Full text of "Matsu Jitsu Seito Iesu Kirisuto Kyokai ryaku shi" Skip to main content

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DATE DUE 











HIM 气 
































鎮 8 w 








DEC 1 


1 1992 






















NOV 2? 










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APR 1 3 


2005 






APR 2 1 


[005 































DEMCO 38-297 



一 ろ 

g ま 



長老 ヱドヮ ー ド、 H チ、 アン デ,^ ソ ン 原作 

長老 ジ ヨン: タブ „ ^ュ、 ス トケル 翻譯 




穌 基督?^ <p^ ris 



末日 聖徒 耶穌 基督 敎會 日本 傳道部 



ばし 5" き 

せ いた と 乙ろ ひと いやしく へんば とヽろ いた た^じ 亡つ し き, ぼう- も 力 

傲界 る. ゆ. の 入々 が 苟も 偏頗なる 心 を はく 乙 . なく、 唯 事ず-のみ を 知らん とする 希望 を W 

-is つじつ t;, と イエス -W リストけ うぐ わい れきし 上 5, いれきし まれ どく.^ よ ひひ- ひじ やう 1 も L ろ ,、 

て 末 徒耶穌 基督 敎會の 歷史; 讀.? K ば 該歷史 は 稀に 讀書 する 人に も 非常に 面白い は 力ら 

,VJ ?: うぐ わ し- e ちゃう ミこと もっと 5. う S '上ぐ しょう. 5 5 しん 

でなく^:^ハの敎會の主張するところは誠ー^气てぁるとぃ ふ最も有カなる證明の 一 つと なる. -信 

しかの, 4 ならず S はん お せいと 3- うたう しゃ がいけ うぐ. e い ん きし し も •<;- と ひ j- えう - 

じ.^ す、 加 之 日本に 於け る 聖徒と 求道者に は 該敎會 の 歷史を 知る は 最も 、お =i だなる 乙と て 

かん 乙 けうぐ わい りゃくし ほんやく ちゃくしゅ 

あると 成 じて 此の 「敎會 略 史」 の 翻譯に 着手し. のであります 

わ K ほんでんた うぶ やく &ん ?- しょ ほんやく た ちゃうら う , つ ^ヒ. f 一 

我が 日本 傳道 部の 役員 は 此の 書の 翻譯 をす ろ爲め 長老 ジ ヨン、 ダフ ルュ 7 ト ケル. 

かれ, じゅふ じ やう じゅ , ちゆつ じつ かつよ ばたら > た,' ^^o^ - ^ 

び まし や、 彼 は 此の 事業 を 成就 せんとて 忠赏 に且 善く 働きました 力 其の 他に 傳道 部に i 

t おは ぎ む もつ ば ほんやく み :5 た ^ ^ 

て爲ねばならぬ多くの義務がぁりまし^^ので、 專 ら翻譯 のみに 身 を 委ねる こと カ出來 ませ 

さ かみ めぐみ よ ゃゥゃ C なんやく じ やう じゅ » S う , いめ;^ 

なんだ、 去りながら 神の 恩惠に 因りて 漸く 此の 翻譯が 成就し ました 而 して^ 五 入の 才能 

^ ほんじん 乙れ ひ> やう かう えつ 乙ん せい と ろ かれら しんせつ そ , らい、 , 、ヒ - > - I » I 

ある 日本人に 之が 批評 A 校閲, と を 醒? した 處 彼等 は 親切に 其の 依 賴に應 じて 吳れ たのて あ 

ります。 



ほん.. よ た わ ぼつ じっせいと ィ エス キリストけ うく わい リ やぐし § ぶ けうぐ わ., すべ めいさい わた 

本書 は 只 我が 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會の 略史なる 故、 敎<12 の總 ての NJ との 明細に 百 一らず、 

たど せいき はじめ ゆん >0ん しお がいひ ラく. ci" き :&ん およ そ しんぽ はつ *! つ ぐわん もっと かんえ う 

唯 十九 世紀の 初よ. 5 現今に fff{ るまで 該敎會 の 起原 及び 其の 進步發 達に 關 する 最も 肝要なる 

じ けん たい リ やく せいかく き さい ほんしょ えいぶん ちょしゃ ちゃうら う I 

. 事件の 大略 を 正確に 記载 して あり IX す、 本書の 英文の 荖 者なる 長老 H ドヮ -ド、 H チ、 ァ 

ぐわん ん かくじつ けうく わい れきしお 上 けうぐ わい つかさら でんき せいさ じ らん ; J りゃくし へん 

ン デル ソン は 完全て 確實な る 敎會 歷史及 び敎會 の 司 等 S 傅 記 を 精査 熟覽し て 此の 略史 編 

輯 したので あります 

ほんしょ ほんやく とき ゆん ぶん おは さ/' い X ひつえう 乙と;^ ら <tt たお は じんめ 5- ならび ち めい 

本書 を翻譯 する 時に 原文に あった 多くの 些細なる 不必要の 事柄、 又 多くの 人名 並に 地名 

はぶ しか またはん やぐし やおよ そ くわん 乙 _ ^1 , や ひつえう かっし ゆみ ; 5 も れきし t- やう 

を 省き 1^ した、 併し 又 翻譯者 及び 其の 勸吿 者が、 必要に して 且 趣味 あらう と 思 ふた 歴史上 

けん /-\ おはく は でき ラ かぎ はんし 上き さい れきし ぐわん けい おは ふ またけ うく わ 5 たび 乙 

の 件々 を 多く 加へ、 出來 得る 限り、 本書 記載の 歴史に 關係 ある 多くの 繪、 又 敎會が 度々 此 

t かしこ うつ とき みち す^しめ ち, つ ねん 5 乙 しら 乙れ ほんしょ 尸 

より 彼 所へ 移った 時の 道條を 示す 二つの 地圔 を、 念 を 入れて 港へ、 之 を 本書に 入れた の 

げんしょ とく なが ふ ろく そ !&ラ くわい ぶた さい 

であ 6 ます、 原書に はありません が 特に 長い 附錄を 添えて 「モル モ ン」 敎會が ! 夫 多妻の 

しゅぎ お 上 じっかう たい どうい ありさ a を い また^ はんでん おうぶ し たいりゃく 

主義 及び 實 行に 對 して 如何 云.,. 有樣 になって 居る かと 云 ふこと、 又 日本 傳道 部史の 大略が 

害いて あ 6. ます C 

しょくん ど はんしよ えつらん ばつ じっせいと た S しんかつ t パ上 がいせいと おの 1§ぅ 

諸君に して 一 度本窖 を閱覽 せらる, - ならば、 末: n 聖徒 カ大 なる 信仰 及び 該 聖徒が 己が 宗. 



け- f じ やう かくしん た ちまん う む けん かんなん しんぐ .i ぐぶん 4^ゥ.^~ぃ かゥ また じゃあぐ ず を 

敎 上の 確信の 爲め甘 じて 受けた る 無限の 艱難辛苦, V 幾分 か 了解せられ、 且又 邪 惡の人 ❖ が 

?;. f ぐ わい ば W ぞんそ tt く!^. い た ま H ん たい か、 • ひ じゃく み t けうく わい じつ 

敎會を 罵詈 I 讒訴し 迫害し 絕 えず 激しく 反對 したに 拘 はらず、 に 見えし 此の 敎會 が實 

, ^しぎ いちじる しん ぼ ぱ つたつ よ すぐな けいがく まお 

に 不思議に も 著しく 進步發 達しました こと 讀 みつ 、少 からず 驚愕 せらる、 であらう、 又 

熟讀 者はィ H ス、 キ リ ス ト の福音の敎理と儀^?^んに關することも書ぃ て ある 乙と も 知り ま 

. 丄 くハん わ. d& え 5 ゑん てんぷ すな « てんち つぐ リ ぬし かみ じん 2 る す ひ 

せう、 イエス、 キリストの 福音と は 我等の 永遠なる 天父 即ち 天地の 造 主なる 神が 人 額に 救 

あた まゥ たま みち す 

を與 へ ん とて 設け 給 ふた 道に 過ぎ せん 

がいけ うく わい まこと な ぼつ じっせいと イエス キリスト けうぐ わい ぼつ じつせ いと 乙と ぼ ゆん ざい せ 5 と せき 

該敎會 の 眞の名 は 末 U 聖徒 耶穌基 骨敎會 である、 末日 聖徒と いふ 言葉 は现 在の 垂 徒と liL 

じつ お i を しと じお い せいと くわん けい しめ もち 乙とば しか 

旧 キリス ト 及び 其の 使徒の 時代の 聖徒との 關係を 示さん とて 用. Q たる 言葉であります、 併 

しぽ けうぐ わい けうぐ わ i- しんじゃすな は せ ひと ー けうと さう をし へ そ しき 

し 屢< -敎會 は 「モ, ル モン」 敎會、 信者 即ち 聖徒 は 「 モル モ ン」 敎徒、 而 して 敎ゃ 組織 は - 乇 

チぅ も s- いう さ ごと はんし 上 き ふい ごと 

ル モン」 敎と いはれ るので あ 6 ます、 其の 理. S は 左の 如くで あう ます、 本書に, 迅载 せる. W 

き やう せい し 上 もつ 1 X せ 力 5 ひと さつ 

く乇〃 モ ン經 とい ふ聖 なる 書物が ジ ヨセフ、 ス ミス に 依..^ て 世界の 人. 6 に 授けら.:;; ま た, 

ぼつ じっせいと Z けいてん しんご しん さう こ けいてん けうぐ わい へづ じゅん てんせき 

末日 聖徒 は 此の 經典を 神 語と 信じます、 而 して 此の 經典は 敎會の 一 つの 標準 龍 ill て ある 

しんかう か でう A«, でう み 乙れ 上 けうぐ わい てき ことさら Z けうく わ. い <T* こと な もち さ 

( 信仰 箇條第 八條を 見よ ) 是に 依り て敎會 の 敬 は、 故に 此の 敎會の 眞の名 を 用 ゆ る こと, V 避 



てク ろう .S み もつ けうく わい あおな つ さう こ あたな ひろ 

けて、 嘲 勝の 意咏を 以て 「モル モン」 敎會 とい ふ^ 名. 仕付けました、 而 して 此の^ 名が 弘ま 

つたので 該敎會 は 「モ ル モ ン」 敎會 として 全世界に がられて 居る のて あります、 r モ ダモン」 

といぶ 名に は に KL すると こ が あ. ません、 如何と なれば 昔日 亞米利 加に モル モンと 

I ん., c\ ぶか かみ しもべ 乙 ひと き やう ^んし 上 へんし ふ 1 ゆん し fo* 

いふ 信心 深さ 神の 僕が あ. 9 ました、 此の 人はモ I 乇ン經 の 原書 を 編輯した る 預言者で あ 

また ことば い み たプ —さら よ * ザ 4- さん 

る、 ヌ i モ〃 モ ン」 とい ふ 言葉の 意味 はと 尋 ぬれば 「更に 餘 計の 善」 つ- More.goo(r) とい ふ 

ので ある、 實に r モ レ, モ ン」 敎は總 ての 善 を げ、 表して をる ので ござ S ますつ 

はんしよ こうこ けん あた あ i ねが は せいれい こ し 上 it あ Z れ a- し よ これ 

今 本書 を 江湖に 獻 する に當り 仰ぎ 願く は、 藥靈 此の 讲 と共に 在 、 此の 歴史 を 讀厶之 

^35 ひと ぼつ じっせいと IH ス キリストけ-つぐ わ i かみ ぐ わ 5 丄 ぐ ^3 i か しん 

を 研究す る 人々 が、 末日^ 徒耶穌 基督 敎會 に;, # の 恢復し 給 ふた も S であると 深く 信ずる に 

至り、 且、 イエ ス、 キリスト の 福 おは 神聖なる 眞现 であるとの 證據を 得られん こ トを〕 

明治 四十 八月 十二 日 

末日 聖徒 耶穌 基督 敎會 日本 傳道 部 



目 次 

as. べん 

第 一 編 

VI , たんじ やう. けうぐ わ. S さう 5- つ 

預言者 ジ ヨセフ ス ミス の 誕生より 敎會の 創立まで 一 S4) 



おい しゃう ぐす し いと あやし わざ 頁 

第一章 1 奇 くて 最怪き 事」 一 

in, の 震" s fH ス、 キ… 

I M あら は た a てんし とう りん 

ジ ヨセフ、 ス ミスに 顯れ給 ふ、 天使の 降臨 九 

おい しゃう せいざん ■ - そ たから I け ひてん ん £ きん =M し う 

第三 章 聖はク モラと 其の 寳、 ス ミス モル モン 經典 原書の 金^ を受く 一七 

たい しゃう きんぼん の き ろぐ はん. ぐ. 5flt そ ばつ. A,;> , 

第 四 章 金 版に 載せた る記錄 の翻譯 及び 其の 發刊 ニニ 

たい しゃ ラ かんえ う けいし I てん し, 3 ナ U 5 

第五 章 肝要なる 啓示、 ス ミスと カウ ドリ 天使より; を!.^ く 二八 

たい へん 

第二 編 

I 



第? 第 さ 第 



I 

ノレ 
ン 

グ 



八 七 七 
—八 二 



全 X- ォ 




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お 




ス 


產 さん ィ 




ラ 


獻' ズ ォ 






や 


ノレ 



しゃう - ぐん せいと はう ちく 

八 章 ジャクソン 郡より 聖徒の 放逐 

しゃう かう. うさい けつ &ん さう 3- つお 上 を はんむ 

九 章 高等 裁决院 の创立 及び 其の 任務、 ス 

しゃう - ?^ ん 

十 章 シ オン 陣 - …… 



たう そク 



敎會の 創立より 力 I ト ラ ンド 逃走 まての 事件 (S 一一 n£ 一一; 一十 十 4) 



たい しゃう 

第 一 章 

おい しやう 

第二 章 

お S. しゃう 

第三 章 

おい しゃ ゥ 

第 四 章 

^-^ しゃう 

第五 章 

おい しゃう 

第 六 章 

おい しゃう 

第 七 章 

X ゆん 



けうく わい さゥ W つ 

^#-^AU^^ -… : ► , -a 

き せきお 上 K ぐが. & a ぼぐ 

奇蹟 及び:?」 害、 ス ミスの 捕縳 三 八 

■ じん おいし ぷ がふ じん でん &ぅ 

イスラエル 人の 大 集合、 レ.' マン 人への 傳道 四 六 

= しう けうく わ 5- a てん 

ォ ハイ ォ 州に 敎會の 移轉- i 

せん y いさん けんな ふ はふ 

全 財 產獻納 法 、五八 

- ち せんてい 

シ オンの 地の 撰定 六 1 

■ S. とう ,ポ う お しん ほ ばん ばん こと すぐ ひ K く? -ハ なん ぐ t んさぅ 

力-トラ ン ド及ひ 東方に 於け る 進步、 萬 人の 異なれる 救、 迫害、 南お 戰爭の 



ほ • しゃう しとお よ K んく b い rC ん せんてい ^;ぐもし 

第 十 一 章 使徒 及び 七十 人會 員の 選定、 學問、 ァ ブラ ハ ムぁ、 r^.rlrr^i"s.:A 五 

しゃう — r> に ハと レ,?4っ^^』っ 

第 十二 章 ク 郡よ. 。SS 出 發、^ ^.^^T^ に 於け る I と 徒の ls、«« ^の ilg" 

えいこぐ でんおう 

英國傳 道 .: : 



九 〇ー 



お 5- べん 

第 三 編 

; ii fe^. き, よ , よ >ゅん しゃ じゅんけ う 



一- スゥ リ处返 去より 預言者 ス ミ ス の殉敎 まて (S 一一 

HHT 3 の gS なる ぎが k ぞ $ ffuf^p 

あ ■、 Tdrr 議、 £i、 ょ預靈 びそ 其の i、 爆に お 於け るで き K お ig 

せ i- ぐわん 

へ の 請願 - 九 七 

1 ゆ ,,^々5 ペも あんたん じゅうさつ はか W. ごと 

第二 章 雲 暗 擔、 ス ミス 统 殺の 謀 一二三 

おい しゃう おいとう り> う こうな , 'や ^^^^^ 广 I 

第三 章 大統領の 候 鞭者ジ ヨセフ、 ス ミスの の «K お、 

じゅんけ う . 

?,… :… … Ml 九 

第 四 編 

三 



い,. わんて う -, ^ つ r^e ど へ自 1 千 人 百 54- 四年ン 

大著 1 一一 ズプ "ガム ャソ ク敎會 を 一 百 る こと €」 千 八 百 七十 七 年 /- 



* おひ しやう 一 たいき 上 けャ 1 三 jp 

す I ゲゥ市 返 去の 契約 ニーア 

^ 、 y.- パ ちょうはつ 

ぎ 一 I" ^^=^しぁ よ. り は あ g せらる、 五 百 ふの-モレノ モン」 大隊の 徴發 5 四 

しみ ラ ぐんじ てきじ, ん 1 sit 

第三 章 二つの 軍事的 事件 一四 リ 

5 r し. 0-5 かぃた^-しゃぉょ さいしょ た&ご _ t i\ 

II 四 i4 開 者 及び 最初の 隊伍 - 一 五, 



II 五 彰.^ ブリ, カム、 ャ ン ,. ちの" jrly おとなる、 嬉の大 害、 多 敷の lis 西方への 移 

^. ^-^ 二ハ五 

S ii. si. 爾 湯の 靈、 B、Bg£ の sr. 51 

ぎしち S3 の ii、 ,tf s1.T%if% 霞 f 1 のし lr% 

< わい じうお 上 はんらん 】 七 .T3 

の 懐柔 及び 反亂 

おい しゃう えい ゑん けっこんお i . \ た, ■ !L い 1 \^.> 

第 八 章 永遠 結婚 及び 一 夫 多妻 一 i, 

5, し A う お き 上う さく てぐ 2 またい たいさい ^ V L 

i 九彰 "^凡に 於け る 凶作、 手車 隊の大 災難 一八 九 



ねい しゃう MMMMMMMi ゑんせ いぐん 

第 十 章 ュ -タの 遠征 軍 一九二 

た,」. S しやう くわい,^ ぐき かん かいしん うなが うんどう でんしん ぜんお 上 てつおう ふ せつ 3 ようどうし やうく わ 5- そ 

第 十 一章 恢復 期間、 改心 を 促す 運動、 電信 線 及び 鐡 道の 敷設、 シ オン 共同 商 會の龃 

しさ 

• 110111 

たい しゃう ぐわん w せ 5 と 乙ラ ゆき ^ 尸ち りよ かう さう ご はったつけ i くわいけ ラ いぐ おいく わんち やう 

第 十二 章 官吏の 聖徒 攻擊、 パ レ ス テ ン 地 へ の 旅行、 相互 發達 協會、 敎育、 大 管 長 

せいきょ 

ャ ン グの 逝去 - 二 10 

第 五 編 

おいく わんち やう ぜぃ asj ゆん ざい じけん 

大 管長 ャ ングの 逝去より 現在 まての 件 ajs: 八/, ハ钟) 

&ぃ しゃう た 5 くわん ちゃう せんてい けうく わい さう リ つ ねんき ねんさい 

第 H 早 ジョ ン、 テ イラ- 大 管 長に 選定 せらる、 敎會の 創立 五十 年 記念祭 …… ニー 七 

おい しゃ ク は, A あん V- つ-マう たいくわん ちゃう 5 ん ぜんち § う せいき 上 

第二 章 エド マ ン ドズ、 タカ 法案の 動搖、 大 管 長- プ イラ- 隱潜 中の 逝去 ニニ 二 

おい しゃう *5V 上く めんい つ べん K おいく わんち やう ぶ た さいきんし ぜん 

第三 章 局面 ー變、 ゥヰル フォルド、 ウッドラフ 大 管長と なる、 一夫多妻 禁止の 宣 

言 二三 ハ 

お^ しゃう せいと しんでん 

第 四 車 _^ 徒の 祌殿 - ニニ 九 

五 



第 s 第 s 第(^ 第|^ 



しゃう W やう ど === がっし g う 乙く とうや, けん しゥ 

五 章 倾土 ュ.' タ合衆 闘の 統治 權 ある 一州と なる: 

レ やう かいたく ねん 3 ねん ュ-ぃ 

六 章 開拓 五十 年の 記念祭 

しやう ぺ. & せいせん さう お < 广 

七 A 早 米 西 戰爭に 於け る ュ — タ兵 

しゃう おいく わんち やう せい 31 よ 

八 章 大 管 長 ゥヰル フォルド、 ク ッ ドラフ の 逝去 

おい しゃう たいくわん ちゃう けうく わい つかさど /0 と 

第 九 章 大 管長 & レンゾ、 スノ- 敎會を 司 る 事 - . 

-^v しゃう おいく わんち やう えら 

第 十. ¥ ジ ヨセフ、 ^- フ、 ス ミス 大管 長に 選ばる: 

おい しゃう . . I 3 ねん ひ 

第 十 一 章 ジ ヨセフ、 ス ミス 記念碑 

しゃう けつ ろん 

m 十二 章 結 論 

巧い しゃう けうぐ わ S ぶた 

第一章 「モル モン J 敎會と 一 夫 多妻 

しゃう は はんでん^う 

第二 章 日本 傳道 ■ 



揷畫 目次 

一 、 敎會 創立者なる 預言者 ジ ヨセフ 、 ス ミス, 大 祝福 師 ハイラム, ス ミス ロ檢 

二、 敎 會の大 管長 翁 首 

三、 功績 ある 「モル モン」 敎 徒の 男子 卷首 

四、 重立ちた る 「モ ^ モ ン」 敎 徒の 婦女 卷首 

五、 ク モラ 山 二 五 

六、 モ〃 モン 經典 原書の 三人の 見證者 今一 上 

七、 該經 典の 改良 埃 及 文字 全 上 

八、 レ I マン 人 即ち 通 稍 アメリカ 土人 四 九 

九、 力 I セ- ジ 獄屋 及び 虐殺の 當時 獄內に 在りし 四 人 1 三 五 

十、 放逐せられ たる 聖徒の 西方への 退去 ニハニ 

十 一 、 該 聖徒の 通過せ し 難路 全 上 

十二、 最初の 開拓者の 住みし 丸太 家 八に 上 

1 



二 



十三、 シ オン 共同 商會 二 七 

十四、 グ n -ゲス 末日 1^ 徒 病院 <H 上 

十五、 敎會 立學校 一一 一四 

十六、 敎きの 神殿 二三 

十七、 ブリ カム、 ヤンめ 開拓 記念碑 二-一七 

十八、 ジ ヨセフ、 ス ミス 記念碑 仝 上 

十九、 大鹽 湖上の 大水 溶 場の 內外 (サ〃 テ ー ァ) 二 四 六 

二十、 大會堂 所謂 幕 殿の 內外 二 五 〇 

二十 一、 日本 傳道部 を 開始した る 宣敎師 附錄: 二 五 

地圖 目次 

1、 ュ-タ と バレス テンとの 比較の 圖 一 六 〇 

二、 合衆國 東部の 圖 本文 結尾 

三、 "^西部の 圖 全 上 



ばつ じっせいと ィ H ス キリ スト はう ぐ わい しん んぅ " でう 

末日 聖徒 耶統楚 督敎會 の 信 g 筒條 

^-猜 i ,は 虚始 IS の?^ 1 な;^ 祌;^ _ ^ハ ィ ュス、 キリストと と を ず 

第二 條 我等 は 信ず 人. >は 自己の 罪の 爲に ira せらるべし、 ^^^^7の1の1|にぎせらる、に 

ま づ 

^^^^ ,でう われら 兄 ぼんにん ぷバ いん リ つば, - ぎ 1-3 f お、 -I 上く ざい t すく 

第三 降 我等 は 信す 萬 人 は 福音の^ 法と 儀式と を 守らば キリ ス ト の 代 贖罪に 巾 6 て.. ゾミ I 

ゆい でう われら —ん ふぐ いん ゆん, y く おも ぎ しき つぎ ごと おひ -P 

第四條 我等 j:- 信 5- 福音め, 小 則と 望なる 儀式 は 次の 如し、 曰く 第 一 は主ィ エス、 キリスト 

する 事、 第二 ヒ悔 改、 I 一は 罪 を赦 すため の 浸禮、 r お 四 は 匿 I を 1? ふるため の « 

手禮。 

1ル われら, しん, ひと ふぐ いん の かつ. V の y しき しっか- ブ 上 ん ナん しゃ あし i 上リ 

第 H=, 條; 我等 は 信す 人 は 福音 を 宣べ且 其 儀式 を 執行 せんに は、 預言と 苻衝 者の 按 とに 由 

て 神に 召され ずん ば 有るべからず 

カル 一う われら ハ- い け.? わい そん S-J い そ しき むな ,-J しき せ".: う ■ しん .-な ば 1 i 

第 六, 我 尊 は 古代の 敎會に 存在せ し龃 織と 同に き 钮織ヒ 正 富なる ものと 陰ず、 印ち 使徒、 

1 ゆん I や ほぐし けうし し; S くュ ぐし とう そんち /JJ^ f i f- n 

預言者、 牧師、 敎師、 祝福 師 等の 存 g 直是 な. 50 

' ^^^^ jut,. 4 う ャんヽ ぐ、 わい. ご, がた ちから ^ ゆん てんけい いしゃう や a ひ いや ちから はう ゆん と 

第 七^:,??? 一方? 5 外語? 語る の 力、 預言、 天啓、 異象、 病 を 癒す の 力、 方言 を 解く の 

力 等の 實在を 信ず 

第 .2 我等 は 聖書 を、 «f 、亂 £ せられた る K り は、 * &な. 5 と iS ず、 K モル モン g ビ 



. ^祌 語な. と 112^ ず。 

たい でう われら かみ すべ すで け し たま こと およ すべ けいし たま 乙と しん なた かみ 乙。 

第九條 我等 は祌の 凡て 旣に 啓示し 給 ひ. I 事、 及び 凡て 今 啓示し 給 ふ 事 を 信ず、 又 祌は此 

のち なほ かみ み ぐ は くわん おはぐ で: ^:ハ-ぃ けんく けいし た 3 しん 

後も尙 神の 御 國に關 する 衆多の 重大なる 件々 を 啓示 I 給 ふべ しと 信ず- 

たい でラ われら しん . —— びと まこと てんか し 上-こく しふが, \ じふし ぞく ぐ わい,^ ぐ 

. 第十條 我等 は 信ず イスラ ュ ル人 11 眞に 天下 諸國 よ. -然合 1 ベく、 十 支族 は 恢復すべし、 

—— MoynNnn はんた 5 リぐ アメリカ けん V- つ つ ひ みプか ちじ ゃラ 

ザ イオン (シ オン ) は 本 大陸 (亞米 利 加) に 建設 せらるべく、 キリスト は 遂に 親ら 地上に 

くんりん ち かう しん ^!^」のらぐ,^ムん ぐ わう えい う 

君臨す ベ く、 地 は 更新し て 其樂 園の 光 榮を受 くべ LO 

たい でう われら わが リゃ うしん i., い ところ したが まんのう かみ .5- い ぱい とぐ けん しゅち やう 

第 卜 一 條 我等 は 我 良心の 命ずる 所に 循 ひて 萬 能なる 神, ダ禮拜 する の特權 ある と を 主張 

また. S か やう い, つ 乙 そ の 上し れいはい われら おな とく けん 

す. 又れ-何 樣に まれ、 何處 に,^ れ、 其 善と する もの を禮拜 すると も 我等と じさ 特權 

ぼん. れん ゆる 

を 萬 人に も 許す 

たい でう われら てい わう ^5 とう W やう % し. やお t いうし ふぐ じゥ かっこぐ H.A じゅんぼう もんけ い し 

第 十二 條 我等 は 帝王 大統^、 治者 及び 苻 司に 服 從し、 且國法 を 遵奉し 尊敬し 支持す る 

せ. S たう しん 

の正當 なる を 信ず 

たい でう われら せ 5- ちよく しんじつ ていけつ じ せん 乙う とく ぼん はん せん お 乙な しん 

第 十三 條 我等 は 正直 信實、 ま 潔、 慈善、 厚德 なるべく、 萬 人に 善 を 行 ふべき を !一;;2 ず" 

け われら ぐんく わい のっと いう 5- は われら すべ こと しん サべ 

宴に 我等 は バウ D の 訓謌に 則る と 謂 ふ を 得べ し、 曰く 我 i 架 は 凡ての 事 を 信じ、 凡ての 

乙と の JV なり われら すで お ほく 乙と しの 3 たす ベ >J と しのえ の! V も 

事 を 望 ひ 也、 我等 は旣に 衆多の 事 を 忍べ-'、 又 凡ての 事, ど 忍び 得ん こと を 望む、 若し 

とくたい こと あい 乙と れいぶん AJtl もし しようさん こと われら すな は 乙れ お, つ 

德 高き 事、 愛すべき 事、 令聞 ある 事、 若く は稱讃 すべき 事 あらば、 我等 は 乃ち 之 を 尋 

ね 求む, - 



- ライ テ、 > ^ョジ 長 營大三 第 フ ラ ド ッゥ、 ドル オフ ルヰゥ 長 螯大四 第 




第二 大管县 



ラ【 



f7. 



プリが ム、 ャ: 



末 m 聖徒 耶穌 基督 敎會 略史 

たい べん 

第 I 編 

預言者 ジ ョ々 フ、 スミス の 誕生より 敎會の 訊 立まで 

(自 一 千 八 百 五 年 至 一 千 八 百 三十 年) 

おい しゃ 5 くす し いと あやし わ 《, 

第 一 章 「奇 くて K 怪き 事」 

口, 'マ はふ わう おい せ 5- んじ: S う てうて い み す のちし ゆうけつ-じい ゥ じ おい とも くわい 

, I テルが 羅 ml 法王 レ ォ r ル十 世の 縱 なる 朝廷 を见 松て たる 後 宗敎自 山の 時代と 共に M 

# ぎせん じ たい た ,らい しゅうけ うか いか <1 i や た しんがく じ やう かいかく ため はふ わう せん わう 

疑と 偽善 の 時 代が^ しま i た、 宗敎改 _5f^ が 建てた る祌學 上の 改^の 爲に 法王の 

けん りょく ぅちぐ<^- &f たしゅ- しゅち やう し はう 1§ うけう せん &ぅ しゃ おこ X なか ま 乙と 

る權 力が 打碎 かれしの みならず 又 極々 の 主張 や 四方に 宗敎 の先蕩 者が 起って 世の中 は 誠に 

ひと 5- っはリ てお て ^^^どはし たくみ たピ よは saAV をし へ かせ うごか 乙 ども 

人の 詭 誠の 術と 誘惑の 巧に B, され、 各 樣の敎 の 風に 搖働 された る罌兒 となりました 0( 以 

1 



二 

弗 所 窨四章 十四 節を见 よ) 

こ とき あた キリストけ うく わ いせんばん を さ みと もの し と 

是の 時に 當 つて 基督 敎 〈12 全般の 長と 認 むべき 者はありませんでした、 キリス トの 使徒の 

じ^んけ うまた し き 上い らいかみ みと たま はんる ひとこ i 乙と しんじつ す *へ 

殉敎 又は 死去 以來 神が 認め 給 ふた 權威 ある 人が 此の世に なかった 事 は、 異實て ある、 總て 

- ひと まこと ふくいん じう りん みと ゐ はん た 3 しと X ホん しゃ またし. ぐ ふくし ぽ くし 

の 人 は異の 福音 を 蹂躪して キリストが 認めて 委任し 給 ふた 使徒 や 預言者 や 又 gg 師、 牧帥、 

けうし も はや ストけ うしんと し ほう キリスト けう じ $1 ん V- い ぎしき す ひたすらみ . ^た 

敎師は 最早 あ 6 ませなん だ、 基督 敎 信徒の 司 敎は基 普敎の 純正なる 儀式 を 捨て、 只管 味方 

もと ため ユダヤ じんお t S けうと れいてん しきば ふ をし 《 じ すう わん あ ひ ic- すぺ 

を 求む る爲に 猶太 人 及び 異教徒の 禮典ゃ 式法 や 奥義 を敎へ 初め ま.!. た、 數 H 年の 問 凡ての 

キリスト. ばう しんじゃ たび. (- あっせい はふ わう かみ じぐわん そ けんる みと しか しゅうけ う 

基督 敎 信者 (度々 壓 制されて) 法王を祌の:^?として其の權威を^^^めましたが、 併し 宗敎 

改革の 勢力 は 人々 を 押 へ る 此の 力 を 打破し ました、 \ I テル や ツイ ングリ や 力 ,〃ゲイン や 

おこ のちし ゆう 4: うかい ぶん れつ みゴか ぜんな つ し 上う もの なん はん あら は 5 

クラ ヌ マが 起った 後宗 敎界 は, は 15s> て 自ら 先達と 稱 する 者が 何百 人と なく 現れ 出て ま 

かれら 乙 た ふとき Z ち ごと めし うけ もの あら ざ みヅか 乙れ とる もの 

した、 彼等 は 「此の 尊贵 (位地) はァ ンの 如く 神の 召お 受 たる 者に 非れば 自ら 之 を 取 者な し」 

S をし へ かろん みブか す/' おのれ キリストけ うく わ i ふ し^5ぅ 

(希 伯來書 五 章 四 節) と 云 ふ 敎を輕 じ 自ら 進んで 己 を 基督 敎ぉの 役人と しました、 かくて 宗 

けう かいかく つ ひ はュ わう そ らる ゅゴ w やう しん じ いうなん てい た ふと けんり ひと-^ あた 

敎改笨 は 遂に 法王 をして 其の 位を讓 らしめ、 良心の 自. E 斷定 なる^むべき^ 利 を 人々 に與 

しんけ う またき 上ぐ たん H し かれら う *t くな きうけう , ^くて つ ふ しゅうけ うじ やう けん -0 

ベました が、 新 敎も亦 極端に 走りて 彼等が 打碎 きたる 舊敎の 覆 te. を 踏んで 宗敎 上の 權威を 



ケ, か いた 5 かん か みみな ぎ し 3- お こな f いん のぺ つた 

僭す に 至りました、 如: 1: となれば 祌の 御名に よりて 偽 式 を 行 ふたり 一 恥 ._:^;= を宣 it へ たりす る 

けん も ひと あた はう WH た し そかみ けいし た 

の權 威が 人に 與へら る,. 方法 は 唯 二つの み 知られて ある、 其の 一 つ は 神よりの 啓示、 他の 

てレし ひと あら は さう たれ ひとり こ はう はふ ちょくせつ かみ 

1 つ は 天使が 人に 顯れる ことで ある、 而 して 誰か 一人で も 此の方 法に よって 直接に 神よ. y 

ザん ゐ う い きろく またう し 5 ちゃう ひと " 

權成を 受け.; i と 云 ふこと は 記錄 にもな く 又 受けた と 主張し.?^ 人 も あらませ なんた 力ら てす 

S ひとが つし S うこく さいお い しんれ S けうく わい * ぽ< し じ そ S いうよ 

* ロッジ ャ —、ゥ ヰ リア ム スと 云 ふ 人 は 衆 國の 最大な ろ 『1:! ^ 敎 の 牧師. しまし 1 ベ、 其の 理. S は 「世 

f いたう そしき けうく わい 3 たけう くわい *ぃ, つ ぎしき 乙れ しっか ラ r^s ん ひと メ 

に 正常なる 机 n ある 教 < ^なく 又 敎 會の何れの^^式とても之か執行すること.^スみ任されれろ人がぁリま^ ス 

チ うく たいしう あたら し と つか は たま とき かゝ う-, へ • 

のみならず、 敎 會の大 主.^:"ストが 新 しき 使徒 造 し^ふ 時 まて 斯ろ もの はあり 5£ 可 力らざる ものて 

われ かれらし ときた _w い _ 

我 は 彼等 使徒の 來る 1^ 待てり」 と 云 ふ あるの てし. ^0 

乙 ,んゐ か VI' ん へいが 夕 Ivz-O- お 乙 そ . ^も 52 Si ん あるひ なご、 ろ 

此の 權威 を輕 ずる ?- とか ら 弊.: 害が 續 々起って きまし.?: r 其の 重なる もの は 偽善 或は ffl; 心 

れハ ばい た へう めん れいはいし き お 乙な かいかぐ とさ せ, いき, ^じめ . W と 

の禮拜 でな く 唯 表面ば かりの 禮拜 式.^ 行 ふこと です、 改 の 時よ. 5 十九 世紀の 初 まて? k ん 

ねんかん ひと/;: \ あ y さ a かく ごと 

ど 三百 年間 人々 の^ 樣は斯 の 如き もので あ. ました 

むかし 上 ゆん しゃ いま まう じお. S みぬ なか ぁリ さな か い , 1 し 川 

昔 U の 預言 老ィザ ャは今 申した 時代 を見拔 いて 世の中の 打 樣を斯 く 曰 ふたの て ある 「主 

> ひた ま はく、 ?! の 民 は 口 を もて^に ちかづき 口唇 を もて われ を 敬へ ども その 心 はわれに 

とほ ざ かしこ ひと いましめ sa? 

遠 かれ-^、 ,v の われ を畏み をる \ は 人の 誡命 によりて をし へられし のみ, 乙の 故に われ 

! 11 



7J の: H のなかに て 再びく すしき 事 をお 乙な はん、 をの わざ は奇 しくして いと あやし、 かれら 

の 中なる 知;: 者の ちゑ はう せ、 聰 W 者の さとき はかく れん」 と (以賽 亞害廿 九 章 十三、 十四 節) 

てんし.? - おこな た S f すし 5 と あやし わざ すな K ふた /- おのれ けんる , ひと f,, つ ^3 

天主が 行 はんとし 給 ふところの 「奇 くて 最怪き 事」 は 即ち び 己の 權威を 人に 授け 給 ふこ 

.ぷ のれ けん ,3 いう ナ うく, CC, せ かい けんせつ たま これ *W たむ かし ん丄 

ど \ 己の 權威を 有する 敎會 を^ 界に 建設し 給 ふ こ と で ありまし たが、 此は乂 昔日 預き 59 

ダ 一一 H ルと 啓示 者 ヨハネの 預言 せし ことで あり ます 

め とき あ、 1 52 わう なん^?と,0 ときの ち 乙と い かス 

ダ 一一 ェ 〃は ネブカ デネザ < の麥を 解明して 曰く 「王よ 汝牀 にいり し 時 將來の 事の 如何 を 

おも ひ みつ .? は ものの ち 乙と いかん なん if > ち |§ ラ M ゆ/ - — ^.5- 

想 ひ,; H はした まひし が if 密, V 顯すギ め 將來の 事の 如何 を汝 にしめした へ. -, 中略 乙の 王 

ひ てん X ひとつ く S さ これいつ- は"、、 なか 一、 t おは ^^)^.-^: 

等の n に 天の 祌ー の を 建た ま はん、 是は 何時 まても 滅ぷる NJ と lli らん 此^ は 他の 民に 

き かへ つ もろ,, ,\ く S うちやぶ めつ れ たち え 5--^ ん - 、、! i L Rt 

歸 せず 却て 乙の 諸の 國を 打破, 5 て rJ れを滅 せん、 是は 立て 永遠に いたらん」 と (但 以理昏 

ニ章廿 九、 四十 叫 節) 

,ば わ, ひと リ てんの つか ひ ,y ら ち うれう とぶ み かれち 4 のすな は し 

ョ 「ネは 曰く 「^また 一 人の 天 便 の穹 蒼の 中央 を 飛 を 見たり、 彼 地に すむ 者 即で> 諸國 

し 上; y< しょいん しょみん のぺ つた ため かぎ リ なく と 乙ろ すいふ た, おは S ^ - ^ - ) . 

諸 族、 諸 音、 諸 に宣傳 へん 爲に永 遠 ある 所の 福音 を 携へ大 なる 聲 にて 曰け る は 刺を畏 

3 かえ これ き も《 かみ さ ば a- た S すで 5 た. , てんち, - う..,? おは, \ み J} ,^ fit と ま^ i 

れ榮を 之に 歸 せよ、 蓋 神の 藩 判し 給 ふとき 旣に 至れば なり 天地 海 及び 水の. ぬ を 造 り^ひ 



し 者., V 拜 せよ」 と (約 翰 默示錄 十四 章 六、 七 節) 

けいし ヽ, ク ホ ん . ^くいん い か くわい ふく せつめ 5- rQ aJ たいかみ さい 上う たま 

啓示 者ョ ハネの 言 は 福音 を 如何にして 恢復せ しゃ を說 明して 居ます, 古代 ig の 採 ^ し 給 

ばう はふすな I せ <• し 上 き さい と は てんし あら は けいし t ふぐ. &ん くわい ぷ产 

ひし 方法 即ち 藥 お:: に記载 して ある 通. 9 天使の 顯 れ.? ^る さと 啓示と によって 此の 福音 は 恢復 

せらる ベ きもので ありました。 

乙 はう ば.^ i か かみ み むね ひと- あらば た Is 

此の方 法なら では 如何にして H ホ バ (®) は 御 ilic を 人, > に 現し 給 ひませ うか、 キリストの 

しと じせ 5, ごと 乙ん はち か み い (すな は はぅ^-ゎぃ 1 し, と 上 ゆん しゃ もと ゐ う (た 一 一.' 

使徒の 時世の 如く 今 にても 祌の家 即ち 敎<|3 は 「使徒と 預言者の 基の 上に 述 てられ、 イエ 

み. つか をのす み おや 5 し , • 3 う ^. ^<K^ *L ^h. は丄、 

ス、 キリスト 自ら まハ 隅の 首 石」 (以恥 所 書 二 章 二十 節) となり 而 して^の^ 人は智 n 仏と 啓 一, 吓 

とを與 へる in 靈に滿 たされて あるべき でありました。 

みく /- よて. S- せつ うち おの そんざいお i じんかく しめ もつ あら も ひ (5 をん た." ん&. 

神 は^々 不定なる 說の ある 內に 己が;^ 在 及び 人格 を 示し 以て より 平穩を 建て- 紛亂 

もくてき ちわ si たお 5 . . , ル, か一 >^u 「,;^ゅ>とぺ;^ 

より 目的の 一 致と 和合 を 建て 給 ふわけ の ものであった のて ある 其 は 昔日の. W く 一 主 一信 

.S う A とつ ひとつ かみ すべての ひ." - T/* ひとつ ダ をし へ せ 

仰 一、 パブ テスマー、 祌 すな はち 萬 人の 父 一 なり」 (以邦 所 害 四 章 五、 六 節) と 云 ふ 敎を世 

人に 悟らし める 爲て ありまし.?; io 

せ 5- き a じめ t くす し わざ おこな K じ つ」 とき かみ お::? み, つか &は な^つ i:^ , 

十九 肚紀の 初に 此の 「奇き m_ ?.」 は 行 ひ 初められ し.? T 其の 時に 神 は 御 親ら ぎれ 又 天 35- 



ナ 

つかば みゴか い か せいかぐ .5- ラ よ S: ん しゃ けいし たま 

. ^遣して 親ら は 如何なる 性格 を 有する か を 言 者ジ ヨセフ、 スミ スに 啓示し 給 ひました、 

さう さいご ふぐ いんじ おい ば じ じ ゅぷ & K ん たま いか かみ ぼつ じつ 

而 して 最後の 福音 時代 を 始める 事業 をス ミ スに 委任し 給 ひました、 言ひ換 へれば 祌は末 口 

お ごじ \- ん まこと けうく わい かれ さう リっ を し き た a 

に 於け る 御自身の 眞の 敎會を 彼に 創立 させ 龃織 させ 給 ひました。 

さいご ぶく いんじ 41* い s かみ あらた ふぐ いん t じゅんす a ま \ しめ たま これ の を ぎしき しっかう けん 

. -, - 最後の 福音 時代と s ふの は 神が 新 に 福音.^ 其の 純 粹 なる 儘に 示し 給 ひ, 之, <He 一べ、 其の 儀式.^ 執行 マる 樺 

のう また おんけ うく わい ぐわん せん おこ しんけん ひと あた たま ま じつ けん な すべ 上 ゆん な 

能と 又 御敎 會.^ 完 全- 11 起 すべさ 祌櫂 と.^ 人- 」 與へ給 ふの て、 未だ 實 現に 成ら ざろ 凡ての 預言.^ 成らし め, 

ま せい 乙う すべて おんじ 卞,. "1 じ やう じ § こ せかい くわん み;:: ね ばた なた さい 乙う りん おはい 

未だ 成功せ ざる 一切の 御 事業 成 就 させ、 此の世界 LL 關 する 御 旨 異- し、 又 キリストの 再 降. 臨と 大 な. 

しんぱんび 上う い ひと-.; >■ たま じ ic!5- 

ろ te: 日との ffl 意 か 人 々にさせ 給 ふ 昨 代て あります 「一 

けいてん い ふしぎ きろく こ X ゆん しゃ A- つ よ いお 乙れ われ & 

乇^ モ ン經 典と 云 ふ 不思議なる 記 錄は斯 の 預言者に 依て 世に出され たもので、 此に 我等 

あい すく ひぬ し をし ふぐ いん そのぐ わん せん ま/- き さい 

の 愛する 救 主ィュ ス、 キリストに 敎 へられた る 福音 は 其 完全なる 儘に 記载 して あら.^ す、 

t ほん たび はん かさ なん ぐわん え 5 ご ばな く は. <^ ひろ あいどく ^ ぐ わ S 

此の 本 は 三十 度 も 版 を 重ね、 何千 卷 となく 英語 を 話す 國々 に廣 く愛讀 され、 十四 五 筒の 外 

こくご はんやく そ か/ J くご いくはん い ほど zJ た ふと しん リ よ 

阔 語に 飜譯 されて 其の 一 箇國の 語 だけで も 幾千 人と 云 ふ 程 此の 賁き眞 理を讀 みました。 

ねん ゆつ か がっし § う /J く 一一 ュ —ョ I クしラ —ぐん まち ぼ つじ ゥ せいと ィ H スキ リストけ うく わい 

一 千 八 百 三十 年 四月 六日に 合 衆國紐 育 州 セネカ 郡フ" H タト 町で 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會 

は 創立され ました、 啓示と 云 ふ 基の 上に 建てられました、 であるから 苦 n: キリストの 使徒 

R. ごと そ ゃ^-36ん かみ けん & ラ やくめ つと ふくいん たまもの ちから き やういう を 

等の 如く 其の 役人 は 神よ. 5 權威を 受けて 役目 を 務めて 福音の 賜 と 力と を亭 して 居り t< 



が 5- けうぐ わ S し めい へ 5 わ を もぐて き さ 5" こうりん ねん (いわ じ ない ひら た ひと- 

該敎會の使命は¥和で其の目的はキリ ス トの挥降臨ゃ千^^^-の平和の時代を!^く爲め人々 

上う 5 ばんみん みなこと. <\ き やうお 5 せ じん れぅ かい 

に 用意, vr& せて^ 民 は 皆 悉 く 兄 5fS て ある 乙と を 世人に 了解せ しむる 乙と てあります、 さ 

どくしゃし 上 くん うち あるひ うたが しか われ,、 そ せつ しん くう まぼろし やう わか 

れ ども 讀者 諸君の 中には 或は 疑って 「併し 我々 は 其の 說 信じない、 なる 幻 の 樣で解 

乙れ ^J おい X ゆん しゃ みぬ よけん すし わざ 

らな S こと だ、 是が 古代の 預言者が 見 透いて 预 言した ところの r 奇き 事」 である もの か-と 

い ひと 乙れ すな は ばつ じっせいと あやま せ じん いは ゆ けうと はしがき み 

言 ふ 人 も あら 5 が 口; が 即ち 末 H 聖徒 (過てる 世人の 所謂る 「モ , モ ン」 敎徒、 序文 を 見よ) 

しゅち やう い さも あらば あれ かれら くわ 乙 ねんかん れきし 

の 主張て あると 云 はねば ならぬ と 乙ろ てあります、 遮 莫, 彼等の 過去 七十 六^ 問 の 歴史 は 

C じどつ な せう し上ラ めい た かれら けう またみ T- か め? - はぐ 

此の 事赏を 多少 證 する に 足るべく 彼等の 敎義も ほら 明白と なる のであります ◦ 

Z ぷ しぎ たみ お 乙な じ f; ぷき さい きろく しら せいと t れ 

をれで此の不忍議なる民の行った!^^業が記載してぁる記錄を調べたならば、. 徒が 之 を 

しゅち やう w い う たしか い たれ 乙ば 

主張す る理. H は、 確に ある, V, 云 ふこと ケ- 誰も 拒む も," は あ. ますまい C 

ねん けうく わ 5 た 3^ ゎゴ ^ん <ゎ いるん 乙ん はち かず y はん ふ 

1 千 八 百 三十 年に 敎會に は ゆ 僅か i: 十 人の. $:: 負が あった けれども 今日の 數は 幾^ 人に ti 

はじめ けう V- わ 5- をし へ い ひろ ひと たヾょ けんしゃ いま 

えました、 初に 敎 AH の敎を 一一 一一 n ひ弘 める 人 は 預言者 ジ ヨセフ、 スミ ス ばかりであった が 今 

すぺ せんせ か 5- し; 5 うけう じ やう じ いう; J く せんけう し い けうく わい もっと は ゆ K くがい おか 

は 凡て 全仳 界の宗 敎 上の &:出 圏に 官敎師 が 行って をり ます、 敎會は Eg も 烈しき 迫害 を 侵 



はったつ くわい ゐんら ぽ うちく なや はう ち なた なかま やら ンゃ 

して 發達 しました、 八 n 員 等 は 放逐. せられ、 惱 まされ、 四方に 散らされ、 又; !:問 の预 iln^ と. 

しゅぐ ふくし をし (た む ぱぷ ぎゃくさつ しか せいと はく 5" い う たび ごと ゆうき ばい 

祝福 師が敎 の爲め 無 法に も 虐殺され ました、 併し 聖徒 は 迫害 を 受ける i!^ 母に 勇氣 百倍し、 

なへ ちから しんかつ tt ゆ はう くわ じ ゆ i しんかう じゅんけ うし や f はレ さき 

前よ. も 力と 信仰た を勵 まして 敎^ の舉業 を 進行せ しめました、 殉敎 おは 幾 十 人と なく 勇 

. *5!ん^^-上 いく はん せいと しう すみか おひい S t 

しき 男女 は 幾キ- 人と なく ありました、 徒が ィ リ ノ ィ 州の 住家よ, 9 追 出さ U て P ツキ 1 山 

よ まれ たいき 上ち ゆうかみ かれら ふしぎ めぐ たす た 3 せいはう さ ばく り 

まての 世に 稀なる 返 去 中祌は 彼等 を 不思議に 惠み 助け 給 ひました、 西方の 沙漠に 於て 我が 

つし ゆつ 乙く もっと せいた 5 せつやく たの 3- 上う わおんた i" けんせつ つき かみ おはい めぐみ さゴ たま 

合 衆國の 取 も 盛大で^, て樂 しき 共和 阅體を 建設す るに 就て は 祌は大 なる 恩惠を 授け 給 ひ 

しょこく つし _3 もの いく はん あつ 乙 ばつ じつ つ 上 つうつ ぐ 

ました、 諸國の 贫 者 は 幾 人と なく 集められて、 此の 末日の シ オン を 强く且 美,. J くした 

つぎ X ゆん じ e つ しと いは たみ あ ひかたり 

のて、 次の 預言 ケ」 事實に 仕遂げました、 曰く 「お ほくの 民 ゆきて. ffl 語い はん、 率 われら ェ 

ホパの 山に のぼり ャ Tl^ の祌の 家に ゆかん、 神 われらに その 道 をし へ 給 はん、 われら, V 

- み f - . . おきて, == かみ 乙とば — I 5, つ 

の路を あゆむ ベ しと, を は 法 i; は シ ォ ン より いで M ホ バ (祌) の 言 は エルサレム より 出べ け 

また 5- ば 1 あれの ち 3 ばく ? よらん ばな 

れ ばな り」 と、 又 曰く 「荒野とう る ほひな き 地と はたの しみ 沙漠 はよ k: 乙び て番 紅の 花の. 

ささ 

ごとくに か、 やかん」 と、 (以 賽亞 書ニ隶 三 節 同上 三十 五 章 一 節) 

ユ— つ ほひ さ? f tu "ん * ばか ラ れ>« いおう しおよ むら でき a たこ め, つら たみ はんじゃ ゥ せい 

此の 潤 なき 沙漠に 刺 殿、 學校、 鱧拜 堂、 市 及び 村が 出來、 又 此の 珍しき K の 繁盛と If 



れい けつぐ わ れら W つぼ いへ W は ばた け ^ ちぐ れ べいこく たぃ^;-ぃはぅ せんち 

勵の 結果と して は 彼等の 立派なる 家と 庭と 畑 ふ 家畜の 群な どが 米 國の大 西方の 全地 を拖ふ 

を かれら か U きふれ う の つた しゅうけ うじ ゃラ しんり ぐ わい ゐん うち 

て 居 6 ます、 彼等が 金 も 給料 もな しに 宣べ 傅へ て をる 宗 敎 上の 眞理は <| ;员の 中の みなら. 

すべ キリスト けう はい V, はねつみ,;: す を せいと む 之き ぐ わい めんて きれ いしき 

ず 凡て 基督 敎の 入って. Q る 國に极 が 付き 實を 結んで 居. - ます、 聖徒 は 無益で 外 而的礎 式 を 

す まご、 ろ れい ぱい た ふと お, J な ひ もつ うり 上く しんかう あら は きんせ i- ねんお い 

捨て 眞 心から 禮拜 し賁き 行爲を 以て 有力なる 信仰 を 現して をる ので あり 咬す、 近世の 年代 

き かれら けうく わ 5- そ しき なさ なた そ せいで むじ やう ばつ じっせいと かみ れい 

記に 彼等の 敎會の 組織に 勝る、 ものが な 3、 又 其の 政治 は 無上で ある、 末日 徒 は 祌を禮 

ばい またせ. しゃお 上 し しゃ ため ざ しき しっかう お しんでん けんせつ ゆ ゑ たう じ ばく 

拜し又 生者 及び 死者の 爲に 儀式 を 執行 せんが 爲め祌 殿 を 建設いた します、 をれ 故に 常時 迫 

が 5 う つうかう みちすじ なた ゆん 乙ん おたや か す - こ せい たてもの てん. ( - さん 

害 を 受けつ.、 通行した る 道筋. こ-も 又 現今 安穏に 住める ュ — タ にも 此の! iii なる 建物が 點々 傲 

ざい を かれら ぼつ じつ た いぶしぎ たみ あらば 

P し てお るの てあります、 彼等 は 末日に 建てら るべ しと 云 ふ不思 議な る^^^のことを現しっ 

なせ かれら じ ゆ ふ じつ くす し S と あやし わざ 

. ^あう す、 何故 なれば 彼等の 事業 は 赏にー 奇 くて 最怪き 率」 て あるから であります。 

おい しやつ たんじ やう しゅうけ うじ やう あつ れき かみ を 乙 

第一 一章 ジ ヨセフ、 ス ミ ス 誕生、 宗敎 上の 軋櫟、 神と 其の 子 

あら は たま 

イエス. キリスト ジ ヨセフ、 ス ミス に顯れ 給-^ 

てんし jU う w ん 

天使の 降臨 

はう はしがき み 上 ゆん しゃ すな は ばつ じっせいと ィ H ス キリスト けっく わい さう りっし や 

I モル モ ン」 敎ー序 文 を 見よ) の 預言者 ジ ヨセフ、 スミ ス 即ち 末日 lil 徒 耶穌^ 赞敎會 のお 立^ 

九 



一 〇 

ねん S つ ばち つし g う r- ぐ しう, I —— ぐん まち うま 

は 一 千 八 百 五 年 十二月 廿 三日 合 衆 國ゲァ - モン ト州 ゥヰン ゾル 郡シャ n ン 町に 生れました、 

此 の 子が 十歳 に な つ .p:^ 時 に 其 の 父 ジ ヨセフ、 ス ミス と 母〃 I シとは „^ I モント 州, V 去 つ 

11 HIHII クしラ — ぐん 55 ぐん - まち うつ そご ねん へ 

て 紐 靑 州ォ ン タリ ヲ郡 (今の ゥ M ィ ン郡) パ ル マイラ 町へ 移 6 ましたが、 其の後 四 年を經 

* か ぞく どうぐん まち うつ ち \- しゃぅ^1.3 のう i しつ, V せいぐ わつ 

て 家:^ は 同 郡 マン チ" スタ 町へ 移. 9 ました、 父の ス ミス は 正直なる 農夫で.^ 素なる 生活 を 

を しん 上う 5 うじん たま ざいさん くわ ぱん うしな せ 5 けい は 上い 

して 居りました、 信用した る 友人に 欺され て 财產の 過半 を 失った ので、 生; が 不如意 に な, り 

乙の ひと をと 乙 こ はん をん な 乙 St ん 上 ゆん しゃ ぼんめ 乙 

ました、 此 人に は 男の子 七 人、 女の子 三人あって、 預言者 ス ミ スは四 来 S 目の 子で ありました じ 

を とき 1 ーュ. 13- ク しう せいはう たいてい あたら f は しう お 上 3 う い 3 の はら 

其 時に 紐 育 州の 西方 は大低 新しき 國てォ " ィォ州 及び イリ ノ ィ州は 未だ 野原て あった、 

さう たう じ がっしゅうこく さか ひ しう むか ふ や ぼん アメリカ ど じん ゆうき 上 と ち 

而 して 當時合 衆國の 境な, りし ミ スゥリ 州の 向 は野蠻 なる 亞米利 加 土人の 住居す る 土地で、 

はくじん . ^ま X たんけん ところ 

白人の 未だ 能く 探檢 しない 所て あ-^ ました 

nrlln-l*^ しう せ ぱぅ す を ひと 0- 3, つ い よぐ せいぐ わつ しつ も たいて 5 しゅうけ うお もん 

紐 育 州の 西方に 住んで 居った 人々 は 貧しく、 衣服 や 生活が 質素に して、 大低宗 敎を重 

しん/:^ ぶか せ いしょ X ^.-ゎ.sぉぅ ゆ さう し 5 うけう の; V おも がっしゅうこく お sis^ 

じて 信心 深く、 lils 曰 を 讀んで 八 I:; 堂へ 行きました、 而 して 宗敎を 除 S て は 重に 合 衆 國の大 西 

ばう さいし 上 かいたくしゃ ごと ぐら を 乙な き 乙 か 5 たくし や すで なぐな 

方の 最初 の gg 拓 者 の 如く^して 居りました、 (此の 名の 聞え たる 開拓者 は旣に 死亡 り つ、 あ 

いま ねん せん お あ ひはん しょし; 5 うば き やうき ごと あつれき そ ないおうえん せつ おはい 

ら ます)、 今よ. 5 七十 年 前に 於け る 相反せ る 諸 宗派が 狂氣の 如き 軋櫟と 其の 大道 演說 は、 大 



じん < かぐらん そ と at-J- ら 5 おんけん し^ ラ けうて きい けん ゼん でん そ さう らん おはい し, つ 

に 人心 を^ 傲し ましたが 其の 時 以來穩 なる 宗敎的 意見の 宜傅 により 其の 骚亂 は大に 鎮ま 

まち うつ * ねん のち そ ち はう し § うけう じ やう おはい 

6 ました、 ス ミ ス 家が マ ンチ" ス タ 町へ 移って から 二 年の 後 其の 地方て 宗 敎 上の 大 なる 

あつれき おはせ い ひと/ «\ いろ/. \ し :5 ラぱ ぞく さう た かいしん ひと 

耻櫟 があった 故に 大勢の 人々 は 色,^ の 宗派に 馬し ました、 而 して 他に 改心す る 人, がない 

ゃク ぽ ぐし かいしん しゃ あ ひお が ひ ゆん そぐ ていせつ ろん あら, V つ ひ ひじ やう 乙ん らん うらみ 

樣 になっても 牧師と 改心 者と は 相互に 原則 や 定說を 論じ 爭 ひまして 終に 非常なる 很亂と 恨 

おこ 

が 起. ました。 

ス ミ ス 家の 老は分 れて 色. >異 つた 宗派に 屬 しまし.?^、 子の シ ヨセフ はメ ソ デス ト敎 派の 

H う かたむ を たう じ \i けうぐ わい ふ わ が t ため い.. つ t; うく わ S ば. & 上 おも 

方へ 傾いて 「おった けれ ど も 當時 諸敎會 の 不和 合な, -し爲 に 何れの 敎會に 入 る が 善 い か と 思 

しんば い § ゑ かみ 乙 ヽ ろ さと おと, つれ きた ま い, つ. けうぐ わい ぞく 

ふて 心配いた しまし .fir 故に 「神より 心 を 論す 昔 信の 來 るの を 侍って」 何れの 敎會 にも 屬 

^J あつれ a- さいちゅう たびく ひとりごと いど ラ 乙 しゅうは 

しませなん だ、 此の 观 礫の は 取 巾.^ 疫,^ 獨語を 言 ふに は 「如何したら よから うか、 此の 宗派 t- 

ぃヅ せいかく あるひ またみ な 3 ちが もそう ち たど ひ, つ 

は 何れが 正確で あるか、 或は 又 皆 問 違って. Q るか、 若し 其の 內に 正しき もの あらば 何れな M 

3 たお のれ いか これ M- かい う 

るか、 又 己 は 如何にして 之を现 解し? 4: るか」 と。 

かう 5- ありさま あ ひかれ せいしょ ャ n ブ しょお い しゃう せつ 上 いは なん; T ら うち ち 

渐云ふ 有檨で 或る: n 彼 は^まば の 雅^ 書 第一章 五節 を讀 みました、 曰く 「爾 t: の 中 もし 智 

ゑ たら もの か とがむ ケー しむ すべての もの あた ふ かみ もと さ あたへ 

憩 足ざる 者 あらば 夫の 谷る ことなく 惜 乙と なくして 衆 人に 予る祌 に 求めよ、 然 らば 予ら 

1 1 



■ 1 二. 

^Jれ じつ あたら かんどう おのれ ぁリ さま つい かう い やう かんが つ ひ な 

れん」 と、 是は {赏 に 新しき 感動て ある、 己の 有檨に 就て 斯云 ふ樣に 者へ た 乙と は、 遂に 無 

^-^ せいねん たしかし ゆうけ う ち、 かみ しんり さ.. つ たま おも そ しんじつ 

かった、 故に、 靑年 は糙に 宗敎の 父なる 祌は 莫理を 授け 給 ふべ しと 思 ふて、 其の 信實 なる 

みなもと もと 乙/' ろ き もれ れん ばる うら ヽか もさ かみ いの リん 

に 求めん と 心 を 極め まし. 其で 一 千八百ニ十年の^!^ 麗 なる 朝に 科に 祈らん とて 林 

かん ぐうち ばい た ひと を み ひざ ま. h ば じ t えた か こヽろ ねが ひ おのれ 

問の {<H 地へ 入り 寸、 した、 他に 人の 居らざる を視、 跪 いて 始めて 聲 高らかに 心の 願. V 己の 

つく; ytot かみ さ/ . ぶしぎ ぐら やみ おのれ おはく ち で 3 

造 主なる 祌に 搾げ.^ した、 すると 不思議に も 闇 音 は 己を掩 ひて 口 さく 乙と が出來 ずな-り.^ 

つ ひ そくし しんば い Z **, か It み おそろ あぐ 3 かれ 乙れ つかま- 

した、 遂に 即死 せんかと 心配し ました、 此の 力 は 見えない 恐し き恶 魔であって 彼 は 之に 

や 5 き さて 乙 Z- ろ aJ もく たう もつ すく ひ ねが も ぱゃ ほと なす か 

られる 樣な氣 がしました、 扨 心 を 込め 默禱を 以て 救 を 願 ひました が 最早 殆んど 助るまい と 

お も とき かれ ひか リ ば しら てん ぐ おのれ ちか みまかれ くるし てき くらやみ とも 

思った 時 彼 は 光明の 柱が 天より 降って 己に 近づく かと 見る 問に 彼 を 困め た 敬 は閽黑 と共に 

な さ ひかり ち ひれふ せう ねん てら かれいい ひか w-.^s^ や ひと 

離れ 去って、 光 は 地に; 牛 伏せし 少年 を 照し ました、 すると 彼 は 言 ふに 言 はれぬ 光 輝 く 人 

すがた ぷ たり くうちゅう おいかれう へた み そ はん てんぶ かみ せいねん 

の 姿した る 二人が 空中に 於て 彼の 上に 立てる を 見ました、 其の 一人の 天父なる 祌は奇 年の 

な 上 た はんさ こわ あいし かれき い^ま 

名 を 呼んで 他の 一 人 を 指して 「此は 我が 愛子な り 彼に 聽け Ji 一一 C ひ 給 ひました 

せいねん S .e なほ おのれ せんたく もくてき おも いた もろ. C し 5,,, ば うち い, つ せいかく 

靑年 は氣を 取ら 直して 己の 撰擇の 目的 を 思 ひ 出して 諸々 の 宗派の 内に 何れが 正確な, -ゃ 

たブね it ろ えいく わう そ はん 乙 た つ ^^^< ぃゴ はふく わい 

と 尋ねました 所、 榮 光 ある 其の 一 人 は 答へ て 何れも 正確に あらず、 何れに も入會 すべから 



つし たま また そ えいく わう はん い お ま かれら くち ひる われ 

ずと 吿げ 知らせ 給 ひまし.^、 又 其の 榮光 ある 一 人の 言 ひ 給 ふに は 「彼等 口唇に て 我に ちか 

乙 /- ろ J!-^ と ひと いま しめ をし へ けいけん かたち じつ タ いけん とく 

づけ ども 其の 心 は 我に 遠 かれり、 人の 誡命 を敎 となして 敬虔の 貌 あれ ど霣は 敬虔の 德を棄 

ゥ」と、^^^7^は眞の敎會は世界になしなどと考 へた こと は 未だ 嘗てなかった、 おに 此の 乙 

3 お ic- おどろ % ふた M- お かた ひと 3 う しゅう as ゴ さ, んせ S- 

と を 問いて 大に 驚き-つよした、 其の 二人の 御 方 は 人の 設けた 宗派 何れに も赞 成す ベ 力らず と 

、 ^ ^ くリ いへ い てん のぼ たま ひかり きう さう せいねん おのれ 力へ 

^!^ふ命令を繰返して言ふて天に登り給ひて光は消ぇ失せました、 而 して 靑年か 己に 還った 

とき じ ぶん ぁ丄 むき ね てんみ を ) 

時に 自分 は 仰向に 寢て天 を 見て 居った のです ◦ 

み かつき ふしぎ ひと, 4- くり かへ i 、 ひ. i 

ス ミ ス はE^-、 且聞ぃ た不思^;1なる?-とを人々に繰返してーマ:ひました すると 四方の 人 

びと おどろ いまな し ■ せ, いねん 、„ てんぷ, 1 み じ:? かく いう- つ, . 、 

人は大に驚さまし^^、未だ名も知れぬ靑^なるス ミ スが 天父なる^ は 人格 を苻 すると 吿け 

ts-K! ひ じ ぶんかみ そ 乙 ^ ゑつ けん そ え S くわう み 乙 ゑ ちゃう もん い 

或は 自分 は 神と 其の:. T ィ- ス、 キリストに, 關 して 其の 榮光 ある 御聲を SM. したと 言 ふた 

た ハれ ひと- c\ かみ けが ひと. S かれ ふぼ き やうお い それ しん かんがくしゃ しん 

爲め彼 は 人々 に 神 を瀆す 人と 言 はれました、 彼の 父^ や 兄弟 は 其 を 信じた が 神擊者 は 信じ 

ち ぼくし ひ みつ ^J い それ あくき いざな ひ ぼくし 

ませんで した、 或る 牧師に 秘密と して 此の 乙と ヒ言 ひました が 其は惡 鬼の 誘 だと 牧師 は 

むきた 5 *W た 乙ん a ち まぼろしお 上 けいし ごと I 丄 , と r- 

露出し に 言 ひました、 又 今 n では mi; 象 及び 啓示な どの 如き もの はない キリストの 他 徒 

し い らいかぐ ごと まぼろし けいし や き こんご なん う SI: i * I 

が 死, <- て以來 期の 如き 異象 や 啓示 は 止んだ のみならず 今後 も斷 じて あり 得べ 力ら さるもの 

1 三 



1 四 

い しか せいねん おのれ しんかう かた とつ うご を けつく わ かれ 

だと 言 ひました、 併しながら 靑年は 己が 信仰お 堅く 取て 動かなかった、 其の 結果と して 彼 

む さう しゃ わう ちゃ もの あ S ひ ぎ せんしゃとう をめ いき かれ 乙ろ ばか もの ま たさ ま 

は 夢想お、 橫着 者、 或は 偽善^ 等の 汚名 を 着せられました、 彼 を 殺さん と圖 るき も 又樣々 

ぱ くがい ち £4 よく くな もの かれ かう い わたくし まぼろし み もれ 

め 迫害 や 恥辱 を 加へ た 者 も あつ.;^ けれども や は. 5 彼 は渐言 ひました 「私 は 異象お 見た、 其 

てん うたが ひ お 乙 で き なほ たこ かみ した し たま 

に は 一 點の 疑 を も 起す ことが 出來 ぬ、 猶又 此の 乙と は祌が 親しく 知り 給 ふと こふて あ 

それ g ゑ わたくし かた と うご で s • しか わたくし あえ うご と 

る、 其 故に 私 は 堅く 取って 動く 乙と は出來 ぬ、 然り 私 は敢て 動く もので もない、 鬼に 

かく わたぐ し うご かみ tt^\ ろ さから ばつ う たしか か おのれ あかし かた まも 

角 私 が 動かば 神の 御 心に 逆 ひ罸を 受ける こと は 確て ある」 と、 期く 己の 證據を 堅く 守つ 

かば ねんかん つど < らう びん ぽュ けいべつ ち ど 上く しの しか かれ ざん ゆ ごと 

て變る 乙 となく 三年 問續 いて 苦勞ゃ 貧乏 や 輕蔑ゃ 恥 導 を 忍びました、 而も 彼が 懺悔した 如 

きう ハぅ せっかう ため つ ひ ふ り やう なかま まで かう S い もと いた ほど き さく さう 

く傳 友よ, 9 絕 交された が爲に 遂に は 不良の 仲 問に 迄 交際 を 求む るに 至つ. 程の 氣輕 な而し 

じ やう もろ せいしつ 乙れ ため かれ たび \ けいそつ くわしつ をち い おのれ はくじゃく ため おはい はん 

て 情に 脆き 性質で 是が爲 に は 彼 は 皮々 輕卒 なる 過失に 陷り 己の 弱なる 乙との 爲に 大に烦 

悶 する 乙と が ありました。 

かれ おのれ すべ つみ はぐ じやく ゆるし う た かつ wfe お 力れ かみめ 5- かみ ^1 

彼は己の凡ての罪と^弱との赦窗を受けん^;|め且又己は祌の目^^何に見ゅるか.^,^ら 

た てんしゅ もと X ねん ぐ わ? ち ばん U が ひお いじ ねっしん 

ん爲め 天主に 求めざる を 得なかった、 一 千 八:. H 二十 三年 九月 三十 一 日の 晚願 大事と #1 心に 

いの か いの あ ひた 上る <ら やみ あきはな ひか W か 5- や つ ひへ や ひる あか 

祈りました が^く 祈る 問 に^の 暗 黑が明 雞れて 光 輝 き に 部 尾は晝 よりも 明るくな. 5 ま 



ひか リ ちゅうわう ね おい そば _w ぼ § きひと た あら は を そ ひと か はかお ち あい 

した、 光の 中央に 寢 察の 傍に ^ 人が 立ち 願れ て 居らました、 其の 人の 顔貌 は 愛らしく 

びか/、 ひか いな ゴ 3 な はかど や を かれ せ 5 れん な 上 おのれ かみ てんし I 

々光る- m 光よ.. -も猶 輝いて 居 ft- ました、 彼は靑 年の 名 を t- んで己 は祌ょ の 天使なる モ 

な の かれ てんしゅ みこと ぼ はたらき い すな は 

D ナイと 名乘 りました、 彼 は 天主の 御言な. 9 とて ス ミスの なすべき 倒が あると 言 ふた、 即 

かみ けん ゐ みぐ は X かれ 上 W- くわい ぷく またし よ 乙く おいかれな 上 わる 5 

ち 祌の權 威と 御國は 此の世に 彼に 依て 恢復せられ、 又 諸國に 於て 彼の 名 は 善くも 惡 くも 言 

S, つ 

はれる と 云 ふ と を吿げ まし.?; :o 

てんし けいてん き ろく ぷ^- きん ぽんお 上 かみ それ ほんやく ため そな た a 

天使 はモ ル モ ン經 典の 記錄を 含む 金 版 及び 神が; q ハ を翻譯 する 爲に備 へ 給 ふた クリムと ト 

かぐ お 乙 やま まぼろし しめ またせい し 上 上 ゆん ひ き 

ン ミ ムを 匿して 置いた 小山.:, k ハ象 にて ス ミ スに 示し 又 1^ 書より 色々 の 预言を 引き 間 かせ ま 

それ よぐ いんお 上 しんけん ぺ —ジ み くわい ふく すく ひぬ し ばつ 

した、 其 は 一?:i 音 及び 祌權 (三十 三 頁 を 見よ) を恢极すること5^救主ィ ュ ス、 キリストの 末 

じつ く は けうく わい けんせつ ^ん (いわ じ おい ひら くわん 

日の 國 (敎會 ) を 建設す る 乙と や ; 千年の 平和の 時代 を 開く ことに 關 する ので ありました、 

a た マ ヲ キ しょたい しゃう あ ぶ ^んぉ i たい しゃう ィザャ し 上たい しゃう し と; 3- やう でんたい しゃう せつおよ 

又 馬 拉基書 第三 章の 或る 部分 及び 第 四 章、 以賽, 書 第 十 一章、 使徒 行 傳 第三 章 二十 二 節 及 

せつ ョ X ル しょたい しやう さいご せつ ,t わん これら まさ じっけん つ 

び 二十 三 節、 約 耳 書 第二 章 最後の 五節に 關 して は 是 等の M と は 正に 赏 現せら るべ しと ル n げ 

かみ ビ はう じん とぐ ぺっ めぐ や た 3 ぶーき たうら い い かつ 乙 せ. i-u ん 

まし 4:^ やがて 祌は 異邦人 特別に は惠 むこと を 止め 給 ふ 時到來 せんと 言 ひ、 且 此の 靑年 

5 さ けいてん 3 ん ぽん え かみ ご め 5- れい それ た はん しめ 

を 諫める に は モル モ ン經 典の 佥版を 得たならば 神の 御 命令な しに 其 を 他人に 示して はなら 

一 五 



1 六 

み かれ はろ ぽ つ また てんし さ そ な はり はかへ や くら 

ぬ、 若し 見せたならば 彼 は. u される と 告げて 又 天使 は 去って 其の 周 園の 外 は 部 尾が 暗くな 

てん いた ぐた ごと みち のぼ み 

.9て天に至るまで管の如き道を登.5て見ぇなくな.c^ましたo 

よ S ん ; J くわう けい かんが あらば ふしぎ おも 5 た かん う 

.ス ミス は餘 念な く 此の 光 n 京 を考へ て 現れた もの を 不思議に 思 ひながら 甚く 感に打 たれ ま 

な はお も めぐら とき てんし さんちん えいく わう うち あら は み /- せ ハ ほん そ 

した、 猶思 ひ迥— t てぬ た 時に 天使 は 燦爛たる 榮 光の 內 に復 立ち 顯れて 耳を倾 くる 青年に 其 

おごそか ^^^^ くリ かへ W へ い. いちご /\( の si- たお はい ぼつ くわう はハ 

の 嚴 なる 音信 を 繰返しました、 前に 言 ふたこと を 一 語々々 に 述べて 又大 なる 罰と 荒廢と 

き ヽん つるぎ き. ひやう fJ よきた い ふた \- のぽ どめ 

飢饑 -V 劍と 疫病と が 此の世に 來 らんと 言 ひまして" 再び モ P ナイ は 登つ たがやが て 三度 目 

かへ きま ( い みなく n- かへ い またつ 54 い い 3 し かれ ぉヅ ゆ ゑ 

に歸 つて 來て 前に 言 ふたこと を 皆 繰返して 言 ひました、 又 續て戒 むる に 彼の 貧しき が 故に 

B- 上ぐ しん きんぼん し t う もと はつ ねん おさ い 

利 慾 心に よりて 金 版 を 私用 せんとて 之 を 求め やうと 欲する 念 を 抑 へ ねばなら ぬと 言 ひまし 

つ ひ よあけ ひか w あら は とき てんし のぼ み 

た、 遂に 夜 の 光が 現れる 時に 天使 は 登-' て 見えず な. 5 ました ◦ 

かく ごと てんし とも き 上 かう さい よ あか 5 つお ときと 乙 

ス ミ スは渐 の 如く 天使と 共:: -淸き 交際 をして 夜 を 明し ました、 何時も 起きる 時 問に 床 を 

ばな はたけ 5 そ ひ は. 1 にらき とリ か、 ばたら 上で a- v^^^ t-\ 

離れて 畑に 行きて 其の 日の 働 に取掛 らました けれども 働く ことが 善く 出來 ません 故に 父 

い ( かへ やす す /- いへ かへ とち § う ちからお とろ かき C とき ちからな たぶ 

は 家に 歸 つて 休むべく 勸 めました、 に歸る 途中で 力 袞 へて 垣 を 越える 時に 力無げに 倒 

しか あ 乙 ゑ し ヅ かれな t おこ あ ふ み さんや 

れ.^ した、 然るに 或る 一 つの 聲ぁ. て靜 かに 彼の 名 を 呼んで 起しました、 仰ぎ見れば 前夜 



> マん;;":, • -y,?g ふ.^ ^ r てんし どめ そ てん おと プれ t し々 うら: si ゆん しゃ 

の 天使 力 其 時 彼 の 仰に Ct5 りました 天使 は E 度 目に 其の 天の 音信 を此 の 將來 P ハ言老 た る ベ 

ぶ の *..-tt リ てんし み い 3 しめ う かみ お, J な た, a じ ゆ. fr ぐ わ,, 

き 人に 述べ 終に 天使 を 見た こと や 誡 を 受けた る こと や 祌が行 はんとし 給 ふ 事業に 關レて 

し おのれ ち /- かた めい とまり はた ナ た そ す-、 

知った 乙と を 己の 父に 詰れと 命ぜられました、 ス ミ ス は 其の 通に 畑に 立って 其の 凡ての 乙 

ち \ い の ちヽ わ 乙 乙れ かみ ねっしん かみ みこ ヽ、 

と を 父に 言 ひ 述べた との k: 父ス ミス は 「我が 子よ 之 は 神の ことて ある、 熟 心に 祌の御 ひこ, 

かな やう 乙な い 

適 ふ樣に 行へ」 と 言 ひ t< した 

おい しゃう せ i, ざん リ そ たから けい てん 卞ん し 上 

第三 S 聖山ク モ ラと 其の 寶、 ス ミス IF か モ ン經典 原書の 

きん はん う 

金 版 を受く 

バ 产 マイラ から マ ン チ ^ ス タに 行く 道に \ ル マ イラよ. 9 三四哩 位 離れて^ と 云 ふ 

) - 、、 llill"- ク しう , - し なん マイル そ きた tt し (いち ai お J. 

. ^山 力 あ. - ます、 (劎 育 孙„1 ツチ" スタ巿 の 西南に 二十 五哩) 其の 北の 端 は 平地より 急に 高 

%x - . しゃく そへんお ほ 乙 やま うち もっと たか も ち はう ざん 

きこと 凡 を. HH= 十 尺、 其の 邊に 多く ある 小山の 內 で 最も 高く、 其の 地方て は 「モ ルモ ン 山」 

い 

と 云 はれる ので あ ft 'ます。 

t;^ ん t う S で ^> ごと あさ ち./ し. M う Je- く え しゅくぶ く せんじ. g のち. J ,- 

ぷ刚 章に 記载 したる 出來 事の あった 朝ス ミ スは 父の 承諾お 得て 祝福 を宣授 されて 後 此の 小 

一 七 



山に 行きました、 是は 昔日の 二 I フ アイ 人に ク モラと 名づ けられ、 ジェ レド 人に ラマ 名づ 

と ころ _w ぼろし み ため た ち % it ろ わか の , ところ , 

けられた 所て ある、 異象 を 見た 爲に 直に 其の 所が 解りました、 ス ミスが 述 ふる 所に よれ は 

乙 やま せいはう ちゃう じ やう とほ ところ おは いし した きんばん いし ぼ こ なか は ぞ ん 

,「小山の 西方て 顶 上より 遠から ぬ 所の 大きな 石の 下に 金 版が 石 箱の 中に 保存され て あ. 9 

r_ いし おもて まんなか あつ なかなか はし ばう うす を まんなか み 

ました、 此の 石 は 表の 眞 中が 厚くて 凸 て 端の 方 は 薄くな つて 居りました から、 眞中は 見 

はし つちかく かれて 乙 さ?"/ J S しも あ なかみ と 

えて 端 は 土に 隱れ てあらました」 と、 彼 は 木 挺を搜 して 此の 石 を 持ち上げて 中 を 見た所が 

_ てんし つ ごと. i か きんばん お 上 む::! あて また 5- 

天使が 吿 ぐる 如く 如何にも 金 版と クリ ムと トン ミ ム 及び 胸 牌が あ. 5 ました、 ヌス ミ スカ言 

乙 なから H5, ば乙 いし しゅ つ 乙 しら もの at そ 乙 

ふに は 「此の 賓の 入って- Q る 箱 は 石,^ 1 Igf の セメン トで 付けて 描へ.? ^物で 箱の底に 二つの 

いし 上 乙 なら きんばん た ぶっぴん .V うへ 

石が 橫に 並んで 金 版と 他の物 品が 其の上に ありました」 と。 

3 た ての なな もの と すで あら は てんし た^ かふ 

又ス ミ スが手 を 延べ て 中の 物 を 取らう とします と旣 に顯れ たる 天使 モ P ナイ は 直ちに 彼 

と ^3 ときいた * P ねん へ のち 乙 きんばん なん て わた な; 

を 止めて 未だ 時 至らず 四 年 を 徑て後 此の 金 版 は汝の 手に 渡さるべき ものである、 よりて 汝 

まいれん つ こ ひ 乙 きょ ところ ? r さと さう われ てんし そ た. ひごと なんで あら tt ぼつ 

は 毎年 續 S て 此の 日 此の 聖き 所に 來れと 諭し、 而 して 我 (天使) は 其の 度 每に汝 に 顯れて 末 

じゥ お 5- かみ くば V, わん リ は. Ttt ぷ をし ゆ ゑ なん fl- 乙 あひ^い やし お 乙た ちゅうじつ . ん.^ . 

日に 於て 神の 國を 管现 する 方法 *^ 敎 へる 故に 汝は 此の 問 苟 くも 怠らず して 忠實に 信^せ 

いまし またお は た ふと しん リ せい C ん し なかん, つく 

よと ス ミス を 戒めました、 又 多くの 責き眞 现を靑 年に 知らせました 就中 モ ナイ は キリス 



— 乙う たん ねん のち 乙 1 を そ あ ひた 乙 きんばん 乙 やま かく 

ト の降誕ょり四百年の後此の世に居りました乙と、其の間^^此の金版を小山に匿したこと、 

また かれ Z たいりく アメリカ す むかし たみすな は - じん けラ おう たいく 上 f: ん しゃ 

又 彼 は 此の 大陸 (亜米利加) に 住んだ 昔の; ^即ち-一 I フ アイ 人 ど敎^ したる 代々 の 預言者の 

さいご 上 ゆん しゃ かれ ち また じん i けんし々 

最後の 預言者であって 彼の 父 は モ产モ ン である 乙と、 又 モル モン は- 1 I フ アイ 人の 預言者 

<a たヽ. S しやう れきし か こ きんぼん か い 

で 又 大將で 歴史家で 此の 金 版 を 書いた と 云 ふこと も あ 6 ました 

天使 は敎 理と誡 命と を宣べ 終って 見えず な. 9 ました、 ス ミ スは 大事に 箱の 蓋 をして、 其 

はし IM たつち か C いへ かへ たじ つの かつ 乙れ はつべ う けんり う 

の 端を復 土に 匿し、 家に 歸 6 まして、 其の 事實を 述べ、 且 之を發 表する 權利を も 受けた 乙 

ひみつ かぞく ものい かれ か; V くそ ふしぎ たんね しん かみ あ W くた 

と を 秘密に 家族の 者に 言 ひました、 彼の 家族 は 其の 不思議なる 談話 を 信じて 神が 天降って 

はな たま し t ろ iJ 

話し 給 ふたこと を 知って 悅 びました つ 

としごと £: ク ^ち yl ゆ ゆ たび ごと おな てんし あ はなし 

ス ミ ス は 年每に 九月 二十 二日に ク モ ラ 山へ 行きました、 行く 度 毎に 同じ 天使に 逢つ て 話 

た ふと き ろく み おのれ ち 5- よく たか をし ( う かみ お 乙な たま ぐす し わざ ぐわん 

をして 貴き 記錄を 見て 己の 智力 を 高める 敎を 受けて 神が 行 ひ 給 はんとす る 「奇き 事」 に關 

ち しき な は そうくわん せん 

する 智識 を猶 一 廢 完全に— ました。 

かれ さ Sr さ 5 まで あ ひお ひんせい とほ や ため しゃぅ^-ぃ もっと たいじ と _3 じつ し れん 

彼が 十八 歳より 二十 二 歳 迄の 間 は 品性 を 陶冶す る爲に 一 生涯の 最も 大事な 時で 實に 試煉 

とき かれ そ あ ひた じゅんび おく か てんしゅ みらい X ゆん しゃ 

の 時で あ, ました、 は 其の il を 準備に 送.. > ました、 期くて 天主 は 未來に 預言者と なる ベ 

1 九 



二 〇 

乙 ひと えい さう ちじ やう つ i4 おんみ プか けう くわい さう リっ せきはん お ため 上う い ,ま 

き 此の 人 をして 永久に 地上に 續く御 親ら の 敎會を 創立す る 責任 を 資ふ爲 に 用 怠 を させ 給 ひ 

ました 

おとう i たち はたけ いへ せわ でき とき れっしん ち \ はたけ はたら さ 5 ときば る.^ 

弟 達 が 畑と 家の 世話が 出來る 時まで ス ミス は 熟 心に 父の 畑で 働きた るが 二十歳の 時遙 

ばな ところ し ごと さが た しう - H ぐん I J まち ゆ 

に 離れた 所で 仕事 を 搜す爲 め ペン シ〃 ゲ" -1 ァ 州サス ク"" ナ郡" - *- - 一町へ 行き まし 

さう 11 ュ 131 ク しう い ひと iV ぷ _3 んぎん くわう ざん おも 

た、 而 して 紐 育 州の ジョ サャ、 スト -〃 と 云 ふ 人が 其の 附近に 銀の 鎮 山が あると 思 ふた 

.6 ゑ 七 ち はう ほ ため やと しか ぐ わう ざん じゅ,^ しつば い そ 

故に 其の 地方 を 堀る 爲にス ミス を 雇 ひ した、 併し 鑛 山の 事業 は 失敗に 終りました、 其の 

やと ひねし おは ,てんけい そ しごと て ひ やう す /- やと ひぬ し そ 

雇主よ. 大きに 尊敬され たる ス ミ ス は 其の 仕事から 手 を 引く 樣に 誘め ましたので 雇 生 は 其 

の 誘に 從が ました、 斯く雇 はれて をる 間ス ミス は アイザ ク、 へ- ル 氏の 家に 泊って ねまし 

そ い ( い な むすめ , 乙れ At 3 たお も たが ひ なか; 

た、 其の 家に H ン マ と 云 ふ 名の 娘が あり まして、 ス ミ ス は 之,^ 思 ひ 又 E:J はれて 互に 仲 力 

好く な h- ま した、 一 千 八 百 一 一十 七, 年 一 月 十ス日 ス 1^ ス と エンマ と は 紐 育 州チ I ナン ゴ 

ぐん まち さい a ん くわん けっこん しさ しっかう さう 1 

郡サ ウス, ベ T ンブ リデ 町で 裁判官 タ ー ビ ルに 結婚式 を 執行して もら ひました, 而 して ス 

つま つ W ち を ち /- if ( おのれ か ! v< やしな しめ. 5- Hft た ざ V 

ミ スは妻 を 連れて マン チ" ス タ 町に 居る 父の 家へ 歸 つて 己の 家族 を 養 ひ 使命 を 果す爲 め 財 

さん もと ぱ たけし ごと てった 

產を 求め バ- とて 畑の 仕事 を手傳 ひました。 



はしかん > れし をば S- も はやち.^ ゴ かみ 1 ご しん ぼん ぷカ 力ん 

四 年 問の 試煉の 終 は 最早 近いて ゐ.^ した、 ス ミ スは 祌とキ リ ストよりの 微 信任に 深く 威 

t いま ノめ ^vw »• も せ S ざ. < <^ つ と は どた が そや W 

じ、 其の 誡 を 堅く 守って、 聖 山へ 行けと 言 ひ 付けられた 通." 一度 も: は S ふこと なく 其の 山 

ゆ てん けうし いま しめ かた ** も し たく レ のれ つ 2 き や-つた 5- たち しんばつ ^ 

へ 行き, L、 天の 敎師の 誡命を 堅く 守りました、 支度す るに は 己の 妻と 兄弟 等-つに 眞赏に 助 

か i?6 また き ぼう よくさん お 乙う ゆ a- てうら う さいちゅう 

けられ した、 彼等 も亦ス ミ スの 希望 賛 して ス ミ スが負 はせられ た 攻擊と 嘲喷の 最中 

かれ ろ 上 なぐさ 

に 彼の 心 を 能く 慰めました 

/V うや ^< < ひ たラ らい ど め せ 3 ねん せい 9 ろ かく と^Jろ た を 

漸く 約束した る E が到來 し,^ した、 五 度 目に 靑年 は; m なる 記錄が 匿され た. に 立って 居 

とき ねん ぐ わつ ^ち あさごぎ t しん , 

り ました、 時 は 一千 八 百 二十 七 年 九月 二十 二日の 朝で 御座いました、 ス ミス は == (の 信仃 K 

5 れつ *H う もつ はこ ぷた あ てんし めいれい したが せいき あ ひお あんせん か 2; , . 

背かない と 云 ふ 熟 望 を 以て 箱の 蓋.^」 上げ、 天使の 命令に 從 つて 十四 世. 紀の ii 安全に 隱れた 

たからもの は 乙 と 3- あ を り つば しら そ き てんし 乙 3 ろく けが 

る 贊物を 箱より 取上げて 其の 立派なる こと を 調べました ノ- 其の 時に 天使 は 此の 記錄 を:. れ 

もの て ぶれ まお め み やう おのれ せいめい どうやう しんせい ほ 

たる 者の 手に 觸 しめず、 又冃に 見せぬ 樣 にして、 己の生命と同樣に祌|^1に衞ろ。 へき乙とを 

かれ め S それ ゆ ゑ かれ おのれ ひ iw- そ ぜ 3-W ん お f, , ^^^^ . 

彼に 命じました、 其 故に 彼 は 己 一 人で 其の贲 任. ^】資 ひました、 若し 油斷 して 過って 記!? を 

こわ あるひ うしな た S ゆん ばつ ラ つ ひ はろ ぼ しか も てんし, > き ,1 ろ, ir う * けと. - • 

1 すかが は 失 ふなら ば 直ちに 嚴罸 £ス けて 遂に 亡され る." 併し 若し 天使が 記錄 を^ 取. 9 に 

3£ とき まも た すべ 上う じん つく こきろ く なん Mtos" あんせん 、ゝ *^ 

來る 時まで 其 を衞る 爲め總 ての 用心 を識 すなら ば 此の 記 錄は千 翻 を, おれて 安全なる ぺく且 

二 4i 



かれ てん たすけ かち え 上ろ 乙 やう 

彼 は 天の 助に よ.. = ^勝 を 得て 悅ぶ樣 になる ので ありました じ 

H ん t;C 'な リ ぎん きち やう K うせき つ yj れ じゅんきん 5i めう で 3 

* 「ゥ リムと ト ン ミ ムは半 月 形の 銀 Li 二つの SKm なろ 燹 石が 附 けて あろ ものて あった、 是は純 金て 微妙に 出來 

あが *0 むかし む S3t* て i ちゃく r C むねあて かたば う なか, ひ, \M なかた H う なかた か たう; ん なみ ひと 

上って 居った が 昔の 胸脾 に 附着して 居リ ました、 此の 胸 牌の 片方 は 凹 又 片 方 は 凸て常 今の 並の 人 i 

おはい たいかく ひとつ やうで き やう し 乙 きん ひもつ かたつ たた 

. リは 大 なろ 體 格の 人の 付ける 樣に 出来て ねた 樣 てし;.:、 四 個の 金の 紐が 付いて 二つ は 肩 に 附 けろ 爲 め 他の 二 

こしつ た 

つ は 腰 Li 附 けろ 爲 めて ありました 〇」 

Bi ん ばんきん で 3 おは みなおな まい ふつう す ど す- J うす ば ど す..? ぶ 《- ん くら & 

「金 版 も 金て 出来て 大きさに 皆 同じて 一 教は瞽 通の 錫よりも 小し くて 幅ば 六 寸六分 二 厘 位て ありました、 三つ 

わ すべ B- ん ばん かたはしと は /J ごとつ V ほん.:,. あつ お ほよ そ すん もうち 

の 輪が: il ての 金 阪の片 s?,^ 通リ ました、 此の 如く 緩ら れた 本て 其の 厚さ 大 -五寸 てぁリ ましたが、 其の 內 

ぶん ふう そ た a- ん びら ひ 6 み リゃ うめん め.. つ 6 もんじ 

の 三分の 1 は 封 じられ てね ました、 ス ミ スは其 の 他の 金 菜,^ 一 々開いて 見ます ると 兩 面 は 珍 しさ 文字て 1 

ばい そ もんじ ちいさ みごと ほ 

杯て しれが 其の 文字 は 小 くて 美觀 に 彫って ありました 「-」 

み 35 ご i くいん じ たい お さ i, し 上 上 けんしゃ fev- ひと W MNyl 

乇 & ナイ は 見えな くなら ましたが、 最後の 福音 時代に 於け る 最初の 預言者 は 唯 一 人ク 乇 

= ざんじ やう た かね か たからもの むね い た を 

ラ 山上に 立って 金て 買 はれぬ 賓物を 胸に 抱いて 居り また 

たい しゃう きんぼん の き ろく ほんやく? およ そ はっかん 

第 四 章 金 版に 載せた る記錄 の翻譯 及び 其の 發刊 

か 上う じんぶ か きんばん まも やう てんし いまし ひつ 上う リ 5" う やが あら は 

ス ミスが 期く まで 用心深く 金 版 を 衞る樣 に 天使に 戒められた 必用なる 现由 は頓て 現れて 

3 い (かへ はじ いな かれ Z ろ あぐ はん ^Jぅ£き 5 へ かへ み じ. 

來 ました、 家へ 歸り 初める や 否や 彼 を 殺さん ふす る惡 人に 攻擊 されました、 家へ 歸る短 



みち どかれ ラ きんぼん ぅぱ わるもの べんぽう う 

き 道で 三度 彼 を 打って 金 版 を はう としたる 惡漢が あ. ました、 ス ミス は 一 返 棒で 打 たれ 

a- ん ぼん ぶじ 5 へいた しか おのれ そ けんく わ ため きず う t わ 

ましたが、 < ^版 は 無事で 家に 到りました、 併し 己 は 其の 喧嘩の 爲に 疵レ. < 受けて 弱くな り 

はぐ^い や かれ V, れん とり.,:^ いつはり うは さ うく わつ ひろ へんば ひと <:> 

ました、 迫害 は 止まず して、 彼に 關 する 取々 の 偽の ® ^は 狡 滑に 弘 めら れ、 偏頗なる 人々 に 

ご かい わるもの かれ 乙ろ おも しの まちぶせ あぼれ もの かれい (と な 

誤解され した、 惡漢は 彼 を 殺さう と 思 ひ、 忍んで 待 伏し、 亂暴者 も 彼の 家 を 取り 捲き ま 

また かれ ゼぃ めい 9 ん ばん う ぼ て 13 いろ { しゅ^ん めぐ しか せつ 

した、 又 彼の 生命と 金 版 を 奪 はんとす るス ミスの 敬 は 色々 の 手段 を 廻らし ました、 併し 折 

かく しゅおん つね しつば い かれ て 3 ほんやく じ ゅュ ぼうがい こう 

负の 手段 も 常に 失敗に 終らました が、 彼の 敬 は ス ミ ス の 翻譯の 事業 を 妨害す る ことに 成功 

つ ひ はく S "い た 上ぎ . M ち の: & ■ 

し した、 遂に 迫害に^ へられぬ ので、 餘義 なく マン チ" ス タ 町から 逃れて ぺ ン シ , が, - 

しう しう と すみか ゆ さお 

ァ 州の 舅の 住家へ 行く こ とに 定めました。 

か けっしん な は びん ぽ, - い おいし やうが い あら ぱ ちゃう ど 

斯く决 心し. jiT か猶ー つの 赏乏と 云 ふ 一 大 障碍が 現れました、 けれども 丁度 マ f テン、 " 

5 ぼ じょ え 乙れ たす 一一 ュ— 31 ク しう ぐん か けい 

リス 氏の 铺助を 得て 之 も 助か, 9 ました、 マ-テン、 ハリス は 紐 育 州 パルマ イラ 郡の 家計 

I のうふ ひと た ふと を X ゆん しゃ 乙ん なん さ. & ちゆう は じ 上 も, -. し かう む 

の 善き 農夫で 人に 尊ばれて 居りました、 預言者 スミ スの 困難の eg 中に 稱助 する 默示を 蒙つ 

タん くひと t おかゆ —— しう ゆぐ 3a- たつ 

て 百圓を 與れた 人で ありました、 此の 御 てス ミス は ペン シ〃 ゲ "一一 ァ 州の 行 先に 達する 

で »tl 乙 リ よ,? -ぅ ちゅう .< ゎハ けいさつく わん かれ ひきと はせ さう さくに やう もゥ きんばん と 

N- とが 出來 ました、 此の 旅行 中二 回 警察官 は 彼 を 引 SH めて is の 搜索狀 を 以て 佥版を 取る 

二三 



二 :四 

ため ば しゃ なか さ:^ や ばリ せいこう 

爲に 馬車の 中を搜 しました が、 矢 張 成功し ませなん だ , 

> けいてん はんけんし 上う しゃ はん ねん ゆ つ はち 11 ュ I ョ-ク しう —— n I : 

* ハ V ス氏 は乇. V 乇 ン經典の三人の见,?^^!9の 一 人て あります、 1 千七百八十三.li^^f-月十<日LLa 宵州サ ラトが 

ぐん =rw ち う J* ねん ゆつ か しう . ぐん まち し 

, 郡ィ- スト、 タウン 町に 生れて、 1 千 八 百 七十 五 年 七 刀 tn ュ I タ州 カツ、 ゾ郡 クラ I ク スト ン 町で 死に ましれ、 

ねん けつ ば じめ ごろし うと S すみか たうち やく ねんごろ むか 

一 千 八; G 二十 七 年 十二月の 初 頃 舅 アイザ ク、 へ I ル 氏の 住家に 到 して 懇に迎 へられ 

たうち やくごす ぐ きんぼん もんじ か うつ もち かみ ちから 

ました、 © 着 後 直に 金 版の 文字 を 書き 寫 して、 ゥ リムと トン.、、 ムを 川. Q て 神の 力に よって 

そ あ ぶ ん はんや,. - つ とき そ *4 くれん ゆつ ぐ おん ほんやく じ ゆ ふ じ ゆうじ 

其の 或る 部分 を 翻 It しました、 到いた 時より 其の ili 年の 二月まで 件の 翻譯の 事業に 從 131. し 

r どうはつ い おんじん きい しめいつ い な は ふか 

て 居りました、 同月に マ I テン、 "リスと 云 ふ 恩人 はス ミスの 奇 なる 使命に 就て 猶 、深 く 

I feA か れ ばつ もん のち > きんぼん うつ もんじ t はんやく た, つ さ 

知らん が 爲に彼 を 訪問し ました、 後に 、, リス 氏 は 金 版より 寫 された 文字と、 其の 翻譯 を携 

一 11 「ョ —クし ゆ いかん あ くわ^く にゃある ひ ご ! くしゃ み そ かぐ じつ 

へて、 お 育 市へ 行きました、 如何と なれば 或る 科學者 或は 語學 者に 見せて 其の 確贸 なるこ. 

たし なせ ノ こ ときな ほい M てん ゥ たが ひ 

と を 確 力めても らふつ も ft- でありました、 何故 なれば ハ リス 氏 は 此の 時猶 未だ 一 點の 疑な 

しんかう 

きまでに 信仰 はしな か つたからて あ. 5 ます 

> おんわ ^,^^(^^ ばか; f- そ 

ハリス 氏の 談話に よれば、 コ ラン ビア, 大學 校の 十: なる チヤ 1 ルス、 アントン は 其の 

A 丄じ み そ はんやく た 14 3 たかつ み . ご はんやく た,、 でき を 

文字 を 見て 其の 翻譯は 正しく、 ヌ嘗 て见た ェ ジブ ト語 の翻譯 よ. も 正しく 出來て 居った と 



トジヰ ホ 、 ドィ ゥ"— デ 

者 證ク; I の 人 



'J ノ、、 ンァ— 



三の: ft 原 典 經 ン で 




「 ~\lJc しケ C し CXM -广」 つ 

^ ^ C: ^ " " t .) だ 犷ズズ ヱ U ず 卜) 

""11 フパ广 盧ュみ 化々 ^ (f チュ 9 つ-がみ ひ/ ゆ' 

ず 了 A マ じ、 ひれ、 L 2oc 'hujjjJ ot Z り JU は 
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-リ 
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。ヽ /す 
クノ〃 ( 



字 文 及 埃お^ の 典 經ン モル モ 



> , さう はかせ ほんやく もんじ み ま 乙と , ■ ご ご 

云 ふこと てす、 而 して 博士 は翻譯 されなかった 文字 を 見て 3 吳の H ジブ ト 語と 力 ルデァ 語と 

に ご もんじ 5 L,-/J ろ 乙 おん ゆん あらば し. r5 しょ U 

アツ スリャ 語と アラビア 語の 文字で あると 言 ひました、 所て 此の 斷言を 現す 證 書に rT^ 

a ち ひと.. s\ い あてな つ 1 あた し もに くし 广 

マ イラ 町の 人々」 と 云 ふ 宛名 を 付けて 、ノ リ ス 氏に 與 へました、 故 、メ リス 氏 は 其 を 衣 籠に 入 

*《 そ とき はかせ い か せ いれん そ と t ろ きんぼん 、,. 

れて歸 らうと しました、 其の 時に 博士 は 如何にして 靑年は 其の 所に 金 版の あると 云 ふこと 

が 解った かと 尋ねました 

の". \, 「i5 r ふ々 ぶ あらば こた ところ ばかせ おどろ そ しょうしょ 

農夫 は 「神の 使 老が其 を 彼に 現しました」 と 答へ ました、 所が 憐士は 驚いて 「其の 證纰 3 

*- たくし み おく 5 ゆ ゑ ^ Z く IJ や な は か く は 

を 私に 見せて 御 吳れ」 と 言 ひました、 故に ハ リ ス氏は此の學^!^:が何かをまばき加へ るならん 

f それ み はかせ それて と いな すん- さ い 乙ん はち 

と 居; S 其 を 見せます ると、 博士 は 其 を. 手に 取る や 否や、 寸々 に 裂いて 言 ふに は、 「今 n で 

てん、 あら は たお のれ そ きんぼん かきもの ほんやく ゆ >vi おのれ もと もき た い 

は 天使 力 願れ る 乙と はない」 と、 又 己: H (の 金 版の 書物.^ -翻 輝す る 故 己の 許に 持ち 來れと 云 

» ルか ,- し きんばん あ ぶ ん ふう 3 た. 《- < a- ん 

; 3 ました、 併しな から 、ノ リス 氏 は、 「金 版の 或る 部分 は 封 じて ある、 又 持つ て來る こと は禁 

S い ところ ばかせ .\ゥ ほん わたくし と i 

ぜられ て ある」 と 言 ひました、 所が 博士 は 「いや 封 じたる 本なら ば、 私 は;^ て も 請む こと 

が出來 ぬ」 と 嘲!^ しました。 

C ごと かみ むかし ゆん しゃ ぶみ しゃう せっき さい よ ゆん じゥ卞 /" 

此の 如くして 神の 昔の 預言者 ィザャ の 書 二十 九,, 十 十 一 節に 記載して ある 預言 は! a% にな 

二. 五 



ました o 

な は £i ん はくしき はかせ さう なん あ か ばかせ んじ はんやく くわ/" 

猶 一人の 博識なる ミッチ ュ ル憐士 は、 扣 談に預 つて、 搏士 アントンが、 文字と 翻 譯に關 

い 乙と < ;. \ さんせ 乙れ ため い しょうこ しん お 

して 言 ふた Z と を 悉く 贊成 しました、 之が 爲に " リス 氏 は ス ミ ス の 證據に 信 を 置き まし 

さう かへ ほんやぐ じ ゆ ぷ おい おのれ 上 ゆん しゃ し 上き い 

た、 而 して 歸 つて、 翻譯 事業に 於て 己 を 預言^の 書記に して くれよ と 言 ひました、 ス ミス 

上ろ 乙 しょう;?" く ねん ゆつ はち ゆつ ばち 乙 ほんやぐ じ ゅぷ 

は悅, < て 承諾し ました、 一 千 八 百 二十 八 年 四月 十二 日よ. 9 六月の 十五 日まで 此の 翻譯 事業 

tt たら そ とさ ぺ—? ^ ゆん 乙う ほんやく i 乙れ か 

に 働き まし. 5^, 其の 時までに 一 _ぼ 寸六 頁の 原稿 は 翻譯さ れ て、 ハ リス 氏 は 之 を 書き まし 

そ と a- > おのれ つ ま た ぐ わい ぎし や 乙れ み せつげ う つ ひ t 

た、 其の 時に ハリス 氏 は 己の 妻と 他の 懷疑 者と に 之 を 見せたい と 切望し ました、 遂に 此の 

し 上 もつ み きょか う ひとな あら かじ さお た ひとみ でう けん ほん い はん 

書物 を 見る 許可 を 得る 人の 名 を豫め 定めて 他の 人に 見せぬ 條 件で、 ス ミ スは 本意に 反し 

も し i うおく あた しか こ でう けん そ.:; げんこう ぬす よた y- t れ 

て 其の 承諾 を與 へました、 然し 此の 條件は 背かれ、 原稿 は 盗まれました、 ス ミス は 再び 之 

を 取 返す ことが 出來 なか つたので、 神の 怒 に觸れ ました、 のみならず、 一 時 は、 金 版 

はんやく てんけい ちか 6 うしな - ゆる 3 た そ ご けいてん はん 

を翻譯 する 天 惠のカ さへ 失 ひました、 ハリス 氏は赦 されて、 又 其の後 モル モ ン經 典の 三人 

けんし 上う しゃ W ん また し 上 ばたら 

の見證 者の 一 人と なつ 4^ けれども、 復ス ミ ス の 書記と なって 働いた 乙と はな かつ たのて 

し ばら つま ほんや < じ £ よて つた かじた また ねん 

す、 暫く ス ミ スの妻 は、 翻譯 事業 を 手 傳 ひました が、 家事の 爲め、 又 一千 八 百 二十 八 年 



なつごろ ,y う ひご うしな た たじ f; ふ はかど 

の 夏 頃に 其の 初子 を 失った 爲め、 其の 事業が 架 取り t< せんでした。 

もっか じゅふ はじ 上え ため ひたすら かみ いの tV ね W ひ i かな 

ス ミス は 目下の 事業に 輔助を 得る 爲に 只管に 祌に 祈. ました、 其の 願が 叶 ふて, オリ 

广 わか がく かう けうし かれ ■ = すみか き こ ひと 

ゲァ、 カク ドリと 云 ふ 若き 學 校の 敎師 は、 彼の ハ-モ -1 にある 住家へ 來 ました、 此の 人 は 

上 ゆん〉 や み てんし まぼろし き これ しん かれ し 上 3 つと い I 

預言者の 見た る 天使の 異象 を^いて 之 を 信じました、 彼 は 書記 を務 むる と 言 ふたの て, ス 

.JZ-.C なっとく ねん ゆつ か H かど じ &丄 いっしゃ, 《- • i- き, はで 

ミス は 快よ く 納得して、 一 千 八 百 二十 九 年 四月 七日に 果 取らぬ 事業 は、 一 潟 千里の 勢て、 

ちくる ゆ ゥ なかば はんやく たいていで あが 

!^;五月の半までには、 翻 譯が大 低出來 上りました。 

t はたら 3 じゅうじ を あ ひた てん た丄と しん リ 乙 わか ふた 9 あら は . • > 

此の 働に 從 事して 居った 間、 天よりの 贵 むべき 眞理 は、 此の 若き 二. <に 現され ましたの 

き ろく おはい 上ろ 乙び あた おは ぉュと けうぎ さと はくがい たえず や , 

みならず、 記錄 より 大 なる 悅 を加ハ へ る 多くの 贵き 敎義を 悟りました が、 迫害 は不絕 止ます, 

も しう と かれら ほご つ 1* ほんやぐ 、i む, つ ti^ 

若しも ス ミ ス の 舅が 彼等 を 保護し なかったならば、 續 けて 翻 譯 する ことが 六ケ 敷くな つた 

at ば ひ ん まち し きん せんじゃう は じょ あは 

てせ うが、 幸に ブ ル I ム郡 nl 八 ス 、ヴ * ル 町の ジ ヨセフ、 ナイト 氏 は金錢 上の 輔 助 を 孰 へ 

ました、 15.^ オリ ゲァ、 カク ド リ 氏の 友人なる ホヰッ ト マ 1〃 家族 は、 セネカ 郡 ッ ト 

まちす rl ュたリ , . まし 

町に 住んで 居らました が、 ス ミスと カク ドリの 一 一人 は、 デ I ゲイ、 ド, ホヰッ トマ ー 〃に 招 力 

そい { い a- ろく 乙う へん ほんやく 

れて、 其の 家へ 行って 記錄の 後編 は飜譯 されました ◦ 

二 七 



マ 

I 

テ 
ン 



に mt ン 

典-え シ 
にけ の ル 
さ 印: e ゲ 

れ 刷: S - 

まと 二 

し Jj ゆ , 

1z 版^ 州 



八 ビ 
百 I 

十 グ 
% ラ 
年! i ン 

— ♦ 

ノヽ ァ 
月^5 ン 



. 二八 

つ ひ も ほんやく , しゃ うじ ゆ きん ぽん そふう ぶ S ん あら tt is きた 

終に 其の 飜譯は 成就し まして、 金 版 は 其の 封 じられ たる 部分が 現さる、 時が 來 るまで、 

乙れ ほぐわん はん いう てんし て まお ゆた 

之が 保管の 任 を 有する 天使 モ ナイの 手に 復 委ねられました。 

X ゆん しゃ も ともおち けいてん しゅつばん ため まち い - 

,預言者と 其の 友達 は モル モン 經典を 出版す る爲 に、 バル マイラ 町へ 行って、 マ I テン、 

はう もん し しゅっぱんひ た を 

、ノ リス 氏 を 訪問し ました、 、ノ リ ス氏は 出版費 を 出す 乙と になって 居りました、 二 グ バ I, 

は 六 千 圆て五 千 部 を 印刷す る こと を 約束し ました、 而 して ス ミス は 一 千 

S ちばん けん う S3 ん あ a- is ぁ ひ^ — 

十一 日 版權を 受けました、 ス ミス は 一 千 八 百 二十 九 年の 秋と 冬の 間べ 

すみか ゆ そ あ ひん HnnMMNnynnMnn と 3 

の 住家に 行きました、 其の 間 オリ ゲァ、 カク ドリ は パ < マイラに 宿って、 

ん よねん それ 5: ん ぱる け 5 てん し 上 はん 上 

に餘 念がなかった、 其で 一 千 八 n 三十 年の ill^ に モ < モ ン經 典の 初版 は 世 

第五 章 肝要なる 啓示、 ス ミスと カウ ドリ 天使よ り 神權を 

受く 

t じゅよす /- »- た M" かみ た たま .a 乙と けうく わ^ くわん ひつえう ちしき 上 

此の 事業が 進む に從 ひ、 祌が 建て 給 はんとす る 眞の敎 會に關 する 必要なる 智識 を、 預 



けんしゃ あた たま けいく わく じ ま つた あら は またば じめ 丄 ゆん しゃ れ うかい 

言者ス ミスに 與へ給 ひました、 計畫は 一時に 全く 現され もせず、 又 初より 預言者に 了解 

さう しゃう が 5 あ ひた あ 3 た けいし う こごと をし f 

され もしませんでした、 而 して 一生涯の 間に 數 多の 啓示 を 受けました、 此の 如くして 敎を 

受けました 故、 益々 戒 えつ.^ ある 仕事.^ 善く 仕遂 ぐる ことが 出來 ました、 此の 灣 f 敎と > 

けうぎ およ せいやく いほん 3 さ 5 t はん かみ しも ぺぉ上 けぅぐゎ*^- ひつえう ぉゥ 

は 「敎義 及 誓約」 と 云 ふ 本に 記載して あります、 此の 本 は 神の 僕 及び 敎會 の必 耍に應 じて 

なぐ 3 め みちびき さプ け し ふく , 1 

慰 と 導と して 授けられ たる 啓示 を 含む ものであります 

けいてん ほんやく じゅうじ を さい あ とき 

乇〃 モ ン經 典ム翻 譯に從 事して 居った 際、 或る時 ジ ヨセフ、 ス ミスと オリ ゲァ、 カク ド 

I つみ ゆる しんれい くわん せつ i. た 乙 しんれい S せつ ふお り あたら 

リは 罪を赦 すため の 浸 禮に關 する 節に 至りました、 此の 浸 禮と云 ふ說は 二人に 新しく あり 

ごと 乙ん はち おは ひと-; Y しんぜつ こ ケ しへ ひつえう かん 乙れ かな 

ました 如く、 今日 も 多くの 人々 に新說 である、 此の敎の必^|-なる7-とを感じて之に叶ひた 

も さ 5 乙 i さう なん よた リ はやし い 乙 せつ くわん 

いと 思 ひました、 而 して 此の 乙と を 善く 相談して から、 二人 は、 林へ 行って、 此の 說に關 

ち しき もと とも いの か いの あひ^ てんし ふた W へ くた おのれ 

する 智識 を 求めん とて 共に 祈 6 ました、 期く 祈る 間に 天使 は 二人の 前に 降って、 己 は パプ 

なの かつ しんけん 5- う し 

テス マの ョ" ネ なり ふ 名乘 り、 且メ ル キセデ ク神權 (Melchlzedek prlestllooa) を 有する 使 

と ら めいれい ふたり つ かひ い てんし- 

徒 等ぺテ &とャ コ ブとョ ハネ との 命令に て、 二人に 使と なって 來 たと 言 ひました、 天使 は 

て ふたり あたま つ しんけんすな は せう しんけん .3 , ., -* た この.^ ん けん 

手 を 二人の 頭に 按 けて ァ 。 ン祌權 即ち 小祌權 (Aaronic priesthood) を與 へました、 此祌權 

二 九 



三 〇 

てん.' あらば ひと けうおう つみ ゆる かぎ てんし こ しんけん つとめ つい 

は 天使が 顯れて 人 を敎^ する ふと 罪を赦 すと との 鍵で あり.^ す、 天使 は 此の 神 權の務 に 就 

ふた 5- をし 《a た^ ハ しんけん すな は しんけん ときき た かれら あた い 

て 二人に 敎へ、 又大 祌權、 即ち メ〃 キセ, テク 祌權 も、 時 來らは 彼等に 與 へらる べしと 言 ひ 

乙 た ん けん な 乙と キリスト けうく わい t \ おい 丄 たり う 

ました、 此の 大祌權 なしに は、 眞の 基督 敎會 がありません、 ョ ハネは 此處に 於て 二人の 受 

あた んも たが ひ しんれ. s- は どこ やうめ い そこ ^ん 

け與 へられた 權威 によって、 互に 浸禮を 施す 樣に 命じました、 此處て 一千 八 百 二十 九 年 五 

f; フ はち つみ .§る しう しんれい ほどこ また 

H: 十五 日に 罪の 赦.^ 受けん とて、 ス ミス は カウ ドリに 浸禮を 施し, 又 カク ドリ はス ミスに 

しん れハ ほどこ み, つ あが とき ふたり あ ひたが ひ あんしゅれい しんけん さ, つ 

浸禮を 施し^した、 水より 上れる 時、 二人 は 相互に 按手 禮 をして、 ァ&ン 神權を 授け まし 

せいれ 5- かれら <^ t- たり それ かん おはい ろ こ また 上 £ ん f"f 

た、 すると 聖靈は 彼等に 降って、 二人 は に 感じて 大に 悅ぴ、 又 預言し ました、 期く して 

£んJC.-.S キリスト けうく わい ぐ わい ゐん はじ で 3 そ さ 5 し 上 ぎ しき ちょくせつ てん けん ゐ ラ 

現代に 基督 敎<|!! の 會員は 初めて 出來 ました、 其の 最初の 儀式 は K 接に: 大 より 權威を 受けた 

ひと お 乙な し いご ざ . 

る 人に 行 はれ. した 次第で 御 坐い ます 

てんし つみ 5 るし あた ため しんれい dyi けんろ ゆん たい くわい ふぐ 5 また ゆ のれ 

ス ミ スは 天使が 罪の 赦を與 ふる 爲の 浸禮を 施す 權威を 現代に 恢復した と 云 ふこと 又 己 

それう い Ait 一れ たび ノ\ ねっしん きうおう しゃ の 3 ゆいう 

と オリ ゲァ、 カウ ドリ は 其 を 受けた と 云 ふ 音信 を 度々 熟 心なる 求道者に 述べました、 又 友 

じん あ をし へ と せいしょ 上 そ w いうの や ひと-. t\ かわ L 上う 乙 しん 

人に 逢へば、 敎を說 き、 書 を 讀んで 其の 现. H を 述べました、 頓て 人々 は 彼の 證據を 信じ 

それう やう ,M を う ち.. - けんしゃ き やうた 5 . 

