八王子市の歴史

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八王子市の歴史(はちおうじしのれきし)では、現在の東京都八王子市に属する地域の歴史を解説する。

歴史[編集]

現在の八王子市域に人々が住み着き始めたのは有史以前の時代のことで、市域には先史時代の遺跡が数多く点在している。代表的なものとして国の史跡に指定されている椚田遺跡のほか、船田、北野などの各遺跡があり、八王子市域のこの時代の遺跡は主に浅川およびその支流付近の段丘面に位置している。縄文時代中期から平安時代に至るまでの集落が同一の遺跡から発見されており、先史時代からかなり後の時代まで、人々は河川付近の段丘面にのみ集住して暮らしていたことが分かる。

1964年(昭和39年)に発掘された宇津木向原遺跡では、ムラの住居跡とともに方形周溝墓が発見された。特定の個人を葬った方形周溝墓は弥生時代のムラにおける身分格差を示すとされている。

この地が大和王権の支配下に組み入れられると、市域は武蔵国の多麻郡(現代の用字では多摩郡)に編入された。古代に八王子市域に存在した名などははっきりしないが、931年延長9年/承平元年)に勅旨に指定された小野牧(おののまき)(船木田荘横山荘)を八王子市由木付近に求めようとする説がある。

平安時代[編集]

759年天平宝字3年)、橘右京少輔(橘氏伝説に登場)が皇后の安産祈願に子安神社を建立。

916年延喜16年)、京都の僧・妙行が深沢山八王子神社を建立。

924年延長2年)、小野篁を祖とする小野隆泰八幡八雲神社を勧進。

939年天慶2年)、武蔵七党系図筆頭横山党小野義孝が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町に名を残す横山荘に居館を構えて横山氏を称した。

1191年建久2年)鎌倉幕府家臣梶原景時が、元八王子に梶原八幡神社を勧進した。

八王子城跡

1212年建暦3年)の和田合戦横山時兼和田義盛に加担し横山庄の領地を没収され凋落した。

1214年建保2年)、横山庄は鎌倉幕府政所別当大江広元に与えられ、重臣大江氏の一族である長井氏や、執権北条氏の一族が支配した。

室町時代[編集]

1356年延文元年)、大石信重笛吹峠の合戦の戦功にて武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城した。

1458年長禄2年)、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から本拠を移した。片倉城滝山城などの八王子市域の中世城館の多くはこの時期に建てられたものである。

戦国時代[編集]

16世紀前半に南の相模国から北上してきた後北条氏が多摩地域から武蔵全域に向かって勢力を伸張し、大石氏もその圧力を受けた。

1546年天文15年)、山内上杉氏扇谷両上杉氏河越夜戦で敗れると大石氏後北条氏に屈服することになった。

1559年永禄2年)11月、大石定久北条氏康の次男北条氏照を養子に迎え、後北条氏に取り込まれた。北条氏照大石氏滝山城に入った。

1569年永禄12年)、甲斐国主・武田信玄による八王子を通過する小田原攻め開始。同年10月1日、廿里古戦場にて、武田信玄軍と後北条氏軍が戦い、後北条氏軍敗走。その後、武田信玄により後北条氏方の滝山城が包囲される。10月8日、武田信玄による小田原城包囲の帰路三増峠の戦いが発生し、後北条氏軍が敗走。武田氏軍は八王子を占領せずに甲斐国に帰国した。

1587年天正15年)、北条氏照滝山城より守備力の高い深沢山(現在の城山)八王子城を築城し本拠とした。深沢山には「八王子権現(はちおうじごんげん)」が祀られている八王子神社があり、これが市名の由来となった。異説として、深沢山に元々八王子権現とゆかりの深い山王社が建っていたからという説[1]もある。

近年、八王子と大石氏、北条氏照の関係に関する研究が進み、大石氏は北条氏綱の時代には既に屈服していたとする説[2]、大石定久と北条氏照の間に1代(大石綱周)存在していたとする指摘[3]、上杉謙信が小田原攻めを行った1561年永禄4年)には滝山城はまだ築城されていなかったとする説[4]など、様々な新説が出されている。

安土桃山時代[編集]

1590年(天正18年)、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、小田原征伐を受け、八王子城にて八王子城合戦。後北条氏方が壊滅。8月、後北条氏が豊臣秀吉に降伏。北条氏照が兄の北条氏政とともに切腹、領地没収。北条旧領土は徳川家康に与えられた。その後、豊臣秀吉により徳川家康三河より江戸への国替えに伴い、旧武田家旗本からなる徳川家康譜代旗本甲州九口之道筋奉行(後の八王子千人同心)が八王子に移る。

