尊敬する、あるいは好きな歴史上の人物は?と問われれば、誰を挙げるでしょうかね。

坂本龍馬?西郷隆盛?または戦国時代の信長・秀吉・家康やその他の英傑の名を思い浮かべる人もいるでしょうし、外国の人の名を挙げる人もいるでしょうね。歴史上の人物かどうかは置いておいて、若い人だったらスポーツ選手や著名アーティストだったりする人もいるでしょう。

ただし自身が今、人生のどの年代を生きているかで、尊敬する人物が変わってくる場合もあります。

梅之助がまだ若い頃は誰だったかはともかく、今ならきっとこの人の名を挙げるでしょう。

 

「伊能忠敬」 

 

55歳という当時としてはいつ死んでもおかしくない年齢から、以降、丸17年かけて自らの足で全国を測量して「大日本沿海輿地全図」(通称:伊能図)を完成させ、国土の正確な姿を我が国にもたらしました。

司馬遼太郎には彼の小説も書いて欲しかったな。

 

富岡八幡宮の伊能忠敬像  Wikipedia より


最近、「伊能忠敬 - 子午線の夢 - 」という2001年の映画があるのを知りました。是非、観てみたいと思っています。

下は梅之助がよく観ているゆっくり動画チャンネルによる伊能忠敬の人生です。

 

 

 

幼少の頃の忠敬は少し複雑な家庭環境を過ごしたようですが、優れた学問的素養に注目した親戚筋が彼を伊能家へ婿入りさせた事から、忠敬の人生が大きく動き出します。

酒造業を営んでいた婿入り先は村(現在の千葉県内)でも二大有力家の一つであったものの、当時の伊能家は当主が不在の期間が長く続いていました。その為、家業は親戚の手を借りる形で継続されるも、事業規模は縮小傾向にあり、もう一方の有力家に差をつけられてしまう状況でした。

つまり伊能家再興が忠敬に期待された訳なのですが、伊能家当主として彼はその大任を見事果たします。

また彼は優れたリーダーしてよく村をまとめ、特に天明の大飢饉では貧民救済に務めて村から一人の餓死者も出さない事に成功しました。

ここまでが最初の動画内容で、忠敬の前半生。

 

若い頃から算術が好きで暦学や天文学にも興味を持っていた彼は、家業を50歳で隠居し江戸に出て、幕府の天文方だった高橋至時に弟子入りします。当時の至時は新しい暦を作る改暦作業に取り組んでいました。

最新の正確な暦を作成する場合、どうしても天文学と地球の大きさの正確な数値を知る必要があり、その地球の大きさは緯度1度に相当する子午線の距離を測る事で計算出来ます。短い距離を測定して算出しても誤差が大きくなる為、忠敬と至時は先ず江戸から蝦夷地までの距離を測ればより正確な数値が出せるのではないかという結論に至りました。

こうして齢忠敬55歳、蝦夷地を測量し地図を作成しながら子午線1度の距離を求める旅が始まったのです。


蝦夷地測量における幕府からの費用補助はほんの僅かであって、圧倒的に忠敬の持ち出しでした。しかし測量路程が終わる度に作成・提出された地図の精巧さに驚いた幕府は、回を繰り返すごとに忠敬の測量計画への待遇を改善していきました。

忠敬には蝦夷地の残りの測量を果たしたい思いがあったものの、諸般の事情で幕府に認められる可能性が低かった為、以降は内地の測量を重ねていく事になります。

詳しくは上の後半生の動画で。

 

以下、伊能忠敬による測量路程図です(「伊能忠敬e資料館」より)。

 

              

(左)第1次測量(1800年)

(中)第2次測量(1801年)

(右)第3次測量(1802年)

 

      

(左)第4次測量(1803年)

(右)第9次測量(1815~16年)※忠敬は参加せず、弟子らによる実施。

 

第5次測量(1805~06年)

 

第6次測量(1808~09年)

 

第7次測量(1809~11年)

 

第8次測量(1811~14年)

 

尚、第10次測量も1816年に行われており、これは江戸府内が対象でした。

 

50歳を超えての大変な知識欲と行動力。

そして商人・村の名主としての前半生、学者・技術者としての後半生と、共に一生かかって成し遂げるような、しかも全く異なる二つの大仕事を果たした訳ですから、彼の人生そのものが大偉業だと思います。

彼を見ていると、何かを始めるに”遅すぎる”と最初から諦める必要はないのだと感じられて、特に梅之助のような中高年には希望が持てます。

 

伊能小図 毎日新聞 より

 

伊能大図 江戸・相模・武蔵  Wikipedia より

 

忠敬の測量の結果、作成された「大日本沿海輿地全図」は、次の3種類。

大図:縮尺1/36000、全214枚

中図:縮尺1/216000、全8枚

小図:縮尺1/432000、全3枚


伊能図の評価を示すエピソードとして。

1861年に英国海軍が日本沿岸の測量を強行しようとした際、たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その精巧さに驚き、測量計画を中止してその写しを入手することで引き下がったそうです。

残念ながら原本は火災などで全て焼失していますが、今でも時々伊能図の写本や資料が発見されることがあります。

 

「伊能忠敬e資料館」より

 

稚内「北方記念館」の伊能大図(北海道・宗谷付近) 筆者撮影

 

忠敬が果たせなかった蝦夷地北部・西部の測量は弟子の間宮林蔵が行い、そのデータで蝦夷地の地図は完成しました。

そして忠敬が求めた緯度1度の距離は28.2里で、現在の値と比較して誤差がおよそ1000分の1と、当時としては極めて正確でありました。


忠敬の後半生における偉業は、客観的に見ると金持ちの大道楽です。しかしその道楽は国家の大事業となり、しかもその活動を支えた資金は前半生にて自らの努力と才覚で得たお金。金持ち殿様が好奇心から行った訳ではありません。

強靭な肉体と類稀な探究心で「人生を2度生きた男」、伊能忠敬。

彼は生前の願いにより上野源空寺の墓所にて、師・高橋至時の隣で眠っています。