フランス第一共和政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 23:43 UTC 版)
時期と政体
第一共和政は、少なくとも3つの時期に分けられ、3つの政体があった。
すなわち、
である。
王政の終焉
1789年7月14日に勃発したフランス革命は、アンシャン・レジーム(旧体制)を揺るがしたのみならず、社会の歪みを暴き、根底からの刷新を要求する強い流れとなった。当初は貴族の改革運動、ブルジョワジーの権利主張であったものが、食糧難から市民の暴動となり、農民の反乱となり、封建的特権の廃止から市民的自由の保障、さらには土地均等分配、平等主義の要求にまで至り、一方では教会改革への反発は反革命のヴァンデの反乱をも後に引き起こした。
急進化する革命のパリに恐れをなした国王ルイ16世は脱出を図ったが、ヴァレンヌ逃亡事件において逮捕されて連れ戻された。これによって国王の権威は失墜した。憲法制定国民議会は、1791年憲法を成立させてその役割を終えたが、国王は事実上の囚われの身であり、外国の干渉によって解放されることを期待した。立法議会では国王は拒否権を乱発して政局を停滞させ、1792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃によって王権は停止され、新たに召集された国民公会によって王政廃止が宣言されて、共和政がそのまま樹立する。
国民公会
国民公会は、対仏大同盟諸国との戦争や国内の経済不安(アッシニア暴落)への対応に苦慮し、より強力な統治機構として公安委員会を設置して権限を集中させ、難局に当たろうとした。1793年の祖国の危機は独裁制と恐怖政治を導入することで乗り切り、国民総動員令や一般最高価格法など、統制経済で混乱を収拾しようと努めたが、ジロンド派やモンタニャールの左右分派の粛清が相次いで政権自体は安定しなかった。フランスでのモンターニュ独裁は短命に終わった。
なお、国民公会では1793年憲法が制定されたが、施行されなかった。このために国民公会は体系化された憲法を持たないが、公会自らが時々で規定した各種の法令(フリメール14日法等)によって成り立つという特殊な議会となった。また公安委員会は国民公会内の常設委員会であり、国民公会は名目的には執行機関も兼ねていた。このように国民公会は立法と行政を混濁した一院制議会であった。
総裁政府
1794年のテルミドール9日のクーデターの結果、陰謀を決行した派遣議らを中心とするテルミドール派が政権を握った。彼らは反動から右傾化して白色テロを行い、ジャコバン派を弾圧した。ブルジョワジー中心の政治を目指して三分の二法を決議させて議員らの既得権益を保護しようとした。王党派が反発してヴァンデミエールの反乱が起きたが、これを武力鎮圧して、総裁政府が成立した。
総裁政府の政体を定める1795年憲法は、国民公会とは逆に極端な分権構造であった。立法府は発議権をもつ五百人会と採決権をもつ元老会の二院制がとられたが、制限選挙や三分の二法によってブルジョワジーの議会支配の固定化が図られた。
しかしこの政府でも政権は安定せず、統制を失った経済は再び崩壊した。国民からの支持も失っていたので、選挙の度にそれを取り消すためのクーデターを必要としたため、軍隊の政治介入のきっかけとなった。
総裁政府は、第一次対仏大同盟には勝利したが、第二次対仏大同盟の攻勢に遭って窮した。
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