て、 其 を 受けろ 檨 にな まして、 先づ 其の 內に 預言者の 兄 第なる サミュ ュル、 H - チ ス ミス 



3 いし 上 

と ハイラム, スミヌ は 最初て あ, 5 ました。 

r=^=^=^= うつ のち け しゃつ" き めい ひと- かみ 

フ 2 ェ ッ トへ 移りて 後、 ホヰッ トマ -ル 家の 正直なる 二三 名の 人, > は、 ス ミスが 祌ょ. 9 

しめいお きた ひと しん しんれい う 2 た を ち はう おは ^tAV 

使命 を帶 びて 來れる 人で あると 信じて、 浸禮. ^受けました、 又 其の 地方の 多くの 人々 は、 

せいれい もくし お i くんかい せっとく くわい るん いかん 

垂靈 の默示 及び ス ミスと カウ ドリの 訓誡と 說得 とに よりて、 會員 になり ました、 如何と な 

Z ふたり ひと あ ばな きく わい j5 ゑ 

れば 此の 二人 は 人に 逢って 話す 機 會が度 ありました 故で あ. 5 ます 

けいてん ほんや: じゅうじ を あ ひお t ん しゃお よ そ し 上き てんしゅ はん かくべつ 

乇〃 モン 敎 典の 翻 譯に從 事して 居った 問に、 預言者 及び 其の • 記 は、 天主が 三人の 格別 

けんし ようしゃ めた まい し 乙 けんし 上う しゃ きんぼん み ゆる 

なる 昆證者 を 召し 給 ふと 云 ふこと を 知 6 ました、 此の 見 證者は 金 版 を 見る 7- と を 許されて、 

其の こと を證 すべき もので あらました、 (モ 产 モン 經典ィ テルき 五 章 二 至 1: 節) 啓示に 依 

そ けんし 上う. しゃ 

りて オリ ゲァ、 カウ ドリと デ,' ゲ イド、 ホヰ タト マ I ルとマ I テン、 "リ スとは 其の 見證者 

えら のち すうじつ へ はん 1 けんしゃ とも はやし い そやく 

に 選ばれました、 選ばれて 後、 數日. 經て 三人 は 預言者 ス ミスと 共に 林へ 入. 9 て、 其の 約 

もく きぐ わい え 5 た かれら いのり かな てんし あら は きんぼん ひら み 

束した る 機會を 得ん と 致しました、 彼等の 祈が 叶 ふて、 天使が 願れ、 金 版 を I 々開いて 見 

かれら つ /- し 上 これみ も はり もの みと でき きんばん かみ ちから 

せました、 彼等 は 謹んで 善く 之 を 見、 其の^ 物 を 認める ことが 出來 ました、 金 版 は 舯のカ 

あら は fei4 はんやく い K- ふき も と 3 み かっき と 乙 ろ 

によりて 現されて、 正しく 翻 譯づ」 れ たと 云 ふ聲を 聞きました、 其の 時に 見、 且 聞いた 所の 

三 一 



三 二 

あかし めい のち めいれ 5 ど ほり あかし 乙 しょうこ けいてん し 上 

乙と を證 せよ と 命ぜられ たので、 後に 命令 通に 證し ました、 此の 證據は モル モ ン經 典の;^ 

ばん き さい 乙ん はち ^た せつば そのさん めい けんし 上う しゃ みな あと け 5 

版に 記載され てあります、 今曰にf^f.るまても說破されません、 其 三 名の 見 證者は 皆 後て 敎 

くわい た らぐ さいしょ S ん しゅく あかし ^ ごと 3- ん ぼん てんし み い 

會 よら 墮落 しました けれども, 最初 嚴肅 に證を 立てた 如く、 金 版と 天使 を 見た と 云 ふ 乙と 

ばんたい ひとり をた はん けんし 上う しゃ きん 

に反對 する もの は、 一人 もなかった のであります、 其の 他に 八 人の 見證者 は、 ス ミスが 金 

ぼん おのれら み おのれら またて もれ ふ 5 あかし た 乙 あかし けいてん 

版 を 己 等に 見せ、 己 等 も 亦 手で 其に 觸れ たと 云 ふ證を 立てました、 此の 證 もや はら 經 典の 

し 上 ばん き 3 い 

諸 版に 記载 されて あ." ます ◦ 

ねん £ つ はち £ つ す., - つかた あ ひ < 一 ひ めいはく わか II 

一千 八 百 二十 九 年 月 十五 日と 六月の 末 方との 間に、 日 は 明白に 解らぬ が、 ぺ-ズ "とャ 

と ョ 、ノ ネと は、 榮光, V 以て、 ス ミ スと カウ ドリ に顯れ ました、 此の 三人 は 昔日 天主て 

すぐ ひねし しと 乙 上 を あひ^お のれら も 

救 主ィ H ス、 キリストの 使徒て あ ましたが、 此の世に 居りました 間、 己 等の 有て るメ 

し けん t 丄 》リ あたし i やくめ S ん かみ あたら 

ルキ セデク 祌權を 此の 二人に 與へ 使徒の 役目に 任じました、 ス ミ スと カウ ドリ は 神の 新し 

しも ぺ すな は けうく わい ま ちゃうら う たい ちゃうら う J^; たたが ひ あんしゅ X こ しんけん さ, つ 

き 僕、 即ち 敎會の 第一 の 長老と 第二の 長老であって、 復 互に 按手に 依って * 此の 祌權 を授 

そ 乙 かれら せいれい たまもの え ひじ やう i ろ 乙 なせい 乙 た 3 も 一 

けました、 其處 て、 彼等 は、 聖靈の 賜 .V 得て、 非常に 悅 びました, 何故と: K ふと 此の 賜 

ひと あた けんる ■** § も か かれら しんけん いう ひと 

をムに 與へ る 權咸を 有て る 故て あらました、 斯く 彼等 はメ ルキ セデク 祌權を 有する 人と 



しんけん うご さし プ しゃう り またし ばい あるひ しう リ ちから ナん また. 

なりました、 メ^ キセデ ク祌權 と は 「動かし 指圖 しま 又 支配し 或は 修理す る 力 權又威 

たいどう る かみ ぞく ぷぽ はん ゆん けいとう ;?. や 乙 つた 

であって 三體 同位の 神に 馬して 父母 (本源) なく 系統 (親より 子に 溥 はるべき こと) なくして 

むしむ し^う ん ざい ひと をし ひと けうぐ わ S い せいしんてき ばぐたい て ao 

無始 無 終に 存在す る もので あ. ますが 人を敎 へ、 人 を 敎會に 入れ、 精神的に も肉體 的に も 

ひと みち ,ひ を さ かった か ため ひと さ.. つ おはむ かし そんけい おいさ < ^し 

人 を 導き 治め、 且 高める 爲に 人に 授か ft-t- す、 大昔 尊敬せられ たる 大祭司 メル キセ デクは 

乙 しんけん そんちょう たいせつ § ゑ あ^ ため かつまた かみ み 乙 

此の 祌權を 尊重し 大切に した 故に メ , キ セデク 崇める 爲 且又 祌の 御子 ィ エス、 キリスト 

な あま たび 》f\ く s- かへ さ . ため 乙 しんけん な つ 

の 名を餘 6 度々 反覆して いふ M と を 避ける 爲に 此の 神 權にメ ルキ セデク の 名が 付けられ ま 

ャ つ」 いくわん ちゃう ゆん 

した」 (大 管長 ジ ヨセフ、 H フ、 ス ミス の 言) 

たいどう ,0 かみ 乙れ しんく わい 5 しんく わい てんぶ そのみ 乙 せいれい なりた 

* 三體 同位の 神、 之 祌 會 とも 云 ふ、 祌 會は 天父と 其 御子 ィ H ス、 キリストと 聖靈 とに よって 成立った ものて 

てんぶ ぐらる 乙れ.^ み i> 乙 てんぷ お ほい けんおよ み ぶん あお てんぷ 

ある、 天父の 位 は 之.^ 祌と云 ふ, 子な ろ キリスト は 天父 i り 大 なろ 權& び, お 分.^ 與 へられ、 つ ひ- II 天父と 

おな くら ゐ あ ^'み くら る ぃラ を つうし 上う tfs れい もの おい みたま 乙れ てんぶ ゆるし 

同じ 位 !. L 上げられれ のて 神の 位.^ 有して る、 a ^ 聖 靈 なろ 者 は大 なる 御靈て ある、 之 も 天父の 許 か 

てんぶ おな くら & たつ ゆ ゑ かみ くら ゐ ぃク を しか かみ くらる を. 乙 たい おんかた: 

て 天父と 同じ 位 に 達せられた 故に 神の 位 か 有して 居ろ、 然 らば 神の 位 に 居らろ、 此の 三 體の御 方 は 

くわい な 乙れ しんく わい もし たいどうる かみ し 上う ど しゃ こ しんく わい それ を ぃゴ 

會 . ^成に て 之, 神 會 若く は三體 同位の 神と 稱 すろのてめる、證*_11^.:1ふ 祌 會 .^^4*に居られろ何れかの 一 

乙 おん. a た ごかい 

個の 御 方と 誤解 せられぬ: と,^。 . 

乙 ふた W おいしん けん う のち てん,. ゆ ^§ ラ おい けいし 乙れ X ばつ じつ 

此の 二人が 大祌權 を 受けて 後に 天主よ. 重大なる 啓示が あ. 9 まし〃、 之に 依りて 末日に 

三 三 



三 四 

しとめ やよ そ ,上 む し &^た<ゎん1^ん ふぐ いん かな *r スト:. ラ 

十二使徒の?:? n るべき 乙 と 及び: f;; の 職教を 知らせられ、 ヌ完 全なる 福音に 適って、 某^ 敎 

ぐれい さゥ S. つ もしき ぐわん おは をし へ あた 

會を 創立し、 钮織 する 7~ とに 關 する 多くの 敎を與 へられました 

か ねんた じ ゆつ ゆつ あ ひた ぱん ばん めぐみ あた おは たいせ ゥ 

. 期く 一 千 八 百 二十 九 年の 多事なる 五月と 六月の 問に、 萬 人に 祝福 を與 へる 多くの 大切な 

る 眞理と 敎理が 現され した、 其の 結采 は、 宗敎界 に 取らて は、 大 なる ものて あ す、 

乙れ ..." しんれ." つみ ゆるし え ため ひつえう わか なた t ぎ しき しっかう ため 

是に て 浸禮は の赦を 得る 爲に 必耍 であると 解ら ました、 又 此の 儀式 を 執行す る爲に 

人々 が 委任され たのて あります . 

ほと せ う irs うみん はいふ け 5- てん しんせ. 5. あかし ため 

今や 殆ん ど仳界 中の 住民に 配布 せられん とする モ〃 モ ン經 典の 神聖なる 乙と を する 爲 

に、 a- 證 者が 選ばれました、 されば 世の 人々 は該經 典に 依って、 昔日 敎 へられた る イエス 

くわん せん .A ぐいん t な. - てん せつめ 3 あた 

キリス トの 完全なる 福 昔と 其の; Aril, のない 說 明と を 與 へられろ のて あります つ 

Z おと ブれ じん ス& つた さいしょ じ ^ ^ せいこ ラ 

此の 音信 を 人 額に 傳 へる 最初の 事業 は 成功され した。 

そ けっ^-ゎ まこと けぅ.^ゎぃ さう りつ てんしゅ おこな たま くす し いと あやし わざ やが 乙 X 

其の 結果と して 眞の 敎會の 創立、 さて は 天主が 行 ひ 給 ふ 「奇 くて 最怪き 事」 が て 此の世 

に贸 現されん として ありました.〕 



たい へん 

第二 編 

敎會の 創立より 力 1" トラ ンド 逃走 まての 事件 \ 

(自 一 千 八 百 三十 年 至 1 千 八 百 三十 八 年) 

たい しゃ ク けうく わ. & S う- 3- つ 

第 一 章 敎會の 創立 

,み > pa ごめ CLP し.?. Jl- ねんけ つか 乙 けクぐ わい さう リっ 3 じつ ばん 

g のぼぎ と 御 命令に 從 つて、 一 千 八 三十 年 四月 六日 は、 此の 敎會 の创 立の 期日て 萬 

たん ようい と、 の しんれい う しんぶ や ♦ a ん, 二. は- ョ I ク.^ ふ r - -, nM^ M 

み S の 用意が ひまし.?^、 浸禮を受け^^信者は 九人 紐 育 4; セネカ 15 フ " ュ ッ ト町 ヒ-タ 

い . L よ. め じ おく おい つど あつ そ ひ 乙く はふ したが C I 

1., ホヰッ ト マ _ レ /(初代 目) の 自宅に 於て 聚ひ 集ま. 5 まし. f:! 、其の 日國 法に 従って 六 人の 

しんじゃ ぽゥ じっせいと イエス キリスト けうく わい さう りつ > を, • » , V 7 ヽ ••-i!^^ ノ 

信:^ で、 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會は 創立され まし. i^、 其の 六 人はジ ヨセフ、 ク ミス (二 代 目) 

, し 上ぉぃ め 

と オリが ァ、 カク ドリと" ィ ラム、 ス ミスと ピ I タ ー 、 ホヰッ トマ- 〃(初代 目) とサ ミ ュ 

エル、 ェチ、 ス ミスと デ-ゲ イド、 ホヰ タト 「 1 〃とて あ まし. i^o 

三 五 



まへ げいし めいれい した 5= X ゆん しゃ さいしょ きたう もつ を くわ <• 

前に 啓示され た 命令に 從 つて、 預言者 ジ ヨセフ、 ス ミス は, 最初に 祈禱を 以て、 其の 會 

ひら おのれ かみ くば すな は けうく わ S はう おうし しんじゃら そ しき う 

を mis て、 己と カク ドリ は 神の 國、 即ち 敎會 の敎 導師と な. 9、 また 信者 等 は 組織され て敎 

くわい ^Jゝろょ さんせ i- いな し しんじゃら た., つ れら どう 乙れ さん 

-en となる ことに 快 く !:^成 する や 否や を 知らん と 信者 等に 尋ねました、 彼等 は 一 同 是に賛 

せい ヽた ,てこ て つ リストけ う わいち やうら ラ のち 11 

成 致しました、 其 處でス ミス は カウ ドリに 手 を按 けて 墓 督敎會 の 長老と しました、 後 力 

あんしゅ ひと やく ^ん しんれ. い う もの てんしゅ せい ばん 

ク ドリ はス ミ ス に 按手して 等し き^に 任じました、 浸禮 お受けた 者 は、 天主の 聖 なる 晚 

さん あ." つか のちみ ぎ ちゃうら う あんしゅ けうぐ わい ぐ わい ゐん かた さう せいれい 

餐に與 つて、 後 右の 長老の 按手に よりて、 敎<1" の會: W たる こと を 堅く せられ、 而 して 聖 靈 

う せいと せいれ 5 いた かん みな よろこ かみ さんび またな か よ ゆん もの 

を 受けました、 聖徒 は 聖靈に 甚く 感じて、 皆悅 び、 祌を證 美し、 又 中には 預言 をした 者 も 

そ とき すべ せいと き やうた.^ し Ji* い そ 9- やうたい tj- たえら しん 

あ. ました、 其の 時に 總て 聖徒 は 「兄弟 姉妹」 となって、 其の 兄弟に よって、 亦 選ばれて 祌 

はん あ やく にん もの そ やく しょくむ そ 乙ろ けいし 

權の 或る 役に 任ぜられ たる 者 も あ. 5 ました、 其の 役の 職務 は 其の 頃 啓示され ました。 

せいと . なほい ま さんく わい をり よ ゆん しゃ けうぎ お 上, ひせい やく 

聖徒の 猶 未だ 散會 せざる 折に、 預言者 スミ スは 「敎義 及 誓約」 (Doctrine aud covemmts) 

い はん しゃう けいし かれら の おのれ かみ め 

と 云 ふ. 本の 二 十 一章に ある 啓示 を 彼等に 宣 ベました、 それに は 己が 神に 召された る 乙と、 

およ おのれ つみ ゆる せんげん せいと てんし! S みぐ ち い 乙 とぱ したが 

及び 己の 罪の 赦 された る 乙と が 宣言して ある、 また 聖徒が 天主の 御 口より 出づる 言葉に 從 

ごと かん K ん およ しんかう 了 てん う ことば ちう い めい 

ふ 如く、 堪忍 及び 信仰 を 翁して、 ス ミスが 天よ, ON 受ける 言葉に 注意すべく 命じて あり t< す、 



も か てんし かれら せいと 65 ( ぐら やみ さ かれら ため てん しんどう 3 

若しも 斯 くせば 天主 は 彼等 聖徒の 前より 暗黒 を 去. 5、 彼等の 爲に天 を 震動す ると 云 ふこと、 

また あぐま ちから かれら ぅ*^か ベ やぐ そぐ 

又惡 魔の 力 は、 彼等に 打 勝つ 可 力らざる こと を 約束して あわます、 のみならず、 ィ H スが 

せ じん つみ ため じムじ か つ なた つみ §2 し う はう はふ た て 

世人の 罪の 爲に 十字架に 付けられ たる こと や、 又 罪の 赦を 受ける 方法が 設立ら れて あると 

S ぶどうばたけ X ひろ ""の お ほい めぐみ あた い やく そ く 

云 ふこと を 葡萄園 (世) に弘 める 者 は、 大 なる 惠福 を與 へらる V と 云 ふ 約束が あります 

れきし か まう かく ごと ばつ じっせいと イエス キリス.^ けうく わい さつ. リっ 

歴史家 ホヰッ ト ュが 申します に は、 「期の 如くに して 末日 聖徒 耶豚 基督 敎 <!:: は 創立され、 

乙の ごと はう はしがき み せ じん S そ しき こ 

此 如くに して 「モ ル乇 ン」 敎 (序文 を 見よ) と 世人に 言 はれる 組織が 起り ました、 此の r 乇 〃乇 

けう ん 乙ん もっと いちじる しゅうけ う み な & 9 た キリストけ う/ J く お. S い た ところ これ もつ み 

ン」 敎は 現今の 最も 著 しき 宗敎と 貝 做され, 又 基督 敎國に 於て は、 到る 所、 之 を 以て、 身 

はろ き けん ん ちゃくし: S たん きら あくこう しか けうと 乙 をし へ 

を. C ぼす 危險 なる 瞞 is, 手段と して 嫌 ひ、 惡 口され ます、 併しながら 「モ , モ ン」 敎徒は 此の 敎 

うやま ま 乙と せんのう かみ ぐす し わ? すなば お 上 た むかし せんけんしゃ よ ゆん くす し 

を 敬 ひ、 眞に 全能なる 神の 奇き 事, 即ち ィザャ 及び 他の 昔の 先見者の 預言した る、 「奇 くて 

いと あやし わざ 乙れ べんご さう ^J くす し いと あやし わざ くわい ふく よぐ いん 

最怪き 事」 として 之 を 辯 護し ます、 而 して 此の 「奇 くて 最怪き 事」 は、 恢復され たる 福音 を 

敎へ、 且 末日の シ ォ ンを 建設す る を 以て メ ッ シ ャ (救 主ィ TI ス、 キリスト) の 再降臨 を迎へ 

た また ねんへ いれ じ たい ひら ため ようい せ じん 

ん爲 め、 又 千年の 平和の 時代 を 開く 爲の 用意 を 世人に させる ものて あります」 と ◦ 



三 八 

たい しゃう き せき お 上 tt< がい は ばく 

第二 章 奇蹟 及び 迫害、 ス ミスの 捕縛 Z 

けぅ^^ねぃ <ゎ えう さう リっ たい こうく わい そ ご ねん けつ はち はち 

敎會は 火曜日に 创 立され ましたが、 第 一 の 公會は 其の後 一 千 八 百 三十 年 四月 十 一 日 (日 

えう, ひ 】 一 llnll ク しう ぐん I まち, し 5 へ ひら /J 

曜日) 紐 育 州セネ カ郡フ ット 町。 ヒ, -タ I、 ホヰッ トマ.' 〃氏の 家で 開かれました、 此 

しふぐ わい ぐ わう こく 上 ^ きんぺん ひろ :§ぇ お ほ ひと ぼうち やう 乙 v-y 

の 集會の 廣吿は 善く 其の 近 邊に弘 ま. 5 ました、 故 多くの 人が 傍聽 しました、 此の 折に オリ リ 

めいれい さいご ふくいん じ たい かみ けん rO いう レ 3 

ゲァ、 カウ ドリ はジ ヨセフ、 ス ミス の 命令に て、 最後の 福音 時代に、 祌の權 威 を 有する 僕 

たい おは やけ せっけう いた せいと お 上 た ひとぐ おはい なぐさめ え おは 

として、 第一の 公 なる 說敎を 致しました、 聖徒 及び 他の 人々 も大に 慰 を 得て、 多くの 

ひと かみ せいと た しんれい は どこ ね? - そ ひ はん はよ くわい、 た 

人 は 神の 聖徒と なる 爲め、 浸禮を 施されん 7! と を 願 ひました、 其の! 1! 六 人入會 致しました、 

また はち W ちえう Si また はん si ぐ わ みな 8 こ しんれい ほど 乙 

又 十 <: 日 (日曜 3 ) に 又 七 人入會 致しました、 皆 セネカ 湖て オリ ゲァ、 カク ドリに 浸 禮を施 

されました 

ゆつ すゑ かた II ェ I 3-. クしラ ぐん —— まら ゆ 

四月の 末つ方 ス ミス は 紐 育 州 ブル..' ム郡 コ t 〃スゲ ヰ〃 町へ 行きて • ジ ヨセフ、 ナイ 

レ いへ ばう ■» ん 乙 ひと < ^ハ てん ほんや < じゅうじ 

ト 氏の 家 を 訪問し ました、 此の 人 は、 ジ ヨセフ、 ス ミスが モル 乇ン經 典の 翻 譯に從 事して、 

かね ぷ -V く を とき しんせつ たす ひと - そか; V く う ちう しんけ ラ しんじゃ 

金に 不足して 居った 時、 親切に 助けた る 人です、 ナイト 氏と 其の 家族と は 宇宙 神敎の 信者 ~ 



かれ ねんごみ むか かれ し: S うげ うじ やう い けん つい おもむ ぎ ろん いた X 卞ん 

であった が、 彼 を 懇 に迎 へ、 彼の 宗 敎 上の 意见に 付て 徐ろに 議論 を 致しました、 預 fiin 

しゃ くわい しふぐ わい ひら てき み かた またお は きうた うし や つく 4. つ ぼうち やう と 

者 は 二三 回の 集會を 開いて 敬 や 味方 や 又 多くの 求道者 ケ造 6 ました、 何時も 傍聽 した 人の 

中に ジ ヨセフ 1、 ナんト の 子-! ユエ ル、 ナイトが あ 6 ました、 彼 は 預言者の 言葉に 甚く 感動し 

せっけう; r やう ともおち 3 へ た いの やぐ そく とき ハ かす Z- 

て、 說敎 場で 友達の 前に 立って 祈る 乙と を 約束した が、 其の 時になる と、 如何に 勸 めら れ 

の で き すぐ はやし 3 & かへ とき み 乙ヽろ お, V ろ ようたい 

て も 祈る さが 出來 なかった、 直に 林へ 参らました が、 歸 つた 時には、 身 も 心 も 恐し き 容態で 

かれ はう もん そ か はかた ち て あし ねれ ,まゆ み 

あ, 9 ました、 ジ ヨセフ、 ス ミスが 彼 を 訪問して、 其の 顏貌と 手足が 捩 曲ら れ たる を 見 まし 

上 ゆん しゃ を いへ を あ ひた そ うじん i ちからな ゆ ゆか は あ 

た、 預言者が 其の 家に 居る 間に、 其の 友人 ナイト 氏 は 力無 氣 にも、 床より 挑ね 上げられて、 

部屋の 端より 端まで 投げられました、 ス ミ スは 聖靈に 感じて、 彼が 惡 鬼に 憑れ たる 乙と、 

3 たかれ か /- < つう 寸く 5- た た かみ ちから いさと II 

又 彼 を斯る 苦痛より 救 ひ 出す もの は、 唯 だ 神の 力の みで あると 云 ふこと を 悟 6 まし^、 ス 

かれ て つか 3 で き とき おのれ くるし あぐき お いれ 一 

ミ スが 彼の 手を捉 へる 乙 とが 出來 ました 時、 ナイト は 己 を 苦め る 惡鬼を 追 ひ 出さん 乙と A,J 

UJ" かみ しも ぺ 乙た なん^5-も X t ちから しん そ ごと 

願 ひました、 神の 僕ス ミス は 答へ て 「汝 若し 予に 其の 力 ありと 信ぜば、 其の 如くな らん」 

I い いな な K ゆ なし あく 3 いまし ^ しりぞ めい 

と 言 ふや 否や ほとんど 無意識に 惡鬼を 戒めて、 イエス、 キリストの 名に よって 返け と 命じ 

まする と、 ナイト 氏 は 直ちに 悅び 叫んで、 惡 鬼が 部 尾 を 去る 乙 と を 見る と 申しました、 彼 

三 九 



4 



四 〇 

はかた ち と とほ: y なほ そ :e:^ み や かれ まった いや せいれい みた を をし へ しん 

の 顔貌 は 元の 通に 直り、 其の 止み、 彼 は 全く 瘡 され、 聖 靈に滿 されて、 其の 敎を信 

さう ゆつ す ごろ まち ゆ あひな 

じ まし.? T 而 して 五月の 末頃フ " H ク ト 町に 行きて を る^に、 デ I ゲ イド、 ホヰッ トマ 

しんれい う こ き vl:i.J み お ほ ひと のち けうぐ わい ぐれい ゐん な 

I ル より 浸禮を 受けました、 此の 奇蹟 を 見た 多くの 人 は 後に 敎會 の會 員と 成らました。 

こ ごと かみ ちから けうく わい^ i- き せき お 乙 な やぐ そく めぐみ ば じ ク t も 

此の 如く 神の 力に て敎會 第一 の 奇蹟 は 行 はれて 約束した る惠 福 を 初めて 受けました、 抑 

— -む かし こと いま なほ しん もの しるし したが ぷ くいん そ ときい らいち やうら う いぐ 

々昔日の 如く 今も猶 信ずる 者に 「奇跡」 は從 ふべき 福音で あ. ます、 其の 時以來 長老 は 幾千 

たび き せき おこな さう 乙ん はち お 乙な を しか /J やう *r う はこ 5- 

度 も 奇蹟 を 行 ひました、 而 して 今日ても 行って 居ります, 併し 此の 長老 は 誇る n; となく 何 

つ てんぶ かみ そ さんび あがめ えいく わう き 

時 も 天父なる 神に 其の 讃美と 譽と榮 光と を歸 せます。 

^r, んは コ I ルス ゲ ヰ ルて總 ての 用事 を 全く 終. て、 フ, 丄ヱッ トへ歸 りました、 モル モン 

けいてい これ いんさつ すで ひさ とき へ 8= ふしぎ 

經典 は、 之 を 印刷して から 旣に 久しく 時 は經. ^れ ども、 フ" ュット にて は 、「不思議なる もの 

おも さラ じん a- た な 一 くわい r3 ん も み かな お 上 そ ほん しん 

と 思 はれました、」 而 して 人氣が 立って 居りました から 會員 や、 其の.^ 方、 及び 其の 本. V- 信 

ずる 人 は、 多少の 迫害 を 受けて 居 もました リ 

ねん t ク はち けうぐ わい さ *:; いく .si- ひら tt じめ ひ はん 

1 千 八 百 三十 年 六月 一 日フ" ュ" トで 敎會の 最初の 大會が 開かれました、 初の 日に 三十 人 

くわい & ん ^ほ ひ しんじゃ 上 t あたら し S つけう しん ひと <Y あつ せいさんしき? しっかう 

の會 員と 多くの 非 信者 及び 其の 新しき 宗敎を 信ずる 人, > も 集まり まし. 5^、 聖餐式 は 執行 さ 



れ ました、 集會 者の 信仰 は 最大なる ものて 多くの 人 は 聖靈に 感じて、 不思議に も、 一時 は 

おの./ (\ ち, A ら ラ しな てん 3 ぼろし み またち から と な は かス こひつじ 

各々 力 を 失 ひ、 天の 異象 を 見ました が、 又 力 を 取ら 直して, 祌と 盖 なる イエ ス、 キリス 

::. を 讃美して ホザナ や ホザナ と 叫び、 期く して Ifn 靈に 満たされて 居った 間に 見た る 榮光を 

たが かた あ おは ひと しんれい ゥ な は おは せいと しんけん あ やく にん- 

互に 語り合 ひました、 多くの 人 は 浸禮を 受け、 猶 多くの 聖徒 は 神 櫂の 或る 役に 任せられ ま 

ナ うむ, ヌノ しよく :h うく わ S ため あたら ねっしん もつ ふんき さう ちゃう. V く しん も" [\ 

した 敎, 職 は敎會 の爲に 新しき 熱心 を 以て 商€, し、 而 して 「モ 产 モ ン」 敎は 長足の 進 步を以 

くいぐ ちゃう ぱじ 

て慷 張 し 始めました ノ 

こ r ? i ハな - いへ かへ のちし ぱら た おのれ 

此の 大會が 終る や 否や、 ス ミス は、 ペン シ〃 ゲェ -I ァの 家に 歸 つて、 後 暫く 經 つて 己の 

妻 を 連れて \コ 1〃 スゲ ヰル へ 行って ジ ヨセフ、 十 イト 氏の 家 を 訪問し ましたが、 其 所 へ 行 

しんれ ラ パ ひと あまた ど えう び ぼん *^ やうら クら 乙が ぱ せき つく 

くと 浸禮を 受けたい と 云 ふ 人が 數多 あ.^ ました、 土曜日の 晚に 長老 等 は 小川に 堤防 を 造つ . 

そ あぐ はちえ うび れ S- くわい のち t Z しんれ. i は ど t つ がふ. 、., * ぼ;^. V, - ^^^^i 

て 其の 翌る 日曜日の 例會の 後に、 其處で 浸禮を 施す 都合て あつたが、 暴徒 は 近所の 或る 牧 

し ち i-f- な そ せき わ やむ.^ えず そ ぎ し 3 fi つえう び までえ,^ き . _ 

師 達に 誘 はれて、 せ; の 堤防 を 毀した ので、 不得止 其の 儀式 を H 曙: n 迄 延期せ ねばならな 力 < 

はち う,、. .ff クナぅ >H くいん 卞んた けいてん t んせぃ し 上う 乙 き なほ たうて き け ssr.; ど 

つた、 日曜日の 說敎で 福音の^ 則と モル モ ン經 典の 神聖なる 證據を 問いて 猶 一 層 敬の 激怒 

お,!; ^\ ゆ つえう び , はん しんれい は どこ > 

の 高ま もた るに 拘 はらず、 月曜日に-^ リ ゲァ、 カウ, トリ は 十三 人に 浸禮を 施しました 

四 一 



けんしゃ つま そ うち はん 七 ! S ゑ かれ けうく わい 

言者ス ミ ス の 妻なる H ンマ は、 其の 中の 一 人で あ. ました、 其れ故に ス ミ スが彼 を 敎會の 

AHW むか 上ろ こび はんご つく で き ぎ しき ケは 5- な はう と 

牢に迎 へる ときの 悅 は 言語 に^す ことが 出來 ませんで した、 儀式が 終る や 否や 暴徒 は 

またぼう かう はじ はん ml し いへ と か/ J も ちゃうら うら 

復暴行を初めまし^^、 五十人 はジ ヨセフ、 ナイト 氏の 家 を 取ら 圍ん だから、 若しも 長老 等 

ひじ やう うじん ぐ は たうて いばう. a う まねが で き 

が 非 < なる 用心 を 加へ なんだならば、 到底 暴行, V 免る 、ことが 出來 なかった でせ う、 スミ 

— そ ばう-' 一 むか なた つと かれら け 5 べつ おどし 乙た 七 

スは 其の 暴徒に 向って、 寬 めんと 務めて 健氣 にも 彼等の 輕蔑 ゃ嚇に 答へ たけれ ども、 其の 

か ひ :、 やう や ばう と し s-fv ち 4- うら うら ようじん ^ 

甲斐が ありませんでした、 漸く 暴徒 は 返いた のて、 長老 等 は 用心して -I ュ H 〃、ナイト 氏の 

いへ 3& そこ あつ かいしん しゃ あんしゅ けうく わい ぐ ゎ5& ん かた 

家に 參 hN ました、 其處で 集まって ゐ たる 改心 者に 按手して、 敎會の < ^員た る と を 堅く せ 

とき けいさ C 'くわん ほ ばく れ 5- じ やう も あらば 乙れ 

ん とする 時、 ii" 察官 は、 ス ミス を 捕縛 せんとて、 令狀を 持って 現れました、 之はス ミスが 

けいてん のべった ひと/; Y うち さう どう ひ _3 お 乙 を い うつたへ 

乇〃 モン 經典 を宣傳 へて、 人々 の 中に 騒動 を慝 起して 居る と 云 ふ 訴 があった からです、 

ぽぅと おのれら て え aJ/ ろ 2\ かれ さいな もくろ み れいじ やう はつ 

暴徒 は 己 等の 手に ス ミ スを 得て、 心の 儘に 彼.^ 叱責まん と 目論見て、 <P 狀, 發 せしめ まし 

けいさつく わん した /J ぼしょき み お 上 じんぶつ ひと ひやう ばん あ ひ 乙と 

たが、 警察官が 親しく 此の 場所に 來て 見る に 及んで、 ス ミスの 人物と 人の 評判との 相 異な 

し さう も ねんごろ とリ あっか ぱ うと 

れる こと を 知 6 ました、 而 して 若し ス ミ スを 懇切に 取扱 はなんだならば、 暴徒 はス ミ ス VJ 

かんしゅ うば と さう, ばう と ぼし やと _M とき そ けいさつ ぐわん うま 

看守よ 6 奪; S 取った に 相違はありません、 暴徒が 馬車 を 取. 9 卷 いた 時に、 其の 警察官 は 馬 



むら 5 つ ぼうと たつ と 乙ろ ゆ けいさつ くわん -■ - 1 [ 

に鞭據 つて、 ス ミ スを 連れて 暴徒の 達せざる 所に 行きました、 警察官 はス ミス をチ" ナン 

I , ぐん I まち い かれ り t くわん と 3 もばん よ あ 

,rr 郡 サ ウス、 べィ ンブリ ヂ町 まて 行って、 彼 を 旅館に 宿らせ、 其の 番をして 夜 を 明かし 

そ あくるひお はさ わぎ さいちゅう X しんもん ばん い ろんこく かれ 

ました、 其の 翌日 大騷の 最中に、 ス ミス は 呼ばれて、 審問され まし.? -、 犯, 罪の 論吿 は、 彼 

い さん & とひぬ し うま とう また — を うし とう 

は、 以前の 歷生ジ ョ サャ、 スト,'〃 より 馬 を 1 頭又ジ ョナ タン、 トムソン よ. 9 牡 卞をー 一頭 

う 汁い しう ぎう ばお のれ し よいう き い 

得る の 啓示 を 受けた.^ とて、 此の 牛馬 を 己の 所有に 歸 した.^ と 云 ふので あ ひました けれど 

し i う W ん 乙 み けっしう じん べんご みや 

も、 スト I だと トムソンが 證人 となって、 此の 未决 囚人 を 辯 護した ので、 ス ミス は 速 かに 

無罪 放免の 身と ならました、 ス ミ ス の 辯 護人 は ジ ヨセフ、 デイが イド ソンと ジョン、 リ I 

I S- やうし t i たリ たの 

ド との 兩 氏でした が、 此の 二人 はジ ヨセフ、 ナイトに 賴 まれた のであります 

ゆる 5- な I ぐん れいじ やう ど はぽぐ . 

ス ミ スが される や 否や ブ〃, ム 郡よ. 9 の令狀 によって, 二度 捕縛され、 コ - 〃 スゲ ヰ〃 

まち つ しんもん /J んど け 5 "さつく わん かれ ぎゃくたい すうじ かんいんし よく あた 

町へ 連れられ、 審問され ました、 今度の 警察官 は 彼 を 虐待して、 數 時間 飮 食を與 へな かつ 

リ t くわん ぐ みん たい かれ のヽし ぐ ろう けいべつ つぼ かれ は かれ てうろう やう や 

た、 旅館て 愚民 隊は彼 を 罵. 9、 愚弄し、 輕 蔑し、 唾 を; に 吐き、 彼 を 嘲!^ しました、 渐く 

み, つ すと く, f\ あ f を ばん やす § る 

ス ミ スは 水と 少しの パ ン 屑と を 奥 へられて、 其の 晚は 休む こと. 許されました。 

そ 上ぐ じつ さいばん ^i^< さい ぼん ぺんご ^ん かれ ぺんご うった もの あくい めいはく すつ ばね 

其の 翌日の 裁剁で 前の 裁^の 辯 護人 は 彼 を 辯 護して、 訴 へ.?; i る 者の 惡意を 明白に 魄 露き 



&四 

ばつ リ いう またす み は? めん ,- U れ isj< , ^ こき 

ました、 ス ミス を罸 する 理由がない ので、 復速 かに 放免に ならました、 :k が爲に I の 敬 は 

おはい いか い M ぱ うかう ぐば おい- 

大に 怒って、 今にも 暴行 を 加 へんと 嚇 しました。 

い, せん か.;," ぎやくたい けいさつ くわん な さいばん じ けん み お ま ひさ o- ごヒ V ^ ゾ 5: やう X 

さ g に 彼 を 虐待した 警察官 は、 其の 裁判 事件 を 見た 多 I くの 人々 の 如く、 却て 同 皆 を 寄せ , 

^.y て S ぐ: a たて ばう;" い つ 一 つ a ナ , 

る樣 になって、 敬の 企 を 妨害し ました、 て あるから、 ス ミスと 其の 妻 は、 ! ij 我 をせ ずに 

タ^ - I 、- : しう あ おのれ いへ かへ 

逃れて ペン シル が" ニァ 州に 在る 己の 家に 歸ら ました。 

ら ) . しス れい 5 ひと <Y あんしゅ 

暫く.! „1| ゥてジ ヨセフ、 ス ミスと オリ ゲァ、 カウ ドリ は 浸 禮を 受けた る-:^ 冷 に . ^手して 、 

敎 會の會 員た る? -るを 堅く する 爲め、 再び コ - ルス ゲヰル 町に 行きました が、 ナ イト 

す-^ か., つ, . ^な ばう と あつ はじ もぐ こき たつ こち 

住家に 着く や 否や、 暴徒が 集ま. 為初めたがら、 目的 を 達しません、 のみならず、 殺されぬ 

やう W ば あ ひ ,に つ 52 广 とき ,-- う.,。 ft ft こつ 

樣 に;^ げ ねばならぬ 場合と なった けれども、 其の 次に 行った 時には 一 li^ 多く 成功し ました。 

t: ) しば リ あ ひゆ おのれ つ M たすけ え こ.;; 5 

此の 時 ス ミ ス, は S 、の 間、 己の 妻と ジ ヨン、 ホヰッ トマ- ル との 助 を 得て、 是 まて 受けた 

^^レ せ レ び ん-- うつ ぐ わつ *w ぼろし ぐ わつ サ うぎ お 上ヌす 一、 5- く い 

る 啓示 を 整備して、 :^3.rl 寫 しました、 六月に 「モ I セ の 異象」、 七月に 「. 敎義及 誓約」 と 云 " 

はメ お 上 しゃう か いましめ かみ あ. 2 

ふ 本の 二十 四、 二十 玉 及び 二十 六 章に 書いて ある 誡命を 神より 與 へられました。 

オリ ゲァ、 カウ ドリ はフ エツ ト町 ホヰッ トマ 1 〃 氏の 所に 歸ら ました、 而 して^^ 1^ は 



, l a ち r とき かれて?: みう そて がみ いましめ うち さラる 

ハ 1 モ - 一町に 居つ.? - 時に 彼よ-^ 手紙 を 受け した、 其の 手紙 は、 誡 命の 中に 一 つの 和 違 を 

み た それた ど い ぶんめん そ ゆん ご かみ さプ 

見出した から、 其 を 正して くれよ A- 云 ふ文而 でした が、 ヌ ミス はせ, ハの 言語が 神より 授けら 

ん みそれ か か は! V ん S . こた 

れ たもので、 神が 其を變 へる まで、 寝いて ある ま、 に 保存して 優かねば ならぬ と 答へ まし 

た、 而 して ス ミ ス が 自ら フ r エツ ト町 へ 〔打く まで は、 迷 はされ たる ォ リゲァ 、カウ ドリと ホ ヰ 

ッ トマ- ル 家族の 人 は、 其の 預 一一 一一:: 者の 斷言 する 所の 糙 かなる こと を, 認めないで、 疑って 

ケ J なほ そ とき その ため たい やうら つ たい ちゃうら う おつ 

居りました、 猶 其の 時で も 其 Hi の爲に 第一の 長老 ス ミスと、 第二の 長老 ナウ ドリと は、 絕 

かう いた 乙れ IJ ふたり かう さい しんみつ たが ひ たす あ L か 乙 

交す るに 至. ました、 是 まで 此の 二人の 交際 は 親密に して、 互に 助け合った、 然れ ども 此 

せつい う た ざんじ なかな は なた ^つかう 5 た 

の 絕交は 唯お 暫時に して、 仲直り をした が、 復 やがて 絕 交す るに 至った のであります。 

ぐ. C ク まじ.^ ごろ . まち しんれい う いま けうく わ くわ い みん かた 

八月の 初頃コ I ルス ゲヰル 町で、 浸禮を 受けて 未だ 敎 會の會 員た る 乙と を 堅く されな か 

ひとら まち き 七れ 爻 かれら あんしゅ はう くわ i- くわい h3 ん 

つた 人 等 は、 "I モ - 一町に 來 ました、 其 故に ス ミス は 彼等に 按手して 敎 會の會 員た る 乙と 

"た た し, \く わい ようい せいさんしき しっかう おも ぶ ど" i- しゅ す aJ もと 

を 堅く する 爲 めに 集會の 用意 をし ました、 聖餐式 を 執行した いと 思 ふて、 葡菊酒 を 少し 求 

で か とち^う ひとり てんし かれ あら ぱ けいし あた 乙 け 5- し も 

めんと て、 出掛ける と、 途中で 一 人の 天使 彼に 顯れ て、 啓示 を與 へました、 此の 啓示 は 若 

^ み, つか あたら つく ぶ どうし 5 もち きん い V^L ^ 

し ilii 徒 自ら 新しく 造らざる ものなら ば、 葡萄酒 を 用ね る 乙と を 禁ずる と 云 ふ戒て あ." y まし 

四 五 



四 六 

' - % ^ ^ ^-^ X ていど は 3' しふく わい ひら を いましめ した 5, ぜハ さんしき みダ 

た、 ス ミス は 家に;: 柚って 豫定 通に 集會を 開いた けれども、 其の 戒 に從 つて;^ 餐 式に は.^ 

も 卞.' . t とき a たばく がい —— まち お 乙 ft ばぐ^-ぃ トぅ 

を わました 此の 時に 极迫害 がハ I モ - 一町に 起り ました、 此の 迫害 はメ ソヂ スト 敎の牧 

L ;;. つき I しう と "す、 

師グ發 起した ものて ありました、 ジ ヨセフ、 ス ミス の 舅なる アイザ ク、 へ ー ル 氏も勸 めら 

はんたいとう ぐば /- そ とき けゥ くわい き やうて き 

れて 反 黨に 加って、 其の 時よ, or モ グ モ ン」 敎 會の强 敵と な.^ ました、 ス ミスと エンマと 

====== まち おのれ ぷ るいへ を も はやで き ぷたヽ 

は ハ-モ -1 町に ある 己の 舊さ 家に 居る Nl とが 最早 出來 なくなった 故に、 再 ぴホヰ ッ トマ- 

や: i^.- にお かれて、 フ Z エツ ト 町に 移って 一 千 八お 三十 年 八月の 末 頃 其處に 到着し ました。 

おい しゃ 5 ■■ . ;. ん. たい しふ si じん でんおう 

第三 章 イスラ H ル 人の 大 集合、 レ ー マ、 ノ 人への 傳道 

t->.JL3 ばう い ^UK はう, ぐ わい 一-? らば 3 X はんしゃ r - . I M ち たうち やく とき f わい 

此の 時が 害 は 新に 敎會に 現れて 來 ました、 預言者 ス、、 、ス がフ ット 町に 到着した 時、 會 

るん 卜ん ひじ やう とうさう わか t れ 3 ぞ< ifi, い し 

員 非 5;:r なる 闘 爭の ある?/ とが 解り まし.^、 之 は ハイラム、 ぺ -ジ 氏に 属する 小さい 石 

、$$ ぉュ かれ t i- しつう ,._- せい もぐし う そ もぐし をし < しん 

のハ おに 起り ました、 彼 は 此の 石 を 通じて、 不正なる 默示を 受け まし.?^、 其の 默 示の 敎は新 

や.:!: せ、 ん し-よお ..if けう/; わ^ つか 3 う をし へ はんた. S, せいと a よ もの 

5^ 全 崔及ひ 敎會の 司なる ス ミ ス の 受けた る 敎と反 ir て ありまし 1^ 徒の 迷 はされ た 者の 

多くの中て取.9分け^|立った^|?は、ォリ、ヴァ、カゥドリとホ ヰッ トマ- ル 家の 或る人々 も あ 



X ゆん しゃ けいし う てんしゅ な もつ かれら い 

り.^ し.;^、 预ー K 者ジョ セフ、 ス ミ スけ 啓示 を 受けて、 天 まの 名 を 以て 彼等に 言; a ますに は、 

それ あぐな I あざむ まお ,く いし もつ う もくし けつ 

其 はヅタ ン (fo:: ャ骤) が イラ ム、 ぺ I ジを 欺いた の. て、 又其の石を::^て受けたる默示は、 决 

たまば われ か はり た ひと はん とき われ れん 

して 种ょ, 9 賜つ. もので はない、 我 (ス ミス) の 代に 他の 人が 任じら る V 時まで は、 我 一人 

ひう くわい ため け&し う ひと すべて しんかう いのり せ. S と いっち およ 

で、 敎. 會の爲 に 啓示 を受 くべき 人で ある、 一 切の こと は、 信仰の 祈禱 と、 聖徒の 一 致 及び 

ちつ. で 上 した が お 乙な はな そ けいし 

秩序に 從 つて 行 はるべき ものて あると 話しました, 其の 啓示 は オリヴ ァ、 カウ ドリが ハイ 

たいしす た i —— じん ふく. &ん のぺ つた ため め 

ラム、 ぺ -ジに 其の 石を棄 てさせる 爲 め又レ l マ ン 人に 福音 を宣 傅へ る爲に 召さるべき こ 

あ とし ぐわん たう じ けうく わい > かっとう ちんてい ご たど ゆ 

と 及び 或る 「都市」 に關 するとに して (當時 敎會に 於け る 葛藤 载定後 直ちに 行くべき 乙 とで 

そ とし ぼし めいはく. S か どこ せいはう じん す 

あつ た) 其の 「都市」 の 場所 は 白に 解らぬ けれども、 何處 にか 西方の r レ I マ ン 人が 住ん 

を ち はク さか ひ ちか ところ はんせつ そ ^Jろまたぼん^Jく あ せい 

で 居る 地方の 境に」 近き 所に 建設すべき ものであると あらます、 其の 頃 又 萬國に 於け る ali 

と さいご L ふが ュ くわん たい ぜク け やし さジ 

徒の最後の集合に關する大切なる啓示をも授けられまし^^。 

ねん ぐ わつ はち — ち けうぐ わい おい ^5 くわい ひら ちゃう ど か ゝん 

一 千 八 百 三十 1^ 九月 一 日に フ r エツ ト 町て、 敎會の 第二の 大 曾が 開かれ て、 丁度 三日間 

つど た おいく わ S . た ふ もた ち 七 うたが いしお 上 - てれ ぐわん 

續き ました、 其の 大會 で、 ハイラム、 ぺ- ジと 其の 友 は 其の 疑 はしき 石 及び 其に 關 する 

すぺて す あらお 乙れ ^5のれら つかさ また 上 ゆん しゃ たい 卞, ゅゥ 

一切の 乙と を 松て、 改めて 之より 己 等の 司.?: i り ヌ预言 者^る ジ ヨセフ、 ス ミスに 割して 忠 

四 七 



四 八 

ぎつ くい か ふた/ わ がふ くわいよ ぐ まさ おこ ん? i なん まつな 

義を盡 すと 言 ひました、 斯くて 再び 和合 は 恢復され て將に 起らん とせし 分派が 難なく 全く 

を さ た たいぐ わい ?: い— 一 さ, つ ^zu ひと ふ けつ め 

治まらました、 其の 大會で 二 つ の 啓示が 授けられた ので、 多くの 人 は 布敎に 召され まし 

た、 其 故に 散 會の後 啓示され, る 言葉 に^って、 TT マ ン人 (ej 米 利 加 土人) に 福音 を 初め 

のべった ようい 

て宣傳 へ る 用意 をし ました 

ばつ じっせいと めい./. \ おのれ し そん しん を それ S ゑ 《- さん Mnu 

末日 聖徒 は 名々 己 をィ ス ラエ〃 の 子孫て あると 信じて 居る、 其 故に 離散した る イス ラ ェ 

ル 人が 末日に 集められ ると 云 ふ 乙と は、 彼等に とりて、 肝要なる 一 つの 敎義て あ- y ます、 

さう み かれら せ かい し 上 みん . ^くいん の * へった こ \ ろ な は もの すなば し そん 

然して 見れば、 彼等が 世界の 諸 民に 福音 を宣傳 へて、 心の 直き 者、 即ち イスラ ュ ルの 子孫 

X , おいりぐ アメリカ しラ がふ すゝ た おどろ ぎせい か (リ 

VJ 呼びて、 シ ォ ン の 大陸なる 亞米利 加に 集 する 乙 と, ど勸 めんが 爲め 驚くべき 犧牲を 顧み 

リ いう 5- くぶん れ うかい で き せいと しん ごと - 

ざる 理山 は、 幾分 か 了解す る ことが 出来ます、 聖徒 は H リミャ の 信じた 如く、 「イスラ ェ严 

ちら あ-つ 3 くしゃ むれ ごと ^Jれ 3 も エレ ミアき しゃう せつ 

を 散せ しもの NJ れを聚 め、 牧者の その 群 を 守る が 如く 之 を 守らん, i 耶利米 記卅 一 章 十 節) 

い しん を それ: ゑ またし よみん と は しま. <=\ てんしゅ をし 《 のべった ねっしん き 

と 云 ふこと を 信じて 居. ります、 其 故に 又 諸 民 や 遠き 諸島に 天主の 敎を宣 像へ る 熟 心なる 希 

ばう も を さう リ さん じん し fV ぐ きたの ぐ に た 

望 を 持つ C 居ります、 而 して 離散した る イスラ ェ ル人 のみならず、 十 支族が 一 北國」 よ. 5 立 

かへ Ti ダャ じん くわ S ぶく お 上 1 し さいけん せつ い しょけん ふく ic- いしう がよ ^うぎ 

ち歸る こ とや、 ^太 人の 恢復、 及び H ルサレ ム 市の 再 建設と 云 ふ 諸 件 を 含む 大 集合の 敎義 



t," ナ 5 し m ん 4tr-" すい よ ^5 つか は とも も たう じ おい ふしぎ 

は、 I 曰 1 ぎ師が 金? 奴 を携帶 せず して 布敎に 派遣され る 乙と i ハに、 其の 當 時に 於て、 不思議 / 

A, うぎ み M けいし う 上 けんしゃ ぐ わつ £ん もつ ^J をし へ S たお のれ 上 

なる^ 義と 見做されました 、啓示お 受けた 預言者の 賠まを 以てさ へ も、 此の 敎と又 己に 依つ 

て^ iif された るぎ のぎ 蕤の 充分なる 意義 は、 解る や 解らぬ 位で あ. - ました、 然しながら、 

てんし h- めい た <3 乙れ した?" い かく ゆん しゃう 5-5 めい お どうじ I せャ と: 

SJ^ あが 命じ 給 は 之に 從 ふべ し」 と 云 ふ 格言 を 生涯の 銘 として 置く と 同時に 聖徒に も 

どうやう したが ひつえう としめ I 

同 樣に從 ふことの 必要,^」 說き 示しました 

ぜひと しん けいてん き さい ところ アメリカ どじん 11 : け > My^ . 

聖徒の 信ずる モグモ ン經 典に 記载 せる 所に よれば 亞米利 加 土- <は イスラ ュ ル 家の 分家て 

,こ I- ゆ ゑ かれら せい う あたら ==^= MNyHI と > し ^ん せつ たす か" 

ある、 其 故に 彼等 は 西方の 新しき H ルサレ ム なる シ ォ ン の 市 を 建設す る 乙と を がけ 且 

ふくいん おはい じ ゆ ふ つい かれら そ はんぶん つく う やう かみ をし ( き , 9 

福音の 大 なる 事業に 就て は 彼等 は 其の 本分 を盡し 得る 樣に 神の 敎を 聞くべき ものて ある 

を; 丄ルゑ はや 乙 とき まこと ふぐ いんお よ けんてん かれら しめ をし おめ せんけう し め - リ 5 う 

其 故 早く も 此の 時眞の 福音 及び モ 产モ ン經典 を 彼等に 示し 敎 へる 爲に 宣敎師 を? 《 す 由 

. ^いれう わか け 5- てん かみこ どじん せんぞ た. & なた の 

は 明亮に 解ります、 モル モン 經 典と は 神が 此の 土人の 先祖に 對 して 爲し給 ふたこと. ^載せ 

たる 記錄 であ す。 

けいし よ そ ゑん 乙 く >^ けう ため えら ひと 

啓示に 依つ て 其の 遠國 に布敎 する 爲め 選ばれた る 人 は、 オリヴ ァ、 カク ドリと ピ - タ-、 

. おいめ 1 » 

ホヰッ トマ- 〃(二 代 目) とバ ー リ、 ピ 》•、 プラットと ザ ィパ、 ビ -タソ ン とて ありました, 

四 九 



• 五 〇 

かれら ゆん や い せ;. ばう しょしう とほ ど じん を りゃうち ゆ こ とと じん のぺ っ^ 

彼等 は、 「原野に 入り、 西方の 諸 州 を 通って、 土人の 居る 領地に 行きて.」、 殊に 土人に 宣傳へ 

ため め きく わい ど でんおう はプ 

る爲に 召された けれども、 機會が あれば、 何處 にで も傳 道す る 害て ありました。 

t とき でんき けうく わい れきし くわん はな 

此の 時から パ I リ、 ピ ,、プラット の傳 記は敎 會の歷 史に關 して 離る ベから さるもの とな 

3 ねん ゆつ はち >| ュ — 3 I ク しう ;=^= ぐん = まち うま 

ります、 プ ラット 氏 は 一 千 八 百 七 年 四月 十一 一日に 紐 育 州ォ ッ H ゴ郡 バ. 'リント ン 町に 生 

ねん ゆつ W ち 1^= = こ しんれい う けぅ^-ゎぃ 

れて、 一千 八: S 三十 ij^ 九月 一 に セネカ 湖で オリ、 ヴァ、 カウ ドリより 浸禮を 受けて、 敎會 

tt3 ス 一れ け? ぼくし けう しんれい けうく わい ぶんば』 しんじゃ 

に 入らました、 是 まで." ン ベ ル敎の 牧師でした、 カンべ ル敎と は 浸 禮敎會 の 分派て、 信者 

もっと た すう ところ 11 しう —— まち A 上 乙 きんりん そ- しん 

の最. -多數 な 所 は、 -K 、ノ ィォ州 力 -ト ラン ド町 及び イリ-湖の 近隣で ありました、 其の 信 

じ や な か ひと うち しゅう a さう りっし や I また てんぶ さいのう せいしょ せ つ 

者の 名高き 人の 中に 宗派の 創- v_ 者ァ レキ サン ダ-、 カン ベル、 又 天赋の 才能 ある ill 書の 說 

め いしゃ ひひ <s\ そ けうぐ わい si くわい は ど * 

者シ ドニ、 リグ ドンなる 人々 が ありました、 ブ ラット は 其の 敎會 に入會 して 狩な く 一 

ねん ゆ つ けう. し 上く しん さヽ 3 それ § ゑ — しう せ かばう 

千 八 百 三十 年 八月に 敎 職に 一 身 を 捧げる ことに 極め ま した、 其 故に オハ ィ ォ 州の 西方に あ 

おのれ いへ う そ • "ぐて き たつ ため とうはう しゅったつ そ W 上 かう ち 5 うは じ 

る 己の 家を賣 つて、 其の目的を達する爲に^^方 へ 出立しました、 其の 旅行 中 初めて キ-〃 モ 

けいてん み た U i か 乙れ かんどう 5 た 5 i 4 ん しゃ めんぐ わい 6^ 

ン經典を見.^^が、 直ちに 深く 之に 感動 致しました、 ブ ラット 氏 は 預言者 ス ミスに 面會を 求 

た そいへ はう もん るす あ も きゃラ な. 5-1 

める 爲め、 其の 家 を 訪問し IX したが、 守で 逢はなかった, とこ ろ て、 其の 兄弟 ハイラム- 



ス ミス を 訪問し ました、 彼はプ ラツト と 同伴して フ" ヱ タト 町へ 行, さ in した、 其 處でブ ラッ 

— しんせい し めい しん んき と は 1- んれ 5 ラ ,^れ なほとう 

トがジ ヨセフ、 ス ミスの 祌聖 なる 使命 を 信じて 前記の 通り 浸禮, VJf けました、 其より 猶来 

ばう い おのれ き やうお い ふく リん つた き やう^ レ けうく わい さんせい 

方へ 行って、 己の 兄弟なる オルソン、 プラットに 福音 を 傅へ ましたので- 兄弟 は敎會 に贊成 

のち し と くわい な たか もの また しう かいたく し 上く みん ひと 

して後に使:^へ!:の名高き^^^ に な り、 又ュ -タ州 を 開拓して 鄉:: i した 人となりました、 

パ I リ、 ビ I 、プラット は 西方 へ歸 つて マン チ" スタ 1 て 預言者 ス ミ ス に逄 ひま: て、 

乇 ご ま じ やう 3- ごと じん すな は アメリカ どじん でんおう ため め 

其の後 問ん なく、 上 の 如く、 レ 1 マ つ-人、 即ち 亞米利 加 土人に、 傳 道す る爲に 召され ま 

した 

つ す ふごろ AJ はん ちゃうら ラ てんしゅ かれら まも ひつえう すべて めぐみ あた たま 

十月の 末 頃 其の 四 人の 長老 は 天生が 彼等 を 守 .9、 必要なる 一切の 惠福を 與へ給 ふこと, 

<w た ふくいん したが こゝろ ど じん たま い しん せいはう むか かち w よかう はじ 

又 福音に 從ふ心 を 土人に 賜 はると 云 ふこと を 信じて、 西方に 向って 徒步 にて 旅行 を 初め ま 

し ちか ど じん そ おもしろ おと, つれ つた けいてん 

した、 、バッファ n - 市に 近き カタ ラク ガス 土人に 其の 面白き 音信 を 傅へ て、 モ K モ ン經典 を 

すうぶ あた いろ あか ど じん しんせつ こ ちゃうら う むか たび つ a- ク 53 n 

數部與 へました、 色 赤き 土人 は 親切に 此の 長老 を迎 へました、 旅を續 けて 次に 力 -ト ランド 

とま ,J ゝ せいはう はと じんこう はん いう はんじゃう まち ちゃうら う ぞく 

に 止 した、 此處は 西方に ある 殆んど 人口 二 千 人 を 有する 繁昌な 町て あって、 「長老の 屬 

けうく わ S やが い てん ところ ちゃ チ らう もと A のれ けうし 

する 「モル モ ン ー敎 會の頓 て移轉 すべき 所で ありました」 長老 ブラ ッ トは元 己の 敎師 であつ 



- 五 二 

III し めんく わい もと おのれ さら みお しんり おと, つれ かれ ばな > 

たシ ドニ、 リグ ドン 氏に 而會 お求めて、 己が 更に 見出した る 眞理の 一昔 信, 彼に 話しました 

をな し ともおち おは おのれら かみ けうく わ 5 ぎ しき しっかう けん ゐ 

すると、 リグ ドン と 其の 名の 知れた 友達の 多く も 己 等 は 神の 敎會の 儀式 を 執行す る 權威を 

ひう ゆ". 5 せいた う 、ん れい う ま たお のれら S うく わ 5- お やくめ せいおう ん i - 

有せざる 故、 正當に r& 禮を 受けた のでな く、 又 己 等の 敎會に 於け る 役目に 正當に 任せられな 

3 と それ S ゑ かれら おは ちゃうら う およ. ^. , ^» p 

かった rj と を 悟りました、 其 故に 彼等の 多く は 長老 プ ラ -ソト 及び:? A の 同僚より 浸 r 躯を 受け 

かれら あんしゅ せいれい た 3 もの う そ ひと., 《\ うち . — 1 1 

て、 彼等の 按手に よつ- 靈の 賜 を 受けました、 其の 人々 の 中に エドフ- ド、 ハ- トリ 

り-^!-ぅし のち t おん けうく わい おい 

ッヂと 叫 ユエル、 ケ. -、 ホヰツ トー 一との 兩 氏が ありました、 後に 此の 二. < は 敎會の 第一と 

S 尸 かんとく 乙 あたら せんけう し 上 ひ a- ぐ, む, J すゥ ""ぐ 

第一 一 の監将 とな. ました、 此の 新しき 宣敎師 は〕 便と なく 日と なく 聽 きに 來 る無數 のん々 に 

をし いな ゾ たうち やぐ とき しうかん- うち ^ん しんれい ラ 

敎 へて 忙しく ありました、 到着した 時よ ,9 二三 迥 間の 中に 百 二十 七 人 は 浸禮を 受けました 

^fj そ すう JV うか ばん そ あたら か 5 しんしゃ 1 ゆく わい 上ろ/ J び み 

頓て 其の 數が增 加して 一 千 人となりました、 其の 新しき 改心 者 は、 「偸 快と 喜 悅に滿 たされ 

ぼく ゆきし や ひじ やう きょ ゆん は いかり おぐ ま いた » AI や-.^ は い、、 ^ 

たが、 駁擊者 は 非常に 虛言を 吐いたり 怒 を 逢し ふ 致しました ^樣に 迫害 力お しく ありま 

しか せいと しん.?, う つ 上 おい § くわい も ) 

したが、 併し、 ^|!1徒は信仰が?|-く、 大 なる 愉快 を 持って をり ま 1. た」 

せい 乙う せんけう し . 1 , — 

成功した る 宣敎師 は、 シド- 一、 リグ ドン ど アイザ ク、 モ T 'レと ジョン, マ- トツ クとラ 

. およ rV たお ほ ひと えら さう ^Jれ 

:^7Y、 ゥ ワイトと H ドヮ -ド、 バ I ト リツ ヂ 及び 其の 他 多くの 人々 を 選ん て、 而 して 是 



f >t r A-t チラおう かんとく ,7 いん の ぎしき しっかう ため けん ゐ カ丄 If. あた . 

等のだが歡徒を^^^し、 監督し、 福音 を宣 ベ、 儀式 を 執行す る爲 に、 權威を 彼等に 與 へま 

ち .: お ま ひと チぅくゎ^, れきし な ぉ& ひと 3 う で乂 たう, ふん. ぼ ,J^:^ ん丄ゃ —— 

した、 (i に k の 多, くの 人 は 敎會の 歷史で 名高き 人と なった) 而 して 傳 道の 進歩 を 預言者 ス 

f トと さら 

, ^に 知らせてから、 復 西方に 進み、 フレデ リツ ク、 .,シー. クヰリ アム スと云 ふ 人 を 更に 

か 3- しゅう けうぐ わ ん く K > かれつ > -) 

改宗して、 敎會 員に 加へ 彼 を 連れて行き した.^ 

« ぎ はお^ きのぎ 方の サ ン ダス キと云 ふ 所の ワイン ダ r 土人 を 訪問し ました、 

ぎ ゼが議 叱 IT に i へて、 謎の P に k いて P れ? l^s き I 裏、 

tei くりい ふく ぶく いん S おはい i ろ 乙 かつせ 5- はう ゆ ちゃうら う うへ. - ^ • ) - - 

ぉび_|【1 された る 福音 を 問いて、 大に悅 び、 且 西方へ 行く 長老の 上に 神の 祝 一 恥 あらん こと 

、つ -^1 .^ D K S iV せん ナ うし あと お せいはう ゆ の 一 V 、 を 

を S ら、 i て 叉 己 等 も 其の 宣敎師 の 後 を 追 ふて、 西方へ 行かん こと を 望ん て 居 6 ました ◦ 

J3f 師は, 處 よ, ft- シン シナタ 及び セイント、 ルイ へ 行き まし.? r か、 餘. 5 成功 はし ませなん 

ちゃうら う およ マイル は どば な かん おのれ > ?; \ う ゆ;; J - と Is 

だ、 i;!^ 老ブ ラット は 力-トラ ン ド より 凡そ 五十 哩 離れて 林,^ にあった 己の 嚷. 宅の を 通 

る i¥ で、 あ 或る i& な SI た If め I 械縳 された が、 巧に 逃れました、 烈しき 風雪が 起り て 雪が 

三 n^i? もずんだ ので、 長老 達 は^^ T ト だ ィ の邊に 宿りました、 一 千 八 百 三十 一 年の 初に 

; t^5 ゥ 5.- ^^^^ ひ しょくもつ わ, つ な ab! た W く ひ 上う けつ たう もろ こ 1 , > 、 f- > 

旅行 を 續 けて、 隱家も 火 もな く、 食物 は 僅かに 生 豚肉と 永 結せ る玉蜀 の 、ノ ン のみ を?? ち 

五三 



五 SI 

t^s じんせき (いや たど マイ^ は ど. e3 や, うや "dl ) . 

した、 一圓 雪て 人跡の なき 平野 を迎 りて、 三百 哩程步 行きました 漱く ミス クリ 丹の 西 

a r- ぐん まち たうち やく もはや せんけう し ゆつ かん ほ, ゾ -Ji;?^ 力 

の i 限で ジャ クソ ン郡 イン デぺ ンデ ンス 町に 到着し ました、 最早 宣敎師 は 1: ヶ月 間 傳道 

1 んタ, e う もっと わる じ せつ た 5- て i- のばら ところ かち, » - - ド.; ; H,5S ひ 力う. :、i 

して、 一^中の 最も 惡さ 時節に、 大低は 原野の 處を 、徒歩に て、 一千 五, 腿 狩 旅行し な 力 

おの. e ら ひと ばくし 上く じんし :5 すうまん はんお t ど じん し ぞく ふぐ.^ ん つ ^rMW 

ら、 liM 寺と 等しき 白色人種の 數萬人 及び 土人の 二 支族に 福音 を 傅へ たのみ ならす 數^ ス 

. りんし ゆ .r-e. けうぐ. C5" くわ ん かた かれら し * けうく わい ^-. , > 5 

に 按手 禮 をして 敎會 の 會 た る 乙 と を 堅く し て 彼等 を 枝 敎會に 組織し ました。 

ふ 2 J 9- やう し たて- 1? . " ら たいざ. & ちゃう-. ^つ- ら,^ パ 

二人の 兄弟 は 仕 立 G^v- して、 ィ ンデぺ ンデン ス 町に 滯 在し ました 力 長老 等フ ラット と 

カク、 K リ とも ラ 一 人と は 土人の 居る 所へ 參り ました、 一 变シ ョ 1 一一 七-人の 所に 宿って、 其 

_ かば わ fj ど じし と, J ろ まる 乙 どじん かしら らう じん た 

から 河 を 渡って デ ラウ ュ ァ 土人の 所に 參 6 まし, 5^、 此の 土人の 首長 は 老人て 多 

ノ. V くど じん かしら た を せんけう し こ ひとた プ , つ.^ 

妻 を 待ち 十 支族の 土人の 首長に 立って 居. 5 ました、 宣敎師 は 此の 人 を 尋ね 懇 S なる 通 辯 

を じて、 Is 老.^ に 福 |& 傅へ、 親切に 迎 へられました、 其の 首長 は 暫く pt. して 土人 

の 相談 會を 催し まし〃、 而 して オリ ゲァ、 カク ドリ は の 土人に 說敎す る こと を 許され ま 

i, け、, てん ぶ かれ & あた そ はん れきし およ よぐ いん ベ わ ヽ、. i く - » , f • 

した、 モル モ ン經典 を 一 部 彼等に 與 へて、 其の 本の 歷史 及び 福音の 恢復され たる こと を宣 

t はん ちゃうら う はちかん も ど じん を ふ た -,^ :-、 タゝ, J 化し^^.!!^ 」 さ 

ベました、 此の 三人の 長老 は 五六 日 問 其の 土人に 敎 へる 爲め滯 在し.?^ した 力 〈の 支 1 は 一 



J 



レ い せんしん をし へ さ をし か き やう かいち r た ぽ< し ど じんし ばい しゃ 

般に 専心 敎を聽 きたがって 居 もました、 併し に 居った 他の 牧師と 土人 支配者 は 

ど ,\ん 乙 A んどク き ちゃうら う ち あんばう が いしゃ ど じん w- やうち ぐ わ i たい 3 上 めい 

士 人が 之に 感動せ ると 聞き、 長老 を; M タ妨瞎 者と して 土人の 領地 外へ, 逛 4ii を 命じ.^ した、 f 

さう R- 乙め 5- したが かんく わ うった おど かやう し お い ちゃうら う や 

而 して 若しも 此の 命に 從は ざれば 干戈に 訴ふ べしと 威し ました、 期檨な 次第で 長老 は.^ む 

t ど じん ち さ ぐん き うはく じん せんた う ため X こゝ 

を 得ず 土人の 地 を 去って ジャク ソ ン 郡の^ 白人に 官; 道す る 爲に歸 りました が、 此處 では 

せ 乙う 5, た 

成功 致しました ◦ 

ね ふ ゆつ か . まち お 乙れ ら ばん ちゃう LT う さう ♦ つ へんぐ わ 5 

1 千 八^ ヌ十 一年 二月 十四 m イン デ ベン デン ス 町に 於け る 是等五 人の 長老の 相談 會は、 

Z とき よ ゆん しゃ はう ち た ちゃうら う つ いば き 

此の 時までの こと を 預言者 ス ミ スに 報知す る爲め 長老。 フ ラット を 遣す ことに 决 めました 

ち > うらう Z きけん き 9 上お い ひじ やう ^Jんなん す,? S どうねん S HH たうち やく 

長老 ブ ラット は 此の 危險 なる 歸 旅に 於て 非常なる 闲 難の 末 同年 三月 力-トラ ンドに 到着 

ぞ 5 ちゅう 上 ゆん しゃ モ まち うつ ゆき ひとかたならず くわん ゆ S 

する や、 (ブラウ トの 不在 中に 預言者 ス ミス は 其の 町へ 移って 行きました、) 不 一 方 歡迎せ 

られ ました . 

^ ^ し う しう けうく わい い てん 

第 四 章 ォ ハ ィ ォ 州に 敎會 の移轉 

を ら ひお けうぐ わ C- X ゆん しゃ およ た やく 5i ん はた _x き 上つ とうはう すで 上 ほど 

其の 問に 「モ か モ ン」 敎會は 預言者 ス ミ ス 及び 他の 役人の 働 に 依て, 鬼 方に も 旣に餘 狩 

五 五 



五六 

ひろ ねん あき また —— まち 

擴 t--^ まし.? T 一千 八 百 三十 年の 秋 オルソン 、プラット 又 力-トラ ンド 町の シ ドー 一、 リグ ド 

お i I ばう もん さ ク I 

ン 及び H ドヮ, ド、 バ, トリ ツデ はス ミ スを 訪問し ました, 而 して パ I ト リツ デは 力— ト 

■ まち し けうく わい ありさま ばう 乙く いた Z ^ん はう 《?ん しゃ おのれら たい てん 

ラ ン ド 町の 枝 敎會 の^ 樣をス ミ ス に報吿 致しました, 此の 三人の 訪問者 は 己 等に 對 する 天 

しゅ ぎょい いか X ゆん しゃ た, つ き 

生の 御 怠が 如何なる もので あるか を預 一;::: 老スミ スに 尋ねに 來た のて ある - 

わん ぐれ かみ ちから せいし 上 て. s*s ! 

1 千 八 百 三十 年の ^にジ ヨセフ、 スミ スは 神の 力に よって 聖 W を 訂正し かけ まし.?^ 力 

M ち > し 上き も ゆ ふ たす 

シド, 一、 リグ ドン はフ H ニット 町に SE まって ス ミスの 宵 記と なって、 其の 業 を 助けました 

じ やう S3 ごと しゃう らいせい はう ち けうく わ .> こんきょち • , I 力つ- — 1 

上記の 如く 將來 西方の 地 は 「モ〃 モ ン」 敎< ^の 根據 地た るべき とが 啓示され た、 且レ- マ 

1= じん つか は せんけう し おい おはい ぜ si ラ けうく わい ゆん たい 1 

ン 人に 遣され たる 宣敎師 が 力 - トラ ンドに 於て 大に 成功し.?^ ので、 ス ミ スは敎<^r<^:體を西 

ばう うつと き 3 し な はまた a うもん こ しさう かくてい 

方に 移す 時が 來 たと 知りました、 ^又 シド- 一、 リグ ドンの 訪問 は 此の 思想 を 確定し ました 

しゃ うら ォん せつ あたら とし ばしょい ま はんせん さ しか かみ, > —— I ち 

將來 に述設 すべき 新しき 「都市」 の 場所 は 未だ 判然と 定められなん • た 然し 祌かシ オンの 地 

ぼ しょ あら は と a- nm^^^m いと よ やすみ ぼ =^== >ぜ やぶ 、い 

の 揚所を 現し 給 ふ 時まで、 力-トラ ン ドは 聖徒の 善き 休場と して シ オンの 一つ の 盛大なる 

ぶ バ1% み ところ W たせいと しぼら たいざい ちか & やしな 

ステ I キ部 (八十 頁 を 兄よ) となれ る 所で ありました、 又 聖徒 は 暫く 滯 在して 力 を 養 ふこ 

で き i 乙ろ . あたら {ぃ わ ち ひ,: ゆ:? じょ » い," 

とが 出來る 所で あ.^.^ した、 シ オン は 「新しき H ルサ レム や、 16. 和の 地 や、 避難所 や 最 



たか かみ せいと ほご う と 乙ろ ば しょ 

高き 神の 聖徒が 保護 を 得る 所」 とい はるべき 場所で ありました 

を と 3 せいと あつ たい ち 上く せつ め 5- れい すなば ばつ じつ じん しふが よ 

其の 時に 聖徒が 集.^ るべき 第 一 の 直接なる 命令、 即ち 末日に イスラ H ル 人の 集合す る こ 

tt じめ つ けいし あた t けいし けうぐ わい 1 I しふ s„ し : 

との 初を吿 ぐる 啓示が 與 へられました、 其の 啓示に は 敎會は 「ォ ハ ィォに 集合すべし」 と 

云 ふこと があった のです、 併し 集合す る 前に^ セフ、 ス ミ スと T ゾド 一一、 リグ ドンと はフ 

き,? ベ,? を せいと 3 たしん かう あつ と 乙ろ I i せいと かぐ ぺっ ぶ^^i.ん のべ 

^nr- トと 其の 近邊に 居る 聖徒と 又 信仰 厚き 所の コ ー ルス ゲヰル 町の 聖徒に 格 5- に 福音 を! PI 

つた かれら しん a う な は そうつ 上ぐ , ^v: - , ) 

傳 へ て 彼等の 信仰 を猶 一 層强 固すべく 命ぜられました。 

ねん ぐ わつ か なち せいはう よう. & てんしゅ み むね したが 

一 千 八 百 三十 一 年 一 月 二日 フ rvp ト 町で 西方へ 移住す る 用意と して 天主の 御 旨に 從 つて 

乙ぐ ぺっ くわい すな は けうく わい たい くわい わ 5. せいと, ^. i-9 うはう お け,, う >ド わ^すれ 

吿別 會 即ち 敎侖: : の 第三 回の 大會が あり.? した、 1^- 徒 は 其の 時に 東. 1^ に 於け る 敎會の 凡て 

じ む */TK? ひ しゅうれ う あるひ なる ぺ ぐば や せいり しん よう ひ.^ ^< , た S く.^ 5 

の 事務 を 或は 終了し、 或は 可成 速く 整现す る こと を 信用す る 人々 に 託し ました 大會 

あ ひも てんしゅ ォ いし さ, つ せいと も そ でう けん したが えいきう うけつ と こ ろ ゆく 

の 間に、 天主 は 一 つの 啓示 を 授けて 聖徒が 若し 其の 條 件に 從は 5 水久 に承繼 ぐべき 所の 約 

f ち かれら あた ハ しめた しか そ と a- せいと 

束し. る 地 は 彼等に 與 へらる ベ しと 云 ふ NJ と を 示し 給 ひ.^ した、 併し 其の 時^て 聖徒 はォ 

しう .£ み おきて あた かってん ちから R.^ : 1:^ そ. r . - ,>-3 

ハ ィォ 州で 神の 捉法 を與 へられ、 且 天よりの カも與 へらる べしと 約束せられ ました。 

そ れ まち い てん はじ ゆつ すゑ ごろ.;^ £ ん丄ゃ そ. 、 

其よ. o- 力 I ト ラン ド 町に 移轉 する ことが 初 まり まし. 一 月の 末 頃 預言者 ス ミ スと 其の 

五 七 



り 



五八 

^itet た お ほ ひと しゅったつ * . . 

sss^ びシ ドニ- リグ ドンと エド ヮ I ド、 パ. "トリ ッデ と 他の 多くの 人 は 出立して、 一千 八 

c,> ぐ わつ に Ij 一-つ a ち おうちゃく みプか 「; i;^/:? し 

百 三十 一年 二月 一 日頃 力, 'ト ランド 町に 到着し まし.;: r ジ ヨセフ、 ス ミス は 自ら 「預言者 

ジ ヨセフ 」 と -1 ユエ i 、ケ. -、 ホヰッ , ^一氏に 吿げ ました、 其の 入に 懇 に迎 へられて, ^ レ 

^ さュ ました、 五六 週間 も ス ミ ス と 其 の 妻 は ホ ヰ"' ト 一一 氏の 家に 止ま り 、 ス ミス は 敎會の 

►.-I リ くりん たいせつ 乙. がら と 《-a から よ f: ん丄ゃ • ) n ゾ > - の 、 一- 24^ 

li 理に關 する 大切なる 事柄 を 取 計 ひま し た、 預言者 ス ミスが 力 -ト ラン ドに 着いた 後 紐 

ョ— ク しう せい 》- うつ H じ つぎ if およ けつ そ もくてきち いた . U しう > 3,^9 ば-^ 

ず^の K 徒 は あら W め、 S の 五月 及び 六月に 其の 目的地に 至って ォ , ィォ 州の 北方、 大 

C . . , 6 y そ きんじょ き 上し 上 さた てんしゅ そ とし すな は かれ, & う 5 つ- 4- 

ぽカ 1 ト ラン ド 若,、 は 其の 近所に 居所 を 定めました、 天主が 其の 「都市」 即ち 彼等の 承 ii ぐ 

ち "tu< し *5 i - しラ せいと とう H う 3 やうたい 5 おの 1 ら ょャ うち,, 

べき 地 を 明白に 知らせ 給 ふ 時まで ォ ハイ ォ 州の 聖徒 は 束 方の 兄弟 を 受けて 己 等の 所有 址を 

かれら わ あた やう め, ぃミ , / > -3 

彼等に 分け 與 へ る樣に 命ぜられました 

た-、,, しゃう ifj ん ざい さん けん な i はぷ 

第五 章 全 財 產獻納 法 

;»v つ ひは せ, P ナ ふし ■■■ しゅったつ のち そ し けうく わい うち きぐ. S い 

レ 1 マ ン 人に 遣され たる 宣敎師 が 力 -トラ ンドを 出立せ し 後 其の 枝 敎佘: : の內に 奇怪なる 

, ナん. t -,5- しし ひと おこ ち、 これ やぶ と" か /- ^ 一、 

意 及び 邪心 ある 人が 起..^ ましたが、 直ちに ス ミ スは是 を 破る ことに 取 技り 智き 一一 I と厅 * もと 



つく 上つ 3 せい 乙う いた 

を盡す rJ とに て 間もなく 成 1^, 致し まし 人 

力 ン ベ 水 if 雞 は の もの を缓 いた IS き議の f? まと f ので、 「共 

さ %lfl」 を^し i しました、 すん ^1^1 J ザ « となりて 二 船に す 住んで S 活 しました が、 其の 「家 

艇」 の iS よ ^お!^^ « ぎ ました、^ f ^ は^の 「共 產生 活」 を 築て 

I . 'し フヒ KJQif- きて ん ざいさんけんな t- tt ふ ある, I 

、「望の 霞 r き」 に S パこき きに iif ました、 きぎ t 崖納法 或は 

. 十う ぐ. CC- さんたい まも おき 

? S お |& でムを る n を し iirfK ふ) (united OrdeiO のこと でが 奴き 全體の 守るべき 徒 

f f t た、 こ 此の s て 法の 纖, は、 こ此 あう 續ゥ i に に は、 r 自 はまての ぎ, y 

;!^ ひ ii りて Is^ に IS 船す るので す、 ii,, 、て g が^ 1^ る を k の 人と 家族の 受託 M 滞と し 

て^^に わ i すべ. 4r&s を歡 に t ハへ まする が、 « が寸は it 其 受託 財產に 就ての 報ル" を監 

. J r,- 卜と 《- ん じん かう. J く の 5V べんき やう みなおな 

^に^す ぎ^が ありました、 凡ての 人 は 隣人に 幸福 あらん こと を ss、 勉 f:;^— て 皆 じく 

1^. ぎ ST の議 gfs£ る it うが あっきで t ます、 ,世 問に 於い 

,、A,r. ^ 一 X . ^んし & もつ t きんえ ク てん い いは ,1 あ, ^ ^ 

ての^?^&!すっも.りてぁりまし^^* 預さー i は 最も 緊耍な 點を言 ふて 日く 「或る - 人 は 他 

の 一 よ 6,4 々く" i よ へからす」 と、?^ は 1w3rT に^った きぎの 組織と 同じで あつ 

五 九 



六 〇 

しんじゃ 乙/ろ いつ おも ひ 5. つ たれ U と リ もちもの おの; も Q ぶよ す 1^ 

て 「信者 はみ な 心 を 一 にし 意 を 一 にして 誰 一 人 をの 所有 を 己 力 物と 云 ことなく、 只て 之 を 

とも も 5- S た 乙れ むかし し 

共に 有て り」 (使徒 行 傳四章 三十 二 節) と 云 ふこと でありました、 又 之 は 昔 一 H ノクの 市」 

>tAY そ しき お i てんし-.^ たみ こヽろ お 6 ひ ぎ お 乙な そ- うち < も, の 

の 人々 の 組織と 同じて 「天主の 民 は 心 を 一 にし 意 を 一 にし 義を行 ひ、 其の 中に 貧しき 老な 

きが 故、 天主 は 彼等 をシ オンと 名け 給 ひぬ」 と 云 ふ NJ とで あ, 9 ました。 

こ おきて ば じ へいじ やう まも f かんとく Z- わ 5- さう りつ すぺ しんけん いう 

比の 拔法を 初めて 卒 常に 守る? -と にした 折に 監将會 が 創立され て、 凡て ァ ン神權 を 有 

ひと, つかさ しんけん けうく わい お せけんよう くわん し 上ぐ むお よ はくたい 

する 人々 力 司と なり iH した、 ァ 口 ン神權 と は 敎會に 於け る 世間の 用に 關 する 職務 及び 肉體 

じ やう ;! tii しき しっかう ため けん a けいし め たい かんと、 ; 一 Ml 

上の 儀式 を 執行す る 爲の權 威であります、 啓示て 召された る 第 一 の 監督なる H ドヮ I ド, 

ねん ぐ わつ か けうく わい せんたい さんせい そうかん とぐ はん 

バ _ トリ ッヂは 一 千 八 百 三十 一年 二月 四日に 一 敎會全 體の贊 成に より 總 監督に 任ぜられ まし 

かれ しゃう はん ゅぷ す しゃう はう ぐ わい つと を • 

た、」 彼 は 商人の 業を棄 て、 一生 を敎 會に務 むる ことにな つて 居らました ◦ 

. ^ん とく ゝ わい はん , ^つ な ちゃう^ん 乙 もん れん S, 

*8 會 と は 三人 以て 成リ、 長 一 人 顧問 二人 ^1;? ふ 

か,.? とく め とき はち のち けいし な は せいと あた それ a> 上う: y つし ゆ 

監督の 召された 時よ. 5 二三 日の 後に 啓示が 猶ー つ 聖徒に 與 へられました、 其に は 共立 主 

V. お 上 けうぐ わい し は 5- くわん たいせつ けリ ぎ 

義 及び 敎會の 支配に 關 する 大切なる 敎義が ある。 

X f: ん しゃ. のぞ た すべ ちゃう ii う よたり ヅ あ ひていけ い i く. &ん 

預言者 ス ミスと シ ドー 一、 リグ ドン を 除いて、 他の 凡ての 長老 は 二人連れ 相 提携して 福音 ノ 



をし かつ Iw.^- いい ノ,^ うし や せ <• はう のが T\ ため しゅったつ めい てんしゅ 

を敎 へ、 且ヌ 改宗者が 西方へ 逃;; る 乙と を勸 める 爲に 出立すべく 命せられ ました 天主 は 

C vi( 、- WW- あ ら . ぼし- あら は や そくた ま さう せい. 

k の 御意に 從 つて 新しき 二 ルサ レム の 場所 を 現す 乙と を 約束し 給 ひました、 而 して 徒 は 

そ ため いの ひが やう をし 「 

其の 爲に 祈り 願 ふ 樣に敎 へ られ 1h した 

i>v, むかし し ai う M- つし: e ぎすな は ゆん ャ. さんけんな ふ は,' せ i.*J - ぁセ , , ; , はノ ザ, い ひ" >„yi 

期て 昔日 H ノク 主意、 共立 主義 即ち 全 財 產獻納 法 は 聖徒に 與 へられた 力 迫害と 人の 貪 

上く ま/ 09 K- I f ため え きう まも で き し 力 乙 おきて まも V nuN 

愁と is と 違背との 爲に 永久に 守る ことが 出來 ません てした、 饼し 此の 捉法を CF らざ r ばシ , 

ナん, *- つ で き てんしゅ い たま これ しやつ で <> レま。 き. My— つ, i U 

^ を 設 する 乙と は出來 ぬと 天主が 言 ひ 給 ひました から, 之 は 將來の 未た 決の^ カ^^ 

& であります、 敎ぎは 此の 祌の 命令 を 守らなん だ 故に、 一 千 八 百 三十 八 年 其の 代に 寸分の 

5. なほ aft- やす お s て あた > こ おきて- ひと; ま:. す. A は,. け.., い 

一法 (Tithing) と 云ふ猶 守り 易き 淀 法が 與 へられました 此の 捉法は 人力 先つ 凡て 餘 計な 

し 上. S うぶつ かんとく けんな ふ かつ 2 ん くし 上と く ぶん ■ . ^ん と, く ^ ) ) > - 3 

る 所有物 を 監督に 獻納 し、 且年々 所得の 十分の 一 を 監督に 納める 乙と てあります 〇 

たい しゃう ■ ち せんてい 

第 六 章 シ オンの 地の 撰定 

一 千 八 ia 三十 一 年 六月 六が 力 ー ト ラン ドて敎 會の第 四 回の 大會が 開かれました が、 方々 

S, r ちゃうら う けいし めいれ 5. よ ない くわい しゅっせき » t ij き. ^ャ. C: 

に 行って 居った 長老 は 啓示され たる 命令に 依って 大會に 出席し ました, 此の 時 まてに 徒 

六 一 



かず おは t 七 S んぷを 乙 しふく わ. S せいと 5 た せいれい かん めぐみ かう む 

の数は大凡ニ千人に^ぇて2^1.5ました、 此の 镇會に は 聖徒 は 甚く 聖靈に 感じ、 祝福お 蒙. 5、 

おはい .t ろ こ やぐ はん さいし 上 おい ふいし ひと えら しんけん ちから 

大に悅 ひました、 役人 は 最初の 大祭司と なるべき 人 を 選びました、 メル キセデ ク祌權 の 力 

は 以前よりも 善く 現れました、 此の 時まで ジ ヨセフ、 ス ミスと オリ、 ヴァ、 カウ ド门と を 除 

Z しんけん おい ちゃうら う うへ N-t-lQ た ひと z ちゃうら う しんけん お 

い て 此の 神 櫂に 於て 長老の 上の 位に 立つ 人に なかった、 此の 長老 はメ ルキセ デク祌 權に於 

ける 最下の 位て あります 

S ほ ちゃうら う よたり ゴれ むかし し と こと み 4i のぺ つた I ん ほどこ ため め かれ. t 

多くの 1:;:- 老は 二人 連て 昔の 使徒の 如く 道 を宣馎 へ、 浸禮を 施す 爲に 召されました、 彼等 

みな と みち と は レぅ へんき やう はう めん しゅったつ ふくいん おと, つれ しん を 

は 皆 異なりる 道 を,, ^1 り、 ミス クリ 州の 邊境 方面へ 出立し、 福音の 音信 を 信ずる 人々 の 居る 

し ,けうく わ S そ しき それ 3 た しう あつ ぎむ けうぐ わい つぎ ない ぐ わい 

Ie: に枝敎 Z ぽを 織して、 其から又ミ スゥリ州で棠まる義務がぁら^^し^^、 敎會の 次の 大會 

==: しう も 上 は を さう せいと も しんかう も 

は ミス クリ 州で 催される 乙 とに なって 居. ました、 而 して 聖徒 は 若し? > 信仰 を すれば、 其 

とさ かれら うけつ ち ぼ しょ かれら あら は 

の 時に 彼等の 承繼 ぐべき 地の 場所 は 彼等に 現さるべき ものと なりました 

おい わい のち ま およ けいし あた 

大會の 後 問 もな く、 シド 一 1 、ギ ルバ I ト 及び 二 ュュル 、ナイトへ の 啓示が 與 へられました、 

^ V し 6i = まち し けうく わい くわん も 

ナ ィ ト 氏の 啓示に は 元 コ ー ルス ゲヰル 町に あった 枝敎 會に關 する ことがありました、 其の 

しけ ラぐゎ S くわい るん H じ ぶぐ いん しん ひと A\ タ そ たう じ しう 1 j a ち かりず ま ひ 

枝 敎會の 會員は 初めて 福音 を 信じた 人々 の 一 部で、 其の 當時ォ ハ ィ ォ州ト ム ソ ン 町に 假由 



をして 居りました、 n I ルス ヴヰル の 聖徒 は 西方の 「レ. "マ ン 人の 居る 地の 界 まて」 移住 

する 襟に 命ぜられました。 

それ おのれ & た 5- てんしゅ み 

其より ダブ グ ュ 、ダブ 〃ュ, フ フ スと トマス、 ビ-、 マ- シコは 己 等に 對 する 天主 の 御 

意が 如何なる ものて あるか,^ - 知ら ス V- に 預言者 ス ミ ス の 所 へ 來 ました、 其で 彼等の 爲にニ 

けいし S プ のち けうく わい な おか もの はん 

つの 啓示が 授けられました、 (後に フ" ル ブス は 敎會の 名高き 者の 一 人と なら、 マ- シュは 

十二使徒 會長 となりました )o 

*;!5 ぐ わいち ゆう せつ めいれい したが ぐ わつ ^ち 1 1 

大會屮 に 接した る 命令に 從 つて 六月 十九 日ジ ヨセフ、 ス ミ スはシ ド 二 、 リグ ドンと マ 

! テン、 ハリスと H ドヮ— ド、 パ! トリ ッヂと ダブル ュ、 ダブル ュ、 フズ < ブスと ジ ヨセフ、 

I ふうふ とも l i た はじ ^=^== ち はう ゆ 

コ -とシ ド 一 一 、 ギル 、パ 1 ト 夫婦と 共に 力 -ト ラン ド町を 立 ク て 初めて ミ スクリ の 地方 へ 行 

— し けうく わい せいと かれら あとお そた め ちゃうら う 

きまし. コ- ルス ゲヰル 枝 敎會の 聖徒 は 彼等の 後 を 追 ひました、 其の 他 召された る 長老 

おな 5 くさき いた めい, (乙と みち とほ き ぐみ 

は 同じ, 仃 先に 到る つもらで、 各々 異なれる 道お 通りて 來 ました、 ジ ヨセフ、 ス ミスの 翻 は 

のり あ ひば しゃ 乙 ぶね もし じょうきせんとう の あるひ か ち ぐ わつな か ぼごろ L う" 

乘合 1&I 車 や 小舟 若く は 蒸氣船 等に 乘. 5、 或は 徒步 にて、 七月の 半 頃 ミス ゥリ州 イン デ ペン 

まち たうち やく さう かれら n せんけう し & あ きく わい 

デンス 町に 到着し ました、 而 して 彼等 は オリ ゲァ、 カク ドリと 他の 宣敎師 等に 逢 ふ 機會を 



え ひじ A う V- わんき i ゆん しゃ ばな し かれ & かん R く 2a い 

得て 非常に 歡喜 しました、 預言 老ス ミスの 話に は 彼等 は 「威じて落淚しまし.^^」 と 云 ふこ 

A 、です 

I ち- C く のちす ぐ - と し すな は せいと ちゅうわう しふが ふしよ はじ めいはく けいし 

ス ミ スが 着した 後 直に 「シ オンの 都市」 即ち; Is- 徒の 中央 集合 所が 初めて 白に 啓示せられ 

さう I - a ち そ えら t 乙ろ しんでん た ぼ 

ました、 而 して イン デぺ ンデン ス町は 其の 選ばれた る 所て あって、 神殿の 建てら るべき 場 

し i す t K し さ 5- ぼんし 上 ちか せ しょ なほけ いし した £ せいと f ん .a つ さう き r 

所 は 少し 西て 裁判所に 近き 地所で あら.^ した 猶 啓示に 從 つて 聖徒 は 地面 を 買て 而 して 祈 

たう もつ と へつ ち じん しふが ぷ ところ た あたら し けんせつ ところ 

禱を 以て 其の 邊の地 を イスラ H 〃人の 集合す る 所、 又 新しき ュ ルサレ ム市を 建設す る 所に 

あ はず しゃう K ん W た タ し 上 か はん あた 

當 てる 箬 であった のです、 シ ド 二、 ギル バ 1 トは 商人と なるべく、 又 地所 を 買 ふべ き 任に 當 

まお B^= じんすな はちせ いと さいばんし i< えら", Iv^i. , 

.=^ました、 又ュ 、ドヮ ー ド、 パ -ト リツ デは イスラ ュ ル人即 聖徒の 裁判 職に 選ばれて 「聖徒 

うけつ ^ し 上 .a れら わ あた せいと けんな ふさん う さう めい/ \ せい", じゅ パ! i い 

の承繼 ぐべき 地所 を 彼等に 分け 與へ」 聖徒の 獻納產 を 受け 而 して 各々 の 聖徒に 其の 受託 財 

さん さ.. つ 2 おそ とき しう きた せ i- と むか やく はん % う 

產を 授け、 又 其の 時ォ "ィォ 州より 來 りつ V ある 聖徒 を迎へ る 役に 任せられました、 而し 

L-^^ ; J もん. かれ は じ 

て 二人の 顧問が 彼を稱 助— . ^した。 

ぐれつ g ち ち しんせい それ てんしゅ み, J/- ろ a か . そ • ち I, 

八月 一日 シド -1、 リク ドン は,^^^ の 地を祌 聖 にして 其 を 天主の 御 心に 任せ、 其の 地の 

めいさいしょ つく せいと うけつ fr- しょか かねえ やう き- ぶち やう ゥく - ^ め - 

w 細窗を 作. 5、 聖徒の 承繼 ぐべ き 地所 を EM ふ 金 を 得る 樣に 寄附 帳 を 作れと 神より 命せられ 



SJ ん ぐ わつ か •- けんせつ お 5- ぼつ も ひ ぐん — I 

1 千 八 百 三十 一 年 八月 二日 シォ ン建 はの 第 一 步を 着けました、 其の 日 力 - 郡 イン デぺ ン 

まち せいはう マイル は ど と 乙ろ た はん とも , しん し ぞく おい 

デン ス 町の 西方 十二 哩 招の 所に スミ スは、 他の 十 I 人と せハに イスラ H ル 人の 十二支 族 を 代 

へう なる た す い (ど おい そ をリ ちゃうろう き たう もつ を 

表して、 一 つの 九 太を据 ゑて 家の 土臺 にしました、 其の 折に 長老 リグ ドン は 祈禱を 以て 其 

ち しんせい てんしゅ みこ ヽろ 3 か そ たう じ —— まち せいと /J 5 

の 地 を 神聖に して 天主の 御 心に 任せました、 (其の 當時コ - ルス ゲ ヰ〃 町の 聖徒 は 此處に 移 

^!-ゅぅ し 上ぐ みん を そ あくるひ か しんでん た ばしょ せい/ \ か 

住して戒民して居.5ました、)其の|;^!=(三^1:)に神殿を建っべき場所を成聖しまし.^^、 四日 

ぐん い ひと いへ けうく わい おい ぐ わい おいく わい . ■ お おい 

に は 力 I 郡ジョ シュア、〃,' イスと 云 ふ 人の 家で 敎會の 第五 回 の大會 (シォ ンに 於け る 第 

くわい たいく わい も M は せいと たいてい のぞ そ を w けいし あた 

1 回の 大會) を 催しました が、 聖徒 は 大抵 これに 臨みました、 其の 折に 啓示が 與 へられ ま 

がいけいし じっかい あ ぶ どん $か ( *W た あんそくび くわん お 上 あ ちゃうら う 

した、 該 啓示に は 十誡の 或る 部分が 繰 返され、 又 安息日に 關 する rJ と 及び 或る 長老が 力 I 

まち かへ つい をし へ そ ちゃうら う うち 

ト ランド 町へ 歸る ことに 就ての 敎が ありました、 其の 長老の 中には ジ ヨセフ、 ス ミスと ォ 

とう 

リ ゲァ、 カク ドリと シ ドー 一、 リグ ドン 等が ありました。 

ぐれつ か てんしゅ 乙とば したが X ゆん しゃ お 上 はん ちゃうら う ひがし はう しゅったつ 乙 

八月 儿日 天主の 言 一 某に 從 つて 預言者 ス ミ ス 及び 十 人の 長老 は _ ^の 方へ 出立し ました、 此 

おもしろ お じ た, ひ うち *t やうら う くんかい ちゅう 乙く み けいし さゴ 

の 面白き 多事る る 旅の 中に 長老 は 訓誡と 忠告に 滿 てる 二つの 啓示 を 授けられました 

、 X 六 五 



ミ 



六 六 

ぶ じ まち たうち やく • 

二十 七 n 無:?^ 力 I トラ ンド 町に 到着し ました。 

々 くわ と ち せ 5 ぐう == ぽ, r し i さお 乙れ しんぜい てんしゅ みこ /- ろ <5 か -V 

k て 問 化した る 土地の 西 隅に シ オン の 5! 所 を 定め * 之 を祌聖 にして 天主の 御 心に 任せ、 

Z ゝ 2 ち けんせつ a たしん でん ぽ しょ えら さ, し 上 くみんて きせいと ^w^i^-^. Z やく そぐ 

此ゅ ぬに 町 を述設 し、 乂祌 殿の 場所 を 選びました、 而して戒::^的聖徒の大勢は此の 「約^せ 

とち き せいと Z せ. SK ゥ み かいち おい のかみ とし 

られ たる 土地」 に來っ 、ありました、 聖徒 は 此の 西方の 未開地に 於て 己が 祌の 「都市」 を 

ュ «^ lO もくてき たつ 5, くた しつぼう こんなん で あ 

迚設 する 乙と を 欲しました が、 此の 口 的 を 達する に は 幾多の 失望と 困難に 出 遇 はねば な. 9 ) 

ません。 

おい しゃり お 上 とう はう お しんぽ ばん. て. ん 乙 と 

第. 一」 章 力 I ト ランド 及び 東方に 於け る 進步、 m 人の 異なれ 

すく ひ ばぐ がい なんぼく せん さう よ :&ん 

る 救、 迫害、 南北 戰爭の 預言 

t*」、>H.P 作ん 丄ゃ はじよ え s( とし ぐ わつ. 5- らい じ や を 

其の後 預言者 ス ミス はシド -1、 リグ ドンの 補助 を 得て、 前の 年 十二月 以來 一時 止めて 居 

) > ^々ん t;- いせ けい; V く そ つまし た. こ か は: y もら ぷた り あかご ぷ/^ ともな 

つた liifji: の 訂正 を繼續 せんとて、 其の 妻と 死んだ 孖 子の 代に 贳 つた 二人の 赤子 (孖 子) を 伴 

. ねん ぐ わつ ばち ぐん 5 しプか _M ち ぅヮ 

ひて 一 千 八 frn 三十 一 年 九月 十 一 一日 ポル テ. ィ ジ郡 ハイラム と 云 ふ靜 なる 町へ 移り、 ジョン、 

い 一 たいざい ヽ た I けうぐ わい N^.c ぃ&ん のちし と 

ジョン ソンの 家に 滞在 致しました、 ジョン、 ジョン ソン は 敎<^^ の Z け 員て、 後 使徒に なった 



ちゝ またのち し と 

凡 I ク、 ュス、 ジョン ソンと ライマン、 ィ-、 ジョン ソン との 父で、 又 後 使徒と な つた オル 

ソン、 "イド の EST て ありました。 

乙 し.. ゥか i 乙ろ せいしょ て S- せ. 5- じゅうじ あ ひた けうぐ わい みちび た おは ひつえう うお. & 

此の 靜な 所で 聖 寄の 訂正に 從事 せる 間に ス ミ スは 敎會を 導く 爲め 多くの 必要で 重大な 

けいし う ぐ わつ てんしゅ けうぎ お 上び せいやく い は 人 つ はしがき お 上 i ろく 

る 啓示 を 受けました、 十 一 月 「天主が 敎義及 誓約と 云メ 本に 付ける 序文」 及び 「附 錄」 と 

しょう けいし あた どう すゑ ごろ けうぎ お 上び せいやく 

稲す る 啓示 は與 へられ まし.?^、 同月の 末 頃 ダブル ュ、 ダブル ュ、 フ "ル ブスが 敎義及 誓 豹と 

5 ほんお よ た し 上 もつ ん 3 つ じゅんび ため ぐん § .V ご 

云 ふ 本 及び 他の 播物を 印刷す る 準備 を T る爲に ジャクソン 郡へ 行きました 力 其の後 オリ 

そ 乙 ゆ をた うじ しんやく せんし- i か 

ヴァ、 カウ ドリと ジ ヨン、 ホヰッ トマ.' ルも 其處へ 行きました 其の 當時 新約 全書 ョ 、ノ ネの 11 曰 

もくし ろ < お 上 か n リゾ ト ^i-んし上^ぃ しょ ラ せっとう ぐわん せつめい けうぐ わい かぐかん とくく わい 

いた 默示錄 及び パク " の 書 S た 哥林多 前書 第 七 章 十四 節 等に 關 する 說 明と 敎 <1:: の 各 監督 會 

に 就ての 敎を八 a む 啓示が 授けられ まし.? T 十二月 四日に は-一 ュ ェ 〃、ケ .•、 ホ ヰット 二が 

シ オンの 力一トラ ン ド" ステ -キ 部の 第一 一代の 監督に 選ばれました。 

おうじ ぼつ じっせいと しゅうはう じ やう お ほ けうり き そ をし へ てん しめ すなば ^ばろ 丄 

,當時末日;^^徒の宗 敎 上の 多くの 敎理の 基礎た る 敎が天 よら 示され t< した、 即ち 異象に 

おい ほろび 乙 のど いつ ぱん ひと みな じ あい あ プか せいぎ したが かみ さばき う I 

於て 「沈愉 の 子」 を 除き 一 般の 人々 は 皆 慈愛に 與 ら ながら 正義に 遵ひ、 神の 審 へ. - 受け 

. ふくいん たい うじつ ュぐ じうお M おのれら ち しき C どく よ かくじ おのれ お 乙な ひ さう おう 

キリス トの 福-: に對 しての 忠實 と服從 及び 己 等の^ 識と 功徳に 因って 各自 己の 行爲 に相應 

六 七 



六 八 

こと えいく ゎゥ もつ すぐ 5 をし へ しめ すぺ せう K しんれ, S 5 、 

して 異なれる 榮光を 以て 救 はれる と 云 ふ敎が 示されました、 凡ての 小兒は 浸禮を 受けずに 

いし 上く ざい ち すく またたと かみ お a- て し し いけう 

キリスト の 代-; 0罪 の 血に よ- V て 救 はれる ので ある、 又 縦へ 祌の捉 法 を 知らずに 死せ し M ハ敎 

と すく 3 ぐ わい いう を さう ^ ごく とう あぐ はん おのれら ざいあく 

徒 も 救 はれる 機會は 有して 居る、 而 して 「地 に投 ぜられ たる」 惡人 とい へど も 己 等の 罪 Si あ 

さう おう かみ えい ふん ぽク じゅうぶん う のち のが のぞみ 5 かん えい 

に相應 せる 神の 永遠なる 靜を 充分に 受け^る 後 は 免れる 望が あります、 如何と なれば、 永 

ゑん ばつ かなら え 5- ゑん つみ 5- 5- み, , * t れ たどえ い x^,^ かみ-,;:^, - 

遠なる 餅と は必, すし も 永遠なる 罪と 云 ふ 意味で はない のて 之 は 唯 永 S) なる^が 加へ させ 

i ぼつ. & かみこ t ろ のち そのれ 5- * し, • 

給 ふ? r" であると 云 ふこと であ 5 ます、 神の 子ィュ ス、 キリストが 殺された 後せ; 靈は 死せ 

ひと れ S. つな ひとや 》 ふ/ -5 ん のぺ つた たま e ふ そ れい をし ( 

し 人の 靈の繫 がれた る 21 に 入って; i 昔 を宣 傅 へ 給 ふたので す、 故に 其の 靈はィ H ス の敎を 

しん きく わい え かっ^くた S ひと おな さ ぼき う やう 

信ずる 機-^ を 得、 且肉體 ある 人と 同じく 藩 1: を 受ける 様になる のです C 

上 ゆん しゃ ちょじゅつ し ごとい ぐ わい ねっしん はう おう tt たら しばく たい くわい つらな また あ 2 ひ 乙と ぼ 

預言お スミ ス は荼 go 仕事 以外に 熱心に 敎 導して 働き、 厨 大會へ 列 ら 又 或は 言葉 を y 

もつ あるひ し 上 もつ せいと をし しか Z あ ひお はぐが い さら や はいけ ゥ しゃ 

以て 或は 書 を: :- て 聖徒 を敎 へまし.? r 併し 此の 問 迫害 は に 止まず して、 北::: 敎^ H ズラ、 

. お 上 けうと ひなん てがみ はんか 1 はし い しんぶん 

ブ I スはス ミス 及び 「モル モ ン」 敎徒を 非難す る 手紙 を 九本窨 いて 1 ォ 、ノ ィォ 星」 と 云 ふ^ 聞 

スタ— 

し とゥ .V れ ため 上 ゆん しゃお よ けうく わい たい おはい へんば はく 5" い おこ » - . 

紙に 投じました、 其が ハ A に 預言者 及び 效會 に對 して 大 なる 偏頗と 迫害が 起り ました 一千 

ねん ぐ わつ ばち X まち おい よ ゆん しゃ 

八; S 三十 二 年 三 月ー 一十 五日の』 佗に ハイラム 町に 於て、 預言者 ス ミ スとシ K -1 、 リ, グド ン は 



の め K い ^目 に ぎ |ぉ ひまし. T i ふ is の 着物 を 剝ぎ體 に タ . , を 塗 つて 彼.^ 

m.^^i 1 .i の^^. V, の飮 ません としました、 • し Hit は *a しながら も大な V 

る ssf しました、 i して 鍾ひぁぁく隠じました、 其の 曰 3 

は三だんのぉぉ^に歡§を艇ぃまし^-、 シ ドニ、 リグ ドン は 其の 暴行の 爲め くの 問 氣^, 

つて ました、 しきし^ K は l^rl ん になり つ、 ある «ょ 預言者^^ は 此處を 去る 方が 蕃ぃ 

と 者へ ました , . 

四 瓜に, rTT^i へ g きたが、 p^^ul^^k^^^^i 

ひ k い て^て 歡と" しました、 w して IS は ii ぎ を&) けんが 爲め 迂回 をして 來 ましたが、 

U のお が T^&v」kづ る « に; お ぞの, だんが & にました、 其 は^が 暴 

2 C ^ ナウく わい た 5- じゅんけ う 

おに!! つた へ 15 された め 5k ュ i に體 めら れた からです、 此の 子 は 敎會の 第一の 狗影 

者と 云 ふても 差 支 は あう ま 一 ん < 

. — まち つ ときせ i- と i も 力 

ず ffil^^ が 四 M 一 一 十四 力 日. 3 ^^ィ ン デ ぺ ン デ ン ス 町に 着 い た時璧 徒に 善く 迎 へ 

られまし^^が、 ^tfmf0LP<fK^. きを ¥3T 郡より 殘 

山ハ九 



七 〇 

z< « う *f く いた さと お ほい t 、ろ いた 

酷に も 放逐す る ことに 到らん 乙と を 悟って 大に 心 を 痛めました . 

せいと いへ た ,つ まば かれら をし ひつ 之う けいし ラ a た はう ぎお 上 

ス ミス は 聖徒の 家 を 訪ね 廻り、 彼等に 敎へ、 二つの 必要なる 啓示 を 受け、 又 敎義 及び 

せいやく いはん ぶ いんさつ 乙 へん せいと おいしん けん いう ひと つかさ 

誓約と 云 ふ 本 を 三千 部 印刷 させました、 此の 邊の 聖徒 はス ミ スが大 祌權を 有する 人の 司な 

みと ぐ わつ はち === しう ==| まち ひら けうぐ わい たい くわ 5 

る 乙と を 認め まし. 5^、( 一月 二十 五日 ォ、 メイ ォ州 アマ. -ス ト 町で 開かれた る 敎會の 第 七 回の 

た, f わい お . I えら & いしん けん いう ひと つかさ ぐ わつ はじめ 

大 As: に 於いて ス ミ スは 選ばれて 大神權 を 有する 人の 司に せられました、) 五月の 初に ジョ セ 

. こ 丄たリ い じん とも —— しゅった ク しか しう 

フ、 ス ミス は 此の 二人の 友人と 共に 復カ -ト ランド へ 出立し ました、 併し ィ ン ジァ ナ 州に 

おい 七-つかん とぐ あし ぐ じ ゆつ ほど 1=== たいた 4 乙 ^ 

於て 總 監督 ホヰッ ト 一一 が 足 を 挫い. 5^ ので 一 ヶ月 程グヌ -ンゲ * ルに滯 在し ました、 此 所に. ゾ 

を と 3 どく の からう な は 

居る 時に ス ミ ス は 毒 を飮 ませられ, 辛 じて 癒り ました。 

ぐ わつ I つ せいし 上 て.^ せい じ § う-じ れん 

六日に 力 - トラ ンドに 着く ゃス ミ スは 聖書の 訂正に 從事 しました、 „ 千 八 百 三十 二 年 十 

ぐ わつ S" かれ 乙 うま ぐ わつ せん さう 上 ゆん およ けいし あた 

一 ra: 三 口 に 彼の 子ジ ヨセフが 生れました、 十二 月に 「戰爭 の 預言 及び 啓示」 が與 へられ ま 

これ がっし ゆうこぐ きた しう みなみ しう おはい さう とうすな は なん ぽぐ せん さう A』 X ゆん もんじ 

した、 是は合 衆國の 北の 州と 南の 州との 大な る爭鬪 即ち 南北 戰爭 のこと で 其の 預言が 文字 

とほり じっけん ぱ つじつ せいと おんけん 

通に 實 現された のて あると 末日^ 徒は斷 言す るので あ 6 ます 

けうぐ わ i ん/ せい 巧い がっし: S う 乙ぐ お- £び カチ ダ し 上. ( し はう くわ 5, たて > . 

「モル モ ン」 敎會は 段々 盛大に なって 合 衆 國及加 拿 太の 諸 所に 枝 敎會を 立ました 一 千ス 



, はん , :;^ ん ふゆよ £ん しゃ がく かう 3 ゥ また —— 

百 三十 二 年と 一 千 八 百 三十 三年と にかけ ての 冬に 預言 老の學 校 を 設け、 又 力, ト ランドに 

おい しんでん けいえい はじ 上 C ぐ わつ はち も どお い すみい し す 

於て 神殿の 經煢を 初め、 翌 七月 二十 三日に 其の 土 臺の隅 石を据 ゑました、 一千 八お 三十 三 

ねん ぐ わつ か しんやく せんしょ ていせい できあが . 乙 れょぅ ふた /- =8 ひ. ^ い \ 

年 一 一月 二日に 新約 全書の 訂正が 出來 上った のて、 之 を 封 じて 再び シォ ン で^ける ことに 致 

しました じ 

たラじ けうぐ わい たい お ほい あた ひ けいし さ.. つ そうち I ち ゑ ,J とば 5 

當 時に 敎 會に對 して 大 なる 惯値 ある 啓示が 授けられました、 其の 中に 一 知! の 言葉」 と 云 

そ ちゑ /J さぽ えう やう おい すべて しゅる & ちゃ n ゥヒィ た ぼ 乙 もち 

ふの があります、 其の 「智 It いぢ 言葉」 の 要 倾とは 第一 、 一 切の 酒 額、 茶、 珈批、 I- 草 を 用 ゆべ 

おい き \ んぉ上 とう JI- のど はくし 上く せつ い 

からず、 第二、 飢 僅 及び 冬期 を 除き 肉食 はなるべく 節すべし と 云 ふ? - とです。 

ねん ぐ わつ はちけ うく わい ぐゎんちゃぅ^-ゎぃ はじ そ しき . I 

一千 八 百 三十 三年 三月 十八 口 敎會の 管- <^ は 始めて, g 織され 1^ した、 ジ ヨセフ、 スミ 

I おい ノ、 わんち やう たい ふく ゝ わんち やう 

ス は大管 ^ ふなり、 シ ドー 一 、 リ グ ド ン は 第一 の, 副 管、 長と な-^、 フ レ デ ";ク ,ジ ー 、 ゥ 

た 5 ゝ わんち やう くわん 3- おい ^Jれ さいかう けん いう て や 

ヰ リア .4 スは 第二の 副 管長と な.^ ました、 管理す る 乙-とに 於て は此は 最高 權を 有する 定 

るん くわい ノ.:: 

員, てあります。 

けうく わい . I とゥ ばう ぉ^- 3 かん a- すな は si-=i いじ やう は ど で めん 

- 敎八 n は 力 , 'トラ ンドと _ ^方と に 於て 盛に なって 來ま した、 即ち 一 万 一 千 弗 以上 の 地面 

かひ もと 乙 \- レ; 5ろ かつう つく けんせつ けいく わく 乙う ぼ せぃふん^-ゃク 

が n 求められまして ノ 此處に は. 市. を 廣く且 美しく 建設すべき 計 書で あ. 9、 工場 や, 粉. 場 や 

せ 二 



七 二 

なた やぐ,: 上と ゥ た かくしゅ さん ぷ いとな えう せ 5 と — しう お B 

又 役所 等 を^って 各 稀の 產 業が まれ.^ した、 要するに 聖徒 は ミス ゥリ 州に 於け る 「シォ 

. 1 . ち し上ぅら.^, はってん しばら 乙 \- tti 

ンの 地」 の 將來の 發展を g: く 此處に 待つ ので あ 6 ました。 

お しゃつ I ぐん せいと はう ちく 

第 八 章 ジャクソン 郡よ り 聖徒の 放逐 

か はんえい ねん ゆつ はじめ . I しう せいと し 

^く 繁榮 になり つくあった のに 一 千 八 百 三十 三年 九月の 初に ミ スクリ 州の 聖徒よりの 使 

しゃ . き , ぐん H ゆ さう どうお 上 はくがい お 乙 

^1<;なるォ リ ゲァ、 カウ ドリが 力 ,ト ラン ドに來 て ジ ャクソ ン 郡に 烈しき 騷動 及び 迫害が 起 

^ き i うはう もたら 

つたと 云 ふ 凶報 を^し ました。 

た とき ■ — - しう せいと はん いや ゆうしゃ ます .(-ふ を 

其の 時に ミ スゥリ 州の 墜徒は 凡 一 千 二百 人あった が、 移住者 は 益々^ えて 居りました、 

せいと そか i ^ ぺんリ X ため さ £<Y たてもの た かき t し& また zJ う 

聖徒 は 其の ヌ、 ゥて ある 土地の 便利 を宜 くす る 爲に檨 々の 建物 を 立て、 垣な ど を 擦へ, 又ェ 

ゆ ふ さかん さう ねん/.. \ なほ 5 たか しラぐ わく ねん £: つ 

業 を 盛に し、 而 して 年々^ 豐 な收稷 があった のて あ, 9 ました、 一千 八 百 三十 二 年 六月に は 

へんしう 上 ひ あかつ 3 みやう にやう J . 0-1 ノ 

ダブ〃 ュ、 ダブ〃 ュ、 フ"〃 ブス の 編輯す る 「宵と 曉の 明 星」 (l^veumg and Morml-g star) 

5 しんぶん a う afe め. & ちゃうら う ゆ £<A5_> . J : 

と 云 ふ 新聞が 設けられました、 又 六十 名の 長老の 行く 學校 があって、 パ -リヒ I、 フラット 

-V か, f ちゃ ラ た (んぉ かれら でんおう X けつく わ あた I これら せ々 

は 其の 校長て あ ました、 其の 邊に 於け る 彼等の 傳道も 善き 結果 を與 へました 此 等の 聖 



?-は|^|にっ艇ゃかにして^く«"、 お or の し仕«をみ% らし 爲 ました、 す ま 尸ん のこと に I ャ i せず . 

