィ ギ リ ス 雄飛 
の 道 を 開いた もので もあった。 18 世 ]|己 の 後半 ほとんど 全ィ ンドに 号令す るよ うにな つ 
た マラ— タが デリー を 占領し, 全 インド 制覇 を 完成す るかに 見えた 軍事力 は, 1761 年 
パ ニー パッ ト 〔第 3 回パ- ーパッ ト 戦争) でァ フガ- スタン 軍に 破れて 致命的な 打撃 


156 


中世の 世界 


を 受け, ィ ン ドはィ ギ リ ス 勢力に 対抗で き る 唯一の 軍隊 を 失う ことにな つ た。 それば 
かりで な く, マラ 一タの 存在が ィ ン ド、 史 から 抹殺され る 端緒 もこ こ に 起つ たので ある。 

第 2 節 インド-イスラム 文化.  - 

イスラム 系 文化 ィ ン ドへ^ A した ィ スラ ム 教をス ペイ ンに はいった ィ スラ ム教と 
比較して みよ う。 西欧で は ゲル マ ン 族が キ リ ス ト教の 新たな にない 手と して ィ ス ラム 
教の 北進 を ツールで 防ぎ 止めた のに 対し, ィ ン ド では ラ ジプ— ト 族が ヒン ドウ 教の戦 
士と して これ を デリ 一で 防ぎ 止める こ とがで きなかった。 ス ペイ ン では8 世紀の 間ィ 
スラ ム教が 栄え, やがて キ リ ス ト教 諸国の ためつ いに 半島から 駆逐され て しまった 
が, その 間に 西 力 リフの もと に 多く の イスラ ム色を ョ  一口 ツバの 一角に 残す こ とに な 
つた。 インド、 では ヒン ドウ 教が イスラム を 駆逐す る ことので きない まま, 今日で も両 
者 の 利害 と 伝統 を 異にする 分裂が 残って 二つの 国家 体制 を 作り上げ ている。 しかし ィ 
ン ドのィ スラ ムィ匕 は 西 アジアの 社会と 異な り, イン ド、 的な もの を 全く 失わせる こ と は 

できず, かえって イスラムの インド 化が 見られ g カスト 制度まで イスラム に 浸透 
していった。 インド、 - イスラムの 文ィ匕 はこの ような 基盤に 生まれた ので, スペインで 
は 過去の もの, 死滅した ものの^^で あっても, インドで は 現在に つながる もの, 生 

きている ものの 理解が as される ので ある o 

ィ ン ド-ィ ス ラム 文化の 遣 産 はまず 12〜3 世紀 ごろの 建築から 現われ 始める。 特色 
ある ドーム や アーチ や 尖塔て *0 ら れたィ スラ ム 式の 寺院 • 廟 墓が パターン 諸 王朝 ゃム 
ガル 朝の 皇帝に ち なんで 建て られ, 中で もム ガル の シャ— = ジ ヤノ、 一  ン帝が 数已ム ム 
タ一ズ = マノ、一  ノレの ために 20 年の 歳月 を かけて アグラ に 建てた タ一 ジ- マノ、 ール廟 は, 
世界 最 美の 建築 として イン ドの 富裕 を 世界に 誇示した ものであった。 しかし このよう 
に 一見 イスラム 的と 目に 訴えられる 美術 以外に, イスラムの 持つ 世界的 性格, その 平 
等 主義 や 清純 思想 は どのように 受容され ただろう か。 これ も かっての 仏教と 同じく ィ 
ン ト、、 的な 性格 と の 相剋 だけ に 終つ たもので あろう か。 ァク パルが そ の都デ リ 一近郊の 
シーク リーに, あらゆる 宗教の 学 匠 を 集め 討論させる ィ パ一ダ ット -力 ーナ 〔信仰 館) 
を 設け た の は 有名な 話で ある。 そ して 結局 自 ら諸 宗教の 粋 を 取つ て 首長 となる ジ ン - 
イラ ヒ (神^ 教) を 建てた が, これ L 二 参加す る もの は 皇帝に 迎合す る 宮廷の 諸臣に 
すぎなかった。 まことに 自由と か 平和と かの 近代 理念 は 与えられる もので なく, かち 
とらな ければ だめ な ものな ので ある o 

イスラ ム 経典の ヒン ドウ 訳, ヒン ド ゥ 径 典の ぺ ノ レシ ァ訳, インド、 一 イスラ ム 文化 は 
このよう なみせ かけの 交流の 上に 探るべき も ので はな く  , 今日 も コーラ ンに 傾倒す る 


—— 157 


I 資料 編 


七 千 数百 万の イン ト、、 人力 i あり, これが 何 をより どころ とし, どんな 伝統 も 意識して い' 
るかに 求めるべき であろう 。文化 を いわゆる 文化遺産 といわれる 消費 的 な 記念物 を 手 
がかり と して 理解し よ う とする 習慣が あるかぎり, このような 生きた ィ ンド- イスラ- 
ム 文化 は 容易に  と ら ええない ので はなかろう か。 


荣 rp, 朝 古く 唐^ A 家 文な どで 唐 宋両朝 を 一括す る 習慣が あつたが, この 両 朝の 間- 
に 本質的な 相異が 存在す る こ  と を 初めて 指摘した の は 内 藤 湖南 博士であった0 博士 は 
宋 代の 社会 • 経済 • 文化 • 制度 を も つ て 近世の 到来 を 説かれ, そ の 後 多 く の 追随 者 を 
生んで, 中国の 近世 社会 は 西欧よ り 早く 成熟した ものと す る 考え は 常識 化す るよう に 
なった。 もちろ ん 近世 といっても 西欧と 中国と はき わめて 異な る 内容 を 持つ た も の, 
市民 莖命ゃ 産業革命 を 伴な わな かつ たの は 明らかであった。 と こ ろが 10 世紀の 後半 か 
ら すで に 近世が 始 まった とする こと は, 中国 近世 社会の 継続 と 安定と を 希望す る もの, 
変^: を 期待せ ずに 旧 中国の すべてに 妥当性 を 認めよ う とする もの だとの 批判が 起り, 

中国の 旧制度 を 破砕して こそ その 植民地 的 性格から 脱却して 近代 社会 を 建設し う る も 
のとす る 現代 状勢の 解釈 か ら , 清朝 末年 まで を 旧 中国すな わち 中世と みる 傾向が 起 つ 
た 0 これ は アジア 全般に 通じてい える ことで, インドで ムガ' レ 朝から 近世と し, 日本 
で 江戸 期から を 近世と したの も, とも にこれ を 中世と みて 近代の 意義 を 明確に しお』 
しょ うとす るので ある。 この場合 近世と 近代 を 使い分ける ような 手段 はかえ つて 歷史 
性 を 不明瞭に する とて 採り 上げ られ ない。 な ぜな ら ば 近世に 近代の 準備 待 代 としての 
なんら の 意義 を 持た ない とする からで ある。 

それにしても 内 藤 博士が^ 間 に 1 線 を 画された の は 卓見で, そ の ため 唐^ 代の 
が 多 く の 課題 を 提供す るよう になった。 たとえ ば 藩鎮の 自立 的な 傾向 や 軍事 • 行 
政の 武力 的 統制から 日本の 武家政治 を 思わせ, これが なぜ 幕府の 成立 や 封建制度の 充' 
実へ 向かわなかった かと か, 都市の « や 商工業の 隆盛から 市民の 成長 を 見ながら, 
な ぜ 西欧の 市民 や 日 本の 町人 と 異なる 性格 を 持つ に 至った かな どが 論 俄 された。 本 盲 
では 卒直に いって 漢 代の 豪族, 唐 代の 貴族 を 古代 帝国の 実権 者と みて, これに 代わ る- 
に 宋 代の 官僚と  その 地盤と  なった 在 地 地主の 有力 化に 中世 を 認め ようと している。 す:- 
尸廿 ラ センの カリフ に 対し 各地の ス ノレ タ ンが 分離しても, イスラ ム 世界に は 武家政治 


第 4 章 東ァ ジ ァ 社会の 推移 


第 1 節 中国 官僚 国家の 成立 


158 


中世の 世 界ー 

も 封建 制 も 起らなかった よ うに, 宋 朝の 皇帝が 振 文 艇武の 政策 をと つたた めだけ で武 
家政 治 は 発展 しなかった というの ではなく, 主従の 関係で 社会が 規定 される に は 西 • 
南' 東の 各 アジア 地 或は あま り に 複雑な 社会 構成 を 持って いた ものであろう。 今日 そ 
の 整理 分析が 学界の 課題と なって いる。 すなわち 宋代は 唐 代の 何 を 受けつ いで, 何 を 

破棄した のか, 何 を 創造して 何 を 崩壊 させた のか 0 

中国の 官僚 は 秦の始 皇帝の 周辺に もあった し, 漢 から 唐に かけても 宮廷 を 中心に 存 
在した。 もちろん これが 国民の 利害 を 代表す る もので なく, 皇帝 を はさんで 豪族' 貴 

族の 代弁者だった にす ぎなかった から, 近代の 官漦 Eureaucracy と 区別して 官人 
(Mandarin) と 呼ぶべき かもしれ ない。 それならば 宋代 以後の 中国 官僚 も官 人で あつ 
て, 国家 や 国民が 政治の 対象に はならなかった。 しかし 宋代 以後の 官僚の 出身 や 視野 
は 前代 と 異な り 拡大して きた。 かつ そ の 組織 は 強固 となり そ の 意識 も 明確に なって, 
いわゆる 官場 といった 一つの 活動 舞台 を 形成 してきた ので ある。 唐 未 五代の 争乱 は 唐 
代までの 実力者だった 門閥 を 倒し, 長 安の 政治 都市に 徒食す る 不在地主 を 無力と して 
地方 産業と 結びつ く 在 地 地主の 有力 化 を もたら した。 宋は 唐の 産業 は 受けつ いだが 門 
閥 を 受けつ がな かつ た。 政治 都市に 代わって 産業 都市 や 商業都市 を 生んだ が 国際的な 

視野 や 行動 を 受けつ ぐ こ と はでき なかった。 

907 年 節度 使の 朱 全忠が 唐 を 滅ぼして 梁 朝 〔後 梁) を 建ててから 半世紀 ほどの 間に 
後 唐' 後晉' 後漢 '後 周の 5 王朝が 興亡し, 皇帝の 廃 立 はげしく, その 統治 も 洛陽' 
開封 を 中心とする 華北の 一部分に すぎず, 各地に は 呉 • 南 唐 • 前蜀 • 後蜀 • 南漢 '楚* 

けいなん 

呉越 • 閩 • 荆南 • 北漢な どの 独立国が いずれ も 節度 使 出身者に よ つ て 建てられ, 五代 
十 国の 世と なった。 この 時代 は頹 廃と 乱 離の 末世と しての ちに 慨嘆され るが, 旧 門閥 

の 没落と 地方 開発の 期で, 中央に 強力な 政権がなかった ため, 北方 民族の 成長と 
宋代 におけ る これと の 対立の 機縁 を 作る こ と に なった。 seo 年 帰徳の 節度 使趙匡 胤が 
将士に 擦 立され, 後 周 を 倒して 皇帝と なり, 帰 德が周 代の 宋の故 都であった ため 国 を 
宋と 号し, 犬 梁すな わち fKi: (開封) に 都した。 荆南 '後蜀 '南漢 '南 唐' 呉越 * 北 

漢 など を饼 せて 682 年に 中国の 統一 を 再び 完成した。 趙匡胤 は 中国 歴代の 主権者が そ 
うであった ように, 自らが 勢威 を 得た 地盤 を 後 読者 を 断ち切る ため 弾圧して, 武力 政 

権 をお さえ 自ら も 武人 的 勢力 を 引き 締め, これ に 代わ る に 有力 となつ た 経済で 補 う 方 

針 をと つた。 たとえ ぱ、 軍隊に よる 交戦 を 避けて 国交 を 断ち, 通商 をお さえる ことで 敵 
を 苦しめる の が 常套手段 となった ので ある。 そのた め 経済の 中央集権化が 強行 さ れ, 

数多く の 専売な どの 統制が 行われ, 折し も 成長期: こあった 商業資本 を 官僚に 直属 さ 

せ, 市民の^: 性 を 鍛える より 国家権力への 奉仕者と しての 性格 を 作り上げた。 
宋朝は 中国 統一 王朝の 中で その 統治 範囲 は 最も 狭 かつ たが, 文化 は 充実し 民族意識 

—— 159 —— 


J [資料 編 


は 高まった といわれる。 その 文治 政策が 商工業の 発達 を 促し, 生活 や 思想に 活気 を 与 

えたが, 軍事力 は 弱化して 北方 民族の #A を 招き, 国家 や 民族の 自覚が 圧迫感と とも 

に 強まった と されて いる。 このよ うな 観点 を 進めて 中国の 特色 を 同時代の ァ ジ ァ諸 
国, 鎌 倉 期の 日本, セル ジュ一 ク 期の トルコな どと 比較 すれば 一層 はっきりす るので 

はない かと 思われる。 中世 を いろどる 武人 を あげれば 日本 はもと より ト ノレ コ もまた 精 
鋭 を 誇り , 中国に も 金 軍 を 脅かした 岳 飛 や 蒙古に 屈しな かつ た 文 天祥を 数え る ことが 
できる 。中世と すぐ 結びつけられる 宗教 を みれば, 日本の 新 仏教, トルコの スンニ 派. 
イスラムの 擁護に 対し, 儒«界 にも 宋 学の 教義が 大成され ている。 しかし 政治に お 
ける 中央集権, 経済に おける 産業の 発達な ど は宋が 最も 著しい 成績 を 示した。 したが 
つて これ に 伴な う 諸 現象 は まさに 日 本 や 西欧の 封建社会 ときわめ て 異なつ た 様相 を み 

せ る 条件 を 形造つ たので ある o 

さ て 唐 末 五代の 藩鎮 (節度 使 • 監察 使 • 防禦 使 • 団練便 • 経略 使な ど 軍事 行政 を 一 
手 に 握る 長官の 緩 称で 節度 使が 代表的 な もので あつ た) が 各地 に 割拠 したの は, 後漢 
末に 豪族が 各地の^: 勢力と なった のよ り はるかに 地方分権 的な 本質 を 強く 持って い 
た にもかかわらず, 宋 朝が 統一 政権 を澍 立し えたの は, 前代の 六 朝 諸政 権ゃス ルタン 
政府, 墓府 勢力に 比べて 強力であった といえる。 ま た 強力な 中央政府 を 持たねば な ら 
な い ほ ど 契 丹 や 女 真の 力 も 従前の 五 胡 に 比べ て はるかに 強大で あつ た。 宋は 建国 以 

けい 

来, 五代の 後 晉が契 丹に 割譲した 燕 薊 16 州の 回復に 専念し, 1, 004 年 真宗が 契 丹 C 遼) 
の聖 宗と澶 淵の 盟で 講和し, 宋を 兄と し遼を 弟と し宋 から 年 ごと. に 銀10 万両, 絹20 万 
匹 を遼に 贈る こと を 約し, 両 皇帝と もに その 平和主義が 賞讃 された が, この 宋の戟 弱 

に 乗じて 两 北辺に は チべッ ト 系の 民族が 宋の 辺境 を 侵して 自ら 大 夏と 号した。 これが 

こう ち 

歴史上 と 呼ばれる 国で, 宋 はこれ に対して も 歳 賜 を 与えて 和 を 結び、, 南方の 父祉 

にも 独 ±11 動が 起って 安 南国 を 認めざる をえ な く なった o といって これら を 放置して 

内部まで 分裂して しまう に は, 宋は 経済力 も 政治力 も また 民族意識 も 強固だった とい 

いえよう。 すなわち 1, 069 年 以来 神宗に よ つ て 採用 さ れ た 王 安 石の 新法が, たとえ 官 

僚の 党争 と 王朝の 弱体化 に 拍車 を かける に 終 つたと はいえ, 国家 の 政策 を 一つに しぼ 

つて 富国強兵 を 実行す る 能力と 弾力と を 持って いた こ と を 示して いるので ある。 

王 安 石の 新法 は 一見 新興の 商工業 を 助成して もって 国家の 富強 を 計った ものの よ う 
に 理解され がちで あるが, 概括して 農村の 安定, 農民の 自立 を もって 国家 中堅 を 固め 

よ う とした ごとく である。 最初に 施行され た 均 車 ir 法 は 政府 用達の 物資 を 直接 生産地に 
買い付けて 政商 を 排除し, また 貢納を 政府で 運転して 利潤 を あげよ う とする もので, 
^に 実施され た 青 苗 法 は 地主の 小農 搾取 を 排除して, 任 を 持つ た 小農に 政府が 
融資す る もの, 市 易 法 は 豪商の 独占 を 排除して, 商人への 融資, 商品の 買い上げ を 行 

—— 160 —— 


中世の 世界 


う もの, 保 甲 法 • 保 馬 法 は唐末 以来の 傭兵の 劣弱 を 救うた め, 国民皆兵 • 兵 農 一致 を 
計り 保つ という 団体 を 農村に 設け て 農閑期の 訓練 や 軍馬の 飼育に 当た らせ たもの, 募 
役 法 は 農村の 租税の 管理' 運搬な どに 当たって いた 里 正 〔村の 顔役) の 負担 を 除いて 有 
給の 管理人 を 置き, 従来 力役 〔宋 では 差 役と いう, 労働 奉仕:) を 免ぜられ ていた 官戸 
(官史 を 出して いる 家) • 寺 観 • 商人から も 助役 銭 を 徴収す る もの, その他 各種の 新法 

が 約 20 年間 実施され, 宋 朝の 財政 を 建て直す ことにな つた。 しかし 宋代 官僚の 地盤で 
あった 地主 や 富 商 は その 特権の 縮小から K ^して, 国 を 富ます も のでな く 政府が 富む 
にすぎないな どの 批判に たって, しだいに 旧法 党と しての 勢力 を 結集し たので あつ 
た。 

1085 年 神宗が 没す ると 司 馬 光 (温 公) が 新法 を 廃して 旧法 を 行い, やがて 哲宗の 親 
政と なると 新法 を 採用し, 次いで 旧法に かえり, また 徵宗の 親政で 新法と なり, 政策 
再三 反転し 王朝 は 党争の 巣窟と な つてし まった。 こ の 間 北方の 遼も 中国 風に な じんで 
質実 さ を 失い, 女 真 族が 自立して 1, 115 年 大金 を 国号と し, 遼の都 城 を 相次いで 奪つ 
て 1125 年遼を 滅ぼし, 勢いに 乗じて 宋の 国都汴 京に 迫った 0 1127 年汴京 陥落し, 
徵宗 • 皇帝 欽宗を 初め 宋室 3000 余人 は 捕虜と な つ て 北方へ 拉致され, 宋 はいった ん滅 
亡した。 時の 年号に よって 靖康の 変と いっている。 欽宗の 弟 康王は 南へ 逃げて 南京で 
即位し, 金 軍 を 避けて 揚州 • 杭 州と 転々 し, 杭 州 を 行 在 〔臨 安府) として 南宋が 復活 
した。 康 王すな わち 高宗の 世に は 岳 飛ら の 将軍が よ く 金 軍と 戦って 江 北の 失地 を 回復 

しんかい 

したが, 高宗は 武力 抗争より 平和的解決 を 好み, 秦 镥 の 献策で 1141 年金と 和し, 宋は 
金の 臣 となり 歳 貢と して 銀 絹 各 25 万 両匹を 贈る こと を 約した。 杭 州の 岳 飛廟の 前に 秦 
橹 夫妻の 鉄 像が 両手 を 縛せられ 跪 坐して 罪 を 請う さ ま を 示して 作られ, これに 唾して 
快と する 習わしが 長く 行われて いる。 これ を 中国の 民族意識に 結びつけ るの は 知識人 
の 常識で, ただ 豊年 を 祈願す る 農民の 所業と する の は 庶民の 通念であった。 

その後 金宋間 はや や 小康 を 保った が, 南宋の 官僚に 党争が 再発し, 金 社会の 中国 化 
が 惰弱 を ひき 起す ころ, 背後に は モンゴル 帝国が 興起し, 1234 年ヱゲ ディの 率いる モ 
ンゴ ノレ 軍が 金 を 滅ぼし, この 時宋は モンゴル 軍 を 助けた が, やがて 1276 年ク ピライの 

派遣 し た パ ヤンの モン ゴ ル軍 によって 臨 安 は 陥り, 宋朝 は 文天祥 ら によつ て 南方 海上 

'  がい ざん 

にの がれて 転戦した が, 1279 年 広東 省 新 会 県の 海上 崖 山の 戦いで 全滅した。 文 天祥ら 
が 幼 帝 を 奉じ, 船中で なお 政治学 を 講じて 倦まなかった こと を 舟 中 大学と いって 宋入 
の 気溉を 示す 話柄と されて いる。 崖 山の 悲劇 は壇ノ 浦の 平家の 滅亡 を 思わせる が, 平 
氏 没落より 約! 世紀 後の 事件であった。 

契 丹. 党 項. 女 真 漢民族に 対する 北方 民族の 交替 は, ィ ン ドへ^ A した 異 民族の 
顔 振れ や ェジプ ト • パピ 口 ユアに 侵入した 異 民族の 変化に 比べて, さらに 長期 間に わ 

—— 161 —— 


I 資料 編 


たりさら に 特色の 強い 対立 を もたら したから, 南北 両 民族の 文^: が 中 国史の 根本 問題 

ウイ グル 

かの よ う に 思われた ほ どであった。 唐 末と な る と 突歉ゃ 回紇に 代わって 契 丹が 登場し 
たの も 内陸 を 移動す る 遊牧民の 姿 を 定着 的な 漢民族 からみた 新しい 対立 者の 出現で あ 
つた。 契 丹 は 東 モン ゴ リアの シ ラーム レン 流 或の 遊牧民の 部族で4 世紀 ごろから その 

名が みえ 〔後魏 書 • 隋 書な ど), 強大な 8 部族が 中心に なって 連合 体 を 作り 部長 を遷出 
して 統率され ていたが, 10 世紀 初め 耶律 阿保 機が 部下に 漢人 を 集め, その 協力で^ 
諸 部族 を 統合して 〔916) 大勢 力と なった。 この Qitay の 名が 西方に 伝わって 華北 や 
中国 全土 をキタ ィ '力 タイ と 呼ぶ 風習が 起つ た 〔現在 n シァ 語の キタ ィ , 英語の カセ 
ィ は 中国の こと〕。 耶律 阿保 機 〔 太祖) は 西北 モン ゴ リアから 東ト ノレ キス タンに 至る 地 
绒を 征服し, 東は渤 海国 を 滅ぼし, 次の 太宗は 中国 侵略 を 企て 燕 薊 16 州 を 五代の 後晉 
から 奪い, さらに その 首都 大梁 (開封) まで一 時 占領した。 この 契 丹 族の 遼が 南方の 
宋の統 一と 文 做す るよう になった の は 第 5 代 景宗の ころから で, 次の 聖宗は 朝鮮の 高 

らい 

麗を 降し, タ ン グー トゃ ウイグルの 諸国 を 朝貢 させて 東アジアの 最強 国 を 作り上げた。 

遼が 遊牧 国家 か ら 農耕 民の 統治へ はいった こと は, 従前 にも 例の ある ことながら, 
はつ き り した 2 元 的 統治の 形 を 示す ことにな つた。 すなわち 政治で ズ匕面 制と いわれる 

対 遊牧民 策 は , 部族 制 を 基礎と して 貴族た る 帳 族と 一般 民の 部族 と を 軍事的に 統制 し, 
南面 制と いわれる 漢人 ゃ渤 海人に 対する 策 は, 州 県 制 を 基礎と して 納税 や 生産に 当た 
ら せる 民政 を 主と した。 この 2 元 性 は 社会 や 法制な ど 多くの 面に 特色 を 生んだ が, 遼 
は 都 を 中国 内に 移す ことなく 遊牧民の 自覚 を 強めよ う としたた め, 一層 はつ き り その 
特色 をみ せた ので ある。 一方 また 農耕 民 を 北方へ 移住 させて 土地の 開発, 生産の 増加 

に 従わせ, 被^ S3 階級 を 利用 抑圧す る こと も 忘れなかった。 しかし 遼の 経済力が 農耕 
民に よっての みさ さえられる 結果, 遊牧民の 貧窮 化, 遼 勢力の 文弱 化が 致命傷と なつ 
て, たとえば 牧地の 狭隘 ゃ牧 馬の 衰亡が 目立ち, 12 世紀と なると 新興の 女 真 族に 圧迫 
され, 1125 年天祚 帝に 至って 滅亡した。 この 時一 族の 耶律大 石 は 西方に のがれて 西遼 
国 (カラ キタイ) を 建てた。 
遼は 満州 • 華北に 本拠 をお いたた め, その 遣 跡. 遣 物 も わが国と なじみ 深く, 遼文 

りんこう 

化 は 日本の 東洋史 学者の よ い 研 ^象に な つ た。 遼の都 上京 臨 潢府は 東京 遼陽府 • 中 
京 太定府 • 西 京 太 同 府* 南京 折津府 (北京:) な どと も に 文化の 中心 をな したが, 東京. 
南京な どの 中国 文化が 貨^^済と と も にし だいに 他 を 圧倒した らしい。 遼 独特の 陶磁 
器と いわれる 雞 髓 な ども 1935 年 以来 やか ましく いわれる ようになった もので, 遊牧 
民の 革袋 を模 した 提 瓶で ある。 この 国 固有の 宗教 は シャーマニズムで 天神地祇 を 木 葉 
山に 祭る 祭 山 儀が 国家^: 典であった が, 仏教. 道教 も 輸入され, 薊 県の M 寺 '大 
同の 下 華厳 寺な どに 当時の 威容 をし のばせる 仏寺が 残されて いる。 なお 契 丹 文字 は 従 

—— 162 —— 


中世の 世界 


来 解読され なかった が, 最近よう やく 研究が 進んで 大字と 小字と から 成り, 大字 は 小 
字 を 集めた もの, 小字 は 表音文字で 突 厥 文字に 由来す る ものな ど, その 構成 や 解読が 
行われる ようになつ た。 

党 項 は 四川 西北 境 • 西康 • 青 海 あた り を 原 住 地と する チぺッ ト系 民族で, 隋ゃ唐 初 
に ロ1 谷渾と 中国との 間にあって 活動し て^ に 現 わ れ始 め , 吐 蕃が興 る と 吐谷渾 は滅 
ぼされ, 党 項 は 一部 これに 降り一 部 は 移動して 甘粛に 移り, さらに 吐蕃に 圧迫され て 
陝 西. 山 西方 面まで 東遷した。 唐 は 吐 蕃と党 項との 合体 を 恐れて 東遷 を 助けた が, そ 
の 牧畜に よ る 勢力の 蓄積 はついに ォ ノレ r ス 地方に 雄飛す る ことと なり, そ の 強 族拓跋 

氏 は 唐の 内乱 黄 巣の 軍 を 破って 李 姓 を 授けられ, 1038 年 李 元昊は 多く の 部族 民 を 傘下 
にお さめ, 寧 夏に 興 慶府を 建て 国 都と して 国を大 夏と 号した。 宋で はこれ を 西 夏と 呼 
んだ。 西 夏 は その後 宋と 交戦し 1044 年 条約 を 結び, 宋を 君, 西 夏を臣 とし, 宋は 毎年 
絹 15 万 3 千 匹. 銀 7 万 2 千両. 茶 3 万 斤 を 賜う こと, 貿易 を 認める ことな ど をき めた。 
はまた 遼 とも 争い これに 屈した が, 1124 年から は 金に 臣礼 をと つて 宋を 攻め, 宋 
の 南 渡に よって 宋 との 交渉 は 絶えた。 その後 金との 関係 は 平静で 領土 も 広まり, 牧畜 
を 主と し 農耕 を 従と しながら 仲介貿易の 利 も 大きく, 中国から はいった 仏教 も 栄えた。 
MM に は 固有 文化と して と り たてて あげる もの も なかつ たが, 早く 西 夏 文字 を 制定し 
て 漢籍の 翻訳 も 行われて おり, この 文字 は 20 世紀の 初めに 漢字との 対訳 辞書が 発見 さ 
れて 解読され ている o のちに 西 夏 は 金と 結んで モンゴルの 勃興に 抗争した が, 1227 年 
チン ギス = カン の 来攻に 国王 は 殺 され, 約 2 世紀の 統治 を 終つ た。 

女 真は渤 海の 滅亡 後, 東 満州の 民族に 対して 用いられ 始めた 称呼で ジ ュルチ ン ま た 
はジ ュルチ (女 直) と 呼ばれた。 その 語義に ついては 諸説が あるが, 渤 海の 遣 民と し 
て 種々 の 部族 を 総称した ものであった。 彼ら は遼ゃ 高麗 ゃ宋 などと 通交し, 遼ゃ 高麗 
に 服属して いた もの は 熟 女 真, 他 は 生 女 真と 呼ばれた が, 11 世紀の 終り ごろ 生 女 真の 

かんやん  あくだ 

完顔 部が 強大と な り , そ の 部長 阿骨打に よって 1115 年 統一 国家と して 金が 建て ら れ 
た。 金 は 東部 北部の 満州 を 本拠と し, 南方の 宋 から 遼 を挾擊 する 提案 を 受けて 1121 年 
から 遼を 攻擊, 翌年に は 独力で 燕 京 (北京) を おとしいれた。 しかし 金と 宋と 国境 を 
接する と 燕 薊 16 州 〔 俗に^ 316 州と いう) の 帰属から 争いが 起り, 宋の 弱体 を 見す か 

わい 

した 金 は 1127 年に 宋の 首都 汴京を おとしいれ, 皇帝 皇族 3 千 余人 を 捕 虞と し, 東は淮 
水から 西 は大散 関に 至る 国境 を も つ て 中国 を 南北に 2 分す るに 至つ た。 中国の 北半 を 
占めた 金 は 女 真人の 国家と 中国人の 国家との 2 元 性 を 持ち, 都 を 燕 京に 移してから は 
漢人の 金 国内 政への 進出, 女 真人の 弱体化が 著しくな り, 小堯舜 といわれた 名君 世宗 
(1161〜89 年) は対宋 平和 策と 女 真人の 保護 政策に 力 を 傾けた。 
金が 強大と な つ た 一因 は 女 真人 をす ベて 猛安 • 謀克に 組織して 兵 農一 致 • 国民皆兵 

—— 163 —— 


I 資料 編— 

とした ことにあった。 ところが 華北に 移住した 猛 安' 謀克が 国家から 保護され, 漢/、 
農民 • 漢人 官僚との 摩擦が 起り, そ の 上 中国 生産力の 大半 を 保有した 江 南から 断 たれ 
て 経済力 は 弱く, たちまち 財政 的な 破綻が 訪れる ことにな つた。 たとえば 宋に 学んで 
銅銭 を 発行し, 貨^ 済が 本土にまで 広まっても 銅の 生産が 少なく, 交鈔を 発行して 

た ち ま ち 不換紙幣の 濫発 となつ て 混乱 を きたした な ど, 2 元 国家の 矛盾が 各所に 暴 
露した。 遼と 同様, 仏教' 道教が 栄え 仏寺の 建築 や 大蔵経の 編篡が 行われ, 道教で は 
前述の 儒道 仏 を 合一した 全 真 • 太 一 , 真 大道の 3 派が いずれも 金の 領土 内から 発生し 
た。 13 世紀に はいると モン ゴ ル と の 争いが 起 り , 1211 年 以来 チ ノギス-カン の 進攻 を 
受け, 1214 年に は 中 都 (燕 京) から 南京 (開封:) に 都 を 移し, チン ギス = カン をつ い 
だェゲ ディ = カンの 時 南京 は 包囲され, 1234 年つ いに 滅亡す るに 至った。 

朵代 文化 宋代 となつ て 揚子江 下流 地域が 中国の 穀倉と して 中国の 死命 を 制する 地 
位が 確立した。 隋の大 運河 は 南方 物資への 依存 を 示した ものであった が, この 地 或の 
水田の 開発と これ をに なう 在 地 地主の 勢力と は, 宋代 となって 国家に 不動の 発言力 を 
持つ よう になった。 水田 は 囲 田 • 圩田 (両者と も に 堤 K によって 区画した 田, 日本の 

わじ ゆう 

輪 中に 類す る, 前者が 小規模の も の) '湖 田 〔干拓に よ る 田) な どで 耕地 面積 を 広め, 
占 城 米の 移 値で 早晚 2 毛 作が 可能 となつ て 生産額 を增 し, 米食の 流行 とともに "蘇 常 

みの 

熟れば 天下 足る" のこと わざまで 生まれる ようになった。 また 茶 業 ゃ製絲 も 前代より 
飛躍的に 盛ん となり, 鉱業' 塩 業 • 紙 業な どに 加えて 陶磁器の 発達 は 室 前の 盛大 をみ 
せ, 諸 工業の 中には 手工業の 域 を 脱して 工場 制 を 持つ もの も 多く 現われた。 この 增大 
した 生産 を 乗せる 流通 面 も 未曾有の 盛況 を 示し, 各種の 市場が 発生して これに 伴な う 
商 入 や 職人の 組織な ども できあがった。 铕 道の 要所 は 店と いわれ, 船 付 場は埠 C 歩) と 
いわれ, 定期 市 や 常設 市が 栄えた。 唐 代まで は 都市の 内部で も 市と いう 限定され た 場 
所で 限定され た 時間 内の 売買が 行われた のが, 街路に 面して 商店が 開かれ, また 盛り 

場 C 瓦 子) な どが 起って きた。 

唐 代の 市で は 同業の 商店が 集まって 営業し, これ を 行と 呼び 組合 をな していた が, 
宋 代に 市制が く ずれ 至る所に 商店が 開かれて も , この 行 は 一層 団結 を 強めて ギル ド的 
性格 を 帯びる ようになった。 このよう な 組合 は 手工業 者の 間に も 作と いわれて できあ 
が り , 一方 全国的に 解放され て ゆ く 組織に 対して 一方 封鎖 的な 新しい 関係が 生まれて 
きたの を 示して いる。 商人が 同業 や 同郷に よって 強 く 結び、 つ く 傾向 もこ の 間に 育て ら 
れ たようで ある。 坐賈 C 店舗 を 持って 営業す る も の)' 客 商 (他郷から 商品 を 運搬し 
てく る もの)' 牙儈 C 仲介 業者:) な どの 区別 もで き, 行頭 • 行 首な どギ ノレ F の 親方 も 出 
現した。 宋 代が 科挙に よって 官吏の 登用 を 一般に 解放した とする 前に, 新たな 制約が 
よ り 強く 社会 を 規定して いた ことに 想到すべき である。 農民に も 個 戸 (これが 小作人 


 164  


中世の 世界 


であるか 農奴で あるかに ついては 議論が ある) が 普遍 化し, 地主と 佃 戸との 身分 的な 
区別が 明瞭と な つ たので, 宋 代が 皇帝 胃の 下で 一 股に 平等な 機会 を 持つ ようになつ 
たと する の も 言い過ぎ のよ う に; 思われる。 

宋 代の 思想 は 以上の よ う な 社会的 基盤 を 理解す る ことで, いわゆる 発展と か 展開が 
把握され る。 唐 初に 五経 正義が 編纂され 儒教の 指針 を 形成し, 皇帝の 権威に よって こ 
れが 強行 された の だか ら , 皇帝 » の 強 ま つ た宋 代で は こ れが一 層 信奉 されて よい は 

ずであった。 ところが 一見 盛んな 自由 批判が 起り 反省が 深まり 思索的に なって, 儒教 
の 新生面 を 開いた の は なぜであろう か。 皇帝が すでに 唐 代の 皇帝で はな く  , 儒学が ま 

たなんの ため の 儒学で あ る かが 変わ つてき たからで ある。 唐 代 は 古代の 限界 と 安定 と 
を 求めた が, 宋代 はこれ を 動揺 させこれ を 再編成しょう としたから である。 したがつ 
て 自由な 批判と いっても 自由 を 求める ための 批判で はな く て, 現状 を 肯定して 君臣の 
義, 父子の 親, 夫婦の 別, 長幼の 序, 主従の 縁な ど を 天理に 基づく ものと して 改めて 
基礎 づけよ う とする もの, 階級の 秩序 や 身分の 固定 を 是認し よ うとす る ものであった。 

