美人画と言えば「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)。国内での評価はもとより、海外では「葛飾北斎」(かつしかほくさい)と並び著名な浮世絵師です。しかし、その芸術活動は幕府の禁制との闘いでもありました。そんな喜多川歌麿の波乱万丈の人生や生み出され続けた数々の美人画をご紹介します。
喜多川歌麿の姓は北川。幼名は市太郎ですが、のちに勇助と改めます。
総じて浮世絵師にはよくあることではありますが、著名な絵師であるにもかかわらず、その生涯に関する文献や史料は少なく、生まれや家系についての詳細も、いまだに明らかになっていません。
生年に関しては、没年(数え54歳)からの逆算で1753年(宝暦3年)とされています。出身地は江戸と言う説が有力であるものの、江戸以外にも京都、栃木、川越など諸説あり、いずれも確証はないと言う状況。
家族についての情報も同様にあまり明らかではなく、妻帯者であったと取れる資料が残されていますが、その逆の記録もあるのです。
浅草専光寺の「過去帳」(故人の名前や死亡年月日等を記録する帳簿)には、1790年(寛政2年)、喜多川歌麿が神田白銀町の笹谷屋五兵衛の紹介で「利清信女」(りせいしんにょ)と言う女性を葬ったと言う記録が残されています。
喜多川歌麿自身も没後に同じ寺に埋葬されていることから、利清信女は極めて親しい間柄の人物、母もしくは妻と推測されているのです。
喜多川歌麿は、少年期より狩野派の絵師「鳥山石燕」(とりやませきえん)のもとで絵の修業を始めました。
鳥山石燕は妖怪画を多く描いたことで知られる絵師。当時多くの門人を抱えており、喜多川歌麿の他に「恋川春町」(こいかわはるまち)や「栄松斎長喜」(えいしょうさいちょうき)なども門弟でした。
幼少期の喜多川歌麿について鳥山石燕が書いた記述が残っていることから、幼い頃から交流があったと言われています。
さらには、喜多川歌麿が「鳥山豊章」や「鳥豊章」と言う落款(らっかん)を使った作品もあることから、2人が親子だった可能性を指摘する研究者もいます。
喜多川歌麿の最も古い作品と言われているのが、1770年(明和7年)に「石要」と言う名で描かれた歳旦帳「ちよのはる」の挿絵。
また、初めての本格的な絵画は、1775年(安永4年)の富本浄瑠璃正本「四十八手 恋所訳」(しじゅうはってこいのしょわけ)の下巻表紙絵でした。
その後、役者似顔絵なども手掛けます。美人画の巨匠とも言われる喜多川歌麿ですが、多くの浮世絵師と同じように、初期の頃には役者絵も手掛けていました。
1781年(天明元年)、喜多川歌麿は蔦屋を版元とする黄表紙「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)の挿絵を描きます。
この仕事は、のちに密な関係となる「蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)との初めての仕事であり、同時に初めて「歌麿」と号した作品となりました。
この頃は現在の上野・根津あたりに居を構えていたとされていますが、間もなく蔦屋重三郎の家に身を寄せることになります。
蔦屋重三郎は、江戸時代を代表する版元で、いわば出版プロデューサーとして活躍していました。
出生地は遊郭が並ぶ新吉原。20代半ば頃から吉原のガイドブック「吉原細見」の取り次ぎを始め利益を得ます。それを足がかりに次々と書物や錦絵などを企画しては刊行し、先見の明を活かして出版界で大成功を収めた人物です。
蔦屋重三郎は喜多川歌麿の才能を買い、明和から寛政の時代にかけて、二人三脚で次々とヒット作を世に送り出します。
喜多川歌麿作品に遊女が多く登場するのも、女性の緻密なしぐさや表情をとらえた作風も、吉原に見識の深い蔦屋重三郎のもとに身を寄せていたのがその理由です。
1783年(天明3年)には、蔦屋版元で「青楼仁和嘉女芸者部」(せいろうにわかおんなげいしゃのぶ)と言う遊女を描いた錦絵を刊行。
その後、天明期には「風流花之香遊」(ふうりゅうはなのかあそび)や「四季遊花之色香」(しきのあそびはなのいろか)などの美人画を発表します。
ちなみに、この頃の作品は「北尾重政」(きたおしげまさ)や「鳥居清長」(とりいきよなが)など当時の流行浮世絵師の影響を受けていることがうかがえ、独自の画風はまだ観られません。
