1. 41
    >>15
    大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。

    神話における記述

    須佐之男命から大国主神までの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
    『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。

    別名
    地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ) - 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称。
    幽世大神(かくりよ の おおかみ) - 祝詞『幽冥神語』での呼称。
    幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ) - 「幽冥界を主宰する神」の意。
    杵築大神(きづき の おおかみ)
  2. 42
    因幡の白兎
    大国主の神話(八十神の迫害・根の国訪問・大国主の妻問い)
    大国主の国づくり
    葦原中国平定
    別称
    大国主は多くの別名を持つ。(※名義は新潮社神名釈義[要説明]から) 同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、その他祝詞や神社とする。

    大国主神(おおくにぬし の かみ)・大国主大神 - 根国から帰ってからの名。「偉大な国の主人」の意。
    大穴牟遅神(おおあなむぢ-)・大己貴命(おおなむち-)・於褒婀娜武智(おほあなむち-)・大穴持命(おおあなもち-、『出雲国風土記』、『伊予国風土記』逸文での表記』)・大汝命(おおなむち-、『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち-)・国作大己貴命(くにつくりおおなむち-) - 誕生後の名。
    八千矛神(やちほこ-) - 沼河比売との歌物語での名。「多くの矛」の意。
    葦原色許男・葦原醜男・葦原志許乎/葦原志挙乎命(あしはらのしこを) - 根国での侮蔑を込めた呼称。「地上の現実の国にいる醜い男」の意。
    三諸神(みもろ の かみ)・大物主神(おおものぬし-)・八戸挂須御諸命/大物主葦原志許(やとかけすみもろ の みこと/おおものぬしあしはらのしこ、『播磨国風土記』での表記) - 『古事記』においては別の神、『日本書紀』においては国譲り後の別名。「偉大な精霊の主」の意。
    宇都志国玉神(うつしくにたま-)・顕国玉神 - 根国から帰ってからの名。「現実の国の神霊」の意。
    大国魂神(おおくにたま-) - 各地の神社で同一視される。「偉大な国の神霊」の意。
    伊和大神(いわ の おおかみ)・国堅大神(くにかためましし おおかみ)・占国之神(くにしめましし かみ)・大神 - 伊和神社主神 - 『播磨国風土記』での呼称。
    所造天下大神(あめのしたつくらしし おおかみ) - 『出雲国風土記』における尊称。「地上の国造った神」の意。
    地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ) - 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称。
    幽世大神(かくりよ の おおかみ) - 祝詞『幽冥神語』での呼称。
    幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ) - 「幽冥界を主宰する神」の意。
    杵築大神(きづき の おおかみ)
  3. 43
    このうち、大穴牟遅神について、記紀神話で少名毘古那神と連携して国土経営を行って著しい功績を残し、2神は多くの伝承に連称して現れる[1]。白鳥庫吉は「オオナ」は「スクナ」(少兄、宿禰)に対する「大兄」と解釈している[1]。また「ムチ」は「貴い神」を表す尊称で、神名に「ムチ」が附く神は大己貴のほかには大日孁貴(オオヒルメムチ、天照大御神の別名)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像三女神の別名)、布波能母遅久奴須奴神、八島牟遅能神など、わずかしか見られない[1]。

    少名毘古那神
    神祇 天津神
    全名 少名毘古那神
    別名 少彦名命、宿奈毘古那命、須久那美迦微、須久奈比古、少日子根命、小比古尼命、小彦命、小日子命、小名牟遅神、久斯神、少名彦命、天少彦根命 等
    神格 国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神、温泉の神
    親 神産巣日神または高皇産霊尊
    配偶者 伊豆目比売命(市杵嶋姫命)[注 1]
    子 菅根彦命(金鋺翁菅根彦根)[注 1]
    神社 大洗磯前神社等
    関連氏族 梶井氏(金丸村村主)[注 1]

    コレだとスクナヒコナって天津神なんだよなあ。
  4. 44
    須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が同意したことにより、このときの名を杵築大神(きづきのおおかみ)ともいう。
  5. 45
    スサノオ(歴史的仮名遣:スサノヲ)は、日本神話に登場する男神。

    概要
    『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、速須佐之男命、須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。

    神仏習合では牛頭天王と同一視される。

    神話上、現在の皇室とは、姉弟間のアマテラスとスサノオの誓約でうまれた男神正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命とその子で天孫降臨をした天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命を経て、スサノオは男系上の先祖にあたる[1]。

    神話での記述

    スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
    『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとする(阿波岐原は江田神社のある宮崎市阿波岐原町に比定される[2])。これは神道の祝詞、祓詞にもある。

    『日本書紀』本文では伊弉諾尊とイザナミ (伊弉冉尊・伊邪那美命)の間に産まれ天照大神・ツクヨミ(月読)・ヒルコ(蛭児)の次に当たる。

    統治領域は文献によって異なり、三貴子のうち天照大御神は天(高天原)であるが、月読命は天、滄海原(あおのうなばら)または夜の食国(よるのおすくに)を、須佐之男命には夜の食国または海原または天下を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。須佐之男命は記述やエピソードが月読命や蛭児と被る部分がある。
  6. 46
    牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた[1]。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない[1]。

    概要
    牛頭天王は、京都の感神院祇園社(現八坂神社)の祭神である。

    『祇園牛頭天王御縁起[2][3][4]』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須彌山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武答天王の一人息子として垂迹し、姿をあらわした[5]。

    太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあった[3][注 1]。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后を迎えようとするものの、その姿形の怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった[5]。

    3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける[5]。
  7. 48
    旅の途次、長者である弟の古單將來に宿所を求めたが、慳貪な古単(古端、巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民將來は歓待して宿を貸し、粟飯を振舞った。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民に授け、のちに蘇民は富貴の人となった[5]。

    龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごす間に七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属を差向け、古単への復讐を図った。古端は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが、法師のひとりが居眠りしたために失敗し、古単の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという[3]。この殺戮のなかで、牛頭天王は古単の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した[5]。

    以上が、『祇園牛頭天王御縁起』の概要である[注 2]。
  8. 49
    薬師如来

    慧日寺跡 薬師如来坐像
    名 薬師如来
    梵名 「バイシャジヤグル」
    भैषज्यगुरु
    भैषज्यगुरुवैडूर्यप्रभराज
    蔵名 སངས་རྒྱས་སྨན་བླ
    別名 薬師瑠璃光如来
    薬師仏
    大医王
    医王善逝
    種字  バイ
    真言・陀羅尼 オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ 他
    (#真言参照)
    経典 『薬師瑠璃光如来本願功徳経』
    『薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌』
    『薬師七仏供養儀軌如意王経』
    信仰 密教
    真言宗
    天台宗
    十三仏信仰
    チベット仏教
    浄土 東方瑠璃光浄土
    関連項目 大日如来
    釈迦如来
    阿閦如来
    日光菩薩
    月光菩薩
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    木造薬師如来立像
    (国宝・元興寺蔵[注釈 1])
    薬師如来(やくしにょらい、サンスクリット語: भैषज्यगुरु、Bhaiṣajyaguru[1]、バイシャジヤグル)、あるいは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。大医王、医王善逝(いおうぜんぜい)とも称する[1]。

    三昧耶形は薬壺、または丸薬の入った鉢。種字は尊名のイニシャルのバイ(भै、bhai)[2]。

    概要
    薬師如来が説かれている代表的な経典は、永徽元年(650年)の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)と、景竜元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)であるが、そのほかに建武〜永昌年間(317〜322年)の帛尸梨蜜多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の達磨笈多訳が知られている。

    薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集める。
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    大国主神

    大国主神像(出雲大社)
    十七世神 第六代
    先代 天之冬衣神
    次代 鳥鳴海神
    神祇 国津神
    全名 大国主神
    別名 大穴牟遅神、於保奈牟知、大穴道、大汝、オオアナムチ、国作大己貴命、八千矛神、葦原醜男、大物主神、宇都志国玉神、大国魂神、伊和大神、所造天下大神、地津主大己貴神、国作大己貴神、幽世大神、幽冥主宰大神、杵築大神 等
    別称 大国主大神
    神階 正一位
    神格 国造りの神、農業神、薬神、禁厭の神
    父 天之冬衣神、素戔鳴尊(『日本書紀』)
    母 刺国若比売、奇稲田姫(『日本書紀』)
    配偶者 須勢理毘売命等
    子 事代主神、建御名方神等
    宮 宇迦山の宮、天日隅宮(出雲大社)等
    神社 出雲大社等
    関連氏族 三輪氏、鴨氏、宗像氏、諏訪氏(洲羽国造)、守矢氏、木蘇国造、億岐氏(意岐国造)、長国造、都佐国造、波多氏(波多国造)
  10. 51
    禁厭(まじない、きんえん)とは、日本在来の呪術のことである。神道では、大国主神と少彦名神を禁厭の祖神としている。

    『日本書紀』では、鳥獣や昆虫の害を払うためにそれ除去する呪いを(両神が)定めた旨の記述があり、農耕に関わる禁厭であった事が分かる。

    江戸時代の国学者である伴信友が著した『方術考説』には

    「マジナヒ、こは物実を構えて、それにまじこり肖しめむと、のろひてする術、但しノロヒは凶からしむ方にのみするを此は吉凶ともにするなり」
    とあり、その物実を「マジモノ」というとある。

    関連項目
    形代
    雨乞い
    追儺
    呪禁


    魔術(まじゅつ)は、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である[1][* 1]。魔法(まほう)とも[3]。

    人類学や宗教学の用語では呪術という[4]。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある[5]。

    訳語としての「呪術・魔術・魔法」と文脈に応じたその用法
    英語の magic[* 2] は「魔法」、「魔術」、「呪術」と翻訳される[6]。近代日本において、訳語を創出する必要があった「文化」などの概念と異なり、magic は従来の日本語の語彙で対応しうる言葉であった[8]。魔法は古くからある日本語であり、幕末に刊行された『和英語林集成』初版(慶応3年(1867年))の英和の部では magic に「魔法」・「飯綱」・「妖術」が当てられ、同じく和英の部では「魔法」や「魔術」に magic arts, sorcery 等が当てられた[9]。

    宗教人類学の分野では、この訳語として呪術が定着している[10][* 3]。一方、思想史[12]や西洋史の文脈では魔術の語が用いられることが多い[13]。魔術は西洋神秘思想の一分野の呼称としても用いられる[4]。
  11. 52
    単に星形を書くということなら特に順番はありませんが、五芒星(陰陽五行の印)ということなら星形の天辺が五行の開始の「木」に当たりますのでそこから始まり、五行相剋の順に右下(「土」)→左上(「水」)→右上(「火」)→左下(「金」)→天辺(「木」)で一巡ですね。

      木 
    水 大 火
     金 土


     東
    北 南
     西中央?
  12. 53
    綿状龍吟洩矢星友楽市天
  13. 54
    『カタステリスモイ』(ギリシア語:Καταστερισμοί, Catasterismi、意味は「星々の配置」)とは、星々や星座の神話的な起源を、ヘレニズム期の解釈で語ったアレクサンドリアの散文。

    作者
    天文学者のエラトステネスとも言われるが、そう言い切るには問題がある。この作者は占星術には詳しいようだが、それはエラトステネスの科学的な推測・問題解決とは何の関係もない。確かに占星術は天文学の起源だが、天文学は論理的問題解決能力に欠ける占星術の前兆や解釈を切り捨てている。この分離は紀元前1世紀頃、アレクサンドリアの知的サークルでなされた。そうした理由から、『カタステリスモイ』はエラトステネス作とする偽書で、その作者は「偽エラトステネス(pseudo-Eratosthenes)」と呼ばれている。

    テキストと歴史
    オリジナルは失われていて、それに基づいて、1世紀末にまとめられた要約の形で残っている。その後、長い期間をかけて熟成した。メソポタミアの黄道十二星座が、ペルシア人解釈者を経由して古代ギリシアにもたらされ、翻訳された。翻訳するにあたっての重要な要素は、個々の星やプレアデス星団やヒアデス星団のような星座の形を、ギリシア神話の何にあてはめるかである。古典ギリシア時代、プラトーンはというと、「遊星」とそれを管理する神々とを完全に切り離していた。ヘレニズム文化には、その繋がりは切り離せないものになっていた。たとえば、アポローンはもはや太陽の統治者ではなくなり、ヘーリオス、つまり太陽そのものになった[1]。
  14. 55
    内容
    第1章から第42章 - トレミーの48星座のうちの43を扱っている。その中にはプレアデス星団も含まれる。
    第43章と第44章 - 5つの惑星と銀河系を扱っている。
    ヘーシオドス作と言われる失われた本『アストロノミア(Astronomia)』からの引用がいくつかある。
    神話的主題の多くはアラートスの『現象(Phaenomena)』(紀元前275年頃)から引かれていて、実質的にアラートスの書いたことを脚色したものである。反対に、後世のガイウス・ユリウス・ヒュギーヌス作と言われる『天文詩』は『カタステリスモイ』と類似している。
    出版
    ルネサンスの時代、『カタステリスモイ』の印刷物は早くからエラトステネス作としてきたが、常に、Erhard Ratdoltが木版画の挿絵つきで印刷した『天文詩』(1482年、ヴェネツィア)の陰に隠れていた。

    Johann Schaubach版の『カタステリスモイ』(1791年、マイニンゲン)には天体図の挿絵がついたが、他の本(Johann Gottlieb Buhle版『現象』1793年 - 1801年、ライプツィヒ)から得たものだった。 [2]
  15. 56
    脚注
    ^ Seznec 1981, pp 37–40
    ^ Johann Konrad Schaubach (1764-1849) - マイニンゲンの古代天文学史家、教育者、『Geschichte der griechischen Astronomie bis auf Eratosthenes』(1802年)の著者。
    参考文献
    Seznec, Jean. 1981 The Survival of the Pagan Gods. (Princeton, NJ: Princeton University Press)
    Condos, Theony. 1997. Star Myths of the Greeks and Romans: A Sourcebook (Grand Rapids, Michigan: Phanes Press, 1997) ISBN 1-890482-92-7 (hb); ISBN 1-890482-93-5 (pb). A translation of the Catasterismi and De Astronomia attributed to Hyginus. The only available English translation, critically reviewed by Roger Ceragioli in Journal for the History of Astronomy, 30.1 (1999) pp 313–315; by John McMahon in Archaeoastronomy: The Journal of Astronomy in Culture, XVI (2001) pp 98-99 [1] and by John T. Ramsey, as "Bryn Mawr Classical Review 98.6.28" [2].
  16. 57
    アラトス

    誕生 紀元前4世紀末
    キリキア、ソロイ[1]
    死没 紀元前3世紀半ば
    職業 詩人
    言語 古代ギリシア語
    ジャンル 教訓詩
    ウィキポータル 文学
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    Phaenomena
    ソロイのアラトス(古希: Ἄρᾱτος, ラテン翻字: Aratos, 羅・英: Aratus)は、紀元前3世紀に活躍した古代ギリシアのマケドニアで活躍した詩人。小アジアにあるキリキアのソロイ出身であるため、政治家のシキュオンのアラトス(英語版)と区別するためソロイ(またはソリ)のアラトスと呼ばれる。
  17. 58
    『ファイノメナ』
    代表作は教訓詩『現象』(Phainomena)で、また彼の主要な作品で現存しているのは、これだけである。この前半は星座の配置や運行を扱い、Diosemeiai(天気の予兆)という別名をもつ後半部では、実用的な天気予報その他の気象論的な話題をとりあげる。前半部はエウドクソスの、後半部はアリストテレスやテオプラストスを参照している[2]。

    現代に伝わる星座に関するギリシア神話は、ほとんどがアラトスの記述を基盤にしている。ただし、これらの神話はアラトスの創作ではない。これ以前にギリシアで作られた美術品や、断片的に残った戯曲に関する記述などから、星座に関する著名な神話は、アラトス以前から伝わっていたことが分かっている。

    アラトスの生前から、この作品は傑作として認められ、古代を通じて親しまれ、ヒッパルコスやアレクサンドリアのテオンらの注釈が知られている[3]。キケロやウェルギリウスなどによって、何度もラテン語訳された。専門的な内容をエレガントな詩文の形式で、分かりやすく紹介したことが評価され、一般的な知識人は本書やその注釈から天文学や気象学について学んだ[2]。

    『現象』は、現代に通じる星座に関するまとまった記述としては最も古いもので、科学史的に重要な書物である。ヒッパルコスによる注釈は、ヒッパルコスのただ一つの現存する著作で[4]、記されている星座の座標の値は科学史的に重要な資料である。特に、プトレマイオスの『アルマゲスト』の恒星表の由来に関する論争との関係で詳しく調べられた[5]。中世前期のラテン語圏では、専門家にとっても、天文学に関する貴重な情報源だった[6]。

    日本語訳
    『ギリシア教訓叙事詩集』伊藤照夫訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2007年。ISBN 4876981701
  18. 59
    天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia)[注釈 1], sterrenkunde (sterrekunde)[注釈 1], 仏:astronomie)は、天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。

    占星術(せんせいじゅつ)または占星学(せんせいがく)は、太陽系内の太陽・月・惑星・小惑星などの天体の位置や動きなどと人間・社会のあり方を経験的に結びつけて占う(占い)。古代バビロニアを発祥とするとされ、ギリシア・インド・アラブ・ヨーロッパで発展した西洋占星術・インド占星術と、中国など東アジアで発展した東洋占星術に大別することができる。占星術が非科学的である主な理由としては反証可能性がないためである[1]。
  19. 60
    占星術と科学
    もともと、占星術(astrology)と天文学(astronomy)は深い関係があった。さまざまな経緯を経て、長い長い時代を経て、徐々に距離ができ、現代では占星術と天文学は別のものになっている。天文学は、途中まで占星術とともに、プトレマイオス以来の地球中心説(天動説)の宇宙観のもとに発展した。途中からコペルニクスの『地動説』が登場し、そのあたりから分化が始まったのである。やがて伝統的占星術は廃れ、現代占星術として復活することとなる。
  20. 61
    天文学との関連
    占星術は天文学の母胎でもあった。ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは天文学者・数学者であると同時に、占星術師でもあった[6]。ドイツ観念論を代表する哲学者ヘーゲルは、大学教師の職に就くための就職論文Dissertatio philosophica de Orbitis Planetarum. (『惑星の軌道に関する哲学的論考』通称『惑星軌道論』[7])において、惑星の運動を本質的に解明したのは、物理学的に解析したニュートンよりもむしろケプラーであると評した[8]。

    そしてケプラーは「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」と書いた[9]。権力者は、自分の運命や選択の良し悪しに興味があるので、それについて答えてくれると考えられた占星術のほうに金銭を出し、その金銭が結果として、星を観察・観測する天文学を支えるという効果があった、という意味である[注釈 1]。
  21. 62
    占星術と自然科学
    星がどのような周期的な動きをするものであるかに関心があった時代では、占星術と天文学は未分化で混然一体の状態であった。現代のような自然科学は19世紀になってようやく誕生したものである[注釈 2]。それ以前は、自然についての考察は自然哲学という体系で行われていた。アイザック・ニュートンによる1687年の著作『自然哲学の数学的諸原理』によって分離がすすみ、決して一足飛びにではなく、徐々に、占星術と自然科学の距離が離れていったのである。現代の天文学者は、一般に、天体の配置や動きを用いて予想しようとするのは、あくまで天体の位置や動きであり、決して人間の性格・運勢、国家の未来などではない。

    現代の多くの占星術専門家が、惑星の位置を用いて予想しようとするのは、あくまで人の運命などであって、彼らは現代自然科学を用いて、より正確な惑星の位置などを予測することには興味が無い。このように、占星術と天文学は、現代では、目的も手法も、原則的に別のものになっているのである。

    ただし、若干の例外はあり、占星術と自然科学が重なるような、微妙な領域での研究がいくつかある。

    ソルボンヌ大学の心理学者・統計学者ミッシェル・ゴークラン(フランス語版)は、誕生時の火星の位置と人の職業の膨大な統計をとり、両者には相関関係がある、と結論づける論文を発表(SCICOP サイコップの初期メンバーはこの論文を否定できると決めつけて活動したものの、調査して得た結果は、彼らの予想に反して、この論文を不本意ながら追認せざるを得ない結果になり、サイコップ内で紛糾が生じ、サイコップの歴史の汚点ともなった)。
    これは、当時のドイツの異常な社会状態と関係があり、政治的な圧力が学問の世界にまでひずみを与えていた、という事例である。
    ソルボンヌ大学のディーン・ルディアはユング占星術、すなわち「占星術の心理学的アプローチ」に対し、「心理学の占星術的アプローチ」を行い、後の西洋占星術における「サビアン占星術」に貢献した[要出典]。
  22. 63
    占星術と心理学
    心理学の歴史をたどると、カール・ユングなど、心理学者の一部は、占星術に積極的に取り組んだ[10]。ユングは「シンクロニシティ」あるいは「意味のある偶然の一致」という考え方を示そうとして、占星術を援用した。この事情もあり、現代の占星術師の中でもイギリスを中心として占星術研究家と称する人々の中には、心理学を援用しようと試みている人もいる。

    1970年代に欧米で、心理療法の分野の研究をしながら占星術を学ぶ人が増えたことにより心理占星学が発達したといわれている。人間の心を扱う研究は古代の占星術が扱うテーマのひとつであったともいわれている。先駆者としてディーン・ルディア、リズ・グリーンなどがあげられている。
  23. 64
    占星術と未来予測の関係
    西欧中世のスコラ哲学者トマス・アクィナスは「星は誘えど、強制せず」と含蓄ある表現で指摘した。占星術はいくつもの意味づけ・解釈を提供するもので、複数の意味づけ・解釈のどれを採用すべきなのか決められないような形で提供するようなものである(ものにすぎない)、ということを述べている。

    学者による検証
    パリで一人の科学者が無料占星術の広告を新聞に掲載。応募要綱には出生地と出生時間を条件に付記、この応募に150通の手紙が寄せられた。“条件”とはフランスの連続殺人犯と同一のものであるが、それは差出人には伏せて占星術の結果をアンケート用紙を同封して報告。応募者の94%が「占いは当たっている」と返答した。[11]

    惑星の定義見直しによる影響
    惑星の定義見直しによる影響は、西洋占星術の項を参照。
  24. 65
    神話
    この星座に伝わるギリシア神話は、いて座、オリオン座も参照

    『ウラニアの鏡』に描かれたさそり座
    古代ギリシアの偽エラトステネースやアラートスの伝えるところでは、英雄オーリーオーンをその毒針で死に至らしめたサソリが星座となったものとされている。女神アルテミスは、彼女を強姦しようとしたオーリーオーンに対してサソリを遣わして毒針で殺させたという[13][14]。ただし偽エラトステネースは、オーリーオーンの項目では「どんな野獣でも倒すことができる」と言い放ったオーリーオーンに怒った女神ガイアが放ったサソリ」としている[13]。このサソリの住処をアラートスやエラトステネースはキオス島としているが、ヒュギーヌスは(またエラトステネースも一貫せずオーリーオーンの項目では)クレタ島と言っている[13][14]。今でもオリオンはサソリを恐れて、東の空からさそり座が現れるとオリオン座は西の地平線に逃げ隠れ、さそり座が西の地平線に沈むとオリオン座は安心して東の空へ昇ってくるという[13]。

    帝政ローマ期の詩人オウィディウスは、アポロンの息子パエトーンが天をかける太陽の馬車を強引に運転した際、黄道近くにたむろして馬を驚かせたサソリであるとしている[3]。

    中国人は青龍にたとえた。この想像上の生物は、強力だが慈悲深く、天に現れることによって春を予告する。星との対応はさそり座のサソリとほぼ同じであり、頭部に房宿、心臓部に心宿、尾部に尾宿の3星宿を置いたが、青龍の二本のツノの一つはうしかい座のアークトゥルス(大角星)、もう一つはおとめ座のスピカ(角宿)まで延びるとされた[15]。ベトナム星座では、房宿(さそり座π星などからなる)を冠に見立て、心宿(アンタレスなどからなる)を丸い背中に見立てて、この二宿をあわせて神農(Thần Nông)と呼び、社稷の神(穀物神)として尊崇した。

    ニュージーランドに伝わるマオリ神話では、マウイがニュージーランドの北島を釣り上げた際に使った釣り針が天に引っ掛かったものとされている[16][17]。
  25. 66
    データと理論の矛盾で完成だとしたら、難しい話しなのかもだよね。
    続く?
  26. 67
    巨人で地上でその話があったから、星空で逃げてるって話ってのが欲しに?星には記録されてない
    漢字なんだよね?
    星に関する文章に記録されてるみたいな?
    なんで星がそうなったのかは、地上が中心の出来事?
    コペルニクス的展開であろうか?
  27. 68
    オオクニヌシも国譲りの後は、幽世とか幽冥にきづきをともない?
    そこで終わりっぽいのかね?
    アレだよね。
    まだ神武の時だと、天孫降臨の残りがアレだよね。
  28. 69
    すいばねの
    くにくよみいわ
    この世海栗