己の む務を 、ぎく こムを K したので あります、 此は 「モレ/ モ ン」 敎 徒に 於け る 格言の 一 

つで あ. 5 ます、 Ifli^n は?^ I 蔡 なる 11 て あるから 彼等の 中には 過失に 陷 りし 者 も あれば、 

s^y^s なる n も あ ,0 ました、 或る 者 は 己 等の 思想の みに 溺れて、 言 ふ 可から ざる こと を 

い た けうと き さ a こうけん "の >--,,! 、 ノ rll ノ.^ 、ひ" 

f つたり、 他敎 徒の 氣に 障る M と を 公言したり する^ もあった てせ う し 若し 邦- H ふ 人 

^ - り. S* 一 ぅチぅ ピし、 さ. S ら な せ ぼん スん ハ V わ す 

があった ならば、 4^ は 己の {--i 敎の 敎義に 逆った のです、 何故ならば 萬 民と 平和に 住むべし 

r ケ うく.!:: <:■ し f えう せ^-と みな tt ふ n- つ まも ^?トゅゃか し み,^, - 

と iK ふの が^の ぎ 4.^ の敎 である からです、 要するに 皆 法 #を 守る 穏 なる 市民て あ..^ 

した 

ぎ i 「モ C ン」 す ri が r つた g、 P の f 霸 にあ まの £i 

# とし ュん ゆつ けうと 

を i: はず、 i& を?^ 概ふ こと ゝ 定めました、 此年 C 1 千 八 百 三十 三年 g 月 「モ , モ ン」 敎徒 

を K く?^ 講ずる || に 相談 會が 催されました が、 何の 定まる 所 も ありませ なんだ、 併し 

七^の If^ffiyi かれた に は 三 kHM の ひんが イン デぺ ン デンス 町に 集ま. 5、 「モル モ ン」 敎 

ff f i あとし、 攀ぁ t^KAfef i い、 0sk ,if i 

七三 



七 四 

たさ なた 乙ぐ じん ど れいお よ アメリカ どじん かんせ ぷ す、 ど じん く は もつ かれら 、.• てん 

出し, 又は 黑 人の 奴諫 及び Is^ 米 利 加 土人に 干渉し、 進んで は.、 土人の 國を 以て、 彼等が 天 

ゥ うけつ ち やう ゆん もう と S" ぺてんみ な これら 

より まけた る 承^ぐ ベ き 地な, 9 と 揚言す る 等の 乙と を^む 可き 點と兄 做して 此 等の? -とを 

ハ.. V ぜん , んし上 てつ いんいた どう ホっ か K ん ぼうと し, A が,^ じ やうき てん ほかな はた 

貌 へたる き 一 |in せ" に 謂 印 致しました、 同パ 二十日 五: お 人の 暴徒 は^ 合して 上記の 點の外 小 1: 他 

とが ぐ 《 みやう じ やう . 5 しんぶん ばつ かう と すべ. て けうと た 3^ おひ はら 

の^を 加へ て、 「E- SLC し 云 ふ 新 問の 發行を 止め、 一切の 「モル モン」 敎徒を 直ちに 追 拂 ひ- 

かヮ しゃう らい にん そ へん ぃ^!-ゅク こと S る 5 けつ; TJ いた そこ t けつぎ 

且將來 一 人も其の邊に移住する^?^を許さぬと云ふ?-とを決議致しました、 其 所て 此の 決 Si 

うく ゎハ つかさら し & ヽん えら 乙れ つかば しか を つかさら じゅく かう 

を 「 モ产モ ン」 敎會の 司 等に 知らせる 委員 を 選んで、 之.^ 遣し ました、 併し 其の 司 等 は 熟考 

じ いうよ ねが ; S ゑ ばう と お ほ 5 いか た し S つばん じょ よりあつ それ 

する ため、 一時の 猶豫を 願 ひました 故、 暴徒 は 大に怒 り、 直ちに出版所に寄^^ま,=^、 § 

うちやぶ レ ゆく たうぐ たうろ な ち S ろ. ( たと , をづ かん 

打破り て!!々 の 道具 を 道路に 投げ 散らしました、 色々 の M とも ありました が 之 へ ば總監 

とぐ .5. ふく は からお ぬ とりば ね 乙れ つ あるひ はか せいと 

督パ- トリ ッデの 衣服 を 刹ぎ、 タ!〃 を體に 塗り、 鳥の 羽根 を 之に 付け、 或は 外の 聖徒. U 

おい- ぐるし いた .こ む はふ ; t と うち ぼぐ し な おか 

嚇し 苦め たり 致しました、 此の 無法なる nJ と をした 人の 中には、 牧師 も あり、 また 名高き 

こう t#- ん ゲー >^<%, じ ごと あ けうと む 力 

公: も 居りました、 副知事 ェ ル、 ダブ 〃ュ、 ボッグ スの 如き は 或る 「モ k モ ン」 敎 徒に 向つ 

なんせら ハ ま わ ぐん おんし いか ひと し なん ら 乙 

て 「汝等 は 今や 我が ジャクソン 郡の 男子が 如何なる 人なる か を 知りし ならん, 汝等は 此の • 

と さ X a う くら, 

土地 を 去らざる 可から ず」 と 申した 位て した。 . 



乙 ばう A う .2' のち いさん いっそ ラ おは あつまり あたら る.,. -ん >• ぇス . 

此の 暴行よ..^ 三日 後、 以前よ. 5 も 一 層 大きな 蘖會 があって、 新しき 委員が 選 はれました, 

,v- こ せ いと おのれ じ i- う うしな また ぼゥと たいかう む えき * 、 

其 所て 聖徒 は 己の 自由 を 失 ひ、 又 暴徒と 對杭 する こと は 無益て あると 云 i-?- と を 知り まし 

ば? と わ ぼく さう おん いた せいと はんすう , 」- , 1 ■ ゆ つ- K ち » -、 ほ、 i > 

たから、 暴徒と 和睦の 相談 を 致し 聖徒の 半數は 一 千 八 百 三十 四 年 一 月 一 日 t< てに、 又 他の 

もの 4 つてち ,j と ち さ <a たい it ゆう と I ん ぶん みやう じ やう しゅっぱん と 5^ 

者よ. 四月 一 , 日までに 此の 土地 を 去る 乙と にし、 又 移住 を 止め、 新聞 「明 星」 の 出版 を 止め 

5- た そ がはリ ばう. と & / ん せいと く He やく そパ い た』 

る M とに 致しまし^、 其の 代に 暴徒の 委員 はこれ より 聖徒 を 苦 めぬ と いふ 約束 を 致し ま 

fV ン これら ぱ うと あつま リ おい せ ねん 

した、 而 して 此 等の rJ と は 暴徒の, 會 に 於て 是」 |g されました。 

•i やうき ===== まゐ そ せいと つ おいか-^ 

ム 記の 乙と は オリが ァ、 カウ ドリが 力 - トラ ン ドに參 つてせ, 〈の 聖徒に 吿げた M との 大體 

よ ゆん しゃ これ た 5 あばれ ぺ せいと なぐ 3 くんか. 5- ぷみ か, 

であります、 預言者 ス ミス は 此に對 して M の憐む 可き 1^ 徒 を 慰め、 訓誡す る 文を键 いて 

し、 や も や L かこし、 や . ゆつ すゑ. ごろ しう LJ > ^-. 

使者に 持たせて 造りました、 併し 此の 使者が 九月の 末 頃 ミス クリ 州に 到き ました 所 暴徒 

そ めいやく そ む さら ばう ぎゃく せいと <a を ダ ; Si. > -3 

は 其の 盟約に 背いて 更に 暴 逆 を 聖徒に 加へ て 居る と 云 ふ 乙と か 解りました 

けうと さ . ぺ そ とき. 5- つぼん さけ. ひ , - ) ^ 

『r モ \ モ ン」 敎徒を 去らし む 可し』 と は 其の 時 一 般の 叫で あ 6,^ した、 聖徒 は 其の 朴 ► レ知 

じ へ 上ぐ たすけ が むな かれ は, \ りつ うった ^ > ' > »- ^-. ) 

事に 兵力の 助 を 願った が 無益で ありました、 彼 は 法律に 訴 へる こと を衝 めました 力 其の 

けつぐ わ た さ いなん さら おは ひきおこ いた » ユ おか W ^ - ノ? J、 

钻 は呢. 災難 を 更に 多く 引 起す に 至って 恰も 火 藥に火 を 役す るか 如き ものて あり t-l た 



七 六 

なん じんみん どう t の i か? とくしゅ たみ むか かん,; わ" !^、 i , ゆつ, rK ち,, , K ちお.; 

t となれ ばん ぼ は 一同 此 不幸なる 特種の 民に 向って 干戈 を 動かし 十 月^日 卅ー 日 及び 十 

,つ ち もっと I 卞 乙 ぅ卞き はう と をと 乙 ち 上う ちゃく い (やね 

一 ^ 一 In に は 最も 列 1 しき 攻鲠 があった のです、 暴徒 は 男子 を 打 榔し、 家の 尾根 を はき、 

ぞいさん やぶ あるひ をん な こども やぐれ.^ お; ^いな ^ ' 3 

財産 を 破り、 或は 女 小 供 を 野外へ 追 出し まし 

でし せ <■ と ち , りし i ごじ やう かう ふ じゅんく わい さい ぽんし 上ばん じ si がい . ^、力 

gf 人の!! 徒 は 治安 ぽ護狀 を 交付 せられん こと を , 巡 迥 裁判所 判事に 願 ひ 出で ました, 併 

,- f 5t- .tf こ t ま たど も ぼうと よた/ < 3 かれら t やゆき X 

し B は 徒 を れて之 を 拒み、 唯 若し 暴徒が 再び 攻めて 來 たなら ば 彼等. V 「射擊 す 可し」 と 

ャ.' れ <ei ゑつぎ t う i き とき せいと あえ ひと ころ 乙, の • » ^1 » 

蒙め ました、 夫 故 次に 攻轚 された 時には 聖徒 は 敢て人 を 殺す を 好む のて はない 力. む 乙と 

を St:- ず, の勸^ g グ支 恋をしました、 十 一 月 四日に 一 りの 衝突が あ 5 ました、 「モ ル V- ン」 

^^の ¥ー だは ffi され、 鄉 をし ましたが、 暴きの 方で も 二人 殺されました、 之が 

*s けうと どうはう き 5 ^ - z>- 、一 - ^-Lp^ 

Is に 「モ K モ ン」 敎徒 一 同條 起した と 云 ふこと が 方々 に 言 ひふら されました 十 一 月 五日 Is 

ft- ; t ^ i6 rK うどう しプ ため しゥ みん. クぶ めし か- / ' > V -^J I . 

が 事 ¥ ^^は 此の 言ひ觸 された る 騒動 を鎭 める 爲に 州の 民兵 を 召 出しました 其の 爲に 

徵と& .9、 II 徒 は 一 兵 を も 得ざる に 暴徒 は 民兵 を 得る こと を 許されました、 ボ 

J^l_ ぐん b い r %z けうと むか ぶきす 

J;!^ は 徒が 軍 k に 入る こと.^」 許し、 「モ , モン」 敎 徒に 向って 武器 を 捨てる こと を 要求 

し、 ii, こ」 問 ふ r ずして, の P あへ、 ffkk<$Lt^. 



しか た i- と S たい 3 ざんこく のち ぐ..^ ば ふ v- わ 5.: ぎ j- - ■ >. 

併し 其の 暇 もなかつ たのに、 大佐。 ヒ "チヤ- (殘 酷な りと て 後に 軍法お^ に附 せられた る 

ひ. t ぼうみん ひき .V なへ せいと おそ じつ め 5- じゅう ,ぺ , > ^ou>^^ ノ.' , ,-> -、 

人) は、 暴民 を 率 ゐて備 なき 聖徒 を 製 ふて 實に 名狀す 可から ざる 残酷な 乙と を 致しました, 

れきし い ぶき も ぶ J いかん すうたい ; St んち ばう す.^ か- ,、 あ,^ ひ な ~ んな 

歷 史家 ホ ヰ.^ ト -1 曰く、 「武器 を iS: てる 無 賴漢の 數隊は 全地方に ある 住家に 侵入, し 或は 女 

乙 ビも き 上う ぶ なた そ ばう;! Itt たみ いますぐ K ^Jろ しま ^ / ^ >i 

小 供 を 恐怖 させ、 又は 其の 防澳 なき 民 を 今 直に 逃げ ざ n は 殺して 了 ふと 嚇し ました そこ 

はう ちく あ ひと f =1 か ぼ そ さむ はら ゆつ かせ 乙^ おは あめ や 

で 放逐に 逄 ひし 人 < -はミ スゥリ 河に 添 ふて ある 装き 原 を 十 一 月の 風に 凍え 大雨 にぎれて 

し 上く やど へ〕 ねん なみた むせ し 上く さま i か, ど;^ .^の みな t 

食 もな く もな く、 無念の淚に咽びっ、^^所を徘徊ひ.^した、 家 放の 者 はれね 散々 に 成. 5、 

をつ と つ a たプ つ a や. - つと たブ W た そ 乙 みうしな H-i- うしん 乙 ども ■ レ— , を- ^ 

夫 は 妻 を 尋ね、 妻 は 夫 を 尋ね、 又 其の 子 ケ-见 失 ひたる 兩親は 子供が 旣に 死ん て 居る とも 知 

ら ずに 尋ね 廻り まし. 5^」 と 

ひ ^んな <■ し K ん ほど ひと ぐん お おの すま fel ざいさん 

斯くて 一 千 二 Iz 人 乃至 一 千 五 人 程の 人々 は ジャク ソン 郡に 於け る 己が 注 居 及び 產を 

はと しま 乙い (や 2 たかし 上 し 上 くみんち まった あら しま 

刹ぎ 取られて 了 ひ、 三百 戶 の 家は燒 かれ、 又 十 箇所の 殖民 地 は 全く 荒されて 了 ひました、 

かれら た <• て たい s" ん = ぐん なん 3 も (ん ひと しんせつ たいぐ 5 5 

彼等 は 大抵 ミ スゥリ 河の 對岸 なる 郡に 難 を M, 吋、 其の 邊の 人の 親切なる 待、 f を 受け 

ました。 . 

せいと ,y しう およ ^つし ゆう kJ く もっと けんりょぐ あ しゃ さう じ 上 ねが たいと. i^ls- やう しう ん 

II- 徒 は 其の 州 及び 合 衆 園の S も權カ 有る 主-治者に 救助 を 願 ひまし^ 力 大統愤 は 州の 官 

七 七 



七 八 

W せいぐ. C んし上 ちゅうさい で き かっしう ぐわん りじ /< ぼうと お. V 

吏よりの 請顾 きがない ので 仲裁す る ことが 出來 ません てした、 r:^ 州の 官吏 自身 は 暴徒 を 恐 

a た これ か たん なんら きう じょ あた ぐ む ろんじん ばう. 

れた のか、 又は 之に 加 したの か、 § の 救助 も與へ て^れません てした、 無論 人望 あり、 

なた へんば ひと- そ らんば う おはい — 1= しう めいよ けが おも 

又似颇 のない 人々 は 其の 亂 Gil が大に Z スクリ 州の 名 譽> ^汚した ものて あると 思 ひました け 

どう え 3 う せいと 乙ん Kts- な はお のれ やくそく 

れ ども、 如何と もす る を 得ません てした、 而 して ® 徒 は 今: n 尙 己の 約束され たる シォソ の 

せ 5, たう うけつ ち うば ま /- なんら はう しゃう 之 を 

正當 なる 承 雛ぐべき 地 を ま) はれた 儘、 何等の 報償 を 得ずに おる のです。 

おい しゃつ かう とう さい けつ ゐん さう りつ お 上 そ W ん. r たん 

第 九 章 高等 载决院 の 創立 及、 び tJ ハの 任務、 ス "ハ ー ルデン グ譚 

ゆつ す あ しう し ゝゃ I つ かちお け ばう ぎゃく あ w 

. . 十一月の 末ミ スゥリ 州よりの 使者 は 力 -ト ラン ドに 着きまして,' 彼の地に 於る 暴 逆の 有 

さま くわ はう *t しか このと き ■ おい ぼんじ ュ をん よ ゆん しゃ I 

核 を 詳しく 報知し ました、 併し 此 時には 力 1 ト ランドに 於ても 萬 事 不穏て あって、 預言者 ス 

そし 上う ため はなば しんら う またはち や ぶぐ しん いう じん けいかい ぼうさつ S 

ミ スは 訴訟の 爲 に:^ だ心勞 し、 又 日^ 腹心の 友人が 警戒 をせ ねば 謀殺され はしない かと 云 J 

しんぱい そ ほか さ a*.:;.- 乙ん なん を いし 5 つばり 

ふ 心配 も ありました、 其の 外に 樣々 の 困難が あつたが 其の 一 つ は 撥師ハ ル. 'ト が 偽 の 

ばな し .e つ と 乙ろ えんせ つ お 乙 て 5 かう こ いし ふ ぎ 

詰 を 以て 所々 に演說 し. 5^ 乙と より 起った 抵抗で あらました、 此の 醫師の " ,バ -トは 不義 

ため けうく わ. S はゥ ちく もの け 3 てん たん いで い 

の 爲に敎 <w: よ 放逐され たおで あつ-て、 モ〃 モ ン經 典が ス \ I ルデ ング譚 より 出た と 云 ふ 



^ > こん K ち" 乙 け- TV- わい ヽぐ. Si ひと tt. ^,1 >き たいか t ろん <L つ a リ 

S§ を 起. I: ました 併し 今日て は 此の 敎會 以外の 人で も 博識の 大家 は 其の 論の 偽 なること 

. し,".^ ん, r * もと/ J けうぐ わ. & わい るん つね そ いゥ ばり *• し かったん ん を 

を 承認して 居. ます、 固より 此の 敎會の 會員は 常に 其の 偽 なること, V 知. 5 且斷 言して 居 

つたので ある。 



- U んゅ つか はっかん しんぶん I 一一 ュ 1ョ I ク きじ よ -5 ハ 5- く.^ う J- う 

, 一 千 八 百 八十 五 年 二月 五日 發刊の 新聞紙 「紐 育 ォッァ ザ- ヴァ -」 の 記事に 據れ ばォ, -パ- リン,^ IhS の is 

ちゃう 1 3 なし つけ レ ^ フ f 、は 

PR クヱ ムス、 H チ フェアチャイルド は ライス 氏が スパ I ^ デ > 'グ譚 發 見した と 云 ふ、、 とに 就て 曰くつ, P 

, - , ; .. か R- のがた W- ゆん こう いで いろんと ベ ち ゆうり.!!. く 

ルモ >'ss 典が ソ P モンス < I ルデ ンダの 書きた る 譚 の 原稿より 出た リと iH ふ 11 は 取ろ 可から ず (I 中略) 

にお は、.^,, 'ひ; i こ产 . け, i, て- ん i^, か; ノ • おいたい おい また/ Ja か てん お」 



ライス 氏と 余 及び 他の 人 は 之,. 5- モル モン 經 典と 比較した るが、 大體に 於ても、 又 ,1 力 さ點に 於., て も、 更に &れ 

と はろ リ やうし よち S うきょう つう な じけん ごと ちゅう リ-! v<§ ゑ も ナ ひてん 4.1 ん おんし 

る 5^ なく 兩 ま 3 中 共通す る 名 も 事件 もな きが 如し、 (中 略) 故に 苦し モル モン 經 典の 本源, CJ^ 知る の 



ひつえう たこれ もと ぺ .; I 

必要 あれば 他に. 之.^ 求めざる 可から ず」 云 々と" 



みやう じ やう 浐ん さつ »u 



此の 時 力ら 力-トラ ンド 市に 「宵と 曉 の 明 星」 の 印刷機 を 置く ことに 極めた が:^ 



ゲァ、 カウ ドリ は 其の、 }s となりました 〇 

ねん ゆつ はち きんえ う すな ュ こ ひ けゥ く. Ge. た C- 

1 千ス fs 册四年 二月 十七 日に もう 一 っ緊 W 女なる 乙と をし ました、 即ち 此の 日 敎會の 第 jf 

> f ぅ.^,づ.^.5^-^-?ん :ili;-w5^ 乙 さ.?. けつ るん はん ないさいし を 

の 高等 裁 决院は ^-vl されました、 此の 裁 决院は 十 一 一人の 大祭司から なりたって 居. 5 まして 

ヌか ■ A さ ら-& ひ i-^ .K ん t さ. 5- けつ &ん ぐわん W- ?-ん おち I 

外に 彼等と llfF しき 位の 人々 三人あって 此の 裁 决院を 管理し ます、 今日て は シ オン の 五十 五 

七 九 



八 〇 

ぶ おのく かう とうさ 5" けつ lO ん ぶ T ,やうぐ わい これ ぐわん り ひと 

. のステ I 汛に は芥々 一 つ の 高^ 裁 决院が ある、 ステ f キ部 長 會は之 を^ 堙 する 人て あ 

* かれら はん :?-ハ さいし けうぐ わい ぐわん ちゃうぐ わい せきはん お ぷ くじ 5 う ぺ もの 

ります、 彼等 は 三人の 大祭司で あるが 敎 〈けの i^- M 會に^^:;任を0ふて服從す可き^|?です0 

ぶ V けうく わい ぶにん はん な S- さいし くわ S t れ ,-ゎ ん 《- \ い 

* ステ, -キ 部と iK ふのば 敎 會 の 一部分て す、 三人の 大祭司の 會 tl 之.^^ li- マろ ゥヮ. -ド 3 と IK?t のば ステ 

,? ぶ 5.- ん かんとく iR9 ュ くかんと,.. 乙れ つかさど じ! S ん けうぶ 5- ぶ ぶ.. ビん, , 乙れ 

|キ部の 1 部分てす、 ^^孤4»とニ人の副 監 脊は之.^ 司 る、 巡 教 部と云ふのはゥク|ド.53 の 部 分弋す 之 

じ,? んくゎ 5" けう しら けうく わい くわ i ゐん ちゅうもく 

巡 迥 すろ: 師 は教 の 會 員の: とに 炸 :=: します C -V 

こ いう. I. ゥ 3 5-+- っ&ん し, r- くむ わい to ん ぶ かんとく さ けつ まんどく is しゅんけつお i う 1 

此 の 高等 裁が 院 の 職務 は 會 員が ゥ 7 1 ド 部の 監^の 裁 决て滿 足しない 時に -巡敎 部 の 敎師 

ら こう. そ じ けん とリ あっか ぐ わ 5- &ん かん かつと., ノ な- (ip , • * 1^1 か ,ぷ 

等が-お 訴 する 事件 を 取扱つ て會員 問の IB^ 無くして 和に する 乙と て あ. ます ^し 又 

かう とうさ 5- けつ -<! ん それ じ 、ん くわん かつ * こ さい * がゥ』 a ん がいし; X K ュ, - ; ^-5^^0- h. V 

高等 裁 决院に は 其. B; 身の, ある 此の 裁决 ..i^ は 啓示に 依. て 任せられ F パの^ 立の 目 レ 

て _3 せいと あら ,こ ひ ふわ ふせた め M た けゥぐ わい つかさら、 けうと かん おこ グ ^ 

的 は、 徒 問の 1 爭ゃ 不和 を 防ぐ 爲て あり,^ す、 又 「モグ モン」 敎會の 司 等が 敎徒 問に 起る _di WU 

さう で しゅっぴ えう モし 上う な くわい &ん かつと つ たに は じょ あた 

むべき 而 して 大 なる 出 费を耍 する 訴訟 を 無くして、 會 員の-お 藤 を 正す のに 種 助 ♦ ^ま; へる の リ 

t 3 いけつ a ん ^-H もっと T ぼつ けうく わ i. ^^1^^ 、.- 、 ^r^uc^-^^^^^ > / 

である、 此の 裁 决院の 加へ る 最も^. n 罰は敎 きょり 除名す る ことて あるが、 監哲裁 汄院の 

く は もっと おも ばク くわい るん すな は けうく わい かう つう けん リ しぼら あ ひか-ていし • 

加へ る 最も!; き 罰 は會员 たる こと 即ち 敎, $:! と 交通す る 權利を 姑く の 問 俘^る ことて ある ン 

aft ば あ ひ 》4 つ ,上め. & で き, 

又 場合に 依て 除名す る ことが 出來ま す。 

けうと .^-っとぅ を さ K うは ふ か やう も ひと じ ぶん きさば と 3 

敎 徒の 葛藤 治める 方法 は渐 襟であります、 若し 人が 自分の 氣に 障る こと をした 時に ま 



v と w も ひと めん f わ. i もと かれ くわしつ さと A- ひと も ざん t なかな は 

二 人で 其の 人に 而會を 求めて 彼の 過失 を覺 らしめ る、 其の 人 若し 懺悔 すれば 仲 商 する 

のです、 併し 若し 懺悔し ないならば 證人を 連れて行きます、 其で も尙 未だ 和解せ ずん ば監 レ 

とぐ さいけつ fC ん ばんけ つ もら でき もっと 乙 さ 5 けつ るん はんけつ まん i てく と JO :&ん 乙く また I , 

督 裁决院 に判决 して 貰 ふこと が出來 ます、 尤も 此の 裁決 院の判 决に滿 足せざる 時 は^ 吿又 

V 乙く. &プ ^1 かう とうさい けつ &ん 乙ラも でき 乙&ん はんけつ し 5 うしん ご ざ 

は 8^ れ にても 高等 裁 决院に 控訴す る ことが 出來 ますが、 此の 院の 判决は 終審て 御座い y 

も 乙れ したが そ つみ ひと けうく わい ばう ちく しま 

ます、 若し 之に 從 はねば 其の 罪の ある 人が 敎會 より 放逐され る 乙と になって 了 ひます、 (馬 

太 傅 十八 章 十五 節 至 十七 節)。 

第 十 章 シ オン 陣 (zion-s camp) 

1 千 八 百卅四 年の 奢の 初に ミ スゥリ 州の 聖徒よりの 使者なる パ I y > ど.'、 プラットと 

はう ちぐ - たみ つい >^ ゆん しゃ さう たん ため = 

ライマン、 ゥ ワイ トとは 放逐せられ たる 、ゾ ォ ン の 民に 就て 預言者 ス ミ スと 相談せ 力- 爲にカ 

■ き もで き せいと きう じ 上 かれら けんり ぐ わい ふく はう tti 

l ト ランドに 來 ました、 ム」 は 若し 出來 るなら 聖徒. V 救助し、 彼等の 權利を 恢復す る 方法 を 

くぱた ため 乙 さう たん けっく わな ほいつ べんと. T ぱゥ ひと つか は ま^^-をはリ およ 

企てる 爲 てあらました、 此の 相談の 結果 尙 一遍 束 方へ 人 を 遣す 乙と にな. 5、 又 終に 凡 を 二 

れん あつ 1=^ しう せいと か せい . め りゃうし 上く つ はしゃ あい も - IT- - i, 

百 人 集まって ミス クリ 州の ifi 徒に 加勢す る爲 糧 食 を 積んだ 馬車 を 二十 臺 持って ミス クリ 

A 1 



八 二 

へ 行く ことにな h ました、 而 して 彼等 は 若し 出來 るなら ば 聖徒の 權利を 恢復す る樣に 知事 

くわん S う , それ ■ ち う もど すなば せいと H う 

を勸 誘す る はずて あり した、 其ば か..^ でな くシ オンの 地 を 請け 房す こと、 即ち 聖徒の 放 

ち C ぐん あ きうち ぶた、 う かれら はんむ こ なかま 

逐 された る ジャク ソ ン 郡に 在る 舊地を 再び 得る の は 彼等の 任務て あらました、 此の 仲間 は 

へ i たん ,て し 3 &ん な, ゥ i はんしゃ た. & しゃう みちび 

兵 團に龃 織され、 シ オン 陣と名 けられ、 預言者 ス ミス (大 將〕 に 導かれました。 

つ か ん たんし |=== いで しラ しゅったつ とちゅう た ひと 乙れ 

五月 五日に 百 人の 男子が 力 I ト ランド を 出て ミ スゥリ 州へ 出立した が 途中で 他の 人が 之 

くはゝ そ かず はん ふ こ いづお い せいねんお 上 ちゅうねん ひと,. V な 

に 加った ので 其の 數が 二百 〇 五 人に 被えました、 此の 一 隊は靑 年 及び 中年の 人々 よ. 9 成り 

に と ,はう し けうぐ わい せいす & あと けうく わい せい W- よくみ ひと な おは ちゃうら う そ ラち 

立って 東方の 枝敎會 の精粹 であって、 後で 敎會に 勢力 有る 人と 成った 多くの 長老 も 其の 中 

にあ. e-.^ した、 其の 最 7^ 名高き 者はプ ム、 ヤング リ p、 シ r、 キン パル ゥヰル 

フォルド、 ウッドラフ オルソン、 プラット ジェデ ダナ、 ェム T グラント ジョ〃 ヂ 

ェ. '、ス ,;; 1;^ で 御座います . 

かれら きた なち び t ちから もくてき くゎ;^-ぃ はラち ため しう と-? ひじ やう y わ 

彼等の 來る 乙と 並に 其の 力 や 目的が 過大に 報知され た 爲にミ スゥリ 州の 人々 は 非常に 騒 

? せいと う ためぶ き そな が 5i ん === か tt きし と K ォ » ばん 

いで 來て 聖徒 を 伐つ 爲に 武器. V 備 へま,: た、 該陣 がフヰ シ ング 河の 岸に 止った 或る 晚に烈 

あらし Pi め た ほどか は み, つ ふ てきう せいと ちじ へ 5 

じき 風雨の 爲 に^れない 程 河の 水が 戒ぇ たので 敵から 擊 たれ ませなん. た、 聖徒が 知事に 兵 " 



えんじ 上 ねが ところ ぱ じめ ばう ちく せいと もと ^0 ゆうしよ くわい ふく ため みん ベい めしち ゥ 

の 援助 を 願った 所が、 初に は 放逐され たる 聖徒が 元の 住所 を 恢復す る爲に 民兵 を 召集め る 

やくそく あと かれ 6 ぐ わい ふぐ のち かれら まも ため へいりょく お けん る われ 

7- と を 約束し まし. が 後で は 彼等が 恢復した 後 はもう 彼等 を 守る 爲に 兵力 を 啬く權 威 は 我 

ない 乙れ いひ かへ な S < い そごお もし みん 

に無 ぃと言ひまし.^^、 之 を 言 換れば 何もして 吳れ ない と 云 ふこと です、 其の後 重なる 市民 

は陣を 訪問して、 預言者 ス ミ ス の 目的 は 平和に する M とで あると 云 ふ _こ とが 解..^ まし. i::i、 

かれ き ぼう せいと t ぐん ひと/ si\ もつれ かう わ 

彼ス ミス の 希望 は 聖徒と 其の 郡の 人々 との 縫 をと いて 媾和す る 乙と でありました。 

いちど Z ひと うち とうさう お, J 上 ん しゃ を ゐ ば S お 上 ていかう ひと-: Y きび 

一 度陣の 人の 中に 鬪爭が 起つ.? ^が 預言者 スミ スは 其の 違背 及び 抵抗 をした 人々 を嚴 しく 

しっせき ま たかれら つみ ため ^-ん ぼつ あた 上 ゆん 乙 上 ゆん じっけん 

叱 jw; しました、 又 彼等の 罪の 爲に陣 に 罰が 當 ると 預言し ました、 此の 預言:^ 實 現にな. 9、 

けつ ^ち n レ ラび やう かれら うち おこ ^ん わ, ゥら はんし 

六月 二十 二日に 虎列拉 病が 彼等の 中に 起って 六十 八 人 煩 ひ、 十三 人死にました C 

やん (うめんて きぺっ きんえ う じ やう じゅいた ゆつ はち —— こ がば い 

陣 は 表 面 的 別に 緊耍 なる 乙と を 成就 致しませんで、 六月 二十 五日に ラ タ シ ュ 小川と 云 

ところ か いさん けうと つかさど やぐ れん ぐん をと 乙 なんぱん 

ふ 所て 解散し ました、 「モル モ ン」 敎徒を 司 る 役人と ジ ャクソ ン 郡の 男は談 判 しました、 

tV ぐん f こ せ と おひいた ち めんか い けうと しゃせついた 

をれ は 其の 郡の 男 は 聖徒の 追 出された 地面 を 買 はう と 云 ふたが 「モ \ モ ン」 敎徒 は謝絕 致し 

なせ 乙せ 5r し 上う けいち ラ さば とくしん つみ おも 

した、 何故ならば 此の 聖 なる 承繼地 を賣り 捌く 乙と は瀆 神の 罪て あると 思 ふたからで す- 

し か た か せいと (いわ じ ぶん とな 3 'びと す s> ひと そ 

併し 其の 代に 塗 徒は卒 和に 自分 等の 隣人と なって 住み くないと 云 ふ 人が あるなら、 其の 

<ーー1 



ち か 1 ん ラち -A f e- く. V く しか A- K ん *s いしゃ また これ JJfi わ 

地 la を 買って 一年の 中に 代惯 を拂 ふと 約束し ました、 然るに 其の 反 對者も 亦 之を斷 つて & 

と ばる い • ぐん むか ふ の ばら あたら すみか さが X ダ、, , は て. 

徒は遙 なる クタ ン トン. 郡の 向の 野原に 新しき 住家 を搜 したら 宜 からう と 云 H 乙と を顯 しま 

した 

t . ぐん <■ う を し 上い うぶつ ためなん と』 ■ » . , P 

聖徒 は ジャク ソ ン 郡に 有して 居った 所有物の 爲に 何にも 取らない て 只嚇 され 打ち 拷 

?ん Z- S, あん <1-45 うし 上 もと れんかん はんじゃ ゥ も ぁひ& 

かれた ばかりで ありまし 4^、 郡に 年 安な 住所 を 求めて 三年 間 繁昌し ました 其の 間 

二 ,」 、 うや パま し,; -せ <• めぐみ きた どうじ ほ と ?, うぐ わ. V はくわ.; 7 

力 I ト ラン ドの 事體は 漸く 多くの 种 il}^ なる 惠を來 すと 同時に 殆ん ど敎會 を破壤 せんとせ し 

ん はいざい かい き 上-つぐ わう くわい るん ぅ^^が ) ^ >5 

一千 八 百 三十 七 年の 經濟界 の 恐 慌と會 員の 墮 落と を 促しつ、 ありました 

t 4- リ ノゃ -ー どう う ねん つ か == ぐん かう とうさいけ つるん そ-^』 

预 乾!^,^ ふ 其の 同僚と は 一 千 八 百 三十 四 年 七月 三日に クレ I 郡に 高等 裁决院 を翻耨 

I- , しう t うく わい つかさど ため タ 1, ちゃ, う、 i い は".、 の"、 二 ゆつ 1 

して 又ミ スゥリ 州に て敎會 のこと ケ_ 司 る爲に スープ- キ 部の 部 長 會を選 ひて 後 七月. 儿 

日に 力-トラ ン, ト へ 歸. ました。 

* ステ I キ Si 會の名 は デ, -ヴ イド、 ホヰ ッ トマ I- ル ダ プル H 、ダブル 1、 フ H ルプス ジョン、. P" ヰタ卜 

マ |ル< ありま しれ 



で— 画 • 丄ゃ, う し, とお 上 S ん くわ 5 &ん せんてい もし 

第 十一 章 使徒 及び 七十 人會 員の 選定、 學問、 アブラハム 

& 1、 II しん 、ん 

書 力 ー ト ラン ド 神殿 

:x その おこ ぐ わい めん も,, ^てき ほつ きし 1^ • - 

シ オン 陣は、 其の 起された 外面の 目的, ^達しなかった としても、 i に ^ りた の gl? 

試す ことに は, 成功した と 云 ふこと を 打ち消す 乙 と は出來 ません、 19 し 11 にぎら. -、 i し 

みち .;: やっき し さら ?> ィル、 -じ やう w よと とほ 5 r _ 

き 道 を 病氣ゃ 死に 陽され て ニ千哩 以上 も ある 旅途を 徒!^ する ことが 13^ ますな ら^^て 1^ 

忍の 人で あると いふ こと は、 十分 解ります、 此は 多分 預 K^,;^^ の 一 つの 附 てあった 

であら 5 こと は、 彼が 啓示に 從 つて 行った 緊要なる こと を する ことが ぎ^ます、 1^ ハ 

の 緊要なる こと 、は 十二 だのぎ んだ ことで ある、 «is 體 まに て は g ん sf^^g 

に 居る 者て あらます。 

1 千 AW 三十 五 年 I 一月 十四日に TT^K の 51 め 411 め、 モレノ モン « て 虚んハ の 三 の 

證者は 彼等の 中よ り 十二 M を gi びました、 m して ん STJr は歡 i?TTi まいて、 "ぁ飢 "の, 

使徒と しました、 此は皆 の 一 千 八 百 二十 九お 六け にう 受けた るて H^•^§のES« つて a 居る の 

八 五 



八 六 

てす 

W ん くわい ぐれ 5.-< !ん な .1 1 . , 

十 一 一人 會の會 員の 名 は トマス、 ビ-、 マ ー シュ デ. 'ゲイ ド、 ダブル, ュ、 . 、ノ テン ブリ ガ 

ム、 ヤング ヒ ベ〃、 シ _、 キンバ〃 オルソン、 ハイド ゥ. -リ アム、 ィ I 、 マ ク レリ 

ン、 バ. I リ、 ピ!、 プラット ル,' ク、 ジョン ソン ゥ * リ アム、 ス ミス すル ソン、 ブラ ノト 

1 かれら . ^くいん しょみん のべった 

ジョン、 エフ、 、ポイントン ライマン、 ジョン ソン てあります、 彼等 は! ■ 音 を 諸 民に 宣傳 

ため かぐべ つ ちかし. ひと えら 乙 ほか 乙 て 5- るん くわ. & ぎ む 乙ん はち ごと けうく わ S 

へ る爲の 格別なる 證人 として 選ばれました、 此の 外に 此の 定員 會の 義務 は 今日の 如く 敎會 

つよ せいたい なた くわん ちゃうく わい めい したが はう ぐ わ S じ む L- り あっか すべ やく W ん えら 乙 れら 

を 強め 盛大に し、 又 管 長 會の 命に 從 つて 敎會の 事務 を 取扱 ひ、 凡ての 役人 を 選び 此等を 

せいり ぷ くいん のべった しっかう ため ^ん くれ 5 ひと れんめ 5 

整理す る rJ とで あらまし たが、 福音 を宣傳 へ たり 執行した, 9 する 爲に 七十 人 會の人 を 任命 

で き こ ぐ わい くわん ちゃうく わ ひ h - けん ゐ も r く ねんり おい 

する ことが 出來 ます、 此の 會は管 畏 會と 等しき 權威を 持って 居 ftv、 管理す る ことに 於て 

^ つぎ ぐ わい 

は 其の 次の 會 であ.^ ます。 

はんく わい さう りつ のち やば 3- I おん ぞん め. S しゃ うち ひと えら おい おい ばんめ 

十二 人 會を创 立して から 後に 矢 張シォ ン陣の 存命 者の 中より 人 を 選びて 第 一 と 第二 番目 

^んぐ わい t しき 乙 て い るん くわい そな i わか ごと れん くわ 5 

の 七十 人會を 組織し ました、 「此の 定員 會は 其の 名に 由って 解る 如く 七十 人の 會 てあります、 

てい &んぐ わ 5 ^ん く Si いちやう たい てい &ん くわい ぐ わいち や?. - けうく わい すべて 

一 つの 定員 會には 七 人の 會 長が あり. 5 す、 第 一 の 定員 會の會 長 等 は 敎會の 一 切の 七十 



ばんく わい ぐわん り そうち ゃゥ V, わい - £っ - ごと くわい • 

人會 を管现 する 總 長 會 であ 1 ります」 一 千 九 六 年 四月 まてに 斯 くの 如き 會は 一 百 四十 八 

まど そしき さう も ひつえう は, ノたラ た はん えら はん, 

^粗 織され ました、 而 して 若し 必要が あらば、 「敎 導の 爲め 十四 万 四千 人が 選ばれて 七十 人 

わ. 5-<&ん いた ^ Z て i- &ん くわい -V しき 1 - . 

會々 員と せられる に 至る-^ て」 續 いて 此の 定員 會を龃 織す るので あ 6 ます、 ( 一 千 八 fG 卅五 

ねん £; つか X けんしゃ か 3-R- の うち 

年 五月 二日に 預言者 ジ ヨセフ、 ス ミス の 書物の 內 )o 

卞っ はじめ ごろ し と くわい, ん しゅったつ はじ とうはう しう. ( でんた う ゆ かれら ぎ 

五月の 初 頃 十二使徒 會々 員 は 出立して 始めて 朿 方の 州々 へ傳 道に 行きました、 彼等の 義 

む みち のべった しんれい ほど 乙 し 上 C を せいと せいはう ゆ やう す \ また しう 玄 

務は道 を宣傳 へ、 浸禮を 施し、 諸 所に 居る 聖徒に 西方へ 行く 樣に勸 め、 又 ミス ゥリ 州で 地 

めん か しんでん くわん せい ため か Si 5 

面 を 買; 3、 力. -ト ラン ド 神殿 を 完成す る爲の 金.^ 得る 乙と でありました 

も ころ ぷ っゥ M" ぐ かう お 上 しんがく かう いくつ た けうぐ わい おもお ちゃうら う 上 K ふが ぐ 

其の 頃 普通の 學校 及び 神 學校は 幾 個.^ 立てられて、 敎會の 重立った 長老 は 能く 入學 しま 

ねん ねん わた ふゆ i ご 

した、 一千 八 百 三十 五 年より 三十 六 年に! 旦る 冬に ジョン ユア、 セ クサ ス氏は ギリシャ 語の 

$ つぐ わ もく をし ,L がくせ.?' しんぽ つい い ゆん ぶん かみ をし へ さと 

1 科目 を敎へ t< した、 ジ ヨセフ、 ス ミス は學 生の 進歩に 就て, 言 ふに、 原文に て 神の 敎を悟 

5 やう かみ ぷし ぎ かれら なう ひらたま い 上 ^ん しゃ さいしょ む がく 

.0 得る 樣に 神が 不思議に 彼等の 腦を 啓き 給 ふたと 云 ひました、 預言者 ス ミ スは 最初に 無學 

ひじ やう がくもん す さい とき ご がぐ てつがく また せい *f がく たつ 

であった けれども 非常に 學 問が 好きで、 三十 歲の 時には 語學ゃ 哲學ゃ 又は 政治 學に 達して 

る い つ ぶんめ いならび はったつ べんご かれ そ どうはんしゃ また 

居ました、 ス ミス は 何時も 文明 並に 發達を 辯 護した のです, 彼のみ ならず 其の後 任 者 も 又 

, 八 七 



八 八 

*5 ぐ £<, ゥ. & さど いつ ん やく はん や ば CIV ごと し. 6 1 けうぐ わい ^^^9 

る 一 般の 役人 も 矢 張 其の 如くで あ. 9 ます、 併し 「モ k モ ン」 敎會の 欹は其 は 偽 

けうぐ ゎハ む がぐ し ちゃう ^;ゥぃく はんたい わ- C. くおん ゆん さ r, ながら よ^んしゃ 

で、 「モル. 乇 ン; 一 敎會は 無學を 主張し 敎 育に 反 對 すると 性々 斷言 します、 乍 去 預言者 ス ミ ス 

がぐ もんじ やう けう くんすな ば ひと むがくす ぐう 「ひ: i 一 丄 う U ■ 

の學問 上の 敎訓 即ち 「人 は無學 にて は 救 はれ 得べ からざる ものな り」, 一人 は 智詞を 得る に 

し JS- が すく かみ えいく わう さいち また なん^^ もっと 上 はんもつ ちゑ 乙とば さが f ん.^ 

隨 つて 救 はる」、 一. 神の 榮光は 才智な. 5」 乂 一 汝が 最も 善き 書, V 以て 智慧の 言葉 を搜せ 信 W 

およ べん a- やう ちしきえ い ぼつ じつ *- いと じっち な も きん ^:ん■ 、 -、 

及び 勉强 によ. 9 て 智識 を 得よ」 と 云 ふこと は 末日 聖徒の 實 地に 守る 金言て あります 然れ 

て- St たんびん ところ いつ はリ よ わか , 

ば 敢の斷 言す る 所の 僞 なること は 能く 解. 5 ます Q 

そ ごろ ^^/フト ふんち 上う リ み いた ろしよ ろ しょ S い^しへ ひゾ -fi^ や, 

其の 頃ス ミス は矣 及の 墳塚裡 より 見出された 蘆 書 (蘆 書と 云 ふ 〈は 古 のスカ 文字 を 書 

: 一-: カタ n — ムス パ ピリ , £ 5 J- 

もち 一 くさ 1^ W-Jsi 乙れ か ぶんしょ い ちゆう 「 , ir- z 

くに 用ね たる 草の 一種て 又是で 書いて ある. 1^ 書 を も 云") 中の 「ァ フラ ハム 書 一 を 翻譯し 

のち 3 ち よう tt うし ゆ い し 上 う t れい』 - - - - I . -^^ 

て 後 「賁重 の 寶珠」 (peal.lof GreatlMce) と 云 ふ 書中に 之 を 入れ まし. {^、 一 千 Afm 三十 五 年 

ぐ わつ 上 ゆん しゃ まつ リ ごと つい おのれ 3 たせいと いけんの 

八月に 預言者 ス ミ ス は 政事に 就て 己と 又 S 徒との 意見 を宣 ベました。 

ねん ぐ わつ *^と^?^ はし ; U ざつ ン たい ぐわん じでん 

* 一 千 八 百 三十 五 年 十二月の 千 ii^ の 星と- K ふ雜 誌の 第 十五 卷 にあろ ジ ヨセフ、 ス ミ ス自傳 に 依 わば 一千 八&三 +• 

a ん ぐ わつ £. ブト ,ひ と みいらみ r3 ち ,5; ,、 I "1 

五 年 七月 三 Hr.i マイ カル、 H チ、 チャン デラ. 'は 埃 及 人の 木乃伊. ^見せに 力,' トラ ント 町に 來 ましす 四 人の 

しがい またし やうけ いもん じお i ぐ わぶん か ろ,, -i /- わん , そ, - t il ^ 

死骸が あった、 父 象形文字 及び 竈 文の 書いて あろ 廣 書が 二三 卷 ありました 其の後 力 ランドの 或ろ 聖徒 



そ みい らおよ ろしよ かお さう わたく、 し ヽ 

が 其の 木乃伊 及び 盧 書.^ つて 置き ましれ, 而 して 慰 (ジ ヨセフ、 スミス ) はタ プル ュ 、タブ^ ュ フ H ^ブス 

し 上き t もんじお よ ぐ わぶん はんやく はじ <w き かきもの 

と^^ァ、カゥド"と.^5*記として其の文字及び衋文.^飜譯し始めましれ、 一つの 卷 に は ァ ブラ、, ムの 書;^ が 

n H5V フト かきものとう わか ひじ やう 上ろ 乙 乙 まきもの ひら せん さぐ 

あり、 他の 一 つに は 埃 及の ヨセフの 書 物 等が ある ことが 解って 非常に 悅 びました、 此の 卷 物.^ 開いて 穿鑿 すれ 

いよ *( ^ぐわん せん V つめい で き 

ば 愈 々 《元 全 なろ 説明が 出来ます」 と 

n I Hz ひと る すち^ ゥ しんでん た はたらき ほと や そ ひと かへ 

シ オン 陣の \ の 留守中 力, ト ランド 神殿 を 建てる 僳 は殆ん ど. ん だが 其の 人が 歸 つて 

た 3 た ふんばつ 乙 人き *^ つ そ K たらき と なせ せいと しんでん で 

から 直ちに 又 奮 發と根 氣とを 以て 其の 働 に 取り か 、 りました、 何故ならば 聖徒 は 神殿が 出 

8 あ S- おのれら やく. V く せ i- しんじゃう めぐみ う a ちか a 

來 上って から 己 等に 約束され たる 精神 上の 惠福を 受ける こと を 待 兼ねて 居ました からです、 

上 t んし そ し ごと つかさど じんばつ あ ちゃうら ゥら ちから あ しんでん せいこう 5 も 

預言者 スミ スは 其の 仕事 掌 り" 人 有る 長老 等 も 力 を 協 はせ て祌 殿の 成功 ケ- 急ぎ まし 

JD- うや ねん ぐ わつ はち しんでん けんでん ないぶ と できあが 

た、 漸く 一 千 八 百 三十 六 年 三月 二十 七日に 神殿 は献 殿され ましたが、 內部 は 悉 く 出來上 

を 乙 けんち C ねんかん か a ゑん 乙れ きんせい 

つて 居らなかった、 此の 建築に 三年 問と 金が 七 万 弗 (十四 万圓) か、 6 ました、 此は 近世 

かみ めいれい した £ た しんでん おい ん S ち せいと しんでん ふしん おも. もく 

に 神の 命令に 從 つて 建てた 神殿の 第 一 であります、 今日の 聖徒が 神殿 を 普請す る m なる 目 

て ta すなば し ゝゃ かば しんれい う ぎ しきお 上 そ たし ヽゃ. t- め ぎしき. V たう じ 

的の 一 つ は 即ち 死者に 代って 浸禮を 受ける 儀式 及び 其の 他 死者の 爲に する 儀式 は 其の 當時 

いま せ S と けいし それ ゆ ゑ しんでん しん.;; いさう な 

に 未だ 聖徒に 啓示され なかった のて あります、 其 故に 力 - トラ ンド 神殿に は 浸 禮糟が 無 か 

八 九 



九 〇 

さラ そ た 5 じ お しんでん おも もくてき そ 乙 けうぐ わ 5 ほい ぎ しき しっかう せい しんじゃう 

た、 而 して 其の 當 時に 於け る 神殿の 1^- なる 目的 は 其 所て 敎會の 外の 儀式 を 執行し、 精神 上 

めぐみ う また しんけん いう ひと/ c\ しんが ぐ まな レナれ い また さう おん ため 

の 惠福を 受け、 又 神權を 有する 人々 が 神學, 學 び集會 し、 又 相談 せんが 爲て ありました 

しんでん かみ さ \- ひ いつばん ひと よろこ そ ご おは ゐ おい な ぼろし あら は マ ラ 

神殿 を 神に 献 げた 日に 一 般の 人が 喜びました、 其の後 多くの 偉大なる 異象が 現れて 馬 拉 

某 書 四 章に 書いて ある 預言が 實 現にな. > ました。 

&s> しゃう I ぐん せいと しゅつぼつ お 

第 ±ー 章 クレ ー 郡より 聖徒の 出發、 力 I ト ランドに 於け 

せ と たらく けい ざ かい き 上う ぐ わう えい r-< でん う 

る 聖徒の 墮落、 經擠界 の 恐愤、 英國傳 道 

さて W た ひるが — き せいと W おひいた HyMnMMy 

偖 又 翻へ てミ スクリ のこと を 記 すれば、 聖徒 は ジャク ソ ン 郡より 追 出されてから ク レ 1 

ぐん ひと/ いくら X むか ねんかんつ a- まや しゅっせい けつぐ わ そ の tt& ゆたか さか 

郡の 人々 に 幾 等 か 能く 迎 へられて 三年 間 儉 かにして 出精した 結果、 其の 原野が 豊に榮 え 

き とうはう ぃ^!-はラみん ため かれら かず おはい ふ そ 札 た か W す と 乙ろ おも 

て來、 ^方からの 移住 民の 爲に 彼等の 數は 大に贿 えました、 其ても 只假に 住む 所 だと 思つ 

を なせ 5 ばゥ ちく ち くわい ふぐ の; て 

て 居. ました、 何故と 云 ふに 放逐され た 地の 恢復 を 望みました からてあります 

せいと お あやか かっきん べん た ばん t うか S おのれ はんむ おもん 上 乙れ はた 

5^ 徒 は 穩 に且 勤勉して 他人の ことに 容啄 せず 自己の 任務 を 重 じて 能く 之を果 したので 

ねん なつ ぐん を さしつ かへ そ とき ぼク 

あ.^ ます、 一 千 八 百 三十 六 年の 夏まで はク レ - 郡に 居っても 差 支がなかった が, 其の 時に 暴 



どう ま J^tt じ ま まへ らんぼう た i-- じ や ■ :i ぐん ひと とた ゥ ぐ ぁ&, V ひ 

動が 復始 りました、 前の 亂暴は 唯 一 時 止んだ ばかりで, ジ ャクソ ン 郡の 人 は 徒黨を 龃んで (矛 

さわぎ お, J ため かば わた き せいと けいべつ そ しょいう ぶ.. £ バ たつ な 、 (-ぃ ^ 

や 騒 を 起す 爲に河 を. IS つて 來て 聖徒 を輕 蔑し 其の 所 物 を 掠奪し ました ク レ ,郡の 平和 

ひと-^ また まへ やう されぎ しんぱい し 上 ぐ わい? "ふ せいと す と/ J ろ た もと 

なる 人々 は復 前の 樣な 騒が ある だら うと 心配して 一 緖に會 合して 聖徒に 住む 所 を 他に 求め 

る 11 に M める 乙と に决 めて、 先づ 聖徒が 入って 來た 時の 有樣を 彼等に 告げて 其から 垂 徒に 

そうする I ぶに 勸 めました、 聖徒に1?^する差支もぁったが大抵些細な乙とでぁ.5ました、 

と 乙と ぱ しふくわん ふう マく しう ひと ち を また ひ ど れいし :5 もし ど れいばいし ろんしゃ 

徒の 言葉 や 習慣 や 風俗 はミ スクリ 州の 人と 違って 居り、 又 非奴識 主 若く は 奴 隸廢止 論者 

ひ * ん しう せいふ かれら i ろ t さう じんみん <^〈 さぷ? sl;-^ 

として 非難され ました、 州政府 も 彼等 を 喜びませんでした、 而 して 人 はは 前の 騒があった 

とき せハ とな や . . . -. う ち じ 3 たかれら ^^i ^ て 

時に 聖徒 を惱 ました ボッ グスを ミス ゥ" 州の 知事と しま- -た、 又 彼等の 最も 激しき 慰なる 

. f うし やう . sis; ん ちゃう しう し みん おいた, • I:-, い 

ル.' カス は小將 となり、 ゥヰル ソン は 旅^ 長と な. ました, ミス ゥリ 州の 市民の 大多數 は 

Z やく はん く けうと せいけん t うけん しゅうけ うけん 3-J- う ぃ,„^ -さ > - 

此の 役人と 粗んで 「モ ^ モ ン」 敎 徒の 政 權ゃ公 權ゃ宗 敎權を 享有せ しめない ことに 定め、 一 

し 上 か 札ら 乙う みん はゥ がい ^^はぉ 

緒に なって 彼等の 公民た る 乙と を 妨害 せんと 企てました ◦ 

.p- ぅ广 じ, M やう もと せいと 上 やうす かんが 5- うじ やう ためい つ と は ■ ぐな こ, ぅスん 

斯云ふ 事情の 下に も 聖徒 は 能く 形勢 を 者へ て 友情の 爲に 何時もの 通. 9 ク レ 115 の 公 尺と 

、いわ 00 さう はじめ たす ぐ ぐん ひ., --i^ し— やい、 へう た 

平和 を 保つ とに 1^ めました、 而 して 始に 助けて 吳 れたク レ- 郡の 人々 に;? t 意 を 表する 爲 

九 1 



九 二 

おはい ざいさん な t, ノ ぐん 3 しま けっしんいた 

め大 なる 財 產を拋 つて ク レ ,郡 を 去って 了 ふこと に决心 致しました。 

ft う C ん ぐ わつ ぐん とうほく MMMH^H^^/^ こ がば ち ばう あたら 

而 して 一 千 八 百 三十 六 年 九月に ク レ - 郡の 東北の レ I 郡 ショ- ル 小川 地方なる 新しき 住 

しょ し!^ つたつ そ たづ じ こ ところ の はら どう:;; ん ぐ わつ . し,?. C 

所へ 出立し ました、 其の 當時 此の所 は 野原て ありました、 同年の 十二月に ミス ゥリ 州會は 

せいと ねが ひ き とど 乙 ち ぱぅぺ つ ぐん せ-? と たくさん そろ 

聖徒の 願 を 聞き 屈け て 此の 地方 を 別にして カル ドウ H ル郡 としました、 聖徒 は澤 山-こ, 揃つ 

Z ところ うつ た 5- てい ^l- ぬし ねん ねん ふゆ . _ 

て 此の所へ 移って 大抵 地主と なって、 一 千 八 百 三十 六 年より 三十 七 年に かけての 冬に ファ 

===== いしつぐ のち いた ぐんやくしょ そこ た やう はふ リウ 

1、ク>1 スト と 云 ふ 市 を 造. =: ました、 後に まって 郡役所が 其 所に 立つ 樣 にな. ました、 法律 

上ソ せんきょ し ぐん やぐ はん たい 5" い— けうと か おひ はら 

に 依て 選擧 された る 市と 郡の 役人 は大槪 「モ , モ ン」 敎徒 でありました、 期くて 追拂 はれ^ 

ひと/ «\ 乙 あた it ち ばう しばら あ ひたお^ やか す そ ばんす, i.- ; ^ちま ふ となり ■ 

る A 々は 此の 新しき 地方に 姑く の 間: 牛穩に 住んだ が 其の 人數は 忽ち 难 えて 隣の デヴィ ェ ス 

ぐんお よ を ft き りうち で き 

郡 及び 其の 他に 寄 地が出 來 ました。 

たと. T はう あ けうく わ S ^^と き さ ごと I しんでんな 广 おい も たいしんせい まぽ 

又 束 方に 在る 敎^ の 事 を 記 すれば 左の 如し、 力-トラ ンド 神殿 內に 於て 偉大 神聖なる 異 

ろし う Q ち I すぺ f; ぶ じ やうけ いき な ひと はんえい を 

象 を 受けました 後 力-トラ ン ドては凡ての業が上景氣に成ったので人,^は繁榮して居ると 

おも ひじ やう ほこ しゅうはう たい た せう れいたん をれ くわい ゐん つかさら うち しんかう しな 

思 ひ、 非常に 誇って 宗 敎に對 しても 多少 冷淡に な * ました、 其で 會 員と 司 等の 中に 信仰 を 失 

もの 上 ほど とうき a ゥ くわい みんかん おこ おは もの 5 ろく はう はュ ざいさん ふ々 

ふた 者 も餘稃 ありました、 投機熱が 會員 間に 起って 多くの 者 は 色々 の 方法て 財產を さう 



5 ラ たう-じ ぶ どうさん とっき じ ゆ ふ がっし ゅラ こぐち ゅラ はや r げゥ くわ i- 

と圖.*^ました、 而 して 當時は 不動 產の 投機 事業が 合衆國 中に 流行って 居りました から 敎會 

ひと やう そ 4; つく わ じ やす ゐ あらさ S" し ム わ ぶんれつ けうく わい や つ 

の 人々 もす る樣 になり ました、 其の 結果 は 邪推、 疵搜、 不和、 分裂、 敎 Z ぼを罷 める ことが 續 

おこ つ ひ ぞい せいじゃう 乙ん なん おち S . せいと り え .》 まへ 

いて 起って 終に は 財政 上の 闲 難に 陷.. > ま I た、 聖徒の 利益 を 思って 前に ジ ヨセフ、 ス ミス 

^ Is さんくみ あ ひぎん かう そ したやくばん とうき さ ぎ わるお くみ おめ はさん そ 

が 立てた 力 1 ト ランド 保產 組合 銀行 も 其の 下役 人の 投機 や; Jf^ 僞ゃ 奸計の 爲 に破產 し、 其の 

えいき やう せんたい お 上 おは ひと /5;\ まった おちぶ しま I 

影響 は 全體に 及んで 多くの 人々 が 全く 零落れ て 了 ひました 

Z とき 15 と., 5:\ けうく ゎぃ さ ふへいい お けうと 上 ゆん しゃ . さ 

此の 時から 人, I- が 敎會を 去. かけました のです、 不- キを懷 ける 敎徒 は預 一一:: 者ス ミスが 避 

*c つと にん: S 上く ^\ X ゆん しゃ そ うこぐ き ため まね れいらく あたか かれ 

けんと も f-l 力した にえ 拘 はらず 預 一一::: 者の 其の 忠ル 2 を聽 かない 爲に 招いた 零落 を 恰も 彼が 

;る, J さハ なん ごと おも ばゅ i ^ん しゃ て きたい し とぐ わい お 上 ぶん 

起した 災難 かの 如くに 思って 烈しく 預ー n 者ス ミスに 敬對 しました、 使徒 <n 凡 を 二分の 一 、 

くわん ちゃ ラ くわ Sr W んぉ上 おもた ^やう IT う ぷ ちゅう たらく よ ゆん しゃ 

01 長 食の 一 人及び多くの^&:立った畏老は不忠にもス ミ スを 「隨落し^る預ーマ:^|?」 であると 

^ん ゆん じ ぶんら けうぐ わい や い それ けうく わい つぶ な 

斷ー H し、 自分等は敎會を罷めたと云ひまし^^、 其で 敎會が 潰れさう に 成 6 ました。 

ねん ぐ わつ S ち 乙 ^£ほ10ゎぎ さいち 5 う てん I ゆ けうく わい ため な は 

一 千 八 百 三十 七 年 六月 一 日 此の 大騷の 最中に 天主 はス ミ ス に 敎會の 爲に何 かしなければ 

5 をし たま 乙れ せんけう し ぐ わい 乙く 5 な た とク 

ならぬ と 云 ふ こ と を 敎へ給 ひました、 此 まで 宣敎師 が 外國に 行った 乙と は 無かった、 唯^^ 

はつ しう h 1 8 がっし ゆう 乙く せ 5 はう あ せまち はう でんおう のみ これ えいこく 

.i^; の 州, I- や 力 ナダゃ <:! 衆國の 西方の 或る 狭き 地方に 傳 道した 而已 てあつた が此 から 英國 

九 三 



九 四 

でん;^.-ぅ ひら き さう しと ttu 乙 でんおう ひら 

傳道を 開/、 ことに 極めました、 而 して 使徒 ヒ ベ〃、 シ 1、 キン、 パル は 初めて 此の 傅 道ケ- 開く 

ため えら ど ゥ やく S うじん そ て つな ひはん な そご 

爲に 選ば わ、 同役の 友人の オルソン、 "イド は 其の 手傳人 A 成りました、 其の後 ゥ ヰラ- 

また *<- ら ねん ぐ わっ^ち これら ひと/::.^ し 上 ニュ— ョ, 'ク 

ド、 リツ チヤ, ドス も 又 選ばれ、 一 千 八 百 卅七年 七月 j 日に 此 等の 人 * は 一 緒に 紐 育 から 

しゅつばん えいこく ふけう ゆ かれら た^ぷく いん はんそく をし やう いひつ § ゑ 

出帆して 英國に 布敎に 行き まし i^、 彼等 は 唯 福音の 原則の みを敎 へる 様に 一一 一一 E 付けられた 故、 

それ をし よ けつぐ わ え ねん (うち およ れん けうと で き 

夫ば か 敎 へて 善き 結果 を 得ました、 一 ケ年經 ぬ 中に 凡そ 二 千 人の 敎 徒が 出 來て、 二十 六 

は ど し け.,.' くわい さう りつ ひと ばう ちゃう きお とき w ち ひ. V 乙 >y かいしん 

^の 枝敎 會を创 立. L ました、 人が どし, i\ と 傍 聽に來 り、 時として は 町の 人擧 ゥ て 改心した 

Z でん ^ラ ひら けっく わい れきし ゃゥ た いじ はん すな K 

乙と も ありました、 此め 道 を 開いた 乙と は敎 會の歷 史上の 大事 件の 一 つて ある、 即ち 乙 

しゃ うら 5 え いこ く お 上 はん けうく わ はい アメリカ ぃ^:^;ラ いた もと ゐ 

れ は將來 に英國 にて 凡そ 七 萬 五 千. < が 敎會に 入って 亞- 米 利 加へ 移住す る こ とに 至る 基て あ 

C しとら き zO く .0 ねん ぐ わつ ばち 1 ーュ —ョ, ク たうち やく も 

.^ました、 此の 使徒 等は歸 國の途 一 千 八百^ 八 年 五月 十二 日に 紐 育 に 到着し まして、 せ、 

ふ-乙ろ ^いしけ うく わい あし 乙れ そ き やうお い 

の 所に 一 大枝 敎會の 在る 乙と, V 知りました、 此は パ.' リ、。 匕.', プラットと 其の 兄弟 ォ 凡 ソ 

はたらき X でき も 3 へ とし けいかい 乙 ゑ 

ン 、プラットの 働に 依. て出來 たのです、 バ, リ、 ビ _ 、ブラ ッ トは 其の 前の 年に 「警戒の 聲」 

^ . い 5- うめ S じ ほん しゅつばん 

つ こ ice CI vvarmug) と 云 ふ 有名な 自著の 本 を 出版し ました o 

うみ むか え 5- 乙く けうぐ わい <t かん な を - しへ す 

海の 向の 英國 にて は 敎會が 盛に 成って 居りました けれども、 力-トラ ンドて は 敎を棄 て 



n<« - ^ みおれ ぼうどう い ゃク けうぐ わい た ふ か& r 

る こと、 迫害と 亂と 暴動と 云 ふ樣な 敎會を 倒さん とする 力が 働いて 居. o ました。 

I ノぅ けうく わい ふ (い まった な しけう ぐ わい やく はん ひと/. しん 上う うしな 

ミ スゥリ 州の 敎會 にも 不平が 全く 無いで はなかった、 枝 敎會の 役人が 人々 の 信用 を 失 ひ 

^ゑ よ ゆん しゃ い, V I k ち ゆ ひつえう かれ 

ました、 故、 預言者 スミ スは 急いて ファ- 、ゥ H ス ト 町に 行く 必要が あった ので 彼 は 一 千 八 

ねん ぐ わつ S ち そこつ . ■ I たいぐ わい もよ ほ せいと . なか 

百 三十 七が 十 一 月 一 日に 其處に 着きました、 ス ミ スは ミ スクリ で 大會を 催して 聖徒の 仲 を 

な ほ ぐ わつ か ごろ か ( そのる すち.^ う あ おも^ 

調和して から 十二月 十日 頃 力-トラ ンド へ 歸 りました、 其 留守中 力 I トラ ンドの 或る 重立 

it や うら う かれ たュ も か は y ^ん はか そ うち 

つた 長老が 彼 を 倒して 其の 代に デ I ゲ イド、 ホヰッ トマ- 〃を 任じ やうと 謀. 5、 其の 中に 

は 五六 人の 使徒 又は モ ル モン 經の 或る 見 證者も あ 6 ました、 若し ブリガム、 ャ ングが 忠義 

かれら わる ぐみ せいこう し > 上 ゆん しゃ べんご 

でなかったならば 彼等の 惡 企が 成功した かも 知れません がャ ング 氏が 預言者 スミ スを辯 護 

しラ てき わる も. ✓ てき 乙と.,.:; \ あぼ そ はか W ご. む かう , 

して 讎 敵の 惡さ 目的 を 悉 く發 S て 其の 謀 を 無効に しました。 

ねん あき nnnHMnyy - き のち 

一 千 八 百 三十 七 年の 秋に カナ ダ より 力 —ト ラン ドに來 ました ジョン、 テ イラ I も (後 

けうく わい しとな つい ぼんめ たいくわん ちゃう な そ たう じ 3 たい つ およ 

に 敎會の 使徒- V. 成り、 尋て 三番 目 S 大 管 長と 成. ました、) 九: の 當時又 何時も ス ミス 及び 

けうぐ わい つじつ つく しか はん ハち らう や たんぐ わん あられ ぷ 1 に" か 上 :&ん しゃ 

敎 會に忠 實を盡 しました、 而 して、 七 年後 力 1 セ -ジ 牢屋で 彈 丸が 霰と 降る 中 を 預言者 ス 

し 上 を ねん のちざん こぐ つ ゐはク しんり ため せいめい す じゅんけ うし や な 

ミ スと 一 所に 居ら t< したし 五十 年後 殘 酷に 追放され、 眞 斑の 爲に 生命 を 捨て、 殉敎 者と 成 

九 五 



九 六 

つたので あります o 

M;„! せんしゃ ごと ちゅうぎ くんし のち = じュ . -, > 

ゥヰ〃 フォルド、 クく トラ フも又 前^の 如く 忠義な 君子で 後に イスラ ュ ル人 (聖徒) の 敬 

あい おいく わん やう な 

愛せし 大管 長 と 成. ました〕 

いん また やう . かみ i ゆん しゃ し ちゃう 

ブリガム、 ヤン グは 陰と なく 又 陽と なく ス ミ スが祌 の預ー U 者で あると いふ 乙と を 主張し 

ぐ わつ はち ぼうと い a ほひ w-r- れつ た - . i 卜 二,^, 

て、 十二月 二十 二日に は 暴徒の 勢 の 猛烈で ある 爲めカ I ト ランドより 行かな けれ は 成 

やう な とし あらた tt いけう しゃ らん はう いぜん ば ゆ , 

ら ない 樣に 成りました、 年 は 改まつ.?^ けれども 背敎 者の 亂暴は 依然と し て 1^ しいの て 

あん さし ちね な ねん ぐ *- ク 

ス ミ スは 安全な 地に 行かなければ ならぬ ことに 成った のです、 一 千 八 百 三十 八 年 一 月 十二 

にち 《^ ん かれ 一 MMMnyHMMMnMny^^Mnu い そ 上ぐ につ かれら か な 5- ^ひソ 

日の 晚に 彼と シド 二、 リグ トン は 力, -ト ラン トを 出で 其の 翌日に は 彼等の 家內も 追及いて 

どうかう かれら ぶ きも てき マイルい じ やう は どお • - つ, ひ - -ぐ わ"^ I- か - MMy^ 

同行し ました、 彼等 は 武器 を 持てる 敬に 二百 哩以 上程 追 はれまし.?^ が 終に 三月 十四日に ファ 

MMP^ynyMMMMn たぅ*^ゃぐぃた 

1、 ゥュ ストに 到着 致し まし {::ic 



I ス, クリ州 返 去より 預言者 ス I ス の夠敎 まて 

(自 一千 八 百 三. I- 八 年 至 一千 八 百 四十 四 年) 

たい しやう r メ u- 力 ケ やくさつ ちじ ばつ せい 

第一 意 ァ ダ ム の 住 地なる 亞米利 加、 虐殺、 知事の 發 ぜし聖 

とじんめ つめい れ. S ■ し う はう ちく MHMMMnnnMNmHMMH し 

徒盡滅 命令、 ミス ゥリ 州よりの 放逐、 ナ I ヴゥ市 

はん せつ き せ 3 i f: ん およ そ じつ ゆん えい こ く お 

の 建設、 奇蹟、 預言 及び 其の 實 現, 英國に 於け る 

. でん たう ^ぃ とう W やう せいぐ わん 

傳道、 大統領への 請願、 , 

よ ゆ, ん しゃ たうそう 3 しう を せいと せんたい そ ち ^^^5 . 

預言者 ス ミ スが 逃走した と 云 ふこと はォ " ィォ 州に お-つた if: 徒 全體が 其の 地. -り 移住す 

しるし — まち を おそ ^ん せいと そ 0^4 せいはう うつ 

る 兆で あり 1i< して 力-トラ ン ド 町に 居った 凡そ 五 百 人の 聖徒 は 其の後 間もなく 西方:: i 移り 



九 八 

そ と 3- をり せい キ ん いじ やう e たすう . 一 、ん At いざい 

其の 時ミ スゥリ に 居ました 聖徒 は 一 萬 二 千 人 以上で 其の 多數は カル ドウ H ル 郡に 滯 在し 

を ぐんお 上 — ぐん さかん し 上 くみんち ぐん 

て 居. 5 ましたが、 デ ゲイ H ス郡 及び 力。 〃郡に も 盛なる 戒民 地が あ. 5 ました、 デヴ イエ ス郡 

おい もっと A ほ しょくみんち ==|== い <1 ゆう せいと 舊上 りう I 

に 於て は 取 も 大きな ti 民 地 は 力 -ト ラン ド より 移住した 聖徒の 居留す るァダ ム、 オン ダイ、 

==, のち 乙 \ == ぶ た ■ ぐん 35. 

ァ マ ンて あ. まして、 後 此處に 一 つの シ オンの ス テ-キ 部が 立てられました、 力 P ル 郡の 最 

おい しょくみんち まち 

大 なる 民 地はデ クネッ ト町 であらました 

. ■ U たうち やく せいと うち ふわ し ぷ (い もの けうぐ わい 

ス ミ スがフ ァ-、 ゥ, 丄 ストに 到着して 聖徒の 中に 不和が あると 知って 不平 を 懷く者 を敎會 

ゆ!^ ば, ft んこ. しょち と ===== もよ K たいく ゎ> お ほ おも iS; 

より 除く 爲め, 乎た る 處置を 取りました、 フ 71、 ゥ 「-ー ストて 催された る 大會て 多くの, J5J 立 

ひと けう < わい ばう ちく そ うち I 

つた 人 は敎會 より 放逐せられ、 其の 中には オリ ゲァ、 カク ド. -ゾ デ ー 、 ヴ イド、 ホヰッ トマ—〃 

お 上 き やうな いら かく のちせ いと 3 おわ がふ H んじ やう ぐんか ハ てき 

及 ひジョ ン ソン 兄弟 等が ありました、 斯 して 後 聖徒 は復 和合し 繁 n:I しまして 五六の 訓誡 的 

— し あ 1 & うち . しんでん けんちく ぐわん け 5- し 

の 啓示 を與 へられました、 其の 中に ファ- 、ゥ T ストで 神殿 を 建築す る ことに 關 する 啓示が 

M たし "と し 上ぐ む かれら たぃ^-ぃ わた でんお 5 くわん け i, し また 

あ. 9、 又 使徒の 職務 や 彼等が 大海 を 渡つ て 傅 道す る ことに 關 する 啓示が ありました、 又 

ヌ 7 tt-^ い おきて あた つ あひ^ 上 はんしゃ ち 上 じゅつ し ごと じゅうじ 

十 1=^ の 一法と 云 ふ 淀 法が 與 へられました、 二三 ヶ月の Si 預言者 ス ミス は 著述の 仕事に 從事 

せいと とも お 巧 やかす かれら けう じゅ K ぐたいお 上 せいしんてき かう ふく え 乙/ろ 乙ら 

して 聖徒と 共に 穩 に 住み、 彼等に 敎授 して 肉體 及び 精神的の 幸福 を 得させん とて 心 を 凝し 



した〕 

此の頃 ス ミ スは 天主が アダムの 亞米利 加に 住ん たと 云 ふこと や の が ^ の 1^ 

ャクソ ン邯に 在った と 云 ふ こと を 己に 示し 給 ふたと 言ひ弘 めました。 

- . . -, r ぐ わつ か が, っ丄 S つ 乙 く たんじ やうび すな H V くりつ さ 5 しんぐ じつ —— 1 1 ; ii,,a ひ 

一 千 八, 三 T- 八 年 七月 g: 日 合 衆國の 誕生日 即ち 獨立 祭の 祝 口 ソァ _、 ゥ H ストて お 一:^ か あ 

せいと 5, く はス ; J れ ぁプか その ひ し-,? でん ど い 一す *J 

.0 ました、 聖徒 は 幾千 人と なく 此に與 りました、 其 日に 神殿の 土臺の 石を据 ゑました が、 此 

の 神殿 は出來 上らない Ik 叩の 物て あ. - ました、 syf!: は" 口 gt-si の? i の であ.. ま 

した、 一 兩ロ後 雷が ファに ゥ" ストに 建て、 あった 獨立 柱に 落ちて 其 を 粉々 に碎 がの はず 

^《つ ひ,... -f くみ あめ よ かう せいと ひど ぷ : ごと . ^れら * 一 、ん * 一 

に 翻!^ f:: る 人々? 佾の 雨が 不幸なる,! 一: 徒に 酷く 降,, か,, らんと する 如く 彼等 ほ 身の 自^が 

K ぐお つ せんて-... - 

き- 楚 される 前兆で ありました。 . 

つ ばんら J: つし >ぅ 乙く どぐ =- つ せん-. I, うきねん ハた と 乙ろ まちごと も o 

*li 立 柱とば 合 衆 國の獨 立 m 爭 f ふ として- 到ろ 所、 町 每:. :1»i て、 もろ 物の てす 

ユ〕; ひ 1; 、==II^J, ん ひと ごと け 5 と せいけん と fet 

此 IH:^;, 人 は.、 ンャク ソ ン 郡の 人の 如くに r モル モ ン」 敎 徒が 政權を 取る 乙と を 恐れました、 

「 - Z け v^i ゾ-- おのれ せいけんすな 《 おのれ この ひと ,5 ン (う "! -H ゆ ぜん, SI 上, かん あ し A ら やう 

「モレノ モ ン」 敎徒は 己の 政權 即ち 己の 好む 人に 投票す る 所謂る 1$ まノか ると 主ノ g しました 

力 其 の 土地 の 人々 は 1^. 徒が 此の 權を用 ゐる乙 と を 許 さなかった- 此 衝突 の 結 架 は lilli 徒 全 體 

九九 



1 00 

ムゅ さ ゆう ゆん ご つぐ ぱぅ irl やく せったう っリく なんく "ち しう ばつち く 

が冬の最中に言語に^|1されぬ暴逆ゃ窃盜ゃ殺戮ゃ難苦の中に ミ スゥリ 州よ, 放逐され る こ 

とで あ-り- ^した 

- し.?. ば しう ひと..; y »,-^te? ムそ いたう aAn- つ ? -.S ん がっし S うこく けんぼ, AVJ- しん M たぜい ぶ/, ^^/^ 

* バ ン クロフト 氏 曰く 「ミス ゥリ 州の 人々 ば 正 當ても 不正 當ても 法律の 如何、 合 衆國の 憲法の 精 神 又は 成文の 如何 

,-1 ど こ ^ せ 5-i ぜ ^,なじゃぅ?,ぅせぃ けん ,リ けつ 

*^問ばず, 何 所 まて 行っても、 聖徒 に 政治 上 優勢の 權. 持たせな いと 決しました o」 

^ ?-ん .:.- ん れん ぐ わつ か ぐん— まち ば じ これ 

此の W 難 は I 千 八 百 三十 八^ 八月 六日に デ ゲイ エス 郡, カラ テン 町で 始まりました、 之 は 

しう せいふ やぐ はん e んき上 fci けうと はん とうへ う いた 

州政府の 役人 を選擧 する お-のこと であって、 <モ y モン」 敎徒 十二 人が 投票 せんと 致し まし 

乙れ たい しう くわい こ-つな しゃ . ぐ みん せんどう 

た、 すると 之に 對 して 州會の 候補者 ゥ. * リ アム、 ビ-、 ペン イス トンが 愚民 を 煽動した ので、 

乙 ため おは さわぎ おこ 乙 せいと とう (う かれら うち 乙う 卞 きし々 ゥち け 

此が爲 に 大骚が 起う ました、 此の 聖徒 は投 票,^- しました が 彼等の 中に も攻擊 者の 中に も 負 

傷 をした 者が あ, 9 ました 

こ でき ごと しんぜ ゥ う J^- い ぱぅ こく こ こうじつ けう はんたいし々 5 つばん 

此の 出 來事は 針 小掠大 に報吿 せられ、 之. V 一口 實 として 「モル モン」 敎 の反對 者が 一般に 

ぐん/? お 乙 けゥと しク な otj らぺ ^ ,,2 どし >J う^ん,.. いんさつ 

郡々 に 起. 9 まして、 「モル モン」 敎徒を 州より 追拂ふ 可し と 云 ふ嚇を 公然と 言ゥ たり、 印刷 

S じんばつ し みん けうく;: い つ.^ さら へいわ チ いやくし 上 つぐ し 上め い 乙 

した., > しました、 多くの 人望 ある 市民が 敎會の 司 等と 平和の 契約書 を 作って 署名した が此 

は しゅて き ^ぅる > ご さう どつ しプ こう 乃 う M = しう ぐ みん せい-一 ぜん 3 う 

の 保守的の 行爲も 其の 骚励を 鎮める 功 能がなかった、 ミ スゥリ 州の 愚民 は llii 徒と 戰爭 する 



の! V すう にん ぐん . ぐん .* 一;, - . » ^の つ 

M と を 望み、 數百人 デゲ" H ス 郡と カル ドウ H < 郡に然 まり、 或る 者 は 顔に ぺ ンキ を^て 

メ リブ どじ レ 丄ぅ けうと y やくな つ しゃ £*t いつ はリ とが お らゥゃ 

亞米利 加 土人の 風 をな して、 「モル モ ン」 敎徒を 掠た # サし、 射维 し、 偽 の 咎を負 はせ て 牢屋 

ひ かれ & いへ * ん はふ ざんがい 5 た たうて い i-s と しんば う でき 々うな 

に V れ、 彼等の 家に 亂 入し 色々 の 殘害を 致しまして、 到底 1^ 徒 も 辛抱の 出 來ぬ樣 に 成り ま 

ラぃ き 上く たん な へいわ お 上 かう ふく す、 かへ せい A 

した、 期 云 ふ 極端に 走った のて、 ス ミス はやむな く卒和 及び 降服 を勸 めない て 却って; 1- 徒 

おりれ; C 上 おの. 乙 ども ぞい 3 ん ほ ご す/ そ <J せ 5 'と おのれ は ご ぶ 

に 己 及び 己の 子供と 財 產とを 保護す る 乙と を勸 めました、 其で. If: 徒 は 己 を 保護 せんとて 武 

9 と しか Iml * ひ K ら |-: おひ-^ 

執. ました、 併しながら アダム、 ォ ン ダイ、 アマ ン より: 退拂 はれ- デゥ ヰ.. - トょ り: S 一お 

gfe I— ぐん (ん? い まちく ; I > ― " W1 う く _ 

はれ、 又 力, トウ M 〃郡の 邊在 の^々 より フ 7-、 ク" -ス ト まで 放逐せられ ましたし 

た けうと しう みんぺい たいしゃう けん さ,. つ み,.! -ぉ 

大佐 クヮ イト (一 モ^ モ ン」 敎徒) は 州の 民兵の 大將バ 1 ク ス より 權を 授けられて 眯 方.^ 狼 

at ばう と せ n = ぐん t れ おひ tt& それ ため ひと/: Y な は そう ゆ a こう 

め、 烈しく 暴徒 を 攻め、 デ ゲイ ヱ ス 郡より 之 を 追拂 ひました、 か爲に 入々 は 小 Ml 屑 激昂 

しました 

そ ご ぐ わつ はち か a 2 たた \ かひ * たい,? I; -; —r, I —, 1 : 

其の後 十月 二十 五日に クル- ケド 川で 復 戰 が あ. ました、 大尉 デ-ゲ イド タフ ルュ ノ 

- みんぺい けうと ひ 3 たい a ばり.,; -々4- , 

テン はファ ー、 ゥ-- スト の 民兵 (「 モ 〃モン」 敎徒) を f- ゐて 大尉 ボ -, ガ ー トの 暴徒 隊 广^ ふ 

けゥと S たか おいる はか はん ろ - 、 て,^ 7^ ゾ" や - > 

て 「モル モン」 敎徒は (伋 勝ちました、 大尉 パ テンと 外に 二人 殺され 敏には 死者 一人 あ.^ ま 

一 〇 1 



乙ゝ おい ぼうと ゆき 乙う ます. (たか い せん tf うと せいと ぐるし た し 上い ゥ ぶつ S 'やく 

した、 兹に 於て 暴徒の 激 W 叩 は 益々 高まりました、 以前に 暴徒が 5ie 徒.^ 苦め、 其の 所有物 を 掠 

おつ とき せいと ち じ たすけ ねが それ なん^?ら ばう と けん 

鞭 1; した 時に 袍徒は 知 ホッ グスに 助を颇 ひました が、 ボタ グス は、 北 ハは汝 i 寺と 暴徒との^ 

くわ なん^^らじ ヽん た/か どう か;: £ つ. い いま せいと 上 みブか 

嚷 ,たから 汝等 自身で 岡つ て 何とも 形 を 付ける がよ いと 云 ひました が、 今や Jui 徒が 能く 自ら 

ぼうえい A.J み おのれ せつ (ん 乙 きぐ わい じょう せいと よぐ しゆう き 

防衛して 居る の を 見て 己の 說を變 じて 此の 機 < ^に乘 じて fni 徒に 復歸 せんと 決" まして、 十 

ぐ わつ S ち めいれい せう しゃう わた なべ はや しう みんぺい ひき せいと せ 

月 二十 七日に 命 <P を クラ - ク少將 に 渡して 成る 可く 早く 州の 民兵 を 率 ゐ て! t 徒 を 攻めさせ 

い けうと てきみ な も ひつえつ こつえ き 

ました、 ボッ グスが 曰 ふ,: は 『「 モ ル モン」 敎徒を 敬と 見做すべし、 t 石し 必要ならば 公益の 

ため あるひ 乙れ みなごろし あるひ しり はう く ちゅう リ やくさいし 上 ぐん し みん いへ 

爲に 或は 之 を にし、 或は 州より 放逐すべし、 (中略) 初に は デゲ. ■ ュ ス 郡の 市.. r^ii 家 

を 恢復せ よと 命じて あつたが 其 を 差 置いて. E ちに 「モ 〃モン 」敎 徒を攻 むべ し』 と、,::,, 一家^ 

かやう-い か さいしょ みんぺい たす — しつ ばク 

ンク C1 フ トは斯 樣に曰 ひました 『期くて 最初に は 「モ \ モ ン」 民兵 を 助けて ミス ゥ" 州の 暴 

i しブ ため せう-しふ — し- ン { い つ ひ ぼうと くば みんぺい ていかう 

徒を鎭 める 爲に召 猿され たミ スクリ 州 兵 は 終に は 暴徒に 加 はって 「モ 产 モ ン」:;^兵に抵抗し 

い あきらか 乙れ せいと す 乙 しつせ いふ はふ W- つ ,こ く か あん C い はんたい 

たと 云 ふこと は g; である、 是は塞 徒が 少しも ミス クリ 州政府 や 法律 ゃ國 家の 安寧に 反對 

かゝ かう かれら たどし うせい ふ きょか え じえ 5 

せぬ に拘 はらず 期て あつたの て ある、 彼等 は 唯 州政府の 許可 を 得て. IE 衞 したの みで ある』 



I ねん ごろ =: しつ うま ねん ぐ わつ はち W ちえう び 

デ I ザ イド、 ダブル ュ、 パテ ンは 一千 八 百年 頃 ケア- モ>- ト 州に 生れ、 一 千 八 百 f 二十 五 年 二月 十五 日 (日暱 H〕 

しと W ん ねんぐ わつ か ど 之う び じ あ ひお ■ しづ お け, ぐ. S いぐわん 

に 十二使徒の 一 人と せられ、 一千 八 百 一二 十八 年 二月 十日 (土曜日) 一時の 間 ミス ゥ V 州に 於け る 敎會の gca 

• ちゃう し 上く はん ねん ぐ わつ ばち ft- ぐえ うび . しつ ぐん - . £ ば 

長れ ろ 職 に 任ぜられ ましれ * 1 T 八 百 三十 八 年 十月 二十 五日 (木曜 3) ミス ゥリ 州レ I 郡 クル —ケド 川て 

ばう-と た /- か と 3 ちめいし やうう し あく 5^ぇぅぴ I f 

暴 徙と戰 ふれ 時に 致命 蕩ュ少 受けて 死 LL まして、 .翌 る 土曜日に ファ I、 ゥ T スト<^^むられました0 

せう し う ん ちゃう I し 

小將 サミュエル、 デ 1、〃.《 カス と 旅鬧長 モ I セス、 ゥ * 产 ソン は リツ チ モン ド 市で 一 一千 

S ん へい あつ ぐ わつ す eg ご& しゅったつ かれら しれいく わんたい しゃう 

人の 兵 を 集めて 十月の 末顷フ 71、 ゥ" 上 ス ト へ 出立し ましたが、 彼等の 司 <P 官大將 クラ I ク 

もファ ー、 ク" スト へ 行く つもりて 他所に て 兵士 を 募 つて 居りました 

ぐ わつ W ち . . めい ばう と ひき . 

十月 三十日に 一一 ァ-マ ャ、 コ| ムス トク は 二百 il 十 名の 暴徒 を 率 ゐ て " I ンス、 ミ, ル 

と xJjC そ 乙ろ とう ぽぅ い ff§ う は,^ W つじ やうつ み な けゥと ^ん it-i>J ども あ 

とい ふ 所て 其の 頃朿 方よ. 移住した ばかりの 法 体 上 罪の 無 さ r モ , モ ン」 敎徒 男女 子供 合 は 

はん ざやく, :- つ そ したい あ ゐ ど い しま 

せて 二 十 人 を 虐殺して 其の 死體を 或る 井戸に 入れて 了 ひました。 

どゥ じつ (いし —1 と ま いう びん ちゅうし ち じ じんめ つめい れい 

同日 兵士 はファ I、 ゥ N ストお 取り 捲き ました、 郵便が 中止され たのて 知 率の 盡滅 命令の 

ばう. こく し ふ うん し きょ リ うみん しと かこ もの ぼうと おも じ えい 5 た 

報吿を 知らぬ 不運なる 市の 居^民 は 市 を 取り 圃む者 を 暴徒 だと 思 ふて 自衞 せんと 致し まし 

かう い き /- ふそんば う とき みんぺい しれいぐ わんお いさ ぐん 

斯云ふ 危急 亡の 秋に 「モ〃 モン」:^ 兵の 司令官 大佐 ジョ ルデ、 H ム、 ヒン ケルは 攻國軍 

10 三 



一 oral 

じ くわん ^いつう せいと う IX ぎ り も でう けん せいと ぶき と あ かれら つかさら 

の 士官に 內 通して lii 徒に 裏切し ました • 其の 條件は 5t 徒の 武器 を 取 6 上げ、 彼等の 司 等 を 

ひき;; た しんもん いぼつ ぐんび せんかぐ ぺん さい ため うと せんざいさん 

ば 引渡して 審問と 刑罰と に附 し、 軍费 全額 を辨濟 させんが 爲に 「モル モ ン _1 敎 徒の 全 財產の 

ふ • っリ わたし ヽ 上き めいな ついん つかさ & ほかせ いと やん たい ち たい しつ ぃプ いた. 

讓渡 書に 記名 捺印 させ、 司 等の 外 lli^ 徒 全體 は遲滯 なく 州より 出る 乙と と 致した のて ありま 

す 

けうく わい つかさら; -ょ じょやく ぐたん とリ きめ し また それ し 上う おく かゝ 

敎會の 司 等 及び ヒ ン ケルの 助役が 件の 取 極 を 知らぬ のみならず、 又 其 を 承諾 しないに 拘 

しう みんぺい ざんこく /0 れ すみやか お K- な たいさ しう みんぺい たいしゃ うおよ 

はらず、 州の 民兵 は慘 酷に も 之 を 速に 行 ひました、 大佐 ヒンケ ルは州 民兵の 大將 及び 一 乇卩 

ほうく わい つかさら ぐ わい ぎ T'te やう ゆん そ たいしゃう やぐて い けうぐ わい つかさら 

乇 ン」 敎 zt! の 司 等との,^ 議を 催した と 俘 言した が 其の 大將に 約定した こと *^」 敎會の 司 等に 

し . 

知らせずに 十月 三 十一 日に、 ジ ヨセフ、 ス ミス, シ ドー I 、 リグ ドン、 パ I リ. ビ-, ブラ 

タ ト、 ライマン、 ゥ ワイト、 ジョ〃 デ—、 ダブル ュ、 口 ビンソン、 ハイラム、 ス ミス、 ァ マ 

サ、 H ム、 ライマン を大 將ル, 'カスの 手に 渡しました、 すると 此 等の 人 は 浮虜と 見做され 

ぐん b ェ くわい at ばんけ つ あくるひ ご せん じ じゅうさつ たいしゃう I 

て 十一月 一 日の 軍法 會議 の判决 により 翌日 午前 八 時に 统 殺せら る、 さに なつ々. が、 大將ド 

I K んじ やう うった aJ しゃ ラ まう した せん 乙く しっかう そ か はりたい し J!- う I 

-1 フ ァ ンが 人情に 訴 へて 故障 を 申立てた ので、 宣吿を 執行し ませなん だが、 其の 代に 大將〃 

I カス は 彼等 を 隣 郡に 連れて行って 人々 に 見せました C 



せひと じ^-ぅけレ ひらめ ばう と せ 乙ヽろ おの ^いさん §ゴ り わた しょうし 上 き 

聖徒 は 銃劎, ^'ss かすと 乙ろ の 暴徒に 迫 まられ て、 心なく.. ず も 己が 財 產を讓 渡す 證# に 記 

め^なつ いん よぎ 乙れ し ぐんたい がう とう れんが ふ 

名 捺印す る M とを餘 儀な くさせられました、 是 のみならず, 市 は 軍隊と 强 盗の 聯合した る 

もの て わた を わるもの ばう ぎよ し みん ざいさん W やくお つ かれら たい めい 

老の 手に 渡されました、 すると 其の 惡者 は防徵 なき 市民の 財產ケ 掠^し, 彼等に して 名 

じ ゃラ おどろ つみ いた 

狀 すべ からざる 驚くべき 罪 を 致しました。 

ぐ h つ かたいし やう 乙ゝ き かれら お 乙な ひ せ はん せいと あつ 

十 一 月 四日 大將 クラ I クは此 處へ來 て 彼等の 行爲を 是認し ました、 クラ -ク は, 架 徒を橥 

かつ とくい えんせ つ ひっき & うどく ,ij うち ちじ じんめ つめ^れい じ ぶん 

めて、 曾. て 得意て やった 演說の 筆記 を朗讀 しました、 其の 內には 知事の 虚滅 命令 は、 分 

かなら 乙れ じっかう けっしん またせい と しう ち さ 

が 必ず 之 を赏行 せんと 决 心せる こと や、 又 jfi 徒 は,、、 スゥリ 州 を 立 去らざる ベから ざ る 乙と 

お *4 けう くわいつ かさら かなら じゅう 3 つ けつ よ fe\JV かほ み ^ 

や、 及び 敎 の 司 等 は 必ず 銃殺 さらる ベければ 决 して 再び 其の 顔 を 見る こ- V を 期す ベから 

など 乙う ゆん さう かれ ゆやよ はが はん とら これ 

ずと いふ 乙と 等 を 公言いた しました、 而 して 彼の 下知に 依りて 外: 十 人 は 捕 はれた が此 

ら ひと- t- ぐの ち ゆる そ あは 1 お 上 11 

等の 人々 は 直後に 赦 されました、 ジ ヨセフ、 ス ミスと 其の 兄なる ハイラム、 ス ミス 及び シ 

はか はん B 

K 二、 リグ ドンと ライマン、 ゥ ワイトと バ —リ、 ビ I , ブラ ッ トと 外に 四十 pf^.^ は リツ 

さいばん けつぐ わ らう や 5 そ ばんざい ばう さつ はゥ くわ ばん;!:;-ゃくざぃ^^上 

チ モン ドで 裁判の 結果と して 牢屋に 入れられました、 其の 犯罪 は 謀殺、 放火、 叛逆 罪 及び 

けいじ そしょう は, A はと すべ つみ 

刑事訴訟法の 殆 んど總 ての 罪て ありました ◦ 

1 〇 五 



1 〇 六 

5- つばん ひと- せい と たい けん を れん いお かれら 5 うじん たす 

1 般の 人々 は. 聖徒に 對 して 嫌惡の 念.^ 懷 いて をり ましたから、 彼等の 友人で も 助ける こ 

t 3 せいと べんご したいし やう も はや べんぱく えう なん Z 

とが 出來 ませんで した、 徒の 辯護士 大將ド 一一 ファ ンは 「最早 辯駁の 要な し、 何と なれば 此 

さい ぼんぐわん すで なん <P ら ごくや とう けっしん それめ ゑ も Si ん て 人し あまく お 

の 裁判官 は 旣に汝 等 を 獄屋に 投 ぜんと 决 心されて ある、 其 故、 若しも 五 百 人の 天使が 天降 

なん やら む ざい おん ん す 乙 かう くわ S 

b て汝 等の 無罪なる こふ-を 斷言 すると も 少しも 効果な からん」 と 言 ひ.^ した。 

こうはん せいと ばんぎ やくざい たしか し t う ij かれら ぼつ じつ かみ ぐ は た くわん 

-, - 公判に て 聖徒の 叛 逆 罪な ろ、、 と.^ 確め ると: ろの,? -ほ據 の 一 つ は 彼等が 末日に 神の 國が 建てられろ、 - とに 關す 

上 ゆん かた しス かれら ぽゥ さつ ざい ぼうと たヽか 

る预言 (但以理害ニ^;^ 及 び 七 章) ,CJ^ 堅く 信ずろ ことて ありました、 彼等の 謀 殺 罪 は 暴徒と 戰 つ;:: とても 

しか 3K- ひと/ はしい まゝ けうと し 上い うぶつ W- やくお つ また かれら 15- やくさつ 

つた、 併しながら ミ 1 スゥリ 州の 人々 が 擅 に 「モ^ 乇 J -」 敎 徒の 所有物 掠 ^し、 又 彼等^ 虐 殺 した: と は 

まった これ ふもん i 

全く 之 不問に 附 しれ ことて ぁリ ました 

そ いう じんら ゆつ はち ばち さいばん あ ひお X ひ ごぐ や 

ス ミ スと 其の 友人 等と は 十 一 月 十 一 日よ, 5 二十 八日まで 裁判 せらる、 間、 夜 も 日 も 獄屋 

うち た ばんばん ひ れつ H なし 3 はかなば こ ばん はんら おのれら かつ 

の 裡で絕 えず 番人の 卑劣なる 話 を 聞く 外 は 何もの. もなかった、 此の 番人 等 は、 己 等が せて 

. せいと ぎ やぐ さつ がラ かん はんお く とぐ く ら けい ぺっ 1;^ う 

ファ I - ウエス ト 市で 聖徒 を 虐殺し 強^し $ ^乙と を 反覆して 得ク と して ス ミ ス 等を輕 蔑し 嘲 

ろう ある 上 1 i; ん しゃ 乙 わいせつ ふ けつ 3 は ばな し 3 しの てが せ は 

弄し ましたが、 或 夜 預言者 ス ミ スは 此の 猥褻で 不 piiih ゴる話 を 聞く に 忍び 十手 錠 を 嵌めら 

おそろ さラ ごん た らいめい ごと 乙- 0{ そ ぼん はん きび とが % 

れて ねても 恐し く 莊嚴に 立って 雷^の 如き 聲 にて 其の 番人 を嚴 I く 咎め まし た, すると 

も の お け ^ (いきちとう よ ゆん しゃ あしもと ぅブく ゆる I あいぐ わん ぐち いぐ 

其の 者 は怖氣 立ちて 兵器 を 地に 投じて 預言者 ス ミ ス の 足下に 踞 まって 赦を 哀願し 口 を 襟み 



ました- 

やう やち やうら う ほしゃく ぶ いのち うば & 

漸く 長老 リグ ド ン は 保釋に 付せられ て 生命 を 奪 はれぬ やうに 遁げ なければ ならな かつ た 

が、 ジ ヨセフ、 ス ミス、 ハイラム、 ス ミス、 ライマン、 ゥ ワイト、 アレクサ ンダ I、 マ タク 

叫 I 、ケ- レブ、 バ I ルド ヰン はクレ ー 郡 リバ I テ 獄屋 へ徙 されて (他の 人々 はリ ツチ 乇ン 

ド 市で) 一千 八 百 三十 八 年より 三十 九 年に かけての 冬 を 過し ました、 此の 牢屋に 居. C. まし 

あ ひ ぼ けう ぎ お 上び せいやく はん しゃう 

た 間に、 ジ ヨセフ、 ス ミ スは 「教義 及 誓約」 とい ふ 本の; C 二十 一 、 -h= 二十 二、 二十 三 車 

にある 祈禱 や、 預言 や、 敎訓を 書きました C 

せいと ぼうと て まか ぼうと い 上い そ ばう ゐ たぐ まし ます. (. せいと ャ,. いさん り やぐた つ 

聖 徒 は 暴徒の 手に 委せられ たれば、 暴徒 は 愈よ 其の 暴威 を 達う し、 益 lii 徒の 财產 を掠雜 

はくわい か をく ひ はな かち < おひ はら たよ ヱ ぶじ 上く 

し、 破壊し、 家 尾に 火 を 放ち、 家畜 を逐 拂ひ賴 りなき 婦女, V 悔辱 しました。 

せ 5 と むじ やう じんめ つめい れいお 上 せいと せん 5-J いさん つ わた けいやく ため 

聖徒 はボ プ グ スの 無情なる 盡滅 命令 及び ヒ ンケル が 徒の 全 财產を 譲り渡す 契約の 爲に 

はと た がた は どかんなん しんく しか せいと は A りつ じ やう む ぞい おのれら か /- 

殆ん ど堪へ 難き 艱難辛苦 をし した、 然れ ども、 塗 徒 は、 法律上の 無罪なる 己 等が る 

< つう あ なんら 3 うさい あた 9 いう けつ おも もれ § タ 

苦痛に 遭 ひながら 何等の 救 濟も與 へられぬ とい ふ现. H は决 してない と 思 ひました、 其 故に 

さき じ ぃク くわい ュく ところ けうく わい つかさら せいと ぐ は < つう しる ai う r*5! 

嚮に自 山 を 恢復せられ たる 所の 敎^ の 司 等 は^ 徒に 加 へられた 苦 蒲 ケ. 詳しく 記し、 救濟を 

1 〇 七 



一 〇 八 

as" <w たむ はふ ちじ あっせいてき めいれ, & H.S- し — し う しう くわい じ やうし よ 

願 ひ、 又 無法なる 知事の:^: 制 的 命令 を廢 止す る 乙と をミ スクリ 州の 州- に 上書し ました、 

しか t ゆ つ こ たへ をかしぃほどゎ,^^か きう じょ きん かふ そ おいぶ どん ぶんばい 

然るに 其の 唯 一 の應 答に は 可 笑 些少なる 救助 金 を下附 され まし^が、 其の 大部分 は 分配 

くわん きふれ う ため せう ひ 

官の 給料の 爲に 消費され ましたの です。 

ぶ らいかん ひきつ ど けうと し 上い うぶつ リ やくお つ ねん ゆ ク せいと 

無 賴漢は 引續さ 「モ ^ モン」 敎 徒の 所有物 を 掠 奢. - したので 一 千 八 百 三十 九 年 一 月に il- 徒 は 

かな t きう さ i- う たうて 5 のゲみ たんねん せいと がいしう さ 

悲しく も 其の 救濟を 得る 乙との 到底 望な きケ斷 念いた しました、 聖徒が 該州を 去ら ざれば 

乙ろ お ほやけ か f あきら し あ, /- かれら せいと あるひ 

殺さるべし とい ふこと は 公然に も陰然 にも 明かに 知らせられました.^ 鳴 呼 彼等 聖徒 は 或は 

た ねんしん V* ち上4^く ャ」 いさん しょいう ぶつ ラぼ かんなん きば あるひ つ ゑ はしら たの をつ と 

多年 辛苦して 1^ 蓄 した 財產ゃ 所有物 は楚 はれて、 艱難 を 極め、 或は 杖と も 柱と も 赖む夫 や 

ぷ けい らう や とう い ムく し t ぐ もつ きュ あばれ ありさま しか ふゆ Z 

父兄 は 牢屋 K 投 ぜられ て、 . ^服 も 食物 も 給せられ ぬ哀 なる 狀 態とな りました, 而も 冬の 最 

なかな 5! すな も き やう ど みす ど 乙 たい AI よ なん 

中に 永く 住み 惯れた 其の 鄕士 おも 見捨て、 何處 ともなく 退去せ ねばなら ぬと は 何たる?^ あ 

慘な 乙と であらう か。 

せいと しおい X ゆん しゃ ごぐ や r し とぐ わい 'わい *c やう 

聖徒 はか k る 次第, 言者ス ミス は纖 尾に 居りました) なれば、 十二使徒 會の <P 一 4- フ 

けうぐ わい つ. 6 さど せ 3 はん ひきう せいと I I -ノ 上 < ふう *J れ 化つ 

リ ガム、 ヤング は敎^ を 司 るポ Mffi を 引受けて 聖徒が イリノイ 州への 返 去.^ -割 策し 之を贾 

かう しとく わいち やう およ けうく わい お き やうお い > う たい ia- よ おの. W 

行し ました、 使徒 會長 ヤング 及び 敎會に 於け る 兄弟 は 「ミス ゥリ 州より 退去す るに、 己の 



お t たけち. S ら あは あ ひお が ひ ム じ 上 また, うじ t う せいた う y いう ひんこん しゃ た ひしゃう 

及ぶ 丈 力 を 八 口せ て 相互に 扶助し、 又 救助 を受 くべき 正 當の埋 出 ある 贫困者 は、 大將 クラ- 

— . じんめ つめ > れい じつ. a" う- え とちの がい おきざり 

ク がかのお- 诚命令 を賓 行し 得ざる 土地に 遞れ 出づる まて は、 置 去に さる、 rJ となし」 とい 

けいやく つく いく はん をれ 3 めい み なぜい じつ t と- «\ それ まも 

ふ 契約 を 作りました、 幾 百 人と なく 其に 記名した が、 皆誠實 にして 悉く 其 を遵. 5 ました。 

5- うめい れきし か I .. いば t ゆ ん ^上らう えう あは ないし にん ほど 

■ 有名なる 歷 史家 ホヰ, タ ト 二 は 曰く 「其の 冬に 男女 老幼 を 併せて 一 万 乃至 一 万一 一千 人 程の 

ぽ. つじつ せいと なほむ じ やう ぶ ら. S しゃ お ゆき 乙 みち ちたら け あしあと しる . ,i 

末 n 聖徒 は W 無情なる 無赖 者に 逐 はれて、 雪の 凍 6 たる 道に 血 汚の 足跟. ^一 印して、 ミス ゥ 

= しう のが ざ 5- さん うば いへ かね かれら せ いと ひ 上つ けつ ===== か は 乙 

リ 州よ- -遁れ ました、 則 產を奪 はれて 家 も 金 もな き 彼等 聖徒 は 氷結した..、 シ シ ツビ 河を踰 

. — しう いお おのれら そ しう ねんごろ ひと A\ 3 か. そとち ひと ハ ち 

え- イリノイ 州に 至って、 己 等 を 其の 州の 懇 なる 人々 に 托せました、 其の 土地の人々 は 一 

ビラ かれら あばれ ぁ3^さ3 みそう むで」 ん はぐ £"5 a なし き せハと ビ うじ やう (ゥ か 匕 

同 彼等の 憐 むべき 狀態を 見、 其の 受;^ た, 11 慙 なる 泊」 害の 談を 聞いて 聖徒に 同情 を 表し、 彼 

ら. ふびん おも . かれら しうて き ,い . ^んを ねん いお 

等 を 不憫に 思 ふに つれ、 彼等の 鍵 敬に 對 して 嫌惡の 念. v,l 懷 きました、, J と。 

此の 事 を 知った 預言^. ス ミ スは 獄屋の 檻 房から 聖徒 を 慰めん とて 「シ オン は破壤 され さ 

み しゃう らい 3- つば はんじゃう か なく 

うに 見え て も 將來に は 立派に 繁 H._ すべし」 と 5- ふ と を 寄き 贈. ま した。 

—— ^ —— .. めいてい らう や ばんばん もぐき 上 え == 

ジョ セ フ、 ス ミ スと ハイラム、 ス ミス は、 酩酊した る 牢屋の 番人の 默許を 得て、 ミス 

しう t^s" ■ ■ S ん £ つ はち しラ まち を おのれら 

ゥリ 州よ 6 近れ VJ, 一 千 八 百 三十 九^ 四 巧 二十 二日に ィ リノ ィ州 クヰン セ 町に 居る 己 等の 

j 九 



一 一 o 

か さいぐ わい I H しう しょ. (- ごと I しみん , ^うん せ 5- と ひと かた 

家族に 再會 しました、 イリノイ 州の 諸 所の 如く クヰ ンセの 市民 も 不運の S キ徒を 一 方なら ず 

X むか どうじ やう (う せいと たう ぶん a たな ひ なんじ 上 とう かん I しう 

善く 迎 へ て 同情, 表した ので 徒 は 當分又 無き 避難所に 投じた と 感じました、 イリノイ 州 

し みん 5 ふく t よくれ う また いく きんせん せいと ; V う, i もちろんせ い-二 ばんたい 

の 市民 は 衣服 や 食料 や 又は 幾千 弗と なく 金錢を 聖徒に 贈與 しました、 勿論 聖徒に 反對 する 

もの しう I う た すう はんき じゅうぶん せいと あんしんお. よ は 

者 もあった てあらう が、 ィ プノ ィ 州と アイオワ 州の 多數の 人氣は 充分に 聖徒に 安心 及び 保 

ご あた り やうし う ち じ せいと み かた 乙 ゝ たうち やく 

護 を與 へました、 兩 州の 知事 は 聖徒に 味方 をし ました、 ジ ヨセフ、 スミ スが 此處に 到着した 

か のち あ く "いざ ぎけつ t およ 

二日の 後 或る 會議の 議决に 依. ジ ヨセフ、 ス ミス、 ゲヰン ソン、 ナイト 及び ァ P ンゾ、 リ 

はん けうく わい ほんぶ けんちく るち えら 乙 ときす で 

ッブリ の 三人 は 敎會の 本部 を 建築すべき 位置 を擇 ぶこと にな. 9 ました、 此の 時旣に 「乇〃 

けうく わい つかさら X ゆん しゃ ちゅう *J ぐし よ した, りゃうし う ち めん か と きめ 

モン」 敎會の 司 等 は 預言者 ス ミ ス よりの 忠吿 書に 從 つ て 雨 州に も 地面 を 買 ふ 取 極 をし ま 

MnnyNMMMMMMy かみ はう マイ は ど しづ - し まセ I し かみ ばう 

した、 クヰ ンセの 上の 方 四十 哩 程の アイオワ 州 キォク ック 市、 又キ ォクッ ク 市の 上の 方 六 

マイル ほど し また > かみ はう マイル ほど しう —— 

哩 程の ナツ シゲ ヰ〃 市、 又 ナツ シ ゲヰル 市の 上の 方よ ら四哩 程の アイ- K ヮ州モ ン トロ- ス 

市の 諸 所に 廣き 地面 を 買ました. 河 を 渡って ント tl I スの 彼岸に イリ ノィ州 コンマ ー ス 

があって ダ 一一 ェ パ、 工 チ、 ゥ H ル スが 住んで 居. - ました、 聖徒が 彼よ. - 地所,^ 極めて 低 

か ゆ つ K% —— し ぶか Jt- めんか けうぐ わい はんぶ けんせつ 

に 買った のです、 五月 一日 ス ミス は コンマ ス 市に 附 加の 地面 を 買って 敎會の 本部 を 建設 



き そ^つ か おのれ か ぞ< つ かばべ ^^^るた こしら JTS 

する nJ とに 極めました、 而 して 五月 十日に 己の 家族. V 連れて 川邊 にある 丸太で 持へ た 小さ 

5( ^!-ゅぅし上 りら たビ けん いた ちい と ころ し 上く ぶつえい わい げんかう 

き 家 を 住所と しました、 村 は ロハ 六 軒の みに て 至って 小さき 所であって、 植物 翳 蒼た る 健康 

ふ てき しっち ねつ り うかう とちがら それ ゆ A しょくみん 一 |ュ| 

に 不適の 濕 地で マ ラ リア 熟の 流行す る 土地柄であった、 其 故に 殖: しかけ やうと したる 紐 

al ク あ くわいし や 汁 うと おい り しゃ 上ろ 乙 ^ とち う さば しか 

育の 或る 會社は 「モ , モ ン」 敎 徒の 代堙 者に 喜んで 其の 土地 を賣り 捌きました、 併しながら 

ほと し る . ^ば みばら 上ば しょ じつ う X は るち そ 

殆んど 市 を閽繞 する ミシ シ t ヒ 河の 兒晴 しの 好き 場所で 實に 美しき 位置で あ. 5 ました、 其 

上く ほんな か HMMMMnMMMHMMMH とな 5- み ふうく わう めいび らくき やう 

の 翌年 名 を變へ てナ, 'ゲ ゥと稱 へました、 ナ T ゲクの ilr-^ 味 は 風光明媚の 樂境 とい ふので あ 

•o ます。 

= しう t たみた i- け つみ を か せいと a ブ かんなんしんく 乙ら 

ミス ゥリ州 は 此の 民に 對—: て 怪しから ぬ 罪 を 犯した ので、 徒 は 貪し く、 艱難辛苦 を » 

し はう ぼら- e- さん そ ま /- を それ § ゑ これら ひと A\ し 上 あつ あ ち 

へ、 四方へ 欲々 と 離散して 其の儘に 居り まし;^、 其故此 等の 人々 を 一 ケ 所に 集めて 或る 地 

はう し, M くみん じつ *\ しぎ- iC ゆぶ それ 乙 /- また び やう w うかう 

方に 民す るの は實に 不思議なる 偉業で ありました、 其に 此所は 又 マラ リア 病の 流行す る 

ふ けんかう と ち ぜ いと いぐ わ 5" ひと *1 ゆう nt 上 た しっち かんが い 上. (上う S で 

不健康なる 土地て あって、 途徒 以外の 人の 住居に 耐 へざる 濕地 だと 者へ ると、 愈 容易に 出 

き おい じ ゆ ふ しか のちせ いはうた.^ ぶ あ さ ぼく せいと ね Si と は てい ゑん ごと び 

來ぬ 大事 業て ある、 併しながら 後西 方 大部の 荒れた る 沙漠 は 聖徒の 願 ふ 通 6 庭園の 如き 美 

れい it ろ ごと が^-ち a う かみ めぐみ ため てき *;? I.>g うしよ な かみ やく. v< 

腿なる 所と な つ た 如く 、 該 地方 も 神 の 恩惠 の ハ if に 適當な る 住處に 成る と 神よ. = ^約束 され ま 

1 1 i 



.1 】 二 

つゆほど うたが 乙れ ふか しんかう ひんく せま ひじ やう ぐるし ん さら すみか 

した、 露 も 疑 はず、, 之 を 深く 信仰して、 貧苦に 迫って 非常に 苦んで 居ながら、 更に 住家 

. つく ば じ はじめ れつ . ねつ, ひやう ため お ほい さま た *ひ やう はん いへ きば 

を 作り 始めました が、 始は 激烈なる 熱病の 爲に大 に 妨げられました、 病人の なき 家 は 極めて 

上 ゆん しゃ や はりび やうき と 乙 丄 を リ ゆつ は vl?- いれい ふか 

稀て あった、 預言 老ス ミス も 矢 張 病氣て 床に 臥して W ましたが、 七月 二十 二日 聖霊に 深く 

かス とこ な た やう はんと 乙 S まった なほ な めい 

感じて 床 を 離れ、 他の 病人が 床 を 出で 全く 癒る 乙と をィ エス" キリ ストの 名に よりて 命じ 

かれら いや はじ- 乙お は ム し ざ ゅぴ やう, き せきび れきし 

て 彼等,, ビ 癒し 始めました のです、 此の 多くの 不思 ,議 なる 癒 病の 乙と は奇踉 日と して 歷史に 

ぁリ きさ *i *J れ なつれ せいと あつ しんかう けっく わ 

も昭 々と,? ^載して あります が、. 之 は 全く 聖徒の 厚き 信仰の 結果て あつたの です。 

5 ち, さく i .. おいき いば 上 f; ん しゃ I おは やう はん まね おのれ 

力 ノ ン 氏の 著作 ジ ヨセフ、 ス ミスの 一 代 記に 曰く 「預言者 ス ミ ス は 多くの 病人 を 招き 己 

i, へい いへ み じ \ん し 上く む おこな かれら いばう ため 

の 家に 入れて 家に 滿 ちました、 と^J^Cてス ミ ス 自身 は 職務 を 行 ひつ 、彼等 を 介抱し. 爲に 

たどつ かふ しか ねん ゆつ はちせ いれい とく ぺっ ちから 

4^ ちに 疲れて 臥して をり ました、 然れ ども 一 千 八 百 三十 九 年 七月 二十 二日 聖靈の 特別の 力 

かれ ぐお それ いた かん と o はな おのれ ズ を ぴゃ うばん いや はじ 

が 彼に 降りました、 ス ミ スは 其に 甚く 感じて 床 を 離れ-し 己の 家に 居った 病人 を 癒し 始め ま 

した、 ス ミ スは 彼等が 床より 出で 癒さる k こと を イエ ス、 キリ ス 1^ の 名に よりて 彼等に 命 

じました、 而 して 信仰 を 以て 其の 命じた る 乙 とを聽 いた 者 は 皆 癒されました。 

# ほ び やう g ん 1 1 かば y を . ,5 ふ I I 1 す: , を 

多くの 病人 はミ シ シ ッ ピ河邊 に 居らました 故、 ス ミ ス はシド 一一 、 リグ ドンの 住ん て 居つ 



ちい いし ,っ くり いへ い そ み *t すじ を び やう はん r- と いや なかん プ くしゃう し さ^ひ 

た 小さき 石造の 家まで 行って 其の 沿道に 居った 病人 を 悉 く疲 しました、 就中 生死の境に 

至って 居 6 ましたへ ンリ、 ジ ー、 シェ〃 ウッドが ござい t< しな、 ス ミスが シ H ル ウッドの 

てんまく SW- ぐち た かれお てんまく い 1 なよ めい 

天幕の 入口に 立って 彼が 起きて 天幕 よら 出づる こと をィュ ス、 キリストの 名に 依りて 命じ 

そ めい したが まつたい や 

ましたと 乙ろ が、 シェル ゥ.' K は 其の 命に 從 ひまして 全く 癒されました、 ベ ン ジャ ミ ン、 

そ か ぞく び やうき ム なか し はぎば ちか., ク 

ブラウ ンと 其の 家族 も 病氣で 臥して 中に も ブラウン は 死 際に 近,., て を, ましたが、 ス ミ ス 

てんしゅ な i かれら た^ いや ちい せき ざう いへ 5 かはぺ 

ぼ 天主の 名に 依りて 彼等 を 直ちに 癒しました、 ス ミ スは 小さき 石造の 家まで 行って 河邊に 

を すべ び や- ン しゃ いや のち ちゃうら つ め S- やうばん かば わた MM 

居 h. 噯 した 總 ての 病 者 を 癒して 後、 長老 キ ン パ ルを 召して 兩 人て 河 を 渡って モ ン ト a - ス 

を び やう れん みま ひゆ Z \ しと あ ひとお 上 おは せいと f 

に 居った 病人 を 見舞に 行きました、 此處に 十二使徒の 或る人 及び 多くの^ 徒が 居 ま-た、 

さいしょ しとく わいち やう た, つ かれ び やうき いや かれお 上 5" ん しゃ どう 

最初に 使徒 <,£: 長 ブリガム、 ヤング を 訪ねて 彼の 病氣を 癒します と、 彼 は 起きて 預言者と 同 

ばん いた び やう はん はう. S. ん た つ マ. き やうたい い (た、. - かれ 

伴して 出で 他の 病人 を 訪問し ました、 其の 次に 兄弟 フ オル ダム の 家に 立ち寄 6 ました、 彼 

か ぞく いう じん しゃうたい すでい きた を おも をり こ 

の 家族と 友人と は フォルダ ム は正體 がなくて 旣に 息が 絕 えて 25 ると 思って 居ました が、 此 

いっか ゥ (や い いな かみ i ゆん しゃ しゃう し さか ひ いた を 

の j 行 はみ せに 入る や 否や、 神の 預言者なる ス ミ ス は 生死の に 至って 居りた フ オル ダムの 

,5.」 ば ゆ そみ ぎて と かれ はなし きゃぅ^^ーぃ くち き ひとみ 

傍に 行きて せハの 右の 手 を 取って 彼に 談を しました が、 兄弟 フォ 〃ダム は 口が 利け ず, -孔は 

•.1 一 三 



1 一四 

据 つて 義眼の 如くな り、 何にも 辨らぬ やうに なって 居ました、 ス ミ スは猶 彼の 手 を 持って 

もぐぐ しぼ B かれめ なが を 2 めんさう な は がん 

默々 として 暫く 彼の 目 を 眺めて 居りました が 1 間もなく フォ ル ダム の 面相が 癒り 變 つて 眼 

リ 上く かへ つみ でき t わ 札 し たブ 

力が 回 て 看る N- とが 出來る やうに なった、 而 して ス ミスが 「我 を 知る や」 と尋 ぬれば、 

かれ 乙 しか 乙た た ひや しんか ラ た, ク すで 

彼 は低聲 にて 「然 り」 と 答へ ました、 ス ミス は復 「癒される:;: :2 仰が あるか」 と尋 ぬれば 「旣 

お. V います こ はや きた いや そろ いま た き やうお. S 

に遲 し, 八 「少しく:: 十く 來 らしなら ば瘡 された るな らん も 恐く は 今 は 難 からん」 と 兄弟 フ ォ ル 

X ゆん しゃ しん を 

ダムが いひ. ^した、 预言 者ス ミス は 「イエス、 キリス ト を:^ じて 居る ではない か」 と、 フォ 

よわ こ K ぶ しん を /J た . ち t くりつ おな も 

〃ダム は 弱き 聲 にて 「信じて 居ります」 と 答へ-ました、 そこ-て ス ミス は 直立して 同じく 其 

て はぎ ャ J んじ あ ひお f ち つぐ い な いきなり ひじ ゃク ; -ほ 乙 《^ いば き やう 

の 手 を 握って 暫時の^ 口.^ -tff んで言 ひ 出さなかった が、 突然 非常な 大きな 驛 にて 曰く 「兄 

ない われ な よ なん^^' めい しとね a な い . 