1591年(天正19年)、大久保長安が八王子の奉行となる。

1593年文禄2年)、八王子千人同心(八王子五百人同心)が元八王子町より、千人町の拝領屋敷へ移る。

1599年慶長4年)に関ヶ原の戦いを前にして、代官頭大久保長安の発案にて500人から1000人に増員して「八王子千人同心」となる(同心が江戸時代以前の旧職制名であることに留意)。

江戸時代[編集]

1603年(慶長8年)江戸幕府創設。徳川氏は八王子に支城を置かず、八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領とした。八王子には代官頭の陣屋を置き、関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人(八王子十八人代官)が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当した。長安は甲州街道を整備し、八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに新たに八王子町を設けて旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた。

1613年(慶長18年)4月に大久保長安死去。大久保長安事件に発展。

1650年代慶安3年-万治2年)までに、徳川氏による八王子の開発の結果、現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、八王子十五宿八王子横山十五宿)とよばれるようになる。この宿は街道中最大の宿となった。八日市・横山八幡[要曖昧さ回避]などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ、そして八王子町へと受け継がれたものである。

1704年元禄17年/宝永元年)八王子宿への代官の駐在を廃止。陣屋撤去。関東御料の代官は江戸に移住する。なお、八王子宿は幕府直轄の天領であったが、江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く、一元的領域支配は行われていない。

近世後半には全国的に生産力の増大がみられ、なかでもなどの貢納用作物のほかに商品作物の栽培が増加するが、八王子宿を中心とする周辺の村々では主に、の原料となるやその飼料となる、あるいはなど商品作物の生産がさかんになった。しかし、生産力の増大は一方で農民の間に経済力の格差の拡大をもたらし、結果として治安も悪化することになる。

1707年(宝永4年)富士山噴火(宝永大噴火)。大船村などで作物収穫できず。(関東ローム層、宝永スコリア層)

1827年文政10年)、幕府の文政の改革により、関東地方では組合村(寄場組合村・改革組合村ともいう)が結成される。このとき八王子宿近辺では八王子宿組合村が成立した。これにより八王子宿とその周辺の村々の間では治安面などでの広域的な連携がみられるようになった。この八王子宿組合と、小仏関を中心とする小仏駒木野組合の構成は、ほぼ現在の八王子市の行政区域と重なっており、現在の市域に地域自治的なまとまりがこの頃生まれていたことがわかる。

八王子と横浜を結んだ絹の道

幕末期、横浜開港により絹が主要な輸出産品となると、八王子は生糸・絹の一次生産地として、また関東各地から横浜へ送り出す輸送の中継地として栄えた。

1865年慶応2年)の武州一揆長州戦争(第二次長州征討)など社会情勢の不穏さが増すと、幕府は八王子陣屋の再設置を計画する。すなわち、幕府は、相給地の私領を整理して多摩郡の宿村をすべて幕領とし、村落支配を一元化することを試みたが、陣屋の設置による代官の交代と、引き継ぎに伴う混乱を嫌った八王子宿その他多摩の村々の反対により、実現せずに明治1868年)の明治維新を迎えた。 明治維新時、八王子千人隊が新政府側に降伏した為、八王子は大きな戦渦に巻き込まれなかった。

近代[編集]

維新後も、八王子は引き続き生糸貿易の中継地として隆盛した。1873年(明治6年)には「生糸改会社」が、1886年(明治19年)には織物仲買商により織物組合が結成された。織物組合は1899年(明治32年)に機業家を加えて織物業同業組合に発展改組され、現在の八王子織物工業組合の起源となっている。繊維産業の隆盛は、製糸業者萩原彦七が私財を投じて架橋した萩原橋(浅川)の名からも窺い知れる。

1889年(明治22年)には甲武鉄道が開通し、東京との間を結んだ。現在のJR中央本線である。

1917年(大正6年)には、多摩地域で初、東京府内では東京市に次ぎ2番目に市制を施行(当時、豊多摩郡、現在の牛込を除く新宿区渋谷区中野区杉並区)、荏原郡(現、品川区大田区世田谷区目黒区)、北豊島郡(現、豊島区北区荒川区板橋区練馬区)、南足立郡(現、足立区)、南葛飾郡(現、本所を除く墨田区・深川を除く江東区葛飾区江戸川区)は東京市編入前であり郡制を敷いていた。)するなど、多摩地域の中心都市として位置づけられた。この時期にあった「多摩県」(多摩3郡のみで県を構成する案)、「武蔵県」(多摩3郡と豊多摩郡・荏原郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡を含めて県を構成する案)構想では、その構成単位の中で唯一市制を敷く八王子市に県庁を置く案があった[5]

また1910年代から1920年代にかけては八王子にバスが走り始め、高尾自動車(現在の西東京バス)と八王子市街自動車(現在の京王電鉄バス八王子営業所)が乗合バスを運行していた。

