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2012-12-27 21:47:57| 人氣2,063| 回應0 | 上一篇 | 下一篇

謡蹟めぐり  高野物狂5 四国88ケ所、弘法大師謡蹟

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蹟めぐり  高野物狂5 四国88ケ所、弘法大師謡蹟

護摩堂と清水

四国88ケ所を巡拝して        (平14・8記)

平成12年9月から平成13年3月にかけて、3回に分けて近畿ツーリストのバスツアーに参加し、家内とともに念願の四国88ケ所を巡拝することが出来た。
88ケ所のうちかなりのお寺については、それまでにすでに参詣しており、本稿において紹介したものもあるが、今回改めてこの時に巡拝した全部のお寺を振り返ってみた。

伝説によれば四国88ヶ所は弘仁6年(815)弘法大師42歳の時に開かれたといい、他方、大師の入定後、高弟真済がその遺跡を遍歴したのがはじまりともいう。また本稿中にも紹介したように衛門三郎が自己の非を悟って四国の霊地をめぐったのが遍路のはじまりともいわれる。いずれにしても大師入定後、大師に対する信仰は間もなく起り、平安時代の末ごろには大師ゆかりの地を巡拝することがおこなわれていたものと推察される。

四国88ヶ所の寺は全部弘法大師開基の寺なのではないかと漠然と考えていたが、調べてみると弘法大師開基の寺が41、行基開基が28、その他が19となっている。行基開基がかなりの数になっているのは意外であったが、案内書などを読んでいると、行基開基であってもその後弘法大師が修復したものも多く、直接間接に弘法大師が関与しているようである。現在88ケ所のどの寺にも本堂とともに大師堂があり、巡拝の人々も必ず双方に巡拝、読経している。その意味では88ケ所全部のお寺が弘法大師関連の謡蹟といっても過言ではない。写真も撮ってきたので、全部を掲載しようとも考えたが、あまりに頁数が多くなるので、次のものを除き割愛することとした。

衛門三郎と大師像

前述のとおり衛門三郎は大師の後を追って20回廻っても大師に逢うことが出来ず、逆に廻ればと考えて逆に廻り、ついに現在12番札所のこの焼山寺で病に倒れたが死の直前、大師に巡りあうことが出来た。大師が墓標として立てた三郎の杖が根づいたという杖杉が高くそびえ傍らには杖杉庵があるという。是非立ち寄りたいと願っていたが、団体旅行では仕方ない。杖杉庵のそばを通過した時、大きな杉、杖杉庵らしい建物、衛門の大師の像が見えたのでカメラのシャッターを切った。あまりよく写らなかったが参考までに掲げてみる。

該的植物Junpai四國88個(注14.8平)
我是能夠通過從2000年9月至2001年3月參加在觀光巴士的旅遊近畿分為3倍,88的植物Junpai電纜四國的願望與我的妻子。
漂亮的寺廟,我們已經長途跋涉至今走出辦公室88個,但有些人在本文中,我回頭看看在寺廟所有的Junpai的這個時候這個時候。

說至是開放後的禪沉思的大師,Shinzei弟子6個年來的一個42 - 年 - 老弘法大師(815)仁浩,另一方面,當沒有巡迴的廢墟,也被稱為開始植物88個月四國根據傳說。 Megu的〜台聯四國三郎衛門的荔枝意識到,作為一個非自我還介紹,在本文中,我被說成是開始的朝聖也。大師信仰大師禪沉思後,很快發生在任何情況下,周圍的平安時代的結束,土地的由香裡Junpai的大師已經做了。

我的想法究竟是不是一個寺廟的所有怪奇寺弘法大師辦事處四國88個月,28,41寺弘法大師怪奇,怪奇行基,19人是在考試的玩具。令人驚訝的怪奇行基已成為不少,並且已閱讀及小冊子,弘法大師糾正我很多東西,那麼即使怪奇行基,弘法大師參與的直接和間接它似乎是。有一個主大廳任何廟宇,Daishido的88有線電視台,現在,都必須,也Junpai Junpai人,高呼。從這個意義上說,這是毫不誇張地說,寺廟的所有88個車站和電纜相關的聖歌後弘法大師。所以,我拍了一些照片,我認為嘗試後,整個事情,所以也有很多頁,我決定忽略下列情況除外:。


大師的雕像和衛門三郎
周圍的逆向思維不能滿足約20倍大師也跟著大師,三郎衛門和上面所描述周圍另一方面,我病倒了在寺廟烤F​​udasho的第12屆現在終於他去世前不久,我能互動到大師的。有一個隱居雪松旁甘蔗甘蔗甘蔗三郎大師愣在了那裡,作為一個墓碑,巍峨。希望拜訪我們,在團體旅遊是不可避免的。我的相機快門時,通過附近的隱居大師塑像,建立一個大型的雪松雪松甘蔗,甘蔗隱居,雪松看來,由於衛門看了看。我會盡力所載參考,沒有反映非常好。

杖杉と杖杉庵 徳島県神山町 焼山寺 (平12.9) 大きな杉が杖杉、建物が杖杉庵と思われる

好像雪松甘蔗甘蔗神山,隱居寺廟的鎮雪松和雪松甘蔗甘蔗建設過大(12.9

大師と衛門像衛門三郎と大師の像 杖杉庵 (平12.9) バスの中からの撮影

また香川県多度津町の77番札所通隆寺にも衛門三郎と弘法大師の像があるのを偶然発見した。その経緯はよく分からないが写真を掲げてみる。

車內大師寺廟雕像雪松甘蔗和三郎(12.9

偶然發現的,有一個弘法大師雕像,神廟衛門三郎Fudasho77號穿鎮而過多度津香川縣我會盡量把圖片,但我不知道它的歷史

衛門三郎と弘法大師像 香川県多度津町 通隆寺 (平13.3) ここに建てられた経緯はよく分からない

慈尊院 和歌山県九度山町

今回の旅では四国88ケ所の巡拝の後、船で和歌山県に渡り高野山に参詣したが、その途中、弘法大師の母堂を祀る慈尊院に立ち寄った。丁度桜の花が美しく咲いていた。ビデオでこのお寺の概略の解説があり、さらに母の玉依御前の像を拝観することができた。境内には弘法腰掛けの石や孝行松があった。

我不知道的故事,這是建在這裡(13.3通過多度津香川弘法大師雕像衛門三郎廟城鎮

和歌山縣KudoyamaJison'in
88有線電視台Junpai四國行是一次朝聖高野山橫跨和歌山縣一路走來,停下來兌現您的母親Jison'in弘法大師櫻花盛開的只是美麗的有一個概要描述的寺廟在視頻中進一步根據的母親的視線看到的圖像的榮譽寺廟孝之Guho糞便

