百家姓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

百家姓(ひゃっかせい、拼音: Bǎijiāxìng)は、伝統的な中国の教育課程において子供に漢字を教えるための学習書のひとつ。中国の代表的な漢姓を羅列してあるだけの内容だが、三字経千字文と同様に韻文の形式で書かれている。

概要[編集]

「百家姓」と呼ばれているが、現在の通行本は単姓444・複姓60の合計504の姓(564字)を載せている。最後の「百家姓終」を含めて568字になる。4字を1句として偶数句末で韻を踏んでいる。

歴史[編集]

百家姓をいつ誰が作ったかはわかっていない。

南宋陸游が詩「秋日郊居」の自注で「農家十月乃遣子入学、謂之冬学。所読雑字・百家姓之類、謂之村書。」と言っている。これが「百家姓」の語が文献に出る最古の例である。

おなじく南宋の王明清『玉照新志』では、百家姓の冒頭が「」になっていることについて、皇帝である趙氏を最初に置き、次に呉越国の銭氏銭弘俶の正妃の孫氏南唐李氏の順に並べたと考え、「百家姓」は宋初の杭州の人によるものと考えた[1]

現存最古の百家姓のテキストは『事林広記』に載せる代のもので、パスパ文字で音を記している[2]。テキストにより違いがあるが、至順本では単姓391(四字一句なのに奇数なのは「越」1字が抜けているため)、複姓20の合計411姓を記している。通行本とくらべると、単姓では「和穆蕭尹姚邵湛汪祁毛禹狄米貝明臧」の16字がなく、「温別荘晏柴瞿閻充」と「慕連茹習宦艾魚容」の順序が逆になっている、などの違いがあるものの、「蓋益桓公」までの内容は基本的に一致している。複姓は非常に少なく、韻も踏んでいない。

通行本では「蓋益桓公」までが単姓、それ以降は複姓を並べているものの、複姓の途中からまた単姓が混在するなど、末尾に行くほど配列が混乱している。あとから追加していったためにこのようになったものと思われる。

原文[編集]

ここでは複姓を太字で示す。

褚衛、
、柏、奚、苗、酆
。滕常。。伍
和穆。祁狄、臧。計伏、談紀舒屈、項祝
、席季駱。
、昝。経裘繆、干、郁単杭
滑、羊於恵、家封。羿儲、汲邴糜。井富巫、烏焦巴
牧隗谷、宓蓬。仰、宮。欒暴、厲戎。祖
幸司韶、郜宿懐、蒲邰従鄂。索屠蒙。鬱、胥能蒼双。
聞莘党貢労逄。扶堵、宰酈雍。郤璩桑、濮寿通。冀、郟浦農。
晏、充。慕、宦容。古易、戈庾終。曁居衡歩、耿満弘。
寇、広禄闕東。欧殳沃利、蔚越夔隆。師鞏、晁勾敖融。冷訾闞、那饒空。
毋沙乜、養須豊。巣蒯相、査后荊逯、万俟司馬上官欧陽
夏侯諸葛聞人東方赫連皇甫尉遅公羊澹台公冶宗政濮陽淳于単于太叔申屠
公孫仲孫軒轅令狐鍾離宇文長孫慕容鮮于閭丘司徒司空亓官司寇子車
顓孫端木巫馬公西漆雕楽正壌駟公良拓跋夾谷宰父穀梁法、鄢涂欽。
段干百里東郭南門呼延羊舌微生。岳帥緱亢、況後有梁丘左丘東門西門
佘佴、伯賞南宮哈譙笪、年愛第五言福、百家姓終。
  • 「第五言福」のあとが「竹麦過。百家姓続」となっているものがある。
  • 「党」は「黨」と書かれていることもある。どちらも姓として存在する。
  • 「庫」は「厙」とも。
  • 「宗政」は「宗正」とも。

後世への影響[編集]

「百家姓」には主要な姓をおおむね収めてはいるものの、たとえば真徳秀の「」など、抜けている姓もある。欠けている姓を補おうとする試みが行われた。の呉沈は1968姓に増やした「千家姓」を著している。厳揚帆(1981)「新編千家姓」では3107の姓を並べている。もちろん漢姓の総数はこれよりもさらに多い。

中国の姓氏辞典の類は、姓を百家姓の順に並べて、その起源や歴史上の著名な人物などを記す、という形式になっているものが多くある。

魯迅は『故事新編』の「起死」で千字文と百家姓を呪文の文句として使っている。

脚注[編集]

  1. ^ 王明清『玉照新志』巻三「如市井間所印百家姓、明清嘗詳考之、似是両浙銭氏有国時、小民所著。何則其首云「趙銭孫李」、蓋銭氏奉正朔、趙乃本朝国姓、所以銭次之。孫乃忠懿之正妃、又其次則江南李氏。次句云「周呉鄭王」、皆武粛而下後妃、無可疑者。」
  2. ^ 新編纂圖增類羣書類要事林廣記』 文芸類・蒙古字体https://archive.org/stream/02098000.cn#page/n54/mode/2up 

外部リンク[編集]