1925年大正14年)には玉南電気鉄道東八王子駅が甲州街道沿いに開業(現在の京王線京王八王子駅)。翌年には京王電気軌道の駅となり新宿追分駅への直通運転を開始した。

1926年(大正15年/昭和元年)12月25日大正天皇が崩御すると、翌年初めに陵墓の地が横山村に選定され「多摩御陵」と名づけられた。これに伴い近接する甲州街道の改修などが進んだ。御陵参拝の玄関口となる皇室専用駅の東浅川駅および省線浅川駅(現・高尾駅)前と追分の間の甲州街道にイチョウ並木が整備されたのもこのときである。拡幅された甲州街道には、1929年(昭和4年)に路面電車である武蔵中央電気鉄道が開通、また京王電気軌道は陵墓への参拝客の輸送のため、1931年(昭和6年)に御陵線を開通させた。なお、路面電車は1939年(昭和14年)に廃止、御陵線は1945年(昭和20年)に不要不急線として廃止された。

1936年(昭和11年)、八王子市歌(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)を制定。東京府内では東京市歌に次ぎ2番目、多摩地域では最初に制定された市歌であった。

昭和初期の不況(=昭和金融恐慌昭和恐慌)や、1937年(昭和12年)にはじまる日中戦争期(当時の呼称:支那事変)のいわゆる戦時体制により、繊維産業も徐々に衰退した。とくに戦時中には繊維業でも軍需工場への転換が進み、また、男性従業員の徴兵などによる人手不足や企業統合により休業・廃業する工場も現れた。

空襲後の八王子市街

太平洋戦争末期(当時の日本側の呼称:大東亜戦争)には多摩地域の中心都市であることや、軍需工場の存在により、八王子は米軍による本土空襲の攻撃目標とされた。1945年(昭和20年)8月2日未明の八王子空襲では、B-29の編隊170機により約67万発の焼夷弾が投下され、当時の市街地の面積比で80%、戸数にして14,000戸以上が焼失し、450名余が死亡、2,000名以上が負傷した。同月5日昼には、高尾山にほど近い中央本線の湯ノ花(別称:猪鼻・亥ノ鼻)トンネル出口で、長野方面の疎開地に向かう人々を乗せた下り列車が米軍機P51機銃掃射を受け、一部をトンネル内に残したまま停止した列車は炎上、死者53名・重軽傷者133名の被害を受けた(湯の花トンネル列車銃撃事件)。同年8月15日終戦間近に起きた八王子空襲と湯の花トンネル列車銃撃事件は、戦争の悲劇として市民に記憶され、現在も慰霊祭が行われている。

現代[編集]

戦後1946年(昭和21年)に八王子は戦災都市の指定を受け復興計画が策定された。八王子空襲と戦後の統制経済により停滞していた織物産業は戦後の衣料不足により復興、1950年代高度成長期には「ガチャンと機を織れば万の金が入る」という「ガチャ万景気」と呼ばれるほどの好況を呈した[6]

市域については、1950年代(昭和25年 - 昭和34年)からは町村合併法に基づいて周辺町村の編入が進み、1955年(昭和30年)には横山村ほか5村と、1959年(昭和34年)には浅川町と合併、1964年(昭和39年)8月1日の由木村との合併をもって、現在の市域がほぼ定まった。また、同年10月に開催された東京オリンピックでは自転車競技の会場となっている。

ニュータウンとして開発が進む南大沢

同1964年暮れには多摩ニュータウンの計画がスタートし、1971年(昭和46年)に入居が開始した。このほかにも郊外の丘陵地を中心に新たな住宅団地が造成され、都心のベッドタウンとして新住民が流入し八王子市の人口は急増した。

規模1千戸以上の代表的な住宅開発として、京王帝都電鉄1967年(昭和42年)の京王高尾線開業に合わせ、分譲一戸建て中心の「京王めじろ台」を開発して1970年(昭和45年)に入居開始した。その後も宅地開発は続き、1972年(昭和47年)には市南部の「南陽台」で入居開始、市北東部では1974年(昭和49年)の「東急片倉台」と1977年(昭和52年)の「西武北野台」が相次いで入居開始した。集合住宅中心の団地では、1968年(昭和43年)に都営「中野団地」が入居開始、1974年(昭和49年)には大規模都営団地の「長房団地」が入居開始した。日本住宅公団 (UR) による公団住宅では、「館ヶ丘団地」が1975年(昭和50年)、「グリーンヒル寺田」が1980年(昭和55年)「宇津木台団地」が1985年(昭和60年)に入居開始している[7]

八王子市の人口は、合併完了後の1965年(昭和40年)には20万人余であったが、9年後の1974年(昭和49年)には30万人、さらに9年後の1983年(昭和58年)には40万人を超えた。