    なんだコレ。

    あきつうに?
    ひらさかいわと

    それも天?海?
    天津神。
    天の黄泉。

    まぶしい?月も?
  29. 70
    十字(じゅうじ、英: cross クロス)は、幾何学図形の1つで、2つの線(棒)が互いに直交(直角に交差)して、片方または両方の線が中央で分割されている。線は通常は水平と垂直だが、斜めの場合は斜め十字(ななめじゅうじ、英: saltire サルタイアーあるいは聖アンデレ十字)とも呼ばれる。

    なお日本では、線が垂直な場合は漢字の「十」と同じ形のため「十文字」(じゅうもんじ)、斜めの場合は「×」(バツ、ペケ)と呼ばれる事もある。

    概要
    十字は最も古代から存在する、人類的とも言えるシンボルの1つであり、多くの地域で使用されている。特によく知られているキリスト教の十字架の他にも、四大要素のひとつを示すシンボル、占星術や天文学のシンボルのひとつ、方位を示すシンボルとしても用いられている。
  30. 71
    キリスト教と十字
    キリスト教において十字は、直接的(表面的)には「キリストの磔刑」を示しているが、その深い意味、キリスト教神学的な意味としては、「もともと天において神ヤハウェの近くにいて天地創造にもかかわわったイエス・キリストが、人類のためにわざわざ受肉してこの地上に現れてくださり、全人類の罪をあがなうために十字架にかかってくださった。そのお蔭でヤハウェと人類の関係が修復し、人々は来る日には復活し永遠のいのちを得る状態となった。」という、聖書に記されている一連のできごとや、その神学的な意味を表すためのシンボルである。 またパウロの哲学(神学)では「垂直線は神と人との関係。水平線は人々の間の関係。十字は両者のreconciliation 調和(和解)[1]。」という意味を持ち、その哲学を示すシンボルなどとしても使われている。多くのキリスト教の教派で聖職者や信徒たちが、(ことあるごとに、身体の前、胸や顔の前あたりで)指(手)を「十字」に動かすようになった(日本語では「十字を切る」や「十字を描く」などと表現する)。キリスト教はヨーロッパに広がり、ヨーロッパの王族(の王権)や貴族はキリスト教教会(西ヨーロッパではカトリック、東欧やロシアではオルトドクス)の権威とも結びついていたので十字は王族や貴族の紋章、家紋などにも使用されるようになった。またヨーロッパの他の国々でもキリスト教の信仰を示すために国旗に十字が埋め込まれた(たとえば、デンマークの国旗、また北欧諸国の国旗に埋め込まれた十字(スカンディナヴィア十字) 等々)。また大航海時代のヨーロッパ人の世界進出によって世界中に広まり、キリスト教は世界で数十億人の信者を擁するに到ったので、ドミニカ共和国の国旗やトンガの国旗を含めて、多くのキリスト教国の国旗でも使用されるようになった。→キリスト教神学、十字の切り方、紋章、紋章学、クロス (紋章学)、#国旗の例

    スイスでも(十字が貴族の紋章に使われた結果、巡り巡って)スイスの国旗に用いられるようにもなった。そして赤十字社は、その設立にスイスが縁があるため(また、困っている人のためならば人種や国境を越えて手を差し伸べる、という人類愛、友愛、キリスト教的理念を暗黙裏に示すためにも)十字の標章を用いることになった。
  31. 72
    天体と十字
    占星術や古い時代の天文学では、太陽のシンボルとして使われた。また1598年にペトルス・プランシウスによって星座群に「南十字座」が加えられ、その結果それ以降、実際の星座群の中にも十字がある、と見なされるようになった。

    アジアと十字
    アジア地域での十字について解説すると、中国の、晋の時代に十字をつけた餅を食して厄除けとする風習があった[2]。

    日本に、その晋の餅の風習が伝えられると鎌倉時代に流行し、その餅のことを「十字」といったともされる[2]。

    また日本では家紋に十字を埋め込んだものがある。→#家紋と十字

    家紋と十字
    十文字紋(じゅうもんじもん)は、漢字の「十」を図案化した家紋である。図案には「丸に十文字」「島津十文字」、「日置十文字」、「猪飼十文字」などがある。その形状から、久留子紋と混同されることが多く、また、島津氏が用いたとされる「丸に十字」は轡紋と混同されることがある。

    鎌倉時代初期の、島津忠久の甲冑に記された「十文字」が現存では最古の例である。主に島津氏とその関係の氏族が用いた。フランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に来た際、島津が「白い十字架」を使用していたことに驚いた、という記録がある[4]。

    徳川幕府によるキリスト教の禁教令発布後は轡紋(くつわもん)、祇園守紋(ぎおんまもりもん)、桛紋(かせぎもん)、卍紋などとともに久留子紋の代用として用いられることがあった。[2]

  32. 73
    轡紋

    家紋無双
    轡は馬の口に咥えさせる馬銜と手綱を結ぶ金具を指し、尚武的な意味合いで使用された。 隠れキリシタンが紋章の中に十字架を見出し使用したことでも有名。
  33. 74
    聖アンデレ

    ウクライナで18世紀に作成された、アンデレのイコン。
    使徒
    崇敬する教派 カトリック教会、非カルケドン派、正教会、聖公会、ルーテル教会
    記念日 11月30日
    テンプレートを表示
    アンデレは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。シモン・ペトロの兄弟であるとされている。西方教会、東方教会ともに聖人で記念日(聖名祝日)は11月30日。

    「アンデレ」の表記は、先に聖書を翻訳した中国語の安得烈(アンデリェ)からとも、格変化語尾をはずして名詞幹のみにした日本語聖書の慣用表記とも考えられて、ギリシア語での主格表記はアンドレアス(Ανδρέας)。

    英語ではアンドルー(Andrew)、フランス語ではアンドレ (André)、ドイツ語ではアンドレアス (Andreas) 、スペイン語ではアンドレス (Andres)、イタリア語ではアンドレア (Andrea)、ロシア語ではアンドレイ(Андрей)、ウクライナ語ではアンドリーイ(Андрій)、ハンガリー語ではアンドラーシュ(András)またはエンドレ(Endre)、チェコ語ではオンドジェイ(Ondřej)、スロバキア語ではオンドレイ(Ondrej)。
  34. 75
    概説
    『マルコによる福音書』によると、兄弟ペトロと共にガリラヤ湖で漁をしていたときに初めにイエスに声をかけられ、弟子となった[1]。弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目にあげられている。

    『ヨハネによる福音書』では、シモン・ペトロとアンデレの兄弟はもともと洗礼者ヨハネの弟子であったが、イエスを「神の子羊だ」というヨハネの言葉を聞いてイエスに従ったことになっている[2]。他には、五千人にイエスが食べ物を与える物語では、アンデレはパンと魚を持った少年を連れてきてイエスに紹介し、食べ物が増える奇跡を導く役割を果たしている[3]。また、ギリシャ人がイエスに会いにきたときも、その間を仲介している[4]。

    エウセビオスは、オリゲネスが「アンデレは小アジアとスキタイで伝道し、黒海に沿ってヴォルガ川まで行った」と述べた、と伝えている。そのため、アンデレはルーマニアとロシアの守護聖人になった。アンデレはルーマニアではアンドレイ(Andrei)、ロシアではアンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌィイ(Андрей Первозванный)と呼ばれる。伝説上ではアンデレはビザンティウムの最初の司教であり、そのため正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁は初代総主教をアンデレとしている。
  35. 76
    また伝承ではアンデレはギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され、殉教したことになっており、絵画においてもしばしばX字型の十字架と共に描かれている。十二使徒のひとりとして崇敬され、カトリック教会、正教会、聖公会などで聖人とされる。前述したロシアとルーマニアのほか、スコットランドとギリシャでも守護聖人とされており、アンデレが処刑されたとされるX字型の十字架は「アンデレの十字架」と呼ばれ、アンデレを守護聖人とする人物や団体の旗や紋章に採り上げられる。スコットランドの国旗「聖アンドルー旗」(セント・アンドルー・クロス、青地に白)、ロシア海軍の軍艦旗「聖アンドレイ旗」(白地に青)などが有名である。ロシアでは「聖アンドレイの守護勲章(英語版、ロシア語版)(орден Святого Андрея Первозванного)」と呼ばれる勲章も存在する。

    ブルゴーニュ公フィリップ善良公はアンデレを守護聖人とする金羊毛騎士団を設立し、白地に赤色の聖アンデレ十字を騎士団及び公国の旗として用いた。この旗は騎士団を継承したスペイン及び同領ネーデルランドで使われた。
  36. 77
    水田?アレも田か。米じゃないけどさ。
    茅葺屋根のメンテのコストだっけ?
    板もあるよね。
    金とか土だけじゃなくてさ。
    土を焼いた瓦?金属のとたんやねー。雨の日は水?照りつける太陽?
    南北み見えにくいようなもの?
  37. 78
    LET ME US SET ME FREE 
    って聴こえたとかっしょ。

    CANNOT TO SETとかなかったっけ?
  38. 79
    は~い!
  39. 80
    ふのりそばじゃなくて、もずくそばなんでしょ?
    こしってアレでいいのかね?
  40. 81
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    天文学は、天体と宇宙を研究する学問です。天体の位置や動き、状態や進化、宇宙の構造や起源などを研究します。天文学は、地学や物理学、宇宙化学や宇宙生物学など、さまざまな科学分野が複合した総合科学です。
    一方、占星術は、国家の盛衰や王家の吉凶を占うのに用いられていました。現在のように星の配置を「ホロスコープ」という図に表して分析する手法が生まれたのは、今から二千数百年前です。
    天文学と占星術は異なります。天文学の星座は英語でconstellationといいます。占星術の星座は、英語でsignといいます。
  41. 82
    大(読み)だい
    精選版 日本国語大辞典 「大」の意味・読み・例文・類語
    だい【大】

    [1] 〘名〙 形の大きさ、数の多少など、相対的な評価、認識において、大きい方あるいは多い方であることをいう。⇔小。
    ① (形動) 数量や形または規模範囲などが大きいこと。また、そのさま。
    ※法華義疏(7C前)二「今文自三各賜二諸子等一大車一。故知。索レ大也」
    ※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)五「をぐり、このよしきこしめし、大のまなこに、かどをたて」
    ※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉附録「言語は大にしては時代の特徴なり小にしては個人の性格の発現なれば」 〔易経‐乾卦〕
    ② (形動) ものごとの程度が大きいこと、はなはだしいこと。盛んであること。また、そのさま。
    ※太平記(14C後)一四「其罪大而無レ拠レ逋レ身」
    ※花間鶯(1887‐88)〈末広鉄腸〉上「其の前途の責任は重く且つ大なりと謂ふべし」 〔論語‐子罕〕
    ③ (形動) 実際よりも誇張して偉そうであったり大きかったりすること。また、そのさま。特に、虚勢を張った大言壮語や大げさなふるまいをいう。
    ※洒落本・短華蘂葉(1786)「『いっそ、練物でも見にゆかうか』『立ち見の足踏まれなら、よしにしたがよい』『ヱライ大いふナ』」
  42. 83
    ④ 太陽暦で三一日ある月。太陰暦で三〇日ある月の称。大の月。
    ※増鏡(1368‐76頃)一二「その年十月、大なりつるを」 〔白虎通徳論〕
    ⑤ 中世から近世初期にかけて地積の単位。一段の三分の二をいい、太閤検地以前は二四〇歩、それ以後は二〇〇歩を称した。大歩。
    ※大賀村検注取帳副日記‐元徳二年(1330)一一月一八日(古事類苑・政治七二)「六十歩と云ふは、足数六十也。〈略〉大と云ふは四六十歩也」
    ⑥ 女郎の格付けで高級な位。品川遊里で、揚代十匁の女郎をさしていう。
    ※洒落本・南品あやつり(1791)「『さっきとなりへ来てはなしをした女郎衆はなんといふ』『しれやせんは大(だイ)の女郎衆かへ〈拾匁の事也〉』」
    ⑦ 役者評判記の位付の一つ。「功」と同じく至の上白極の下に位し、功よりは上極昇進の望みがある。
    ※随筆・済生堂五部雑録(1774‐76)歌舞妓始記評林列伝三「第五半黒極と大(ダイ)とを引合すへし〈略〉大とあるはやがて黒極の位に至るべしといふ事なり」
    ⑧ 長大な打刀(うちかたな)のこと。小刀を「小」というのに対する。
    ※歌舞伎・女土佐日記(1726)上「盃を置、つぎへ直りしなに友十郎が大をけちらかす」
    ⑨ 「大学」の略。「大卒」「短大」「医大」「東大」
  43. 84
    [2] 〘語素〙
    [一]
    ① (名詞の上に付いて)
    (イ) 数量や形、または規模が大きい意を添える。「大群衆」「大企業」「大辞典」「大洪水」など。
    ※梁塵秘抄(1179頃)二「大楼閣の中にして、大悲法門説いたまふ」
    (ロ) (イ)の意に加えて、さらにそれを尊敬賛美する意を添える。「大先輩」「大編集者」「大社長」など。
    ② 状態や程度を表わす語の上に付いて、そのさまのはなはだしい意を添える。「大好き」「大混乱」「大好物」「大失敗」など。
    ※平家(13C前)三「汝は大正直の者であんなれば」
    ③ 官職、位階などを表わす語の上に付いて、その中での最上である意を添える。「中、少」に対する。「大納言」「大僧正」「大宮司」「大初位」など。
    ④ 同じ分野ですぐれた業績をあげた父子のうち、父のほうの名の上に付けて区別する。Senior と Junior の区別のある、主として父子関係の Senior に対応する訳語。「大デュマ」「大ヤコブ」「大ガブリエル」
    [二] 具体的な物を表わす語の下に付いて、その大きさとほぼ同じである意を添える。「こぶし大」「米粒大」など。
    ※舎密開宗(1837‐47)内「其或砂の如く或鱗片の如く稀に鴿卵大の者あり」
    ※野心(1902)〈永井荷風〉六「同時に其等の紙面の裏には一頁大(ダイ)の広告が」
    [補注](1)(一)②のうち、「の」を伴うものは現代語の場合は、連体詞「だいの」として独立させる考え方もできる。
    (2)(二)(一)①②は、付く語によって同意の「おお(大)」と使い分けられているが、必ずしも和語、漢語の別にはよらない。
  44. 85
    ⑤ 規模が大である。盛んである。豊かである。
    ※寄合ばなし(1874)〈榊原伊祐〉初「何某より大(オホ)きく暮したい、何某より能い身代になりたいと、さまざまの願ひ望みを起すも」
    ⑥ 度量などが広い。寛大である。
    ※くれの廿八日(1898)〈内田魯庵〉四「少(ちっ)との事は勘弁して気を寛(オホ)きく持って」
    ⑦ 程度がはなはだしい。たいへんである。
    ※甲陽軍鑑(17C初)品三七「信州川中嶋にをひて、大きく負(まけ)、三千余うたれて後は」
    ⑧ 大げさである。また、えらぶっている。ずうずうしい。
    ※社会百面相(1902)〈内田魯庵〉古物家「『贋物と鑑定違ひして却て真物(ほんもの)を廉(やす)く売る事がある、憎くない奴ぢゃ』と愚得大人大きく出た」
    [語誌](1)室町時代以後、「大きい」が生じたのは、古代からある対義語「小さし」の存在による。すなわち、「大きなり」(形容動詞)⇔「小さし」(形容詞)の組よりも、「大きい」(形容詞)⇔「小さい」(形容詞)の方が、より対称性がはっきりするからである。「高し」(形容詞)⇔「低(ひき)なり」(形容動詞)から「高い」(形容詞)⇔「低い」(形容詞)という組が形成されたのも、同様に考えられる。
    (2)「大きい」が成立すると、もとの形容動詞「大きなり」は、連体形「大きなる」が「大きな」という連体詞の形で、連用形「大きに」が副詞の形で(関西の感謝の言葉「おおきに」もこれからきている)残存した。連体詞「大きな」が成立するとともに、それまでなかった対義の連体詞「小さな」も成立した。
  45. 86
    おっき・い【大】
    〘形口〙 「おおきい(大)」の変化した語。
    ※滑稽本・浮世床(1813‐23)初「ホンニヨ一日置に捨利をとられるばかりも大(オッ)きいはな」
    ※落語・阿七(1890)〈三代目三遊亭円遊〉「成程…恐しく巨大(オッキ)イ小児(がき)だなア」
    おっけな・い【大】
    〘形口〙 (「おおきな」の変化した「おっけな」の形容詞化) 大きな。大変な。ひどい。
    ※浄瑠璃・本田善光日本鑑(1740)三「姉姫様共存ぜず、おっけない慮外申上ました」
    出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
  46. 89
    デジタル大辞泉 「大」の意味・読み・例文・類語
    だい【大】[漢字項目]

    [音]ダイ(呉) タイ(漢) [訓]おお おおきい おおいに
    [学習漢字]1年
    〈ダイ〉
    1 形・数量・規模などがおおきい。「大小・大胆・大地・大仏/遠大・過大・拡大・寛大・巨大・強大・広大・細大・甚大・盛大・増大・長大・莫大ばくだい・肥大」
    2 すぐれてりっぱである。「大王・大徳/偉大」
    3 重要である。「大事」
    4 程度がはなはだしい。「大吉・大分」
    5 等級・位がこの上なく高い。「大学・大臣・大統領」
    6 おおよそ。「大体」
    7 大きく見せる。いばる。「誇大・尊大・夜郎自大」
    8 大学のこと。「音大・私大」
    〈タイ〉
    1 の1~6に同じ。「大火・大家・大海・大概・大器・大国・大作・大使・大樹・大衆・大暑・大将・大成・大切・大層・大任・大変・大略・大量・大老」
    2 相手を敬っていう語。「大兄」
    〈おお〉「大型・大空・大幅・大水・大文字」
    [名のり]お・おおき・たかし・たけし・とも・なが・はじめ・はる・ひろ・ひろし・ふと・まさ・まさる・もと・ゆき・ゆたか
    [難読]大人うし・おとな・大凡おおよそ・大鋸屑おがくず・大臣おとど・かみ・大原女おはらめ・大蛇おろち・大夫かみ・たゆう・大角豆ささげ・大刀たち・大蒜にんにく・大和やまと
  47. 90
    だい【大】
    [名・形動]
    1 形・規模・数量などの大きいこと。また、そのさま。「声を大にする」⇔小。
    2 程度のはなはだしいこと。また、そのさま。「責任は大である」
    3 その社会で水準以上にすぐれていること。盛んなこと。りっぱなこと。また、そのさま。
    「僅か一代で今日の―を為したという」〈島木健作・生活の探求〉
    4 「大の月」に同じ。⇔小。
    5 同名の父子のうち、父のほうを示す。「大デュマ」⇔小。
    6 田畑の面積の単位。太閤検地以前は240歩ぶ。以後は200歩。
    7 「大学」の略。「小・中・高・大」
    8 物を表す語の下に付いて、それとほぼ同じ大きさであることを表す。「こぶし大の石」「実物大に作る」「等身大の像」
    9 名詞・形容動詞に付いて接頭語的に用いる。
    ㋐数量や形・規模などが大きい意を表す。「大豊作」「大庭園」「大辞典」「大洪水」
    ㋑9㋐の意に加えて尊敬または賛美する意を表す。「大先輩」「大僧正」
    ㋒状態や程度を表す語に付いて、そのさまがはなはだしい意を表す。「大好き」「大混乱」「大失敗」→大の
    おお〔おほ〕【大】
    [形動ナリ]大きいさま。たっぷりしたさま。
    「夏影のつま屋の下に衣裁きぬたつ我妹わぎも裏設うらまけてあがため裁たばやや―に裁て」〈万・一二七八〉
    [接頭]名詞に付く。
    1 大きい、広い、数量が多い、などの意を表す。「大男」「大海原」「大人数」
    2 物事の程度がはなはだしい意を表す。「大急ぎ」「大地震」
    3 極限・根本などの意を表す。「大みそか」「大もと」
    4 序列が上位・年長であることを表す。「大先生」「大番頭」「大旦那」「大女将おかみ」
    5 おおよそ・大体の意を表す。「大ざっぱ」「大づかみ」
    6 尊敬・賛美の意を表す。「大御所」「大江戸」
    たい【大/代/台】[漢字項目]
    〈大〉⇒だい
    〈代〉⇒だい
    〈台〉⇒だい
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  48. 91
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    形容詞化
    [名](スル)ある言葉が変化して、形容詞として使われるようになること。動詞「うらやむ」が「うらやまし...
    島木健作
    小説家。明治36年9月7日、札幌生まれ。本名朝倉菊雄。2歳のとき父を失って一家は離散し、苦学しながら...
    大デュマ
    ⇒デュマ...
  49. 92
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    親子(おやこ)扉は、2枚のドア幅が異なる両開き扉で、大きい方を親扉、小さい方を子扉と呼びます。
    親子扉は、人や物の出入りが多い部屋に設置され、通常は子扉側をフランス落しなどの戸締り金具で固定しておき、親扉のみを開閉させて片開きで使用します。
    また、1ヵ所で大小使う電球は親子電球と呼ばれます。1対で使う場合、形状が違う組み合わせの場合には、雄雌と言った呼び方になることがあります。
  50. 93
    暇人はよそで書き込みしてくれ。
  51. 94
    変(読み)へん(英語表記)epi-
    翻訳|epi-

    精選版 日本国語大辞典 「変」の意味・読み・例文・類語
    へん【変】

    〘名〙
    ① 変わること。事態が移り変わること。変化すること。推移。変遷。
    ※平家(13C前)一二「大地においてはことなる変をなさず」
    ※談義本・風流志道軒伝(1763)五「時に随ひ変に応ず」 〔易経‐繋辞・上〕
    ② 異常の事件が起こること。社会的に大きな影響を与えるような事件が、不意に起こること。政変や動乱などが発生すること。また、その事件や出来事。
    ※当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉八「明治一新の変に遭ふて」 〔史記‐周本紀〕
    ③ 病気が急に悪化すること。病状が急変すること。
    ※浮世草子・風流曲三味線(1706)五「脉体よければ別条はあるまじ。〈略〉定めし変はあるまじ」
    ④ (形動) ふつうとは異なっていること。正常ではないこと。また、疑わしいこと。不思議であること。奇妙であること。また、そのさま。→変に。
    ※平家(13C前)五「始皇帝、烏頭馬角の変におどろき〈略〉本国へこそかへされけれ」
  52. 95
    ⑤ 音楽用語。
    (イ) 東洋音楽、特に雅楽で、五声中の一音を一律すなわち半音だけ低くしたもの。
    (ロ) 西洋音楽で、ある音符に対して半音低いこと。フラット。〔楽典初歩(1888)〕
    へん‐・ずる【変】
    [1] 〘自サ変〙 へん・ず 〘自サ変〙
    ① かわる。改まる。変化する。変じる。
    ※百座法談(1110)天仁三年二月二八日「地獄たちまちに変じて」
    ② 化身(けしん)する。ばける。姿がかわる。変じる。
    ※浜松中納言(11C中)二「仏などのへんじ給へるとなんおぼゆる」
    ③ 動植物などで、変種が生じる。変じる。
    ※小学読本(1874)〈榊原・那珂・稲垣〉三「菊は、〈略〉其種類多くして、数ふべからず、是また種て変ずるに因れり」
    [2] 〘他サ変〙 へん・ず 〘他サ変〙 かえる。変更する。変じる。
    ※観智院本三宝絵(984)上「火を変じて池と成ししかば」
    ※太平記(14C後)二九「心を変ぜぬは稀なり」
    へん・じる【変】
    (サ変動詞「へんずる(変)」の上一段化したもの)
    [1] 〘自ザ上一〙 かわる。変化する。変ずる。
    ※改正増補和英語林集成(1886)「キツネが ヒトニ henjiru(ヘンジル)」
    [2] 〘他ザ上一〙 かえる。改める。変質させる。変ずる。
    へん‐・ず【変】
    〘自他サ変〙 ⇒へんずる(変)
    出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
  53. 96
    デジタル大辞泉 「変」の意味・読み・例文・類語
    へん【変】
    [名]
    1 事態が移り変わること。変化すること。
    「不意に風雨の―に出逢うことも」〈鉄腸・雪中梅〉
    2 急に異常な事態の起こること。また、その事態。「承久じょうきゅうの変」「万一の変に備える」
    3 音楽で、本来の音より半音低いことを示す語。フラット。⇔嬰えい。
    [形動][文][ナリ]
    1 普通と違っているさま。ようすがおかしいさま。「変な服装」「車の調子が変だ」
    2 思いがけないさま。「事件は変な方向に発展した」
    [類語](2)事変・有事・戦時・非常時・乱世・革命・戦争・非常・戦いくさ・戦たたかい・戦役せんえき・役えき・兵へい・兵馬へいば・兵戈へいか・干戈かんか・会戦・合戦かっせん・交戦・戦火・兵火・戦乱・兵乱・戦雲・戦塵せんじん・戦禍せんか・大戦・戦闘・緊急・急難・異変・変事・珍事・ハプニング・奇跡/(1)変に・乙おつ・いやに・いつにない・異常・異様・奇異・異い・奇妙・妙みょう・面妖めんよう・不思議・不可解・不審・不自然・奇怪・奇態・風変わり・特異・異状・異例・非常・別条・変ちくりん・変てこ・変てこりん・妙ちきりん・けったい・おかしい・おかしな・奇天烈きてれつ・珍奇・新奇・珍妙・奇抜・奇警・奇想天外・突飛・ファンシー・突拍子もない・言語道断・無茶・めちゃ・むちゃくちゃ・めちゃくちゃ・めちゃめちゃ・滅法・法外・無理・乱暴・無体・理不尽・非理・不当・不条理・不合理・非合理・狂的
    へん【変〔變〕】[漢字項目]
    [音]ヘン(呉)(漢) [訓]かわる かえる
    [学習漢字]4年
    1 それまでとは別の状態になる。かわる。かえる。「変化・変革・変形・変更・変色・変身・変遷・変動/一変・応変・激変・神変・千変・転変・豹変ひょうへん・不変」
    2 突然起こる異常な出来事。「変乱/異変・凶変・事変・政変・大変・天変地異」
    3 普通でない。「変死・変人」
    4 音楽で、本位音より半音低い音。「変音・変記号」
    出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
  54. 97
    岩石学辞典 「変」の解説

    ギリシャ語のエピ(epi)は英語のupon, outerの意味.この語は様々な意味で接頭語として用いられた.(1) ギュンベルは変質として使用した.一般に鉱物組成が変化した岩石の名称に限って使用した[Gümbel : 1888].しかし,変質作用で変化したドレライト(dolerite)のような他の岩石と鉱物組成が類似している閃緑岩(diorite)に,接頭語を付けて変閃緑岩(epidiorite)として使ったのは間違いである.(2) グルーベンマンは,変成作用の上部ゾーン(upper zone)の岩石に限って使用した[Grubenmann : 1907].このゾーンは中程度の温度と低い静水圧で優勢な片圧が働く地域であり,岩石は一般に千枚岩,緑泥石片岩,滑石片岩,ポーフィロイド,一部の大理石や珪岩などがある.関連する語としてmesoおよびkataがある.(3) ラクロアは,深部での鉱物的および化学的な変質作用で完全に元の形状が隠されてしまった火成岩に限定して使用した[Lacroix : 1920, 1933].関連する語としてmataおよびparaがある.