1767年(明和4年)から1786年(天明6年)にかけて 政治の実権を握っていたのが「田沼意次」(たぬまおきつぐ)です。
商業を盛んにし幕府の財政を立て直そうとする政策により、天明期には享楽的な文化が広がっていました。
なかでも人気を博したのが「狂歌」です。狂歌とは、洒落(しゃれ)や風刺をきかせた短歌のこと。この頃は、武士や町人達が妓楼(ぎろう)や茶屋に集まり狂歌を詠む「狂歌サロン」まで作られていました。
蔦屋重三郎はそれに目を付け、人気狂歌師「大田南畝」(おおたなんぽ)へ接触を試みます。
そして、大田南畝ら流行作家が集う狂歌サロンへ喜多川歌麿を紹介しました。これをきっかけに喜多川歌麿は「筆の綾丸」と言う狂歌名で狂歌を詠み、また狂歌絵本の挿絵で活躍していくことになります。
喜多川歌麿の実力が高く評価された最初の作品も「画本虫撰」(えほんむしえらみ)と言う狂歌絵本でした。
「画本虫撰」が刊行されたのは、1788年(天明8年)。時の政権は田沼意次から松平定信(まつだいらさだのぶ)へ移ります。
享楽的なムードから質実なムードへと変わり、狂歌ブームにも陰りが見え始めていた頃です。狂歌会と言えば遊女や芸妓がつきものでしたが、贅沢を差し控えざるを得ず、やむなく虫の品定めを主題とした狂歌会として開催されます。
そこで詠まれた狂歌に喜多川歌麿の絵を添えて狂歌絵本がつくられました。「画本虫撰」は虫を題材としているものの、艶っぽい狂歌も多く、喜多川歌麿が描いた繊細な絵はそれらにふさわしく、評判を博しました。描かれる虫や草花の質感の描き分けや色使い、写実的表現などは現代でもなお高く評価されています。
「画本虫撰」で手ごたえを感じた蔦屋重三郎は、その後も多くの狂歌絵本を喜多川歌麿に依頼しました。
そのひとつ「潮干のつと」(しおひのつと)は、春の袖ヶ浦で開催された狂歌会から誕生した狂歌絵本です。
喜多川歌麿がときに幻想的な美しい海辺の景色や色とりどりの貝などを描き、大田南畝の狂歌が添えられています。
元号が天明から寛政へと変わると、奢侈(しゃし)に対する幕府の規制が強くなりました。いわゆる「寛政の改革」です。1787年(天明7年)、老中職についたのは「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の孫として生まれた弱冠30歳の松平定信。
若き老中は、飢饉の混乱を収め、幕藩体制の立て直しや規律の粛正をねらった改革を実施します。監視の目は出版界にも向けられ、狂歌サロンのメンバーの中にも処罰を受ける者が現れました。
例えば、武士の「土山孝之」(つちやまたかゆき)は、遊女を妾(めかけ)としたことや、前職在任中に買い米(かいよね)の公金を横領したなどの理由で死罪に処されたのです。
大田南畝も、松平定信の文武奨励を揶揄した狂歌が役人に知れてしまったため、呼び出されて尋問を受けます。
処罰を受けることはなかったものの、友人である土山孝之の重い処分にショックを受けていたことも重なり、狂歌サロンへの出入りを控えることになりました。
戯作者の「朋誠堂喜三二」(ほうせいどうきさじん)も狂歌サロンや戯作界から身を引き、浮世絵師であり戯作者でもあった恋川春町も取り調べを受けたあとに不審死を遂げます。
狂歌サロンを牽引したメンバーが次々とサロンから姿を消し、狂歌ブームは終焉を迎えたのです。
幕府の厳しい禁欲体制により狂歌絵本での活動ができない中で、喜多川歌麿と蔦屋重三郎が次に世に送り出したのは、「歌まくら」と言う春画でした。
春画は性風俗を描くことから、表立って書店に並ぶ物ではなく、幕府に発覚すれば当然処分の対象になる物。
喜多川歌麿と蔦屋重三郎の決断は反骨精神の現れなのか定かではありませんが、驚くべき行動です。寛政初期、喜多川歌麿にとっては苦難の出来事が続きました。
1790年(寛政2年)、母または妻と推測されている利清信女が死去します。また幕府が正式に出版統制令を出し「猥らがましき事など勿論無用」と発布されます。
検閲を通った物のみ出版を許可するとし、同時代の事件を浮世絵で扱うことや、高価な本を作ることなどが禁止されました。
その翌年1791年(寛政3年)には、蔦屋重三郎が刊行した「山東京伝」(さんとうきょうでん)の洒落本が検閲に引っかかり絶版を命じられます。処分はこれにとどまらず、蔦屋重三郎は財産の半分を没収される「身上半減刑」に処されました。