地域を代表する産業であった繊維関連業は、産業構造の転換により1960年代からは次第に衰退した。代わって北八王子工業団地などの工業団地が造成され、精密機械電子機器工場や関連工場が誘致された。

1983年(昭和58年)、八王子駅に駅ビル「八王子ターミナルビル」が開業し、核店舗として百貨店のそごう八王子店が進出(2012年に閉店)。年に八王子市役所が本町から現在地(元本郷町)へ移転した。この頃から市街地の中心が、江戸時代の宿場町を基礎とする甲州街道沿いの商店街から鉄道駅(八王子駅・京王八王子駅)周辺へ移行していった。

八王子に移転した中央大学

1963年(昭和38年)の工学院大学の移転を皮切りに、都心の大学の移転が次々と行われ、住宅団地と同様に郊外の丘陵地に各校の新校舎が建設された。現在では約11万人の学生が八王子市および周辺の大学に通学しており、東京近郊における主要な文教都市のひとつとなっている。

多摩ニュータウン地区にも「三井アウトレットパーク 多摩南大沢」や「ぐりーんうぉーく多摩」等に代表されるような郊外型大規模ショッピングセンターが出店した。また、住宅地開発も続けられ、1997年(平成9年)には、南部多摩丘陵地帯を開発した八王子ニュータウン(みなみ野シティ)が街開きしている。

中心市街地の都市再開発も進められ、1994年(平成6年)に京王八王子駅ビル(京王八王子ショッピングセンター)、1997年(平成9年)に八王子駅北口地区再開発ビル(八王子スクエアビル)、2003年(平成15年)には甲州街道沿いの八日町第2地区再開発ビル(ビュータワー八王子)が、2010年(平成22年)には八王子駅南口地区再開発ビル(サザンスカイタワー八王子)とJR東日本による八王子駅南口駅ビル(セレオ八王子南館)が完成した。2012年(平成24年)にはそごう八王子店跡地の八王子駅北口駅ビルがリニューアルし、単館としてはJR東日本最大の駅ビル商業施設「セレオ八王子北館」が開業した。

その後も八王子駅南口JR貨物の商業施設[8]、八王子駅と京王八王子駅の間にある東京都立産業技術研究センター八王子支所跡地を中心に、東京都八王子合同庁舎、八王子市保健所がある街区を含めた再開発[9]が行われる予定(2014年現在)。

年表[編集]

近世以前[編集]

室町時代[編集]

安土桃山時代[編集]

江戸時代[編集]

近代[編集]

明治[編集]

大正[編集]

昭和初期 - 第二次世界大戦[編集]

現代[編集]

第二次世界大戦後 - 昭和後期[編集]

平成[編集]

令和[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 加藤哲「八王子築城をめぐって」『駒沢史学』39・40合併号(1988年)の説。
  2. ^ 加藤哲「後北条氏の南武蔵進出をめぐって」『戦国史研究』6号(1983年)の説。
  3. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』p.65、戎光祥出版(2018年)の説。
  4. ^ 齋藤慎一「戦国期『由井』の政治的位置」『東京都江戸東京博物館研究報告』第6号(2001年)の説。
  5. ^ 多摩百年史研究会編著『多摩百年のあゆみ』けやき出版、1993年4月25日。ISBN 978-4-905942269[要ページ番号]
  6. ^ 八王子織物の歴史”. 八王子市公式ホームページ. 2020年3月29日閲覧。
  7. ^ 八王子歴史教育者協議会編『おはなし八王子の五千年』かたくら書店、1988年8月。ISBN 978-4-906237500
  8. ^ 約20社に事業提案要請/商業施設最大2.4万㎡可能/JR貨物の八王子駅南口開発 建設通信新聞、2014年1月15日
  9. ^ 多摩最大の産業展示場 都整備へ 読売新聞、2014年3月13日
  10. ^ 八王子警察署 署の歴史”. 警視庁 (2018年2月28日). 2018年5月16日閲覧。
  11. ^ 村上直、沼謙吉 他『わが町の歴史』文一総合出版、1979年、200頁。 書籍コード:0321-90007-7354
  12. ^ 【八王子版 今日は何の日】10月3日 日本初のノーカーデーを実施:昭和46(1971)年 八王子市市制100周年記念事業 公式Facebook、2016年10月2日、2022年10月30日閲覧。
  13. ^ 動物死体の持ち込み・収集”. 八王子市. 2011年8月5日閲覧。
  14. ^ 多摩織”. 全国伝統的工芸品センター. 2011年8月18日閲覧。
  15. ^ “新滝山街道が全線開通します!―国道16号と圏央道あきる野インターチェンジが繋がります―”. 建設局. (2013年2月21日). http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/02/20n2l200.htm/ 2013年2月21日閲覧。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]