とん い  ていこう  V*  き 

宋儒 として 大名 を はせ た 周敦頭 • 程顥. 程頤 から 朱熹 に 至る 思想の 系統 も, 
自然と 人間の 根源 を 探求し, これ を 太 極' 乾 元な どと 名 づけ, 結局 根本原理 としての 
理 ( 木の 木目, 本質の 中に ひそんで 整然たる もの) の 概念 をた て, これによ つて 万物 
を 生ずる 材料と して 気 (動き 逼 つて 生命 を 与える もの) の 概念 を 得た。 宋学を 一名 理 
気の 学 ともいう。 そして このような 形而上の 論理 は ひいて 実践 倫理まで 規定し, 陸 象 
山 C 九 淵) に よ つて わが 心が 理 であ り , 天理に 従つ て 人倫が 展開す る と いう 知行 合一の 

説と なった。 これが のちの 明 代の 陽 明 学の 基礎に なって いる。 

なお 宋の 儒学で は 北方 民族の 圧力の 強まる につれ て 国粋 的と なり, 大義名分 を 主張 
する ようにな つたこと は 特に 住 目 されよう。 すなわち 儒教が い よいよ 官僚の ものと な 
る 傾向 をみ せ, これに 対し 仏教 は 民衆の ものと して 多く の 宗教団体 を 生む よ うにな つ 
た 。 仏像 彫刻 が艷麗 となり, 念仏 結社が 数多 く 作られた が, 道教 もまた 仏教と 平行 し 
て 全真教 • 太 一教 • 真 大 道教 • 正 一教な どの 宗派 を 興し, 在家 出家に 広く ゆきわたる 
よ う になった。 宗教 も また 経済力の 充実して きた 民衆 を 背景に 道' 仏2 教に 庶民的な 

どうかん  M 

色彩 を 加え, 、寺院つ 直観 ぐ 道教の 寺) また 庶民 を 迎える に ふさわしく なった こと は 見 
のがせない。 かっこの ような 傾向が 儒道 仏 3 教の 相互の 影響 を 深化し, 宋学 における 
仏教 思想, 道教に おける 仏教の 儀礼な ど 特に 著 し く  , 道教の 諸 神に 釈迦 • 孔子 • 老子' 
西 王 母 • 玉 帝' 関 帝な ど を 合祀す る 風 も しだいに 広がって きたよ うで ある。 唐 代まで 
ほ とん ど 貴族の 祭祀 や 祈禱に 独占 されて い た儒廟 • 仏寺 • 道観が 民衆に 解放 される に 

従い, また 官僚 層 を 支持者と する ものと 民衆 を 吸引す る ものと へ 分解して いった こと 
もこの 時代 以後の 中国 宗教の 姿であった。 外来 宗教の 多く はこの 間 多く 衰微 または 廃 

—— 165 —— 


I 資料 編 


絶して, 来航の アラビア 人の 持つ 回教寺院 や 特殊の 集団と しての 異教徒が 残存す るの 

みとな つた 

文学で 唐 代に 全盛 をき わめた 韻文が 宋 代に 散文に 転じた こと を, 詩 は 唐で その 粋 を 
尽く し宋は その 餘勢 衰えた というよ うにた だ 現象 的に みるべき ではない。 文学的 情 養 
を 発揮す る 場が 社会と と もに 変ィ 匕した もので, 宋の 韻文 は 形式に と ら われない || とし 
て 上下に 広まり, 散文に は 剛健な 文章が 官僚の 好尙に 合い, 雑 劇 や 小説が 民衆の 間に 
興った。 雑 劇 は 元 代に 元 ffi として 大成し, 小説に はの ちの 水滸伝 や 西遊記の 原型が 作 
られ, 民衆 を 相手に 演ぜられたり 談 じられ た り したので ある。 宋代 文化 を 代表す る も 
の と して 四書 (大学 '中庸 • 論 語 • 孟子:) の 成立 ゃ資治 MM や 綱目 の 著述な ど だ 

け を うんぬん したの は, 官僚の 文化 だ け が 文化 と 考える に ふさわし かつ た 時代す な わ 
ち 中国で は 清 代までの 通念であって, 今日 これの みに 従う こ と はでき ない。 

この こと は 美術に ついて もい える ので, 絵画で 朝廷で 作つ た画院 (王立 美術学校) 
の 流儀に よる, 絵画すな わち 院画 や, 院 画の 色彩 駆使から 離脱して 文人 • 僧侶 • 道 

しょく べいふつ  かい  もっけい 

士 による 水 墨 C 墨色 または 淡彩) の 文人画 一 これに は 蘇軾' 米芾' 梁揩' 牧谿ら の 
名手が あった 一 ばかりが 宋代 絵画 を 代表す る もので はな く  , 版画 や 手芸品に 新しい 
美が 起 りつつ あった こと を 認めなければ ならない。 た だ 彫刻 は 造 像 を 重視 しない 禅宗 
の 流行と 畐 11 葬 品た る 土偶な どの 明 器が すたれて 紙 製の 家 形 '人形 • 器物 • 銭幣を 焼い 
て 弔う 風潮が 起った ので 衰え, 写実主義が 徹底して きた。 たとえば 内臓まで 持った 造 
像が あったり ミ ィ ラ にうる し を 塗って 肖像と したりす る 極端な 手法が 行われた。 これ 
は ま た 実用 を 伴な う 磁器の 製作に 一段と 技術が 発達した こと, 大量生産の 陶磁器が ェ 

かんよう 

業 化して いつ た 方向と も 一致す る。 もっと も 磁器の すぐれた もの はや は り 官窯と いつ 
て官廷 専用の 窯で 焼かれた 芸術的 作品で はあった が, 多く の 日用品 も 作られて 従来の 
漆器 や 木 器に 代わって いったの であった。 

中国の 4 大 発明 といわれる 紙' 印刷術 •  • 羅針盤の う ち , 紙 は 後漢か ら 起った 
が, 他の 3 者の 実用が 宋 代に 起つ たの も 以上の 形勢から たやす く 想像され る ところで 
あろ う。 印刷が 早く 印刻と 捺印と に 端 を 発して これに 刷すな わち 紙 を あてがって 刷る 

方法 は 唐 代 ごろ まで 普遍的で はな かつ た。 これが 仏教の 流行と と も に 画 仏 • 経文の 印 
刷が 起 り , そ の 木版 術は宋 代の 手芸 的な 巧緻 さ か ら 鮮明 優美な ものと なり, 仏典ば か 

かん ず 

り でな く 各種の 書物が 印刷され るよ うにな つた。 これと とも に 書物 は ^    (巻物) か 

しゅう 

ら折本 & になり, 折 本の 一端 を と じる 書冊の 形へ と 成長した。 木 活字 (一字 一字 

にかわ  ひっしょう 

を 組み合わせ 膠で 固め ま たこれ を 分解して 用いる) す ら 南宋の 畢 升が 発明した とい わ 
れる が, 活字 は 盛 行せ ず, 宋板 (宋 版) といわれる 木版の 書物 は 今日, 品と して, 
ま た 内容が 後世の 書物 と の 異同 を 調べる 材料 と して 尊重 されて いる。 火薬 は 11 世紀の 

—— 166 —— 


中世の 世界 


初め 使用され るよう になり, たちまち 実戦に も 応用され るよう になった。 ョ 一ロックぐ 

では 7 世紀に 東 ローマが サラ セン 軍に 対して 用いた といわれる 「ギリシア 火」 を;^ 
の 最初と していた が, これ は いではなかった。 磁石 は 中国で 鉄片 を 熱して 正しく 南 
北に 横たえ, これ を 鍛えて 磁性 を 与える 方法 を 知ったら しく, この 磁針 を 水に 浮かべ 
て 南北 を 指させる 術 も 早く 行われた らしい。 羅針盤 と して 航海に 用いた こと は 12 世 糸 i 
初めの 記 t 录に みえる。 ただ 諸 発明 は その 早い のが 珍 貴な ので はなく, これ を 成長 させ 
発展させる こ とので き る 社会 を 考える のが 世界史の 一 目標で も あろう。 

第 2 節 征服 王朝と 民族 国家  ' 

征服 王朝 第 2^ 大戦 中ァ メリ 力で ウィット = フ ォ— ゲルが 中国 史上に 遼 代の 占め 
る 特異性 を 指摘 してから, 異 民族な い し は 異質 文化が 他 民 候 ま た は 他国 家の 体制 を征 
服に よって 統一 体 を 作る 征服 王朝の 課題が 住 目 を ひく ようになった。 そして これ は 
遼' 金. 元と いった 王朝ば かりで なく, さかのぼって 周ゃ秦 に, 西に は アッシリア' 
マ ケド、 ユア 'ペルシア' サラ セン • トルコに, さらに 日本の 古代 帝国に すら こ の 性格 
を 認めよう とする に 至った。 しかし これ は 戦中 戦後の 異質 者 間の 交渉が 刺激と なり, 
征服に 新しい 意義 を 求めよう と したに すぎなかった から, さして 反響 を 呼ぶ ことな く 
終つ た。 事実 世界史 は 征服の « :史 であり , 他の 犧 性に よ る 繁栄の はかな さが 連続 レ 
て 現われる。 中 国史の 3 王朝に 次ぐ 満州の 清朝の 統治が 戦時中 日本の 大陸 進出に 参考 

にされ たが, 歴史の 教える もの はいつ も 求める ものよ り 高い ので ある。 

モ ン ゴ ル族は ァ ジ ァで 最も 大きな 征服 民族 として の 仕事 を 残し た。 モン ゴ ル 部族 は 
元来 モン ゴ リ ァ 高原の 北部の 遊牧民の 一つで 金 朝に 属した が, 部族 国家 を 作って 強大- 
と  なる  と金の 圧迫 を 受けて 分裂 壊滅して しまつ たが, 族長 テ ム ジ ン によつ て 再び 統— 
し, 近隣の 同種 族タ タ —ル •  メル キ ット 'ケ レイ ト 'ナイ マ ンな どの 諸 部族 を 合わ 
せ, 1206 年チ ンギス = カン の 称号 を もって モン ゴ ノレ 高原の 全 遊牧民 を 支配す る に 至つ 
た。 当時 モン ゴ リアの 遊牧民の 間に もよう やく 氏族 制の 社会が く ずれて 貴族 制 社会 カ^" 
成立す る 機運に あり, いわゆる 英雄 時代が 到来して チン ギス = カン を 生んだ ので, 契 
丹' 女 真' 蒙古の 交替 は 各 民族の 差 を も 示した ものであった。 チン ギス = カン は 
南方の 金 や OT へ も 侵略した が, 最も 大きな 関心 は 西方との 通商 路に 向けられ, ウイ 
グルゃ イスラムの 商人 たちの 往来す る 西 アジア こそ モン ゴ ル の 経済的 基礎 を 与える も 
のと 信ぜられた。 チン ギス = 力 ンは西 アジアの ホラ ズム 王国と 通商 使節団 を 交換した 
が, モンゴルの 使節が オト ラールで 殺された のが 原因と なって, モンゴルの 西 アジア 

遠征が 行われる こ とに なった といわれる 0 これ は 1219〜25 年の こ とで ある 0 


167 


I 資料 編 


ホラ ズム はト ノレ コ 系の ィ ス ラム 教 国で, アム 川の ほと り の ウル ゲン ジを 首府と した 
: が, モ ン ゴ ノレ 軍の 襲撃に たち ま ち 瓦解 し, 国王 ムノ、 マ ッ ド、 は カス ピ 海の 島へ 逃亡, 王 
-子ジ エラール::: ゥッ ディン はよ く 防禦した が 破れて ィ ン ド、 への がれ, チン ギス = 力 ン 

軍 はこれ を 追うて インダス川まで 殺到した。 ホラ ズムを 滅ぼして 南 B シァの 農耕 地帯 
-を 直接支配 する ようになった モン ゴ ルは, かって は 略奪 の 対象 に す ぎ な か つ た 農耕 地 

を 領有の 対象に も 考える ようになり, 1227 年チ ンギス = カン の 死後に は 金 を 滅ぼして 
淮 水 以北の 中国 を 支配 し, 1235〜42 年に は チン ギス = 力 ン の孫パ ッ の 西征に よ つ て 南 
ロシア を 浸して 首都 キュフ を 破壊し, ボー ランドから シ レジ ァを 侵し, 首都 ブレス ラ 
ゥを 焼き, ハンガリー を も 浸し, 広大な 領土 を 獲得した。 シ レジ ァ公 ハインリッヒ は 

r イツ' ボ —ラン ド の 連合軍 を もって モン ゴル軍 を リ —グニ ッッに 迎え撃つ たが 大敗 
し, ョ— p ツバに おける 蒙古 来襲の 報 は 深刻な 恐怖と なった。 しかし 本国で ェゲ ディ = 
カンの 死んだ ことが モンゴルの 進撃 を 中止 させ, 西ョ一 口 ツバまでの 侵入 はみ なかつ 
たが, おの モン ゲ = カンの 時 は 弟の フラグに よって ペルシア 遠征 力 s 行われ, アツノ ヾス 
朝 を 倒して さらに モンゴルの 威力 を 増し, ク ピライ = カン は 南宋 を 平定して アジアの 
東西に わたる 主要な 地 威 は ほとんど その 手に 帰した。 もっと も 南方の 湿潤な 気候 ゃ不 
得手の 海戦から 大陸 以外の 進出 は 成功せ ず, 日本 来襲, ジャワ 攻撃な ど はみ な 失敗に 

')§ した o  、 

チン ギス = 力 ン 以来 70 年の モン ゴ ノレ 成長の 快速 は, 彼らが 自信 を 持つ た 騎馬戦の 優 
秀 さも あるが, 一つに は 周辺国 家の 老衰と 一つに は 東西 通商 路の 確保と によった。 し 
たがって 周辺に 新たな 活力 を 生じ, 経済 運営が 成長に 伴な わなければ, たちまち 瓦解せ 
ざる をえなかった し, また それ を 促進す る モン ゴ ル 自体の 氏族 的 要素が 私 拭 しきれな 
かった。 チン ギス = カン は 絶対 君主と して モンゴル 族に 君臨した が, これ を ささえる 
組織 は な お 氏族 的 な 血縁 関係 にあって, 親族が 貴^ な 地位 を 持って 君主の 周辺 に 階 
層 を 作り, チン ギス = カン はまた 占領地 域 を 一族に 分封す る 方針 をと つた。 チン ギス = 
カンの S めた 大 汗の 地位 は 親族 会議 〔ク リル タイ〕 で 決定され たので, 貴族 間の 絞 争 
は 犬 汗の 地位 争奪と な つ て 現われ, 分封され た 諸 王 は その 度に 独立 的な 傾向 を 強め た。 
いわば 連邦 的な 大帝 国が でき ると とも にこれ をつな ぐ覊辩 を 強化す る 何もの も なかつ 
たので ある。 ェゲ ディの 孫 カイ ヅがク ピライ = カンに 対して 30 余 年 抗# したよう な 内 

-乱は 遊牧 国家の 限界 を 示した も ので あつ た。 

クビ ライ = カンが 大都 (北京) に 都して 元朝 (国号 は 従来 王朝 建設者の 出身地に ち 
なむの を 普通と したが, 元は 易経から とって 名 づけた:) を 建てる と, 他の 4 汗 国と 連 
邦 制の ごとき モンゴル 帝国 を 形成した が, いずれも 長い 命脈 は 保たなかった。 ェゲデ 
ィ = 力 ン国は ェゲデ ィ の 孫の 力 ィ ヅに よって 建てられ 西北 モン ゴ リ ァを領 し, エミ ノレ 


168 


中世の 世界 


を 首都と した。 力 ィ ヅの 全盛時代に は チヤ ガ タイ = 力 ン国を も 従えて 有力であった が, 
めち に チヤ ガ タイ = カン 国に 併合され てし まった。 チヤ ガ タイ = カン 国 は チヤ ガ タイ 
の 子孫の 領有した 国で, トル キス タン を 領土と しァ ノレ マリックに 都した。 のちに ェゲ 
ディ = 力 ン国を も 合わせ 西の キ プチ ャック = 力 ン国 ゃィル = 力 ン 国と 抗争した が, 東 
西に 分裂し, 西 チヤ ガ タイ はチ ムールに 滅ぼされ, 東 チヤ ガ タイ は 部族 抗争が 読いて 
衰えた。 パッの 建てた キプ チャック = カン 国はヴ オルガ 下流の サ ライ を 首都と し, 貿 

易路を 押さえ n シァ 諸侯 を 従えて 最も 栄え, 東 B  —マ や 西ョー P ツバ 諸国と も 通交し 
た。 やがて チ ムールに 破れてから 分裂し, "シァ 諸侯が 代わって 勃興して モスコー 大 

公 イワン 3 世の ため 滅ぼされた 0 フラ一 グの 建てた ィル = カン 国 は ペルシア. メソポ 
タ ミ ァを 領有して テブ リ ーズを 首都と し, 同じく 東口  —マ ゃ西ョ ― 口 ッパ 諸国と 通交 
して イスラム 文ィ 匕の 中心 をな したが, チム一 ノレに 滅ぼされた。 4 汗 国の 中で はィル = 
カン 国が 元と 最も よ く 通交して 中国に 西方 文化 を 伝え, また 中国 文化 も これ を 通って 

西方へ^^ する ことが 多かった o  :: へ V 

元 王朝 万里の長城 を 築いて 北方 民族の 侵入 を 防いで 以来, 中国と 遊牧民との 交渉 
は 南北の 対立と いった 戦闘 を 通じても 理解で き る し, 南北の 共存と いった 通交 を 主と 
しても 把握で きる が, モンゴルの 圧力が 全 中国 を 支配し えた こと は, 遊牧民の 一方的 
勝利 で また それゆえに ゆがみ も 大きかった といわなければ ならない。 一部の 論者が, 
蒙古の 中国 支配が よ り 永続 すれば, 中国の 近代 はよ り 早く 到来した であろ うとい うが, 
これ は 近代の 何もの たる か を 解さない 論で ある。 元は 和 林 (力 ラ コル ム) を 上 者 P と し 
北京 を大 都と して 農耕' 遊牧の 2 社会に 君臨した。 氏族 制 はすで に その 共同体 的な 機 

能 を 失って いたと はいえ, 氏族 単位の 領主 制, 領主の 連合 体で ある 貴族政治の 遊牧 社 
会と, 自作 や 半 自作 的 乾燥 農業 を 主と する 華北 社会, 大地 主の もとに 個 戸の 普及した 
水田 農業の 江 南 社会の 3 者 を 統合す る 政権が, 遊牧 社会の 野性 を 活力と し 江 南 社会の 
生産 を 動力と し, 運河 や 海上の 輸送と 民族的 相違の 圧力に だけた よった ので はさ さえ 
きれる ものではなかった。 民族 感情 を 導火線と し, 遊牧民の 経済的 敗北, 政府の 財政 
的 破綻 を 火薬と し, 元朝 は 自爆に も 似た 壊滅 をい そ ぐ よ り ほか はな かつ た。 

元は 広大な 領土と 多種の 民族と を 統治す るのに 多く の 方法 を 弾力 的に 用いる 手段 を 
知らなかった。 強力な 専制政治 を 末端まで 行き わたらせる ために は, 蒙古' 色目 *漢 
人. 南 人の 区別 をた て, 蒙古の 至上権 を 確立し, 中央政府の 直轄地 以外 を 10 区画して 

これに 行中 書 省 (行 省) すなわち 政府 出張 機関 を 設けて 統制 を 図った。 色目と は西ァ 
ジァの トルコ 系. イラン 系の 諸 民族 をい い, ョ— 口 ッパ人 を も 含めて 各種 類の 人の 意 

で 碧眼の 入の 意で はない。 また 明 清から 今日 まで 中国の 地方 別に 省 を も つ て 呼ぶ の は 
行 省から 起って いる。 元 代の ことわざに 「 1 官 2 吏 3 僧 4 道 5 医 6 ェ 7 猁8 民 9 儒 10 


169 


I 資料 編 

かい 

丐」 といい, 当時の 社会秩序 を 述べて いるが, 中国人の 知識層た る 儒家が 乞食と ほと 
んど 同等に 扱われた ことが 知られる。 最上級の 官吏で も 蒙古 '色目 '漢人' 南 人の 順 
におのお の 1 級ず つ 下された 官職が 与え られる 定めで, 漢人 • 南 人 は 下級 官吏た る ほ 
かはなかった。 元の 領土 は 上 都 • 大都を 起点と して 四方に 出る 交通路 を もって 結ばれ 
ていたが, 江 南の 杭 州. 泉 州 を 首都に 結ぶ 幹線が 大動脈で, 国内 商業 は宋 代に 劣らぬ 
活況 をみ せ, 陸上 海上の 国際 貿易 は 飛躍的な 増大 を 示した。 貨幣 は交鈔 すなわち 紙幣 
を 法定貨幣 とし, 初め 銅銭 や 金銀の 流通 を 禁じた が, 交鈔の 価格が 下落す るに 従い 銅 
銭も銬 造され, むしろ 銅銭 は 交鈔に 代わる ものと してで はな く 交鈔を 維持す る ものと 
して 発行され た。 しかし 一 股に は 銀の 使用が しだいに 発達し, 後世の 馬蹄 銀の 原型な 

どもで き あがつ た 0 

元朝 は 農耕 文化の 移入に よる 野性の 喪失, 軍事力の 弱体化, 蒙古' 色目の 新興 貴族 
の 争闘, 皇帝 専制 を ささえる 貴族 組織の 分裂, 仏教の 一派 ラマ 教 尊信に 象徴され る 奢 
侈と 迷信に よる 官廷 財政の 乱脈, 遊牧 経済の 敗北と 江 南 農村の 反抗, 南 入の 民族 感情 

の 激化, 農民 反乱の 続発な どのた め, 中国 統治 87 年で 滅亡した。 しかし この 1 世紀た 
ら ずの モン ゴ ノレ 統治 は宋 代に な お 残存した 中国 貴族 を一 掃 し, 中国 文化に 庶民的 色彩 
を 与え, 東西 交通の 国際色 を 強めて 中国 文 ィヒが 西方に 紹介され る 機縁 をな したの はお 

おえない 事実で ある。 がまた 鄭所 南の ごとく 思 肖 (宋の 姓 は趙, 元 を はばかって 肖 を 

思う とした) と 号し, 国土が 夷狄に 蹂躪され て » の 失われる の を 嘆き, すでに 汚さ 
れた 中国の 土 を 描かず 裸 拫の蘭 を 描いて 意気 を 示した よう な 中国の 国粋 思想 も 横溢す 
る 風が あった。 裸 根の 蘭 はわが 墓 末の 志士に も こ とに 愛用され た 画材で あり, 象徴と 
もな つた。 したがって 元 代の 文化 や 社会 を 説く 時 民族 間の 対抗意識, 庶民 文化, マル 

コ = ポー 口の ごとき 旅行者に 重点 をお かれる がつ ねであった 。 鄭所 南に 漢民族の 意気 

ば やん 

を みれば, 南宋 討伐軍の 総司令官 伯 顔に 「王師 10 万 悉く 夷 を 平ぐ」 といった 宋を 夷と 
よんだ 詩 も 作られて いる。 しか し 蒙古 漢人の 混血 や 雲 南方 面の 開発の 事実 も 指摘し な 
ければ な ら ない。 戯曲 • 小説の よ う な 庶民 文学, 三国志 演義 や 琵琶 記な どに 代表され 

-  けいさん 

る 庶民 性が 強調 されるなら ば, 文人画 に 元の 4 大家 と 呼ばれる 黄 公望 • 呉鎮 • 倪瓚 • 
王 蒙な どの 高度の 芸術作品が 生 まれた ことに も 言及 し な け れ ばな ら ない。 

ただかつて 外来 文化 を 単に 中国 文化の ァ クセサ リ —としか 受け取らず, 中華の 観念 
. が 画 まっている 中国に , 対等 またはより 高い 文化の 存在 を 思い知 らしめ たの は モン ゴ 
ルが 初めてであった。 1267 年 ペル シァ 人ジャ マール = ゥッ ディン が 万年 暦 や 渾天儀 • 

かく しゅけい 

測 星 儀 • 地球儀 • 測 天 儀な どを献 じて 西方 天文学 を 伝え, 1281 年に は郭守 敬ら に よ つ 
て授時 暦が 頒布され た。 授時 暦が 西方の 暦学に 基づいた かいな か は 疑問で あるが, そ 
の朿 U 激を いなむ こと はでき ない。 これ は 数学' 医学' 地理学な どに ついても 同様で あ 


—— 170 


中世の 世界 


る。 また 色目 人に まじって 多数の ョ一 口 ッパ 人が 中国 を 旅行した の も 元 代が 初めてで 

あった o マノ レコ = ポー 口  〔1254〜1324) は イタリアの ゥ、、 エニスの 人, 父 ニコ 口  = ポー 
口, 叔父 マフ- ォ = ポ— 《 に 伴な われて 15 才の時 陸路 中国に 向かい, 滞在 17 年 タビラ 
ィ= カンに 用いられて 中国の 官吏と して 各地 を 遊歴し, 元朝の 姫が ィル -力 ン 国へ 降嫁 
する に 従って 海路 帰国した。 その 「東方 見聞 録」 はヴ- ニスと ジ: ^ ノアとの 戦いに ジ、 
-  ノアに 捕え られて 牢獄で 話 したの が 記録 された もので, のち に 各国 語に 訳 されて 西 
ョ  一口 ッ パ 人の 東方への 夢 を か きたてた。 また モロ ッコ の大 旅行家 ィ ブン = バ ツー タ 
(1304〜77 年〕 もキ プチ ャク 'チヤ ガ タイ '元な ど を 遊歴して 旅行記 を 残 し, ローマ 
法王の 使者 モ ンテ = コ ル ヴ、 ィ ノ ひ 24ァ~1328 年) は フ ラ ン シ フ、 コ 派の 宣教師で, 大都 
に 留まる こと 30 年, 教会堂 を 設けて 宣教に 従事し, この 地で 死んだ。 

明 王朝 元朝 を 倒した 明 は まさに 民族 復興の 民族 国家であった。 ffi 界ゃ租 措 地 を 解 
消して 自分の 国土 を 自分で 歩む こと のでき た 今日の 中国よ り もつ と 大きな 解放で あつ 

た。 ただ その 解放 を だれが 享受し たかは 別問題で ある。 それ は宗敎 結社 出身の 明の 太 
祖が, 王朝 澍立後 宗教 結社に 最 も 弾圧 も 加えた ように, 彼が 一 小農 民 出身者に も かか 
わ らず 農民の 福祉に なんら の 改善 策 も 加えな かつ た 事実 をみ る だけ で 十分で あろう。 
元の 統治が く ずれ 出す と 華中 を 中心に 宗教 的 秘密結社が 蠢動 を 始め, 弥勒 • 白蓮 両敎 
団が 最も 多数の 下層 民 を 動員す る 実力 を 持つ て 表面化して き た。 矢 野 仁 一 博士に よ る 

か t  >* ラ  え 了 

と これらの 教団 は 弥勒 仏が 現世に 下 生して 救済 するとい う 救世主 思想 を 持ち, 思想 的 
に 革命 を 希求す る もの だとい う。 異 民族 統治 下に 抑圧され た 民衆が 教団に 慰安 を 求め. 
て 浄土 を 祈念し, 相互扶助 的な 組織 を 作って いたのが, 王朝 末に は 軍団へ 転化し 暴動 
の 主体と なる に 至った ので ある。 このよう な 教団の 指導 勢力 は 小 明 王 を 称し 宋朝 を復 
興す ると 号した 韓林 児で, これ は 紅 巾の 賊と 呼ばれた。 韓林児 輩 下の 朱 元 鐘 は 貧農の 
子で 僧侶と な つ て 餓死 を 免 がれた 境遇で あつ たが, 武功に よ つ て 頭角 を 現わ し, 1356 年 
南京 を 奪って 根拠地と し, 華中の 群雄 をし だいに 併合して 大勢 力と なった。 すなわち 
江 西. 湖北の 方面 を 陳ぶ 諒 から 奪い, 江 蘇 *浙 江の 方面 を張士 誠から とり, 小 明 王 を 
殺し, 68 年に は 国 を 明と 号して 皇帝と なった ので ある。 明の 国号 も 朱 氏が 建て 南方 か 

ら 起った 王朝の 意で 朱 明 盛 長の 語から と つた。 中国で はこの 明の 太祖から 大体 1 世 1 
元 (皇帝 1 代に 1 年号) が 確立し 明' 清 間 通じて 行われた ので, これから 年号に よつ 

て 皇帝 をよ ぶ 便利 もで き, 太祖 は^^ 帝と いわれる。  、 

洪武帝 は ただちに 華北' 華南の 統一 を 目 ざし, 68 年の 秋に は大都 をお と しいれて 元 
朝 を 滅ぼし, 四川に 独立した 群雄の 残存 を も 掃蕩して, ほぼ 中国 を 統一した。 モン ゴ 

こうらい 

ルは その 故郷に 退却して 北 元 帝国と して 高麗と 結び, 南 は 青 海から 雲 南へ と 勢力 を 残 
して 明 を 包囲し, 中国 奪回 を ねらって いたが, 太祖 は 満州 を 押さえて 北 元と 高麗の 溥 


. ~ 171 


I 資料 編 

絡 を 断ち, 雲 南 '青 海 を 経略し, 北 元の 主力 を 壊滅して 明朝の 基礎 を 固めた。 明 は 初 
め 長 安 を 首都に しょうと したが, 江 南 穀倉地帯 を ひかえた 南京から はなれず, 長子 を 

皇太子に, 第 2 子 を 長 安に, 第 3 子 を 太 原に, 第 4 子 を 北 平 (北京) において 北辺 を 守 
らせ, その他の 諸子 を 各地に 封 じて 藩屏 とした。 長子 は 早く 死し 太袓を 継いだ 嫡孫の 

恵、 帝 は 叔父の 諸 王の 力 を 押さえよう と して, かえって 北京の 燕 王 朱棣が 君側の 難を靖 
ん ずると 号して 軍 を 起し (靖 難の 師), 南京 はおち いって 燕 王が 帝位に ついた。 成祖永 
楽 帝で ある。 恵 帝 はこの 乱に 死んだ と も 南方への がれた と もい われ, その 行方に つい 
て 種々 の 説話が 生まれた。 永 楽 帝 は 自分の 本拠 北京に 都 を 移し, 度々 モンゴル を親征 

だつ たん  おいらと 

して 東の 鐽钽ゃ 西の 瓦 刺 を 破り, 満州 を 経略して 北 を 押さえ, 南 は 貴 州 をお さめ 越南 
を 討って 領土 を 広めた。 また モンゴルの 反抗 ゃチ ムールの 勃興で 陸上 西方と の 通交の 

さんば たいかん 

絶えた のに 代えて, 海上の 通交 を 開 こ う と して 三 保太監 (太 監は 宦官の 長) の 鄭和を 
して 数回に わたる 南海 遠征 を 行わせ, その 一部 は 遠く アラビア ゃァフ リカ 東岸に 達し, 

せいさし ようらん  えいがい 

南海 諸国からの 朝貢 を 促した。 この 遠征 は 費 信の 星 槎勝覧 や 馬 歓の瀛 涯勝覧 な どの 記 
録を 残し, 当時の 南海 諸国の 状勢 をう かがう ことができる。 これ は 西ヨーロッパの 海 
上 発展が ァ ジ ァ に 及んで くるより 70 年 ほ ど 早 か つ た 壮挙で あるが, 西ョ— ロッ パ では 
探検の あとから 商 粉 が 続く 市民の 活躍が あつたのに, 中国 はこれ を 欠いて いた ことが 
対比され ると ころであろう。 

さて 明 は 理念 的に は宋 朝の 復活で はあって も , 元の 残した 専制 主義の 経験 を 政治 や 
社会から 抹殺す る こと はでき なかった。 したがって 皇帝の 権威 は 強化され, 国家権力 
は宋代 以来 向上して きた 庶民 層 を 対象に 凑 透す るよ う になった。 唐 代 は 来の 律令で は 

みんりつ みん れい 

この 国家 を 運営す る ことができず, 新たな 明 律 • 明 令が 編まれ, 衞所 制と いわれる 新 
兵制で 軍 戸が 世襲 的に 兵役 義務 を 負わされ, 屯田に よつ て 食糧 を 自給す るた てまえ を 

とった。 法制と 兵制の 改革で 君主 胃 は 裏打ちされ, 農村の 自治 的な 徴税と 治安 をね 
ら つた 里 甲 制で その 威力 は 末端まで 行き届いて, 中国 は 新たな 組織 を 持ち 始め 明 清 60 

0 年間 維持され る こ と になった。 官僚 は宋 以来 身分 的な 地位 を 築いて 成長して きたが, 
明で は 宰相 を 廃し, 吏. 戸. ネぃ 兵. 刑. ェの 6 部 を それぞれ 天子 直属 機関と して 相 

互の 遙格を 断ち, 兵権 を 握る 軍 都督 府も 5 分して それぞれ 天子に 直結した。 天子 は官 
僚の 頂点に 立って これ を 手足と する ことができた 。末端 の 戸籍 や 土地 台帳 も 整備され 
てきた の は, 一つに は 国家権力の 増大 を 示す ものであるが, 一つに は 民衆の 成長と 豊 

か せい  ほうきょう よだい 

熟と を 背景に している。 されば こそ 明の 中葉 嘉靖 • 万 暦の 世 は 豊享予 犬の 称が あつ 
て, 民間の 富の 蓄積 は 遠く 西 ョ—" ツバの 同時代の 市民の 勃興 を 上回る ものが あつ 
た。 地方 産業の 盛況, 地方 都市の 発展, 国内経済の 活発 は, はるかに 宋代を 凌駕して 
空前の^; と なった。 しかし その しわよせが みな 自 から 農民 ことに 貧農の 上に のし か 

—— 172 —— 


中世の 世界 


かり, いったん 民族的 困難が 襲えば 救済し がたい 大多数の 農民 を かかえる こ と にな つ 

たので ある o 

いわば 明 代 は 同時代の 西ョ 一口 ッパ のように, ルネサンス も 宗教改革 も 必要と しな 
かった。 自由と か 平等の 欲求が どこから も 出ない 代わりに 他 民族 を犧性 とする 植民地 
も 経済 競争 も 起らなかった ので ある。 ところが 早く も 民族的 困難が 北虜南 倭の 形で 現 

われて きた。 15 世紀の 半ばに なると モンゴル はェ センと いう も のが 瓦 刺 を 統一して 強 

ど ぼく 

大 となり, 長 城 を 越えて 侵入し, これ を親征 した 英宗 皇帝 を 捕虜と する 土木 (地名) 
の 変が 起り, モンゴル 軍が 北京に 迫る に 至った。 これ を 防いで 長 城の 修築が 行われて 
現存の 万里の長城の 面目 を 作 り 上げた が, 瓦 刺に 代わ つ て 韃靼が 盛んに なると アルタ 
ン = カンに よ つて またも 北京が 危機に さ ら された。 かく て 15〜6 世紀の 間 は 北辺に モ 
ンゴル の侵寇 絶えず, これと ともに 東南 沿海 は 海賊が 横行し, 海浜ば かりで なく 相当 
奥地 まで その 略奪 に 悩まされた が, これ は 日 本人 に 中国 海賊が 多数 参加 した もので あ 
つた。 こ の 北 虜南倭 は いずれも 明が 国 初 以来と つてき た 鎖国^の 政策が 招い たもの 
で, 北方で 馬市 を 開いて 正常な 交易 を 許せば 北虜は 平穏と なり, 南方で 海禁 〔鎖国の 
こと) を 緩めれば 南 倭 は 自ら 終'): 息す るので あった。 ことに 海上 貿 易 を 取り締まって 密 
貿 J; を 盛んにして しまい, 密貿^ を 禁じて 倭寇 を 招いた こと は, 中国 自ら も密 出国が 
增加 し, フ イリ ピ ン に 移住 しての ち の 華僑の 基礎 をな す も のの 多 か つたこと と 合わせ 
考えれば, 中国 自体の 経済 事情に 多く の 因由 を 求める ことができる。 