    岩石が変成したことを表す接頭語で,火成岩源または堆積岩源の岩石名の前に使用し,その岩石の鉱物,化学組成,構造が変成作用や変質作用で改変されたことを意味する[Van Hise : 1904, Loewinson-Lessing : 1905, Lacroix : 1920, 1933].もとの岩石の構造が認められるような変成岩の場合に使用し,変輝緑岩(meta-diabase)などと用いる.ギリシャ語でmetaは後,の意味.
    出典 朝倉書店岩石学辞典について 情報
  55. 98
    世界大百科事典(旧版)内の変の言及
    【説話画】より

    …仏教説話は仏伝,本生,譬喩(ひゆ)説話に大別されるが,それらはインドにおいてストゥーパのレリーフや壁画などに造形され,西域,中国に流伝し,各種の浄土図にも及んだ。これら説話画は,漢訳経典においては〈変〉〈変相〉と称され〈変現〉の意味を有する(変相図)。唐代になると〈変〉は仏教説話に限らず,世俗的題材の説話美術にまで拡大された。…

    【仏画】より
    …厨子絵に描かれる諸尊の配置は,堂内壁画と密接な関係があり,壁画の伝統性をよく保持し,壁画形式を脱皮しえないまでも,堂内の所要の個所に安置することができるため,厨子絵によって仏画はようやく寺院壁画から離脱して,移動の自由を獲得するにいたった。(3)額絵 仏台や牙台と呼ばれる台上に柱を立てて〈補陀落山浄土変〉や〈薬師浄土変〉の額絵を装着する記載が《西大寺流記資財帳》(宝亀11年(780)奥書)にあり〈障子絵〉と注記され,この額絵形式は古くから存することが知られる。この種の遺品としてはわずかに《吉祥天像》(薬師寺)がある。…

    いひん?
  56. 99
    【変相図】より
    …本来,単に変,もしくは変相といい,広義の仏教説話を絵画,浮彫,彫塑などで造形化したもの。変とはもともと仏教用語で,サンスクリット語パリナーマpariṇāmaの訳語とされ,〈転変〉のことをいうが,ここではさらに派生した〈変現〉の意味に用いられ,仏教説話や経典の内容,そこに説かれた譬喩,奇跡譚などで視覚的な造形に表現したものを指すようになった。…

    【変文】より
    …さらに必ずしも特定の経典によらずに,釈迦の本生譚やその他の仏教説話を自在に潤色しながら語り,かつ唱うのもあり,さらには仏教とは関係なく中国の史伝や物語を主題とした講釈も増えてきた。 これら現存の写本には〈変文〉と題するもののほか単に〈変〉と題するものや,〈縁〉〈話〉〈詞文〉〈記〉〈讃〉など種々あるが,〈変〉とは〈維摩変〉や〈浄土変〉のように,仏典に説かれた話を絵にかいたもの(変相)をいい,敦煌の壁画にもその実物があるほか,変文の写本にも絵の付いたのや,〈幷(あわ)せて図一巻〉と題したものや,〈一鋪〉(画幅1枚の意)とか〈画本〉とか題したものがある。つまり語り手は絵の各場面を指し示しながら語り進めたのであった。…

    ※「変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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    dolerite
    ギリシャ語
    インド‐ヨーロッパ語族の一語派をなす言語。ギリシャ本土からエーゲ海の島々、キプロス島などで話されてい...
    ファンシー
    [名]空想。想像。また、気まぐれ。思いつき。[形動]装飾的で意匠を凝らしたさま。また、奇抜であるさま...
    ドレライト
    →粗粒玄武岩...
    滑石片岩
    片状の鉱物である滑石に富む片岩で,一般に雲母と石英が伴われる.ブロニアールによれば,この名称はウェル...
    化学組成
    物質中に含まれている元素の種類と、それらの比率を表すこと。それを元素記号を用いて表したものを組成式あ...
    ラクロア
    生年月日:1765年4月28日フランスの数学者1843年没...
  57. 100
    ☆に願いを
    あの通り乗り越えられたじゃないですか?
    なんともないけど呼ばれた。
    もう見れないかもしれないけど☆奥にいるんだろうね。
    至勢菩薩っぽかったっけ?
    金網越しに誰か?
  58. 101
    吉田神道(よしだしんとう)とは、室町時代京都吉田神社の神職吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道、卜部神道、元本宗源神道、唯一宗源神道とも。

    概要
    吉田神道は、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派である[1]が、実際は吉田兼倶がほとんど一人で集成したと見られている[1]。元本宗源神道、唯一宗源神道などを自称している[1]。本地垂迹説である両部神道や山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる[2]。

    『唯一神道名法要集』によれば、神道は本迹縁起神道、または社例伝記神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられ[3]、このうち第三の元本宗源神道は吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であるとする。同書によれば元本宗源神道とは「元とは陰陽不測の元元を明す。本とは一念未生の本本を明す。(中略)宗とは一気未分の元神を明す。源とは和光同塵の神化を明す。」ものであり、即ち「吾国開闢以来唯一神道是也」とする。

    吉田神道は、中世神道思想を集大成し、様々な宗教の諸言説を越境的に統合しつつ、仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つはじめての神道説となり、神道史における大きな画期となった[4]。
  59. 102
    思想と儀礼
    吉田神道は、仏教・道教・儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる[2]。吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけた[5]。

    吉田神道は、顕隠二教を以って一体となすのが特徴で、顕露教の教説を語るものとしては『古事記』『日本書紀』『先代旧事記』(三部本書)、隠幽教の教説は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』(三部神経)に基づくとする。

    三部神経の教説では、神道には本質である「体」、現れ出た姿である「相」、はたらきである「用」の三側面があると主張し、「体」は「天元」「地元」「人元」の三つを有しているとした。そして「相」には「天五行」「地五行」「人五行」があり、天五行は五行相克を司り五星などを化し、地五行は五行相生を司り五竜王などを化し、人五行は五大を司り五臓などに化すと主張した[4]。さらに、「用」には天妙・地妙・人妙の三妙があり、三つの「妙」がそれぞれ神変・神通・神力の三つの力を具しており、この九つの作用が、日月や寒暑、自然などのあらゆる現象を司っているとし、これを総称して三才九部妙壇と呼称した[4]。総じて言えば、森羅万象全てが神道の顕現なることを説くもので、天上・地上・人体のそれぞれの内部に神が存在し、神が宇宙全体に遍満するという一種の汎神論が、兼倶の構想した神道説であった[4]。

    また、儀礼においては、八角形の壇の中で火を焚いて祈祷を行う護摩行事を発案し、「十八神道行事」「宗源神道行事」と並ぶ三壇行事を形成した[6]。

    これらの思想や儀礼は、上述のとおり、仏教・道教・儒教のほか、陰陽道、密教の加持祈祷などを取り入れたものである[5]。
  60. 103
    歴史
    室町時代、吉田神道と同様に反本地垂迹説の立場をとっていた伊勢神道(度会神道)が南朝と結びつくことで勢力を失っていたため、吉田神道が反本地垂迹説を受け継ぐこととなった。吉田神道によって、反本地垂迹説は完成に導かれ、より強固なものとなった。

    兼倶は祓の秘宝伝授を行い『日本書紀』を後土御門天皇から比叡山の僧侶に至るまで講釈し、『神道大意』などが自身の家に伝えられたと捏造し、さらに伊勢信仰を吸収するために川の上流に塩をまき、「伊勢の神器が吉田山に降臨した」と偽ったので神宮側から激しい反発が起こった[7]。

    しかし活発な宣教運動により、日野富子らの寄付によって虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祭神とする神道の総本山を自称する斎場所太元宮を完成させ[7]、朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、従来の白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。

    このように神道を日本の宗教の根本と言いながらも、それまでの儒教、仏教、道教、陰陽道などを習合における矛盾を巧妙に解釈・混用した、きわめて作為的な宗教であったが、一方でその融合性に富むところから近世に広く長期に渡って浸透し続けた[1]。兼倶による他から独立した思想的な発展の可能性を指摘するものもある[8]。戦国末期には神龍院梵舜が著名。

    本来の神道は皇室が主家であり、長く白川家が実務担当の役にあったが、以後、大部分の権限を吉田家が持つこととなった。一時衰退した時期もあったが、江戸期には、徳川幕府が寛文5年(1665年)に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。

    やがて平田篤胤らによる復古神道、いわゆる平田神道が隆盛となり、明治の神仏分離により吉田神道と対立する本地垂迹説はほぼ完全に衰退するものの、明治政府により古代の官制に基づく神祇官が復古されて、かつての権勢は失われている。
  61. 104
    神道(しんとう、しんどう[4])は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。開祖や教祖・教典を持たず、森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づく。神話、八百万の神、自然や自然現象など、アニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である[5]。

    神と自然は一体と認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた[6]。
  62. 105
    概要

    国産みを描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯画、ボストン美術館所蔵)
    神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[7][8]。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である[9]。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている[注 1]。

    神道には確定した教祖、創始者がおらず[9]、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが[5]、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている[10]。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[11]。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」であるといわれる[12]。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる[要出典]。
  63. 106
    神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆してきた(神仏習合)。一方で、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されていた側面もあり[13]、宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた[14]。明治時代には神道国教化を実現するために、神仏分離が行われた[15]。

    神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[7]。

    神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが[16]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[17]。


    あー汎神論って書いてあるね。
    なんかもっとロジックってたところあったけど、キーン?
    危なそうだったな。錦糸と路地
  64. 107
    分類
    皇室神道 (宮中祭祀)
    皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道である[18]。新年の四方拝や歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭(天皇即位後初の新嘗祭は大嘗祭という)などが行われる[19]。

    大嘗祭が斎行された令和の大嘗宮
    神社神道
    神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[20]。
    民俗神道
    民間神道ともいう。民間で行われてきた信仰行事をいう。道祖神・田の神・山の神・竈神など。修験道や密教や仏教、あるいは道教の思想と習合している場合も多い。いざなぎ流なども入る[要出典]。
    教派神道(神道十三派)
    教祖・開祖の宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い[要出典]。
    古神道(≒原始神道)
    江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構され、復古神道・古道・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう[要出典]。
  65. 108
    国家神道
    特に近代(明治維新より第二次世界大戦終結まで)において国家の支援のもとに行われた神道を指す名称であり[21][注 2]、事実上の国家宗教となっていた[24]。(国家神道#語誌を参照)
    以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い[要出典]。

    また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。

    祭り型神道(社人神道 - 儀礼を中心とする)
    これは上記の「皇室神道」「神社神道」「民俗神道」などのことである。
    教え型神道(学派神道 - 教学を中心とする)
    神仏習合系 - 両部神道・山王一実神道など
    神儒習合系 - 儒家神道・忌部神道・理学神道・伊勢神道(=度会神道)・垂加神道など
    家元神道 - 唯一神道(=吉田神道)・土御門神道など
    復古神道 - 平田篤胤・大国隆正ら
    国学系の教団 - 出雲大社教・神道修成派など
    霊学系の教団 - 神道天行居など
    その他の新宗教
    山岳信仰系 - 実行教・御嶽教など
    霊示系(創唱宗教) - 黒住教・金光教・天理教[注 3]・大本など
    大本系新宗教 - 生長の家・世界救世教・白光真宏会など
    救世教系新宗教(いわゆる「手かざし」系) - 世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神慈秀明会など
    キリスト教と習合した例 - かくれキリシタンの信仰。一部の新宗教の例(キリストの幕屋)。
    その他 - 国外のシンクレティズム的な新興宗教やニューエイジ・心霊主義において神道の神を自らが信じる神と同一視する場合がある。例:天道、ラエリアン・ムーブメントなど。
    以上のように分けられる[18]。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道のひとつではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない[要出典]。
  66. 109
    宮中祭祀の主要祭儀一覧
    四方拝・歳旦祭
    元始祭
    奏事始
    昭和天皇祭(先帝祭)
    孝明天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
    祈年祭
    天長祭(天長節祭)
    春季皇霊祭・春季神殿祭
    神武天皇祭・皇霊殿御神楽
    香淳皇后例祭(先后の例祭)
    節折・大祓
    明治天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
    秋季皇霊祭・秋季神殿祭
    神嘗祭
    新嘗祭
    賢所御神楽
    大正天皇例祭(先帝以前三代の例祭)
    節折・大祓
    宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇室祭祀とも呼ばれる[1][2]。皇居の宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)が祭典を行い、天皇が親拝する小祭、毎月1日・11日・21日に掌典長が祭典を行い、原則として1日には天皇が親拝する旬祭がある[3]。
  67. 110
    歴史
    先史時代
    部族社会においては、祭祀の家系は部族の創始者、すなわちその社会および世界の創造者に由来し、その地位は種々の神話伝承によって権威化されるという[4]。天皇や皇室はこうした古代社会以来の祭司王の伝統を代々受け継いでいる[4]。

    古墳時代
    神話学者の松前健は「記紀」等に見える初期の大王の記録や古社の記録等から、初期ヤマト王権では三輪山を斎場とした日神祭祀があった可能性を指摘している[5]。やがてヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし、皇祖アマテラス大神として信仰するようになっていった[6][注 1]。「遅くとも6世紀前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には皇祖神の天照大神として伊勢神宮に祭られていたという[8]。 また、大王自身も「カミ」を祭るのが本来の主要な任務であったとされ、しばしば「ウツシイワイ」を行った神武天皇や、自ら神床に通夜し夢告を受けた崇神天皇の記事にその様子が伝えられている[9]。奈良県桜井市の纏向遺跡からは、3世紀中頃のものとみられる祭祀土坑から祭祀で使用された食物や伊勢製の土器が出土し、それらには大嘗祭神饌との共通点も多く、大王や天皇の祭祀の原型が見られるという[10]。


    皇室の祖先神を祀る伊勢神宮内宮
    『日本書紀』敏達天皇紀には宮廷内に日祀部の設置が記されているが、これは神祇官以前の古い祭官であり、太陽神の祭祀を司っていた[11]。
  68. 111
    飛鳥~奈良時代
    天武天皇と持統天皇の時代に多くの国家祭祀が整備・成立したことが、多くの先行研究で明らかになっている[12]。新嘗祭や大嘗祭の祭祀としての形式確立はこの時代と思われる[注 2]。

    奈良時代になると、当時の先進国であった唐の国家体制を範として律令の制定が行われた。この時、祭祀についても従来行われていた「カミマツリ」が神祇官を中心に再編成された。これが律令祭祀であり、その規定が神祇令である[13]。神祇令では、10の四時祭と2つの臨時祭、二季に行われる大祓が規定された。祈年祭は唐の「祈穀郊(きこくこう)」に倣ったものと思われ、鎮火祭や道饗(みちあえ)祭は都城成立後と思われるが、それ以外は伝統的祭祀に由来するという[14]。神祇官より全国の主要諸社に定期的に幣帛を頒布することで、中央政府は地方神社の祭祀にも関与した[13]。特に伊勢神宮の神嘗祭に対しては、宮中で天皇が自ら伊勢神宮を遥拝する「勅使発遣の儀」が行われ、幣帛が毎年必ず送られるとされた(神嘗祭賢所の儀)[15][16]。
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    神事優先と神仏分離
    日夜、天皇を密教修法により護持する護持僧が置かれ[要出典]、御七日御修法、大元帥法など密教による護国修法が宮中で行われるようになったのもこの頃からであった[27]が、神事と仏事は厳密に分離され、神事優先を原則とされており[28]、天皇主祭の神事には僧侶は遠ざけられ、仁寿殿観音像や経典類まで別の場所に移され、僧侶達の供物も神饌に供することは禁ぜられた[29]。仏教法会の期間が神事の期間に重なる場合がある時は仏教法会の期間を短縮した[30]。

    他にも、新嘗祭、月次祭、祈年祭、神今食、神社への勅使派遣などの祭祀がこの時期に行われていた[31]。

    なお、律令国家の成立以来、祭祀の法制化が進んだが、平安中期の『延喜式』によって一応の纏まりを見せた[32]。

    コレ大事そうだね★平安と鎌倉の間?
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    鎌倉~戦国時代
    順徳天皇が『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は「神事」を最優先としたが[33]、鎌倉時代から戦国時代になると、戦乱により多くの祭祀が中断することになった。特に応仁の乱の影響が大きく、神嘗祭例幣使や祈年祭、月次祭が中絶し、神祇官も焼失してしまった。新嘗祭は、応仁の乱以前の1463年(寛正4年)に中絶した。1545年(天文14年)8月、後奈良天皇は大嘗祭が行えないことを伊勢神宮にお詫びした。この時期、朝廷の祭祀は内侍所祭祀雨や伊勢神宮への臨時奉幣、京都近辺の神社への勅使派遣程度に縮小したが、内侍所では、白川家による百度祓や千度祓、吉田家による清祓が文明頃から確認された。「内侍所法楽御楽」や「内侍所法楽和歌」などは室町時代から行われ、元日は廷臣の参拝も許され「内侍所御神楽」は貴賤の群衆が見物できたという[34]。

    豊臣秀吉による陰陽師弾圧や迫害が始まると、祈祷や占いを生業とする陰陽師は地方に追いやられて一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた[35][36][37]。戦国時代の迫害により、筆頭の土御門家であっても陰陽道の相伝や法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった[38][39][40][41]。一方陰陽道は、後に幕府からの認可のもと、土御門泰福が垂加神道の影響を受けて天社神道として神道化させた[42][疑問点 – ノート]。
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    江戸時代
    江戸時代の天皇は、神事再興を第一の悲願とし[43]、幕府の援助を得て伊勢例幣使、大嘗祭、新嘗祭など戦乱により途絶えていた多くの神事を再興した[44]。また、毎朝御拝や四方拝など、江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事もある[45]。

    近世の宮中祭祀は、中世より引き継がれた内侍所(現賢所)の祭祀を中心に行われた[46]。また、節分の日には、庶民にも内侍所の参詣が許され、内侍所の刀自(今の内掌典か)に鈴を上げてもらい(「御鈴上げ」)供米や煎り豆を賜ったりしたという[47]。

    古来より明治時代まで天皇は毎食ごとにかたわらに置かれた皿に一品ずつとりわけて、自分が治めるこの国に飢えた民がひとりでもいるのは申し訳ないという気持ちで名もなき民のために捧げるという「さば」という行事があった。この行事は仏教に由来するとされるが、仏教以前の古来からの伝統行事だったという見解もある[48]。

    江戸時代の中期・後期に国学や水戸学に基づいた尊王論の高まりによって祭祀の再興が盛んになったという背景もあり[49]、幕末には孝明天皇により神武天皇祭が制定された[50]。

    江戸時代の女性天皇
    江戸時代には二人の女性天皇がいたが、「穢れ」によって神事を十分に果たせなかった。明正天皇は在位中に四方拝や小朝拝を行うことはなく、後桜町天皇も四方拝の場を設けるだけで出御することなく、新嘗祭にも出御しなかった[51]。江戸時代の女性天皇は「つなぎ」役であり政務は摂政が代行し、神事も不十分に行えない「半天皇」でしかなかったと言われている[52]。
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    明治期から戦前まで
    今日行われている祭祀は、江戸時代後期から明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編されたものも多い[要出典]。

    1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年(明治41年)には、宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された[53]。

    近代制度としての宮中祭祀が確立して以降、明治天皇や大正天皇は国家元首として多忙のため、侍従らが代拝するのが主となった[注 3]。一方で、貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后は非常に熱心であった。

    明治天皇は敬神の念篤く、賢所の御拝、新嘗祭の親祭もしていたことを側近の者が記録している。また、年に2、3回「剣璽の間」の奥で、古くからの皇親の御霊位をかなり長い間非常に熱心に御拝していた(これは大正時代に中止され御霊位は賢所に納められたという)[56]。日清戦争の際、戦争には反対であった明治天皇は、宣戦布告の報告のために伊勢神宮と孝明天皇陵に勅使を派遣することを拒否し、宮中三殿での奉告祭にも出御しなかったという[57]。

    宮城内の水田では、稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった[注 4]。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている[58]。

    太平洋戦争中の1945年(昭和20年)元旦には、B29爆撃機の襲来を知らせる空襲警報が鳴ったが、昭和天皇は防空壕としていた御文庫前を臨時の斎場として四方拝を執り行った[59][注 5]。
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    戦後
    1945年(昭和20年)8月に日本は敗戦し、連合国軍の占領下に置かれた。昭和天皇は、同年の9月3日には宮中三殿に、11月13日には警備もほとんどない状態で伊勢神宮の外宮と内宮に、同月15日には多摩陵に行幸して終戦を自ら報告した[61]。また、123代の歴代天皇陵に高松宮、三笠宮、賀陽宮邦寿王、閑院宮春仁王、竹田宮恒徳王、朝香宮鳩彦王、東久邇宮盛厚王らを代拝に立て、終戦の報告と新日本建設の加護をお願いした[62]。

    1945年(昭和20年)には政教分離を建前に国家と神社神道を切り離すべくGHQから「神道指令」が出された。伊勢神宮や靖国神社の国家護持は失われ、内務省神祇院も廃止された[63]が、宮中祭祀についてはGHQからの干渉がましいことはなく、天皇家の「個人の信仰の自由」として戦前どおり執り行われることを認められた。掌典職を務めた八束清貫は「敗戦の結果は、正に未曾有の国辱を受けたにもかかわらず、皇室祭祀の精神は微動だにしなかった」と語っている[64]。

    1947年(昭和22年)の日本国憲法施行とともに宮内省は宮内府となり、1949年(昭和24年)には宮内庁へと移行した。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は新憲法の施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の1つとなった。