弘法腰掛け石 慈尊院 (平13.3)

孝行松 慈尊院 (平13.3)

弘法大師関連謡蹟 つづき (平14・8記)

平成8年1月にそれまで訪ねた大師関連の謡蹟をまとめてみたが、その後訪ねた所も上記の高知県謡蹟と四国88ヶ所の他にもいくつがあるので、順序不同で紹介する。

西新井大師、大師尊像 足立区西新井

大師がこの地を通ったところ悪疫流行しているのを見て、21日間護摩を修ぜられて悪疫を終息せしめたという。その徳を慕ってやまない人々が、大師自ら刻んだ観世音菩薩像と御大師様尊像をお祀りしたのがこの寺の起源という。現在境内に建つ弘法大師立像は、開宗千百年の記念に東京千住睦講により諸国巡錫のお姿を現したものである。

經過誦經持續的相關性弘法大師(注14.8
我試圖總結聖歌大師參觀了1996年1月至今有不少辦公室88四國誦經高知縣以上,我訪問了一些地方然後以隨機順序

足立區西新井西新井大師雕像大師
你在哪大師鼠疫疫情通過土地截至鼠疫是可以修復Homa'm了21人們嚮往的美德這並不能阻止,做了節日老闆和導師像雕像雕像Kanzeonbosatsu大師自己,這個寺廟的起源弘法大師雕像矗立院內是我們這些顯示Junshaku國家東京週年紀念開幕千手講座

西新井大師 足立区西新井 (平9.4) 大師が刻んだ観世音菩薩像などを祀ったのが起源という

弘法大師立像 西新井大師 (平9.4) 開宗1100年を記念して建立

弘法の池、護摩堂、弘法大師の清水、倶利伽羅不動尊  石川県、富山県

石川県鳥越村には弘法の池がある。弘法大師が旅の通すがら通りかかった老婆に水を所望すると、老婆ははるばる沢まで降りて、五体にしみわたるような冷たい清水を汲んできた。胸を打たれた大師が手にした錫杖で地面を一突きするとたちまち泉が沸き出したという。池の前には大師の像が安置されている。
富山県上市町には護摩堂と弘法大師の清水がある。当時付近の山野は猛獣毒蛇の巣で、人々が被害を蒙り困り果てていたが、大師がこの地に来て住民の苦しみを憐れみ、護摩を焚いて野獣の放逐を祈った。以来この地を護摩堂と称するようになったという。小さなお堂が建ち拝観させていただいたが、村人により大切に保存されている。また弘法の池と同じような物語が伝えられ、弘法大師の清水として今も清水がこんこんとして湧き出ている。
富山県小矢部市の倶利伽羅不動尊は弘法大師が諸国をめぐられる途中、この地で紫雲光明の中に不動明王のお姿をおがまれ、また、一体の不動明王像をお刻みになり奉安されたという。

建於1100年開幕,以紀念老師(9.4

Guho清水Gomado弘法大師,富山縣,石川縣Fudoson Kurikara
有一個池塘在村里Guho鳥越,石川縣所需的水,一個老婦人之旅,老婦弘法大師Sugara通過所有的方式通過沼澤已經Shimiwataru汲取新鮮四肢冰冷春季開始沸騰快速,弓步地面主教的人員大師被擊中胸部的手。大師雕像供奉前面的池塘
這裡是一個新鮮的Gomado弘法大師鄉鎮市場,富山縣野獸毒蛇的種類山野的時候周圍的人一直一個完整而蒙受損失,可惜大師來到這個地球上的居民的痛苦,他祈求的野獸燃燒奧馬被解僱我是現在被稱為Gomado這個地方至今。雖然我們已經建立了一個小寺廟承認已經被精心保留下來村民類似的故事可以告訴Guho池塘淡水泉仍然是新鮮的Concon的弘法大師
弘法大師國家方式阿卡拉淺紫色雲彩這方面的數字富山縣小矢部Fudoson Kurikara體現在增量您的圖像將被整合阿卡拉這是個錯誤。

弘法の池 石川県鳥越村 (平9.6)

護摩堂と弘法の清水 富山県上市町 (平9.6) 左の方が弘法の清水である

護摩堂内部 富山県上市町護摩堂 (平9.6) 内部もよく整理され美しく保たれている

弘法大師の清水 護摩堂 (平9.6) 今日も住民の飲料となっているという

倶利伽羅不動尊 子矢部市砺波山 (平9.6) 弘法大師が不動明王の像を刻み安置したという

立木観音 大津市南郷

大師行脚の折、当地を通ったところ、この山に光を放つ霊木があった。不思議に思って近寄ろうとすると、白い鹿が忽然として現れ、大師を脊に乗せて大河を渡り霊木の前に導き白鹿はたちまち観世音と化現し光明を放って虚空に消散した。大師はその霊木に向かい立木のまま自分の丈にあわせて、五尺三寸の聖観世音の尊像を刻み、その余材をもって毘沙門天、広目天、大師の真影を刻み、堂宇を結んで安置したという。

礪波市山城矢部Fudoson伽羅弘法大師(9.6就被供奉的圖像不動明王

立木觀音南鄉大津
折疊大師朝聖之旅,通過這裡,有一個發光Reiboku在這山上想知道嘗試的方法,白鹿消散空氣,開明的菩薩迅速引起質疑Reiboku白鹿突然出現交叉偉大的提上了脊髓大師根據Reiboku休假的樹木雕佛像菩薩的雄辯規模5肖像毗沙門天Komokuten材料主人,據說他已經簽署了體現的長度大師

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立木観音 大津市南郷 (平13.11) 弘法大師が霊木に聖観世音を刻んだのが起源

白鹿と大師像 立木観音 (平13.11) 白鹿の脊に乗り霊木に向かう大師

須磨寺の弘法岩五鈷水、東山寺  兵庫県

神戸市の須磨寺の境内に平成12年「弘法岩五鈷水」という手水処が設置された。傍らの説明によると、平成12年初頭、この場所に手水処(手や口のお清めの場所)を建立することを計画した。そして弘法大師御宝前で祈ること21日、清浄で豊富な水が山内で湧出することが判り、その水をお大師さんにちなんで「五鈷水」と名付け、大きな五鈷を石の台座に置いた手水処にすることにした。ところがある雨の朝、手水処建立の予定地に立っていると、山のような僧形がぼんやりと浮かんできた。これは五鈷を持つのはお大師様だという思いが浮かび、その浮かんできた姿を描き、そのような石を求めて四国各県を訪ね歩いた。そしてまた祈ること14日、若き日の大師様もご修行なされた四国の霊峰石槌山の麓より、人の手の一切入っていない高さ2メートル、重さ約13トンの大岩が見付かった。一目見てこの大岩こそあの雨の朝に浮かんだ僧形でありお大師さんであると確信し「弘法岩」と称して当山にお迎えしたとのこと。
そう言われて見ると僧の形に見えてくるから不思議である。
兵庫県淡路島一宮町の東山寺も弘法大師開基の寺といわれ、本尊千手観音像は大師の作と伝えられる。