この 北虜南 倭に ひき 続いて 明 末の 中国に は欧 人の 来航が みられ, 豊 臣^の 朝鮮 征 

ふらんき  まか お 

伐に 対する 朝鮮 救援が 起って く る。 明で 仏郎 機と 呼んだ ポル ト ガル 人が 澳 門に 根拠地 
を 作った の は 1557 年, スペイン 人が ルソン島に マニラ を 建設した の は 1570 年, オラン 
ダ 人が 台湾 を 占領 したの は 1624 年で あった。 中国 経済 に 銀の 流通が 増加 したの は 明 代 

で, 国内 産 は その 需要 を 満たす ことができず, 日本から 密貿易で 多量に 輸入され, 、ir ゝ 
いで メキ シコ 銀が マ - ラ 経由で お び、 ただ し く 流入した。 もちろ ん明は 銀の 見返 り 品と 

して 十分な 生絲 • 絹織物 • 綿布 • 磁器 • 茶な どの 生産 を 持って いたが, こ と に 元 代に 
南方から 江 南に 広がった 棉花の 栽培 は 明 代に 飛躍的に 增 加して, のちに 輸出品に も な 
り えたので あった o 西欧 人の もたらした 落花生 • と う もろこし' たばこ • じ やがい も' 
甘藷な どが たちまち 中国で 商品 作物 となった の も 明 社会の 活発 さ を 物語 つてい る 。地 
方 産業の 種類 も 豊富と なり, その 利益 を 土地に 投下して 地主 兼 豪商と なる 者が 多く, か 
つ これら の 層 か ら 中央政府の 官僚へ と 成り上がって ゆく 者が でき, 地方と 中央 を 結ぶ 
ため, 北京 や 南京な どの 都会に は 同郷 かつ 同業の 組合が 共同 して 設置す る 会館と か 公 
所と か 呼ばれる 建物 も 多く なった。 これが 中国 的な ギルドと して 明 末から 清 1 代 を 通 
じ て 国内経済 に 主要 な 役割 を 果たした ので ある。 徴税が 一条 鞭 法 といわれる 銀納 一本 


173 


I 資料 編 

で 主要な 租税 を とりた てること の 可能に なった の も, このよう なネ ±^ 的 背景から 理解 
されよ う。 

16 世紀の 末になる と モンゴルと 通じた 地方 官吏の 反乱, ビルマ 軍の 雲 南 侵入, 秀吉 
の文祿 • 慶 長の 役 (中国で は 合わせて 万 暦の 役と いう:) への 救援と 辺境 は 多事と なり, 
軍費の 支出 に 国庫 は 窮^ し, 官廷 では 東 林 党 (東 林 書院 という 私学 を 中心とする 学派:) 
と 反対党の 党争が はげしく, 宦官が これに 結んで 賄賂 横行の 乱脈 さ を 示し, 各地に 農 
民 暴動が 続発す るよう になった。 その 間に 満州に 新 勢力が 勃興し, 明 は その 対策 を增 
稅 にたよ るの みで, 財政 は 崩 壌の 一途 をた どり, 明 軍の 主力が 満州 軍 を 山海 関に 防い 
でい るすき に 乗じ, 李自成 • 張献忠 の 内乱が 起って, 北京 は 1644 年李自 成の ため 陥り 
明朝 は 滅亡した。 

明 代 文化 明 代は宋 代に 編成され た 官僚が 再び、 社会の 枢軸と なる 気運 を 持った が, 
官僚 を 鍛え る 思想が 朱子学から 陽 明 学へ 転化した こ と は, あるいは 官僚 を 送り出す 地 
盤の 変化と も 表裏した かと 疑われる。 成祖は 「四書 大全」 f 五経 大全」 「性理 大全」 な 
ど を 編集 さ せ ^学 による 思想 統一 を 計った が, 大全と いった 網羅 主義から は なんら 
躍動が 生まれず, 知よりも 行へ, 理論よりも 実踐 へと いう 宋の陸 九 淵の 流れ を ひく 風 

りょうち をき わむ 

潮が 高まり, 王 守 仁 (陽 明) に 至って 絶対的 唯心論に もとづく 致 良知すな わち 学問 
の 目 的 は実踐 によつ て 良知の 顕現 にある とする 陽 明 学が うちたてられた。 明 代 を 代表 
する 陽 明 学に 商業資本の 活況 や 民 富の 充実と 直接の 因果関係 を 求める こと は 困難で あ 
るが, 陽 明 学が その後 いわゆる 陽 明 左派と いわれる 系統の 諸 学者 を 経て, 李贄 〔卓 吾) 
のよう (こ 人心の 自由 自律 を 強調し 奔放 奇矯の 説 をな すに 至った 背景と, これ を 信奉し 
た 集団に は, あるいは 民間の 動向の 反映 を とらえうる かもしれ ない。 これに 対し 陽 明 
右派と いわれた 人々 は 修養 勉学の 正統 を 説き, 朱子学へ もどって ゆく 傾向 をみ せ, 左派 
の いわゆる 心学 横 流に 対抗 した。 こ の 朱子学への 復帰が 次の 清 代官 僚の 背骨 を 作 り 上 
げ, 日本の 江戸 期の 武家 倫理 を も 規定す るよう になった ので ある。 中 江 藤 樹* 熊沢蕃 
山' 大塩平 八 郎らが 陽 明 学者で あつたの は 江戸 期で も 異例であった。 

文学で 明 代 を 代表させる も の は宋元 以来の 小説の 大成で, 水滸伝 • 三国志 演義 • 西 

はくあん 

Mfl  • 金 瓶 梅な どの 長編の 完成, 今古 奇観 • 拍案 驚奇な どの 短編集の 創作が あった o 
これら はもち ろ ん 庶民の もので あつ たが, 官僚 層に はよう やく 科挙の 試験の 答案に 使 

はつ C 

われる 格式ば つ た 文体の 八 股 文が 定型 化して き た。 絵画で は 装飾的な 北 画と 文人画で 

とラ きしょ ラ 

ある 南画と の 2 潮流が あり , 美人 画の 仇英ゃ 文人画の^ 田 〔周) • 文徴明 • 董其昌 な 
どの 名手が 出て いる。 工芸で は宋 代の 磁器が 青磁 や 白磁の よ うに 無地で あつたのに 各 
種の 文様 を 施した 染付 •  ^^が 発達し, ^  • 嘉靖 • 万 磨の こ ろ は 絶品 ともいう ぺき 

ついしゅ ちょ ラ 

名作が 多く 産出され, 産地の 景徳鎮 は 非常な 繁盛 を 示した。 漆器 も 復興して 堆朱 〔雕 

- ~~ 174 —— 


中世の 世 界 

, ―  ち わし) 

^という:) や 螺鈿 や 日本の 蒔絵 を まねた 倭 漆 も 現われた。 
明 末にな つて 西欧から キリ ス ト 教師の マ テオ = リ ツチ 〔利 瑪竇) . アダム- シキ 

一 ノレ (湯^)  • フェルビースト C 南 懐 仁) な どが 陸続 渡来し, 当時の カトリ ッ ク教 

徒の 常と して 支配階級へ 呼びかけ, 要路の 徐 光啓 や 李 之 藻ら の 信者 を 獲得し, 明の 宮 
廷 にまで 影響を及ぼ すよう 〖こなる と, 儒教 や 仏教からの 排撃 運動 も 現われた が, 彼ら 
の もたら した 科学と 技術 と は た ち ま ち燎 原の 火の ごとく 広がり, 実用と 向上と を 旱天 
の 雨の よ う に 待ち望んだ 明 へ 幾重 も の 波紋 を 描いた。 本草 綱目 • 農政 全書 
開 物 • 神器 譜 . 園 冶な ど 中国に 新生面 を 開いた ばか り か 東アジアの 各地へ, ことに 日 
本に も 影響した 科学的な 思想 や 技術に は, みな 多^れ 少な かれ 西欧 文化の ,を 認め 

る ことができ るので ある。 開 物の 版本が 中国での ち に 絶え, 日本 版に よって 復原 

され, 近年 珍重され たこと は 有名で ある。 

周^諸国 家 モンゴルの 4 汗 国と ティム  一 ノレ 帝国の 興亡 について はす で に 略述 し た 
が, 古来 アジアの 内陸 を 縦横に 馳駆した 遊牧民 族の 活動 は, お 世紀 ごろ を 境と して 没 
落して しまった。 なお インド、 (こ はムガ ノレ 朝, 中国に 清朝と 大きな 征服 王朝 は 出現す る 
が, 内陸に 本拠 を 持つ 征服者ではなかった。 この こと は 世界史 を 原始^^から 古れ に 
かけて 西方の 勢力が 東漸し, 古代から 中世に かけて 東方の 勢力が 西 進し, また 中世 か 
ら 近代に かけて 西 力の 東 侵が 起った として, 波動 的に 把握す る ことの なんら 意味の な 
いこと を 示して いる。 なぜならば かっての 波動 は 遊牧民 族に よって 多く ひき 起された 
が, 近代 は 全く 異質の 勢力で あり, これ を 同列に 扱う こと は 歴史 を 機械的に あるいは 
運命的に みる ものに ほかなら ず, そ の 異質の 理解 こ そ 近代 世界の 課題 だか ら である。 
では なぜに 遊牧民 族の 没落が 起った か。 彼らが 農耕 地帯に 進出す る ごとに 柔弱と 腐敗 
が 起 つたこと は 中 国史の 例で 明 ら かで ある。 遊牧民 といっても 全く の 砂漠で 生活す る 
ので はなく, 牧草の 泉水に 恵まれた ところ を 本拠と したが, ここへ 農耕 民が 進出して 
彼 ら の 活動 地域が 狭 くな つたこと も 考えられる。 しかし 最も 重要な 理由 は 農耕 地帯の 
M に 商工業が 発達し, アジア 内陸の 通商 ルー トが 南方 海上 ル— トへ 乗り替えられて 
いった ことによ るので あろう o 

内陸 民族の 没落に 反して, 大陸 周辺国 家が 独自の 伝統 を 大き な 文化 源からの 文明 摂 
取の 上に 生かして 成長して く るのお 世界史 一 股の 傾向と なって く る。 西ョ 一口 ツバで 
近代国家と いわれる ものが, いかに こまごまと 発生して くる ことか, アジアで も 日本 
を 含めて 朝鮮' 安 南' シャム' ビルマな どが 独自の 歷史性 を その 伝統の 上に 生かして 

く るので ある。 たとえば 新羅 ゃ奈良 朝の 文化 は, 朝鮮' 日本に とって 忘れる ことので 
きない 古代の 花で あるが, 唐朝の それに 比しての 距離 は 都会と 田舎の 差の よ う に 等質 
とすべき ものが 多分に あった。 これが 高麗から 李 朝の 朝鮮と なり, 鎌 倉 '室町' 江戸 

一 175  ― 


I 資料 編 


の 日本に なると 本質的に 元 *明' 清との 距離が 大き く なる。 これ を 民族 や 国家の 年齢 

という 表現で 理解す る 人 も あるが 必ずしも 正しく はない。 地域社会の 生活に 独自性が 
強ま つてく るの は, やはり 商工業の 成熟に よる も ので はな かろ うか。 

朝鮮の 古代 統一 は 新羅に よって 約 260 年 保 たれた が, 半島 内に も 強豪なる 地方 権力 

こ う らい 

が 合 頭して 王 建と いう ものが 強大と な り , 開城 を 首都と して 国 を 高麗と 号した のが 
918 年, 1392# 成桂の 朝鮮に と つて 代わられ るまで 約 5 世紀に わたる 半島 統洽を 続 

けた。 こ の 間中 国で は 五代 • 宋 • 遼 • 金 • 元' 明の 交替が あり , 日本で 平安 • 鎌 倉 • 

吉 野. 室町の 転変が あって, ともに 中世 初頭の 激しい 動揺 を 見せた のに, 朝鮮が 安定 

していた こと は 朝鮮^ の 進 S の 鈍 さ を 示した も の だとい われる。 高麗 は 新羅の 国家 

体制 を 受け継ぎ, 古代 王朝 的な 安逸 を 維持し, 契 丹 や 女 真に 国土 を 侵されても これに 
従い, モンゴル 軍の 大侵 略に 全土 を 荒されても これに 逆らわず, 倭寇の 被害が 大きく 

なっても 避ける ばか りと いつ た 無為が, 王朝の 継続と 社会の 未熟 と 表裏 した もので あ 
ろ う。 しかし それ にもかかわらず 高麗 朝の 統治に 官僚の 制度と 私兵 を 持つ 武人の 党と 
が 成長した こと は, 半島に も 中世の 到来 を 思わし める ものが あつたが, モンゴルの 侵 
寇は 武人 勢力 を 一掃して しまった。 中国で 元が 衰え 明が 興る という 状勢 変ィ匕 は, この 
国に も 元 側に 立つ ものと 明 側に 立つ ものの 対立 を 起した が, これ は 大国に 隣接す る 小 
• 国の 常に 背負った 悲劇で, 元 を 助けて 明 を 討つ の議が 勝って 李 成疰を 主将と する 征明 
軍が 送り出され, 李 成桂 は 明に 勝つ 成算な く, かえって 反 元 向 明 を 唱えて クーデター 
を 行い, 推されて 新 王朝 を 開く ことにな つた。 これが 京 城 を 都と した 李 氏 朝鮮で, 高 
麗の 政府 官僚が 中央の 寄生 的な 貴族に なり 終った のに 対し, 新たに 地方 在住の 豪族が 

やん ばん 

政府 要人と なり 封建 色 を 濃く してきた。 これら 官僚 は 世襲され て両 班の 身分 を 作り, 
これに 次いで 中 人と いう 世襲の 技術 官 の 身分と 常 民 • 賤民の 4 階級が 形成され た。 

李 朝 は 建国の 初め 明の 属国 となつ て 治安 も ゆきとどき, 北方の 開発 も 進んで 文化 も 
充実した。 銅 活字に よる 多くの 印刷が 行われて, いわゆる 朝鮮 本の 特色 を 作り出し, 

おん も ん 

高麗 以来 発達 し た 陶磁の 製作 に は 中国 を 凌駕す る 名 品 を 産み , 朝鮮 文字 な る 讓 文が 音 
標 文字と して 母音 11 字 子音 14 字 を も つて 使われる よ う になった。 しか レ 日本に 併合 さ 
れる 1910 年まで, その 政洽は 多く 党争に 終始し, 前後 7 年に わたる ひ 592~98 年) 秀 
吉の 侵略と 明の 救援軍の 舌 L# に 国土 は疲幣 し, さらに 満州 軍が 2 回 侵略し, 19 世紀に 
入る と イギリス' ロシア 'フランス' アメリカな どに 脅かされ, 日本と 清朝との 国際 
対立 に 板 挾み に な つ て 苦難の 道 を 歩 ま な ければ な ら なかった。 朝鮮 民族の 歩んだ 困難 
な 過去 は, 深い 同情と 思いやり を 私たちに 起させる 。いや それだけで なく, 大きな 勢 
力に は さまれ 生き抜いた 道 は 私たちへ も 指針と 感銘 を 与える も ので あろ う。 
; また イン ト、、 -シナ 半島に 目 を 転ずる と, ここ も 朝鮮と 多く 共通した 政治の 困難 や 社 

—— 176 —— 


中世の 世界 


会の 未熟が 見い だされる。 こ の 地方 は 古来 中国で 百 越 と 呼ばれた 多種 族 が 居住した 
が, 漢民族の 南方 発展に 伴ない, しだいに 中国 化して 南端の 駱越 といわれた 種族が 南下 
しつつ 独立 的な 色彩 を 強めて いった。 これ も 中国の 五代から 宋へ かけての こ とで あ つ 

たが 持続的な 王朝 はでき ず, 内部の 争乱 や 中国 勢力の ため 斷続 的で, 1009 年 李 公蕴に 
よって 初め て 李 朝 な る • 国が 形成 された。 1225 年 李 朝に 代わ つ て陳 朝が 建て られた 
が, 元軍に 悩ま され, 元軍 も 南方の 風土に 悩んで 徹底的な 支配 は 持ち えな かつ た。 
1400 年 陳朝は 権 民の ため 奪われた が, 明の 永 楽 帝 は 陳朝を 支持して 属国 化に 成功 し 

れい 

た。 しかし 1428 年黎 利が ノ、  ノィを 都と して 大越国 を 建て, 初めて 独立国の 面目が 回復 
され, 領土 を 南方に 広め 黎朝 の^を 現出した が, 1526 年内 乱から 北方 ノ、  ノィを 中心 
とする 鄭氏 の 勢力 と 南方 ュ ェ を 中心 とする 阮氏 の 勢力 と が 争い , 黎朝は 虚位 を 擁す る 
に すぎなく なった。 こ の 南北の 争い に 新た に 西 山 党 と いわれた 阮文 岳の 党が 起 り , 1773 

年 広 南から 平 順の 地 或 を 占め, ユエの 阮 氏を鄭 氏と ともに 滅ぼし, ^いで 鄭氏 をも滅 
ぼ して 安 南国 王 となった。 しかし さき の阮 氏の 一族の 阮福 映が フ ランス の, を 得て 

西 山 党 を 平定し, 年 越南 国 を 建て 清朝の 属国と なり, フランス 勢力の イン ド-シ 
ナ 進出 の 端緒 を t> 開いた のであった。 このような 内部の 党争 と 隣接 大国の 進出 と は , 
安 南 ネ±^ の 発展 を もい つも 牽制して きたので あり, 今日 朝鮮に おける 南北の 対立, ヴ 
ェ ト ナム (越南) における 両 勢力の 抗争 は, きわめて 長い 歴史の 延長と して その 破綻 
を はっき り 示した も ので あろ う 0 

第 3 節 官僚 制 専制 国家 

清朝 インド、 における ムガ ノレ 政権 d 確立 は, インド 的な 前 近代の 結実で あつたよう 
に, 中国の 清朝 もまた 中国 的な 前 近代の 完成であった。 清朝 は 明 末に 訪れた 近代 社会 
を 思わせる 経済 や 思想の 自律 的な 発展 を 制 肘し, よ り 中世 的な あるいはより 古代 的な 
専制 ^を 作り上げた。 世界史の 各部 門 を 通じて 近世の 称呼が 用いられ, ム ガル も 清 
朝 も 近世で ある ことに 誤り はない。 しかし^ 復興 期 以後の 西ョ  一口 ッパの 近世が そ 
の ま ま 近代 を 志向 している の に 対し, ァ ジ ァ の 近世 は 時間 的に 現代に 近い という だけ 
で, 歴史の 内容 は 反 近代の 方向 を 示して いる。 この 点 本 文で は 近世と いう 称 
呼 を しいて 用いな かつ た ゆえんで, また 特に アジア 史 について これ を 強調した いと 思 
う。 安易に 近世と 呼ぶ こと はやさし いが, ム ガルの インドと 清朝の 中国と は, 江戸 期 
の 日本よ り はるかに 近世 的で はない ので ある。 歴史の スロ  一- アンド- ステ ッ ディ な 
歩調 を 信用す る あま り , 今日に 近い ものにす ベて 今日の 基礎 を 見いだ そ う とすれば, 
ム ガ ノレ • 清朝 • 江戸 を 中世 とする よりも もつ と 不正確で 不当な 理解が しい られる こと 

—— 177 —— 


I 資 料 編 

になろう。 これ は 今日 私たちの 周辺の 封建的 悪徳 を 排除 しなければ ならな い 私た ち 自 

身 の 意識 につな がる 問題で ある 0 

ム ガル や 清朝が 近代 を 圧殺した の は 征服 国家で あつ たため だと し, 日本の 江戸 幕府 
が 封建 を 再編成し 鎖国 を あえてし たの は 武家政治 の 延長だった からと する の も, やや 
結果論 的な 言い方で ある。 実は 安土. 挑 山に せよ, 明 末にせ よ, パターン 諸 王朝に せ 
よ, そこから すぐ 近 m 勺な 政治の 形 や 経済の 組織へ つながるべき もの はな かつ たの 
で, 当然の 帰結と して 皇帝 政治 ゃ慕府 政治が 成立し 継続した のであった。 ムガ ノレの 武 
力 や 満州 軍の 八 旗 や 徳川方の 軍勢が その 当時 選ばれた 担当 能力 者であった が, 選手の 

行動が すべて 妥当 だとな しえない こ と も 当然で ある。 事実 16〜7 世紀に なって なお ィ 
ン ドゃ 中国に このような 巨大な 征服 国家が 実現 した こと は 驚異で あ り , 西欧で ァ ジ 了 
社会に 停滞の 烙印 を 押した の も 無理 か らぬ ところであった。 こと に巿民 革命 • 産業 革 

命 後の 西欧 社会 は il® の 速度が 加わ り, その 目で 見る アジア の 古代 的中 世 的な 社会, 
しかも 倨傲で 尊大な 支配者 は谩 画で も あり, 憐愍に も 値する もので あったろう。 アジ 
ァの 敗北と 悲劇 は 起るべく して 起り, 自ら 招き 自ら 混乱した。 今日 ョ 一口 ッパの Ifcl 匕 
と 悲劇と がいかに 食い止められよ う と している か を 合わせ 考えて, 世界史の さす もの 
をより 深く 理解した いもので ある。 

清朝 は 満州 人す な わち 女 真 族の 建て た 中国 統治の 王朝で あ る o 満州 人 は ッ ン グー ス 
族で 狩獮を 主と し, 一部 農耕に も 従った もので, その 昔 中国に 進出して 金 朝 を 建てた 
同族の 子孫で ある。 明で は 蒙古と 同様 こ こに も 強大な 勢力の 生まれる の を 警戒して い 
たが, 明 末に その 圧力が ゆるむ と, 北満 州の 海 西 女 直, 南満 州の 建 州 女 直と もに 活発 
となり, 建 州の g 長 ヌル ノ、 チが 1616 年 女 直の 大半 を 統一して 国 を 後金と 号した。 やが 

しんよ ラ  , 

て 後金 は瀋陽 〔奉 天) を 都と し, 内蒙 古 を 征服して 1636 年に は 清と 国号 を 改め, 李 朝 
の 朝鮮 を 遠征して 背後 を 固める と, 山海 関 を 越えて 中国 本土 侵入 を 企て, 明 もまた 死 
力 を 尽く して ここ を 防衛した。 1644 年李自 成の 乱に 明が 滅亡す ると, 山海 関 を 守って 
いた 呉 三 桂 は 清 軍に 下り, これ を 先導して 北京に 入り, 3 代 世 袓順治 帝 は 都 を ここに 

移し, 李 自成を 滅ぼして たちまち 華北 を その 手に 収めた。 明朝の 一族 は 南京で 福 王が 

再興 を 図り, 桂林で 桂 王;^ 抵抗したり したが 相次いで 討滅 された。 

新 王朝が 建設され ると, その 政治 や^ S3 の 形が どう あろうと, 初期に 領土が 拡大し 

文運が 充実し 糸 己 綱が 張る こ と は 常であって, 新興の 気運が どんなに 人間に 希望 を 抱か 

せる か は 想像に 難く ない ところで ある。 新興の 清朝 を 主と してに なった の は 八 旗の 武 

じょ ラ さ 

力で あつ た。 八 旗と は 黄 '白 • 紅 • 藍の 正 旗と それに それぞれ 縁辺に 房 を 付けた 鑲旗 
との 8 旗 を 旗幟と する 軍隊で, 1 旗が 25 佐領, 1 佐 額 300 人, 6 万の 親衛 軍 を 作って 
いた。 満州 入 は 国民皆兵で そ の 社会 も 8 旗に 編成され, 軍事 • 行政 ともに こ の 単位で 


- ~~ 178 


中世の 世界 


運営され, 精鋭 をす ぐった ので あるが, のちに 蒙古 人 や 漢人 もこれ に 編入され る もの 
が あり, 蒙古 八 旗' 漢人 八 旗が 編成され, さらに 緑 旗 も糸且 熾された。 これらに 所属し 
たもの は 旗 入と して 一^人と 区別され, 自ら も 旗本 士族の 意識が 強かった が, 彼らが 
特権 を 維持す るた め 与え られ ていた 旗 地 はし だいに一 胶 人に 蚕食され, 自らの 遊惰と 
ともに 無力 化して しまったの である。 また 清朝 は 入 関 以前 (山海 関 突破 以前) から 多 
く の 漢人 を 登用して その 才幹 を 利用した こと は, 蒙古が 多く 契 丹の 遣 衆に たよった の 
と 比較して, 狩狨 民が 遊牧民より 本質的に 農耕 民への 親近 性 を 持ち, それだけ 農耕 地 
帯への 進出に 積極性の 強かった こ と も 想像され る。 もちろん その 故郷の 満州 は 封禁の 
地と して 漢人の 移住 を 許さなかった が, 背後から する" シァの 進出に 対抗す る ためこ 
れが 緩和され て, 移住と 開拓が めざましく なり, 清朝 は その 帰るべき 本拠 を 失った 
が, 增加 する 人口 を こ こへ 吸収す る こ と も できた のであった。 

清朝 は 中国 征服の 功労者で また 明の 遺臣で もあった 呉三疰 を 平 西 王と して 雲 南に, 

しょうか き  こう 

尙可喜 を 平 南 王と して 広東に, 耿仲 明の 孫の 精 忠を靖 南 王と して 福 建に 封 じたが, こ 

れらは その 武力と 伝統から 自然 北京から 独立す る 傾向 を 持ち, 第 4 代聖祖 康熙帝 は こ 
れを 廃す る 方針 を 決めた 結果, 前後 9 年 ひ 673〜81 年) にわた る 3 藩の 乱が 起った。 

清 軍 は た び た び、 苦境 に 陥つ た がつ い に こ れを 鎮圧 し, ここに その 中国 を 不動の も 
のとす る ことができた。 また 清朝が^: を 持たない のに 対し, 台湾の オランダ 人 を 追 
放して これ を 占拠し た鄭氏 1 族 (鄭 成功 は 父鄭芝 龍が 貿易商 と して 日本の 平 戸に 来て 
田 川 氏 をめ とり, その 間に 生まれ 長 じて 明朝に 忠節 を 誓い, のちに 明の 国 姓すな わち 

こくせん や 

朱 を 称する こと を 許された ので 国 姓 爺 一 爺 は 尊称 —— といわれた。 近 松 門左衛 門の 

こ く せん や がっせん 

净瑶璃 「国 姓 爺 合戦」 は 彼に 取材して 有名で ある。) の 反抗 を も 1683 年に は 鎮定し, 
余力 を 持つ た 清朝 はさら に 外 辺への 拡大に 向かう こ と になった。 すなわち 1689 年に は 
口 シァと ネルチンスク 条約 を 結んで 口 シァ 勢力の 東進 をお さえ, 黒 龍 江 流 或の ッング 
一 ス諸 部族 を ^S5 し, 西 モン ゴ ノレの ジ ユン ガ ノレ 部が ガ ノレ タンに よって モン ゴ ル統一 に 
進もうと する の を, 康熙帝 自ら 1696 年 これ を 征討した。 ジ ユン ガル 部 は その後 もチべ 
ットへ 侵入した が, r720 年康熙 帝に 駆逐され, 雍正帝 は 青 海 を 属領 化し チベット を も 
保護国 と し , 乾隆帝 は ジ ユン ガルの 内乱に 乗じて 1755 年 これ を 征服して ジ ユン ガ リ ァ 
〔準 部) を 属領と した。 なお 乾 隆帝は 準 部の 南方 東 トル キス タン (回 部:) を も 合わせ, 
準 回 両部を 新たな 領土と して 新疆に 初めて 中国 支配 を 確立す るに 至つ た。  ,' 
この 満州 勢力に よる 中国の 拡大が, 元朝の それと は 異なり, 中国 自体の 拡大と 同一 
の 意味 を 持った の は., 漢人の 流人 開拓が これ を 裏付けた からで, 雲 南' 貴 州. 西 康' 
満州 • 安 南 • 台湾への 移住 と 開発が め ざまし くな り, 従来の 土着民が 転落 して ゆく 状 
勢 は 各所に 展開した。 清朝 は 中国に 签 前の 大帝 国 を 開いた もので, その^ 力 は 元よ 

- ~ 179 —— 


I 資料 編 


り 強力で 永続し, 日本 を 除く 東アジア は ほとんど その 勢力下に 入った ので ある。 そし 
て その 中心 は 漢人 統洽 にあり, 漢人 ま た 清朝 を 支持す る こと で 大義 と 利益 との 名実と 

も 享受し うる と 信ずる に 至つ た 官僚 専制の 体系に あった。 初め 人 関 後の 清朝 は漢 

べんぱつ 

人 を 威圧す る ため 満州 風俗で あ る 辮髪 を 強要し, 総髪 を 残す もの は 首 を 残さず と 脅か 
し, 楊 州 1 城 を 血祭りに して 地方 都市の 反抗 を 窒息 させ, 満州が 夷狄 出身で ある こと 
を 論ずる の を 厳禁して 前代の 図書 を 改竄したり 禁止したり, ひいては 文字の 獄と いわ 
れる 些細な 用字の 末 を 捕らえて 朝廷 を 誹謗す る ものと して 惨酷な 処刑 を あえてす る 断 
罪 を しばしば 行った が,一 方満漢 併用 策 を 採って 特殊な 官位 以外 は 満州 人 • 漢人 を 平等 

に 扱い, 康熙 '雍 正 • 乾隆 3 代に わたって は, 多数の^ ff 書 を 編集して 中国の 伝統 文 
化 を 尊重 利用 するとと もに, 多くの 知識人 を その 事業に 吸収して これに 専心 させ, い 
わ ば 寛厳 二様の 方針 を 採つ た。 この 鞭 を 振る い 飴 をな めさせ る 手法で 結局 完成 したの 
は, 明 代より さらに 巨大な 官僚 璣 構で, 皇帝 を 頂点と し 官僚 を 手足と し 社会の すべて 
が これ に 奉仕す る 体制で あ つた。 

明 代に 地方 産業 を 背景 と する 地方 都市の 発達 は, 中国の 社会経済が 政洽 都市 中心に 
かたよつ たの を 全国的に 平均 化した が, 清 代に は その 傾向が より 進んで, 首都の 繁盛 

に 匹敵す る 江 南 諸 市の 膨脹が 見られ, 地方 産業 は さ ら に 地方 財力の 結集にまで 成長し 
ていった 。唐宋 以来 揚子江 下流 は 天下の 穀倉と して 「、浙江 熟すれば 天下 足る」 と 言わ 
れた ほどであった が, この 地方 はすで に 穀倉より も 木綿 '絹 • 茶な どの 手工業 生産地 

に 進み, その 入口 集中 を 補給す る s^t は 上流の 湖 広, ことに 洞 庭 湖の 干拓に よる 新田 
地帯と なって 「湖 広 熟すれば 天下 足る」 と 言い換えられ てきた 。かくて 江 南 を 中心と 
レ 広東 その他の 繊維 業 は マ 二 ュファ クチ ユア 経営と なり, 景徳鎮 の 陶磁, 雲 南の 銅, 
淮 南の 塩な どの 生産 も 規模 は 大き くな り, これらの 商工業 を 背景と し 会館 • 公所 を 導 
入 管と して 官僚の 中へ 割り込ん でく る もの はいよ いよ 増加した が, この 傾向 は 商工業 
が 市民の 中核と して 独立 的 地位 を 成長 させた 西欧 社会と 著しい 対照 をな している。 こ 

れを 最も はつ き り 示して いるの は, 18 世紀 中 ごろに 外国 貿 J; は 広東 1 港に 限る とて 広 

東に 集中した 国際 貿易で あるが, これ を 独占した 中国 商人 団の 公行 (Co-hong 広東 
13 行) は 莫大な 財 を 擁し, 自ら 官僚に 転化す るか, 官僚の ため 没収され るかして, 

ばい べん 

いわゆる 買 弁 資本の 性格 を 初めから 持つ ていた こ とで ある。 

清 代の 政府 収入の 大部分 を 占めた もの は 地 丁 銀で, 明の 一条 鞭 法 はなお 地租と 人頭 
税 〔丁 賦) の 2 本立てで あつたの を 丁賦を 地租に 組み入れて 1 本と し, そのため 従来 

丁賦を 避けて 隠されて いた 入口が 表面化し, 実際の 増加と と もに 急激な^ の 増加が 
見られた。 貨幣 は 引き続き 制 銭と いわれる 銅銭が 法定貨幣であった が, 銀が 秆量 貨幣 
として 一般化し, その 純分と 重量と によって 馬蹄 銀の 形で 流通した。 中国で 銀が 獎代 

—— 180 —— 


中世の 世界 


以来 し ば し ば 通貨 となった の に 西方 諸国 のよう に涛貨 とならず 〔日 本で も 涛貨 として 

行われた), 19 世紀末まで 銀塊の まま 流通した の は, 銬貨 とすれば 偽造が 激しかった 
からだと いわれる。 紙幣 さえ 最も 早く 流通した 中国で 高 単位の 銀貨が 外国 か ら 流入 し 
て そのまま 甩 いられ, 清 末に 初め て 外国 銀貨 に 摸して 自 国 銀貨 を涛造 したの は 興味 あ 
る 現象で ある。 おそらく 貨幣 や 財産に 対する 観念が 著しく ゆがめられる 社会 事情が 長 
年の 慣習 を 作つ たもので あろう。 純分 と 重量と を 一 々秆 量す るた め, 換算の 手数 は大 
変で, 全国的に その 専門 業た る^^ や 銀荘が 発展し, 外国 銀貨が おもに 洋銀 (メ キン 
コ 銀貨) の 形で 輸入され ると 貨幣 単位 も 複雑に なった 。銀 1 両 (リ ヤンと いえば 重量 
で テールと いえば 銀の 貨幣 単位と して 清 代に 呼び、 ならわされた。 テー ノレ はヒ ン ドウ 語 

に 由来 するとい う) は 10 銭, 100 分と され, 銀と 銅との 比価 は 常に 変動した が, 銀 1 両 
銭 550〜1200 を 上下して いた。 ところが 洋銀 は 1 ドル 貨幣が 普通で, 中国の 7 銭 2 分 
に 当た り , やがて これが 主と して 流通す るよ うになる と 銀 7 銭 2 分 を 1 または 1 元 
と 呼ぶ よ う になった。 また 銀 銅 比価の 変動 は 常に 農村に 不利 を しわよせされ たよ うで 
める o 

清 代 文化 清 代 は 旧 中国の 社会 • 政洽 • 文化の 集積と しての 表現であった。 したが 
つ て 民国の 作家 魯迅 のよ う に, 貧困と 悪徳と に 打ちのめされた 農民 はせ めて 牛馬の よ 
うな 生活 をしたい と 望んだ ものと みる。 牛馬に もしかない 貧農が 国民の 大多数で, そ 
れ に 鞭 う つ 土 豪劣紳 と そ の 上に 鎮座す る 特権階級た る 官僚と, 官僚の 総帥 としての 皇 
帝との 魏 者た ちが 華やかな 文化 を 生んだ ものと みる。 この こと は 程度の 差 こ そ あれ 
中国 歴代の 諸 王朝 下で は み な 同様で, 中国 も インド、 もまた 同様で あったろう。 た だ 民 
国と なって, このような 自覚が 文学者から 起った こと は, フランスの 啓蒙思想 家に 比 
ベら れ るし, 清朝 はまた フランス 革命 後に 見る ブ ノレ ボン 朝の 姿であった。 しかも 清朝 
の 盛時 は 遠く ブルボン 王家の それと 同時代で あり, その はなやか さも 共通して いた。 
中国に フラ ン ス 革命が 起ら なかつ たの は, これ を 引き出す 近代 精神が な か つ たから 
で, 「余 は 罪な くして 死す」 と 言った ルイ I6 世 を 非難で きないならば, 清朝の 諸 皇帝 

もき き 難され るい われ はなさ そ うで ある o 

清朝が^ の 秩序の 上に 乗って, さらに 満州 族の 権威まで 押しつける ために は, ま 
ず^ 学が 最も よい 思想で あり, これが 官学と しての 地位 は 江戸 幕府に おける と 同様 
ゆるぎの ない もので あつ た。 康熙 帝が を 尊崇し, ま た 中国 学 ともいう べき 学術の 
集大成に 熱心 だつ たの も 秩序の 維持に 主眼が あった。 も つ とも 皇帝の 名に よって 大部 

な 編纂 事業の 行われる こと は唐宋 以来し だいに 盛んと なり, 宋の 「太平 御覧」, 明の 
「永 楽 大典」 などに 先例 を 認められ るが, 康熙 *雍 正 • 乾隆の 間 は 最も 盛んで, 「唐熙 