この煽りを受け、喜多川歌麿も新しい作品を刊行することがままならなくなります。実際、この年に制作されたとされる喜多川歌麿作品は1点も残っておらず、空白の1年となりました。
しかしこの空白の寛政3年前後も筆を置いていたわけではありません。
栃木県の豪商の依頼で制作された「女達磨図」(おんなだるまず)など、同県で複数の作品が発見されているのです。
どうやら喜多川歌麿は寛政3年頃に栃木を尋ね、そこで制作活動を行なっていたのではないかと推測されています。
1792年(寛政4年)頃から、喜多川歌麿は錦絵、特に美人画に力を入れ始めました。
北尾重政や鳥居清長などの当時の流行絵師が描く美人画の影響から脱し、艶やかで瑞々しい表情豊かな女性を描く独自の画風を完成させていきます。
喜多川歌麿作品の代名詞と言える女性のバストアップを描いた構図の「美人大首絵」が誕生したのもこの頃。
美人大首絵は現在では至って普通の構図ですが、その当時の美人画は全身像や風景の中に描かれた物ばかりで、バストアップの構図はほぼありませんでした。
この構図で発表された最初の作品が「婦人相学十躰」(ふじんそうがくじゅったい)と「婦女人相十品」(ふじょにんそうじっぽん)と言う揃物で、喜多川歌麿の最盛期の傑作のひとつです。
どちらも背景は描かずに女性の顔の細部や表情、しぐさなどを細かく描写しています。雲母(うんも)の粉を用いた雲母摺りで、光沢のある仕上がりが特色です。
どちらも版元は蔦屋であり、身代半減となった蔦屋重三郎にとって起死回生を図る作品となりました。
喜多川歌麿と蔦屋重三郎は、恋に焦がれる女性の姿を描いた「歌撰恋之部」(かせんこいのぶ)など次々と美人大首絵作品を刊行していきます。
なかでも空前の大ヒットとなったのが「当時三美人」(とうじさんびじん)でした。
浅草随身門脇にある水茶屋の「難波屋おきた」、江戸両国薬研堀にある煎餅屋の娘「高島おひさ」、吉原玉村屋抱えの芸者「富本豊雛」(とみもととよひな)など「寛政の三美人」と言われる実在の女性を描いた絵です。
これらの作品では顔の特徴までも細かく描き、人物による書き分けをしたのも特徴です。
「鈴木春信」(すずきはるのぶ)や鳥居清長など優れた美人画を残した浮世師でも女性の顔は皆一様であり、喜多川歌麿の手法は画期的な物でした。
しかし幕府の新たな出版統制令がこれに水をさします。美人画に芸者や茶屋娘などの名前を入れることを禁ずるとされたのです。
喜多川歌麿はこのお触れに「判じ絵」で対抗することにしました。
判じ絵とは絵から推理して言葉や答えを導き出す物で、一種の謎かけになっています。例えば背景に図案を描き、沖と田んぼを描いて「おきた」のように描かれた女性の名前を絵で表したのです。
これらは幕府からの厳しい規制にも屈しない、喜多川歌麿の反骨精神と気概を感じさせます。
町娘を描いた判じ絵で、喜多川歌麿の人気はますます上昇。
おひさなど江戸の6人の美人をモデルとした「高名美人六家撰」(こうめいびじんろっかせん)や6人の遊女を描いた「六玉川」(むたまがわ)など、判じ絵シリーズを次々と刊行してその人気は不動のものとなりました。
このように幕府の禁制に屈せず精力的に創作活動を続けた寛政年間を通じて、喜多川歌麿は誰もが認める有名絵師の地位を確立。
その生涯における最高傑作と言われる作品を次々と生み出したのです。
判じ絵によって規制逃れを試みた喜多川歌麿。しかし、1796年(寛政8年)に判じ絵さえも禁止されてしまいます。
その後は「婦人手業操鏡」(ふじんてわざあやつりかがみ)、「鮑取り」(あわびとり)、「女織蚕手業草」(じょしょくかいこてわざぐさ)など働く女性を題材とした錦絵を発表し、何とか人気絵師としての地位に留まりました。
しかし、出る杭を打つように大首絵その物に禁令が出されます。喜多川歌麿が得意とする女性の細かな表情は大首絵の構図ではじめて描けるもの。
もはや絵を描くなと言わんばかりの禁令に、さすがの喜多川歌麿も追い込まれていくこととなります。そうした状況下で喜多川歌麿が描いたのは日本の伝説を題材としたシリーズでした。
「山姥と金太郎」(やまうばときんたろう)は、30種類以上が残されています。
しかしこれにも工夫があり、本来は年を重ねた女性である山姥を若い母親の姿としてその豊満な魅力を感じられるように描きました。一方の金太郎は子供の無邪気さを表す存在として描かれ、母親の慈愛が伝わる作品です。