大師脊柱Reiboku大師雕像觀音白色的鹿(13.11

鈷水Guho5岩石Sumadera兵庫縣Higashiyamatera
Chozu過程被稱為“五鈷水Guho岩石”是成立於2000年神戶Sumadera範圍根據側面的描述我正打算建(清洗手和嘴的位置)治療Chozu2000年初,在這個位置 21祈禱Gohozen弘法大師,豐富的是乾淨的滲入山內溥發現,名為“五鈷水後,我們的聖大師的水,該基地的石頭大五我決定過程Chozu一個下雨的早晨站在地面上建設進程Chozu祭司的服裝如山浮現在腦海中計劃依稀想到的是,有一個五大師像我們這樣的浮動得出一個數字,我想到了,所以一邊走一邊參觀四國道府縣尋找這樣石頭 14天的祈禱四國Ishizuchiyama神聖的山腳下的培訓大師年輕人也很喜歡大岩兩米左右的身高和體重,不包括任何人的手,他發現13噸這是歡迎富山簡稱岩石Guho相信我們一個下雨的早晨,在彈出佛教高僧先生大師什麼一見鍾情大岩
我是一個神秘的,因為我們看到一個和尚的形狀據說是這樣
弘法大師說是怪奇的寺廟Higashiyamatera一宮市,兵庫縣淡路島多臂佛像是工作主人告訴

弘法岩五鈷水(遠景) 須磨市 須磨寺 (平12.9)

弘法岩五鈷水(近景) 須磨寺 (平12.9)

東山寺 兵庫県淡路島一宮町 (平12.9) 弘法大師開基の寺

明王院 福山市草戸

福山市の明王院も弘法大師開基と伝えられる美しい寺である。

明王院 福山市草戸 (平11.9) 弘法大師開基の寺

明王院五重の塔 明王院 (平11.9) 美しい五重の塔もある

宮島弥山、大聖院  広島県宮島町

日本三景の一、天下の名勝、安芸の宮島の中心をなす霊峰弥山(みせん)は弘法大師の開創になり、その山容が唐の須弥山(すみせん)に似ていることから弥山と命名され、自ら一百日間の求聞持の秘法を修せられた所という。
大聖院の境内は広く、勅願堂、大師堂、観音堂などの堂塔が建ち並び庭園もまた素晴らしい。弥山の頂上付近には消えずの火や求聞持堂があるという。ここから弥山の頂上までの通もあるようだが、とても歩けそうもないので、紅葉谷駅からロープウエイに乗り獅子岩駅で降りる。そこからでも頂上までは急な坂道が1キロほどあるというが覚悟を決めて歩く。少し歩くと求聞持堂がある。弘法大師が求聞持の秘法を修した所と伝える。傍らに錫杖の梅がある由だが見逃してしまった。更に進むと不消霊火堂(きえずのれいかどう)がある。大師修行の護摩の火が1190余年、昼夜燃え続けているとのこと。閼伽井堂は修行に用いた水の出たところである。文殊堂、観音堂、三鬼堂等を経て漸く頂上にたどり着く。頂上からの景観は壮観雄大で言葉に言い尽くせない。かっては海軍兵学校の生徒は必ずこの弥山まで登ったと聞いたことがある。永年の夢を一つ果たしたようで誠に壮快である。

此外,還有一個美麗的五重塔(11.9

宮島,廣島縣宮島Daishoin
Misen弘法大師Misen神聖的形成中心1風景秀麗的的世界宮島亞希的3風景最優美的景點在日本回縮命名為MisenSan'yo須彌(非實時 這是秘密,238-87 Osamusuru問自己,百天
Daishoin區是大,一個大花園道東帝國的祈禱大廳Daishido並襯以觀音是一個火堂,問聞持消失頂部附近Misen似乎有傳遞頂部Misen從這裡開始,因為它是不太可能可以走下車,在車站Shishiiwa坐索道紅葉決定步行到頂部分辨率說,有一公里左右即使從那裡陡峭僅幾步之遙堂聞持要求告訴其中弘法大師的秘訣是聞持Osamusuru要求我錯過了,旁邊的主教工作人員是有原因的如果我們進一步非零星期二精神(不管是不會消失的REI)超過1190,射擊訓練芝麻大師是說,白天和黑夜將保持燃燒閼伽大廳很好的水用於訓練。通過觀音,文殊殿,三木最後到達山頂從山頂沒有的話巍峨壯觀Itsukusu你聽說過海軍官校學生自私攀升Misen始終似乎也起到提神確實是一個長久以來的夢想

大聖院 広島県宮島町 (平11.9) 弘法開基の寺

求聞持堂 広島県宮島町弥山 (平11.9) 弘法大師修行の場所

不消霊火堂 弥山 (平11.9) 大師修行の時より燃え続けているという

閼伽井堂 弥山 (へい11.9) 修行に用いた水の出たところ

神門寺、影向石(いろは石) 出雲市下塩冶町

出雲市下塩冶町の神門(かんど)寺には、弘法大師がここで「いろは歌」を作った所といわれ、境内には影向石(いろは石)がある。このことからこの寺は「いろは寺」とも呼ばれている。また、南北朝の頃出雲の国主であった塩冶判官高貞公の墓がある。

在我的家鄉在訓練中所用的水閼伽Misen(11.9圍欄

天皇餘吳恩雅出雲鎮下(石ABCS
弘法大師被說成是Irohauta”在這裡,在寺廟中(例如罐)日本天皇恩雅出雲下面專用餘吳ABCS這個寺廟也被稱為“廟伊呂波此外,還有一個嚴重的公共KoSada判斷恩雅出雲Kokushu南北朝的時候

神門(かんど)寺 出雲市下塩冶町 (平9.9) 弘法大師はここでいろは歌を作ったという



0122-25.jpg




向石(いろは石) 神門寺 (平9.9) 何か刻まれているようだが読み取れない

但不能的東西(9.9天皇石廟ABCS

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〈檀施文庫1999〉

《弘法大師--空海》.附錄.