はい 

字典」. 「子史 清 華」 ' 「分類 字 錦」 •  「佩 文 韻府」 などの 辞書類, さらに 大規模な 一種 


181 


I 資 料 編 

の 百科全書 として 「古今 図書 集成」 が 編纂され, また 古典た るべき 多くの 書籍 を 網羅 

して 収蔵す るた め 「四 庫 全書」 の 企画 も 起った。 しかし 五^ IE 義を 作った 唐 代 や 「四 
書 大全 I の 明初に 思想が 枯渴 したよう に, 清 初の 編纂が 一般に 評される ごとく 文運の 

盛大であった かどう か, これに 基づいて どんな 思想が 活発に なったろう か o フランス 

の 百科全書 家た ちが 啓蒙思想 家た ちに つながる のと は, お よ そ 違つ た もの だつ たと * 
わ た ければ な ら ない。 清 代^^ を 代表す る 風潮 は 明の 遺臣 を も つ て 任ずる 人た ち か ら 

"  こ えん 

起り, 儒学 を 中心に 史学 • 地理学 • 言語学 • 政洽 学の 各 分野に わたった。 それ は顏炎 
^  • 髮 業4  • 王 船 山 ら に 代表 さ れ, 陽 明 学の 観念論 的な 行き すぎと 好学の 権威主義 
とに 反発して 古典 そのもの を 実証的に 批判し よ うとし, 考証学と 呼ばれた。 普通 清朝 
が 政治 や 歴史の 批判 を 禁止 したの で, 逃避的 に 古典 批判が 盛ん になった ものと 解され 
るが, これ はすで に 明 末に 現われ た 思想 の 一体 系が 清 代の 環境 に 適応 して 成長した も 

けいとう たいしん だんぎよ くさい 

ので, 中期に 至って 恵 棟' 戴 震' 段 玉 裁ら を 輩出した。 
文学で は 詩文 は 引き 読き 官僚の 遊戯と なって 形式 化した が, 庶民的な 作品に は 名作 

きいん 一 

多く, 戯曲に 「長生 殿」 •  「挑 花 扇」 小説に 蒲 松 齢の 「聊斎 志異」 紀 ゆの 「閲微 草 里 
箠記」 などの 怪奇 短編集 や 「儒 林 外史」 •  「紅 楼夢」 などの 長編が あ る。 絵画 は 南画 

^     A  7  きき 

の 全盛期と な り 四 王 呉 惲と並 称される 王時敏 '王 鑑' 王翬' 王 原 添 • 吳歴 • 惲寿 平が 

あり, 石- i • 八 大山 人 ら によって さらに 自 由で 感興の 表現 に 重 き を 置 く 画風が 生 ま れ 

がい 

た 。 また ィ タ リアの カスチ リヨ— ネ (郎世 寧) オースト リアの ジ ッケル パステ 〔艾啓 
蒙) が 宮廷画家と して 西洋画 法 を 紹介した の は 異色と される。 北京の 紫禁城 ゃ康熙 • 

乾隆 ごろ 建てられた 郊外の ra 明 園な どの 離宮 は 王朝の 富 を 誇示した もので, アロー 号 
事件で 廃墟と なった ra 明 園に は パロ ック 式を模 した 洋風 建築 もあった。 陶磁器 ゃガラ 
ス 器な どの 華麗 さ も 宮廷 芸術 と して 発達 したため で, 他の 工芸 や 書道な どに ついても 
同様の こ とがいえ る。 文化 を 独占す る もの は 官僚と 宮廷で あり, その 嗜好 や 愛着が 美 
の 基礎に 横たわつ ていた。 しかし 庶民 芸術と もい うべき もの もよ うやく 板画 や 影絵 芝 
居, 日用 雑 器の 中に 芽ば えて, 明 代より やや 前進した あと をた どる ことができ るよう 
である。 それ は 宗教で も 既成 宗教た る 仏' 道 や 満州 貴族に 支持され た ラマ 教 などより, 
これら を 民間 信仰へ き 1 きずりお ろし た 混合 体が 生 き た 信仰 と して 盛ん となった ことに 
も うかがわれる。 キリス ト教 でさえ マ テオ = リ ツチ 以来の ィ ェズス 会が 天主教と して 
中国の 伝統に 沿うて 布教され たのが, イエズス会より 連れて 中国へ 渡来した 力 トリ ッ 
ク教の 宣教師が これ を 口  —マ 法王に 訴えて 禁止 させ, 中国 キ リ ス ト 教徒に 中国の 祭祀 
を 続ける こ と を 禁止す ると, 中国 側 もこの 処置に 対し キ リ ス ト教を 禁止す る 政策 を 採 
つて いわゆる 典礼 問題 を 起した が, 民間に 潜行した キ リ ス ト教は 天主と 道教の 神の. 王 
皇と を 同位と す る 信仰と な つ て 残存した ので あ つ た。 

—— 182 —— 


中世の 世界 


清朝 も 康熙 • 雍芷 • 乾隆の 盛大 をす ぎ, 嘉慶 時代に な ると 白蓮 教ゃ 天理教の 農民 暴 
動が 目立って く る。 次いで 道 光 時代に はァ ヘン 戦争の 打擊を 受け, 咸豊 時代 は 太平 天 
国の 大乱と なり, 同 治に やや もち 直して 同 治 中興と 呼ばれた が, 光 緒と なると 日 清 戦 
争 • 義和団 事件 と 重なって 滅亡す るので あるが, この 王朝の 囷難 に は 歴代 中国 王朝^ 

味わわなければ ならな かつ た 王朝 末の 不安 や 弛緩の ほかに, 中国 皇帝 政治 2000 年の 末 
期 症状が 重なって 現われて きている。 しかも これ を 引き起し たと 考え られる 欧米 勢力 
の 進出が あって, 困難 は 3 倍 化した。 これ を 一言に して言えば, 中国の 値 民 地 化と し 
て 後段に 説く ところで あるが, 窮 ^ 農民の 增加, 秘密結社の 蠢動, 財政の 困難, 紀 綱 
の 紊乱な どに 象徴され る 困難 は, 歴代 王朝の 多く 共通した 現象であった。 しかし どう 
しても さばき きれない 人口の 増加, 官僚 資本の 痼疾, 政府の 買 弁 的 性格, 近代 思想の' 

しゃっかん 

発達と なると 清朝が 初めて 經験 する 新たな 困難で, 外国からの 借款 や, 租借地. 租界- 
の 発生,  関税 や 鉄道 '鉱山 '港湾' 内 河 航行な どの 自主権 喪失 は, かっての 征服 王朝' 
下に さえ 見られな い 新た な 束縛で あつ た。 これら の 諸 要因 は 多 く 諸 列強から 無理に 掛 
し 付けられ たものと しても, 人口の 增 加と 官僚の 腐敗と は 少なく とも 清朝 自体の 問題 
で, しかも 皇帝 政治の 末路へ 持ち込んだ 重要な 条件で ある。 この の 人口増加 は あ 
るい は 世界的の 現象で あるか も しれない。 しかし 中国の 地方 産業が 発達して 清朝の 広 
大な新 領土で 裏付けられた 当然の 帰結と もい える。 19 世紀に 猪 仔 貿易と いって 労働者 
そのもの の享 | 出 ま で 行われ, アメリカ 大陸 潢断貌 道が 多 く 中国 労働者の 手に よった と 
いわれる の は, アフリカ 黒人 を奴隸 として 売買した ことに 匹敵す る 悪徳であった。 こ 
れが 清朝 皇帝の 仁慈に よ る 国内 安定の 結果で あ つたと すれば 皮肉な 歴史と い えよう。 
ま た 官僚が 幾 世代 も 封建的 身分 を 作 り 上げ, 官人 同志 相 守つ て 互の ボ 。 を 隠す 組織が. 
強固に でき 上がって, 嫉妬 や 陰謀, 賄賂 や 奢侈まで 美化され る 習慣 は 清朝に こそ 責任 
があって, その 退陣 だ け で は な か な か 帳 消 しにされ ない 中国の 困難 な g 症 として 残 ; 
したので あった o 


第 3 編 近代の 世界 


第 1 章 近代 精神の 発 

展 (186) 

第 1 節 文芸復興  186 

文芸復興. 人間 主義… 186 

ルネサンス 美術  ]90 

ルネサンスの 科学と 技術 192 

第 2 節 中央 無 権 囯冢… 194 

農民 暴動  194 

百年 戰 争..   195 

近代国家の 発生  196 

第 3 節 宗教改革  198 

異端 蓮 動  199 

ウィク リ フ  —- 199 

マルティ ン- ノレ タ ■  199 

農民と プロテスタント 200 

カル ヴィ ニズム  201 

フランスの ュグ ノ  一戰争 202 

ぽ 宗教改革'"  203 

宗教 的 政治輸 争 …… 203 
第 4 節 西欧 勢力の 拡大 205 

新航 igfiffi を 促進した 

亨产  f^Qr; 

新航 格と 陸の 発見 206 
略奪 • 征服 • 占領 …… 207 
新航袼 • 诲陸 発見の 結 

果 ま 
第 2 章 近代 社会の 成 
立 (208) 

篛 1 節 絶対主義  208 

フィリップ 2 世  208 

エリザベス 女王  208 

絶対主義 的 国家 機 溝… 209 
重商主義 政策  209 

ジ: n  —ムズ 1 世 210 

ルイ 14 世  210 

フランスの バロック 文化 211 
フランス 17 世紀の 文学 211 
フ レデ リ ッ ク 大王 …-" 212 

ョ— ゼフ 2 世  213 

ぺ— トル 大帝  213 

カザ リン 2 世  •••••  214 

-第 2 節 市民革命  214 


ド ィ ッ の 統一  249 

統一 後 ビスマルクの 政浩 250 

ロシアの 動向 •••••  251 

露 土餘  - 252 

米国の 南北戦争 ••   252 

i£ 代 科学' ……  •  254 

近代 思潮 … "••  256 

文芸 美術  260 

き 楽  一 26S 

哲学  —- 261 

史学''  265 

国民経済 学 …" … ……- 266 
第 5 節 帝国主義  267 

西 力 東 潮 269 

イギリス  -- 269 

セ ボイの 反乱  …、 269 

フランス  '270 

ロシア  270 

ァ メリ 力  271 

ノサマ 翻 - 272 

中国の 植民地 化  273 

地理 上の 探険''  277 

ァフリ 力の 分割  280 

第一次世界大戦  281 

ァ フ リカ. バル 力 ン 問題 282 

大戦の 勃発  283 

戦況  284 

ヴェル サイ ュ 条約…… 285 
第 3 章 アジアの 変 
質 (286) 

第 1 節 官僚主義の 崩壊 286 

官僚と 商人  286 

太平 天 @  288 

戊戌 CD 政変  290 

$ 亥 革命  291 

第 2 節 植民地の 独 

±mm  293 

国民 会議 293 

五 • 四 蓮 動  294 

大早' p  口   295 

トル コ • イランの 改革 296 


イギリス 革命  '… 214 

オリヴ ァ= クロムウエル 216 
クロム ゥヱル の 政治… 216 

名誉 革命  217 

イギリスの; HIS 地] 
とァメ リ 力の 对応… 218 

武力 抗争  •  219 

独立 館  219 

合衆国 憲法  220 

イギリス 思想と 啓蒙思想 220 
フランス 啓蒙 主義 …… 221 

旧制度  223 

革命の 勃発 -… -  224 

革命の 進行 〜••   225 

立法 議会  226 

ナボレ オン  …' 228 

大陸 封鎖 令  230 

ナボレ オン 法典 …" 230 


自由主義  …- 

思想 文 f 匕  

第 3 節 産業革命  

イギリスの 産業 • 産業 

-fcr"^r  

産業革命の 影響  

空想的 社会主義  

者 蓮 動  

改正 ま  

チヤ一 テ ィ ス ト  

穀物 s の 廃止  

丄 場 法  

マ ノレ ク ス  

資本主義の 発展  

第 4 節 国民 主義  

ウィーン 体制  

自由主義の 発展 

ギ リ シァの 独立  

' 月牟' p  口' 

ベルギーの 独立  

ボー ラン ドの 事情  

2^ 革命  

ナボレ オン 3 世の 政浩 247 
パリ- コ ンミュ -ン… 247 

イタリアの 統— 248 


13  6  790122223444  _.o  5  556«c 

3  3  3  334444444444444444 


第 3 編 近代の 世界 


第 1 章 近代 精神の 発展 

第 1 節 文芸復興 

文 宅 復鉀. &間 主^ 文芸復興 (Renaissance) と は, 16 世 糸 己 は 来 フランス 中心に 
音識 され, 啓蒙思想 家 を 経て 19 世紀 を 通じ 少しずつ 変化した 意味の 語で, 大まかに 曰 
えば, 14〜16 世紀 西欧で ギリ シャ •  口 一  マの 学問 芸術が 復興した となし, それ を 機縁 
と して 人間 中心の 文化が 新生した こ と を 意味す る。 最も 広義に 解 すれば 社会 • 経済 • 
政^. 文化, さらに は 宗教改革まで も 含む 多面 復 雑の 動向で あるが, 狭く 解 すれば, 
学 茅 • 文化, 特に 美的 文化 を 主と し, 人文主義との 異同ない し 関係 さえ 問題に する 
学夯も ある ほどで, さらに ルネサンスと 中世 文化との 関係に ついても, 両者の 異質 的 
差異 性 を 強調す る ブルク ノ、 ノレ トの ごとき 文化史 家と, 同質的 連続 性 を 重視す る 史年苕 
ら とに 分かれる。 ここで は 比較的 広義に 解し, 中世との 連続 性に 住 意して 概観す ると, 
/レネ サン スの 運動 はィ タ リアの 都市に 始まって 全欧に 波及す るが, すでに 北ィ タ リア 
では 11 世紀 ごろから 農奴解放が 行われ, 市民 的 自由の 獲得 は 早く, 同業組合の 連合 体 
が 自治 組織 を 成して いた。 十字軍 以後, 海港' 内陸 都市の 発達 著しく  , 初期 資本主義 
的 経 移の 発ぎ を 貝' た。 フロー  レンス Florence では, 13〜14 世紀に は 新興 市民階級が 
封建 貴族から 政権 を 奪い, 自治 都市と して "—マ 法王庁の 財政 金融 業務 を 担当し, 西 
^^国の 金融 商業 を MS した。 こ の 都市 を 背景 に I4 世紀の 初期 文芸復興が 展開す る 。 
15 世紀に は 市民 間に 大 市民' 小市民の 対立が 生じ, 貴族 階級 も 実力 を 回復し, 皇帝 党 
Ghibellin と 法王 党 Guelf の 争いが それにから まった。 これから 専制君主が 出現し 
たが, メディチ Medici 家 は その 典型で あ り , 同家の 保護の 下に は 世紀の 文芸復興が - 
開展 し, か く て 著 しい 貴族 趣味 を 帯び、 て きた。 このように イタリア の 諸 都市が 全欧に 
さきがけた こ と は, 十字軍 以来 地理 的に 東方との « に 恵まれ, 古代 都市 や 文化の 返 
物 少なからず, "—マ 法王庁の 所在と, ドイツ 皇帝の 南進 政策 や 東方の 形勢 変化の 影 
響, 並びに 言語 や 社会生活に 古代 ラ テ ン 的な 親近 性が あった ことな どが 考え られ る。 
16 世紀 《  —マ を 中心とする^ 復興 は, « 政治に 立つ 世俗化した 法王庁の 生活と そ 

—— 186 —— 


近代の 世界 


の 保護 下に ある もので あつ たが, こ の 世紀に は 外国 軍隊の ィ タリ ァ 侵入が 相次ぎ, そ 
の 政治' 経済が 義微 するとと もに, ィ タ リア^^ 復興 は その 種子 を アルプス のかな 
た, フランス' ドィ ッ • オラ ンダ • イギリス • ィ ス パニァ 等に 散:^ し, 開花せ しめつ 

つ 自ら は 漸次 衰亡に 向かつ た。 それ はィ タ リ ァ 都市国家の 偏狭 性, ^^国の 経済 • 政, 
治の 発展, 東方の 形勢 変化と 地中海 航路の 重要性 減少な どの 原因 を 数え る ことができ 

. よつ o 

14 世紀 中期 以降, ギリシャ •  n  — マ の 古典 を 蒐集 • 整理 • 校訂' 翻訳 • 講読 • 教授' 

して 古典の 精神 を 伝える ことが 始まった が, これ を 古典主義と 言い, かかる 学者 を 人 
文 主義者 Humanist と 称した。 彼ら は 古典の 中で 人間性の 完成' 強調 を 学び, や^ 
て 自由にして 尊重すべき 人間性 そのものの 高揚に 努めた。 この 人間性の 再発 見と 地理 
上の 諸 探検に よる 自然 世界の 拡大, 自然の 美と 意義の 再認識と は 文芸復興の 2 大要 素 
と 考えて よかろう。 したがって 人間性の 束縛 歪曲が 非難 攻撃され, 諷刺 嘲笑され ると 
ともに, 美術. 文学な どに 新生面 を 開き, さらに 生活 技術の 発明 発達 を もたらし, や 
がて 自然の 物 自体に 即して ゆぐ 精神 を 涵養して, 自 f ぶ 科学の 発達 を 促した。 かくて 旧 
価値の 動揺 • 新世界の 創建の 時期に ふさわしき, き わめて 多面的な 天才た ち を 輩出 し 
た。 しかし おらの 仕事' 生活の 多くが 専制 政洽 家, 法皇 庁の 保護に よった こと は, 人 

間 解放 を 個性の 独立たら しめ はした が, もと も と宗 活 そのもの を 批判す る ことな 
く  , 社会的 人間 としての 解放一 社会 変革 の 思想 にまで は 推進し なかった ようで ある。 
^に 名高い 人文^^ 者の 簡略な 列伝 を 紹介しょう。  . 

ダンテ Dante  Alighieri ひ 2ぉ 〜; 1321 年 イタリア) 彼の 作品が 民衆の 言葉で ある 
イタリア 語で 書かれ, 西欧 国民 文学の 先駆と なった こと, その , の 節々 が 中世と 文 
芸 復興の 境界に 立つ と されて いる こ と はすで に 触れた。 

ぺ トラ ルカ Petrarca ひ304〜74 年 イタリア) は, 若く して ラウ ラ Laura への' 
至純の 愛が 「抒情詩 集」 となり, ィ タリ ァ語を 駆使した 流麗 清新の 詩 風 を 示した。 の 

ち, 叙事詩 「ァフ リ 力」 •  r わが ィ タ リ ァ」 で 英雄 賛仰, 憂国の 情 を 歌い, 国民 意識の 

覚醒 者と された。 1336 年ヴ アン トウ— 山に 自然' 風景 鑑賞の 目的で 登った の は 近代的 
登山の 最初で ある といわれ ている。 

ポヅ カチォ Boccaccio ひ 313— 75 年 イタリア) は, 商業, 文学 修業, 役人 生活 

と 多様な • を 重ね, 晚年は 古典 研究 • 神学 論文 起草に 従事した。 「デカ メロ ン J  Deca- 
meron は, 13ぉ 年の 黒死病 流行の 際, フロー  レンス をの がれた 紳士 淑女が ある 別荘に 

会して 語る 形式 を かりて, 奔放 自在に 当時の 社会と 人間, ことに^^' 僧侶の 腐敗 を 
暴 » 刺した も ので, その 中世 的 宗教 的 色彩から 脱した 写実的 叙述 は 近代文学の 祖と 
いわれる o  (野 上 素一 訳 ^K35C 庫) 

—— 187 —— 


I 資料 編 


ラブレー F.  Rabelais ひぬ4 〜: 1553 年 フランス) は, 修道院 生活, リ ョ ン 病院 

の 医師と して 生涯 を 始め, 出版 事業に 手 を 染めた こと も ある。 「ガ ノレ ガン チ ユアと パ 
ン タグ リエル」 は 題名の 2 人の 巨人 父子の 物語で, 「よく 生まれよ く 教えられ たる 高 
'潔なる 人々 は, 正しき 人々 と 交わる 間に, 自然に 一つの 本能と 衝動と を 感じ, これに 
押されて, 有徳の 行いに 向かい, 不徳 を しりぞける」 とする 「自然 は 彼の 美徳の 師で 
ある」 との 考えから, 既成 秩序 • 固定観念 を排 して 新しき 人間 観 を 主張して いる。 ガ 
ノレ ガン チ ユアが テ レームの 僧院 を 建立した 際, 「世の 修道士 達 は, 三つの 誓約, すな 

わち 純潔 '清貧 • 服従の 誓い を 立てる の をつ ねと していた から, 本 修道院に おいて は, 
正当な 婚約 もで きる し, 各自が 財宝 をた くわえ, 自由に 生活す るよう に 定められた。」 
(第 52 章) とし 「彼ら一 同の 生活 はすべ て, 法令 や 定款 あるいは 規則に 従って 送られ 
たので はな く  , 全員の 希望と 自由意志と によって 行われた。 起き るの がよ かろ う と 思 
われた 時に 一同 は 起床した し, そうした いと 思った 時に, 飲み, 食い, 働き, 眠った 
ので あ る。 …… ま た そ の 他 何事 を 行 うにつ けても, 誰かに しいられる という こと はな 

かった。  一同の 遵守すべき 法規と は, ただ 次の 一項 目 だけだった。 欲する ところ 

を 行え。」 (第 57 章:)。 この 書 は 「文芸復興の 聖書」 と言われる。 (渡 辺 一夫 白水社) 

モンテーニュ Montaigne  (1553〜92 年 フランス) は, 南 フランスの ボルドー 近 
傍で 生まれ 同地の 高等 法院 勤務の 経歴 あ り , 36 才に して 引退 後 は 読書 思索 執筆の 生活 
に はいった。 その 著 「随想録」 Essais  I 〜! I 巻 は, 忠実に 自己' を 凝視 解析した もの 
である。 曰く  「読者に。 これなる は 嘘い つわりな き 書物で ある。 読者よ。 わたし はま 
ず もって 御身に 告げねば ならない。 わたし は此 書の 中で, 自家 自身の ためとい うこと 
以外に 何も 考えなかった と。 実際 わたし は, 御身の 役に立と う とか, 我が身の 誉れ を 輝 
かそ うとい うこと は 少しも 考えな かつ たので ある。  わたし はこの 書物 を, ただ 親 

族 朋友の ために 書いた ので ある。  も し 世間の 矗厦を 求めよ う ためで あつたな ら, 

わたし はもつ とおのれ を^? つたであろう 。 そして, 心、 した 歩みぶ りで まかり いづる こ 
とであろう。 わたし は 皆が, 此の 書の 中に, 自然な, 普段の, 誇張 も 作為 もな き, 単 
溯なる 風, 態に おける わたし を 見て く れ るよ うにと ねがって いる。」 と。 (モンテー- ュ 
「随想録」 関 根 秀雄訳 白水社)  -  . 

ロイヒリン Reuchlin  (1455〜1522 年 ド イツ) 彼 は 研究 の 自由の ため 法王 と 争つ 
たこと が ある。 

セル ヴ アン テス Cervantes ひ547〜1616 年 イス パ ユア) こ の 人 は 青年時代に レ 
パント 海戦に 従軍したり, 海賊に とらわれて 奴^^ 活を 送ったり したが, のち, 文筆 
生活の かたわら グラ ナダ で/ J  、吏 となった こと も ある。 そ の 著 「ドン = キ ホー テ (デ - 
ラ- マン チヤ)」 C 会 田 由 訳 岩波 文庫) は 騎士 生活に 憧憬す る 時代錯誤の 主人公 を 描 


188 


近代の 世界 


いて, くずれ ゆく 封建制度の 挽歌 を 歌う とともに, 滑稽な 冒険と 失敗 をく り 返しつ 
つ あく まで 自己の 理想 信仰 を 失わぬ 主人公に ノ、 ム レツ トと 対照的な 人間の 理想型の— 
つ を 打ち出し ている。 

エラスムス Erasmus ひ466〜 1536 年 オラ ンダ) 彼の 著 「愚 神 ネ暖」 (池 田 薰訳 
白水社) は 力 トリ ック 教会への 諷刺 を ひらめかし, 宗教改革に は 同情 的であった が, 
彼 自身 は 決して 行動 的の 人ではなかった。 「エラスムスの 使命と 人生 目的と は, 人類 
の 精神に ある 対立 を 調和 的に まとめる ことであった。 彼 は 生まれながら にして— つの 

^合 的な 性質, すなわち 彼 に似てす ベての 極端 を 退けた ゲ―テ の 言葉 を 借りて 言えば, 
『話の わかる 性質』 であった。 あらゆる 暴力 的な 変革, あらゆる 『さわぎ』, あらゆる 
舌 [^な 大衆 的な 争い は, 彼の 感情に とって は, 自分が 忠実に して 平和なる 使者と して 

身 を 捧げて いると ころの, 世界 理性の 明らけ き 本質に もとる も のであった 0J  「そ して 

彼と 同時代の 人々 は, この 多方面に 働く 和解への 意志 を 直ちに 《エラ ス ムス 的な る も 
の》 と 呼んだ ので ある。」 「なぜ 《エラスムス 的なる もの》 は, すべての 敵意の 不合理 
について, つとに 学んで いる はずの 人類の 中で, かく も 現実的な 力 を 得る ことが 少な 
いの か。 われわれ は 遺憾ながら 認めねば ならない。 単に 一般的な 幸福 をし か 見ない と 
ころの 理想 は, 決して 広範なる 大衆に 完全な 満足 を 与えない という こと を J  cs. ッ 
ヮ イク 池 田 薰訳 「エラ ス ムス」, 創 元 社 )。 フ ッ テン • ルーテ ノレと 合わなかった ゆえん 
であり, 「そこで 俺 は 言って やろう, お前の 気高い 知識 は 死んで いる。 お前の 与える の 
は 金 だが 俺た ちの 入用な の は パンな の だ。 大衆 は 飢えて いる。 …… お前の 宝物 を 持ち 

ffi せ ! 皆 を 食わせて やれ ! この 重大な 時代が 素顔 を 求めて いるの だ …… 」 (マイ ェ 
ノレ 浅 井真 男 訳 「フ ッ テ ン 最後の 日 タ」 岩波 文庫) と冇 動的 人間の 批判 を 浴び、 ている。 
チヨ ーサー Chaucer ひ340〜1400 年 ィ ギ リ ス) 彼の 眼が 現実に 向かつ て 開いた 
待 期の 傑作 「力 ンタ ベリ —物語」 (西 脇 順 三郎訳 河 出 書房) は Canterbury 寺院 参 
詣の 男女 29 名が n ン ドン 郊外の 宿屋に 落ち合って 騎馬 旅行 をしつつ, 恋 ざんげ や 自慢 
話 をす る 道中記で 写実的 諷刺 的な 眼で よ く 当時の 英国の 風俗 '習慣' 思想な ど を ユー 
モ ラスに とらえて いる o 

トーマス = モア Thomas  More ひ478〜1535 年 イギリス) は, オック ス フォー 
ド、 に 学び エラスムスに 師事した。 のち, ヘンリー 8 世に つかえて 大 法官と なり, 1534 

年 王の 離婚 問題に 当たり 旧教 的 立場から 王に^ ォし, 大^で 処刑され た。 「ユート 
ピア」 Utopia  〔本 多 顕彰 訳 岩波 文庫) は 一作 者が アン トヮ— 7° で 水夫から 理想 国ュ 
一 ト ピアの 風俗 習慣 をき く ことに 始まり, 同国の 共産主義 的 社会の 諸 制度 を 説き, 当 

代 社会制度の 欠陥 を 指摘して いる。 

シェイク スピア W.  Shakespeare  (1564 〜: 1616 年 ィ ギ リ ス) 英国 隨 一の 大 詩人 

—— 189 —— 


I 資料 編 


として 喧伝され る 彼 も, 'レネ サン スの 流れに はぐくまれた。 中部 イングランドの スト 
ラッ トフ オードに 生まれ, のち" ント、 、ンに 出て 俳優, 舞台監督 を 経て 劇作家と なる。 
「ハム レット」 (市 川 • 松' 顧 岩波 文庫) •  「 リ ァ王」 〔斎 藤 訳 岩波 文庫) •  「ヴ、 ェ 二 
ス の 商人 J  (中 野 訳 岩波 文庫) •  「ジ ユリア ス = シ 一 ザ一」 '「マクベス」' 「真夏の 夜 

の 夢」 •  「御意の ま ま 〖こ」 (坪 内 逍遙 訳) な ど 39 編の 名 戯曲 を 残し, 人情の 表裏と 運命 
の 数奇 を 多彩 多様に 生動せ しめ, 泣き笑いの 人生と と も に, 国民的 感情 を も 反映して, 
英文学の 金字塔と なり, 深く 広い 影響を及ぼしつつ ある。 

ルネサンス 美術 当時 偉大な 美術家の 輩出した 理由と して は, ィ タ リアの 地が 古代 
口 一 マ 美術の 遣 物 をた くわえて いた こと, メディチ 家 や 法王の 保護な どが あげられよ 
うが, さらに 住 意すべき は 美術家の 芸術的 地位の 向上と, 個性が 解放され 尊重され た 
ことにあろう。 彼ら は 中世 的 伝統 を 離脱し 個性の 創造す る 独創的 芸術の 制作 を 許され 
たので ある。 絵画 '彫刻の 建築からの 独立 も その 一理 由で ある。 数学' 科学の 発展に 
よ る 遠近法の 発達が^に 総合的に 採り 入れられ たこと も 見の がせない。 しかし これ 
らの 外的 原因 だけ を 寄せ集めても, あの 天才 達の 出現の 謎 を あますところなく 理解し 
えたと はな しがたい であろ う。 

さて, いわゆる トレ ツエ ント (1300 年代) の 美術 は ゴ シ ッ ク 風 か ら の 離脱 を 示す ジ 
ョ 、ソト Giotto  C1266C ま た は 76〕一 1336〔 ま た は 37〕 年) の 絵画に よ つ て 代表 され, 「島 

に 語る 聖 フランシス」 は 神の愛 を 非情の 動物に 及ぼす 聖 僧の 描写で 有名。 ただし この 
期で は 未だ 古拙 O 風が 残る がク ワット 口 ツエ ント 〔1400 年代) に 入る と にわかに 発展 

し, 中期 ルネサンス 美術の ra 熟 味 を 発揮した。 それ はまず 彫刻に 現われ, ブル ネ レス 

コ Brunellesco ひ 379〜1446 年) と ギベルティ Ghiberti  (1378〜1455 年;) がフロ レンス 
洗ネし 堂の 「第二の 門」 の 彫刻 を 競い, 敗れた ブル ネ レスコ は 建築に 専念す るに 至った。. 
ドナ テル 口  Donatello ひ 386〜1466 年) は 1400 年代 イタリア 彫刻界の 代表者で, 彼 を 

め ぐ つ て 多数の 名手が 輩出 して 写実に 長 じた。 ブル ネ レスコ は 建築に 専心して サ ン 一 
口 レンツ ォ寺ゃ フロレンスの 宮殿に 古典 風 を 用い 始め, アルべ ノレ ティ 等が これになら 
つた。 絵画で は マサ チヨ Masaccio ひ401〜28 年) が, 签 間の 表現と 構図の 統一に 特. 
色 を 示し, ジ ヨットの 持たなかった 投影と, さらに 完全な 入物の 性格 描写が あり, フ 
ロー  レンス. ルネサンス を一 貫す る 写実^ を 創始した。 「楽園 追放」 •  「貢 税」 な どが 
そ の 代表作。 ま た 1400 年代の 終 りから チン ケッ ヱント ひ 500 年代) にかけ パボヅ ティ 
チェ リ S.  Botticelli  (1447〜1510 年) が, 写実主義 的 自然主義 的 態度 を さらに 深め. 
た o「 ヴィ ナスの 觀」 は 中世 的 比喩 を 残して はいるが, 裸体画と して は 最も 大胆な 
最初の ものと 考えられる。 「春」 はう らら かな 春陽の 下, 透明な 薄 衣の 幾人 もの 婦人 像. 