    これに伴い、皇室祭祀令など戦前の皇室令も一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認した[65]。以後、現在に至るまで、宮中祭祀は旧皇室祭祀令に準拠して行われている[66]。
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    日本国憲法下の位置付け
    政教分離を原則とする日本国憲法の下では、宮中祭祀は天皇の私的行為とされる。憲法学の学説は、天皇の行為について、国事行為、私的行為のほかに公的行為の存在を認める「三行為説(通説)」と、国事行為、私的行為しか認めない「二行為説」に大別されるが、いずれの見解に立ったとしても、宮中祭祀は私的行為に分類されるのが通例である[67]。政府見解においては、天皇の行為を国事行為、公的行為、その他の行為に分類した上で、宮中祭祀を「その他の行為」の中の「純粋に私的なもの」に分類している[68][69]。 布教の意図も概念もなく国民の信教の自由を圧迫しようがない儀式を中心とする宮中祭祀はそもそも憲法の政教分離で禁じられている国の宗教活動には当たらないとする見解もある[70]。

    葦津珍彦は「内廷における宮中祭祀は国家権力の及ぼざる範囲による『皇室の重儀』である」とした[71][72]。小堀桂一郎は「宮中祭祀とは決して皇室の私事ではなく、日本人の敬神崇祖といふ精神伝統それ自体の代表であり、象徴である」と述べている[73]。

    内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』[74](2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の内閣総理大臣・麻生太郎ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。


    ★それこそ公的かと思ったら、私的祈念で大臣とかいるとか?
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    在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から窺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。

    第125代天皇明仁と皇后美智子も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず親拝していた。

    2016年(平成28年)8月8日、当時の天皇明仁は、退位する意向を伝える国民に向けたビデオメッセージの中で「国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と語っている[75]。

    黄櫨染御袍姿の明仁 御祭服姿の明仁
    黄櫨染御袍姿の明仁
    御祭服姿の明仁
    祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束の着用に加え、長時間の正座が必要であり、昭和天皇は祭祀が近づくと、正座にてテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。上皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢の上皇の健康への配慮や負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画・実施されていた。

    テレビが映してるだけ?★
    教科書の内容に準拠するみたいな。
    それこそ見たことある?
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    日本
    1868年(明治元年)頃から置かれた府藩県三治制の行政単位。英語においては県と同じPrefectureとなり、同義である。

    1868年の4月から10月にかけて京都府・大阪府・江戸府・箱館府・長崎府・神奈川府・度会府・奈良府・越後府・甲斐府が置かれた[1]。宮武外骨は『府藩縣制史』の中で以下の通り述べている[1]。

    府とはアツマルの義、笑府、楽府、怨府等の府もアツマルの義である。役人が集まって政治をするところを政府と云ひ、昔は国々の政府を国府と云った。甲斐の甲府は甲斐国府、長門の長府は長門国府の略である、別府と云う地名は豊後、肥前、土佐等にあるが、別の国府といふ義であろう。
    かかる前例はあったが、地方政庁を府と称することは明治政府の初期(慶長4年明治元年)に起こったのである。
    1872年の廃藩置県では、東京府・京都府・大阪府のみが府として残り他は県に改められた。この要因について宮武外骨は以下の通り述べている[1]。

    東京は江戸幕府後の維新政府所在地、京都は平安朝以来の旧都、大阪は難波朝以来もっとも発達した商業都市、これを価値づける為めに小都府を県名に改めたのであろう。
    1943年の東京都制により東京府は東京都に改められ、現在の都道府県としては京都府と大阪府のみが残っている。
  77. 121
    越後府(えちごふ)は、1868年(慶応4年)および1869年(明治2年)に越後国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された府。管轄地域は時期によって異なるが、現在の新潟県全域に及ぶ。本項では前身の新潟裁判所(にいがたさいばんしょ)、後身の新潟府(にいがたふ)、新潟県(第1次。にいがたけん)についても記す。

    概要
    現在の新潟県は、幕末に幕府直轄領(天領)となり、日米修好通商条約で開港場に指定された新潟町を抱え、また戊辰戦争で新政府軍に抵抗した長岡藩、会津藩[1]、桑名藩[2]などが領地を持ち、主戦場のひとつとなったことから、その成立までの経過は他の府県に比べても非常に複雑なものであった。

    現新潟県域の変遷(佐渡国は省略)
    区域 1868.4.19 1868.5.23 1868.7.27 1868.9.21 1869.2.8 1869.2.22 1869.7.27 1869.8.25 1870.3.27 1873.6.10
    新潟町 新潟裁判所 越後府(1) 新潟府 新潟県(1) 新潟県(1) 水原県 水原県 新潟県(2) 新潟県(2)
    下越 越後府(2) 越後府(2)
    上越・中越 柏崎県(1) 柏崎県(2)
    新潟裁判所
    1868年(慶応4年)、新政府は新潟奉行所に代わるものとして新潟裁判所を設置した。裁判所の長官である総督には、当時新政府軍の北陸道先鋒副総督兼鎮撫使であった四条隆平が任命されたが、四条の肩書に明らかなようにこの時点で越後国内の多くは新政府軍の掌握下には入っておらず、四条自身も江戸に滞陣していた。したがって現地には裁判所の庁舎や組織があるわけでもなく、「新潟裁判所」および「同総督」とは実際には名目的なものにすぎなかった。なお、四条は新潟裁判所総督と同時に北陸道鎮撫副総督に任命されている。
  78. 122
    越後府(第1次)
    新潟裁判所は同年5月23日に廃止され、代わって越後府(第1次)が設置された。従前の新潟裁判所の管轄地域に加えて、水原(現阿賀野市)、出雲崎(現出雲崎町)、川浦(現上越市三和区)の各代官が支配した越後国内の旧幕府直轄地も管轄するものとされた。中心都市による「新潟府」ではなく、国名によって「越後府」と称したのは、このことによると考えられる。

    知事の任命はなく、それまでの新潟裁判所総裁兼北陸道鎮撫副総督であった四条隆平が引き続きその職務を代行した。府の臨時的な次官である権判事には福井藩士の南部彦助、津和野藩士の渡辺儀右衛門、鳥取藩士の宮原積らが任命された。

    この間に新政府軍は越後国南部の上越地方(頸城郡)を掌握下に置き、越後府(第1次)は当初、四条の滞陣する高田(現上越市)にその組織を置いて掌握した地域の治安維持や民政に当たった。実際には四条が副総督を兼ねていた軍政機関としての総督府と一体化して活動したと考えられている。

    新政府軍の掌握地域の拡大に伴い、6月1日に知事代行の四条は新たに支配下に入った柏崎に出張し、直ちに南部権判事らを柏崎に置いて刈羽郡・魚沼郡の旧幕府領や桑名藩・会津藩領の人心掌握に当たらせた。南部権判事らの柏崎移転をもって、越後府(第1次)が柏崎に移転したと理解することもある。

    7月27日、柏崎県(第1次)が設置され、8月5日にその管轄区域が越後国南半の頸城郡・刈羽郡・魚沼郡内の旧幕府直轄地および新政府の没収地などとされた。これにより、越後府(第1次)の管轄地域は越後国北半の三島郡・古志郡・蒲原郡・岩船郡となった。ただし、当初両府県の知事人事に混乱があり、相互の管轄分担も不明確であって、事実上柏崎県(第1次)は越後府(第1次)の管轄下にあったとも言われる。
  79. 123
    新潟府
    7月29日に新政府軍が長岡城や新潟町を占領、8月には越後全域が新政府軍の支配下に入って、この地域における戊辰戦争(北越戦争)は終結した。

    9月21日に越後府(第1次)は新潟府に改称された。柏崎県(第1次)の設置により「府」の管轄区域が越後北半の4郡に限られるとともに、11月19日の新潟開港を控えて、府庁を新潟町に置いて内政と外交を一括して掌握する方針が定められたことによるものと考えられている。ただし、改称後も「新潟府」と「越後府」は混同して用いられ、現地では「越後府」の名称の方が一般的であったらしい。

    11月2日、柏崎で新潟府(旧第1次越後府)知事であった四条隆平と柏崎県(第1次)知事久我維麿との間の事務引継ぎが完了して柏崎県(第1次)が実質的に分離し、11月7日、四条とともに新潟府の本庁は長岡に移転した。

    この間の越後・佐渡両国に対する政府の方針は一定せず、10月28日には四条新潟府知事を罷免して、当時総督府本営参謀として新発田に滞在していた西園寺公望を新たな知事に任命した。11月5日には久我柏崎県知事を罷免、同県を廃して新潟府へ合併すること、また佐渡県(知事・井上馨)も新潟府の当分管轄とする布達が行われている。

    このような政府の方針に対して現地では反発が強く、柏崎県(第1次)の廃止については翌1869年(明治2年)2月22日に同様の布達が出されていることから、実際には廃止が実行されず存続していたと考えられている。また、府知事に任命された西園寺や同府判事(次官)に任命された前原一誠らも新潟へ赴任せず、新潟に府の本庁が開かれることはなかった。混乱は、前原とは別に判事に任命された楠田十左衛門(英世)が新潟に着任する同年1月16日まで続き、同日ようやく新潟に本庁が開かれるに至った。

    ところがそれから間もない1月20日未明、信濃川の分水問題をめぐる騒動が新潟町で発生し(関屋掘割騒動)、他の管轄地域から孤立した新潟町で越後全域の直轄地を支配することは困難であるという認識を政府が持つようになった。
  80. 124
    越後府(第2次)と新潟県(第1次)

    水原の天朝山公園(越後府跡)
    そこで政府は新潟府を存続したまま、これとは別に同年2月8日、越後国内の直轄地の統一的支配を目的に再度越後府(第2次)を設置して、府庁を水原の旧幕府代官陣屋に置いた。知事には新政府軍の会津征討越後口総督府参謀であった壬生基修が任命された。

    2月22日には柏崎県(第1次)の廃止・合併が再度布達され、佐渡県を越後府(第2次)が当分管轄することが改めて布達された。同日、新潟府は新潟県(第1次)と改称され、管轄地を新潟町に限定し、その町政と開港場における外交のみを管掌するものとされた。

    こうして、越後・佐渡両国の政府直轄地を管轄する越後府(第2次)と、新潟町政および外交を管轄する新潟県(第1次)とが並立する体制となったが、このような内政と外交の分離政策には反対の意見も強かった。また、「開港場十里四方」とされた外国人遊歩区域が、新潟町に限定された新潟県(第1次)の管轄区域を超えることに対して、府の管轄区域の拡大と機能強化を訴えていた現地の役人も批判的であった。さらに、越後全域と新潟町を統一して統治するべきであるという者の間にも、本庁を新潟町に置くべきか、水原陣屋の本庁に統合すべきかで意見の対立があった。

    こうした中で政府は、内政と外交の統一案を受け入れて、7月27日、越後府(第2次)と新潟県(第1次)を廃止して両府県を統合した水原県を設置した。水原県は柏崎県(第2次)の分割を経て、1870年(明治3年)に新潟町に本庁を移転して新潟県(第2次)となり、現在に至る。なお、越後府(第2次)知事の壬生基修は引き続き水原県知事を務めた。
  81. 125
    沿革
    1868年(慶応4年)
    4月19日 - 新潟裁判所を設置。
    5月23日 - 新潟裁判所を廃し、越後府(第1次)を設置[3]。
    7月27日 - 柏崎県(第1次)を設置。
    1868年(明治元年)
    9月21日 - 越後府(第1次)を新潟府と改称。
    11月5日 - 柏崎県(第1次)を廃して新潟府に合併(実行されず)、および佐渡県を当分の間新潟府の管轄とする。
    1869年(明治2年)
    2月8日 - 新潟府を置いたまま越後府(第2次)を設置[4]。
    2月22日 - 新潟府を新潟県(第1次)に改称。柏崎県を越後府に合併(再度布達)、佐渡県は当分のあいだ越後府の管轄とする。
    7月23日 - 越後府による佐渡県の管轄解除。
    7月27日 - 越後府(第2次)および新潟県(第1次)を廃止。両府県を合併して水原県を設置。
  82. 126
    管轄地域
    新潟裁判所、越後府(第1次)、新潟府、新潟県(第1次・前期)
    越後国
    三島郡のうち - 22村(村上藩領)
    蒲原郡のうち - 874村(新潟奉行所3村、水原代官所143村、新発田藩預所59村、桑名藩預所56村、旗本領28村、新発田藩領324村、桑名藩領7村、村上藩領76村、村松藩領19村、黒川藩領15村、三日市藩領5村、長岡藩領82村、会津藩領61村、高崎藩領2村、峰岡藩領3村。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない)
    蒲原郡の残部は村上藩、黒川藩、三日市藩、新発田藩、村松藩に移管され、管轄地域の変遷は錯綜している(ただし、高崎藩領45村のうち上記2村以外は高崎藩のまま。会津藩領221村のうち70村は若松県に移管)。

    新潟県(第1次・後期)
    越後国
    蒲原郡のごく一部(新潟町のみ)
    越後府(第2次)
    柏崎県(第1次)編入前の管轄地域。

    越後国
    三島郡のうち - 22村
    蒲原郡のうち - 874村(新潟町は含まず)
  83. 127
    廃藩置県(はいはんちけん、旧字体:廢藩置縣)は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す[1](#その他の異動を参照)。

    300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。

    なお本項では、廃藩置県によって設置された「県」の地理的規模を合理化するために、約4カ月後と5年後との2回にわたって実施された系統的な府県統合についても述べる。

    各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照

    秩禄処分(ちつろくしょぶん、旧字体:秩祿處分󠄁)は、明治政府が1876年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。経過措置として公債が支給された。支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる[1]。
  84. 128
    概要
    秩禄処分は、かつての華士族の特権であった禄を強制的に取り上げ、期限付きでわずかな利子しか受け取れない公債に替える急進的な改革であった。

    秩禄処分には3つの目的があった。

    禄を期限付き公債に替えることで、無期限の政府支出を回避した
    禄の数年分の額面の公債を売買可能とすることで、華士族の事業資金に充てた
    毎年抽選で公債額面を償還することで、政府支出を平準化した
    華族、士族と言ってもそのほとんどは士族であり、華族を含めても人口のわずか5%程度であった士族が、何の官職につかなくても国家財政の4割弱を受け取れることには批判があった。江戸時代を通じ、士族の土地所有権は次第に否定され、藩や幕府への忠誠および武力の提供と引き換えに禄を受け取るという概念が形成された(蔵米知行)。維新後は、地租改正により農民の土地所有権が国家によって承認される一方で、士族の土地所有権は完全に否定された。廃藩置県により士族の忠誠の対象も消滅した。士族による武力の独占的提供義務は徴兵令で失われ、廃刀令によって士族の特権と誇りも失われつつあった。士族自身も近代国家建設のため旧特権を廃止することの必要性は理解していた。

    一方で、旧藩主階級は廃藩置県により藩の債務から解放されたうえで、公債額の算出根拠となる家禄が旧藩収入の一割とされるなど優遇され、華族となることで様々な恩恵を与えられ、また東京居住を強制されることで旧家臣団からは切り離された。これらが、秩禄処分が極めて小さい抵抗の下で実行された理由である。

    配当?
    国債?
  85. 129
    回復(読み)カイフク
    デジタル大辞泉 「回復」の意味・読み・例文・類語
    かい‐ふく〔クワイ‐〕【回復/×恢復】

    [名](スル)
    1 悪い状態になったものが、もとの状態に戻ること。また、もとの状態に戻すこと。「健康が―する」「ダイヤの乱れが―する」「疲労―」
    2 一度失ったものを取り返すこと。「名誉を―する」「信用―」
    [類語](1)復旧・復元・還元・復興・復調・復活・蘇生そせい・再生・起死回生・更生・回天・再興・中興・復帰・カムバック・リバイバル・再起(―する)復する・戻る・蘇よみがえる・立ち直る・持ち直す・生き返る・返り咲く・息を吹き返す(健康状態について)快復・平復・平癒・治癒・快癒・本復・回春・全快・快気・快方/(2)挽回ばんかい(―する)取り戻す・取り返す・盛り返す・巻き返す・巻き返し・リカバリー・盛り返し・取り返し
    出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
  86. 130
    化学辞典 第2版 「回復」の解説
    回復
    カイフク
    recovery

    低温度で冷間加工を受けた結晶は,温度が上昇すると物理的性質,機械的性質が変化し,加工前の状態に近づく.これを回復という.物理的性質は,冷間加工により発生した空孔や格子間原子の運動に影響される.これらは低温度で容易に熱活性となるので,室温以下においても物理的性質の回復は起こる.機械的性質は,これら空孔や格子間原子に比較的影響を受けず,主として転位密度に依存し,おそらくジョグ密度にも依存するので,機械的性質の回復はこれら転位やジョグの消滅に関連し,室温以上のかなり高温で起こる.機械的性質のある程度の回復は,多くの金属において再結晶が開始する以前に起こる.冷間加工した鉄の硬さの25% は,金属顕微鏡検査で再結晶が認められる以前に回復する.硬さの低下とともに耐力,引張強さは低下し,靭性は増大する.しかし,機械的性質の回復はすべての金属について再結晶に先行するわけではなく,冷間加工した銅では,再結晶以前に回復は認められない.

    出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

    ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「回復」の意味・わかりやすい解説
    回復
    かいふく
    recovery

    低温で冷間加工した金属材料は,硬さの増大,電気伝導度の低下,引張り強さの増大など諸性質が変化している。これを低温で加熱すると次第にもとに戻る。これは加工により内部に導入された欠陥が原子の拡散によって消散していく過程に相当し,回復と呼ばれる。回復の過程としては,まず点欠陥が消滅し,ついで点欠陥と転位との相互作用が進行する。この過程で転位は上昇運動や合体消滅によりエネルギー的に安定な状態へ再配列し,セル構造などが形成され,これは亜結晶粒となる。特に積層欠陥エネルギーの高い金属では,回復過程で転位の再配列が容易に進み材料は軟化する。また,回復は高温ほど著しく,再結晶温度に達すると上記の諸性質は急激に戻る。
    出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
  87. 131
    岩石学辞典 「回復」の解説
    回復

    様々な過程で,岩石の変形作用の間に結晶粒の転位の数が減少すること[Bates & Jackson : 1980, Barker : 1990].
    出典 朝倉書店岩石学辞典について 情報

    栄養・生化学辞典 「回復」の解説
    回復
     病気が治ること,不利益を戻すこと,失ったものを取り戻すことなど.
    出典 朝倉書店栄養・生化学辞典について 情報

    ASCII.jpデジタル用語辞典 「回復」の解説
    回復

    「リカバリー」のページをご覧ください。

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    岩石
    地球の固体部分、すなわち地殻とマントルをつくっている物質。この物質はガラスやプラスチックのように均質...
  88. 132
    土曜(聖観音)、
    水曜(弥勒)、
    木曜(薬師)、
    火曜(虚空蔵)、
    金曜(阿弥陀)、
    月曜(勢至)、
    日曜(千手観音)、
    計都(釈迦)、
    羅睺(不動明王)
    の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。

              弥勒菩薩

     阿弥陀如来 聖観音菩薩  薬師如来
       
              虚空蔵菩薩

    日天 月天 千手観音菩薩 勢至菩薩

    像様 頭 不動明王 体 釈迦如来


    弥勒って如来も菩薩もあったよね。如来かね?

    l御用に?陰陽五行に落とし込んでのアレだよね。
    十二天だと多少ズレるのかね?
    まあ陰陽五行とは多少違うところが?毘沙門天がアレだよね?北で水天が西。
    西は阿弥陀如来?
  89. 133
    ラーフ像。大英博物館蔵。

    羅睺星。仏像図彙 (1783年)より。
    ラーフ (Rāhu) は、インド神話に登場する、4本の腕[1]と1本の尾[2]をもつアスラである[1]。その名は「捕らえる者」を意味する[3]。

    ラーフはまた、インドの天文学におけるナヴァ・グラハという9つの惑星(九曜)の1つ羅睺(らごう、インド占星術参照)。

    神話
    神話によると、乳海攪拌のあと、神々とアスラは不死の霊薬アムリタをめぐって争い、アムリタは神々の手にわたった。神々は集まってアムリタを飲んだが、その中にラーフというアスラが神に化けてアムリタを口にした。それを太陽と月が発見し、ヴィシュヌ神に知らせた。ヴィシュヌ神は円盤(チャクラム)を投げてラーフの首を切断したが、ラーフの首は不死になってしまった[1][4]。ラーフの首は天に昇り、告口したことを怨んで太陽と月を飲み込んでは日食や月食を起こす悪星になったという[1][4]。月が毎月1回欠けるのもラーフの仕業とされることがある[2]。

    ラーフはヴィプラチッティとシンヒカーの子とされる。ラーフの息子達はケートゥという32の彗星で、彼らが空に現れるのは凶兆だとされた[1]。

    脚注
    [脚注の使い方]
    ^ a b c d e 菅沼編 1985, p. 340.
    ^ a b ローズ,松村訳 2004, p. 452.
    ^ 沖田 2013, p. 560.
    ^ a b 沖田 2013, pp. 560-561.
    参考文献

    ウィキメディア・コモンズには、ラーフに関連するカテゴリがあります。
    沖田瑞穂 著「ラーフ」、松村一男他編 編『神の文化史事典』白水社、2013年2月、pp. 560-561頁。ISBN 978-4-560-08265-2。
    菅沼晃編 編「ラーフ」『インド神話伝説辞典』東京堂出版、1985年3月、p. 340頁。ISBN 978-4-490-10191-1。
    ローズ, キャロル「ラーフ」『世界の怪物・神獣事典』松村一男監訳、原書房、2004年12月7日、p. 452頁。ISBN 978-4-562-03850-3。
  90. 134
    ケトゥ像。大英博物館蔵。

    計都星。仏像図彙 (1783年)より
    ケートゥ (केतु Ketu) は、インド神話あるいはインドの天文学が扱うナヴァ・グラハ(9つの天体)の1つ。

    漢訳名は計都(けいと)、計都星(けいとせい)。

    天文学的解釈
    一般的な説では、月の降交点(西洋占星術ではドラゴンテール)に存在するとされた天体である。暗黒で普段は見ることはできないが、ケートゥが太陽や月を隠すことで日食や月食が起こる。同様に、月の昇交点にはラーフ(羅睺)があり、ラーフとケートゥで食が起こりうる天球上の2点を示している。

    異説として、ケートゥが昇交点、ラーフが降交点と逆のこともある[1]。彗星や流星ともされる。一部経典では月の遠地点とされ、これは西洋占星術でのリリスについての一説と同じである。

    神話
    神話によれば、ラーフの胴体が星になったものである。乳海攪拌のさい、ラーフはアムリタを盗み飲みしたためにヴィシュヌ神に首を切り落とされたが、首とともに天に昇って、首はラーフ、胴体はケートゥという遊星になった。

    鳥に乗る図や下半身が蛇の形で描かれる。

    ラーフ、シャニ(土星)とともに凶兆の星とされ、南インドの寺院ではよく祀られている。

    出典
    [脚注の使い方]
    ^ 広辞苑より
    関連項目

    ウィキメディア・コモンズには、ケートゥに関連するカテゴリがあります。
    宿曜道
  91. 135
    宿曜道(すくようどう)とは、平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、密教の一分野として日本へもたらされた占星術の一種。密教占星術、宿曜占星術などともいう。

    概要
    その内容は、インド占星術(ギリシャ由来の西洋占星術とインド古来の月占星術が習合し独自に発展したもの)、道教由来の天体神信仰、陰陽五行説等が習合した雑多なものである。基本的に、北斗七星・九曜・十二宮・二十七宿または二十八宿などの天体の動きや七曜の曜日の巡りによってその直日を定め、それが凶であった場合は、その星の神々を祀る事によって運勢を好転させようとする。

    所依の教典は、『宿曜経』・『梵天火羅九曜』・『七曜星辰別行法』などである。三九秘宿という独特の技法があり、これを簡略化したものが、一般に「宿曜占星術」として流布している。

