ドイツ系フランス人アウグスト・マッケが生まれた。|DigitalCreator
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ドイツ系フランス人アウグスト・マッケが生まれた。

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ArtDailyは2022年01月03日に、ドイツの表現主義の画家で、ドイツ表現主義のグループDer Blaue Reiter(青い騎手)の主要メンバーの一人であったアウグスト・マッケ(August Macke/アウグスト・ロベルト・ルードヴィッヒ・マッケ/August Robert Ludwig Macke/1887 - 1914)が、アウグスト・フリードリヒ・ヘルマン(August Friedrich Hermann/1845 - 1904)とマリア・フロレンティーヌ・アドルフ(Maria Florentine Adolph/1848 - 1922)の子として1887年01月03日にドイツのNRW(Nordrhein-Westfalen/ノルトライン・ヴェストファーレン)州アルンズベルク、メシェデ、エバーズベルク(Eversberg, Meschede, Arnsberg, NRW, Germany)で生まれたと報告した。

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彼の妻は、エリザベート・ゲルハルト・ソフィー・エルトマン=マッケ(Elisabeth Gerhardt Sophie Erdmann-Macke/1888 - 1978)で、2人の間には、
オーバーバイルンのテゲルン湖(Tegernsee, Oberbayern)で生まれたワルター・カール・アウグスト・マッケ(Walter Carl August Macke/1910 - 1927)と、
NRW州ボン、ケルンで生まれてヴォルフガング・マッケ(Dr. rer. nat. Wolfgang Macke/1913 - 1975)がいる。
彼女はアウグスト・マッケが2人の子供を残して若死すると、ローター・カール・ヘルマン・ディートリッヒ・エルドマン(Lothar Karl Hermann Dietrich Erdmann/1888 - 1939)と再婚している。
2人の間には、子供のデートリッヒ・ワルター・アウグスト・エルドマン(Dietrich Walter August Erdmann/1917 - 2009)が生まれている。

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アウグスト・マッケの兄弟は、
オッティリー・マッケ(Ottilie Macke/1887 - ?)
オーギュスト・ヘイギン(Auguste Hagin/1887 - ?)がいたが、3人とも同じ年に生まれいる。

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アウグスト・マッケは、貴族のパトロンを得ていた画家ラムベルト・クラーエ(Lambert Krahe/1712-1790)が1762年ころに設立したデュッセルドルフ(Düsseldorf)の美術アカデミーであるクンストアカデミー・デュッセルドルフ (Kunstakademie Düsseldorf)で、1904年から2年間ほど学んでいる。

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1906年作の『自画像』などが残っている。その後、1907年には、美術コレクターのゲルハルト・ケーラー(Gerhard Köhler)の経済的援助を得て、パリに滞在している。1909年にマッケの妻となったエリーザベトは、このケーラーの姪であった。

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パリからベルリンに移り、ドイツ印象派の代表的画家で表現主義的傾向の強い画家であるロヴィス・コリント(Lovis Corinth/Franz Heinrich Louis Corinth/1858 - 1925)のアトリエに数か月間通った。

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その後、「青騎士(Der Blaue Reiter)」の主要メンバーの一人で、ミュンヘン出身のフランツ・マルク(Franz Marc/1880 - 1916)に出会った頃からで、1910年にはフランツ・マルクの紹介でワシリー・カンディンスキー(Василий Васильевич Кандинский/Wassily Kandinsky/Vassily Kandinsky/1866 - 1944)とも知り合いになり、しばらくの間、非対象的な美学と「青年の船」の神秘的、象徴的な関心を共有することになった。
1911年と1912年の2回の「青騎士グループ展」には、ドイツ表現派の代表的画家であるエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner/1880/ - 1938)のほか、パウル・クレー(Paul Klee/1879 - 1940)、ロベール・ドローネー(Robert Delaunay/1885 - 1941、フォーヴィスム(Fauvisme/野獣派)のアンドレ・ドラン(Andre Derain/1880 - 1954)とモーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlaminck/1876 - 1958)、キュビスム(Cubisme)のパブロ・ピカソ(Pablo Picasso/1881 - 1973)など多彩な画家が参加していた。しかし。第一次世界大戦の勃発を受けて短命なものに終わった。

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1914年04月にパウル・クレー、ルイ・モワリエ(Louis Moilliet)とともに旅行したチュニジア(Tunisia)のエキゾチックな雰囲気は、晩年のルミニズム的なアプローチ(luminist approach)を生み出す基礎となり、この時期に現在では傑作とされる一連の作品を制作している。

彼は、ドイツ美術にとって特に革新的な時代に生き、ドイツの主要な表現主義運動の発展と、ヨーロッパの他の地域で形成されつつあった連続的な前衛運動の到来を目の当たりにした。

今回公開された作品は、1914年に製作された「Landschaft mit hellem Baum」で、鉛筆を水彩で描かれた22.2 x 30.9cmの作品で、ベルリンの州立美術館(Staatliche Museen zu Berlin, Kupferstichkabinett)にある。

しかし、マッケのキャリアは、第一次世界大戦の2カ月目、1914年09月26日にフランスのシャンパーニュ(Champagne, France)地方の戦線で早逝したことで途絶えた。彼の最後の作品「別れ(Farewell)」は、戦争勃発後に沈んだ陰鬱なムードを描き出している。この年は、有名な絵画「ミュンヘンのテュルクカフェ(Türkisches Café in München )」を1914年に描いた年でもある。

アウグスト・マッケの次男が生まれた家が、アウグスト・マルケ・ハウス(August-Macke-Haus)として、今もボン(Bonn)のBornheimer Straße 96に残っている。

ただし、ケルン、ボンは、第二次世界大戦の連合軍による爆撃で、木っ端微塵に破壊された。

アウグスト・マルケ・ハウス(August-Macke-Haus)の緯度、経度。
50°44'15.6"N 7°05'10.0"E
または、
50.737658, 7.086114

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メシェデ、エバーズベルク(Eversberg, Meschede)の緯度、経度。
51°22'02.1"N 8°20'08.0"E
または、
51.367258, 8.335553

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