—— 190 —— 


近代の 世界 


が, 柔軟 複雑な 曲線で 描出され, 自由にして 自然な 筆致 を 示す とともに, すでに 写実的 

猫 写から 出て 主観的 統一の 世界 を 現 成す るかと も 見られる。 1500 年代 は 古典主義が 盛 
ん になり, 中心 は ローマに 移り, 3 大天才 を 初め 巨匠 • 傑作が ル ネ サン ス の 最高 水準 
を 示した。 すなわち レオ ナル ド =ダ= ヴィ ンチ Leonardo  da  Vinci ひ452〜1519 年:) は 

きわめて 多面的な 天才で 絵画 彫刻 建築 作品の ほか, 科学者 • 数学者 • 技術者と しての 
業績 も 多い。 「岩窟の 聖母」 は 総合と 調和の 完成され たものと して 名高く, 構図の 革 
命, 顔面 全体の 筋肉の 躍動, 理知と 愛情の 総合した 眼, 明暗 を 巧妙に 使用した 賦 彩な 

どが 称されて いる。 「最後の晩餐」 は 油絵の 試作, 幾何学 的 構図 一 遠近法の 活用, 人物 
の 複雑な 描写, 精確な 心理描写 など 住 目すべき 諸 特質の 総合で あ り, 「モナ- リザ」 
く 「ジョ コン ダ」) は 「美 は 芸術で はない, 情緒の 発現が^ であ る」 と いう 彼の 考え 
方の 最もよ く 発揮され た 作品と いわれる。 (柳 亮 「レオナルド、 =ダ= ヴ インチ」 春 鳥 会 
「メレ ディ コ フス キー」 米 川 正 夫 訳 「神々 の 復活」一 レオナルド- ダ = ヴ、 インチ 岩波 文庫) 
ミケランジェロ  Michelangelo ひ475〜1564 年) 絵画 作品と して は, 「人間 救済の 
叫び、」 —— 画面に 活動す る 旧約聖書の 多数の 人物 は, 彼の 構想の 雄大 複雑と 筆致の 剛 
健, 特に 「アダムの 創造」 の アダム はた-く ましい 男性の 肢体と 自由な 姿態 を 示して い 
る。 「最後の 審判」 —— キ リ ス トは 筋骨た く ましく 秋霜烈日の 正義の 神に ふさわしく 描 
かれ, 男性の 美し さ を遣憾 なく 発揮して いる —— な どが ある。 彫刻 は 彼の 最も 得意と 
すると ころで, 「ダヴ 、イデ」 は 青年期の 傑作で ある。 筋骨 隆々 たる 両腕, 全身の 清 力 
を 集めた 広い 胸, 強力な 意志 を 示す 眉と 眼と 口, 何もの も 恐れぬ ダヴ、 イデの 熾烈な 戦 

闘 意識な ど を 刻みえ て 余す ところがない。 「モー ゼ」 はまた ra 熟 期の 大作で, 角の あ 
る 額, 深慮に くぼむ 両眼, 長い 鬚髯, その 中に 堅く 結ばれた 口な どに, 法律の 制定 者, 
僧侶, 戦士と しての モ―ゼ が 理想的に 表出され ている —— などが ある。 (羽 仁 五郎 「ミ 
ケ ラン ジ: ^。」 岩波 新書) 巨人の ような 強剛な 個性 を 大胆に 発揮した ので, すでに ィ 
タリ ア-ル ネ サン スの 絶頂 を 示し, 後代への 影響 はかえ つて パロ ック 的な ものの 萌芽 

を 潜ま しめたと いわれる。 ラファエル Raffaello  (1483〜1520 年) は, その 個性に お 
いて ミケ ランジェ n と 対照的と され, 前者の 男性的で 狂奔す る 荒海に 対して, 女性的 

で 小波 すら 立たない, 静かな 落ち着いた, 優美で 気品に 富む 湖水に たとえられる。 「聖 
霊 論争」 は, %^ 中央に 神 *子 • 聖霊 を 統一し, 下界 中央の 祭壇の^ に 聖霊と 論争 
しつつ ある 人 群れ を 描き, 地上 M 間の 論争 は 結局 天上 教会と 融合す る 運命に ある こ 
と を 示す とされ, プラ トンの 理念と ァ リスト テレスの 実体の 融合 を 表徴した 「アテネ 

の 学 堂」, 彼の 真髄 を ふるい;?、 くした 一連の 聖母 画な どが 代表作で ある。  '\ 
1500 年代の 建築 は 古典 形式 を 一層 根本的に 採用して, 建築の 美 そ の もの を 狙う に 至 
つて 絶頂に 違した。 ブラ マン テ Bramante  (1444〜1514 年) の セン ト -ピーター 寺院 

—— 191 —— 


|_資 料 編— 

は ロー  マ 式 形 寺院 形式が 採用 さ れ, 完成に そ の 後 百 数十 年 を 費や し, 多 く の 人々 がそ 

の 建設 設計に 協力した が, ぉ00 年代が 去る とともに 建築に おける ルネサンス 式 も しだ 

いに パロ ック 風に おもむく のであった。 ィ タ リア 以外の ルネサンス 美術で は, フラン 

ド ノレに ルーベンス Rubens ひ577〜1640 年;), 彼の 弟子で 1632 年ィ ギ リ スに 渡り チヤ 
一 ルス 1 世の 宮廷画家 になった ファン-アイク Van  Iyck  〔1599 〜: L641 年) らが 名高く  * 
形式の 誇張と 主観性が, バロ ック 様式への 推移 を 現わした。 終生, 光の 把握 を 課題と し 
て いわゆる 「レンブラント 光線」 に 特徵を 示した, オランダの レンブラント Rembra- 
ndt ひ 606〜69 年) は, 「天上の 光」 で 「空気」 を 描いた と 称され, そこに 強い 宗教 的 
主観と 理想的 気分 を 現わし, バロック のうちに 数えられる。 また ドイツに イタリアの 
画風 を 採り 入れつつ, 質朴. 真摯. 信仰. 思索, いかにも ト、、 イツ 的な 画境 を 開いた デ 
ユラ 一 Albreclit  Durer  (1471~1528 年:) は 版画に もす ぐれ, 「デッサンの 神」 と 呼ば 
れた ハンス = ホル バイ ン Holbein ひ 497〜1543 年) は, デ ユラ 一ら よりも 明快な 画風 
ぁ萄 揮した。 イス パ ユア 派の 祖ェル = グレコ El  Greco ひ 547〜1614 年) は, やや 神 
秘 的な, 印象的な, 沈鬱な 味 を 残し, ヴ エラス ケス Velasquez ひ599〜1660 年:) はフ 
ィ リ ップ 4 世の 宮廷画家で 遠近法, 明暗 描法, 光線 表現に 独特の 腕 を 持ち, その 弟子 
ム リロ  Murillo ひ617〜82 年) は 庶民の 風俗 写実から 宗教画に 移った。 これら ィ ス 
パ ユア 派に はすで に パロ ック 的な 華美な 技巧が 目立ち, 王侯 宮廷の ^1$ 風が 強く 見ら 

了レり O 

ルネサンスの 科学と 枝 術 人間 主義の 風潮 は, 人 意 人力が 現世に おいて 成敗 利鈍の 
大きな 原因と なり, 欲望と 情熱と 衝動と 狡知との, マキ ァヴ- リ Niccolo  Machi- 
avelli  C1469〜1527 年) の いわゆる 獅子と 狐の よ うな 生命力' 活動力 を 賛美 させた が, 
こ こから 近代の 人文科学 や 社会科学と 呼ばれる ものの 端が, 古代の 哲学 • 史学の 基礎 
の 上に 現われた。 文学で は 室 想と 想像の 翼に のって, いわば ほしいままに 人生 群像 を 
描けば よいが, 現実の 予測と 計量と に は 確実で 間違いの ない データ を 必要と する。 ヒ 
ユー マユ ズム の 古典 文化 研究に は, こ う した 歴史的 方法が 伴ない, 12,    3 世紀 以来 記. 
録 • 統計な どに 類す る 資料の 増加と と も に 古 文献 • 古 曹6# 類の 蒐集 • 探索 も 活発に な 
つた。 しかし, まだ 一 股に それら を 十分 批判し 考証して 活闳 する 或に 達して いたと は 
言えず, 少数の 考証 家の ほか は, おもに 古典的 文献に よって, 歴史 を 修めた。 マ キア 
ヴ エリら も, 元来 ダ ンテら の ごとく, フ 《 レンスと イタリア の 政治的 統一と 安定 を 切 
望して 活動した が, 挫折し, 人生の 現実が 力の 関係で, さまざまに M しつつ, その 
間にある 程度の く り 返しと 類似の 現象が, 幾分 必然的に 機械的に 規律され る こと を認 
め, 「君主 論」 •  「リヴ 、ィ ウスの 口— マ 史論」 •  「戦術 論」 •  「フロレンス 史」 など, 近 

—— 192 —— 


近代の 世界 


代の 政治学 や 軍事 学の 萌芽と なる 作品 を 残した。 古代 ローマの ような 共和制 を 理想と 
する が, 現状 は, 君主の 専制 を 認めざる をえず, 権力 を 権利と し, 勝利 を 正義と す 
る 考え方 —— いわゆる マキ ァヴェ リ ズムの 開祖と みなされ るに 至つ た。 実務家の ギッ 
チャル ディ-も 同 じ 傾向で, そ の 他 多 く の 史家が 出 た。 フランスの ジ ヤン = ボー ダ ン 

も, このよう な 歴史的 考察 と 国家 論 • 政治学 的 論 著 を 公に して, 人文科学 的, 政治 科 

学 的な 思 、想 を 進め た o イギリスの フランシス = ベーコン Francis  Bacon  (1561〜1626 
年) らも 似た 流れに 属し, 自然と 人生と を, ひとしく 偏見 を 去って 科学的に 観察す る 
方向 をと つたが, そ の 科学 性 は ,なお 旧来の 自 然哲 学風 の 曖昧さ を 多分に 含む もので 
あった o  • 

人文 • 社会的 方面と 相伴な つて 自^ m 学の 領域 も, この頃から 分化 • 独立の 歩み を 

始めた。 すでに 口 ジャー = ベーコン Roger  Bacon  (1214 ごろ〜 94 ごろ) という 修道 

士は, « 尊重の 精神と 自然科学との 知識に よ り スコラ 哲学の 思弁 的 学風 を しりぞけ 
て, 数学的 自»4 学 的 近世 哲学の 先駆者と なった が, ルネサンスの 興隆と ともに 天文 
学 を 中心と して, 数学 や 物理学 的な 考究が いろいろ 試みられた。 

地動説 地動説 はギ リ シァ 自然哲学 者 中に その 先駆者 を も つ ていたが, 15 世紀に は 
ィ タリ ァ人 ニコ ラス- クザ一 ヌ ス Nicolaus  Cusanus によって 復活, コペルニクス 
N.  Coppernicus  (1473〜1543 年) により 1530 年 ごろす でに 完成され たとい われる。 
ガ リ レイ G.  Galilei  (1564 — 1642 年) は 「天 動 地動両 説の 対照」 によって 地動説 を 
主張した が, 地動説 を もって 「不条理で, 哲学的に 虚偽な, 聖書に 全く 矛盾す る, 直 
接 的に 異端 的の もの」 とする" 一 マ 法王庁の 宗» 判に 付せ られ たの は 有名な 事件で 
あった 。彼 は 振子の 等時性, 運動の 第 1 及び 第 2 法則 を 発見, 近代 物理学の 始祖と さ 
れ るが, ケプラ一J.  Kepler  〔1571 — 1630 年:) は ケプラ —法則 を 定立し, ニュートン I. 
Newton ひ642~1727 年:) の 万有引力 発見の 先駆で あ つた。 (ガリ レオ- ガ リ レイ 今. 

野. 日 田 訳 「新 科 ^話」, ニュートン 阿部 • 堀 訳 「光学」 岩波 文庫, ホワイト 森 
島 訳 「科学と 宗教との 闘争」 岩波 新書) 

自然科学 的 考究の 前進と 並行 的に 新しい 技術が, ,• 技芸と からみ 合って 発達し 
た。 採石 • 冶金' 鍀銅' エナメル • 絵の具 • 硝子 • 熔解 '送風' 銀 造 • 起重機. 車輛. 
水路, 等 々の 技術の 水準が 高 まった こと を 忘れて はならない。 

三大 発明 火薬, 15 世紀に はすで に 砲隊が 組織され 16 世紀 以後 小銃が 実戦に 使用 さ 
れ, 小銃 を 持つ 歩兵 集団が 軍隊の 主力と なりつつ あった 。羅釗 盤, 中国から サラ セン 
に 伝わり, 彼ら は 13 世紀に は 地中海 航海に 用いて いたと いわれる。 印刷, グ —テンべ 
ルグ J.  Gutenberg  〔1399 ごろ〜 1468 年) は 木版 活字, 金属 活字 を 作り ラテン語 聖書 
を 出版した。 なお, 紙 も 中国, サラ セン を 経て 伝わり 13 世紀末に はョ 一口 ツバで 良質 

—— 193 —— 


I 資料 編 


の ものが 製造され, « の 皮革 紙 を 圧倒した。 

このほか 鍊金 術から 抜け出した 化学的 製品 や, 織物の 多種の 皿, 医術, 特に 外 
術 —— 当時 理髪師が これに 当たった —— の 進歩, ,g ^の 上達, 等々 を 想起し なけ 

れ ばなら ぬ。 このように 最 広義に 解され た ヨーロッパの ルネサンスに は, 地理 上の 発 
見 も, 宗教改革 も, 諸国の 中央集権 '国民 国家 化 も, 深い 連関 を 持って いるので ある。 

第 2 節 中央集権 国家 
農民 暴動 中世の 大 荘園で は, 荘園 領主 は 遠隔地の 荘園の 管理 を 種々 の 管理人に ゆ 

だね たが, 12 世紀 以来, 管理人ら が 潮 次 その 管理す る 荘園 を 横領し, 自 から 荘園 領主 
と なる 傾向 を 生じた ために^の 生産物 貢納 は, 本来の 荘園 領主に 確実に 入手で きな 
い 恐れが 生じた。 一方 領^^が 交易, 貨幣経済, 都市の 発達の 過程 内に 繰り込まれる 

度合が 強くなる に 従い, 生活必需品 '贅沢品 入手の ため, 貨憨 収入 を 便宜と する に 至 

り , 直営 地 耕作 • 生産物 貢納 より は, 直営 地 も 含めて 土地の 農民への 貸与 • 金納 に よ 
る 地代 収入に 重点 をお く ようになった。 農民 負担の この^: の 変化 は 農民に も 好都合 
であった。 彼ら は 余剰 物資の 生産に 力を入れ, 拡大す る 市場' 貨骼 経済へ 依存し, 貨 
幣 収支 を 便 とした のみでな く, 生産物 貢納の 場合に 毎年の ご と く 領主の ほしいままな 
賦課 増減に 悩まされ るより は, 一定 額の 金納の 方が 有利で あり, 直営 地の 強制労働 か 
ら の 解放 は , あらゆる 意 眛で彼 ら の 経済的 地位 を 向上せ しめた。 1346〜48 年 R シァ南 
部 に 発生して ほ とん ど 全 ョ—" ッ パ に 猛威 を 振る つた ペスト Black  Death は 農村 人 
口 を 減少 させ 〔その 程度に ついては ^"とか"^ "とか 種々 の 説が ある。〕, 農業 労働力が 
減少した こと は, 荘園 領主 をして 農民に 有利な 条件 を提洪 して 自領 間の 農民 を ひき と 
め, また 他領から 誘引 せんと 試みさせた。 この場合の 農奴解放 '賃銀 縢 貴 は 農民の 地 
位 向上に さらに 資する と ころが 大き かつ た。 この 傾向 は 火器 発明に 伴な う 戦術の 変ィ匕 
が, 騎士と しての 荘園 領主の 社会的 地位 を 動揺せ しめた ことと ともに, 彼らの 経済的 
地位の 低下 を 余儀なく した。 かくて 彼らが の その 地位 を 保持 回復 せんと すれば, 
この 大勢に さからう 反動的 態度, すなわち 農民に 従前の 悪条件 を 強制す る 態度 を と る 
ほかない。 そこで 賃銀 上昇の 抑止, 賦税の 重 課な どの, いわゆる 封建的 反動と な る 
しかし これ はも はや 農民た ちの 容易に 耐え うると ころで はな かつ た。 各地の 農民 
暴動が それ を 立証して いる。 

ジャ ワクリー (Jacquerie) の 乱 1358 年フ ラ ン ス 北部に 発生した 農民 ー撲。 
イギリス の 農民一揆 (1381 年 )0 イギリス では フランスと の 戦費の 加重 に 耐え る た 
め, 1380 年 16 才 以上の 全員に, 1 人に つき 4 ペン スの 人頭税 を 賦課す る ことに 決定し, 

—— 194 —— 


近代の 世界 


この 実施に 当たって • の 諸 税の滞 Ifi 分 を 一挙に 徴収し よ う とした。 これが 直接の 口 

火と なって ヮ ッ ト= タイラー Wat  Tyler  C  ?  ~1381 年) に ひきい られ た 農民一揆が 
ケ ン トに 蜂起し, これが 東南 ィ ングラ ン ドに 波及し, 一揆 は 各地で 荘園 領主 を 襲撃, 
荘園 文書 を 綱しつつ 口 ント、 、ンに 入り, 《 ン ドンの 一部 市民 も 合流して 国王 エド ヮー 
ド、 2 世に 農奴解放, 小作料 引き下げ など を 要請した。 国王 は 農奴の すべての 義務の 解 
除, この 件に つき 儀 牲者を 出さざる ことな ど を 一旦 約束した が, 巧妙な g で 主謀者 
を 殺害し 一揆 を 鎮定した。 この 一揆 指導者 中に, 「善良なる 人民 は, 財の 共有なら ざ 
る 限り, また 隸 農と ゼン トル マンの 存 する 限り, イギリス では 安楽に 生活す る ことが 
できない。 われらの 呼んで 領主と なす もの, いかなる 権利に よって われらより 偉大な 
る 人た ち となる のか。 彼ら はなん の ゆえ を もって われら を隸 属せし め る のか。」 と 自 
由と 平等 を 説いて ケン トの狂 僧と 呼ばれた ジョン = ポール John  Ball (?— 1381 年) 
がいた 0 

しかし 一般 農民 の 状態 は 以後 もなか な か 改善 されなかった。 西欧で 最 も 肥沃で ある 
といわれた フランスの 15 世紀 中期の 状況 を 聞 こ う。 「彼ら は 水 を 飲み, ライ麦で 作ら 
れた すこぶる 黒い パンと 馬 鈴薯を 食べて いる。 膩肉 少し, あるいは, 貴族, 地方 商人の 
食料' にと 屠殺され た 獣の 臓物の ほか は 肉 を 食べない。 …… その 女 や 子供 は 素足で 歩い 

ている。 …一 彼ら は 生活 資料 を 得る ため 余儀なく 土地 を ilfp し 開墾す るに すぎない。 
彼 ら は最 極度 の 貧困のう ちに 生活して いる。 しかも 彼ら は 世界 の 最も 肥沃 な 王国 に 住 

んで いるの だ。」 (J.  Fortescue) 

百年 戦争 経済的に は フラン ドル の 機業 地帯 確保の 問題で あつ たが, 直接 交戦 原因 
はフラ ンス 王位 継承 問題であった。 1329 年チ ャ  ーノ レズ 4 世 (在位 1322 一 28 年) 死後 フ 
ラ ンスの カペー 王朝 絶え, チ ヤール ズ 4 世の いとこ, ヴァ 口 ァ 家の フ ィ リ ッ プが 継ぎ 
ヴ ァ 口 ァ 王朝 を ひ ら い たが, ィ ギ リ ス王ェ ト、、 ワード、 3 世 (在位 1327〜77 年) は チヤ— 
ノ レズ 4 世のお いに 当たり, その 王位 継承 権 を 主張した ので ある。 経過, 第 1 期 ひ 337 
〜1360 年) エドワード 3 世 ノルマンディー に 上陸, カレー Calais 占領, 1360 年ブ ノレ 
チ ニイ 条約 締結。 こ の間ィ ギ リ ス皇 太子 ェ F ヮ 一 ド (Black  Prince) の 勇戦, ク レツ 
シー, ポア チェの 戦い 。第 2 期 (1364~1420 年), フランスに チャールズ 5 世 〔在位 
1364〜80 年:) 即位し 失地 を 回復。 その 死後 チャールズ 6 世 (在位 1380〜1422 年) の 王 
権 をめ ぐり 内紛 を 生じ, イギリス 王 ヘンリー 5 世 (在位 1413〜22 年) に その 虚を つか 
れ, ァゼン クールに 敗れ, 1420 年 トロア 条約 締結。 第 3 期 ひ422〜53 年), フランス 
王チ ヤー' レズ 7 世 (在位 1422~61 年), オルレアン Orleans に 包囲され, ヴ' ァ ロア 
王朝 危 磯に 瀕した 際, ジ ヤンヌ =ダ ルク Jeanne  ^Arc ひ412〜3] 年) が 現われ, 1429 

—— 195 —— 


I 資料 編 


年 包囲 をと いて 頹勢 挽回, 7 月 ランス Reims で 王の 戴冠式 挙行。 彼女 はの ち 捕ら わ 
れて ノレ アン Rouen で 焚 殺された。 1453 年ァラ スで 講和, 力 レー 以外の ィ ギ リ ス 占領 
地 はすべ て フ ラ ンスに 返還され た 0 

この結果, イギリス は 大陸への 領土 的 野心 を 捨て 本国 統一に 専念し, 戦費 調達の 必 
要 上議 会 を 重視した ため, 議会の 発言権 も 増大した o イギリス 国民の 経験した 最初の 
国民 戦争と しての 「百年 戦争 は, 封建時代よ り 国民 時代へ, 中世より 文芸復興 期への 過 
渡 期の 外交的 及び 軍事的 面であった」' (G.  M.  Trevelyan,    History   of  England) 
が, これにつ いだ 1455〜85 年の パラ 戦争 War  of  Roses は 赤 パラ を 紋章と した ラン 
カス タ 一家の ヘン リ 一 6 世, 白 パラ を 紋章と した ョ 一ク 家の リ チヤ一 ド、 の 王位 争いで 
あり, 全国の 貴族 を 両分して 争った ため 貴族 ははな はだしい 打撃 を 受けた。 ラン カス 
ター 家の ヘン リー 7 世 は ヨーク 家の 王 女工 リザべ スと 結婚して 両派の 融合 を はかり, 
議会 を して 彼の 王位の 正統 性 を 承認せ しめて CL485 年), チ ユー ダ— Tudor 王朝 を ひ ら 
いた。 かく して, 1265: 年 シ モン- ド = モンフォール Simon  de  Monfort (1206〜65 年) 
が 貴族 を 反 国王 軍に 結集して, 議会に きの 貴族 僧侶の ほか 人民 代表の 加入 を 認め さ 
せ, 下院 構成の 素地 を 形成し, 国家 財政の 負担に ついて 議会に 強い 発言権 を 持たせて 
以来, 百年 戦争後 一時^^の 声望が 增し たこと もあった が, 今や チュー ダ— 朝に 抑え 
られ て, むしろ その 専制 主義 正当化の 具に 利用され る ような ありさま となった。 
'フラ ンス でも フィ リ ップ 4 世が 法王 ボニフ アキ ウス 8 世と 寺 額 課税 問題で 対立し, 

フランス 出身 法王 を 別に ァヴィ 二 ヨンに 擁した 際, 国内の 支持 を 得ん として, 僧侶' 
貴族 • 平民 か ら 成る 三部 会 O&tatsg さ n さ raux) を 召集 (1302 年) した ころから 国家 統 
一に 努力し, 国王の 直 領地と 特権 • 収入 を 增 加して 諸侯 を 抑えた が, 百年 戦争に より 
この 気運 はます ます 進み, 力 レ —以外の 地 をィギ リ ス から 回復して 以後 は 特に 王権の 
拡張が 顕著と なった。 C ジ ヨセフ = カルメ ッ ト 出 俣 晃自訳 「ジ ヤン ヌ = ダルク」 岩 
波 新窨, シ ノレ レ ル 佐 藤 通 次 訳 「オノ レレ アン の 少女」 岩波 文庫) 

近代国家の 発生 

ィ ベリ ャ 半島 ィ ス ラム 教徒の 征服 をまぬ がれた 半島 西北 隅の キ リ ス ト 教徒 は 小 諸 
国 を 建て, 10 世紀 初め ナヴ アールの サン チョー Sancho 王に 統一され, 彼の 3 子 力 i 
それぞれ カスティ ラ, アラゴン, ナ ヴァラの 3 王国 を 翅 した 。 12 世紀に カスティ ラ 

の 征服 地から ポル ト ガル 王国が 分立した。 ナ ヴァラ は その後 大部分 アラゴンに 併合 さ 
れた。 カスティ ラは 13 世紀に イスラムの 首都 コルト ヴァを 占領し 内陸に 活動, ァラゴ 
ンは 海上に 雄飛した。 1469 年 カス テ ィ ラ Castile 女王 ィ サ ベル Isabella, ァラ ゴン 
Argon 王フヱ ルディ ナント Ferdinand が 結婚, 1479 年 両国 合併して イス パ-ァ 王 


196 


近代の 世界 


国と なり, 1492 年に は イスラム教徒 最後の 根拠地 グラナダ Granada を 占領し, 中央 
集権 国家と なった。 

口 シァ 8 〜 9 世紀 ごろ 東ス ラ ブ はダ - ユー ブ 河の 上 • 中流 绒を 中心に 原始的 農業 
を 主として 定住した が, 9 世^ e から ノルマンの 移住し きたる もの 多く, 彼ら は 漸^ そ 
れぞれ の 中心 居住地の^ 者と なり, 同 世 糸 珠 に は キエフ Kiev の^^ 者が キエフ 国 
を 建てた。 キエフ 国 は 東口-" マと 交易し, 10 世紀に は キリスト教 を 受容した が, 11 世 
紀苡後 遊牧民の 圧迫が 加重し, 1240 年 蒙古 軍が キエ フ を 占領 し, 1242 年キ プチ ャッ ク- 
カン 国 を 建立し, かくて 2 世紀 以上 蒙古 系 帝国の , を 受けた が, その 間 イワン 1 世 
Clvan) (在位 1328〜40 年:) 以来 合 頭した モスコー 大公国が 強大と なり, イワン 3 世 
(在位 1462~1505 年) の 時 蒙古の 勢力 を 追い 口 シァを ほぼ 統一した。 

ポーランド 10 世紀 後半 スラブ 族に よって 建国され, 以後 国勢 ふるい 14〜15 世紀に 
は ドイツ 騎士 団を 破り プロシア 地方 を 占拠, "シァ 西部に も 威 を ふるった。 しかし 国 
内で は 人種的 宗教 的 統一 を 欠き, 少数 諸侯 分立して 譲らず 中央集権 は 成らな かつ た。 

北 ヨーロッパ ユトランド半島と ス カン ディナ ヴ、 ィ ァのノ ノレ マン 人 は, 9 〜: L1 世紀 

に パル ト海 沿岸に 戦争 • 商業 • 海賊 的 活動 を 展開, デンマーク は カヌート Cmit 大王 
(在位 1014〜35 年) の^;, イングランド, ノル ゥ-— を も 魏 した。 1397 年 デンマ 
—クは その 国王の 下に ス エーデン, ノルウェー を 統合し, 16 世紀に 入って ス エーデン 

が 独立した o 

イタリア 先述 C 文芸復興の 項) の ごと き 地理 的 歴史的 条件に よ る 都市の 発達, 都 

市と 貴族の 抗争, これに 貴族 を 主と する 皇帝 党, 都市の 多くが 加担せ る 法王 党の 政争 

がから ま り , 13 世紀 後半 フ ラ ン ス王フ ィ リ ッ プ 4 世の 法王権 干渉 以後 は 都市 自治体 も 
ようやく 衰微の 兆を呈 し, 都市に 専制君主 制^ 出現して, 小 専制 国家 分立の 姿が 近代 
まで 継続した。 「第 15 世紀の 専制政治 について 一般に 知られて いると ころに よると, 
最も 犬なる 罪悪 は , 比較的小 さな 所領と 最も 小 さい 所領に おいて 一番 多 く 行われて い 
たのであった。 ことに, これらの 所領に あって は, 多数の 家族 各自が ことごとく 身分 
相応の 生活 を 望んで いたので, 相続の 争い も 自然 起 りが ち だつ たので ある o  」 
<小 な る 君主国〉 「は 世紀の 意味で 真に ィ タ リ ァ 的の 君主国 は ミ ラ ノの 公国に おいて 
完成され, その 統治 は …"- すでに 十分に 成熟 を 遂げた^^ 専制君主 政体であった。 と 
り わけ, ヴ イス コンテ ィ 家の 最後の 君主 フ イリ ッポ = マリア (1412〜1447 年) は, 最 
も 著明な, しかも 幸いに して 優秀な 記録の 伝わって いる 人で, 高位に ある 異常な 才能 を 
持つ 者の 恐怖が なしえ ると ころ は, いささか も 欠ける ところな く 完全に, といって い 
いほ ど その 中に 示されて いる o 国家の ある ゆる 手段と 目的と は, 彼 自身の 完全 を 期す 
るた めの 一点に 集中され て, ただ 彼の 残酷な 利己心 も さすがに 血に 渴す るまでに は 至 

—— 197 —— 


I 資斜編 


ちな かつ ただけ のこと だ。 …… 彼の 城に 足 を 入れ る ほ どの 者 は ことごとく 百 色の 目 を 
もって 監視され, なんぴと にも 外部へ 向か つて 合図ので きないよう に 窓際へ 立つ こ と 
ち, されなかった。 …づ く大 なる 王朝〉 〔ブルク ノ、 ノレ ト) (伊太利 文芸復興 期の 文化 

ブルク ハル ト 村 松, 藤 田 訳, 岩波 文庫) 0" ノ レネ サン スの 科学と 技術」 の マキ ァヴ、 ェ 

リ の 項 参照 )。 

ドイツ オット— Otto 1 世 は 962 年 法王より 神聖"— マ 帝国の 帝冠 を 得た が, 国 

家 統一 推進の た め 王権の 支柱 を 教会に もとめ, そ の 支配権 を 掌握せ ん と して 法王 と 衝 

: 突し, 他方 ヴ- ュスの 繁栄に 心 ひ 力、 れてィ タ リ ァ 支配の 念 を 起し, 歴代 ドィ ッ皇 帝の 
伝統 政策と なった 「イタリア 政策」 の 基 を ひらいた。 フレデリック 2 世 (在位 1215~ 

50 年) はか かる 伝統 を 負うて 法ち 統治 国 を も 含む 全 イタリアに 君臨し, 法王権 を も 抑 
圧せん として 精力 的に 対 法王 抗争 を 遂行した。 このため ドイツ 国内の 封建 諸侯, 特に 
分封 諸侯た る大 諸侯 を 懐柔す るた め, 帝国の 彼らに 対する 諸 権利 を 放棄し, 関税 権' 

貨幣 铸造権 '?W 設置 権な ど を 賦与した。 彼の 死後 その 家系 絶えて 約20 年間 「犬, 
時代」 Interregnum を 出現し, その 間 さらに 諸侯の 勢力 伸長し 1273 年ハプ スブ' レグ 
家 ルトつ レフ Rudolf が 国王に 遷 出された が, 国王 選挙の 実権 は 少数 大 諸侯の 手に 集中 
し, マインツ. ト リエ ノレ. ケノ レンの 3 大司教, ファルツ 伯, サク ソニァ 公, ブ ランデ 
ン ブル グ 辺境 伯, ボヘミア 王の 7 人が 遷帝侯 Electors となった。 彼ら は 1347 年ボ 
へ ミア 王 チャールズ 4 世 を 皇帝に 選出し, 1356 年 「金印 勅書」 Golden  Bull によつ 
て 彼らの « 所有した 諸 特権 を 法的に 確認 させた。 以後 ドィ ッ 諸侯 は 一方で は 皇帝 権 
カムら 独立し, 他方で は自 領内の 中小 封建 貴族の 勢力 一掃に 努め, 小規模の 中央集権, 
領土の 統一 化 を ねらった。 分 邦 または 領 邦と 称せられる ものが これで あるが, この 領 
邦 分裂 は 近代まで 鏃 続した。  . 

第 3 節 宗教改革 Reformation 

ルネサンス は イタリアで は 14 世紀 か ら 16 世紀 半 までと 見うる が, アルプス 以北の 諸 
地方で は 15 世紀から 16 世紀の 大半に 及び, しか も こ れと 相伴な つ て 宗教改革 運動が 起 
つた。 ルネサンス も 宗教改革 も 中世 脱却' 新 Bff^ 更生の 点で は 一致して いるが, ノ レネ 
サン スには 宗教改革 ほど 内面的 道徳的 自覚 はな く  , その 自由 は 享楽的で あり 宗教に は 
冷淡な い し 妥協 的で あつたと いえる。 人間 解放が 結局 経済的 解放 と 相 即す る ものと し 
て も 経済的 諸 条件の 相違に 基づ く 解放の 様相の 相違 は, さ ら に その他の 諸 条件との か 
らみ 合いに おいて 一層 複雑 となる。 山荘に 炎暑 を 避けて 清談に ふけり, 法王庁 と 小 専制 

5  , そラ 

国と を» ^^の 淵 藪と する 南欧と, 秋霜烈日, いささかの 妥協 も 許さぬ 宗教 的 態度 

—— 198 —— 


近代の 世界 


を もつ て 法王と 真の 信仰 を 争つ た 北欧と の 対比 は, ひとしく 人間 解放の 名で 呼ばれ る- 
二つの 様相と して 住 目 さ るべき であろ う。 

異端 運動 14 世紀に は フランス 王フ イリ ッ プ 4 世が n  — マと は 別 に 法王 ク レ メント 
Clement  5 世 を 擁して 法王庁 を ァヴ、 ィニ ヨン Avignon に 移し, 法 壬をフ ランス 王 
に 従属す る 大司教に すぎぬ ものと した 「ァヴ 、ィニ ヨンの 幽囚」 Avignon も Captivity 
(1309~1376 年:) の ごとき 事件が あつたが, 一方で は 信仰の 立場から 法王庁. 教会の 世 

俗化に 反対し, 教会 を 初期の 純 宗教 的 立場に 復帰せ しめんと する 違 動 も あり, 法王 は 
それ を 異端と して 激しい 抑圧 を 加え, 時に 君 侯の 武力 を 借りて 鎮圧した。 十字軍 時代' 
の 南仏の アルビ を 中心 とする ワルデ ン ス派の 征伐 ーァ , レ ピ ジ ョ 了  Albigenses 征伐の 
ごと きが それで ある 0 

ウィクリフ John  Wycliff  C  ? —1384 年) 14 世紀 中期 ウィクリフ が 教会の 郭清 と , 
口  ― マ 法王 か ら イギリス の 宗教 的 政治的 独立 〔英国の 成立 は 征服に よる も ので 法王の' 
下賜に よった も ので はない。 法王と 英国 王の 関係 は 双務的 主従 関係で はな く, しかも 
法 壬 は 英国 王 を 保護 していない。 英国 内の 莫大な 寺領 の 存在 か らいえ ば 法王 はむしろ. 
英国 王の 陪臣 たるべし。 等) を 求めて 伝道に 従事した。 この 派 は b ラード、 Lollards 
と 呼ばれた。 フス J.  Huss  (?— W15 年:) も 彼の 説に 共鳴した が 火刑に 処 せられた。 
かかる 運動 はいずれ も 聖書 中心 主義で 神の 言葉と 個人 を 直結し 仲介者た る 教会 を 否定- 
す る  もので あり,   また 一方 広範な 農民 暴動 を 刺激した が, これ は 西^ 建 制度の 一典 
型た る n  —マ^への 非難が, 封建 制の 最下 層に いる 農民に 訴え る ところ 多 かつ たた 
めであろう o 

マルティ ン = ルター M»  Luther  (1483〜1546 年:) エル フル ト 大学 在学 中 ァ ゥ ダ- 
ス ティ  ン派の 修道院へ 入つ た 彼の 回心に ついては 種々 の 所 伝が あるが, 彼が 修道院で 
得た の は 「信仰に よる 義認」 という 宗教 的 根本 観念であった 。人 は その 修行' 善行に 
よ つてで はな く  , ただ 神と キ リスト の 恩寵 を 信ず る ことによ つ て義と される と。 法王 
レオ Leo 10 世 (在位 1513〜21 年) が 免罪符 を 販売し, その 代理人 修道 僧テ ッ ツユ ル 
Tetzel が, 1517 年 サクソ ユアで これに 従事し 始めた 時, ルター は ウィッテン ベルグ 
Wittenberg のネ 瞎 堂の と びら に 免罪符 販売 反対の 95 か条を 掲げた。- 「ィ 二 ス: r キ リ ス 
トが 『懺悔せ よ』 と 言い 給う の は, 信者の 全 生活が 懺悔で なければ ならぬ という 意味 
である …… 纖悔の 言葉 は 儀式 (聖 礼) によって は 理解され えない …… 法王 は 自分自身 
が 課した 罰 だけ は 許す こ とがで き るが, その他 はいかな る 罰 を も 許す こ と はでき ない 
…… 免罪符に よって 祝福 を 得る と 信ずる もの は 免罪符 を 与え る ものと とも に 永久に 呪 
われた ものである …… 真に 悔い改めた キ リ ス ト 信者 は 罰 や 罪から 完全に 許 されて い' 

—— 199 —— 


i 資 料 m_ 

る。 たとえ 免罪符が なく とも 許される ので ある。 一… 免罪の ために 金を投 ずる 者 は 法 

の 免罪 を 得ないで, かえって 神の 怒り を 得る も ので ある こ と を 知らねば ならぬ。  

^^の 真の 宝 は 神の 優越と 慈悲と を 伝える 福音で ある。」 と。 

1520 年 法王 は 彼に 破門 状 を 出した が, 彼 は そのころ, 宗教 的 権力 を 革新す るた めの 
布 民 的 権力 を 主張し, 世俗の 政府が この 権力 を 実現すべき を 切論した 「ト、 、イツ 国民の 
キ リ ス ト教的 貴族に 告 ぐ」, 教会の 諸聖 礼式に 甚大な 打撃 を 与えた 「教会の パピ °  - 
ァ 捕囚」' 「基督 者の 自由につ いて」 (石 原 謙 訳 岩波 文庫) など を 書き, 破門 状 を 焼 
いて 決意 を 示した o 

1521 年 皇帝 チヤ 一 ルス 5 世に 召された ノレ タ— は ウォルムス Worms にお もむ き皇 
帝の 前で 対論 者 ト リ エル 大僧正 顴問ェ ック Ecke と 討論した。 席上 自説の 取り消し を 
-要求され たが 固く 拒んで 「余 は 断じて 余の 説 を 取り消さない。 余 は 聖書に よって かく 
説く ので ある。 余に は 良心が ある。 良心に そむいて 事 をな す は 邪悪で あ り 危険で あ 
る。」 とし, 皇帝から 法律の 保護 を 奪われた。 以後 皇帝 側と ルターの 間に しばしば 会 
見が 行 われた が 妥協 は 成立 しなかった。 

農民と プロテスタント '当時 ドイツで は 諸侯 は, 彼らの 反 皇帝 反 法王の 立場と ルタ 
—の 立場 を 結び付 けんとし, 諸侯の 強大 化と 封建的 地盤の 動揺に さ ら された 騎士た ち, 
封建的 負担に あえぐ 農民た ち は, ルターの 運動に 解放の 福音 を 直感して 蜂起した。 す 
なわち ジ ッ キ ン ゲ ン Sickingen, フッテン Hutten ら の 指導した 騎士 戦争 〔1522~23 
年), 過激な 再洗礼 紙と 合体した トマス =ミ ユン ツアー Thomas  Miinzer の 率いる 大 
農民 戦争 (1524 — 25 年) などで ある。 後者 は 「 …… 神はィ ス ラエ ノレの 子た ちが 彼に 救 
い を 求めた とき それ を き き 入れ 給い, ファラ ォ— の 手よ り 救い 給う たで はない か ? 
彼 はこん にち 彼 自身の 子 を 救いえない であろう か? いな, 彼 は 彼ら を 救い 給う であ 
ろう。 しかも 急速に。 それゆえ キリスト教徒の 読者よ, したの 箇条 を 住: 1^  く 読み, 
しかるの ちに さばけ …… 」 と 宣言し 「農民の 12 か条 J  C1. 共同体 は それぞれ その 牧師 

