王永

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王 永(おう えい、? - 386年)は、五胡十六国時代前秦の人物。本貫北海郡劇県。父は前秦の丞相王猛。弟に員外散騎侍郎王皮河東郡太守王休王鎮悪の父)・王曜がおり、他に妹が一人いる。

生涯[編集]

苻堅の時代に扶風郡太守に任じられた。

382年3月、弟の員外散騎侍郎王皮は苻堅へ謀反を企てたが、事前に事が露見して捕らえられ、朔方の北へ流された。苻堅はかねてより王皮の無道な振る舞いを疎ましく思っていたが、一方で王永の清廉な振る舞いを評価していた。その為、今回の一件があっても王永は重用され、同年4月に幽州刺史に任じられ、へ出鎮した。

王永は任地においては善く民を慰撫して善政を布いたので、大いに人心を得たという。

383年、苻堅は大々的に東晋征伐を敢行し、総勢100万を超すともいわれる兵力を動員して建康に迫ったが、淝水の戦いで歴史的大敗を喫してしまった。これにより国内の至る所で反乱が勃発し、前秦は大混乱に陥った。だが、王永はこれに与する事無く、気勢をあげて反乱勢力の鎮圧に尽力したという。

384年7月、王永は平州刺史苻沖と共に二州の兵を率いて後燕へ侵攻すると、後燕君主慕容垂は寧朔将軍平規に迎撃させた。王永は昌黎郡太守宋敞范陽に派遣して平規と争わせたが、宋敞は敗北を喫し、平規は薊南まで進出した。8月、王永は振威将軍劉庫仁に救援を要請すると、劉庫仁は妻の兄である公孫希に騎兵3千を与えてこれを救援させた。公孫希は薊南へ進撃すると平規の軍勢を大破した。10月、劉庫仁は公孫希が平規を破ったと聞いて繁畤へ進出したが、配下の裏切りに遭って殺害された。公孫希の兵もまたこれを聞き、自潰してしまった。

385年1月、後燕の帯方王慕容佐・寧朔将軍平規は共に薊城へ侵攻した。王永はこれを阻んで力戦するも、既に前秦の衰亡は明らかであり、幾度も敗戦を喫した。2月、王永は防衛はもはや不可能と判断し、宋敞に命じて龍城と薊城の宮殿を焼き払わせると、3万の兵を率いて苻沖と共に壷関まで後退した。

当時、前秦の長楽公苻丕(苻堅の庶長子)はに拠り、後燕の猛攻を退け続けていたが、同年8月に遂に抗戦を諦めて鄴の放棄を決断した。彼は長安へ逃れようと考えたが、王永は使者を派遣して苻丕を招聘した。これを受け、苻丕は鄴中の男女6万戸余りを従えて西の潞川へ向かい、最終的には驃騎将軍張蚝并州刺史王騰に迎えられて晋陽へ入城した。王永もまた平州刺史苻沖に壷関の統治を委ねると、自ら1万の騎兵を率いて晋陽に入り、苻丕と合流した。

当時、既に前秦の首都の長安西燕軍の攻勢により失陥しており、苻堅は逃走中に後秦の君主の姚萇に捕らえられて処刑されていた。晋陽へも苻堅の死が伝わると、王永は苻丕へ皇帝を称するよう勧め、苻丕はこれに応じて皇帝に即位した。