その後、喜多川歌麿美人大首絵 は「教訓親の目鑑」(きょうくんおやのめかがみ)で美人大首絵の刊行に踏み切ります。
幕府により禁止されていましたが、その表題にあるように育児教訓として出版することで禁制を逃れます。当時の不良娘を描いて「このようになってはいけない」と戒めることで、幕府の質実と倹約の意識にうまく迎合してみせたのです。
続いて、喜多川歌麿と蔦屋重三郎の初めての美人大首絵「婦人相学十躰」の焼き直し「婦人相学拾躾」なども刊行しています。
さらには役者絵や吉原の1年を描いた絵本「青楼絵本年中行事」(せいろうえほんねんじゅうぎょうじ)の挿絵などを手掛けました。
工夫を重ねながら刊行を続けましたが、町娘や美人大首絵が自由に描けなくなった頃から喜多川歌麿が最盛期の勢いを失いつつあったのは事実です。
それでも喜多川歌麿は絵師として生活するために筆を執り続ける必要がありました。そのため、活動は常に庶民の要望と禁制との境目を歩む危険なものであり続けます。
この時期には歴史画も手掛けました。
1797年(寛政9年)に出版され、豊臣秀吉の生涯を迫力ある挿絵とともに伝奇的に描いた「絵本太閤記」が、たちまちベストセラーに。
この「太閤記」ブームをきっかけに、喜多川歌麿は1804年(文化元年)に、朝鮮出兵時の「加藤清正」(かとうきよまさ)が宴に興じる様子を描いた作品や「柴田勝家」(しばたかついえ)が出陣する様子を描いた武者絵を発表しました。
しかし、同じ年に描いた「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)による醍醐の花見を題材にした大判三枚続の浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)が強く咎められ、幕府により手鎖50日の処罰が下されてしまいます。
作品には「北の政所」(きたのまんどころ)や「淀殿」(よどどの)、側室に囲まれて花見酒にふける豊臣秀吉が描かれています。
幕府の主張では、この様子が当代の将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)を揶揄する意図があるとされました。しかし、喜多川歌麿にそのような意図はなく、処罰はまさに青天の霹靂。
これまで禁制との争いを繰り広げてきた美人大首絵ならまだしも、歴史画による処罰と言うこともあり、大きなショックを受けたのです。この時の摘発では、多くの人物が刑を受けています。
同じく「絵本太閤記」をテーマにした浮世絵作品を描いた「勝川春亭」(かつかわしゅんてい)、「歌川豊国」(うたがわとよくに)などの浮世絵師に加え、戯作者「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)は「化物太平記」を著述したことで、それぞれ手鎖50日の刑を受けました。
さらに各版元は、版物版木没収のうえ、罰金の支払いを命じられます。さらに規制は原典である「絵本太閤記」にも及び、その発売が禁止されるに至りました。
数々の出版統制をかいくぐってきた喜多川歌麿ですが、手鎖50日のあと、喜多川歌麿は心身共に衰弱。
年齢は50歳を過ぎており、ついに反骨精神も枯れ、かつてほど絵筆も冴えません。古典的人物や年中行事にのっとった作画が多くなり、それまでのような挑戦はなりを潜めました。
しまいには「先は長くない」とささやかれるようにもなりましたが、版元達は喜多川歌麿が病から回復する見込みがないと知ると、むしろ喜多川歌麿との最後の仕事をするために盛んに依頼したと言います。
没するまで絵筆を折ることなく、時折風刺的なテーマを含んだ「五色染六歌仙」など精力的な作品も残しました。
手鎖の刑から2年後の1806年(文化3年)、喜多川歌麿は54歳で息を引き取りました。利清信女と同じ浅草の専光寺に葬られたのです。
専光寺は昭和の始めに世田谷区北烏山に移転しており、現在は喜多川歌麿の墓もそちらに移されています。
才能が開花し始めた天明後期から寛政2年頃までの数年間、喜多川歌麿の創作活動の主軸は「狂歌」に関するものでした。
蔦屋重三郎の画策で人気狂歌師大田南畝などを含む狂歌サロンの一員となり「筆の綾丸」と言う狂歌名で狂歌を詠みつつ、狂歌絵本の挿絵で活躍。たしかに喜多川歌麿と言えば美人画に違いありません。