免 フォルダ ム よ 我はィ エス, キリスト の 名に 依りて 汝に 命ず 褥を 離れて 凝え よ」 と、 ス ミ ス 

乙《^ ひと 乙 ゑ ごと かみ 乙, 0^ ごと いへ ど ^い しんど ク 

の聲は 人の 聲の 如くなら ず、 神の 聲の 如き もので あ ました、 家 は 土 S まで も 震動した や 

き やうお い 1 1 . i 1 11 とこ と い パップ ほうた 5, とす きもの き 

うであった、 兄弟 フォルグ ムは 床より 飛び出で V 發泡ゃ 綳帶を 取. 棄 て,, 若 物 を 着、 パ ン 

ぎ うは, ノ も きた それ . し 上く X はんしゃ とも そと ゆ 

と 牛乳-一 を 持って 來れ とい ひました、 其 を 食し ますと 預言者 スミ ス と共に 外へ 行きました 

き々 う もい び やうき -. かれ いや み ちから も ==== 

兄弟 ノ ベ ルも病 無でした がス ミ スは彼 を もまし ました、 ス ミ スは祌 の カを以 つてで ント 



I すべ び や しゃ い, や. のち, わたし,, ぶ 2 ば ゆ こ、 また はん き かれ 

P I スの總 ての 病 者 を 癒した 後、 波 船 場へ 行きました、 此處で 又 他の 一人が 來 ました、 彼 

ぴゃゥ W ん い ,や し ばん i た /- 5 かへ を 3- .9 えつ S 

はジ ヨセフ、 スミ スか 病人 を瘡し 死人 を も 再び 生き返し てお ると いふ 乙と を^いた 故、 妻の 

願に 依 6 て來 たので あるが 病める 己の 三 ヶ月の 孖 子を縻 され 得べき かと 賴み ました、 ^ 

— われ なん/ „- 5( ゆ えたれ つかば ちゃうら う. i ゆん し *- 

スは - 我 は 汝の家 へ 行く こと. VJ 得ず 誰 を か 遣すべし」 と、 長老 ゥ ッ K ラ フは预 一一 一一 E 者ス ミ ス に 

め そ ひと 6 へ ゆ かみち からよ も 乙 ども いや 

召されて 其の 人の 家へ 行き 祌の 力に 依. > て 其の 子供 を 癒しました。 

も ひ ぱづと いきた ひと いや >£ ばな た はん ため いのり み ひと 

其の 日 暴徒 は絕 命え て をる 人が 疲 されて、 床 を 離れ 他人の 爲に祈 をす る こと を 見て 一方 

おそ t し ぬ それ か /- かれら な はし- 1 ね X きぐ わい X ,ん 

ならす 畏れて 腰を拔 かしました、 其に も拘 はらず、 彼等 は尙 執念く も 好き 機^ あらば 預言 

しゃ お 上 そ き やうない かなら ころ か じつ そ ひ せいと あく はん 乙 

者ス ミ ス 及び 其の 兄弟 を 必ず 殺し 兼ねなかった てあらう、 赏に 其の 日 は 聖徒 も 惡人も 此の 

上 かみ ちから ^ん じつ み わす ひ * 

世に 神の 力の 现 する を 看た 忘るべからざる 日で あ, ました」 と ◦ 

丄, と せいと 乙 あたら とち うつ あつ はたら a" た W たえき がい ため ま おいかい むかよ 

十二使徒 は jlii 徒 を 此の 新しき 土地へ 移し 集める 働の 爲め、 又疫 害の 爲に 未だ 「大海の 向」 

でんおう ゆ そ 》 ^へ とし しラ さゴ け i- し 上つ ゆ やう W ん 

へ 傳 道に 行かれなかった (其の 前の 年ミ スゥリ 州で 授けられし 啓示に 憑て 行く 樣に 任ぜら 

/ : * れん ゆつ にち , しんでん & ち せ いと 乙く 

れ ました) がー 千 八 百 三十 九 年 四月 二十 六日に フ ァ I、 ゥ" ストの 神殿の 位置で 疆 徒と 吿 

ぺっ よ ゆ /- しんでん どたい すば じ か 3( としょ ゆん しゃ 上 せ. a と あた 

をして 再び 神殿の 土 臺を据 る 始めました、 M^-て前の年預言者ス ミ スに 依らて itii 徒に 與 

1 1 五 



1 一六 

へられた 預言 は赏 現されました。 

た 5, る 乙よ ゆん し けつ 乙れ じつ ん けっしん 

大尉 ボ 1 、、力 ! トは 此の 預言の 乙 と を 知った のて 决 して 之 を實现 させぬ と决 心しました、 

乙 ほっしん あ ^つ な. a ぼごろ ^==^= しう のこ ケ- わ, つか せいと ぶんこく なった 

此の 决 心が 有つ たれば 乙 を i: 月の 半顷ミ スクリ 州に 殘 つて 居つ 4 ^僅の^ 徒 を殘 酷に も 全く 

ばゥ ちく あへ 乙 うへ い か せ 5 と たうて 5 そ 

放逐す る 乙と を敢 てしたの て ある、 此の上に もボ -ガ -トは 如何にもして 徒が 到底 其の 

けいし じつ £ん でき きぼう を 上 £ んひ 

啓示.: 現す ろ ことが 出來ぬ やう. にしたい と 希望して: 56 ましたが、 预 一::: の:: Z ボ -ガ —ト 

« ^ うち ご ん じ はんく わい W ん ■ しム^-ゎ3 ひ it しんでん すみ 

が 未だ 起き 出て ぬ內 午前 一 時に 十 i 一人, $〕 の 七 人 は フ r 、 ゥ H ス ト で然, ゆ: E を 開いて 神殿の 隅 

石 を 据ゑ、 クヰル フォルド、 ゥゥ ドラフと ジョ 〃デ、 ェ I 、 ス ミス と を 選ん で 使徒と し、 

はん けうく .si, ^!-上めぃ な はの こ せ 5- と 乙く ぺっ . — I > う し S つばつ 

三十 一人 を敎會 よら 除名し、 尙殘 らおる iil 徒と 吿別 をして イリノイ 州へ 出發 しました、 か 

て 3 お W へ かみよ けん じつ £ん てき か ぱか a つ ひ みゴの あば 3 

くて 敬が 起きぬ 前に 神の 预 言 は 赏 現され.^ したが、 敬が 豫 ねて 謀た る 乙と も 遂に 水、 泡に 歸 

したので あります 

ねん なつ あき ち ひお I と/ J ろ JV んぐゎ いばや しんぽ ふ けんかう しっち 

1 千 八 百 三十 九 年の 夏と 秋の 間 コ ン マ t スと いふ 所 は 存外 早く 逝步 して 不健康なる 5! 地 

rt- つぼ まち な のぞ た 《5S せい てき ^:-ゅクし上 せ 5- と しょぐ ゆ ふ ふし 》. 

より 立派な 町に 成. 9、 望ましく 又衞 生に 適する 往所 となりました、 • 聖徒の 職業 は 不思議に 

みなせ いこう ゆん しゃ た やぐばん 乙\ろ なケ a ちか 6 やしお と %ff ^こ くん 

も^ 成功し ました、 又预ー ス ミスと 他の 役人より 心 を 慰め、 力 を 養 ふ 所の 忠告と 賢き. # 



かい かう む そ かれら はたら ftl た おは し クラ #f き ひと をし へ しん けうぐ わい ^< 

誡とを 蒙. 9 ました、 而 して 彼等の 働に <ハぬ め 多くの 正直なる 人 は敎を 信じて 敎<^: に, 魔し まし 

どうねん つ £; つ しと ^ん おのれ また か ぞく もの び や. r き お お ほい くるし を 

同年 八月と 九月と に 十二使徒の 七 人 は 己 も 亦 家族の 者 も病ハ をした 爲め大 に 苦んで 居つ 

かゝ かみた 上 か fv< わか 免 i>NJ くでん^う § a* んゅ つか 

たに 拘 はらず 神に 憑って 家族と 別れて 英國傳 道に 行きました、 一 千 八 百 四十 年 四月 六日に 

- つ それ えい 乙く たいざい あ ひた お 5 めぐみ え でん J? う あたら 

リゲ アブ.'〃 に 着いて 其より 英 國に滯 在した 間、 大 なる 惠福を 5:: て 傅 道, どし まし^、 新し 

せんけう し き ため tW へ およ ど. 1 ノウく ひと ひら でんおう な は 

き 宣敎師 が 來た爲 に 能に ヒ ベル、 シ-、 キン パル 及び 同役の 人に よって 開かれた 傅 道は尙 

いっそう せい 巧. S X けつぐ わ あた ^J せんけう し & ちとせ ほし i- ぞ つし はっかん 

一層 盛大に なって 好き 結果 を與へ した. 此の 官ー敎 師等は 「千^の: n^」 と 云 ふ雜誌 を發刊 

しゃ せっち けいてん ぶ さんび かし 上 * せう さっし ぶ ん 3 ゥ また 

する 社 を 設置し、 モだモ ン經典 を 五 千 部、 讃美歌 書 を 三千 部、 小冊子 を 五 万 部 印刷し、 又 

じ やうせ つい みん X, わい しゃ まう はん 5 じ やう かいしん しゃ けうく. S" い は 5 乙 としば じ 

$ 巾設移 八?:: 祉. ぱ けました、 三千 人 以上の 改心 者 は 敎會に 入りました が、 此の 年始め て 一 

はんい じ やう アメリカ ^ynNnnn い ゆ う 乙 じゅふ つかさど ひと しとく わいち やう 

千 人 以上 は tGj 米 利 加の シ オンへ 移住し ました、 此の 事業 を 司った 人なる 使徒 會長ブ リガ ム - 

ねん £ つ にち あ .13 やうたい とも - j しラ . し か ( 

ヤング は 一 千 八 Is 四十 一 年 七月 一 日に 或る 兄弟と 共に イリ ノ ィ州ナ I ゲゥ市 へ 歸,. ^まし 

た 

そ あ お X ゆん しゃ くわい ゐん しんで 5 うし 上 う.?. あつ また しう はゥ く せいと 

せ 〈の 間に 預言^ スミ スは 員 を 新 住所へ 移し 橥め、 又ミ スクリ 州より 放 された る^ 徒 

一 1 七 



1 1 八 

う かんなん がっし, ルぅ 乙く せ. S ぶ もし たいとう 9 や ラ し じゅんび 

が 受けた 艱難 を 合衆國 政府 若く は 大統領に 知らし ひる 準備 をし ました、 一 千 八 百 三十 九 年 

ひつ りじ やう ぶん たつ ため さい ぼんぐわん r I I とも -■ し, e つ. N つ ^!-フ 

十月 廿 九日 上聞に 達する 爲に 裁判官 イラ ャ ス、 ヒ タグ ビ と共に ヮ シン ト ン I へ 出立して 十 一 月 

にち たうち やく そ あぐ 2 ひり やう はん おいとう りゃう くわん しゃ S 1 . 3 う たい えう 

二十 八 nn に 到着し ました、 其の 日 兩人は 大統領の 官舍へ 行き、 ミ スゥリ 州に 對 しての 要 

きう たいとう リ やう じ やう しん たいとう リ やう さいし 上 かれら くわん: b<. この 

求 を 大統領 ゲ アン ビ ユレ ンに 上申し ましたが、 大統領 は 最初 は 彼等に 關係 する こと を 好ま 

IX な K う なん is- ら ため なんら ち; 3 うさい な え ち,? - うさ C- 

ずして r 予何 をす る rJ と を 得べき や、 汝 等の 爲に 何等の 仲裁 を爲す 乙と を 得ず、 仲裁 すれ 

I しう $-ん みん かんじゃう が 5, しか せいと しゅつ ぐわん ォんリ しなち やう 

は ミス クリ州 全: の 感情 を 害すべし」 とい ひました、 併し 垂 徒が 出願す る權利 ある を 主張 

おいとう リ やう ま 《 ことば へん そ ぐるし たみ どうじ a- う へう よ ゆん しゃ 

しました、 とこ ス" が 大統領 は 前の 言を變 じて 其の 苦め られ たる 民に 同情 を 表して 預言者 ス 

> ゆう う き, グ , ふくいん かれ せつめい れい とほ け" TV- わい かみ 

ミ ス の 宗敎を きた いと 云 ひました、 ス ミ ス は 福音 を 彼に 說 明して 例の 通, 5 敎會は 神の も 

し上ク 乙 ねっしん た こつぎ うもん とき ぉハ とう:: V やう 

のて あると いふ 證據を 熱心に 立てました、 此の 次に 訪問し ました 時に、 大統領 はス ミス を 

ぶ れい むか t~ いき ふ そ たんぐ わん き なんち じ けん せい f ど ラ ら ゆうさ. $ え 

無 禮に迎 へ、 性急に 其の 歎願 を 聞き 「汝の 事件 は 正常 なれ ども 如何と も 仲裁す る? -とを 得 

I なん おら ス かた そうせんき 上 とき しう とうへ う うしな き めう お? ^^A- う 

ず、 汝 等に 味方 を すれば 總選擧 の 時に ミス ゥリ 州の 投票 を 失 ふべ し」 とい ふ 奇妙なる 大評 

5^ , に •&( あま それ 》 ゑ 上 けんしゃ おいと- TM- やう さ かれ くわん し 上く え ため ひと 

やの 答 を與 へました、 其 故に 預言者 ス ミスが 大統領 を 指して 「彼 は 官職 を 得ん が 爲には 人 

つ a に^う いと し はこ たかぶ を とくせい しゃぅ^!-き 乙う 《い し 

に追從 する rJ と を 厭 はす、 而 かも 誇り 傲る nJ と は 其の 特性で、 正直と 公平と を 知らざる も 



べつ ちんき 乙と 

ので ある」 とい ふたの は 別に 珍奇なる 事て は あ 6 ません 

そ > -^. あ ひたとう はう たいざい ぐ は もっと いうめ S せいで か ちじん K- ぐヽゎ V 

ス ミ ス は其の冬の間束方に滯在して國の最も^^名なる政治家を知人としまし.?^、 國< ^の 

じ. クウ るん ぎ るん n けうと ぐが い はなし き なん^ら MHMnMnMHnnHHN ゆ 

上院議員なる ヘン リ、 クレ f は 「モル モ ン」 敎 徒の 迫害の 談を 聞きて 「汝 等はォ レ ゴ ンに行 

とくさく 乙た い こ/ろ かいく わ えいき ラ およ ぺ つせ わ 5 ごと たう じ おも 

くが 得策な らん」 と 答へ ました、 謂 ふ 心 は 開化の 永久に 及ばざる 別世界の 如く 當時思 はれ 

HnnnMMyMU 5 しゅうせ 5 乙ゝく つ ゐはラ はん —— 一う せん 

たる ォ レ ゴ ン に 行きて 終生 故國の 追放 人と なれとの 乙と て ありました、 ィ リノ ィ州 よら 選 

CI よ 乙く Z- わい ぎ & ん 《«- ちもんせ じ てき は-つ しん けクと たど せいじ どやう & うせい けん 

舉 された る國會 議員 は 勿論 政治的 方針と して (「モ グ モン」 敎徒は 直ちに 政治 上 優勢の 權を 

(ラ やうす せいと なんじ ふお 上 せいきう の けんぼく しょ 3 た ぐわん しょ じ やう るん さしお 

有する 檨 子でした) 聖徒の 難 溢 及び 請求. ケ载 せた る 建白き 又は 願書 を 上院へ 差 出す 乙と.^ 

ややう や,., ^l'ゃぅゃく とほ リ し 上る る と w つ なれ が;' し 5 う t くせ i-Lt irj やうせ いぶ 

定約 しまし.? r 定 約の 通に 書麵は 取次 がれた が 何にもなら なかった、 合衆國 政府の 行政 部 

w つ? ぷ i.- : う- ざん 乙ぐ せいと なんじ ふ ぐ は くわん そ しう す 乙 

でも 立:^: 部で もミ スクリ 州が 殘酷 にも S 徒に 難澀を 加へ たこと に關 して は 其の 州 を 少しも 

けんせき 

譴責し なかった。 

乂" 

t ゆん しゃ はん しう たい はと K ル そんがいえ うし やう そ はんばくし 上 い つ 

-,1=預言^!9ス ミスは四百九十 一 人ぶリミスゥ"州に^!しての殆んど百^?=十|^卯の招害 要 m 其の 建白 ffs と 一 

し 上 さしお /J れ 3 いぼん &ヽん ぷ たく な は 

絡-し 出しました が、 は 裁判 委員に 附 托せられた けれども 何にもなら なかった。 

よ はんしゃ せ S> 力 か おいまう せんみん w えきお 上 へいあん ほ ご はんき と 

預言者 ス ミ スは 政治家の 大望 は 全 民の 利益 及び .平 安 を 保護 するとでなくて て、 人 氣を取 

1 一九 



1 二 o 

またたかぶ し おはい おどろ やう や か ら かう さい 5 さ & 上し 

る 乙、 と、 叉 傲る 乙と て あると 知って 大に 驚きました、 漸く 彼等と 交際す る 乙と を if とせ" 

. —— さ ねん t つか し たラ ちゃぐ と,, ,はう た 5- 

ず、 ヮシ ント ンを 去って j 千 入 百 四十 年 三月 四日に ナ -ゲゥ 市に 到着し ました, - ^3^方に滯 

あひな たび-, (-ム くいん の つた をリ じょう し まお しう 

在せ る 間、 度々 福音 を 宣べ傳 へ、 機に 乘 じて ヮ シ ン トン 市で、 又 ペン シ ルゲ" -1 ァ州チ ェ.. 

ぐん まち 》, (.\ また > たいち やうし ゆう せっけう 1 1 ぐん のち- 

スタ. - 郡の 町 で、 ヌ フヰラ デル フヰァ 市で 大 聽 衆に 說敎 しま >た (チ H スタ - 郡で 後 

けゥ くわい そうかんとく な . ば じ あ 

に敎 會の總 監督に 成った ュ ドヮ I ド、 "ン タ- に 始めて 逢 ひまし. 

そ ちひ& そ きんば ゥ おい けゥ くわい みちび! y かん な 

其の 問ナ — ゲゥと 其の 近 方に 於て 敎會は ハイラム、 ス ミスの-翁に よって 益 盛に 成り 

たう じ _w ち じんこう はん た 3^ >^ ぶ 

つ 、あ..^ ました、 當^ 町の. <: 口 は 三千 人て あつたが 直ちに 二 万に え、 クヮ- ド部は 七つ 

そ まち 5 ぐ わ 5- のうみん を ち はう は ど 

よら 十に な. n- ました、 而 して 町の 以外 農民の 居る 地方に 三っ^ ありました。 

お, V ろ ぐ わい ぶつ あら は _H おあらた ばくがい はじま S ん ホウ はち 

恐し き 怪物 か 現れ たや ラ に復 新に 迫害が 初り ました、 一 千 八 百 四十 年 九:^ 十五 日ミ ス 

■ しう ち じ ■ よ £; ん. や お 上 あ な たか ちゃうら う たつぼう 

ゥリ 州の 知事 リンパ I ン、 ダブル ュ、 ボタ グスは 預言者 ス ミス 及び 或る 名高. さ 長老 を 逃. U 

^ん まう-し 上う かれら ひき わ; 1- し し-つち じ え-つきう 乙れ ため おは ひと 

人と 妄^して 彼等の 引渡 を イリノイ 州 知事 力 I リンに 耍求 しました、 之が 爲に 多くの 人が 

めいわ < そ まへ ひ _ . か うれ S ち /- し きょ 乙と 

迷惑 をし ました、 其の 前の 日ジョ セス、 ス ミスの 高齡 なる 父が 死去した のて、 ス ミス は殊 

こ/ろ いた しう ひと どうじ やう i ひと な ぐ <XfC ち じ 

に 心 を 痛めて を. 5 ました、 されば ミス ゥリ 州の 人に 同 を 寄せる 人 は 無 さ 位て 知事 力 —リ 



—— を えう きうし よ そうたつ 卞 U へん a. やく しか す わた そら いつば う- 

ンは 其の 要求 寄 を 送 e 一せ ずして 知事 ボッ グスに 返却し ました、 然るに 澄み 波る 天签の 一方 

かたく も つ ひ ば やて あらし 上 あんたん てんち へん くわ ごと *j ふ g くわい で 

にある 片で, :4 も 遂に 狂風 猛雨を 呼んで 暗 IS たる 天地に 變 化せし むる 如くに 此の 不偸 快なる 出 

き ごと まさ L およ せレと せんたい たえま V, は さ. S なん せんてう Z 

來事は 正に スミ ス 及び 聖徒 全 體に斷 間な く 加 はらんと する 災難の 前兆て ありました、 此の 

さ いなん すな は 1 けんしゃ ぎ やぐ さつ またぶ しぎ むひ せんせ かい けい 

災難 は 即ち 預言者 ス ミ スが 虐殺され たる こと、 又不 E- ゎ議で 無比なる ものと— て 全世界に 驚 

がぐ ところ ^^.$ぉぃき上すなは せいと かいぐ わ ち はク せいは ゥ ゐ や ぼんじん の は- 3 は f ちく 

愕 させる 所の 大返去 即ち 聖徒が 開化した る 地方よ 西方に 居る 野蠻 人の 野原へ 放逐され る 

乙と て ありまし や •。 

• 1 千 四十 年と 四十 一 年と にかけ ての 冬に リイ ノ ィ州會 は ナ I ゲゥを 市と 認めて 其に 

くわん たい とくき. M じ やう じ5 よ i ゆん しゃ L とぐ き. よじ やう じ 5 5 たいぎ もと., ゥ 

ゆ:^ 大 なる 特許 狀 を授與 しました、 預言者 ス ミス は 此の 特許 狀は 「自. H、 大義に 基いた のて 

けうく わ 5 ばう かう サぐ いお せいた う しゅう ぱ くべつ た すべて じっち 上く ひと は ご あた 

敎^ を 暴行よ. 救 ひ 出し 政^ や 宗派の 區別を 立てず して 一 切赏 直なる 人々 に 保護 を與 へて 

あんせん す てきた タ ;;; ん ゆつ おち く ん と 

安全に 住 t< はせ る」 に適當 し. ものである とい ふた、 一 千 八 四十 一年 二月 一 日に 件の 特 

きょじ やう じっし そ ひ さいし 上 こうせん そ のち はちと くきよ じ や ラ しる と は 

許 狀は赏 施に なり、 其の □ 最初の 公選が ありました、 其の後 二三 B 特許 狀に 記された る 通 

おい 5" く かう まラ ぐん;^ ん そ し, さ のち そ ち :3 うし やう 

り, 大學校 は 設けられ、 ナ-ヴ ゥ軍鬧 は 組織 せられて、 後に ジ ヨセフ、 ス ミス は 其の 中將 

になら まし pio 

1 二 一 



二三 

ねん ゆつ か おいぐ わい とき しんでん すみ し す そしん 

一 千 八 百 四十 一 年 四月 六日の 大會 の時ナ I ゲゥ 神殿の 隅 石が 据 ゑら れ ました、 而 して 神 

でんお i し! 乙う しゅう たてもの ふ しん せ. S こう 5- そ た i ゆん しゃ きんじ 上 さんざい 

殿 及び 稀々 の 公衆の 3^ 物の 普請の 成功 を 急 r 爲め、 預言者 ス? スは 近所に 散在せ る ステ- 

ぶ せいと し てんきょ かれら す/ * こ す/ -J0 おう せいと し 

キ 部の 徒が ナ I ゲゥ 市に 轉居 する rJ と を 彼等に 勸 めました、 此の 勸吿 に應 じて S 徒 は 四 

は r I うつ , すみい し す た すなば しんでん らくせい た 

方ょりどし/^ とナ I ゲゥに 移り 「シ オン の 隅 石」 を据 ゑる 爲め 即ち 祌殿を 落成せ ん爲め 

gfe し おは かつ りつば た —— せ 5 と せい! y 上く あば はたら 

又ナ I ゲク市 を 大きく し且 立派に する 爲めナ I ゲゥの 5if: 徒と 勢力 を 合せて 働きました。 

ない こぐ ぐ わい 乙く せいと じ ゆ よ はんじゃう お 上 ほか しと 良い 乙く 

內國 にも 外國 にも 疆 徒の 事業 は 繁昌し ました、 フリ ガム、 ヤング 及び 外の 使徒が 英國ょ 

かへ すで お ほい はったつ し な はいつ, V- う V- い *c-5 

歸 りまし^ ので、 旣に 大に發 達した るナ 1 ヅゥ 市は尙 一 層 盛大に なりました、 ジ ヨセフ、 

, めいせい おうべい SV やうし うち 2 うひろ れん せ と こ うへ 

ス ミ スの名 聲は歐 米兩洲 中に 廣ま. ました、 一 千 八 百 四十 二 年に はスミ スも 疆 徒 も 此の上 

な たいばんえ S を ぺ i- こく おはい しんぶんしゃ き しゃ きんせ 5 ぐんじんて きょ t ん しゃ およ 

も 無い 大繁榮 をして 居りました、 米 國の大 なる 新聞社の 記者 は 近世の 「軍人 的 預言者」 及び 

そ き やうたい ぐわん とうし 上 ため - I- 9 けうく わい さう リク とき 乙 じ せつ もっと 

其の 兄弟に 岡して 投霄 する 爲に ナ- ゲ ゥに來 ました、 敎, rin の 創立の 時よ 6 此の 時節 は 最も 

tt んじ やう かつじ き しんぶんき しゃ のぞみ まか けうく わい さう リっ そ 

繁曰门 する に 好 時期で あ 6 ました、 新聞記者の 望に 任せて ジ ヨセフ、 ス ミス は 敎<!:34^ 立 や 其 

tt ん にやう そ H ぐが い かんたん しる あた そ うち けうぐ わい し 人 かう か でう よく 

の繁 CEI や 其の 迫害の こと を 简單に 記して 與 へました、 其の 內に は敎, st: の 信仰 箇條も 八 a んで 

あ. ました 



そ た ばつ じっせいと けうり れさし き さい し 上 もつ ぜんせ かい いた と 乙ろ ばいよ 上 んし 

其の 他 末日! 徒の 敎 OT: ゃ歷史 を記载 せる 番 物 は 全世界 到る 處に 配布され ました、 預言, 者 

U /ん けうく わい きぐわん ざっし ぐ さ へんし ぷ 乙れ もつ おは きち 上う しんり をし へ 

ス ミス 自身で 敎< ^の 機關 雑誌 「おりく^」 を 編輯して 之ヒ 以て 多くの 赏 なる 具 理ゃ敎 

ひろ ねん ゆつ y ち, \ じんじ せんく わ 5 そ しき またい く S ん 

を擴 めました、 一千 八 百 四十 二 年 三月 十七 日 婦人 慈善 會は龃 織せられ ました、 又 幾 百 人と 

しんれい う しみん つば い 《お 上 う wtt れは つく にんこう ぷ したが 乙う ゆ ふ 

なく 浸禮を 受けました、 市民 は 立派なる 家 及び 美しき 庭 を 造. o、 人口が 戒ぇ ろに 從 つて 工業 

さかん そ せいと いっち せ り 上く およ きんけん ため I やが — しう もっと 

も 盛に なり、 面して 1! 徒の 一 致、 勢力、 及び 勸儉 の爲に ナ I ゲク は頓て イリノイ 州の 最も 

たいし み う SH —— じん 乙う すみみ はん よ 

大 なる 市になる らしく 見えました * 魔し きナ I ゲゥの 人口 は 速 かに 二 人に えました。 

n^Nn^y じつ はんえい けうく わい せいお いお 上 めい 上 乙 や 3 ちゃう じゃゥ 

シォ ンは實 に繁榮 になり つ、 あらまし たが、 敎會は 盛大 及び 名 患3 とい ふ 小山の 項 上に 達 

1 ゆん しゃ やが またせい と す 乙 かんなんしんく み あんこく 

したの て 預言者 ス ミ スが顿 て 又 聖徒が 過ぎ 越さねば ならぬ 艱難辛苦に 満たされ たる 暗黑な 

たは ま 上 a- おのれ 3 た I ぷ しぎ じゅ ふためみ ぎせ 5 き 上う じゅんけ うし や 

る 谷 問を豫 期し、 己 も亦シ ォ ン の 不思議なる 事業の 爲に身 を 權牲に 供して 殉敎^ となる ベ 

み & 

きを 見拔 きまし. {^o 

{ ^-ぃ しゃ ゥ ぐ も あん たん じゅうさつ ばか S- ごと 

第二 章 雲 暗儋、 ス ミ ス 銃殺の 謀 

1 千 八! n 四十 二 年 四月 九 口れ IT^ ステ, T キ部々 1:^ ジ ヨセフ、 マ-.' クスの 子 の 葬 鱧の 

ニー 三 



二 i 

とき 上 ゆん しゃ えんせ つ おのれ うんめ 上き はに つ そ えん?? i つ うち おのれ 

時 預言者 ス ミ ス が演說 をして 己の 運命の 雅期を 始めて: げ ました、 其の 演說の 內に己 はも 

乙れ なが せいそん かみ やくそく あるひ せいめい ちんたいけ いや,, - な し ひと 

ぅ此 より 1:^ く 生存 するとい ふ 神の 約束 或は 生命の!^ 货 契約が 無い からもう 死ぬべき 人て あ 

ぼつち やう はん き そ ゆつ のち £: ク か = しう =s ち き やう; ^-5 くわい 

ると, 份聽 人に 氣 づけ まし.?^、 其の 四ケ R: 後 八月 六日 アイオワ 州モ ント , ス 町の 兄弟と 會 

たん ふきせ いと また さら せいば う ヒ "ゆう おは、 かんなんしんく ,ノ せんけん 

談 した 時 聖徒 は 又 更に 西方に 移住し 大に 艱難辛苦. 受けねば ならぬ とい ふこと を先见 して 

そ ちょ jS5 よ ゆん きさ 5- 

其の 著名なる 預言 を記载 しました。 

i ゆん しゃ いは さやう おい し う ひと おも せいと それ まちが ^-ち>cんぁ じ 

"一" マ ゆ 言 スミ ス 曰ぐ 『「兄; 拗 ジ ヨセフ」 は 死 LL 得べき 人 < ない と W 心 ふ 聖徒 も あるが 其 は 間 達って 1^ る、 勿つ 1 或る 事 

ゆ. A じ やう じゅ ためし な かみ やく もく を W- ふし もば やそ tt たらき しと た 

成 ん は 死す る: と 無しと 神 i リ 約束され たろ-、 とも 折節あった が、 其の 働 A^ft 遂げれ 爲 

いま もはやせ 5 めい ちんたいけ いやぐ な ふつうばん みん ごとし 

め 今より は 最早 生命の 貧贷 契約が 無い、 並 cajffi 民の 如く に 死 すべさ ものて ある』 と。 

そ 上 ゆん つぎ ごと は われ ょ卞ん せいと ひきつ ど おは い しんく しの - , ャ」ん はう 卞, く 

+其の 言 は 次の 如し 曰く 「我 は す、 聖徒 は 引^き 大 なろ 辛卞: か S: かぶべく、 ロッキ I 山へ 放; 迩 せらるべし、 

おは もの おらぐ あるひ われ. (-ぜ いと はくがい もの 乙ろ ぁス. ひ 13 乙う め あるひ ぴ やう _3 し もの 

多く の^は 猿 落すべく、 或 は我々§;^徒VJ^9辔する^に^され、 或は氣候卩挫げて或は病氣にょって死ぬ^?もぁ 

また あ せいと せいめ い — n ゆ しょくみん し つく じゅぶ じゅうじ そ つ ひ かれら 

るべ し、 又 或ろ 徒 は 生命 ぁリて ロッキ I 山 に 行き、 ^ 民し、 市. 作る 事業- 」 從 事すべく、 而 して 遂に 彼等 は 

や 一ん ち^うき やう.!^ - 尸 たみ み 

ロッキ.' 山中の Si5 大 なろ 民と なる,^ 见ろ べし」 ふ 

ねん ゆつ や しん た ふ じつ ろ けん 

- 一千 A 百 四十 二 年 五月 ジ H 、 シ I、 ベン ネットの 野心 あり、 又不赏 なること が 露 顧し ま 

ひと > ちゃう せんき 上 た.^ がぐ かう がく a に § 上 やく ゐん 

した、 ベン ネ トと いふ 人が ナ — ゲゥ 市長に 選舉 せられ、 大學 校の 學位 を授與 する 役 n; に 



せんて^ まな ぐんなん せう しゃう えら なう り よくお t 3 いち ひと 

選定され、 又す- ゲゥ 〔卓國 の 少將に 選ばれました、 ベン ネット は腦カ 及び 才!; ある 人で し 

ひんせい あ なた 々うしん な じんぶつ しか . I とぐ s 上 じ やう ラ 

たが、 品性が .=0^^ しくて 又 良心の 無 S 人物て あった、 併しながら す- ゲゥの 特許 狀を 得る 乙 

つ せいと た おはい しう せん せいと そ w やう しん な あくかん さいしょ き プ 

とに 付き 徒の 爲め大 に 周旋し ました、 i-徒は其の良心の無き惡漢なること,^-最初に氣付 

おはい かれ そんげ い しん 上う のち かれ を しん 上う はブか ふ めんもく 

かなん, おので 大に彼 を 尊敬し、 信用し ましたが、 後に 彼 は^の 信用 を 辱し めて 不面目なる 

お zJ な ひ ぐん おん せんとうえん しふ ことよ t*c くは^¥ &ぐ てき はプ § ゑ 

行爲 をし ました、 軍 園の 戰鬪 演^に 言 寄せて ス ミス を 殺さん と 企てた が、 的が 外れた 故 

Imt せいと ぐわん リ いク き 上 ゆん いふら そ き上£ん うち i ゆん しゃ 

ス ミ スと龜 徒と に關 して 由な き 虛言を 言ひ觸 しました、 其の 虛 言の 中に 預言者 ス ミ スは 

おんお よ ム ざ もく き 上 をと aJ をん な ひそか つ これ もちろん おのれ あくじ か 

男女の 不義 を默許 するとい ふ 71 と を 5^ にも 女に も 陰に 吿 げま した、 此は 勿; i 己の惡 事を隱 

く ため > かん そ のちぶ ざ ため けうく わ 5- ぷ よめい . "はめ S 

g£ す爲 であった、 如何と なれば 其の後 不義の 爲 に敎會 より 除名され ました、 除名され をる 

お 上 せ C- と せんたい つい もっと あし き 上せつ ふく しょもつ あら は 

ベン ネット はジ ヨセフ、 ス ミ ス 及び S 徒 全體に 付て 最も 恶き 虛說を 含む ま 口 物 を 著しました. 

そ 乙れ ため も はやせい と たい へんば しん じんみん なほい つそう けん を ねん いお ゆつ 

而 して 之が 爲に 最早 聖徒に 教 して 偏頗 心 ある 人民 は尙 一 層 嫌惡の 念を懷 きました、 八月に 

しとお よ お ほ ちゃう, f うこ ざん を もん ぼ ひれり. ぎ-ねん ば た . せんち セ う , つ.^ ぷ- 

十二使徒 及び 多くの .::^ 老は 此の 議訴を 論破し、 や 劣なる 疑念 ヶ 晴らす 爲め 全地方へ 派逍さ 

れ ました Q 

しゥ お ばう と 上 えん じ らいな ほ ま せう めつ ゐ ^ つ 

ミ スゥリ 州に 於け る D| 徒の 餘炎は 爾來尙 未だ 消滅して £5 なかった, •r^R:: イン. テベ ンデン 

一 二 五 



NHL せんち じ あんさつみ す &ざ い を か -^の ,^ じつ 乙れ けうと わ 

ス 市で 前 知事 ボ タ ダスに .哜 殺 未遂罪 を 犯した おがあって 不 §2: にも 此は 「モ ル モ ン」 敎 徒の 業 

ふこく そ そ はんすい 也ん じ: どうはんしゃ うった 《 

であると 誣^せられ ました、 而 して ジ ヨセフ, スミ スは 其の 犯罪 前の 從犯 者. たとい ふ 訴 を 

A 乙 もの 上つ しラち じ しうち しゃ ひきわたし えう きう 

起し. p:! 者が あ. ました、 因て ミ ゥ スリ州 知事 はィ リノ ィ州 治者に ス ミ ス の 引渡 を耍 求し ま 

した、 其 故に ス月 八日 ナ I ゲゥて ス ミ ス とォ ー、 。ヒ, '、ロック ゥュ 〃は 拙 縛せられ たが 市 

さい ぽんし 上 しんもん けつ < わむ ざい はう めん しか そ のち また てき て わた- 

裁判所で 審問の 結果 無罪 放免と な. ました、 併しながら 其の後 又ス ミ スを 敬の 手に 渡さん 

はか もの おは ゆ ゑ しぼら を み せんとく よろし かんが を ,v の 

と 謀る 者 も 多くあった 故、 ス ミス は 暫 く 14 ハの身 を 潜 匿す るが 宜 いと 者へ ました、 而 して 其 

^< を あひな しんでん ュ しん けいぞく し しゃ ため しんれい けう 《- くわん おはく 

潜れて 居る 問に 神殿 普請の 繼總 のこと や 死者の 爲 の浸醴 とい ふ敎 理に關 して 數 多の 重大な 

けん/ \ て み した、 せいと おく 上 こしま もの じん な あた すべ はか W- ごと つく 

る件々を手紙に,|§めて5|^^徒に贈りました、 邪なる チ? は 入 類の 成し 能 ふ 総ての 謀 を盡 して 

とら 乙れ みなす <0 ぱゥ 3 ちじ と おさ 

ス ミ スを^ へんと しました が 是は皆 水泡に 歸 しました、 知 1;^ 力 f リン はス ミ スを 捕..' 縛へ 

ため しゃう れいきん ^ せん ゆん しょお よ れいじ やう はつ しか ねん ゆ ク 

る爲 に獎勵 余: ヶ 出す とい ふ 宣言 喾 及び <P 狀を發 ー ました、 併し 一千 八 百 四十 二 年 十二月 

みんせいた う もの かば リ しう ちじ そ 

トマス、 フォ〃 ドは 民政 黨の 者に して 力 —リン の 代に イリノイ 州の 知事に. なりました ハ 而 

そ れいじ やう せん ゆん しょ てつく わ 5 かれ しゅつ ぐれん 

して ジ ヨセフ、 ス ミス は 其の 令狀ゃ 宣言書 を 撒 回せん 乙と を 彼に 出願し ましたが, フォ〃 

さい ぼんじ やう しんもん う すヽ し Ais! しんもん けつぐ わ 3 た 

ドは ス ミ ス に 裁判上の 藩 問 を 受けん 乙と を勸 めました、 從 つて ス ミ スは 審問され た 結架復 



ふた /- じ 5 う ひと 

f$ び自. H なる 人となりました。 

す 乙 あ ひお あんしん で き ねん ゆつ か しちや *f, せんき 上 

ス ミ ス は 少しの 問 安心が 出來て 一 千 八:,: :! 四十 三年 二月 六日に ナ 1 ゲゥ 市長に 選舉 され ま 

した、 次ぎ の 四月 十二 日. 力- リ、 ビ-、 プラット、 口 レンゾ、 スノ I、 及ぴリ I、 ヴ アイ、 

. えいこく 5" ゆうみん おはい たいご は ど あんない H^^MUHi たうち やく 

リツ チヤ I ドスが サ央國 よ, の 移住 民の 大 なる 隊伍 を 一 一つ 程案內 して ナ - ゲクに 到着し しま 

そ ゆうしゃ うち I か ぐ 

た、 其の 移住者の 中に カノン 家族が あう ました。 

どうねん ゆつ 3 たきう そ ため 上 ゆん しゃ . む ほん はん しう J6 きわた 

同年 六月 復舊! ii^ の爲に 預言者 ジ ヨセフ,. ス : 一 スを S は叛 人と して ミ ス ゥ リ 州に 引渡さん と 

もの Z らんば う おも けう さ しゃ か やう X !&ん しゃ 

する おが ありました、 ベ ンネッ トは 此の 亂 暴の 重なる 敎唆 者て あつたが、 彼樣 にして 預言者 

3 たくたい は .i" なむし ぱ うり 上く もち う ぼ さ ざし 乙く とリ あっか ひ う 

ス ミ スは復 々逮捕された、 否 寧, C 暴力 を 用ね て 奪 ひ 去られ、 殘 酷なる 取 扱 を 受け, たが、 

や^ さいばん けつぐ わ また そ む ざい たしか 

顿て 裁判せられ たる 結果、 又 其の 無罪なる 乙と が 確め られ ました 

Z ぁひ;^せぃ^-か せいと たい へんば しん たみ 5- お を みんかん けんとう 

此の 問 政治家 は垂 徒に して 偏頗 心 を 民に 懐かせて 居り 1H した、 フォルド は: 問の 喧鬪 . 

しプ かつ はんき かな しう ぐれ S iGl ん くわん えんせ つ とき ^yMHN^^ と- -き 上に-やう あらた 

を靜 め、 且人氣 に 叶 はんとて、 州 〈1: に 任官の 演說 をした 時には ナ- ゲゥの 特許 狀を 改めて 

そ けんり てい i& ん つ くわん/ J< せいと し はウ し 上 

其の 權 利に 定限を 付ける 乙と を 勸ホ: : しました、 ス ミ ス が!! il 徒 を 四方よ. 5 ナ - ゲゥ 市に 呼び 

あつ けうと せいじ まや ラ いうせ S けん え たくみ ぷク みな 

集めた の は、 「乇 レノ モ ン」 敎 徒に 政事 上の 優勢の 權を 得させん とて 巧に 工夫した 乙と、 見做 

1 二 七 



1 二八 

を あ せぃ^^ か 乙 し 丄がぷ ため せんき 上 けん いう けうと ? V うか 

されました、 而 して 或る 政治家 は 此の 集合の 爲に選 擧權を 有する 「モ ルモ ン」 敎 徒が 增 加す 

おまい わざ ぽひ やう ゆん を -V- けっく わ ばんたい たう を しき 

る こと は大 なる 禍 なりと 侔 言して 居りました、 其の 結果と して 「モ ルモ ン」 反對黨 が龃織 

乙れ ぜ いと たい ふ (5> いお しゅ/:.^ ひと ら な W た ^Jれら 

されました、 此は1|:^徒に對して不平を懷く彌.^の人柄から成立ったのてぁ.-ます、 此 等の 

もの おのれら ごと じんみん おは 5- ふ (い (んば おこ けつ ぐんやく にん せん 3 よ 《 いと 

者は己等の如く人::^に大に不平ゃ偏頗を起させました、 八 に 郡 役人に 選舉 された る 徒 

す ウ^ん し ぐんやくし 上 んせぃ ,て ちい ぶき たプさ ばぅ.^ おど 

が數 人力 -セ- ジ 市の 郡役所て 官: 答 せんとて 其の 地 へ 行った が、 武器 を携 へ たる 暴徒に 嚇 

しか せんせい 乙れ 乙れ ため はんたい たう 5> 上./^ 

され した、 併しながら、 せねば ならぬ 宣誓 なれば 之 をし^ した、 之が 爲に反 對黨ば 愈 

广ぃ なほい つそう せいと はんたい またも しゃう らい — しう よ ん しゃ なんく く tt 

怒って 尙 一 層 雖ー 徒に 反對 し、 又 若し 將來 にミ スゥリ 州が 預言者 ス ミ スに難 苦ヒ加 へんと す 

そ しう たす ちか ひ あらた た 上つ ■ I ■ し 3 ん *0 い を せいと 

るなら ば 其の 州 を 助ける との 誓 を 新に 立てました、 て ナ [ ,ゥゥ 市の 近在に 居った 塗 徒の 

ハへ や そ しょいう ぶつ ばく わい ば じ せいと ち じ ほご ひが 

家を燒 き、 其の 所有物 を 破壊し 始めました、 徒が 知事 フォルドに 保護 を 願 ひました が、 

せ 5 と じえ S 5 み こたへ すなば ばくが 5. せいと 

フ オル ドは i^i 徒が 自衛せ ねばならぬ とい ふ 意 咏の答 . ^しまし;^、 即ち 迫害せられ たる; ! 徒 

しう まく やく ぽんお 上 ない とつ りょう なん; P じ けん せい たう 

にと. .5 てはミ スゥリ 州の 前の 役人 及び 大統領 ゲ アン ビ n レンの 「汝の 事件 は正當 なれ ども 

ど ラ ちゅうさ. S- どうやう 

如何と も 仲裁す る rJ と を 得ず」 とい ふこと、 同様になる のです ◦ 

: ぐん &ん ぶ らいと らんぼう せいと は ご た じ §ん*ひ と、 の 

ナ I ヴゥ 軍閱は 無頼 徒の 亂 暴よ ,05! 徒 を 保護す る 爲めま +備が 調へ て あ. りました。 



おい しゃ, たい と, ノ W やう 乙う ほ しゃ せ c-w やく 

第三 章 大統領の 候補者 ジ ヨセフ、 ス ミスの 政略、 

= し かい ゆん れい き やうたい じゅんけ う 

. ゥ 市の 戒嚴 令、 ス ミス 兄弟の 殉敎 

- - ifti , -,^ f I . In^ > ぶ ゆ ュ >4 ん しゃ お ほ £ つし §ぅ こく お 5 い うめ 5, 

1 千 八 百 四十 三年よう 四十 四 年に かけての 冬に 預言者 ス ミ スは 多くの 合 衆國に 於て 有名 

か, かやう と • いば も さい は ひ たいとう 《- やう せんきょ わ. d ら たみ 

なる 政治家に 彼 檨に問 ひました、 曰く 「若し 幸に 大統領に 選擧 せられたならば 我等の 民に 

對 する 政略 は 如何なる もので あらう か」 と、 只へ ンリ、 タレ-及び ジョン、 シ ,、カルフ ー 

1 これ t た そ こ たへ けつ おん な SK,? 上 ゆん し& か. H ら とくぎ 

ン のみ 是に 答へ たが、 其の 返答 は 决斷の 無き ものて あった 故、 預言者 ス ミス は 彼等 を 徳義 

な おくび やう もの み な かれら き STi なじ 

無き 臉病 者と 見做して 彼等,;^ -嚴 しく 詰らました 

义ろ . がっしゅうこくたい とうり やうとう は しゃ おどろ ほど はう ち 1 

. 其の 頃ジ ヨセフ、 ス ミス は 合衆國 大統領の 候 稀 者て あると いふ 驚くべき 程の 報知が 世に 

^[ > . ' *i , , ^, i, -I ね.; ~ • つ S ちしめ い あくる けつ S ちしう みん しふぐゎ^, .av- て i. 

出ました、 一 千 八 百 四十 四 年 一 月 二十 九日に 指名され て翌 五月 十七 日 州 民の 集會て 確定せ 

そ ごよ けんしゃ がっしゅうこく せい s-^z くお 上 せ C 'ナん くわん せつ い f ん ゆ/? レ A< 

られ ました、 其の後 預言者 スミ ス の 「合 衆國の 政略 及び 政 權に關 する 說」 と 題す る 宣言書が 

^^^^^ ' ' » ^. うち もっと はんき た せいじ ろん ぐわん いけん の 

印^ 配布され ました、 其の 中に ス ミ スが 最も 人氣を 立てる 政事 論に 關 する 意見 を 述べて を 

、 U-H ^.^^^u^^^ 5- か はいし ど 札い も ぬし そ おいか ffife こく、 わ S 

る, 即ち 合衆國 政府 は 奴隸. V 使 ふこと を廢 止して 奴:^ の 持 生に 其の 代 偕, 拂ふ 乙と、 國會 

1 二 九 



1 § 

ぎ もん ねんき ふ さ,. -Il ん またぐ わん 5* うち う を さきん こしら ばう さつ *t い のぞ しゃ ざい 

議員の 年給, V 削减 し、 又 官有 地を賣 つて 其の 代金 を 椿へ る 乙と、 謀殺 罪 を 除き 借財 をして 

へんく わん ものお よ た すべて そんざいしゃ きんこ や 乙う えき た 乙 ぐた う ふ せつ ゆ す HS,J うじ 

返還せ ざる 者 及び 他の 一 切の 犯罪者 を 禁錮す る を 止めて 公益の 爲め國 道 敷設 だの 下水工事 

上う いうす &たぅ じ はふ ばたら ごぐ や がぐ かう ばう と さう どう し, つ 

,たの 共有 水道 だのい ふ 事業に 働かせる 乙と、 獄屋 を學 校に する 乙と、 暴徒 や 騒動 を鎮 むる 

ごと ぐんせい つか は ど けん rO /J れ たいとう 3- やう る にん は あか ど じん しようち え がっし ゆ.? 

が 如き 軍勢 を 使 ふ 程の 權威は 之 を 大統領に 委任す る 乙と、 肌の 赤き 土人の 承知 を 得ば 合 衆 

乙く かい す \ たいせい やう た 5 へいやう ひろ 1 およ た ちば う じんみん おのれ くに 

國界を 進めて 大西洋よ, 5 太竿洋 まで 廣 むる こと、 テキサス 及び 他の 地方の 人民が 己の 國を 

.が つし なう 乙く くば 5 つし 上 し £ つぐわん それ 52 とう な はまた 乙 

合 衆國に 加へ て 一緒にな & たいと 出願したならば 其 を 許す こと、 等て あ- y ました、 尙又此 

た おは リ や 5^ しゅぎ 

の 他 多くの 立, 派なる 主義が ありました 

X 卞ん しゃ ぜ. S じ i- やう 5 けん ひろ かれ せんき 上 しう せん た しと お i ; I ほ ちゃう 

預言者 ス ミスの 政事 上の 意見 を弘 め、 彼の 選擧に 周旋す る爲 め、 十二使徒 及び 多くの 長 

らう ひがし しう つかば た う W 'やう 乙う ほ しゃ しょうたく W- いう おのれ たみ 

老は 束の 州へ 遣され ました、 ス ミ スが 大統領の 候铺 者と なる を 承諾した 理由 は 己の 民なる 

せいと せいひん し. BIT ナ うけん ほ ご じん;;? 上く じュ W ん で き . もちろんたい とつり やう 

1^ 徒の 政 權ゃ宗 效權を 保護す るに 盡 力が 十分に 出來 るから なので あらました、 勿論 大統領 

き やう さう か しんかう うす さう & なん おれ たいとう リ やう 

の 競 If に 勝つ とい ふ 信仰 は 蒲かった に 相違 あ. 9 ません、 何と なれば ス ミス は 「我 は 大統領 

Lx< つ つ ぃっ.£ぅとん^^ゃ< がっしゅうこく たいとう W- やう し 上く ^ むし い a や すな K 

の 職に 就く も 就かざる も 一 向 頓着 はせ ぬ、 合 衆國の 大統領の 職に 立つ よりも 寧ろ 今の 役即 

ぐ.,^ ん ちゅゥ しゃうた を はゥ 乙の 

ちナ, ヴゥ6^|^中將に立って居る方を好む」 とい ひました 



*;T:^スは!lはく^く?^らろ、l^fefclする-J。っfぅ^:l^て^K^ろtリlrカょくゃせlr/正1^^レ^は& 

乙 ,s . 、 それ がっしゅうこく けんぽ ふお よ K ふ W つ 上, ノご た ひつえ 5 <■ さ; i 一よ > . 

殺されても、 其が 合 衆 00 憲 法 及び 法律の 擁護 の^め 必要ても ろなら ばかさき ひ^の^,^ I せ m に やる のて 

ある」 と 

預言者 ス ミ スは もォレ ゴ ンと カリフ オル 一 I ァ との 地 方を 探險 ささる に 離 して 

居らました、 彼 はす- ゲ ク 神殿の 普請が 出來 上ったならば して 11 ぎ を 1* ぎ?^ に 載. が 

ノ, -r 一 It , -.^.f.. ! J.S ね Z ほ. を それ 6 そうせんきょ 9- やう さう な 

しめて 1 1 日に 都市 を設 くる」 M と を 熱望して 居りました、 其 故に 若し 總選舉 の 競 爭が無 か 

I > - ^ もよ は たんけんたい ばん たうち はう はっそく 卞ク - 

つたならば ス ミ スか 催した 探 險隊の 七十 五 人は當 地方へ 發 足した でせ う、 三月に.; は 

I - りゅう ほつ ベい/ J くじん ほご ば ふれい か ナジ f\ つ e_ せ、 ぐ, P ん 

オレゴンへ 移住 を 欲する 米 國人を 保護すべき 法令の 可决 されん こと を 國會に 請願し ました、 

) ,、 ,)广 、たつ じ f えいこく がっしゅうこく おな そち はう しょいう しゅち やう を 

. とな^ は 其の 當 時に 英國も 会衆 國も 同じく 其の 地方 を 所有す ると 主張して 居りました 

i - - % パ f.- ん ち はう し 上く みん ざん ちゆ- A な は しう べつ た また 1 

力ら てす ス ミ スは 件の 地方に 煎 民して P ツキ— 山中に 尙 一 つの 州 を 別に 立て、 又^: 

ヌを メキシコ より 保護す る 爲め十 を 呼び集める 特權を 願 ひました が、 極々 檨々 の g| け 

お? -そじ £ ふなと でき しパ R« ぐろ ,.,- / 

が 起って 其の 箏 業 を 成し遂げる さが 出來 ませんで した、 併しながら ス ミ ス の目論見はぉ々 

無益なるものては無かっ^:^ ス^が 死んで ブリガム、 ヤングが 其の iiji 啬 を仕遂 ぐると い 

1 三 一 



ニー 三 

ラん 》s- ク、 を , — 

ふ 運命 ケ- 包ん て 居りました のて す 

SJ ん はる なつ Btt ありさ M じつ な ゆ. stt し じ やう fes- せ 5- と ぐ わ/" 

一 千八ぉ四十四年の^!^と夏に ナ ヴゥの 有 樣は實 に 可 嘆き 狀 態て あ, 9 ました a- 徒 は 外 

at ぼつと ひじ やつ おど し ない けうし や よ £ んし お 上 よ ; TTl し みん め..^ ばう 

部の 暴徒から 非常に 嚇 されました し、 巿內の 背 敎者は 預言者 ス ミ ス 及び 不運の 市民 を 滅亡 

させんと V- 檨々 の 謀 を!! らして 居りました、 ゥヰル ソン、 ラ-と クヰリ アム、 ラ -とヒ 

1 1 き やうお S- ら; si き やうお 5 ら みな ゆ せん ひ れつ tt いけう しゃ 、 t V- は て おこ の I うち..' 

グビ 兄弟 等 及び フォス タ 1 兄弟 等 は 皆 下賤 卑劣なる 背敎 者で 此の 企 を 起した 者の 內の 

^-っと あ もの « これら ひと.:!^ おらぐ i ゆん しゃ ひ な は べつ あたら 

最も j: 乂 心しき 者て あつ,^、 是 等の 人々 はス ミ スを 「墮 落した る 預言者」 と 非難して に 新し 

けうぐ わい さう W つ よ けんしゃ . もと /J もん そ くわん ちゃう 

き 敎會を 創立し、 預言者 ス ミスの 元の 顧問なる ゥヰリ アム, ラ 1 を 其の 管長と しました 

ねん ゆつ はちぶ たさ S i ろくみ また かみ をし へ した?" ぉ^-な けっこん 

1 千 八 百 四十 三年 七月 十二 日 一 夫 多妻 (附録 を 見よ) 又 神の 敎に從 つて 行 はれた る 結婚 

ナ いやく えい ゑん けいぞく けう リ し る ねんけ うく わい つかさ ら 

の 契約 は 永遠に 繼續 するとい ふ 敎现は 記載され ました、 一千 八 百 四十 四 年 敎會の 司 等 は 

こ けクリ すで ひそ をし じっかう を » も ろ, ん ^ M ) 

此の 敎理を 旣に陰 かに 敎へ實 行して 居りました 勿論 ゥヰ リア ム ラ ー は元ス ミ スの 顧問 

乙 乙と し を をれ ぶ た さいじつ かう しゃ うった 乙れ ば ばバ 

であった から 此の 事 を 知って 居りました、 其て ス ミ スを 一 夫 多妻 實 行者と 訴へ て 之 AO 拙 縛 

な W ごと ばう めん しか Z はいけ うし やら た1^. はんたい 

させました が 何事もなく 放免に なりました、 ,併しながら 此の 背 敎者等 は唯ス ミ スに 反對す 

ザい と せんたい はぐが い ぐるし 乙ん i ぶん のぞみ 上つ こ もくてき たつ 

るのみてなく1|!^徒全體を迫害し苦めゃぅとぃふ根本の望がぁ.^ました、 依て 此の 目的 を 達 



た しんぶん はっかう 乙 しんぶん しめい む でう けん ■ < r .L 

せんが 爲め H クス ポセタ - とい ふ 新聞 を發 行し ました、 此の 新聞の 使命 は無條 件で ナ 1 ゲ 

1 とぐ きょじ やう と w け しゃうた う M たよ ゆん しゃ たい はんかう お 上 さう ど. TN おし 

^の 特許 狀を 取消す 乙と を 唱道す る 乙と、 又 預言者 ス ミ スに對 しての 反抗 及び 騒動 を 起す 

こ しんぶん ねん ゅク か はじ tt つかう. 

などの ことて ありました、 此の 新聞 は 一 千 八 百 四十 四 年 六月 七日 始めて 發 行され ました 

t た ふ けゥ ば り ざん ぱぅ きさい ゆ ゑし みんせん;^ い それ いや 

而 して 唯 不潔なる 罵詈 讒謗の み 記載して あ. ました 故に、 市民 全 體は其 を 厭が らました、 

か しぐ わい もん しぷ くわ ハ そ しんぶん ふじ やう のぞ せん ゆん そ. jJ Z 

十日に 市會 議員が 集會 して 其の 新聞 は不淨 にして 除くべき ものと 宣言し ました 其て 此の 

しんぶん あくるひし ちゃう めいれい X ぼっかう て いし W た, V S ん お- ぐ わつ 化, 

新開 は 翌日 市長 シ ヨセフ、 ス ミ ス の 命令に 依りて 發行は 停止され、 又 其の 印^機 及 ひ 活字 

3 つた は < わ S 

など は 全く 破壤 されました。 

S を しょ^うしゃ し ばっそく _ S 々うめい ひ Q,*- 

問 もな く 其の 所有者 は 市を發 足して ジ ヨセフ、 スミ ス 及び 多くの 有名なる ス, を 徒 嘯 

しょ しゃ うった かれら ほ ぱ く ら たと へ たいほ — いや わ, い 、 ^1.. 

集 罪 者と 訴 へて 彼等 を城縳 させ した、 ス ミ ス 等は假 令逮: M されても ナ -ゲゥ ぬ 外の 地て 

しん も, > 乙の えう aK- ど ほ I しんもん め,^ 

審問され る? -とを 好まなかった ので、 要求 通り ナ.' ゲゥ で 審問され たが 放免に な り まし 

にんたい しゃ お ほい 卞き かう ほど はんたいとう ばりと-, ゾ 》\r 、 I 

た、 其 故に 反對者 は大に 激昂し ました、 程なく 「モル モン」 反 對黨と 暴徒 は 武器 を懷 へて ナ 

I ■ I ぶ きん あつま せいと そ つかさら ュ くし S う- おん ゆん * - , )^^^ 、化.^ .^1てろ\ 

1、 ヴゥ 附近に 集って ®^ 徒と 其の 司 等に 復讎 せんと 斷言 しました、 て、 其の 狀 は 賞に 怖し 

そ じ やうたい ち じ じ やう しん 乙 お C ばう. かなら せいと 

く あらました、 其の 狀態を 知事に 上申した が 返答が あらませんでした, 暴徒 は 必ず 聖徒 を 

1 三 三 



一 

乙う ゆ 3- これ ; 3 やくさつ ^^ど ク かゝし おい I ノ ♦* ご 

攻擊 して 之を虛 殺せん と嚇し 付けました、 斯る 次第で スミ ス はナ- ゲゥ 市,, ビ.^ 護す る!! め 

ゆ" れ/ ^ ぐ.^ おん め お かう い き はぐ じゃく いう じう ふ ,5 ん ち 二 

戒厳令 を 布き 軍團を 召し出しました、 斯云 ふこと を 聞きて 簿 弱て 優柔 不斷な 知事 フォ〃 ド 

自身 は 州 兵の 首に 立ちて どんぐ と 集まる 徒 を 兵士に しました、 而 して H タス ポセタ r 

めつぼう : わん しんもん ため i ゆん しゃ そ いう じん n C 

の滅. c に關 して 審問せられ る爲に 預言者 スミ スと 其の 友人と は 力- セ 1 ジに來 べき ことが 

びナ, ゲ^の 戒嚴令 を 解除すべき 乙と を 命じました、 聖徒 は 其の 命 分に 服從 しました、 ^ 

^ ,1 おのれ めいよ お 1 し う め. &上 か た み けっしゅう 

リ ノィ 4; え 知事 フ ォ ルド は 己の 名譽 及び イリノイ 州の 名譽 賭けて ス ミ スと 他の 未 决囚と 

ば;^^^ぅ ほ V- 乙れ へんば せいた う しんもん ほしょう かっこ 匕 S ぐ ど ぐリ :■ へ 

を 暴行より 保護して 之 を 偏頗な く 正當に 審問す ると 保證 しました、 且之を 幾度 も 繰 して 

うけあ つ ひ はいやく 

受合 つたが 遂に 背約し ました。 

^^^^ ; はし」: う, け あ, • あぐ 2 ひち じ えう きう した 5: ぐん おん へ, ぶき ひき. cfe 

&朴 政府 か 保護 を受 合った ので、 翌日 知 の耍 求に 從ひ軍 M の 兵 は 武器 を 引 波し ました、 

:&っ 力 ぱん上 ゆん しゃ そ a- や、 つたい "上 て 2 

六月 二十四日の 晚、 預言者 ジ ヨセフ、 ス ミスと 其の 兄弟、, ィ ラム, ス ミス 及び 其のぎ 十六 

名の 友人 は 力 -セ I ジ 市へ 行ました が、 ジ ヨセフ、 ス ミス は 「羊の 如く 屠殺 || へ t!;: きつ V 

ある」 と 申しました、 其の 前に は 一 寸^^ー足.^踏んて山へ遁れゃラかと|^って或る|^ 

じ" : ^ - > . > • » ft . うじん、,, かれ おのれら せ と たうそう く, ひやう. 》 の ひ なん 

ス と共に 河 を 渡って 行た が、 他の 友人が 彼 を 己 等 1^ 徒より 逃走す る 臆病者と 非難し. の VJ 



またも ど かれら いっし 上 =^=== ゆき と さつ と 乙ろ ゆ 

又层 つて 彼等と 一 緒に 力 1 セ-ジ へ 行ました が、 屠殺され る 所に 行きつ- - あつたと いふの 

たしか なん たと ( かれら な の tttlw つ な そて き 

は 確なる nJ とで あ- 9 ました、 何と なれば 假令 彼等 を 亡. n 者に する 法律が 無くと も 其の 敬 は 

む り かれら じゅうさつ けっしん ケ 

無玴 にも 彼等 を 銃殺 せんと 决 心して 居った ので ある. - 

われ ひつじ ごと とさつば ゆ わ?" こ /- ろ あたか なつ ひ sa や あさ ごと おちつ を 

* 『我 は 羊の 如く 屠殺場へ 行きつ、 あ. が 我 心は恰 も 夏の 日の ^ かなる 朝の 如くす がくしく 落着いて 居 

ばん K ん かみ たい を か つみ な わがり やう しん き a (いあん か 札ら も わ?" せ いめい た 

リ ます、 萬 人 や 神に 對 して 犯した る 罪 も 無ければ 我 一良 心 は 極めて 平安て わります、 彼等お し 我 ft- 命.^ 絕っ 

われ すなば つみ し わ; E" ち やが ち 5 け ふくし 5 う ねが そのち 

ならば、 我 は 即 ち 罪な くして 死ぬ のて あろ、 されば 我 血 は頓て 地よ リ 叫ん. て復 讎 . ^願ぶべし、 而 して 將來 

v_ ひと., t- われ R" く かれ ざん はん ひと て ぼうさつ 

に 世の 人々 は 我 1^ 目して 「彼 は殘 忍な ス 人の 手に 謀殺され た」 とい ふべ し』 と 

ゆつ sit- やぐ ™s お 上 t とも 

六月 二十 七日の 忌日に ジ ヨセフ、 ス ミスと S ィ ラム、 ス ミス 及び 其の 友なる ジョン、 テ 

イラ -と クヰラ -ド、 リジ チヤ ー ドス は 力 I セ -ジの 獄屋の 二階へ 入れられました、 其の 

ひご S じ ごろ.. < £ ん しゃ そ しゅぐ ふくし き やうお い I しう へ S な 

日 午後 五 時 頃 預言者 ジ ヨセフ、 ス ミス と 其の 祝福 師の 兄弟 ハイラム、 ス ミス は 州 兵より 成 

上 ^ん ばう と じゅうさつ ど う 

れる 二百 餘 人の 暴徒に 銃殺され ました、 ゥヰラ -ド、 リツ チヤ.' ドス は 一 度も擊 たれな かつ 

いくど う やが たすか 

た 力、 ジ ョ ン、 テ イラ-は 幾度 も 擊 たれて 頓て やっとの 乙 とで 生存. ました。 

むじ やう (い おい K ざん ぎ や,.' お 乙な z ときち じ . . 1 

無情なる 力 - セ.' ジ 兵が 力 -セ- ジに 於て 此の 殘虐を 行って 居た 時に 知事 フォルド はナ 

. おい ぶき そな a- やう みん せいと ぐ るし ほ, C つみ き 上う あく 

1 ゲゥに 於て 武器 を 備 へざる 良民なる 聖徒 を 苦め て、 ェクス ポセタ -を 亡ぼした 罪の 凶惡 

1 三 五 



1 三 六 

なる^^をぉ^luにぉ,^てs5りました、^^VT^はs^の"%sビし知c^て居ったに違ぁ.-ま 

, .■ ' ^ Z おは やけ おん: &ん 

せん、 纩^ となれば, ぎは^ ^が!^ して &1 一口^,^ 活かして 逃げさせな いと 公 に斷 ついした 

^ / ちじ . あんさつ はう ち 

乙 とケ! にき 沐ぎ けました ので あるから です、 知事 フ オル、 ドはス ミ ス陪 殺の 報知 

ノ 1 乙れ そ つみ ため ひ あい すし おの 

を& 聞いた お 「.s がき 利け ずな りました」 ,あしながら 是は 其の 罪の 爲に 悲哀す るよ. -も 寧る 己 

そば" せ、, 'とじえ い めいれい. Jf- 

ぎ 船? Si を は. i して" I れ々 k てあつた のて ある、 其の 晚 聖徒に 自衞 せよ とい ふ 命令 を 書 

I -' き t うく. C う M ぼうと およ し みん はク た ゥそゥ 

^ り てまして 附 へ IT けました、 恐 ^ せる^^^^ の 暴徒 及び 市民 も 四方 へ 逃走 

してし まひ 1H した。 



* いぐわん う V, b 

大 管長 ブ リ JIJH^tfir . 」 と 

(自 I 千 八 百 四十 四 年 至 一 千 八 百 七十 七 年) 

第一章 ナ 市 返 去の 势你 

預言者^がす据,-た霍1ぃの,, 翌ざぁらました、 慰./此のきこぎも:^- 

!! 蒙ブ r^^rT^." まの i あび, ました、 ミは FKS&f , 

y て 此の 大事 業 (I を I す t と) を まけ にぎ tri すべき § を 

具 へ て 居. ました。 

1 千 八 W 四ナ四 f あ 二十 八 K 曰 m いま 羅 I ジ 3 , く ? 



一 三 八 

とのし 死 «が„3^_^ に In やる や 1 し 4 に i んだ は 一 萬 人 集合して 其の 生^な き 

お" し 死 K を «£f ましたが & のと 蝌の^ l^w-s< の^? き はとても 筆に も 記せず く 口に も 言 は 

れ ぬ^で あ. 9 ました、 % ぎ クヰラ -ド、 リタ チヤ-ドス 及び 大佐 マ —ク ハ ムは 聖徒に 平和 

を « めて、 に ffi せよ しお a4 さ ずん ばて の » 罰に 任せよ と 言 ひました。 

««tf 一三 S 十二 ir 徒 は ぎ f り^る だ i"<r う 受けました が、 其の 多數は 丁度 同年 

八片 六日に 歸 りました ◦ 

十二 &ぎ よず I 編の 胍« を けたので、 1^ や SIe* ヒ, i くに 十分に 適當 して 居.. ました、 

"と 《5 ぶ レん. /»\ ぶか あ ちゃうら ゥ しん 

うの まに^ は i& に «-i にぎと めて^. - ました、 十二使徒 及び 信心 深き 或る 長老に 祌 

«の«.^と来^/1け、 &ゃぞ« びだん 観お IkM きに ^11 せられる と? 5^ と を 明細に 彼等に 

E へ て f iii の £ を i しました、 if る li に f た 4r きて r 要なる i 

へて i いのた 立つべき, (S くき び S ぎ S へて) SI く i;f しました、 其 

の が srksgvlllr 事ず ぎました、 の 魏¥?<" に疆 されて 執念 

K き il に^れ ましち S 「涯 なる に霸 せられました、 i し が i へ 



かみ をし へ ちゅうじ ゥ しょうこ おの ち ゥ かた を すべて じゅん ォ うし ^1- ごと 乙 

たる 神の 敎ゃ 忠實 なる 證據を 己が 血 を 以て 堅く しました、 而 して 一切の 殉敎 者の 如く 此の 

血 は 「敎會 の 種子」 とな.^ ました 「し 

V- わんち やうぐ わい, V しき ,しゅうさつ しょた <• くわん ちゃうく b いせう めつ 

管長 會が 組織せられ てから、 ス ミ スが統 殺された ので、 籾 代の 管長 會が 消滅と なら まし 

た、 併し ス ミ スが 神より 受けた る權 威と 其の 鍵と は 最早 十二使徒に 授けられました、 

、ガム、 ャ ン グの樣 な 偉人が 十二使徒の 會 長に 立った の は 敎會の 幸福で ありました、 は 

し せん そ ひと ちゅう 乙く くん.^ い じ f んナぅ 上 卞 i や— 

自然に 其の 人に 忠吿ゃ 訓誡 を 願 ひました、 シド 一一、 リグ ドン は殉敎 したる 預言者 ス ミスの 

たい こ もん まへ かれ = し さう どク M ぬが = H しう 

第 一 の 顧問であった が 前に 彼 は ナ - ゲゥ 市の 騷動を 免れん がた め、 ペン シ严ゲ M -ーァ 州へ 

うつ そ 乙 とき せいと おいく わんち やう せんき 上 こ ひ S£ せハ 

移らました、 而 して 此の 時に な. c- て^ 徒の 大 管長に 選, 擧 せられん 乙と を 希 ひました が、 聖 

と: かれ:., おいく わんち やう 1^ この そ さう なんぐ ねい ぐ わ いひら うへ 

徒 は 彼カ大 管長に 立つ こと を 好み ませなん. た、 而 して 相談 會を 二三 回 開いた 上で、 一千 

H, 1^^ - ゆつ 、か せ,ん.:*、ぃ.., ぃ,っ*^1 . し とくれい け 1.? わい ぐわん ちゃうけん < 'う .» の みと 

A 百 四十 四 年 八月 パ日 全會が 一 致して 十二使徒 會を 敎會の 管長 權を 有する 者と 認めました 

し とく わいち やう せいと め I ふしぎ 

(使徒 會長は ブリ、 、カム、 ヤングであった) 聖徒の 目に ブリガム、 ヤング は 不思議に もスミ 

—— やうみ そ 乙 *^ ごと きこ かれ じつ .i^ み えら /J ゥ *i ん 

スの樣 に 見え, 其の 聲もス ミスの 聲の 如く 聞え たので、 彼 は實に 神の 選. ひたる 後任て ある 

* 力ん また さいの- ン ひと い せん おこな ひ なな * ん かう モ ふ, 、ハレ 

と 深く 感じました、 又 ヤング は 才能 ある 人て 以前の 行 は 皆 善行て ありました, 而 して 福音 

1 一二 九 



一 四 〇 

き I *«-^<ぃれ5. ぽん R- つと かぐ じつ あんない しゃ k-si しんよう う ■ ひ.;; * 

の规. 财 によら、 又聖靈 により 任じられた 最も 確赏 なる 案內 者で 聖徒の 信用 を受 くへ き 人て 

あつたの であ.^ ます、 其て は 預言者 ス 1^ の 遺した 事業 を 其の儘に 引受けて 結果よ 

,0 れ つかさど I — , むじ やう ぎ やぐ さつ けっく わ み けうく わい てき はい.! わ, い i 

く 之 を 司. 9 ました、 力- セ I ジ の 無情なる 虐殺の 結果 見た 敎會の 敵 は 「 モル モン に 敎會カ 

つ そ 上 ん しゃ とも し ばつ a-M- さと i £ ん ふや ^ 

决 して 其の 預言者と 共に 死なぬ とい ふこと を 明白と 覺. 9 ました たと へ 預言者 ス ミ スと其 

ひと 5- ら 乙と な ひと ばん れん まさ a , じ,^ ^ \ ポっ 

の 性格 は異 つても ブリガム、 ヤング は 等しく 萬 人に 優りた る 偉人て ありました 實に ヤン 

t ん しん ぼん f せ い ふぐ し S うき- i く たいしょうり う みち せいと みちび ひと ^1 ^ 

^は 千 辛 萬 苦 を 征服して 終局の 大勝 利 を 得べき 道に 聖徒 を 導く 人て ありまし.^ ヤンク は 

す 3 そ あんせ かい もっと ふしぎ たんぴ ん ちぐぶ つ た はず, 

の据 ゑた ところの 基礎に 全世界の 最も 不思議て 嘆美すべき 建築物 を 建てる 害て あ. 9 

ました C 

—いは すべて か し Z- つすな は 3 いのう ひと すぐ- せ, い:^ ん、 ^^y^^. 

ハ ンク n フト Si く 「プリが ム、 ャ yhsti i 切の 大家の! {は 篁 即 ち 才能、 人に 勝れた ろ II 神 入.^ 吸 弓す 

ち. S らおよ れぅ チ-ん <- し ら あた ほど ゐハ たい. a く も を -、; f ^y*. , ^,^£ 

るか A ST び の 了 t と ゆと-し か 與 へろ 程の 偉大なる 體 格.^ 持って 居リ ました 若し 大家と 一 Ki 浪 味が 

たうと くに やう せいしん. C や, ノ およ しん fes じ やうお い ちか 6 JJT,! う ひと ^1 さ グ, - ) > C Jr^ I. 1 U 1 nIM 

道德 上、 精 祌上及 び,: W 體 上に 於て 力 LL も 技倆-, L も 入-卜 勝る と 云 ふ, k て. 《 ^ろ ならば フ" カム ヤン 

列 は 確 LL ガ 家て ございました」 と。 

L* 6 h- ひ P— し. 、い をん せ (と ひんく せ 3 しんでん « こ うし ゆう た! Jip.. の. 

くの I ナ.' ゲク市 は 平穩て ありました、 聖徒 は 貧苦に 迫っても 神殿 や 他の 公衆の 建物 

ふ しん チぃ; てく 3 ゥ n ヅパ ゆうみん はぶし じん 乙う, 5 ) ) ► ' > ; 

の 普請 を體續 しました、 歌羅 巴よりの 移住 民が 入 市して 人口が 愈々 えつ V ありまし?^ 



しか せ^-と てき つ とほ 乙れ はんた & おそら か" ら せいと ぼら-. W さん 

併し 聖徒の 敬 は 何時もの 通ら 之に 反對, した、 恐く は 彼等 は 5ie 徒 を澳々 に 離散せ しめて 

i&i んめク も V* てき たつ たうて いまん: V く けうく れい つかさら つと かく 

全滅す るの 目的 を 達せねば、 到底 満足 はしない のて ありました らう、 敎會の 司 等 は 夙に 覺 

ごき a てんたい いつしか じつ ゆん ゃラ みぬ も つかさら 

悟 を 極めて 居た 西方 へ の 轉退を 早晚 I 貝 現せぬ ばなら ぬ樣 になるべき を見拔 きて、 其の 司 等 

せいと じん W 上く せい しんでん ふ しん いそ す Z- 5 かん すべ せい 

は聖徒が^^^^して聖なる神殿の普請を急ぐべきことを勸めました、 如何と なれば 親ての }i 

と じゅんけ う よ :&ん しゃ よ かみ けいし えいく わう けう W まも X 

徒が 殉敎 したる 預言者 ス ミ スに 依らて 神よ.^ 啓示され たる 榮光 ある 敎理を 守る ことに 依. 9 

な は いつ. V うめぐ み ラ できた せ 5- と おいせ いば- ン たい at よ まへ しんでん 

て尙 一 層 惠福を 得る ことが 出 來る爲 めで あり した、 聖徒が 大 西方へ 退去す る 前に 神殿の 

あぶ ビん できあ 5" ねんけ つ よぐ ねん ゆつ いく W ん しんでんない 

或る 部分が 出來 上って 一 千 八 百 四十 五 年 十二 R: よ. - 翌年の 一 月までに 幾千 人と なく 神殿 內 

い けうぐ わい や < ぽん しゅぐ ぷく せんじ ゆ またせい ぎ し 3 れいてん しっ.^"ぅ 

に 入りて、 敎會の 役人より 祝 福.^ 宣授 し、 又龜 なる 儀式 や 禮典を 執行して もら. ひました 

ねん あきお 上 上ぐ ねん ゆつ 上 卞ん しゃ そ at やうお-い ぽぅ さつ はん さ 5 "ばん うった 

一 千 八 百 四 十四 年の 秋 及び 翌年の 五月に 預言者 スミ スと 其の 兄弟の 謀殺 人 を 裁判に 訴へ 

じ けん しんもん のち, V ざいにん は ばう-めん せいと こうへい し 上ち 

る 事件が あつやが、 審問の 後 其の 罪人 は 「褒められて 放免に な, 9 ました」 聖徒が 公 卒の處 置 

を 受ける 乙と を 如何に 望んでも 徒勞 であ & ました、 一 千 八 百 四十 五 年 一月 イリ ノ ィ州會 は 

はんぎ かな き けつ もつ し せいりつ はんか およ とぐ きょじ や ク とリ けし ぶ らいかん え 

人 氣に叶 はんとて 議决を 以て ナ I ゲゥ巿 の 成立 認可 及び 特許 狀を 取消ました、 無 赖漢は 得 

乙 とき らんば うらう せき ^1 どラ しう ち じ どう;; ん ゆつ しとく わいち や, ノ 

た. 9 と 此の 時ナ - ゲ ゥで亂 暴 狼藉に 及びました、 同 州の 知事 フォルド 同年 四月 使徒 i 長ャ 

1 四 1 



1 四 二 

しょ あた らくき やう え た せいと ク せい ぱぅ ■ ぎん ひきこ くわん 

ングに 書, V 與 へて 「樂境 を 得ん」 が爲め 聖徒 を 連れて 西方の p ツキ I 山へ 「引 込め」 と勸 

乙く 乙れ じつ せいと い せん たしか き ぼう た しんでん ふしん でき あが 

吿し した、 是は實 に 聖徒が 以前から 確に 希望し 4^ 乙 とで あつたが 只 神殿の 普請が 出來上 

せいはう い.; -5 う とき の を 

らな い ので 西方 へ 移住す る 時 を 延べ て 居らました a 

■ I しう やん じ ,ごうち やう いば わがしう ぐ わい =■= し と V- きょじ やうすな なし けん すこし 

イリノイ の 撿專^ 長ジョ サャ、 ランお- ンは 曰く 「我 州 會がナ I ヴゥ 市の 特許 狀 即ち 市權- レ些の 

てぃ£ん14^た か いせい ぐば た /J れ とりけ これすな ば むじ やう ぎんぎ やぐ せいと ぎゃくたい 

定 K 又は 改 4".^ 加 ふろ: と.^ なさず して 直ち-」 之.^ - 取消した の は、 是 乃 ち g 一 情の 殘 虐 に 聖徒 待す る 

めんき 上 どういつ しか いやしく ヒ うで-けん S つし う しう ぐ わい つね らんぼうら ぅぜき 乙と 

、 、と 免詐 しれる と 同 I て ある、 f 苟 も統 5 ん權 める 一 州の 州 會 たる ものが、 常-し 亂暴 狼 藉 ^事と し、 

-li じんお いざい ケか あ-: ば; >- か ぐまい * めぐかん たす つ ひ まった そ r<s ん しつ ゐ じつがい たんいた 

殺人の 大罪 1^ 犯して、 敢て 憚 ら ざる 愚昧の 惡 漢か幣 助けて、 遂に 全 く其の威嚴.^^失墜ぜろは置に慨嘆の至 

リて ある」 と 「し . 

. き ゃラれ -5 Ji- やくさつ あく Si ん K うめん ねん あき ぱぅ 

力- セ- ジてス ミ ス 兄弟 を 虐殺した 惡 人が 放免に なった のて 一 千 八 百 四十 五 年の 秋に 暴 

と ちから え *;>ょ/\#;; いたん ふ てき な また あ "た ほ ご せいと か f や 乙れ ら さま-ひ、 はくがいで, ん 

徒 は 力 を 得て 愈々 大膽 不敬に 成って 復 新に 保護な き 聖徒の 家屋,^ 焚き 是 等に 樣々 の 迫害 殘 

ゴぅ ぐば せいと ざいさん ほろぼ か f や ほごうた - きん 

暴ケ- 加へ まし. 、聖徒 は 財産 を 亡され、 家 尾 を 焚かれてから、 保護 を 得る 爲めナ -. ゥクの 近 

ざい を ひと I のが かゝ ありさま ち じ Z さう せう しづ 

在に 居る 人 -l- はナ- ゲク へ遁れ ました、 渐る狀 態で 知事 フ オル, トは 此の 騒擾 を 觴 めんと て 

しう へい め お しみん &ゅ まお ぎ やうせ いくわん ふくじ ゆう ばう と めい . -, けつ, は^ 

州 兵 を 召し出 f< て巿 K を 慰 諭し 又 行政官に 服從 すべきと を 暴徒に 命じました、 十月 一 日 

けうぐ わい つかさら しク (い し れいくわん た s しゃう けんじ, V うち やう じ やう るん ぎ るん I _ 

敎會の 司 等と 州 兵の 司令官なる +<將 、メ ルデン グと撿 事 總長マ クチ ュ ガルと 上院議員 ドサ グ 



せう さ ひやう ぎく わい ひら そ けっく わ けうと ぐば る . 

ヲヌと 少佐 ヮ レ ンは 評議 會を 開きました"' 其の 結果と して 「モ \ モ ン」 敎徒は 翌春 イリノイ 

しう たいきょ けいやく た せいと たいきょ みなごろし しようち を 

州 を 返 去す る 契約 を 立て、 (聖徒が 返 去せ ねば 鏖 にされ ると よく 承知して 居. y まし. 

,て か は-り ばう と ばくがい や な ぼうと こ やく, V く まも 

其の 代に 暴徒 は 迫害 を A める tj と 成.^ ましたが、 暴徒 は 此の 約束 を 守り ません でした、 

- ■ - | < しう あ ぐん お-いへ うし や -. ■ あつま ひやう ぎ せいと うつ えう 

イタ イノ^の 或る 九つの 郡より 代表者 は 力 -セ- ジに 集って 評議して a1 徒の 移る 乙と を 要 

さラ 

求し ました C 

いは I I - ― f ん しも ばう ぼうと けうと tt うちく を ざいさんお 上 か をく b tt じ 

ゥ H ルス 氏 は 曰く 『ハ 、ノコ, ク 郡の 下の 方に 暴徒 は 「モ^ モン」 教徒 放!^ し 其の 財産 及. ひ 家屋 yj* 燒き 初めて、 

か ばちかん て 5- かう つ ビ まち M ち g あら: g ざいさん か をく や 

十 ro か 十 一 tr 間 抵 抗 なしに 績 いて 町 i リ町 に 行きて、 所在ろ 財產ゃ 家屋,^ 燒 いてし まひました』 と 

> .5-tt ぼうと せいと こと /iy .1 おはら を I n S- は おとし, 

リツ チヤ-ドス 氏 は 曰く 「暴徒 は 聖徒,^ 悉 くナ I ヴゥ へ ひ拂 ひ、 而 して ナ— ヴゥ r* リ ミス ゥリ 河に 陷 れ 

K ん; 6 ん 

ると 斷百 しました」 と, 

せいと - ん けいやくお 上 けうく わい つかさら けっしん たい な ぺ ばゃ せいはう い ゆう じゅんび いた 

聖徒 は 件の 契約 及び 敎會の 司 等の 决心 を體 {: て 成る 可く 早く 西方へ 移住す る 準備 を 致し 

あるひ ^J- めん う あ KJjb ^ あるひ ぎラば しゃ リ やう かゥ くわん またし ざいさん あ 2 ひ 

ました 或は 地 而を賣 り 或は 資し、 或は 牛馬 や 車輛と 交換し まし 又 種々 の 財産 を も 或 

う , あるひ しんよう で き た ぃリ はん あ ブラ か れん ぐれ 

は賣 り、 或は 信用の 出來る 代理人に 預けて 賣ら せました、 斯くて 一 千 A 百 四十 五 年 は暮に 

な 6.^ した 

1 四 三 



一 四 四 

おい しゃう - しう はう ちく 

第一 一章 . ィ リノ ィ 州より 放逐 せらる、 

せ:^ と ほと ねんかん た せう K ぐが い う おはかた あん^ん C ぶっしつ じ やう せいしん 

聖徒 は 殆んど 七 年間、 多少の 迫害 を 受けながら も * 大方 安全に 慕ら して 物質 上に も 精神 

B やう おはい しんぽ いた そのかず i a や にん ぶ を しか これら 

上に も大 に進步 致し ましたが、 其數も 最早 二 万人に 戒 えて 居. ました、 併しながら 是 等の 

ひと/! >• のこ おのれら すみか い ぷたヽ おのれら し ばラ ちく 

人々 は 殘らず 己 等の 住家よ. 9 出て なければ ならなかった、 再び 己 等の 市よ. 9 放逐 せられた 

じ/ ん ^ん はんむ じ やう ど じん まか ぶんめい かい わ およ ち はう 上 かう 

のて, 自身.^」 殘忍 無情なる 土人に 委して、 文明開化の 及ばざる 地方へ 旅行せ ねばならぬ 乙 

とに ならました 

= し そ きんじょ K たち いく ちゃうぶ またい { Z およ お ほ どうさん う 0- もの お 

ナ I ゲ ヮ 市と 其の 近所で 畑地 幾 ぼ 町步、 又 を 二 千 la^ 及び 多くの 動 產を寶 物に 出し まし 

もっと かれら お ほ /0ぅし^^ぅ たてもの さいあい きょ しんでん これ 5 ほつ た 

た、 尤も 彼等の 多くの 公衆の 建物 や 最愛の 聖き 神殿 は 之 を寳る こと を 欲しなかった が、 他の 

ャ 卜いさん 乙れ む た 5" か M たす てう y いひ かへ さうた う たヌか もつ さう けん そ かひう ナ かた 

財產 は、 之 を 無代 價又 捨寶 にせぬ、 換言れば 相當の 代價を 以てと いふ 條 件で、 其の 買受方 

, い • つ 5.1、.;;- みん まう こ i しか み, つか この とリむ す (いわ けい や V- でう けん MR" 

t 1 般の 市民に 申し込みました、 併しながら 自ら 好んで 訂 結びた る卒和 契約 條件 さへ も 守 

か.^ f しみんむ か いか にぐ せいと きん せんじゃう は じ 上 あた のぞ え 

らぬ 彼等 市民に 向って 如何にして 僧め る 聖徒に 金錢 上の 铺助 を與 へん? -とを 望む を 得ん や、 



それ^ 么 せ i,t ふん ゥ 5, へ まった む ,&5- か やった くら & t いと 

其 故に 勢 徒 は 財 產を齊 つたと は雖 ども 全く 無代 價て 投與 とい ふても よい 程でした、 簿徒 は 

きんぺん かくしょ ぞいさん あつ ひじ やう そん それ W 上 かう えう irj うば おうぐ しゃ リ^ う かつく わん 

近傍 各所の 财產を 集めて 非^なる 損 をして 其 を 旅行に 要する 牛馬 や 道具 や 車輛な ど、 交換 

しました 

てき て じゅうけん えい はゥ 5-, て おは 《 いと からう ひがし a- し あつ M 

敬の 手に せる 统劍 の銳 鋒に 急がされて 多くの 聖徒 は 辛 じて ミ シ シ タ ビ 河の 束の 岸に 集つ 

ねん" ゆつ か せいば う- あし む か は わた はじ か かぱ こま 

て、 一 千 八 百 四十 六 年 1 ;月 四日 西方へ 足 を 向けて 河 を 渡り初めました 、四日より 河が 凍る ま 

うや た ま わたしぶね つか 乙 は 乙 はり うへ と は どう 4 つ なかば 

で晝夜 絶え間なく 渡船 を 使 ひ、 凍って から は 氷の 上 を 通りました、 同月の 半 頃までに 一 千 

はん そ しょいう,; -っ しう きし じ や.,, 'W ぐ これら ひと. <^ たい.. 上 みち 寸ヽ か は 

人と 其の 所有物 は アイオワ 州の 岸に 上陸し ました、 是 等の 人々 は 返 去の 道に 進ん て 河よ. y 

あお マイ. i ほど ところ = 乙 がば ば じ とま めん ゆき てんき ^JLJ はか さ.;: 

西に 當 つて 九哩^ の 處のシ ュガ T 小川で 初めて 止ら ました、 一 面 雪で 天氣が 殊の外 装く し 

せいと ひじ やう ぐるし てん fiS くお 上 しゃ りゃう うち ね せいと せんたい 乙と び やうし や しんた ハぉ上 せ^-しんじゃぅ 

て 聖徒 は 非常に 苦み ました、 天幕 及び 車輛の 裡に寢 て 聖徒 全體 殊に 病 者 は身體 及び 精神 上 

つぶさ かんなんしんく な はム W つじ やう つみ じんおう たが かれら おい せいき 

備に 艱難辛苦 を甞 めました, 法律上の 罪 もな く 人道に 違 ふ Nl ともなき 彼等 は 第 十九 世紀に 

おい しか ぶんめい たみ .iy リストけ うと みゴか しょう ひと <^ そ たの き やう ど はう ち; 

於て 而も 文明の 民な. 某哲敛 徒な. と 自ら 稱す る 人々 によりて 其の 樂 しき 鄉 土より 放逐 さ 

乙の ち S ゥ !,->,,■ せきばく わう や の?" い. かへ り. S がな つか すみか うんえん も こ あ ひた なが ん i 

れ、 此中冬 寂 漠>' る i" 野に 遁れ 出て V 顧みて は我懷 しき 住家 を 雲烟投 糊の 間に 眺め 前途 は 

たき ふ ビき か ばて ひと かゆ み ゆき あれの や ぱん にん &ゃ うど 

唯遼烈 たる 寒氣と 吹雪と を 冒して 涯も なく 人影 も 見えぬ 雪の 荒野 をた どり て野蠻 人の 領土 

1 四 五 



1 四 六 

いで-,:,, う , ほ^ みち なん さんじ あ Z- かれ おも 乙れ おも せいと 乙ゝろ くつう い 

へ 移住す るの 外に 道な S と は 何たる 慘事 どや、 鳴 呼 彼 を 思 ひ是を 思ふ垂 徒の 心の 苦痛 や 如 

か おも なみ^:ー た ね れきし か せ かい れ さしち g ラ ■ 

何な らん、 想 ひやる だに 涙の; W 子で あり t< .5*.、 歷 史家、 パ ンク フトは i 世界の 歷 史中ナ I 

た C 'きょ ひと 尸ちたい さんじ またた せっきう じつ し たう 

. ^の 退去と 等しき 一 大慘 事が 亦 他に あるか」 と絕 叫した の は に至當 とい はねば な. 5 ま 

せぬ 

-ぅ ひと できれ たいさ i , いば せいと あさ ぼん .,:: ゆん 5v, やう si つ ごと 

* カイ ォヮ 州の 人の 直話な りと て 大佐 トマス、 エル、 ケ イン は 曰く 「聖徒 は 朝から 晚 まて 無限な ろ 行列の 如く 

せ はう w 上 かう かれら めんじ やう はな はや らくたん いろ みと 乙 やま ちゃう じ やう いた ごと 

西方へ 旅行し ましれ が、 彼等の 面 上に は 甚 しさサ^膽の^^、-そ認めなんだけれどん小山の 項 上 に 到る 每 -1- 

) ばら t 乙 と か ^じん, J くじん そ 3 ゃゥど . ^リぃ お とき ごと かなら , ^りかへ とはいん けん おのす み 

暫く 其處 -」 止まって 彼の!^ 人 (黑 人) が 其の 鄉 土よ リ驅 5- された 時の 如く 必 ず裉 返りて? 迩く隱 見す る 己が 住 

か しんでん くもま ひら せんた ム うちな が 

家 や 神 と 雲間-」 閃めけ る 尖塔.^ 打 眺め まし.^」 と。 

S ち たいき 上 しゅしゃう しゃ - せいと おひつ 己れ かリ た. 5- ご そ しき 

十五 日に 返 去の 首唱者 ブリ、 、力 ム、 ヤン グは 聖徒に 追 着いて 之 を假に 隊伍に, g 織し ました 

b ん たいご すな は せ. S と た 5* ご しゃう できお 上 とくぎ す、 !£ん せい しか 

ヤング は 「イスラ ュ ル 人の 隊伍」 即ち!^. 徒の 隊伍に 正直 及び 德義 し- 勸め、 嚴 正にして 而も 

乙ん ザつ おきて もつ かれら こんが うつ ゑ せいと も はやしの かんなん およ いまし の 

懇切なる 拉法を 以て 彼等の 金剛杖と させました、 聖徒が 最早 忍んだ 艱難、 及び 今 忍びつ V 

しんく き た ため す こ けっぱく あ 七び き ぽ らし ゆる し 

ある 辛苦よ..^ 氣を反 つせ る爲に 少し. つ 、、! ^白なる 遊 ゃ氣晴 をす る 乙と を容 され した、 使 

と N.^ わ C-Jf やう およ しとら せいと しう と は とき ほご ちじ せいぐ わん 

徒 會 長 ヤング 及び 使徒 等 は 雖: 徒が ァ ィォゾ 州 を: る 時;;! 保 謎 せられん. \i を 知事に 請願し 

のち 乙れ ら ひと ― し い Z くへ ク ため しんでん しぶぐ わ S ひら のこり せいと らた 

たる 後是 等の 人 は 十.' ゲゥ 市へ 行って 吿別 をす る 爲に斜 殿で 藤 會を開 い て殘の 1! 徒に 新に 



しゅうけ うじ やうぎ む をし しか の たいき- i せいと たいご かへ ゅク はち ひきつ 1^ しん 

宗敎 上の 義務 を敎 へました、 然る 後 返 去し ゥ. - ある 聖徒の 隊伍へ 歸 つて 三月 一 日 引 續き進 

かう めい た ひ マイ 《i S そとき ひ あめ: §きぷ 

行す る 乙 と を 命じまして 其の 日五哩 ばか 6 行きました、 其の 時: rs り 日々 に 雨 や 雪 に 降られ 

でいねい ち めん とほ たより もの みかた かみ なぐさめ 之 ひ < せい ぱぅ たび つど せい 

泥濘の 地面 を 通り、 賴 なき 者の 味方なる 神の 慰 を 得て 曰 の^れる 西方へ 旅を續 けました、 聖 

と た すう ひんく せま を なほ またな もの な ひと しか 

徒の 多數は 貧苦に 迫って 居った が、 尙 無くて ならぬ 物の 無き 人 も あ, 9 ました、 併しながら 

か う し ない みなで き たけ ろ やす を むリぷ そく ひ たん 

期い ふ 次第にして 皆 出 來る丈 心 を 安んじて 居りました、 無理に 不足 をい ふこと なく 悲歎す 

た み つ \ し かみ いの ちから つく K たら また おんがぐ き ぶ たう 

る 乙 ともなく、 絕 えず 身 を 慎み、 神に 祈.. y、 カを盡 して 働き、 又 音樂を 聞いたり 舞踏した 

さんび か うた おはい よろ/ J 

りして 讃美歌 を 歌 ひ大に 喜びました。 

きし か いは こ たみ なんら ぱぅ がい う- A の せんぞ かみ そ めい たま ごと れいはい 

* 歷 史家 ホヰッ トニ 曰く 「斯の 民 は 何等の 妨害 >^受 くる ことなく、 己が 先, S の祌 I^J^ 其の 命じ 給へ る 如くに 禮拜ぜ 

た 乙ち しゅったつ けんや いんせん あたか にん 1:^ たいきょ ごと かれら 

ん爲 め、 此の 地 出 立して 原野に 隱潜ぜ し は、 恰も イスラ H ル 人が H ジプト 返 去せ しが 如し、 一て は 彼^の 

し /- をん.— よ 1^ ん さ, つ せいれい やしな かんなん しんぐ i け,?, せんゆうかん たみ やが おいせ よくもつ さんかん 

子々 孫々 が 預言.^ 授 くる 聖靈 に 養 はれ、 . 艱難辛苦に 因り 健全て 敢 なる 民と なり、 頓て大 勢 力.^ 以て 山間 

. おど 5 おのれら やくそく と ち くわい, ^く う やう ため 

より 踊り 出て 已 等に 約束 されれ る 土地 *^ 恹 復し 得る 様になる 爲 てぁリ ました」 と。 

けつ ^ち. 1= か は ちか IC がば なほく わん せん そ 1- き でき はん 

三月 二十 七日 チヤ リト ン 川に 近き シ ョ I ル 小川て 尙完入 丄な钮 織が 出來 ました、 十 人、 五十 

ん はん ぐみ わけ ぐみ/ c\ ちゃう た あと せいと おひつ きため 乙 たいご おはい 

人、 百 人と 紐 別 をして 各 紐に 長 を 立てました、 後から 聖徒が 追 付いて 來た爲 に 此の 隊伍 は大 

ま しやり やう かず おは 上 そ ま うし なん とう ふ そのた ひつじ つま ろ ば 

に戒 えて 間もなく 車輛の 數は 大凡 三千に 增し牛 も 何千 頭と なく 殲 えて 其 他 羊 も 馬 も驢- おも 

1 H 七 



一四 八 

X ほど に けしう のばら ふかしぎ ば や お ほ まち でき 乙れ ら まち 

除 程 あ. 5 ました、 アイオワ 州の 野原で 不可思議に 早く 多くの 町が 出來 ました、 此 等の 町 は 

「行路に 於け るシ オンの 假ス テ I ャ部」 と 名 けられました、 其の 內の 最も 大き いのは ¥^ 

■ ■ .. さう あと き せいと ためこ まち きん 

デン、 グ & I ゲと マウント、 ピスガ であった、 而 して 後から 來 たる 聖徒の 爲に 此の 町の 近 

所で §tK 紫 をして 居. 9 ました 

し と V- わいち やう お 上 あ せいと ゆつ な .gi^H ごろ 1 .5 h えんがん いた 

十二使徒の 會 長 ヤング 及び 或る! t 徒 は 六月の 半頃ミ スクリ 河の 沿岸に 至. 9 ましたが、 

ゆつ せいと た すう t のか は きて . _— まち いま - けんせつ 

七月に 聖徒の 多 數は此 河に 來ケ イン スゲ ヰ. ル町 (今の カウン セ 〃、ブラフ ス) を 建設し ました > 

さう そ ご たいご あ お ん わた aA^ I ど じん w やう ど し t くみん 

而 して 其 後 隊伍の 或る 部分 は 河 を 渡って ポタヮ トミ 及び ォ.' マ ハ 1 土人の 領土に 戒 民して 

ゥ ヰンメ I、 クヮ- タ ス (今フ U レンス ) 町 を 設けた、 其の 人口 は 四千 人ば か. 9 であ. 5 ました 

くわいち やう. . たう ねん なつ たんけんたい ひき さんみゃく ル 上て い を 

會 長 ヤン グは當 年の 夏に 探 險隊を 率, Q て ロッキ 1 山脈へ 行く 豫定 でありました、 而し 

ちかごろ いこぐ かへ し と - Z とき すで 

て 近頃 英國 よら 歸. 9 ました 使徒 クヰル フォルド、 ウッドラフ は 此の 時 マ クン ト、 ビ ス. 力で 旣 

Z たんけん しぐ わん ひと あつ を こ /- もっと _3 くわ. S で き ごと お 乙 . 

に 此の 探險を 志願す る 人 を 集めて 居りました が、 兹に 最も 奇怪な 出來 事が 起って ャ ングの 

けいぐ わく ぽっ がい た せいば うい や^う くぱる の 乙 できごと 

訐盡を 妨害した 爲め 西方に 移 注す る 乙と, 翌春まで 延ばす 乙と にな. ました、 此の 出來事 

せ 5 と く は が^しゅ ラ乙く せい 丄 メ キ シ n せん さう ため し 上う しぐ わんへ い めい な 

は 聖徒の 國 なる 合 衆國の 政府 は 墨色 哥戰爭 の爲に 使用すべき 志願兵と して 五 百 名より 成れ 



^-^ ( ぇゥ きう 乙 I ぐ わう-や おい My 

る 大隊 ヒ 要求した ことです、 此の 時 アイオワの 曠野に 於て ゥヰン タ-、 クヮ- タスより, 力 

■ あ ひた リ さん かり むら せんじん t う お 上 はん けうと 

-デン 、グロ - ゲ までの 間に 離散せ る假の 村の 全人 口 は 凡, V 一 萬 二 千 人の 「モ 〃モ ン」 敎徒 

でありました U 

^-^ しゃ ゥ ぐん じ てき じ けん 

第三 章 二つの 軍事的 事件 

が;' しゅう/ J く なば もくて さ たいく ちょうはつ せ 5 と かう ばた ふ かう 

合 衆國が 何の 目的 ありて 「 モル モ ン」 大隊 を 徵發し ので あらう か、 聖徒の 幸か將 不幸 か、 

がいけ うと さした ほ ご せいぐ わん こたへ あるひ じ やう ん Jyr- ゐん 5 かれら も 乙 

該敎 徒が 差 出した 保護 請願の 應答 として か、 或は 上院議員べ ン トンが 言 ふた 「彼等 若し 此 

ち 上う ばつ おう ふち; S う はん みん せんめつ きょうかつ じつ ゆん ため と かく 

の徴發 に應ぜ ずん は 不忠の 叛 2:^ と— て 之 を 全滅 せん 」 との 恐喝 を實 現す るが 爲か、 鬼 も 角 

れ いか もぐて a- . 乙 ち 上う はつ っゥち てんまく す じん たいご せいと 

も 之が 如何なる 目的であって も 此の 徵發の 通知 は 天幕に 住む 「ィ ス ラ ェ 〃人の 隊伍」 (聖徒) 

ひと ひと いひ ぷ& とき たいさいなん み なさ せいと 乙れ もつ あいこぐ しん 

の 人より 人へ 流言され た 時、 たしかに 一大 災難と 見做れ ました、 聖徒 は 之 を 以て 愛國 心の 

う む ため もし *^ のれら せんめつ けいりゃく おも Z ち 上う He- ずジ 

有無 を 試さん とて か、 若く は 己 等 を 全滅 せんとの 計略なる べしと 思 ひければ 此の 徵發 に應 

おう おのれら たど そう つ ケは ばな は しんぱい どくしゃし 上 くん 

ずる も應 じない も、 己 等 は 直ちに 剿絕に 了るな らん かと 甚だ 心配いた しました、 讀者 諸君 

かんなん しんぐ せま も ば や ほと せいり 上く な がいけ うと かん めい さうて いすな K たいご せ. ^くわ うば 

よ 艱難辛苦に 迫って 最早 殆んど 勢力の 無い 該敎徒 間より 五 百 名の 壯丁 即ち 隊伍の 精華 を楚 

1 四 九 



1 五 o 

さ のち じ やうたい さう ャ. -ん上 もみ ほご きふ やう しょぐ かぐ し A ばん ざん はし 

ひ 去らし むる 後の 狀態を 想像せ よ、 殘 除の 者 は 保護 給養な き 食客に して 而 かも 野蠻殘 忍な 

ど じん リゃ うど つ ラぐゎ む ひ たいき 上 き げん 乙ん なんしんく さう ぐう あら 

る 土人の 領士を 通過し っゝ、 無比の 退去の 危險ゃ 困難 辛苦に 遭遇し つ、 あるに 非ず や、 さ 

せいと 乙 さんじ や- r- X きた みなお のれら うち け つき さうて い 1; '上う- 2 つ くば れ、, 乙ぐ 

れば 聖徒 は 此の 慘狀の 因..^ て來 ると こ マ C 皆 己 等の 中よ, 5 血 氣の壯 丁 を徵發 したる 國の 冷酷 

おこな ひ かんが い か^ 3h つし!? i うこぐ すで がい 汁う と こくき; V うぐ わ-;,. はう *f ぐ . 

なる 行爲 にあり と考 へました、 如何で せう、 合 衆 國は旣 に該敎 徒を國 境 外へ 放逐した では 

ミ たかれら さした すぺて 3 うさい せ 5 ぐわん どぐ わい お しか 

ありま せんか、 又 彼等が 差 出した I 切の 救濟 請願 をば 度 外に 置いた では あ. ません か、 然 

い ま こ せいふ せいと なに くわん けい せん さう ぐん 上う めい さうて ハ ち 上う ばつ 

るに 今と なって、 此の 政府 は 聖徒に 何の 關係 74、 ない 戰爭の 軍用に 五 百 名の 壯丁 を徵發 する 

上 なか ず& ぶん. £ "つて たゥり 11 ノぅ a くがい JunH. 

と は 世の中に は隨分 勝手な 道理 も あれば ある もので す、 されば ミ スクリ 州の 迫害 ゃィ リノ 

^^しう じゅんけ うぎ やくさつ どうしう ち じ ぎゃくたい またたう じ かれら る じ^^ぅた、, ; てく/.、 

ィ 州の 殉敎 (虐殺) や 同 州の 知事に 虐待され たると、 又當時 彼等の 惡 しさ 状態な どが 續々 

せいと しんち 5 う うか き 5? ゑ aJ さい しょ かれら ぱ うしん か V- r つかさら 尸.?' Z 

と 聖徒の 心中に 浮んで 來 ました、 故に 此の際に 處 する 彼等の 方針 や 彼等の 司 等が 如何に 此 

じ ん かいけつ とう いた と^Jろ おんべ い 

の 事件 を 解決すべき や 等の ことが 到る 處の談 柄と なった と はさ も あるべき ことで あらまし 

西方の 陸軍の 司令官なる 允將 カ^^の 部下の 大尉 ジ H ムス、 ァレ ンは 七月 一 曰 カク ンセ 

■ たゥ ちゃく ざ 5 うへい つの き しとく わいち やう 

ル、 ブラ フスに 到着して 義勇兵 を 募らん とて 來 たと 使徒 會長 ヤングに いひました、 と 乙ろ 



< ^ -, すぐ そぐ か ち 上 5(s おう こた けうと ち § う ギ』 

力 フタ、 力 ム、 ヤン クは 直に 「足下の 徵 兵に 應ず」 と 答へ ました、 「モ ル モ ン」 敎徒は 忠義な 

もの あい ZJ ぐしん あつひと 乙き /* ふそんば う とき おの じんちゅう はう こく t*- しん じぷ i,-.;> あら tt 

る 者で 愛國 心の 篤き 人て あつたから 此の 危急存亡の秋 にも 己が 盡忠 報國の 精神 を 十分に 表 

へんとう で き 

す 返答が 出來 たのです。 - 

、 nHy ひと ふ -\-く ぐ わいち やう ほか *T やうら う しんぺい ぼ しふ しぐ わん 

ゥ ヰンタ I タフ I タ, スに 人力 不足て したから 會 長ャ ングと 外の 長老 は 新兵 募集の 士官 

. た, - . ^ . y は ひと S ふたい し 、や 

として 他の 村々 に 行きました、 マウント、 ビス ガで 多くの 人が 人隊 しました、 それで 使者 

つ. は た 1& し- い ちょうば ひと/ «\ かはリ ち^うはん せ、,, はん t!^ た 

は 派遣され て 他の 村と ナ I ゲゥ 市へ 行って 徵 慕され た 人. > の 稱充 として 中年 ゃ靑年 ゃヌは 

らう ねん ひ i/.;^ つ き nmNMHU ぎ ゆうへい =1 たうち やく 

老年の 人 < -を 連れ て 來 ました、 。ヒ ス. 、力の 義勇兵が カウン セ ル、 ブ 「フ 1^ に 到着した ので、 七 

ゆつ ^ち そ *^上ぅ^ く わんれ う せいと , /J う ゑん ごと と 乙ろ しふく わい 

月 十 ョ 日に 其の 徵 募が 完了した のです、 垂徒 は, ハク リ (公園の 如き 處) で 集 會., :. ました、 

ぐ わいち やう えん やつ 乙ん^ か ぞく かへ^^み と き われら せいと もの 

會 長 ヤング は _ ^說 して 「今日は 家族の 乙と を 顧 るべき 時で はない、 我等 1^: 徒た る 者 は 

ため すゝ 乙 ちょうはつ おう 乙れ われら な ぎ む わたくし 

國の爲 に 進ん て 此の 徵發 に應 じなければ ならぬ、 是は 吾等の 爲 すべき 義務で ある、 私 は 

いやしぐ せいと たう せんこ ちょうへい おう i ろ/ J ねんかん あんら ぐ b ぜ广 上つ 

苟も lii 徒て あるならば 當然 此の 徴兵に 應 じて 喜んで 一 M 二 年間 安樂,: 、犧牲 に 供す るで あらう 

> 確信す る」, -CC 

fr,..^F ヌ te^s t tl-i うばつ やぐ £ ん いは ゑん かく らん & く おい ある ひ 

當 時に 其堪に 居. -.? K した 大佐 ケィ ン は 此の 徵發を 約言して 曰く 「遠隔の 村落に 於て は 或 

1 五 1 



一 五 二 

乙の ち 上う はつ たい -ぶ つ/^ もの ちゅうわ うぶ おい たち ま せいと しふく わい も t は 

は此徵 發に對 して 嗷々 す る 者が な いても なかつ たが、 中央部に 於て は 忽ち 聖徒 集會を 催し、 

ち i つ はつ へ わう さう たん いっけつ さ, さき ひ あるひ や あるひ うば ャ, んょ ぶつび., J- 

徴 發に應 ずる 乙と に 相談 をー决 した、 而 して 嚮の日 或は 燒 かれ、 或はま^ はれた 殘餘の 物品 

を さ ど ざラ アメリカ 乙く き とリぉ 乙れ じ. S もく ^Jずゑ た A た うち も 

を 納めた る 土蔵よ. 米 利 加? 國旗を 取 出して, 之 を 樹木の 稍に 立て、 三日 經 たぬ 內に最 

はやおい/ 1\ (い つの それ そ しき なた ぱ つえい じゅんび で き はう 乙く き 

早 大隊の 兵 を 募 6、 其を龃 織し、 又發營 する 準備が 出來 たとい ふ 報告が 來ま しだ」 と。 

C つ はち ぱん たいく へい すな は めい しんぼくぐ わい ぁゴか さんび か うた おんがく 

七月 十五 日の 晚に 大隊の 兵、 五. 白 四十 九 名 は 親睦 會に與 りて、 讃美歌 を 歌 ひ、 音樂 

き ぶ たう またお のれら あい しんる ゐ いう じん わか はち せいはう しゅ-っ^^ん 

. ^聽 き、 舞踏し、 又 己 等の 愛する 親類 や 友人に 別れて、 十六 日に 西方へ 出陣 い たし まし 

乙 たいく — か は たいへい やう か ち マイ i ほど さび ぐ わう や とほ き けんお 上 

た、 此の 大隊 はミ スゥリ 河よ. 5 太平洋まで 徒步 にて ニ千哩 の 淋しき 喊野を 通りて 危險及 

乂" 

こんなん おか やう や れん :&ク ^ち — たうち やく がいけ う 

び 困難 を 胃して 漸く 一 千 八-百 四十 七 年 一 月せ 九日に カリ フ オル -1 ァに 到着し ました 該敎 

と いか のヽし もの かぐ ごと *f ゆうぎ しんぎ おめ うへ な はび と あへ そ じんちゅう あい 

徒 を 如何に 罵る 者 にても 期の 如くして 忠義の 眞偽を 試された 上 は 何人て 7^ 敢て 其の 靈 忠愛 

こく こ/ろ うたが もの 

の 心 を 疑 ふ 者に あ.. y ますまい。 

たい- し のちお い- —しれい ぐれん ちゅう 3 いは れきしち: § うい か 

* 大尉 ジ I、 アレンが 死した 後 大隊の 司令 iE となれ ろ 中佐 セント、 ジョ^ ヂ、 クック は 曰く 「歷史 中,^ 如何 U 

X てう S t ts (い かつ ぐん 《• 上く. ひと そ とほ i/J ろ ぶん あ Z ひ ゃぱん どじんお よ 

く 調査す ろ., - 此の 歩兵の; p 軍 力と 等し さもの はない、 其の 通った 所 の 十分の 九 は 或 は野蠻 なろ 土人 及 

あら 3 けもの す ぐ わう や あ? V み, つ お びき いきもの を さばく それ^ A はと みこみ 3- う 

び猛 獸 のみの 捿む曠 ir 或は-^ な. r 、はめ 一匹の 生物 も: t" ら ざろ 沙漠て あった、 其 故 殆んど 込の ない の Li 想 

ャ.. 1.- でき おは はたら a- しゃつ らい リ上 かう しゃ き やう S う ふか &ど いくこ は あんな い しゃ じんせき ぐ わ うや 

像 も 出來ぬ 大 働て 將 來の 旅; 仃 者の 享 i^^,o^^^i^*J-^^.-lFq、Lr、 案内 者な く、 人跡な.? <iSij 



S てき み!: \ と zJ ろ おい いぐ ど |f んど かう しん さう やぎ はかなば もの 乙 

に 入リ、 一滴の 水な き 所 LL 於て 幾度 陣取りし. り 行進し; - りしれ のて ある、 而 して 山羊の 外 何物 も 越え 

M た たん:^ ん たど まっすぐ た いは a Si め かなて 乙 つる はし もつ ばしゃ つうろ は 5 

^さ斷 aa.^ 迪リ * 眞 K に 立てろ 51^ の:^ き 破目 l: 辯 梃 や 鶴の 嘴 以て 馬車 S 通路 か 堀って 行き チ- した」 と 

くたん そ たい ぐんじ てきじ けん Z ひ ぐわん けい ひ ^J-c^ ぐち い もっと しの 5= た 

件ん こと は 其の 第 j の 軍事的 事件て ある、 之に 關 係した 人々 に 口に 言 はれぬ 最も 凌ぎ 難 

ぎゃくき やう 乙ら ,しん^^ゅぅぁぃ^J<しんS'ーば あらば 乙れ けうと えい ふん えい 上 

き 逆 境 を耐へ て邀 忠愛 國心を 立派に 表し した、 是 はーモ , モ ン」 敎 徒の 永遠なる 榮譽で 

あります G 

な は ぐんじ てきじ けんか やう 

尙 一 つの 軍事的 事件 は斯樣 てあります ◦ 

ねんけ うく わい つかさら — で ャん上 せいと ,に し はつをぐ じゅんび 

1 千 八 百 四十 六 年 敎會の 司 等が ナ -ゲク を 出てから 殘餘の 聖徒 は 其の 市ケ發 足す る 準備 

じんり 上く それ ゆ ゑ すべて たう リ き _M ひと まん fv< ばず しか 

に盡 力し ました、 お 故に 一 切 道理? 辨 へる 人々 は滿 足すべき 箬 であ.^ ました、 然るに 「モ 

はんたいしゃ けラと しう い つも リ ,てらしん じ マ-た 乙れ は かろ こと JC ん ゆん 

〃モン- 1^ 對者は 「モ ル モン 敎徒は 州 を 出で ざる 積 だ, V 虚信 をし、 又 之 悼 なく 斷言 

f; ゥ 乙れ ら ばんたい しゃ ^=:::= 乙う ゆ a> ため へ 5 し つの あつ そ 

しました、 七月に 此 等の 反對者 はナ. 'ゲゥ を攻擊 する 爲に兵 土 を 募. - 集めました が、 其の 

とき し あたら し みん た \ かひ さ しか ゆつ か はち けうく わい ぼゾ 

時ナ, ゲゥ 市の 新し <r 市民 は 戰 を 避け まし .5^、 併し 九月 十日と 十二 U 力 ン ベ ル敎 會の牧 

し たい。 ばう と ひき し 乙う ゆき し 

師 なる 大佐 ブ CI ノク マン は 暴徒 を 率, Q て す- ゲ ゥ市 を攻擊 せんとし ました, 今 T ゲゥの 市 

みん てき むか あつ 3 にち じ かん 上た ヽ か し みん せう すう た やぶ 

民 は 敵に 向 はんとて 集 6 ま, た、 十二 日に 一 時 問餘戰 ひました が、 市民 は小數 なる 爲め 敗れ 

一 五三 



1 五 四 

いぐた し ぼうしゃ そ ご ぱ うと はちかん そ し とリ かこ やう や でう やぐ 

て 幾多の 死 t 者が あり^した、 其の後 暴徒 は 五六 日 問 其の 市ケ -取圍 みました が、 漸く 條約 

で き そ えう S やう し ぅムく のこ けうと はん 

が出來 ました、 其の 要領 は f I ゲゥ 市の 降伏す る こと、 殘. たる 「モル モ ン」 敎徒 (六 百 人 

上 さつ, てぐ しう い 1- ベて ひとお よ ざいさん ぼうかう ほ ご 

餘 ばから あ. ました) は 早速 州 を 出づる 乙と, 一切の 人 及び 則產を 暴行より 保護す る NJ と- 

なた び やう はん しんせつ とリ あっか 

叉 病人 *v 親切に 取扱 ふこと でありました 

S ゆつ ^ち さ _VVJ せいと . —— し い とき = しう ぼうかんた らんぼう らう S 一き お 上 を 

* 先づ 五月 一 日ぶ リ 最後の 聖徒が ナ, ヴゥ市 出て た 時 まて イリノイ 州の 暴漢 は絕 えず 亂暴 狼 に 及ん < 居り 

ました 

しか し ばう と かう ふぐ 51 うと た リ むざん そ でう やく やぶ し みん ひじ やう けいべつ 

然るに 市の 暴徒に 降伏す る や 暴徒 は 無 無慙に 其の 條約を 破って、 市民 を 非常に 輕 蔑し 

つ ひ た たちの せいと 穴ム もつ せま かぐ か JoS お モ すみか 

て、 終に は 直ちに 立 返 かざろ 聖徒に 劎ヒ 以て 迫り、 家具 家財 を 置か しめたる ま、 ま (の 住家 

M う く し 3 けつ • は It せいと さいご ひとくみ し いで . い a わた 

よ. 放逐して 了 ひ-^ した、 九月 十七 日に 聖徒の 最後の 一 組 は 市 を 出て ミ シ シツ ピ河を 渡つ 

ゆ かく せいと び やうし ひんこん しゃ の 乙 ばう ちく あまやどり ぜん かね またはと 

て 行きました、 期て 聖徒 は 病 者 も 貧困 者 も らず 放逐され て 雨 宿 も 一 錢の金 もな く 又始ん 

まい き もの べん し i ぐ もつ . ^らる か は ばし ばク ぐ わう や おひ いお ぶ 

y 一 枚の 着物 も 一 片の 食物 もな い 位て ミ シ シッ ピ 河の 西の方の 曠野へ 追 出されました、 無 

ら 5 しゃ If-i- と はつ そぐ のちし お ざいさん りゃくた つ し^るる せいと き 上 しんでん い 

賴者 は聖徙 が發 足した る 後、 市に 置 5 た 財產を 掠奪し、 酒 頻に醉 ひ、 聖徒の 聖さ 神殿に 入 

いやし うた ^^-32AV らんばつ きば そ せい ふ しん けが 

りて 5+1^ き 謠をラ た ひ、 又樣々 に 亂暴を 極め、 其の 聖 なる 普請 を瀆 しました。 



tt^^c けうと ぃプこ 5 たいさ ぇん^^Jっ 5 は れ 

放逐され たる 「モ 产 モ ン」 敎徒は 何處へ 行った であらう か、 大佐 ケィ ン は演說 して 曰く 「彼 

ら い, つ 乙 ゆ さいご み かれら び ゃゥ はん け が ん か た わ ものお 上 めし ひ た ブ さ な ゆか ぱ ぎ やう 

等 は 何處に 行ける か、 最後に 見えた 彼等 は 病人 や 負 偽者 や 不具者 及び 肓 目を携 へ、 欺. -き行 

れつ あたら すみか ^5ぱぅ てんが いふ かぐと はこ み か f う 5 こと 

列に て 新しき 住家 を 探さん と 西方の 天涯 俯角 を 通り越して 見えな くな 6 ました、 斯云ふ 事 

ほかお に かれら あ W さま を ところ ぐわん 乙と し ものな モれゅ ゑ かう き しん せ じ.^ 

の 外 誰も 彼等の 有樣ゃ 居る 所に 關 する 事 を 知った 者 は 無かった 其 故に 好奇心 ある 世人の 

常と して 遇 ふ 度每に 聖徒の 運命に つき 語り合 ひました」 と 

かくの ごとぐ ばう • せいと しゅ/ CY しの 1 "たた はう そ どうば う おい 

如 此 一 方に は fl!.- 徒 は 種々 の ふ ケ- 忍びつ、 あり、 又 他方に は 其の 同胞なる 「モ ル モン」 大 

たい ぎ ゅラ (ビ あい /」 くき もと かう しん ぐに ため た/か メキシ ゴ ぐ わう や たど を 

隊の 義勇兵 は 愛する 國 旗の 下に 行進して 國の 爲に戰 はんとて 藥色 哥の喊 野を迎 りて 居り ま 

した。 

くおん おい ぐんじ てきじ げん がっしゅうこく とう^ けん 1 しう おは ちじ, ケ めいし.;,! 

