映画で学ぼう~運命の作品に出会おう~No.2「アマデウス」
目次
「アマデウス」
公開日:1984年
監督:ミロス・フォアマン
予告↓↓
1.キャスト
☆F・マーリー・エイブラハム(アントニオ・サリエリ)
☆コンスタンツェ・モーツァルト(エリザベス・ベリッジ)
2.映画のあらすじ
誰もが知る音楽家,モーツァルトの生涯を描いている.この映画では,モーツァルトの才能に嫉妬し,殺したとされているアントニオ・サリエリの回想を軸にモーツァルトの35年という短い生涯を描いた作品.
映画から学べること
①ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯
★誕生
1756年1月27日,ザルツブルク(オーストリア中北部)にて7人目の子供として,レオポルト・モーツァルトとマリア・アンナ・ペルトル(役人の娘であった)との間に生まれる.当時は,衛生状態が悪かったので新生児が生まれて間もなく死ぬというのは珍しくなく,ヴォルフガングの前に誕生した6人の子供もナンネル(ヴォルフガングの4歳年上の姉)の一人しか生きながらえていない.ちなみにこの年は7年戦争が勃発した.(7年戦争について👉七年戦争 - Wikipedia)
★あの逸話
ヴォルフガングは6歳の頃には既に作曲ができるようになり父親に得意げに自慢していたそう.その才能に気づいた父親は息子の才能を披露して見せるため旅に出る.
1762年最初の目的地はミュンヘン.しかし,この時の記録は残されていないらしい.
次はオーストリアのウィーンである.シェーンブルン宮殿(世界遺産に登録されている)ではオーストリア皇帝フランツ1世と女帝マリア・テルジアに会っている.その宮殿の床でヴォルフガングが転んだ時,マリ・アントワネットに助け起こされ「君は優しいね,大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」とプロポーズしたという有名なエピソードを残す.
👉外壁は金を塗る計画であったが当時財政困難だったため,黄金に近い黄色を塗った.
「テルジア・イエロー」という.
☆当時(6歳)のヴォルフガングの写真↓↓(Pietro Antonio Lorenzoni より)
👉召されているのは,女帝マリア・テルジアから送られたもの.本来なら皇子マクシミリアンがまとうはずのものであった.
愛されたいという気持ちが強い子供で,父の同僚が遊びに来ると一日に何度も「おじさんは僕が好き?」と尋ね,冗談で「嫌いだよ」と答えると,目に涙を浮かべたという.
★名前について
ヴォルフガングの正式名は「ヨアネス・クリソストムス・ヴォルフガング・テオフィルス・モーツァルト」である.テオフィルスはギリシア語で”神を愛する者”という意味であるが,ヴォルフガングはこれをドイツ式にしたゴットリープ”神に愛される者”という名を用いていた.しかし,1769年のイタリア旅行を機にイタリア式に変え,ヴォルフガング・アマデウスを名乗るようになった.(イタリアではどこでも歓迎されたため,ヴォルフガングはイタリアを気に入った.イタリア語ではアマデーオという.)ちなみに,自身をアマデーと著名してる.
★一度聞いただけで楽譜に書いてしまう?
システィナ礼拝堂でしか聞くことができなかった”ミゼレーレ”という曲を一度聞いただけで楽譜に書き写してしまった.楽譜は礼拝堂の外に持ち出すことも,写譜する事さえ禁じられていたので,多くの人が家に戻ってからこの曲を再現しようとして失敗した.しかし,ヴォルフガングは一度聞いただけで宿に戻ってから譜面に書き写したのである.そして後日,譜面を帽子に隠してもう一度聞き,訂正を加えてこれを仕上げた.そのため,この曲九声の合唱は世界中に 広まることになった.
ミゼレーレ↓↓
★ヴォルフガングはスカトロジーだった!?
ヴォルフガングが送った手紙の中にはスカトロジーを物語る言葉が見受けられる.父・レオポルトの弟の娘,マリア・アンナ・テクラ(ヴォルフガングはベーズレと呼ぶ)へ送った手紙は”ベーズレ書簡”と呼ばれ,研究者にとっては興味の尽きない資料となっている.
スカトロジーな作曲↓↓
・「Leck mich im Arsch(俺の尻をなめろ)」
・「Leck mich den Arsch recht schoen, fein sauber(僕のお尻を舐めてしっかり綺麗に,このうえなく清潔にしてね)」
など
★結婚
1777年にヴォルフガングとコンスタンツェはマンハイムで知り合い,1782年8月4日に結婚.コンスタンツェは8年間の結婚生活において妊娠出産を6回して体力を使い果たしたという. そのうち幼年期を生き延びることができたのは官史の道を選んだ次男のカール・トマスと四男のフランツ・クサーヴァーだけである.二人とも独身であったため,子孫は残っていない.コンスタンツェに関する悪妻説(浪費家だった,ヴォルフガングが死んだとき別荘で遊んでいた..etc)が流れているが真っ赤な嘘だという.現実のコンスタンツェは思想深く,経済観念も発達していて,夫の作品を守ったことは多くの資料が証明している.
