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ライマン・フランク・ボーム ライマン・フランク・ボームの概要

ライマン・フランク・ボーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 23:12 UTC 版)

ライマン・フランク・ボーム

60編以上の童話、児童文学作品を執筆しており、特に『オズの魔法使い』をはじめとする「オズ」シリーズの作者として有名。エディス・ヴァン・ダイン(Edith Van Dyne)、ローラ・バンクロフト(Laura Bancroft)など、女性名義を含む多くのペンネームでも活動した。 戯曲家、俳優自主映画制作者としての活動歴もある。

前半生

ボームはニューヨーク州チッテナンゴ村(Chittenango)でメソジスト派の家庭に9人兄弟の7番目として生まれた。父ベンジャミンはドイツ系アメリカ人、母シンシアはスコットランド系であった[1]。「ライマン」の名は父方のおじに因むが、ボームはこのファーストネームを嫌っておりミドルネームの「フランク」を常用した[2]

父はペンシルベニア州油田で財を築いた人であったため、ボームは裕福な環境で育った(家には例えばバラ園があった)[3]。家庭で教育を受けた後、12歳でピークスキル士官学校に送られる。両親は病弱な子供であった彼を鍛え上げようと意図したのである。2年間の不幸な生活の後、彼は帰宅を許された[4]。ボームの息子で伝記作家のフランク・ジョスリン・ボーム英語版は、父の伝記To Please a Child(子供を喜ばせるために)の記述で、彼の退学は心臓病によるものだと主張した。

ボームはごく若い頃から創作に取り組んでいた。父は彼に簡易的な印刷機を買い与えており、彼と弟ヘンリーはそれを使ってThe Rose Lawn Home Journal(バラ屋敷通信)という新聞を発行した。これは広告も入った本格的なもので、数号は続いた。17歳になるまでには、ボームは2番目のアマチュア誌The Stamp Collector(切手収集家)を創刊した[5]

20歳のころボームは新しい事業を始めた。養鶏である(当時、高級鶏が国内で流行していた)。彼はハンバーグ種(Hamburg)を専門に扱った。1880年に彼は月刊誌The Poultry Record(養鶏通信)を創刊し、1886年(30歳)には最初の本であるThe Book of the Hamburgs: A Brief Treatise upon the Mating, Rearing, and Management of the Different Varieties of Hamburgs(ハンバーグ種読本 - 交配・飼育その他に関する概論)を出版した[6]

演劇への傾倒

同時に、ボームは演劇にも傾倒し[7]、興行的な失敗によって幾度となく破産寸前に陥った。ボームの最初の失敗は、地方の演劇会社が彼に役を与える空約束の元に衣装類を詐取したことである。業界に幻滅したボームは(一時的に)演劇から離れ、義理の兄弟がシラキュースで経営する衣料品会社で事務員となった。ある時、彼は別の事務員が密室で自殺しているのに遭遇した。この事件は彼が後に文学誌The White Elephantに寄稿した密室ものの小説The Suicide of Kiarosに反映されている。

ボームが舞台から離れていることに耐え切れたのは、そう長い期間ではなかった。彼は再び役者の仕事に戻り、ルイス・F・ボーム(Louis F. Baum)やジョージ・ブルックス(George Brooks)の芸名で活動した。

1880年、父が彼のためにニューヨーク州リッチバーグ(Richburg)に劇場を建ててくれた。ボームは脚本家の地位に就き、役者をやってくれる仲間を集めた。ウィリアム・ブラックの小説A Princess of Thule(テューレの王女)をベースにした歌付きのメロドラマThe Maid of Arran(アランの乙女)はある程度の成功を見た。ボームは脚本を書くだけではなく、劇のための作曲を行ない(彼の劇は物語に歌が付属した、ミュージカルの走りというべき物であった)、さらには舞台で主役を演じた。おばのキャサリン・グレイ(Katharine Gray)がボームの役のおばの役を演じることもあった。彼女はシラキュース雄弁術学校の創立者であり、ボームはおばの学校に対して演劇、脚本、演出、翻訳(フランス語、ドイツ語、イタリア語)、校閲、オペレッタの技術を無償で提供した。1882年11月9日、ボームは婦人参政権論者として著名なマティルダ・ジョスリン・ゲージの娘モード・ゲージ(Maud Gage)と結婚した。ボームが「アランの乙女」の巡業で留守にしている間、別の劇をやっていたリッチバーグの劇場が火事になり、建物のみならずボームの脚本の多くも焼失した。

サウスダコタ時代

1888年、ボームと妻はダコタ準州の(現サウスダコタ州の)アバーディーンに移った。そこで彼は「ボームの雑貨屋」("Baum's Bazaar")という店を開いた。品物を安易にツケで手放してしまう彼の悪癖により、店は結果的に破産に追い込まれた[8]。そのためボームは地方の新聞The Aberdeen Saturday Pioneer(アバディーン・サタデイ・パイオニア)の編集に転じ、同誌には"Our Landlady"(我らの女地主)というコラムも寄稿した[9]。『オズの魔法使い』におけるカンザス州の描写は、乾燥し切ったサウスダコタでの経験に基づいている。この時期、義母のマティルダ・ジョスリン・ゲージがボームの家に同居していた。サウスダコタ時代、ボームはあるカルテットに所属して歌をやっていたが、その仲間のうち一人に後年アメリカポピュリスト党の初代議員となるジェイムズ・コイル(James Kyle)がいた。


出典

  1. ^ Rogers, p. 1.
  2. ^ Hearn, Introduction, The Annotated Wizard of Oz, p. xv n. 3.
  3. ^ Rogers, pp. 2-3.
  4. ^ Rogers, pp. 3-4.
  5. ^ Rogers, pp. 4-5.
  6. ^ Rogers, pp. 6-7; Hearn, Annotated Wizard, pp. xvii-xviii.
  7. ^ Rogers, pp. 8-9, 16-17 and ff.
  8. ^ Rogers, pp. 23-5.
  9. ^ Rogers, pp. 25-7 and ff.
  10. ^ Rogers, pp. 45-59.
  11. ^ Rogers, pp. 54-69 and ff.
  12. ^ Rogers, pp. 73-94.
  13. ^ Rogers, pp. 95-6.
  14. ^ Rogers, pp. 110, 177, 181, 202-5 and ff.
  15. ^ Rogers, p. 239.

注釈

  1. ^ 「Shifting Sands(移りゆく砂)」はオズの国を取り囲む砂漠の名前。『オズのチクタク』Tik-Tak of Oz (1914年)の初版の巻末に初めて掲載されたオズの国とその周辺の地図には、オズの国の東に「Deadly Desert(死の砂漠)」、西に「Shifting Sands(移りゆく砂)」、北に「Impassable Desert(通行不可能な砂漠)」、南に「Great Sandy Waste(大砂荒地)」が描かれている(en:Deadly Desert」を参照)。


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