件の さは 第二の 軍事的 事件て あるが、 合 衆國の 統治 權 ある イリ ノ ィ州 及び 知事の 汚名 臭 

ぶん はくし やく かう もっと め た たいせう 乙れ W たえいえん ,に しう お 上 ち じ ち a- よく き おく 

聞と 溝 志 弱行と は 最も 目に 立つ 對 照で、 n 疋亦 永遠に 其の 州 及び 知事の 耻辱 として 記憶 さる 

V- -て あら <rn- 

R>t し はん じん 乙 ゥ いま じん た. 5- ご のはらす を 

ー兀ナ ー ゲゥ 市の 二 万人の 人口 は 今 r ィ スラ ェ ル 人の 隊伍 j として 野原に 住んで 居り まし 

き もの たべもの た た ひじ やう ぐ (う かん かれら うち りつび やう W うかう やう 

た、 着物 も 食物 も 足 6 ぬ爲め 非常なる 苦痛 を 感じ まし.?^、 彼等の 內に熟 病が 流行す る樣に 

一 五 五 



五六 一 



おは 



な s- きね む 《- ク 



K ん K, 



ゥ ち 



なゥて 多くの 人が 永 眠 に 就きました、 ゥ ヰンタ ー、 クヮ- タスの 一 ケ 所で 六 百 人 餘は土 

ばう む しか .v. れ せいと ねっしん ばたら しゃう らい あんら ぐ t のよ おく の ゼ いつ 

に 葬られました、 併し 其ても!^ 徒 は 熟 心に 働き 將來に 安樂に 此世を 送る 乙と を 望んで 何時 

き さん ^Jヽろ やす 

にても 氣を散 じて 心 を 安んじ まし. {:io 



せいと おは s> « たら 



ノた M たけつ ばく あ. vb- a- ばらし 



* 聖徒 は 大 に 働 さ、 歌と 美 欲 v^ll ひ、 又 潔 白な 遊 ゃ氣晴 ^J-l- て氣 散 じ まし-;^、 ゥ ヰンタ ー、 クワ —タ 

= を あ ひた また は しなう ざん S- よかう を と;: V t ばつ じっせいと 5 た かん で き Jj; けね つし,; - 

ス に01? リ ました 間、 又 西の方 口-ツキ I 山へ 旅行して 居 つれ 時、 = ^の 末日 聖徒 は 甚く 感じて 出 來る丈 執 i 心 LL 



ぎ ごと いうめ い か いたく 3 ん, ひか う < 

次の 如き 有名なる 開拓の 1^ 美 歌, a- 欲 



ひました、 曰, 



來れ、 聖徒よ、 苦 をお それずに、 

みち 

ょプ C 乙 び もて 道 をす 、め。 

たと へ 旅 7f をつ らく は 見 ゆれ、 

なが 日の ごとめ ぐみ 來 らん。 

上し 

われら はっとめ て、 由 もな き 

うれ ひ をの どく どよ かるべ きハ 

さらば ど、 よ KTM び 胸に 滿 たん 



いかで 我が 世 を かなしく 思 はん、 

悲しむべき こと は あら じ〕 

われら 今よ. O.Ji- 、かひ 避けば、 

のちに はな ど 報酬 得べき 

なが 身 をよ ろ ひて、 勇み立て、 

御 神 はわれら を棄て ざらん 

やがて ど われら はかく かたらん、 



善き かな、 いと も 善き かな 



I きかな、 S とも 善き かな G 



かみ さぐ 、 J / 

三、 神の をな へしと ころ を 探らん、 

と は はし ぐ は 

はるかに 遠き 西の 國ど。 

5-5. な た 

害 を爲す もの もこに は絕 えて, 

聖徒 はみ なめぐ みうけん リ 

われら はうた ごえ 高く あげ、 

主君なる 御 神 を ほめた、 へ、 

ひと たか 5, \ ) / 

一 き は 高く どかく は 云 はん、 

善き かな、 いと も 善き かな。 



四、 たと へ わが 旅 を にらて 逝く も、 

さ S は ひな. 5、 い ともよし や „ 

われら うれ ひ をの がれ ど 出で、、 

正しき もの 共に 住ま は. <o 

若し また われら はながら へ て、 

聖徒の やすら ひ 得ん を 見ば、 

rJ の 折り返し どい かならん、 

善き かな、 いと も 善き かな 

(末日 聖徒 讃美歌 第五 十 四) 



ソった 



みち t こ 



お 

1 . 



ゥヰ ンタ ー、 クヮ I タ ス とい ふ 町 を扣. 律 正しく 作って 道 を 橫と縱 にして. K 太 や 芝 土を以 

いへ ; A ほ 上 七 tJ ほどた そのた れい ぱいおう また. S ろくせ いざう じょ 乙つ ば せい 丄んじ 上 r_ びきば 

て 家 を 大凡 七 百 11^ 程 建てました、 其 他 禮拜堂 又 色 令 製造所 や 工場 や 製粉所 や 木 挽 場な ど を 

fS まち ぐ K-s- いし つち もつ ; 4 ほい か 3 つく ? ち けんご せいと みない, V が 

建」、、 町の 周 II に 石と 土ケ- 以て 大 なる 垣 を 造って 町. V 堅固に しました、 徒 は 皆 忙しく 

よ, ノ な ひとな -げ つぐ わい ,v しき ^ \ し S う J- うじ やうし ふ f わ. S ひら ザん けうし . でん^う 

て 用の 無 さ 人 は 無かった、 , 敎會の 組織に 拘 はって 宗敎 上の 集會は 開かれ、 宣教師 は 傳 道に 



五 七 



】 五八 

つか は またがく がラ まク あ せいと ぐに せい. しつ-/ s\ さん し ごと もと 3 た 

遣され、 又 學校は 設けられました、 或る 聖徒 は國の 西部の 州々 に 離散 -て 仕事 そ 党め、 又 

あ せいと 1 し つか は そ 乙 ねいる f ぼうと のが あは" ゎプ 

或る 徒 は ナ • ヴゥ 市へ 遣され て其處 の獰惡 なる 暴徒より 遞 れつ 、あった 憐 なる 僅かなる 

せいと たす ため ぼ しゃ し 上く 3- やう も ゆ 

S 徒 を 助ける 爲に 馬車 や 食糧 を 持って行きました 

せいと か ねん ねん ふゆ むく 

垂 徒は斯 くして 一 千 八 百 四十 六 年より 四十 七 年に かけての 冬 ケ」 送. 噯 した。 

たい しゃう かい たくし や お 上 さいしょ たい ご 

第 四 章 開拓者 及び 最初の 隊伍 

ねん つ か しとぐ わ S ちゃう かみ けいし う I li : 

一千 八 百 四十 七 年 一月 十四日に 使徒 會長 ブリ、 、カム、 ヤング は 神の 啓示 を 受けて 「イスラ 

じん たいご ら せいはう S 'よかう ぐわん てんしゅ ^よい そ いましめ せいと し 乙 

ェ ル 人の 隊伍 等が 西方への 旅行に 關 する 天主の 御意 及び 其の 戒」 を 塗 徒に 知らせました、 此 

ぜん ん うち ゼ いと せいは ゥ W 上 かう あんな S て ai たう ぐんかい めいれい せいと /J れ 

の宣 一一- の內 に. 聖徒が 西方へ の 旅行 案内と して 適當 なる 訓誡と 命 八 P があります、 聖徒 は 之に 

しなが feff - いかつみ な ぐ わう や で § うしよ はっそく 

從 つて 直ちに ゥヰン タ I、 クヮ- タス ,ゲ 出て、 曾て 見た ことの 無き 喊野 にある 住所へ 發足 

じゅんび と 《 'かヽ せいと た すう さき 5 みち まう ため からお つよ ひよ 

する 準備に 取掛 りました、 垂 徒の 多數 より 先に 出て,^ 道ケ設 くる 爲に體 軀の强 健き 人 を 一 

^ん えら ゆ つ か これら かいたくしゃ — — . しゅったつ 

ぉ叫 十 叫 人 «!: びました、 四月 七日に 此 等の 開 Jfw 者 はクヰ ンタ. '- クヮ- タス を 出立して 八 

か I ' いば ちか とま 乙 \ ,15 た S 上 かう つ ■ I 

H にュ < ク 、ホ- ン河に 近く 泊 わました、 此處 から 又 旅行 を 續 けて ゥヰン タ-、 クフ, タス 



マイ .4 い ときすな は f; ク にち はちかん こ かいたくしゃ ぐんじ う ち-? -ぅ たい 

よ,^ 六十 哩 ほど 行った 時 即ち 四月 十七 日より I ニニ 日 問に 此の 開拓者 は 軍事上の 中隊と して 

ぐわん せん そ しき そ ゆうしゃう I そ it さ 

完全に 組織され て プリ ガム、 ヤング は 其の 中將 に、 ステゲ ユン、 マ I ク ハム は 其の 大佐に 

なりました、 又 其の 他に 大尉 は 十四 人ば か. ありました〕 

i-tL >っ ち, w:^ び ゃゥ、 さ ■ か/' ひき かへ かいた ぐ ー > や かず. 化., -, J A い をん なめい 乙 

* 此め中 一 人なる ユリス、 H I ムス は 病 氣に 福って 引返し;^ から、 閣 拓 者の 数 は 百 四十 三 名、 女 三 名、 子 

ぶ も tl たリ ■ 乙れ ら ひと しゃ リ やう w や う a とう ろ ば とう をう し とう めうし とう > J 

供 二人 のみてした、 此 等の 人 は }*辆 七十 ニ輛、 馬 九十 三 頭. 驢馬 五十二 頭、 牡牛 六十 チ、 頭、 ft 牛 十九 頭、 If 十 

ひき 6- たは はとり す 乙 も を 

七 匹、 又 鵜 1 ^少しば かり 持って 居リ ました C 

Z ち 2 つたい か ははし か ぐ わう や やま みち t しら じ: §ん び で き ひつえう た /- か 

此の 中隊 は 河に 橋梁 を 架け、 嚒野ゃ 山に 道 范 へる 準備が 出來 て、 必, 要が あらば、 戰ふ 

ぶ き そな ゆつ ^ちかん マイ^ たび つ せいはう かいたく かラ) ん 

武器 を備 へて、 三 ヶ月と 十七 日間に 一千 哩の旅 を 繼け、 西方へ 拓 せんとて 行進し ました、 

/ —— . ^は きた きし ある あと <^ お ぜ いと ため マイ^い じ やう ほど しんた う t しら そ丄 

プラット 河の 北の 岸を步 行いて、 後. 來 る!^: 徒の 爲に 六百哩 以上^の 新道 を搭 へて、 其 

れ ふし t みちた ど ゆ ゆん や ^} さ ぼく A. ほ やま か は 乙 せん IV つ 

から 獵 帥の 小徑を 迎って 行 さました、 原野 及び 沙漠 を 通. -、 山 や 川 を 越え、 幾多 職傈 すべ 

けいけん * さ ゆつ か たう じ 5 うめい ひ やう や しとく わいち. 5-デ そ いたくし や 

き 經驗を 重ね, 七月 二十四日 (當 時から 有名なる ョ) に; S く 使徒 會長 ヤングと 其の 開拓者 

たいご *V いえん 乙 けんや たうち やく w> い. ,^ -た< しゃ つか さ <■ さん M へ ひ 

の 隊伍 は大鹽 湖の 原野に 到着し ました、 該 開拓者の 司なる ブ リガ ム、 ヤン グは 以前に 此の 平 

をん at や-つど な ぼろし み とき fJ ゝ わがた み じん おのれら てんまく は ぺ 《M し 上 

なる 境士を 異象に 見た 時に 「此處 は 我 2ii なる イスラ H ル 人が 己 等の:. K 幕 を 張る 可き 場所 

である」 との 啓示 を 神より 授かりました、 此處は & ッ キ U 山中て 签氣が 稀 簿て淸 燥て あ. 9 ま 

f ■ : t I 1 五 九, - 



Hi う かんしゃ じみう み J ^い/.、 たぐし や めんせん み き やう &3 あたら I ち 

した、 而 して 感謝の 情に 滿 てる 該 開拓者の 面前に 見えた 境域 は 新しき シ ォ ン の 地で ありま 

乂" 

それ ゆ ふ よろ 乙び た P は!^ ん; てぐ さんぴ 乙 あ さん ふる 

した、 せ 故に 喜 悅に啦 へずして 大滿 足に て 讃美の 聲を 揚げて 。 ッ キ.. '山 を 震 はしめ ました。 

.^^きしか いは せいと はぐべ い ち; g つ わう 巾 ちリ また まこと ふが ふ あたら ぜハ ちた う 

* 歷 史家 パ ンク n フトは 曰く 「聖徒 は 北 来の 中央へ 行. r- て 地理 又 眞 に パレス デ VIL 符合す る 新 しき 聖地に 到 

ちゃぐ たと L しか 5- nnnMMNy たいえん 乙 [ I . 1 1 = かい 

着し まし;:、 例へば パ レス テ ン -」 死海と いふ ものが あれば H I タ に大鹽 湖が ぁリ、 パレス テ y に が" ラャ 海が あ 

- ■ I, IC J1, しかい .!nMnJnM,pi^ ^ «• やう 乙 ちひつら かな 1- 

れば、 ュ —タに は H I タ湖 * ん あり、 パ レス テ X の 死海と が リラ ャ 海との 兩 湖. <J ^相聯 ぬる ヨル^ン 河が あれば、 ^ 

. ■ たん 》- んこ . tJ あ ひ あ I - .£ ば はん う を ! 1MH 1 ^Iv; ん 

—タ にも 大驟 湖と ュ I タ 湖の 間 icj* ジ ョルダ ン 河が 奔流して 居ります、 パレス テ vl- ヘル モ >- 山が あれば、 ュ I 

= ざん ま fell d--,-^t さぽく HHIMH さ ぼく を たな はすうた あ ひば ところ 

タ にも 二,'; I 山が ぁリ、 又パ レス テン -し 沙^が あれば、 ュ 1タにも沙^^がめろ、其の他尙數多の相似;:る 所 が 

あります」 と 

ばち ちえう がい- f\ たくし や し: S クて つじ やうし ふぐ わい ぐ わい 上 は ぶ じ がいち はゥ ちゃく 

廿 五日 は 日曜て したから 該 開拓者 は宗敎 上の 集會を 二回 催 して 無事に 該 地方に 着した 

かみ かんしゃ せっけう しゃ りかし よ ゆん すなば おと.. つれ —— もの 

こと ヒ; g に感 詠いた しました、 說敎者 は 昔の 預言 即ち 「よさ 音信 をシ オンに つた ふる 者よ、 

たかき やま また .f み おの たみ や a また ■ ひ . 

なん ぢ 高山に の ほれ」 と、 又、 祌は 「己が 民 を 山の あ ひ. たに かくし」 又 「すゑの 日に M ホパ 

かみ いへ や iW かたぐ た -^u あが 

(祌) の 家、 も^0/\の.:£の い たくき に 堅 立ち 「も の嶺 よりもた かく 擧 らん」 (以賽 e 

: I • - - * . ^ r >^ おのれら がいげ うと さん いでゆう 

書 四十 草 九 節 及 ひ 同上 二 章と 一 ニニ 節) と 云 ふ 事 は 己 等該敎 徒が 口 ッ キ - 山に 移住す る 乙と 

くわん 上 ゆん しゅち やう 

に關 する 預言て あると 主張し ました 





岡の 較 比のと ン テス レバと タ-ュ 



わ, つか いう 上 そ もぐる ばち あさ はや お じ やが たらい も K もつ ば じ きんぺん 

些 の猶豫 もせず 其の 翌 (廿六 t9) 朝早く 起ヒ、 て 馬 鈴薯ゃ 穀物 を播さ 初めました、 近傍 を 

たんげん ため たいご そ しき Z たいご し 上 くみんち きた やま のぼ AJ ちゃう じ やう 

|_ !險 する 爲に 五六の 隊伍が 組織され ました、 此の 隊伍 は 民 地の 北の 山に 登って 其の 頂上 

し上 乙く た 5 ばた た にきた う >£ ろ ばた みね な, つ か は 乙す ゐ をん せん ! e 

を (諸 國に對 する、 旗を樹 つるに 適當 せる 所 なれば) 旗の 峯と 名け、 河と 湖水と 溫 泉へ も 行 

にち しんでん た る ち えら は し せっけい さた ^つ ば:!. め ごろ 

きました、 廿 八日に 神殿 を 建つ る 位置 を擇 び、 略 市の 設計お 定めました、 八月の 初 頃 十二 

し と お 上 おは た せいと 》^ た /- しんれい う かつ かみ た せいやぐ いま/ ちらた た 

使徒 及び 多くの 他の lie 徒 は 再び 浸禮を 受けて 曾て 神に 立てた 誓約 を 今 又 新に 立てました、 

せ と あと く しょくみん しゃ ため あるひ と ち たがや あるひ ャ」 いもく き . かつば こ あるひ けん 卞, く じゅうじ 

51- 徒 は 後から 來 る敏; 者の 爲に 或は 土地 を 耕し、 或は 材木 を 伐 6 且搬 び、 或は 建築に 從事 

あるひ ど ろ たいやう かわか れんぐ わ つく とうは ゥ 义 なへ みなき やうたい 5- うじん たす ため 

し、 或は 土坭を 太陽に 乾燥して 練^ を 造りました 、束 力 へ る 前に 智 兄弟 や 友人 を 助ける 爲 

で き たけじん リ 上く ほつ を しか M つ-ち ひま もの ひと リ な 

に出來 る丈盡 力す る 乙と を 欲して 居. ました、 然れば 此の 中には 閑なる 者と て は 一人 も 無 

みな ぱん ばう ^J ,i いたくし や た S えんこ はんや いた しぱら のち たい. (- 

くて 皆 繁忙であ 6 ました、 此の 開拓者が 大鹽 湖の 原野に 到って 齊 くの 後 「モル モン」 大隊 

ひと めいかへ i I I :> う せいと へ わ は 上 そ めい 乙ゝ き 

の 人 は 百 四十 名歸. 9、 又ミ シシッ ピ 州よりの 维: 徒 も 大凡 &名此 處に來 ました。 

< 月 二十 二日 大<^1 でシ" ォ T に尙 一 つの ステ r キ 部は龃 織され て老 ジョン、 ス ミス は 其の 

ぶち やう ぜんきよ 乙 ときが i-L 上 くみんち ダレ —ト、 か ルト、 レ |キ し なプ ち はう 7- がば や t!^ たは 

部長に 選擧 されました、 此の 時該殖 地は大 湖 市と 名 けられ、 地方の 小川 や 山の 谷 

お i . Hm^H おの/ \め い /(\ a たたい えんこ そ/ - い か リぅ ゆん ち tt ラ 

及び ジ ヨルダン 河 も 各 命名され、 又大 ま^ 湖に 灌ぎ 入る 河流の 全地方 をグ レ -ト、 ベ I ソ 

一六 一 



ニハニ 

ン 「と 名 けられました o 

に 力いたい てい ひく ひと 上 A- しき ― かへ 

十七 日 七十 一 名大 抵ーモ , モ ン」 大隊の 人で 善く 钮織 されて ゥヰン タ I、 タフ-タスに 歸 

モ ご ゆつ にち くわいち やう およ にん たいご これら ひと たいてい い ひと 

6 ました、 其の後 八月 廿 六日 會 長 ヤング 及びお 七 人の 隊伍 (此 等の 人 は 大抵 大隊の 人て、 

そ か ぞく せいと た すう とも を がいし 上 ぐみんち の aJ ひとぐ こぐ ぺっ つ ふか な ごリ 

其の 家族 は 聖徒の 多數 と共に 居りました) は該 殖民 地に 殘る 人々 に 吿別を 告げ、 深く 名殘 

をし - む はつ そぐ 

を IS みて ゥヰン タ1、 クヮ ー タスに 向け 發 足しました ◦ 

し いば われら か ぐ リ や, - 一し 上ぐ お ほ つ しゃ りゃう もつ けわし さん aJ く ぶ 

"^"ゥヰルフォ少ド、 ウジ ドラフ 氏 は 曰く 「我等ば 家具 や 糧 食 の 多く,^ 積んだ 車 輛 ^以て 險 き 山 谷 *J^ts み 

乙 マイルい じ やうる みち とほ せいと た るん たくまう う もと 乙ゝ マイルば う し 

越えて、 一千 哩 以上の 惡 しさ 路,^ 通リて 聖徒の 爲め 安宅.^ 5^, おくべ.. V 、地方 yJ- 筧 めました、 此所 L1 ニ哩 四方の 市 

ふ まち ゎリ 乙 \ マイ -5 ほど や S き た ざいもく やうぐ わう かわ れんぐ わ もつ 

府の町 割.^ して 此 所より 七哩 程の 山から 伐り 出し;: 材木- V 陽 光 に 乾かし;: 練 以て 十 H 1 クル ( 一 萬 二 千 

っぽ しかく しうる お ほかき C- く さう そ うち つぼ おは た もつ ,v をく 

二百 四十 坪ば かり) の 市 角の 周 園に 大 垣,^ 造リま I れ、 而 して 其の 內 三百. j ハ 辟.^ 覆 ふだけ LL 丸太 1^ 以て 粗屋な 

た また そ ほか ほど ち 力ん たう もろ 乙し やさい ま /J れ みな ゆつな S 

建て、 又 其の 外 tH 1 クル 程の 地面に 玉 蜀 泰と野^1"水と^^^播きまし匸、 此皆 一ヶ月 內 一に いたしました」 と。 

Z とき あた せいと たいご いさん い ぐ さわ: に かいたぐ しゃ * めと お すで ja つてい 

此の 時に 當. 9 聖徒の 五六 隊伍 は 以前に 出て V 草 分 をした 開拓者の 後 を 追 ふて 旣に發 程し 

r /J れら せいと さいしょ iH-tie ラ みん な,, つ し と くわいち やう い 

て 居, 5 ました、 此 等の 聖徒 は 最初の 移住 民と 名 けられました、 使徒 會 長 ヤングの 言 ふて 

お したが けつ — ■ きし たいご た しき し と 

置いた こ とに 遵ゥて 六月に ユルク、 ホ- ン 河の 岸で 隊伍に 龃 織され ました、 使徒 パ ー リ、 ビ 

し と Z たいご かんとぐ そ した い ゆうみん つかさど ゐ 、ん 

1、 ブラウ トと 使徒 ジ ョ シ 、ティー 力 1 は 此の 隊伍 を 監督した が、 其の 下に 移住 民 を 司る 委員 



i 



路 難 し tf 過 通の 徒聖 




I 



ぐ わ 5j たんで 上 乙 ども あば にん は ど なた しゃ リ やう w- やうお 上 ざう ぱ 

會が あ. りました、 男女 子供 を 合せて 一 千 五 百 五十 三, 人 程あった、 又 車輛 五 百 六卜輛 及び 牛馬 

A ほ 上 そ とう ほど 乙 せんたい つかさ そ し; S ば ふぐわん 

大凡 五 千 頭 程 あ, 9 ました、 此の 全體の 司はジ ヨシ、 ヤングて、 其の 守 法官 はジ ヨシ、 ゲァ 

I i ^ん かしら にん . . 1 . I 

ン、 コット でし. i^、 百 人の 頭 は 四 人 (ダニエル、 ス ペン サ-と H ドヮ. -ド、 ハンク-と ジ 

I お 上 _ 1 な はも た £i ん また 

ェ デ、 ダャ、 M ム、 グ. ラント 及び ェ ブラ" ム、 ォ ー 、 スム I ト) あって 尙 其の 他 五十人 又 

にん 乙 ぶん おの. (ぐみ かしら たれ ばうたい -に た. & しゃう 

は 十 人の 小 分に も 各 龃頭 があって、 其から 砲隊 があって シ-、 シ 1、 t チは 其の 大將 

くたん たいご ら うち == き しう けんぜつ おは な たか ひと うち 

であ 6 ました、 件の 隊伍 等の 內にュ 1 タへ 來てュ -タ州 を 建^し. 多くの 名高き 人の 內に 

そ とき ばたち せい" ん 

ジョ ルヂ、 キュ、 カノン (其の 時に 二十歳の 靑年 てあつた) イラ ィザ、 ァ -ル、 スノ I 、 

ぶち やう せんきょ ひと , 

ジョン、 ス ミス (サ ルト、 レ —キ、 ステ I キ 部長に 選擧 された- pt リン、 ファ I、 サッ 

き やうたい ! — 

チヤ I 兄 、ク ヰリ アム、 ハイド、 ジェ コプ、 ゲ -ッ、 ゥヰリ アム, タブ〃 ュ、 ラ イダ、 ク 

ヰ リア ム、 シ - 、 ス ティ ンズ 、 ジ ェセ、 ェン、 ス ミス 、 チャン セ、 タブ ルュ, ウェストが あ 

>9 ます。 

ぜ 5- と たいご わか で おい けつ にち しゅったつ 

. 徒 は 二つの 隊伍に 分れて ユルク、 ホ I ン河を 出ました が 一 隊は 六月 十八 日に 出立し、 

い 3 おい けつ か Hcivro しか ぎう ぼ おは し なおと もの む そ とつ せん 

今 一隊 は 七月 四日に 發 足しました、 併しながら 牛馬 は 多く 死に、 又 時々 物に 恐れて 突然に 

1 六 三 



一 六 四 

, て- な なせ また ど じん ため さまた り 上 かう しん^ ばな ば ち \ VX 

逃け 出し、 尙又 土人の 爲に大 に 妨げられた ので、 旅行の 進步は 甚だ 遲々 であ. 9 ました、 旅 

か ぅー り 5 う にん し またお ほ 乙 ども うま 乙れ ら リ よかう しゃ r さん で いいたぐ しゃ 

- 行中に 六、 七 人が 死に、 又 多くの 子供 か 産れ ました、 此 等の 旅行者が 以前に 出た 開拓者に 

.ュ ゆへ a, と a- ひじ やう よろこ =乙 がば し と ,パ よ かん ふ? — 

再び 逢った 時には 非常に 喜悅び やへ した、 スヰ i ト、 クヮ I タ 小川で 使徒 テ イラ - 及び 監督 " 

ばつ lb ん i ぐ. ci-ti- やう ため 。つ ーュ えんぐ わ 5 よ ほ ヶリ. /0か ん えう . ひやう ぎ 

ンタ -の發 (:: に 依. 9 て會 長 ャ ング の爲に 立派な 宴會が 催されました、 折 々肝要なる 評議 

ぐ わい ひら さう せいと たいえん 乙 . I かへ かい 

會が 開かれました、 而 して fii 徒 は大鹽 湖より ゥ キンク ,、ク ヮ— タ スに歸 ,0 つ k ある 開 

たくし や み はじ おのれら 5., くさき わか またがい た^ (1 i や お ほい なぐさ ゆん き くわい. -く 

拓 者に 逢つ て 始めて 己 等の 到處が 解. -、 又該 開拓者に 大に 慰められて 元氣を 恢復し まし 

た 

は つ すゑ かたぐ たん リ さん たいご ら お い えんこ ゆん や 5 ば じ .4 つ なかせ まへ ^J fi- 、-ご 

九月の 末つ方 件の ti 散した る 隊伍 等 は大鹽 湖の 原野に 入り 始め、 十月の 半 前に 此の 隊伍 

みなぶ じ もぐて きち お つ 

は 皆無 事に 目的地に 落ち着ました。 

たいえん こ ひき かへ き やう;^』 いら つ にち —— たうち. e- ぐ 

大, M 湖よ. 9 引返した 兄弟 等 は 十月 三十 一 日に クヰ ン タ—、 タフ I タス に 到着し ました、 

,て た すう まへ とし ん けつ にち く は ち 上う ばつ おう か ; てく わか とき た V 

其の 多數は 前の 歳 一 千< ^四十 六 年 七月 十六 曰 國の徴 發に應 じて 家族と 別れた 時よう 只の 

ど いう じん あい か ; \- ぐ な 乙 とき ひと かた ぐわん: う 

一 度 も 友人 や 愛する 家族に 逢つ. f-NJ とが 無かった が、 此の 時 こそ 一 方なら ざる 歡迎を 受け 

- ^した 



第五 章 ブリガム、 ャ ゾ グ 敎 會の大 管長と..,^ る、 蝗の大 

い ^すう せいと せい a う い や ゆう 

害、 多数の 聖徒 西方への 移住 

乙 とき Mn^HNMy ぶ —— い a きし し 

此の 時に シ オンの ステ ー キ部は 一 一つ あ,.^ ました、 一 つ は ミス ゥリ 河の 岸に あって 十一 一 使 

と ぐ わいち やう お 上 し と おは そ Z r な はけう ぐ わ s- ほんぶ た 

徒會 長 ャ ング 及び 使徒の 多くが 其處に 「i5 りました 故、 尙敎八 13 の 本部でした、 他の 一 つ は 

■ = さん f ^ゆうお いえんし かたはら た かんなんしんく う せいと か マイル は どぱな 

P ツキ 1 山中 大, M 湖の 傍に ありました、 絕 えず 艱難辛苦 を 受けた 徒 は 斯くて 一 千 哩程離 

r なほ ばい しゃう:?" い せま ゐ みないつ ち で き § くわい つぐ 

れて 居つ.?^ から 尙百 i$ したる 障害に 迫って 居ても^ 一 致して、 出來るたげ偸快を^^^して 一 

千 八 百 四十 七 年よ, 9 四十 八 年に かけての 冬 を 送りました。 

—— ■ - ■ ^ せいと す こぶに ゆん き やう を む ろん や sv- ひ ゎプら ひと 

ゥ ヰンタ I、 クヮ I タスに 於け る 聖徒 は 頗る 順境に 居りました、 無論 病 を 患 ふ 人 も あ. os、 

;!^たし ひと 乙ち き 乙う おはい けんかう てき を おんたい こ 

又 死 A だ 人 も あ 6 ましたが、 此の 地の 氣候 は大に 健康に 適して 居りました、 全 1^ として 此 

w やう みん しん/. ひん ご た:^ ひ I- ん せつ またへ いわ す を あんせんぶ じ 乙 ふゆ すご 

の 良民 は 心身. 奴.^ 固で 互に 親切で、 又 平和に 住んで 居らました、 安然 無事で、 此の 冬 を 過し 

て 熱心に 働いて、 豫想 せる 翌春の 移住 旅行の 準備 を 致しました。 

X ゆん し々 じゅんい-, -- とき けゥ ぐれ 5- ぐわん ちゃうく. Ri, £ つか し 

預言者 ス ミ ス が殉敎 し.?: i る 時よ. 5 敎會に 管 畏^が あめません てしたから 十二月 五日に 使 

1 六 五 



一 i (六 

と し、 A ぐ わ くわん ちゃ ク ぐ わい そ しき き よ しとく わ rt-tt-A う 

徒 は 集 An して 管 會を 組織す る rJ と に めました、 依らて 使徒き _::^ なる ブリガム、 ヤン 

はんけ うぐ わいすな は ばつ じっせいと イエスキリスト けつぐ わい たいくわん ちゃう えら さう にち 3 た あくると し 

クを 本敎會 即 ち 末 徒耶穌 督效 會の大 管 長 U 撰びました、 而 して 二十 七日 又 翌年 

, ゆつ か . MMHi お けうく わい たいぐ わい せいと ^Jれ かぐて い し 

十月 八日に ク レ I ト、 サ ルト、 レ- キ 市に 於け る 敎會の 大會で 聖徒 は 之 を 確定し ま: た、 使 

と < わい , たいせん f; ん しょ つく せいと やま か あたら ―, ^ いで S ゥ すゝ た 

徙 會は大 宣言書 ひ 作つ て 徒が 山の 中の 新しき シ オンの 地へ 移住す る M とを勸 め、 又す ベ 

マん、 し 上 乙く しょ ゼく しょみんお 上 こ, ら おいと ゥり や? ぐ わうて, V わう しんのう き JV く ち しゃ くんしゅ お 上 さ i- 十ん 

て 一 火下の^^國諸族諾民及び此等の大統領、 皇帝、 王、 親王、 賁族、 治者、 君主、 及び 裁!: 

^^^^ ^^- 、は ft - か. J¥> かみ ため しんでん ふ しん またへ いあん ち ら ぐき やう し しょ 

官か 我等 (聖徒) に 加勢して, ャ コブの 神の 爲に祌 殿 を 普請し、 又 平安の 地、 樂 境の 市、 諸 

{ あつよく ひと ため へいわ . で; S う I,- 上 ひんせつ やう ねが 

所の 壓 抑せられ る 人の 爲に 平和の 住處を 建設す る」 樣に蹶 ひました リ 

» h-'MM , :-,-|- , 、:: il ■ じ,^ 乙,, - - にん, これら ひと そ やぐ! 3 やう 

クレ T- ト サルト レ-キ 市の 人口 は 一千 七-白人て あ. ましたが、 是 等の 人 は 其の 逆境 

i わ リぁひ ぷ じ い-, ノ すぐ ,て ゆ おく ,て ふ^ き たぶん ふ 

に 住める 葡み a に は 不自由 少なく 其の 冬 を 送. りました、 其の 冬 は 雪 は 多分に 降りません て、 

の, び-力 - がい; うと — -ノ たう 十つ やく ゆつ か さ i" し 上 

畏閉て ありました、 該敎 徒が グレ -ト、 サ ルト、 レ-キ 市に 到着したら 十月 三日 最初の ス 

ぶ そ f き , 、わん せん ら そ ぶち. でう 

テ-キ 部の 翻! i を {-W 全に しました、 老 ジョン、 ス ミス を 其の 部長に して チヤ I 〃 ズ、 シ-、 

パ . 1 モ 乙 もん えら た た かゥ さ-つ さ 5 ひつ K3 ん た しき 1 

リッチと ジョン、 ヤング は 其の 顧問に 選ばれました、 其の 他 高等 裁决 院が龃 織せられ、 タ 

^ , I かんとく やぐ えら iaj, ぐ あ ひと . 

I ;i トン ,1 イス は監 2^ の 役に 選ばれ t< した、 i モル モン」 大隊の 或る人 は カリフ ォ 凡 -1 



= かへ むぎ たう もろこし じ やが たらい も そ さい た^ も き そ そご あ せい 

ァょ り歸. て麥ゃ 玉蜀黍 や 馬 鈴薯ゃ 蔬菜の 種な ど を 持って 來 ました、. 丽 して 其の後 或る 聖 

と た. へいやう かいがん い たね かちく 5 K ふ かへ 上,、 ばる せい- M しょく や さい 

徒が 大 16. 洋 の 海岸 に 行って 種子 と 家畜 と を 輸入して 歸 りました、 ^赛 徒の 食す ベ き 野菜 

たど やま § リ K? ゐ ね ぼ-つ 、亡- ね ^上 あざみ かぎ そ ぎう はぐ ひに やう わる 

として は 只 山の セゴ (百合の 類) の 根と 防風の 根 及び 力みに, おって 其の 牛肉 は 非常に 惡 

あ ひと ふく た : にもの か は き なた や はかみ きつね ねずみ なん 

く あ 6 ました、 或る人 は 衣服がない 爲め野 獸の皮 を 着 4^、 又 野 猫と 狼と 狐と 家 鼠と 南 

きんむし おは あたら いでゆ- - みん ぉぽ S たう わく 

京蟲が 多い ので 新しき 移住 民 は 大に當 惑し ました。 

= "彼等ば M 百 二 t 三 軒の 家 に 住ん て かりました、 耕さ.:: た 地面 は 五 千 一 _ry 三十 一一 一 H - ク少 (一 H— クル ほ 一 千 二 

っぽ も うち 丄ゅ 乙.;:; n a 

百 二十 四抨, はかり) ありまして 其の 内 八 百 七卞五 H 1 ク ル 冬 小麥が 1^ かれて ありました のて す。 

し. い 乙れ 55 きた i, なご たいがい くら もの かず 

併しながら 之 を 將に來 らんと すろ 蝗の大 害に 比 ぶれば まだ 物の 數 とする にも 足らな かつ 

ねん けつ/ J ぐろ む すう がいちう にば は^1-け い いた と 乙ろ し 上く ぶつ/」 と., 

た、 一 千 八 百 四 十八 年 五と 六月に 叱の 黑き無 數の害 蟲は庭 や 畑に 入りて 到る 返の 植物 を悉 

ぐつ ぐ を 1: よ くみんし や ね あざみ し 上く まさ ラ w5 じ は ひと ごと な 

く 食ひ盡 I ました、 其の 戒民 者はセ ゴ の 根と 薊と を 食して 將に 餓死 せんとす る 人の 如く 成 

つて、 其の 蟲を 殺し 作物 保存 せんとて 盡 力, 'ました けれども 徒勞 であり まし.?^、 作物が 

な また それ ぐら ひと う K.J じ は おそれ 乙 き ヽ ふそんば う とき かもめ ;; ほ,:: れ 

無くな. 9、 又 其 を 食 ふべき 人 も 餓死 をす る 恐が ありま—. た、 此の 危急存亡の秋に ie の 大群 

おいえん こ しま/ c\ と きた あさ g ふ 5- た たえま こ むし ぐら さう はら 

が大鹽 潮の 島々 より 飛び 來. 5、 朝よ 6 夕に 至る まで 絕問 なく、 此の 蝶 を 喰 ひ、 而 して 腹に 

■ 一 六 七 



み 一 六 八 

満 つれ は 之 を 吐き出して 復 他の S を i5 ひました、 isr 此の; g くして" 勿 此の |ぃ& ぎ! :4|;, 

あ、 かれら ^-れ た,>-丄 し ぎ み すご , 

た、 鳴 呼 彼等 は 之 〈不思議な こと、、 して 看過し や 侍た てあらう か、 ^giri のき M であ 

りて、 是に 依りて 彼等 はう ナ i ゲ たと IT へ、 獻» にみ 満ちた る 響 (4 を 化て irii ぎし、 

禮拜 しまお、 而 して 今ぎ もき は、 i の Ipr て霸と S ふの は g に 1?? とで は 

あ. -ま せん. 又新しき^1のせ少1?はセ ゴ"百5ロと||£?ぃに爾颯なる||ナぉ^|に,铲ぁ鬼4へ た 

いつ き ねつ ■ 乙れ あ. S 2 ず 

乙と を 何時も 記念して、 之 を 愛すべき 警 てあります 

1 千 八 百 四十 八,!^ 十 か曰羅 i は の r しき i ぎ f て き,? 

と Is ました、 T^T^^JT^rJ^ 「トは く 「5^ や: ^1 や i 華 ip5^rf V 

お 上 た さぐ もつ たか a しら う、 ら .-〕 す こつ . 

及び 他の 作物 を 高き 柱の 上に 上げ 結びて 公 「不 しました、 蒙して せきと 徒 は啉に と ぎん^と を 

0s0ff 議 t 、霸 t、if ずし、 選 £ぃてぎ お 一,. ぎ g に ま 

した」 と、 「モ , モ ン」 大隊の 或る人 は カリフ オル -ー ァで Jfcu へ 得て 勸: て 鱖;, ました、 

彼等 は 文明 世界 を 動かす カリフ ォ の. 砂金 地を發 見した る だの ¥で ありました、 そ 1 



おいえん 乙 ゆん や かへ とき しゃきん す 乙 も き かれら かへ あたら い うみん 

て大, 湖の 原野に 歸る 時に 砂金 を 少し 持って 來 ました、 彼等が 歸 つてから 新し さ 移住 民の 

じん 乙う お ほよ, V ^ん ふ 

人口 は 大凡 一 千 八 百 人に 滩ぇ ました。 

また 」 か は きし お せいと まう ねん はじめ ごろけ うと 

又ミ スクリ 河の 岸に 於け る 聖徒の こと を 申し ますれば、 一 千 八 百 四十 八 年の 初頃敎 徒の 

た すう —— さ ん うつ ようい ねっしん *^ やくし 5 きん./ \ - しゅったつ 

多 數をロ ツキ. "山に 移す 用意に 熱心に 着手し、 近令にゥ-^^-ンタ!、 クヮ f タス を 出立す る 

X てい せいと とうはう おい じゅん ,ひしょ えう ゆ ゑ -て つかさら し つ 

豫定 であった のです、 聖徒が 束 方に 於て 一 つの 準備 所 を 要した 故に 其の 司 等 は アイオワ 州 

くわい ち ばう べつ ぐん そ しき しゅつ ぐわん さう かぱ とう ぱぅ 

會にポ タヮト ミ 地方 を 別にして 一 つの 郡を龃 織 せんこと を 出願し ました、 而 して 河の 束 方 

こんにち ■ —- かみ はう マイル ト/ J ろ まち なう 

今日の カク ン セル、 ブラ フス 市より 上の 方 二三 哩の 所に ケ イン ス ゲ ヰ ル町を 設け ましな、 

はう くわ い |::2 うし や ねんかん 乙 ゝ ぐ わう や とほ せいはう s- 上 かう すべて じゅん, ひ 广た 

i, モル モン」 敎會の 移住者 は 五六 年 此處 て、 喊野を 通って 西方へ 旅行す る 一切の 準備 を 致 

ヨウ ロヅパ きた せいと しう ン か は fJ ち 

しました、 歐羅 巴よ. 來る 徒 は ルイ シ アナ 州-一 ュ-、 オリ I ン ス 市より 河て 此の 町まで 

き こ \ 一 X :S かぱき さ いしょ たいご し と II 1 1 

來 て此處 より ッ キ - 山へ 行 さました, 河で 來た 最初の 隊伍 は 使徒 フラ ン クリン、 デ ー、 

み 4^ び たう ねん 1 I . —I さん .$ さいし 上 

リツ チヤ I ドス に-港 かれて、 當年ゥ ヰ ンタ i、 クヮ 1 タスよ. り P ツキ-山へ 出て た 最初の 

たいご はっそく す 乙 まへ J I たう *f やく 

隊伍の 發足 する 少し 前に ゥヰ ン タ-、 クヮ I タ スに 到着し ました。 

Z .> し 5 つたつ じゅんび ゆつ か にち えう しふく わ i- おいく わんち やう 1 おのれ とも たいえん Ki ゆん 

此處を 出立す る 準備と して 五月 十 1: 日 日曜 集 會て大 管長 ャ ングは 己と 共に 大鹽 湖の 原 

一 六 九 



i 七 〇 

f\ 、ゆ r ひとぐ *s たの t ひと/ お ほやけ しほぐ ふぐ hJ んじ ゆいた S た fJ さい せいと N 

へ 行く 人 々 に も 又 殘る人 々 にも 公に 祝福 ケ宣授 致し ま,' た、 又 此の際に 聖徒が 口 ッ I キ- 

お- ぶ な よ 1- ん か せいと みちび 

山中より 追 ひ 出される ことが 無 かるべし と 預言し ました、 二十四日に ャ ン グは 聖徒 を 導い 

1^1 - は し S つ- i へく そ 乙 乙. I- くゎん^:-ん たいご を しき さゥ .r.,: つ K じめ 乙ろ 

て H ルク、 ホ,' ン 河へ 出足して 其 處で之 を 完全なる 隊伍に 龃織 しました、 而 して 六月の 初 頃 

1 いはう リ上. S う ば じ たいご : ^^んたハ つかさ 

西方へ の 旅行 V 始め ま,: た、 隊伍 は 三つあった、 ブリガム、 ャ ングは 全體の 司て あ. ました 

,、 *i, でんれいし 1) II しゅば,.^ くわん 

力 ハタ-一 H ル、 ェチ, ク M ルス は傳令 使て ェチ、 M ス、 二〃 ドリ ッデ は 守 法官て あつ た ) 

一」」 -, : : にんお よ i> リゃぅ みち is ばっそく ,v ご 

最初の 隊伍 .11 一 千 二百 二十 九 人 及び 車 三百 九十 七輛 —— を導ぃて發1}^^しました、 其の後 

: ^ * ^ ^ I IJ たい ば, んめ たいご はんお 上 リ やう ひき 

にヒべ 〃、シ T 、キン バ 〃は 第二 番目の 隊伍 11 六 ぼ 六十 二人 及び 車 二百 二十 六輛 i Ad 率 

>、 ノ、 ^い ばんめ たいご はんお 上 <2^^ りゃう 

ゐ ゥヰラ T ド、 リツ チヤ - ドス は 第三 番目の 隊伍. I 五 ぼ 二十 六 人 及び 車 百 六十 九輛 11 

つ か さ 5 ご ぐる ま い '11, I まと む じん と乙 ろ 

を?^ きました、 七月 三日 最後の 車が 出で、 から ゥ, キン タ I、 クヮ 1 タス は 殆んど 無人の 處に 

C いわつ;? i う, や うち のち I- れきし おい いつもい ひと . 1 . 

なり まし. {^ 、此の 移住者の 中に 後ュ I タ歷史 に 於て 有名と なる 人 は レンゾ、 スノ- 、フ 

ランク リン、 デ I 、 リツ チヤ ー. ドス、 ジ ヨセフ、 エフ、 ス ミス、 一一 ユエ〃、 ケ-、 ホヰ ット- 一、 

Z ハ., H,v テ り viYHHJ; 、 ホ ゼ ァ 7^ ス タウ ト と 多 くの 他の 人々 であ. ました、 近き 內に 

一; う, ゆ- -- と ! と 2 ねん に つか そ まち 

傅 道に 行くべき 使徒 はケ イン ス ゲヰル に 泊. - ました、 一 千 八 百 四十 九 年 二月 七 n 其の 町で 



一七 二 

と; J ろ , たいせい^ か 、 せいはう つい いは わが, -に いか リ 5 う 

べき 所て した、 大 政治家 ダ -I エル、 クュ ブス タ ー は 西方に 就て 曰く 「 我國は 如何なる si;. 山 

もつ 乙 かち くゎぅた^, ち せき ひつえう >J ざん W ん ど じん おそ まう じう す 

を 以て 此の 债値 なき 廣大な る 地 精-を 必要と する か、 此の 殘 忍なる 土人 や 怖るべき 猛 獸の樓 

かつ ヽ.: : じか さつね すなほ 乙リ あ しゃ ぼ てん さいら う はか み えち はう まお/ J くわうた i7 

み、 且 旋風 常に 沙塵を 揚げ、 仙人掌と 豺 狼の 外に 見る 乙と を 得ざる 地方 や 又 此の 廣大 なる 

さ f あるひ ももと ちゃう じ やう めんえ S ゑん §き もつ おは たうて い あし よ 5 かぎ リ 

沙漠 や、 或は 麓より 頂上まで 一 面 永遠に 雪 を 以て 稷 はれ、 到底 足 を 踏み 入るべからざる 限 

3 ん みゃく い か ょラと あ 

なき 山脈 を 如何なる 用途に 充てん とする や」 とこ 

しか a うちく けうと 乙 とち ちゅう-わう おの すみか た この 

然るに 放逐せられ たる 「モ \ モ ン」 敎徒は 此の 士 地の 中央に 己が 住家 を 建てる 乙と を 好み 

乙と ちじい クぇを , . - しゃう らい おな じ 5 う う 

ました、 此の 土地に 自由. V 得て 居 もました のみならず、 ,ほ來 にも 同じく 自山を e 付る rJ と.^ 

t > あい せいと っ& はたらきお ズ かみ ぐみ よ さかん し いく a う 

思 ふて 此處を 愛しました、 聖徒 は 酷き 働 ^び 神め 惠一 i に, 因. 9 て 盛な 市,^ 幾 十と なく 設け, 

さ ぱく の はら てい ゑん (ん W たます くじん 乙う ふ 上 ちゅうわう はるか 5 3- ん しう しょくみん 

沙漠 や 野原 を 庭園と 變じ、 ヌ 益 人口が^ え.? -に 指. 5 て ゆ, 央 より 遙に 出で、 隣 州に て 1^:^ 

ちお はまう 

地 を 多く 設けました。 .. . -. 

た c し う し 上く. t んじ ゆ ふ しょくれ う けつ tf ふ つう ょク くわ (い ちう ざう S 

第 六 章 5f 民事 業、 ft 料の 缺乏、 通用 貨幣の 鑄 造、 移住 

みん ぃ^-<^ぅ えい たい しきん せっち 

民、 移住 永代 資金の 設置 , 



^ V $ しんぶん H つ. i ん C じ 

オルソン ハイド はフ ン-グ アル, 力 ー テ アンと いふ 新聞,^ 發刊し 始めました。 

r ものち 上しよ = ^れきし き いほ とれら たいご ち ひと f みな, Vi ^^(^-5AV うしん 

* バンクロフト は 其 著 者ュ I タ歷史 に 記して 曰く 「是 等の 隊伍に 逢へ る 人々 は 皆 其の f^々 堂 々 として. 1 仃 進す . 

h!.?- う ゆき "せ ちん 'やく かつじん, てく れつ とゝの 3 おせい せん ちつに 上 しゅくえ 5-5- よか , 

る: とや, 敵の 攻擊 防がん とて 沈 着 に且 迅速に 列ん 整 へろ、 - とや、 又 整然として 秩序よ く 宿 營 1^ び i 

♦Ty ぐる リ ばんぺい おとう み い ゅラ みん むし くわん せん そし a- ぐんな- 

畜の 周圜に 番兵 *^ 匱く 等の こと,^ 見て、 移 住 民 C '旅行す るよりか も 寧ろ 完 全 LiSi 織され たろ 軍 膝と いふが 一 

tlilL たう A.,^ しゃう さう じつ 乙 てんしゅ ぐんせい W. さ これ もしき wfe 乙 い MJS* うら うれち 一 

適當 なるべし と 嘆賞 したり、 而 して 實は 此の 天主の 軍勢に 優りて 此ょリ もよ く 組織され、 ,^ 此の. -以! q 老 i 

ひき ぐんたい よ 3 れ . 

に將 ねらろ 、軍跌 は 世に 稀なる べし」 と 一 

"か プぺ たいご うち くるま つな をう し とう めうし とう うま とう.,' IJ I 

X 此の 外に 凡ての 隊伍の 內には 車 に 繋いだ る 牡牛 11 千 十二 頭、 牝牛 九 百 八十 三 頭、 馬 kn 三十 一頭、 驗 馬 百卞六 一 

Jl^ 3 たゾる W はな うし とう そ た ひつじ とう ぶた とう ば はと リ は ひき . 

頭 又 車 に 繋 かざろ 牛 三百 三十 四 頭、 其の 他 羊 六 百 五十 M 頭、: g 三 I 一 一 十七 頭、 鶴 九 百 四 羽- 犬 百 三 4- 四 匹、 , 

^こ ひき やぎ びき がて う tt あひる ば tt と S 'すび 3 んっぽ ち そす At ^ 

猫? f 四 匹 山羊 三 匹、 鵝鳥 一 羽、 家鴨 五 羽、 家鳩ナ 一 1^、 栗 象 一匹 ノ tS 錄 と 其の 巢 五つば かり 持って 1^ リ ましれ 一 

ん ^いごし 6 みな 3 いしょ かいたくしゃ みち したが ふ おいぐ わんち やう 

件の 隊伍 等 は 皆 最初の 開拓者の 道に 從 つて 行きました、 大管 長 ヤング は 一 千 八 百 四十 一 

1 ゆつ • , , はち . ■, > . じ-, *! うち やぐ さ 5 そご 4: つ 5 ち 

1< 年 九月 I 1 十日に クレ 》• ト、 サ ルト、 レ- キ 市に 到着し ました、 而 して 其の後 j ヶ月の 內 

す 一 たいご ぶじつ それ じん 乙う は,; - よ 

に總 ての 隊伍 は 無事に 着きました、 其で 人口 は 五 千 人に 確え ました 一 

*!tttf- け はい せ, んたふ せいれい みた . すな B がっしゅうこく もっと 5- うめ S かい ft くし t<- 

最皁敎 <P の 全 體は聖 靈に滿 された る ブリガム、 ャ ング 即ち 合 衆國の 最も 有名なる 開拓 难- 

は,. . で. 、「ド -メ, い •*、 い そこす を t 、ナぺ 《i かう 一 

民 者に 導 力れ て、 「亞米 利 加の 大 沙漠」 へ 行って 其處に 住んで 居りました、 此處 は總て 旅行, 

^ ^ と,. -ろ t 、 くわうな い ぜ いばう うち もっと の? t いと 一 

者の 好まぬ 荒 地で 實に 淋しき 所で ありました、 此處 は廣大 なる 西方の 中で 最も 望な き 厭 ふ 

1 七 一 一 



-め か s> たくし や ■ I .. , し たう やく おの か ^{^^ ため ぽ ぐで やう ま-. ノ 

或る ii 拓者は ダレ. -ト、 サ ルト、 レ-キ 市に 到着す る や 己が 家畜 群の 爲に 牧場 を 設け,^ 

きたの ぱゥ い いま ぐん しょくみん こ tf- たら むら たん-.;: \ な. は な 

とて、 北方へ 行って 今の テ,, 2 'ス 郡に 菊 民し ました、 此の 新しき 村 は 漸次に 大きく 成った 

ねん くれ ごろ 乙ん はち ^3=1= M^yn^yM^^^^ - - まち 

ので、 一 千 八 百 四十 八 年の 慕 頃 今 n の バウ ンテ, フ,: ^ と ケイス ゲヰル とファ ー ミン グ トン 町 

とう ととろ ち —-上 くみんち どうねん ゆつ たいる 

等の 所に 近く 戒民 地が ありました、 同年 一 月に 大尉 ジ H ムス、 ブラウ ンは マイルス、 グッ 

ドィァ f ル 氏の 持った 地面 を 買; 3 ました、 此の 地面の 內に 今の オグデン 市の 位 sii. 及び ゥヰ U 

. ^ハ 郡の 大部分が ありました。 

ii-s-Jt- た い, s-s まち ちか ところ ぃ^-ゅゥ な *fK う 

* 「モ^ モ ン」 大 隙の 大尉な ろデ —、 シ I、 デ ヴヰス は 今の フ ァ-ミ 、ンダ トン 近 さ 所 に 移住した のて 其の 地方 

mum ぐん なゴ 

ば ー, ァ ヴヰス 郡と 名け られ ました . 

いくわん ちゃう くんかい ー た が ぐ k; ん ち はゥ しょくみん これ おの 

大 管長 ヤン グの 訓誡に 遵 つて 件の 地方に 殖民した のであります、 是は ャ ン グ 氏が 己が 

たみ 一" つ ft ん かん しょくみん でめ りつば け いく. C く じ . 

民 を 以て 山間に 殖民す る爲の 立派なる 計 書の 一 事て あ.^ ました、 ャ ング 氏が 一 千 八 百 四十 

ねん .t^ つ — 1 i ! し たうち やく とき もっと き と しょぐ みん 

八 年 九 =T に ダレ- ト、 サ ルト、 レ.' キ巿に 到着した 時に 最も 氣に 留めた の は贿: H する こと 

でありました が、 食糧が 不足て 如何にして 之 を 儉約 する ことが 出來 るかと いふ 難問が あり 

さくもつ と にん 乙ラ おは X た i 一ん たい た あたら たいこ 

ました、 作物 を 獲り ましたが 人口が 多く 茄 えた 爲め全 體に 足りませんでした、 新しき 隊伍の 

1 七 三 



1 七 四 

ひと しょぐ りゃう た ぶん も き §>c^ 上ぐ ねんさぐ もつ まへ しょぐ りゃう た& をうよ - にく せいと 

人 は 食 if を 多分に 持って 來 ませぬ 故に 翌年 作物 を 獲る 前に 食糧 は大 fif せに なって II- 徒が 

大に難 溢 や,; 卞苦 をし ました、 而 して 不幸に も 一 千 八 百 叫 十八 年より 一 千 八 百 四十 九 年に 亘 

ふゆ ひしゃう さむ しか みないつ 卞- あ ひたす しんせつ どラじ やう へう あ 

つての 义 、一は 非常に. お-く ありました、 併しながら 皆 一致して 相 助け, 親切なる 同情 を 表し 合 

しょぐ W やう あ もの ひん 乙ん しゃ そ し 上く W- やうとう わ あた 七 なんく ゆん そ /J\ ろな, ぐ さ 

ひ、 食糧 有る 者 は 貧困 者に 其の 食糧 等 を 分け 與 へました から 其の 難 苦を减 じ. 其の 心 を 慰 

めら れ まし.?: 

し t ぐ もつ つち ぐ。 ね ほた またい へ やれ は けもの かば と すん き 乙れ は 

十 食物と して 土- -6 り^の 根.^^ リ 出し、 父 家の 屋根に つても つた 獸 の 戊 1^ 取って 寸々 に 切って 之.^.^ 一まし^、 

し きんじ 上 やじ, ノ ほと な う を す 乙 

市の 近所に ぽ野 f、= は^ん ど 無 かつ たが 魚 は 少し ありまし; :0 

せいと か なんじ, A !て とき , ねんへ うち とうしう しゃう ひん 

聖徒が 期くて 難^ をして 居り まし. 時ヒ ベ 〃、シ r 、キ ン バ 产は 三年 經ぬ內 「鬼 州の 商品」 

一一 ュ ーョ| ク たいえん 乙 • . ^んゃ れんか う 上 ゆん てんか しょ/、 ばう げん この ひと 

は 紐 育 よりも 大鹽 湖の 原野で 廉惯に 賣られ ると 預言し ました、 天下 諸 所の 胃險を 好む 人 

しゃきん もと た 5- 上 かう - ■ し なかつぎば おの 

が カリフ オル 一一 ァ へ 砂金 を 党め ん爲め 旅行して サ ルト、 レ -キ市 を 「中 繼場」 として 己が 

しゃう ひん し 上 ぐれう たうぐ ま, つ し 上 くみんし や ゅプ な はは や おの ftr くて きち 5 やう ぎう ぼ かう ぐわん 

商品 や 食料 や 道具 を 貧しき 戒 はおに 讓 つて 尙 早く 己が 目的地 I 行かれる 樣に: e 馬と 交換し 

ました、 是 によりて 使徒 キ ン \ 〃の預 一.; は不 議 にも 實 現されました、 而 して 一 千 八 百 四 

ねんせいと おい ん乙 ゆん や い わい き ねんび リ つば とき へ とし 上 f: ん 

十九 年 tl 徒は大 湖の 原野に 入. たる 第二の 記念 = を 立派に 祝 ひました 時に 前の 年の 預ー: "口 



も はや じつはん ュ」 とき たいえん くわ 5 せ ぃかぅぃ^-;5ゥしゃ い,、 ばん き /- 

は 最早 實 現されつ k あり まし, 5^、 其の 時の 大宴會 で 西 行 移住者 は 幾 百 人と なく 嬉々 たる 

「モル モ ン」 敎 徒と 食卓 を 共に しました、 祌の惠 福に よりて 使徒 キ ン バ 〃の 預言 は實 現され 

かみ ま f せいと ほ ご たま を れ あ せいと きん もと き 

ました、 神 は 泡に 聖徒 を 保護し 給 ふて 居. 5 ましたが、 其で も 或る 聖徒 は 金を覓 める 氣に なり 

-V れ せいと た すう まさ W し しゃきんち ぃ^!-ゅぅ *5* /J ときけ うぐ わい 

ました、 其で 聖徒の 多 數は將 に 西の 砂金 地へ 移住 せんとし ましたから 若しも 此の 時 敎侖: : の 

つ.; - さら もっと けんめい けったん せい リ 上,. - か;! P あっせん な これ ひ 3- と 

司 等に 最も 賢明なる 决斷と 勢力の 限りに 斡旋す る 乙と が 無かった ならば 之 を 引 留める 乙と 

が出來 なかった に 相違が あ 6 ません、 若しも li- 徒が 砂金 を 党 めんと て カリ-フォグ -1 ァ へ;;;: 

き in したならば 是 よりも 大 なる 敎々 の大 災難 は 無かった ので ありませ う G 

つか 36 ひと/! Y な は ^と しほ S3 つ. -ん はたら f ノ M れ 《£; ねん あき 

司 等 は 人々 が尙 一 入 熟 心に 働く 樣に 之を勵 ました、 一 千 八 百 四十 八 年の 秋 五 千 ュ - クル 

(一 ェ 1 ク だは 一 千 二百 二十 四 坪 許, 9) の 地面 は 開墾 せん 爲に區 劃 割 をされ まして 其の 內の 

ち めん ふゆ 乙 むぎ まきち そ た くわ i- ぎ う せっけ i- *。 うろ ふ せつ 

八 t!H . -ク, の 地面 は 冬 小 麥が蒔 散らされ した、 其の 他に 會議堂 を 設計し, 道路 を 敷設 

せいふんじょ 乙 びきこう ば た 5, くた はし か まお. I fc 1 け M 乙く 

し、 製粉所 や 木 挽 工場 を 建て、 幾多の 橋梁 を 架し ました 又ビ タ グ、 カタ ンク - ド雞 谷の 

する りう し ひ い ぐわん 乙く せいと かぐ じ がいち しょ ぶん.^ 

水流 をサ ルト、 レ-キ 市へ 引き入れん 乙と を勸吿 しました、 徒の 各自に 該 地所が 颜與せ 

とき H ビ かれら うち ^ しろ たの しない S e V し 上 か 3 "ど た ■ 

られし 時 始めて 彼等の 中に 其の 城と 賴 める 市內を 出て 、其の 地- CE- に f 化 を 立てた-.^ 力 ありま 

1 七 五 



つうようく わへ .$ た と a~ ふじい うすぐ ため ねん ゆつ せいと し へい つく 

通用 貨幣の 足. 9 ない 時の 不自由 を 濟ふ爲 に 一 千 八 & 四十 九 年 一 月 聖徒 は 紙幣 を 造り ま L 

セシト ゑん さつ Jt ル ゑん さつ こしら これ ハ えんこ 1^ んゃ もの いん 一 e つ 

た、 五十 仙 ( 一 圓) の 札 や 一 弗 (二 圓) の 札 を 捲へ ました、 之が 大, 鹽 湖の 原野で 物 を 印刷した 

ば じめ Af た -Si さんくみ あ ひぎん かう あ しへい つうよう けつ おん 

始 てあら 噯す、 又 力-トラ ン ド保產 組合 銀行の 或る 紙幣 を 通用す る NJ と を決斷 しました、 

其で 預言者 ス 一-一 スの預 一 H の 一 っは實 現されまして、 此の i 幣は 現金と 同價 になり ました、 

やう や おい/、 (いし も き しゃきん もつ つうく わ ちう ざう た 

漸く 「 モル モ ン」 大隊の 兵士が I 力 リ フォルニ ァ より 持って 來た 砂金 を 以て 通貨 を 鑄 造す る爲 

かた もと セゾト K ル K ^ きんぐ わ ちう ざう しばら あ ひ i ^乙れ つうよ ク 

め 型 を 求めて 二 弗 五十 仙 や H=i. 弗 や ナ弗ゃ 二 ナ 弗の #.貨 を 錢 造して 暫くの 問 之 を 通用し まし 

ぐに はふく わ ため ぷ つう 上う 乙,!^ で がね ぐに ざう-へ く う 一 

たが、 國の 法貨の 爲に 不通 用に なった から 之 を 地金と して 國の 造幣局に 賣. * ^ました。 

せいと せじ やつ ばたら き と はたら うけ-つじ やう ダノ む わす すべ うぐ わい そしき 

5! 徒 は 世上の 働 に 取り か、 つて 働 さながら 宗敎 上の 義務 を 忘れずに 總て 敎會龃 織に あ 

かぐく わい とき ひら ねん f; つ はち . I 

る 各 Al" を 時々 開きました、 一 千 八 百 四十 九 年 二月 十二 ロチャ - 产ス、 シ I、 リッチと & レ 

ンゾ、 ス ノ 1^ とィ ラステス、 スノ t と フランクリン、 デ I 、 リツ チヤ-ドス li 選ばれて 使徒 

し と てい rS んく わ. 5- くう! f- き おぎな ぶ ぐわん せん またえ 5- 

とせられ たので 十二使徒の 定員 會の签 席は稱 はれました、 一 つの ステ- キ部を 完全に 又 永 

きう そ しき しない ぶ tV しき めいく かんとく お けうく わいく わい るん 

久に紐 織して、 市內に 十九の クヮ f ト部 組織し、 銘々 に 監督 を 量き ました、 敎 會の倉 員 



は T ォ ンで 集合すべき 乙と も 能く 記憶して を 6 ました、 一 千 八 巨 四十 九 年に は大貌 利頗に 

せいと ^ ゥち ばん す ねん ゆつ あ ひお けうく わ. S はい 

三 万の 聖徒が ありました、 其の 中の 一 万人 は 過ぎさった 一 年と 三 ヶ月の 問に 敎會に 入った 

さう つかさら fJ せいと せいはう かいたく たす た 2 たかみ めいれい したが 

のです、 而 して 司 等 は 此の 聖徒が 西方 を 開拓す る を 助けん が爲 め、 又 神の 命令に 遵 はんが 

た —— さん い f ^ゆう この 

爲め、 & ヅキ- 山へ 移住す る 乙と を 好みました。 

それ § ゑ そ うち まプ ぃ^!-ゅぅしゃ きんせん じ やう は じょ あた やう ゆつ ぃ^ ゆうえい たいし きん まう 

其 故に 其の 內の 貧しき 移住者に 金錢 上の 铺助 を與 へ る檨に 十月に 移住 永代 資 設け ま 

乙 ぃ^!-ゅぅぇぃたぃし きん お ほ か U え た ねん 5- じ やう ぁひ^^^ョゥ11ッパ お ひく 

した、 此の 移住 永代 資金と して 多くの 金.^ 得た るが 爲め 四十 年 以上の 問歐羅 巴に 於け る 幾 

はん ザい と t せち から きゅうき やう お-つ けいき 上 アメリカ 5^ ゆう で き やう 

千 人の 聖徒 は 其の 世智 辛き 窮境 を脫 して 景氣 好き ffi 米 利 加 へ 移住が 出 來る檨 に なり まし 

そうかんとく /J 5 サ g うじ け-ふ はじ また 上ぐ ねん ぃ^-^ぅしゃ せわ ため 

た、 總 監督 エド ヮ. 'ド、 、, ンタ- は 此の 移住 事業 を 始め、 又 翌年の 移 tt 者 を 低 話す る爲に 

とうはう つか は そ とき おは おもお ちゃう. らう でんた うし や ばけん あ 

束 方に 派遣され ました、 其の 時に 多くの 重立った 長老 は傳道 者と して 派遣され ました、 或 

ちゃうら う ふっこく ばんた う イタ リ,. し& たいへい やう しょ 

る 長老 は 佛國、 スカ ンデ ナビア 半島、 以太 利、 下 カリフ オル- 1 ァ、 大. 牛 洋のソ サイ H テ諸 

たう い ぽじ でんおう ュ ぐいん しん 3f わい ひと あた ^た あ ちゃうら う でん i;- う じ ゅぷ たす 

島へ 行って 始めて 傳 道し 福音 を 信ずる 機會を 人に 與 へ 、 又 或ろ 長老 は傳 道の 事業 を 助けん 

すで せんけう し を と 乙ろ い かみ みち ひろ い みん ほ じょく わい しゃ し ばい もと せいはう 

とて 旣に 宣教師の 居る 所へ 行って 神の 道, V 弘 めました、 移民 輔助會 社の 支配の 下に 西方へ 

ま& さいし 上 ぃ^!-ゅぅたぃご ねん ゆつ W ち ■ ) たうち やぐ 

. ^つた 最初の 移住 隊伍 は 一 千 八 百 五十 年 十月 十三 n にサル ト、 レ I キ 市に 到着し ました 

1 七 七 



一 七 八 

せいと しょぐ みん けいぞく 乙ん ち 

聖徒 は 殖民す る NJ と を繼續 しました、 今日の ュ I タ、 サン ピ.. ト、 セゲヰ I ル、 

"IT >^ » またなん?^ う ほか ぐん たんけん これ しょくみん そ ご たん ん ハぉ上 l-is, み,;" 

アイ ョ ン 等の 郡 又 南方の 外の 郡 を も探撿 して 之 を 民し ました、 其の後^ 檢隊 及び 殖民 

だ ; W う, - かぐち" . . , さう これら ひと うち しゃう にん しょぐ &ん ぎう-. H 

隊は 四方の 各地へ 行きました、 而 して 此 等の 人々 の 內に樣 々の 商人 や 職人が あって、 牛 it 

丄上 ぐれう たうぐ そ た ひつえう ぶつ びん じふ どん も ふ こ. d ら ひと た ひて、,, , ぐ ゎ,リ 

なら 食料な, 9 道具な りせ (の 他 必要の 物品 を 十分に 持って行きました、 此 等の 人 は 大抵 志願 

丄ゃ しゅうけ うじ やう てきた ラ を し at たいし 上 くみんし .《* もと おく W- ク 

者て し. が、 宗敎 上から 適當に 組織 せられて、 大戒民 者 ブリガム、 ャ ン^ の 許に 送致 けられ 

>- ゝ み i*^^i,lL .^1か-ぅ 4( けうく わい やく はん ひと si- ぼん < わん t れ し ばい またす- ぺて, a うし ゥぅ 

ました 民政 事 を 施行す る 前に 敎會の 役人 は 人々 の 裁判官と して 之 を 支配し、 又 一 切 公^ 

に卞, 3. つ ど , , う せいと も し ばい;? よ くんか い i 3 f かいたく MSI- I f 

の 事業 を 司りました 而 して 聖徒 は 其の 支配 及び 訓誡に 依. c て 沙漠 を 開拓し、 町と 市を設 

5 ぷ ヶ- 乙 かいたくしゃ ばたら きじつ- H しぎ AJ ん はち か 化 

5 大事 業 を 致して 居らました、 此の 開拓者の 働 は實に 不思議で あらました、 今ロでは;^ 

) U そん メキシコ カナダ マイ. i いじ やう ながち ばう す 乙 

等と 其の 子孫と は 墨色 哥ょ り加奈 太まで 一 千哩 以上の 長き 地方に 住んで 居. ますが、 此の 

すン 巧い せい セぅ けん しう リゃ うど さんかん せいと ばん: n やう むら I, お ま 

凡ての 大 西方なる 統治 權 ある 州と 領土の 山間に は 聖徒の 繁昌す る 村 も 市,^ く あ, 5 ます、 

せいと すな は リ 3 ん ォ のこり もの ^(f ァメ J J I« i を 

!!!^徒は即ち離散せるィ ス ラ ュ ル 家の 殘の 者に して 各國 より 亜米利加の シ オン に 集合して 居 

- t ^ か これ W もつ, じつ ぐす し i と あやし わざ な たま 

ります 而 して 神 は 之 を 以て 實に r 奇 くて 最怪さ 事 」 を 爲し給 ひつ 、あります。 



,5c -^? «- やう ど 11 ぎ やうせ いそ しき がっしゅ>,-. ち:2ぅかぅくゎんっぅ,ズ.5.】ぉ,.\ ぉ*** 

第 七 章 領土 ュ ー タ の 行政 組織 合衆國 中央 貫通 鐡道及 

ープソ 

でん しし せん ふ ^つ しゅつ ぐわん ど じん くわ 5 じう およ はん らん 

び 電信 線 敷設の 出願、 土人の 懐柔 及び 反亂 . 

一 千 八 百 四十 九 年の 春よ. の眞の 政治 上の 歷史は 始まる のです、 之まで ュ -タの 

ン t ぐ f*- ん 5 や ?-クし-^^ン乙ぐ^!^ ハム JVJd はう くわい もっと i そ しき X し ばい 1^ 

はが ^11^% に _ 治められずに 敎 會の最 -ii 組織に 依 .5 て 支配され まし^、 施政の 

ふ so、 mal^ する ぎ|| も あ 6 ませんで した、 は 聖徒 <i を 外 國に放 

? か \ は うく. S い つかさら かへ し !-ゅぅ こぐ せいふ くゎ;^か を - ^ -. i > 

逐 したに 拘 はらず、 敎會の 司 等 は 却って 始終 國 政府の 管下に 居る 乙と を 好ん て 居りました 

ii して" の? が 5| 都が へ する に歡 りて 此の 事 を 一 入 希望し ました。 

I y ... ? > 國 ^ う わ で う や く 

がっしゅうこく メ キン n た \ かひ や 《ん • "つ * 力 , ^ . % HJ 1 ^ 1 ^ U^J ,^^^J 

i 衆 園と 墨色 哥が 止めて 一 千 八 百 四十 八 年 二月 二日 グ ワタルべ イタ〃 コ: 條約 

を^び、 !^にぎぉ捺ぎしたので我合衆國は廣大なる西方を得ました、 後に 之 を カリフ オル 

TT、 ヴ ァダ、 T^、 一 一 ュ I メキシコ、 ァリゾナ等の州ゃ領土にしま.— .^^、 末 曰 iis 

-5 v-i "せい 乙 ち a う メキシコ と か i> たく はじ 、 S う こ, J>fv^ らノ v^u 

は ひが i に, 加勢して 此の 地方 を 墨色 哥 よら 取って 開拓し 始め ま— お 而 して 此の 新しき 領 

ゼには IIKisg に は k つ «M も ^5 な si せて したが、 該染徒 は元ハ m の 好", 人で 此處を 



1 八 〇 

し 上く みん で き おも を 

し、 戒民 する ことが 出來 る. と 思って 居りました 

せいと こ せいはう みん せ 5 じ し かう ひつえう ^"ん W- やう どもし しう せいふ ゼクち 

聖徒 は 此の 西方て 民政 事 を 施行す るの 必要 を 感じ たれば 「領土 若く は 州政府 を 設置す る 

ぐわん お 上 さんみゃく とうはう .a み , し みん け ふぎ と 

ことに 關 して 凡をシ ェ ラ、 -I ヴァダ 山脈の 束 方、 上 カリフ オル 一 一 ァの巿 民に 協議 を 遂げん 

た "ん 卞っ はじめ ごろ ひやう ぎく わい も. M は 乙 ひやう ぎく わい けつ か - 

が爲 め」 一千 A 百 四十 九 年 三月の 初 頃 評議 會を 催しました、 此の 評議 會は 三月 四 サル トー 

レ ー キ 市に 開 會 しまし.?: r ii 月 三十日 此の 會は ブリガム、 ヤング 及び 二 千 二百 七十 人の 記 

めい せいぐ わんし, ri なかせ ,.v し お こく /- わい 

名した る 請願書 を 博. H. シェ、 H ム、 、パ, 'ン" イセ〃 に 持たせて ワシントン 市に 於け る國會 

や 乙 ゼ 5 ぐわん しょ うち な * へち たい わがくに もっと リウば けんば ふ 

に 遣, 9 ました、 此の 請願 ま 3 の 內には 「成る 可く 遲滯 なく, 我國の 最も 立派なる 憲法に よ. 9 

で m" たけぐ わんたい SV やう ど; やうせ 5 せいりつ はんか わが 

て、 出來る 丈寬大 なる 領士 行政の 成立 認可」 を 願って あります 

こ やうぎ くわい 乙く /- わい がいせ. S ぐ s; ん きヽと > ば ユリつ じ やう せいよ せい リっ ^んか も \ ん くわい い リ けんばよ 

此の 評議 會は國 會が該 請颜 を聞屆 けて 法律上の 政府 成立 を 認可す るまで 委員 會に假 憲法 

つく 乙れ もつ たみ しはい き rt: つか ^:ぃひゃぅぎぐゎぃ せんてい 

を 作らせて 之 を:^ て 民 を 支配す る ことに 極めました、 三月 十日 該 評議 會は 選定せられ たる 

/んぐ わい つく .^-リけんば,^ か け つ かりせいふ まう しう な, つ も た じ やう ゐ ん 

委員 會の 作った 假 憲法 を可决 !^、 假 政府 を 設けて デ ゼレト 州と 名け ました、 其の 他に 上院 

お 上 か るん なリた しう ぐ わい まう ,て けん W- 上く しょく;.: し てい また ち じ 

及び }^院 から 成立つ 州會を 設けて 其の 權 力と 職務 を 指定し、 又 ブリガム、 ヤング を 知事に 

ぜんてい 乙 あたら しう はと ねんかん 乙く /- わい し 上う はん まクた 乙 — けうと 

選定し ました、 此の 新しき 州 は 殆んど 二 年間 國會の 承認な く、 全く 此の 一 モ ル モ ン」 敎 徒の 



K 政 ま 
人 T 府ふ 



に 依,^ て 治められました、 此の 政府 は 「モャ モ ン」 敎徒 たると 無 信者た るに 係 はらず、 

こうへい しょち さう つうく ゎぃ ^^ゅぅしゃ た おのれら かっとう- こ さいげん, 上 うった 

にも 公 ギの處 置 をし ました、 而 して 通過 移:;^ 者が 絶えず 己 等の 藤 を 此の 裁!^ 1 ^に;!^ 

がいさい ばんし 上 ばんけ つ へんば こク へい じつ め S せ, いさくく 

へ たが、 判 所の 判决は 偏頗な く 公平て 實に名 聲^. たる ものて あ. 5 ました。 

£- つし^う 乙く a- ぐ ん そく s- やうぶ つき ^1ぅ(5たぃゐ . ん :&っ はち = 

,-- 合 衆國陸 ts- 測 量 § ?附の 工兵 大尉なる ハウ ヮ. I ド、 スタンス ゾリが 一 千 八 百 四十 九 年 八 刀 二十 八 U サル ト、 

i ちゃく どうねん そこ おく ねんかん リゃ うど たいざい おいえん こ ゆん やおよ ^= 乙 た 

市に 着 して 同: if の 冬. „Ji (所て? ^3 リ、 一年間 土ュ I タに? S 在し、 大驟湖の原^^及び ュ I タ湖 と 其 

きんざい たん ォん また 乙れ そく s- やう みぎ ごと しょう けん 

の 近在 i6 探檢 し、 又 之 か 測 量 しまし-;: から 右の 如く 證 :;:ロ すろ のて ぁリ ました 

ねん 卞っ か . しう くわ、.. ■ し かいく わい じ やう &ん か ゐん 5tj 

一 千 八: S 四十 九 年 七 バニ ni デゼ レト州 會はサ < ト、 レ -キ 市で 開, して 上院 も 下院 も議 

けつ もつ ^ ^^; ^^^,3^^^^^^ がっし§ぅ^Jく とう ャ, 汁ん しラ ^んか tf^ たぜいぐ わん き 

决を 以て デ ゼ レ トが合 衆國の 統治 權 ある 州と 認可 せられん 乙と を (化;; i 願す る ことに 極め ま 

そ. c5 さら たんぐ わんし 上 つく こく \ わい たい (うし や せんきょ 

した、 其で 更に 歎願!:; n を 作って アル >v ン、 ダブル ュ、 バビット を國會 への 代表者に 選^し 

乙れ たんぐ わんし よ; -上 MMMmH^yM か w けんば ふ も ■ ■ つか は どう れん ゆつ 

て 之に 歎願 害 及び デゼ レ トの假 憲法 を 持たせて ヮシ ン トン へ 遣し ました、 同年 十二月 二十 

ti ち W しう せんし, Q つ じ やう ゐん ぎゐん I ! ! もつ がいし 上 めん hi 

七日 バビツ ト氏は イリノイ 州 選出の 上院議員 ステゲ ヱン、 H - 、 ド グラスむ 以て 該喾面 及 

おの —— かりし-つ た 5 へう-しゃ ゐ はんじゃう 乙く ゝゎ& て 5 しゅつ 乙ぐ くわい C たんぐ わん き 

び 己が 假 州の 代表者 委任 狀を 國會 へ 提出し ましたが、 國會は 此の 歎願 を 聞 屈け す 

にパ ビッ ト氏を 國會へ 人ら せなかった、 其の 代に 九ケ e: を經 過して から 「 ュ I タの爲 に 傾 土 



一 八 二 

,.v ム せい: y つ a^^^ かひつ た-いとう リゃラ t きめい 

政府 を 成立す る 法令」, 可决 して、 大統領 ミラ- ド、 フヰル モ-ル は 之に 記名し、 一千 八 

れん ゆつ かじつし さう たいとう S やう リゃ うど ち じ 

百 五十 年 九月 九日に 實施 になり ました、 而 して 大統領 は ブリ, カム、 ヤング を 領土 R 知事に 

任じました、 ブリガム、 ヤング は 一 千 八 百 五十 一 年 二月 三日 宣誓して 四月 五: n デ ゼレト 

しう くわい かいさん かりし, T. せいぶ ? 1 いし リゃ うど せいふ かいし 

州會を 解散して 假 州- 「政府. V- 廢 止して 頒土ュ I タ 政府 を 開始し ました 

かリ しう くわい お, ほ はふ リク 7 を もっと たいせつ はふ 札い さ とほ リ 

假州會 は 多くの 法律 を 作った が、 其の 最も 大切なる 法令 は 左の 通て あります, 一千 八 百 

四十 九 年よ.. 5 一千 入 百 五 十 年の 冬に サ ル, ト、 レ I キ、 ゥ ヰ,' バ、 ュ I タ、 サン ピ I .^、 

B! とう ぐん せい 3- つ はふれ S つく =u おいが く かう くきよ じ, 5- う あた 

ジ ユア ヅ、 トヱ レ 等の 郡 を 成立す る 法令 を 作. 5、 デゼレ ト大學 校に 特許 狀を與 へ、 一千 八 

百 五十 一 年 一 月 九 ログ レ I ト、 サル ト、 レ I キ 市の 成立 を 認可し、 一 一月 六日 ォグデ ン巿マ 

—— まち し まち せいりつ はんか ゆつ か ぼっじっせ^-と ィヱス キリストけ うく わい ばぷ じん 

ン タイ 町ブ. & I ゲヲ 市. ハ 。ワン 町の 成立 を 認可し、 二月 八 n 末 口 lii 徒耶穌 墓督敎 きを 法人 

を ご リ,1^ぅどせぃぶ ぎぐ わい これら はふれ い か ::. つ せ 5 たう ば ふりつ 

にしました、 其の後 領土 政府の 議 會は此 等の 法令 を可决 して 正當 なる 法 If! としました、 一 

U ん .f^ つ たい つえう び i じんみん ぎく わい ぎ るん せんきょ また 乙く ヽゎぃ たい 

千 八 百 五十 一 年 八月の 第一 の 月曜 H にュ ,タの 人 K は 議侖" 議員 を選擧 し、 又國會 への 第 一 

^いへ うし や ばかせ せんきょ 

の 代表者に 博士 バ ー ンハ, イセ ル を選擧 しました 

g- やう ど — せいりつ ねん くれ ころ しゅ..^ せ i, じど やう へんく わ 

領土 ュ 1 タが 成立され て 一千 八; Q 五十 四 年の ^頃まで!: ふ 政事 上の 變 化が ありまし たが 



aJ れ たいて 尸ち 5 うわう リ -ぃ ふ は けん さい ぼんく わん くわん けい Z く. S んリ しゅん、 ひ かう 

之 は 大抵 中央政府の 派遣した る 裁判官に 關 係が ありました、 此の 官^が 1- 々の 非行 をした 

ため , で. & とう W やう いくど これ めんし i ぐ か はら こ へんく わ ずな を あ ひお . じん 

爲に 大統領 は 幾度 も 之 を 免職して 更迭せ ました、 此の 變 化が 行 はれて 居る 問に ュ I タの人 

ん な は そう えう いた を ちじ お 上 i::- ぐ わい ぎ &ん たしう し みん 

民は尙 一 層 liffi 要なる 乙と を 致して 居ら,^ した、 知事 ャ ング 及び 議會の 議員 は 他 州の 市民と 

ますく しんみつ かう さい この ねん ゆつ か 乙ぐ/ "ゎぃ せ?, ぐわん し 上 K 

益 親密に 交際 せんこと を 好んだ のて、 一 千 八 W 五十二 年 三月 三 =: 國會へ 請願 セ 〕 を 出 

たいへい やう かいがん ちゅぅゎっぐゎんっぅて っ^;-ぅ^^ょ でんしん せん つう :;^が そ リ いう 

して 太 牛洋の 海岸まで 中 央 贯通鐵 道 及び 電信 線 を 通ず る こと-^ -願 ひました, 其の の 

うち . にハへ い やう はう めん またたい へいやう はう めん ぃ^;£ゥみん す t ぶ お ど てんか もっと くわん たい 

內に f 太. 牛洋 方面 へ と 又 太竿洋 方面よ むとの 移: ti: 民 は 頗る 多大 なれば 天下の 最も 寬大 にし 

かった V- えつ わが i4 つし ゆう/ J くせい. A よろ じんそく ちう. S しゅ ご ひん りよ かいばって き は じょ あお 

て 阜 越なる 我 合 衆 i£ 政府に 赏 しく 迅速なる 注意と 守護 の 念盧と 開 發的稱 助 と を與 ふ ベ き 

jtA たも 乙れ ふせつ —て iil たう みちすじ う で き さう 

も。 であ 6 ます」 と、 又 若しも 之 を 敷設 せんとせば 「適當 なる 近 筋 を 得る ことが 出^る, 而 

ま、,」 かう S てっ^う たうて いわが ビっ しゅう 乙く し みん えき ため ひよ ^HMy 

して 又斯 云ふ鐵 道が なけれ は、 到底 我 合衆國 の.! の 利益の 爲に カリフ ォ ル -ー ァ 及び P ク 

さん くわう さんぷ ゆん じふ ん かいはつ でき 乙れ ふせつ シナぉ 上 と., ンィ シド 

,^山の鑛產富源を十分に開發することが出來ませんが、此,^敷設すれは、支那及び^^印度 

し 上おう ぼうえきひん のこ わがく ぽ ちゅうわう つうく わ アジア たいへい やう ぼうえき たいてい わが こくみん 

諸島の 寳易品 は 殘らず 我國の 中央 を 通過す るので、 細亞と 太平洋の 賀易は 大抵 我國 民の 

し ば ひ さら ん こんた ろ くわいそう なん ドル あが しやう ゆ ふじ やう ぶつく わ わが ビ つし^う 《J く しう 

支配と なるべく、 更に 現今 他路を 廻送す る 何 _m 萬 弗に 上る 商 業 ト; の 物 貨は我 合 衆 國の州 

AY つうく わ t わ! J" し みん これ i じゅんたく え * • 』, 

,1- を 通過す るに 依り、 我 市民 は是に 依りて 潤澤を 得られる? -と にな, 9 ます」 と 一 千 八 百 

1 八 三 



1 八 四 

ひんち M "やう ど —— ぎく わい 1; うし 上 あた ち § うわう くわん つうて つたう ひつえう. すゝ 

五十 三年 知事 ャ ン グは 領土 ュ-タ の議 會に敎 書を與 へ て 中央 贯通鐵 道の 必要なる 乙と を勸 

また こ ひつえう じふ ん ぜっ. C い ^Jぐ/ゎぃ せいぐ わん きふむ そ ぎ るん くわん こぐ 

め、 又 此の 必要. 十分に 說 明して 國會に 請願す るの 急務なる こと を 其の 議員に 勸吿 しまし 

をれ ゑ 53 ん ゅっし..^みん たいひ やうぎ くわい も 上 ほ し みん —— し へ 

た、 其 故に 一 千 八 百 五十 四 年 一 月 庶民の 大 評議 會が 催されて 市民 はサ ルト、 レ I キ 市を經 

たいへ 5- やう てつ Jt,,- う ふ せつ し! 5- つぐわん じ, Q ん. rS しか また を の ちぜいぐ わん 

て 太平洋までの 鐵道ケ 一 敷設 せん 乙と? 出願す る 準備 をし ました、 併し 又 其の後 請願す る こ 

ひつ 之う しか ねんい にやう ォ いぐ わ てっ^すな a き しゃ ごう-^ ひビき な は 

とも 必要で ありました、 而も 十五 年 以上 經過 しなければ、 鐵馬 即ち 汽車の 轟々 たる 響は尙 

t-s と ひなん たにま しんどう で き 

まだ 聖徒の 避難せ る 谷間 を 震動せ しむる ことが 出來 かねた のて ありまし;: io 

あたら い #P ゆうみん き むら し かず 、, よ. v,,\- ぞう. い またお ほ ほ.^ばゥ MU 

新しき 移住 民が 來 たので、 村と 市との 數は愈 * 增加 し、 又 大きくな. ました, 北方の ベ 

"な ,==.^=1=:= なんばう はし ミた > とうざい ばつ じっせいと 

ァ ル 河よ. 5 グ レ ー ト、 ベ I ソン の 南方の 端まで、 又サ ルト、 レ- キ 市の 束 西に も 末 曰 聖徒の 

し 上 くみんち こうしゅう たてもの しゃう くわん でき ゐ たんかう てっかう a つぐつ 

1^ 民 地 は 三十ば か. 5 あらました、 公衆の 建物 や 商館が 出來て 居た し 炭坑 ゃ鐵 坑を發 堀して 

3 た、, た ところ せいふん じ 上 乙 .6 きば いそ;^ リ やう どせ、, ふ せいざう ゅ丄 しゃう れいきん * めた 

あった、 又 到る 處の 製粉所 や 木 挽 場 は 忙しく ありました、 領土 政府 は 製造業に 獎勵 金を與 

乙れ は ご ところ. <\ ぜ いざう ぼ で き たちばう はふ ひん ゆん せう リ やう 

へ て 之 を 保護し ましたから 所々 に 製造 場が 出 來て他 地方からの 輸入品が 减 少しました、 領 

ど ■ さ ふ * ト いい じ やう そのうち K ^ もつ えう ち じ f; ふ やうせ. S 

土ュ -タの 歳入 は 二 万 六 千 弗 以上で あ 6 ましたが、 其內 一 万 弗 を 以て 幼稚の 事業 を 養成し- 

ち ばつ -V ぐり やう しんた う ぷ ぜっ けう リ やう か まなけ ういく じ やう じ しん 5 すぺて ぼつ じつせ. S 

地方 を 測量し、 新道 を 敷設し、 橋梁 を 架し, > 又敎育 上の 事業 を 進步 せしめました、 一 切 末日 聖 



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通ミ 土と' 


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と L 上く みしし & <■ た と 乙ろ しょくみんち い つ 乙 うし ゆう ; y て もの さいしょ がく かう た 

徒の 民 者 は 到る 處の贿 民 地に て 何時 にても 公衆の 建物と して 最初に 學校を 趣て たとい ふ 

どくしゃし 上 くん ちう 5 ひお 乙 お と 乙ろ しん 

乙と は讀者 諸君の 注意 を 喚起す に 足る 處と 信じます 

ねん ゆつ か ^^^r し けんせつ ;:. 、いしんでん ち めん はじ 

一 千 八 百 五十 三年 二月 十四日 現在 サル ト、 レ -キ 市に 建設され て ある 大 神殿の 地面に 始 

き 乙う どうねん ゆつ か そ けんちく すみ し す むん のち,』,, -- 

めて 起工して 同年 四月 六日 其ハ 建築の 隅 石を据 ゑました、 四十^の 後 一 千 八 百 九十 三年 四 

卞っ ,ハ r_ たてもの で き あが けんでん さう 乙 けュ ちく さ うれで せんび 

六日に 此の 5^ 物 は出來 上って 献 殿され ました、 而 して 「此の 雄 築の 壯? S 善號 なること は 

,へ C こぐち ゆう あるひず ゐ いち し 上う え お, V ら た 乙れ ;H さ でん- - ^ > 3 

米國中 或は i 退 一 と 稲し 得ず とも 恐く は 他に 之に 勝る ものな し」 と喧愤 されました リ 



れん ゅっけぅ^-ゎぃ た 5 くわい 



敎會の 大侖: : て 多くの 人が アイ ヨン、 ト H レ、 サン ビ-ト * ボック 

とうしょ ぐん し 上 くみんち ^ やう よ た 

等 諸 郡の 民 地へ 行く 樣に 喚び 出 3 れ ました 

しかた ど じん しんせつ あっか ふ ど じん みお リ せいと- て ゆい , 

仕方に よ. - 土人 を 親切に 扱 ひまし 4^ 故に 土人 は漫に il^ 徒に 敏對し 

じん たい しゅうせいと をん たう a うしん ■ お 

人に 對 して 終生 執りた る穩當 なる 方針に よりて、 ュ ,タに 於け る 

そんがい う- 3 つし やう き <H き は す.,; な 

損害 を受 くる ことなく * 殺傷の 危害 を 加 へ ら る、,」 とも 極めて 少 

じん たヽか むし これ やし^ はう け s-y. & , 

人と は戰 ふよりも 寧 Tc 之 を 養 ふ 方が 經濟 である」 とい ふこと てし 

しみん ちじ a ど じんし はいはん 3 ゆけ ^わい..' 

の巿 民と しても 知事と しても 政^の 土人 支配人と しても 又 敎會の 

1 八 五 i 



i 八 六 

たいぐわん ちゃう どこ 乙 ばう しん か じっかう たくえつ 

大管 長 としても 何處 まで も 此の方 針を變 へずに 實 行いた しました、 か、 る 越せる r モ 

ほうく わい - いぐわん ちゃう /J と は らう れん ど じん とりあつか かゝ とき/; ヒ/ ひ 

〃モン」 敎會 の大管 長 が 此の 通り 老練に 土人 を 取扱 ひました に 係 はらず 時々 戰 が あり 

ました、 其の 第 一 は 一 千 八 百 五十 年と 一 千 八: C 五十 一 年と に 起. 9 ました、 其の後 一 千 八 百 

ねん へいわ あ リ メ キン n しゃう にん - am てつば う たんやく うま ど じん をん な 

五十 三年まで 平和で 在ました が、 墨色 哥の 商人が ュ I タ へ 來て鐵 砲 や it 藥ゃ馬 を 土人の 女 

乙 ども かゥ くわん のち 乙れ ど れいう ちじ 乙 ^うえき あ 

や 子供と 交換して 後 之 を奴隸 として 賣 りました、 知事 ャ ングは 此の 貿易 を惡 しき 己と なら 

しゅち や-つ ど じんお よ メ +シコ しゃう はん かんじゃう がい ぱ 乙メ キシ n じん ど じん 

とま 張して 土人 及び 墨色 哥 商人の 感情 を 害しました、 言 ふまても なく 此の 墨色 哥 人が 土人 

せんどう ため にん ど じん せいと さから き いは ゆ ど じん 

を 煽動した 爲に 一 千 八 百 五十 三年 士人は 徒に 逆って 來て 所謂る (,Trr,z は 土人の 

し JV ぐ な, せん さう W/J いち ばう つうく わ 5- みん つ,: リ どじん じ-^ うさつ 

支族の 名て す) 微爭が 起ら ました、 該 地方 を 通過す る 移 K も 無理に 土人な 一紘 殺した ので、 

^l^i. . おはい こんな,.;^ i> た &、 うや ねん (いわ でう けん でき 乙 

1^ 徒 は大に 困難 を 致しました、 漸く 一千 八 百 五十 四 年の 霧に 平和 條 件が 出來 ました、 此の 

せん さ _ぅ はくし 上く じんし :3 もの ^ん またお ほ ど じん 乙ろ なた リゃ うどお 上 そ じんみん お そ 

il^(?^^>に,^:色人ifの者>ヒー十人又多くの土人が殺されました、 又^ 土 及び 其の 人 Ili^ は 大凡 三 

4" 万 弗の 損害 を 蒙りました。 

たい しゃう え ゑん けつ こん およ ぶた さい 

第 八 章 永遠 結婚 及び 一 夫 多 凄 . 



れん ゆつ はち し お けうく わい たいぐ わい うけう じ やつ けうぎ 

一 千 八 百 五十二 年 八月 二十 九日 サル ト、 レ ,キ 市に 於け る敎 Z ぽの大 八 1" にて 宗敎 上の 敎義 

t うせんば つ ペラ つと 9;,r< うみ ぷ た さいし と しか 

として 公然 發 表せられ たる 最も 典 味 ある もの は 一 夫 多妻 主義 を 執る とい ふこと でした、 併 

つと ノ ■ し また 1= せいと えい, ん けつ ん うち ュく 

し 夙に ナ ゥ 市と ゥヰン タ-、 クヮ I タ ス 市て 又 ュ I タで、 -fl 徒 は 永遠 結婚の 中に 含ま 

ぶた さい けう w じっかう を. U ん S み ぽじ 乙 けゥ; TJ 

れる 一 夫 多妻と いふ 敎理 を赏 行して 居り まし 一 千 八 "れ 三十 一 年 神 は 始めて 此の 敎義を 

上 ゆん しゃ けいし たま さう ねん し ば じ 

預言者 ス ミ スに 啓示し 給 ひました、 而 して 一 千 八 百 四十 一 年ナ -ゲゥ 市で ス ミ スは 始めて 

jj れ あ む もた ちゃうら うたち をし 上 :&ん しゃ お 上 ,こ やうら う Z けう; r.- じつ 

之 を 或る 重立った 長老 達に 敎へ ま-した、 すると 預言者 ス ミ ス 及び 其の 長老 は 此の 敎 義を實 

かう いた -.」 いや 〔ん けっこん け. S し ねん ゆつ にち きろぐ の 

行 致しました、 永遠 結婚の 啓示 は 一 千八ー门四十三年七月-ー丄ー日に:^^錄に載せられました、 

えい ゑんけ つ ん はう り うち ぶた さい ひとた さ 5 も 

永遠 結婚と いふ 敎理の 中に 一夫多妻の ことが 含んで ある けれども、 人 は 多妻 を 持たねば な 

をし へ えい ゑん けっこん けっこん えい ゑん はいどく いみ せい 

ら ぬとの 敎 では あ.^ ませぬ、 永遠 結婚と は、 結婚 は、 水 遠に 繼續 するとい ふ 意味です、 垂 

しんけん もつ ち おい つな てん おい つな それ ゆ ゑ せい しんけん ぃゥ 

なる 神權を 以て 地に 於て 槃ぐ rJ と は 天に 於ても 變 ぐので ある、 其故に!!なる祌權を^;:する 

ひと ひっこん しき しっかう を ぷラぷ せい ようふ えい ゑん ふつ さい くわん けい 

人が 結婚式 を 執行す るなら は、 其の 夫婦 は 一 世の みの 夫婦て なくて、 永^^-に夫妻の關係を 

5 う すなば ,\ く、 わつ のち ふうさい Z はう ぎ い つぼん じんる ゐ い けんすな は けっこん 

有する ので ある、 即ち 復活した 後 も 夫妻て ある、 此の 敎義は 一般の 人 額の や? 見 即ち 結 娘 は 

し とき le いやく まった ばんない たん^^i かみ 乙とば かな せ い しき もつ けつ 

死ぬ 時までの 契約て あると いふ 7J と V 全く 反對 で、 男女が 种 の 一一 n 葉に 適 ふて 正式 を 以て 結 

1 八 七 



1 八 八 

乙ん ,二 いう さ えい ゑん つど また 乙 ふうさいお i か ぞ,. ぐわん けい み らい i え ん ひい 

婚 すれば、 其の 交際 は 永遠に 續 くし、 又 此の 夫妻 及び 家族の 關係は 未來の 低に て 永遠に 繼 

! C く それ-^ ゑ ひと みらい Z おい あ^めお よ えいく わう う またえ い ゑ.,? 

續 する のて あると いふ NJ とです、 其 故に 人が 未來の 世に 於て 崇 及び 榮光を 受け、 又 永遠に 

,c ん; 0ハ ぷ めつ 乙 ^^^f さん つ ひ かみ ほど せ SW- よ V- う ため え ん〕: つ 乙ん さい 

存在すべき 不滅なる 子を數 限な く產じ 終に 一 神と なる 程の 勢力 を 得る 爲には 永遠 結婚 は最 

乂" . 、 

おい ひつえう じ けん よ ゆん しゃ *J ろ へ ねんい じ やう あ ひ な^ こ えい 

大 なる 必要事 件で あるので す、 預言者 ス ミ スは 虐殺され る 前 二 年 以上の 間 何よりも 此の 永 

ゑん テっ 乙ん 5 りつば , ぶう ぎ お i し \ や ため しんれい しよくき う ぇぃゑんげっけ^- ぎ しきと ラ もっと りう 

遠^ 婚と云 ふ 立派なる 敎義 及び 死者の 爲の浸 禮と贖 救と 永遠 結 契の 儀式 等の 乙と を 最も 留 

5- をし 

意して 敎 へました 

tf: ん しゃ いは いみ せいしつ し また ひと/ £^ めん む. £ . ^た ごと ひと いみ か は あは おき わ で き 

.^預言者スミスは曰く 「神の 性 ^知り、 X 人 々が 面と 向って 語る 如く 入が 神と 顔 か 合せて 直話が 出來 ろと い 

たしか し 上う ち ふく _<; ん たい ゆん リ ちゅうりゃく かつ .^~み われら ごと ,、,-、 い/ * 

ふ: と, 確に 承 知す るの は 福ず の 第一 の 原理て める、 —中略— 曾て 神 は 我等の 如き 人ても リ まし-^ が 今 

s^^^a たつ ひとな か てん ぐん りん & 

は 最高 位に 達せられ;: る 人に 成られて 彼の 天に て 君臨して 居らせられろ」 と, - 

さん せいと じ いう を 乙 ゆつ ひ いおいく わい . 

"ツキ ー 山で 聖徒 は自. E を 得て 居り.^ したから 此の 八月の 曰該大 倉て ブリ, 力 ム、 ヤング 

し こ ヽ ろ なぐさ 乙 けうり すな a えい ゑん けっこんお よ それ がんいう ヌ た さい ち 〈 こう ん はつ ぺぅ 

氏 は 心,^ - 慰める 此の 敎理 即ち 永遠 結 娘 及び 其に 八 a 有さる、 一 夫 多妻の 敎 を 公然と 發 表し 

^ おもた ちゃうら ラ 乙 -h-r リ し ひ 七 か れ じっかう 

ました、 是 まで 唯ジ ヨセフ、 ス ミスと 重立った 長老の み 此の 敎斑を 知って 密に 之を實 行し 

、, ん そ じ おい ひと-; Y へんけん M ぐもん でんせつお 上 い けん あ ひばん ゆ 

たのであった、 , 如 河と なれば 其の 時代の 人々 の 偏見 ゃ學問 ゃ傳說 及び 意見に 相反した 故て 



乙 とき ぜんけう し せんせ かいい 乙 けうぎ のった このち 

あつたの てす、 此の 時から 宣敎師 は 全世界へ 行って 此の 敎義を も 宣べ傳 へました、 此の 後 

ぶた さい をし へ がっし ゆう 乙ぐ せい,^ N\ わん w けうと もっと あ ひはん もんたい 

一 夫 多妻の 敎は 合衆國 政府の 官吏と 「モ ル モン」 敎 徒の 最も 相反す る 問題と なりました が、 

やう や ねん ゆつ か けうく わい たいくわん ちゃう ぶた さい 

漸く 一 千 八 百 九十 年 九月 二十四日 敎會 の大管 長 クヰ 〃フォルド、 ク V トラフ は 一 夫 多妻に 

くわん せんけん はつ そ じっか ラ と あく 2 ゆつ た. S くわい ときせ いと な せんけん お 3 

觀 する 宣言 を發 して 其の 實行を 止めました、 翌十 月の 大會の 時!^ 徒 は 其の 宣言 を 一 つの 捉 

てみ な れ し 上う はん さう 乙ん^ ち ぶた さい けう リ をし また じっかう 

法と 見做して 其 を 承認し ました、 而 して 今日て は 一 夫 多妻の 敎 理を敎 へぬ し、 又實 行す る 

ゆる しか すべ しんじつ せいと おのれら == ち てん- (さんざ 5 せい 

乙と を 許し ませぬ、 併しながら 総て 眞實 なる iii 徒 は 己 等の シ オン の 地に 點々 散在す る! t な 

しんでん 5 せい えい ゑん けい IV く けっこん しき あ 

る祌 殿に 入りて 一世の みならず、 永遠に 繼續 する 結婚の 式を擧 ぐるの てあらます。 

ない しゃう . お き 上う さく て ぐる またい おい さい なん 

第 九 章 ュ ー タに 於け る 凶作、 手車 隊の大 災難 

ち じ さハし れんき み せう じん およ すべ ぼつ じっせいと つい リ うはん 

知事 ャ ン グの 最初の 年期が 滿 ちます と 小人が ャ ング 及び 總 ての 末日 塗 徒に 就て 流言した 

む ん と じ 3 ^つ しん がっしゅうこく たいとう りゃう まお けうと し ちじ ^ん 

る 無根の 事 を 事實と 信じた 合 衆 國の大 統頒は 復「 モル モ ン」 敎徒 ヤン グ 氏お 知事に 任ぜざる 

あきらか しか たいさ おこな ひ た た 5, とゥ り ゃク 

べしと いふ ことが 明に ならました、 併し 大佐 ィ I、 ジェ、 ステ ブトの 行爲 のおめ、 大統 I 则は 

C けっし ス か た 5- さ I ぐんたい ひき ゆ とち §ク 

此の 决心 を變 へました、 大佐 ステ ブト は カリ フ オル-一 ァ へ 隊を率 t„s て 行く 途中に 一 千 八 

1 八 九 



1 九 〇 

ねん ゆつ === たうち やく ない とう リ やう Z ひとち じ 

百 五十 四 年 八月 ュ -タに 到着し ました、 大統領 フラ ン クリン、 ピア ー ス は 此の 人 を 知事に 

任じました が、 ス ヲ。 フ 门は叮 寧に 之を辭 返しました、 而 して 重立った 「モ \ モ ン」 敎徒 ゃ非敎 

と ち ユラ わう ぜ< -ぷ し はふぐ わん B- く ん しぐ わん いっしょ i ち じ さい ん たいと うりやつ しゅつ 

徒 や 中央政府の 司法官 や 陸軍の 士官と 一緒に ヤン グ 氏.^ - 知事に 再任す る 乙と を 大統領に 出 

ぐわん 一で いとう リ やう き \ と . . ち 1- にん また ど じんし はい^ん 

願し ました、 すると 大統領 は 其, V- 聞 屈け て ブリ、 、カム、 ヤング を 知事に 任じ、 復 土人 支配人 

に Ji^ じました 

ねん :£ つか . . . はか 

一 千 八 百 五十 五 年 十二月 十日 チヤ : ルス、 シ-、 リッチと ジョ ルデ、 キュ, カノ ンと^ 

ひと し しゅったつ i たうち おい まいし う ど ぱ つかう I 

の 人が サ ン フランシス コ 市へ 出立し ました、 力 ノ ン 氏は當 地に 於て 每週 一 度發 行す る 一 ゥ ェ 

スタ -ン、 ス タンダ- ド J 新聞社 を 設置して、 一千 八: 白 五十六 年 二月 二十 三日 始めて 之 を 

はついん ,v たう じ けいてん ハ c- ィご しゅつばん 

發刊 しました、 其の 當時モ , モン 經典 は布哇 語で 出版され ました。 

ねん ゆつ か ぎぐ わい はじ w やう ど あたら みやこ かいく わい 

一千 八 百 五十 五 年 十二月 十日 議會は 始めて 領土の 新しき 都 フ.^ < 1 〃で 開會 しまし 

乙 かいく わい きかん なほ ど リゃ うど ■ 5; つし ゆう 乙く しう みと し 5 つぐわん 

た、 此の 開會期 問に 尙 一 度 領土 ュ -タを 合 衆國の 一 州と 認められん? -とを 出願 I ましたが 

せ 乙つ たう じ ii ュ." ョ.' ク しんぶん しゅひつ f 

成 効し ませなん だ、 當時紐 育で 「モル モ ン」 とい ふ 新聞の ま筆ジ ョ ン、 テ イラ-及び ジ ョ 

じ し § つぐわん お 上 しう-けんば ふ こぐ /- わい ていし はつ ゐ /-ん せんてい 

〃デ、 ュ -、 スミ スは 此の 出願 及び 州 憲法 を國侖 Z へ 提出す る 委員と して 選定せられ ました。 



一 千 A 百 五十 四 年よ. - 一 千 A 百 五十 五 ぜ にかけ て^ 1,1 くあった IK^l のず $な« あまつ 

が 外れました、 一 千 八 百 五十 五と 六 年の 冬 は 殊に 寒く あ .0 ました、 牛」 羊 は!: 千 頭と な J!§ 

は 塞 氣に勉 化れ、 或は 餓えて 死にました、 該 災難が 紐 と^. 5 ましたので、 n ぎ は? li: 艇^ 

ぶ^^、 ヽさ ね ほ お 七れ ぐら いのち さ \- き/ -ん ようじん し i くりや ク 

をして 再 ひ 草の根 を 堀ら 出して 其 を 食 ひて 生命 を 支へ ました、 饑 儘の 用心に 食糧 を菩 へた 

"んく せま ひと-. 乙 \- ろよ おすた そ わ.. つかた く W へ や 2 な 

ヌも ありました 力 貧苦に 迫った 人々 を 快く 助けた 爲め、 其の 僅の 貯は 直ちに 無くなり ま 

一 > i 1 > ひと t.? も ひと. e あた か おは a ん じふ なぬ;, 

した、 物 を 有った 人 は 物 を 有た め 人に 分け 與 へました、 斯くて 多くの 難 溢 を 免れました、 

fl きし -tt いは OP-*- 上う W- つし ゆぎ 3 んく. es." よくで う すな は け よれ およ .6 やう どゥ 乙 

歴史家 ホヰ 、ン ト -1 曰く 『「共立 生^」 の 金 科 玉條は 即ち 「協和 及び ギ等」 であ. ましたが、 此 

) ^ - 1 . ^r-^v- け ふわ お,, ^-' - ひやう どう おもん たが ひ あ It たす またた し ゆうし 3, つ しんと すく 

の 時に も I モル モ ン」 敎徒は 協和 及び 平等 を m: じて 互に 相 助け、 又 他宗 旨の 貧しき 信徒と 

ての 貧しき 人 を 助けました』 と。 

^J^u'. 、& , を" とき ど じん i- は ゆ - せん さう さ t 

i4 徒 は 期くて 難 溢 をして 居.^ ました 時に 土人 は 所謂る テン- ブ ク戰爭 とい ふ 一 揆を 起し ま 

I t き し 上 くみんし や はん/ J ろ :;^ ん . り 上 ,\ う ト と 

した、 此の 一揆に 1g 民 者 は 十二 人 殺され ま I た、 一 千 八 fH 五十六 年 TIf パ 叫へ 旅 〔打 した 聖徒 

ど じん らんば う ため しゅ しんぐ 5 た 

は 土 入の 爾 暴の 爲に種 々の 辛苦 を 致しました。 

ufj^f"^ う ヷ た, ^ て. cza たい, た St ん;" 5. あ そ とし A つと おいさい なん 3 5 

同年^^方ょり來た多數の手車隊が大损害に遇ったのは其の年の最も大災難でぁった、 而 

一九 1 



一 九 二 

aJ れ ため けうぐ わい ^5- ん たい い き そ さう ひ あ 5 し ヅ かつ けうく わい つかさら てう 

して 之が 爲に敎 會全體 は意氣 喪して 悲哀に 沈みました、 『曾て 「モ , モ ン」 敎會の 司 等の 調 

さ ぃ^^§ぅ せいと うし ぐる ま つな それ もつ せい はう リ上 かう てぐ 3 ま ひ 

査 によれば、 移, 住する 聖徒 は 牛 を 車に 繫 いで 其 を 以て 西方へ 旅行す るよりも 手車 を 挽いて 

リ 上 かう ナ i: 'ざい かつじん, V ぐ じ ら、】 r g さか ひ てぐるま こしら ?; れ 

旅行す るが 經濟 て、 且 迅速で あるとの ことて、 爾來 ミス クリ 河の 界で、 手車 を 捲へ て 之に 

U もつ しょぐ リ やう つ ちから つ 上 ひとら 乙れ ひか るる し たい たう じ い ft- ゥ-ラ 

荷物な, 食糧な. を 積んで 力の 强ぃ人 等に 之 を 挽せ て步く 次第で あ. 0. まし. P -』 當 時に 移住 

せいと たいていえ いこぐ じん すべ たいご 乙れ ら ひと てぐるま ひ さ ぼぐ 

する 聖徒 は 大抵 英國 人に して 凡て 五つの 隊伍が あった、 是 等の 人 は 手車 を 挽い C 沙漠 や 

わ はかち わた やま たど マイル ぐ わう や とほ "し ゆ 

川 を徒步 にて 涉, 9、 山に 迎 つて 一 千 三; H 哩の 曠野 を 通って、 サ ルト、 レ I キ 市へ くこと 

き たいご ゆ つ 《- よかう ひ かぐて きょ つ が, A たいえん 乙 ゆん や いた 

に 極めました、 三つの 隊伍 は 三 ヶ月 旅行して 比較的 好き 都合に 大鹽 湖の 原野に 到りました 

あと た 5 はや ふゆ ^3 ぷ ぼうふう あた 乙たい ういい 

が、 後の ニ隊は 早い 冬の 雪に 降られて 暴風に 中り ました、 此の 二 隊は餓 ゑて 言 ふに 言 はれぬ 

なんじ ぷ こら からう そ ぞん め. S しゃ た 5 えん r- はんや は > さ 5 ご たい ぶん 

ほどの難^^を耐 へ て 辛 じて 其の 存命 者 は大鹽 湖の 原野に 入り まし. 最後の 一 隊は四 分の 

いじ やう ほどし た a* はんば^り I I し たうち やく も きう じょ い せいめい 

一 以上 程 死んだ ので、 只 六 百 人 許 サルト 、レ ー キ 市に 到着し ましたが、 若し 救助隊が 生命 を 

堵 して 其の 隊伍 を迎 へ に 行かなん だなら ば 皆 死んだ ので ありませ う ◦ 

^-^ しゃう — ■ ゑん せい ぐん 

第 十 章 ュ I タの 遠征 軍 



がっし ル うこく せいふ リゃ うど む とん #r やく しか MnnnyH そ せいおう せいきう 

八 ロ衆國 政^ は 領土 ュ タの. こと は 無頓着で あつ.?^、 然りュ I タと 其の 正當 なる 請求と を 

けい/ V み すご OHnNNMn た しう どうやう しう みと ね^ それ はんか 

輕々 に疆 過し IT- し.?^、 ュ ,タが 他 州と 同樣に 州と 認められる を 願 ふたが 其 を 1§ 可し なかつ 

た y や. T ビ ぎぐ わ やくし 上 ひ t クぉ上 ど じん さう どう し, つ ひ .S くた かね し 

た、 他の 領土に ならば 議會と 役所の 费用 及び 土人の 騷動を 1 まめる 入費と して 幾多の 金 を 支 

しゅつ g 'やうい- —— 一, ししゅつ をし 

出した が 領土 ュ - 'タに は 支出 を吝 みまし.? 