☆13歳と6歳になるヴォルフガングのふたりの息子↓↓
★晩年のヴォルフガング
神童ともてはやされたヴォルフガングも宮殿の心変わりに振り回され,仕事が上手くいかないことが多かった. そのためお金に困っていたという.
死の床につきながら,レクイエムを作曲する.12月4日,容態が急変するが,まったく取り乱すことなくレクイエムを完成するようにジェスマイヤーに指図している.そして,1791年12月5日午前0時55分に息をふき取った.
映画「アマデウス」ではサリエリがレクイエムの作曲を頼んだように描かれているが,実際は,フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵の使いできたことが分かっている.だたし,映画と似ていて依頼者はねずみ色の服を着こみ,背が高く,不気味な感じのする男が著名のない作品依頼状を携えて,鎮魂ミサ曲を注文しに来たのだという.伯爵には他人が作った曲を自作だと称するおかしな趣味があり,亡妻に捧げるレクイエムをヴォルフガングに書かせようとしたのだという.すでに体調が悪かったが作曲を承諾したという.
参考文献↓↓
②当時の階層
ヴォルフガングに関する伝記を読み進めていくと,伯爵だとか,男爵だとか聞き慣れない階級制度に関する用語が出てくる.「え,誰が偉いん?」と思ったので,調べてみました.
現在の日本では廃止されているが,ヨーロッパでは今でもこうした爵位制度は残されているという.
君主{皇帝(Emperor)>国王(King)>大公(Grand Duke)}
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貴族爵位{公爵(Duke)>侯爵(Marquess)>伯爵(Count)>子爵(Viscount)>男爵(Baron)}
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③18世紀の音楽家とウィッグ
当時の音楽家は宮殿に使える召使として雇われていた.自分の名前を売るために貴族の誕生会が開かれる,ウィーンなどの都市に赴き名前を売りに行っていたそう.ヴォルフガングの肖像で見られる髪形はすべてウィッグである.18世紀では社交の場でカツラは欠かせないものであった.
(ウィッグについて👉かつらの歴史 第3回 18世紀~現代のかつら・ウィッグ世界史|カミわざ)
ちなみにベートーヴェンがウィッグをつけていないのは宮殿に使えて作曲するのではなく,今でいうフリーランスで稼いでいたからだそう.
☆ベートーヴェンの肖像画↓↓(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipediaより引用)
すずめおすすめのモーツァルトの曲top3
👉1773年10月5日ザルツブルクで完成する.つまりヴォルフガングが17歳の頃に作曲している.ヴォルフガングの交響曲のうち単調なのはこの曲と第40番のみ.
2.フィガロの結婚
👉初演:1786年5月1日ウィーン(ヴォルフスブルクが30歳の頃)
オペラの台本はボーマルシェの戯曲に基づき,イタリア人台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテがイタリア語で書いた.
3.レクイエム
👉ヴォルフガングの最後の曲.最後はフランツ・クサーヴァー・ジェスマイヤーにより完成された.
モーツァルトの曲について詳しく書かれたHP↓↓
私はこれを借りて音楽プレーヤーに転送して聴いています↓↓
関連作品の紹介
ヴォルフガングの姉,ナンネルの生涯について描かれた映画↓↓
父,レオポルトは素晴らしい教育者であったため,姉のナンネルも音楽の才能があったが弟のヴォルフガングの方に人々は注目したためすぐに才能は雲隠れしてしまったようです.ヴォルフガングが旅を続けられたのもナンネルが生徒に音楽を教え,旅費を稼いでくれたからだそう.
最後に
映画「アマデウス」の中ではクラシックが四六時中流れているので,それを聴くだけでも楽しめます.途中でオペラや劇場の演出もあるので,まるで会場にいるかのような感覚にもなります.私は夜中に映画を見ていたのですが,最後はサリエリが少し怖くなって眠れなくなりました...(笑)モーツァルトについて調べてみると,記録が少なく真実は闇に沈んだままだそうです.未だ,様々な議論がなされているだとか...
コロナ渦で旅行しずらいですが,次の休日は家でのんびりモーツァルトの世界に浸ってみませんか...?
最後までお読みいただきありがとうございました🌻🌻🌻