【《弘法大師形狀繪詞》介紹】


◎林景淵

平安末期(十二世紀後半),日本開始流行由不同場景所構成、內容為歷
史或傳說的「繪卷」;在這樣的風氣之下,佛教界的高僧大德當然也是取
材的重要對象。



相關史料概說

弘法大師空海是日本歷史上最傑出的人物之一。他在日本人心目中的地位
絕對不僅局限在佛教界,在精神文明、文化乃至實務的貢獻上,空海的地
位都相當崇高。這一點,以本書所附的湯川秀樹博士之說明最為透徹。

因此,空海圓寂以後,日皇(醍醐天皇)頒賜「弘法大師」的封號;京都
「東寺」律師觀賢(權少僧都,西元八五三~九二五年)繪製「大師遺身
之真影」(空海畫像)供奉;而信徒之中如「右大臣」九條兼實,更用「
紺紙金泥」(藍底金字)親自抄寫《大樂金剛不空真實三摩耶經‧般若波
羅蜜多理趣品》經文獻入「金剛峰寺」,以紀念弘法大師。

平安末期(十二世紀後半),日本開始流行「繪卷」(註一),如《源氏
物語繪卷》、《吉備大臣入唐繪卷》、《信貴山緣起》」、《北野天神緣
起》等具有代表性的「繪卷」均在這一時期產生。在這樣的風氣之下,佛
教界的高僧大德當然也是取材的重要對象。

從史料上知悉,歷史上曾經存在十卷本和十二卷本兩種《弘法大師繪》:

一、在「伏見宮‧貞成親王」(西元一三七二~一四五六年)的日記《看
聞御記》中提到,(一四三三年)六月十二日《拜見弘法大師繪十卷》。

二、在「權大納言‧三條西實隆」(西元一四五五年~一五三七年)的日
記《實隆公記》中提到,(一五○五年)六月十七日「奉召進入大內入江
殿,奉讀《弘法大師繪十二卷》。」可惜十卷、十二卷的兩種「繪卷」目
前並沒有流傳下來。

現在高野山「地藏院」藏有一種「高野大師形狀圖畫」(重要文化財)六
卷,是鐮倉時代(十四世紀)所繪製的,傳說作者是巨勢有康。但第一卷
遺失,由狩野養信的門人重新模仿補入。


繪製經過及內容根據

本書內附之部分《弘法大師形狀繪詞》(註二)圖片(全十二卷),是日
本政府指定的「重要文化財」,現藏於京都之「東寺」(註三)。其繪製
經過、作者姓名、完成時間及花費的金錢等,在現存的另一項珍貴史料《
大師御繪日記》裏記載得十分清楚。日本傳世的「繪卷」之中,另附一冊
記載史料以供參考的,除此之外幾乎絕無僅有。

根據這一項史料所記載,《弘法大師形狀繪詞》自應安七年(明太祖洪武
七年,西元一三七四年)開始繪製,康應元年(明太祖洪武二十二年,西
元一三八九年)完成,共花費了十六年光陰,由六名「繪師」(畫家)、
十名「詞筆者」(撰述及書寫文字者)共同完成這一項艱鉅的文化工程。

另外一個問題是:「繪師」大致是依照「詞筆師」所擬文字內容繪製的,
而「詞筆師」又是根據那些史料來編撰的呢?目前可以掌握的可靠史料有
以下這些:

(一)〈金剛峰寺建立修行緣起〉,《群書類從》卷八一七。完成於康保
   五年(西元九六八年)。
(二)〈弘法大師御遺告〉。
(三)《空海僧都傳》,空海之弟子真濟撰,作於承和二年(西元八三五
   年)。
(四)《大僧都空海傳》,收入「續‧日本後紀」,貞觀十一年(西元八
   六九年)作。
(五)《贈大僧正空海和上傳記》,貞觀寺座主編,寬平七年(西元八九
   五年)作。
(六)〈弘法大師〉,《續群書類從》卷一九三,原收入《本朝神仙傳》
   ,作者大江匡房(西元一○四一~一一一一年)。

也就是說,「詞筆師」大約是參考了以上數種史料撰寫成文字部分,「繪
師」再進一步構思繪成圖畫。


「繪師」和「詞筆師」

根據《大師御繪日記》裏的詳細記載(工作情形、日數、酬勞、招待情形
等)可以知道參與的「繪師」有六人:

大藏少輔行忠——宮廷「繪所」所屬畫師
采女正某——同右
中務少輔久行——宮廷畫師
大進法眼——一般畫師
定阿彌——一般畫師
祐高法眼——「興福寺」畫師

另外,根據《弘法大師形狀繪詞》的「筆者目錄」所載,各卷負責的「詞
筆師」名單如下:

卷一:「大覺寺二品」深守親王——曾任大覺寺住持。
卷二:「前中納言」一條公勝
卷三:「中將」六條有孝——「權中納言」六條有光之子
卷四:「內大臣」三條公忠
卷五:同第四卷
卷六:「中納言」二條為重
卷七:「准大臣」四什善成——出家後法名常勝
卷八:「成就院大僧正」杲守——太政大臣洞院公賢之子
卷九:「靈山僧正」實嚴——洞院公賢之後人
卷十:明燈——曾任「大炊御門」
卷十一:「青蓮院無品」道圓親王
卷十二:同第十一卷

前文中提到,目前高野山「地藏院」收藏有另一種「繪卷」(《高野大師
形狀圖畫》,六卷);但以內容和繪畫的水準而言,「東寺」的這一卷《
弘法大師形狀繪詞》應說是此較具有代表性的。




一:「繪卷」與我國卷軸之「畫卷」大致相同。所不同的是,日本的「繪
卷」大抵由片段畫面構成(有如現代的「漫畫」),而我國的「畫卷」則
從頭至尾是同一情景(如「清明上河圖」)。

二:「繪詞」的「繪」指圖畫,「詞」指文字、文辭。本書未收入文字部
分。

三:「東寺」是日本平安時代建立之官立佛寺。日皇頒賜給空海之後改名
「教王護國寺」,成為真言密宗之根本道場。

http://taipei.tzuchi.org.tw/publish/book/88b4/paper19.htm

 

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弘法大師

御誕生

真魚(まお)在,寶龜五年(774年)六月十五日,讚岐國的屏風浦(香川縣善通寺市)誕生。讃岐的郡司家系中誕生,父親是佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ),母親是玉依御前(たまよりごぜん)といいます。