さう は/: いた お ほ さくし . つか は たみ さいばん ぐわん リ やう み ん うち 

而 して S しきに 至って は 多くの 策士 をュ -タ へ 遣して 民の 裁判官と しました、 ^5-^の中 

かれら ど うづ やう へゥ また かれら しん 上う ひと な かれら /J ぐみん け と 

に 彼等に 同情 を 表し、 又 彼等 を 信 川す る 人が 無かった ので、 彼等 は國; ^が 「 モル モン 」敎 徒に 

たい 4^ いたん へんけん なほな ゆうお い つと さ はか リ ごと めぐ 

對 する 冷淡と 偏見 を 尙赏大 にせん と 努めて 樣々 の 謀 を S- らしました リ 

ち^うわう せいふ は けん さい ぼんぐわん すぅはんしs^ぞ た ゆ さいばんし 上 じ ,:: 

中央政府の 派遣した る 裁判官が 數人 退いて 他へ 行きました ので、 ュ-タ の 裁判所 は 事務 

ぶく をう かっし ュ たい r をれ ゆえ ねん 1 ぎく ゎぃ はふれ い まう ち はう 

が 幅 し且溢 滞して 居りました、 其 故に 一 千 八 百 五. H 一年 ュ ,タ 議會は 法令 を設て 地方 裁 

さハ ばんしょ ぎぐ わ 5- はふれ S もつ きん かぎ ぐわん れいば.. 1 上 さいばん おい なた かう へいさい ばん おい みん 

判 所に r 議會が 法令 を 以て 禁ぜざる 限り 惯例 法に 依る 裁判に 於ても 又 衡平 裁判に 於ても 民 

じ およ けいじ ヽ やう お じ さい ぼん けんの. フ あた 乙 し かっとう おこ 

事 及び 刑事上に 於け る 自治 裁判の 權能」 を與 へました、 此の 故に 種々 の 葛藤が 起 6 ました 

ちゅうわう さいふ は げん さいばんぐ わん ち はう さいばんしょ すぺ じ やうき, \さ い^んし 上 けんのう む う たん ゆん 

中央政府の 派遣した る 裁判官 は 地方裁判所が 總て 上級裁判所の 權能を 無効と すると 斷赏し 

けうと も ち ぱぅ さい „tj んし上 いじ やう とぐ べつ けん な : 

まし. Jir か、 「モ ルモ ン」 敎徒は 若しも 地方裁判所に 以上の 特別の 權が 無かった ならば ュ -タ 

一 六" 三 



一九 四 

おい みんじ お 上 けいじ さ 5- ぼんし 上 じっさいな ひと しゅち やう たう じ /- うし 上く ち&ラ ぶ. s^w ちゅうわ ク 

に 於て は 民事 及び 刑事裁判 所 は實際 無き に 等しと 主張し ました、 當時 就職 中の 二人の 中央 

せいふ は けん さいばん くわん じゃしん ひ れつ せんばん しゃ ち!^ 

政.; W の 派遣した る 裁判官 (ス タイ グ スと ドラ ン モ ンド) は 邪心 卑劣なる もので 前任者と 違つ 

^ きふ さいばんしょ そ やぐ はん けん ゐ どぐ わい し ルゑ じんみん 乙 ふたり も^ ほじょ 

て 下級裁判所と 其の 役人の 權威を 度外視し ました 故、 人 も 此の 一 一人の 者 を 保 助せ なんだ、 

それ せい 5> 上く にんば う な さい ぼんぐわん. . おのれ くわん リ さいばんし 上 上ん ど 乙ろ な や 

其で 勢力 も 人望 も 無くて 裁判官 スタイル スは 己の 管现 した 裁判所 を 據 無く 止めました、 

ねん ばる M^^^yyyMynn かへ 上ん どこもな さいばんし 上 や せいゆん 

1 千八ほ五十七年の^^^ス タイ ルス は ワシントンへ 歸 つて 據 無く 裁判所 を 止めた と 誓言し 

そ 化い ゆん うち じんみん さい ぼんしょ き ろくし 上 や おのれ ぼっかう く は 上う かつ 

ました、 其の替 言の 內には 人民が 裁判所の 記錄 書を燒 き、 己に 暴行 を 加 へんと 恐 吸した と 

もっと じんみん そ き ろくしょ じ む し 上 と 

いふ ことな どが あ. 5 ました、 尤も 人民が 其の 記 錄書を スタイル ス の 事務所よ, 5 取った ので 

、 それよ ほ ; てん さう のち 乙れ た しか せいゆん し はう 

すが、 其 を 能く 保存して 而 して 後に 之 を 出しました、 併しながら スタイル スの替 言 は 四方 

J5 ろな r くみん ,てれ しん なほ さら けうと ひ なん 

へ廣 つたので、 ^:ir か 其 を 信じて 尙更 「モル モ ン」 敎徒を 非難し ました。 

れきしか くわん いば. おのれ つま かぞく やう S ぐ また ふや 

ダ歷 史家 バ ン クロフト は ドラン モンド LL 關 して 曰く 「ドラン モンド は 己 の 1^ スと 家族と.^ 養育 もせず、 又 抉 持 

しう うちす I ろとう おいみた せん ゆ iz- J つ 乙れ おのれ つま ふい 

もせず LL ィ. -ノィ 州 LL 打 捨て、、 クシ ント ンの路頭に於て見出した賤業婦.^- ri I タ へ 連れて 之 vS* 己 の;^ スと吹 

ちゃう さい ぼんしょ おのれ ,てば すわ 

聽 して 裁判所に て 己 の侧に^^らぜまし;:」と0 

さ S ばんぐ わん おはい じんぼう うしな はう 5- つ ふぎ やうせ き ため し 上ぐ むじ ゃク 

裁判官 ドラン ンド は大に 人望 を 失 ひました、 放逸 不行跡の みの 爲 でなくて、 職務 上に 



一 

ぷ ^ がよ ため それ^も つ ひ じし 上く けっしん 

不都合 かあつた 爲 でも ありました、 其 故に 遂に 辭職 せんと 决 心しました、 一千 八 百 五十 七 

ねん ゆつ ^ちじ へう けんじそう *f やう 1! てい t リ いう うち おは 

年 三月 三十 ロ辭 表を撿 總長ジ H レ マヤ、 エス、 ブラ クに呈 しました、 其の 现. H の內 に、 多 

ねつ ざう ぞんぶ けうぐ わい つかさら めいれい したが S- やう ど たいしん ろん 3 < しょ 

くの 揑 造した る 讒誣が あった、 敎會の 司 等の 命令に 從 つて 倾土ュ I タの 大審院の 記 錄と書 

るゐ なく い またち 5 うわう せい ぷ ぱ けん さいばんぐ れん はしゃ ラ し,: うじん みん けいべつ 

類 力 亡され たと 云 ふ こ と、 又 中央 政 の 派遣した る 裁判官が 保障な く 始終 人民に 輕蔑 せら 

こまら めいわく ヱ 乙く またち じ むリ はんざい はん しゃめん おのれ 

れ、 困せられ、 迷惑 を かけられ ると 誣告し ました、 又 知事が 無理に 犯罪 人 を 赦免し、 己の 

;3 が ひ かな やう あ e かじ ばいしん くわん い ふく ふ 乙く じんみん し はふ. ぐわん ろ う 

願の みが 叶 ふ 檨に豫 め 陪審 官に 言; 3 含める ので あると 誣吿 しました、 人民 は 司法 部 を貌弄 

ぶっし を :S ゑ も し はふぐ わん じぷ どん おの しょ C む しっかう レ いいべ つ てうろう 

物視し 居る 故 若し 「司法官が 十分に 己が 職務 を 執行 せんと するならば 輕 蔑せられ、 嘲^せ 

つ ひ ぼうさつ い さう じ へう けつぶん すみ や ち じ かう こつ 

られ、 遂に 謀殺 せられる」 と 言った ので ある、 而 して 辭 表の 結 文に は 速 かに 知事 を 更迭し、 

而 して 「其の 新 知事 を铺 ぎす る爲 めが 分の 兵力 を ュ -タに 置く」 乙と を勸 めました U 

ねいとう s- やう 乙 き. H ばう お. M ふへいな た くわん リ さ \ ^ ぐ じ やう じっさい 

大統^ ビ ュ I カナ ンは 此の 虛報 及び 不; 牛 を 鳴らせる 他の 官吏 よらの 些細な 苦情 を 赏 際と 

しん げ, 乙ク じぶ ん とリ しらべ ■ さう どう おも しか 

信じて、 輕忽 にも 十分なる 取調 もな さず、 ュ -タに 騒動が あると 思 ひました、 併し 「モ , 乇 

けうと そ たう じ ゆん/ J ん えいき-つ 乙く. a kj ぐ はふ ちゆ ゥぎ クく を モ ぷ 5- ちゃう 

ン」 敎徒は 其の 當時も 現今 も 永久に も國 家と 國 法に 忠義,^ 謹して 居る ので、 其の 吹聽 され 

^ こく た ふぺん か \- がっしゅうこく やく^ん じんみん <w んぞぐ いとう リゃゥ 1 

た 誣吿に 一 々答 辯した に拘 はらず 合 衆國の 役人と 人民と は 満足し ませなん だ、 大統領 はャ 

1 九 五 



1 九 六 

しょぐ は ちじ はん けんやん しんち じ けん K5 ほし やう た 

ングの 職 を褫 ぎ、 ァ フレ ド、 力 ン ミ ングレ 知事に 任じて 儼然新 知事の 權威を 保障す る爲め 

リゃ うど == し :5 び へい め 5,- (い そ しき 乙れ すべ ぐんようひん ォ いたい NMnnnnMM 

節土ュ I タ 守備兵と して 二 千 五 CJ^ の 兵 を 組織 させて 之に 總て 軍用品 を携帶 させて サルト 

I し かう しん めい こ へい ,h ひつえう い つ ひつえう おう 

レ I キ 市へ 行進すべく 命じました、 此の 兵 は 若し 必要 あらば 何時 にても: ^(の 必要に 應 じて 

はぶ fi; ひと.,^>- さう どう し., つ もくてき じん けつ K ち 乙 へ > 

無法なる 人々 の騷 動を鎭 める 目 的て ありました、 一 千 八 百 五 ナ七年 六月 一 一十 儿 口に 此の 兵 

し れいぐ わん し 上ち はう はふ をし 

の 司令官 は處置 方法 を敎 へ られ ました C 

たう じ もっと じんく ふっとう どれぃもん^:ー5 た. S- とうり やう ど. れい しょい? なん 

„ -當 時に 最 も 人心 1^ 沸騰 させた る こと は奴隸 問題て ありま しれが、 大 ビ 1 1 カナ ンは奴 隸ん、 所有 マろ 7 ほ 

ぶ ひと *,:>■ どうい ヘラ を さう 31 さ ,t なんぼく せん さう おい なんぶ ^ う ねつば う 

お ^ の 人々 に 同意 VJ- 衷 して 居 リ まし;^、 而 して 將に 起らん とする 南北 戰 爭 L1 於て は 南部が 勝ち ろ: とん 熱 S 

r ゆ ゑ 乙 のぞみ かな やう ふち. ひ-う こくへ い な ぺ リ さん つと い せつ 

して 居りました、 故に 此の 望 が 叶 ふ 様-し 不巾吖 し も國兵 *^ 成る 可く 離散せ しめんと 努めれ と 云 ふ r "があります 

いう, ひん *. つ うし けうと おのれら 乙ぐ や, いんぼう しゃ め さ 

ュ-タ へ の 郵便が 中止され たので、 「モル モ ン」 敎徒は 己 等が 國 家の 陰謀 者と 目指され を 

る こと を 知らぬ と共に ュ. 'タへ 軍勢が 來っ 、ある さ を も 知..^ ませなん だが、 一 千 八お 五十 

ねん やつ か がいち tt う いぶう わん さい さかん しっかう を さいち, リ; う とうはう し ヽ k 

七 年 七月 廿 四日 該 地方に 移住 十 年祭 を 盛に 執行して 居り ました 最中に^ 方よ f, 使者なる 

三 名の 「 モル モ ン」 敎 徒が 來て 政府の 追討 軍が ュ -タへ 行進して 居る と 云 ふこと を 始めて 聖 

と ぱぅち t ばんたい ぐわん ちゃう せいと あつ えん ク う いは きょ ゆん しゃ われ 

徒に 報知し まし. {^、 其の 晚大 長ャ ング は. 架 徒な」 in 木め て 演 說 する 內に E く 「虚言 者 は^ 



ら おいと 乙く か た、 J はん ぐは;^.】 ふ 乙ぐ たいとう リ やう リゃ うど ちんぶ. ぐん^^-.$ 

等 聖徒が 國 家に, 對 して 叛を 企てた と誣 佳した ので、 大統領が 此の 領土 を鎮; S せんとて 軍 i!?- 

せ ラン ふ ZJ \ つか は ちゅうしゃく われら いま かつ 乙ぐ はふ さから な 乙 ご 

を 召集し て 此處 へ 遣す の である —中略— 我等 は 未だ I "て國 法に 逆 ひ し 乙 と 無く、 此の 後 も 

22 なん く はた いし S し. a も こ た み ほろ $ もみ , せんのう かみ 

又叛を 企つ る 意志 も 無し、 然れども^し此の:^^.^亡ぼさんとて來る网ぁらは全能なる别の 

たすけ え われら *0 れ ゆきたい ife ヽ ,て しゅ パ さい つ 5- r^/M ど Js^ は- r . 

守護 を 得て 我等 は 之 を擊退 せん」 と、 やがて 再び 其の 祝祭 は續 けられました 人 * 屯 は i®^ し 

そ とき せん をつ- せいと かん ほと fiKS いつ おんべ. S 

なんだ が、 其の 時から 戰爭は 聖徒 間の 殆んど 唯一 の談 柄と なりました 

九 八日お 尉ヴ アン リ-ト がサ〃 ト、 レ -キ 市に 到着して 懇ろに 歡迎 せら れ ました、 

こ > と . S ^ >t くれう " 5: つし,^ つ 乙く せいふ けうと かんせ ふ なた か 

此の 人の 使命 は 食料 を 買 ふこと や、 合 衆國 政」 W は 「モ \ モ ン」 敎 徒に 干涉 もせず、 又 彼等.^ ど 

くるし い せいと つ まお ぐんせい I つか は もぐて さ 

苦め ない と 云 ふ 乙と を!^ 徒に 告げる 乙と であらました、 又-軍勢 をュ -タに 遣され たる 目的 

は 新 官吏 を 任に 就かせる 爲 であると も 云 ひました。 

卞ク ^?』、,ぐゎんちゃぅ 乙 ひと めんぐ わい 乙た いは つ.」 バひ t I ュ 上,;;, ん 

九 九 nz 大管 長 ブリ、 、力 ム、 ヤン グは 此の 人と 面 An,v して 答へ て 曰く 1 n 止 下 力: F: (の 信 

を吿.くるものなる乙とは?^^の疑はざる所てぁる、 然れ ども 足下 は 未だ 私 程に 能く U パの m ハ 

5, わ か を. ちゅうしゃく そく か か ぶっぴん じさ, ん f-^ ?.. L 

意が 解って 居らぬ— 中略— 足下が 買 はんとす る 物品 は 十分に ある けれども M,i>T に は a 'も- i- 

3 う af;.v く か ぐんせい t ゆん や い ► で . 

られ, ^せぬ、 而 して 又 足下の 軍勢 を も 此の 野に 入れる こと は出來 ぬ」 と" 

一 九 七 , 



1 九 八 

いくわん ちゃう リ やう I う < いじ くわん つ ところ けい in- (5- 

大 管長 ヤング は ミス クリと イリノイ 兩州 にて 兵事に 關 して 積んだ 所の 經驗に 依て、 兵 

たい し^;ちゃぅ しんよう そ もぐて き うたが い かん な ゑ そ く. C んリ へ 

隊の 主張す る こと を 信用せ ず、 其の 目的 を 疑; SiW した、 如何と なれば 何, 故に 其の 官吏, VJ 兵 

« '上く つも a い せん 5".:, せいと がっしゅうこくせ、,. *1 くわん リ てき & ハ な 

力なし に 遣さなかった であらう か、 以前に 該 聖徒 は 合衆國 政府の 官吏に 敬^した さが 無 か 

な は;^ ゑ (いりょく もつ くわん リ しう しょく ひつえう ,vi しん 心ぐ て m t し 

つ. から, 今 何故に 兵力 を 以て 官吏 を 就職させる 必要が あるで あら ラか、 其の 眞 目的に 確 

もく を しん もくてき けうと みなごろし ,て か f しょいう ぶつ ばく わい 

力に 隱 されて ある、 其の 眞 目的 は 「モ グ モン」 敎 徒を廢 殺に して" の 家屋 や 所有物 を 破 察し 

かれら <s つた めつぼう ム: うい う いんが そ へい 

て 彼等 を 全く 滅亡させる のて あ ft 'ました、 ゾリ ガム、 ヤング は 期 云 ふ 樣に考 へて 其の 兵 を 

入らし めぬ M とに 極めました 

レ,? I はんぱ バ い も をぐ か わ, つか へいり 上く もつ .0 たう 4:- 3 も 、, ま き 

大尉 反駁して 言 ふに は、 若し 足下 力 寡少の 兵力 を 以て 此の 峠 を 守って、 今、 來っゝ ある 

國 兵をュ I タに 入れない とする も、 政府 は 二三 ヶ月 を 出で ず、 援軍 を 送って 總て斯 る 抵抗 

あ.. つ , ^A'KA 3 うる な たいぐわん *T やう 乙た いば そく か の 

を. M して 進入す るに 相違 は 無い とい ひま-た、 火 管 長 ヤン グ 答へ て 曰く 「足下が if へら 

と はり しょうち r へ 5 たうち やぐ === たど さ ぼぐ ハっ. I い 

れた 通で あると 承知して 居る が 其の 兵が 到着したなら ュ -タは 唯 沙漠の みであって、 一切 

か. -をく ク いっさい じ f; もく 3 た i wfe いつ ばた け くわう ぶ わか 

の 家 尾 は 焼かれ, 一 切の 樹木 は 研.^ 倒され、 又 一 切の 畑 は 荒 蕪して ある ことが 解る ので あ 

らう」 と。 



たいる 乙れ き ひじ やう おどろ ビラ じ ふか かん さう これ りく んき やう- ばう ち 

大尉 は 之 を 聞 い て 非 に 驚く と 同時に 深く 感じました、 而 して 之 を 陸軍 卿に 報知 せんと 

て ワシントンへ 展- りました。 

乙 たい t<! たち 3 のち £ つ S ちち じ S- やう ど ^=fl かいゆん れ. & しき =^= 

此の 大尉が 立 去った 後 九月 十七 日 知事 ャ ングは 領土、 ュ - タに 戒嚴令 を 布ました ナ - ゲ 

1^ ぐん おん . (わん ん ,y しき , I こくへ い しんば ふ ふぜ た 

ゥ軍閱 を 完全に 組織して、 ダニエル、 ェチ、 ゥヱ ルス を 中尉に し、 國 兵の 進入, V 防ぐ ハ A め 

4,- いれん お 上 らうせ いしゃ めい せう し-, A i& つ はじめ — か は こく 

靑年 及び 老成 者 二 千 五 百 名 を 召集し ました、 十月の 初に グリ 1 ン 河て C タト、 ス ミス は 國 

(5, ぐん 上う ひん ぼし やひ H な t や _s た へ 5- え.. い な . やが、 ^.A-K,^ 

兵の 軍用品と 馬車に 火 を 放ちて 之れ を燒 き、 又ブリ . ン ジャ 兵營を 無くしました 頓て 5^ 入 

へい かつ またかん き く お ほい せ 5. そ :=^===== し 《• 一で そ, こ irt すご 

兵は餓 ゑ、 又 寒氣に 挫け、 火に 勢 を 殺 がれて ブラック ス、 クオ I クへ返 S て 其 處て冬 を 過 

それ; § ゑ ゆつ はじめ みん ぺ い ぼんばん ぽ かみな なち 力 ( 

さねば ならぬ NJ とに なりました、 其 故に 十 一 一月の 初に ュ 1 タ 民兵 は 番人の 外 皆 m- に S トメ ま 

よくばる へい 乙 を ばる かなら ふた \ でか ひ ば じ さつ ゐ な 

した、翌^_^まで兵は此のま、に居りましたが、^;^:になると必ず^び 戰 が 始まる に 相?; 力無 

い と藥徒 は覺悟 をして 居. 9 ました。 

そ あひな ち に たいさ たの しんさう たいとう S- やう 

其の 間に 知事 ャ ン グは 大佐 ト マス、 H ル、 ケ イン に賴ん て置ハ 相を大 統倾ビ ュ-カ ナンに 

S うこく た 5 と, -リ やう fJ たいさ みっし はん てう わ てき つうしん お nyuMnnM 

報吿 させ まし. $^、 すると 大統領 は 此の 大佐 を 密使に 任じて 調和 的の 通信 を 帶 ばせ ュ 1 タ 

つかば たいさ ねん ゆつ はち =r し ちゃく 

へ 派遣し ました、 大佐 ケ イン は 一 千 八 百 五十八 年 二月 二十 五日 サル ト、 レ I キ 市に 着し ま 

1 九九 



二 c〇 

さう たいさ しんち じ ぐん isji- MMnuMnnn い さしつ か 《 へいたい こに とも 

した, 而 して 大佐 は 新 知事が 軍勢な しに ュ -タへ 人るならば 差 支 はない が 兵隊の 之と 共に 

い I 一 <^たリゃぅビ ぃゴ し い, つ し t くみん ff , なん と せ 5- と 乙^ f 

入る? -と、 又領土の何れの市にも何れの^民地にも陣ぉ取ることは{||^徒が之を許さぬとぃ 

あきらか し たいさ .5 き ふ MMMMMMMMMMMMMMM^yMNMnnnMMMnMyMMMnMy い ぐん 一い 

ふこと を 明 に 知, ました、 大佐 ケ イン は 雪 を 踏みて ブラ タク ス、 フォ! クへ 行って 軍勢 

の- >?耍 がな いとい- f こと を 知事 力 ン ミ ングに 直ちに 得心 さ: izJ ました、 すると 兩 人で サル ト 

: し C ゆつ ばち たうち やく It- じ . Jc- いくわん ちゃう SJ んご 

レ I キ 市へ 出かけて 四月 十二 日に 到着し まし 知事 力 ン ミ ング は大管 長 ャ ングに 懇ろ 

しん ち *2 い おおや. S おの しんやぐ つ たいさ おのれ すう. &ぅ 

に迎 へられて 遲滯 なく、 平穏に 己の 新 役に 就か しめられました、 大佐 ケ イン は 己の 嵩高な 

へいわ てきし めい まった そ せ. S こう 1^"ぅち た I し かへ 

る 平和的 使命, V 全 ふした ので、 其の 成功した こと を 報知す る爲め 再び ヮ,! Tx,:^ ン 市 へ 歸. 5 

乙ゝ おい たいと. r a- やう 乙 ぐんた: > し t ち きゅう え 

まし. 是に 於て 大統 m ビュ -カ ナン は 此の 軍隊の 處 置に^ せざる, で 得なん だ 

ゆつ j ち じ し, r せう さ ノゎ ろ ヽん ^r=tt- 

六 n ケ ン タキ 州 知事 パク H 严と テキサス 州少 :5;d マ ック I クは 講和 委 n( として サ〃 ト、 

し ない ぐわん ちゃう ぐ わ i* けん 乙 ふた リ がっし^つ Kl く おいとう りゃう すべ 乙く けん 

レ I キ 市で 大管 長 ヤングと き 見し ました、 此の 二人 は 合 衆國の 大統領より、 總て 國權に 

一ぐ じゅう けう. -ー くわ こ つみ む ほん r->-/v <w た .0ヽ ろよ しゃめん し 上 もん もつ な- 

服從 する 「で \ モ ン」 敎 徒の 過去の 罪と 謀叛 を 悉く、 又 快 く 赦免す る 書面 を 持て 居. 5 まし 

た 

たいくわん ちゃう おのれ ち &の いは ふつ どか おのれ つみ しゃめん たい 

大管 長 ヤン グは 己の 地位, vif へて 曰く 「不^なる 己の 罪 *v 赦; g する ことにつ きて は大 



ヒぅ s 'やう ー . ^んし タ しか はた ^ ^ つみ を か かい くるし 

統^ ビュ. '力 ナン に 感謝し, ^す、 併しながら 5^ して 如何なる 罪.^ 一 犯せし か を 解す るに 苦む、 

うと われら いま むかし 乙く ば ふ ま も ち^!ぅぎ リゃ うみん し 

「乇 ダ モ ン」 敎徒 たる 我等 は 今 も 昔 も 國法を 守ろ 忠義なる 良民で あると いふ 一 つの 乙と を 知 

ち ろん 乙く へい ぐん とうひん つ ばしゃ や し 

るの みて ある、 勿論 ロット、 ス ミ スは國兵の眾用品を^£みたる馬車を燒ぃ て了ふたのでぁる、 

ブ てれ じつ ばラ かう もし 乙 つみ ゆる ク /- し しゃめん 乙 

其 は 12" に 行であった、 t おも 此の 罪 を赦 さる、 乙と ならば 謹んで 赦? を 乞 ふの であり ま 

す」 と 

くわ,". けん けつ,^ わつ ひ ぐんせい たうち f い けつ しか ,てへ 5- HMMi 

會兒の 結果 遂に 軍勢 を當 地方に 入らし むる ことに 决 しました、 併しながら 其の 兵はサ \ 

, し さ マイルい ない ち また u やう ど いつ ち し- M ぐみんち と 

ト、 レ 1 キ 市を距 る- ^四 十哩以 內の地 又は 領土の 何れの 町 ゃ戒民 地に 陣を 取るべからざる 

でう けん ゆつ ばち 5-5 (5- —— し とほ なんぼう 5 でん とつ た 乙 

條 件が ありました、 六月 二十 六ロ該 兵が サ ^ ト、 レ l キ巿を 通つ て 南方 へ 行き 陣を 取て 其處 

を, TT^, 兵營と 名け て 一 千八ぼ六十年まで1^^^に居.^ました、 一 千 八 百 六十 一 年 其の 最 

ご (い しゅ. つた ッ がいへ い お ほ なん ぼぐ せん さう で いとう リ やう 

後の 兵が 出立し ました、 該兵の多くは南北^^举に出ました、 大統領 ビ ュ-カ ナンが 「乇〃 

けう. -- せいた う つ, =>K ゑんせ いぐん しれい > ^わん, i 1 1 n I n . — なんお 

乇ン」 敎徒 を, 征討 せんとて 遣した 遠征 軍の 司令 ^ァ k \ 1 ト、 シ ドニ 、ジ ヨン スト ン はお 部 

はんた いおう ぐぱ 化ん 一 e う で 

の 反 對黨に 加 は つ て 戰爭に 出ました 

s-s へ 5 たい はじ たいえん 乙 卞んゃ い しばう くわう はい み ひじ やう かん せいと も はや 

該 兵隊が 始めて 大 Em 湖の 原野に 入らて 四方の 荒廢を 見て 非常に 威 じました、 聖徒 は 最早 

二 〇 一 



二 c ニー 

へいた 5 やぐ A- く しんよう S ぐえ し ぽんなん べん のが せいと おうそう むら 

兵隊の 約 を 信用せ ずに、 行衞も 知れず、 三 万人 南邊 へ遁れ たのです、 聖徒の 逃走した 村 

し た^^たぃ*^っ も ぼん^ん を 乙れ も てきへ い せいと る と 乙ろ とほ ふた ヽ 

と 市に は 只 松明 を 持てる 番人の み 居. - ました、 是は しも 敬 兵が i!i 徒の 居た 所 を 通って ffi: 

し ■ し ごと めいじ やう ばう かう ばん S ん 

びフ ァ!、 ゥ M ス ト 市と ナ I ゲゥ 市の 如き 名狀 すべから ざる 暴行 を せんと するならば 范人 

せいと こっく べんれい まう か をく しょいうつつ たいまつ もつ ひ はな やきつく けっしん を 

は^ 徒が 刻苦 勉勵 して 儲けた 家屋と 所有物 を 松明 を 以て 火 を 放ち 燒盡 さんと 决 心して 居り 

ち じ . せいと た うそう ゃラ ちゅうこく と らう お. S くわん ちゃう 

ました、 知事 力 ン ミ ン グは藥 徒が 逃走せ ざる 樣に忠 しました が徒勞 でした、 大管 長 ャ 

いは ちじ われら ぐんたい ばいやく がう い じゅぐ ち ちゃう どこれ 

ン. クは 曰く 「知事よ 我等 は 軍隊が 背約す る と を 毫も 意と せざる こと を 熟知す、 丁度 之と 

どうやう をリ おい われら ぶ き おんし む ざん さつり ぐ われら し上^?ょ がう いん 3 た われ 

同樣の 折に 於て 我等の 武器な き 男子 は無慙 にも 殺戮され、 我等の 處女 は强. 淫 せられ、 ヌ我 

ら つま われら めん i& ん おい がジ かん し もぐ!^! y ち じ 

等の 妻 は 我等の 面前に 於て 强姦 せられて、 死にた る 己と を 目撃した のて ある、 知事 力 ン ミ 

われら ぐんたい ぼんぶく つね じゅくち 

ン グょ 我等 は 軍隊の 反稷 常な きを 熟知す」 と。 

か せいと おのれ まち のが 5 どう まう 乙 い どゥ せいと 

斯くて 聖徒が 己の 町より 通れた rJ と を 「移動」 と 巾され たのです、 此の 「移動」 は 聖徒に 

く は はくがいお 上 も ぎ せ. S て 3 せいし..^ と つ おはい がっし ゆうこく おうしう じんみん t ゆう もく 

加 はった 迫害 及び 其の 犧牲的 精神に 富める ことに 就きて 大に 合衆國 と歐洲 との 人民の 注目 

ひ これら こくみん |J S どラ くわん ふか けんきう .S ば 5 る けうと ゆう 

を慝 いたので ある、 此 等の 國民は 此の 「移動」 に關 して 深く 研究し 所 IS 「乇 ル モン」 敎徒は 

き と しんかう かた さう せ. S じつ もの みと おはい しんぶんし a- やう とれ し i うやう 

氣に 富み、 信仰 堅く、 而 して 誠 實 なる 者で あると 認めて、 大 に新閒 紙上に 之 を 賞揚し まし 



か ^ -,' ± おはい せ じん どうじ やつ え せ 5* と じ ん お f 

たので あり す、 斯くて 「モ \ モ ン」 敎徒 は大に 世人の 同情 を 得ました、 聖徒 は 自分の 家屋 

し つた ぎ せい きょう うんめい はん 乙ん ど さい は ひ そ さいなん まぬ が か い 

と 市と を 全く 犧牲に 供し 運命に 一 任した が、 此度は 幸に 其の 災難 を 免れ まし. p.- 、渐 くて 「移 

ど う もく てきた つ せいと ぷた /- おの あい まちし かへ 

動」 の 目的 を 達した ので 徒 は 再び 己が 愛する 町 や 市に 歸 6 ました、 し 

か ごと いば §s せん さう し :5 うき 上ぐ つ せいふ なんら nv え *< Is たもぐ てき 

斯 くの 如くして 謂 「戰 爭」 は 終局 を 告げました が、 政府 は 何^の 利益 を も 得ず、 又 目的 

たつ かへ „ト や /J くひ つ ひや *W つたぐ みう しか 

を も 達せず して、 却って 一 千 五 百万 弗の 國费を 費して 全く 愚弄され た. ことにな, 5 まし, だ、 併 

乙 せん さう けうと おのれら しゅぎ おもん 乙れ まも きなん あ ごと 

しながら 此の 戰爭 によらて 「モ \ モ ンし敎 徒 は 己 等の 主義 を 重 じ、 之 を 守り, 危難に 逢 ふ 毎 

ゆうき ぼい 乙く. a ち つく ひ i..!:.- ぜ じん みと is ほい たっと をん け S やう 

に勇氣 百倍し、 國 家に 忠義 を?! I す 人 々であると 世人に めら れて、 大に賁 ばれ^ 敬 さる、^ 

になった ので ございます。 

ぉ广 しやう くわい-. \ くき かん かい しん うなが うんどう でんしん せん ^?上 てつお ゥ 

第 十 一 章 恹復 期間、 改心 を 促す 運動、 電信 線 及び 鐡 道の 

ふ せつ きょうどうしゃう くわ S そ しき 

敷設、 シ ォ ン 共同 商會の 組織 

< 'ぐ/; し: S つばつ ちゅうわう くわん つうて つおう で き あ ひお じつ せいと れきし タぃ 

該 軍勢が,^^ を出發 してより 中 央 貫通 鐵 道が 出 來 るまでの 間 は實に 聖徒の 歷史に 於 

くわい ふくき かん し 上う Z き かん ^いと =: さんかん けメ f,- い』 い, 

て 恢復 期間と 稱 すべき ものであります、 此の 期 問 は 聖徒が" ツキ ー 山 問の-原野に 人って 以 

二 〇 三 



二 OS; 

らい.." つ な ほど しんせい しゅくふく う せい しんじゃ-,, しん ぼ で 3 ゃゥ ♦ » 3 ゆけつ 

來 曾て 無き 程の 祌 i.- なる 祝福 を 受けて 精祌 上の 進歩が 出 來る樣 になった のみなら す 乂物 

しフじ やつ お r もっと ぜぃ K ヌ すなば でんしんお 上 てった う ふ ぜク ぼうえき やう とき 

上に 於ても 最も^ 大 とな. ました、 即ち 信 及び 錢道を 吸! _ -议 して 貿易す る樣 になった 時 

であ. - ます 

ん ねん いた あ ひお ふちん た けうく わい -,^ ぐ わい &ん た ん なんしん 

一 千 八 -c 五十 i^J^ よ .5 五十六 年に 至る 問の 浮沈の 爲め 敎會の 多くの 會員 は絕 えず 艱難 辛 

< C ひらう ^ おの おの ぎ む おこた § ゑ I- ん. S う うす な 

苦 める ので、 疲勞 しました、 之が 爲め 自づと 己が 義務 を 怠った、 故に 信仰が 蒲く 成つ 

お.,, .i くじ, ク う つみ ケ-か やう 乙れ せいと せんた 5- ふ し ぎ いっしゃ ゥ あ ひお すべ a- んじ やう 

て 道徳上の 罪 を 犯す 樣 にな 6 ました、 是 まて!!! ji 徒 全 體の不 m- ゎ議 なる 一 生の 總て の繁ハ や 

せ、, t う しん う 上 でさ せ ^"と し:?. うけう し ホきャ い 5 a たじ 上 

成功, V したの は 信仰に 因って 出來 たので ある、 51- 徒に とら C は 宗敎は 刺激 齊て あり、 又 助 

ご ,> ノ. 5- また, J itsw ^^^c これ^- <5 つみ を か i^^x f ズ 

者であった、 又 此の 通に 繼 續 しなければ ならぬ のです、 是 故に 罪 を 犯した る 者 及 ひ敛に 

頓着に なった 者の 信仰 を 恢,; 伋 させんと て 風 か, なと しました、 一 千 八 五十六 年 九 十五 

n おい お S, くわい か いしん うな S" うん ど-つ _ ば、 じ » ない にく ぐ. 55^ く け.,;:;^ い 

ケイス ゲヰル に 於ての 大 <1!: で 「改心 を 促す 運動」 が 始まって 内 M にも 外國 にも 敎, け 全 

おこ, * ねん はる なつ おはい ふん. e い もつ うんどう けい; V く ^ 

に 行 はれて、 一 千八白五十七^^^-の春と复まで大なる裔勵を以て滞ー勸を繼續しました :ム IH 

ところ かん 4 く せんけう し おもな ちゃうら うら じん 《i< . , ^わい a ん ノヤ /;!1た> f-i^ ひ iS i^^c^^,^ 

る處の 監^と 宜敎師 と 重立 り た 長老 等 は 化 I 力し ました ^貝 は悔 改めて 高慢と ほひ サ 『.1^ 

はぐたい じ やうお よ たうと くじ やう , ^ナっ そた す * へこ つみ や やう ん こく z> -、 L 

に 肉體上 及び 道惠 上の 不^なる こと、 其の 他 一 切の 罪 を 止める 樣 に勸吿 されました もれ 



ナベ 、-, - げん- -tj ん まヽ か み た せいやぐ さら た ふた ヽ. &み おんけい 力う む 、、で 

で總ての1|1!^徒は謙遞して前に神に立てた轉3約を更に立て、、 び 神の 恩惠を 蒙る こと 力 出 

き あ お 5 あるひ 乙 かいしん うなが うんどう くわ ど おこな い I , - ; X- W 

來 ました、 或る 事に 於て は 或は 此の 「改心,^ - 促す 運動」 を 過度に 行った 力 も 知れません 力 

た.. - ていかう. -っ くわ え i ごと ^5- しん な せいと みな,^/; ろよ ,にどお >. ^いさ 

Ife 好 Si 果を 得ました、 おし も 此の 如 さ 改心が 無かった ならば 勢 症 は 皆 快く は-移 節」 の 時 

に り た竊船 せなん だで あらつ し、 又 後の に 其 程に 盛大なる 進涉 を见 なんだ であら 

れん £ つ か た 5, せ- やう さいしょ かいて. & でんせん ふ せつ > で ぁぷ ,►、、,.,、 乙 A ひ 、 

一 千 八 百 五十八 年 八月 五 H 太 西洋の 最初の 海底 電線の 敷設 か 出來丄 6 ました 力 此日は 

の^おなる ひ 日であります、 "此の、 がよ 上 一一 t も 111 ケ". ^もぎぬ 2 に 一 千 A 百 六十 一 年 

ぷ .S ちゅうわ? わんつ うでん しんせん ,一 せつ; V,- .V め" ュ、 こ: >v"t- お,^ hp; ,^^^M^^^,^ 

十 Hi: 二十 wn: 中央 F 、通范 信 線の 敷設が 出來 上り まし. 此の^ 信紛 なる 飛^ 力 八 "衆 隆の中 

i を S つたの て、 ^す!?の^!^にぎける&話は即^^に太西洋の海岸に通ずる樣にな^-まし 

,:, >-L -.c と ち ばう っラ くわ 多 せ と ちょ せつ せんせ かい かう さい やう 

た、 ,g して ゥ』 が iil- 徒の 地方 を 通過し お 故に 聖徒 は 直接に 全世界と 交際す る樣 になり ました 

こ. fi- と しんじ せ、 はって. P しん "う せいと しんじ せい しょ じ ひ . Z 

S は^ 徒に- V-,- て I 時^ Isg- の 信 救て したが、 聖徒 は 新 時世に 處す るの 準備 をして 店 まし 

f うと ,, ザい へんせんお よ -H つたつ さい しょ りんき おうへん さ 5 と 

た 、「モルで ン」 敎徒 はだ, V 時世の 變遷 及び 發 達の 際に 處 する 臨機 應變 の才に 富む とい ふの 

<. くど ひ. ん た a さう こ とき のう: si く ^ -^^ 

は 度 も 評^の 種に なった のです、 而 して 此の 時に も 其の 能力の 偉大なる? -とを 一.^ しまし 

二 〇 五 



二 〇 六 

た 

どうじ なんぼく せん さう ないらん さかん おこな を こ ときた 5 'くわん ちゃう 

同時に 南北 戰爭 とい ふ 內亂が 盛に 行 はれて 居りました、 此の 時大 管 長 ブリガム、 ヤン 

M, つし ゆう,, J くとうば う ばつ さいしょ でんぼう じつ チぅと ハ か ち士 うじつ あきらか 

グが八 口 衆國^ 方へ 發した る は 取 初の 電報 は實に 「モ \ モ ン, ー敎 徒が 如何に 忠實 なる か を 明 に 

へう じ た ,て でんばり 乙 ヽろ やす ■ ■ けつ たつこく 

表示す るに 足るべき ものであります、 其の 電報 は 「心安 かれ、 ュ I タは决 して 脫國 する M 

な かつ われら うれ ぐに けんば ふお 上 ば ふリっ ゆうじつ 5 まな ほむ かし ごと 

と 無し、 曾て 我等が 嬉し か.? さ國の 憲法 及び 法律に 忠實 なること は今猶 昔の 如し」 と 

そ つぎ おい じ ゅぷ でんしん ぜん ぷ せつ ねん 

其の 次の 大事 業 はデゼ レ ト 電信 線 を 敷設した ことで ありました、 一 千 八 百 六十 五 年から 

ねん あ ひ けうと わ, つか f; んきん もつ マイル でんしん せん i せつ マイ^ 

六十 七 年までの 間に 「モ , モ ン」 敎徒は 僅少の 現金お 以て 五 百哩の 電信 線 を 敷設し.. し 一 哩は 

,ト 中 つ ひや それ し はう を せいと さい い まち あ ひたが ひ あ ひお けうく わい つかさら そつ 乙く 

百 五十 弗 を 費し ました、 其で 四方に 居る 聖徒の 最大なる 町 相互の 間 や 敎會の 司 等と 即刻に 

かう つう で き たけう くわい つかさら りゃう-ど いた と. ころ ぐんかい くわん こく すみやか あた で き 

交通が 出來 るし 又 敎<1: の 司 等が 領土の 到る 處へ 訓誡と 勸吿と を 速 に與 へる 乙と が 出來ま 

ねん けうぐ わい た これ もち そ としこ 4 ^い せい ぱ うでん しんぜん くみあ ひ 

した、 一 千 九 ぼ 年まで 敎 會は絕 えずに 之 を 用ね ましたが、 其の 年 之を大 なる 西方 電信 線 組合 

ラ わた 

に ら、 度し ました 

せいと す .Irfl とうへん り かく やつ を ため き めう たみみ な 

徒の 住める シォ ン は^ 邊と 千里 隔絕 して 居る 爲に 奇妙なる 民と 見做され.^ したが、 一 

ねん と は てった う で き あ S- けいし かう む せいと おいく わんち やう 乙 .a くせつ 

千 八 百 六十 八 年に 遠からず 鐵 道が 出來上 るので、 啓示 を 蒙. たる 聖徒の 大管 長 は 此の 隔絕 



會商同 共ン' オシ 




; セ^ち S どヽ み ぬ, や y いせいて きおよ しゃく わい;, -き ii」 いへんく わ おこ し 

力 直に 除 力る、 さ を 見拔い て 居りました、 財政 的 及び 祉會 的大變 化が 起る と 知った ので、 

せいと かん くわへ い リ うし ゆつ か ま たぼうえ き お. & しゅけん せ;" と » もた た 

tt 徒 間より 貨 Is の 流出す る を 防ぎ、 且又 賀 易に 於ての 主 描 を 聖徒に 保有せ ん爲め 「.ir^ 

V^AV よろ み, つか しゃう じゅうじ &ぃ くわん ちゃ ゥ ま- ク も ご き 上ゥど 5 

の 人, I- は 宜しく 自ら 商樂 に從 事すべし」 と大管 長 ヤングが 申しました、 其の後 シ オン 共同 

しゃう くわい *y しき ん はに め ごろし やう ゆ ふ じゅうじ ば じ たいてい まち し て^ 

商 會 を 組織して 一 千 八 百 六十 九 年の 初 頃 商業に 從 事し 始めました、 .K 抵の 町に 支店が 

そ おは あ 2 ひ ば さん あるひ そ ゆ ふや しか がいしゃ うぐ わ ハ じんみん 

あらました が、 其の 多く は 或は 破産し、 或は 其の 業を已 めました、 然れ ども 該商 會:^ 人民に 

お ほ い 9 えき あた さう ゐ い 乙ん はち 乙 しゃう くわ ハ し てレ 

大 なる 利益 を與 へたに 相違がない と 謂 はね はなり ません、 今日で も 此の 商 會 の 支 1:^5 がせ- 

ほんてん じつ き 上たい ぼうえき を さつ ナ うと ん ざ、, はんべい 

六 も あらます、 本店 は I 貝に 巨大の 賀易 をして 居る、 而 して 「モル モン」 敎 徒の 現在の 藩屏で 

X くら ゐ こ しゃう くわい せいと おんたい ゐ お ちから 

あると いふても 好い 位です、 此の 商 會は塗 徒, V 二 つの 阁體 として 維持す るに 犬なる 力で あ 

ぜ けん おい ざいせい てきせいり 上く た A m すべて ぶっぴん ていか . 

つて, 世 問に 於て 財政 的 勢力, W 保た しめ、 ュ-タ で 一切の 物品の 定惯を 一つに して, Tl^^ 

け S ざ 5- かい おちつ たみ じこ し 9 上ぐ うん 上う またせい と しゃぐ わいて きび やう どう おまい は ご 

の 經濟界 を 落着け、 E に 自己の 資力,^ - 運用せ しめ、 又 塗 徒の 社會的 le- 等お 大に 保護して 

ります 

ねん ゆつ か tj- ゆうわう くわん つうて つおう てった- ゥ In 

一千 八 六十 九 年 三 d: 八日 中央 貫通 鐡 道なる ュ 一一 アン、 パンフ ヰク鐡 道が サル ト、 レ 

ゆん や で き あが か I い ハ なくし-や き ばう およ さい さい せいぐ わん かな 

1 キ 原野 で出來 上りました、 期くて ュ -タ 開拓者の 希望 及び 再三再四の 請願が 叶 ふたの 

二 〇 七 ■ 



二 〇 八 . 

"いたぐ しゃ せいぐ わん Z き i おい じ ゆ ふ おし A- れ しう Jf< ん , * I , 

であるが 開拓者の 謂 願の みが 此の 巨大なる 事業 を 起させて 其 を 周旋した のて はない - モル 

チ うと じ ヽん ナ SaJ ぐ うへ し そ みち いいさく さう グ ゥ とう 

乇 ン敎徒 自身 は ェ コ溪 谷の 上から オグデン 市まで 其の 道 を 開鑿し ました、 而 して 鐵 道の 束 

ぶ なん マイ 1 a- や ほ かう ぐ わう や みちと ほ: 、 *; 二 のし-、、 ^-^u I t i 

部 は 何百 哩も 開拓者の せ 行した 瞎 野の 道 を 通って 行く ので ある, 前に 述べた 大事の 日に ォ 

し あ; i r ひとん.,、 てつ s す-... H きしゃ "か ,. I な,, ん ff" ぺ う ^^^.-^ 

グデン 市に 集って 居った 多勢の 人々 は 鐵馬郎 ち汽草 に 向って 1 ュ -タは 汝鐵道 を歡迎 す」 

W た ち S うわう,. - わんつ う fcv いてった う ぷ せつ しゅく さけ - どうね ス ,4 つ , . ^ 

と、 又 「中央 貫通 大鐵 道の 敷設 を 祝す」 と 叫びました 同年 五月 寸 七日 ォク テン 市より 

i ち-? うわうて つおう ふせつ はじ ねん ゆつ かで き あが 

サ〃 ト、 レ 1 キ 市まで,, rrH,^"*- 央鐡道 を 敷設し 始め、 ; 千 A 西 七十 年 一 月寸 日に 出來 上ら 

t れ こと/ c>- けうと じゅふ そ ご a/ -け つ I 

ました、 是は 悉く 「乇 尺 モ ン」 敎 徒の 事業で ありました、 其の後 一 千 八- n 七十 一 年 五 =:: ュ - 

I, な; >ぶ て ヮ たう どう ュん 卞 つ- 1 - ま「くタ てつおう ふ せつ はじ 1 - ほくぶ てった う いま 

^南都 鐵道、 同年 九月 ュ I タ 北部 鐵道を 敷設し 始めました が、 ュ 1 タ 北部 鐵道は 今はォ レ 

てった う しょいう 

ゴン、 ;ンョ I ト、 ライン 鐵 道の 所有に な. まし .5^。 

そ あ ひた-し, 刀う せんけう し ぐ わい 乙く つかば ひ-たくに. おは い みん; = き 

其の 間 始終 宣敎師 は 外國に 遣され ました、 又國々 よ 6 多くの 移民が ュ I タ へ來 ました 力 

ねん, ( V せ <, と こ. si ら むか とうひ »tl ほ しゃ いく も 力 は ゆ • 

年 々 に 聖徒が 此等 を迎 へに 二 頭 挽の 馬車 を 幾 百 も 持 つて ミス ゥリ 河へ 行き ましたの て あ 

/0 いみんた め じん 乙う し *l-:?vr-i を お ほ ちたら し 上 ぐみんち、, で 1* ' > » *5 :々 

る、 此の 移民の 爲に 人口が 始終 兢 えて 居 6 ました、 多くの 新し ヒ -tg 民 地が出 來 した 聖 

と きん ナん し. t ^つせ い X ^== ぐゎラ むち ゆたか ち ばう せい お 一 はたら 

徒の 勤儉と 出糈 とに 因らまして ュ. 'タ の 荒蕪地が 豐 なる 地方と ならました, 精 を 出して 耀 



のうふ みち, ひ S ラかラ か 《- ラ S かゆ ラ stt ひ <i£ ん じク i{ た ttw 

いたる 農夫に 導かれた 有効の 河流の 庇薩 で、 濶 なき 平原 は 實に靑 々としたる 田畑と な ゥ た 

へいわ ■ _ さんちゅう あ MSJ じゅうまん Z ども かいたくしゃ じつれ き 巧ん あいち やう 

のであります、 卒 和はシ オンの 山中に 普く 充滿 しました、 子供が 開拓者の 實歷談 を 愛聽し 

かんしん ハた と 乙ろ がくかぅ^^ょ くわいおう すみ や でき ひ t ろ 乙 えう は ん せう ねん がく かラ 

て 感心し ました、 到る 處に學 校 及び 會 堂が 速 かに 出 來て日 に 喜ぶ 幼年と 少年と は學 校に 

ゆ か み おんけ 5 し かた じげ おも たみ くわ いおう い せ^れ. & みた かみ しもべ せっけう ゥ や,, 1\ 

行き、 神の 恩惠を 知って 忝な く 思 ふ 民は會 堂に入ら、 聖 靈に満 された る 神の 僕の 說敎 を恭 

き せいと すな は か み せんみん てお リ そまつ いぶく s か Z- まん Jvf- 

しく 聽ぃ たのであります、 聖徒 即ち 神の 選: は 手織の 粗末なる 衣服 を 着た に拘 はらず 満足 

かんしゃ 3 ごヽろ かみ I お. 4- せ ^上く こうとく ひと v^- 

を 感謝して 眞 心に 神 を 畏れ、 正 s、 厚德 なる 人. I- でありました。 

ねん れん 5- ゃラど あ ち はう ぼった がいち う た おはい こま た • ひ, (乙 

* 1 千 八 百 六十 七 年 i リ七 4- 三 四 年 まて 領土の 或ろ 地方 は 螳 とい ふ 害 の爲 め、 大 L1 困り ましれ、 度々 此の 

がいち ゆ- ク いくねん つ いっさい さぐ もつ く つ-く 

害 蟲 は 幾年 も續 いて 一 切の 作物 か <J ひ盡 しれの ,てあります 

ゆ, いっかく わい すな は ねん ねん W 'やう ど なんぶ お どじんせ.^ さラ 

X 唯一の 格外 なること は 即 ち 一 千 八 百 六十 六 年と 六十 七 年 領 土の 南部に 於け ろプ ラック、 ハ I ク 土人 戦爭 

た 5- しゃう みん y もつ 上 はたら せいと まち る.^ ん は ご 

て ありました、 大 將 f ァ l、H チ、 ゥ H ル. スはュ —タ 民兵 1^ 以て 善く 働 き 聖徒の 町.^ 遗 なく 保 謹し ましれ。 

ねん おいく わ い;^ う タパ 子ク ふしん ほと で き あ ゆつ けうく わい たいく わい 

十一 千パ百 六十 七 年 &ト、 レ ー キ大會 堂 (幕 殿) の 蒈請は 殆んど 出來上 つれの て、 十 刀 敎會の 大 <PI が 

うち ひら そさい えら しと や <y ん 

其の 内て 開かれました、 其の 際 LL ク ヨセフ、 H フ、 ス ミスば 選ばれて 使徒の 役に 任じられました。 

しんぶん ねん ゆつ tt じ K つ. a, ん しんおん はっかう 乙れ S ん 

「デ せ レト新 g」 は 一 千 八 百 六十 七 年 十 一 月始めて B 刊 新 ^として 發 行せられ ましたが、 之 は 一 千 八 百 五十 年 

ゆつ ssfs- しう <ゎぃ a,^ ゆつ か しう くわい なつ. S ク 

六月 十五 日 より 一週 LL 一 一 千 八 百 六十 五 年 十=: 八 n より 一 週 に 二回 發 行 せられた のて あります 

C ん i つ はち しん.; < "ん a じ ばつ かう どゥ 3 ん けつ か 

一 千 八 百 七十 年 1. 月 1 B r ォクデ X、 ジャンク ショ ン」 (新 は 始めて 發 行され た、 同年 六月 六日 r サル ト、. 

二 〇 九 



二 I〇 

はっかん しんぶん ばつ かう どう-れん ゆつ すなば のち 

レ ー キ 日刊 へ ラシド」 (新^〕 は發 行せられ、 同年 一刀 「モ^ モ ン」 即ち 後に 「サ^ト、 レ -キ 、トリ ビ H ン」 と 

しんぶん は!: はっかう 

ぃふ新聞は始.5て發行されまし^^0 

たい しゃう ぐわん リ せいと 乙ゥ ゆき — せハち リ上 かつ 

第 十一 一章 官吏の 聖徒 攻擊、 パレス テ ン 聖地へ の 旅行、 

さう ご はったつけ ふぐ わい け-ついく おいく わんち やう せい き 上 

相互 發達 協會、 敎育、 大 管長 ャレグ の 逝去 

せいと り えき べん; ばか た またせい と どん 上く しゃう^ん は ご ため おいく わんち やう 1 

聖徒の 利益と 便宜 を 謀らん が 爲め又 聖徒 を貪愁 なる 商人 よら 保護 せんが 爲に大 管 長ャ 

ちう ち i じつけ ふてき はう しん さた そ けつぐ わ さ 上う どク 

ングは 躊躇な く赏業 的 方針なる もの を 定めた ので あ ftN まし. $^、 其の 結 * として シ ォ ン 共同 

しゃう くわい そ しき てった う ュ せつ, そ た し s*i>aj ゆ,^ いた ぷ (いな 

商 會 を 組織し、 鐵道を 敷設し、 其の 他稱々 起業 を 致し まし. を? -て 不平 を 鳴らして ね. {ii 

あ しゃう れん たいぐわん ちゃう ぱんた 5 けうぐ わい さ ぶんば お 乙 

或る 「モ , モ ン」 商. < は 大管 長 ヤン グ に反對 して 敎會を 去って 一 つの 分派 を 起しました、 

:S ゑ けうく わい はう ち < おは ひ しんと これら もの か せい けうく わい そ 

故、 敎會 よも 放逐され ました、 多くの 非 信徒 は此 等の 若に 加勢して 「モ 产 モ ン」 敎會と 其の 

つかさら たい お ほい さう とう はんたい お t ねん ^J ばんたい しゃ じ いう 

司 等に 對 して 大 なる 爭鬪と 反 對とを 起し. ので ある、 一 千 八 百 七十 年に 此の 反 對老は 自由 

たう さう りつ そ し es- やうら れゐ いつ もぐて a- おうじ くわん し 上く ク すぺ 

黨を 創立し ました、 其の 首 額 等の 唯一 の 目的 は當 時、 官職に 就いて をる 總 ての 「乇 A モン」 

けうと < わんる K りゃう ど お せい; - てきしゅ けん うば Z せいた う み, つか リ やう 

敎 徒の 官位 を褫 いで 領土に 於け る 政, 治 的主權 ふ とで あ もまし^、 此の 政黨は 自ら 額 



ど を さ で ac かなら た ふ けっしん それ §55 せいや てきみ & 

土 を 治める とが 出來 ぬなら ば 必ず 之 を 倒さう と决 心した のです、 其 故に 政治的 爭 

そ ひ れきしち かう ほと ひ る&な む し; 3 ぎ はんたい いた 

權 の歷史 中に 殆スど 比 額 無き 無. Hi 義の 反對を 致しました。 

Z 上 乙し ま せいや" か ふ f ざん ゆん よ ^;-ん乙ぐみん ゆき どう おいと クリ やう 

此の 邪なる 政治家の 誣告と 讒言と に 因りて 全 國民は 激動し ました、 大統 1则 ユリス ス、 ェ 

- せん^^-ぃとぅリゃぅ , せいりゃく す けう はんたいしゃ 31 上 

ス、 グラ ン トは 前大統領 ュ ブラ ハム、 リン コ I ン の 政略 を 捨て、 一 モル モ ン」 敎反對 者の 虛 

せつ 上 <ん ば けうぐ わい はんたい けっしん 乙 はんた 5 ち 5っ わ-つせ いふ ば けん 

說に 因. 9 て 偏頗に も敎八 n に 反 劉す る 7- とに 决 心しました、 此の 反對は 中央政府の 派遣した 

ず 吏 を てす るので あ 6 ました、 其の 官吏の 中ュ I タ" に 於け る 「モ ^ モ ン」 敎<^ の 反 對者中 

もっと けっしん つ 上 ちじ さい ぼんち やつ 

最も决心の强きは知*^^ジ ュ、 クヰル ソン、 シ ャファ I と 裁 剩長ジ H ムス、 ビ ー、 マッキ I 

-1 かれら そ へんくつ しめい ゐ かん せいこう た 1: つし ゆう. こくぜい, - 

ン でありました、 彼等 をして 其の 偏屈なる 使命 を遺械 なく 成功せ しめん 爲め 合衆國 政府 は 

、 <i りょく ■ つかば ち じ す 乙 あ ひお つと し ,y 

兵力 をュ 1 タに逍 し. ので あり-^ す、 知 寧 シ ャ フ ァ I は 少しの 問 務めて 死にました が、 其の 

乙う y ん しゃ . あつり てき はう しん けいそく ばんちゃう 1 1 . さい ぼんじ やう ぜんわうて きお. こ 

後任 者 は シャフ ァ.' の 厥 利 的 方針 を繼 if しました、 裁判長 マ ツキ,' ンは裁 ゆ 上の 專橫的 行 

な ひ „p つ リ やう どみんべ. & ま „J つ .£ いさん おのれ どうし 上く しゃ せ 5i て 3 たい しん 

爲を 以て 領土 兵 を先づ 以て 解散した ので あ 5、 もこで 己 も 同職 者 も 聖徒に 敬對 される 心 

^ti い なほい つそう ほしい ま ヽ かれら 乙 3 で き おのれし, M く 

配が なくして 尙 一 層 擅 に 彼等 を 困らせる ことが 出來 ました、 かくて マ ツキ- ンは 己の 職 

む ^-^ ちじ. M< あた かれ はんめい せ 5- ふ そ む ぶんべつ あっせいてきお 乙な ひ もく さよ 

務に大 なる 耻辱 を與 へたので、 彼 を 任命した 政府 は 其の 無分別て^ 制 的 行 爲を默 許す る 乙 



でき .2- れ めんし 上く 

とが 出來な い で 彼 を 1®^ 職し ました 

e あ ひも た.; ぐわん ちゃう た た けう..".;; い お おも ひと-. しぼく ほ ぼく さい ぼんし 上 t 

其の 問に 大管 1^^ ャ ング 其の 他 敎會に 於け る 重立った 人 は屢 捕縛され て 裁判所の 無 

ば ふ てつ き たい おのれ ぺんご ぼくたい a- ん せん つ ひや まこと ひじ やう めか わく , 

法なる 手 續に變 し 己を辨 護す るた めに 莫大なる 金錢を 費して 誠に 非常なる 迷惑 をした のて 

あ. 9 ます 

AJ ばんた ひ めいわく けうく わい さ せう ゆるぎ す 乙 おとろ しi^-みス 

此の 反^し.. 迷惑と に拘 はらず 敎會は 些少の 動搖 もな く 少しも 衰 へずして、 殖 K する 己と 

はじきました、 一 千 八 百 七十 三年 力 を 込めて^ リ„ ^ソ ちに If 民 地 を 設けて 町 を 建設 せんとし 

ゆつ か お ま Mmm しょくみん しゃ . し あつ しュ くみん わん 

ました、 三月 八日 多くの ュ 1 タの 民 者はサ ル ト、. レ !■ キ市に 集まって. する ことに 關 

K-fx^^^J - しゅ- をし こ し 上 くみんし や さ いしょ しつ ; こ ノ>^'- 

して 大管 長 ャ ング から 種 々敎 へられました. 此の 1i 民 者 は 最初に 失敗し ました か 此の 不 

■ h-,..„ ナぃ, 广ん ゥゃ せい 乙う み むす さう 5> ま やう ど r . せいと: は ひじ やう 

も, 尾が 經廢 となって 漸く 成功と い ふ實を 結び まし.? -、 而 して 今 領土 ァリゾ ナ に 聖徒の 繁昌 

する 町が 多く あるので す 

其の 前の 年 ( 一 千 八 百 七十 二 年) 十月 十四日 副 管 長 ジ ョ ペチ、 ェ、 ス ミ スは. ハレ ステ 

1 1 0^ たび レ.- ち ぁ^^る やつ か おのれ とも し 上 かんらん ざん のぼ しんせい し "くわい 

1^ へ 向って 旅立して 翌三^ 二日に 己の 伴と 一 緒に 橄欖 山に 登って 神聖なる 集^ をし まし 

き たう もつ —— 國 ち じん しふ? !ぷ ところ また ふた、 r し 

た、 をして 祈禱を てパ レス テン の 地 を ュ ダ ャ 人の 集き すべ き 所, 又 再び H ルサレ ム市 を 



けんぜつ と 乙ろ あ .A ぐ /'わんち やう 1 き こく ん はゥ にち nun 

建設すべき 所に 當 てました、 副 管 長 ス ミス は歸國 して 一 千 八 百 七十 三年 六月 十八 日に サ 

し たうち やぐ "ん ゆつ ^ち し 

ルト、 レ f キ 市に 到着して 一千 八 な 七十 五 年 五月 一日 死に^した。 

たいくわん ちう ふく ゝ わんち やう ふぐ ゝ わんち やう て 5" み よ いば 

* 大^ 長ブ リザム ヤングと 副 管 長 ダニ H ^、 H チ、 ゥ H ルス は 副 長ス ミス に 信書.^ 寄せて 曰く 

わ. d ら じん てんぶ ぎょい と S たよ ゆん じつ £ ん やうし, H が.^ まへ t じ §ん びた め もぐ か MH 

「我等 は ユダヤ人が 天父の 御意.^? げ、 X 預言が 實 現さる V 樣、 雄 合すろ 前、 其の 準 備の爲 に 足下が バ レス テ>v 

ちゃく ^^ちがぃちばぅ ゆたか ち はう やう そち てんぶ く せんじ ゆ それ てんしゅ みこ Z- ろ まか にが 

に 着し れ後該 地方が 豐 なろ 地方と なる 様に 其の 地に 天福 1^ 宣授 し、 其 1^ 天主の 御 心に 任ぜる こと.^ 願 ふ」 と 

^ん ねん ァ メリ 力 どじん ? -., ^いん ひろ さう = 

一 千 八 百 七十 四 年と 七十 五 年 亞米利 加 土人に 福音 を擴 める? - とが ありました, 而 して ト 

郡と セィ ン ト、 ジ ョ 1 ルデ 町な どの 所て 幾 百 人 も 福音 を 信じて 入會 しました、 レ F ン 

じん ど じん い ゥ しんけんしゃ かみ おきて したが けっこんし; w はじ しっかう もら 

人 (土人) が 有神權 者より .「w の 律法に 從 ひたる 結婚式 を 始めて 執行して 貰った の は 一 千 八 

百 七十 五 年 一 月て あ. 9 ました 

ねん なつと しわい つじつ せいと たんし さう ご はったつけ ふく わい およ でよ し さう ご ばったつ け ふく わい さう リク 

1 千 八 百 七十 五 年の 夏 年若き 末日 聖徒の 男子 相互 發達 協會 及び 女子 相互 發達 協會が 創立 

ねん のち ねん f: つ そ きくわん ざっし , - ぶじ 

されました、 四 年の 後 一 千 八 百 七十 九 年 十月 其の 機關雜 誌なる コ ン トリ ビ ュ ト I 〃 か 始め 

ばつ かう こ ぐ わ 5& ん けうと たんし "上し いく, はん 

て發 行され ました、 此の 會員は 「モ \ モ ン」 敎 徒の 男子と 女子と てあつて 幾 万人 も あ fe^ ま 

ねん M . し たい ぶ ちゃうら う 1 

す、 一千 八 百 四十 九 年サ〃 ト、 レ I キ 市の 第 十四, ソヮ I ド 部で、 長老 リ" チヤ 1 ド、 バラ 

二 一 三 



Inlll はちえ う;?; ぐ. ラ ,て しき けうく わいち ゆう い さかん たう じ ほと はん ばち 

ン タイン は n 曜學校 を 組織し ましたが、 敎 會 中に 愈 盛に なって 當 時に 殆んど 三 万人の 日 

えう がく かう せ S と もちろん ふ つう けラ いく ぜぃ;^-ぃ いた と 乙ろ しょ ぐみんち ちゃう そん 

曜學校 生徒が ありました、 勿論:^ a 通の 敎育も 盛大て あ. 5 ました、 到る 處の 民 地 や 町村に 

5 っぽん し てい まな く.^ う ほこ さう 乙 が く かう 3=== どう ひんれ 5 

は 一 般の 子弟の 學 ばる k 學 校の ある こと を 誇らました、 而 して 此の 學校は ュ , "タと 同年 齡 

しう リ やう ど M- ぐ かう ひ かく た がぐ かう i 

の 州 や 領土の 學 校に 比較す るに 足る 學 校て ありました、 ブリガム、 ャ ング氏 は 一 千 八 百 七 

ねん ゆつ はち - し かう とラ がく. S- う せつ 《- つ ;; 3 ん 

十五 年 十月 十六 日プ a T ゲヲ 市で ブリガム、 ヤング 高等 學校を 設立し、 一千 八 百 七十 七 年 

ゆつ- か —— I か? とうが ぐるん せつ リっ K> たう じ 

七月 二十四日 P I, カン 市で プリ、、 カム、 ャ ング 高等 學院を 設立し ました、 此の 當 時に 一 千 八 

ひん ゆつ はち かいかう ない がく かう せいき やう けうく わい っ^!さら T 

百 五十 年 十 一 月 十 一 日に 開校され たデゼ レ ト大學 校 も 盛 て ありました、 敎會の 司 等 は 何 

つ ま 乙と がぐ もん けうい く た 5 さんせいしゃ S たぜいと たいた すう つかさら し v~ ク た はゥ しん 

時 も 眞の學 問と 敎 育との 大 賛成者であって、 亦 聖徒の 大多數 は 司 等の 施設と 其の 方針と を 

つ しん さんせい は じょ モ けつぐ わ おいせ いはう しう y やう ど うち けうい ぐ じ やう しん 

熱心に 賛成し、 铺 助した のです、 其の 結果 ュ f タは大 西方の 州と 領士 との 中で 敎育 上の 進 

ぼ お c- おい 

步に 於て は 第 一 となって を, 5 ます。 

はっき ざっし ねんかん けいぞく 

?シ 1 二 ァス、 エフ、 ゥ H ル スの發 起しれ る コント リビュ ト-ル とい ふ 雜誌は 十七 年間 繼 續 しました が、 一 千 八 

ねん ゆつ はち, V ばつ. f うし やし 上 5 うし や し と し それ ゑ す こ 力ち そ 

百 九十 六 年 七月 ャ 九日 其の Sg$ 行者 所有者 なる 使徒 H -、 H チ、 カノ ンは 死に ましれ、 其 故に 少しの 後に 其の 

ば つかう かな ねん ゆ つ はち おんし さう ご はったつけ ふ < わい きぐわん 

^§{行はゃみましれ、 コント" ピュト -ル の代リ LL 一千 八 百 九 t 七 年 十 一月 一日 男子 相互 達 協會 の機關 

ざっし ばつお つじたい a じ K つかう れんな よし さう ごばった つけ ふ わ-^ きくわん ざっし ふ^?上 

雜誌 なろ 「^達 時代」 が 始めて^ 行され ましれ、 一 千 八 百 八十 九 年 女 子 相互 發達協 會 の機關 雑誌な ろ 「婦女 



校學 等,; S ス "'メリ 校學等 rfS ズレ" 



堂 講ニ第 同 堂 講三第 同 







み 通 < 







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本 





堂 まさ 




館 念 はじ ク' ンャ、 ムが リ プ學大 徒 聖日 末 






飽馨商 同 



it 1、 ッ ゾ パ InJ 



ず 7 ン ば じ a ク.? 'ラ かくの ごと これら はふく わい さ ラはラ を r^^. ,.?^^*ぃぅ: ^ i 、-ニ 1-|1、1 

II」 は 1 めて されました、 如 此 此 等の 協 會 は 双方と も 其の 雑誌.^ 所有して 居ります 一 千 八 百 六 4- 

1 . -" P 7> ら t, >-^^んら/^ぅ えう ねんけ うし W ちえう がく かう きくわん ざっし, ほっき , 

六!. んー 1^ pi ジ ョルゲ f 、カノン は 「幼年の 敎師」 なる = 曜 學 校の 機 關 雜 sl^^ 起しえ し 

乙ん W ち K ちえう: t く かう 乙れ し t, いう- , . 1 

た、 今日の 日曜 學校は 之.^ 所有して. ^ります 

-c- うざつ し T- ん - かい V ^わい ぼん こく は ん くわ 5 お くしう か-ぐ リ— ラ w.c^ 

x「i lri"i」 は 一 千 八 百 九十 三年 市 V 、開 會 したろ 萬 國 博 g は 一 會 に 於け ろ 各 州と 各領 ± との學 校 

ン A つ 5- ん くわん .-H ^ ど <さ うて. 3 およ .y こうぜき や ^^^^]^^. un.L 

^お "く して g^a く 「せ ハの獨 創 的な ろ: と 及び 其の 功 緩 あろ: とに 於て は の 州と g 土の 巾て ュ ー タは 

なる. S .5、 a ち s チリ やく せいぶさん みゃくうち おい た ち はう も_^,と せ: ん J 力う , 

Ss 二 兄つ の < あろ、 —中 略 —西部 山脈の, 妊に 於て は 他の 地方の 最 も 善 n なろ 敎靑 方法.^ 

ノウ t?rf C ゥ-ん tc- 乙れ おまい そ と *^ ひと ^ とくし! S >J んき X せい 乙う , I 

i_ ぐべき^ の もの.^ f 兀& しつ- - あろが、 之 は.^ に 其の 土地の人々 の 特種な ろ 根氣に 依りて 成功し.^ のて あ 

ります」 と o 

き膨を 14 まする こと は i, 進 t 仃し ました、 一 千 八 百 七十 七 年 四月 六日から A 日まで セィ 

II 3 ち ひら うく わい たいく わい , ^-^ -^^ > ハん "ば ひ - 3tl 

ント、 ジョ -ルヂ 町で 開かれた る 敎會の 大會て セイント ジョ I ル チ, &殿を f 殿して ブ日 

£3ハ のおで I 々の % 式 を 執行し ました、 同月 二十 五日 マン タイ 神殿の 位置 を、 又 五月 十八 日 

H I U しんてん 10 ち , 3 

に P 1、 ガン 神殿の 位置 を 成聖し 4 ^のであります 

,, -ん .,i つ . かく ぶ. V しき くわん ゆん いう.^ ん けん 丄ゃ I l;-.^t<3 ュ,. ; わい 

一 千 八 百 七十 七: si- の 夏に の^ ス テ-キ 部の 龃織を 完全に し、 有; 1: 權^ の 定員 會を 

Kg し、 li^ よ. oiil された る^. i お^の^!? お 1^ したので す、 の 建 る.^ 

Z よろこ 《 ^ら 3 おのれ 5 つし ゃゥ がい さいご つきひ め;.; , ノ > -コ 

カム、 ヤン グは 此の 悅ば しき 働 をして 己の 一 生涯の 最後の 月日 を 送らました C 

二 一 五 



ニニ ハ 

"ん £ク はちたい くわ ムち やう 1 . . — . f おのれ か f しんいう し. * ぐれ、, 

一千 八 百 七十 七 年 八月 二十 丸日大 管長 プリ ガム、 ヤング は 己の 家族と 親友の 集會 せる 

なか もっと お やか えいみん つ せいと せんたい あいたう r 

中て 最も 靜穩に 永眠に 就きました、 聖徒 全體は 哀悼した ので あり-ます、 ブリ, カム、 ヤング 

ねん 力ん t いと つ 力 さ ぐんた うし や せいと し た.;, き 上 とき か. ら みら ぴ 

は 三十 三年 間 聖徒の 司と P 導 者で あ もました"、 聖徒が ナ-ゲ ク市を 退去した 時、 彼等 を 導 

アメリカ さ ぱく し よ くみん じ け ュ まこと ; \c ん せい もっと さうたい じゅぶ み 

S て 亞米利 加の 沙漠に ま 民した 事業 は洵に 近世の 最も 壯大 なる 事業の 一 つと 見做され るに 

違 は あ. 5 ません、 ブリガム、 ヤング 氏 は實に 十九 世紀の 豪傑の 一人て あらました。 



第五 篇 

00 きおより 現在 ま て の 事件 

(自 一 千 八 百 七十 七 年 至 一 千 九 百 六 年) 

iliST ^rvT^I^^^^?; 管長に 選定 せらる、 敎 會の银 

リっ ねん き ねん さい 

立 五十 年 記念祭 

けんく ケゅ" の K は が^んだ i 「モ レノ モン」 チ欽會 が 必ず 倒れる と 幾度 も豫 言し ま 

し^ f ながら ii.. なく まが^の 1 M あ S ま i お f あぎた ものて なく、 

力お り i ず こも あ, つい て 、 キリスト が のす i& て あると いふ 乙 とが 却 つて 明白に 了解され たので 

It^ C ilv I メ む.! ン つ-、,、 ,"ち. う ,レご 

ある、 し 市で f ,:s どる i ぎ めら れ ました、 ガ 管 長 ヤングの 死後 

t て、. K1 んく わい とも けうく わ 5 つかさど けん,? \>J、 

は 十二 &と 徒れ Irfe;- るグ ョ ン、 ティ ラ I がせ; の 定員 會 とせ ハ に敎會 を 司る 權威 ある ス てした 

1 X 百. V 十. 十 i< ちの i 四十 Afisv きは續 さして 此の 賓き 敎會 

のく isr をず る f S めました \ 此の さ I にせき は ii の 1 の 職務の I を S 役 

二 1 七 



二 一 八 

ばん じゅんじ 上 さんせい さいしょ けうぐ わい 3 うしん けんしゃ かぐて ぃ&ん くわ S さいじ やう ぃラ はんしゃ くわい さいか 

人の 順序に 贊 成しました、 最初に 敎會の 存神權 者の^ 定員 會は 最上の 存 權者會 より 最下の 

いう けんしゃぐ わい じゅん/ * たちあ みぎ て あ けうく わい かんぶ やく はん げ 5; てく さんぜい さう 

^權 者會 まで、 順-々 に 立 上って 右の 手 を舉げ て敎會 幹部の 役人の 繼續を 養成し ました、 而 

をぽリ しふぐ わい せんたい たちあが き 上し ゆ もつ 乙 やくにん けい; V く けつ せいと f:f ん 

して 終に 集, 全 體は立 上って 擧手を 以て 此の 役人 を繼續 する N- とに 决 しました、 聖徒が 滿 

で やう 5 つち けうぐ ゎぃ かなら た ふ ん てう むし せ と あらた ちから え けうぐ わい そ 

場 一 致した の は、 敎會が 必ず 倒れる 前兆と いふよ らも、 寧る 1! 徒が 新に 力 を 得て 敎會と 其 

はう 《- ちう ちょ しん うたが しめ 

の 敎理と を 躊躇な く 信じて 疑 はぬ とい ふこと を 示す 乙 とで あ ft- ました、 し 

これ "ん のちすな は ん ゆつ け 5 くわい お S くわ 5- け うぐ わ いれ a- しち ゆ おい おい ぐ わ. 5-め ぐわん 

之より 三年の 後 即ち 一 千 八 百 八十 年 十月 敎會 の大 會て敎 會歷史 中に 於て 第三 回目なる 管 

ちゃうく わ 5" そ しき おいぐ わんち やう . - 

長 會 は 組織され ました, ジョン、 ーズィ ラ ー は大 管長に、 ジョ ルヂ、 キュ、 カノン とジ ョ 

そ 乙 もん せんてい たう じ さ i, 

セフ、 H フ、 ス ミス は 其の 顧問に 選定され ました、 當時 ジョン、 タィラ ーは七十ニ^;成でし 

かれ C ん はつ ち 》! いこく =: う a ai ん I おい 

た、 彼 は 一 千 八 百 八 年 十 一 月 一 日英 國ミ , ン ソル プに 生れ、 一 千 八 百 三十 六 年 カナダに 於 

fJ けうく わ 5 ? V く ねん の^けい し よ しと^ん せん はう し えいこく 

て 斯の敎 會に屬 し、 二 年の 後 啓示に 依りて 使徒に 任ぜられました、 宣敎師 として は 英國と 

ふ つ 乙く ? 一 くに でんた うじ f: ふ かいし ど いっとく がっし ゆう-こく しゃ いで でんおう 

佛國 (此の 國 にも 傳道 事業 を 開始した ので ある) と 獨逸國 と 合 衆國の 州々 に 出て 傳道 をし 

を あ ひお お ほい ちょじゅつ じ えいこく のぞ くおん くお 》c\ けうく わ S しんぶん 〈ん しう 

ました、 其の 間大に 著述の 事業 をし ました、 英國を 除いて 件の 國々 で 敎會の 新聞 を 編輯し、 

けいてん ふつご ど いつ ご ほんやく かんとく また そ おうじ およ そ ご たいせつ けう 

乇 \ モン 經典 を佛 語と 獨逸 語に 翻譯 する M と を 監督し、 又 其の 當時 及び 其の後 大切なる 敎 



を 十し 貧き ま長ミ m ィ 
其 を 八て しし テ j のス 

の 弗. はきた ィ 影 ま ラ 

貧き は 殘 2 債ミ 、 ラ 響 I - 
し m のり 務む 此こ 1 をう ノレ 



し 上もク tt^^ 



ゆん し々 



しんい ラ 



じゅん は 5 とき 



理の寄 物 を發 行し ました、 何時も 預言者 ス ミ ス の 親友であって、 ス ミ ス 氏の 殉敎の 時に テ 



おんぐ わん あた 



おのれ ち 



〕§ん けうし や 



すべ 



ラ ! 氏も彈 丸に 中って 己の 血を殉 敎者ス ミ ス の 血と 浪ぜ たのであります、 聖徒の 總 ての 旅 



かう おい 



w た 



:: さん お 



ノレ *< お. $ つ 2 



かれ おのれ, 



行に 於て、 又&ッ キ- 山に 於け る 住所に 於て 常に 屈指の 人物でした、 聖徒 は 彼 を 己 等の 「自 

5, う しゅち やうし や みと 乙 と- かれ しん 上う 

由の 主張者」 と 認めて 悉く 彼 を 信用し ました 



はん しんじゃ あつ 3 ほつ じつせ 5 と ィヹス キリ ストけ 5 くわ 5 



ねん 



紐 育 州で 六 人の 信者が 集って 末日 聖徒 耶穌 基督 敎 きを 創立して から 最早 五, 十 年に な. 



むかし ごと ん ざい 

ます、 昔日の 如く 現在の 

さ う 乙 さ ん 

でした、 而 して 此の 記念 

£ ク てい isK-i* ぐ わい しとく わいち 

四月の 定期 大會は 使徙會 

額 を 免除す る 乙と に决し 

さう しゃう- き 

りました、 而 して 正直な 

よ . ^う さ. S む しゃ たい 

し、 餘裕 ある 債務者に 對 



I * レん すな は せ <- と ねんき ねんさい れんかん S くわい つく 

人 即ち 聖徒 は 五十 年 記念祭と して 一 年 問 偸 快ケ」 盡 すの 

して 聖徒 全體に 及ぼさし めんが 爲め、 一千 八 百 八十 年 

はつ e- ん さん せいと い うえいた いし きん たい >^ さ 5 はん 

の發 言を贊 して 聖徒 は 移住 永代 資金に 對 する 負債の 半 

ぐわん きん ド圹 ぐわん W きん ドル 

の 元金 は 七十 萬 四千 弗て 元利 金 は 百 六十 萬 四千 弗で あ 

し& たい はと ぐわん きん はんかぐ すな は めん i!- 上 

者に 衡 して は 殆んど 元利 金の 半額 即ち 八十 万雜を 免除 

ぽん かぐ 《ん さい いた さク ぶん 

半額 を 返濟 させる ことに 致しました、 而 して 十分の 一 



^■.y けうく わい ケ- さ ぎむ を '> » は 力 ほ 

として 十五 萬 一 千 七 百 九十 八 弗は敎 會に納 むべき 義務と なって 居. <y ました か, 其の 半額 即 

ち 七 萬 五 千 八 百 九十 九 滞 を 其の 貧しき 者に 免除して やらました、 其の 他 貧しき 者に 好い 牛 



二 1 九 



二 110 

を 一 千 頭 (敎會 は 三百 頭 を 出して ステ f キ部は 七 百 頭 を 出す 乙と てした) 及び 羊 を 五 千 頭 (敎 

くわ 5, とうた ぶ とう 巧 ぶんばい き 

會は 一 一 千 頭 を 出して ス テ I キ部は 三千 頭 を 出す 乙と てした) 分配す る M とに 極めました 

ねん あめ づ くな ひじ やう かんぼつ ばた 《3 の ふ そく S- やう どちゅう 

一 千 八 百 七十 九 年 は 雨が 少 くて 非常な 旱魅 てしたから 畑の 物が 不足 しました、 領土 中 

; J むぎ 上 ぶん それ ゆ ゑ ぷ じんじ せんく わい 乙 むぎお ね M く ほヅ のう 

に 小 麥は餘 分に あ. 5 ませんで しお、 其 故に 婦人 慈善 會は小 麥種を 六 千 七 百 九十 石 貧しき 農 

ふ かしつ き そ のうぶ む りし かつつ がふつ し たい それ へんさい 

夫に 貸付け る とに 極め、 其の 農夫 は 無利子で、 且 都合 付き 次第に 其 を返濟 する 乙と にし 

て やらました 

そ とし お ほ 上ろ 乙び とし 乙 じん まヅ ふ さいし や しゃぐ きん ゆる やう す、 

其の 年 は 大喜悅 の 年と ならました、 一 己 人と して は 貧しき 負債者の 借金 を 緩める 樣に勸 

き 上う どうしゃう くわ そ た ぎんかう とう しゃう き ひん とんしゃ ふ さい いくぶん ゆる やう す/" 

めら れ、 シ オン 共同 商會 其の 他 銀行 等 も 正直なる 貧困 者の 負債 を 幾分 か 緩める 樣に勸 め 

せいと ねたみ うらみ ねん お 乙 あ ひあい しとく わいち やう - ぐんかい すな tt 

られ ました、 聖徒 は 嫉妬 怨恨の 念 を 起す ことなく、 相愛して 使徒 會長テ イラ ー の, 誡 即ち 

われら かみ めぐみ う たが ひ あ ひめぐ よ まも 

「我等 は 神の 惠を 受けつ V 互に 相惠 まん」 とい ふ 乙と を 善く 守. 5 ました 

どうはん し お ほよ ろ fJS5 たいふん ばつ もつ ゅク か かいたくき ねんび いは 

同年 サ ルト、 レ 1 キ 市で 大喜悅 と 大奮發 と を 以て 七月 二十四日の 開拓 記念日 を 祝 ひまし 

乙 さいり やう ど いた と Kl ろ おは ひと- き そ ひ ないぎ やうれ つ すぺ しょぐ ゆぶ 

た、 此の際 領土の 到る 處 より 多くの 人々 が來 ました、 其の 日の 大 行列に は 總 ての 職業、 ェ 

はふ がく かう けっしゃ はう くわい ふ ぞく\ わい しゃう ゆ ふ ァ じゅつお よ £ いがくとう くわん けい もの 乙と 0- る かん たい (う 

業、 學校、 結 赴、 敎 會の附 腐會、 商業、 美術 及び 藝學 等に 關係 ある 者 は 悉く 遣慽 なく 代表 



ざ ゃラ れつ のち ひと ^ た 5- く ゎぃ& う しふく わい じ ぎ て 31 た 5 しゅくてん お 乙な M*!t も 

されて ありました、 行列した 後人々 は大會 堂に 集會 して 時宜に 適當 なる 祝典 を 行 ひ、 又 交 

ごもき ねん ひいれき お-人 えんじ 5 つ そ たしつ か. fv じゅんじ 上ち ゅラ と. t き さず あた ひ すな は せん 

交 記念すべき 經歷談 を演述 しました、 其の 他 執行 順序 中 特に 記载に 値する もの は、 即ち 宣 

はう し ふく. $ん ひろ こ < W ん お i-fo しゃ あら は 

敎師が 福音 を弘 めた 二十 五ケ 國 から 二十 五 人の 代表者が 顯れ たこと てあります ◦ 

たう じ はちえ うがく かう きいと はん おんし さう ごばった っはぷ くわい くわい みん はん /J ん K ち 

"當 時に 日曜 學 の 生徒 は 三 万 三千 人あって、 男子 相 互 發達協 會の會 員 は 一 万人 もりました、 今::! ( 一 

ねん はちえ うがく かう せいと はん おんしけ ふくれい くわ 5- &ん またはと W ん かんが 

千 九 百 六 年) 日曜 學 校 生徒 は 十二 万 五 千 A あって、 ef- 子^ ^の會 員が 乂 んど三 万 八 あろ: と 1^ 考 ふれ 

これ 乙 すし s と あやし わざすな はがい はう くわい しんぽ せいり 上ぐ し,.^ うめ i な 

• は 之 は 此の r 奇 くて 最 怪 き 事」 即ち 該 敎 會の 進歩と 勢 力の 證明 に 成り まぜう 

たう じっしと わ 5 ちゃう そ さいご えんせ つ うち つ ざ ごと め, つら 上 ゆん ちか しやう 

當日 使徒 會長テ イラ-は 其の 最後の 演說 の內に 次の 如き 珍しき 預言 をし ました、 「近き 將 

ら 5, ぉ^- さ &-/»\ じ けん おこ わ 化ら しんかう つく ち 力ら つぐ 1 かみ しんらい あ 

來に 於て 樣々 の 事件が 起. 9 ませう、 我等 は 信仰 を 靈し、 カを竭 して 神に 信頼す るに 非ら ざ 

われ /- せいと むか きた はくがい いう わく ちか たうて い 

れば、 我々 聖徒に 向って 來 らんと する 迫害 や 誘惑な どに 打 勝つ 乙と が 到底て きないの であ 

ち S ラり やく 乙ん はち われら けんそん いの とき また かみ ちゅうぎ つく おのれ か ふく 

る— 中略 I 今 曰 ほど 我等が 謙遜して 祈るべき 時 はな いし、 又 神に 忠義 を盡し 己に 克 つて 福 

いん しん リ まも とさ 

音の 眞理を 守るべき 時 はな い のて ある」 と 

しとく わいち やう X ゆん とほ り を つぎ ねん 、 はう くわい もっと しの がた た じ 

使徒 會 長-アイラ I の 預言の 通に な. 9 ました、 其の 次の 年々 は 敎會の 最も 凌ぎ 難き 多事の 

時て あ. 5 ました。 

ニニ 一 



二三 一 

おい しやう ば ふ あん い-う えう ない ぐわん ちゃ? 

第二 章 H ド マンド ズ、 タカ 法案の 動搖、 大 管長 ティ ラ I 

.S ん せんち §5 せ S き 上 

隱 磐 中の 逝 ま 

せいと へいわ あんしん き やういう あ ひた た 3 ^しばし も はや ひど かんなんしんく な とき 

tui 徒が 平和と 安心と を 享有した 間 は 只 瞬 ST てあらました、 最早 酷い 艱難辛苦 を眷 める 時 

が到來 したので ある、 一 千 八 百 八十 ! 年の 夏、 他の 宗敎 家と 政治家と は S 徒の 一 夫 多妻と 

けう; S じっかう ていし せいと こうゆき ぱじ ^Jれ I K じ ま 

いふ 敎義の 實行を 停止 せんとて ® 徒 を 攻撃し 始めました、 是はュ -タで 始まった が 問 もな 

せん 乙く 卞き かう ひと/: Y けうと ふぎ やつ-せき ざいあく な-か ,.,<卞.- いうぎ もの 

く 全國が 激昂し ました、 人々 が 「モ k モン」 敎 徒が 不行 や?!^ 恶を す不 忠義なる 老* たとい 

おそ 3 上 ゆん ゆん 乙ぐ みん お. M 71 く/わ S ぎ. ん 63 かう せいと たい おはい はんどう お 乙 

ふ 怖るべき 虚言 をした ので、 全國 K 及び 國會議 負 は 激昂して 聖徒に 對 して 大 なる 反動 を 起 

か これ うじつ < わんし よく tt うしう はう きふ むさぼ た けう ぼくし ら るる ひ しつば う あるひ 

しました、 政治家 は 之 を ロ實に 官職の 報酬と 俸給 レ夂歲 り、 他敎の 牧師 等 は 或は 失望し 或は 

しふ ねんぶ か うらみ いた せいと /J うけき 5: いせいで か ぼくし ^ た さいけ うぎ わる 

執念深き 怨恨 を懷 いて ai^ 徒お 攻擊 したので あらます、 該 政治家 も 牧師 も 一 夫 多妻 敎義 が惡 

おも 3( の&' いう もつ せいと はぐが い 乙く /- わい みけつち ゆう ぶ た さいじつ かう 

ぃと思ふょもも前に述べた理由を以て^;^徒-^迫害しました、 國會 は未决 中の 一夫多妻 實行 

きんし ば ふあん すみ や か けつ とぐ そく けうと じ やうし よ い ぎ せん ゆん しょ 

禁止法 案 を 速 かに 可决 する やうに 督促され in した、 「モル モ ン」 敎 徒の 上書、 異議、 宣言書、 

たんぐ わんし よとう せう じん はい 3 上ぐ りょくる、 1 たぐみ ふ r-< とりけし むか つ J5 そ 乙う iV う 

歎 腿 書 等 も 小人 輩が 極力 流布 さ せ^る 巧なる 誣告の 取消に 向って は 遂に 其の 功 を 奏しな 



かゥ たので あ..^ ます 

い ん ねん けつ か ない とう リ やう がっし; !:- ラ aJ ぐ "やう どお 上 しう 

以前 一 千ス百 六十 二 年 七月 二日に 大統領 ュ ブラ "ム、 リン コ,' ンは 「合 衆國の 領土 及び 州 

な 5- お. S ぶた さいじつ かう と かつじつ かう しゃ ぼつ はよ あん a- めい 乙く はぶ ながねん 

內に 於て 一 夫 多妻 赏行. ^止め、 且 行者 を 罰する 法案」 に 記名して 國法 としまし たが、 永年 

問赏 施に ならなかった、 併し 國會が 追加 法案と して エド マ ンドズ 法 を可决 したので、 一 千 八 

ねん ゆ つ はちたい とラ リゃラ き めい /J くば ふ そ ばぶ 

百 八十 二 年 三月 二十 二日 大統領 ァ I サ -は 之に 記名して 國法 としました、 其の 法に よりて 

ぶ た さいしゅぎ あらた じっかう ひと せんき 上 けん はくわつ ねんい ない きん/ J しょ 

一 夫 多妻 主義 を 新に. 赏行 する 人 は選擧 權を剝 奪せられ、 五 年 以內の 禁錮に 處 せられ、 五 百 弗 

い ない ぱっ きん ふ か ミた すで たさい も ひと はんい じ やう ふ i;*" よ どうぜい 

以內の 罰金 を附 加せられ ると になり、 又旣に 多妻 を 有つ 人 は 一 人 以上の 婦女と 同捿 すれば、 

けつい な 5 きん <0 しょ ぉルぃ ない ぼつ きん ふか ぷ 

六 ヶ月 以內の 禁錮に 處 せられ、 三百.^ 以內の 罰金 を附 加せられ る 乙と、 なら まし. 一夫 

た さい じっかう しゃ しんじゃ tf いしんく わん し かく じっかう しゃ こうし 上く じ ゆうじ とク へ-つ 

多妻の. 行^と 信者と は 陪審 官 となる 資格が なく、 又 其の實 行者 は 公職に 從 事し、 投票す る 

ねん ぱふ っ&か は. \ あん か けつ 

乙と がて きなかった、 一 千 八 百 八十 七年ュ K マ ンドズ 、タカ 法と いふ 追加 法案が 可决 され ま 

Z ぽぷ あん じゅう^ん つ をう けんり くわん り さ, つ いっさい けっこん し t うしよ ち ぱぅさ 5, ぽんし 上 

した、 此の 法案に は從 前よ もも 一層の 權利を 官吏に 授け、 一切の 結婚の 證書を 地方裁判所 

がいさい ぽんし 上 さいばん ぐわん がっし ゆう くたい i うりやう/ J れ はんめい ほくわん がいけ うく わい はふ じん きん たいしん 

(該 裁判所の 裁判官 は 合 衆 國 大統領 之 を 任命す る) に 保管 させ、 該敎會 の 法人 を 禁じ、 大審 

a ん けう わい じ む ほ つれう またも ざ いさん くわん ぽヮ にん リ よく も 

院に 敎會の 事務 を 結了 させ、, 又 其の 財產 を官沒 させる 權カを 有た せて をり ました。 

ニニ =1 



ニニ 四 

: ^つし i ラ ki くお いとう リゃラ ばん なリな ゐ ゝん ぇ& ぜんき, MM けん かれら し as 

合 衆 國 大統領 は 五 人より 成立った 委員 を 選んで ュ - タ選擧 事件 を 彼等に 支配 させた の 

そ せんき 上, げん は いう き I けうと たさい す K ふ り つ ふぐ じ § う 

です、 而 して 選 擧權を 保有す る ことに 極めた 「モ だ モン」 敎徒は 多妻 を 捨て 法律に 服從 する 

せいやく 乙 ぐわん リ むす た すう Si ん もの つ ひ せんき 上 けん はく^つ 

とい ふ 替約を 此の 官吏に 結び ましたが、 他の 數千 人の 者 は 遂に 選擧權 を剝奢 t されました、 か 

せいけん う ぼ ほうと しばふく わん ため お ほい なや さいしょ I . 

くて 政權. V 奪 はれた ので 、ーモ ル モン」 敎徒は 司法官の 爲に 大に惱 まされました、 最初に〃 

さい ぼんしょ うった ねん ゆ つ か いう ざい ぱん けつ 

t トガ、 X クラ-ソン は 裁判所に 訴 へられて、 一 千 八 百 八十 四 年 十 一 月 三 „:! 有罪と 判决 され 

ほんかん きん 乙 ぼっきん し 上 そ ご でう リ た む ざん ば, \ りつ 

て、 四 年間 禁錮され、 八 百 弗の 罰金に 處 せられました、 其の後 條理も 立たぬ 無慙 なる 法律 

じ やう ぱ くがい はんい じゃラ たんし おのれ か „v くす はぶりつ まも やくそく 

上の 迫害が ありました、 一 千 人 以上の 男子 は 己の 家族 を棄 て、 法律 を 守る NJ と を 約束せ ざ 

ため ち 上う "かん 5 なん はん よ しの あるひ たいろん し ひ 

るが 爲に懲 治監に 入れられました、 何百 人と なく、 世 を 忍び 或は 返隱 せねば ならぬ 次第と 

な おは か ぞく たう ぶん わか 5^ つかう せいと ま 乙と けんご つく は ど 

成って、 多くの 家族 は當 分別れ て絕 交す るので あ. 9 ました、 llil 徒 は 誠に 言語に 盡 されぬ 稀 

ひ あい しんく た へんば けいさつく わん めい したが ぼい しんくわん な もの かなら .S うざ 5 

悲哀して 辛苦に 耐 へました、 偏頗なる 警察官の 命に 從 つて 陪審 官と 成った 者 は、 必ず 有罪 

けつ き やうき ごと ねつ ゆうじんり i< けんじ な つち ま つみう む か \ 

と决 せんと 狂氣の 如く 熟中盡 力せ る檢 事の 內 意に 一致し ました、 ^vれ で 先づ卵 の 有無に 拘 

けんぎ う ほ ぱ く ぱ ばく さい ぼん ュ さいばん よ ぃタ 

はらず、 嫌疑 を 受けたら 捕縛され、 捕縛され たら 裁判に 付せられ、 裁 if に 付せられ たら 有 

ざ S はんけつ S うざい はんげつ ば ふりつ せんけい ぼつ せんく われう まう しわた 

罪と 判决 され 、 有罪と 判决 されたら 法律の 全 刑罰と 全科 料 を 申 渡されろ ので あ-^ まし .5^、 



むリ ひお ラ さ < し なか じ やう はう いつ もの iHMMnnn げんせつ をん け 3 らう れんか 

無现 非道の 策士 (中に 非常に 放逸な 者 もあった) はュ -タを 建設した 翁 敬すべき 老練家に 

び かう. あるひ 七 すみか しん せいふ とくべつ ふ か せん 上う きん おく はふ リっ じっし れい 

尾行し、 或は 其の 住家へ 侵入し ました、 政 は 特別に 附加專 用 41^- を 送って 法律の 赏 施を勵 

かう いうき ふ たんていり いぐ はん じんみん うち はいぐれ 5 乙 ぷぽ くわん と 

行し ました、 有給の 探偵 吏 は 幾人 も 人民の 中 を 徘徊し ました、 子 は 父母の ことに 關 して 問 

つま ;;: すめ ^上 l^s ラら ^^; f\ せん;: ぼい しんくわん わ, ゥら ふ めんもく び らう しつもん う たれ 

はれ、 妻と 娘と 女中 等 は 度, 5- 專務の 陪審 官に煩 はされ て 不面目で 尾籠なる 質問 を 受けて 其 

乙た せいと いは る わび あん t ぐ や おく を 

に 答へ ねばならなかった ので あらます、 聖徒 は 所謂:^ しき 暗黑の 一 夜 を 送って 居り まし.?::、 

*1;<^と >リ うく わ 5- つかさと かれら ぐんかい う ひあい し ヅ を さう ひと 

®- 徒 は敎會 の 司 を 取られて 彼等の 訓誡 を 受けられずに 悲哀に 沈ん て 居 もました、 而 して 人 

たのみ また かみ しんかう てんしゅ しんらい し 

V.- 賴 にせぬ こと、 又 神 を 信仰して 天主に 信顿 せねば ならぬ とい ふこと を 知る やうに なう ま 

たみ す 乙ぎ む お 乙た おのれ a<!h:i ひと たい ば? かう < は 

?} た、 民と して は 少しも 義務 を 怠らぬ し、 己 を 迫害す る 人に 對 して 暴行 を 加 ふる 乙と は 一 

,J せ。 と ふんけい し 上さく じぶ 54 ん せいと てき せいと 

つも 無かった が、 聖徒 を忿恚 せし むべき 處作は 十分に 聖徒の 敬に あつたので あります、 聖徒 

てき せいと なん 乙う ん はふ 5- つじ やう つみ を か ^ん みん めつ ばう しど ゆうつ ねら を 

の 敬 は 聖徒が 何 ど 公然と 法律上の 罪.^ 犯して 全 民の 滅亡 を 招かん こと を 始終 尾け 狙って 居 

-.. ^ました 

5 も ご ;;; =^ I ぶち や 5 しと はん - 

X クラ,' ン ン氏は 其の後 シォ ンの ホック ス、 M かダ I ステ- キ部 長と なり、 今 十二使徒の 一 入て あります。 

ねん £ つ はち たでん た S く. S んち やう > 

一 千 八 百 八十 五 年 一 一月 一 日よ. 9 返隱 しつ 、あわました 大 管 長ジ ヨン -プ イラ, はは か 

ニニ 五 



なく も 一 千 八 八. T 七 年 七月 卄 五日 此の 境遇の 锂に 死にました、 かくて 束 された る 

. 一 . レん ぼつ じっせいと ひ るい うち な いくわん ちゃう おのれ 5^ けうく わ 5 ため いのち す 

ラ ェ ル人 (末日 聖徒) の 悲哀の 裡に大 管 長 テ イラ-は 己の 愛する 敎會 の爲に 生命 を 捨て 

じゅんけ うし や かれ しゅうせいふ くよう かみ くに ほかき ばう と 乙 ろな 

. -殉敎 者と な もました、 彼が 終生 服膺した ると 乙ろ の もの は 「神の 國の外 希望す る 所 無し」 

とい ふ 乙と てあら まし -f^o 

いてわん ち々 う ふたり こもん t し こうぶん うち t. ない くわん ちゃう 

大管 長 - アイラ I の 二人の 顧問 は 其の 死の 公文の 中に 曰へ り 「大 管 長ジ ヨン 、-ズ イラ- 

こ りゃう ど がっし; 3 う 乙ぐ せいふ > じつ たいへ う くわん リ V- ん ぎやく X 乙ろ 

は 此の 領土に て 合衆國 政府 を 不實に 代表した る 官吏の 殘虐に 依らて 殺されました.」 と。 

たい しゃう き 上 < めん いつ べん C いくわん ちゃう 

第三 象 局面 ー變、 ゥヰ& フォルド、 ゥ、 ソ ドラフ 大 管長と 

ぷ たさい きん し せん ゆん 

み, よる、 一 夫 多妻 禁止の 宣言、 

. し とく わい くわいち やう かれ そ てい ゐん くわい けうく わい ケさ 

ク キル フォルド、 クッ、 トラフ は 十一 一 使徒 會の會 長で あつ て 彼と 其の 定員 會は 敎會を 治め 

せきにんう しと > I し し とぐ わい f 

る 責任 を 受けました、 使徒 カノ ン 氏と ス ミ スと 氏と は 使徒 會に復 しました。 

一 千 八 百 一八 十九 年 四月 敎會の 大會を 催す まて 使徒 會は 敎會を 司. 5 ましたが、 四月 七日の 

おい -ぐ わい たい たい V ^わんち やうく れい, て しき . たいくわん *T やう にん 

大の會 て、 第 四 代の 管長 會を齟 織して クヰル フォルド、 ゥ, ドラフ を大 管 長に 任じました、 



; i は 己の 顧問と して ジ ョ〃 デ、 キュ、 力 とジ 叫.^、 H フ" ス ミ If^ を 選びました 

せい ヒ た、, くわん リ t ぅ卞き なた つ せいと そ し^ ^"た き やうぐ う た 

11- 徒に 對 する 官吏の 攻擊は 宥められずに 續 きました が、 聖徒 は 其の 忍び 難き 境遇 を耐 へ 

ノの いろく し^たん もち r い ^^ん しんぐ かん たう じ せぃ^-じ 

忍ぶべく 色々 の 手段 を 用 tQ て 居らました から 以前 ほど 辛苦 を 威 じ ませなん だ、 當 時の 政治 

.G- う れきしち かう さい" ェんじ やう れきし ひと けうと たい ^Jぅゅさてき;;^Jなひ ; i は しる 

上の 藤史 中には 裁判上の 歷史と 等しく 「モ , モ ン」 敎 徒に 對 して 攻擊的 行爲が 多く 記されて 

リゃ うど ぎ やうせ いぶ し はふ^ いっち ちから あは せ 5 みん めっぽう じん リ よく 

ありました、 領土の 行政 部 は 司法 部と 一 致し, 力 を 合せて 11^ 民. を滅 u させんと 盡カ しまし 

も た じつ/ J たう じ れきし しゃう さい かた たし たう じ ぐわん リ がんし 上 v\ な 

お, 若し 他日 此の 當 時の 歷史を 詳細に 語, 5 ますならば 槌 かに 當 時の 官史 をして 顔色 無から 

しむる と 同時に 其の 苦め られ たる 51- 徒の 名譽を 高める ので ある。 

トラと ひ Q せ 5^2 う かくにん しゅうゆうけん せいふ ばぐた つ たび ごと い つ 

「モル モ ン」 敎徒は 己が 正當 な. 5 と 確認した る 宗敎權 を 政府が 剝ハ # せんとす る 度 毎に 何時 

さい 》^ん し t お 尸 ^ けん リ よくし; 5 ぶ た さいしゅぎ けうぎ ク ピん しん 

も 裁判所に 於て 其の 權をカ 守 せんとし ました、 一 夫 多妻 主義 は 敎義の 一 部分な. 9 と 信じ ま 

§Ki?- くヽ わい 乙れ きん Hi りつ せいてい けんり かた し § ちゃう 乙/; 

し.?^、 故 國會に は 之 を 禁ずる 法律 を 制定す る榴 利がない と 固く 主張し ました 是に 於て 國 

たいしん &ん ジ た さ じっかう きん L ばふ せいた う いな けん a- う けつぐ. &S" つし こ < け..^ ばぶ 

の 大審院 は 一 夫 多妻 赏行 禁止法が 正當 なる ものである や 否や を 研究した る 結果 合衆國 憲法 

ん. -ぃ っゐか ば ふ しゅ- fi, う じ 5 う ほし やう ぶた さい ひつ;:.. じっかつ たうて. ^せいた う 

第一 追加 法 は 宗敎の 自由 を 保障す る はする もの k 一 夫多妻とぃふ敎義の赏行は^^底正當と 

で き ゅス ぶた さいじつ か- 1; きんし はふ :?" つし 5 うこく:, にんば ふ かな ケー しか ,_ > 

する N- とが 出來 ぬ、 故に 一 夫 多妻 1:^ 打 禁止法 は 合衆國 憲法に 適 ふて 居る、 併しな から 其の 

ニニ 七 



ニニ 八 

ぽぷ リ つ てき 上ゥ じっし ばな ば ふ せい かつ ざん 乙く きっせ 3 

法律の 適 ffl 實施は 甚だ 不.. ^で 且殘 酷であった と 詰 }:2; しました Q 

こ あ ひお せいふ ちつち よ たえず ぶ た さいじつ かク きんし ば,^ じっし つと またい &ん 

此の 問 政府 は it= おする ことなく 不絕 一 夫 多^. お 行 止 法 を .|:; 施せん と 務め、 又 以前より 

S つ そつ ゆきれ つ し 上ち はラ じひく かう 乙れ て _3 上う きゃっかつ を 

1 El8 激烈なる 處! ば 方 を 熟考した のみならず、 之 を 適用す ると 恐^して 居り,^ した。 

せいと 7- かんなん う さいちゅう おいく わんち や-つ ひ あい し プ 

徒が 此の 艱難 受けつ、 ある 最中に 大管 長 クヰ ルフォ ルド、 ゥ タ ドラフ は 悲哀に 沈 

まご/ろ もつ せいと ため てんしゅ き たう さゝ も ぽゃ ぶ た さいし! 5 ぎ じっかう や 

んで眞 心 を 以て 聖徒の 爲に 天生に 祈禱を 捧げました、 すると 最早 一 夫 多妻 主義の 赏行を 止 

せいと くわん 乙く てんしゅ めい ゆ ゑ ねん f; つ 

める M と を 聖徒に 勸吿 する やう 天主よ. 命ぜられました、 故に 一 千 八 W 九十 年 九月 二十 四 

か おいく わんち や 5 乙 め 5- れい ふく せん ゆん し 上 ばつ あぐる つき か けうぐ わい 乙う き おいく わい 

日大管 長 ウッドラフが 此の 命令 を 八 rZ む 宣言 普 を發 しました、 翌月 六日 敎^ の 後期の 大會 

せいと &ん たい たいくわん ちゃう ばつ お た さいきんし ぜんゆん せいかく まも おきて 

で 徒 全 體は大 管 長ク プ ドラ フが發 した 一 夫 多妻 禁止の 宣言 を 正確て 守るべき 神の^ 法 

みな じ らいせいと 乙 けウぎ をし まお じ クかラ 

と 見做した のであります、 爾來! !;> 徒 は 此の 敎義 を敎へ もせず 又實行 もいた しませぬ。 

さいしょ かみ せいと けうぎ けいし たま 乙 じっかう きんし たま せ. & 

最初に 祌は 徒に 此の 敎義を 啓示し 給 ひました が 、今 此の 實行を も禁. し 給 ひました、 聖 

と ねんかん おどろ ばんたい かろむ い: ほやけ ぶた さい かた しゅち やう も はう ざ べんご 

徒 は 三十 年間 驚くべき 反 對ケ- 蒙りながら 公に 一 夫 多妻 を 固く 主張して、 其の 敎義を 辯 護し- 

つね おの ぎむ つくぎ せいお よ かんなんしんく しの t つ かみ SS たみ み な せい 

常に 己が 義務 を盡 し襯牲 及び 艱難辛苦 を 忍んだ に 因て 神に 義 なる 民と 見做されました、 聖 

と = しう ぐん み み ひね な さまた とき おな かみ せいと そ 

徒が ミ スゥリ 州の ジャ ク ソ ン郡で 祌の御 旨 を 成す に 妨げられた 時と 同じく 神 は 聖徒が 北ハの 



V るュ 

1 儀き' I 

力' 式 k タ 
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の 行 力う' つ 
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千 居" 嚴 I 

八 6 な 



めいれい まも ねっしん つと た まんぞく たま かみ み むね たつ せいと 

命令 を 守らん と 熱心に 務めた 爲め滿 足し 給 ひました、 神の 御 志 は 達せられました、 聖徒 は 

がいけ うぎ べんご た ヱ つう ば あ ひお 5 い え ちょめい がっしゅうこく じ やう リぅ くわん リ しゃぐ わい 

該敎義 を 辯 護 せんが 爲め 普通の 場合に 於て は 入り 得ざる 著名なる 合 衆國の 上流 官吏 祉會 

ぷ くいん ぜつめい a たいは ゆる けう せいかぐ し 上う きく わい え 

に 福音 を說 明し、 又 所謂 「モ , モ ン」 敎の 正確なる 7- とを證 する 機會を 得ました のです。 

せいふ およ 乙く みん けうと じ ご たさいめ と や 乙う ゆん たい さいしょ 

政府 及 ぴ國民 は 「モ \ モ ン」 敎 徒が 爾後 多妻 を 嫁る を 止める と 公言した ことに 對 して 最初 

ぎ ねん いお やう や 乙れ たしか がい はう と じつい しん をれ またい t 

は 疑念 を懷 きまし. 5^ が、 漸く 之 は 確に 該敎 徒の 實意 であると 信じ まし. P:i 、其に 又 以前に 「 乇 

けうと みん たう まう のこ をれ い せい じ やう よ なによ いっち 

〃モン」 敎徒は 民黨を 設けて 殘らず 其に 入りて 政治 上の ことに 依らず 何に らず 一 致して 

を が いみんた う や かぐ じ わか たうに ^^Av せいた う かめい 乙 

居り ましたが、 該民黨 を も 止めて 各自 別れて 當時 にあった 樣々 の 政黨に 加盟し まし 4^、 此 

おこな ひ た かんじゃう ゆうわ およ きょぐ めん いっぺん じ た 5 

の 二つの 行 爲の爲 め 「感情の 融和 及び 局面 一 變の 時代」 となりました。 

お 5 しゃう せい と しん でん 

第 四 章 聖徒の 神殿 

せいと . さう ごん しんでん ぷ しん そ うち せいしゃ おのれ た またし ゝゃ かばり おは 

聖徒 は ュ . 'タに 四つの 莊嚴 なる 神殿 を 普請して 其の 中に 生者 は 己の 爲め亦 死者の 代に 多 

せい ぎ しき しっかう を I まち しんでん ねん 

くの 聖 なる 儀式 を 執行して 居ります、 セィ ント、 ジ ョ I 〃デ 町の 神殿 は 一 千 八 百 七十 七 年 一 

月 一 日、 &. 'ガン 町の は 一千 八 百 八十 四 年 五月 十七 日、 マン タイ 町の は 一千 八 百 八十 八 年 

ニニ 九 



二三 〇 

五月 二十 一 日、 サ〃 ト、 レ I キ 市の は 一 千 八 巨 九十 三年 四月 六日に 献 殿され ました、 

^ いぐわん ちゃう や < た あひな し /で.,. らぐ せいお i 

ルフ オダ ド、 ウッド ラ フ氏が大管長の役に立てる問に.^ ル ト、 レ I キ 市で 神殿の 落成 及び 

献 殿せられ たる 乙と は 敎<^:: の 大事 件 中の 一 つで あ, 9 ました。 

ねん 卞っ か れいねん たいく わい さい にん せいと けうぐ わい れきしち ゆう もっと じんす う 

一 千 八 百 九十 二 年 四, 月 六日 例年の 大會の 際に 四 万人の 聖徒 (敎會 の歷史 中の 最も 人 敷の 

おは しふく わい まへ I しんでん ちゃうせ き す しき お 乙な た ねんかん 乙 しき 

多い 集會) の 前に サル ト、 レ-キ 神殿の is 石を据 ゑる 式が 行 はれました、 多年 間 此の 式 を 

IH のぞ せいと し ばう あつま さう けうぐ わい かんぶ やぐ にん はと みな せいと とも あつま 

待ち望んだ^ 徒 は 四方よ 6 集. 9 ました、 而 して 敎會 幹部の 役人の 殆んど 皆が II- 徒と 共に 集 

乙 ゑ あは さけ かご せん じ せいと ひ 5 たいぐ わ. いたうな. S し丄 くわい 

ク て聲を 合せて 「 ホザ十 」 と 叫びました、 六日 午前 十 時より 51!- 徒 は 先づ大 會堂內 に集會 して 

さんび か うた き たう 3 \ またせつ?. う ひと ご ^iJん じ ば ふな ゥ 

讃美歌 を 歌 ひ、 祈禱を 捧げました、 又說敎 する 人 も あ. 5 ました、 午前 十 一 時に 入 堂した 一 

ば. t* お 上 に ふた で き すう はん ^^-ぃし:リ.ぅ しん? ん みなみが は 乙 tnj やうれ つ 

万 二 千 人 及び 入 堂の 出來 なかった 數千 人と S ふ 大衆 は 神殿の 南側に ゆ さました、 此の 行列 

しゃう かたい せんとう わんち やう くわいし とぐ わい tV た すぺ いう しんけんしゃ てい ん くわ i, を じゅんじょ た i4 せい 

は 唱歌 隊を 先頭と して 管 長 會、 使徒 會、 其の 他總て 有神權 者の 定員 會 其の 順序 を 正しく 整 

れつ を ひ しき たんかん せいと れきしち ゆう ねっしん かんどう あた しき 

列し ました、 其の :13 の 式 は短簡 であ. ましたが、 in 徒の 歷史 中に 熟 心で 感動,^ 與 ふる 式と し 

_w 乙と む 2 & おんがく さんび い のち ふく ゝ わんち やう かい 

て は 誠に 無類で ありました、 音樂と 讚美歌 あ 6 て 後、 副 管長 ジ ヨセフ、 ェ フ、 ス ミスが 開 

くわ 5- き たう ^^;ぃ くわん ちゃう えんおん 3 ( す \ なん;^6 

會 の祈禱 をし ました、 大管畏 ゥヰ ルフォ V ド、 ウッドラフが 演谊の 前まで 進んで 「汝等 



力 



神キ - レ、 ト 'レ サ 




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'ュ *^ 二 -'^8-^" ,*>^- i feaj 

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國 い (すじ ものお よ てんか し 上/ J く じんみん ちう X ゆん しゃ ぜんげん しゃ げいし ヽゃ 

イスラ H ルの 家筋の 者 及び 天下 諸國の 人民よ 注意せ よ、 預言者、 先見者、 啓示 者なる ブリ 

わ . かみ しんでん ど す *W た t れ けんな ふ われら ちゃう 

ガム、 ヤングが 我が 神の 神殿の 土 臺を据 ゑ、 又 其 を 献納した ので あるが、 我等 は 今 其の 13 

せき す <• でんちう お すで じゅん じふ V- ん で き r でん リ よく もつ in い 

石を据 ゑます」 と 言 ふて. 電鈕を 押しました、 旣に 準備が 十分に 出來て 居った 電力で 以て 聖な 

しん さいご いしす しか のちし と Ar:n. にん せい 

る 普請 のれ m 後の 石を据 ゑつけ ました、 然る 後 使徒" レンゾ、 スノ- に 港 かれ、 四 萬 人の^ 

徒 は 彼に 和して 聲を 高らかに ハ ン ケチ VJ 振 ひながら 「神と 御 小羊 (^ エス、 キリスト) に 

ホザナ く./ \、 アノンく く」 と 三度 繰返して 叫びました、 而,, て 一千 八-白 九十 三 

ゆつ か しんでん けんでん でき ふしん らく ゼぃ けってい がいない くわい 

四月 六日に 神殿 を献 殿す る 乙と が 出來る やうに 普請 を 落成 せんと 決定し ましたが、 該大々 

かっさい ややう リ 3 ん ぐう き えつ (う しやう かたい へいく わい さん, ひ か うた ふく 、わん 

は喝釆 場裡に 満腔の 喜悅を 表しました、 かくて 唱歌 隊が 閉贪の 讚美歌 を 歌 ひ. ^すと 副 管 

長 ジョ ルデ" キュ、 カノン は 最後の 祈禱 をいた しました 

只 一 年間に 其の 普請 を 落成す るの は 殆んど 出來ぬ 乙との 樣 であ. りました が、 聖徒が S ひ 

き せんりょく つく ねんかん を さう ごん けんちぐ ぶク ないぶ くわん せい きん びん をし き 

切って 全力 を盡 して 一 年間に 其の 莊嚴 なる 建築物の 內部を 完成 せんとて 4^ 品を嗇 まずに 寄 

ふ もっと じ やう, つ しょくにん やと さう かみ めぐみ よ * て じんり 上ぐ i けっく わ しゃう 

附 して 最も 上手な 職人 を展 ひました、 而 して 神の 恩惠に 依りて 其の 盡カは 善き 結果 を 生じ 

上 てい ご と が 51 ん でん & ぐせい 

て 豫定の 如く 該 神殿が 落成し ました ◦ 

二 :1 二 



二三 二 

ねん ゆつ か ぐ わえ うび iC! いく わいた ラ ない れいねん せん 3 お S ぐ わい ひら か /ん つど 

一 千 八 百 九十 三年 四月 四日の 火曜日 大會 堂內に 例年の 前期の 大會が 開かれて 二日 間續き 

か ぁさ^ぷ^!-ゃクきっぶ あた はん しんでん い はじ な いぶ w つば 

ました、 六日の 朝 入場 切符 を與 へられた る 二 千 五 百 人が 神殿に 入らて 初めて 內 部の 立派て 

さラ れい さう し 上く ふ „v くひん み しんごん か 5 お ほい しふく わい しつ あつ すべ けつく わい かんぶ 

壯 鹿なる 装飾 や 附屬品 を 觀て祌 殿の 三階の 大 なる 集, 室に 奥まりました、 總 て敎會 幹部の 

やく はん しゅっせき くわん ちゃうく わ 5 し と たいしゅく ふくし ^ん くわいそう ちゃうく わい;^ 上 そうかんとく /- わい 

役人が 出席し ました、 管 長 會、 十二使徒、 大 祝福 師、 七十 人會 總長會 及び 總 監督 會の 

すぺ せいと しふく わい しゅっせき で き 乙 ながねん あ ひ 巧 これ もつ はじ 

總 てが if 徒の 集侖 :! に 出席す る 乙との 出來. {^ の は 此の 永年の 間に 之 を 以て 始めて とする ので 

せんぱつ &ん しゃう かね 5 みちび さんび か 

あらました、 選拔 された る 三百 人の i? 歌隊 はュゲ アン、 ス -グゲ ユン スに 導かれて 讃美歌 を 

うか たいくわん ちゃう しんでん けんでんき たう さゝ そ の ふぐ /- わんち やう. 