しかし代表作を一目観ればそんな固定観念はすぐに覆されます。特に高く評価されているのは「画本虫撰」、「百千鳥」(ももちどり)、「潮干のつと」などの狂歌絵本です。
「画本虫撰」は喜多川歌麿にとって最初のヒット作。虫の品定めを主題とした狂歌会で詠まれた狂歌と喜多川歌麿の絵が収められています。
様々な植物と虫が高い写実性で描かれていることから図鑑のようでもありますが、一方で自然の優美さを感じさせる芸術作品としても鑑賞できます。
現在はもちろん、江戸時代にも多くの人々を夢中にさせる魅力に満ちた1作です。
「百千鳥」は、鳥をテーマにした絵が収められています。鳥の羽は緻密な描線と絶妙な色使いで表現されており、観る者を圧倒させる美しさです。
一緒に描かれている木々や植物とのバランスも秀逸で、これも人々を魅了する1作と言うことができます。
「潮干のつと」は春の袖ヶ浦で開催された狂歌会から誕生した狂歌絵本です。海辺の景色や色とりどりの貝などを淡い色使いで描き、観る者の心が癒やされる絵画に仕上げています。この3作品の繊細な描線と写実性の高さは驚くべき仕上がり。
その技法面では、師・鳥山石燕の影響や「円山応挙」(まるやまおうきょ)などの写生派から刺激をうけたものとも言えます。
役者絵などを手掛けていた活動初期の頃に観られる、流行浮世絵師からの影響を脱し、繊細でなめらかな描線による独自の画風が確立したことで高い評価を得ました。
これらの作品は喜多川歌麿の代表的作品と言うだけでなく、浮世絵花鳥画の歴史の上でもとりわけ優れた物と評価されているのです。
その他に「雪月花三部作」(せつげっかさんぶさく)と呼ばれる作品も高い評価を得ています。
望月をテーマに描いた5枚の画を収録し狂歌72首を掲げる「狂月坊」(きょうげつぼう)、雪景がテーマの「銀世界」(ぎんせかい)、桜を詠んだ狂歌を94首収めた5枚の画「普賢像」(ふけんぞう)の3部作です。
狂歌絵本が出版できなくなると、喜多川歌麿は美人画に力を入れ始めました。
特に人気を決定付けたのが美人大首絵です。
役者絵などですでに知られていた大首絵ですが、美人画にこの手法を取り入れたのは彼がはじめてとされています。美人大首絵の魅力はやはりその繊細な描写。
全身像では表せなかった微妙な表情やしぐさ、顔の特徴などを細かく描くことで、表現に深みが生じました。女性の美しさにとどまらず個性や内面までを写し出し、人々を魅了したのです。
実際に喜多川歌麿作品を観れば、女性の髪の生え際や髷などの複雑な描写や、眉・目・鼻・口などの細かな描写で描かれたリアルな姿に驚かされます。
大首絵を描き始めた頃の代表的な作品としては、「婦人相学十躰」「婦女人相十品」「江戸高名美人」「当時三美人」「難波屋おきた」などが挙げられます。
「婦女人相十品」「婦人相学十躰」は喜多川歌麿最盛期の傑作のひとつとされています。女性の表情やしぐさなどを細かく描写したのが特色で、背景は描かずに雲母の粉を用いた雲母摺りで、光沢のある仕上がりです。
「婦人相学十躰」は、十躰とありますが、現在確認されている作品は5点にとどまります。
湯上りの浴衣姿の娘を描いた「浮気之相」(うわきのそう)は、ふっくらとした顔立ちや豊満さ、口が少し開いた隙のある表情など、女性のなんとも言えない色香が漂っています。
有名な「ビードロを吹く娘」は、舶来品で当時の流行していた別名ポッピンとも呼ばれるガラス製の玩具を吹く娘を描いた1枚。
身に付けている着物の市松模様も当時流行の柄で自然な表情がかわいらしく、爽やかささえ感じられます。
「江戸高名美人」「当時三美人」「難波屋おきた」は、当時沸き起こっていた水茶屋ブームに乗じて、町娘を描いた作品です。
名前入りで評判の水茶屋美人を描いたのが「江戸高名美人」。「ひら野屋おせよ」、「菊もとお半」、「吉野おぎん」、「木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑ」の4図が確認されています。
一方「当時三美人」は爆発的なヒットとなった作品です。浅草随身門脇の水茶屋難波屋おきた、江戸両国薬研堀にある煎餅屋の娘高島おひさ、吉原玉村屋抱えの芸者富本豊雛が描かれており、町娘ブームの火付け役となったと言われています。
よく観ると3人の顔は微妙に描き分けられており、それぞれの個性をも表した1枚です。