を 選出し, 適当なら ざる 場合 はこれ を 退任せ しめる 権利 を 持つ こと, 2' 僧侶に 納付 
すべき 穀物に よる 10 分の 1 税は 認める が, 家畜 を もってする ものに は 反対, 3. 農奴 
に 自由 を 与える こと, 4.  5. 森林で 狩狨 • 樹木 伐採の 権利 を 認め る こと。"^.  8. 過 
'重の 賦役, 賦課への 反対, 9. 新法 〔《— マ 法) を 廃し 旧法 (ゲルマン 法:) 復活の こ 
と, 10. 富裕 市民に よる 土地 囲み 込みへの 反対, 11. 農家 寡婦に 対する 借地 相続税の 
撤廃, 及び 「第 12 に, もし ここに かかげた 箇条の ひとつない しそれ 以上と がわれ われ 
の 信ずる ところと 異なって 神の 言葉と 一致 しないよ う な ことがあれば, それが ほんと 
うに 神の 言葉に 反する という こ とが 聖書の 明確な 説明に よって 証明され る やい なや, 
おれ われ は その 箇条 を 喜んで 撤回しょう …… 」) の 要求 を 掲げた。 ルター は フッテン 

—— 200 —— 


近代の 世界 


の 呼びかけに 応じなかった が, かって 僧侶 諸侯に, 領内 農民の^ SB を改 むべ く 勧告し, 
当初 は 一 摸に 好意的で あつ た。 しか し 一 摸が 「僧侶 や 領主の よ う な 暴君 を 痛撃せ よ 。 
共産主義 はすで に 使徒 時代に 要求され た ごと く, 私有財産 を 悪と し 断然 排斥され たの 
だ。」 と し, 神の 前での 全 階級の 絶対的 平等 を 主張す るに 及んで, 諸侯 擁護の 立場 をと 
つた。 当時の 全般的な 社会的 経済的の 諸問題との 関連に おいて, 彼の この 立場 を その 
階級 性から 考察すべき であるが, 同時に 当時の 政治的 現実 関係 を 重視すべく, かつ ノレ 
タ— の 人間 認識の 根本に 「外的な もの はいかに 名づ けられる にもせ よ, 決して 入を自 
由に も しないし 義た らしめ る こと も できな いのは 明白で ある。 なぜと いう に 人の 義も 
自由 も, また その 反 文 ォの悪 も 束縛 も, これら はいずれ も 身体 的で も 外的で もない から 
である。」 〔基督 者の 自由) という 観念の 強かった こと も 見の がせぬ ところであろう。 
新教 派 諸侯 は 皇帝 チ ヤー ルス5 世 に 抗議して シ ユマ ノレ カル デン Schmalkalden 連 
盟を 結成し 旧教 派と 対立した が, 皇帝 は イス パニァ 王で もあった し, 当時 イタリア か 
ら フラン ス 勢力 を 駆逐す る た め 法王と の 提携 を 必要と し, 対外 的に フランス. トルコ 
に 対立し 国内 統一に 迫られ, 対 ルター 派 政策 も 一進一退した。 その後つ いに 1555 年ァ 
ゥグス ブル グ Augusburg 国会で 諸侯 *都 市の 信仰の 自由と 新旧 両 教徒 〔カル ヴ、 イン 
派 を 除く) の 同権 を 承認した。 しかし 自由な 選択権 を 諸侯' 都市に 認めた のみで, 人 
民の 個人的 信仰の 自由に は 及ばず, かつ 世俗 勢力 間の 取り きめで 口 一 マ 法王 も あずか 
り 知らなかった。 が これによ つて 1517 年 以来の 宗教 的 紛争 は一 段落 をき たした。 

カル ヴィ ニズム Calvinism    ノ ヽプス ブルダ 家の 支配 下に あつ たスィ スは 13 世 糸 己 末 
以後, 同家の 誅 求に 抗 して^: 運動 を 続け, 15 世紀の 初め 神聖 n — マ 皇帝から 自治 を 承 
認 された。 同地 はダ ニュー ブ 'ライ ン両 河の 連絡 点と い う 交通の 要路に あたり, 商工 
業 • 都市が 発達し 独立 自由の 精神に 富んで いた。 16 世紀 初め ッ ウィン グ リ Zwingli 
ひ484〜1531 年:) が チューリ ッヒ における 免罪符 販売 を 攻撃し, 以後 改革者と して 同 
市の 指導に 当たった ことがあった。 かかる 土地に, フランスで 生まれ,  ュ フス ムス • 
ルタ— の 思想 的 感化 を 受け, その 思想の ゆえに 迫害され た ジョン = 力 ルヴ、 イン John 
Calvin  (1509〜63) がの がれきて, ジュネーブ において 同市の— 改革に 従事した。 その 
思想 は拫本 的に は ルタ— と 一致す るが, より 積極的で あり, ^'熱烈で 神 は 全く 絶 
対 至 厳, ただ その 下に かしこみ 従う ほかな しと された。 神 は ある ものに は 永遠の 救済 
を, ある ものに は 永遠の 滅亡 を 約束し, この 予定 はいかなる 善行 を もってしても 動か 
しえない 〔二 予定説)。 人 は た だ 自己が 選ばれ る こと を 信じうる のみで あるが, 選ばれ 
た 者た る 確信 は, 現世の そ れ ぞれの 職分' 職務に 忠実で あ る ほかに はない。 彼に よ れば 
現世の 生活 は 神の 恩寵 を う る 第一歩の 人間 義務で あ り , こ こから 中世 以来 非難され て 
き た 営利 • 蓄財 • 高利 貸付な どの 経済 行為が, 道徳的に 実践 されれば 認容され うる 行 

—— 201 —— 


i 資 —料 

為と された。 この 教義 は 自己の 努力に より 経済 生活 を 営む 商工業 階級に 歓迎され た0 

1536 年 力 ルヴ、 ィ ン はジ ュ ネー ブ市 改革 M に 参加して 一時 放逐され たが, 股] 年に は 
同市の 実権 を 握り, 一種の 神権政治 を 実現し えた。 その 政治 は 教会 》に よる 牧師と 

平信徒の 長老の 運営す る 本 ^ 主 的な ものであった が, 事実 は 彼の 》 であり; 王義 
を 異にする 者への 迫害, 断罪 も 行われた。 「カル ヴ、 インの 不寛容 は 名 だた る もので あ 

る。 彼 は ノレ タ— のように 世俗的 支配者の 絶対権力 を 擁護し はしなかった。 彼 は 教会に 
よる 国家の 支配に 加担した。 —— これ は 普通に 神権政治と 称されて いる 政治の 一形 態 
である。 彼 はこの 神権政治 を ジュネーブで 確立した。 同地で は 自由 は 完全に 》 され 
た。 誤つ た 教理 は 投獄 '追放' 死刑 を もって 弾圧され た。 セル ヴ- ッ スの 処刑 は 異端に 
対す る カル ヴ ィ ン の 戦い の最 も 有名なる 手柄で ある。 スペイン 入 セル ヴ エツ ス 二5 e_ 
rvetus は 三位一体の 教義に 反対す る 著述 を したために リ ョ ンで 拘禁され C 一つに 力 ノレ 

ヴ インの 陰謀に よる〕, それから 脱走して, にも ジュネーブに 来た0 ジュネーブの 
所轄ではなかった けれども, 彼 は 異端の かどで 審問に 付され 焚刑に 処 せられた ひ553 

年) …… 1903 年に ジュネーブの カル ヴ ィ ン 派 は 一つ の讀罪 記念碑 を 建立せ ず に は お れ 

なくなった。 それに は r われわれの 偉大なる 改革者」 カノ レヴィンの 「彼の 世紀に 属す 

ると ころの」 誤謬 を 犯した ものと して 弁解され ている ので ある0」' G'  B. ピュア リ 
森 島 恒喜訳 「思想の 自由の 歴史」 岩波 新書, セル ヴ、 ュッス 事件に ついては, 渡 辺 一夫 
「ある 神学者の 話」, 同氏 「フランス —ルネサンス 断 章」 岩波 新書 を 参照せ よ) この 一 
派 を イギリス では ピューリタン Puritan, フランス では ュ グノー  Huguenot, オラン 
ダ では ゴィ セン Geussen  (Geux ともい い 乞食の 居、 ン などと 呼んだ。 

フランスの ュ グノー 戦争 フランス は, ドイツと 対抗す るた めト、 、イツの 新教徒 を 助 
け, 自国 内で は 絶対 王権 確立の 障害と して これ を 弾圧した。 貴族のう ち ブルボン Bo- 
urbons 家 は 新教 を 信じ, ィ ギ リ ス. オランダ 両国 を 控えと し, ギーズ Guise 家 は 旧 
教徒 を 代表し, イス パ ユアと 結んで, イス パ ユア 流の 宗教 政策 を フランスに 摊行 せん 
とした 1556 年 幼 王 チャールズ 9 世 立ち, 母后 カザ リン Catherine  deM  edicis が 
摂政と なり, 国王 をめ ぐる 権力の 争いが ュグノ —戦争 を 誘発した。 は は 年 セン ト-パ 
一 ソロ ミ     一 St.  Bartholomew の 虐殺 は ギーズと 結 托した カザ リンの 所業で あつ 
た グェ ヘンリー 3 世 は ギーズの 横暴 を 憎んで これ を 殺害した が, 旧教徒の 恨み を か 
つて 自ら も 殺害され て ヴァ。 ァ家は 断絶した。 王位 は 王の 妹の 夫で 新教徒た るナヴ ァ 
ノレ 王 ヘンリー Henry  4 世が 継いだ 。彼 は 国民の 信仰の 実情に かんがみて 旧教に ^ポ 
し, 一方 ナン ト Nantes の 勅令 ひ 598 年) を 発して 両 教徒の 同権 を 認め, ュ グノーの 
ために 居住地 を 設定した。 しかし 王 も 非命に 倒れ ひ610 年), 王族' 貴族の 跋扈, 特 
権 身分と 新與 市民階級の 対立, ュ グノーの 反抗な ど, なお 動揺 をまぬ がれなかった。 

—— 202 —— 


近代の 世界 


反宗教改革 Counter  Reformation    1545 年の トリ ェン ト Trient の 宗教 会議 は, 
チャールズ 5 世が 法王 とと も に 新旧^: 徒の 和解 を 目的と した ものであった が, 新教 
側 は 出席せ ず 法王 も 妥協の 意志な く, 結局 旧教徒 側の 反宗教改革 となり, 法 ぽ上権 
の 胃, "—マ^^に よる 聖書 解釈の 正当性, 免罪符の 有効性な ど を 決議した。 ィグ 
ナチ ウス:: ロヨ ラ Ignatius  Loyola ひ 491〜1556 年:) はィ スパ ユアに 生まれ, 軍人と 

して 各地に 転戦, 負傷して 長く 病床 〖こあった 間, 聖徒 伝に 深く 感動し きに 一身 を捧 
げる 決意 を 画め, ィ エルサレムに 返礼し, 帰国 後神^ f 究に 従事し, 同志と ともに ィ 
ェズス 会 Society  of  Jesus を 組織し, 1540 年 法王 パウル 3 世の 許可 を谆 た。 同志 フ 
ラン シス-ザ ヴ イエ ノレ Francis  Xavier ひ506〜52 年) は, 1541 年 法王の 命に よ り , 
ゴァ. セィ n ン. マラ ッカ 諸島に 布教し, 1549 年 〔天文 18 年:) に は 鹿 児 島に 上陸, 平 戸 * 
山 口  '京都に 道した。 マ テオ = リッチ Matteo  Ricci  (中国 名, 利瑪竇 1552〜16 
10 年) は 中国に 入り, 滞留 27 年余, 300 余の 教会 を 建設した ほか, 地図 冊, 一般 科 
学の^ g などに みるべき 業績 を 残した。  . 

かくて 宗教改革 は, 欧州の 北半 を 風靡した が, 諸 宗派 必ずしも 一致せ ず, 他方, 旧 
教 側の 自蘭を も 招き, カトリック 教の 勢力 は, 結局, 旧に まさる 興隆 を 見た 。新' 旧 
両派 とも, やや もす ると 政治 白 勺 権力と 結び、, 社会的に も大 いなる 圧力と なり, 宗教の 
名の 下に 陰険 • 统 忍の 策動 • 暴力 を ふるった ことが 少な く ない。 もとよ り その 間に, 
純^^ 良の 信仰心が 点綴され ョ— 口 ッパ 文明の 近代化に 貢献した 点 も 認めねば ならぬ 
が, 世界 支配 を 可能に した 欧米 勢力の 強大な 複合 性 を 看取すべき であろう。 

、 宗教 的 政治的 紛争 

イギリス チ ュ-ダ —王朝 成立 は 後, 国王の 中央集権の 下に 国家 統一の 業が 進んで, 
国王 は 事実上 教会 を 支 @5 していた ので, " —マ M からの 分離 は ほとんど 時間の問題 
となって いたと いってよ い。 ヘンリー H6nry  8 世 (1491〜1547。 在位 1509〜47 年) 
が 王 后 カザ リン Catharine を し, 侍女 アン-ボレー ン Anne  Boleyn と^! せ 
ん として 法王と 衝突した が, 法王の R ^に は 旧教 教理に よる ほかに, カザ リンが イス 
パ 二 ャ 王の 娘で あり, チャールズ 5 世の 叔母で あった こと が 多分に 政治的 配慮 を さ せ 
た 点であろう。 1533 年ボ レーンと^!,  34 年 「首長 令」 Act  of  Supremacy を 発し 
て イング ラン ド^^の 首長と なり, 国内 修道院 を 解散して その 土地 財産 を 没収した。 
女王 メリー Mary  (在位 1553〜58 年) の 時, 一時 旧教 復興, エリザベス Elizabeth 
女王 (在位 1558 〜: L603 年) に 至り イング ラン ド^^が 成立した。 

イス パニァ チヤ  一/レズ 5 世の 長子と して, イス パニァ 王位 を 継いだ フ ィ リップ 
Philip  2 世 (在位 1556〜98 年) はネ— デル ランド, イタリアの ミラノ, ナポ リ 王国 

—— 203 —— 


I 資料 編 


を 領有し, 1580 年後 は ボルト ガ/ レ 王位 を 兼ね, イギリス 女王 メリーと^ f し, 自ら 
熱心な 旧教徒と して, 世界 帝国の 維持 発展, キ リ ス ト«界 の 力 ト リ ック的 統一, 王 

権の 絶対と 異端の 根絶な ど を 期して, 残忍な 拷問で 有名な 「宗, 判」 (異端 轧問 所) 
Inquisition を 設け た。 東ィ ン ド 航路, ァ メリ 力 大陸の 発見に よ り , ボ ノレ ト ガル 合併 
後の ィ スパ -ァは 東洋 貿易の 利と ァ メ リカの 銀 を一 手に 収めた が, 国内の 封建制度 は 
固く 産業 は 発展し なかった。 オスマン- トルコが 地中海に 進出し, キプ n ス. ヤルタ 
両島を 占領し, イス パニァ の 海上権に 対抗 せんとした 時, 王 は 法王の 提案に 基づき は 
71 年 法王 領, ヴ、 エニスの 連合艦隊 を 編成 して ギリシャの レ パン ト Lepanto 沖で ト ノレ 
コ 海軍 を 撃破した。 

オラン ダの 独立 ネ 一 デル ランド、' オラン ダ 地方 は, ドイツ' フラ ン スの 間に あつ 

て 国際 交通の 要衝:' こ あり, 十字軍 以後の 商業 復興に 伴ない, 毛織物' 金属加工 工業が 
勃興し, 多数の 都市が 繁栄した が, 都市 • 貨幣経済の 発展に よ る 都市 貴族と 下級. 市民 
との 階級 的 対立, 荘園の 解体, 農奴解放の 推進 傾向に 対する 領主 的 反動 も 強く, ョー 
n ッ パで も 早 く 農民 ー撲 —— た と え ば 1323~28 年の フラン ドルの 一 摸の ごとき —— の 

勃発 を 見た。 W 世紀 中期^ 降, 東方 商品の ョ 一口 ッパ大 集散地と なった ブリ ュ —ジュ 
Bruges を 中心に, フラン ドルの 毛織物 工業が 躍進 し, 新 航路 発見に 伴な う 商業 革命 後 

は アントワープ Antwerp 力、; 世界 市場の 中心 となり, 金融 话 動に 雄, 手形 • 価格' 
保険な どの 新技術 • 機構が 採択され, 多数の 外国 商人 を 誘引した が, 16 世紀 前期に 入 
ると 北部 ホー ラント の 仲 立 貿易 を 基軸 と する 商業資本の 活動に そ の 繁栄の 中心が 移動 
しつつ あった。 フィリップ 2 世の 支配 下に 入った ころの この 地方 は, かくの ごとく 商 

人 金融業 者に 代表され る 初期 資本^ « 的 市民階級 を 基盤と し, プロ テス タン ティ ズ 
ム, ことに 1550 年 以後 は 急激な 力 ル ヴ、 ィ ニズム 信仰の 浸透した 地方で あ つた。 フィ 
リ ップ 2 世 はこの 地に 王権 代理者た る 総督 以下の 政治 機関 を 置き, 本国の 重商主義 政 
策に よりこ の 地方の 経済の 自由な 活動 を 抑制し, 旧教に よ る 思想 統一の 試み を 励行す 
るな ど 反動的 諸政 策 を 実施した。 1556 年ゴィ センと 呼ばれる 一群の 貴族が, 総 靨 マ- 
ガレ ッ トに宗 « 判の 廃止 を 要求し, 急^! 的な 市民の 一部が 力 ト リ ック 教会. 修道院 
を 破壊した 事件が あった。 1567 年フ ィ リ ップは アル パ Alva 公 をつ かわして 新教徒 
を 弾圧せ しめ, 軍事費 調達の ため 重税 を 課して この 地方の 工業に 打撃 を 与えた。 南部 
地方が 旧教で ありながら 北部と 結んだ の はこの ためで ある。 これ を 契機と して 独立の 
ための 反乱が 起った 。(1568 年:) オレンジ 公ゥ イリ アム William  (The  Silent) ひ 533 
~84 年) は フィリップ 2 世 か らホ 一ラント. ユトレヒト. ゼ 一ラントの 3 リ、 1、1 の 総、、 督に 
任命され ていたが, ゴィ センと ともに 反抗し, よく イス パ ユア 軍と 戦い, 81 年 オラン 
ダ ほか 6 州が ュ トレ ヒ ト 同盟 Union  of  Utrecht を 結成し, 独立宣言 を 発した 時, 

—— 204 —— 


近代の 世界 


锥 されて 新 独立国の 総統と なった が, 1 び 4 年 刺客の 手に 倒れた。 エリザベス 女王 はィ 
ギ リ ス 内の 旧教徒と 気脈 を 通じ. 旧 スコット ラン ド、 女王 メリー Mary  Stuart  〔在位 
1561 〜: 15 年) を イングランド、 王に 擁立 せんとす るフ ィ リ ップ 2 世への 反感から, 15 
^年 以後 は 公然^: 運動 を 皿した。 1609 年に 至り, 同盟と ィ スパ- ャ王フ ィ リ ップ 
3 世との 間に, 12 年間の 休戦条約が 成立し, 1648 年, 30 年 戦争の 終結た る ウェスト 
ファリア 条約に よりその M を 国際 間に 承認され た。 (シラー 丸 山 武夫 訳 「オラン 
ダ 独立 史」 岩波 文庫)  -  . 

三十年戦争 1526 年 以後 オーストリア 領 となった ボヘミア は, 1609 年 皇帝 ノレ F ル フ 

から 宗教 自由の 特許 を 得て いたが, マチ ァス Matthias 皇帝に 至り, 圧迫され て 新教 
徒が 反 舌し した。 フ アル ッ伯フ レ デリ ック Frederic が 新教徒' ィ ギリ スを 背景と して 
皇帝 軍と 戦った が, イス パ-ァ が 皇帝 軍 を ■ したため 敗退した ひ 年:)。 オース 
ト リア, ィ スパ ユアの ドィ ッ 制覇 をお それた ィ ギリス • オラ ンダ はデン マ 一ク 王ク リ 
ステ イアン Christian  4 世に 軍資金 を 供し, 彼 は ドイツに 侵入した が 皇帝 軍の テ ィ 
リ ィ Tilly のために 敗北した ひ625〜29 年 )。 さらに ドイツ 皇帝の 勢威 増大 をお それ 
た フラン スの 後援に より スェ 一 デン王 グスタ フ = ァ ドルフ Gustav  Adolf  (1594~16 
32 年) は バルト海 制海権 を 目 ざし, 新教徒 保護 を 名と して ド、 イツに 侵入し, 1632 年, 
リ ニッツェ ン LGtzen で 皇帝 軍の ヴァ レンシ ユタ イン Wallenstein と 戦い 戦傷 死し 
た。 以後 フ ラ ンスは 旧教 国で あ り ながら 公然 新教 国 側に 立って 出兵し, 戦争 は 宗教 的 
動機から 逸脱し, ノ、 プス ブルダ 対 ブルボンの 政治 闘争, 皇帝の 権:^ 犬に 対する ドィ 
ッ 諸侯の 抵抗, 北 ド、 ィ ッ に 足場 を 得ん と する ス: n  — デン の 企図 な どの 諸 因が か らまり 
合った が, IMS 年ゥ エス トフ アリア Westphalia 和議に よ り 戦争 は 終結し た。 この 
会議に より, ァゥ グスブ ノレ グ 宗教 和議の 確認, 新教 各派に 対し 同一の 権利の 承認, ォ 
ラ ンダ • スィ スの^ : の 承認, ドィ ッ 諸侯の 帝国からの 事実上の^: の 承認な どが な 
された。 かく てノ、 プス ブル グ に対する ブルボンの 大陸に おける 優位, オラ ンダ • ィ ギ 
リ スの 海上権に 文ォ する ィ スパ ユアの 1 習 伏な どが 確実と なった。 戦場と なった ドィ ッの 
疲弊が その 近代化 を 著しく 抑制した こと はいう まで も ない。 (シ ルレ ノレ 渡 辺 格 司 訳 
「三十 年 戦史」 岩波 文庫, シラー 鼓 常 良 訳 「ヮ、 'レンシ ユタ イン」 岩^: 庫) 

、 第 4 節 西欧 勢力の 拡大. 

新 航路 開拓 を 促進した 事情 自然 探求の 一翼と して 世界 歴史の 上に 新しい 舞台の 幕 

を 開い た 海陸の 発見, 新 航路 開拓 を 促した 直接的 事情と みら るべき もの を あげる と, 

1. 航海 技術の 進歩, 14 世紀 ごろからの 羅針盤の 利用, 舵 機の 改良, 海図の 作製な ど 


- ~~  205 


I 資料 編 


により 大洋 航海が 可能と な つ た。 2. 中世 的 固定観念よ り の 地理学 的 知識の 解放, 海 
上 発展 は 技術的の 困難 も あつ たが, 中世の 迷信に よ り , また 教会の 聖書 以外の 典拠に 
よって 論ずる こと を 禁止 した ことによって, 古代の 地理学 的 知識 ま で 忘却 されて いた 
のが, ァラ ビヤ 人との 通交に より, 彼らの 地理学 的 知識が 未知の 海陸に 対する 迷信 を 
打破した こと。 3. 社会経済 生活の 様相, 封建制度の 解体, 封建 貴族の 社会的 没落, 
貨幣経済の 成立, 近代的 国家の 生育, 市民階級の 勃興な ど, 当時の 社会の たる も 
の はこと ごとく, 海陸の 発見 を 促進せ ぬ ものはなかった。 また, 1453 年 トルコの コン 
スタン チノ 一 プル 占領に よって, 従来の 東方 貿^が 道 を 失い, 他に これ を 求めざる を 
えなかった こと。 4. 中世 十字軍な どに 発揮され た 敢為 冒険, 理想 国土の 希求 清 神の- 
旺盛, など, 特に 西欧に 著しかった 「試みよう」 essayer の 生活 態度であろう。 未知 
の アジア 内地に キリスト教 国が あると か, 黄金の 国が あると か, 宗教 的 熱情と 現実の 

物欲と, そして 合理的 知識' 技術との 混合が 時人 を 動かした。 

新 航路と 新 大陸の 発見 ポル ト ガルの 王子 ヘン リ  一 Henry  the  Navigator  (1394 
〜1460 年) は, ポ ノレ ト ガル 最初の 天文 合 • 航海 学校 を 設立し, 航海 者の 養成に つとめ, 
しばしば ァフ リカ 西岸 を操検 せしめ, 1445 年に はァフ リカ 西端ヴ エル デ Verde 岬 を 
発見した。 ついで バ— ソロ ミ ユー-ディア ズ Bartholomeo  Diaz ひ 450 ごろ〜 15C0 年) 
は, 1486 年, ァフリ 力 南端 を きわめ, 国王に よりそ こ を 喜 望 峰 Cabo  Da  Boa  Espe- 
ranza と 命名され た。 ヴ ァスコ =ダ= ガマ Vasco  da  Gama ひ460 ごろ〜 1525 年) は, 
国王 エマ ネェ ノレの 命に よ り, 1497 年, リ ス ボン を 出帆, 喜 望 峰 を 回り, ァフ リ 力 東岸 を 北 
上, インド洋 を 横断して カリカットに 1500 年 到着した。 かくて アラビア 商人 を 恐慌 
せしめ, イタリア 商 入 を 絶望せ しめる 端が 開けた。 ガマ は インド 、総、 督 として 経営した 
が, そ の 後, 総督、 アル メ―ダ に 代わって 1508 年から アル ブケ ルケ Albuquerque 
(14 お〜 1515 年) が 活動し, ゴァを 征服して 政庁 を 置き ひ 510), セィ n ン. スンダ • 
マラッカ 方面に 手 を 伸ばした o これより さき, イタリア 人 コロン ブス C.  Columbus 
(1446 ごろ〜 1506 年) は, 地理学者 トスカネリ の 地球 学説 を 信じ, 西欧' 東亜の 近道 を 
西航に 見出すべく, 諸 王に 説いて, ついに グラ ナダ 占領に 意気 あがって いた ィ スパ- 
'ァ 女王 ィサ ベラの 後援 を 得, 1492 年, パ ハマ 群島の 一島に 達し, サン- サル パト 、、ノレと 
名 づけ, さらに キュー パ. ノ 、イチな どの 島 を 発見し, インド、 の 一部と 誤認した 。 itA 
の 土人 や 少しの 黄金 等 を 持ち帰った。 のち, 南' 中米に も 航海した が, ついに 太平洋 
をつ まびら かにせ ず, 失意のう ちに 歹 E んだ 0 

ァ メリ ゴ = ゥ 、、エ ス プッチ Amerigo  Vespucci ひ 451~1512 年) は, ァ メリ 力 大陸 を 
確認, さらに 南米 地方 を 探検して 旅行記 を 書き, この 旅行記の 出版者 ヴァル トゼ = ミ 
ユラ 一が, 新世界 を 名 づける に, この 入の 名 を もってし たので, 「アメリカ」 と 呼ばれ' 

—— 206 —— 


近代の 世界 


るよう になった。 また イタリア 人力 ボット は 北米 東岸 を, ポル ト ガ ノレ 人力 ブ ラル は 南 

米 ブラ ジルを 探検 ま た は 占領 し, さらに マゼラン Magellan  (1480 ご ろ ~1521 年:) は, 
西方から ァメ リ 力 大陸 を 周航して 直接 香料 産地た る モル ッカ 諸島に 達する 計画 を 立 
て, イス パ ユア 王の 許可 をえ て, 1519 年 5 隻 ひ 80 入) を ひきいて 出発, 約 14 か 月 後 
米 大陸 南端に 達し, 38 日 を 要して 海峡 (マゼラン 海峡) を 通過, 太平洋に 出て 1521 年 
フィリッピ ン 諸島に 到着, 彼 は 土人と 戦って ここで 戦死した が, 一行 は 残った 2 隻で 
1521 年 秋 モルッカ諸島に 到達, 喜 望 峰 を 経て 帰国し 世界一周の 大業 を 遂げた。 帰還せ 
る もの 舱 1 隻入員 31 名。 

これら 当時の 航海 は, 新鮮な 食料な どに ついても 不備な 点 多く, 壊血病 その他 難 
破 • 闘争な どの 危険 大きく, 乗組員の 犧牲 ははな はだしい ものが あった。 しかし この 

生命 を賠 した 冒険の もたらす 利得 も また, 莫大で ある 場合が 多かった。 

略奪 • 征服 • 占領 か く て 探検 • 発見に つぐ もの は 略奪と 占領と 征服と 隸属 であつ 
た。 ユカタン半島の マヤ 文明の 廃墟 は イス パニァ 人へ ルナン テスが 発見した が, メキ 
シコ 地方の ァズテ ック 文明と, 南米 ペルー 地方の ィ ンカ 帝国との ァ メリ 力 土着 文明 
(I.  2. アメリカ 大陸の 古代 王国 参照) の 運命 は, この あわれむべき 檨牲 となった。 
コル テス F.  Cortez  (1485^1547) は, 1519 年, キ ュ —パ 絵督べ ラス ケス が, メキシ 
コ各 部落と 商取引 開始の ため 探検隊 を 出した 時, 緩督の 意に そむいて 歩兵 600, 騎兵 
60, 大砲 14 門 を もって 出発し, 途上の 土人 を 破って 黄金 や 美女 を 奪い, メキシコの ァ 
ズテ ッ ク 族王モ ンテズ マ 2 世 Montezuma が 厚遇す る の を 裏切つ て 人質と し, 土人の 
抵抗 を 撃って その 富と 国土 を 滅ぼし, 21 年, この 地 を イス パ ユア 領 とし, その 総督と 
なり, さらに メキシコ 全土 を 征服した。 のち, 北アメリカ 西岸 を搮 険し, 1536 年 カリ 
フ オル ユア を 発見した。 

また ピサ n  F.  Pizarro  (1475 〜: L541 年:) は, インカ帝国 をね らい, 1529 年, イス 
パニァ 王 を 説いて ペル— 征服の 許可 を 得, 兵 183, 馬 32 を もって パナマから 出発し, 
インカ 王室の 内乱に 乗じ, 国王 ァタ ナノ レパ Atahnalpa を 捕らえ, 約束の 室 一杯の 黄金 
を 受け取る と, 王 を 殺し, 国 都 リマ を 占領, ついに 全 インカ帝国 を 支配した。 こうし 
た一 攫 千金 以上の ァラ ビアン ナイ ッ 風の 暴利 • 巨富 を 追う 冒険者 は 北米 南北に も 跡 を 
ついだ が, コル テス. ピサロの ごとき はなはだしい 成功 はまれであった。; (匕 米に は, 
ついで 英. 仏 入の 宗教 的^ 的 経済的な 移 民団が 渡来す る 。 一方, イス パニァ 入と ボ 
ルト ガル 人 は, 極東で も 活躍し 抗争した が, やがて オランダ 人 や イギリス 人 も 進出す 
る ことと なる o 

新 航路 • 海陸 発見の 結果 西欧の 活動 舞台が, そ の 大西洋 岸に 移 り , 従来の 地中海 
貿易の 重大性が 失われ, ィ タ リ ァ 都市, ハン ザ 同盟 の^は くつがえ り, ポル ト ガ 

—— 207 —— 


I 資 料 fi_ 
ル • ィ スパ ユアな どが 表 舞 合に 出た。 ポ ノレ ト ガル は, ィ ン ド、 航路 発見 後 は, そ の貿幼 

を 掌握し, 首都 リスボン Lisbon を 起点と して 同国 商業資本と 抱 合する 王室の 独占 事 
業と して, 東方から 胡椒 その他 を 入れ, 南 ドイツの 銅. 銀 を 送り出した。 イス パニア 
は, 新 大陸の 王領 植民地 開拓の 進行と と も に, 強圧 手段で 土着民 を 酷使して 開発した 
鉱山, とりわけ ぺ ノレ— の ポトシ Potosi 銀山から, 多量の 低廉な 銀 を 西欧に 流入 させ 

たため, 西欧の 貨幣 {面 値が 低落し, 物価 は 縢 貴し, 各方 面に さまざまな 影響 を 生ぜし 
めた (価格 革命 Price  Revolution)0 さらに 西ィ ン ド、 貿易 を 独占し, 貿易の 起点た る 
セがィ リ 了  Sevillia, カディス Cadiz は 殷賑 をき わめた。 かかる 変化が 西 « 済に 
与えた ー跤的 影響 は 傑 刻であった。 海陸 発見の 経済的 動機 はよう やく 萌芽しつつ あつ 
た 資本^ 的 活動に よる ものであった が, 広大な 世界 の 開拓 は, 商業資本の 膨 
脹, 工業に おける 資本主義 的 生産, マユ ュファ クチ ユアの 生成 等 を 促し, ほ 世紀 以降 
の 資本主義 時代の さきがけ となった ので ある。 こうして 中 世紀まで は, 概して 西欧に 
はるかに まさる 活動 と 文明 水準 と を 保って いた 東洋 世界が , しだい に 圧倒 さ れ 称属ィ 匕 
される 近世 的 特色 を呈 する に 至り, 西欧 諸 強の 生活 は 豊か さ を 激増す るに つれ, その 
欲望 もます ます 高進し, 活躍 もい よいよ 促進され た 。ルネサンス, 宗教改革, 技術の 
発達と ともに 地理 上の 発見, 植民 は, 実に 近世 形成の 大きな 契機と なり, 文化 楽 股の- 
上に も 大きな 刺激 を 与えた。 自然と 入 類と に対する 好奇' 貪欲の 目が 広がる につれ, 
旅行記 • 地誌な どの 現地報告 的 資料が, 他方に 合理的 考察と 乾 験 的 観察と を もたらし 

た ごとき は, その 一端で ある o 

'  第 2 章 近代 社会の 成立 

第 1 節 絶対主義 . 