歌 ひまして 大管長 ク" ドラフが 祌 殿の 献殿 祈禱を 捧げました、 其の後 副 管長 カノンと 

^いぐわん ちゃう ふく ゝ わんち やう I じ ぎ て a- ザつ けう くんお は また 乙 /- ろ なぐさ えん つ 

大 管長 ク.' ドラ フと副 管長 ス ミ スは 時宜に 適切に して 敎訓 多く 又 心 を 慰むべき 演說を 

七 *.!ん^^ク おも しゅし てんしゅ MnnMyMn なぐさ た mmy そ た-いおん けい 

しました、 其の 演說の 重なる 主旨 は 天主が シ オン を 慰め 給 ふこと、 シ オンが 其の 大恩 惠を 

あた と 3 ちか .$ ラ しんけんしゃ いっち ケ! 乙 i ゆん 

與 へらるべき 時の 近き 乙と、 有 神 權者は 一 致して 居る とい ふ rJ とで ありました、 (此の 預言 

たう じ W- つば じつ ゆん せいと ぐわん にん たが ひ そ つみ §s 

は當 時に 立派に 赏 現されて 居った ので あ もました) 聖徒 は寬 仁に して、 互に 其の 罪.^ 赦し、 

かっとう さ あ ひあい かみ み むね おう やう す /- さう も そ すヽめ 

葛藤 を 避けて、 相愛し、 神の 御 旨に 應 ずる 樣に勸 め ちれました、 而 して 若しも 其の 勸 

したが い a* かつ な ほど たの も とき /- た やぐ そく そ いく わい しゅっせき すべ 

に從 はく 未だ 曾て 無き 程の 赖 母し き時來 らんと 約束され ました、 其の 大會に 出席した 凡て 



せ c と せいれ 5- かん かみ せいと けんでん しんでん じ § なぶ たま さと おは 

の 聖徒 は 聖靈に 感じて 神が 11- 徒の 献殿 したる 神殿 を 受納し 給 ふたこと を 悟りました、 多く 

せいと いた かん う ら ぐ ほど 上ろ 乙 せいと ねんかんし ゆ/ ( らう ギ. せい 

の 聖徒 は 甚く 感に打 たれて 落涙す る 程喜悅 びました、 聖徒が 四十 年 問 種々 なる 苦勞 と權牲 

乙ん ぐ わい かみ がいしん でん おの せい うし 上 じゅな ふ たま せいれ 5 上 

と をし ましたが、 今回 祌は該 神殿 を 己が 聖 なる 住所と して 受納し 給 ふたこと を、 聖靈に 依 

すべ 乙 ときし ふく わい せいと けいし たま せいと むじ やう 上ろ 乙び え 

りて 總て 此の 時集會 したる 聖徒に 啓示し 給 ひました から 聖徒 は 無上の 喜悅を 得ました のて 

あ もます 

どうじつ ご C せいと し i くわ? - なほ くわい そ ご/' ごと しふぐ. Q い ぐ わい 

同日午後^:^徒の集會が尙 一 回 あ. ました、 其の後 此の 如き: ffi 會が 二十 九 回ありまして、 

つ が, \ ぐ わい しゅっせ さはん (5 きんすう ^^ん けんでん しき み *^ とな 

都合 三十 一 回 ありました、 出席 人の 1^ 均 數はニ 千 二百 六十 人であって、 献殿式 を 見た 大ス 

れん を た はちえ うがく かう t i はんた とぐ しぷ くわい も 上 は 

は 七 萬 人て した、 其の 他に 日曜 學 校の 子供の 一 萬 五 千 人の 爲め 特に 集會を 催されました, 

おとな じ どう あば はん そ しさ み けぅ^^ゎぃ T .i^- ヽ • • * - 

大人と 兒 童と を 合せて 八 萬 五 千 人が 其の 式 を 見た のです 敎會の 各ステ -キ部 (三十 七 あ 

つ 力) よ. y 聖徒が 來て 居, ました。 . 

さい ご しよく わい ねん ゆつ か ゆつ えう ご もよ ほ ,:£っ ば、 じめ i に. <^ド わい- ズに化 ゆ 

最後の 集會は 一 千 八 百 九十 三年 四月 二十四日 月曜日 午後 催されて 五月の 始に 敎會の 儀式 

しっかう ため か いでん • 

を 執行す る 爲に開 殿され ました 

二三 三 



二三 四 

たい しゃう りゃう ど . _ ! Si ク し.^ う 乙く とう ^ けん しう 

第五 章 領土 ュ ー タ合 衆國の 統治 權 ある 一 州と なる 

たいくわん ちゃう けうく わい ヶ i あ ひた せぃ^!-じゃぅ 3 いご ,5.5, じ けん 

大 管 長 クヰル フォルド、 ゥ ッ ドラフが 敎會を 治めました 間に 政治 上の 最後の 大事 件 は 

ュ 1 タが合 衆國の 統治 權 ある 一 州と 認可され たる あとであります、 ュ I タが 國會へ 遣した 

代表者なる ジ ヨセフ、 エル、 ラ I リンス は 一 千 八 百 九十 三年に 授權 法案 を 提出し ました、 

ゆつ にち 乙く ヽゎ 5 か&ん それ か けつ さう ねん f; つ か じ やう &ん 

十二月 十三 日に 國^ 下院 は 其 を可决 しました、 而 して 一 千 八 .CI 九十 四 年 七月 十日に 上院が 

/J れ つうく わ に f たいとう りゃう 1 乙れ Si んか なが .S の 

之 を 通過して 十六 日 大統領 グ" I ゲァ、 クリゲ ランドが 之 を 認可し ました、 永らく 祈. 9 願 

は, 1 あん へうたい つぎ ごと いは ^^^^^^ じんみん けんばぶ お 上 しつ-せ 5- ぷ まう またがつ しゆう 乙く はん 

つた 法案の 表題 は 次の 如し、 曰く 一, ュ -タの 人民が 憲法 及び 州政府 を 設け、 又 八 口 衆 國の本 

しう どうやり t_v^ けん しう じゅけん はふ 乙 ばふ うち じんみん ながれん の; V- せいぶ 

州と 同様に 統治 權 ある 一 州と なる ための 授權 法」 と、 此の 法の 內に 人民が 永年 望んだ 政府の 

せっち ばぅは,^ こまか き さ 5- HmMm ほんねう あ W さ 1^ し 乙く \ わい けう 

設置 方法 は 細に.^ 載して ありました が、 ュ -タの 本當の 在樣を 知らぬ 國會は 一 モル モン」 敎 

i たしか た さいし :5 ぎ きんし いな ため ^ nMMMMnHHn しつ みと ijj ん.: "人えん き 

徒が 確に 多妻 キ義. ^禁. ^した か 否や,^ 試さん とて 先づュ - —タを 州と 認 むる を 二 年 問 延期し 

しか 乙 はふき てい か でう したが ん ゆつ さいし 上 はつ 

たので あらます、 併し 此の 法に 規定せ る箇 條に從 つて 一 千 八 百 九十 四 年 十 一 月の 最初の 月 

えう, ひ あぐる ひ <ゎ ぇクび とくべつ せんき 上 それ :^^^;^H じんみん おのれら お 5 ( うし や 

曜日の 翌日なる 火曜日に 特別の 選舉が ありました、 其で ュ -タの 人民 は 己 等の 代表お とし 



はん せんき 上 乙 ひと と 上く べつ し 上く む ■ しう ため チん^ ふ フ ぐ 

て 百 七 人 を選舉 しました、 此の 人々 の 特別の 職務 はュ -タ 州の 爲に 憲法 を 作成る ことで あ 

これら ひと/:^- ねん £ つ ^ちしゃう ご じ ,,^^,^,H== し しょく わ 

6- ました、 是 等の 人々 が 一 千 八: 白 九十 五 年 三月 一 日 正午 十二時 サ ルト、 レ !キ 市に 集會し 

^ ^ けんばぶ- さくせい と し し みん ナ V くわ ハ し と 

て 直ちに 憲法 ケ 作成す る ことに 収ら か、. 9 ました、 サ ルト、 レ— キ 市の 市民で 敎侖; : の 使徒 

がぃ^^ゎぃ くわ S ちゃう えら Is- いぐわん ちゃう 

なる ジ ヨン、 ヘン リ、 ス ミス が該 會の會 長 に 選ばれまして 大管 長 クヰル フォルト、 ゥ 

かいぐ わ 5 ^ たう ため えら び やうき ため おのれ おい こ もん 

ッ ドラ フ は開會 の祈禱 をせ ん爲に 選ばれました が、 病 氣の爲 に 己の 第 一 の 顧問なる ジ 3 ル デ、 

キュ、 カノンが 代理して 祈禱 いたしました、 該會は 六十 六日 務めました、 漸く 一 千 八 I:! 

U ふ ゆつ が けんぽ ふ < わん ザい さク あぐる £; ク ifJ ん s 上 さい じんみん いた すう 乙 

九十 五 年 五月 八日 憲法が 完成し ました、 而 して 翌十 一 月の 選擧の 際に 人民の 大多數 が 此の 

けんば.^ し 上う はん ^J げんば ふ ■ しう ふ じん ^-んきょけん あた 

憲法 を 承認し ました、 此の 憲法に よって ュ 1 タ 州の 婦人 は選擧 權を與 へられました 

ちたら 1 しや ぐわん Ef せんきょ ねん 4^ つ か し 上く, f ちゃくしゅ 

新しき ュ I タ 州の 官吏が 選擧 された の-て、 一 千 八 百 九十 六 年 一 月 六日に 職務に 着手し ま 

さいし 上 ち じ . さいしょ しう むき やう 

した、 最初の 知事 は ヒ ベル、 H ム、 ク M ルス、 最.^ の州務 卿はジ H ムス、 テ-、 ハン モン 

. I 乙く /- わい か&ん さいしょ ぎ ゐん 4tf ん きょ ひと t 

ド、 國<|«1^ 院 への 最初の 議員と して 選舉 された る 人 は シ-、 ィ-、 アレンで あ. ました、 其 

ご : しう ぐ わ i> 1 I M く、 わい じ やう ゐん さ いしょ ぎ ゐん 

の 後 ュ 1- タ州會 は ュ ー タょ. 9國< ^上院の 最初の 議員と して ァ I サ、 ュ 〃、ブラウンと フラン 

. せんてい 

ク、 ジ H 、 カノン を 選定し ました。 

二三 五 



二三 六 

たい しゃう かい たぐ れん き ねん さ i- 

第 六 章 開拓 五十 年の 記念祭 

か 5. たくし や - い そ あれ 卞, あし ふ い ほと ねんへ 

開拓者が ュ -タに 入. 9 て 其の 荒 地に 足 を 踏み入れ てよ. 9 殆んど 五十 年を經 たので ありま 

す C 

たいぐわん ちゃう- そ ぎ けュ かいたくしゃ くみ ん めいしゃ ちゆう もっと お 

大管 長 ゥ ヰ- グ フォルド、 ウッドラフ は 其の 義俠 なる 開拓者の 組の 存命 者 中 最も 老いた 

ひと ねん けつ はち —— し たいく わ S なうな 5 おのれ いう じんお t 

る 人であって、 一千 八 百 九十 七 年 三月 一日 サル ト、 レ I キ 市の 大 會堂內 にて 己の 友人 及び 

おのれ け ぃぽ ひ あつ おのれ さい たんじゃぅ^!:, しゅく ひんかく たいく わい わう じゅうまん 

己 を 敬慕す る 人々 を 集めて 己の 九十 歲の 誕生日 を 祝し ました、 賓客 は大會 堂に 充満し まし 

しうち じ しぅくゎぃ;11-,^"んぉょ お ほ くわん リ しんと ひ しんじゃ しほつ せき 乙れ ■■ 

た、 州 知事、 州會 議員 及び 多くの 官吏— 信徒と 非 信者と— が 出席し ました、 是は ュ.' タの 

じんみん の 乙 やう や むつ ま くら し 上う/ J & けい ^^ぃ<ゎんちゃぅ . I 

人民が 殘らず 渐く睦 じくお す 一 つの 證據 でありました、 畏敬すべき 大 管長なる ゥ ドラ フ 

はと すべ し 5 つ ip.- き ひと あぐし ゆれい す こ つか やうす おの な :5 うしよ い 

が殆ん ど總て 出, した 人と 握手 禮を しまして から 少しも 疲れた 樣子 もな く 己が 住所へ 行つ 

*»■ つと した いう じん ため もよ ほ ぼんさん ぐ わい し; S つせ き 

て 最も 親しき 友人の 爲に 催された る 晚餐會 に 出席 いたしました。 

たう じ すで I じんみん ぐ さわけ .£ "いたくし や たうち たう T. 'やく ねん し £i くさい もよ ほ かゝ 

當時旣 に ュ 1 タの 人民 は 草 分の 開拓者が 當 地に 到着した 五十 年の 祝祭 を 催さん 乙と を 者 

が を ちじ _ たい しう ぐ わい て i- しゅつ さいしょ け うしよ ちゅう 

案へ て 居り まし. p:i、 知事 ヒべ ル、 ュム、 ク H ルス は 第一 期の 州會へ 提出した 最初の 敎 書中 



== けんぜつ れんし ゆぐ さい も 4^ は tt"£" ん こ け ラし上 a ん 

にュ -タ 建設の 五十 年 祝祭 を 催さん こと を發 言し ました、 (此の 敎書は 一 千 八 百 九十 七 年 一 

ゆつ か しう くわい 上 しう くわ 5 た, M 乙れ おう しう みん たいへ う た はんし みん 

:=: 八日 州 會で讀 まれました:) 州會は 直ちに 之に 應 じて 州 民 を 代表せ ん爲め 十五 人の 市民 を 

えら こに MMMMHMMMMMU ;;2 ん しゅくさい ゐゝん なヅ 乙 ゐヽん た ひつえ, ノ じゅんび ちゃく 

選んで 之,^ 「ュ -タ 五十 年 祝祭 委員」 と 名け ました、 此の 委員 は 直ちに 必要なる 準備に 着 

しゅ みないつ ち :;! つ しん はたら さう しう くわい これ ため ドル 55 ん けいひ し 

手して^ 一 致して 熱心に 働きました、 而 して 州會は 之が 爲に 一 萬 五 千 弗 (三 万圓〕 の 經費支 

し; 5 つ か けつ a たけう くわい てった うく わい しゃお 上 じんみん かく 1- わい きんぴん き ふ !! b つぐ わせ いたい ねん しゅく 

出 を 可决 し、 又 敎會と 鐵道會 社 及び 人 が 格外に 金品お 寄附した 結果 盛大なる 五十 年の 祝 

祭が ありました ◦ 

ねん ^^3== たう やく たくし や - ない ぐ わい かくしょ W- さん を 

一 千 八 百 四十 七 年に ュ I タに 到着した 開拓者 はュ -タ の. S 外, 處に 離散して 居りました 

かれら や- 'ゆうし 上 し ひと し わう,^ く S-A^ ひ およ どうし たい ャ, ふ あ ひお 

が、 彼等の 注 所の 知られた 人 は皆サ ルト、 レ-キ 市へ 往復す る旅费 及び 同市に 滯在 する 問の 

ひ き, \ 上 ひじ やう いうたい がい しゅくさい おも 巧 じ S" う た 5 けつ か くわ 

入費 を給與 されて 非常に 優待され ました、 該 祝祭の 重立った 事項の 第一 は 七月 二十日 (火 

えう び おいく わんち やう およ かいたくしゃ ため けんぜつ • き ねん ひ でよ 3 ぐし き 

. 曜日) 大管 長 ブ リガ ム 、 ヤング 及び 開拓者の 爲に 建設した る 記念碑の 除幕式て ありまし 

お かいたくしゃ えんたん を しうち じ およ ぞんめい を はくばつ かいたくしゃ もっと 

た、 老いた る 開拓者 は.; g 壇の 周圍に 居. 9 ました、 州 知事 及び 存命で 居る 白髮の 開拓者の 最 

かう れい えんたん た を れら ひと <Y めんせん 

も 高 船なる クヰ〃 フ オル、 ド、 ゥッ ドラフが 演爐に 立って 居りました、 是 等の 人々 の而 前て 

どうざう 上 まく お i" くわん ちゃう けん ひ き たう さゝ 乙 しき い み ぶか 

銅像の 除 慕 をし まして 大管 長 クッ ドラフが 献碑 祈禱を 捧げました、 此の 式 は 旨 趣が 深く 

三 一 一 七 



二三 八 

じん-/,.^ かんどう よろ 乙 乙れ もく: tw- ひと *2 ん 

人心 を 感動せ しひる 悅 ばし きも の であ. <^ ました、 のみならず 此 を目擊 したる 人々 は 五十 年 

かん ふかし ばたら き へんぐ わ みと ; t はい ^/i< また かみ かんしゃ やつ 

間の 不可思議なる 働と 變 化と を認 むる により 大に 感服し、 又祌に 感謝す る樣に なり まし 

どうじつ ご I し みん ぞんめい >1 にん ぁ:- いたくし や しょ, ノ さん た たいく. C い ういば 5 

同日 午後 サル ト、 レ 1 キ 市民 は 存命で 居る 五 百 人の 開 者 を^ 譜 する 爲め 大會堂 所謂 

まく e ん ない おいく わん ゆいぐ わい もよ ほ 

る 幕殿內 にて 大歡 迎會を 催しました 

がいし!? くさい か め はち 5: ん :2 ん e つたつ しめ ため 

該 祝祭の 二日 目 (廿 一 日) に 一 千 八 百 四十 七 年より 一 千 八 百 九十 七 年 まての 發達を 示す 爲 

リ つば e つたつ かさう ぎ やうれ ゥ すな tt そ ねんかん 乾きし あら は た しゅ ^c-- 

に 立派なる 「發 達の 假装 行列」 が あ ました、 即ち 其の 五十 年間の 歷史を 顯す爲 め 種々 の 

かくじ た c かぐし 1 ぷぅゼ ぐ じ やうたい Sr; つぐり もの こし It ぐ S_M の 乙 くるま とうないし とう うま 

各 時代 35^ 處の 風俗 狀 態に 擬 した 造 物 を 持へ て ISf に载 せました、 此の 車 は 二 頭 乃至 四 頭の 馬 

ひ あたか くわつ どラ しゃしん ごと たうろ つうぐ わ 

に牽 かれて 恰も 活動 寫與 の 如く 道路 を 通過し ま し た 

はちすな は いしゅぐ さい かめ じどう ひ . ■ IH^CA 1 ぐん 

二十 二日 即ち 該 祝祭の 三日 目は兒 童の 日て あって、 サ ルト、 レ-キ 郡. と ゥキ. 'バ 15 とヲ 

二 、ん かぐち やう さ はんじ どう ; y- やうれ つ かいたぐ き れん ひ なへ とほ こ 

ゲ 4 ス 郡の 各 町よ ら來た 一 万人の 兒 童の 行列が あらました、 開拓 記念碑の 前 を 通って 此の 

お い じ どう はな とう を たい まった う., つ はな や S つ かさ がいき ねん ひ さ 

大勢の 兒童は 花 を 投じて 其の 臺を 全く 埋めて 花の 山 を 積み重ねました、 該 記念碑 を 去って 

た^, - れいた ラ あつ あ *f 上 じ はん じ どう おい (う もっと お かいたくしゃ 

大會 堂に 然ま らまし. もこて 或る 女兒が 一 万人の 兒童を 代表して 最も 老いた る 開拓者な 

いくわん ちゃう かう ぺ りつば はな かんむ リ の * .T,? わ V 

る大 管長 ゥヰル フォルド、 クタ ドラフの 頭に 立派なる 花の 冠 を 載せました 又 ュ-タ 草 分 



いいたく しゃ すべ かみ おんけ い C そ ひぼん I じっさいてきお 上 ふう て 3 

の 拓 者の fj てに 神の 恩惠 あらん 乙と を 祈り まし.?^、 其の 日の 晚には I 實際的 及び 想像: 

I みら は ぎ やうれ つ 

^^、 レ.' キ巿」 を顯 すと M ろの 行列が あった のて ありました 

Z し. e ぐ さ..,' を は s- ひ か りつば うち *H たぐ さうたい ぎ ややれ つ そ 

此の 祝祭の 終の 日 (二十四日) の 立派なる? 一との 內又, 壯大 なる 行列が ありました、 其の 

う-ち かいたくしゃ ふる ぼ しゃ ぎう しゃ ま たは,、 ば" かいたくしゃ いくわん ちゃう —— ^ 、v-;r;, んゃ 

中に 開拓者の 古き 馬車と 牛車が あ. 9、 又 白髮の 開拓者 (大管 長 ク 、- ドラ フ のみ 乘 Imp しま 

.5- うれい ため て あし をの ゝ る Z みち リ やうが a た ほせ, い > ひ,; — 

した) が 高齢の 爲に 手足 も戰 きながら 步 行きました が、 道の 兩 側に 立ちました 大?^ の 人- 力 

乙 しら らうこう しゃ み お ま 尸 かん う どうかつ さ い ま あ さう ク ひたく し-や .1, ろ 乙 

此 等の 老功 者 を 見て 大 なる 感に打 たれ、 一同 吸 釆の聲 を 揚げました, 而 して 開拓^ は悅び 

わら 乙. I- ち みと ぼん I こ やま ぱ なび あ 乙 3 い さいご 上 ri づ 

笑 ひながら 此等を 認めました、 晚 にカビ トル 小山て 煙 花 を 揚げた のが 此の 祭の 〔取 後の 餘典 

て ありました、 六离人 以上の 人々 が 之 を 見ました 

*- 、 ノ .》 くさ、 ; a ナふ .fsj くし- e たっと ほ ひと たのし くれ .こ aJ と つ & く. 》 い 

ii 祝祭 は 義^なる 開拓者 を 尊び 褒める 乙と、 人々 を樂 ませる 乙と、 過去の 事 を 追 回せし 

わか たん ifi かんどう . ざい ゆ i c^i< afe . 

むる 乙と、 若き 男女 を 感動せ しむる N- と、 ュ I タの 財源 を廣吿 する こと 又 ュ-ク の五パ 

n しいん しし;" はったつ つぶ あら a じ,? ん せい/ J う けいぎ v じ や. う おい ^^^h >,,) 

の 進步發 達を審 さに 表す 乙と ゝ して 十分に 成功し ました、 經濟 上に 於ても 成功した の 

いかん る ヽん が しゅくさい ^.^ひ ばら のち,, K ル、. I, ノク! ) ほ-か- -ほ 一け l 

です、 . 如何と なれば 委員が 該 祝祭の 入費 を拂 ひました 後 二 千 弗 (四千 圆) の 殘金グ 外に パト I 

1'- ij -,^-んぶっ *^んれ っぐゎん さう しう じんみん な^びと か、 ゐ、, % 

ケむ 物?^ び 記念物 陳列 館が あ. 9 ました、 而 して ュ タ 州の 人民 は 何人に 拘 はらす^ 恤 なく 

二三 九 



二 四 〇 

- ねん しゅくさい み また かいたくしゃ な じゅふ ほ た び や ラ どう あつ 

ュ I タ 五十 年 祝祭 を觀、 又, 「乇 \ モ ン」 開拓者の 成した る 事業 を 褒める 爲め 平等に 集ま. 9 ま 

みな 乙 /- ろ あば い 5^ ん いっそう しんみつ くわん け い かん 

したので、 皆 心 を 合せ、 以前よ らも 一層 親密なる 關 係の ある 乙と を 感ぜし めました。 

たい しやう ベい せい せん さジ お nNMi ひ 

第 七 章 米 西 戰爭に 於け るュ ー タ兵 

U ん ゅヅ はちがつし § うこく せんとうかん せい イシ K たう ■ : う ていはく 

一 千 八 百 九十 八 年 二月 十五 日 合 衆國の 戰鬪艦 メインが 西 印度 キ ュ 1 島ハ バ ナ 港に 綻泊 

を とき ぼくれ つ ちんぽつ 乙れ む ろん ぐん しぐ わん かん ぽシ いで さう fO 

して 居った 時に 爆裂して 沈沒 しました、 此は 無論 スぺ イン 軍の 士官の 奸 謀に 出た に 相違 あ 

乙れ お I MnM^< !^-っしゅラこく せん さ う やう どうねん ゆつ はちがつ しゅ 

りません、 之が 爲めス ペイン 國と 合衆國 が戰爭 をす る樣 になら ました、 同年 四月 十三 日 合 衆 

うこぐ^. \ くわい かるん かい ぜんぷ Z0 ぐあん か けつ. S ぐてい ばち ど えう び じ やう &ん たう どく 

國々 會 下院が 開 戰布吿 案 を可决 確定し ましたが、 十六 日 (土曜日) に 上院が キ ュ-パ 島の 獨 

リっ こく せん 卞. んし上 っ&. S さう にちじ やう りゃう ゐん かいせん ふ こく あん つるか せん ゆん し 上 

立國 なる 乙 との 宣言書 を 追加し ました、 而 して 十八 日 上下 兩院 は開戰 布告 案と 追加 宣言書 

か けっかく てい ゆつ にちいよ. (せんたん ひら がっしゅうこく じ^んやう かん 

を可决 確定し ました、 四月 二十 一 日 愈 戰端を 開きまして 合 衆國の 巡洋艦 ナ ッ シゲ ヰ〃 が 

ざいもくし やう せん じつたん ばっし や それ ほく わく おちたい とうり やう —— 

材木商 船ビ ユエ ナ、 ゲ H ンチ ユラに 實 彈を發 射して 其 を輔 獲し ました、 二十 三日 大統領 ゥ 

. はん ぎ ^5ぅへぃちょぅはっれぃ ばつ ■ しラち じ I 

ヰ リア ム、 マッキ ンリが 十二 萬 五 干 人の 義勇兵 徵發令 を發 しました と. ころ ュ ー タ州 知事 ヒ 

1 j: しう ぶんす たは ねんしぐ わんへ S はん つの i うしよ せん ゆん しよ お 

ペル、 ュム、 ゥ M ルスが ュ-タ 州の 分 即ち 二 年 志願兵 五 10 人 を 募らん とて 召集 宣言書 を 出 



しました、^.^^ 兵營に 置かれて あった 黒人の 兵 は 市民の 萬 歳 及び 喝采の 雙 のみならず、 

せんとうかん き T -J とば み/ -ひゾ か は し しゅつ 

r 戰鬪艦 メイン を 記憶せ よ」 とい ふ 言葉 も 耳に 響いて 二十日に 早 ゃサ〃 ト、 レ I キ巿を 出 

たつ さう こ へい こ やま ぜんとう お さいゆう へい とな 

立した ので あらました、 而 して 此の 兵はサ ン ヮ ン 小山の 戰鬪に 於け る最 勇の 兵と 稲 へ られ 

な おか ゆつ はち V せん NMHL お は (, か e い : みん 

て 名高くな らました、 四月 二十 三日、 以前に サ i ト、 レ-キ 市に 置 力れ たる 步兵第 十六 聯 

たい ほく はう ■ ^ たうち や、 4t じ ぼくれ うお 上 みんぺいし くわん とう むか 

隊が 北方より ォグデ ン 市に 到着した が 知事 ゥ M ルスと 幕僚 及び 民兵 士官 等に 迎 へられ まし 

さう ばん しみん ふる 乙 (い 52 つ しん ぐわん: Z りゃうた. $ せんち ゆ 

た、 而 して 五 千 人の 市民 は 奮って 此の 兵 を 熱心に 歡迎 しました、 此の 兩隊 は戰 地に 行く の 

でぁもまし^^-0 

Kr. もく ぇラ * ひ ^いぐわん ちゃう を こ もん マ 5 うはう 乙く C ん こぶ た くわん 乙く し 上 

二十 八日 (木曜日) 大管 長 ゥ t ドラフと 其の 顧問 は 義勇 報 國の念 を 鼓舞す る爲め 勸告書 

はつ がっし ゆう r- くせ S 丄 I たい ち 上ゥ はつ tf つじつ せいと せい ねん すみ や かっきん ん おう 

を發 して 合衆國 政府の ュ I タ に對 する 徵發に 末 g: 聖徒の 靑 年が 速 かに 且 欣然と して 應 する 

す/ しんぺい ぼしぶ くわん ば けん ところ た ち せい w 上く あ ゆうかん せいねん わ くば 

こと を勸 め.^ した、 新兵 募集 官が 派遣され た處、 直に 精力 有って 勇敢なる 靑年は 我 か國の 

た ん Jvi く つく けっしん ち 上う はつ おう はふたい 

爲め 全力 を盡 すの 决心 にて 徵發 に應じ 入隊し ました 

ゆつ K ち 上 あけ かぃぐんせぅしゃゥぃ^^*たぃしゃぅ 5" つし ゆうこく アジア かんたい A つ > 

五月 一 日夜 に 海軍 少將 (今 大將) ジョ ルデ、 ダ ユウ ヰが 合 衆國の 細亞 艦隊 を 以て マ -ー 

1 かう おい ス ぺ イシかん た i- せんめつ &レ1 上う W はう 乙く X い 3 しん =1 しう かくち a う = 

.^^^港に於て西班牙艦隊を全滅せしめた大勝利の報吿に依..5て今新ュ - タ 州の 各地 方よ h- サ 

二 四 1 



二 四 二 

し お. & し,^ とんち し,^ がふ しぐ わんへ い お ほい かんどう い 上^ ^つ しん 

, -ト、 レ -キ 市の 大集屯 地へ 集合し つ,^ ある 志願兵 は大に 感動して 愈 熱心に な,^ ました、 

かくち やうえん ひと 乙く き お いろく け, A くわい ぐ. みあ ひ けうく わい がく か ク あいこく おん!^ ぐ \ わい しゅ 

お 町村の 人々 は 闘 旗 を 立て、 諸 多の^ < ^と 組合と 敎^ と 學校は 愛國音 樂會を 催して Jli 々の 

しゃ, ノか おんがく えんせ ク 

i? 歌と 音樂と 演 說 とおしました 

ゆつ かせう 3 1 せっさ 

五月 二十日 少佐 リ、 ンチ ャ-ド 、ダ プル ュ、 ヤン グと 少佐 エフ、 - — 、グラントが H I (A) 

ばう へいち ゆうたい やうたい や、 はん たいは ラ もん も 5 し 小った c\ 

とビ - ( B 〕 砲兵 小隊の 雨隊約 三百 人と 大砲 八 門ば か. 9 を 持 つ て カルト、 レ _ ^市 を 5^ 立し 

* > > しみん かみ ない おんけい そ へいし a«„ そ かう さかん こ 

ました 力、 市民 は 神の 大恩 惠が 其の 兵士に あらん 乙と を 願って 其の 行ヒ壯 にしました、 此 

(い ヒ リツ ピゾし 上おう ゆ はち し ちゃく ひじ A- う 

の 兵 は 比律賓 諸島へ 行く ので ありまし たが、 二十 二日 サン フランシス コ 市に 着す る や 非常 

べカ丄 ゆい - そ-ご か fti-K! き へい はん 

に歡迎 されました、 其の後 二十四日 大尉 ジョ セフ、 ィ-、 ケ インが ュ f タ 騎兵 を 八十 二人 

ひき しゅったつ A 5 ばちたい さ 

率ね て 出立し ました、 而 して 十五 曰に 大佐 ジ ヨン、 キュ、 カノンが ト I レのラ ッフ、 ライ 

し ぐわん じ 上う ぼ,! i ゆきへ い ちゅうたい な J へんせい ため しラ I し 

I ダス (志願 乘 馬狙擊 兵) アイ (I) 中隊 を 率. Q て 編成す る爲に フヨ ミン グ州 シャイ ユン 市 

しゅったつ 

へ 出立し ました 

ュ— > け わ いんで う がいぜんち お { い ぎ ゆ,, 《 ゥこゥ せいしん a つ 3 ぶ ゆう おん 3 さい 

此の 敎會 史上に 該戰 地に 於け る ュ -タ ハが義 gM^ 公の 精祌, 揮した る 武勇 談を 記载す 

— と^: けん と かく が いへ 5- し じんちゅう ため === しう およ わ がっしゅうこく おはい はめ 

るの 特權 はない か、 鬼に 角に 該 兵士が 盡忠 したる 爲に ュ I タ州 及び 我が 合 衆 國は大 に譽ら 



V せ 人 ■ : て ひと I :,,: たいた す. p- けラ しんじゃ 

れ ました、 以前から ュ タ に敵對 せし 人 < -がュ -タ州 民の 大多數 は 「モル モン」 敎の 信者て 

みなよ ちゅう あい 乙く しん まった な ものた ふ 乙く 乙と --; ■ I とう <1> けん しう にん 

あって、 皆 不忠て 愛國 心の 全く 無き 者 だと 絶えず 誣告し、 特に ュ-ク が 統治 權 ある 州と 認 

か いぜん M な はた 乙ん < わい 8= へい はう/ J くて きかう ためい つ かんもく 

可され ぬ 以前 は 益し かつ. 5:^ のて あるが、 今回 ュ I タ 兵の 報 國的行 爲の爲 何時 まても 緘默す 

る樣 になり ました、 ラ ッ フ、 ライ ダ -スは 一 千八百九十八^^^-十月ー 一十 八日 フ |ロ リ ダ%ジ ャ„^ 

I かいたい どう, つ かへ ;, 1 リグ ピンた う =IH ゥ (i, ちゆうた i 

ソン ゲ. 市て 解隊 になって、 同月 ュ-タ へ歸. ましたが、 比 律 賓島マ -1 ラ 砲兵 中隊 は 一千 

ねん £ ク はち (いえき i< どうじ ク I かいたい 

八 百 九十 九 年 八月 十六 日 まて 兵役に 服して 同日 サ ン フランシスコ て解隊 にな まして、 t 

九日に ュ -タに 到着す る AJ とに なって 居. ました、 其 故に 知事 ク M ル スが 宣言書 を發 して 

S ち ■ しう きゥ じつ しう みん ねっしん そ ひま も まご \ ろ i ろ t MMMMM 

十 4=< 日ケ -ュ. 'タ 州の 休日と しました ので、 州 民 は 熱心に 其の 日 を 守り、 眞心 より 悅, c: でュ 

ク r くわん ゆ い ごと せんみん I < い しう よろこ かつがい へい 

-タ兵 を歡迎 しまし. f:i、 かくの 如く ュ -タの 全 民はュ -タ 兵の 歸州 する 乙と を悅び 且該兵 

くわん ゆい 乙れ たう ぜん 

を歡迎 しました が、 此は 當然の N- とてあります。 

これら 2 し おのれ ぎむ X つと ひと/ Z.., ちゅうゆう ぐんじん しょう (S 

此 等の 男子 は 己の 義務 克く 務めて 人々 よ 6 忠勇なる 軍人と 稱 せらるべき 兵で ありまし 

じつ せんし 上う t つけ. S くわん ぶ かれら W な ところ おんたい かれ & れきし 3- ゃク 

た、 赏に戰 勝の 月桂冠の 一部 は 彼等の 荷へ る處て ありました、 间隊 としての 彼等 は歷 史上 

むじ ゃク くわう えい はな _K た == しう かれら もつ えい ゑん はこり さう Z しん 

に 無上の 光 榮を荷 ひ、 又ュ |タ州は彼等を以て永遠の誇としまし^^、 而 して 個人と して は 

二 四 三 



二 四 四 

ヒ リヅ ピゾし 上た うせん さう もっと じん s-t く も ばんてき じん, ぶつ み な それ ゆ ゑ ケんじ ^ やう たつじん 

比律賓 諸島 戰爭 で、 最も 盡 力した る 模雜的 人物と 見做されました、 其 故に 事 上の 達人 か 

かれら ぎ む た 5- ぜっ おもん それ つく ねっしん さ 5 のう かつ ひんかう ばう せい ゆうし しゃう さん 

ら 彼等 は 義務 を 大切に まじ 其を盡 し、 熱心で、 才能 あり、 且 品行方正の 勇士と して 賞賛せ 

S た ん けい みプか めい やい あ わ たいき. M うわ 乙ぐ しょしう 

られ、 又 翁 敬され ました、 かくて 自らの 名聲を 揚げた のみならず、 我が 大 共和 國の諸 州の 

うち , しう な ひじ やう たか rV れゅふ すべ 1 じん 乙と-: そ (い ぶ f ん ちう い 

中で 一 一 I タ 州の 名 を 非常に^ めました、 其 故に 總 ての ュ I タ人は 悉く 其の 兵の 武勳に 注意 

おのれ また それ さん 上 ごと ん いま な は そ ごと かん また そ 《いし ゆうき 

して 己 も 亦 其に 參與 せる かの 如くに 感じました、 今も猶 其の 如く 感じ、 又 其の 兵士の 勇氣 

と名譽 との 爲に 利益. V 受けつ、 ある 乙と を 忘れて は 居. 5 ません。 

ふ つう うんめ 5- し 上う うんめい いふ むし かみ おんけい み な =w 

普通に 運命と 稱 せらる \ もの は 運命と 云よ. 5 も 寧 神の 恩惠と 見做さね ばなら ぬが、 ュ 

J ,」 ? り*< かう ぜんとうお 上 3 こぐ 4^ ゆう おはい こ かみ おんけい し ゆん あらしお よ じんじ やう 

I タ兵は 旅行と 戰闘 及び 歸國 中には 大に 此の 神の 恩惠を 蒙りました、 自然の!^及び人事上 

ゎャ. -はひ ぐるし がいへ い うん そっせん あん をん たいやう わ た せんち 、-し (い 

の災 に 苦 めら る、 事な く、 該 兵の 運送船 は 安穩に 大洋 を 渡航り ました、 戰 地て 此の 兵 は 

つね せんれつ を ^ \ し、 やうし や ふ し ぎ すくな せんち い めい うち 

常に 前列に 居った に拘 はらず 死傷 老は 不思議に も少 く、 戰 池へ 行った 三百 五十 四 名の 內に 

わ, つ めい し 、や ^^んのぅ み ふかし is そ ゆうし てき たんぐ わん 

僅かに 十三 名の 死者が あ. 5 ました、 かくて 全能なる 神 は 不可思議 にも 其の 勇士 を 敬の it 九 

えき, ひやう は ご fes 

と 疫病より 保護し 給 ひ し. i 



K>S> しゃ ラ お くわん ちゃう . IK せ 5. 3t 

第 八 章 大 管長 ゥ并ル フォルド, ウタ ドラフの 逝去 

<5^ぃぐゎんちゃぅ . S ん ゆつ 6! ち ^ぅ 1 

大 管 長ク ヰ〃 フ ォッ, ド、 ク * ドラフ は 一 千 八 百 七 年 三月 一日 コネチカット 州ハ I トフ 

ド郡 1^、、 ング トン 町 (今 H -ゲ アンと 稱す) て 生れ、 一 千 八 百 九十 八 年に は 九十 二ん 威 

けうく わい さう りつ ねんの ちすな は ねん ゆつ ばち i しんれい 

であ ました、 敎众 :; の 創立 三年 後 即ち 一 千 八 百 三十 三年 十二月 三十 一 日 ウッドラフ 氏 は浸禮 

う はぶく わい それ ほと さう w つ とき けうく わい いよ- (\ せ. & おい み たちう い 

を 受けて 入會 しました、 其て 殆んど 創立の 時よ. 敎 〈1" の 愈々 盛大になる 乙と. を 見、 又 注意 

そ 》^ しぎ れきし おのれ はっき の さう そ はっき もっと ねんい ゆ たん 

して 其の 不思議なる 歷史を 己の 日記に 載せました、 而 して 其の 日記 は 最も 念 を 入れて 油斷 

か ひと にっき うち もっと 上 でき を i しゃう がい め., つら けう 

なく ま" いた 人の 日記の 中で 最も 能く 出來て 居らました、 ウッド ラ フ 氏の 一 生涯 は 珍しく も敎 

ぐ わい れ a- し くわん け S ふか ねん ゆ つ か けうし やく はん と a- 

八 I:; の 履 史に關 係が 深く あるので す、 一 千 八 百 三十 四 年 一 月 二 B 敎師の 役に 任ぜられた 時よ 

る& しん しんけん すべ くら & のぽ ねん ゆつ ぼ ? し 

.5 累進して 神 櫂の 凡ての 位に 上り 一 千 八 百 三十 九 年 四月 二十 六日 ファ I、 ゥ I ス ト 市で 十二 

しと はんはん とき つね けうく わい つかさら かう さい - じ ゆ ふすな: a けうく わ 5 かみ じ 

使徒の 一 人に 任ぜられた 時 まて 常に 敎會の 司 等と 交際して シ オン の 事業 即ち 敎侖: : は 神の ^s- 

ゆ ぷ X さと さう けうぐ わ S しん ぼ た いか はたらき はん い 

業て あると 能く 覺っ て を. 9 ました、 而 して 敎々 の 進歩の 爲め 如何なる 働に 任ぜられても 何 

つ ; 2 つ しん ちゅう Irj つぐ そ はたらき せ 5 じつ おこな けう くわい もっと せい 乙う せんけう し 人 

時 も 熟 心で 忠義 を盡 して 其の 働 を 誠 實に行 ひました、 敎 ti:! の 最も 成功した る 宣敎師 の 一 人 

二 四 五 



二 四 六 

またもつ と しんじつ し ぺ ばん せいねん じ た 5 けラ くわい とも せいちゃう おは おどろ 《ん く. 1^ 

て 又 最も 信赏 なる 僕の 一 人でした、 靑年 時代よ. 9 敎 Z ぼと 共に 成長して 多くの 驚くべき 變化 

み Iwfe ぼつ じっせいと たい かみぶ し ぎ とりあつ かひ けいけん 5 んき 

を 見, 又 末日 聖徒に 對 する 神の 不思議なる 取扱 を經驗 しました、 ク ッ ドラフ 氏の 一 像 記 は 

け. <^ くわい れきし ごと ^ん ばんこう はんい プ ^ > ^ ^ 5 がた ところ ばつ じつせ. si ィ>^スキリストけぅく.^ぃ だ f 

敎^ の 展史の 如く 前半 後半 孰れ も經靈 し 難き 所て あ. - ますが、 末日 徒耶穌 某- 督敎 會の大 

わんち やう ざいし 上く あ ひお じつ けうく わい き じちゅう もっと いちじる たいじ けん いくら も そ 5 

管-おに 在職の 問 實に敛 會の奇 事 巾に 最も 著 しき 大事 件 は 許 多 ありました、 其の 主なる も 

しる ^ つぎ ごと せいと おそろ tt く う ぶた さい じっかう きんし た 

の を 記せば 次の 如し、 聖徒が 恐し き 迫害 を 受けた ので 一 夫 多妻の 質 行 を 禁止した こと, 多 

3 いし s!3 わん せん ゆん t みん たう じ いうた ゥ かい 3 ん 5 うみん く SS かくしゅ せひ 

妻 主義に 關す る 宣言 に 依りて 民 黨と自 山 黨とを 解散 した 己 と、 ュ 1^ 州 民が 國の齐 穩の政 

^-. ^. ij め W » ね; 5 かん つ ひや しんでん ふ しん これ かみ けんでん 

黨に 加盟した こと、 四.^ 年 問 を 費して サ ルト、 レ ー キ 神殿 を 普請し 之 を 神に 獻 殿せ しこと、 

1 うみん、 MHM^^ さ たぅせぃ;0ぅ^?ゃぅ けんぜつ そ きょうき ぷ た あ ふ やつ さ たう せハ ざう 

ュ I タ州 民が リ- 、ノ ィ 町で 砂糖 製造 場 を 建;^. ^ して 其の 供給 を 他に 仰がざる 樣に 砂糖 を 製造 

いく ち 上 きん も ちぐせ き よく しめ ない 之ん こじゃう ぉハ い 

して 幾 百万 弗と なく- 貯 4;^; し、 其の 菩積カ を r 小した る こと, 大孃 湖上に 於て サルテ -ァと 云 

ぶたう、 く.^ ん およ す&とく^^ゃぅ a う —— "な み, つ もち でんとうお 上 でん si く おこ 

ふ舞踏ぺ卟&び水浴場を!^..^けたる乙と、 ォクデ ン 河の 水 を 用. Q て電燈 及び 電力 を 起した る こ 

と、 ュ -タが 合 衆國の 統治 櫂 ある 一 州と 認可され たこと, T^iw 祐 者が サ ルト、 

たうち やく を リ :j; ん 3- ねんさい お t な ate - l y- ゆう (い SJ んべ 5- せいせん 

に 到着した 際の 五十 年 記念祭 を 行 ひたる 71 と、 又ュ . 'タ 義勇兵が 一 千 八 百 九十 八 年 米西戰 

さ * う , とう S ん ん ■ しんでん けんでん とき し 上 

爭 にいて たこと 等て あ ftN ます、 五 年前サ ルト、 レ I キ 神殿 を獻 殿した 時 ウッドラフ 氏の 預 



ゆん すな は かみ ちか A\ NNUnMnHH なぐさ また どい おんげ S あた たま すで 

言した こと, 即ち 祌が 近々 にシ オン を 慰藉め、 又 大恩 惠を與 へ 給 ふべ しとい ふこと が旣に 

につ ゆん さゥ 乙 かう れい かみ レもグ も たしか じっ^ん み 

實 現されました * 而 して 此の 高齡 なる 神の 僕ク ッ ドラ フは 其の 確に 赏 現さる、 を 見る まで 

な £ ら ねん けつ か =1=^== し mi 

生存へ て、 一 千 八 百 九十 八 年 九 ar 二日 サン フランシス. コ で 死去し ました 

も し 6ti およ し き 上い せん り やぐき か やう II Im すうねん 

其の 死去 及び 死去 以前の.?., 略記 すれば 斯樣 である、 クヰル フォ っ^^ ッ ip,^ フ 1 は數年 

あ ひた はか ゲ やうき ふみんし やう ねん ゆつ はちゃう じ やう た 

の 問 外に 病氣 とて はしなかった が、 不眠症に よりて 一千 八 百 九十 八 年 八月 十三 日 養生の 爲め 

おの つま ふく、 わんち やう そ つ IM とも — し しゅつ ぉゥ 

己が 妻 ュ ン マ と 副 管 1:^^ ジョ ルヂ、 キュ、 カノン と 其の 妻と せ、 にサ ルト、 レ I キ市を 出立 

たいへい やう かいがん -1 も し; S つたつ とき ゆん 3 上 ! g くわ. S つく 

して 太平洋の 海岸に ゆきました、 思 ふに 出立した 時 は元氣 好く 偷 快を盡 した 乙 とでせ う、 

し たうち $ く でう ち ばつ じっせいと しふく わ. S >* つ はう なた ヽ いへい やう かい M- ん さい 

サン フランシス コ 市に 到着して 當 地の 末 :n 聖徒の 集會 で說敎 し、 又 太半洋 海岸の 八十 歲ょ 

さい らう じん し丄 くわい お ほやけ えんせ つ じつ 上 *ct を ひつ はち ひつ 

.0 九十 歳までの 老人の 集會て 公 に演說 をし ました、 實に 悅んで 居りました、 九 E: 1 日泌 

ねう び やう ひじ やう くるし あぐる かご せん じ ぶんたい さ いへ し 

尿 病で 非常に 苦み まし. 5^ が、 翌 二日 午前 六 時 il 十分 大佐 アイザ ク、 ト ランポの 家で 死に ま 

こ ばん • てった うく わい しゃ むちん そ & がい さう しゃ の =1 

した、 此の 晚サゥ ザ 1 ン、 パ シフ. - ク鐵道 會社は 無貨で 其の 遺骸 を 葬^に 载 せて ュ-タ へ 

おく /J きしゃ か はちえ うび ご e- ん じ ぶん し ちゃぐ — W 

送 6 ました、 此の 汽 M. は 四日 (日曜日) 午前 七 時 五分 オグデン 市に 着し ました、 オグデン 市 

I ぶち やうぐ わい かう とうさい けっしょく かぐ ぶ かんとくら きん せっち はう きた 

では ゥ ヰ- \ ス テ I キ 部長 會と 高等 裁决 職と^ クヮ -ド 部の 監督 等と 近接 地方より 來れる 

二 四 七 



二 四 八 

すう はん おも ちゃうら うお i たうし かぐ かいきょ しゅうば f A ほく K やうえ うなん はよ I ていしゃば 

數百 人の 重立った 長老 及ぴ當 市の 各階 級 や 宗派に 屬 する 多の 長幼 男女 は オグデン 停車場に 

あつ § つかさ けい、 《う みな さい ぼう たつ しゅくせん かたち あらた 乙 ゑ ひ,! も 

集まり、 逝きた る 司に 敬意 を 表せん とて、 皆 一 齋に帽 を 脫し肅 然 容を 改め 聲を 潜めて 其の 

きしゃ 5 きた なが そき しゃ たうち やく ぶん ま( I し 

汽車の 入 6 來るを 眺めました、 其の 汽車の 到着せ る 五六 分 前に サ ルト、 レ-キ 市より リオ、 

てった う りんじ き しゃ ; 1= ていしゃば つ ふく ゝ わんち やう 

グラ ンデ鐵 道の 臨時 汽車が、 ォ グデ ン 停車場に 着きました、 副 管長 ジ ヨセフ、 ュフ、 スミ 

. I けうく わい かんぶ ^ほ やく はん け ひと 乙き しゃの a- — 

ス と敎會 幹部の 多くの 役人と ゥ タ ドラフ 家の人々 が 此の 汽車に 乘 つて 來 ました、 サン フラ 

—— き しゃ たうち やく さう しゃ — し ゆ やう たど 

ン シスコ よりの 汽車が 到着したら 葬 車はサ タト、 レ I キ 市に 行く 樣に 直ちに リオ、 グラ ン デ 

てつおう せんろ うつ て いし fa- ぼ はっしゃ 3( さう しゃ と ひら 

鐵道 線路へ 移されました が、 オグデン 停車場より 發 車す る 前に 葬 車の 戶が 開かれました、, V 

すう ひと/! Y さう し々 うち .4 は なが ねむり やす しんじつせ i, ちょぐ そんけい つかさ ゐ がい み 

れ で數: 白の 人々 は 葬 阜の內 を 通って 永き 眠に 懇 みたる 眞實 正直て 尊敬すべき 司の 遣 骸を覽 

きく わい え ふく \ わん 4^ やう あくしゅれ?" ひと i リ上 かう およ 

るの 機會 得ました、 副 管 長 カノ ンと 握手 禮 をした 人 も ありました が、 カノ ン氏は 旅行 及 

か iW へ たがた できごと つか す aJ び やうき な はお は 

び 三日 前からの 耐へ 難き 出來 事の ため、 疲れて 少し 病氣 であ. - まし. けれども 尙 多くの 

はう いう いさつ でき そ C はぎ なみお r-^ ■> 

朋友と 拶挨 する ことが 出來 ましたが、 其の 手 を 握りながら 涙 を 零しました、 ウッドラフ 氏 

しっそ ねく れん I し う か ほ W- 上 B なと おは 

の 質素なる 寢棺は カリフ オル ュ ァ 州の 馨の 好き 花に 取. 5 まかれ 掩 はれました、 のみならず 

し き 上 i せいじ 5 く しゃう が い てきた ラ きしゃう くわん うへ じ^ぐ a しか 

死去し { ^るゥ ッ ドラ フ 氏の 成熟した る 生涯の 適當 なる 徽章と して 棺の 上に 熟した る稽 ある 



乙 むぎたばお あし はう ばな tt しら た かう ぺ ばう ぼら はなで き 3 くら は 

小麥の 束が 置いて ありました、 足の 力に 花の 柱が 立ち、 頭の 方に 薔薇の 花て 出來た 枕に 似た 

もの さう ゅリ え; V きく おらん おせきち くお i S ろ はな ばら *^ そ まば 3. ち ^ 

る 者が あって、 而 して 百合 花、 翠菊、 和 蘭 石竹 及び 色々 の 花が 澳々 と 其の 周圍に 散って 居. 

乙 ちめい ひと & がい おの あい - ちゃく ひ ゆつ のどか ひ - 

ました、 此の 知名な 人の 遺骸が 己が 愛せし ュ -タに 着せし 日 は 九月の 長閑なる 日で ツキ 

= さんちゅう かぎ じつ うら ヽか あき てんき それ またせ. si Z ひ たんじき * ひ <M も 

I 山中に 限る. 赏 に淸麗 なる 秋の 天氣て ありました、 其に 又 聖徒が 此の 日 を斷食 日と して 守 

てん;; んし せん さう ごん せい あんそくじつ へ i- わ しゅ ラけラ じ やう しんかう 上 

. ^ました、 天然 自然の 莊嚴 なる 乙と.,^ 聖 なる 安息日の le- 和と 宗敎 上の 信仰と に 依りて さす 

t ひ ひと /=> かんどう さいし 上 ものす & あつ ひと <.» 55 まじめ ひ あ 5 

がに 此の 日 は 人々 が 感動いた しました、 最初 は 好奇心で 集まった 人々 も 今は眞 面目に 悲哀 

の 底に 沈み ま-た。 

き しゃ —— ^ ちゃく ねく わん ばし さう しきば しゃ の たど そ ば 

汽車が サ ルト、 レ -キ 市に 着して 寢粮と 花な ど を 葬式 馬車に 載せます ると 直ちに 其の 馬 

しゃ はじめ そ あと しんる & はう いう ば しゃ おは 上. V おいぎ やうれ つ たうし ちゅうわう;; 5" とほ- 

車 を始 として 其の後に 親類と 朋友の 馬車 は 大凡 三十 臺 行列と なって、 當 市の 中央 街 や. - 通つ 

て リバ -テ -公園を過ぎ,ク^;^7^別莊へ行きました、後で 一 千 八 百 九十 八 年 九: IT 八日 (木 

えう び たうし いく わ. S おうな 5- さう ぐ わい ひら き そ ひ — しう ばう なん 

曜日) 當 市の 大 會堂內 にて 葬會を 開く NJ とに 極めました、 其の 曰ュ 1 タ 州の 四方より 何千 

はん ぐ わい さう お 5 くわいた うない む ひ さう れい せいそ かで かんたん しる S と はり 

人と なく 會 葬いた しました、 大會 堂內の 無比 壯麗 で淸楚 なる 装飾 を簡 短に 記せば 左の 通て 

かう たん しろ け どんす しろ W- つば かけ かざ しやう かたい ぐみ 

あ も ます、 講壇に 白き 毛 緞子と 白き リボンが 立派に 招 飾つ て あ. 5 ました、 唱歌 隊の大 なる 龃 

二 四 九 



二 五 o 

ふ じん のこ しろ い f き し き 上 し しん/ \.SJ- い も す" た う 《 し 

の 婦人 は 殘らず 白き 衣服 を 着ました、 死去した るゥ ッ ドラ フ 氏の 異身大 の 肖像 啬の 上に 「死 

な はかた 5- はしへ きん ん いろ- でんとう ししら おは ひ まへ 

する も尙 語る」 とい ふ 古の 金言が 色, > の 電 燈で搏 へて あ. 9 ました、 大 なる オルガン の 前に 

おは がっしゅうこく ZJ くき か Z- さう ■ . い せん ありさま しるし し ヽゃ ぐ. G 

大きな 合 衆 國の國 旗が 揭げ てあつた、 而 して ュ -タの 以前の 狀 態の 記號 として 死者の 書の 

1 た 3 • • おは たば...! Y みかけ あら まつ えた また 

下に 向日葵 力 せて ある セ -チ、 ブラッシュ の 大きな 束々 が あり、 外見の 荒い 松の 枝、 又 

およ きいろ は ず ゑ た ぼ...! Y 乙ん^ ち しん ぼ にやう 

ハ リエ 二 シダ 及び ラビ ト、 ブラ ッ シュ の 黄色な 一 紫 末の 束々 が あ. 5 ました、 今日の 進 步の狀 

しめ た じ からすむぎ 乙 むぎ たぱ かざ さう ひと- なが ねむり やす 

態 を 示す 爲め 熟した ろ燕麥 と小麥 との 束 が 飾つ て ありました、 而 して 人 ,0 が 永き 眠に 甜^ 

つかさ たい あいじ やう へう しゃう ため すうた ばな ねく わん お くわん じつ き. d <- 

みたる 司に 對 する 愛情 を 表 章 せん 爲に數 多の 花 を 寢棺に 置きました のて、 棺は赏 に 奇麗な 

ばな ぅゴ 

花に 埋められて ありました 

をう がく しゃう か のちし と 1 き ,^J_o 

オルガンの 奏樂と 唱歌との 後 使徒 フラ ン クリン、 デ f 、 リタ チヤ - ドスが 祈禱 いたまし 

ふく ゝ わんち やう I しとら I I 

た, IH^ 管長 ジ ヨセフ、 エフ、 ス ミス と 使徒 等 フランクリン、 デ I、 リツ チヤ I ドスと" 

. ぶ ゝ わんち やう えんせ つ > ほ しん 

レン ソ, スノ I と 一 Ei 管長 ジョ ルデ, キュ、 カノン とが 演說 をして ゥ ッ ドラ フ 氏を譽 め、 親 

1 ゐ, ^ さ もれ もっと の さんび か かみみ むれな くす 

ぎ を 慰めました、 其から ゥ ッ ドラ フ 氏の 最も 好みし 讃美歌なる 「神の 御意の 成る は奇 し」 

> / 七-と .: . (いく わ i- き たう S ヽ し S つくわん ぎ やうれ つ リウば じつ 

を 歌って 而 して 使徒 ブリガム、 ャ ングが 閉會の 祈禱ヒ 棒げ まし 4^、 出 棺 行 列が 立派で 實 



なが さう ばかば ぉラ ちゆ ラ なん ばん 乙れ み ばか ぼ いた CM 

に 長く あ. ました、 而 して 墓場への 道中 は 何千 人と なく 之を舰 ました、 墓場に 到れば 午後 

二 時 四十 五分 ハ -モ -ー、 グリ I 倶樂 部の 人が il 死せ しに あらず 眠るな り」 とい ふ 歌 を 歌; 3、!^ 

― — まい さう き たう ひと./;:.' すラた きれ 5 はな それ 

ランセ ス、 H ム、 ライマンが 斑 葬の 祈禱 をし ました、 すると 人々 が數 多の 奇麗な 花 を 其に 

お ばか まった ばな もつ お ほ 

置いた ので 墓 は 全く 花, V 以て 掩 はれました。 

のう ゆ ふか せんけう し れ さし か いくわん ちゃう S たあいに やう ち /- をつ と i な 5- 

農業 家で 宣教師で 歴史家で 大 管長で あ. 9、 又 愛情 ある 父たり 夫た るゥ ドラフ 氏 は 永く 

^vんめぃ w こしん ちから つく たみ た ねっしん はたら a た^ん みん あい もっと ひ ぼん じん 

存命して 利己心な く 力 を盡 して 民の 爲め 熱心に 働き、 又 全 民に 愛せられた る 最も 非凡の 人 

物て あ, 9 ましたが、 斯 くして 逝き 葬られた のであります。 

おい しゃう たいくわん やつ けうぐ わい つかさど 乙と 

第 九 章 大 管長 P レン ダ、 スノ ー 敎會を 司る 事 

いか リ i, う くわん ちゃ ラぐ わい そ けんのう うしな とき しと けうく わ 5 を さ せきはん 

如何なる 理. H に 因る とも 管 長 會が 其の 權能. V 失 ふ 時 は 十二使徒が 敎會を 治める 任が 

さう おいく わんち やう し すうねん せん も おのれし くわん ちゃうく わい あら そ しき 

ある、 而 して 大 管 長ゥ タ ドラ フは 死す る數年 前、 若し 己 死なば 管 長 會を 新たに 龃 織す 

せんえん やうし と す たれ ゆ ふ しと 乙 ぐんかい およ いれい さし. h したが 

る こと を 遷延せ ざる 檨 使徒に 勸め ました、 其 故に 使徒 は 此の 訓誡 及び 聖靈の 指 圖に從 つて 

おいぐ わんち やう し ご ばち ねん ゆつ ばち 5 つち し と くわいち やう 

大 管長 ゥッ 、ドラ フ の 死後 十 一 日に して 一 千 八 百 九十 八 年 九月 十三: n 一 致して 使徒の 會長 

二 五 一 



二 五 二 

■ ■ えら あんしゅれい X かれ けうぐ .si- お 5- くわん ちゃう たいぐわん ちゃ-? - 

レンゾ、 スノ - を 選び 按手 禮に 依りて 彼を敎 會の大 管 長と しました、 大 管長 スノ- 

Z おいく わんち やう C もん I 1 1 

は故大 管 長-グイ ラ I とゥ ク ドラ フ との 顧問て あった ジ ョ ルデ、 キュ、 カノンと ジ ヨセフ、 

ぶぐ ぼん おのれ 乙 もん あくる ゆ つけう くわい aJ うきお いぐ わい さい せいと ゆん たい 

エフ、 ス ミスと を復 任して 己の 顧問に しました、 翌 十月 敎會の 後期 大會の 際に 聖徒 全體は 

さう ごん しふく わ 5 ひら き 上し ゆ X こ ばん おのれら つかさら みと 

壯嚴 なる 集會を 開き 擧 手に 依らて 此の 三人 を 己 等の 司 等と 認めました 

たいくわん ちゃう ねん ゆつ か -? —— ぐん 

大 管長 口 レンゾ、 スノ I は 一 千 八 百 十四 年 四月 三日 ォ Z ィ ォ州ボ I テジ郡 マ ンチ ユア 

し ラま さ 5 とき - お ぐいう はょ^:く そ こ けうい く 5 

市で 生れて 二十 一歳の 時に ォ f 、パ -' リン 大學 校に 入學 して 其 處で敎 育 を 受けました、 一 千 

八 百 三十 六 年 浸禮を 受けて 敎會に 入りました、 而 して 翌年 敎堪し 始めました、 三年の 後パ, 

1 1 n し とも ョ — n ツバ 5 はじ ぐ わい 乙く でんた ラ いた え St ぐ を 

I ソ, ピ ー、 プラット 氏と 共に 歐羅 巴へ 行って 始めて 外 國傳道 を 致しました、 英國に 居 ゥ 

とき すく た ふ ゅゐ いつ みち し^^ぅけぅじゃぅ しょもつ ち 上さく ^J しゅ 

た 時 「救 はれん が 爲め踐 むべき 唯 一 の 道」 とい ふ宗 敎 上の 害 物 を 著作し ました、 此の 種 

上み もの r- せう さっし まさ 5 つ, V うお は ぐ わい 乙く ご ほんやく またお は ひと <Y ふくいん 

の讀 物と して は 此の 小冊子に 優. て 一 曙 多くの 外國 語に 翻譯 せられ、 又 多くの 人々 に 福音 

ゆん. く をし さう しゃ ラら も ちょしゃ く むか こ せう さっし 

の 原則 を敎 へた ものはありません、 而 して 將來 にも 其の 著者 は國々 に 向; 5、 此の 小冊子 を 

もつ ぷ< いん せいかく かみ をし へ あかし た ねん 

以て 福音が 芷 確で 神の 敎て あると いふ 證據. 立つ るので あ. 5 ます、 ! 千 八; 白 四十 二 年 二百 

はん かいしん しゃ ともな き 乙く 上ぐ ねん がっし ゆう 乙く たいとう りゃう せんき 上 

五十人の 改心 者 を 伴 ひて 歸國 しました、 翌年 ジ ヨセフ、 ス ミスが 合衆國 大統倾 に 選擧せ 



5 f ん tit うせいち u ゥ しん K たら を ご ■ 、• ュュは .h.^- ヌラ 

られる やうに ォ "ィォ 州 を 選 擧遊說 地に して 熱心に 働きました、 其の後 ナ — ヴゥ文 尊 校 (中 

,くて c^- ナぅ > なが • ひやう a- こんき ゆ 5 . , uv^yM 

Sfsl 度) の^ 師を しました、 長く 病氣と 困窮 をし ましたが、 一千 八. 白 四 寸 八年サ トル レ.' 

. I * いと is, 丄し ゆつ S ちけ うく わい しと ィ タリ こく ゆ でんお ゥ ひら 

^の 原!? こ }tS りました、 翌年 二月 十二 日 敎會の 使徒と なりて 伊太利 國 へ 行きて 傳道を 開き 

4j ん .11- く ねんかん でんおう ねん ゆつ き 乙ぐ 上ぐ U ん やう ど 

乇〃 モ ン M 典 翻譯 しました、 三年 間傳 道して 一 千 八 百 五十二 年 七月に 歸國 して 翌年 領土 

rch^r &ん t んき t はんかん つと を うち ねん^ん じ やう &ん ぎち やう やく 

の ぎ^ぎ 員に 選擧 されて 二十 九 年 問 動めました が、 其の 內十年 問 は 上院 議長の 役に 

T- んか 5V く ともな i けんせつ そこ おの il- ゆうしよ 

おりました、 一 千 八 百 五十 五 年 五十の 家族 を 伴 ひて ブリガム 町 を 建設して 其 處を己 カ住處 

とし^^ g の.? ョ S しました、 ず- 一 x 百 $ぁ ベ f で 一王 一 ¥i 

ぶち ゃラ そ あひな ど ぐ わい 己ぐ でんおう 5 

ポク ス、 エルダ- ス テ-キ 部長で ありました、 其の 間に 二度 外國傳 道に 行きました 一千 

八 百 七十 二 年ジョ ルデ、 H 1、 スミ- ^と共に 歐羅 巴と.、 ノ レ ス テ ン 聖地へ 行き、 一 千 八 百 六 

S3,j<f ウイし 上, 2 う ゆ ハワイ を とき & つ た. 5. へいやう お a •> 

十四 年布哇 諸島へ 行きました、 布哇に 居. ました 時 三月に 太平洋て 溺れた こと 力あった 力 

み ぷ しぎ » す せいぶ くわん り せ と もっと 乙う き たう じ 

神の 恩惠 によりて 不思議に も 助か 6 ました、 政府の 官吏が 聖徒 を 最も 攻擊 したる 當時は 一 

a ん ゆつ うらう とら ふ ぱム どうぜ 5 いう ざ. S しゃ み;: J ほほ 

千 八 百 八十 五 年 十 一月 長老 スノ -は捕 はれて 不法 同棲の 有罪 者と 認められて ュ -タ^ ..is 

. -1 ^ ュん 41- ゥ きん 乙 こく う ゆつ きんこ のち ご しん リ つし 上う し 上 i 

にて 一 ザ六ケ の 禁錮の 官: 吿を 受けました、 が 十 一 ヶ月 禁錮され て 後 護身 律證 書に 依 

二 五三 



二 五 四 

T れん t つかしと ぐれい ちゃう けうく わい &ぃ ぐれん *T やう 

りて 觅 されました、 I 千 八 百 八十 九 年 四月 六日 十二使徒の 〈I: 長と なって 敎 會の大 管 長に 

ち- il うじつ そ し, J ぐ つと たいくわん やう けうく わい ひきう とき けうく わい ふ さい 

なる まで 忠赏に 其の 職 を 務めました、 大 管長 スノ 1 が 敎會を 引受けた 時、 敎會の 負債 は 

ひじ やう おは それ けうぐ わい ばくが & し 上い うぶつ ぐわん ぽっ けつぐ わ 

非常に 多く ありました、 其 は 敎會が 迫害せられ、 所有物 を官沒 された 結果て あるが、 一 千 

ねん とき はく 5; い な た き 上く めん いっぺん じ おい ん たいくわん >f やう 1 

八 百 九十 二三 年の 時 迫害が 緩和め られて 「局面 ー變の 時代」 となりました、 前大管 ^ ク 

乙 じん せんぷ さい けうく わい たいぐわん ちゃう 

ッド ラフ は 一 個人と して は 一 餞 も H 債 をした 乙と がなかった のに 敎會 の大管 長 となって, 

ば じ 》Jl さい しんば い し けうぐ わい ャ "いせい 乙ス なん くわん ひじ やう く しん 

始めて 債と いふ?! との 心配 を 知. 敎 〈I: の 財政 困難に 關 して 非 (! S に 苦心し ました ◦ 

乙 お おいぐ わんち やう あたか けうぐ わい ふ さい (ん さい けうく わい ざいせい ふた ヽ きょうこ 

此の 時に 於け る大 管 長ス ノ I は 恰も 敎會 の負债 V」 返 濟し、 敎會の 財政 を 再び 鞏固なる 

きそうへ す たかみ とく えら ごと み なん ど 

基礎の 上に 据 ゑんが 爲め祌 が 特に 選びた るかの 如くに 見えました、 何と なれば スノ I 一度 

1C.S< わんち やう ほど せいれ ハ かん ^-ぅ<ゎぃ けいざい じ やう ぎ やぐき やう ばんく れい 

大 管 長と なるや 程なく 聖靈に 感じて 敎<1: の經濟 上の 逆 境 を 挽回 せんとし ました、 スノ 

II せんご リゃ うどけ うく わ い さいげん tt つかう おは 上 ,て 5^-.^はど し 上う けん はつ もっと L 

,は 前後 兩度 敎會の 債券 を發行 させて、 大凡 百 萬 弗 程の 證券 を發 しました ので、 最も 至急 

ふさい へんさい ふさい w し 上 ほど はぶ 

の 債ケ -返濟 して 負債の 利子 を餘程 省きました。 

t ご し 上と く ぶん いつ けうく わ 5 vi おきて a も やう せいと は f" うんどう 

其の後 所得の 十分の 一 を 敎へゅ:: に 納める 捉法を 守る 樣に^ 徒を勵 ます 運動が ありました、 

乙 うんどう X あいぐ わんち やう し せい けう くわいれ きしち f> う もっと いちじ N? 

叱の 運動に 依りて 大 管長 ス / の 施政 は敎 會歷史 中の 最も 著しき もの ゝ 一 つと なり まし 



こ うんどう ば じめ ^2 ん 卞っ —— M ちお 二 なんぶ かくち う 

た、 此の 運動の 始 として は 一 千 八 百 九十 九 年 五月 セイント、 ジ ョ -ルデ 町 及び 南部の 各 町 

おい じぷ くわい も 上 は そ ご しんけん い う ひと つかさら みなしん でんない あつ 2 た 乙 

に 於て 集會が 催されて 其の後 神權を 有する 人の 司 等 は 皆 神殿 內に 集りました、 其處 から 十 

ぶん はふ まも でんごん おはな み お 乙 ごと ^» ^^,,3= かく ぶ つた 

分の 一 法 を 守るべし とい ふ傳言 は、 大波 歸の 起り たるが 如く、 シォ ンの将 ス-プ 1 キ 部に 傅 

お 上 せいと t is- む おもん それ まも やう ば: & つかさら も えん ゆつ 

はり 及んで、 聖徒に 其の 義務 を 重 じ、 其 を 守る 樣に勵 ましました、 司 等 は 其の 演說 によ も 

Z ち ばう かみ さな ぶん はふお 上 ほどこし おきて f ひと と ^^^^,,^.3= ち 

て 此の 地方 は 神の 定めた る 十分の 一 法 及び 施物の 拔法を 守る 人の みに 取りて シォ ンの 地で 

かみ やくそく たま せいと くん^Jく また S せいと ぶん を さ 

あると 神が 約束し 給 ふ f:i こと を 聖徒に 訓吿 しました、 又 言 ふに 聖徒が 十分の 一 を納 むべき 

は, つ いかん これ たどけ うく わい ぷ さい へんさい すな は で き ごと ため ひつえう 

善で ある、 如何となれば是は唯敎會の^«:;債を返濟すること即ち 一 つの 出來 事の 爲に 必要な 

また じソ かみ めいれい せいと まも いま 5 ^ん 

るの みならず、 又實に 神の 命令であって © 徒の 守らねば ならぬ ものである、 今までの 油斷 

ゆる しゃう らい げク 乙 かみ おきて お 乙た さ 5 せいと ^J おきて 

は赦 されます が、 將 來は决 して 此の 神の 捉法を 怠って はならぬ、 而 して 聖徒が 此の 捉法を 

a も はか がた たいしゅく ふく あた やくそく それ はん も これ お 乙た と 3 そ よじゅう 

守れば 量り 難き 大 祝福 與 へらる ゝと 約束した が 其に 反して、 若し 之 を 怠る 時 は 其の 不從 

じゅん ため かみ わざば ひ もつ せいと なや さう ゐ ぉんi^んぃ^;i ひと けんそん あい 

顺の爲 に 神 は 災禍 を 以て^ 徒を惱 ますに 相違 はない と斷言 致しました、 人々 は 謙遜と 愛と 

つぐ Z おきて も さラ い 3 かつ な ほど おは ぶん お 上 ほど 乙し けつぐ わい 

を? _w して 此の; 淀 法 を 守りました、 而 して 未だ 曾て 無き 程に 多く 十分の 一 及び 施物 を 敎<1: に 

を さ AV おいく わんち やう H いよ/ \- ,てんけい かみ ます^ しんかう ぜ^と ぁリ さ! W 上 

納め した、 人々 は大 管長 スノ. 'を 愈 尊敬し、 神 を 益々 信仰し ました、 聖徒の 狀態善 

二 五 五 



二 五六 

« み J 乙!? た どうじ けう,. ^わい a- やうぐ う い 上,— な ほ き せいと t 

くなら、 又 未 來には 見込が 立つ と 同時に 敎會の 境遇 も 愈 回復って 來 ました、 聖徒が 此の 

ゆ , ひ i f も は *じ > , > かみ すべ た と 3 いっそうお ほ し § ぐぶ,, - おの たみ そ ゝ たま 

捉法を 能く 守ら 始めましてから 神 は總て 他の 時よ らも 一 層 多くの 祝福 を 己が 民に 注ぎ 給 ひ 

, . » ^^"^ぺゎぃ 3aAY ^ さい へんさい また そ たす ベ ぶ さい しばら ひ き:!!; んく へんさい 

ました、 敎 會は數 多の, M 債 を返濟 し、 又其の他の總ての^^;債の支拂の期限が來れば返濟す 

m-^ ) ^►n - I を- . さう ぶっしって きお 上 せいしんて 3- た s< わい ェく およ し へんく わ か やう で 

る 稈の金 を 持って 居. ました、. 而 して 物 的 及び 精神的 大 恢復 及び 種々 の變 化と 改良が 出 

う しゃう らい じつ <ゎ うたい X けつぐ わ しゃう し やい 

來 たので 將來に は實に 廣大で 善き 結果 を 生すべき 次第と な. ました 

、 ち めん わ おい M- ぐ ど は リ しんでん どほリ つく てい はう くわいお いくわん ちゃう きょた く 

ピ I ハイ ゲ 地面 を 別けて 大學 通と 神殿 通と を 作り、 ビ ニイ ゲ邸 を敎會 大 管 長の 居 宅 

ュる みす ぼら か f とりの けうく わい し t いうぶ つ しう せん ぼつ じっせいと おいが く かう さう せつ そ 

とし、 古く 窶 しき 家屋 を 取 除け、 敎會の 所有物 を修耩 し、 末日 聖徒 大學校 を 創設して 其の 

* ^ , I ザん たいくわん ちゃ, r ほっき けうぐ わい がく かう そしき あら せい りょく ; VT か 

1 部 を 建築し、 前大管 長 ク タ ドラ フ の發 起した る 敎會學 校 組織 は 新たに 熱 カを增 加し、 

; N き :5 んく わんお 上 くわん たてもの ぶ しん はじ 5- やうぐ わん ぼつ じっせいと 

フタ カム、 ャ ング 記念館 及び パラ ザ ト 館と いふ 二つの 建物 を 普請し 始め、 (兩館 は 末日 聖徒 

おい M- ぐ かう ; V く もの ふじんく わん けんちく けつなん 5t ル とう し 

大學 校に 屬 する 物) 婦人 館 を 建築し やう. と决談 し、 一 萬 一 一千 弗 を 投じて サ ルト、 レ I キ 市の 

;キべ わふ^う ない か 5y う おんがく ゝ わい けいぞく しんぶん さ うれ 5 けんちく 

大會 堂內の オルガン を 改造し、 オルガン 音 樂會, V 繼續 し、 デ ゼレト 新聞の 壯麗 なる 建築 を 

^と , し;^ ん 乙う けうく わ しゅつ ばんぶつ 乙 じん て いん つ け- T くわい ヽん さっし 上 いんさつ ば じ 

殆 んと錄 功し、 敎會の 出版物 を 一 己 人の 手に 印刷せ しめず して 敎會 印刷所に て 印刷し 始め、 

しんぶん おはい かいり やう けうく わい 乙う ぶんきく わんし おいく わんち や. T かみ めぐみ 

テセレ ト 新聞 を大に 改良して 敎會の 公文 機關 紙と しました、 大 管長 スノ -は 神の 恩惠 によ 

Jj 1- ス 



c たん ごと ゆ ふむ しんし S てきば うしん はっき ひと 

ら て 件の 如き 業務の 進取 的 方針 を發 起した 人て あります * 

おいく わんち やう I けうぐ わい を さ ねんめ "ん ゆつ かしと 

大 管長 スノ, が 敎會を 治めて 一 一年 目に 一千 八 百 九十 九 年 十 1 1 月 九日 使徒 フラ ン クリン、 

I I し おの ^1-§ぅし上 し ぼう どうし 

デ.' 、リツ チヤ I • ト スがォ グ デ ン市 己が 住所で 死亡し ました、 同氏 は 一 千 八 百 二十 一 

ねん 卞ゥ か — しラ し うな ぷ ぽ 

年 四月 二日 マテ チュセ ッ州 リッチ モ ン ド 市で 生れて 父母 は フヰ 二, ス、 リツ チヤ I ドスと 

- ねんち ゝ しん 札い う 

ゥェ ルセ、 リツ チヤ-ドスと であ. 9 ました、 一千 八 百 三十 六 年 父より 浸醴を 受け、 一千 八 

ねん S ん くわ. S. (るん ねんし * ねんし と 

百 三十 九 年 七十 人 zt: 々員と せられ、 一千 八 百 四十 九 年 使徒と なり、 一千 八 百 九十 八 年 使徒 

けうぐ わい おいぐ わんち やう えら のち し とく わい ぐ わいち やう そ さラ 

口 レンゾ、 スノ 1 が敎 會の大 管 長に ばれた 後 十二使徒 會の會 長. になり ました、 其の 葬 

ぎ いぐわん ちゃう I し と くわいお よ ひと/,;^ おい ぐんしゅう さん V- わい さう し 

儀に は大 管 長ス ノ -と 使徒 會 及び 人々 の大 なる 群衆が 參會 しました、 而 して オグデン 市 

の 墓地に 葬られました C 

し ぐ わい 乙く な^-乙く 5- ぐ ど ん おう § ゑ す * へ せか i- やゆ ラ せいと 

リッチ ャ - ドス 氏 は外國 にも 內國 にも 幾度と なく 傳道 しました、 故に 總て 世界中? 聖徒 

が 其の 名 を 知って 居. cvt- す、 リツ チヤ- ド ス氏は 敎會の 職^ 及び 公役 を 働めて 一 生 を 棒 

げて 人々 の爲 めに 働きました、 一 千 八 百 六十 九 年より 一 千 八 百 八十 三年 まて ゲ 4 - バ 郡て 

ち はう さいばんし 上, t いぼん くわん た. & せつ しょくむ しっかう そ たお は し 上く む 

地方 裁 所 裁判官と いふ 一 大切なる 職務 を 執行し ました、 其の 他 多くの 職務が ありました、 

二 五 七 



二 五八 

^,:r くに ぺぐゎ 5" れ 5- し い しゃく わい じ やうお 上 しゆうけ うじ やう きち やう えう リ^う きろぐ お « た., 

リ^お レ& 家て あって、 ? 3 會 上 及び 宗敎 上の 賁 重なる 耍傾 を, _ ^錄し 置かん とて 働 

.1 -- ■ - - しう しがく ヽゎぃ ぐ "いちやう やく 

きました ュ 1 タ 州の 史學 會の會 長の 役 を もって をら ました 

ML リ さうて きはつ じっせいと かれ しんせつ じ あ C ふか -^. . ら :- ご ふ 

タ ッ チ ャ I ドス 氏 は 现想的 末日 聖徒で ありました、 彼の 親切と 慈愛 深き は も 赤子の 父 

^, お、 、、ごと . かれ, ,^ すべ ひと,^ みな かれ そんけい しん 上う か.5 えん &ヮ is- んゥ 

母に が、 ける か 如く、 彼 を 知れる 總 ての 人. > は 皆 彼 を 尊敬し、 信用,.: ました * 彼の 演^ 談話 

ね かゆん もつ み.; y かつぐ わいく わつ *^ゃぅしゃ いうく ら ゆぶ ト 2;^ ひとり はつ ,i 

は I おに 嘉言 を 以て 滿 され、 且快 活 にして 聽 者の 憂苦 を 去らました 故、 誰 一 人と して 熟; に 

き、 かっ<^っぶぐ もの かれ すべ おい どうい f 

聽 き且悅 服せ ぬ 者に なかった、 彼は總 ての とに 於て ジ ヨセフ、 ス ミ スに 同意し、 ス ミ ス 

^ は;^ め ^ マべ つ しめいお X ゆん しゃ たしい しょうち マジ うた^ 

は 神よ. 5 讧 "^せられた 特別の 使命 を帶 び.?; i る 預言者で あると 確に 承知して 齓ほ ども 疑 ひま 

せなん だ。 

: 1 .. I J ,i け., う, ノ わい f あ ひた なほき た こ. 05" ら ぶぐ、 わん う II 

ロレンソ スノ -カ 敎會を 治めた Si に尙 1 つの 記す るに 足る の 事柄 は 副 管 長ジ ョ ル デ—、 

f. ^ n ) J . 9 1 -し にん はつ はち きんえ うび さうて- T HU 

キュ カノンの 死て あ. ます カノン 氏 は 一千 九 百 一年 四月 十二 日 (金曜日) 早朝に が,; 

-. N^. し おいし >J けつえ うび ばん そし & -i 

ォ ル 一一 ァ丹モ ンテ レ I 市に が、 て 死にました、 越えて 月曜日の 晚 まてに 其の 死 體はサ ルト、 

~| - ふ かぐ- そ でと し きょ ばつ じっせいと ィヹス * リスト-?: うぐ わ 5 いうり よく ほ 

レ I キ 市に 送られました、 其の 人が 死去 f ましたので 末日 聖徒 耶穌 基督 敛會は 有力なる 保 

^u^^^^.^^^.«,' ^^^^i. > ^ t い t 上ぐ *^、i*f:§ つ せき うしな しゃう 4ぷ しゃく わ 5, せ i りよぐ しんし ちてきざいさん 

守: E 勸吿者 を 失 ひ ュ -. タ补は 勢力 ある 大; ft: 石 を 失 ひ、 商業 社會は 勢力 ある 進取 的财產 



家 を 失; 3、 力 ノ ン家 は浪々 として 盡ろ ことなき 愛情 深き 兄弟た 6 夫た. 父た る を がま 

した 

ジョ ルチ- キュ、 カノン は 一 千 八 百 二十 七 年 一 月 十 一 日英 國リヴ アブ— 〃に^?|れてで3^ 

なる ジョ〃 デ、 カノンと アン、 クュ —ベ カノンとの 長男で あ, 9 ました、 父 33- は sf^sTT 

島^ „ ^市の 人て ありました-.^^,^ は 一千 Aim 四十 二 十 一 巧 In^ ティ ラ I よら 

浸禮を 受けて 敎會に 入. - ました、 一 千 A 百 四十 二 年 九月 其の 家族 はナ I ゲクが を とし 

しゅっ^ん , ; k は/ そ とち^う し かいちゅう す ゐ ふう よ," ハち 卞 9 y リ 

て 出 柳し ました か、 母 は 其の 途中に て 死し 海中に 水葬せられ ました、 二 年後の 八お 十七お^ 

- MMNnL ちゝし 乙 ,ん ュ, フ P ^ 

イン ト 〃-ィ 市て 父が 死にました、 此の ジ ョ 〃デ、 キ ュ、 力 ノ ンは^ 刷 を!^ としまして 

1" , ^i、, いや - , 1 , ,、 )J ^UUM^ S たら せいと そこ く 

.^./\iT」 i 誌 社と 一 ナ 1 ゥゥの 友」 新聞社と に 働きました、 sie徒が其處ょ.c^放逐された 

時に ゥ キン タ-、 クフ ,タスへ 行 ゥてー 千 A ほ 四十 七 年 西方の 野 I を § つて 十^ 三" 

^ , r< ' ■ » ノ-" し い, - 一な ねんかん か 5 たくし や I はたら とも そ たう じ かんな-".. -んく 

湖の le? 野に 着きました、 生^ を營 む.?^ め 一 一年間 開拓者と 共に 働き 共に 其の 當 時の 艱難ず 苦 

■ のち ゝゃ うらう つかさど でん. ひ s.^t つか 《 

を i〈 て 後 1:;^ 老チ ャ- ルス、 -ンた I チの 司る カリフ ォ , -ー ァ傳道 部へ 派遣され ました、 

そ- ご ^ ワイし 上た う tt けん そ ど じん ふく t;;- やし 7 んけ "T くわ い でく. -Jc- う-, い 

其の後 布哇 諸島へ 派遣され て 其の 土ムに 福音 を敎 へ、 (四千 人 敎會に 入 もました) 慨道部 を 

二 五 九 



二 六 o 

せゥち /0 ん なん はたらき しんじ ク けう てん ^いたう 乙とば はんやく a たき 

設置す るた め 因 難なる 働 を信實 になし、 モダモ ン經 典を該 島の 言葉に 翻譯 した 乙と、 又歸 

國 してから カリフ ォ \ - 一 ァ 州で 「クエスタ- ン、 スタン ダ.' ド」 と 云 ふ 新聞 を發刊 した 乙 

;; よ そ しんぶん お かれ きじゅつ あまね X r 

と, 及び 其の 新聞に 於け る 彼の 記述 は 普く 世に 知られて 居る 乙と であ.^ ます、 ジ ヨン スト 

の 軍隊が へ來た 時の 酷い 艱難 を 救 はんとて 一 千 八 la 五十八 年に へ 歸. 9 まし 

そ とき ) でんき けうく わい • れきし き は しんみつ くわん けい 

た, 其の 時よ. 力 ノ ン 氏の 傅 記 は敎 會とュ I タ との 歴史と 極めて 親密なる 關 係が あるので 

ねんかん けうく わ 5 - あるひ はっき あるひ くわん けい ^^^ぅ 

す, 四十 年間 敎會 とュ I タ とに は ジ ョ ルデ、 キュ、 カノ ンの 或は 發 1^ 一し 或は 關係 せざる^ 

おい じ ゆ ふ ま 乙と すぐな 

大 なる 事業 は 誠に 少く あ. 5 ます。 

とさ》^ しんぶん しゅひつ また 53 ん 1^ つみ 1;\ か まう えう れん げ うし 

時. 5-、 デゼ レ ト 新聞の 主筆で あ. 9、 又 一 千 八 百 六十 六 年 一 月 自ら 設けた 「幼年の 敎師」 

ざっし へんし う^ん ばつ. a ラ しゃ またし ゆ/ しょじ やく ぱ つかう ち 上さく ひと 

(雜 誌な り) の編綠 人と 發 行者で あり、 又 種々 の 書 鐯を發 行した 6、 著作した 6 した 人て あ 

ち irj ぐ つ けうぐ わい し 上 ぶんしょ で ゆうえ う i けク 

ゥた、 カノン 氏の 著作物 は 敎會諾 文 # の 重要なる もの、 一 つであります、 又 カノン 氏は敎 

くわいち ゆうち 上さぐ か いうめ い にん がぐ じ i> やう を とほ せビリ 上く ひと 

會中 著作家の 有名なる 一 人で ありました、 學事 上に も 其の 通り 勢力 ある 人て ありました、 

はちえ.,. がぐ かう おい じ ゆぶ た ちから せいしん つく にら さう えう ねん けうし はっかう 

日曜 學 校の 大事 業の 爲め 力と 精神と を盡 して 儺き ました、 而 して 「幼年の 敎師」 ぉ發 行した 

ため せいお い じ ゆ ふ なほ いっそうせ いおい ねんかん === おい 5. くくむ る \ん くわい/.. \ ゐん 

る爲に 盛大な りし 事業 は尙 一 層 盛大に な 6 まし.^、 一 j 十 年間 ュ - タ大學 々務 委員 會々 員て 



十 年間 ュ I タ大學 校の 學位 を授與 する 役員と して 其の 學 校の 頭で ありました、 而 して 

= もっと こんなん た ねん あ ひた かう とうげう いく た i, せい リ 上ぐ さんせいしゃ また ねっしん 

タの 最も 困難 をした 多年の 間 力 ノ ン氏は 高等教育の 大勢 力 ある 赞成 者で あり、 又 熟 心なる 

唱導 者て あった のであります、 有力なる ブリガム、 ヤング 高等 學校 及び 其の 他敎會 の諸學 

たい _ 乙う iT う じつ あさら ひとめ た なん か jd つね しょがく. A う 

校に 對 する 力 ノ ン 氏の 功 勞は實 に 明かに 人目に 立ちました、 何と なれば 彼 は 常に 諸學 校の 

えう きう みた リ うい た それら か い リゃ うじ やう しん ぐわん た かれ ;;J んとゥ さ 

要求 を充 さん M とに^ 意し、 又 其 等の 改良 上 進に 關 する こと は絕 えず 彼の 念頭 を 去らな 

し ちから たいてい かれ けんそん い かし/」 ぐわん/」 くしゃ せい リ 上く 

力った 力ら てあります、 カノ ン 氏の 力 は 大抵 彼の 謙遞ょ 6 出で 賢き 勸吿 者と しての 勢力 は 

た. 5- てい ひと い 4- ん たい けい 丄ぐ K 上 それ 13 ん やん けいち やう そんけい もと., つ を こく/ -り< ;, 

大抵 人の 意見に 對 する 敬服 及び 其 を 欣然と 傾聽し 尊敬す る ことに 基いて 居. ました、 國會 

お 5 — - かう めつ- たいへ う かっ^.-に f; ん らうせ き:?" く をん けい かう さいぐわん ほと かに 

に 於て はュ 1 タを 巧妙に 代表し、 且國の 元老 硕學に 尊敬せられ、 交際 官 として は殆, んど彼 

tj ぎ い もの えんせ つか もっと ひと かんどう ちた, 57 か ば あ ひお 5 4? うし" う ;: ス 

の 右に 出づる 者な く、 演說 家と して は 最も 人に 感動 を與 へ、 如何なる 場合に 於ても 聽 衆の 大 

多數をして知らず誡らず己の意見に赞同せしむるに至る程の感化カがぁ,c^ましたo . 

. はつ り する ぇゥび — 一 ぼ ち はう,: たヌぐ わいた ゥ お 

力 ノ ン氏は 四月 十七 日 (水曜日) サ ルト、 レ- キ 市の 墓地に 葬られました、 大 侖" 堂に 於け 

さう ぐ わい もっと じん- かんどう うつぐ おんがぐ しゃっか ミた じゅんば く 

る 葬會は 最も 人心 を 感動させる ものて あ. ました、 美妙し き 音樂と 唱歌 も あり、 又 純白の 

3 ら 叫- :5 の じつ リ つば かざ き れい あ むす K な につ V すう 

鼠 布 は實に 立派に 飾って ありまし なのみ ならず、 奇麗に 編み 結ばれ. る 花は實 に無數 であ 



二 六 二 

' > -» 丄 Af- ) 2^ . ^-ぅ 化 およ: «" つ I; ゆうこく しばう す * かれ しんあい ^ is た, つ 3 き 

ました, 此等の 花 は當市 及び 合 衆 固の 四方に 住める 彼 を 親愛せ る 友の 携へ來 たりなる 物 

• ) , -、 I- .-—>7) ん. じつ りべ わい お き 4- うた ,ハ ひ るい しプ やうえ うなん に 上 ひと 

て あ. ました カノ ン 氏の 信 直なる 敎會に 於け る 兄弟 は 悲哀に 沈める 一 万の 長幼 男女の 人 

AV へ,. か な ひと かう しゃう 5- つし やう そ .5 うる し ようさん かれら かんどう さう 

に 向って 亡き人の 高尙 なる 一 生と 其の 行爲と を稱讃 して 彼等 を 感動 させました、 而 して 

けうく わい せんぶ いっぽん ふか あいたう あたか こぐ みん ,て > A--^v し カリ, う ,こんぶ ぐ b,? こくし や 

敎會 全部 は 一 般に 深く 哀悼し ました、 恰も 國民が 其の 敬愛す る 首 額たり 尊父たら 勸吿 者た 

ち/.' な. S しゃ ひと うしな とき ごと 

り案內 者た る 人 を. ひたる 時の 如くて あ. ました。 

ぷ.^ ,わんち-み i ゥ た r おのれ こ もん あと お こよ さ な^-み ら £• よ 

大管 長 "レンゾ、 スノ - も 直ちに 己の 顧問の 後 を 追 ふて 此の世 を 去り、 大未來 の 世に 

逝く 乙と 、ならました、 彼 は 一 千 九 百 一 年 十月 十 * 日 (木曜日) 午後 三時 三十 五分 rrr^ 州ち 

n し おのす ま a てい し ば-つ きう し 卞 んハん すうしう 

,ト レ-キ 市 己 か 住居なる ビ f ハイ ゲ 邸で 死. c しました、 かく 急に 死にた る-^ 因 は數週 

,"ん^ ん か,.^ う かヽ かぐべ つ わる み のち きくわん L えん V 

問 前に 威 胃に 罹りて 格別に 惡くは 見えなん だが、 後に 氣管支 炎に 變は り ました 爲 であり ま 

, 、 , ゆつ け,!" -,; わ^、」 ^^55:,^ ふ. r.? い t い たビ くわい しゅ つせ き で き か にち えう-ひ ご S 

す 十月 敎八 n の 後期 大 〈n の 際に 唯 一 回の み 出席す る ことが 出來 ました、 六日 (日曜日) 午後の 

しづ わい しゅつな-き た 5 くわいた う しふが,^ >、、; ほさ 5> ひと さいご えんせ つ 

集會に 出席して 大會 堂に 集合した る 大勢の 人々 に 最後の 演說 をし ました 

.Q れ せいと たい さいご でんごん に I?, ば かみ たぃリんナ*^ i ん やら 

彼 力 聖徒に 對 する 最後の 傅 言 は 「願く は祌の 大恩 惠が汝 等に あらん 乙と を」 と S ふこと 

. > , Z >,、 . I • . ぶ せ せい せきはん かく 

て ありま しん また シ オン の 五十の ステ- キ 部の 政治の 聖 なる 責任の ある NJ と;^ 各ステ I 



> ぶち やうら かう とラ さいけつし 上く とくべつ ちう い た さう そ やぐ^ん かく ぶ 

キ 部の 部長 等と 高等 裁决 職と に 特別に 注意 を與 へ ました、 而 して 其の 役人 は各ス テ-キ 部 

ひと W ぐたい じ やう せいしん じ やうお よ けい fo いじ やう じ やうたい す-うい いか そ もっと ひつえう ほ じょ 

の 人々 の肉體 上と 精神 上 及び 經濟 上の 狀 態に 注意して 如何にして 其の 最も 必要なる 稱助を 

£^ でき X かんが あたか おの か ^< ひと めんた う みせ わ ごと 

與 へる ことが 出來 るか を 能く 考 へ 恰も 己が 家族の 人の 面倒 を 見て 世話 をして やる が 如くに 

おの けうおう ひと- ため しん ぼい やう なう つ また S つ 乙ね な ぎむ 

己が 敎導 する 人, I- の爲に 心配す る樣 にと 申し付けました、 又 何時も 之 を爲す こと は 義務て 

あると 覺 えて、 而 して 今 己が 語って 居る 言葉 を 忘れて はならぬ と 繰返して 其 の^人 を誡め 

3",:! 乙れ し と つとめ し と およ S ん くわい f わい るん んせ か S, ため しんば い ぽん はん 

ました、 又 之 は 使徒の 務 ではない、 使徒 及び 七十 人 會の會 員 は 全世界の 爲に 心配して _s 人 

むか ふくいん せいかく li ラ ため とくべつ えら ひと つ まお どい 

に 向って 福音の 正確なる 乙 と を 證 する 爲に 特別に 選ばれた る 人で あると 告げました、 又大 

くわん ちゃう そ えんぜつ さいお のれ すで らう じん せん ふく ゝ わんち やう - 

管畏 スノ, は 其の 演說の 際 己 は旣に 老人 なれば 前 副 管長 ジョ ルデ- キュ、 カノン 氏の 

M うはん おのれ たす た はんこ もん えら まう さつ そ しふ f わい 丄くヽ わん *,, やう 

後任と して 己 を 助ける 爲め 一 人の 顧問 を 選んだ と 申しました、 而 して 其の 集 會て副 管 長 

たい ふぐ 、わんち やう ちゃうら う たい よく 

ジ ヨセフ、 ュフ、 スミ スは第 一 の 副 管 長と な. 9、 長老 ルツ ド ガ、 クラ-ソン は 第 一 一の 副 

ぐわん てノ やう せいと さんせい う 

管 長 となる ため、 聖徒の 贊成を 受けました。 

乙 む す, Q かう またし やうら い もばん たしと 

此の 義務 を 遂行す るた め、 又將來 にあるべき ことの 模範と なさん 爲め 使徒 ビべ シ ェ 、 

上 t -ラ らラら I I _ - 

グラント 及び 長老 等产- イス、 ェ I、 ケル チとホ ラス、 エス、 ユン サインと アルマ、 ォ ー、 テ 

二 六 三 



二 六 四 

すで ゆつ か ■ • しゅったつ K ぼんき でんおう ひら ぷ ぐいん 

イラ -が旣 に 七月 二十四日 (明治 三十 四 年) ュ -タを 出立して 日本へ 來て傳 道 を il き 福音 を 

のぺ つた ぽ ふ もぐたい しゃう み そ ゆつ い せん しと . 

宣 俯へ 始 じめ t< した、 (附錄 第二 章 を 見よ) 其の 一二 月、;^ 前に 使徒 フランセス、 ュム、 ライ 

ョ In ッパ でんおう つかさど た しゅったつ 

マ ンが歐 羅巴傳 道 を 司る 爲め 出立し ました。 

たいくわん ちゃ ラ た ばゥ おの 5 つし やう はと ねんかん たみ ため べんれ 5 けうた う I 一 や 

大 管長 スノ -は 多忙なる 己が 一 生の 殆んど 六十 五 年間 民の 爲に 勉勵 なる 敎!^ 者て あ 6 

そ ねんかん おはい かんなんしんく しの じつ おどろ ふ し ぎ たいじ ゆぶ 

ました、 其の六十五!^^-間に大なる艱難辛苦を忍びながら赏に驚くべき不思議なる大事業を 

で ノ ゼラは ごと かみ しんかう ど, T ぼうばん ゆ ん あい ちう ち 上 けっしん もつ 

出かしました、 スノ -氏は 小兒の 如く 神 を 信仰し、 同胞 人 問 を 愛し、 躊躇な き 决心を 以て 

ひ ご 乙, 、ろよ ^^^^^ た せ 5- と ひと かんなんしんく た 

日々 に 快く 又 勇し く 他の 聖徒と 等しく 艱難辛苦に 耐 へました 

ゆつ はち はちえ つんい やひ 5 くわん ちゃう けんぜつ りつ!; I まち うへ はう やまて お 

十月 十三: 《( 日曜 no 大 管長 スノ- の 建設した る 立派な ブ リガ ム 町の 上の 方 山手に 於け 

ぼ ち らうえ うなん は 上 なみた 乙ぽ しゃう か 一二 i -;; ん S" く そう し きょ たいぐわん ちゃう し 上う 

る 慕 地て 老幼 男女が: g を 零しつ 、唱歌, V 歌 ひ 一 苦樂を 奏し 死去した る大 管長 (ス ノ- ),!h- 稱 

さん を ゐ 5" い はう む 5 れいこん ざ じん とも すく たか を 

讃 しながら 其の 造 骸>^ 葬りました、 ス ノ - 氏の 震 魂 は 義人と 共に 救 ひ 高められて 居ります 

せい リ 上く さ たい ^!^ みすな は ばつ じっせいと かれ ぞんめい おな かれ あい * そんけい さう 

勢力 ある 稀代なる 民 即ち 末日^ 徒 は 彼が 存命中と 同じく 彼, 愛し、 ^敬し ました、 而 して 

て き たみ^ん たい さか 乙の あるひ そ ねく わん はな お あるひ —— 

出來る 乙 となら. ば 民 全 體は 自ら 好んで 或は 其の 寢棺に 花 を 置き、 或は ポク ス、 H ルダ ー ス 

ぶ せう は ごと かれ さいご り 上 かう すなば ぼち みちき れいばな さんぶ 

テ I キ- 部の 小兒の 如く 彼が 最後の 旅行 即ち 墓地 ゆ t での 道に 奇麗な 花 を 撒布した てあらう- 



たい しゃう たいぐわん て, やう えら 

第 十 章 ジ ヨセフ、 H フ、 スミ ス大 管長に 選ばる 

わ てんぶ さら はん .$ うし やう け うたう —や このよ めした し 上 た X 卞ん し. 

我が 天父 は 更に 一 人の 高尙 なる 敎導者 を此世 よら 召 出し、 死に 依. 9 て 其の 預言者なる ス 

ぐち と た t ぐ マし いと あやし わ. r- すなば けうぐ わい し 上う リ う みち 寸 乙 

ノ -のロ を 閉ぢ給 ふたに 拘 はらず 1 奇 くて 最怪. a 事」 即ち 敎會は 勝利 を受 くべき 道に は少 

いう 上 ,ti ひと えら い せん ひと ごと おのれら じ たい t ん ひと しん 

しも 猶豫 しませなん だ、 他の 人が 選ばれて 以前の 人の 如く 己 等の 時代に 之 を 等しく 進^せ 

れん ゆ つ はち ら ぐえ うび —— L ん でんな 广 し と あつまり 

しむる ので あ ふ, 一千.." 百 一年 十月 十七 日 (木曜日) サ〃 ト、 レ ー キ 神殿 内で 使徒の 集の 

さい けうぐ わい たい てい ゐん くわい くわん 卞, やうく わい くわん? -ん しき I えら 

際に 敎會の 第 一 の 定員 會 なる 管 長 會を (元 T<.. に,^ 織して ジ ヨセフ、 H フ、 スミ スを、 ぜ 一んで 

ばつ じっせいと イエスキリスト けうく わい たいくわん 卞ノ やう ふク ; C いぐわん ちゃう 

末日 聖徒 耶穌 基督 敎 An の大 管 長に しました、 而 して 大 管 長ス ミス は ジョン、 ァ- ル、 

,:: のれ 丄ぐゝ わんち やう えら そ あつな リ 

ゥ. ング, と アントン、 ェチ、 ランド を 己の 副 管長と して 選びました、 其の 集て フ リガ 

たいめ えら し とく わい くわいち やう 

ム、 ヤング (二 代 目) は 選ばれて 十二使徒 會の會 長と され した。 

たいくわん す "やう れん けつ はち し, ノ , し せいと 

大 管 長ス ミス は 一 千 八 巧 三十 八 年 十 一 月 十三 日ミ ス. ゥリ州 ファ, -、 ゥ H スト 市で 聖徒が 

lii- うぶつ リ やぐた つ な-つと ひど しんく はくがい しの さいち § ク うま K んの ャ. 

所有物 を 掠 翁せられ、 最も 酷い 辛苦と 迫害 を 忍ぶ 最中に 生れました、 十 年後 ( 一 千 八; m 四 

n ん f; つ ^ち ぽ/" とも ■ ゆ % \ r すなば け, "'ぐ わいたい しゅく 

十八 年 九月 二十 三日) 母と 共に ュ I タ へ 行きました、 父" ィ ラム、 ス ミ ス 即ち 敎會 の大祝 

二 六 五 



二 六 六 

福師は 一 千 八 百 四十 四 年 六月 廿 四日 預言者 ジ ヨセフ、 スミ ス と共に 殉敎 者と して 死に まし 

ば \ れん し , さい とき ^ らいた けうく わい ため 

た、 母 は 一 千 八 百 五十二 年に 死にました、 ス ミ ス氏は 十五 歲の 時より 以來絕 えず 敎會 の爲 

つとめ ひんかう ばう せ.^ しゃう がい おく たみ せんたい あい しんよう A- ん けい 

に務 をな し、 品行方正の 生涯 を 送った のて、 民 全體に 愛せられ、 信用せられ、 尊敬せられ 

やう ねん f; つ はちた いぐわん ちゃう あんしゅれい 上 

る樣 になり まにした、 一千 八 百 六十 六 年 七月 一日 大 管長 ブリガム、 ヤングの 桉手禮 に 依り 

し, 丄 ねん ゆつ かし とく わい けつ rO ん おぎな ため ぐ わい &ん はん 

て 使徒と せられて、 一 千 八 百 六十 七 年 十月 八日 十二使徒 會の缺 員 を铺ふ 爲に會 員に 任ぜら 

れ ました リ 

たいくわん ちゃう たみ み かた もっと したし やす ひと また けんめい つかさ ぐわん 乙ぐ しゃ へんば fii. りゃク 

大 管長 ス ミ スは 民の 味方で 最も 親み 易き 人て, 又 賢明なる 司と 勸吿 者て 偏颇 なく 大量 

ひと^ら また, V- どうじ やう と .; ^七ら ひと し 上た いめん き さう え くら ゐ 

なる 人柄であります、 又 其の 同情に 富める 乙と は 恐く は 人が 初對面 の^に 想像し 得ない 位 

けうと もっと X ひと にん すな は しんぐ な を にんた 5" 

であ. ます、 「モ ル モン」 敎 徒の 最も 善 さ 人の 一 人であります、 即ち 辛苦に 慣れて 居り、 忍耐 

りょく . ^み おそ ひと た またけ うぐ わ i- ため おも おの リ えき もと し 上ぐ おさ じんる る 

力が あり、 祌, V 畏れ 人の 爲め 又敎會 の爲を 思って は 己が 利益 を 求めず、 私愁を 抑へ、 人類 

おい じつ あいじ やう ふか た^'.\-ぐじゃソ せい しんじゃう およ しんたい じゃラ ちから じつ き i う 乙 

に對 して 實に 愛情が 深く 道德 上、 精神 上、 及び 身體 上の 力 は實に 鞏固て あります。 

> たけた か 乙つ かくた く M せんしん はつ 5-<きん せい ばな たか 上つ ばう ひとめ た 

ス ミス 氏 は 丈 高く、 骨格逵 しく、 全身の 發育 均齊 にして、 鼻高く、 容貌が 人目に 立つ の 

じつ くわい ゐ ひ. 0. たん わ おの あんかっしょく ばっちり .;《 ほい め あ ひて と 

で實に 魁偉なる 人て あります、 談話 するとき は 己が 暗褐色て 脇 然した 大 なる 吸 を 相手に 止 



) す: とほ ^-^ み,' いっけん な たか ひたい うら ぶしぎ ち si く なち a 

めて 透き通る 樣に 見る のです から 一 見して 其の 高い 額の 裡に 不思議なる 智力 ある をぎ ちに 

み^> で ほ, » 七 い かう ベ かんむり わか とき じつ おは t ぐはつ 

§M むる こと カ出來 ます 其の 大 なる の 冠 として 若き 時 は實に 多くの 黑髮が あ. ました 

>^,s なが あご ひゆ ごと はと まっしろ ^ くわい わ ひと かれ -, ん S- へんぐ 7 

力 今 は 長き 鬚の 如く 殆ん ど眞 白くな. ました、 ス ミ ス 氏と 話 をす る 人 は 彼の 心 極の 變七 

- f. ん"; ^^^rv れ— やう かん たいそう ゆぐ わい せう は ごと "つ しん 

に從っ V ^相も.^5^忽ちに變る乙と,^非^に感ずるのです、 大 ix 偸 快 さう で 小见の 如く 熱心 

〜 ゾは& > ^Ji; う i う ^6L^ お a べつじん ごと しんめんもく きぱ 卞んせ 

になつ て 目下の 問ぎ や 境遇に 面白がろ かふ も- へ ば、 別人の 如くに 眞 面目に な. o、j^ めて 嚴<1 

a ; r- AV 一 V つばう そ 乙う しゃ かれ しゃしし おい い. A ん と 

て 威儀 堂. 6 たる 相貌になる,. - とも あ 6 ます、 其の後 者 は 彼の 寫眞に 於て 遺慽 なく 認められ、 

なた これ か^^、.-ぇぅねんじ たい けいれき やうぐ ゥ V か ゆきれ つ へう し を ゆうき .1 

又此は 彼が 幼年時代の 經歷と 境遇が 如何に 激烈なら しか を も 表示して 居らます、 勇氣 と、 信 

W ん たい ちゅうじつ かれ せいしつ ぶんり チ J -クぅ 4; つ S 'ふ を 

任せられたるに對する忠赏とは彼が性質ょ..^分離し得voる樣に結合して居-^ます、 義称を 

お? 一た また ザき はん たいひけ ふ けつ 

怠 ら , 又贲 任に 對 して 卑怯 であった こと は决 してありません 

わ i は えんせ つか』 かれ + くしつ ひじ やう ねつ I. ん せ i, じつ 《- ,!-,> 

公き にが、 ける 演說 家と しての 彼の 特質 は 非常な 熟 心と 誠赏 なること であ & ます、 理論 を 

たぐみ の あるひ ゆうべん , ^る :;; つ —ん の つ」 みぶり . ^ん めんもく せ: ンウ あら *1 

巧に 述べ、 或は 雄 辯 を 振 ふよら も 熟 心に こと を陳 ベ、 また 其の 態度の 眞 面目と 誠 赏とを 表 

す,」 とに 依って 人 を 感動させる ので ある、 彼の 言葉に は 二- の 飾な くと も 其の ほ 信 力の 强さ 

r-^^VA t^w- . の 、\ かんど チ はう ぐ わ. 5- ちゅうせき 一 ふくいん しんり ; ;-上 

ii^ 論 は 寸分に 眞 理を宣 へて 人 を 感動させます、 敎 An の 柱石た るス ミ ス氏は 福音の 3 呉 wti 及び 

二. K 七 , 



二 六- -- 

こ -.^ うぐね い かみ X けんせ ゥ ぶか なう リ め 5- を 

此の 敎會が 神に 依. 9 て 建設せられ たる 乙と を 深く 腦裡 に銘 して 居る ので あ 6 ます 

け" ぐ わ V ! L け ふ かしこ さいのう てんし: ほ し: S てきし もべ ゆた さう ばつ じっせい K 乙と/! >. 