浮世絵作品が目立つ喜多川歌麿ですが、数は多くないものの大作と呼ばれる肉筆画も残しています。有名なのは「雪月花」3部作と言われる巨大な肉筆画。品川の妓楼を描いた「品川の月」(しながわのつき)、吉原遊郭を描いた「吉原の花」(よしわらのはな)、江戸・深川の料理茶屋を描いた「深川の雪」(ふかがわのゆき)です。
「深川の雪」は、約2×3.4m、「品川の月」も約1.5×3.2m、「吉原の花」も1.9×2.6mと巨大な作品。 その大きさゆえ美人大首絵の構図は取っていませんが、女性の髪型や流行の化粧などひとりひとりの容貌はやはり細かに描かれています。
身に付けている着物の美しさとその大きさも相まって、観る者を飽きさせません。
「深川の雪」は1952年に銀座松坂屋で公開されますが、その後行方が分からなくなり一時紛失状態に陥りました。しかし半世紀以上を経た2012年に再発見され話題を呼び、現在は箱根の岡田美術館に収蔵されています。
「品川の月」はアメリカのフリーア美術館、「吉原の花」はアメリカのワズワース・アセーニアム美術館がそれぞれ所蔵しています。
1793年(寛政5年)頃から、遊女を中心として女性の日常や内面を表すような作品を描くようになりました。恋に焦がれる女性の姿を描いた「歌撰恋之部」は、5枚揃いの作品です。
特徴的なのは年齢や階級・シチュエーションに富み、女性の心が表情やしぐさなどに顕著に表れている点です。頬杖をつき物思いにふける女性を描いた「物思恋」(ものおもうこい)は、商家の妻を描いています。けだるく沈んだ様子から、その心の内が観る者にひしひしと伝わってくる1枚です。
大判12枚揃の「青楼十二時」(せいろうじゅうにじ)は、 遊女達の1日の暮らしぶりを時間ごとに描いたシリーズです。
「青楼」とは吉原の遊郭を意味します。着飾った華やかな姿の他に、身支度をしている場面や休憩中の様子など遊女のプライベートなシーンも描いており、観る者の好奇心を刺激します。
大首絵ではなく全身像のため、着物の柄や着こなしなども見どころのひとつ。
一方で、町娘の1日の生活を辰ノ刻から申ノ刻まで、一刻(約2時間)ごとに描いた5図の揃物が「娘日時計」です。
特徴は、顔や首の輪郭線を用いず、版の凹凸で表現する「空摺」(からずり)の技法を使い、女性の肌のやわらかさを表現していること。
2人配置されている作品が多く、風呂上がりや朝の歯磨きなど何気ない日常の中で、女性達がおしゃべりをしながら過ごす様子が描かれています。観る者をどこかほっとさせる魅力のある作品です。
「北国五色墨」は新吉原で働く女性達を描いた揃物。このシリーズでは、遊女の美しさや外見だけでなく、内面にある哀しさなども描かれています。
「川岸」(かわぎし)は、江戸吉原で最下級格の遊女屋・小見世の遊女を描いた1枚です。だらしなく肌をさらけ出したうえにふてぶてしい表情やたくましさとともに感じされる悲哀。
それでいてどこか色っぽく、観る者をドキッとさせる魅力的な1枚です。一時は蔦屋重三郎と共に日夜遊女と交流していた喜多川歌麿にしか描けない最高傑作と言っても過言ではありません。
「口紅」(くちべに)など、女性の日常生活を取材した5図のシリーズ作品も興味をそそります。
「口紅」で描かれているのは、片足を立てて座り、漆塗りの手鏡を覗きながら紅を塗る女性です。
背景は無地で、女性の足元には無造作に置かれた紅猪口などの化粧道具。その中で、女性的な曲線とポーズが強調され眩惑的なまでの魅力を放っています。
他にも「髪結」(かみゆい)「指差し」(ゆびさし)「幌蚊帳」(ほろがや)「金魚」(きんぎょ)など一連の名作を残しました。
晩年の代表作とも言える「教訓親の目鑑」は、享和頃の作で10枚の揃物。それぞれ「こんな娘を育ててはいけない」と言う教訓めいた内容で構成されています。
しかし乱れた髪と着物のまま寝ぼけ眼でうがい茶碗を手にしている「ぐうたら」、ぐいっとグラスを傾け豪快に酒を飲んでいる女性を描いた「ばくれん」など、女性達ののびのびした様子は観ていて清々しくもなるほど。
教訓と言う体裁を取りつつも、女性に対する眼差しの暖かさが感じられる作品です。
晩年には再び浮世絵への出版統制が年々厳しくなり、女性を描くためのテーマ選びにも工夫が重なります。晩年の作としては、働く女性をテーマとした「婦人手業操鏡」「鮑取り」「女織蚕手業草」などを刊行しています。
なかでも評価が高いのが「鮑とり」です。鮑を獲る海女を描いた3枚揃の作品で、人肌や波の表現に色線を使っているのが特徴です。