 

其家中信仰心深厚。在某一天,其父親和母親夢見天竺的僧人乘著紫色的雲,入母胎中,在這時真魚也誕生了。

 

真魚也就是日後的空海上人(くうかいしょうにん)、弘法大師。

真言宗在六月十五日這天稱為「青葉祭」,慶祝大師的誕生。

 

捨身誓願

幼年時期的真魚的娛樂是,用土做佛像,收集草木做成殿堂,對佛像朝拜。在七歲時,登上附近的捨身嶽(しゃしんがだけ)並向佛祈請「在我長大後,我要解救世間受苦的眾生,如果我有這如此能力,請賜與我如此之生命」,便朝谷底跳下,就在這時,天空中出現美妙的音樂及天女,平穩的接住真魚。

 

至於真魚因此更加努力學習。

 

都中的學習

喜歡拜佛的真魚,也能平靜的學習。十四歲時在讚岐學習完後。十五歲時到首都(長岡),在叔父儒學者阿刀大足(あとのおおたり)學習文章,十八歲時進入了大學。

 

但是,大學的學習是以儒學為中心,是以成功為目的,因不是對救渡世人而感到煩惱,因此逐漸對於佛教感到興趣,因此前往奈良的石淵寺拜訪勤操大徳,聽聞了故事,了解了珍貴的佛法。

 

御出家

 

為了世界,將自身奉獻與眾生,真魚開始佛法的修行,馬上離開大學,到大峯山(おおみねさん)和阿波(徳島縣) 大瀧嶽(たいりゅうがだけ),或是土佐(高知縣)的室戸崎(むろとのさき)的靈所繼續的修行。

 

並且排除所有親戚的反對,決心去出家,二十歲時,在和泉國(大阪府)槙尾山寺(まきのおさんじ)拜勤操大徳為師剃髮得度,法名教海(きょうかい)。

 

 

大日經的感得

 

二十二歲時,用名是空海改變了大師,當時的名僧高僧,聽聞了佛的教導,都無法滿足。在奈良東大寺大佛殿,向佛祈禱「請對空海作最高的教導」。

 

於是,在滿願的二十一日時看見「大和高市郡(やまとたけちのごおり)的久米寺東塔之中,有汝所求之最高教法,在夢醒後前往,發現了大日經。但讀過卻不能十分理解其中涵義。這是需要有人來教授的,但當時日本卻一個人也沒有。

 

這開啟了大師入唐(中國)學法的決心。

 

入唐求法

 

大師聽聞了大唐(中國)的名僧事蹟,在延暦二十三年(804年)三十一歲的七月六日,留學僧何遣唐使一行共同前往,肥前(長崎縣)松浦郡田浦(たのうら),揚帆前往了大唐。天台宗的開山祖師最澄(さいちょう)也在這時準備渡海前往。

 

和今日不同船也小,在八月十日遇上了暴風雨,在九死一生中漂流到福州赤岸鎮,

大使便開始書寫公文,表明遣唐使一行人已抵達,希望獲得上陸許可。在那時大師代替了使者寫了公文交給了福州的地方官。官員在讀完文章後感到吃驚並說「此人不是普通人」並獲得上陸許可。

 

師事恵果和尚

 

大師進入首都長安,為了見惠果和尚到了青龍寺東塔院。

惠果和尚是正統真言密教的付法第七祖,在大唐是無能向右的名僧。

惠果和尚和大師見面時即說「我知道汝將來,我已經等很久了」並感到非常歡喜,並立即進入灌頂壇。

 

大師在延暦二十四年(805年)六、七、八月核三回的受法灌頂,授與遍照金剛

(へんじょうこんごう)的法號,真言密教的第八祖就此出現。

 

惠果和尚留下給大師的遺言,「真言密教的教法,以傳授完畢,早日回到日本將真言密法廣傳」,同年十二月十五日,在眾多弟子圍繞中圓寂了。

 

五筆和尚的稱號

 

為了紀念圓寂了惠果和尚的生涯而建碑,弟子四千人中,只有大師特別獲選,來撰寫碑文,這件事在大唐全國流傳,也傳到了皇帝的耳裡,大師被任命如以前王羲之在在宮殿的牆壁之上書寫,大師用了五支筆分別為雙手、雙腳及口,一口氣寫了五行之書寫於牆上,皇帝在見到後深感佩服,便賜與大師五筆和尚的稱號。

 

御歸朝和飛行的三鈷

 

從惠果和尚獲得了真言密教的教法的大師,大同元年(806年)八月,明州準備要返回日本。

大師站立在明州的海邊作了祈請「請先回國,為我示現能夠宏揚教法的土地」,便將手中的「三鈷杵」拋向空中。

 

三鈷杵在五色的雲中飛向了日本。

 

這個三鈷杵就落在,高野山御影堂(みえどう)前的松樹上,這就是三鈷之松的由來,這個三鈷杵也被稱為「飛行的三鈷」。

 

立教開宗

 

真言密教的教法在日本國中廣傳,大師在明州乘船,途中幾度遭遇風浪,在船要沉時之際,右手結不動明王劍印,左手結索印,口誦真言,度過了波浪,大同元年(806年)十月,平安的回到九州的博多。

 

歸朝的一起問候時,大師向天皇陛下呈上表文,「真言密教在日本全國廣宏,請賜與許可」。大同四年(809年),大師前往首都,翌年弘仁元年(810年),時天皇為嵯峨天皇,真言宗開宗獲得許可。

 

神泉苑乞雨

天長元年(824年)二月,日本欲上乾旱,穀物收成不良,山中草木乾枯,農民勿論,人民皆痛苦,在此時,淳和天皇下詔與大師和弟子八人,在宮中的神泉苑進行祈雨,於是善女龍王(ぜんにょりゅうおう)示現,起初萬里無雲的天空,忽然烏雲密布,降下了三日三夜的甘霖,生物復甦,草木回春,眾人歡喜,讚嘆大師之德,其法力不可思義。

 

般若心經講義

弘仁九年(818年)春,日本國中惡疾流行,老人及小孩皆染病,病情在全國各地蔓延,全國壟罩在憂愁之中。

 

時嵯峨天皇也十分憂心,便在宮中召見大師,命大師進行祈禱。為了拯救人們,天皇用金粉書寫般若心經一巻供於佛前,命大師對心經作講解。

 

一心祈禱,疫病終於解除,病人也皆恢復,大師的御德也達到最高。

當時的講義及現在有名的「般若心經秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」。

 