敎會の 事業 は 賢くて 才能 ある 天主の 保守的 僕に 委ねて あらます、 而 して 末 口 聖徒 は 悉 

义ょぅ * ん せい <if た かみ おんけい けいしう よ な.::. また 

くス ミス を 信用し、 i^^z; 成し、 又ス ミスが 神の 恩惠と 啓示と を受 くる とに 依りて 永く も 亦 

せい 1C- い け うぐ わい つかさど う やう ひたすら いの を 

盛大に 敎會を 司 . ^得る 樣に 只管に 祈って 居. ま- ro 

あたら くわん ちゃうぐ わ. 5- えら H じ tt う-こく とき ひと. s つ; K ん まん; r 一ぐ .C5- と 

新しき 管 長 會が 選ばれた と 始めて 報告され た 時、 人々 は 一般に 満足し ました、 聖徒 は 

のこ まご /- ろ ふんせ い へう やうす 

殘 らず眞 心より 贊成を 表した 樣子 でありました 

n , , , けつ, か ヽ sir え; ひ ノけゥ くわいち ゅク 5 うしん けんしゃ リんじ わ s ぐ わい しゅっせき ひと,^ にん ふ 

}m して 十 一 月 十日 (日曜日) 敎會 中 の 有神權 者の 臨時 大會に 出席した る 人, 1> は 一 人も不 

l^r, たぐ し 一とく わい えら a いくわん ちゃ ウ さんせい ぐ わいた 丄 おくれて き * 

承諾な く 使徒 會の 選びし 大 管 長に 贊 成いた しました、 回答の 遲 着た 一 つの ステ- キ部を 

に 一 y " かべ ヌ る ス-ひ たい (う 1- や /、 あるひ ぶ ,ノ た い/. れい せ i 

除レ てはシ オシの 各 ステ- キ 部よ. 9 或は 代丧 者が 來 るか 或は ス テ ( キ 部に 於け る火會 て聖 

か 可决し k こと を 載せた る 手紙が 來 ました、 敎會 の 幹部 の 役人 は 化^! 聖徒 の 承 て 繼 

ぞく つと やう I し て (るん ぐ, C, <" ぐ.; ん てん 

績 して 務める 樣 にな.^ ました、 "ィ ラム、 マック、 ス ミス も 十二使徒 定員 會の八 1: 貝に 任ぜ 

られ ました 

ぐう,, . ^が.^ 丄ゃ *^-^-^.ゎ+たぅなぃ たか と t7 ノ. i t^. ね うわう 乙し か を リ てい a んぐ わ. 5. ザべ じゅん..,:: \ き リウ 

^ 剩權者 は 大會 堂內の 高い 所 及び 中央に. 腰掛け て 居 ま した、 定員 會 の 德ては 顺クに 起立 



て たか . X けうぐ わい かんぶ や,. - ばん し上ラ おく しんかう お 乙 Mil もヮ & 

して 手, V,- 高く 擧 ける ことに 依りて 敎々 幹部の 役人. V 承諾し、 信仰と 行爲と を^て 飽くまで 

乙れ ら ひと さんせい 乙れ ら - ひと はじよ せいやく ,て ぁリさ M じつ ひ, -ゃぅ ひと ,ん 

も此 等の 人に 賛成し、 此 等の 人 を 保 助す ろと 誓約し ましたが、 其の 光景 は 赏に非 I? に 人 を g 

どう た つぎ ぐゎぃ^;ふ vi- と のこ き =- つき 上しけ おな せい A く いた 3r 

動 させました、 其の 次に 會 合した る 聖徒 も 殘らず 起立 舉 手して 同じ 誓約.^ 致しました、 ^ 

ぐわん ちゃつ し 上う はん う ひふ 一 は 上 きょしゅ けラく^-少かん 

管長 ジ ヨセフ、 H フ、 ス ミス は 承認 を 得べき 人の 名. V 呼びました、 擧手 によって 敎,^ :: 幹 

M やぐ にん ひ いぞく さんぜい もの じゅんじ 上 つぎ ごと ぐわん f やうく わい し とく わい しゅくふくし ぶ 

部の 役人の 繼續 を赞 成した る 者の 顺序 は. 次の 如し、 管 長 ^、使徒 會、 祝福 師、 ステ -キ部 

ちゃう こ ん そ かう とうさい けっし 上く たいさいし はんく わい. (- るん ちゃ ゥ らう かんとぐ 乙 もん 4- うしんけ.,; - ぃゥ 

長と 顧問と 其の 高等 裁决 職、 大祭司、 七十 人會々 員、 長老、 監 2^: と 顧問、 小神權 をれ する 

ひ" すな tt さ, いし _ けうし しつじ およ すべ i, うしん けんしゃ せいと せんたい お 5- ぐ わ 尸 うない にん 

人 即ち 祭司、 敎師、 執事、 及び 總て 有祌權 者と 聖徒 全體 とであります、 大付 堂內の 一 ^人の 

せいと いっち じつ かんしん さう 乙れ む しんじゃ と につ ,、= どろ 

聖徒の 一 致す る は赏に 感心すべき ことて あ 6 ました、 而 して 此は無 信者に 取りて 實 に^く 

、 も 、 どうじ かみ けうぐ わい せいじつ あい せいと お i つかさら い か くわん き た 

べき NJ とてあった と 同時に 神の 敎會を 誠實に 愛する 聖徒 及び 司 等に は 如何に 歡喜 に堪 へな 

かった 乙 とでせ う、 必ず 斯の 如き 一 致 は 天に も 地に も 善の ため 大勢 力が あるの てあら ラ 

神の 啓示 を 受けて 敎會の 前途 を 管理す る 役に 選ばれし 人, の爲め 徒は絕 えず ■ に 祈ぎ 

ま r . 5 う- かみ けうぐ わい さら あたら X つぎ めでた むか おの くわう え. & せんと 

を捧 けて 居らます, 而 して 神の 敎會は 更に 新しき 世 繼を愛 度く 迎へ て 己が 光榮 ある 前途に 

進行し つ,/ あるので あらます。 

二 六 九 



二 七 〇 

たい しゃう I き 1 ん : 

第 十 一章 ジ ヨセフ、 ス ミ ス 記念碑 

立した 人 は 一 千 八 百 五 年 十二月 二十 三 n 合衆國 rr:.TTX 船 rFT^grTTTg に 

生れました、 一 千 入 百 八十 四 年長 老ジ ュ -ー ァ ス、 H フ、 ウェルス は 此の 預言者の; 1+ れた所 

、 f . , 、& い かみ しもべ , またし ルリ た じゅんけ うし や る じ,; - .y >1 う S 

へ 行きまして 威勢 ある 神の 僕、 マ眞 理の爲 め殉敎 者と なった 偉人 が其處 に; ij^ れた 

と いふ 事 實を萬 人に 普く 知らし むる N? 善 けれと 感じて 後に 其の 預言者 の^お" 日び の 百お お 

を 善く 祝せ ん爲め 彼が 生れた 所に 於て 記念碑 を 建てる 乙と を Ift しました、 ギレ i の編ゾ 

; t、r り, つ flT - ため えら- 4- ゆうじつ そ せ さばん お か; J き んひ し-/;^ かう.?』 

き E-j 想 を實行 せん 〈おに 選ばれて 忠實に 其の 責任 を 負 ひました、 彼 は 記念碑に つき ぼ々 考案 

を 廻らし、 最良の 1^ 力 仏,: & て!! をつ あ. - ました、 バム.^!" る獻 "4 の ある、 は g て; 

いた 乙 じゅ ュ じゅうじ あ ひ; に は で き ごと し こ t ^ , 、とた-、 

^します 此の 事業に 從事 せる 間 多くの 出來 事に よ 6 て、 ゥ ュ ル ス も 此の 附 I ^のん々 も 

i^*iJVL、*_lw Z はたらき たす i め く さと jJ く t-i うせき ひ 

神 力 不思議に も 此の 働 を助け給ふたことを明白に覺りまし^:^、 此の 磨かれた る 花 S1 石碑 

の 質素に して 美しく 莊嚴 なること は、 該 碑の 記念す る 預言者の 性格の 如く、 到 ぼ 言れ i に 言 



つぐ き U んひ み そ 4 上 ひんき う どん 七 た ふと わか すべ 

ひかされません、 記念碑 を 看て 其 *v 能く 硏究 せねば 十分、 に 其の 賁 さが 了り ません、 總 ての 

ぼつ じっせいと 乙れ かん う 一一.」 てきた う た せっぴ たんしゃう 

末日 1^ 徒 は 之 を 仰ぎながら 感に打 たれて 其の 適當 なると、 其の 絕 美なる こと AO 嘆賞し ます 

ちゃうら う . . うま ぶる いへ あと けんちぐ か ともな きた く, ク ど 

長老 クュル スがジ ヨセフ、 ス ミス の 生れた 古き 家の 跡へ 建築家 を 俘ひ來 り、 其の 崩れた 土 

たい かれ み そ きうせ き うへ り さ r てききん せい か をく た いま そ いへ す き 

臺を 彼に 見せ、 其の 舊 跡の 上に 理想的 近世の 家屋 を 建てさせました、 今 其の 家に 住んで 記 

U んひ を tJ うない かんし § ひと け-つく わい し 上 じやく じふ ん たな お さう をし へ -c. かっかみ 

念 碑 や 其の 構內の 看守 をす る 人が 敎會の 書籍 を 十分に 備へ 置き, 而 して 敎を 受け、 且种が 

ぼつ じつ おい お/ J ^:/ぃじ t ふ けうく わい せいし つ.」 乙 ゆ ^>-/v *J れ う 

末日に於て起し給ふた大事業(敎々i::)を靜思せんとて其處へ行く人々に之を賣る^Jとになっ 

ケ が^な レ ねん ひ すみか た 卞. - ばう もっと てラ ばう X ^ IX た ぜ 

て 居る のて あ..^ ます、 該 記念碑と 住家 はせ; の 地方の 最も 眺望の 好き 場所の 一 つに 建って 世 

^ ^ もっと ゐ せい る じん じゅんけ うし やが つ し £ う 乙く L う うつさう 71 やま なな 

界の 最も 威勢 ある 偉人なる 殉敎 者が 合處, ゲァ I モン ト 州の 鑽蒼 たる 小山に 於け る 名 も 無 

ち ひさ まち うま せか つ 

き 小き 町に 生れた と い ふこと を 世界に 吿げ る のて あ. 9 ます 

き ほん ひ - みか ゆ 5, し で き こと >o みが たか お 1 しゃく めかた とん けんら う ; Hi う 

*■ 記念碑 はバ. 'ルの 花 Si 石て 出來て 悉 く 磨かれて おります、 高さ は 凡そ 五十 尺、 重量 は 1R 噸 てす、 堅牢 LL 凝 

けつ どたい けんし はゥ あつ しやく ずん ぶ たい たん けん しゃくし はう あつ しやく 

ひんされ たる 土臺は 二 間 四 *LL して 厚さ は 一 尺 三寸 四 分て あろが、 第二 段 は 一間 一一 1 尺 四方に して はさ は 二 尺 

ひめいたい けん リ つば や そ うへ .* も-いし —ふく ずん しばう あつ しやく すん 上: ゆん 

V 、す、 碑銘 蜜 は 一間 立 方て、 ?G 上に ある 綠石は 七 尺 三寸 gX 刀 四方、 "E- さは 二 尺 五寸 であ リ i す、 IS 一 W 

しゃ ねん はつ! V ん めい だ-. § 么 t ひ f: いたい うへ しゃくばん ほどた か いし 

^ ス ミス は 三十 < 年 六 ヶ月 存 命して りました、 故 LL=^ の 碑銘 秦の 上に 三十 八 尺 半 §3 t5 い 石が ありま 

二 七 一 



. 二 七 二 

Z 5 し した ばう しゃくし はう うへ たん ち ひさ な じゃくし ばう こ う 人 また じゃく 

す、 此の 石の 下の 方 は 四 尺 四方て あるが 上 は 々と 少く つて-二 尺 四 方て あろの て、 此の上に 又 三 尺 

ほどた^ かくする けいち やうせ き ご ざ 

程 高い 角 鏟 形の 項 石が 御座います 

いぐわん ちゃう ふぐ ゝ わんち やう しとく わいち やう 1 

大 管 長ジ ヨセフ, エフ、 スミ スと副 管 長ァ ン トン、 H チ、 ラン ドと十 一 一 使徒 會長フ 

1 はか はん し と たいしゅぐ ふくし そ た けうく わい しょき 

ランセ ス、 ニム、 ライマンと 外に 四 人の 使徒と 大 祝福 師 ジョン、 ス ミス 其の 他 敎會の 初期 

れきし くわん けい ちゅうじつ ほ か ぞく たいへ うし や おは せいと やぐ るん そ けん ひ しき しゅつ 

の歷 史に關 係せ し忠霣 なる 多くの 家族の 代表者と して 多くの 聖徒と 役員が 其の 獻碑 式に 出 

せき M び れい かざ すみか ひと もヮ じゅうまん ねん 

席し ました、 をれ で 此の 美麗に 飾った 住家 は 人. VJ 以て 充満され ました、 一千 九 百 五 年 十二 

ゆつ にち ご おん じ いぐわん ちゃう そ しき か 5- ぐ わい さん, ひ か 

月 二十 三日 午前 十 時に 大 管長 ジ ヨセフ、 ュ フ、 ス ミス は 其の 式 を開會 しました、 讃美歌 

き たう のち/や うらう き "んひ - にん リっ らいれき めハ はく しか けんたん 

と祈禱 との 後長 老ジ ユー 一 ァス、 エフ、 ウェルス は 記念碑の 建立の 來歷 VJ 明白に 而も 謙遞に 

述べました、 使徒 等 フランセス、 ェム、 ライマンと ジョン、 ヘン リ、 ス ミスと ハイラム、 

1 1 たんかん て きぜつ えんせ つ 

ェ ム、 ス ミ スと チヤ I ルス、 ダブル ュ、 ペン 口 ー ス が短簡 にして 適切なる 演說 をし ました- 

- しラ いうめ い おん^くか じ やう さいしょ さ 

ュ-タ 州の 有名なる 音樂 家なる H ンマ、 凡 I シ、 ゲ I ッ孃が 「ジ ヨセフ、 ス ミス 最初の 祈 

*i ラ ぼつ じっせいと さんぴ か たい うつく う-た のち た くわん ちせ う 

禱」 (末日 聖徒 讃美歌 第二 十四) を 美しく 歌 ひました、 後、 大 管長 ジ ヨセフ、 エフ、 ス ミス 

? D と 力ん どう けん ひ き たう さ、 そ き たう けんそん さう *f よう せいしゅ < 

は 人 をして 感動せ しむべき 獻碑 祈禱を 捧げ まし 力、 其の 祈禱 は謙遞 にして 莊 重に 靜肅 にし 



かャ, リ ひ」 -<\ ひじ やう かんどう あた 

て 飾な く 人々 に 非常なる 感動 を與 へました 

へいく わ.^ のち ひ- ^:-^-まくしき みたき ねん ひ をば あつま じ やう 乙 • つな 

閉會の 後人.? -は 除幕式 を 見る 爲め 記念碑の 傍に 集りました、 ノ -1 デス、 ス ミス 嬢が 小 綱 

ひみ ないひ ぶん お ほ ところ がっし ゆう 乙く 乙く き と はな ひと 

,ゲ- 引いて 琢 れ たる 臺の 碑文 蔽 ふた 所の 合 衆 國の國 旗. 取ら 放しました、 すると 人々 が 

どぅ.^>っさぃ こ ゑ いお をと 乙 うや J(l ばう し S ふ じん ご と よ ゆん しゃ 

一 同喝釆 の聲を 出し、 男 は 恭 しく 帽子 を脫 し、 婦人 はジ ヨセフ、 スミ ヌの 如き 預言者が 

近世に 生きて 居った 乙と を 感謝して 落淚 したの てあります、 嬰 兒のジ ヨセフ —— 母の 膝!^」 

たはむ & と 3 しんせつ ちい じ やう ふか はゝ ぞく を おとな I 

に 戯れて 居た 時の ジ ョ セ フ. —— は 親切て 愛情 深き 母の みに 屬 して 居りました が、 大人の ジ 

てん つう め かつよ か 5- かく けうり Q べつた ばんみん たい 

ョ せ フ —— 天に 通ず る 目が あり、 且世を 改革す る敎斑 を宣傳 へた ジョセ フ. —— -は萬 民に 大 

くわん け s いう ! X さう *j ん S ちかれ 5- うじん しんる a あたか てんしゅ ^5 

關係を 有して 居りました、 而 して 今日 彼の 友人と 親類と は 恰も 天主 ィ ュス、 キリストの 友 

じん しんる ゐ ごと すぺ かみ めいれい まも かみ つか ひと < ;, - 

人と 親類との 如く、 總て祌 の 命令 を 守. 5, 神に 仕へ る 人, > であるの であ. 9 ます。 

乙 さう れい き ねん ひ い まこと かみ はん 上 ゆん しゃ つじつ い じんる る かぎりな かった ふ. 

此の 壯麗 なる 記念碑 は 活ける 眞の 神の 一 人の 預言者が 末日に 生きて 人 額に 限 無き、 且賁 

しんり 乙- -ぼ あた また , さい 乙う 《^ ん せん じゅんび かみ けうく わい せつりつ また 

き異现 の 言葉 を與 へ、 又 イエス、 キリストの 再降臨 前の 準備と して 神の 敎會を 設立し、 又 

かみ すぺ 乙すな は ぼん W ん おのれら むしむ し: S う てんぶ かみ めん i&i ん すく う ため まも ゅ& 

祌の總 ての 子 即ち 萬 人が 己 等の 無始 無 終の 天父なる 神の 面前に 救 はれ 得る 爲に 守るべき 唯 

いつ みち あきら と む ごん しょうこ を さう また 乙 上 f: ん しゃ せ. S めい 

一 の 道 を 明かに 說 いたと いふ 無言の 詩據 となって 居. 9 ます、 而 して 又 此の 預ー H 者が 生命 を 

二 七三 



二 七 四 

す おのれ ち もつ おのれ た し 上う 乙 たしか じ a- ゥ さら けんしゅく ぷ きう しょ ジ めい ばゥ じつ 

捨.. - 己の 血 を 以て 己の 立てた 證據を 確め たる 事赏は 更に 嚴肅 なる 不朽の 證 明て ある、 末日 

せいと III i かみ ちから けん K! あた . あら 乙ろ 

藥 徒はジ ヨセフ、 スミ スに 依って 瞬より 力と 權 威と を 與 へられて シォ ンの 荒された る 所 を 

ふい ナん はじ さう 乙 ^^^ぃじ f: ぶ えいきう けい ぞく せいと ら りね かみ しもべ 

ffi: 建し 始めました、 而 して 此の 大事 業 は 永久に 繼續 します、 かくて^!!-徒等は常に神の僕た 

つが さら あい そんけい ばつ じつ お たいじ はよ すな a けうぐ わい た えい ゑん てんぶ かみ そ 

る 司 等 を 愛し、 尊敬しながら 末日に 於け る 大事 業 即ち 敎, $:: の爲め 永遠の 天父なる 神と 其の 

御子 ィ ュス、 キリ ス ト に 榮と譽 とを歸 せる のであります 

たい しゃう けつろん 

第 十二 章 結論 

ほんしょ き さい ごと たじ 乙 けうく わい くわ 乙 み きた ゆん ざい せいたい ばんえ い われ 

本書に 記載して ある 如く 多事な りし 此の 敎 翁の 過去 を 看 來れば 現在の 盛大と 繁榮と は 我 

ら め しぎ み また けんざい もつ I やうら い お くわう めい み たばう そ せんと 

等の 目に 不思議に 見える し、 又 現在 を 以て 將來を 推せば 光 W に滿 てる 多望なる 其の 前途 は 

( めん^^ん ゆん しゅつ 

歴々 として 面前に 現出 さる、。 

ほつ じっせいと みな うれし かみ お A- かた たうと く まも ばんえ い リゃ うみん そ かず 3 す/ \JV うか 

末日 聖徒 は皆嬉 み、 祌を 畏れ、 堅く 道德を 守り 繁榮 する 良民て、 其の 數は 益々 增 加し、 

そ *j んかぅ い 上く た£ せいと とくせい うち きんけん せいけつ ちつじょ へいあん きんちょく 

其の 善行 は 愈 高まりつ-、 あります、 聖徒の 特性の 中には 勸儉、 淸 if、 秩序、 平安、 謹直 

せいと と もの たぃ^;ぃぉのれ いへ はたけ か ちく むれ しょいう 

があります、 1^ 徒 は 富める 者て はないけれ ども、 大槪 己の 家と 畑と 家畜の 群と を听 有して 



を み か せいと ため ち めぐ たま ^5-^^ れち とち 

居ります、 祌は 彼等 徒の 爲にシ ォ ン の 地 を 惠み給 ふた 故 曾て 荒 地であった 土地 は 彼等 

, に; S ひ i ぐち g た ものさん 

爲に 肥沃の 地と なって * 豐 かに 物を產 ずるので あ, 9 ます 

せいと けうい く いう 9 よく ふか しん そっせん おの し/ そん .( ま t と けう ぐ あた 

聖徒 は敎 育の 有力なる 7- と を 深く 信ずる ので、 率先して 己が 子々 孫々 に 眞の敎 育 を與へ 

せ,, > W すべ せ 5 と を し まち むら- 乙う W 'つ M> く かう はと やすみ ゆ 

るので す、 小 兒は總 て 聖徒の 居る 市と 町と 村と にある 公立 學 校へ 殆んど 休な しに 行きます 

おいぐ わんち やう せつりつ ^"ぐかぅ ほか た S ぐわん ちゃう^ —— I 乙と けうい < た a- しん 5=- く もと ゴ 

大管長 ヤングの 設立した 學 校の 外に 大 管長 ウタ ドラフ は 眞の敎 育 は 正しき 神學に 墓ぐ 

しん けうく わい がぐ かう そしき まう f\ さう こ けうく わい がぐ かう そし is 

ものであると 信じて 敎會學 校 組織 を 設ける こと を勸 めました、 而 して 此の 敎會舉 校 組織が 

ます. ('ばったつ 5 ま お ほ ぶ かう とつがぐ. S タ いま 

益々 發 達した ので、 今では 多くの ス テ ,- キ 部に は 高等 學校 があります、 (今 五十 五の ステ I 

キ部 があります: P 

れんく わか せん はう し いぐ はん でんおう た せ かい い^ と,, j ろ ^ /U f:i ぐ おは 

年々 に 若き 宣敎師 は 幾 百 人も傳 道せ ん爲 め、 世界の 到る 處に 行きます、 此の 人 は 多く 

あたら し さ う れ うけ/ また しん いけん もつ かへ さク せいと これ どう. < わ 

の 新しき 思想 や 了簡 又進步 したる 意見 を 以て 歸 るので ある、 而 して 聖徒 は 之 を 同化す るの 

かくし まち むら よ は どり えき ちから え しん ぼ 矿 はん おはせ S せ うれ 

で 各市と 町と 付と は餘程 利益と 力と を 得て 進歩して 居らます、 十二 萬 五 千 人の 多勢の 小 

いた と/ J ろ ^ちえ. r がぐ かう しっけ う を さう ご はったつけ ぷぐ わい およ はん たんし およ はと あ 中 

は 到る 處の 日曜 學 校で 姨を 受けて 居る し、 相互發:^:協<E:で凡^V三^人の男子及び殆んど相 

ひと ^!^上し fs^ ん けうり およ しゃく わい じみう ぎ む れきし ぶん^,く けんきう 5 うしん けんしゃ 

等しき 女子が 福音の 敎 及び Jtt 會 上の 義務 や 歴史 や 文學. V 研究して をり ます、 有祌桃 者の 

二 七 五 



二お 六 

,く 二 尸らん くつ. J ぐ わ、. -&ん ひと <Y リぅ う た ま,,, J ひ ど じっち ぶ む i うため そ くわい 

? {"i^ 員 會の會 an; は 人々 を. 敎 導し 得る 爲 め、. 又 日々 の赏 地の 事務 を 善くし 得る 爲に 其の <5 し. 

、J3r^ ら ぎ ,一 V- さラ ふ じんじゃん くわい じ どうけう やうぐ れいお i し うけう. 一. んき うぐ わい ^ん みん リ 

il 等の 義, を;^ へられます、 而 して 婦人 慈善 會、 兒莆 敎養會 及び 宗教 研究 會は全 民に 利 

えき あ J^』 しん ま ばったつ つと じつ しゃう さん ばたら き 

益を與 へ 、 進步發 達せし めんと 努めて 實 に賞讃 すべ き活衝 をして をり ます 

t^i ,y う if X くて きお t じん. て& たう を— 人 i- よ/、 わ,.. がつ, 一/; うこぐ じんみんお; i-k せ, ん . か/ < > 

聖徒 は 其の 厚德、 善き 目的 及び 人類に 適當 する 敎が 愈々 我 か 合 衆國の 人民 及 ひ 全世界の 

し ifi- ん .t- うかい したが いよ. (な くわん しん う 

諸 民に 了解 さる ゝに從 つて 愈々 其の 歡心を 得る のであります . 

一 やうら ひ いかど 乙 卞んき つよ しんし; 5 てき ばつ じっせいと せんと ばた い ^ , 

^來は 如! S てあらう、 此の 元 氣强き 進取 的なる 末日 聖徒の 前途 は 果して 如何なる ものて 

あらう か , 

. ^れら を-へ ぐ りんきん .a み 乙 6 すな K ほん みん w くた 5- にやう !,/ いしん じ, S1; ラ r< H つたつ 

彼等の Iii5 敎は 完全なる もので、 神の 子等 即ち 萬 民 を肉體 上に も 精神 上に も 救 ひ 發 達せ 

32 ハ. う i ぐ、、, あん あた て 3- たう さう かれら せいと かう しゃう じつ i うてき かう 

しめ、 ヌ 幸福 平安 を與 へ るに 適當 したる もので あらます、 而 して 彼等 lil 徒の 高 尙て實 用 的 行 

爲は 其の 一 つの 例と なって 居. 9 ます、 彼等の 宗敎に は 神より 示された る眞 に 基く 天賦の 

a-*- うり 上く えいたい けいぞく たしか はんけ 5 ぐ .ii ひと 。ゑ、 で >. 

强 力 が あるので、 永代に 繼續 する の は、 確で ある、 本 敎會は 人の 智惠 によって 出來 たも 

かみ こ たま かみ か レ C もぐて き r_ けぅぐゎ^- せつりつ たま 

のでな く 神の 起し 給 ふたもの であ ft- ます、 神 は 賢き 目: g あ. 9 て 此の 敎會を 設立し 給 ふたの 

さう もつ 3 いらいお. M じ やう くん リん 1^ ゆ じ じゅ;.? 

てあります、 而 して 以て ィ ュ ス、 キリストの 再來 及び 地上に 君驗 する 乙との 爲に人 額に 维 



, を なさし むる のであります、 之お 要するに si へに 「モル モ ? S 」 敎 とい はる. の宗敎 は廿: ハ 



H んゐ す 乙ぶ ひろ C わんたい しん リ た, つ もと すな は 



の範 園が 颇る廣 く、 寬大 にして、 i ハ现を 尋ね 求む るので ある、 即ち ィ H ス、 キリストの ー腑 

ぃル 5.* た ふぐ. ^ん t やうら い かなら ばんみん あひな いつ しゅうけ う 

音で ある、 又ィ H ス、 キリス トの 福音と して 將來に は 必ず 萬 はの 問の 唯 一 の宗敎 となら ま 

がい けうく わい しん リ ちょぐ せつ かみ あた t,- 乙ろ S いん §A f: ん y いひ ふ <;\ ひつ 

す、 該敎會 の 眞理は 直接に 祌 よ.. y 與 へられた る 所に 起因して をり まする 故に 現在 人. > の 必 

えう て 3 ます * ( i さんせい う 

要に 適して 益, I- 世の 賛成 を 受けつ 乂 あります。 

けうぐ わい さう リっ も はや ほと ねん たつ 乙 あ ひ ばんなん はい 3 うしん き、; i 乙 けうぐ わい 

敎八 n の创 立より 最早 殆んど 百年に 達する が 此の Si 节 I 難 を徘し 猛進し 來り たる 此の 敎會は 

い a た ばう せい a- と ぐち い たのせん i じつ v\ わう めい み み 

今や 多 51- なる 一 一十 低紀の 戸口に 入りまして 其 前途 は 管に 光 に 充ち滿 てるので ござ います" 



敎會 略史 大尾 

二 七 七 



1 



' 107 



102 



97 



,92 




^„i- . "や r t. ,ラ わい S つぶ た n- い 

第一章 「モル IP ン」 敎會と 一 夫 多妻 

末日 聖徒 耶穌 基督 敎會 日本 傳道 部長 ァ ル マ、 ォ I、 テ イラ 1 述 

世間で は大槪 T だ^ 「モル モン」 ナ g の &ん— おの? &と lr、 3 も ||«« の? TKn くで あ 

かんが わがし ゆう &ぅ た さ しゅぎ ひと , ^る やま t 2 h 

ると 考 へて、 我 宗敎と 多妻 主義と を 一 ゥ に 見誤,, ます、 モ^ モン」^ は ぎの 1; 

方に 就て 極 夕 誤った 評判 を! 》1 てられた ら、 lli しく «i5 にぎし J き へられて、 艦い 

を 受けました、 斯云ふ ハ甙& てあります から、 、に 114« に て鹦^ sfe を k へる のが 

ii5?g はれます、 mしきMしてさyK^^,^めるmgではtませぬ、 

i りに は 誤りた 說を駁 破りて 偽の 證 i? が 戲に體 ぎ、 ? f りに は 針:; に は n まらずに 1% 

^ ざ やう. ( ?, 一. 5- ちゃう と も 5- ら し ,5 'うら ハ .;--, ノゃ fjt 5 -t- £ ^ > ,, 、 r 

を言曲げて仰クしく吹聽する^^に^來讀者!^辦がれ3|,&ひのな無3£^、 ナ 氣 g お" が こ 

義の霣 行に 就て 如何 云. fe?- 成って 1" るか をず に r 不 めさう とい ふ 船« に g ならぬ ので" IrJ! 



二 

います ひ 

けラ くわい じつ な ばつ じつ t いと イエス .^i-リストけぅぐれぃ い うり ク しゃ 

乇ル モン」 敎會の 實の名 は 末日! 111.- 徒耶穌 基督 敎, t ゆ" と 云 ふので," をの 創立者 ジ ヨセフ、 ス 

乙と 乙の 札き し うち しば. (み を わがけ うく わい ぐ わい ゐん 乙の かた かみ 上 けんしゃ な はめい ばく 

ミスの 事 は 此歷史 の 中に 敏 見えて 居り ゲズ す、 我敎, $:: の ハは 此方 をば 祌の 預言者、 ^明白 

なう しみ み 乙ヽろ そのたみ いと しめ ひと あ 上 や 3 を ,1 . このf^i K ^1 

に 申せば、 神の 御 心 を 其 民なる 聖徒に 示す 人と して 仰ぎ 敬 ふて 居ります が 此方 は 期る 預 

4^ ん しゃ かくしき ひと リ をと 乙 ひと W- ぃじ^!-ラ つま も 乙と くわん かみ ハさ 上い つた げいし くわい 

言 者と ぃム 格式て 一 人の 男に 一 人 以上の 妻 を 持つ 事に 關 する 神の 御意 を傳 へる 啓示 を 三回 

さ いしょ わん つ 5tj ねん さいご _ • れ-; ~, 

受けられました、 最初 は 千 八 百 三十 一 年、 次が 千 八お 四十 一 年、 最後 は 千 八 ぼ 四十 三年て 

.-_ ざ たう ぶん 乙の けいし ひめお 5-5-5.5- けう.... お ほやけ た-, 

御座います、 ジ ヨセフ、 ス ミス は 當分此 啓示 を秘 置いて 一切の 敎 徒に は 公に せず 唯た 幾 

人 か 頭の 人ば かりに 複婚、 王義、 即ち 一 人て 何人も 妻 を 持つ とい ふま 義を 知らされ、 をれ か 

この ひと もろとも. V のじつ かう とり ^ヽ と かく うち . . 』, 1 , If;^ つ,^ を. 

ら此 人々 がス ミ ス 諸共せ. ハ實 行に 取掛り まし.?^、 鬼 する 內ス ミ スは千 八 百 四十 四 年 終に 敎 

ため いのち feh たの/ち 5 にラ く^ ない くわん ちゃうな > 、 IJ 、ゆ 

の 爲に命 を eg され、 フリ ガム、 ヤングが 其 後 を 承け て敎 會の大 管長と 爲られ ました 然る 

*1 うじ わ". --lev ぐ. C い き やつ 5-^, 5 かて ヽ ぐば けうと I - さん たちの さい で あ せんしんばんく 

に 當時我 敎<ri;: の 境涯と 云 ひ、 揭加 へ て敎 徒が P ツキ.' 山へ 立 返く 際に 出逢 ふた 千辛^苦と 

A かた と リ 乙 tMA タラ た せいと はし rj と , . ひき 乙 す 3 ゐ さお 2 で 

云 ひ、 旁 取 込んだ 事情が あつ.?^ 爲め、 1^ 徒が 西の 里なる ュ 1 タ に 引越して 住居 を 定める 迄 は _ 

f いし お まや *s をし ゎナ W ゐ か つ ひ ねん ぐ わつ ばち 

袍婚の 啓示 を 公に 敎 へる 譯に參 り 兼ね ましたが、 遂に 千 八 百 五十二 年の 八月 二十 九日に な 



まくべ 5- がっし ゆう 乙く == サ-^ ト、 レ I キし ひ& わ 5 "けうく わい ぐ わい けラ くわ i たいくわん ちゃ ゥ ^ I ^ 

つて、 北米 合 衆國ュ -タ鹽 湖 市に 開けた 我敎 會の大 會て 敎會大 管長 ブリガム、 ヤン 一 

— ゆ is- した /J の をし へ H じ おは 巧け な /J の ia- . - ぐ わつ "おは . : 

グの 下知の 下に 此敎が 始めて 公に 爲り まし.?^、 此 時より 千.:; 九十 年 十月 まて 凡 7W 二十 八 

れ 人 あ ひた 5- つくわん t のし ゆぎ くわ 5. るん をし し た, t 

年の 間 一 賞して 此 主義が 會 員に 敎 へられた 次第て あります。 

fj ゝ -., -ぐ 乙ん どうい たち A の a たど う い しんてい Nit おこな 一」 みじか 

(友で 複婚と は 如何 云 ふ 性質の 者て あるか、 又 如何 云 ふ 心底から 之 を 行 ふ たかを、 手 短く 

と なせ ひと たいてい けう お さいしゅぎ や はいとう やう ぐに/ V お t な 

說 かねば なり ませぬ、 何故 なれば 人 は 大抵 「モ ルモ ン」 敎の 多妻 主義 も 矢張^ 洋の國 々に 行 

さま-? w\ 'ぎ . は ふく 乙ん かけが; J ひ *^ が もの おも その 5 ひ みわけ つ 

はれて ある 樣々 流儀の 變 つた 複 婚ゃ莕 妾 と 違 ふた 者で あるまい と a-^ ふて:;: ^ハ問 の 見 分 を 付 

はて たうと ぐしん たか おは ひと ,つ さん けうと か x.<^ せめの \ し 

けず、 果 は道德 心の 高い 多くの 入 まてが 杜撰に も 「モ ルモ ン」 敎徒. V! 輕々 しく 責罵 るからて 

ございます 

せじ や? 乙 の. S つ 1!4 た さい をし ( つい た. う あや せつ S うかう ! e> . , まった じ rs^ つ 

世上に は此 一 夫 多妻の 敎に 就て 大層 誤った 說が 流行して 居ります 力, ぁれは全く事饰:^に 

はんたい い せん わが けうく わ. & い つばん t れ ケ-し ぐ わ いんん.' いつばん 乙れ おこな 

反 irv あって、 以前-こそ 我 敎會て 一 般に之 を敎へ はした もの-^、 會員カ 一 般に之 をれ ふた 

を Q し さい じ どつ ばな めいはく *W たい けつ り ふ じん 

のて は あ, 5 ませね、 其 仔細 は 事實を 話せば 明白に なり t< す、 先づ 第一 に は、 决 して 理 不?^ 

このし ぎ "乙な せま わけ な けうと みな わがみ たど 5 みちす^^- めいく えら、 じ い ク 

に 此 主義 を 行 へ と逼 つた 譯で 無く、 敎徒は ゆ H 我 身 の 迎り 行 く ベ き 道筋 を銘 々 に m 、ぷ自 山 を 

じ., 1 は ぶん あた たい 乙の ケー しへ かみ けいし かど かつまた 乙れ お 乙な ま 乙と もぐ 

十二分に 與 へられました、 第二に、 此敎は 神の 啓示と いふ 廉も あ. 5、 且又 之 を 行 ふ 誠の 目 

1 一 1 



四 

てき 》- いしん l^s, れ まっすぐ こ そお てみ かみ つ. 5- ひと 之き 

的と 精祌 は、 穩 なき 眞 直な 子 を 育 上げて 神に 仕 へ 人 を 益せ しめる とい ふので あります から、 

これ "乙な つい ごく: « ん みつ ホん!;^ゅぅ ふせぎ まう 乙ゝろ ャ-ま 、や マん に 上 ^ ^ i-J つかく も ビ てき 

之 を 行 ふに 就て は 極 綿密で 嚴 重な 防が 設けて あって、 心樣の 卑しい 男女の 爲に折 JW: の 目的 

やぶ このり う つ 乙ん たうぐ つか みた リ /J」- やう じュ ん上 う!: 一ん 

が 破られたり、 此 流の 結婚 を 道具に 使 ふて 猥が はしい 事 を させぬ 樣, 十分 心して ありま 

t 二ぐ こん と へ, す ぐ わ.;! - ろん ,ての ひとがら ぎ や., r じ やう うげ あ しょうめいしょ さし ic- 

した、 を 乙て 若し 複婚を 取 6 結びたい 會員 は、 其 人柄 や 行 狀 を 請 合 ふ 證明害 を 差 出す の 

かん: しん 乙れ ^Vのをと^J?^^た をん な す "ヶ つかさど かんとく ばんい そつ ぶし 

が 肝^で t 之に は 其 男 又は 女が 住む クヮ f ド部を 司る 監督の 判 も 要れば、 其ゥヮ I ド部を 支 

はい ぶ ちゃう- おくがき い tV のう (さら けうぐ わいたい くわん ちゃう これ とリ L ら き /- と け ばん つ 

配す るステ . キ 部の 長の 奧書も 要. o- 其 上 更に. 敎會大 管長が 之 を 取調べて 聽 屈の 判を捺 

しか ど ぶ あ, つか かんとぐ をの ぶ ない しんと わ?: / ;て < 

かねば な, ませぬ、 然るに 何の ゥヮ -ド部 を預る 監督 も、 其 ゥヮ- ド部內 の 信徒 を 我家 族 

どうせん し ひ C たけう と な まへ ぎ やうせ き ひ ごろい ち - ちゃう めん かきと ぶち やう 

同然に 知. -拔 き、 又敎 徒の 名前と 行跡と が 日頃 一 々帳面に 書留め てあつて、 ステ r キ 部長な 

けうく わいた. S くわん ちゃう ず& 5- このち やう めん あつか このへん がてん へ 5 せいみ もち 上ろ な 

ら 敎會大 管長な り隨 意に 此 帳面が 扱へ ます、 此邊の 合點が 行けば、 平生 身 持が 宜しく 無 

じんぴんぎ やう じ やう いやし わる て ほん わが こ の 乙 やう fz をん な わがみ らち つ /- 

いと か、 人品 行 狀 が賤 ふて、 惡ぃ 手本 を 我 子に 貽す樣 な 男 や 女が、 我 身の 不埒 を 包み 慝 

ゥ うぐ わい ぎ しき ど ほ た さい めと 5 るし う など たうて。 ぉぽ つか え とく たれ 

して 敎會の S5g 式 通り 多妻 を 娶ろ許 を 受け やう 钚は 到底 覺 束ない ことが 會得 できます、 誰に 

かざ mv /(きて ど ほ つ とんしき ケ-か た さい えんぐみ ひ つみ もの みと けう 

限らず 若し 淀 通らの 結婚式 を 犯して 多妻の 緣紐 をした 日に は、 罪 ある 者と 認められて、 敎 

ぐ わい リ つぼ ふき そく せい 51 い ついでな とぐ のみこ まし わがけ うく わい い せい «ぃ 

會の 律せ: 規則で 成敗せられ ました、 序 乍ら 篤と 吞 込んで 欲 S こと は、 ^;^敎會で云ふ成敗と 



ヤー ハ^ん からた ぐ は 乙れ らク と 乙 いつは あくしん わがげ うく わい うった 

は 罪人の 身 體に害 を 加 へ ると か 之 を牢 に銦 込める のて あると 偽つ て惡 心より 我敎會 を訴へ 

ひと さう い わけ もの な た れいこん 乙ら ぼつ a で つみ たいせう 上. y 

る 人が あります が、 然云 ふ譯の 者で は 無い、 唯お 靈魂. T 懲し 罰する 迄で、 罪の 大小に 依て- 

あるひ V- &ゐ tt けん う ぼ あるひ けうと し かぐ とリぁ ぐら ゐ と^な か ゃラ 

或は 位 を 褫ぐ とか、 權を奪 ふと か、 或は 敎徒 たるべき 資格-. -収 上げる 位に 止り.^ す、 斯樣 

し ,5 c- けう をと t あち 乙ち あさ リ S は き をん な み なん せい 

な 次第で あるから、 「モル モ ン」 敎の男 は 彼 地 此地足 探 廻 ゥて氣 に 入つ .{^ 女と 兄れば 何の |& 

4^ ん けつ/ J ん けんせき う おそれ など まった たは 、こと わか また 乙の 

限 もな く 結婚しても を 受ける 恐 はない 杯と いふの は 全く 妄說て ある ことが 解り、 又此 

し.^ ぎ A 乙な つい これた けき *ひ し はっと めんみつ 上う じん み すな は これ おこな 

主義 を 行 ふに 就て 此丈嚴 い 法度と 綿密な 用心が あると して 見れば、 是 即ち 之 を 行 ふたの は 

ひっき やう わが t うと かみ ぎょい しん ところ じゅんぼう まで t かも かれら もっと ていけつ かもん これ まも 

必 党我敎 徒が 神の 御意と 信じた 所 を 遵奉した 迄で、 加 之 彼等 は 最も 贞潔を 重 じて 之 を 守つ 

くつき. C- う し 上う 乙 かんがへ ふか どくしゃ めつ 乙と も このしゅ 

たと S ふ 屈強な 證據で ございまして、 者の 深い 讀 者の 目 いん 着く 事で あ. り ませう, 若し 此主 

ざ じっかう た あさまし しき 上く おこ たけ やう ^^$ぅくっ はっと W う 

義の實 行が 只お 谈 猿い 色慾から 起った 丈の 乙と なれば、 箇樣 な窮: な 法度 を 設ける の は 誠 

上しな 乙と 

に 由 無い 事て あ. ませぬ か。 

このしゅぎ まこと せいしん もつ ひと リ 5. じ やうつ ま めと をと こ きょか さ^: たい. V うや 4 せ-き, ヌん 

此 主義の 誠の 精神 を 以て 一 人 以上 妻 を娶. - たい 男に 許可が 下. - ますと 大層まい 贵 任が 

ひと その かた か /- じつ おも せ! にん ふ ぎ ねん もの これ むか ふ た卞 -S いき ほひ 

1 つ 其 肩に 掛. ました、 それ は實に lis.; い 責任で、 不義の 念 ある 者が 之に 向て は 忽ち 勢 を 

ひし けう な リラち たうて あ 一.」 じう 上ぐ と ^:た ぐわん ねん ぶけう 

挫 がれ、 「モル モ ン」 敎の繩 張內で 到底^ まし S 獸您の 遂げ 難い 7- と を 観念して、 過失せ てし 

• 五 



六 

たと おもて ひと リ つな じ や, メざ す な は 5" し おぐ さま せ けん かんぽん お な S" 

まひます、 例へば 表に は 一人の 褒を 上座に 据 ゑて 何某の 奥様と 世間へ 看板 を 出し 乍ら 蔭 

^ \ ^It つま つま しの 乙れ を めい 卞, じよく お • など なった 乙の しゅ; y, おこな 

に は此處 彼處と 妻なら ぬ 妻 を 忍ばせて 之に 汚名と 耻 を はせ る坏 は、 全く 此 主義 を 行 ふ 

尸 I ん とほ を た」 一 ひ なん いふ ひと さん う けうく わ 5、 ぐわ^ 

精神に 遠ざか ゥ て 居ります、 縱令 何と ラ nv- 人から 贊を打 たれても, 「モル モ ン」 敎會 外の 

ゥ ハっ; U しゅぎ つね- み う. つみ すな は ひとり つま しゃう めん かぞ ないしょ 5 じ やう i めかけ た tt む 

一 夫 一 婦 主義に 常- 1- 見受けられる 罪、 即ち 一 人の 妻 を 正面に 飾って 內證で 情婦 や 妾に 戯れ 

る 罪 は、 决 して 「モ ル モ ン」 敎の 多妻 主義に 負 はせ 得べき もので ありませ ぬ、 一 モル モン」 流 

いつぶ た さ 5 しゅざ つ いぐたり あ ひとし みなしん せ 5- けっこんしき いもせ ぎリ む r まに と つま 

の, 一 夫 多妻 主義で は、 1^ が 幾人 有っても、 均く 皆 神聖な 結婚式で 妹 赞の契 を 結. < だ 誠の 妻て 

たれ ひと w てんか a t んち i う つま けん リ るし じ いう う, もの , 

あるから、 誰 一 人 天下晴れて;^ 重す る 妻た るべき 權 利と 許と 自. H と を 一, 4- けぬ 者 はあり ませ 

んな せま けつ た 3. & なか M 5- リ , な, * ケヒこ a うし 

なんだ、 又 女 は 逼られ たからと て决 して 多妻の 仲間 人 をせ ね はなら ぬ^て 無く sf- よ. 申 

乙 ナっ 乙ん い つ い 乙と わ じ いう あ そのち /■ どうやう たんや, よ 

込まれた Si 婚を 何時でも 隨 意に 斷られ る自. 学が有りました、 其 父に しても 同樣て 男女 力 

さう 2 う あい あ う (ふうふ な . ば じ たの ぐら いぐ * ソ X つ 3 ち? „.」f.- りす: , 

嫌义方 愛し 合った 上 夫婦に 成って こも 始めて 樂 しく 慕せ もし、 幾千代^:.1せぬ契か結べるのて 

,ぶ や ゐ くわう かさ き むすめ き そぐ をと 乙 しひ けっこん おも つ 

あるから、 親の 威光 を 笠に 着て、 娘の 氣に適 はぬ に 强て結 娘させる など は、 思 ひも 付き 

しかの みな 6 ず ふく とん おも た をつ i かなら か れ つれ- つま ぃ卞〕^!ぅ し :l,if; ぐ >, 1 

ませなん だ、 加 之、 複婚を 思; 3 立った 夫 は 必ず 兼て より 述添ふ の 意中 を梭^ する のて 

5- ち- (../0れ さう たん か ゆるし もと つま た 5- て i こしゃつ- a ゥ した へ,; 乙れ L^^-^-<rv.fe. , >-» 

一 々之に 相談 を 掛けて 許 を 求めます が、 妻 は 大抵 故-はお 中立て ず? i く 之 を 承諾 致しました 



S じ ゃラの i し S> 上ろ し 3 おく 乙と けう をん な ほん どラ.5^ゥどラせん あし 

以上 述べた 節々 は 宜く記 臆しお くべき 事て、 「モル モ ン」 敎の女 は 本の 動物 同然に 遇ら はれ、 

をと *J はく 上ぐ ぐる そのお もちや な 5i か けん リ つとめ な ぁリふ ぅュさ あやまり 

男が 肉 慾に 狂 ふまに く 其 玩具に 成る 斗う の權 利と 務 しか 無 S などい ふ 有 觸れた g= の 誤 

べん ごくたい せつ 乙と じ S.4 つ しら み ;^ょ せ かいひろ いへ ど 

を辨 する に 極大 切な 事で ございます、 事實を 調べて 見る と、 凡 を 世界 廣 しと 雖も 「モル モ 

ひう と はよ しゃう ていちよ ゥ あっか しゃく わい そのしょう 乙 わが はう ぐ. をん な くわう えい う 

ン」 敎徒 くら. Q 女性 を 鄭重に 扱 ふ社會 はあり ませぬ、 其 證據に 我敎會 では, 女 は 光 榮を受 

そん ゐ のぼ し かく も らいせ をつ と ざ なら は 上 わう うやま はん wi ぐ えい タ; ん し S く, ^く 

け 尊 位に 登る 資格 を 持ち、 來 世て は 夫と 痤を 並べて 女王と 敬 はれ、 權 力と 永遠の 祝福と を 

う, をし おそら んは ちわれ れい 乙ん ラ S た えい ゑんむ きゅう て /• そのえ い >, ムん, t^y e う 

享け ると 敎 へます、 恐く 今日 我々 の 靈魂を 生せ 給 ふた 永遠 無窮なる 父の みか 其 永 f お 無 な 

ば/ * a たてん _w し をし へ まじめ とな けうく わい ナぅ おい まか 

る 母 も 亦 天に 坐ます とい ふ 敎を眞 面目に 唱 へる 敎會 は、 「モル モ ン」 敎を 措て 外に はあり ま 

わがけ うく わい あ をん な うた 上み つぎ うた よ 

せぬ、 我 敎會の 或る 女の 歌仙 は 次の 歌 を 詠みました。 

わ てんぶ 

我が 天父 : 



ィ ライザ、 ァ— ル、 スノ. '作 

高く さか ゆると 乙ろ にて またも 御 まへ にかへ, 9 行き、 

すま ひまします わが 父 Q 御 かほ をが むはいつ どや C 

七 



きょきい ましの 住 ひに は、 

かって わが 靈 ありき や。 

われの はじめて 成りし 時、 

みそば 近く や を だてる ◦ 

み ,.,JU 

ぃと?^"かし乙き御旨もて, 

われ を? -の 世に ゥか はし、 

もとの 生まれと 友と をば 

思 ひ 出 だす をと どめぬ 

され ど、 『旅人なる どや』 と 

み、 

耳に さ V やく もの あ. 5、 

かくて わが 身 は 更によ き 

世ょ.c^出てしをさと.c^ぬo 

御靈 によりて、 い まし をば 



父と 呼ぷ こと さと, 9 ぬ ◦ 

ち ...V ぎ あた 

され ど、 智 の鍵與 へられ、 

をの 理 はじめて 知ら l^ftv 一 

あまつ 御 親 を ひとりと は、 

理にも^Vむける^J 、ろ ど- 

すな は y 

ま 乙と 即ち 理 によれば、 

母 も かしこに あ. 9 と 云 ふ- 

四 いのち はかなき 世 を 離れ、 

たま み さ とき 

靈 はわが 身 を 去る 時、 

ち/ は/ は/みかど 

父よ、 また 母、 天 門に て、 

ともに あはしめ たま ふや < 

さらば、 仰せの 御 わざ をば 

すべて 成し 就げ てし のち- 



S まし ふた. o の めぐみ 得て、 ( 末日 聖徒 讃美歌 第 四 十三) 

ともに 住まし めた ま へ よ 

さて 3 たお は つまで きこ S や はりのと おな かくしき も けう くわいき. V く よ 

偖 又 多くの 妻に 生た 子 はと 云へば、 矢 張 殘らず 同じ 格式 を 持って、 敎會 規則に 據れ ば、 

ひと みなお や あとめ さう fv く もと けん あ ものば ゝ r'\ さいしょ つ M ャん 

均しく 皆 親の 跡目 相續を 要め る 權が有 .of; 。、した、 それで 其 母が 父の 最初の 妻で あれ、 二 g ヒー 一 

ぱん みな じ; 3 うぶん: と i-* しっけ をし へ ほまれ う は ゝ み ぶん ろ ち したが じ う 乙 うはく 

游 のて あれ、 皆 充分 行 屈 5 "た 姨と敎 と譽を 受ける ので、 母の 身分 や 位地に 從 つて 情に 厚薄 

へた はん W ん なが え Z た かし., つ ち \ び やう どう か あい び やう どう 

の 隔てな く、 十 人が 十 人 乍ら 依怙の 沙汰な く佛 かれて、 父より はギ 等に 可愛がられ、 平等 

けう くん び やつ-どう いた, ゥ 乙、 ち \ なさげ 乙ゥ へい しるし はな 乙と 

に敎訓 せられ、 に恤 ふ. れ ました、 爰に 父の 情が 公平であった 驗 として SIS したい 事が あ 6 

た ふと いくへ ゥ かんなん しの ざいさん Jf- いめい か .5, しょぐ ぱん たんけ う. S く ふ, つ 

ます、 尊い 父が 幾重の 憂き 艱難 を 忍び 财產 生命 を赌 けて、 衣食お 端 敎育噯 で 授けた 子息 や 

,マめ ラ卞ク 乙ん にち がっし § う 乙く こく /- わい ぎ &ん ち じ さいばん くわん な y はぷリ つか を 

娘の 內に は、 今日 合衆國 の國會 議員 も あれば 知事 や 裁判官 も あり、 名に 負 ふ 法律家 も 居れ 

ゎャ J まへ きこ 5 しゃ を あるひ もっと かう しゃう けうい ぐしゃく わい はたらき みと けう いくか r 

ば 技 前の 聞え た 醫者も 居う、 或は 最も 高 尙な敎 育 社會に 働 を 認められた 敎育家 も 出づれ 

ひ ffi^ や 5 あ. * は そのな た かん i いじゅつ か おんがくか あ, I- は そのほか 3た===" 

ば、 非凡の 技倆 を 著して 其名絕 えず 芳ば しき 美術家 や 音 樂家も 現れました、 其 外 又 tl ツキ 

= 一:, ん みゃく AJ みなみ メキシコ きた カナダ いた えう く 5 ぐ ひやぐ; y つらぬ かくしょ のう ゆぶ もつ ぬき 

I 山脈に 沿 ふて 南 は 墨西哥 よ. 5 北 は加奈 太に 至る 遙々 幾 百 里 を 貫 S て 各處に 農業 を 以て 卓 

ん もので き あれの ひら い ちまち おこ はんぐ わ きょうわ たんたい まう そのな きこ 

越て たる 者 も 出來、 荒野 を 開き 市町 を 起し 繁華な 共和 圑體を 設けて 其 名が あまねく 問え て 

九 



所き 言い に く 



1〇 

を つぎ か ヽ ィ乂ス * リスト や W おと なた.^ お とば さ 乙/ * あて 

居らます、 次に 揭げ るの は耶穌 基将が 山て 御說 きな された 名高い 御言 葉で、 正しく 玆に當 

はめられ ませう。 

み iy し る たれ いばら ぶ がーう あざみ いちじ ぐ とる すぺ 上き、 

r をの 果に 由て 知べ し 誰か 荆 棘より 葡萄 をと ら漠藝 よら 無花果 を 採 と を せん、 凡て 善樹 

上 3- み むす あしき /- あしきみ むす 上き /• あし s み むす あしき ゝ よきみ むす あた は なリ 

は 善果 を 結び 惡樹は 惡果を 結べら、 善樹は 惡果を 結ばず 惡樹は 善果,^ 結ぶ N- と 能ざる 也、 

乙の §ゑ rV のみ ょリ 乙れ しる 

*** 是 故に 其 果に. S て 之 を 知べ し、』 (馬 太 傳第七 章 十六、 十七、 二十 節) 

た さいしゅぎ おこな けうと どれ は どあい じ やう つよ どれほどこう へい た ふと どれほど おやご/ろ ,\ か 

多妻 主義 を 行 ふた 「モル モ ン」 敎 徒が 何程 愛情に 强く、 何程 公平 を赏 び、 何程 親心に 深 i 

どれほど1-ゃぅ^^<3 しんじつ いうと ぐ ま 1-J みぎ お 乙とば ごと ,y のか ; V く み /J しょう aj 

何稃 正直で 眞 で 有徳て あつたか は、 正に 右の 御言 葉の 如く、 其 家族の 果たる 子が 證據 

な ぐわん らい かれら こ ヽ け Sj れ きょ う を た 5- かぐ つい 

成ります、 元來 彼等の 子 は 些かの 穏も なく 清らかに 生まれて 居らます から、 體 格に 就て 

お ほかた ぐつ き やう けんせん ほ U ぐみ たく ようぼううる ちり 上く さいかん 5 あへ ひと ゆ.. ク と 

へば 大方 加强 健全で、 骨 組、 逞 ましく 容貌 类 はしく、 智力と 才幹より 言へば 敢て 人に 讓る 

とくぎ たか ひと か, み な せっさう た 5 た かみ 5-^5 乙の こと は あやまり 

なく、 徳義の 高き? -とは 人の 鑑と爲 るべ く、 節操の 堅き に 至りて は (祌は 頓て此 言葉の 誤 

あか たま けうく わい ゝぐ わい い, つぐ いか ひと ^1 おな かず たうて 5 

なき 乙と を 證し給 ひます) 「モル モン」 敎會 以外、 何處 如何なる 人の子 も、 同じ 數 では 到底 

てき どくしゃ けう た さいしゅき At な ち/ば Z- くち! 6 る ど ん 乙とば も 

敬で ありませ ぬ、 讀 者よ、 「モル モ ンし敎 の 多妻 主義 を 行 ふた 父母の 唇から 何檨な 言葉が 漏 

わ むす 乙 ども むすめた 卞, ゆめ-/ 1\ わす たと ひ せんせ かい おから つみ あ 

れ ました か 、『余が 子息 共 も 娘 達 も 努力々.! - 忘るまい どや、 假令 全世界の 寶を接 上げても、 



ce-tf ク た ふと て れぅ くら み S くん はん せ 力い た /《ごと とぐ ぐら 

貞 I は, V れょ らも 貴い どよ、 帝王の 位 も 御 稷威も 君權も 三千世界の 稱辭 も、 德 に比べて は 

とた もの せつば つま そのと き いのち まと せっさ ラ ふせ まも みち さ ^ 

取る に 足らぬ 者 どよ、 切羽 詰った 其 時 は、 命 を 的に かけても 節操 を 防ぎ 護る が 道 どよ 枋 

.(• せつ 3 う はな うる 乙と a ない さ, て め si: な- ,、化つ 「 / r 

々、 節操 を 離れて は 美 はしい 事、 偉大なる 乙と、 偖 は 名 譽も無 S どよ と』、 實に 「モル モン」 

f の^ 妻 f 承 ^ に は 善い 果が 生りました から、 之 を 結んだ 者 は 必ず 善い 樹 であると いふ 證據 

„«っじっぜ^,と & ひた- れハ よろ うしな しゃく わ i- たうと ぐ たいほん やぶ しんせいしゃ.^.. <Y せっさけ-^ 

と、 末日 t 徒の 問に は禮の 宜しき を 失 はず、 社 會道德 の 大本 を 破らず、 神 II- 淸 1^ な 節操 を 

ふくこん をし へ と お 乙 な し 上ゥ乙 かみ つか ひと えき ため 

も潘 さず して、 複 娘の 敎が說 け もし 行 はれ もした とい ふ證據 と、 神に 仕へ 入 を 益す る爲に 

ォ St a つす ぐ <J ..ys; て あ ふくこん じっかう もくてき みごと ^ , -ぉ . 

據 なき am ハ 直な 子 を 育 上げ、 複婚 |:a 仃の 目的が 見事に 遂 けたと いふ 證據を 萬轫. ^代に 殘 しま 

す。 

3 たさ か ; てく ち/ もの かた はな せきはん き はめ おも a- ばめ む ゴ., - * v.i^l^^-^u > 

然れば 多妻 家族の 父た る 者が 肩に 擔ふ 責任 は 極て 重く 極て 六 かしい もので, 一 角 道德の 

た- ハ おは ひと 卞, うちよ お ほせい ゥ <itt せ わ たゴ S か 乙ヽ -5 い l-iffA^6 

高い 多くの 人 さへ 躊躇して 多勢の 妻子の 世話に 係 はり 兼ねた の は、 是に 於て か 十分 明 力て 

み この をし ( はラと いつばん ひん *^ なが それ ひろ おこな . t ^ ほか 

ございます、 して 見れば 此敎 が敎徒 一 般に弘 つて あり 乍ら 夫が 廣く行 はれなん た 仔細 は 外 

さ t J u. 乙 X*" うと す /- お 乙な たい たうと く おか ひとがら 

であり ませぬ、 第一、 無理に 之を敎 徒に 勸め行 はせ なんだ 乙と、 第二に, 道德の 高い 人柄の 

L たんおに つ さ お 乙な 5-5 乙 ま よ ばう たい そのじつ かう な く 

良い男 女に, つて 行へ る樣に 細かい 豫 防がして あった こと, 第三に は、 其實 行に 伴って 來 

1 1 



1 二 

おも む, ゥ ぎ む せきはん お ほ ひと とて たへ き わがけ うく わい た 

る 重い 六 かしい 義務と 責任 は 多くの 人に は 迚も 堪 切れぬ からで ございました、 我 敎會て 多 

さい も くら をと 乙 いつ 乙ろ ?i ん つい はんこ * ためし 

妻を持って^;:_^し,$:^男は、 何時の 頃に も、 西 人に 就て 三 四 人 を 超えた 例が あらませ なんだ、 

此事 を 見ても、 「モ; < モ ン」 敎とは 多妻 主義の N- とで あるの、 一 夫 多妻 は 「モ ル モ ン」 敎の 

乙ん 1ー^ ん しゅ; そのじつ かう たい ん もく おも ばな ば あやま を し 

根本の 生義 で其實 行の 大 目で あるの、 と 思 ふの は、 a だ 誤って 居る ことが 知れます 

か やう れきノ \* じどつ .CJ / た さいし ぎ おこな も やう お, V も ぱ なし し く わが 

斯樣 に歷々 たる 事實が あるに 拘 はらず、 多妻 主義 を 行 ふた 摸檨を 恐し い 話に 仕組んで 我 

敎 徒に 係った 毒々 しい 虚言 を廣 める の は、 「モル モ ン」 敎徒を 憎む 輩に 出來 易い 事て あ. 5 ま 

な W:SW5 それ で き やす せじ やう ひと けラ いつ た さい じっさい ど ん もの 

した、 何故 夫が 出來 易い かとい ふと、 世上の 人 は 「モ だ モ ン」 敎の 一 夫 多妻が 實際 如何な 者 

わか た わい う ,y ぱ * し き/た とき さら 乙れ こじま つぎ ひと うけうり それ 

かも 解らぬ ながら、 利 分 もない 譃話を 聞 出す 時 は 更に 之を拗 曲げて 次の 人に 受賣 し、 夫 か 

それ ぐち ュれ W ば つ ひ せ かぃ^?ゅぅ つた は それ た いま いた あ ひか は わが 

ら 夫へ 口々 に觸 廻って 遂に 世界中に 傳 るからで、 夫が 爲め 今に 至っても 相 替らず 我 「乇〃 

けう あら g るふ たう と く けうと -2 る い たんじ やけう おと を ごん ご どうたん とがめ う 

モン」 敎は、 所有 不道 德を敎 徒に 許す 異端 邪敎 にも 劣って 居るな ど、、 言語 同斷な 咎を受 

さて ひと かろ.,: Y ぱん たん す もの 

けました、 偖 も 人 は輕々 しい 判斷が 好きな 者で ございます C 

かゝ う も ちゃく/..... かう のう あらば 乙れ もくろ み やから お も ゥぽ あた 

期る 虚言 は 着々 效 能を顯 して、 之 を 目論見 だした 輩の 思 ふ壺に 中り ました、 やがて 「乇 

けうと しへ た るし うんどう お Ki た さいしゅぎ わがけ うく わい はぐ もの ども ば ゆ 

〃モン」 敎徒を 虐げ 窘める 運動が 起.^ まして、 多妻 ま義 ばかり-か 我 敎會を も 疾む者 共が 劇 



ざんそ いた ところ ?1 つし! 5 ラ 乙く ? J く、 わい 乙れ ラご わ?! けうと た さいし. 5 ぎ じっか ゥ ぽ くめつ 

しく 讒訴 を 致した 所から、 合 衆國の 國會が 之に 動かされて、 我敎 徒の 多妻 主義. お 行 を 撲滅 

もくてき ぱぷリ つ か けつ しか ば ふ y つ をの もの ば ^ん 乙く きばま と 乙ろ これ おこな 卞ノ ゆうわう ぜハ 

する 目的の 法律, V 可决 しました、 然るに 法律 其 者が 皁ゃ殘 酷 極った 處へ, 之 を 行 ふ中夾 政. 

ふ ざ やつせ i くわん おはかた けラ てき な の せんせい たち なんでう たま 

府の行 政 官が 大方 「モ , 乇 ン」 敎の 敬と 名乘る 先生 達て ありまし たから 何條 溜り ませう、 

はふて い うった 乙う へい さいばん せい き ク P 9 いうな い う; J; つ わがけ うと かへ つ 

法廷に 訴 へて 公平な 裁判 を 請求す る 度に 理由が 無い と 云 ふて 付けられず、 我 敎徒は 却て 

じつ f 、ん ばう らう &きむ じ ゆ やりかた さん. c\ ぐるし たしな あなど ばプ やし ばつ 

實に^ 暴 狼藉 無慈悲な 遣 方で 散々 に 苦め られ 窘められ 逐 捲られ 侮ら めら れ 罰せられ、 

さすが 5^ ふ => ク る ひと ばない さ マ" ず ご ざ ほん a- んぉぃ へんたい しゃ タ 

流石に 法律 編んだ 人 さへ 恥 入った の も 然も あるべき^ て 御座います 0( 本文 第五 編 第二 章. 

を 見よ )0 

か やう ばぐ £3- ぼて た さ S しゅぎ おこな 乙/ -: おく そ-, J i しあし ため ひじ やう s„l んみ な 

浙樣な 迫害の 杲は、 多妻 主義 を 行 ふた 心の奥底の 善恶を 試す とい ふ 非常な 吟味と 成. 9、 

またよう ふ あ ひた おや. こ あ ひ V- まつ あ い じ やう しん ん し 上う こた お さ し 5 ぎ や を 

又 夫婦の 間 や 親子の 間に 纏 はる 愛情の 深淺 を證據 立てました、 もれで 多妻 主義 を 行って 居 

か ; てく ^J しゅ ^ん いじ やう とら ぱ ふてい しらべ う つま い う ャ,; い きま ぼつ いひ わ; 

る 家族の 戸主が 一 千 人 以上 も 捕 へられて 法廷て 調 を 受け、 詰り 有罪と 極って 罰 を 一 U 波され 

た. S ていみ なお も ばっきん きん 乙 いひ わた つみ けい ft- ゆり おう f; ついじ やつ 

ましたが、 大抵 皆 重い 罰金の みか 禁鈿 まで も 言 渡され、 罪の 輕 前に 應 じて 六 ヶ月 以上 四ケ 

ねん なか ねん な 5! をつ と ものち/ もの たぐさん おひた み 

年、 中には 四 年よ. り 長いの も ありました、 されば 夫た る 者 父た る 者が 澤山遂 立てられて 身 

T ぐた か てい たくさんで き せんきょけん つば もの いく 

を醒す も あれば、 散,^ に碎 けた 家庭 も澤山 出來、 選 擧櫂を 奪 はれた おも 幾千 も ありまし 

1 三 



1 E 

ちょっと る: ys3 かん?" ご らん にん ひとや ゥめ ぃゾ せんばん せ, ん *^ はセん ぶ 

た、 マアー 寸 乙の 有 樣を考 へて 御覽 なさい、 一千 人 は 牢屋に 1. き、 幾千 人 は 選舉櫂 を褫が 

くせ. てん & し 上ぐ ぱな たちの あと のこ つま >J た Ft よすが な なんじ ふ きぱ 

れ、 幾千 人 は 我家と 職業 を 離れて 立 退き、 跡に 殘 りし 妻 や 子 は 赖る綠 も 無く 難澀を 極めて 

ち; ふ いひつ き やつ をと-こ もの いったん あい かぱ 

血に .泣 いたので ございます、 それと 云 ふ も 畢竟ず る 男た る 者が 一 旦 愛しよう 回 護 はふと い 

やぐ, y く おもん つまこ あい こと ばっきん きん aJ し 上 おび や じ いつ-こく 

ふた 約束 を c^- じて 妻子 を 愛した からの 事、 罰佥ゃ林!^銦に處すべしと脅かされても、 自由 國 

たみ ウ けんり ば ぎら おど ゆん ご せつ かしゃぐ もつ せま f 

の 民が 受 くべき 權 利を褫 去らん と 威 されても、 言語に 絕 する 呵責 を 以て 逼られ て も、 飽ま 

まも か; H はっしん か t わ もの あい 乙と しか なば ゆ- *^ たくさん つま 

で 護り 庇 ふべ しと 决 心した 弱き 老を 愛した からの 事て あり,^ す、 然 らば 何故に 澤 山な 妻と 

つ こ すてさ 乙ぐ ば ふ まも やくそく もつ . ^ん なん ちじょく さ い 

之に 生んだ 子を棄 去り、 國法を 守る 乙と を 約束して 以て i-feL. お: Isi^ を 避けなん おかと 云 ふ 

たさ も はう と 5,, つ た ふと ひと けつ じ やう ふ めかけ <s ない 

に、 多妻. r- 持つ 「モ " モ ン」 敎徒は 何れも 尊むべき 人の みで、 决 して 情婦 や 妾に 狂 ふた. 5 私. 

しきつ ニー まつ やう つばき^と t な か-す つま の 乙 さいあい つま かず t みな 

生^«を储ける樣な浮氣3?;て無かったからです、數ぁる妻は殘らず最愛の妻て,數ぁる子は皆 

つ もの てん さプか *^ょぅぽっ たまもの とく みゝ お, と ゾ * いちぶ r-i 

稼な く 生んだ 者、 天より 授 つた 重资な 賜 でございます 篤と 耳 を 御 留め 下さい、 一 時 「 乇 

, モ ン J 敎會の 使徒て あった H ブ ラム、 H チ、 カノ ンが 多妻 ♦ ^持つ 者と 認められて 拘引 せら 

si, ぼん う とき 3 い ばんぐ;; ん ぼい しんぐわん ;:: かつい つち か b い こ-と •> わ..., や, の. ル けし" 

れ 裁判 を 受けた 時に 裁判官と 陪審 官に 向て 言 はれた 內に斯 云 ふ 事が あ. 5 ます、 『余力 此宗敎 

i とき f*- レ< £ も 》 ?の せ srti. い (ど t れ しんせん はん やく よ かた aJ のち • かひ まも 

に 入. e し 時、 苟も 余が 持つ 物 は 生命と 雖も 之. ^神前に 獻 ぜんと 約せ も, 余 は 固く 此誓を 守 



き の fV is- いめい もし じ ぃゥ え ため おつ 13- すべ ひ 

らんと 期す、 望む らくに 生命 若く は 自由 を 得ん が爲 にもせ よ 道義 を 捨てざる 可から ざる 日 

きた 上 ため 乙の-つきよ ちゆ V じつ た ふと もの よ まも し f に? は, ノ かつ み 

の來ら ざらん 乙と を、 余の 爲に は此俘 世に 忠實 より 尊き 者な く, 余の 守る 宗敎は 曾て 見た 

^つ さい もの きら よう また S わ Ss けう. f わいたい くわん ちゃう な 乙ろ 

る 一 切の 物より 貴重な り』 と、 又 a レンゾ、 スノ - が 未だ 我敎 會大 管長と 成られぬ 頃、 

ぱぷ てい おい ぎんみ をば とき ば ふ くわ,.: むかつ か やう まつ 上 たさいめ と かみ 

法廷に 於て 吟味が 終った 時、 法官に向て箇樣に申されました、『余が多妻を娶-=^たるは神の 

めいれい あ ふつ ふ けつが ふ iV のえん f; んせ をぱ W えいせい むき Is- ソ つ けつ 乙ん し W 

命令 有れば な. 9、 夫婦 を 結合して 其緣を 現世の 終までの みか 永世 無窮に 續 けしむ る 結婚式 

しっかう もの けん リ 上く かみ いちぼく ほん おんた S ? しゃつ み ゑ 上 しんぜい ざ 

を 執行せ し 者 は權カ ある 祌の 一 僕な り、 (4^ 文 第 四 編 第 八 章 を 見よ) 故に、 佘は 神聖なる 義 

む tV む つま す むし かみ ちから か ばんし えら も つま/ J たい れつ 

務に 背いて 妻 を 捨てん よ. y は攀ろ 神の 力 を 借りて 萬 死 を 撰ばん』 と、 若し 妻子に 對 する 熱 

あいしん じつ あら は に 上リ こと ぼ ^7 つぶ いつぶ しゅな」 まも ひと くち も もの 

, 愛 信實を 表すべき 似寄の 言葉が ! 夫 一 婦 主義 を 守る 人の 口から 漏れよう おならば、 ,Vれ^J 

ん ちか ひ ^?もん .& つ しん 5 つか とく たっと し 2 し もてはや な ちくはく つた 

を Si 婚の誓 を じ 一 身 一 家の 德を 尙ぶ徵 であるな ど、 持 映されて 名 を 竹帛に 傳 へられ ませ 

さ たさい も はう と い か ど-つや? ほ ま つぼ ひさ ばず- 

う、 然 すれば 多妻 を 持つ 「モル モン」 敛 徒から 爭で同 樣の褒 れを奪 去るべき 害が あ. 5 ませう 

か C 

/J の ひど かんなん な さ. S- くおん ひと.,.! >• たいど じつ め., つ み ぼ あ らば ひと-; Y い ひ 

此 酷い 艱難 を甞 めつ- V ある 際、 件の 人々 の 態度 は實に 珍ら し S 見場 を顯 したと 人々 が 言 

ゥた じつめ.. つ みば 5 な め, つ じ ,s つ けう 

傳 へます、 をれ は實に 珍ら しい 見場、 否、 珍ら しい 事實で ございまして、 「モル モ ン」 敎の 

1 五 



ニハ 

た ^ ^6 ! V ん ぶん ふ みち しき, i く ぶけ -si おこ その <; あて お, ji* 

多妻 主義 は S ふ 存分に 不 道な 色慾に 耽. 9 たさが 本の 起. で 其 目的で 行 ふたので あると いふ 

h め 1?T せ, ん^ w 、の., *^ • ュま i , i ぷ なた わがた さいし, J ぎ か-. ソ しゃ-つ- た ふ . きょ 2 ご、 ろ もつ- じつ 

非難の 誤 を 千歳の 後 まて 說破 h -、 ハ 震て 又 我 多妻 主義 は 高尙な 尊と 5- 淸ら かな 眞心を 以て 赏 

かク f i i . しんかう め, つ たんり 上ぐ たぐ ひ ゆつ き もつ これ まも あらそ 

行せられ、 動力せ ない 信仰と 珍ら しい 膽 力と 類な き 勇氣を 以て 之 を 守った と 5, ふ爭 ふべ か 

れきし どやう しょうこ 

らざ る歷 史上の 證據 にな. CV ます 

が/ ぼ... * > , リ. - r= コク: ウイ ツユ ウノ〉 ゥ ケ> !セッ クウ シ ハ フリ ツマ 《 シ ユウ ケゥ ジ ィゥ シンポ ゥ 4 ン ハフ リツ 

合 衆國の 憲法の 中に 『國へ n ハ 宗敎ノ 建設 -1 關ス ル 法律 又 " 宗敎ノ 自由 信奉 ヲ 禁ズ ル 法律 

. -、 _ い ぐ あ しか けつ. ふく 乙ん をし へ そのし ゆつ けつ V 

ヲ作 ラダク ベ シ』 と 云 ふ 句が 有. ます、 然るに 「モ 〃モン 」敎 徒 は 複婚の 敎を其 宗敎の 一 部 

^ん と 、ろ k を 乙く、 わい 乙れ つぶ ため た はふ リク けん^、. - しゅい もど を 

と 心得て 居りました から, 國會が 之 を 潰す 爲に 立て や: 法徘は 憲法の 極意に 房つ て 居る と 

ち, 巧- ゾ がっし ゆ- r-AJ く おいしん るん はんば ふ かな を さい ぼん いた 

主張し ました けれども 合 衆國の 大審院て は 憲法に 適って 居. ると 裁^ を 致しました から、 

^,^^^(r^^ ^w, 1 , 々卞〕 ば f おちい な せ このし 上 もつ かゝ み しんか クか でゥ i 

我敎^ は 六 力し い 立場に 陷 りました、 何故 なれば、 此窗 物の 掛 りに 見えた 信仰 箇條 を饋ん 

た ,y ゆ 1.^ , - で-。 1 われら てい わう た 5 とうり やう ち しゃお t いうし ふぐ じ 5 う かつと く はふ じゅんぼう 

だ 方 は 定めて 其 第 十二 條に 『我等 は 帝王、 大統領、 治者.^ び 打 司に 服 從し且 國法を 遵奉し 

t ん けい し で せいた う しん ご き おく 乙 I み 乙く _H ふ し 25- 

尊敬し 支持す るの 正當 なる を 信ず』 と あるの を 御 記憶て せう、 是て 見る と國 法に ふの は 

か,. 5、; はけ,^ 产バ わい.:?、 ん., マお め. f れ V. : ところた rj いじつ かう きんぜい a ぶ で まで わけ な 

カ其敎 會の會 員へ 下された 命令で ございます、 所で 多妻 貰 行 禁制 法が 出る 迄 は譯も 無く 

こ,^ い - - - , » ^.0 はぶりつ けんばよ せ 5, しん .a な a- まみた 

此 命令に 遵 へます けれども、 右の 法律が 愈 憲法の 精神に 適 ふて あると 極って 見る と、 多 



さ户 しゅざ お/ J な 乙く はふ あは ゆ しょせんお 乙 な ゆい ^ \ こと 

妻 主義 を 行 ひつ、 國法 にも 合して 行く の は 所訟行 へ た藝 では ありませ ぬ、 サァ 此處が 誠に 

こま せ と ざぱ わがせ い. e h ひどめ あ 

困った 瀨戸 際で、 我 聖徒 等 はたえず 酷い 目に 逢 はされ ました。 

つ ひ たう じ わ S" けうく わ S たいくわん ちゃう かみ ぎょい しめ かみ 

遂に 當 時の 我 敎會大 管長 クヰル フォルド、 ゥゾ ドラフ へ 神の 御意が 示されました、 神 は 

そのたみ くるしみ み そな その かた しんかう 乙/ろ しんめい おし ぎ せい さ /- 

其 民の 苦 を 看 行 はせられ、 其 堅い 信仰 を 試みさせられ、 その 身命 をも惜 まず 犧牲を 捧げる 

おし i はんしゃ くち お か 《- ひと^^*クぷ<乙ん ちゅうし よし 

こと を 御 知. なさ いました から、 預言者の 口 を 御 借な されて、 一 先 複婚. V 中止すべき 由と、 

乙の ちゅうし かみ おきて さし さぱ そのせ き^ん 乙く はふ た ひと かた お よし ぎょい あそ 

此 中止 は 神の 捉と 抵觸 るが 其 責任 は 國法を 立てた 人の 肩に 落つ る 由 を 御意 遊ばしました、 

しゅうけ う れ a- し した ひとよし を ふ は かみ いちど さしゅ 2 乙と めいれい 乙と 

宗敎の 歷史に 親しい 人の 善く 知って 居る 通り、 神 は 一度 差 許された 事、 命 AP なされた 事で 

のちく いた ぷ つが,^ みと お さしと ためし いく 乙れ いったんお た 

も、 後々 に 至り 不都合と 見 認めて 御 差 止めな さる 例 は 幾ら もあります が、 是は 一 旦御 出しな 

はふれ い あやまり ご じつお き ,つ こ ていせい な したい かへ 

された 法令の 誤 を 後日 御氣 付きな さって 御 訂正に 成る とい ふ 次第で はあり ませぬ、 却って 

かみ め いれい せんち ご ぱん おん これ たう じ じ やうたい てき め きゝ あ ひお いうか, f 

神の 命令 は 全智の 御 判 斷で之 を當 時の 狀 態に 適する と 目 利 せらる k 間 は 有効で あるが, 御 

a/- じぎ みばから とリか あらた あるひ お とリけ なる い し 上う 乙 た 

意の 儘に 時宜 を 見料って 取替へ もし、 改め もし、 或は 御 取消しに 成ので あると 云 ふ 證據を 立 

けうく わ 5 た 5- くわん ちゃう よくこん ちゅうし ごさたで つま 乙の ひつば ふ SM へ かど 

てます、 敎會 大 管 長 ウッドラフ へ複婚 中止の 御沙汰が 出た の も 詰も此 筆法で、 前廉 ジョセ 

くな ふく t んて はじめ ごさた ふ 上うな 乙 /• おい けチ くわいたい 

フ、 ス ミスへ 下された 複婚 手始の 御沙汰 は 不用に 成った ので ございます、 是に 於て 敎會大 

1 七 



1 八 

くわん ちゃう せん ゆん し i た しゃう らいふく 乙ん しゅぎ と みあ は むね すぺ 

管 長 ウッドラフ は 宣言書 を 出して、 將 來複婚 主義 を說 くると を 見合すべき 旨と、 總 ての 

けうと ^Jんご あら ふく, んゅ と W 'むす きん むね たつ この ぜん t: んし上 ねん 

敎 徒に は 今後 新たに 複婚を 取 結ぶ こと を 禁ずる 旨 を 達しました、 -此 宣言書 は 千 八 百 九十 年 

ぐ わつ か がっし ゆう 乙く サルト 、レ. I ヰし ひら わがけ う くわいお いく わ 5 もちた さんせい え 

十月 六日に 合 衆國ュ I タの廳 湖 市に 開けた 我敎會 大 會に持 出されて 賛成 を 得ました か 

さっそく けうく わ 5 きそく うち あみこ ふぐ こん そのと きかぎ はいし 乙の かたわ Si けうぐ わい 

ら、 早速 敎<^2 規則の 中に 編 込まれて、 複娘は 其 時限り 廢止 になり、 をれ より 此還我 敎會は 

いっせった さ 5 めと ゆる ねん ぐ わつ か のち けうく わい やく はん 

一 切 多妻 を娶 乙 と を 許し ませぬ、 をれ て 千 八 百 九十 年 十月 六日より 後 は 敎會の 役人で も 

くわ いみん ひと 9 つま. $ を 3 りえん うち いま ひと つま めと とき たど がっし ゆう t.,^ 

會 員ても、 一 人の 妻が 生きて 居って 未だ 離緣 せぬ 內、 今一 人妻 を 娶る時 は、 啻に 合 衆國の 

はふ W ク やぶ たけ な どうじ けうぐ わい きそぐ を か な 上し a た いっぷ た さ い 

法律 を 破る 丈で は 無い、 同時に 敎會の 規則 を も 犯す とに 成って あります、 縱又 一夫多妻 

きん ぐ はふ な く は を いやし わがけ うぐ わい &ん もの たんせんた さい も ゆる 

禁ずる 國 法が 無 S 國に 居っても、 苟 くも 我敎會 員で ある 者に は斷然 多妻 を 持つ N- と. V 許 

い そのこく ぽふ どんな じ いう じんみん ゆ 3 わ: & け- f ぐ わい a- そく せか 5 

しませぬ、 と 云 ふの は、 其國 法が 何樣 自由, V 人民に 許して あっても、 我 敎會の 规則は 世界 

な ゆういた と 乙, C しんと あまね :S きわた いっさい しんと 乙 のうへ く 乙ん ゆん きん 

中 到る 處の 信徒に 遍く 行渡る もので、 一 切の 信徒に 此 上複婚 を嚴禁 する からで ございます G 

*J の もんお. S つい ひと かんが たいせつ てん すなば けう/わい ない くわん ちゃう 

此 問題に 就て、 もラ 一 つ 者 ふべき 大切な 點がぁ 6 ます、 即ち 敎會 大 管長 ウッドラフが 

せん ゆん し 上 はつ せつ はた さいしゅぎ お 乙な を かぞく ビ か しょぶん か 

宣言書 を發 した 節、 早 や 多妻 主義 を 行 ふて 居った 家族 は、 如何 處 分した 乎で ございま すが、 

ひと <^ じゅうせん まゝた さい とも くら ゆる かれら かみ めいれい 

乙の 人々 は從 前の 儘 多妻 ふ 共に 甚す 乙. V を 許されました、 彼等 は祌の 命令が あつ. 5^ れば乙 



た さい めと もの つま 乙 はくたい れいこん いいは ど いたみ う もの つな ため 

も 多妻 を娶 つた 者、 妻子の ため 肉 體に靈 魂に 言 ふに 言へ ぬ 程の 痛 を 受けた 者、 妻子の 爲に 

あまん な はめ はや ひとや ぐるし み な ものち たびみ き W さか つ *W す 乙お ちか 

は廿 じて 繩 目の 恥と 牢屋の 苦を甞 めた 者、 千度 身 を 切 裂れ て も 妻 を 捨て じ 子を逐 はじと 誓 

もの か てっせきしん いかす \- せま いか 乙 \ ろ ひるが しんせい せい 

ふた 者、 斯 ばかりの 鐡石 心が 如何 ほど 勸 めら れても 逼られ て も爭で 心を飜 へして 神^な 誓 

やくぎむ やぶ いなく かみ 乙れ やぶ おぼしめ もちろん しん はふり つ 乙れ やぶ 

約と 義務 を 破. 9 ませ ラ、 否, >、 神 は 之 を 破らせん. A 一思 召さぬ は 勿論、 新法 律 さへ 之 を 破れ 

もと じ いう あい とくぎ たっと ぐんし わがた さいしゅぎ じっち わき ま ひと また^-れ やぶ 

とは需 めず、 自由 を 愛し 德義 を尙ぶ 君子に して 我 多妻 主義の 實 地を辨 へた 人 も 亦 之 を 破ら 

かんが たし ^ん はん せいぎ こうたう か/ ひ たう れ うけん と:^ 

せたいと 考 へませ なんだ、 糙 かに 人 問の 正義 公道が 斯る 非道な 料簡 を 咎めた のて ごさ いま 

た てんし, Q つ ところ 乙く ぱぷ もと さ 乙ろ よ ひと の fv と 乙ろ しんき ふく 乙ん きん 

す、 唯 だ 天主が 告げさせられた 所、 國 法が 要め た 所、 世の 人が 望 A だ 所 は、 新 规の複 媚を禁 

てん その きんせ. S う けう くわい せんたい のこ くま れいか 5 

ずる 點で ございました、 ,v 乙で 其 禁制 を 設けて 敎會全 體殘る 隈なく 勵行 しました けれども- 

きんせい で い せん たさい も を ひと 乙れ なで どば ぷぅふ ちぎり おや 乙 えん つど をの 

禁制が 出る 以前から 多妻 を 持って 居った 人 は、 是迄 通ら 夫婦の 契と 親子の 緣 とを續 け、 其 

つま/;: \ 乙れ あい 乙れ いっくし その M ども 乙れ やしな そた 乙れ をし をの ふ v.w いの つか は 

妻々 は 之 を 愛し、 之 を 慈み、 其 子供 は 之 を 養 ひ 育て、 之を敎 へ、 其 福利 を 祈って 遣し まし 

た 

しんき た さい めと きん けうく わい きそ < で き おうじ わがけ うぐ わ i> せんたい ぐ わい &ん およ 

新規に 多妻 を娶る こと を 禁ずる 敎會 規則が 出 來た當 時、 我 敎會全 體の會 員 は 凡そ 三十 萬 

K ん そのう-ちた さいしゅぎ お 乙な を か f あは W ん と 乙ろ の 

人で、 其內 多妻 ま 義を行 ふて 居った 家族 は 合せて 二 千 四百 五十 一人で あ. ました、 所が 此 

一九 



か ; V ぐ しゅじん そのころ おはむ らう じん いま おはかた な か. す い た いまの 乙 もの ちか 

家族の 主人 は 其 頃槪ね 老人であって、 今では 大方 無き 數に 入り、 只今 殘る者 は 四十 萬 近い 

けうと うち はん すぎ 

敎 徒の 中、 四百 七十 五 人に 過 ませぬ。 - 

乙れ くわん けい せ ひ ち ゆうい うなが 乙と しう はぶ りつ なか あ . 

之に 關 係して 是非 注意 を 催すべき 事が ュ I タ 州の 法律の 中に 在ります.、 ュ r タは 「モ \ モ 

けうぐ わい 乙ん a- よち あ しう はじめ あ ひた れんぼう ひと なた がっしゅうこく w やう 

ン」 敎會 の根據 地の 在る 州で ございま すが、 始の間 は 聯邦の ! ゥ では 無く 唯 だ 合 衆 國の領 

ど ちゅうわう せいふ ぎ やうせ いくわん しばい を と 乙ろ ねん ぐ わつ 

土なる もので、 中央政府の 行 政 官に 支配 せられて 居らまし^ 所、 千 八 九十 六 年 一 月に 

ば じ ひと しう な 4^ ん ぼう なか M ss- ゆる がっし 5 う 乙く あら しう た 

始めて 一 つの 州と 成って 聯邦の 仲間 入 を 許されました、 合 衆國て 新たに 州,^ 建てよう とす 

しう けんば ふ まう いち ぼんかん えう 乙れ がっし ゆう こ く /\> ぐ わい ひじゅん う 

ると、 州 憲法 を 設ける のが 一番 肝要て あ 6 ますが、 是は合 衆 國々 會 の 批准が 受けられ、 

かつまた 尸 4i ごんい; く がっし! e うこぐ けんば ぷ わ が丄 やう でき を しか その 乙ろ ちゅうわ うせい 

且又 一 言 一 句 合 衆國の 憲法と 和合す る樣に 出來て 居らねば なら ませぬ、 然るに 其 頃 中央 政 

ュ はき/" ZI ありさま ほんた う わか な ぜんせい たぐさん けラ くわい W た 

府の派 利に はュ I タの 有樣が 本當に 解って 無い 先生が 澤 山あって、 「モ, モ ン」 敎會 で果し 

ぷく^Jん や を どう あやぶ ^Jと た けうく わい あきた ともがら と かく あ ひやう 

て 複婚が 止んで 居る か 如何 かと 危み、 特に 又 「 モル モ ン」 敎會 に慊ら ざる 輩が 兎角の 惡評を 

いひ ふら もの よし い ま た さいしゅぎ じっかう _3 ん を 乙れ ふせ かぐ こ 

言觸 した 者です から、 縦ん ば 今 は 多妻 主義 實 行が 禁ぜられて 居っても、 之 を 防 r べき 確乎 

H,^w- つ ; 5 じ やう いっか また はじま I きヅカ 乙の せんせい たち ふく 乙ん 

とした 法律が 無い 以上 は、 早 晚又始 る も 知れぬ と氣遣 ひました、 そ 乙で 此 先生 達 は 複婚と 

ぷ ば ふどうせい ぼつ たし き て 5 しう けんば ふ つぐ し :5 ちゃう 丄 はふ どうせ. S 

不法 词棲. V を 罰する 乙と を 確かに 規定した 州 憲法 を 作らせよう. V 主張し まし. ;、 不法 词棲 



たさいと もす ふ つう さ い 乙と ぼ それ ゆ K^=ul. う げんば ふ れい ぷ は t どうせい 

と は 多妻と 共に 住 ひこと を 普通 指して 云 ふ 言葉です、 夫故ュ I タ 州の 憲法 は 例の 不法 li 棲 

おさ K ぷリっ し たく いた ねんけ うく わ 5, おいく わんち ゃラ せんけん 

を 抑へ る 法律の 支度 は 致しました けれども、 千 八 百 九十 年敎會 大 管 長 ゥッ ドラ フ の 宣言 

でい せん たさい お/ J な を か Jv< その はふ W つ し かう じふ ん w つ 

が 出る 以前から すでに 多妻 を 行って 居った 家族に は 其 法律 を 施行せ ぬと いふ 7- と を 十分 立 

ば ふしゃな かま うちあ は おき な は ゆえし かう し たい さき のべ ところ あきらか わか 

法 者 仲間で 打 合して 置ました、 何故 施行せ ぬかと 云 ふ 次第 は、 曩に述 た 所て 明に 解ります。 

しか きんねん わがけ うと またい" むほんお し くひ せう. (- 

然るに 近年より 我敎 徒を復 虐めようと 謀叛 を 起した 「モル モン」 食 鬼が 少々 ご ざい ま 

く ひ わがみ ていせつ とくぎ さぅ^^ せいぎ じひ な れん ^I- ゆう せいや じ やう 

して、 (「モ レノ モ ンし食 鬼と は 我 身に ほ ハ節も 德義も 操 持 も 正義 も 慈悲 も 無い 連中が、 政治 上の 

や しん はプ しゅうけ うじ やうき ぼう かな ん 上く R" ぐて き たつ と/ JtC その ふ ぽん 

野心が 外れた とか、 宗敎 上の 希望が 叶 はぬ とか、 藪- 5 な 目的 を 達せなん だ 所から、 其不人 

じ やう こ /- ろ あ, \ いかり もら I けう せ たん^^ょ さ いま な はの 乙 を 

情な 心に 溢れる 怒 VJ 漏す ため 「モ ル モ ン, 效を 攻める 男女 を 指します が)、 今に 尙殘 つて 居る 

た さいか :V く 乙 う き \;J な,^どぅせぃ きんせい はふ さい は ひ そのち ヽ うった た 

多妻家族に子が生まれた^J,Vを聞込んで、 不法 同棲の 禁制 法. V- 幸に、 其 父を訴 へた 爲め、 

ゆりた ま あが ばっきん いひつ か けうと でき K- れ くひむ ね レ くぶん は 

槍玉に 上って 罰金 を 言 付った 敎 徒が 出 來、 是 で 「モ \ モ ン」食鬼の胸は幾分か霽れまし^^、 

よう もと た さ じっかう き か ゼぐ うち ラら かきみ た そ も そ さ ^ か y- 

乙ん な 風に、 素から 多妻 A.- 實 行して 來た 家族の 內 裏を播 亂さラ なんか は 抑 も 沙汰の 限らて、 

かれら 乙れ かへ つ い! „r つ おのれ み K, つか じつ 1^ ない ぐ わい 1 けう 

彼等 は 之が ため 却て 徒らに 自己の 身 を 辱し めました、 實に ュ I タ 州の 內 外と 一 モル モン」 敎 

な S ぐ わい と およ くわん じんたい ど V と よろし いまし と 乙ろ さて 乙れ 乙と 3 

の內 外と を 問 はず、 凡, V 寬仁 大度な 人の 宜く誡 むる 所で ございます、 偖此 しきの 事 は 未だ 

二 1 



ニニ 

さ とんちゃく かう い 乙と つい しんぶんし ひやう せつ の きつ めい. C く 

左の み 頓着し ませぬ が、 斯云ふ 事に 付て 新聞紙に 評 說を载 せられる のが 痛い 迷惑に なり ま 

す、 事實を 知って 居る 人が よく 言 ふ 通り、 一 モル モ ン」 敎は 新聞紙 雜誌 等の 上で 眞 面に 書か 

ためし すぐ ^JのけぅくゎS ぐわん け 5 乙と かきの せ たん しんぶん s しゃ と かぐく わんよう 乙 \ ろ 

れた 例が 少な い のて、 此敎 會に關 係した 事 を 書 載る 段になる と 新聞記者 は 兎^ 宽容の 心が 

うす たし しら ぺ じ どつ おはぎ やう ぷ きた ふで ま つうれい 

蒲く、 確かな 調 を もせず、 事赏 を大 行に 吹 立てた. 5 筆 を 曲げる のが 通例であります から、 

しん きじ ひと ^J^^っけ 3 じ すくな み つも ふうせつ お ほ 

信ずべき 記事が 一つ あれば 强附の 記事が 少く見 積って 五十 もあります、 ホンに 『風 說は多 

くの 舌 を 有す、 然れ ども 其 舌 は 多く は 偽 はる』 と 云 ふ シ H イクス ピ I ァ I の 句 は 名言で ご 

およ ぷ はふ どうぜい うつたへ おこ M と は 3/0 さき そのう tta- は 3«" 3 

ざいます、 凡 も 不法 同 樓の訴 が 起り ますと、 未だ 遠くまで 聞えぬ 先に 其 喂は早 や 曲って 間 

ちが はなし つうれ 5 いまた さいしゅぎ けうぐ わい は ひこ ちゃう ど ねん むかし 

違った 話になる のが 通例て、 ャ レ 現今 多妻 主義 は 「モル モ ン」 敎 會に蔓 つて 丁度 三十 年の 昔 

やう さかん ぉ^Jな ヶ J あた ぷ くこん まい はちし す , /\ とりぐ を さわた 

の樣に 盛に 行 はれて 居る の、 ソ レ新 らしい 復婚が 毎日 繁々 と 取組 まれて 居る のと 騒ぎ立て 

乙のと は せ けん ひ-に/ c\ ぷたヽ どくき あ けうと ばく わ?: けうと 、じつ じ やう 

ます、 此 通り 世間の 人々 は 再び 毒 氣に中 てられて il モル モン」 敎徒を 憎しみ、 我敎徒 は實惝 

し を . ^な や はば のヽし ぱん たい しス し した ? 

を 知られ て 居らぬ 悲し さ K、 矢 庭 に 罵り 反對せ られ るの て ございます が眞 に 駟も舌 に 及ば 

ずと 云 ふて、 一度 擴 つた 虚言 は 打消し 惡 いもので 偽め 毒 は 容易に 解け ませぬ、 併し 止の 詰. 

^f^^Jと し 上う リ え けう ぬれぎぬ す /• 

りに は 眞實が 勝利 を 得て、 「モル モン - 敎の濡 衣が 雪 がれ ませう つ 



いま 乙の はなし むす の „v わがけ うく わい ゆん ざい たいぐわん ちゃ ラ た せん 

今や 此話を 結ぶ に 臨ん-、、 我敎 きの 現在の 大 管長 ジ ヨセフ 、エフ、 ス ミスが 出された 宣 

けんしよ しめ これ れい ねん ぐ わつ かがつ し; 5 うこく ==.:■ う サルト 、レ. I キし ひら たいぐ わい れつ 

言 書 を 示します、 之に 千 九 百 零 四 年 四月 六日 合 衆國ュ -タ 州の 鹽 湖 市に 開けた 大會に 列 

せき けうぐ わい やぐ はんお 上 くわい ゐん か けつ もの けつぎ あん いっし 上 しめ 

席した 敎會 役人 及び 會 員が 可 决 した 者で、 をの 决 議案 も 一 緒に 示します 

せん ゆん し i 

宣言書 

ねん ぐ わつ はちけ ゥく わ. S おいく わんち やう 乙く ぱ.. \ ぱいれ い けつ 乙ん いっさい きんし 

千 八 百 九十 年 九月 二十 六日 敎會 大 管 長 ウッド ラ フは國 法に 悸房 する 結^ を 一 切 禁止す 

せん t: んし 上すな ば つうし 上つ § 乙ぐ もの さな つい ねん ぐ わつ か けぅくゎぃ^^^ぃくゎぃ おい けう 

る 宣言書 即ち 通 稱諭吿 なろ 者 を 定め、 次て 千 A 百 九十 年 十月 六日の 敎<1;; 大 會に 於て 敎 

ぐ わい^いく わんち やう aJ れ ほっぺう けうく わ S さい 上 C ところ な しか 乙の せんけん ,G はん 

會大 管長 ゥッ 、ドラ フ 之を發 表し、 敎會の 採用す る 所と 爲れ. 5、 然るに 此 宣言に 違反し 

ふぐ 乙ん ぷぅ またお 乙 き i た W うせ 〈ま- 1- 上 でんばん 5 ゑ よ 

て複婚 の風復 起. -た りと いふ 許 多の 流說 方に 世に 傳播 す、 故に 余ジ ヨセフ、 H フ、 ス ミス 

ぼつ じっせいと イエス キリストけ うぐ わいた j;- ぐわん ちゃう し かく もつ 乙の せん ゆん しょ はつ つぎ ごと たん.^ ん 

は 末日 聖; 徒耶穌 某- 督敎 會 大 管長の 資格 を 以て 此 宣言書 を發 し、 次の 如く 斷 言す。 

このし 5 る HS けつ 乙ん しき いつ はつ じつせ. S と イエス .iv リストけ うぐ わい いんき 上 しょうたく はんしき もつ きょかう 

此 種類の 結婚式 は 一 も 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會の 允許と 承諾と 認識 を 以て 擧 行せられ たる 

こと M し a 

あは またつ ぎ ごと こぐ じ 

併せて 又 次の 如く 告示す。 

/J のし^る & けっこん しっか S キ-ん し も けうく わい やく はんもし しんと ほしい 3/- かく ごと けつ 乙ん 

此種: 類の 結婚 は 悉皆 禁止 せらる、 若し 敎會の 役人 若く は 信徒に して 恣 に 此の 如き 結婚 

二三 



二 四 

しき しっかう w た た as めと もの けうく 4- い たい tt ん? いしゃ H ん てい け- <^ くわい き ,そ< 一 r 

式 を 執行し 又は 多妻 を 娶る者 あらば、 敎 會に對 する 犯罪者と 判定せられ、 敎會の 規則 律 

はュ てら そのつ み ろん けうく わい は もん 

法に 照して 其 罪 を 論じ、 敎會 よ. 9 破門すべし。 - 

ばつ じっせいと イエス キリスト けう V わ. i た S くわん ちゃう 

末日 聖徒 耶穌墓 督敎會 大 管長 . 



ジ ヨセフ、 ェ フ, ス ミス 



けっさ あん 

决 議案 

乙の 一- - くわい れっせき ほつ じっせいと イエス キリストけ ラ くわい くわい rO ん われら ぷぐ こん ぐわん け, くわいたい ぐわん 

此大會 に 列席した る 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會 の會 員なる 吾等 は、 複 婚に關 して 敎會 大 管 

ち Joi iiAJ の f わい しう はつ /0 くじ せん rt: ん ん せいか けつ なら ひ そのば つ 

一 ま ジ ヨセフ、 H フ、 ス ミスが 今此會 衆に 發 したる 吿示 宣言 を 賛成 可决 する 乙と 並に 其實 

かう あた けうく わい さけつ るん は じょ あた はつぎ 

行に 當 つて 敎會 裁決 院に輔 助を與 ふること.^ 决議す 

みぎ あん しと ぐ わいち やう 上つ て, い, し 2" - ^-^ , え f ャ 

右の 案 は 十二使徒 會長 フランセス、 ュム、 ライマン に 由て 提出せられ 大會の 同意 を 得て 可 

决 した 者て あ. 9 ます、 し . 

わ かさ ? つよ ん £ ん K つ ほん あ はつ じっせいと イエス |キ=7 ス. 卜け rd.t わい せん y;r^— や,, :M,^ く^ 5 

余々 は 重ねて 爱に 强く斷 言し ます、 日本に 在る 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會の 宣敎師 も 役人 も會 

るん た さ. b しゅざ おこな § る 3 たてい 乙,. - ならび その; てく ち す じんみん このし 5 ぎ を—〕 ? の,!^ 

員 も 多妻 主義 を 行 ふこと を 許されず、 又帝國 並に せ r 鳩 地に 住む 人民に 此キ: 義を敎 ふる 權能 




トン ラク ヽェ ジ、 ルぺヒ 徒 使 チ ルケ、 一 、スィ 一) レ 老長 




ン 1 サン:!:、 ス :!:、 スラホ 老良 —ライ テ、— ォ、 マ, レア 老長 

師敎宣 るた し始 は】 を 部 道 傅 本 U 



あた さら いつぼ すヽ たん ゆん けうく わい 53 な せかい 5- プぐ 

を も與へ られ ずと、 更に 一 步を 進めて 斷言 します, 一 モル モ ン」 敎會が 今 も尙ほ 世界の 何處 

しんと ,\ ぐ 乙ん じっかう をし す Z- また ^2 を ゎ^^しゅぅけぅ はんた 5 しゃ ふで くち ところ 

かで 信徒に 複婚の 實行を 敎へ勸 めヌは 許して 居る とて 我 宗教の 反對 者が 筆に し 口にする 所 

? -iAV みないつ EH- 

は 盡く S 白 偽て あると。 

き ゆん れ i. ねん ぐ わつ か はつぼんとう a- やう おい これ しる 

紀元 千 九 百 零 七 年 三月 二十日 日本 東京に 於て 之 を 記す 

おい しゃう K ほん でん おう 

第二 章 日本 傳道 

ジョ ン 、ダブル ュ、 ス トケル 述 

ほんぶん き さい ごと ほんもん ぺ I じ み ねん ぐ わつ しと 

本文に 記載して ある 如く (本文 二 六 三 頁 を 見よ) 一 千儿百 一 年 七月 廿 四日 使徒 ヒべ \: シ 

ェ, グラント と 長老 等 ル I イス、 HT '、ケ ルチ とホ ラス、 ェ ス、 ェン サインと アル マ、 ォ I、 テ 

K はん おい でん iS? うぶ ひら た サル トレ一 キし しゅったつ どう 5;! ん ぐ わつ 

イラ,' と は 日本に 於て 傳道部 を 開かん 爲め 鹽 湖 市 を 出立して 同年 (m 治卅四 年) 八月 十二 

W ち 上 乙ば ま たうち-やく ちゃく た は ほん しんぶんなら び 《ぃ ご はっかう しんぶん 乙 せんけ, T し 

日 橫濱に 到着し ました、 着す る や 直ちに 日本の 新聞 並に 英語で 發行 する 新聞 は 此の 宣敎師 

お 5 ( う けうぐ わい ひじ やう aJ う-ゆき 乙れ くわん あまた じ 5^ つむ とん た 乙れ しばら 

の 代表す る 敎會を 非常に 攻擊 し、 之に 關 して 數 多の 事 實 無根の こん-を 出しました、 之は暫 

つ- M /0 はん JP- ん けうし 之い ぶん で きょせつ ざん ばう せつば けうく わい 上 べん 

く續 きました が、 此の 四 人の 宣敎師 は 英文で 出ました 虛說ゃ 讒謗 を說 破して 敎會を 能く 辯 

二 五 



二 六 

ご あ しんぶん Z せんけう し ぷ けう ゆる かれら は ほん NiN.-^,- わい 

護した のであります、 或る 新聞 は 此の 宣教師に 布敎 する 乙と を 許さずに 彼等 を 日本 國 外へ 

はう ちく しやうた う しか そ 乙と むえき 5 • お 上 

放逐す る こと を 唱道し まに た、 併し 其の 事の 無益て あつたの は 言 ふに 及びません。 

どう ねん ぐ わつ- はち はちえ うび ごせん こ ばん ちゃうら う よ 乙 はま なんばう し ヅ か 

同 一 千 九: 白 一 年 九月 一 日 (日曜日) 午前に 此の 四 人の 長老 は 橫濱の 南方に ある 一 つ の靜 なる 

もリ をろ/ f\ つ そ うち ま^Jと 丄 うけい うつぐ ところ み あた せんち せんのう か A さんび r 

森へ 徐々 と 行きて、 其の 中て 眞:^ 風景の 美しき 所 を 見當れ ば、 全智 全能なる 神に 讃美歌 を 

うた いの リ さゝ それし と は ほんでんた うぶ かいし さきた 

歌 ひ、 祈 を 獻げ ました、 其から 使徒 ヒ ベル、 ジ H 、グラント は 日本 傳道 部の 開始に 先立って 

は ほん t ぐ もつ ふくいん ひろ てきた, i- ち し た a- または ほんじん ュ くいん う い 上う い 

日本 國を 以て 福音 を弘 める に適當 なる 地と 爲給 ふこと、 ヌ 日本人に 福音 を 受け入れる 用意 

かみ めぐ あた たま き たういた せいれい そ あつまり ちゃうら うら をれ 

すべき やう 神が 惠 みを與 へ 給 ふ NJ と を祈禱 致しました、 it 靈は 其の 集に あって 長老 等 は 其 

ふか かん さ? かみ Z き たう き また 匕れ ねが めぐみ さ, つ たま かん 

に 深く 感じました、 而 して 神が 此の 祈 禱を聽 き 又 此に願 ふた 恩惠を 授け 給 ふべ しと 感じて 

め s/v .0 ゝろ いい きえつ まん- -v く み 

銘々 の 心 は 言に 言 はれぬ 喜悅と 満足と に充 たされました。 

どゥ ねん ぐ わつ か こ ちゃうら う み" 上乙ぱ ま いで とうき やう うつ ねっしん は ほん ご ぺん きみう ちゃくしゅ 

同年 十月 二十日 此の 長老 は 皆 橫濱を 出て 東京に 移. 5 熟 心に 日本語の 勉強に 着手した の-て 

あ- Q ます 

は ほん か いしん 35- し 上 K ほんじん ねん ぐ わつ か お ほ もり か £-J- ん しんれい う とうき やう けう 

日本で 改心した 最初の 日本人. に。 一 千 九 &ニ年 三月 八日 大森 海岸で 浸禮を 受け、 東京で 敎 

くわ.^ くわい ゐん かた し と こ ぎ しき しっかう 

會の會 員た る こと を 堅く せられました、 使徒 グラ ン トは 此の 二つの 儀式 を 執行し ました 



どう ii つ はち でんた う-^ ちゃう けうぐ わいほんぶ お 札い ii ん たいく わい しゅっせき まお W はん おい ふ 

同月 十一 日傳道 部長 グラント は敎會 本部に 於け る 例年の 大會に 出 し, 又 日本に 於て 布 

. ^う おめ せんけう し えら i/J はま しゅつばつ き 乙く どうねん ぐ わつ にち おのれ つ a II 

敎 する 爲に宣 敎師を 選ば, <! とて 橫濱 を出發 して 歸國 しました が、 同年 七月 十七 日 己の 妻ァ 

むすめ ちゃうら う つ a ,^ぅぷ 

,カス タ、 ダブ〃 ュ と娘メ I リ と 長老 ェ ン サイン の 妻と ジ ヨセフ、 ヱ フ、 フ ュザス トン 夫婦と 

ちゃうら うら . - . II 

長老 等ィ t '、ェ ル、 ジャゲ イスと ジョ ン、 ダブル ュ、 ス トケルと サンド フォルド、 ダブ〃 ュ、 へ 

, つ K ほん ちゃぐ でん;: う. * ちゃう た 

ッ ジスと フレデリック、 H - 、ケィ ンとを 逑れて 日本に 着し ました、 傳道 部長 グラ ン トと其 

か IV ぐ , ^う- A ふうふ と つき やうし 上つ や く かすみ を かまち ばんち いへ か 

の 家族と H ン サイン 夫婦と フ H ザ スト ン 夫婦 は 東京 市 四 谷區霞 ヶ岡 町 十六 番地の 家 を 借り 

おのれら すま ゐ さた た ちゃうら うら しぼら は ほん 5 'よくわん とま それ すぐ ともた ち いへ 

て 己 等の 住居と 定めました が、 他の 長老 等 は 暫く U 本の 旅館に 泊って 其から 直に 友達の 家 

*• つ は ほんじん どうきょ は ほん ご べんき やう け 5ゼ< 

に 移. 9 日本人と 同居し、 日本語の 勉強 を繼續 しました。 

ねん ぐ わつ は ti- かんた きんきく わんな せっけう くわい かいさい ヽた せっけう ぐ わい ひろ 

j 千 九. 三年 四月 十八 日 神 田の 錦 輝館內 にて 說敎會 を 開催 致しました、 該說 敎會は 博く 

ぐ わう 乙く お ほ ひと/: しゅっせき たうぐ わん じゅうまん 乙 せっけう くわい ばつ じっせいと 

廣吿 したので 多くの 人々 が 出席して 當館は 充満した のて あり 1- す、 此の 說敎會 は 末日 il- 徒 

イエス キリスト けうぐ わい は ほんでんお うじ ^ふ ちゃぐ し g つ さいしょ たいせつけ うく わい そ ご ぐ わつ 

耶穌 基督 敎會め 日本 傳道 事業の 着手 を吿 C る 最初の 大 說敎會 であ、 りました、 其の後 四月 二 

* てち はち はん ちゃうら う とうき や? お でんた うぶ さ はう, <^ ゆ ひと 》s::\ 

十二 日と 二十 三日に 六 人の 長老 は 束 京に 於け る傳道 部.^ - 去って 方々 へ 行き、 人々 に キリス 

— た ふと ぷ くいん をし ぱじ ,\ ぐ. S ん ぐ わくち やう たす た しと せウ さっし 

トの賁 き 福音 を敎へ 始めました、 福音の 擴 張 を 助ける 爲め 使徒 グラ ントは 一 つの 小冊子 

二 七 



二八 

あら は ちゃうら う … I はん は はんじん いう じん はじ 上え zJ れ はんやく 

を^し ましたが、 長老 ァ レ, マ、 ォ-、 テ イラ I がー 人の 日本人の 友人の 铺助を 得て 之 を翻譯 

のち ぐゎク か ぶ ほ ど はっかう • 

した 後 五お 十 il 日 五 千 部程發 行し ました,) 

.3 ん ぐ わつ W ちけ つく わい ぐわん T フ やうく わい かいてい でんばう でん i ^ラ ぶち やう- しと —— 

一 千 九 百 三年 八月 二十 三日 敎<^1: 管長 會 よりの 海底- m 報に よ. 9、 傳道 部長なる 使徒 ヒ 

W ほん お しょくむ や き 乙く ゆ 2 fH たち やうら う 

ベ 〃、ジ H 、グラ ン トは 日本に 於け る 職務 を罷 めて 歸國 する を 許され、 又 長 老ホ ラス 、エス.、 

でん^^-ぅぶちゃぅ れん しと ぐ わつ W ちか どく つ しゅつ ぼん 

ェ ン サイン は 傅 道 部長に 任ぜられ iH した、 使徒 グラ ン トは 九月 十 一 日 家族 を 連れて 出帆し 

ました 

どゥ ねん ぐ わつ ^ちとう き やう はちえ うが, t かラ そ しき も ときい らいた し 上 ^ちえう?' く かう そ しき 

同年 十 ! 月廿 九日 束 京て 日曜 學校を 組織し ました、 其の 時:^ 來 他所に も 日曜 學校を 組織 

ゆん 乙ん ば ほんでん おうぶ せい^い ^ちえう S" ぐ かう 

したので すが 現今 日本 傅 道 部に は 四つの 盛大なる 日躍學 校が ございます メ 

ねん ぐ わつ はちとう き やう かいさい ちゃうら ラ か-いく わい でんおう ぶち やう 

一 千 九 百 四 年 一 月 十 一 日 東京で 開催され た 長老の 大會 で傳道 部長 ェ ン サイン は モャ. -乇ン 

き やう は ほん ご はんやぐ とき たうら い つ すべて ちゃうら う ふくいん せんでん ひま がいけい てん 

經を 日本語に 翻譯 すべき 時が 到來 したと 告げて、 一 切の 長老が 福音 を宣傳 する 暇に 該經典 

はんやぐ じゅうじ めい したが ちゃうら う みな/ J し ごと ちゃ f し g どうねん ぐ わつ 

の 翻 譯に從 事す ると を 命じました、 從 つて 長老 は 皆 此の 仕事に 着手し ましたが、 同年 七月 十 

はちと V き やう もよ は ちゃうら う おい N\ わい めい < そ はたらき はう ち も はん ちゃうら う とくべつ 乙 

六日 東京で 催された る 長老の 大會 て銘々 其の 働 を 報知した ので 若し 一 人の 長老 を 特別に 此 

^や, y ため はん 乙 ばたら き な はいつ そ う はや かつ 上 できあ 5" 5 あきらか 

の 翻?.^ をす る爲に 任じたならば 此の 働は尙 ) 層 早く 且 能く 出來上 ると 云 ふ 乙と が 明に なり 



g ゑ ちゃうら う t はた ft き じ やう じゅ 乙れ もつ ばらみ い ばた If ゃタ 

ました、 故に 長老 ァ 〃マ、 ォ -、 テ イラ - は 此の 働が 成就す るまで 之に 專身を 入れて 働く 樣 

ばん がいけ いてん はんやく ちか うち できあが はっかう 上き を 

に 任ぜられました、 該經 典の 翻譯は 近い 將來 に出來 上って 發 行せられ んと豫 期して 居る の 

であります 

ねん ぐ わつ ばち 《ん ふく ふ つき さん, ひ か しぷ どう ぐ わつ かそ かく ュぐ 

1 千 九 百 五 年 六月 一 日 六十 六 篇を含 む 譜附の 讃美歌 集、 同 七月 四日 其の 歌 句の み を 含む 

さんび か しょ はっかう ちゃうら う U はん し ん ほ じ 上 X れら 

讃美歌 書を發 行し ました、 長老 フレデリック、 H -、 ケ イン は 日本の 詩人の 稀 助 を 得て 此等 

す へん はんやぐ さう でんた うぶち やう そ かきょく つく 

數篇を 翻 離しました、 而 して 傳道 部長 ホラ ス、 H ス、 ュ ン サイン は 其の 歌曲. V 作-り したの 

であります 

ねん ぐ わつ K ちけ うく わい くわん ちゃうく わい ていでん ばう でん うぶ 

一千 九 百 五 年 (明治 三十 八 年) 六月 二十 七日 敎會の 管 長 會 よりの 海底 _電 報に よ 6 傳道部 

ちゃう 乙 し 上ぐ む や き こく ゆる _M たち やうら う 

長 ホ ラス、 H ス、 H ン サイン は 此の 職務 を罷 めて 歸國 する こと を 許され、 又畏老 アルマ、 ォ 

でんた うぶち やう やく W ん ちゃう IX う そ つま ぐ わつ か し: S つ 

!、 ーズ イラ -は傳 道 部長の 役に 任ぜ. られ ました、 長 老 ユン サイ ンと 其の 妻 は 七 曰 八日に 出 

ばん アメリカ か ( 

帆して 亞米利 加へ 歸. 5 ました。 

ち to* うら うら せう さっし さつお はんご H つかう ゆん 乙ん そ うち さつ もち を 

長老 等 は 小冊子 を 九 冊 日本語に て發 行した のです が、 現今 其の 中八册 のみ,^ -用ゐ て 居. ま 

t せう さっし かみ -V ん ざい かみい か もの 5- ひと かみ いか くわん けい 

す、 此の 小冊子に は 神の 在存、 神 は 如何なる 者なる かと 云 ふこと、 人 は 神と 如何なる 關係 

二 九 



三 〇 

i- う い かみ 乙 W 'やぐ でんお. M し め 5- ふくいん ゆん をく おも 

を 有する かと 云 ふ M と、 神の 子ィ H ス、 キリス ト の略傳 及び 使命、 福音-の 四つの 原 刖と熏 な 

ぎ しき き たうお 上 そ ひつえう ばつ じつ お aJ けうく わ i- ぉ^Jリ は ぼん 产ん たうぶ かいし もぐて き 

る 儀式、 祈禱 及び 其の 必要、 末日に 於け る 此の 敎會の 創立、 rn 本 傳道部 を昍始 した 目的、 

ならび 乙 けうぐ わ. & た リストけ うく わい 乙と マん た せう せつめい 

並に 此の 敎會と 他の 基 齊敎會 との 異なれる 點 など.: H 多少 說叨 してあります 

せんけう し とうき やう.^ お 上 ち ぼ ながの はいがた しょけん A けう ゆん nJ ん とうき やつ さ っぽろ せん 

宣敎師 は 東京 府 及び 千 葉、 長 野、 新 5il の諸縣 に布敎 し々 のです が、 現今 束 京と 札 幌と仙 

&3 かぶ/ * おい ふくいん ひろ を ほスでん^^-ぅぶ かいし い らい, て, はん き せんおう ぜん 

薹 と甲府 とに 於て, 福音 を弘 めて 居ります、 本 傳道部 を 開始して 以來 日本へ 來て宣 道した 宣 

けうし せんすう はん .fi どい ま はん W はん を 

敎師の 全數は 二十 一 人です が、 兄 今 十 一 人の み 日本に 居 6 ます ◦ 

わ W はんてんお ラぶ 3 とし あさ かみ おんけい お ほ う 乙と 5- 上い さか かつ 

我が 日本 傳道部 は 未だ 年が 淺 いのです が、 祌の 恩惠を 多く 受ける 事に よって 愈よ 榮ぇ、 且 

W はん t くみん せ 5 じつ ひと/^ かみ じ もべ すな は はつ じつせ いと イエス キリストげ うく わい ぜんけ. ft: をし ふぐ いん しん 

日本 國 民の 誠 赏 なる 人々 に 神の 僕 即 ち 末日 聖徒 耶穌 基督 敎會 の宣敎 師の敎 へる 福音 を 信 

かつち g うじつ Z れ まも ねつば う を ご X- 

じ 且忠實 に此を 守る 乙と を 熱望して 居る ので 御座います 



敎會 略史 附錄 結尾 



明治 四十 年 八月 三十 曰 印刷 一. 17 

明治 四十 年 九月 三 H 發行 



上製 金 五十 五錢 鄹稅 十? js: 一 

並製 金 四 十 錢 那稅 六錢ー 



版權 所有 , 



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エドフ I ド、 ェチ、 ァソデ 〃ソン 

ジョン、 ダブ〃 ュ、 スト ケ〃 

東京 市 四 ッ谷區 霞 ヶ岡 町 十六 地 

末日 聖徒 耶^ 基督 敎會 

日本 傳道部 



< 不許複製 f 右 代表者 



印刷者 



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東京 市 牛 込 區市ケ 谷 加賀町 一 丁目 十二 番地 、 

飯 田 三千 太 郞、 

東京 市 牛 込 區市ケ せ加賀 町 一 丁目 十 二^地 

株 式 



會 社 



秀英舍 第 一 工場 



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