    密教では、造像・修法・灌頂などを行う際には吉日良辰を選ぶこととされており、一行の『大日経疏』では、吉日良辰の選定は阿闍梨の資質が問われる大切な作業とされていた。
  92. 136
    そのために、空海・円仁・円珍らが『宿曜経』を日本に請来し、仁観が深く研究した。957年(天徳元年)、日延が呉越より符天暦を持ち帰ったことによりその研究が盛んになり、法蔵が応和元年(963年)に時の村上天皇の御本命供の期日を巡って陰陽道の賀茂保憲と論争を行っており、この時期に日本の宿曜道が確立したと見られている。なお、『二中歴』では法蔵をもって日本の宿曜道の祖としている。こうした経緯から宿曜師は密教僧である例が多く、誕生月日などを元にして星占いを行ってその結果を記した「宿曜勘文」を作成したり、長徳元年(995年)には、興福寺の仁宗に対して陰陽寮が教える暦道と共同で暦を作成するようにという「造暦宣旨」が下されている(興福寺は法相宗であるが、この時代には真言宗との関係も強かったとされる)。しかし、この頃輸入された符天暦の計算方法を取り入れた宿曜道側が、長暦2年(1038年)に暦道を批判し、造暦から撤退してしまったが、以後も日食・月食の発生日時や大月・小月や閏月を巡って暦道と激しく争った。また、宿曜勘文などや星供・祭供などの祈祷の奉仕を通じて権力者と結びついて、法隆寺や西大寺などの別当に任命される者も出ている。平安時代後期には能算・明算父子が活躍して白河天皇や摂関家に仕え、続く平安時代末期には天台宗の流れを汲む珍賀と興福寺及び真言宗の流れを汲む慶算という2名の優れた宿曜師が出現して互いに技術を磨きながら権力者と連携して勢力を争い、一族・門人によって流派が形成される程であった。だが、南北朝時代以後の貴族社会の衰退とともに宿曜道も没落の道を辿り、長寛3年(1165年)に珍賀が創建して宿曜道の拠点となった北斗降臨院が応永24年(1417年)に焼失すると、以後歴史から姿を消すこととなる。
  93. 137
    その他
    『源氏物語』「桐壺」にも、主人公・光源氏が誕生した際、宿曜師(「宿曜のかしこき道の人」)にその運命を占わせる場面が出てくる。
    鎌倉期の藤原頼経は、珍誉という宿曜師を重用しており、御所地の選定も行わせている[1]。
    脚注
    ^ 『歴史読本 5月号 特集 徹底検証!黒田官兵衛』 新人物往来社 2013年 p.274
    参考文献
    山下克明「宿曜道の形成と展開」(『平安時代の宗教文化と陰陽道』(岩田書院、1996年) ISBN 978-4-900697-65-2 所収)
    関連項目
    宿曜占星術
    陰陽道
    符天暦
    禄命
    星まつり
    外部リンク
    日本大百科全書(ニッポニカ)『宿曜道』 - コトバンク
  94. 138
    悪(あく)は、一般的な意味では、善の反対または欠如である。非常に広い概念であることもあるが、日常的な使い方では、より狭い範囲で深い邪悪さを表現することが多い。それは一般的に、複数の可能な形をとると考えられている。例えば、悪と一般的に関連している個人的な道徳的悪、または非個人的な自然的悪(自然災害または病気の場合のように)の形や、宗教的思想においては悪魔的または超自然的/永遠的な形などである[1]。

    悪は重大な不道徳を意味することもあるが[2]、一般的には、人間の状態を理解する上で何らかの根拠がないわけではなく、そこでは争いや苦しみ(cf.ヒンドゥー教)が悪の真の根源である。ある宗教的文脈では、悪は超自然的な力と表現されてきた[2]。悪の定義はさまざまであり、その動機の分析もさまざまである[3]。個人的な悪の形態と一般的に関連する要素には、怒り、復讐、恐怖、憎悪、心理的トラウマ、便宜主義、利己主義、無知、破壊または無視を含む不均衡な行動が含まれる[4]。

    悪は、善とは反対の二元的な敵対的二元論として認識されることがある[5]。その場合、善が勝ち、悪は打ち負かされるべきとされる[6]。仏教の精神的影響力を持つ文化では、善と悪の両方が対立的な二面性の一部として認識されており、それ自体は成仏によって克服されなければならないものとされる[6]。善と悪に関する哲学的な問題は、善と悪の性質に関するメタ倫理学、どのように行動すべきかに関する規範倫理学、特定の道徳的問題に関する応用倫理学という3つの主要な研究領域に包含されている[7]。この用語は、行為主体を伴わない事象や状況に適用されるが、この記事で扱う悪の形態は、悪人またはその実行者を想定している。

    宗教や哲学の中には、人間を記述する際に悪の存在や有用性を否定するものもある。
  95. 139
    日本語における「悪」
    日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、江戸時代初期に権勢を振るった以心崇伝はその強引な政治手法により「大欲山気根院僭上寺悪国師」と評された。鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。[独自研究?]

    本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。

    『古事記』において、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪の訓読みは「マカ・マガ」となる)。対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代では、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てていることからも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という図式ということになる。

    なお現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、依然として相違を含んでいる。

    ※力が強いって意味があるとかもやったな。
    二元論というよりも一切皆苦のネタそうなのかね?
  96. 140
    仏教
    仏教の二元性は第一に苦と悟りの間にある、というのは仏教の内部には善と悪の対立に似たものは直接的に言及されていないからである。しかしブッダの一般的な教えをもとに、仏教哲学の体系内の苦は「悪」に相当すると推測されうる"[25][26]。

    実際にはこれは1)三つの利己的な感情-欲望、憎悪、虚偽;や2)肉体的・言語的行動におけるそれらの現れ、について言及することができる。十戒 (仏教)を参照。とりわけ「悪」は、現世における幸福、より良い生まれ変わり、輪廻からの解脱、ブッダの真正にして完全な悟り(三藐三菩提)を妨害するものを指す。無知は全ての悪の根源であるとされる[27]。

    各宗教における悟り
    仏教
    詳細は「菩提」を参照
    釈迦(しゃか)は、29歳で出家する前にすでに阿羅漢果を得ていたとされ[16][要ページ番号]、ピッパラ樹(菩提樹)の下で降魔成道を果たして悟りを開き[17][注釈 4]、梵天勧請を受けて鹿野苑(ろくやおん)で初転法輪を巡らしたとする[19]。

    釈迦は悟りを開いた当初、自身の境涯は他人には理解できないと考え、自分でその境地を味わうのみに留めようとしたが、梵天勧請を受けて教えを説くようになったと伝えられることから(聖求経)、ブッダの説法の根本は、その悟りの体験を言語化して伝え、人々をその境地に導くことが、後代に至るまで仏教の根本目的であるとされることがある[1]。一方、藤本晃によれば、南伝仏教であるテーラワーダ仏教では、釈尊は悟りを四沙門果と呼ぶ四段階で語っていたが、釈迦以外の凡夫は悟りを開くことはできないとパーリ語仏典や漢訳阿含経典に書いてあるとする[20]。

    釈迦は説法の中で自身の過去世を語り、様々な過去の輪廻の遍歴を披露している。

    「解脱への道」も参照
  97. 141
    仏教用語

    パーリ語 dukkha
    (Dev: दुक्ख)
    サンスクリット語 duḥkha
    (Dev: दुःख)
    日本語 苦
    英語 suffering, pain, unsatisfactoriness, etc.
    テンプレートを表示
    仏教における苦(く、巴: dukkha、梵: दुःख, duḥkha、蔵: sdug pa)とは、苦しみや悩み[1]、精神や肉体を悩ませる状態を指す[2]。対義語は楽。

    仏教は無常、苦、無我の3つで三相を形成する[3]。四諦の4つすべては苦に関する真理である[4]。仏教は、この苦の滅尽をめざす学問体系である。

    語源
    「ドゥッカ」の「ドゥッ」(duḥ = dus)は、「悪い」という意味、「カ」(kha) は「空間」、「穴」の意味である。ウィンスロップ・サージェント(Winthrop Sargeant)によれば、「ドゥッカ」という言葉は車軸が真ん中を通っておらず、乗り心地の悪い様に由来するという。サージェントによれば、ドゥッカとは、もともと「悪い車軸の穴」というような意味をもち、転じて「不快」を意味した[5]。

    四苦八苦
    詳細は「四苦八苦」を参照
    四諦のひとつ、苦諦で説かれたもの[6]。

    生苦
    老苦
    病苦
    死苦
    愛別離苦
    怨憎会苦
    求不得苦
    五蘊取蘊
    二苦
    このような精神的な苦と肉体的な苦とは、人間自身の内的な苦であるから、これを内苦といい、他人から迫害されたり、自然の力によって悩まされたりする風雨寒熱などの苦を外苦とよぶ場合もある。
  98. 142
    三苦
    苦の持つ様相・状態(dukkhatā)を三苦といい、苦苦、壊苦(えく)、行苦の三つである。

    Tisso imā āvuso dukkhatā, dukkhadukkhatā saṅkhāradukkhatā vipariṇāmadukkhatā. Imā kho āvuso tisso dukkhatāti.

    友よ、苦には三相がある。苦苦相、行苦相、壊苦相。友よ、これが三苦相である。

    —パーリ仏典, 相応部ジャンブカーダカ相応 Dukkha-pañhā-sutta, Sri Lanka Tripitaka Project
    苦苦
    苦苦(くく、duḥkha-duḥkha) とは、「苦痛を苦とする状態」を意味する。「苦事の成るによって成立する苦」などと説明され、「寒熱飢渇によって生ずる苦」といわれるから、外的な、感覚的な苦である。このような苦が人間にとって第一段階の苦で、自然的、基礎的なものである。[独自研究?]

    壊苦
    壊苦(えく、vipariṇāma-duḥkha) とは「壊滅の苦の状態」である。「ヴィパリナーマ」とは「悪い方へ変化する」という意味であるから、好ましくない状態をあらわすのである。「楽事の去るによって成ずる苦」とも説明される。「壊滅」とは、その点で「楽境壊滅」(らくきょうえめつ)の意味であるという。すなわち、人間にとって好もしいと感ずる対象が、次々とこわされてゆく時に感ずる苦である。この第二の苦の中に、人間が一般に感ずる苦は含まれる。[独自研究?]

    vi+pariṇāmaのpariṇāmaは、唯識でいう「識の転変(vijñāna-pariṇāma)」とほぼ同じ意味で使われていることからも、この壊苦は「心の変化に応じて生ずる苦しみ」の事を指している、と考えられる。[独自研究?]
  99. 143
    行苦
    行苦(ぎょうく、saṃskāra-duḥkha) とは「生起の苦の状態」といわれる[要出典]。行(サンカーラ)の意味は、「作られたもの」ということで、生存していること自体を指しているから、一切の存在が無常であることによって遷り流れてゆくところに感じとられる苦である。とくに、人間生存の無常という事実の中に感ずる苦であるから、生存苦、生きること自身が苦であることを示した。[要出典]

    したがって、苦苦も壊苦も、この行苦を根本として起ってくるといえる。[独自研究?]その意味で、行苦や五蘊盛苦は、人間の根本的な苦を示す。仏教は、根本的には生きていること自体が苦であるという形而上学的な考え方をもととして、人間の「自分が」という我執こそ苦の根本であると言う。

    様々な解釈
    「dukkha」と「苦しみ」は異なり、「苦しみ」は、dukkhaの一部にすぎないとする立場もある[7]。アルボムッレ・スマナサーラによると、釈迦の説くdukkhaは、現代語の「苦」とは別物である。現代語の苦は具体的には、肉体的な苦痛と精神的な苦痛とがあるが、スマナサーラによれば仏教で説くdukkhaには、「苦しみ」、「虚しい事」、「不完全である事」、「無常である事」の4つの意味が含まれるという[8]。
  100. 144
    英訳について
    仏教経典の現代的な翻訳者は、さまざまな英単語を使用して duḥkha の側面を伝えている。初期の西洋の経典翻訳者(1970年代以前)は、一般的にパーリ語の dukkha をsufferingと翻訳していた。後の翻訳者は、sufferingでは duḥkha という用語の翻訳が限定的すぎることを強調し、duḥkha と未翻訳のままにするか、anxiety、stress、frustration、unease、unsatisfactorinessなどの用語でその翻訳を明確にすることを好んだ[9][10]。多くの現代の師、学者、翻訳者は、unsatisfactorinessという用語を使用してdukkhaの微妙な側面を強調している[11][12][13][14][15]。

    Suffering (Harvey, Williams, Keown, Anderson, Gombrich, Thich Nhat Hanh, Ajahn Succito, Chogyam Trungpa, Rupert Gethin, Dalai Lama, et al.)
    Pain (Harvey, Williams, Keown, Anderson, Huxter, Gombrich, et al)
    Unsatisfactoriness (Dalai Lama, Bhikkhu Bodhi, Rupert Gethin, et al.)
    Stress (Thanissaro Bhikkhu[16][17])
    Sorrow
    Anguish
    Affliction (Brazier)
    Dissatisfaction (Pema Chodron, Chogyam Trunpa)
    Distress (Walpola Rahula)
    Frustration (Dalai Lama, Four Noble Truths, p. 38)
    Misery
    Anxiety (Chogyam Trungpa, The Truth of Suffering, pp. 8–10)
    Uneasiness (Chogyam Trungpa)
    Unease (Rupert Gethin)
    Unhappiness
  101. 145
    一切皆苦(いっさいかいく、巴: sabbe saṅkhārā dukkhā)は、一切行苦ともされ、一切のサンカーラ(有為)は無常であるために、それは苦であるという仏教の教説[1]。

    四法印のひとつ[1]
    上座部仏教における三相のひとつ[1]
    有為なる存在(=衆生)は五蘊で構成される存在であり、五蘊それぞれは無常であるために[1]、それが壊れるとき苦に繋がる。

    阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される[要出典]。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽(捨,ウペッカー)に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。
  102. 146
    抜粋
    Sabbe saṅkhārā dukkhā'ti yadā paññāya passati
    Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā.

    「一切の形成されたもの(サンサーラ)は苦である」(一切行苦)と
    智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。[1]

    —パーリ仏典, ダンマパダ20, Maggavaggo, Sri Lanka Tripitaka Project
    三者自種比相。四者成相。五者快淨語説相。
    一切無常。一切行苦。一切法無我。[1]

    —相續解脱如來所作隨順處了義經[2]
    脚注
    [脚注の使い方]
    ^ a b c d e f 室寺義仁「「三法印」(dharmamudrā trilaksanā): 古典インドにおける三句の發端と展開の諸樣相」『東方學報』第88巻、2013年、442-423頁。
    ^ 「相續解脱如來所作隨順處了義經 求那跋陀羅譯」『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース』、東京大学大学院人文社会系研究科、No.0679、2018年。
    関連項目
    三法印
    苦諦
    苦 (仏教)
    四苦八苦
  103. 147
    苦諦
    苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ[6])とは、迷いの生存が苦であるという真理[1]。苦しみの真理[8]。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

    四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、出生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。

    愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
    怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
    求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
    五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること
    非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。


    愛するのとは一緒にいたい。憎む対象には会いたくない。求めるものは得たい。
  104. 148
    執着(しゅうちゃく、しゅうじゃく[1]、サンスクリット語: अभिनिवेश、abhiniveza)とは、仏教において、事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。

    執「著」と書くこともある。仏教用語というより、一般的な用語であり、現代語の執着(取, attachment)によく似た意味で、煩悩の用語としてのrāga(愛)あるいはlobha(貪)に近い。

    サンスクリット原語は、abhinivezaの他に、sakti、āsakti(没頭する事)、parigraha(摂取、所有)など良い意味でも使われる語が同時に執着の意味を持ち、grāha(にぎる、理解)、adhyavasāya(決知、判断)など認識にも関わる語が執着の意味で用いられる。

    脚注
    ^ 『執着』 - コトバンク
    参考文献
    『岩波仏教辞典 第二版』(岩波書店、2002年、482ページ)
    外部リンク

    ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。
    執着
    『執着』 - コトバンク
    執着

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    こだわりを意味する仏教用語については、タム文書を参照してください。
    執着はどんなことについてもつながり続け、心が使われることを言う。

    主にゲームにこだわるゲーム中毒、恋人にこだわるものもある

    一緒に見る
    固着
    固定観念
    強迫障害
    ストーキング

    英語と中国語が無いって珍しいね?
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  105. 149
    フランス語

    アビニヴェシャ

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    アビニヴェシャ( IAST : abhiniveśa ) はサンスクリット語で、ヨガにおいて存在1への執着と死の恐怖を指します。これは苦悩の 5 番目の要素 ( klesha ) であり、特定の存在の形態や種類、あるいは自分の性格やエゴにさえ執着するため、 個人が解脱 (涅槃、モクシャ) に達することを妨げます。

    その結果、老いや死に対する恐怖が生まれます。この状態は、存在の真の麻痺を引き起こす可能性があります。人は、老後の幸福と安全を確保するために、若さを捧げます。年をとったので、失った若さを取り戻したいと思ったり、疲れ果てることを恐れて体を使うことをためらったりします。彼は、美しい自動車の購入者に似ており、ガレージから出ずに車に乗り続け、新しく手に入れた車に満足しているものの、損傷を恐れてそれを使用するかどうかを決めることができません2。

    タラ・ミカエルによれば 、「現世での死に関する経験、認識、教育とは無関係に存在するこの本能的な恐怖は、インドの思想にとって、死の経験とそれに伴うあらゆる苦しみが以前にも経験されたことの証拠である」 、数え切れないほど3。»

    参考文献
    「 サンスクリット文化遺産辞典 [アーカイブ] 」、inria.frに 掲載 (参照:2023 年 4 月 13 日)。
    アニー・ベサント、オカルティストの道 - 第 2 巻、第 3 章、(オンライン抽出 [アーカイブ] )
    タラ・マイケル,ヨガのやり方, ポイント,2011年、p. 85.

    愛する人との別れと兼ねてるもんね。
    もう愛が生まれた日?
    別にフランスのとらなくてもアレだろうけど、まあ分かりやすいんじゃない?
  106. 150
    ポルトガル語

    アビニヴェシャ

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    出典: フリー百科事典ウィキペディア。
    アビニヴェシャとはサンスクリット語で生存本能を意味します。[必要な出典]

    古典的なヨガによれば、生存本能、または人生への執着は、苦しみの 5 つの原因(クレシャ)の 1 つです。[要出典] パタンジャリはヨーガ・スートラ(II.9)の中で次のように述べています。「生命の流れに対するその性質そのものへの執着は、聖者の中にさえ根付いている。」そしてヴィヤーサは、「すべての生き物はこのような願望を持っています。「私は死にたくない。永遠に生きたい。」これまで死の恐怖を感じたことのない人は、この種の願望を持つことはできません。これは過去の出生の存在を示しています。この悲惨な不安は自然発生的に起こります。死の恐怖は、直接の知覚、推測、証言から生じるものではありません。死の恐怖はこれらすべてに先行するものです。それは前世の存在の結論につながります。[必要な出典]

    最近、アビニヴェーシャは無知 (アビディ)の同義語に歪曲されており、人は身体と同一化し、生存本能に駆り立てられます。[必要な出典]

    カテゴリー:ヨガサンスクリット語の単語、フレーズ、表現


    スロバキア語

    アビニヴェシャ(サンズ) とは、自分自身に対する恐怖、人生に対する本能的な執着です。

    外部リンク
    FILIT - この記事の元の情報源。
    カテゴリー:サンスクリット語の表現
  107. 151
    四諦(したい、梵: catur-ārya-satya[1], チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖諦(ししょうたい、巴: cattāri ariya-saccāni[2], チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教が説く4種の基本的な真理[3][4]。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと[3][4]。四真諦[5]や苦集滅道[6]。

    苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦(ドゥッカ)であるという真実[4][5][7]。
    集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実[4][5][7]。
    滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実[4]。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ[4][7]。
    道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実[4]。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ[4][5][7]。
    苦諦と集諦は、迷妄の世界の果と因とを示し、滅諦と道諦は、証悟の世界の果と因とを示す[5]。

    四諦は概ね、十二縁起説の表す意味を教義的に組織したものであり、原始仏教の教義の大綱が示されているとされる[5]。原始仏教経典にかなり古くから説かれ、特に初期から中期にかけてのインド仏教において最も重要視され、その代表的教説とされた[7]。

    伝統仏教では、四諦は釈迦が最初の説法で説いたとされている(初転法輪)[5][7]。ただし近現代の仏教研究によれば、四諦は最古層経典には見られず、次の古層経典の段階から「五根」より遅れて「八正道(八聖道)」とともに説かれるようになったことが判明している(仏教#釈迦の修行法)。

    この流れをもってして説明してるとかだよね★そもそも。
    難しいよね。
  108. 152
    土曜(聖観音)、
    水曜(弥勒)、
    木曜(薬師)、
    火曜(虚空蔵)、
    金曜(阿弥陀)、
    月曜(勢至)、
    日曜(千手観音)、
    計都(釈迦)、
    羅睺(不動明王)
    の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。

              弥勒菩薩

     阿弥陀如来 聖観音菩薩  薬師如来
       
              虚空蔵菩薩

    日天 月天 千手観音菩薩 勢至菩薩

    像様 頭 不動明王 体 釈迦如来

    漢名 読み 梵名 読み 種子 方角
    帝釈天 たいしゃくてん Indra インドラ ī イー 東 
    火天 かてん Agni アグニ a ア 東南
    焔摩天 えんまてん Yama ヤマ yaṃ エン 南
    羅刹天 らせつてん Rākṣasa / Nirṛti ラークシャサ / ニルリティ nṛ ニリ 西南
    水天 すいてん Varuṇa ヴァルナ va バ 西
    風天 ふうてん Vāyu ヴァーユ vā バー 西北
    毘沙門天 びしゃもんてん Vaiśravaṇa ヴァイシュラヴァナ vai バイ 北
    伊舎那天 いざなてん Īśāna イシャーナ i イ 東北
    梵天 ぼんてん Brahmā ブラフマー bra ボラ 天(上)
    地天 じてん pṛthivī プリティヴィー pṛ ピリ 地(下)
    日天 にってん Sūrya / Āditya スーリヤ / アーディティヤ ā アー 日
    月天 がってん Candra チャンドラ ca シャ 月
    四方を司る四天のうち、四天王との一致は北の毘沙門天(四天王としては多聞天)のみである。

    色があったんだな。陰陽五行

    五行 木 火 土 金 水
    五色 青(緑) 赤(朱色、紅色) 黄 白 黒
  109. 153
    あくにんしょうき/悪人正機
    「悪人こそが阿弥陀仏の本願の正機(=第一次的な救いの対象)である」との意。 その場合、善人は必然的に傍機(=二次的な救いの対象)となるので、換言すれば、「善人も救いの対象とはなるが、阿弥陀仏の主たる救いの対象は悪人である」とする考え方といえる。2018/03/30

    悪人正機 - 新纂浄土宗大辞典

    浄土宗全書



    悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。

    阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生[1]である。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。
  110. 154
    悪人と善人
    「悪人正機」の意味を知る上で、「善人」と「悪人」をどのように解釈するかが重要である。ここでいう善悪とは、法的な問題や道徳的な問題をさしているのではない。また一般的・常識的な善悪でもない。親鸞が説いたのは「阿弥陀仏の視点」による善悪である。

    法律や倫理・道徳を基準にすれば、この世には善人と悪人がいるが、どんな小さな悪も見逃さない仏の眼から見れば、すべての人は悪人だと浄土真宗では教える。[2]

    悪人
    衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。
    阿弥陀仏の光明に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らがまことの善は一つも出来ない悪人であると気づかされる。[3]その時に初めて気付かされる「悪人」である。
    善人
    親鸞はすべての人の本当の姿は悪人だと述べているから、「善人」は、真実の姿が分からず善行を完遂できない身である事に気づくことのできていない「悪人」であるとする。
    また自分のやった善行によって往生しようとする行為(自力作善)は、「どんな悪人でも救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。(#本願ぼこりも参照のこと。)
    因果
    凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。
  111. 155
    救済の対象
    『仏説無量寿経』には、すべての人が苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに、「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」(意訳:わたしが仏になるとき、すべての人々が心から念仏して、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。[4])と説かれている。

    「十方衆生」、すなわちすべての衆生が救済の対象である。また至心・信楽・欲生は、如来の願によるものである。よって自らの計らいによる善悪は、阿弥陀による救済の条件・手段にはならない。

    「唯除五逆誹謗正法」(「唯除の文」)についての親鸞の了解は、曇鸞の『浄土論註』、善導の『観無量寿経疏』に依るものである。詳細は、「四十八願#唯除の文」を参照のこと。

    我々の行為は下記のように、本質的には「悪」でしかない。

    自分のやった善行によって往生しようと思うのは、阿弥陀仏の誓願のはたらきを疑いの心による。
    何を行うにしろ我々には常に欲望(煩悩)があり、その計らいによる行為はすべて悪(煩悩濁)でしかない。
    善いことをしようにも、実際には自らの善悪の基準でしかなく、本質的な善悪の判断基準がない。
    すべての衆生は根源的な「悪人」であるがゆえに、阿弥陀仏の救済の対象は、「悪人」であり、その本願力によってのみ救済されるとする。つまり「弥陀の本願に相応した時、自分は阿弥陀仏が見抜かれたとおり、一つの善もできない悪人だったと知らされるから、早く本当の自分の姿を知りなさい」[5]とするのが、「悪人正機」の本質である。
  112. 156
    しかしこの事は、「欲望のままに悪事を行っても良い」と誤解されやすく注意を要する。(#本願ぼこりを参照)。