海女達の半身裸像の肉感と髪が水でしなだれる様子などをリアルに描写しています。これより以前に「江之島蚫猟之図」(えのしまあわびりょうのず)が発表されていることから、この絵も江ノ島の海女をモチーフにしていると考えられます。
「江之島蚫猟之図」は海女の鮑取りを豪華な着物を着た女性達が見物する様子を描いた大判3枚揃の作品ですが、実際の江ノ島では鮑取りをするのは男性の海士の仕事であり女性はいなかったとされます。
「婦人手業拾二工」(ふじんてわざじゅうにこう)や「女職蚕手業草」(じょしょくかいこてわざぐさ)などのシリーズでは、女性達の室内労働風景を取り上げています。
当時珍しかった手工業の様子や蚕から織物に仕上げるまでなどを、教材的な要素を含めた作品として仕上げています。
喜多川歌麿は町娘や遊女の美しさや爽やかさを描きました。しかしそれにとどまらず、女性の内面や本質に迫る作品を多数残しており、その繊細な表現こそが喜多川歌麿作品の真髄と言えるのです。
喜多川歌麿の美人大首絵が好評を博したと言うことは、そのモデルとなった女性達が広く認知されたことを意味していました。
モデルは吉原の花魁に限らず、下級の遊女屋芸者など、吉原や他の場所で働く様々な女性達。
なかには、実在する女性を名前入りで描いた物もあり、遊女ではありませんが吉原玉村屋抱えの芸者・富本豊雛も名前入りで描かれています。
庶民の美人画を名前入りで描くと言う発想は、浮世絵界ですでに知られていました。
明和年間に活躍した錦絵の創始者である鈴木春信は、笠森稲荷の「鍵屋おせん」、浅草寺裏の「柳屋お藤」、二十軒茶屋の「蔦屋およし」など茶屋娘を描いた浮世絵を大ヒットさせています。
3人は「明和の3美人」として知られるようになり、町人美人画のブームを牽引しました。その頃まだ少年だった喜多川歌麿は、そうした潮流の中で町娘を描き、人気浮世絵師としての座を確実なものにしていったのです。
彼がよく描いたのが、浅草随身門脇の水茶屋「難波屋おきた」、江戸両国薬研堀にある煎餅屋の娘「高島おひさ」です。
この2人と吉原玉村屋抱えの芸者富本豊雛の「寛政の三美人」を描いた浮世絵は爆発的なヒットとなりました。画題として2人を特に好んだことは、彼女達が複数の作品に描かれていることからも分かります。
例えば難波屋おきたと高島おひさが対になるように描かれた「難波屋おきた」「高島おひさ」と言う作品では、2人の美しさを対比的に描き出しました。
おひさは右向きで団扇を顎の下に持ち理知的な顔つきをして大人びた雰囲気を漂わせています。一方、左向きで茶を運ぶおきたから感じられるのはどこかあどけない雰囲気です。
おきたやおひさは大首絵のみならず、全身像や様々なポーズの作品として描かれました。
おきたをモデルにした物では、浅草寺と枕引きをする様子を描いた「仁王とおきたの枕引き」などのユニークな作品も残されています。喜多川歌麿の浮世絵をきっかけに、江戸は明和の頃のように再び町娘ブームに沸くことになります。
1794~1795年(寛政6~7年)頃刊行の「江戸高名美人」も、評判の水茶屋美人を名前入りで描いた作品です。描かれているのは「ひら野屋おせよ」、「菊もとお半」、「吉野おぎん」、「木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑ」の4人が描かれています。
さらに1794~1795年(寛政6~7年)頃刊行の「高名美人六家撰」でも町娘を描きました。モデルは難波屋おきた、深川の芸者・「辰巳路考」(たつみろこう)、「高島屋おひさ」、吉原遊廓の遊女・「扇屋花扇」(おうぎやはなおうぎ)、「日之出屋後家」(ひのでやごけ)、「富本豊雛」の6人です。
こちらも美人大首絵で、幕府の出版統制によりモデルの女性の名前を入れることが禁止されたため、背景に判じ絵を添えて名前を表しています。
町娘を描いた浮世絵はどれもベストセラーとなり、喜多川歌麿と版元である蔦屋重三郎の人気は頂点に達しました。喜多川歌麿以外の絵師もこぞって町娘達を描くようになったと言われています。
例えば1793年(寛政5年)頃、「水茶屋百人一笑」(みずちゃやひゃくにんいっしょう)と題されたかわら版が登場しました。水茶屋の美人娘を百人一首の歌人になぞらえた物で、当時の過熱ぶりがうかがえます。