八宗論、大日如来示現

弘仁四年(813年)正月,嵯峨天皇首次將大師及佛教各宗高僧召見入宮,對佛法釋疑。

當時的奈良佛教主張「長久的修行才能成佛」,但大師主張「即身成佛」。

 

奈良的高僧不採信即身成佛之說法,大師手結密印,口誦真言,心持佛慢,於是身體開始發出五色之光,頂上出現五智寶冠,端坐金色蓮臺上現出大日如來之像。

 

高僧開始對大師膜拜,天皇對大師的信心更加深厚。

 

綜藝種智院和伊呂波歌

在大師的時代時,只有貴族有資格入學,一般人是沒有資格進入學校學習。大師認為任何人都可以讀書,、天長五年(828年)十二月在京都開創綜藝種智院學校,當時在學校學習的文字,小孩是以漢字為主,但在讀寫卻有困難,大師便採用,小孩們所熟悉的文法,和四十八文字的仮名來教導世尊的四句偈(しくのげ),有名的「いろは歌」 (伊呂波歌),便是大師長時間的教導精髓。

 

四國八十八靈所的開創

大師年輕時在阿波(徳島縣)的大瀧嶽,土佐(高知縣)室戸崎修行,因為這個因緣在四十二歲時阿波、土佐、伊予(愛媛縣)、讃岐(香川縣)的四國作了遍歷,各地的各種奇蹟,靈驗跡象的殘留,寺院殿堂的建立,四國八十八靈所就此開創。

 

大師同行二人(どうぎょうににん)之誓願體行,御遺跡的參訪,每年四國參拜的人將近十萬人,正被煩惱所困惑的人因此而獲得解脫。

 

満濃之池完成之事

讃岐國(香川縣)得周圍有著16公里長的蓄水池,在降雨稀少的讃岐,在研究後有必要興建大型的蓄水池,國內的官吏、技師雇用了數千人鏡行了數次的改建,但只要稍微降雨,及大風來襲便會潰堤,讓農民都非常苦惱。

 

弘仁十二年(821年)天皇對太政官符(だじょうかんぷ)下命,請土木技術優秀的大師擔任整建的負責人,大師抵達讃岐就任,因大師的恩德讓改建的工程更加的迅速,僅僅三個月便將艱難的工程完成,大風雨也未將其破壞。

 

這個地方因大師之恩德感到歡喜。

 

東寺御下賜

大師從大同四年(809年)年開始在高雄山寺(たかおさんじ)長住,弘揚真言密教。

但是,高雄山寺有諸多不便,接著,地方也開始便的狹窄。

 

大師在弘仁十四年(823年)正月,嵯峨天皇將京都的東寺賜與大師。大師感念御賜之恩,將東寺命名為「教王護國寺(きょうおうごこくじ)」,為皇室之安泰作祈願,接著為真言密教的弘通作努力。

 

應天門之額

有時,宮中諸門的門額提字也被命令出去。

 

大師書寫「應天門」完畢後,將門額舉起,當門額掛上由下往上看時,「應」字的第一點脫落了,現在取下門額是不得了的事,爬上去重寫也是非常困難。

 

但是大師卻完全不驚慌,將沾了墨的筆投向「應」得第一點剛好命中,因為剛好射中一點,眾人對大師得神技感到佩服。

 

「弘法も筆のあやまり」(金無足赤,人無完人)的諺語開始流傳。無論如何,無人認為大師忘記應字的一點,「弘法不選筆」是有目共睹的,對於大師諸多優秀技能,書藝也是其中一項。

 

 

御修法

大師為了天皇陛下的健康,國名的幸福,世界的和平,作了祈願。

 

這件事永遠流傳於後世,正月八日開始七日間,起修御修法和御祈禱會,結願之日,大師親自對天皇陛下的玉體,灑加持香水。

 

這項殊勝的法會從承和二年(835年)正月開始至大師御入定(ごにゅうじょう)後,每年不斷的進行。

 

高野山御開創(1)

大師為了尋找真言密教根本道場,尋求適當的場所,在各地巡錫(じゅんしゃく)。

 

有一天在大和國(奈良縣)宇智郡(五條付近),遇見了獵人及黑白二犬,獵人詢問「將要去哪裡」。大師回答「我正在尋找興建伽藍的場所」。於是獵人便說「南面的紀州(和歌山縣)的山中,有您所要尋找的地方,就讓這條狗帶您去」,獵人便消失不見了。

 

這位獵人便是今日高野山所祭祀的狩場明神(かりばみょうじん)。

 

高野山御開創(2)

 

大師在黑白二犬的帶領下登上高野山,在途中見到了丹生明神(にゅうみょうじん)的神社。

於是,明神便示現,出來迎接大師,向大師稟報「今日菩薩蒞臨此山,我等全體深感榮幸。南至南海、北至紀之川、西至應神山之谷、東至大和國(奈良縣),全境土地永久奉獻於您」。

 

大師因感念,丹生明神及狩場明神的護持,將二柱之神奉為高野山之地主神並加以祭祀。今日伽藍中的御社即是。

 

高野山御開創(3)

 

 

大師登上高野山後發現,「有不背山之廣大草原,周圍的山如蓮花包圍,這裡是廣弘真言密教之地」,心中非常歡喜。

 

而且,大師從唐國(中國)學成將歸國前在明州的海邊,所擲出的三鈷杵,在高野山的松樹上發現。

 

這塊土地正是大師所要尋找的,立刻認定為真言密教的根本道場。弘仁七年(816年)向朝廷上表,嵯峨天皇賜與許可,眾多的弟子和職人共同,伐木、開拓山林、堂塔的興建,伽藍就此建立。

 

御遺告

 

大師在真言密教之根本道場高野山奠定後,約二十年間的苦心,以高野山為中心,在全國廣弘教法,上至天皇、男女老少的受苦之人、煩惱之人,皆施予救贖之法益。

 

大師在進入不被肉身束縛,而獲得永生之永遠金剛定(こんごうじょう),在未來救渡一切迷惑之人、及苦惱之人,而考慮進入御入定,承和元年(834年),眾多弟子將大師御諭集結。

御入定

 

大師在六十二歲的承和二年(835年)三月二十一日,寅時決定御入定。御入定的一週前開始御住房中院(ごじゅうぼうちゅういん)的一室之潔淨,斷絕一切糧食,身體用香水洗淨結跏趺坐,手節大日如來之定印,持彌勒菩薩之三昧中入定。

 

御入定起後五十日,弟子遵循大師矚咐將御定身納入奧之院靈窟之中。

 