    さらに、親鸞は自らを深く内省することによって、阿弥陀仏が誓願を起こして仏と成ったと『仏説無量寿経』で説かれていることは、「親鸞一人のためであった」[6]と、阿弥陀仏の本願力を自己のもの、つまり我々一人一人のためであったと受け止め、称名念仏は、行ではなく、その報恩謝徳のためであると勧め教化した。 この点が、宗教者としての親鸞の独自性である。

    以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。

    善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
    この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
    そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
  113. 157
    親鸞以前の悪人正機説
    この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。(なお、近年では『遊心安楽道』が元暁仮託の偽撰書である可能性が指摘されている[7]。)

    四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。
    — 元暁『遊心安楽道』

    また浄土真宗本願寺第三世覚如も、元は法然の教えであるとしている。

    本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。 (中略)しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。

    — 覚如『口伝鈔』
    このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫の救済を目標としていること、悪人正機の教えが親鸞の独創ではない事は指摘されていた。
  114. 158
    法然も『選択集』に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。 しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのである。

    源智が記したと伝えられる法然の伝記の一つである醍醐本『法然上人伝記』(『昭和新修法然上人全集』所収)のなかに「善人尚以往生況悪人乎 口伝有之」と[8]、『口伝鈔』『歎異抄』と同じ文言があり、ともに法然の口伝としていることから、末木文美士は「源空門下の人達によって、スローガン的に伝持されたものではないか」としている。[9]

    『法然上人伝記』・醍醐寺本は大正6年に醍醐寺三宝院(真言宗)から発見され、法然の弟子・源智が残したとされる文書の写本である。このうち「三心料簡および御法語」には、「歎異抄」と酷似した表現、悪人正機思想の意味と誤解の注意が記されている。文献の内容が法然自身の語った思想であるか否かについては議論がある[10][11]。

    一、善人尚以往生況悪人乎事 <口伝有之> 私云、彌陀本願 以自力可離生死有方便 善人為をこし給はす。哀極重悪人無他方便輩をこし給へり。 然るを菩薩賢聖付之求往生、凡夫善人帰此願得往生、況罪悪凡夫尤可憑此他力云也。 悪領解不可住邪見、譬如云本為凡夫兼為聖人、能能可得心可得心。[12]
    — 『法然上人伝記』 三心料簡および御法語
  115. 159
    本願ぼこり
    悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。

    ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。[13]

  116. 160
    悪人(あくにん)は、

    1. 狼藉を働き、悪行を重ねる者のこと。

    狼藉を働き、悪行を重ねる者のこと。「悪者」、「悪漢」、「悪党」ともいい、これを演じる役を「悪役」という。悪人は犯罪人と国家や社会秩序に刃向かった者(反逆者)を指すが、正当な理由があっても敗者となると「悪人」(確信犯)にされてしまうことから「勝てば官軍、負ければ賊軍。」という語もあり、後者の場合は、一概に「悪人」とはいえない。
    2. 浄土真宗において用いられる仏教用語。

    法然の教えを受けた親鸞を開祖とする浄土真宗で用いられる「悪人」。
    末法の世においては、どのような行を積んでも、自分自身では煩悩を断ずる事ができない「罪悪深重の凡夫」のことを指す。このことは親鸞独自の説ではなく(参照:親鸞以前の悪人正機説)、「悪人はどのように生きるか」という点で、法然の教義を継承発展させた。
    阿弥陀仏の本願(四十八願・第十八願)は、この「末法濁世の悪人」を救わんがために建てられたとする。( ⇒ 悪人正機)



    末法の世ってなるとなんだよね?条件
  117. 161
    人(読み不詳)
    人名
    織田信長の九男・織田信貞の幼名。
  118. 162
    スズキ「コンサートトライアングル」 サイズ毎の音色比較
  119. 163
    四国?

    オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、オオゲツヒメノカミ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。『古事記』の神話に出る食物の女神[1]。

    概要
    『古事記』においては、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が初めて表れる。そしてその直後の神産みにおいて、どういうわけか他の生まれいづる神々に混じり、ほぼ同名といえる「大宜都比売神」が再度生まれている記述がある。更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても登場するが、これらが同一神か別神かは不明。

    説話
    高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。これを神産巣日御祖神が回収した[2]。

    また島根県石見地方に伝わる伝説には、大気都比売神の娘に乙子狭姫がおり、雁に乗って降臨し作物の種を地上に伝えたとする。
  120. 164
    保食神(うけもちのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容[1]から、女神と考えられる[2]。

    神話での記述
    天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。

    天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。
  121. 165
    トヨウケビメは、日本神話に登場する神である[1]。

    豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている[1]。『古事記』では豊宇気毘売神[1]と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神[2]、登由宇気神[1]、豊岡姫[1]、等由気太神[1]、止与宇[注 1]可乃売神[1]、大物忌神、とよひるめ、等々。

    神話での記述
    『古事記』では伊邪那美命(いざなみ)から生まれた和久産巣日神(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている[1]。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である[1]。後に、他の食物神の大気都比売神(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった[2]。

    伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされている[1]。即ち、元々は丹波の神[注 2]ということになる[2]。

    『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている[1]。丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたが、十余年後に家を追い出され、漂泊した末に奈具村に至りそこに鎮まった[3]。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという[1]。

    尚、『摂津国風土記』逸文に、 止与宇[注 1]可乃売神は、一時的に摂津国稲倉山(所在不明)に居たことがあったと記されている[注 3][1]。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という(外宮境内社)。
  122. 166
    鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ)
    別名は天鳥船(あめのとりふね)
    大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
    火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)
    別名は火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)
    別名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
    火の神・迦具土神を出産したとき女陰が焼け、伊邪那美命は病気になった。病に苦しむ伊邪那美命の吐瀉物などから次々と神が生まれた。
    金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
    金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
    波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる)
    波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる)
    彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる)
    和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる)
    和久産巣日神には以下の一柱の子がいる。
    豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)

    この時の飢えってなんなんだろうね。

    伊弉諾尊が吹いた息が級長戸邊命(しなとべ)となる。または級長津彦命(しなつひこ)と言い風神(かぜのかみ)である。
    飢えて弱った時に生んだ子を倉稲魂命(うかのみたま)
    生んだ海神(うみのかみ)らの少童命(わたつみ)
    山神(やまのかみ)らの山祇(やまつみ)
    水門神(みなとのかみ)らの速秋津日命(はやあきつひ)
    木神(きのかみ)らの句句廼馳(くくのち)
    土神(つちのかみ)の埴安神(はにやす)
    火神(ひのかみ)の軻遇突智(かぐつち)
    火神により伊弉冉尊が焼かれて死に、伊弉諾尊は号泣して流した涙が啼澤女命(なきさはめ)となる。
  123. 167
    >>164
    まだ天照でも神産みとかでしょ?
    先に国産みがあるんだよね?
    イザナミとイザナギのだよね。

    神世

    ソーマと乳海攪拌にアレか。
    ウニのスパゲティだっけ?
  124. 168
    信長のシェフだと当時?日本だと無理だったけど?
  125. 169
    天上天下唯我独尊 
    天の上にも下にも尊い者は自分一人である、という言葉。仏陀が生まれた時、両手の親指でそれぞれ天地をさしてこれを表していたという伝説がある。現代では、極端なナルシズムやエゴイズムを批判して使われることが多い。

    仏教用語の我(が)とは、サンスクリット語のアートマン(Ātman)に由来する概念[1][2]。我については、仏教とヒンドゥー教で最も見解の異なる点の一つである。

    ヒンドゥー教では世俗的な我意識のみを否定してニラートマン(nirātman、無我)といい、自我意識(ahaṅkāra)のない純粋な実体としての真我(paramātman)を否定しないが[要出典]、仏教は、永遠に存続し、自主独立して存在し、中心的な所有主として、コントロール・支配能力を持つ我の存在、すなわち常一主宰じょういつしゅさいな我を否定して無我説を立てた[2]。
  126. 170
    初期仏教
    初期仏教における我は、諸法無我と表記され、ここでの我は形而上学的な自己を意味するとピーター・ハーヴェイは述べている[3]。この概念は、仏教以前のヒンドゥー教のウパニシャッドを参照しており、それによれば人は低次の自己(無常の身体・人格)および、高次の大いなる自己(真の永久的な自己・魂・アートマン・我)を持つと見なされている[4][5][6]。

    初期の仏教文献は、ウパニシャッドにおける「自己」と「我」の概念の妥当性を探り、すべての生物は無常の自己を持っているが、本当の高次の自己は存在しないと主張している[7]。経蔵においては、生物の実質的な絶対性または本質であるアートマンと呼ばれるものの存在を否定しており、これは仏教をバラモン教(ヒンドゥー教の原型)の伝統と区別する考え方である[8]。

    阿含の仏教は、次の4つの有我説を否定した[2][注釈 1]。

    「五蘊が我である」 - 人間の個体全体が我であるという見解。我見。
    「我は五蘊を有す」 - 個体の内にあって、その中心生命となるものが我であるという見解。我所見。
    「我中に五蘊がある」 - 宇宙原理が我であるという見解。我所見。
    「五蘊中に我がある」 - 存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっているという見解。我所見。
  127. 171
    部派仏教
    部派仏教では種々な解釈がなされた[2]。

    説一切有部では、個体の中心生命としての我(人我)を否定したが、存在の構成要素の実体としての自性(法我)は常に実在するとした[2]。この見解を二種我見という[2]。

    犢子部や正量部は、非即非離蘊の我という我が存在するとした[2]。経量部には勝義補特加羅の説がある[2]。

    大乗仏教
    大乗仏教では、個体としての我(人我)だけでなく、存在を構成している要素の実体(法我)をも否定して人法二無我を説き、全てのものが無自性であるとする[2]。

    部派仏教における究極的な涅槃は、全てのものが無常・苦・無我で不浄であると悟って煩悩を滅し尽くした境地であるとされたが、大乗仏教では、全てのものがもともと空であることを悟った涅槃の境地は絶対的な自由の境地であり、常・楽・我・浄の徳をもつとする[2]。ここにおける我は、凡夫の考える小我と区別され大我や真我[注釈 2]といわれる[2]。

    龍樹
    龍樹は大智度論にて、

    問うて曰く、若し仏法中に一切法は空にして一切に我あること無しといわば、いかんが仏の経に初頭に如是我聞というや
    と問い、

    無我は了解しているが、俗法(言語習慣、言い習わし)に随って我といったので、それは実我ではない
    と述べている。
  128. 172
    無我(むが、巴: anattā, アナッター[注 1]、梵: अनात्मन, anātman, アナートマン, nairātmya[3], ナイラートミャ)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語[3][4]。非我とも訳される[4]。我(アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する[4]。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という[4]。

    アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(無常、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(苦、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印と四法印の1つ[3][4][5][6]。これはダンマパダなど多くの経典で確認される[7]。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する[注 2][注 3]。
  129. 173
    概説
    釈迦が教えを説いた当時のインドでは、バラモン教(ヒンドゥー教)の哲学者たちは、我の実在の有無を始めとする形而上学的な論争をしていた[26]。初期仏教においては、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「われ」「わがもの」などと考えて固執(我執)してはならず、我執を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきとして、「我でない」(非我)と主張された[27]。これは、「我がない」「主体がない」「霊魂がない」ということではなく、「アートマン」「我」「真実の我の姿」「私のもの」という観念が否定的に説かれたと考えられている[27][26]。

    しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[28]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無いということ[4][28]。法無我とは、あらゆるものは縁起・因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][28]。これは大乗仏教にも受け継がれて、般若思想では「無我」は「空」と表現された[28]。

    ヒンドゥー教では永遠不滅・独立自存の個我、個人の本体としてのアートマンの存在を信じ、これを輪廻の主体と考える[29]。ここで言うアートマンは、単なる個人の我としての「自我」ではなく、世界に対峙する個人の我としてのアートマンであり、よって個我と訳される[30]。無我という言葉はウパニシャッドの atman(Sk.語 アートマン)に否定の接頭辞 an- を付けたもので、アートマンの否定の形になっているが、釈迦はウパニシャッドの形而上学的な梵我一如思想に対抗して無我(非我)を説いたのではないと考えられており、釈迦の無我説はアンチ・アートマン思想ではない[31]。仏教では、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した[29][32]。中村元は、初期仏教では実体としてのアートマンは認めなかったが、倫理的実践的な意味におけるアートマンはむしろ認めていたと述べている[33]。
  130. 174
    供物(くもつ、英: offering)とは、宗教儀礼における供儀[1]行為の目的達成のために、信仰対象に捧げられるもののことである[2]。

    「供え物」や「お供え」とも。

    概説
    供物は供儀[1]との関係によって意味をもつ[2]。

    供物のもつ意味
    供物に関する解釈はさまざまである。ビアッティ(Beattie, J.)は供儀の象徴的な側面こそが本質であるとし、人間と超自然的な存在との間にも互酬的な面がある、つまり人間と霊との関係には常に何らかの交換が行われている面があるので、それがしばしば霊に対する贈呈や譲渡となっている(物質的なもの、および非物質的なことがらを含む)、とした[2][3]。
  131. 175
    外界(読み)がいかい
    精選版 日本国語大辞典 「外界」の意味・読み・例文・類語
    がい‐かい グヮイ‥【外界】

    〘名〙 外の世界。あるものをとりまく、まわりの存在。哲学では、自己の意識から独立して存在するすべてのものをいう。客観的世界。⇔内界。〔哲学字彙(1881)〕
    ※吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉二「書斎に吸ひ付いて、嘗て外界に向って口を開いた事がない」
    出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

    デジタル大辞泉 「外界」の意味・読み・例文・類語
    がい‐かい〔グワイ‐〕【外界】

    1 外の世界。まわりの世界。
    2 哲学で、意識から独立してその外部に存在するすべてのもの。客観的実在の世界。⇔内界。
    [類語]外・外方・外部・域外・圏外・枠外・埒外・外側そとがわ
    出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

    普及版 字通 「外界」の読み・字形・画数・意味
    【外界】がいかい

    外部。
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    1 物事を、ある基準で区分けしたときの一つ一つ。「資料を項目別に整理する」2 辞典・事典などの見出し...
  132. 176
    自然科学における系(けい、英語: system)とは、自然界のうちで考察の対象として注目している部分をいう[1][2]。分野や考察の内容に応じて力学系、生態系、太陽系、実験系などというように用いられる。考察の対象とされない部分は外界(英語版)として区別される。これは外界が系に比べて非常に大きく、外界が系に影響を及ぼして系の状態の変化を引き起こすことがあっても、系が外界に及ぼす影響は無視できるとする仮定の下に考察の対象から外される。外界の状態は、常に一定であるとしたり、単純な変化をしたりと、考察の前提として仮定される。また、観測者は外界にいるものとして通常は考察の対象とされない。

    物理学では、系を古典論で記述するとき、その系を古典系と呼ぶ。一方で系を量子論で記述するとき、その系を量子系とよぶ[3]。
  133. 177
    環境(システム)

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    この記事は出典を一切引用していません。( 2015年3月)
    科学と工学では、システムは研究対象となる宇宙の一部であり、環境はシステムの境界の外側にある宇宙の残りの部分です。それは周囲または近隣としても知られ、熱力学では貯留層としても知られています。システムのタイプに応じて、システムは質量、エネルギー(熱と仕事を含む)、線形運動量、角運動量、電荷、またはその他の保存された特性を交換することによって環境と相互作用することがあります。情報理論などの一部の分野では、情報が交換される場合もあります。これらの相互作用を除いて、システムの分析では環境は無視されます。
  134. 178
    もご覧
    生体エネルギーシステム– エネルギーシステム
    地球システム科学
    環境(生物物理学)
    環境マネジメントシステム
    熱力学システム
    外部リンク
    交通システムの地理2017 年 3 月 12 日に Wayback Machineにアーカイブされましたpeople.hofstra.edu
    環境管理システムepa.gov
    地球の環境システム2018 年 5 月 31 日に ウェイバック マシンにアーカイブeesc.Columbia.edu
    環境教育 2022-12-11ウェイバックマシンにアーカイブ

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  135. 179
    物理システムは、研究対象の物理オブジェクトの集合です。[1] コレクションはセットとは異なります。すべてのオブジェクトが共存し、何らかの物理的関係を持たなければなりません。[2] 言い換えれば、それは分析のために選ばれた物理宇宙の一部です。システムの外側にあるものはすべて環境と呼ばれ、システムへの影響を除いて無視されます。

    システムと環境の分割は分析者の選択であり、通常は分析を簡素化するために行われます。たとえば、湖の水、湖の半分の水、または湖内の個々の水の分子は、それぞれ物理システムと考えることができます。孤立したシステムとは、環境との相互作用が無視できる程度のものです。多くの場合、この意味でのシステムは、特定のマシンなど、 システムのより一般的な意味に対応するように選択されます。

    量子コヒーレンスの研究では、「システム」は物体の微視的な特性(たとえば、振り子の平均値)を指す場合があり、関連する「環境」は、振り子の熱によって古典的に記述される内部自由度である場合があります。振動。周囲から完全に孤立した量子システムはないため[3] 、量子システムを正確に理解するには、これらの相互作用を扱う理論的枠組みを開発することが重要です。

    制御理論では、制御される物理システム (「被制御システム」) を「プラント」と呼びます。

    もご覧
    概念的なシステム
    位相空間
    物理現象
    物理オントロジー
    シグナルフローグラフ
    システムエンジニアリング
    システム科学
    熱力学システム
    オープン量子システム
  136. 180
    自然科学における系(けい、英語: system)とは、自然界のうちで考察の対象として注目している部分をいう[1][2]。分野や考察の内容に応じて力学系、生態系、太陽系、実験系などというように用いられる。考察の対象とされない部分は外界(英語版)として区別される。これは外界が系に比べて非常に大きく、外界が系に影響を及ぼして系の状態の変化を引き起こすことがあっても、系が外界に及ぼす影響は無視できるとする仮定の下に考察の対象から外される。外界の状態は、常に一定であるとしたり、単純な変化をしたりと、考察の前提として仮定される。また、観測者は外界にいるものとして通常は考察の対象とされない。

    物理学では、系を古典論で記述するとき、その系を古典系と呼ぶ。一方で系を量子論で記述するとき、その系を量子系とよぶ[3]。

    システムの記事も参照
    熱力学的な分類
    熱力学の観点では、系は外界との間で許されるエネルギーの移動の形態から分類される。 熱力学において考察されるエネルギーの移動の形態は、仕事と熱、および物質(質量)の移動に伴うエネルギーの移動である。ここでいう仕事とは、ピストン-シリンダ系のような力と変位の積として表される機械的な仕事だけではなく、電気的なエネルギーの移動など、熱力学に依らずに考察が可能なエネルギーの移動である。質量の移動とは、例えばガソリンエンジンであれば、燃焼室へのガソリンと空気の吸入や、燃焼後の排気などである。ガソリンなどの燃料は、化学的なエネルギーを内在しており、燃焼に伴ってそれが放出される。すなわちガソリンの吸入はエネルギーの流入である。 燃焼という急激な化学反応を伴う状況に限らず、部屋の換気でも室内外の温度や湿度の異なる空気の交換に伴いエネルギーが移動する。
  137. 181
    外界との間で物質の移動を許す系は開放系(開いた系、open system)、物質の移動は許さない系は閉鎖系(閉じた系、closed system)と呼ばれる。閉鎖系のうち物質の移動に加えて熱によるエネルギーの移動も許さない系は断熱系(adiabatic system)と呼ばれる。さらに断熱系のうち、物質の移動や熱に加えて、仕事によるエネルギーの移動も許さない系、つまり、あらゆるエネルギーの移動を許さない系は孤立系(isolated system)と呼ばれる。 外界とのエネルギーの移動に制限がある系では、その制限に応じた法則が成り立ち、孤立系ではエネルギー保存則、断熱系ではエントロピー増大則、閉鎖系では質量保存則[注 1]が成り立つ。

    系が熱を交換する外界は熱浴(heat bath)と呼ばれ、質量を交換する外界は粒子浴(particle bath)と呼ばれる。
  138. 182
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    実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
    《外界》の正しい読み方
    「外界」の正しい読み方
    読み方:がいかい、げかい、そと、ゲクワイ、ぐゎいかい

    「外界」とは、「がいかい」と読む。ただし、文学作品などでは「げかい」「そと」「ゲクワイ」も「外界」の読み方として用いられることがある。国語辞典上では主に「がいかい」と読む。なお、広辞苑をはじめとするいくつかの国語辞典では「グワイ」、日本国語辞典では「グヮイ」とも載録されているが詳細はない。学研国語大辞典によると、歴史的仮名遣いで「ぐゎいかい」と載録されている。


    国語辞典って理科で使ったっけ?
    使えなくもないか?
  139. 183
    「外界」の英語用例・例文
    外界は英語で「outside world」と表せる。
    ・They have long lived in isolation from the outside world.(彼らは長い間、外界から隔離されて暮らしてきました。)
    ・Unable to get up, her only connection with the outside world was looking out the window of her room.(起き上がれず、部屋の窓の外を眺めるだけで外界とつながっていた)
    ・Apparently the outside world thinks differently than I do.(どうやら外界は私とは違う考え方をしているらしい。)
    ・I can't believe the hustle and bustle of the outside world can be heard deep in the mountains like this.(山奥でこんなに外界の喧騒が聞こえるなんて。)
    ・The difference of opinion about his treatment made the confrontation with the outside world clear.(彼の扱いに関する意見の相違は、外界との対立を明確にした。)
    (2022年9月16日更新)
    《外界》の正しい読み方
    「外界」の正しい読み方
    「外界」の正しい読み方は「がいかい」である。「げかい」ではない。
    「外界」の意味解説
    「外界」は外の世界のこと。哲学では、意識から独立して存在するすべてのものを指す。
    なぜ「外界」と読むのか・理由
    「外界」の「外(がい)」と「界(かい)」は音読みだ。音読みは昔の中国の発音を元にした読み方で、音を聞いただけでは意味が分からないものが多い。「外界」のように2字以上の漢字を組み合わせると、意味が通じる熟語となる。
    (2022年9月6日更新)
  140. 184
    独尊(読み)どくそん
    精選版 日本国語大辞典 「独尊」の意味・読み・例文・類語
    どく‐そん【独尊】

    〘名〙 (「天上天下唯我独尊」を略したもの) 仏語。釈迦誕生のとき、一切衆生を救済することを示したといわれることば。自分ひとりが他の一切のものよりすぐれて尊いとすること。また、その人。→天上天下唯我独尊。
    ※貞享版沙石集(1283)三「釈尊の三界の独尊たる、すでに其跡を示す」
    出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

    デジタル大辞泉 「独尊」の意味・読み・例文・類語
    どく‐そん【独尊】

    《「天上天下唯我独尊」の略》自分ひとりが他のだれよりもすぐれて尊いとすること。
    出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
  141. 185
    尊・命(読み)みこと
    精選版 日本国語大辞典 「尊・命」の意味・読み・例文・類語
    み‐こと【尊・命】

    (「み」は接頭語。「御事」の意)
    [1] 〘名〙
    ① 神や天皇などの高貴な人に対し、尊敬の意を表わして添える語。「…のみこと」の形で用いる。
    (イ) 普通名詞に添える場合。
    ※古事記(712)上・歌謡「八千矛の 神の美許登(ミコト)は」
    (ロ) 固有名詞に添えて接尾語的に用いる場合。
    ※書紀(720)神代上「状葦牙の如し。便ち神と化為る。国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号す。至って貴きを尊と曰ふ。自余(これよりあまり)を命と曰ふ。並に美挙等(ミコト)と訓(い)ふ也」
    ② 一般に、身分の高い人や目上の人に対して敬称として添え、または身分の高い人や目上の人をさす語。「…のみこと」の形で固有名詞に添えて接尾語的にも用いる。
    ※建多胡郡辨官符碑(上野多野郡吉井村字池所在)‐和銅四年(711)三月九日「左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊」
    ③ 親愛の情をこめて相手をさす語。
    ※古事記(712)上・歌謡「若草の 妻の美許登(ミコト) 事の語り言も こをば」
    [2] 〘代名〙 (平安後期には、人を軽く見たり、からかったりした気持で用いる)
    ① 対称。おまえさん。貴様。あんた。
    ※今昔(1120頃か)二八「白事(しれこと)なせそ、尊。此く道理を云聞せたらばこそ、後々には此の君達は不咲(わらは)ざらめ」
    ② 他称。お方。ひと。おひと。
    ※今昔(1120頃か)二八「この尊は本より此く艷(えもいは)ぬ物狂とは知たれども」
    出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
  142. 186
    神道における神(かみ)とは、自然現象などの信仰や畏怖の対象である。「八百万の神」(やおよろずのかみ)と言う場合の「八百万」(やおよろず)は、数が多いことの例えである。

    定義
    吉田神道の事実上の大成者である吉田兼倶による著書『神道大意』には、冒頭部分で「夫れ神と者天地に先て而も天地を定め、陰陽に超て而も陰陽を成す、天地に在ては之を神と云ひ、萬物に在ては之を霊と云ひ、人に在ては之を心と云ふ、心と者神なり、故に神は天地の根元也、萬物の霊性也、人倫の運命也、無形して而も能く有形物を養ふ者は神なり…」とある[1][2]。吉田神道は幕末頃までは、神道の一派というより中心流派であった[3][4]。

    宮地直一は、時代により変遷がある観念であるカミは「日常崇拝の對象となりしもの」「廣く超人間の威力あるもの」と総称できるとしている[5]。

    他言語との関係
    日本語における「神」という言葉は、元々は神道の神を指すものであった。ただし『日本書紀』にはすでに仏教の尊格を「蕃神」とする記述が見られる。16世紀にキリスト教が日本に入ってきた時、キリスト教で信仰の対象となるものは「デウス」「天主」などと呼ばれ、神道の神とは(仏教の仏とも)別のものとされた。しかし、明治時代になってそれが「神」と訳された。

    他言語においては、神道の神を指す場合は "kami" として一般的な神とは区別されることもある。
  143. 187
    語源

    「神」の字の旧字体「神」。
    漢字の「神」は、祭祀を意味する「示」に音符「申」を付した字で、祭祀および祭祀対象である神霊の類を示す。また「神祇」とした場合は、地の神である「祇」に対し、天空にいる雷神の類を意味する。「神」字は、日本においては「カミ」と訓じられ、日本の神霊的存在の総称として定着した[6]。

    現代日本語では「神」と同音の言葉に「上」がある。「神」と「上」の関連性は一見する限りでは明らかであり、この2つが同語源だとする説は古くからあった。しかし江戸時代に上代特殊仮名遣が発見されると、「神」はミが乙類 (kamï) 、「上」はミが甲類 (kami) と音が異なっていたことがわかり、昭和50年代に反論がなされるまでは俗説として扱われていた。

    ちなみに「身分の高い人間」を意味する「長官」「守」「皇」「卿」「頭」「伯」等(現代語でいう「オカミ」)、「龗」(神の名)、「狼」も、「上」と同じくミが甲類(kami)であり、「髪」「紙」も、「上」と同じくミが甲類(kami)である。

    「神 (kamï)」と「上 (kami)」音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こったとする説もある。

    神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコ)、神阿多都比売(カムアタツヒメ)、神屋楯比売命(カムヤタテヒメ)などの複合語で「神」が「カム」となっていることから、「神」は古くは「カム」かそれに近い音だったことが推定される。大野晋や森重敏などは、ï の古い形として *ui と *oi を推定しており、これによれば kamï は古くは *kamui となる。これらから、「神」はアイヌ語の「カムイ (kamui)」と同語源だという説もある。[誰によって?]