9月、王永は使持節・侍中・都督中外諸軍事・車騎大将軍・尚書令に任じられ、清河公に封じられた。

ここにおいて王永は諸州郡へ檄を飛ばして「大行皇帝が万国を棄背し、四海に主はいなくなってしまった。征東大将軍・長楽公(苻丕)は先帝の元子であり、天より聖武を授かり、荊南において命を受けた。その威は静かな海を震わせ、東都を分陝し、その道は夷夏を覆い、仁沢は宇宙を照らし、その徳は下武に匹敵するほど轟いている。この永は司空蚝(張蚝)らと共に天人の望に謹んで従い、季秋の吉辰(晩秋の吉日)に公が大統を継承するのを奉じ、銜哀(悲しみに暮れる事)しながらも事業に即き、雌伏しながら戎を統べ、枕戈待旦(戦いの準備を常に怠らない事)して大恥を雪ぐ事を志としている。慕容垂は関東を荒らし回り、泓・沖(慕容泓慕容沖)は相次いで京邑に凶をもたらし、乗輿(天子が乗る車)は播越(居場所を失う事)し、宗社は傾き落ちぶれてしまった。羌賊姚萇は我らの牧士でありながら、隙に乗じて滔天し、自ら大逆を行い、巨賊が生まれるに至った。この永は累世に渡り恩を授かり、代々将相を担ってきた。驪山の戎・滎沢の狄どもには与さず、共に皇天を戴き、同じく厚土を履もうではないか。諸牧伯や公侯、或いは宛・沛の宗臣、或いは47の勳旧よ、どうして破国の醜豎を捨て置き、殺君の逆賊をほしいままにしてもよいだろうか!主上は飛龍・九五(いずれも皇帝を指す)となり、誠に天心に適い、霊祥や休瑞(いずれも吉兆)は史官が書に綴れぬ程であり、武器を捨てて忠義に従う士は30万を超え、少康・光武(光武帝)の功は旬朔のうちに成し遂げるであろう。今、衛将軍倶石子が前軍師となり、司空張蚝が中軍都督となった。武将・猛士は、風が烈し雷が震えるように、その志は元凶を絶やし、その義は他を顧みない。この永は謹んで乗輿を奉じ、恭しく天罰を行わん。君臣の終始の義とは、三忘躯の誠(戦場にあっては家族・両親・自身を忘れて忠義を尽くす事)にある。戮力してこれに同心し、晋・鄭の美を建てようではないか」と呼びかけた。

12月には司徒録尚書事に昇進し、さらに386年6月には左丞相・太尉に昇進した。領する官位はこれまで通りとした。

王永は再び諸州郡へ檄を飛ばして「昔、夏は窮夷の難にあったが、少康は起ち上がった。王莽平帝を毒殺したが、世祖(光武帝)は漢道を復興した。百六の運(災厄)は何代も続くものでは無い!天は喪乱を下し、羌胡は華夏を荒らし、先帝は賊庭において晏駕(崩御)され、京師(長安)は戎穴に落ち、神州は蕭條となり、生霊(人民)は塗炭の苦しみを味わっているが、天は未だ秦を亡ぼさず、社稷は奉じられている。主上は聖徳にして恢弘を行い、その道は光武に匹敵し、各地を帰心させ、天人も帰属した。必ずや中興の功を隆し、配天の美を復すであろう。姚萇は残虐であり、慕容垂は凶暴であり、その通過する所で戸は滅して煙は絶え、丘墓は荒らし暴かれた。その毒は存亡に関わらず行き渡り、その痛は幽顕へ及んでいる。九州における黄巾の害や、四海における赤眉の暴であっても、ここまで甚だしくは無かったであろう。今、素秋に至ろうとしており、行師は令辰(吉日)を迎えるであろう。公侯・牧守・塁主・郷豪、或いは国家に力を尽くす者、王室に心を寄せる者は、各々統率する所を率い、孟冬(初冬)の上旬に臨晋において大駕と合流するのだ」と呼びかけた。

これを受け、天水の姜延・馮翊の寇明・河東の王昭・新平の張晏・京兆の杜敏・扶風の馬朗・建忠将軍・高平牧官都尉王敏らはみな檄に応じて挙兵し、各々数万を擁して苻丕の下へ遣使した。苻丕は彼らをみな将軍・郡守に任じ、列侯に封じた。

8月、苻丕が4万の衆を率いて平陽へ拠点を移すと、王永もまたこれに同行した。

10月、西燕の君主の慕容永が晋陽へ到来すると、苻丕は王永と東海王苻纂に討伐を命じ、倶石子を前鋒都督とした。王永らは出撃して襄陵において西燕軍と交戦するも、大敗を喫してしまい、王永は戦死した。

人物[編集]

品行方正であり、学問を善く修めていたという。

参考文献[編集]