フィリップ 2 世 第 1 章 第 3 節 宗教!^ の 「イス パ ユア」. 「オランダの 独立」 の 各. 
項 を 参照。 

エリザベス 女王 エリザベス 時代 は イギリス ^主義の 絶頂 期であった。 われわれ 
は その 時代 を 概観して 絶対主義の ー胶的 特質に 触れよう。 チュー ダ— 朝の 開始と と も 
に, 本格的に 絶対主義の 開始 を 見, ヘン リ -7 世 は, 封建 家臣 団の 解散, 教会 特権 ひ 
削減, 星 室 庁 Star  Chamber の 設立な どの 中央 専制 国家の 機構 を 整備し, へ 
ン リー 8 世 は, 封建 勢力の 国際的 中心"— マ 法王 庁 との 関係 を 断ち, 修道院 解散に よ 

—— 20« —— 


近代の 世界 


つて 第 2 の 礎石-を '置いた。 エドワード、 Edward  4 世^; に は, ルター 派. カル ヴィ 
ン派の » が 表面化し, メリ— 女王 は 一時 旧教 を 復活した。 エリザベス は, 難局に 人 
と な り, 女性の 紛 せる 男性の ごと く  , 冷 熱 自律, 勢力 均衡 を 策と した。 1559 年 国 
上 法 Act  of  Supremacy により, イング ラン ド 教会に おけ る 女王の 至上 的 地位 を 法 
制 化し, 統一 令 Act  of  Uniformity によ りネ 瞎 を 統一, 1571 年に は 信仰箇条 Arti- 
cles of  the  English  Church を 制定して プ 口 テス タント の^^: こ カトリック の 制度 を 
入れた 英国々 教を 確立した。 かくて 宗教改革の 国民的 課題 を 一応 国内 的に 解決した 女 
王 は, カトリ ック的 世界政策の 謀 主, 「16 世紀 ィ ギ リ スの 正面の 敵」 といわれた ィ ス 
パ ユアと 対決した o オランダ 独立の 翻, アメリカの イス パニァ 植民地との 密 貿县, 
イス パ ユア 銀 船隊の 襲撃な どと ともに, 産業 的に は 毛織物 生産 国に 転じた 英国が, 西 
から ィ スパ ユア 製品 を 駆逐 せんと し, メリー- ステ ユア 一 ト 擁立の ィ スパ ユア 
陰謀に 対して は, これ を 処刑して ひ 587 年) 禍拫を 断った。 フ イリ ップ 2 世 は, かか 
る 山積す る 課題 を 一挙に 解決 せんと して, 1588 年 無敵艦隊 Invincible  Armada を 
発し, 英 本国 をつ かんとした が, かえって 大敗した。 

絶対主義 的 国家 機構 女王 は, 枢密院 Council を 中心に 施政し, 有能な 官僚の 捕 
助 を 受けた。 1583#設 高等 法院 Court  of  High  Commission を 設け, 主と して 宗 
教 関係 事項の 審理に 当たらせ, しばしば 軍事 法 Martial  Law を もって 普通法 Com- 
mon Law を 停止し, 普通法に 基づかぬ 政治 を 行った。 かかる 国家 機構の 整備 自身の 
みで も, 財政の 膨脹 を 必然なら しめたが, 財政の 決議権に よる 議会 勢力の 伸長 を 好ま 
ず, 独占 授与. 強制 公 «• 罰金な どの 収入に 財源 を 求めた 。治世 45 年間, ^召集 は 
10 回に すぎず, ^も^の 法律 制定に よる 女王 大権の 縮減よりも, 請願に よって 女 
王の 善意に 期待して 重大問題の 解決に 当たる 方途 をと つ た。 いな, 女王の 政治 指導が, 
^をそう させた といった 方が 適切 かも 知れない。 しかし, 全然^ を 停止した 他の 
g 主義 国に 比較 すれば, この 国王'^ の 関係 は, イギリスの 一 特色た る を 失わな 
い。 地方行政に, 枢密院の 監督 下, 国王 任命の 地方 在住の 治安 判事 Justice  of  Peace 
を 当たらし めた こと, 膨大な 常備軍 を 維持し なかった こと, など も その 特色に 数えら 

れ よつ o 

重商主義 政策 ィ スパ -ァの 海上権 を 奪つ たィ ギ リ スは, 1600 年 「東ィ ン ド 会社」 
East  India  Company に, アジア 貿易の 独占 権 を 賦与し, サ— =ゥ オタ— = ローリー 
Sir  Water  Raleigh らに 特権 を 与えて アメリカ 植民地 を 開かし め, 貿易の 利, 領土' 
市場拡大に 努めた。 国内で は, 第一、^ 画 〔囲 込:) 運動 後の マ- ュファ クチ ユア 段階 
ともいうべき, 産業資本 として 生育すべき ものが 合 頭しつつ あった。 が, 女王 は, こ 
れ に対して 家父 的 な 特権 的 資本主義 の 創 成に 努めた。 1560 年の 貨幣 改铸 一一 金銀 比価 

—— 209 —— 


I 資 料. 編 


を 一定して 幣制 铳ーを 図り, 産業 保護 を 名目と して 各種 工業 独占 権 を 賦与し, 徒弟 条 

m  Statute  of  Apprentices で 賃銀 標準 を 定め, 1601 年 救貧 法 Poor  Law を 発して 

労慟 習慣の 育成, 乞食 浮浪の 徒の 取り締ま り , 強制労働 所 Workhouse における 強 
制 労働な ど を 規定した の は, 経済 統制の 全 国家的 領域への 拡大, 国家 財政への 支持, 
労働力の 確保, 治安 維持な どの 国家的 必要の 裏付け によった こと を往 意す ベ く, その 
間 反 重商主義 的 », たとえ ば 議会の 数次に わ た る 独占 論争 —— 反独 占 運動の 展開が 
なかつ たので はない が, いずれも 女王の 政策 を 改正す る ほどの 力と はなって いない。 
ジェ ームズ James 1 世 (在位 1603~25 年〕 は ステュ アート Stuart 朝 を ひらい 
たが, 彼の 「王権神授説」 Divine  Right  of  King は, その 著 「自由なる 王国の 真の 
法」 によれば, 国王 は 人民の 上, 法の 上に あって, 王 は 神の 良心と おのれの 良心との 
みに 従う ので ある, 「筱は あらゆる 人の 上に ある 主人で あり, 生 殺の 権 を 握って いる, 
なんと なれば, 正しい 王 は 明確なる 法な く して は, 臣民の 生命 をた ちうる こと はない, 
とはいう ものの, そ の 法 こそ は, 王 自身 あるい は 先代の 王た ちに よつ て 作 られ るからで 
ある。」 と。 しかし, 彼の 治世 中, エリザベス 以来の 反独 占 運動 は, 経済問題の 解決に 
からんで, その一 根源た る 国王 大権の 縮減と いう 法律 • 政治の 問題へ 転化す る 傾向 を 
顕著に し, これ は 次 王 チヤ— ノ レズ Charles 1 世の 治下に おいて 重大化し たので ある。 
(トーマス = マン 張 漢裕訳 「外国 貿易に よる ィ ギリ スの 財宝」 岩波 文庫) 

ルイ Louis 14 世 1715, 在位 1643~1715) 父 ルイ 13 世 は, リシュリュー 

Richelieu ひ585〜1642 年:) に 政務 を ゆだねて 王権 を 強化した 。ルイ M 世 は, 5 才に 

して 即位, 母后 摂政と なり, 政務 は マザラン Mazarin ひ 602~61 年) が 掌握した。 

貴族の 代表 機関た る 高等 法院 Parlment が, 王権 集中に 反対して マザラン 追放 を 要 
求し, フロン ド Fronde の 乱 ひ648〜53 年) が 起って 危うかった が, 貴族の 横暴 はか 

えって 国民の 反感 を あおり, 王 側の 勝利に 終った 。 1661 年, マザランの 死後, ルイ 14 
世の 親政 は, 人材 を 登用し, コル ベール Colbert  〔1619〜83 年) は 政界の 大立 物と な 
り, 財政 経済の 立て直しに つとめ, 冑カを 駆使して 重商主義 政策 Colbertism を 精 
力 的に 遂行し, 富強の 実 を あげた。 しかし, 王 は 1698 年に は 「ナントの 勅令」 を 廃 
止した。 宗教 問題と 政治問題と がな お直 結す る であって, あらためて 新教徒 を 否 
認 したわけ で, ために ュグノ —約 30 万 入が, カトリックの 長女 フランス を 離れた 。彼 
らが 主と して 商工業に 従事す る 階層であった ために, 国と 産業 上の 損 ^ は 少な く なか 

づん O 

—方, ルイ 14 世 は, 国力の 充実に つれて 領土の 拡大 を 目 ざした 。王 后の 関係から, 
'イス パ -ァ領 ネーデル ラン F に 出兵し, オランダが 諸国と 結んで これ を 妨げる と, こ 

—— 210 —— 


近代の 世界 


こに も 出兵した。 また 王 弟妃の 関係から ファルツ にも 出兵した が, いずれも 勢力 均衡 
を 求める 列国に 阻止され て, 目的 を 達しなかった 。イス パ ユアで は, 国王 チャールズ 

2 世の あと を, ルイ 14 世の 孫 フィリップが 遣 言に よって 継いだ が, F イツ 皇帝 レオ ボ 
ルド Leopold 1 世 は, 皇后が イス パニァ 出なる によって, 次子 チャールズ をィ スパ 
ユア 国王に 推し, イギリス 'オランダが これ を 助けて, フランス, イス パ ユアに 当た 
り, 13 年間に わたる イス パニァ 継承 戦争と なり, 1713 年 ユトレヒト 和 約まで 続いた。 
所期の 目的 は 達しなかった が, ルイ 14 世 は, つねに ヨーロッパ 勢力の 消長に かかわ 

り,. 支配的な 役割 を 演じた。 に  •;  •; -  - 

フランスの バロック 文 4 匕 ルイ 14 世^; の文ィ 匕の はなやか さは, ヴ、 オル テ一 ノレで さ 

え, ギリシア •  口  一 マ ,ルネサンス-イタリアの それらに 勝る とも 劣らぬ, 4 大文ィ 匕 
の 一として 誇った が, そ の 代表的 建築 は , べノ レニエ 完成 の ルー ブル , マン サ— ル 完成 
のゲ エル サイ ュ の両 宮殿で, 後者 は 初め ル = ヴ 、ォ— Le  Vau の 設計に かか りの ち さ 
らに 拡張され た。 建築 規 摸の 壮大, 室内装飾の 華麗, 庭園の 雄大な « で 有名で ある。 
宮殿 内 「鏡の 間」 は 縦 24 呎, 横 34 呎, 天井の 高さ お 呎。 壁 は 緑色 大理石の コ リン ト 

式 壁 柱で かざり, 太陽 王 を 表わす 欄間 を 持つ ra 天井が ある。 この いわゆる ルイ 風 は, 

大まかに 17 世紀の パロ ック 風に 属する とともに, 18 世紀の 口 コ コ 風に 連なる も ので, 

建築 溝 成から しだいに 装飾の 優美 さに 関心 を 移す ので あつ た。 宮廷 装飾の 技巧的 華美 
»f は, 古典主義 を この 方向に 推し 進め, 文学に おいても 形式' 技巧の 調和 '統一' 
規範 を 重んずる ことと なった o この 期の 絶対主義 的, 合理, 的, • ,的 統制 的 
生の 傾向に 通ず る。 

フランス 17 世紀の 文学 コ ノレ ネー ュ Corneille ひ606〜84 年) の 「ポ リウ タト」 Ct: 

村 太郎訳 岩' 鼓 庫), ラシーヌ Racine  (1639 一 99 年:) の 「アンド、 ロマ ク J  •  「プリ 
タ ユキ ュス」 (いずれ も 内 藤 濯 訳 岩波 文庫), モ リ エール Moli さ re ひ622〜73 年) 
<0  「孤客」 (辰 野 隆訳 岩^: 庫), 「守銭奴」 (鈴 木 カ衛訳 岩波 文庫), などの すぐ 
れた 作品が 残された が, H. テーヌ は, この 時代の 古典的 精神 を, 「それ は 釣合の よ 
く と れた 君主 政治 及 ひ' 洗練され た 会話と 同時に 作られた -…' モ リエ— ル はいう, 『学 
ばねば ならな いのは, 王宮の 趣味で ある。 判決が これほど 正しい 場所 は 決してない。 
-"… 天性の 単純な 良識と, あらゆる 上流社会との 交際に よって, 街 学者の 錯の ついた 
知識より, はるかに 鋭敏に 物事 を 判断す る猜神 状態が 作られる』」 しかし, 「教育, 家 

柄 または 摸倣に よって, つねに 巧みに 語る 人々, 換言すれば, 社交界の 人間の みが 作 
られ る。 コル ネー ュ 及び ラ シーヌ 以来 …… 演劇に も その他に も …… 他の 人間 は 現われ 
ていない 。その 傾向 は 非常に 強力で あるから, ラ 'フォン テーヌ の 創造した 動物, モ 
リ エールの 創造した 下女下男 ...... などに 至る まで, 社交界 人的 性質が 与え られ てい 


I 資料^ 


る。 "…- 古典 芸術 は, 真の 個 入 を 作らない。 しかし 普遍的な 性格, すなわち 愛情 '野 
心 • 忠誠 または 不実, 専制 的 または 屈従 的 性向 •••••• など, ある 情熱, 習慣 または 一 股 

的 傾向 を 持った 国王, 女王, 若き 王子, 若き 王女 -…" など を 作り上げ ている。」 と述 

ぺ ている (「近代 フランスの 起源」 )。 が, 「これらの 諸 作品に おいて, 余が 最も 『自国 

的』 であると 思う 点 は, そこに 純然たる フランス 的の ものと, その 普遍的の ものと を 
分離す る ことができぬ, という ことで ある。 それらの 諸 篇は普 M& 勺で ある。 しかも 人 

は, これらの もの は フランス 以外のと ころに, そして 第 17 世紀 以外のと ころに, 生ま 

れ いづる こ とがで きたと は 考えない  その 諸 傑作 は, 彼らの 普遍^に よって, 『自国 

的』 であらねば ならない」 (ブリュン チエール 関 拫秀雄 訳 「仏蘭西 文学史 序説」) と 
いう 見方 は, ルイ 14 世 時代の 把握の 手がかりの 一つの 型と して, 住 目すべき ものが あ 

る O 

フレデリック 大王 Frederic  the  Great ひ T12〜86 年, 在位 1740〜86 年) 30 年 戦争 
後, ドィ ッ は 国土 荒廃し, 諸侯 • 都市の 〖こ よ り , 皇帝 権 は 地 を はらった。 各 諸侯 
は, フランスに ならって 専制 的 集権 政策に より, それぞれ 国威の 涵養に 努めた が, 特 
に ブ ランデン ブル グ Brandenburg 違 帝 侯国 の 台頭 著 しく, すでに 1618 年, ド、 ィ ッ 
騎士 団の 占領して いた プロシア を 合わせ, 30 年 戦争に も 重要 役割 を 果たし, ルイ 14 世 
の 侵略戦争 を 巧みに 自国の M に 利^した。 1701 年 皇帝から 王 号 を 許され, プロ シァ 
王国と 称した。 この 国の 歴代 君主 中 有為な 才幹 者 少なからず, 率先躬行して にわかに 
勢力 を 高め, 特に 有能 剛健な る フリードリ ッヒ = ゥ ィル ヘルム Friedrich  Wilhelm 
1 世の 富国強兵 政策 を 継いだ フ リ ― ドリ ッ ヒ 2 世 (フ レ デリ ック 大王) は, ヴォ ノレ テ 
一 ノレら の フランス 啓蒙^^ 者と 交わり, 西 gtg 、想 を 採り 入れ, 産業の 保護 奨励, 国庫 
の 充実に 努め 啓蒙 専制君主 enlightened  despot と 呼ばれた。 もとよ り その内 政 は, 
^ ^者で 未だ 真に 国民の 自由 その もの を 尊重す るに 至らず, 舞 建 制度 は 依然と して 弱 
まらなかった 。即位 早々, 1740 年, オーストリアの 新女皇 マリア-テレサの 相続 否認 
に 基づく 継承 戦役 勃発に 先んじ, 彼 は オーストリア 領シ レジ ァ Silesia に 侵入して, 
その 害」 譲 を, 父芏 死後 間 もな き マリア = テレサに 迫り, 1748 年 アーヘン Archen 和 
議 によって その 領有 を 認められた。 オース トリ ァ女皇 マ リ ァ=テ レサ Maria  Theresa 
は, ロシア 'フランス' サクソ ユアな どと 密約して プ n シァを 討ち, 、も つ て 復謦を 計 
らんと したが, 大王 は イギリスと 結び、, 機先 を 制して オーストリアと 戟 つた。 いわ ゆ 
る 七 年 戦争 ひ? 56〜63 年:) である。 大王 は, イギリスの 軍資 を 得, ほとんど 独力で ョ 
一口 ツバの 主要国と 戦い しばしば 戦勝した が, しだいに 形勢 悪化し, 首都べ ルリ ンも 
一時 。シァ 軍に 侵され, イギリスの 対外政策 変ィ 匕と ともに, その 軍資 も 絶えて 苦境に 

—— 212 —— 


近代の 世界 


あえいだ が, たまたま ロシアの ペート ノレ 3 世 即位して, プロシア 側に 一転し, 形勢— 
変。 列国 も 戦いに 倦き て 1763 年, 英 '仏間の パリ 条約, プロシア • オーストリア 間 ひ 
フ ベ ル ッ ス ブ ノレ グ Hubertusburg 条約 により, 講和 成 り, シレ ジ ァ 領有 を 認め ら れ, 
荒廃せ る 国土 を 回復せ しめた。 プロシア では, 地主 貴族 (ユン カー:) の 勢力 強大で, 
王室と 結び、, 軍国 的 官僚 的で, 規律と 義務 心が 養われた。 

ョ ーゼフ 2 世 Joseph  (在位 1780~90 年) は, マリア-テレサ を 継ぎ, フ レ デリ 、、/ 

ク 大王に 学んで 開明 政策 をと つたが, この 国 も 西南 ドイツと 異なり, また 新教 的プ n 
シァ とも 異なり, 旧教 的 農民 的 封建 制が 強 く  , 富国強兵 主義の 近世 的 中央集権 国家 を 

完成す るに 至らなかった が, 威名 は あがった。 

ペート ル 大帝 peter  the  Great ひ 672〜1725 年, 在位 1689〜1725 年) 15 世紀 中 ご 
ろ, モスコー 大公の 政治的 支配権 確立し, イワン Ivan  3 世 〔1462 〜: 1505 年) が, こ 

の 父 を 継いで 新しい 君主 政治 を 始めた。 これ は 封建 ロシアの 伝統 を ひき, 蒙古の 影響 
を 受け, 他方 ビ サン ッに範 を 求め, 正統派 教会の 政治的 理想と 一致す る, 東方 風 専制 
に 近い 中央集権 的 君主国の 一つの 型であった 。当時, 国家経済の 基礎 は, 自然 経済 を 
基盤と し, 幾分 商品 '貨 済の 発展が 見え 始めて いた。 お4? 年, イワン 4 世 〔1533 
〜84 年:) は, 正式に ツアール Tsar と 称した が (この 語 はシ— ザ—, カイザーに 因由 
すると も 伝える:), ツアールの 権力 は, 大 土«領 貴族の 没落で 強化され, 中小 土地 
貴族と 商人 階級の 支持 を 受けた。 1605 年, かかる 基盤に 立つ 政策に 反対す る大 貴族の 

不満から 内乱 勃発し, 同じ 政策の 犧牲と なって 移動の 自由 を 失いつつ あった 農民の 暴 
動が, これに 合流した が, 外国の 干渉 もあって 内乱 は 収拾され, 1613 年 ロマノフ Roma- 
nov 王朝が 成立した。 17 世紀に 入る と , 外国と の 交渉が 繁く な り , 軍制 '行政' 宗 
教 '思想な どに, その 影響が みられ 始めた。 ぺ— トル 大帝 は, 自ら 西欧 を 旅行し 積極 
的に 制度 文物 をと り 入れた。 政府 諸 機関の 改組, 教権の 圧迫, 軍制' 税制の 改革, 海軍 
の 創設, 学校. 劇場の 設立, 文字 麿 法の 改正な どから, 風俗の 矯正まで 多方面の 急激 
な 改革が 試み ら れ, ー敉 産業の 保護 育成 を 目的と する 重商主義 的 政策 も 強化され た。 
文ォ 外的に は, トルコから アゾフ海' S 岸の 地 をと り, パル ト 海に 門戸 を 求めて, ポー 
ラ ン ド、 • デン マーク と 結んで ス ェ ーデン にい どみ, ス ェ —デ ン王チ ャ— ルズ Charles 
12 世の デンマーク 侵入 を 惹起して 北方 戦争 ひ 700 — 21 年) が 始まった つ チャールズが 
戦勝に 乗って ト、、 イツ 滞留 中, ぺ— トル は 戦敗より 立ち直り, スュ— デンの 領土 を 侵し, 
ネ ヮ、' ァ Neva 河 河 口 に 新 者 に ぺテ ルス ブル グ Petersburg を 営み, 転進 してきた チヤ 
—ノ レズ を ボルタ ヴ、 ァに 撃破し, 1721 年, ニス タツ ト Nystad 条約に よ り, パ ノレ ト海東 
岸の 地 を 得た。 n シァの シベリア 経略 は, イワン4 世 以来 着々 と 進行し, 大帝の 


—— 213 


I 資料 編 


に 清国 と ネルチンスク 条約 を 結んで 国境の 協定 を 行つ た 0 

カザ リン Catharine  2 世 (1729〜96 年, 在位 1762〜96 年) ベー トル 大帝 後 6 代 37 

年 を 経て, ぺ— トル3 世の 皇后が 夫 帝に 代わって 即位し, カザ リン 2 世と 称し, 大帝 
の 政策 を 継承した 。隣国 ボ— ランド は, 11 世紀に 起った スラブ 民族の 国で, 東欧の 強 
国であった が, 貴族ら の 内紛が 国王 ^ 制 や 議決 法 その他の 不備 も 手伝い, 遷挙 ごと 
に 仏' 独な ど 外国 諸 勢力の 干渉 を 蒙り, 国勢 は 衰退の 一路 をた どった。 これに 乗じ, 
カザ リン は, プロシア • オーストリアと 計り, 各自 国に 近い 地 绒を割 取し (1772 年), 
以後 1793 年, 1795 年と 3 回に わたる 文字通り 強 食 弱 肉の 分割 を 強行し, かくて ボーラ 

ンド、 は 全く 滅亡して しまった。 ロシアの 内治 は, ペート ノレの 遣 業 を 継ぐ 極端な 専制 政 
治で あり, 貴族の 特権 は 驚くべく 強大で, 新興 商工業者の 利益 を も 考慮した が, その 
実力 は 未だい うに 足らず, むしろ 地主 • 貴族が 参» 進す る 有様で あり, 農奴 制 はむ 
しろこれ を 強化した ために 1773 年 プガチョフ Pugatchev の 乱が あり, 時に 大 /【、の 
農民 暴動 を 見た が, しかし 特権階級の 重圧 は 揺ら ぐべ く も なかつ た。 絶対主義 は 西欧 
よ り 東欧に 進む につれ, なんと はなく 中世 前期 又は 古代 風の 色調 を 連想せ しめる と こ 
ろが ある o 

./  :." あ: 第 2 節 市 民莩命 

封建き が 解体して 近代 市民社会の 成立す る 歴史的 時期の, 政治的 社会的 変革 を さ 
して 市民革命 という。 すなわち, 封建社会の 母体 内で, 漸次 その 経済的 勢力 を 増大し 
た 中 産 的 市民 層 力 V 指導 的 地位に 立ち, 国民の 反 封建的 清 力 を 結集して, 絶対主義の 
な か に 具体 ィ 匕して いる 支配 機構, 具体的 に は 王権と 結ん だ 土地 貴族 と 上層 市民 の 寡 頭 
専制 を 打破す る 政治 運動 を 起し, これ を 組織化し, 国家権力 を 自らの 手中に 収める こ 
とで ある。 もちろん, 各国の 市民革命の 具体的な 形態. 内容 は, それぞれの, また, 
不断'. こ変ィ 匕す る 諸事 情' 諸 条件 —— たとえば, 封建的 土地 所有の 構成, 産業資本の 规 
摸と その 進度, 政治 意識の 深浅, 政治的 マ ヌーパ の 相違' 進 転な ど 一 により, 種々 
の 変 ィ匕を 示して いる。 原則的な 考え方に よると, 経済的 (こ は 農業. 土地 問題の 解決 を 
基点と する 資本 ,的 生産 • 流通の 進展, 政治的に は 「基本的 入 権」 が 市民 相互に 確 
認 され 尊重され るの が, その 特徴と されよう。 

ィ ギリス 革命 English  Revolution 17 世紀, ィ ギリ スで巿 民 革命が 典型的な 形で 
成就した の は, その 主体的 勢力で ある 中 産 的 市民 層が 早くから 形成され, 経済的 社会 
に 十分の 実力 を 具備して いた ことが 前提で ある。 すなわち, 荘園制度の 解体, 農奴の 

—— 214 —— 


近代の 世界 


早熟 的 解放の 過程の 中から, 15〜16 世紀に ヨーマン 層 Yeomanry が ひ ろ く 形成 さ 
れ, 他方 都市で も, 15 世紀 以来 商業資本の , 過程が 進み, 16 世紀に は一 部 商人 ギル 

ドの寡 頭 専制 i が 確立され るに 及んで, 都市の 小 親方 層 small  masters が, そ の 
束縛 をの がれて 農村へ 流出 した。 これら 独立 自 営農 民 • 小 親方 層 の 農, 営, 毛織物 
工業の 規模 は 小さ かつ た が, しだい に, 定期 小作 leasehold  tenure, マユ ュ ファタ 
チ ユアへの 転化が 現われ, 生産力が 増大され るに つれて, 彼らの 社会的 地位 も 向上し 
てきた ので ある。 チュー ダ —王朝の 財政 的 墓 礎 とから まってい た 富裕 商人 • 宮廷 資本 
家た ちの 各種 特権 • 独占 権, 一部 地主の 「囲い込み」 Enclosure は, 以上の 中 産 的 
農 .ェ 層と 利害が 相対 立し, エリザベス 治世の! ^主義の 絶頂 期に あっても, しばし 
ば^ そ の 他の 反抗的 態度に 後者の 意見の 反映が う かが われる ので ある。 さ ら に 国教 
派に 責族 • 僧侶 • 独占 商人が あ り , 中 産 的 市民 層の 間に, 力 ルヴ' ィ ン 派の 信仰が 浸透 

した こと も, この 対立 を やわらげる 要素と はならなかった。 

.^nv ムズ 1 世 は, 王権神授説 を 信奉して, ^^無視の 態度 をと り, 欧州の 調停者 
たらん との 自負 を 捨て 切れず, 成功せ ざる 外交 • 対外 戦争 〔直^ は 下さな かつ たが) 
に 手 を 出し, 宮廷 生活の 濫費の 始末 を^に 求め, 意に まかせぬ ままに, 関税 • 罰金 • 
爵位 売却 • 独 占 権 賦与 な ど に 財源 を 求めた ため, 産業 の 自由な 発展 を はばむ として 不 
評 をかった。 チャールズ 1 世の 治世に なると, ^^における イギリス 臣民 生得の 権利. 

獲^の 抗争 はさら に 積極 ィ 匕し, 年 「権利の 請願」 Petition  of  Rights を 通過した c. 
「今後なん ひ' とも 法令に よる 一般の 同意な く して は, なんらの (国王に 対する) 贈与' 
貸付 • 強制 献金 • 租税, もしくは こ の 種の 賦課の 支払い や 許諾 を 強制 されて はなら な 
いつ なんび、 とも その 件に 関して は, あるいは それ を 担 絶した がた めに, 回答 '宣誓' 
出頭 を 命ぜられ, 拘禁 もしくは その他の 方法で, 苦悩 や 不安 を 与えられて はなら な 
い。 自由 民 は なんぴとも 上記の いかなる 方法に よっても, 禁錮 '留置され たりして は 
ならない。」 というの がその 要旨であって, 未だ 国王 大権 そのもの に対する 激しい 直 
接 攻撃に 至らない にしても, 内外の 国家 政策 は 財政の 裏付けな く して は 遂行で きず, 
また, 額の いかんに かかわら ず^^の 同意な く して は 財政 収入が 不可能と なる 点から 
いえば, この 制定 は 革命に 近い ほどの 変化 を, イギリス ま法史 にもたら す ものと いえ 
よう。 王 はやむな く これ を 認めた が, 翌年^^ を 解散し, 以後,' 11 年間 召集せ ず, 星 

室 庁 • 特設 高等 法院の 活動 を 強化し, 国王 •  • 独占 商 入 • 宮廷 资 本家の 結託 を緊 
密 にし, 権利 請願の 原則 を 無視す る 専制政治 を 行った。 しかるに チャールズ は, 一 « 
長老 派が 的で あつ た スコッ ト ラン ドに, ィ ギ リ ス 国教 を 励行せ しめ ん としたた 
め, 反乱が 起り, 鎮圧の 戦費 を 得る ため, 1640 年, やむな く^を 召集した 。^は 
王の 要請に 応ぜず, かえって 独占, 船舶 税の 問題 を さげて 反抗的 態度 をと つたた め, 

—— 215 —— 


I 資料 編 


3 週間に して 解散 を 命ぜられ 〔いわゆる, 短期^  Short  ParliamenO, 同年, さ 
らに 新穀 (長期 議会 Long  Parliament) が 召集され たが, これ は 一層 反 国王 的で, 
宰相の 弾劾, 星 室 庁 '特設 高等 法院の 廃止 を 要求し 「大 諫奏 書」 の 提出な ど 革新的 決 
翥を 行い, 国王の 反対-; f 議員 逮捕の 失敗な どの 事件が あって, 国王 と^^の 対立 は 発 
火 点に 達し, それぞれ 武力 を もって 自己 陣営 を 固め, 1642 年, 内乱が 勃発した。 - 
オリヴ ァ- クロムウエル Oliver  Cromwell (1599〜1658 年:) 王党 (騎士 党 Cava- 
liers) は!! 教徒 • 旧教徒 を 主と し, 大 土地 貴族 • 封建的 地主 • 特権 商人 • 保守的 農民 
な どか ら なり, 西北 ィ ン グ ラ ン ドを 主要 根拠地と し, ^党 (R 頂 党 Rotind'neads) 
は 清教徒 を 主と し, 産業資本 家 • 自営 農民 を 中核と し 近代的 地主 • 中小 商人な どから 
なり, 東南 部 を 拠点とした。 戦闘の 初期 は 王党に 有利で あつたが, ^軍に クロム ゥ 
-  ノレが でる に 及び, 自営 農民から なる 織 徒 を 訓練して 鉄騎隊 Ironsides を 組織し, 
^いで^ 派 全軍 を 改編した 新 軍 New  Model  Army を もって 戦った 結果, 1645 年 
ネー スビィ Naseby の 勝利 以後 は 優勢 を 持続した。 この間, 議会 党内に 長老 派 Pres- 
byterians と 独立 派 Independents が 対立, 前者 は 主として 近代 地主' 商人 圖を 中心 

とし, 国王と 妥協して 立憲 王制 を 希望し, 後者 は 産業資本 家 • 自営 農民' 小市民より 
なり, 清教徒の 信仰に 基づき 共和制 を 主張した。 軍部に は 独立 派の 支 # ^が 有力で, 
クロムウエル は 苦慮しつつ 結局 軍部と; M 派に 依存し, 1(^8 年, 武力 を もって 長老 派 

を^から 追放し, いわゆる 「残存 議会」 Rump  Parliament の 決議で, 1649 年チキ 
ールズ 1 世 を 処刑し, 王制 を 廃して 共和制 を 樹立した。  ノ 

クロムウエルの 政治 クロムウエル は, この 国で 久しく 褒貶 はなはだ 定まらな かつ 
たが, 「生まれながら のゼン トル マンの 暮らし は 裕福で もなかつ たが, 微賤と いう ほ 

どで もなかった」 田紳 出身の 信仰 篤い 人で, ケ ンブリ ツヂ 大学に 学び, 1640 年の 短 • 
長期^に は 下院に 議席 を 持った が, さして 目立たず, 1644 年^ 軍に 従って マース 
トン 沼地の 戦いに 勝ち, 以後 漸次 頭角 を 現わし, 新 軍の 副将と なって 王 軍 を 破り, つ 
いに 革命の 主導権を握った。 この間, 軍と^, 革命 派と 国王との 関係に 悩んだ が, 
共和制 成る や, 国内 王党 派に 呼応した 旧教 国 アイ ル' ラン ド, 並びに 長老 派スコ ッ トラ 
ン ドの 反乱と, これら 新 政府の 混乱に 乗ずる オランダ 資本主義の 世界 市場 進出の 難局 
に 当面した が, 反乱 を 鎮定し, 特に アイルランド、 を 強圧し, オランダ に対して は, 「航 
g 例, Navigation  Act を もって 報いた。 航^^ 例 は 14 〜は 世紀 以来の 伝統的 国策 
でもあった が, この 時, 'ことに オランダ を 目標と して, 励行され たといって よい。 ま 
た 国内で は, 王党' M 存 勢力の 蠢動, 多年の 内乱に よる 国^ 済の 破綻, 大衆 生活の 
窮乏な どに 乗じて 水平 党 Levllers '真正 水平 党 True  Levellers  〔別名 Diggers) 
の 活動が あらわに なった。 こうした 諸問題 を 克服し, 市民 的 秩序 を 整える ため, 1ぼ3 

—— 216 —— 


近代の 世界 


年 「統治 章 典」 Instrument  of  Government を 制定し, ク 口 ムゥ: ^  ノレ は 終身の 「プ 
ロテク ター」 Lord  Protector に 就任し, ^^政治 を 始めた。 軍制 改革に よる 軍隊の 
強化と 治安 維持, 封建的 反動と 急^! 的 革新 運動の 抑圧, オランダと 和 約 を 結び, イス 
パ ユアと 戦い 勝って ジャ マイ 力 島 を 割 取す るな ど, 見るべき 政治 を 行って ィ ギ リ ス海 
上帝 国 活動の 基 をお いたが, しかし, 演劇 • 競馬' 闘鶏な どの 遊戯 を 禁止し, 居酒屋 
を閉 じて 禁酒 を 断行せ しめる な どの 禁欲的 政策の 行き すぎ は, 一般に 重圧 政治への 飽 
きを もたらし, その子 リ チャド— が, 父の 後嗣た る を 辞退した ころに は, 長老 派の 勢 
力が 盛り返し, 1660 年, チャールズ 2 世 (在位 1660〜85 年) の 即位に よる 王政復古 
Restration を 見た <> 

名誉 革命 Glorious  Revolution 王政復古 後, 召集の 議会 Convention  Parlia- 
ment で, 王党 派 は 長老 派より 多数 を 占め, 前約 を 無視して 政治犯 人 処刑, 没収 地の 
旧 所有者 〔貴族' 僧侶な ど) への 返還な どの ごとき 反動 政治と なった が, 国王の; 日教 
復興の 企図 や, 秘密 外交の 遂行な どが 暴露す る や, ^は 「審査 律」 Test  Act ひ 673 
年), 「人身保護 律」 Habeas  Corpus  Act  〔1679 年) を 発布して, 人権 尊重の 立法 化 
に 努めた。 ジ エームズ James  2 世 (在位 1685〜88 年) も また, 前 王の 反動 政策 を 継 
承し, 王権神授説の 信奉, 旧教 回復 や 審査 律 を 事実上 無効な ら しめる 特免 権 Dis- 
pending  Power の 制定な どの 反動 ± ^の 傾向 は, ホ イツ グ のみならず トー リー を も 
国王に 反対せ しめ, び88 年 両院 協定して, オランダ!^! オレンジ 公 ウィリアム Wil- 
liam, Prince  of  Orange と妃メ リ 一 (王女) を迎 立した。 無血の 名誉 革命で ある。 
年 ウィリアム 3 世と しての 即位に 当たり, 彼 は^の 決議した 「権利の 宣言」 
Declaration  of  Rights を 承認し, 法律と して 施行した。 これにより, ^の 承認な 
くして は, 法律 を 停止 または 免除せ ぬ こと, 常備軍 を 維持せ ぬ こと, 金銭 を 徴収せ ぬ 
こと, ^の »,  ^内の 言論 はと もに 自由で ある こと, 過重な 保釈金 • 罰金 を 課 
せざる こと, ^を しばしば 開く こと, などが 定められた。 

ァ ン Anne 女王 (在位 1702〜14 年:) の 治世に なって 1707 年, ィ ン グラ ン ドは ス コ 
ッ ト ラン ド 、と 正式に 合併して 大ブ リ テン 王国 United  Kingdom  of  Great  Britain 
となり, 〔1801 年に は アイ ノレ ラン ドを 合併 United  Kingdom  of  Great  Britain  and 
Ireland,  1821 年 北部 を のぞき アイ ル ラン ド、 の 大半が 自治領 となって United  King- 
dom of  Great  Britain  and  North  Ireland と 称した〕 この ころ 内政で は, 習 tS 的 
に 内閣 制が できた。 1714 年, ハノ— ヴァ— Hanover 家の ジョージ George  (在位 
1714~27 年) 入つ て, ノ、  ノー  ゲァ 一朝 を ひらき 〔1917 年 ゥ ィ ンザ一 家 Winsor と改 
称〕, 王の 擁立に 功の あつ た ウォール ボール Walpole  (1676〜1745 年) が, 国王に 代 
わって 閣議 を 主宰し, 現代の 首相に 近い 地位 を 獲^した。 1742 年, 彼の 内閣が 下院に 

—— 217 —— 


I 資料 編 


おいて s 半数の 信庄を 失った 時, 王の 信庄 にもかかわらず 辞職し, 内閣が 国王に では 
な く  , 国民 代表た る^に 対して 責任 を とるべき こ と を 明らかにした 0 かく て 政党 的 

^政治が 確立 され, 2 大政 党 交替の 議会 的 内閣 制が 慣行 される ことと なった。 しか 

し 経済 上 市民の 合 頭 は 著しい が, 社会的に は 土地 貴族が #S され, 政治の 実際 はなお 
すこぶる 貴族的で あつ た。 大^ 諸国に 比すれば 重厚な 18 世紀の ィ ギ リ スの 社会 は, 一 

股 的に 市民 的 色彩が 濃く, 文化の 水準 も 高かった から, 他の^ # 件と 相 まって, いち 
早 く 産業 上の « 的 活況 を呈す る ことと なる ので ある 0 