    「カム」には「交む」「組む」「絡む」「懸かる」「係わる」「案山子」「影」「鍵、鉤」「嗅ぐ」「輝く」「翳す」「首」「株」「黴(かび)」「賀茂、鴨」「醸す」「食む(はむ)」「生む」「這う」「蛇(ハブ、はふむし)」「土生、埴生(はぶ)」「祝(はふる)」「屠る(ほふる)」「放る」などの派生語がある。[要出典]

    現時点では、本居宣長が『古事記伝』のなかで「迦微(かみ)と申す名の義はいまだ思い得ず」といっているように、語源についての明確な定説はない[6]。
  144. 188
    定義
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    他言語との関係
    語源
    八百万の神
    神と霊
    神体
    フェティシズムとしての議論
    類型
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    自然物や自然現象を擬人化、神格化した人格神
    思考・災いといった抽象的なものを擬人化、神格化した観念神
    動物の神格化やその側面があるとされる神々
    禊(水浴)の汚れ、排泄物から生まれた神
    怨霊信仰などにみられる祟り神
    人工物の神
    穀物などにみられる食物の神
    古代の指導者・有力者の神格化
    万物の創造主
    万物の創造主・主宰者としての全能の天皇
    王権神授説(Theory of the divine right of kings)における「divine」としての神(天皇)
    神名
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    神号 
    脚注
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    注釈
    出典
    参考文献
    関連項目
    外部リンク

    神体
    詳細は「神体」を参照
    神は本来、目に見えないものか見てはならないものとして観念されている一方で[35]、祭祀などに際し神が依るべき物体として神体があり、山や鏡など様々な物が神体とみなされている[36][37][38]。
  145. 189
    神名
    神号 
    神の名の最後につく尊称のようなものを神号とよぶ[119]。一般に神号とは観念されないものの、「カミ」(神)と「ミコト」(命・尊)が、名前の最後に交換可能な形で記紀で記される場合のある神がいる。「ミコト」の語源は「御事」とする説と「御言」とする説とがある。後者は命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるものという説がある[120]一方で、『日本書紀』には「至貴を尊と曰ひ 自餘を命と曰ふ」[121]とあり、なぜ「命」の字を当てるかについて説明はない。あるいは『古事記』では全て「命」の文字を当てており[120]ここでも大した意味はない。ただし『古事記』ではイザナギ・イザナミの尊称は「天神諸命以」[122][123](あまつかみもろもろのみこともちて)国作りを詔りごちた後、「神」から「命」に変わっている[124]。

    特に貴い神には大神(おおかみ)・大御神(おおみかみ)の神号がつけられる。また、後の時代には明神(みょうじん)、権現(ごんげん)などの神号も表れた。神号を巡っては、徳川家康の神霊の神号を「明神」にする吉田神道派の以心崇伝と「権現」にする山王神道派の南光坊天海で論争が起き、最終的に日光東照宮に「東照大権現」として祀られた話がある[125][126][127]。
  146. 190
    神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。習合、宗教的シンクレティズムの一種。

    概要

    鳥居と五重塔(日光東照宮)

    僧形八幡神
    日本に仏教が到来した当初は「仏教が主、神道が従」であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で「仏、菩薩が仮に神の姿となった」とし、「阿弥陀如来の垂迹を八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生した。一方、神道側からは「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられた。

    江戸時代に国学が流行すると、神道が優位と説かれるようになり、神道から仏教的要素を取り除くことが主張された。明治維新後には、「神仏判然令」が出されて神仏分離が行われた[2]。

    日本では「神々」の信仰は、もともと土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。日本の「神」は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。普遍宗教である仏教の伝来は、日本の従来の「神」観念に大きな影響を与えた。仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった[3]。
  147. 191
    日本へ仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、さらに戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった[4]。

    他方では、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って「一つの新しい宗教」となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性を保とうとして緊張関係が維持されていた側面もあった[5]。また、近年では神仏習合の時代における神仏隔離現象も注目されており、宮中祭祀や伊勢神宮では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されていて、神仏関係が全て習合の観念で捉えられていたわけではなかった[6]。神仏習合は、仏教が優位に立ちながらも、神祇信仰が仏教に吸収されてしまうものではなく、むしろ神祇信仰が仏教を媒介にして自立的な神道を形成していくものであった[7]。
  148. 192
    蕃神(ばんしん、あだしくにのかみ、となりのくにのかみ)とはその国、その土地の外部(外国、異国)からやってきた神。単に外国の神という意味ではなく、外来の神、つまり、外から入り込んできた後に定着し、その国、その土地で既に信仰の対象とされるようになってきている神を指していう。蕃神が信仰されるようになる経緯としては、意識的に布教される、あるいは、その国の人々が蕃神の存在を知り、自発的に信仰を始める、などが考えられる。

    もともと神道が信仰されていた日本においては、仏教伝来当初は仏を蕃神(となりのくにのかみ)と呼ぶなどしていた。

    概要
    日本では、仏教伝来当初、仏を蕃神(となりのくにのかみ)[1]と呼び、日本でそれまで信仰されていた神道の神(国津神)と区別した[2]。この区別の仕方は、仏教における仏が、外からやってきた「まれびと(客神)」として強く認識されていたことを示すとされる[3]。また、仏教の仏を「蕃神」あるいは「仏神」などとして、神道の神と併存させていく神仏習合の流れからは、世界各地で見受けられる習合主義が、日本においても無意識的・かつ顕著に発現していたことを確認できるともされる[3]。

    以上のように、「蕃神」という語は、日本では神仏習合の歴史の中で論じられることが多い。一方で、現代の日本においては、「蕃神」という語は一般的ではなく、もはや「通用していない」とする説もある[2]。
  149. 193
    語意
    「蕃」の字は、「(草木が)しげる」「ふえる」のほか、「えびす」つまり異民族の意を表し、異民族の意が転じて、外国人一般を指すようになった[4]。なお、「蛮」の字も異民族を表すものであり、「蕃神」を「蛮神」と表記することもできる[4]。もちろん、「蛮」の字を「蕃」に変えることもでき、たとえば「蛮族」を「蕃族」と表記できる[4]。

    歴史
    日本では、仏教公伝直後、引き続き神道の神を信仰すべきだとする保守派と、今後は仏教を信仰すべきだとする革新派との間で激しい争いが展開された[2]。それら、保守派には物部尾輿や中臣鎌子が、革新派には蘇我稲目らが属していた[5]。このとき、神道(古神道)の神は「国津神」、仏教の仏を「蕃神」として区別されたという[2]。 この区別の仕方は、上述のとおり、日本において、後世に「仏」をまさに「ほとけ」という言葉で呼び始める以前の、一般の人々の仏教への認識を示しているともされる[2]。

    「仏」は、『日本書紀』の欽明天皇13年(552年)10 月の条で「蕃神」と書かれ、敏達天皇14年(585年)3月の条では「仏神」と書かれている[3]。その後、200年近く過ぎた後も、依然として、「仏」は『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平19年(747年))で「他国神」・「仏神」とされ、最古の仏教説話集として知られる『日本霊異記』でも、「隣国の客神」とされたのである[3]。
  150. 194
    (客人神から転送)
    まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する[1]折口学の用語。折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。まろうどとも[2][3]。

    概要
    外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。その理由は経済的なものが含まれるが、この風習の根底に異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するといわれる。

    「まれびと」の称は1929年(昭和4年)、民俗学者の折口信夫によって提示された。彼は「客人」を「まれびと」と訓じて、それが本来、神と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定した。折口のまれびと論は「国文学の発生〈第三稿〉」(『古代研究』所収)によってそのかたちをととのえる。右論文によれば、沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機となったらしい。

    常世とは死霊の住み賜う国であり、そこには人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていたので、農村の住民達は、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持つに至った。その来臨が稀であったので「まれびと」と呼ばれるようになったという。現在では仏教行事とされている盆行事も、このまれびと信仰との深い関係が推定されるという。
  151. 195
    まれびと神は祭場で歓待を受けたが、やがて外部から来訪する旅人達も「まれびと」として扱われることになった。『万葉集』東歌や『常陸国風土記』には祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されている。さらに時代を降ると「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となった。

    来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。

    オーストリアの民族学者であるアレクサンダー・スラヴィクは、友人の岡正雄により日本における「まれびと信仰」の実態を知り、ゲルマン民族やケルト民族における「神聖なる来訪者」の伝説や風習と比較研究した[4]。

    脚注
    ^ 福田アジオ「日本民俗学の開拓者たち」(山川出版社 2009年 ISBN 978-4-634-54706-3) 71ページ
    ^ 新村出編『広辞苑』(第五版)岩波書店、1998年。
    ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『まろうど』 - コトバンク
    ^ A・スラヴィク『日本文化の古層』未来社、1984年、84-86p頁。
    文献情報
    敷田麻実「よそ者と地域づくりにおけるその役割にかんする研究」『国際広報メディア・観光学ジャーナル』第9号、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院、2009年、79-100頁、NAID 120001600884。
    桜井徳太郎編『民間信仰辞典』東京堂出版、1980年。ISBN 978-4490101379
    関連項目
    カーゴ・カルト
    異人#民俗学(アウトサイダー)
    なまはげ
    物忌み
    来訪神
    えびす
    金城哲夫
    端ノ向フ
    ELDEN RING
  152. 196
    蜜(みつ)は、草花や樹木が分泌する甘い汁のこと。また、それを蜜蜂が多くの植物から集めた蜂蜜、あるいは人間によって精製された糖蜜のこと。

    英語と語源
    英語では、花蜜をネクター(Nectar)と言う。この語源はギリシア神話に登場する神の飲み物ネクタール(nektar:nek(死)+tar(打ち勝つ効能)) に由来し[1]、西暦1600年に「花の蜜」として記述され、一般的な物となった[1]。


    ミツバチの働きバチは受精卵から発生する2倍体(2n)であり全てメスである。通常メスの幼虫は主に花粉と蜂蜜を食べて育ち働きバチとなるが、働きバチの頭部から分泌されるローヤルゼリーのみで育てられたメスは交尾産卵能力を有する女王バチとなる。オスは未受精卵から発生する1倍体(1n)であるが、巣の中では働き蜂に餌をもらう以外特に何もしない。働きバチに比べて体が大きく、働きバチや女王バチよりも複眼と単眼が非常に発達していることが外見上の特徴である[22]。

    テレビ見てると、全部動いてる気がするよね。
  153. 197
    改訂新版 世界大百科事典 「宵の明星」の意味・わかりやすい解説
    宵の明星 (よいのみょうじょう)

    日没後の空に現れる金星の称で,〈明けの明星〉に対する。《万葉集》には〈明星(あかぼし)〉と〈夕星(ゆうずつ)〉,《和名抄》では漢名による〈明星〉と〈長庚(ゆうずつ)〉で,近世の辞書類も多く後者によっている。なまって〈よいの明神〉という地方も多い。また〈よいぼし〉〈ゆうぼし〉〈くれのほし〉といい,島根には〈よいとどぼし〉の名もある。〈よいとど〉はよいから早く寝る意味。奄美大島では〈ゆうばなぶし(夕飯星)〉で,沖縄では〈ヨーネーヨーファー(よいの明星)〉〈ゆうばなまんじゅうぼし(夕飯をほしがる星)〉である。
    執筆者:野尻 抱影

    出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
  154. 198
    世界大百科事典(旧版)内の宵の明星の言及
    【金星】より

    …地球よりも太陽に近く,太陽より48゜以上離れないので真夜中の空に見ることなく,日没後の西空,または日の出前の東空に見るのみである。夕空に見えるときには〈宵の明星〉,暁の空に見えるときには〈明の明星〉という。古代ギリシアでは夕空に見えるときにはヘスペロスHesperos,暁の空に見えるときにはヘオスフォロスHeōsphorosと呼び,中国ではそれぞれ長庚(ちようこう),啓明と呼んだ。…

    【太白】より
    …五行説では金に配するので金星とも称するようになった。本来は明けの明星を啓明,宵の明星を長庚または太白と呼んで区別した。古来軍事に関連する星と考えられ,特に戦時には戦局を占う手がかりとしてその動向が注目された。…

    ※「宵の明星」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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    循環して起こる現象や動作が、ひと回りして前と同じ状態になるまでの時間・期間。「月経の周期」「地球の自...
  155. 199
    シャヘル (Shahar) は、カナン神話(英語版)(ウガリット神話)における曙(明けの明星)の神。黄昏(宵の明星)の神シャレム(英語版)[注釈 1]とは対になる神とされる。

    解説
    ラス・シャムラ文書の伝承によると、海辺を歩いていたイルが波の中に飛びこみ、その手を波のように伸ばして二人の女性(アーシラトとアナトとする説がある)を口づけと共に抱擁し、シャレム(夕暮れ)とシャヘル(夜明け)を生ませたとされる。

    イザヤ書の「曙の子ルシフェル」という言葉は、聖書で唯一のルシフェルへの言及であるが、「ヘレル・ベン・サハル(輝ける曙の息子)」というヘブライ語の意訳である。よって、シャヘルはルシフェルの父とも解釈できる[要出典]。しかしバーバラ・ウォーカーの、シャヘルが太陽神に反逆して堕とされ、それがルシフェルの神への反逆の伝説の下敷きになったとする主張[1][注釈 2]が周知され、しばしば両者は同一視される。

    シャヘルは日の出とともに、太陽が再生したことを宣言するとされていた。古代のカナン地方では、シャヘル信仰のもとでシャハリート(英語版) (Shaharit) と呼ばれる礼拝が朝に行われていた[2]。
  156. 200
    エール(’ēl , エルとも音写)は、セム語派に於いて最も普通に用いられる神を指す言葉[1]。複数形はエロヒム (Elohim) で「神々」の意だが、オリエントでは神格や王権を複数形で表わすことがあるため、旧約聖書では唯一神「ヤハウェ」の尊称として「エロヒム」が用いられている[2]。なお、エールはヘブライ語形で、アラビア語形ではイル、イラーハ(il,ilāh)、ウガリット語形やアッカド語形でイル(il [’ilu])等という。この名は恐らく「強くある」と言う意味の語根「’wl」に由来すると考えられている。ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルなどヘブライ語由来の天使の名に含まれる「-エル」はこの語に因む。

    またこの言葉は普通名詞として「神」を指すほか、神の中の神である最高神の名称として固有名詞的にも用いられる[1]。日本神話の最高神天照やメソポタミアの最高神ナンムがこれに相当する。
  157. 201
    主要な神々
    天津神
    別天津神
    造化三神…天之御中主神、高皇産霊神、神産巣日神
    宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神
    神世七代
    国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神・須比智邇神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神、伊邪那岐神・伊邪那美神
    主宰神
    天照大御神
    その他
    少名毘古那神、天忍穂耳命、邇邇芸命、思金神、建御雷神、天手力男神、天児屋命、天宇受売命、玉屋命、布刀玉命、天若日子、天之菩卑能命など


    国津神
    主宰神
    大国主神
    大国主の御子神
    阿遅鉏高日子根神、下照比売、事代主、建御名方神、木俣神、鳥鳴海神
    大国主の配偶神
    須勢理毘売命、八上比売、沼河比売、多紀理毘売命、神屋楯比売命、鳥取神
    その他
    椎根津彦、須佐之男命、櫛名田比売、大物主神、久延毘古、多邇具久、大綿津見神、大山津見神、宇迦之御魂、大年神、木花之佐久夜毘売、玉依比売、豊玉毘売、八束水臣津野命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、伊勢津彦、洩矢神、千鹿頭神など
  158. 202
    古事記の神話時代では、筑紫国、豊国、肥国、熊曾国、つまりこの島にあったのは四国でした。

    筑紫国(ちくしのくに)の名の由来は、築石(ちくいし)から来ていて、大宰府に向かう古道が石畳造りであったことからです。

    豊国(とよのくに)は豊かな国の意味で、伝説で、飛来した白鳥が餅になり、すると冬なのに一斉に雑草が茂りそれが芋に変わった、ということから景行天皇により豊かな国と名付けられたとされています。

    肥国は「火の国」で、名の由来は、阿蘇の火山から来ています。

    熊曾国(熊襲の国)のクマソはこの地域にいた古代の族名で、語源については諸説あり、全て書くと長くなるのでやめておきます。熊襲は滅亡後、神武天皇の東征の出発地であった故事から日向国(日に向かう国)に名を改めました。ちなみに東(ひがし)の和語の語源も「日向かし(ひむかし)」です。

    さらに後、筑紫国は「筑前」「筑後」、豊国は「豊前」「豊後」、肥国は「肥前」「肥後」にわかれ、日向国の南から「薩摩」「大隅」がわかれました。

    「筑前」「肥後」などの「前」「後」は、機内からのアクセスの前後関係で、手前が「前」、奥が「後」です。
  159. 203
    古代
    〔大隅国の成立〕
    「日本書紀」天武天皇一一年(六八二)七月三日条に隼人の朝貢記事があり、阿多あた隼人とともに大隅隼人とみえるのが大隅の地名の確実な初見とされる。この大隅は、のちの大隅国の南半部の地域を意味していたとみられる。大隅国の地域はもと日向国に含まれていた。「続日本紀」大宝二年(七〇二)四月一五日条に「筑紫七国」とみえ、この時期にはまだ大隅・薩摩両国は成立していなかったと考えられる。同書和銅六年(七一三)四月三日条によれば、日向国の肝坏きもつき・贈於そお・大隅・姶あいらの四郡を割き、初めて大隅国が置かれ、西海道の九国三島がそろった。大隅国の分立にあたり住民の抵抗があったらしく、同書同年七月五日条によれば、隼人征討に戦功のあった者に勲位が授けられ、その叙勲者は一千二八〇余名にも上っている。征討軍は大挙しての出兵であったと推測され、抵抗も激しかったのであろう。
  160. 204
    大隅国の国庁(国府)は桑原くわはら郡あるいは贈於郡に置かれたとされ(「和名抄」など)、移動した可能性もある。現時点での有力比定地である国分市府中ふちゆうは両郡の境界に近いことから、郡境の変動による所属郡の異動とも考えられる。なお国府推定地の東方の国分市中央ちゆうおう一丁目には大隅国分寺跡(調査進行中)があり、布目瓦などが出土し、康治元年(一一四二)銘の石造層塔がある。日向国からの分立時には四郡であったが、その後国府所在郡として和銅七年に桑原郡が分置されたとみられ(続日本紀)、さらに「続日本紀」天平勝宝七年(七五五)五月一九日条に「大隅国菱苅村浮浪九百卅余人言、欲建郡家、許之」とあるように、まもなく菱刈ひしかり郡が設置され、天長元年の多島併合までは六郡で定着した。四郡から六郡への増郡は国域の拡大とみるよりも贈於郡の細分化とみるのがよかろう。大隅建国時の四郡は北半を贈於郡が占め、南半の半島部に大隅・姶羅あいら・肝属きもつきの三郡が位置していたとみられる。このうち南半の三郡の地には大和王権の勢力が早く及び、朝貢や畿内移配の政策にも応じていたが、北半の贈於郡域には大和王権の勢力が容易には進出できないでいた。その進出にめどがついたのは、七世紀末から八世紀初めにかけてであった。

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    出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
  161. 205
    なお国名の表記に関して、大宰府出土木簡や天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)では薩麻とされ、「続日本紀」では薩摩に統一されているので、天平八年から延暦一六年(七九七)の間に薩麻から薩摩の表記に変わったと考えられる。また前掲「続日本紀」大宝二年一〇月三日条には「唱更国司等」の下に「今薩摩国也」という注が施されている。唱更国司を唱更しようこう国の司と考え、唱更国という国があり、薩摩国が唱更国ともよばれていたという理解もあるが、むしろ唱更の国司として唱更(唐の制度では辺境の守備にあたることを意味する)の任務を帯びた国司と解するのが妥当であろう。このように理解すると唱更国司は一般名詞となり、この記事が同書同年八月一日条にみえる薩摩・多たね地方の反乱(主力は薩摩隼人と考えられる)を受けてとられた措置とみられる点や、「今薩摩国也」の注が八世紀末の「続日本紀」編纂段階で付けられたことを考え合せれば、唱更国司は大宝二年一〇月の段階で隼人に対する施策の前線に位置づけられていた薩摩国と日向国(のちの大隅国を含む)の国司と考えられる。

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    出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
  162. 206
    陰陽性質表
    陽 陰
    基本的性質、特性 遠心力、分裂、分離、分散、拡散 求心力、融合、同化、集合、編成
    密度 希薄 緻密
    外形、形状 大きい、膨張性 小さい、収縮性
    重量 重い 軽い
    位置 上、前、内側 下、後、外側
    部分 上部、内部、中心 下部、外部、周辺
    向き、方向 上昇、垂直 下降、水平
    ハングルの母音字 ㅏ、ㅑ、ㅗ、ㅛ ㅓ、ㅕ、ㅜ、ㅠ
    高さ 高い 低い
    東西南北天地 東、南、天 西、北、地
    春夏秋冬 春、夏 秋、冬
    昼夜 昼 夜
    天体 太陽(日) 太陰(月)
    光度 明るい(光明、日光) 暗い(晦冥、月光)
    温度 熱、暑、暖 冷、寒、涼
    湿度 乾燥 湿潤
    気候風土 熱帯気候、乾燥帯気候 寒帯気候、湿潤気候
    天気 晴 雨
    素粒子 陽子 電子
    生物特性 動物的 植物的
    状況 動 静
    動き、仕事、文化 活発、敏速、物理的、社会的、物質的 不活発、緩慢、沈滞、心理的、精神的
    感性、態度 攻撃的、積極的 防御的、消極的
    戦闘 攻撃 防御
    武術 剛 柔
    感触 堅硬 柔軟
    呼吸 呼気 吸気
    器官構造 中空器官、膨張性 実質器官、凝縮性
    神経 中枢神経、交感神経 末梢神経、副交感神経
    補瀉 瀉 補
    命 生 死
    次元 時間 空間
    性別 男性 女性
  163. 207
    夫婦 夫 妻
    親 父 母
    八綱弁証 表証、実証、熱証 裏証、虚証、寒証
    数 奇数 偶数
    数学 +(正) -(負)
    商売 利益 損害
    人間 肉体(体) 精神(心)
    背腹 背 腹
    感情 興奮 抑制
    五臓六腑 腑 臓
    人体組織 筋肉、内臓 皮膚、骨
    光闇 光 闇
    収穫 豊穣 凶荒
  164. 208
    現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[2]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[2]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[3]。
  165. 209
    薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の鹿児島県の西部に属する。

    沿革
    『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える[1]。

    古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[2]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

    現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[2]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[2]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[3]。

    5世紀の仁徳天皇の御代には隼人の長を改めて直としたとされる(『国造本紀』)。

    7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した[4]。


    廃藩置県とアレだよね?7県になって、対馬が編入された?
  166. 210
    史実と神話があってないと思うってのがあるのか、まだ確定が出ないのか。
    どうやってんだろうね。
  167. 211
    天津神が男神で国津神が女神なのが天孫降臨だよね?
    天津と国津が交わって天津が生まれる?
  168. 212
    天照が最高神として?ニニギを天孫降臨させて?
    天照は天津でしょ?
    天津と国津が交わって、国津から天津が生まれる。
    太陽神の系譜を国津が宿して生まれてくる。

    戸隠?