喜多川歌麿は、葛飾北斎や「歌川広重」(うたがわひろしげ)などと並び、海外でもっとも高く評価されている浮世絵師の1人でもあります。
しかし江戸時代、浮世絵はかけそば1杯ほどの価格で気軽に買える庶民の娯楽品で、肉筆画はともかく木版画は芸術品として評価されることはほぼありませんでした。
さらに明治時代になると芸術はおろか娯楽としての価値すら失われてしまいます。
一方19世紀後半のパリではジャポニズムブームが沸き起こっていました。陶磁器と共に浮世絵にも人気の火が付き、優れた浮世絵作品は次々と海外のコレクターの手に渡るようになります。
喜多川歌麿の作品もその例に漏れず、多くが国外に流出してしまいました。
喜多川歌麿作品の多くは、ロンドンの大英博物館、パリのギメ美術館、ボストン美術館など欧米の美術館や博物館に所属されています。
このことからも、日本よりも海外でその芸術的評価が高かったことが伺えます。特にボストン美術館の「スポルディング・コレクション」は希少な作品を収蔵していたことで知られます。
ボストンの大富豪、ウィリアム・スチュアートとジョン・テイラー・スポルディング兄弟が有名な建築家フランク・ロイド・ライトの協力を得て、明治末から大正にかけて収集した浮世絵のコレクションで、その収蔵数は約6,500枚にも及びます。
しかしその作品が公開されたのはつい最近のことでした。浮世絵の植物系顔料は褪色しやすいことから、スポルディング兄弟は遺言で作品を公開することを禁止していたのです。
しかし、これによってコレクションは90年近くも光を遮断した低湿度の完全な管理体制下に置かれます。結果として、世界最高品質と言われる浮世絵コレクションとなりました。
葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿、鈴木春信などの作品が鮮やかな色彩のまま残されており、中でもスポルディング・コレクションでしか観られない作品もあります。
2006年から3年近くかけてコレクションはデジタル化されました。
寄贈者の遺志を尊重しながらも、最新の技術によって作品に影響を及ぼすことなく、ついにその作品が一般公開されることとなったのです。素晴らしいコレクションの公開は美術界の大きなニュースとなりました。
スポルディング・コレクションでは、喜多川歌麿の浮世絵作品をおよそ400点所蔵。その中で注目されたのが、他の作品ではほとんど観られなかった美しい紫色が、コレクションの約3分の1の作品に残されていたことでした。
彼が紫を特別に好んでいたことは文献上で確認されていましたが、他の作品では灰色や茶色に褪せてしまっていたのです。
コレクションの公開によって紫が用いられていた箇所が判明し、退色しやすいツユクサの染料を喜多川歌麿があえて使っていたことなども判明しました。
現在でも良質な喜多川歌麿作品の多くは海外の美術館に所蔵されています。日本では観られない作品も少なくないのは残念ですが、スポルディング・コレクションの公開により、喜多川歌麿作品に触れる機会は増えることでしょう。
国際的な評価の形成に寄与した人物として、エドモン・ド・ゴンクールを欠かすことはできません。喜多川歌麿や葛飾北斎の名前をパリで広めた人物で、フランスで最も権威のある文学賞、ゴンクール賞を創設した作家でもあります。
日本美術収集家でもあったエドモン・ド・ゴンクールは、特に喜多川歌麿や葛飾北斎を高く評価し、「OUTAMARO」(ウタマロ)「HOKOUSAI」(ホクサイ)と言う評論も出版しています。
その評論などで喜多川歌麿を絶賛したことで、世界的な評価が形成されたと言っても過言ではありません。エドモン・ド・ゴンクールは、喜多川歌麿作品の優雅で官能的な遊女を描く繊細な描線や、遊女が身に着けている着物の美しさ、自然色を基調とした淡い色彩の美しさを褒め称えます。
さらに春画に至っては、「宗教的にすら見える」と高く評価。「OUTAMARO」の出版により、喜多川歌麿の名は海外で瞬く間に広がることになります。
今日でも浮世絵師として五指に入る国際知名度を誇る喜多川歌麿の名は、彼のあくなき挑戦と、女性に対する暖かい眼差し、そしてそれを芸術的に評価し価値を伝えようとした人々の貢献あってこそのものだったのです。
【国立国会図書館ウェブサイトより転載している作品】
- 鳥山石燕「百鬼夜行」
- 喜多川歌麿「潮干のつと」
- 喜多川歌麿「百千鳥」
- 喜多川歌麿「狂月坊」