大師在天長九年(832年)萬燈會之願文「虛空終盡,眾生終盡,涅盤終盡,我願無窮」被記錄下來。

諡號奉賛

 

大師在御入定起的八十三年後之延期十八年(918年),寬平法皇向醍醐天皇提出「大師寶號之賜與」,觀賢僧正亦上表,但卻無獲得賜許。

 

延喜二十一年(921年)十月二十一日之夜,天皇在夢中見到立姿的大師說「我的衣服已經損壞,請宸恵賜與我新的衣服」。

 

就在賜與檜皮色御衣的同時亦賜與「弘法大師」之諡號。十月二十七日,勅使少納言平維助卿,登上山於御廟前,執行詔勅奉告。

御衣替

 

觀賢僧正在,「弘法大師」之諡號賜與,天皇御賜御衣奉納,登上高野山。接著在御廟前跪禮,弟子淳祐手捧御衣,御廟之門開啟,大師御姿卻從未拜見過。

 

觀賢僧正在為自身之無德感到嘆息,一心作祈請。就在此時,日出霧散,大師御姿顯現,能夠更換御衣。

 

從此以後,在每年三月二十一日,便會舉行御衣替之儀式。

http://twmrki.org/new_page_10.htm

北投.丹鳳山.軍艦岩.弘------------------------------------------------法大師紀念碑

Tony的自然人文旅記  

圖:弘法大師紀念碑所在的巨岩處

大約一年半以前,山友蕭郎兄在北投丹鳳山的某處林間拍到日據時代的弘法 大師紀念碑註1, 石碑上出現的日文刻字,曾引起山友的討論。我當時曾將這些討論資料保存著, 以待日後探訪之用。

幾天前,我讀到山友Daniel兄新發表的 旅記註2,拍出 弘法大師紀念碑的全景照片,映象令人震撼,而旅記中也提及唭哩岸山、奇岩山之 間的山路開滿了綿延一公里的蟛蜞菊花海,景色類似於「八通關古道」觀高工作站附 近的法國菊。這樣的訊息就叫人更加嚮往了。於是,決定趁著這個季節,來一趟丹 鳳山之旅,尋訪古蹟,兼看花海。

今天中午過後,搭捷運淡水線至北投站。出捷運站,向右行,再左轉大興街。沿著大 興街直行,不久,遠遠望見前方山頭樹叢突出一塊巨岩,刻著醒目的「丹鳳」兩字 ,就是丹鳳山了。走至大興街、公館路交會口的「福安宮」時,我沒注意到步道位於 廟裡面的左側,卻一路直行至大興街底的鐵路局員工訓練中心。幸好那裡也有小路可 上山,誤打誤撞,穿過民宅,來到上方的奇岩路,然後再向右行,繞個彎,順利找到 丹鳳山的登山口。

圖:章嘉活佛舍利塔

登山口有一石砌高牆,上面的刻字已被塗掉,原來這裡是陸軍一級上將陳濟棠先 生的墓園,不過墓已遷移,原有的墓園設施都已荒廢。

拾階而上,只見墓園頹柱殘亭棄置散落荒草中,其中有一塊直立的石碑是黨國元老、書法名家于右任所書 的墓誌,碑文草書飛舞,頗具藝術美。可惜,碑石被人塗鴉。

過墓區後,有一小段上坡行的林間泥土路,隨即變為水泥步道。不久 ,路右側出現有一排仿綠竹的水泥欄柵,其內有一墓園,是「中和禪寺」開山住持 的墳墓。山友斌斌兄的旅記曾提及,由水泥柵欄的缺口小洞鑽進,過墓園,可通往 中和禪寺後山的章嘉活佛舍利塔註3。 這座舍利塔剛於今年被台北市文化局指定為歷史建物。

於是我由缺口鑽進園內前往一探,約三分鐘,來到了章嘉活佛舍利塔。這時剛好有位信徒正繞著舍利塔, 虔誠默唸經文。我只好遠遠觀看,以避免打擾他的修行。章嘉活佛舍利塔,圓頂尖塔, 造型類似於我在福隆靈鷲山所 見的各式寶塔,充滿密宗色彩。

我對章嘉活佛認識有限,據資料記載,章嘉與達賴、班禪、 哲布尊丹巴並稱為藏傳佛教的四大活佛,都是以投胎轉世方式,代代相傳。這座舍利塔供奉的 是第十九世的章嘉活佛,其生於光緒十六年(1890年),民國三十八年(1949年)來台,民國四 十六年(1957年)圓寂。

舍利塔下方有一「奇巖洞」,此洞建於民國四十年(1951年),曾是章嘉活佛修行之處。更下方就是中和禪寺的後院, 廟的一隅仍可看見古樸的舊石磚牆。中和禪寺,建立於日據時代,屬於日本曹洞宗。我進禪寺,匆匆頂禮後,即循 原路退回丹鳳山步道,繼續前進。

圖:丹鳳岩

上行,約五分鐘,抵達丹鳳岩。這裡豎立了警告牌,提醒遊客勿靠近丹鳳岩。警告牌旁有一個三角點基石。 從草叢穿過,隨即就看見丹鳳岩就位於懸崖邊,已被水泥及鋼索固定住,以防止巨岩崩落,這模樣有點像被 五花大綁的感覺。

丹鳳山,因丹鳳岩而得名。日據時代,這座山曾遍植松樹,被稱為「松葉山」,又因紀念弘法大師,所以又稱 「大師山」。至於「丹鳳」之名,有傳聞說是陳濟棠將軍某個姨太太的名字。這項傳聞是否屬實?我並未找到明確的佐證。 若真如傳聞所言,則有兩個不妥。一是以寵妾為名,則置正妻於何地?二是當年時局艱危,「共匪」未滅,河山未復, 在巨岩刻上「丹鳳」,豈見將軍本色?不如寫「丹心」。

從丹鳳岩前行,山路平緩好走。周遭則林木稀疏,有不少不毛之地,原來昔日丹鳳山曾發生火 燒山,目前正進行植物復育。此地已不見當年松葉林景。前行約五分鐘,在步道標誌約2300M附近, 左側有一條小徑,可通往弘海大師石碑。路口沒有任何指標,兩旁則有繩索圍繞著貧瘠的復育地。 繩索懸掛著「護育區域,請勿踏入」的牌子。轉入小徑,通過小段芒萁路,約一分鐘,鑽進林中, 驀然出現兩、三塊矗立的巨岩,弘法大師紀念碑就位於巨岩區的入口處。

圖:弘法大師紀念碑前的駁坎及石階參道

紀念碑上寫著娟秀的漢字及日文草書,根據山友刺鳥兄所提供的翻譯,這是一首和歌(短歌),字意如下:

遠望只見鄉里的草木和花,
大師之山光輝閃耀。

立碑者為「台北茶榮講」,可能是當時日本某個宗教團體。附近有不少刻著捐獻者姓名的石柱, 都是日本人姓名。

紀念碑附近的巨岩壁有一鑿出的方型神龕。其下方有一長方形壁碑,開頭 主文被塗掉幾個字,其後有兩列捐獻者芳名,都是日本人,也是屬於「台北茶榮講」。從被 塗抹的殘跡判斷,這座神龕的立碑年代可能是明治四十三年(1910年),原本應是供奉弘法大師。

弘法大師就是知名的空海和尚,他曾於西元九世紀初前往當時中國的唐朝取經,後來發明片假 名文字,對於日本宗教及文化具有深遠影響。空海和尚圓寂後,日本天皇為表彰其貢獻,尊其為 「弘法大師」。

這個巨岩的背面,有另一塊巨岩,上面也鑿出一座神龕,供奉不動明王,其下方有捐獻者立碑, 年代為大正十五年(1926年),附近有洗石子的石欄杆。

百年前的日本人,在這巨岩嶙峋的林間,用石塊堆砌駁坎,整理出上下兩層的平臺,在巨岩壁面鑿出 神龕,以祀奉弘法大師及不動明王。駁坎經歷歲月風霜,依舊堅固。上下平臺之間的石階完好如昔。 石階旁兩塊刻著「奉獻」的石柱,一佇立,一傾倒。石階之下,有一條山徑通往新北投,大約十分鐘路程可抵達溫泉 路的熱海大飯店對面。這條山徑應是昔日信眾上山時所走的參道。如今則已雜草叢生,少有人走。 弘法大師紀念碑被遺忘於山林裡。最近文化局指定章嘉活佛舍利塔為歷史建物,當時也有文史人士呼籲, 應該也將弘法大師紀念碑同列為歷史建物,但意見並未得到採納。

弘法大師紀念碑是否應列入古蹟?答案或許見仁見智。百年前日本人來此經營,將新北投發展成為全台知 名的溫泉鄉,今天的新北投擁有不少反映當年 歷史的古蹟,例如溫泉博物館、 普濟寺、不動明王寺、台灣民俗北投文物館 以及台銀所屬的日式舊宿舍等,倘若北投區公所或文化部門能重修這條從溫泉路通往弘法大師紀念碑 的參道,則將是一條深具日式懷舊氣氛的古道,可為新北投再添一歷史勝景。

圖:照明寺(情人廟)

離開弘法大師紀念碑,返回丹鳳山主步道,繼續前行,約三分鐘,抵達丹鳳山步道的終點。 這條短短約700公尺長的步道,沿途竟有這麼多的歷史遺跡,可說是一條人文意涵豐富的步道。

步道至此,遇寬闊的泥土路,右往照明寺,左往丹鳳山電視轉播站的電塔。我取左行, 路又分岔為二,左上稜線,右進樹林。取右行,小徑穿過林間,約十二、三分鐘,便抵達照明寺, 與剛才右行的土路殊途同歸。

照明寺,俗稱「情人廟」。廟宇由三座似英文字母A所構成的尖塔所組成,造型相當獨特。 情人廟,設有許願亭及許願池。兩座許願亭上掛滿祈願的小竹片,寫滿各種祈願文。我隨意瀏覽,發現 祈求者以單身者居多,字字句句反映出渴望尋覓良緣的心情。真情難覓,真愛難求,自古皆然,對此 不得不有幾許感觸。我想起法國文學家羅曼羅蘭說過的一段話:「這個世界構造的不好。愛人的不被愛, 被愛的不愛人,而兩個相愛的人又總有一天會分手。」現實世界如此,則來情人廟祈願會有效嗎? 但人有時也有無可奈何的徬徨時候,不得不尋求心靈的慰藉。

圖:軍艦岩

在照明寺時,天空卻傳來雷鳴,整個天際暗了起來,隨即飄起雨絲,天氣就這麼轉壞了。 我預定的計畫是連走丹鳳山、軍艦岩、唭哩岸山、奇岩山、奇岩山西峰,然後下山至捷運唭哩岸站。

這計畫只好變卦了。於是先在照明寺的涼亭休息,兼看天氣變化。本想由照明寺走馬路下山,但翻閱地圖,發現 路程頗遠,還不如直接走往軍艦岩,再從陽明大學下山。

這時見雨絲微微,雷聲已歇,便決定按原定計畫,先走往軍艦岩。從照明寺出發,在廟門前的 崇仰七街、六街交會口,接上通往軍艦岩的山路。出發後不久,竟下起大雨來,林間變得昏暗。幸好, 山路並不泥濘,於是仍繼續前行。雨愈下愈大,無暇欣賞沿途景色。途中不少岔路,皆取右行, 山路迂迴向下。後來經過一左叉路,有一小木橋。由此取左行繞上稜線。抵達稜線,雨勢加大, 這時望見前方有一巨岩屹立於風雨中,正是軍艦岩。由照明寺趕路至軍艦岩,約二十分鐘。

這時趕緊躲入軍艦岩下的凹壁內避雨。等了一會兒,雨勢未緩,只好冒雨前進,由陽明大學方向下山。 過唭哩岸山叉路時,望著唭哩岸山的稜線,只能感慨遙望。對這條山路不熟,路況不明,自不宜冒雨前往。 今日與蟛蜞菊花海無緣。

約三十分鐘,出陽明大學的校門口。時間下午五點過後。此時又起意,決定改由唭哩岸捷運站的方向上山, 視路況而定,或許有機會可前進至奇岩山,尋找花海蹤跡。於是從陽明大學走往捷運唭哩岸站,再從車站對面的 東華路二段300巷進入,由東華公園上山。不料公園內步道極為紛歧,又無指標,好不容易繞到山上, 勉強抵達奇岩山西峰,卻發現闖進了墳墓區。這時天雨昏暗,暮色陰沉,心情惶恐起來。這時已顧不得尋找花海了, 趕緊匆匆下山。

回到唭哩岸站,休息片刻,再走回捷運石牌站,由石牌站搭捷運返家。為何不直接從唭哩岸搭捷運呢? 多走這一段路,是為了去拍石牌捷運站入口的一塊古碑,這塊「漢番分界」的古碑正是「石牌」地名的由來。

旅遊日期:2006.06.12 (寫於2006.06.19)

http://www.tonyhuang39.com/tony0379.html

台長: Aher
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