ァメ リカの 独立 

イギリスの 植民地 玫 策と アメリカの 対応 アメリカ^: 革命の 拫底 は, イギリス 値 

民 地の 発 S という ことに 帰す るが, そのうちに は is 州 それぞれの 社会的, 経済的, 政 
治 的 成り立ちが, 宗教 や 文化との 関連 を もって, ィ ギリ ス的, 民主的な 制度 を 建て, 相 
当の 自主的 実力 を 備えた こと を 数えねば ならぬ。 そして 直接の 契機 は, 母国 イギリス 
の 植民 政策の いわば 放任 か ら 管理 強化への 転換が, 上述の 植民地の 実情に 対する 認識 
不足 とから まった ところ に 求め られ よう。 イギリスと フランス の 争覇戦 は ことごとに 
事 端を繁 くした が, 劇'ト1 の マ 年 戦争 は, アメリカ では 「フランス - インディアン 戦争」 

French  and  Indian  War と して 戦われ, 植民地 人 は 軍事的 S 験と フ ラ ンスの 全面的 
敗退と に 自信 を 持ち, 植民地の 本国 俊存の 度合い を 低く 考える ようにな りかかった 
時, 本国で は その 逆に, 今^ T 仏 辺境 防皭. 载 費の 一部 を 植民地 負担と し, 不振と な 
つた 裒 イン ト、、 貿易の 植民地 貿^への 肩代わり を 図るな ど, その 政策が, ジョージ 3 世 
の 国内 王権 強化 策 を 背景と して, 強く 重 商^化に 向かった。 たとえば^^の 植民地 
政策 を 示す もの 〖こ, 羊毛 品^^  (1699 年), 帽子 条例 ひ732 年), 糖蜜 条例 (1733 年), 
^^例 ひ丁50 年〕 など-あり, いずれも 植民地 工業 を 抑制して, 本国 産業の 保護 を 目 
的と した ものであった が, 7 年 戦 # ^結まで は, それら は 厳重に 施行され る こと はな 
かった ので ある 0 しかるに 1764 年の 砂糖 法 一精 蜜 法の ごとく, 税率 はこれ を 引下げる 
が, 今後 は 実際の 徵収を 励行 せんとす るが ごとき 転換が 見られた。 特に 1767 年の 印紙 
条咧 Stamp  Act  〔値 民 地の 裁判所 文書 1 葉に つき 3 ペン ス, 船荷証券 4 ペン ス, 公 
職 辞令 10 シ リ ン グ, その他, 新聞 'パンフ レツ ト • カル タ などに それ ぞれの 印紙税 を 
課した も の) は, 植民地の 法律家 • ジャーナリスト C アメリカ に はすで に 30 佘 種の 新 
聞が あった〕 の 憤激 を かい, この種の 関税 は 外部 課税で なく, 純然たる 内部 課税で あ 
るから, 植民地 M の 出て いない 本国^ はか かる 課税 権 を 持って いない。 「代表な 
きと ころ に 課税な し。」 No  Taxation  Without  Representation と し, 印 糸驗例 会議 
を 開いて 対策 を搆 じた。 富裕な 商人ら と 結んだ 法律家' ジャー ナリ スの 中には 事を好 


—— 218 


近代の 世界 


お, M 派が 少なくなかった 0  3 か 月 後, 本 条例 は 撤回され, 砂糖 法 も 修正され, 植民 
地の 感情 はや や 緩和した。 ところが 新 蔵相 タウン シ-ン ド C.  Townshend は, 己の 
功 を 急ぎ 「タウン シ エンド、^ J を 制定して 特殊 品目に 対する を 施行 せんとし, 
またもや 植民地の 激しい 反対に 会った。 たまたま 年に は, 当時 破産に 瀕して いた 
東ィ ン ド 会社 救済の ためと オラン ダ茶 制圧の ために, 茶の ストック を 植民地に 直売す 
る 目的で 茶税 Tea  Act を 制定し, 実際に は 価格 を 下げた ので あるが, ^者ら は 

「ボス トン 茶会」 Boston  Tea  Party 事件 を 起し, ィ ギリ スは 威信 上, M の 強圧 法 
を もって 臨み, 武力 弾圧の 勢い すら 示した。 扇!^ 導 者サミ ユエル-アダム ス Samuel 
Adams は, 通信 委員会 を 結成して 情"^ 絡 • 宣伝に 努め, 1774 年に は, フ イラ デ ノレ 
フィァ で 第 1 回 大陸 会議 Continental  Congress が 開かれ, 植民地 代表者の 名に よ 
つて, 植民地の 不満, その 自由と 権利, イギリス 品 不買 を 宣言し, 各地に 委員会 を設 
けて その実 行 を 監視せ しめた。 

武力 抗争 イギリス 国王 は, 大陸 会議の 請願 を 拒否し, 武力 鎮圧 を 企てた ので, 植 
民 地 各所で 武装 防衛が 準備され, 1776 年 4 月, ポスト ン 西北 コン コ 一 ドでィ ギ リ ス軍 
と 最初の 衝突が あった。 5 月 第 2 回 大陸 会議で は, 平和的解決 方策, 武力 抗争の 2 面 
対策が 決議され, ワシントン G.  Washington ひ732〜99 年) を 植民地 軍 緩 司令官に 
任命, 6 月 パン 力— ヒルの 戦い, リー R.  H.  Lee の^: 動議の 提出が あり, 会議 は 
ジ エフ ァ一 ソン Thomas  Jefferson 以下 5 名の 委員に よ り , 宣言」 Declarati- 
onof  Independence を 起草せ しめ, 7 月 4 日 発表され た。 宣言発表 後, 78 年 米仏 同盟 
締結, 79 年 イス パ ユア, 80 年 オランダが 植民地 側に 立ち, 同年 これらに プロシア. ボ 
一 ランド' 両シシ リ一' トルコな どが 加わって 武装中立 同盟に より, イギリスに 当た 
つた。 これ は, T7 年の サラ トガ Saratoga 戦勝の 一 成果で あり, また, フランクリン 
B.  Franklin ひ706〜90 年) の 遣 仏 大使と しての 活動, ラファイエット La  Fayett, 
コシュ —シコ Koschiszko ひ746〜1817 年:) ら の 活躍の 結果で もあった。 それ ま で 独 
立 軍 は 各 植民地の 不一致, 軍需品の 不足な どで はなはだ 不振で, ワシントンの 統帥の 
力に まつこと 多く, また 一方 独立に 反対し, あるいは 中立の 態度 をと つた 者 も 多 かつ 
たので, 苦戦が 続いた ので あつ た。 ま たィ ギ リスで も ピ ッ トゃェ ドマ ン ド = パーク ら 
が, 植民地の 自由 を 説いて 反戦 論 を 唱えた。 かくて 81 年 ヨークタウン Yorktown に 
おける 植民地 側の 決定的 勝利に より, 事実上 終戦 を 迎え, 1783 年 パリ 条約に より 独立 
を 獲^した。 3fe に 反^ • した 人々 は 迫害され, カナダな どに のがれた 者 もあった。 

独立宣言 宣言に 盛られた 革命の 原理と いうべき もの は, 人 は 疑い もな くこと ごと 
く 平等に 造られ, 造物主より 奪い 難い 権利 を 賦与せられ ている。 その 中には 生命 • 自 
由 及び 幸福の 追求が 含まれて いて, これらの 権利 を確屎 する ため, 人類の 間に 政府が 

—— 219 —— 


I 資 料 編 


樹立され, その 政府 は 正当な 権力の 根拠 を, 被治者の 同意から 得て いるので あるから, 
い かなる 政府に しても, 如上の 目的 を 破壊す る よ う な もの は, これ を 変革ない し 廃止 
し, 民衆の 安全 と 幸福と を もたらす ような 主義と 機構に よる 新たな 政府 を 創設す る 権 
利が あり, 義務が ある, というの である。 

合衆国 憲法 第 2 回 大陸 会議が, 各 植民地 連合 体と して 戦争 遂行に 当たって いたが 
弱体であった ため, 1781 年 連合 規約 を 作成し, それによ る 連合^が, 植民地 共同の 
問題の 処理 を 続け たが 5 な お 弱体た る を 免 かれず, 独立 後 は, 特に 強力な 憲法の 制定が 
要請され, 1887 年, その 会議 は 委員ら の 英知と 善意に よって 危機 を 避け, 合衆国 憲法 
を 制定し, 翌年 発効した。 その 前文に 曰く,  「われわれ 合衆国 国民 は, より 一層 完全な 
る 連邦 を 作り, 正義 を 樹立し, 国内の 安全 を 保障し, 共同の 防衛に 備え, 一 股の 福祉 
を 増進し, かつ, 自由の 恵与 を われわれと われわれの 子孫と に 確保す るた め, この 憲 
法 を アメリカ合衆国 のために 制定す る 0J と。 立法 • 行政' 司法の 3 権 を 分かち, 立 
法 権 を 上院 Senate  • 下院 House  of  Representatives から 構成され る 連邦議会 
Congress に, 行政権 を 任期 4 年の 大統領 President に, 司法権 を 最高裁判所 及び そ 

れ 以下の 裁判所 〖こ 与え る と 規定した。 合衆国 憲法の 支持者 を 連邦 主義者 Federalists, 
K ^者 を 共和主義 者 Republicans と 呼び、, 前者 は 海岸 地方の 富裕 者, 後者 は 同地 方 
の 小 商工業者 • 西部 農民な どで, 憲法 は 独:^ 言の 目的に 反する と したので ある。 
1789 年, 憲法に 基づく 新 政府 を ワシントン 大統領の 下に 樹立し, 以後 1婢 間, 政権 は 
保守的 連邦 主義者の 手中に あ り , 1800 年 南部 自作農 を 背景 とする ジェ ファーソン Jef- 
ferson に, 1828 年に 東部 労働者. 西部 開拓 民に よる ジャック ソン A.Jackson  (1767 
〜1845 年) の 手に 移り, 辺境の 西 進と ともに 新 国家の 本領が, 漸次 発揮され る ことと 
なった。 米国の 独立 は, 英国に 商工業が めざましく 興隆した のと 期 をと もに して 起つ 
たが, アメリカの 広大な 土地 は, 植民地 の 政策の 影響と ともに, なおしば らくこ 
'の 国 を 農業 を 主と する ものたら しめた。 

フランス 革命 

イギリス, m 想と 啓蒙思想 »ォ 主義に 対する 市民 的 抵抗が, はなはだ 不完全な 形な 
がら, 先ず 果実 を 結んだ イギリスに, 君主 • 民主の 政治 思想の 二つの 源流が 代表され 

る。 ホップス T.  Hobbes  (1588〜1679 年) は, その 著 「リウ、、 アイ ァ サン」 Leviathan 
(1651 年) (水田 洋訳 岩波 文庫) において, 現実 人生の 不安 を 痛感し, 人類の 自然 状 
態 を 万人の 万人に 対する 闘争と 考え, この 争乱 を 防ぐ ため, 自然法に よって 各人が 本 
,等 に 与えられ た 権利 を , 一人 ま た は 合議 阵の 主権者 に 契約 によって 引き渡し, 国家 
を 成立せ しめた わけで あるが, こ う した 性質 を 持つ 主権者 側に 契約 皿 はありえず, 


220 


近代の 世界 


また 彼 を 行動せ しめる 人民 は 契約^ M を 理由と して 主権者への 服従 を 担 否し えない, 

従って 人民 は 主権者の 非 を 責めえない とした。 彼 は 君主 • 貴族' 民主の 3 政体の う ち, 
君主 制 を 最上と し, 如上の 主権 解釈と と も に «ォ 主義 擁護の 傾向 を 示した。 。ック 
John  Locke ひ632〜1704 年:) は, 「政治 論」 Two  Treaties  of  Government  (1690 
年:) において, 人類の 自然 状態 を 自然法の 支配す る 世界と 考え, 自然法 の 維持の 
ため 社会 を 構成す る 各 入が, 契約に よって 国家 を 成立せ しめたと し, 契約に おける 各 
入の 権利の 委託が, 国家 主権の 内容で あるから, 主権者の 圧制に 対して は 革命に よつ 
てこれ を 是正し うると, 人民の 抵抗 権 を 肯定した。 このような 政治 思想の 流れ は, す 
でに ルネサンス のうちに も 瞥見 したと ころで, 決して イギリス のみに 限 られ ぬが, 現 
実への 影響 という 点で 住 目され る。 たとえば ルソ一 ゃジヱ ファーソンの 政治 思想 に は 

n ックの 影響が 大き く, 米の 独立宣言 や 仏の 人権宣言 にも 示されて いる。 英国 革命の 
刺激 は フランスの フロン ト、、 の 舌し に も 見受け られ る。 
フランス 啓蒙 主義 

ヴォル テール Voltaire  〔1694 一 1778 年) は, フラン ス 小市民 出身の 自由 思想家と 
して 1726〜29 年 に イギリス に 遊び、, そ の 地の文 学 • 哲学 • 宗教 • 歴史 • 政治な ど を 
研究し 「イギリスに 自由が 打ちた てられる に は, もちろん 高い 檨牲 お払われた。 いく 
つかの 血の 海な もって して, やつ と 専制 的 権力の 偶像 を 溺れ 死なせる こ と がで き たの 
である。 しかし イギリス 人 は, 彼らの 法律 を 法外な 高価で あがなつ たと は 思って いな 
い。 ほかの 国民 も 彼らに 劣らず 擾乱 をな め, 血 を 流した。 •••••• イギリス では 革命に 発 

展 する もの も, ほかの 国で は 単なる ー撲に 終る 0J と 書いた 「哲学 書簡一 ィ ギリ ス書 
簡 J  〔林:^ 訳 岩波 文庫:) 公刊の 1734 年 ごろから, イギリス 思想 は 「その 持つ 古典 
主義 的 思想に 似ざる, 最も 反せる, 最も 敵対せ る ものに よって」 (ブリュン チヱ  一 ノレ) 
ことに 強く, フラ ン スに勵 きかけ た。 ィ ギ リ ス 政治に おける 「仕合わせなる 混交 ,下院. 
上院 及び 王の 間の この 協同」 に $ その 国の 歴史的 努力の 跡 を 読みと つた ヴ オノ レテー ノレ 
が, 「フランスの 内乱 は, イギリスの それらよりも ずっと 長く ずっと 残酷で ずっと 犯 
罪 を はらんで いた。 しかし, これらの 内乱の すべて を 通じて, 誰 ひとりと して 節度 あ 
る. 自由 を 目標に 掲げた ものはなかった。」 (哲学 書簡) と 考えた 時, 彼が さした の は, 
フロン ドの 舌し な どで あつたに しても, のちの フラン ス 革命の 経過 を; わせる も のの あ 
る の は 興 险 が ある。 彼 はの ち に, プロシア 王 フレデリック 大王に 招かれ ベル リ ン に も 
滞在した。 政治的 野心, 蓄財 投椟癖 もあった が, その 卓絶せ る 多面的^ ^を もって, 
機知 縦横, 流暢な 策 を もって 当代の 宗教 '政治. 裁判の 暴露 • 諷刺 を 行い, 堕落せ る 
僧侶 '責 族ら 支配^級 を 恐怖せ しめ, ために しばしば 迫害 を も 招いた。 宗教に おける 
理沖 論, 哲学に おける 感情 主義と 理性 論, 歴史 研究に おける 批判に 深さ を 示し, 政治 


I 詧料 編 


的 実践 • 劇作な どで 知識 摺級 以外の 民衆に 訴え る 力 も 強 かつ た。 (池 田 薰訳 「カン ァ 
一— ト、、 J 白水社, 「浮世の すがた J 岩波 文庫:)  . .  ' 

モンテスキュー Montesquieu  〔1689 — 1755 年:) は, 田舎 貴族の 出で ポル ド、 一高 等 

法 院長に 在職した ことがある。 その 著 「ペルシア 入の 手紙」 〔大石 誠 訳 石 波 文 & ソ 
け ぺ ノレ シァ 入の 見解に 託して フラ ンス 当代の 社会制度 • 風俗 習慣 を 批判した もので 
ある。 のち 欧州 各地 を 旅行し, イギリス では その 憲法 運用の 妙に 感動して, 三権分立 
主義の 思想 を 強めた 。帰国 後, 「口  — マ 入 盛衰 原因 論」 (大岩 誠 訳 岩波 文庫), 次い 
で 1748 年に 主 著 「法の 精神」 De 1'esprit  des lo is  〔宮沢 俊義訳 右 波 文庫〕 を大 肽 し 

た。 「法と は, 最 広義に おいて, 事物の 性質から 生ずる 必然的 関係で ある。 そして こ 
の 意味に おいて, すべての 存在 は その 法 を もつ。 神 も その 法 を もつ, 物質 界も その 法 

を もつ, 人間より 上位の 慧智的 者 も その 法 を もつ, 獣類 も その 法 を もつ, 人間 も その 
法 を もつ。 盲目的な 運命が この 世に おいて われわれの 見る すべての 結果 を 生ん7 こ, と 
言った 入た ち は, きわめてば 力、 な こと を 言った もの だ。 なぜなら, 一体, 盲目的な 逢 
命が 慧智的 者 存在 を 産む という ごとき ばか な こと 力1 有 りえよう か。 ゆえに, ま ず 原始 
理性が 存し, しかして 法と は, それに 他の 種族の 存在との 間に 存 する 関係 及び これら 
の蒱々 の 存在 相互 間の 関係で ある。」 (同書 「法 一般につ いて 」) と 述べて, 諸国の 法律 
制度に は, それ ぞれ 由来が あ り 来歴が ある。 そのよって くる 事情 を 明らかにして 初め 
て, 社会 '国家. 文物の 正当 の 在り方が 確かになる, つまり 歴史的 成立に 基づ 
く 政治 形態が, 最も 適切' 理想の ものである, と 強調した 。合理性 を « 事実の 上に 
確立し よ う と した 点で, 歴史主義の 考え方に 大きな 礎石 を 与えた o 

ディ ドロー  Diderot ひ 713〜84 年) (「ラモーの 甥」 本 田 喜代洽 訳, 「盲人 書簡」 加 藤' 
吉村 訳, いずれも 岩波 文庫:), ダ ランべ— ノレ DZAlembert  (1717〜83 年) らも, 啓豕 
派の 有力な 闘士で, 彼らに より 百科全書 ひ?50〜69 年) が 編纂され 「科学'^' 技 
術の 合理的 辞典」 として, 当時の 知識層に 大きな 影響 を 与えた。 多方面' 多数の 当時 
の 名流 を 執筆者と したが, すべて 理性 を 最高と し, 法王' 聖書の 権威 を 認めず, 専制 
政治 否定 の 立場で は 共通して いたと いってよ い。 ために 政府' 教会の 干渉 を 受け 発禁: 
夕 IL 分に なったり しつつ 28 巻 を 刊行した。 

ルソー j.j,  Rousseau ひ ?12〜78 年) は, ジュネ —ヴ、 の 職 入 層に 生まれ, 流浪し, 

当時の 文明 を 批評して, むしろ 呪う 風が あり, 激情 的で 異常な 印象 を 与えた。 17 お 年 
の 「人間 不平等 起源 論」 (本 田 喜 代 治 訳 岩波 文庫) で, 「わたく し は 人類の 中に2 種 
の 不平等 を 考える。 一つ は それが 自然によ つて 設定され る ものなる が ゆえに, 私が 自 

然的 また 物質的 不平等と 名 づける もので, これ は 年齢 や 健康 や 体力の 差, 並びに 精神 
の 質の 差から 成る。 他 は, それが 一種の 規約に 依存す るが ゆえに, そして 人々 の 合意 

 222 —— 


近代の 世界 


'、によって 設定され, もしくは 少なくとも 認可され る ものなる が ゆえに, これ を 道徳的 
あるいは 政治的 不平等と 名 づける ことができる。 この 後者 は ある 若干の ものが. 他の 
者ら の 損害に おいて 享受す る 種々 の 特権 ~~ "彼らより も 富裕で あると か, 尊敬され て 
いると か, 有力で ある とか, あるいは も つ と 進んで 彼ら を 自分に 服従させる とか, いつ 
たような — から 成る」 と 説き 起して, 国家の 成立に よって 私有 及び 不平等の 法が 確 
定 さ れ, 国家権力が 合法的 権力 か ら 恣意的 権力に 移行す る に つれて 変化す る 不平等の 

様相 を 説き, 1762 年 「民約論」 Contrat  Social 〔平 林 初 之輔訳 岩波 文庫) で, 「入 
は 生まれた と き は 自由で ある。 しかるに 人間 は 至る ところで 鉄鎮 につな がれて いる。 
自ら 他人の 主人で あると 信じて いる 人々 も, なん ぞは からん, かえって 自分が 支 @2 し 
ている 人よ り も 一層 奴隸的 状態に あるので ある。」 と 論じて, 社会 組織のう ちに, 正当 
にして 確固たる なんらかの 政治の 原則が あり うる かいな か を, 経験的 事実よ り も, 先 

かい り 

験 的な 理念と して, 個人の 自由と 全体の 意志と が 分裂し ない, 正義と 利益と が乘 離し 

ない 社会 を 確保 せんとした。 また 「エミ —ノレ」 £mi]e  (平 林 初 之輔訳 岩波 文庫) に 

おいて, 自然に 帰れの 哲学 を 教育 論に 展開し, 「すべて 造物主の 手から 出る 時 は 善で 

あるが, 人間の 手に 渡って 悪く される」 ことなから んと 期した。 ルソーの 思想 は, そ 

の 魅力 ある 文章に よって 読者 を 刺激した 。彼の 愛読者の 一人であった カン トが, 「啓 

蒙 と は 人が 自ら 其の 責を 負うべき 未成年 か ら 脱出す る ことで ある。 未成年 と は 他人の 

指導な しに はおの れが 悟性 を 使用 しえない ことで ある。 こ の 未成年の 責を 自ら 負う ぺ 

しと は 未成年の 原因が 悟性の 欠乏に 存 しないで, 他人の 指導な しに これ を 使用す る 決 

心と 勇気と の 欠 艺に存 す る 場合 を いう。 それ そ ゆ に  《汝 自身の 悟性 を 使用す る 勇 

気 を 持て》」 (カント, 「啓蒙と は何ぞ や」) といった が, かかる 悟性の 対決した もの 

は 旧制度に ほかなら なかった。 ルソーの 思想 は, モンテス キューと 並んで 後代に 一層 
深い 影響 をと どめた。 ' 

旧制度 Ancien  Regime フランス 革命 以煎, | ^主義 期 の アンシャン-レジ ーム 
社会 は 封建的 身分 制 社会で, 支配階級に, 第 1 身分と いわれた 僧侶が あり, 全国的に 
広大な 土地 を 所有す る 教会 を 持ち, 人民から 租税 を 徴収し, 自ら は 免税の 特権 を 持ち ノ 
第 2 身分と いわれた 貴族 は, 土地 所有に 立脚して 国家の 高級 官職 を 独占し, 莫大な 収 
入 を あげ, 自ら 免税 その他の 特権 を 持った。 その 下に 第 3 身分と 呼ばれた 被 支配 層の 
商工業者 '農民ら があった。 しかし 僧侶に も 上下 両 層の 分離, 貴族に も大 貴族. 僧侶 
資族 • 地方 小 貴疾の 分裂が めだち, 第 3 身分に も, 租税 請負. 金融. 投機. 買 占. 外 
国 貿易な ど 絶対 王政と かかわり 深い 犬 市民 罾 と, それ 以下の 小市民 '農民ら と の 間に 
ははな はだしく 利害 を 異にする もの あり, 特に 大多数の 農民 は, いまだ 封建的 諸 義務 
^抑圧 下に あり, すでに 地方に よって は, 生産物 地代が 崩壊して いた にもかかわらず, 


―] r 資— 料 編— 

領主 貴族の 必要 か ら , is 世紀 後半に か え つ て 封建的 反動が 強化 さ れ, 農民の 不満 は 深 
刻であった。 その他, 職人. 労働者ら の 無産者 層が あつたが, 階級:^ は 一 股に いま 
だ 明瞭で はな かつ た。 

革命の 直接の 契機の 第一 は, 国家 財政の 窮迫であった。 ルイ 14 世 • 15 世の 濫費 以^: 

の 積弊で あるが, 特 ^^TT^^S^ 干与 (その 経費 20 億リ ーブ ノレと いわれる) 以 

来, 財政の 年次 赤字が 解消し なかった。 年の 財政 報告 は, 支出の 20% に 当たる 
126C0 万リ— ブルの 赤字 を 示し, 89 年に は 借金 額 45 億 リーブルに 達した。 1726〜41 年 
の 期間に 比較し, 物価 65%, 賃銀 22% の 上昇が あって 購買力 も 低下し, 担税カ 〔しか 
も 10 年たら ずのうち に税 総、 額 は 14卯0 万 リーブル 増加) の 限界 を 示し, 増税に よるた 

て 直し は 至難であった。 同時代 人の 攻撃の 的であった 宮廷' 朝臣の 濫費の 節約と いう 
こと も 時 饞 を 失し, 国 匱に よる 方法 も, 負 匱の ための 支 私い が 歳入の 60% に 達する 状 
況 では 困難で あ り , 逆に 国債の 即時 停止 さえ 必要な 有様であった。 残された 唯一の 救 
済 策 は, 納税 義務の 免除 特権 (不動産 所得 は, 上記 期間に 増加して いたと 見られ 

る〕 を 廃して, それぞれの 支払 能力に 応ずる 課税 を 公正に 割り当てる ほかなかった0 チ 
ルゴ  一 Turgot ひ 727〜81 年) の 改革 も, 貴族. 僧侶への 課税, 課税の 均一, 賦役 
の 廃止, 各種 封建的 特権に よる 収入の 全廃 を 目 ざし, ネッケル Necker  (1732〜1804 

年) が 財政 報告 を 公開して 財政難 克服に 一般の 支持 を 求めた の もこの ゆえで あり, さ 
らに カロンヌ Calcmne ひ 733〜1802 年) の 1788 年 の 名士 会 召集の 失敗 も, ブ リエ ン 
ヌ の印« 案に 対する パリ —高等 法院の 反対 も, いずれも 特権階級の 反対に より 目的 
を 貫徹し 得なかった o この 中央集権 反対の 貴族. 官僚の 攻勢 は, 革命の 第一歩で あつ 
た すなわち, 革命の 直接の 契機の 第二 は, このような 政洽 機能の 麻痺で ある。 これ 
はさ 僚と 貴族との 結合が, たとえば 上の 高等 法院 がその 権限 を 主張して 王権 を 阻止し 
たように, 国家 機能に 割拠 的 分立 を もたらし, いわゆる 尾 大不擴 の はなはだ しさ を 
露し, 中央 政権の 威令が 全 く 行われな く な つ た。 行政 機構 も 封建的 残 淳が多 く  , 複雑 
^きわまり, きわめて 非 能率的であった。 禱》: —つ  ' #b 

革命の 勃発 されば 中央政府の 税制改革 による 財政 建て直し 案に 対する 特権階級の 
反対と 攻勢 ひ 786〜S8 年) を もって, 絶対主義 に対する 革命が, 反動的 性格 をお びて 
はいるが, すでに 始まった と 見る こと (ルフェーブル) に は 理由が ある。 この 反対に 
より, 政府 は 170 年間 開かれなかった 三部 会 召集の やむな きに 至り, 国民の 緩 意に 改 
革の 方途 を 問 う 方向 を と る に 至つ た。 時 あたかも 1786 年の ィ ギリスと の 通商 条約 締結 
により, 流入す る 低廉な ィ ギ リ ス 商品が フラン ス 産業に 破壊的 影響を及ぼ し, 1788 年の 
凶作が ようやく 日 常食 料に ひなき, 啓蒙 主義の 思潮 は 浸潤 し, 都市で は 政治的 意識 も め 
ざめ つつあった o 1789 年 月の 交, 少なからぬ 期待 を もって 三部 会の »が 行ね 

■ —— 224 —— 


近代の 世界 


れ, 農村の 反 領主 的 運動の 展開, 飾に おける 大衆 難 廃止, 食料品 値下げ 要求の 叫, 

び o 中で, 5 月 5 日 3 部会が 開催され た。 しかるに 政府 は^の 運営 上 重大な 手落ち.., 

を 犯し, 議決 法が 瞹睐 であった。 平民 部 は 会議 決議 規則 を 巡って 特権 锴級 代表と 決裂, . 
国王 ルイ 16 世 は 会場 を 閉鎖した ので, 彼ら は 6 月 20 日, ヴ エル サイ ュ 宮殿 近傍の 旧テ 
ュス- コート の 広間に 会して 新 憲法 制定まで 解散せ ざる を 誓い C テニス-コート の 誓 
い;), 特権 il 鈒の 一部 も 合流して 国民^  National  Assembly と 称し, 国王 もこれ 
を 認めた ので, 憲法^^と 称して 憲法 制定に 着手した。 しかし, 不安 を 感じた 国王 は 
CTl 派に 乗ぜられて パリ 付近に 軍隊 を 動員し, ^^弾圧の 印象 を 与えた。. この間, 農 
作物の 市場 不回 り , 工業 生産の 渋滞な どに よ り , 生活費の 高 縢した 時期に 失業が 増加 
した。 民衆の 間に は, 賦課の 十分の一 税を 徴収す る 僧侶' 貴族 や, 穀物 投機 を 行 
う 犬 商人 を 憎む 声. 高く, 供出と 公定価格 を 要求した。 麦の 取 入れ 直前の 7 月, 特権 階 
級に 課 溜す る 政策 をと ると いうので, 一般の 人気 を 集めた ネッケルの 罷免の 報 は, か 
くて パリ 市民 を 激昂 させ, 7 月 14 日, 扇動に より 難して, パス ティ一 ュ Bastille 

牢歡を 破壊した o 

革^の 進行 暴動 は 全国に 波及した。 パリ 市民 は 自治 組織 〔コ ソ ミュー ン) を 持ち, 
自 TO 民 軍 を 編成し, 地方 都市 もこれ になら つた。 国民^ は 地方 騒乱の 報に 脅え, 
8 月4 日, 貴族' 僧侶の 特権た る 「封建制度 を 完全に 廃止す る」 決議が 採択され, 7 
月 26 日 「人 権官 再 ] Declaration  of  the  right  of  man  and  of  the  citizen を 決- 

翳 発布した。 しかし 封建制度 廃止に よって, 人身に 対する 諸 権利 は 廃止されたが, 土 
地所 有に 関する 諸 権利 は, 買い 戾 しうる 権利 を 認められ, 無償で 解放され る ことにな 
らな かった。 農民 は 解放 されても, 土地 は 解放され なかった ので ある。 パリ 市民 は, 
国王 • 王族'^ が, ヴヱル サイ ュに とどまる ことが 諸 弊の 原因と 考え, パリ 帰還 を 
希望して いた。 大量の 通貨が 亡命 貴族に より 海外に 流出し, パリの 商工業に 打撃 を 与 
え, 失業 増加し, 麦打ち は 終らず パンの 値 はさ がらず, 9 月に は パン屋の 店頭に 長蛇 
の 列が 続く 状態で, 10 月 5 日, 約 6000 名の パリの 女た ちが, 市庁から 武器 を 奪い 犬 
砲 2 門 を 引いて 先鋒と なり, 民衆' 兵士が 合流し, ヴ、 エル サイ ュに 行進し, 国王 をし 
て 入 M 言 を 承認せ しめ, 「パン屋の 主人と 家族」 を パリに 連れ 返った 。以来, パリ 
民衆の 政府 を 動かす 力が 強くな り, 革命 激化 を 促した。 

革命 は 国民^の 段? 昔で は, 貴族 出身の ミ ラボ— Mirabeau  (1749〜91 年、,', ラ フ 
アイ- ット La  Fayette ひ757〜1834 年) らの 立憲君主 派が 指導 的 地位に あった。 し 
かるに 革命の 進行が 足ぶ み 状態と なり, ^j! と 反動と が 混交し, 多くの 僧侶 は 教会 圧 
迫の ため 反革命 的と な り, 王室が 王妃の 兄 オース ト リ ァ 皇帝と 結んで 国外 脱出 を 試み 

—— 225 —— 


I 資料 編 


て 途中 ヴァ レンヌで 捕らえられ ると ひ 791 年 6 月), 革命 派 は 共和制 樹立の 方向に 傾 
いた。 革命 政権 は ジ 口 ン ド Gironde 党と ジャ コ パン Jacobins 党と に 分立し, 前者 
はし だいに 地方 的, 地主 的, 大 市民 的 性格 を 現わし, 後者 は 漸次 パリ 的, 小市民 的 性 
格 を 現わし, 両党の 対立 • 反目 はジ 口 ン F 的 議会主義が 優勢と なり, 年 9 月, 議 
会の 発布した 憲法 は, 主権在民に 基づき 一院制 を 採択した が, その » ^はき わめて 
制限され たもので, 市民 を 能動的 市民と 受動的 市民と に 分け, 前者に のみ 参政権 を賦 
与した。 能動的 市民と は, 満 25 才 以上の 男子に して, 3 日 分の 労賃に 相当す る 直 g 
(財^ D を 納付す る も ので, こ の 選挙権 所有者に よ り , 選挙人 (資格 は 10 日 分 労賃に 
相当す る 直接税 納付者) を 違 出し, この 遷挙 人に より 議員が 選挙され る ことにな つて 

いた。 同 議会 は, 行政区画の 統一, 行政 • 司法 機関の 確立, 国内市場の 統一な ど を 図 
つたが, 他方, 農民 は 農地改革の 有償 土地の 買戾 金の 支 キムい に 苦しみ, 労働者 は 団結 
権 を 禁止され 低 賃銀に おさえられた。 この 段階で は 富裕 市民 を 背景と する ジ ロン ト、、 党 
のブ/ レジ ョ ァ 革命に と どまる も ので あつ た といえ よう 0 

立法 議会 憲法 制定と と も 〖こ 国民 議会 は 解散して, 立法 議会 Legislative  Assembly 
が 召集され た。 この ころ 外国 君主 は 革命 勢力の 波及 を 恐れ, オーストリア は プロシア 
と 連合して 武力 を もって 革命に 干渉 せんとした。 1792 年 7 月, 議会 は 「たく さんの 軍 
隊が, わが国の 国境に 向かって 進攻して いる。 自由 をお それる すべての ものが, われ 
われの 憲法に 反対して 武器 を とっている 。市民 諸君! 祖国 は 危機に ある」 と 宣言し, 
国民 義勇軍 を 募集した。 7 月 30 日, パリに 到着した マルセイユの 義勇兵が 北上 途上 歌 
つたの が ラ = マルセ イエ— ズ La  Marseillaise で, 作者 はノ レジエ- ド= リ —ノレ Rouget 
de  Lisle である。 8 月, パリ 市民 は ジ ャ コ バ ン 党の 指導 下に 革命的 コンミューンに 
より, 王宮 を 攻撃して 王権 を 一時停止し, ^^も 解散した o 10 月 開かれた 国民^^ 
National  Convention では ジ ロン F' ジ ヤコ バン 党の 共和 派が 大半 をし め, 開会 当初 
王制 廃止 を 決議し, ジ * コ パンの 勢力 漸次 強化して, 1793 年 1 月, ルイ 16 世の 有罪 を 
満場一致で 可決, 次いで 死刑が 票決され, 1 月 17 日 執行され た。 

王の 処刑に よ り 欧州 各国 は, ィ ギ リ ス 首相 ピ ッ ト W.Pitt  the  Younger の 提唱に 
基づき, フランス 包囲の 大同 盟 体勢 を 形成した。 ジ n ンド、 政権 は, 進んで 列国に 宣戦 
したが, 国内 に も 王党 派の 反乱, ジ n ン ド • ジ ヤコ パ ン 両党の 対立 激化が あ り , ジ + 
コパン の 革命, ジ ロンド、 派 その他の 反革命の 動揺の 中に, 6 月, ダントン Danton 
ひ759〜94 年) •  ロペス ピエ  一 ノレ Robespierre  (1758〜94 年:) • マラー Marat ひ744〜 
93 年:) ら の 指導 下に ジ 口 ン ド党を たお し, ジ ャ コ パン の^^ 政治が 始 まった。 ジ ヤコ 
パン 党 は, 執行機関と して 公安委員会 Committee  of  public  Safety, 検察 機関と し 
て 保安 委員会, 革命 裁判所 Revolutionary  Tribunal な ど を 設け, 反対派 をギ。