    主催神 大国主だっけ?国津。

    スサノオがアレそうだけどさ。

    イザナミは天津神。黄泉がどうも天にありそうだけど?
    たださ、黄泉津国そうなんだよね?
    天からおりて葦原中国 高天原
  169. 213
    桜島って薩摩って感じだけど、大隅そうなんだっけ?
  170. 214
    京という言い方?
    とりま海道がアレみたいだよね?
    当時航海大変だったっての残ってるから、なるべく陸伝いで、島間が狭いところがアレみたいなさ。
    狭くて流れがアレっていうと鳴門とかなんだよね?
    狭くても極力そこは通らないみたいな。
    通ってたっけ?最近。
  171. 215
    大年神
    神祇 国津神
    全名 大年神
    神格 食物の神
    父 須佐之男命
    母 神大市比売
    兄弟姉妹 宇迦之御魂神
    配偶者 伊怒比売、香用比売、天知迦流美豆比売
    子 多数
    神社 各地の大歳神社等
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    年神(としがみ、歳神とも)、大年神(おおとしのかみ)は、日本神話、神道の神である。

    大年神
    日本神話では、『古事記』において須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。孫に久久年神(くくとしのかみ)もいる。

    『日本書紀』には年神は現れない。『日本書紀』は天皇の即位年を太歳の干支で示すが、太歳は中国で考えられた架空の天体であって年神とは異なる。
  172. 216
    古語拾遺における記載
    『古事記』には系譜以外の事績の記述がないが、『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。

    来訪神
    毎年正月に各家にやってくる来訪神である。地方によってはお歳徳(とんど)さん、正月様、恵方神、大年神(大歳神)、年殿、トシドン、年爺さん、若年さんなどとも呼ばれる。

    現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった[5]。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。


    年神の一例。藤沢市遠藤
    トシドンは鹿児島県薩摩川内市の下甑島に伝わる年神である[6]。

    また陰陽家では、娑伽羅竜王(しゃがらりゅうおう)の娘、女神・頗梨采女(はりさいじょ)のことを年神といい、元旦に来訪する神霊という。のちに、これに先祖霊が加えられ、習合した[5]。
  173. 217
    穀物神
    「年」は稲の実りのことで、穀物神である。本居宣長は「登志とは穀のことなり、其は神の御霊以て、田に成して、天皇に寄奉賜ふゆえに云り、田より寄すと云こころにて、穀を登志とはいうなり」と述べ、穀物、農耕神であるとした。

    信仰の根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。

    祖霊
    また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。

    柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。

    年徳神
    中世ごろから、都市部で「年神(歳神)」は「年徳神(歳徳神)」と呼ばれるようになった。徳は得に通じ縁起が良いとされたためである。方位学にも取り入れられ、歳徳神のいる方角は「恵方」と言って縁起の良い方角とされた。

    暦には女神の姿をした歳徳神が描かれているが、神話に出てくる大年神は男神であり、翁の姿をしているともされる。元々民間信仰の神であり、その姿は様々に考えられていたということである。

    正月の支度をしていると翁と出会い、待ち合わせをしていた童と交代で帰って行くのを見届ける為に数日が過ぎ、すっかり年が明けてしまったと思っていたら時間は経過しておらず、童が今年の年神である事に気付くという伝承がある。
  174. 218
    系譜

    スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
    大年神は他に多くの神の父及び祖父とされる[1]。

    伊怒比売(いのひめ、神活須毘神(かむいくすび)の娘)との間の子
    大国御魂神(おほくにみたま) - 国土の神霊の意。国魂、大国主を参照。
    韓神(から) - 百済からの渡来氏族が信仰した神[2]。園韓神社も参照。
    曾富理神(そふり) - 西田長男は、曽富理神が祀られたのは、平安京に遷都の行われた延暦13年10月20日以後のこととして、古事記の成立は平安遷都以後とした[3]。また、新羅からの渡来神ともされる[4]。
    白日神(しらひ) - 明るい太陽の神。
    聖神(ひじり) - 日を知る農耕神。
  175. 219
    香用比売(かぐよひめ)との間の子
    大香山戸臣神(おほかぐやまとみ)
    御年神(みとし)
    天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間の子
    奥津日子神(おきつひこ) - 熾の神。
    奥津比売命(おきつひめ) - 同上。別名 大戸比売神(おほへひめ)。竈神(かまど)の女神。
    大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
    庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
    波比岐神(はひき)
    香山戸臣神(かぐやまとみ)
    羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
    庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)。土の神。
    羽山戸神と大気都比売神との間の子
    若山咋神(わかやまくい) - 山の神。
    若年神(わかとし)
    若狭那売神(わかさなめ) - 田植えをする早乙女の意。
    弥豆麻岐神(みづまき) - 水撒き・灌漑の神。
    夏高津日神(なつたかのひ) - 別名 夏之売神(なつのめ)。夏の高く照る日の神の意。「夏」の文字は記紀の神話全体で季節の名としては現れず、この神の名として現れるのみである。
    秋毘売神(あきびめ) - 秋の女神。
    久久年神(くくとし) - 稲の茎が伸びることの意。
    久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなね) - 別名 若室葛根(わかむろつなね)。新しい室を建てて葛の綱で結ぶの意。新嘗祭のための屋舎を建てることと考えられる。
  176. 220
    園韓神社(そのからかみのやしろ/そのからかみしゃ)は、園神社(そのじんじゃ/そのかみのやしろ、薗神社)および韓神社(からじんじゃ/からかみのやしろ)の総称。式内社(名神大社)で、現在は廃社。

    概要
    園神社・韓神社のいずれも、平安京の宮中(大内裏)の宮内省において応仁の乱頃まで鎮座した神社である[1]。『拾芥抄』宮城指図では宮内省の西、『年中行事絵巻』では宮内省の北西隅に見えており、その位置は現在の京都府京都市上京区主税町の北東にあたる[1]。社殿は南北2宇(南に園神社、北に韓神社)でいずれも東面し、正面一間・側面二間の春日造風であったとされる[1]。

    宮中では唯一の名神大社であり、平安時代には例祭「園韓神祭(そのからかみのまつり)」を年2回行う規定で、朝廷から重要視されていた。しかしながら応仁の乱以後は廃絶したため、現在も神格・由来等に関して諸説がある。

    祭神
    祭神のうち、園神については『古事記』『日本書紀』等に記載はなく不詳[2]。一説に宮内省の園池を守る神ともいう[2]。韓神については、『古事記』において大年神と伊怒比売(神活須毘神の女)との間の御子神、大国御魂神・韓神・曾富理神・白日神・聖神の5神のうちに見えている[1](この韓神とは別神とする説もある[2])。★本居宣長は『古事記伝』において、曾富理神が園神・韓神二座のいずれか一座とする説を唱えている[3]。

    『大倭神社註進状』では、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命・少彦名命を祀るとするとともに、これらの神は素戔嗚尊の子孫であり疫から守る神であるとしている[1]。

    これ読んでると曾富理神が園神にアレそうだけど、違うってんでしょ★
    あいつも確定出してないんだよね?
  177. 221
    ツクヨミ一択そうだけど、陰陽にするとアレだよね。たださ、男神は全部太陽神、女神は全部月神になっちゃうよね。
    でさ、ツクヨミって男神そうで、女神になるとかにアレだよね。

    月読命

    月読命(ツクヨミノミコト)
    三貴神
    神祇 天津神
    全名 月読命(ツクヨミノミコト)
    別称 月読尊、月弓尊、月夜見尊、月讀尊
    神格 月神、農耕神
    父 伊邪那岐神
    母 伊弉冉尊(日本書紀のみ記述あり)
    兄弟姉妹
    天照大神

    スサノオ
    神社 月読神社
    テンプレートを表示
    ツクヨミ[1]、またはツキヨミ[2]は、日本神話に登場する神。

    『古事記』は月読命、『日本書紀』は月夜見尊などと表記する。一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。

    神話での記述
    記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大御神(天照大神・あまてらす)の弟神にあたり、建速須佐之男命(素戔鳴尊・たけはやすさのお)の兄神にあたる[注釈 1]。
  178. 222
    ツクヨミは、月の神とされている[3]。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記では伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大御神、鼻から生まれた須佐之男命とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。

    この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている[4]。

    日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある[5]。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。

    ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが追加されたためではないかと考えられている[6]。

    ツクヨミはスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる[7]。
  179. 223
    香用比売神(かがよひめのかみ)/日本の神々の話
    20141230

    大年神の妃神で光り輝くような美しき神。
    大年神は、素戔嗚神と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた神。

    『古事記』にてこの神が出てくるのは、「大国主の神」の巻の第7段「大年神の神裔」です。
    (読み下し文)
    かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。

    それによれば、大年神と香用比売神が婚姻されて、大香山戸臣神と御年神の二柱の御子神をもうけられたとある。
  180. 224
    神名の由来について、本居宣長が『古事記伝』で書いていることを紹介しましょう。『古事記伝』の素晴らしさがわかると思います。

    香は加賀と讀むべし。【𦾔事紀に、賀用比賣と書るは非なり。そは若シは後に加の字を脱せるにてもあるべし。】香の字を此ノ二音の假字用ひたる例は、伊香色謎ノ命(いかがしこめのみこと)、【書紀孝元ノ巻に見ゆ。此記には伊迦賀色許賣とあり。】伊香色雄(いかがしこを)【又崇神ノ巻に見ゆ。此記には伊迦賀色許男とあり。】これらなり。【香山香坂ノ王(かぐやまかごさかのみこ)などの香ノ字も音を用ひたるにて加(か)-具(ぐ)加(か)-碁(ご)の假字とせり。】さて名ノ義は、容皃(かほ)の美麗(うるはし)きをほめて、光輝(かがや)くと云意か。萬葉六に、加我欲布珠(かがよふたま)、十一に、燈之陰爾(ともしびのかげに)蚊蛾欲布(かがよふ)虚蝉之妹蛾(うつせみのいもが)ヱ状思(まひし)面影爾所見(おもかげにみゆ)、これらかがやくを香用布(かがよふ)とよめり。
    又娶(めとる)は、大年神の娶たまふなり。下なるも同じ。

    『万葉集』六巻の「かがよふ珠」、同十一巻の「灯(ともしび)の陰に蚊蛾欲布虚蝉(かがよふうつせみ)の妹がえまひし面影に見ゆ」を引用して、容貌の美わしきをほめて光り輝くという意味であろうと解釈している。
    つまり神名の香は輝くの意味ではないかと考えられている。
    また御子神の大香山戸臣とあるのは、母神の香を受けた神名である。御年神は父神の大年神を受けての神名で、年穀を司る神である。


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  181. 225
    コレだけ太陽太陰暦とか使っててさ、月の神が一択感あるのに、コレってスゲー漢字するよね。
    山?
    なんか仏教っぽいけど、アレだよね。
    明神とか権現って古来の日本の神ってのもアレなんだよね?
  182. 226
    ゲブラー(Gevurah、峻厳と訳される)
    第5のセフィラ。数字は5、色は赤、図形は五角形、金属は鉄、宝石はルビー、惑星は火星を象徴する。天空の外科医と呼ばれることもある。神名はエロヒム・ギボール。守護天使はカマエル。


    普及版 字通 「峻厳」の読み・字形・画数・意味
    【峻厳】しゆんげん

    厳しい。
    字通「峻」の項目を見る。

    出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

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  183. 227
    火星

    歴史と神話
    火星の名称(Mars/マーズ)は、ローマ神話の神マルス(ギリシア神話の軍神アレース)から名付けられた。メソポタミアの民は赤い惑星に戦火と血を連想して彼らの戦神ネルガルの名を冠して以来、火星には各々の地でその地の戦神の名がつけられている(ほかの惑星名についてもほぼ同様の継承が認められる)。

    東洋
    火星は五行説に基づく呼び名であり(五行説は東洋医学の基礎理論でもある)、学問上(天文史料)では熒惑(ケイコク)といった。「熒」はしばしば同音の「螢」と誤られる。また、この場合の「惑」は「ワク」ではなく「コク」と読む。江戸時代には「なつひぼし」と訓じられた。そのため夏日星という和名もある。

    火星がさそり座のアンタレス(黄道の近くに位置しているため)付近にとどまること(地球から観測する場合、火星は順行から逆行に切り替える数日間、天球上の同じ場所に止まるように見える)を熒惑守心(熒惑心を守る)といい、不吉の前兆とされた。「心」とは、アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿のこと[44]。

    占星術
    火星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。

    西洋占星術では、白羊宮の支配星、天蝎宮の副支配星で、凶星である。積極性を示し、運動、暴力戦争などの争い、外科、年下の男にあてはまる[45]。

    惑星記号

    火星の惑星記号はマルスを象徴する盾と槍を図案化したものが、占星術・天文学を通して用いられる。これを雌雄の表記に転用したのはカール・フォン・リンネであり、生殖器の図案ではない。
  184. 228
    カマエル

    ステンドグラス、聖ミヒャエル教会(英語版)、ブライトン、イングランド。
    大天使
    崇敬する教派 ユダヤ教、聖公会
    記念日 9月29日
    象徴 聖爵
    テンプレートを表示
    カマエル(Chamael, Chamuel, Camael, Kamael)は、「神を見る者」という意味の名をもつ大天使で、チャミュエルとも言われる。14万4千もの能天使の指揮官とも、1万2千もの「破壊の天使」を率いているともされる。火曜日の守護天使であるともいわれる。

    神の力を象徴しており、神の立てた正義を前提にして、神に敵対する者達を容赦なく攻撃するといわれている。ヤコブと格闘した天使とも、ゲッセマネにおいて受難を予期したイエスを励ました天使ともいわれる。

    その攻撃的な性格から、オカルト教義では堕天使や岩にうずくまる豹の姿をした地獄の悪魔として扱われることがあったとされ、そのことから「赤い豹」という通り名で呼ばれたともいわれる。

    火星に関連づけられ、蠍座(天蠍宮)の天使でもある。

    モーセが神から律法を受け取る為に天に登った際に門番として行く手を阻んだが、モーセの偉大さを認めて門を開けたといわれる(モーセに殺されたという説も)。

    ドルイドの神話では戦の神となっている。(ドルイドは滅多に天使について語らないが、カマエルは戦いの天使だと明言している。)『天使の世界』マルコム・ゴドウィン著,大瀧啓裕訳(青土社)より引用[要出典]

    参考文献

    出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年5月)
    真野隆也『Truth In Fantasy 18 天使』 新紀元社、1995年。
    ヘイゼル・レイブン『エンジェル・バイブル』産調出版、2007年。
    関連項目
    生命の樹
  185. 229
    サマエル(Samael、ヘブライ語: סמאל‎)はイスラエルに伝わる死を司る天使。

    概要
    その名は「神の毒」、「神の悪意」の意味をもつ。赤い蛇と呼ばれることもある。

    サマエルは謎が多く、ルシファーと同じ熾天使、ローマの守護天使、火星の天使、エデンの園に棲んでいた蛇など、様々な説がある。そのため、カマエルやサタンと同一視されることもある。

    ユダヤ教では、神の命令であった「モーセの魂を天国に運ぶ」のに失敗し、この時モーセの杖で打ち据えられ、サマエルの目は潰れ盲目になってしまったといわれている。その後、神に厳しく叱責され、モーセの魂は結局神自らが天国に運んだ結果、その屈辱から神への反感が生まれてしまい、堕天してやがては魔王になったとされている。一説では、サタン(ルシファー)に匹敵するほどの強大な力を持った魔王であるとされている。また、十二の翼をもっていたと言われ、ルシファーと同一視されることもある。

    旧約聖書の創世記において、蛇がイヴに知恵の木の実について教え、イヴとアダムは、その実を食べる。そのために、創造主たる神は蛇を呪い、人に生の苦しみと死の定めを与え、人間は死を免れることができなくなったと書かれている。カバラにおいては、この蛇がサマエルとされている。

    バルクの黙示録では、サマエルはエデンの園に葡萄の木を植えたという。これに神は怒り、サマエルと彼の植えた葡萄の木を呪いアダムが触れることを禁じたが、これに怒ったサマエルは、葡萄を使いアダムを欺いた。

    関連項目
    天使の一覧
    悪魔の一覧
  186. 230
    土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。平安時代には交通安全に霊験があるとして車文に多く使用された[1]。

    羅睺星は平安時代の神仏習合の際、日食を引き起こしたスサノオと結び付けられ災いを引き起こす天体と考えられた。また、羅睺星を祭り上げる場合は黄幡神として道祖神のように奉られる。


    虚空蔵菩薩

    絹本著色虚空蔵菩薩像 東京国立博物館蔵 平安時代後期 国宝
    名 虚空蔵菩薩
    梵名 アーカーシャガルバ
    テンプレートを表示
    虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)(梵名アーカーシャガルバ(梵: आकाशगर्भ [Ākāśagarbha])、またはガガナガンジャ(梵: गगनगञ्ज、[gaganagañja]))は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、明星天子、大明星天王とも呼ばれる。また、知恵の菩薩として、人々に知恵を授けるともいわれている[1]。
  187. 231
    シュクラ(Shukra)またはスクラチャリヤ(Sukracharya)またはウシャナー(Ushana)またはウシャナスシュクラ(Ushanas Shukra)とはインド神話に登場するリシ(聖仙、聖賢)あるいは神の名前である。リシであるブリグの息子とされる。その名前は「純粋」「清浄」「白」を意味する。漢字では「戌羯羅」と音写される。

    伝承
    9の天体、あるいはそれらを司る神々ナヴァグラハの一員であり、金曜日と金星を司るとされた。

    中国では西方太白星と同一視される。

    シュクラはアスラグルとも呼ばれアスラたちを教導する役目も持つ。このためシュクラはアスラの王ヴリシャパルヴァンやマハーバリに従事したこともある。

    死者を甦らせる秘法をもつ。

    娘の名はデーヴァヤーニー(英語版)。

    図像
    仏像としては、頭上に酉の冠を載せ、白練衣を着、弦を弾く姿で表される。

    真言

     唵 吠尾毘 娑婆訶 唵 戌羯羅 誐駄嚩囉羅 邏惹野 室哩迦 娑嚩賀 <オン ベイビビ ソワカ オン シュカラ ギャダバラバラ ラジャヤ シリカ ソワカ>(「新編 仏像図鑑 上」p.136より)
  188. 232
    マンガラ(サンスクリット: मङ्गल Maṅgala)は、インドの九曜のひとつで、火星にあたる。

    マンガラは文字通りには吉祥を意味する。アグニの名前でもある[1]。

    ある神話によれば、マンガラはシヴァの血と汗から生まれたという。別の神話によれば、ヴィシュヌがヴァラーハ(猪)の姿で現れて、海底に沈められた大地(ブーミないしプリティヴィー)を元に戻したときにヴィシュヌとブーミから生まれたとする[2]。

    マンガラは大地(地球)の子(bhauma < bhūmi)とも呼ばれる[3]。

    カールッティケーヤと同一視されることもあるが、図像学上は異なっている。赤い肌で、4本の腕を持ち、牡羊に乗る[2]。

    火星はまたアンガーラカ(aṅgāraka 文字通りには「炭」)とも呼ばれる[3]。
  189. 233
    五大虚空蔵菩薩

    木造五大虚空蔵菩薩坐像のうち蓮華虚空蔵菩薩像 神護寺蔵 平安時代 国宝
    五大虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩のみ5体を群像として表したものである。虚空蔵菩薩の五つの智恵を表す「五智如来の変化身(へんげしん)」とも言う。息災・増益などの祈願の本尊にもなっている。

    5体の名称、方位、身色は次の通りである。

    法界(ほっかい)虚空蔵(中央、白色) - 白は解脱を意味し、迷いを解き払う仏様
    金剛虚空蔵(東方、黄色) - 財産や幸福をもたらす仏様
    宝光虚空蔵(南方、青色) - 願い事を叶えて満足させてくれる仏様
    蓮華虚空蔵(西方、赤色) - 願い事に関して施してくれる仏様
    業用(ごうよう/ごうゆう)虚空蔵(北方、黒紫色) - 穢れを離れて清浄な仏様
    五大虚空蔵菩薩の彫像の作例としては、京都・神護寺多宝塔安置の像(平安初期・国宝)で、5体揃ったものでは最古と言われる。また、京都・東寺観智院安置の五大虚空蔵菩薩像(重文)は、空海の孫弟子にあたる恵運が唐から招来した像で、元は山科(京都市山科区)の安祥寺にあったものである。法界の像は馬、金剛は獅子、宝光は象、蓮華は金翅鳥(こんじちょう)、業用は孔雀の上の蓮華座に乗っている。

    虚空蔵菩薩像(朝熊権現本地仏)東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重要文化財)
    虚空蔵菩薩像(朝熊権現本地仏)東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重要文化財)

    虚空蔵菩薩像 東大寺金堂(大仏脇侍)江戸時代 重要文化財)
    虚空蔵菩薩像 東大寺金堂(大仏脇侍)江戸時代 重要文化財)
  190. 234
    ラーフ राहु Rāhu (Rahu) 羅睺(らごう) 羅睺星 月の昇交点 藍 ゴメーダ 男 空気 西南 - 土曜日 頭 スズ 黒レンズ豆
  191. 235
    五智如来(ごちにょらい)は、五大如来ともいい、密教で5つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を5体の如来にあてはめたもの。金剛界五仏のことである。 作例としては、東寺(教王護国寺)講堂、京都・安祥寺の像が著名である。

    一覧
    大日如来(だいにちにょらい)
    法界体性智
    色: 白
    方角: 中央
    阿閦如来(あしゅくにょらい)
    大円鏡智
    色: 緑
    方角: 東
    薬師如来と同一視される。
    宝生如来(ほうしょうにょらい)
    平等性智
    色: 黄
    方角: 南
    観自在王如来(かんじざいおうにょらい)
    妙観察智
    色: 赤
    方角: 西
    阿弥陀如来と同一視される。
    不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)
    成所作智
    色: 黒(紫)
    方角: 北
    釈迦如来と同一視される。
  192. 236
    五智如来においては、西方に位置する観自在王如来と同一視するが、真言宗では阿弥陀が法蔵菩薩であったときに師事した仏として、別尊とする。

    曼荼羅
    当麻曼荼羅

    垂迹神
    熊野権現
    八幡神

    神仏習合

    僧形八幡神
    東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜尼、大神朝臣杜女(おおがのあそんもりめ)らが、上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる[7][8]。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、本地垂迹においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた[9]。一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている[10][11][9][注 2]。

    平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。
  193. 237
    当麻曼荼(陀)羅(たいま まんだら)とは、奈良の當麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅(當麻寺#当麻曼荼羅と中将姫説話の項を参照)の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称である。

    曼荼羅という用語を用いているが、密教の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅とは無関係である。浄土曼荼羅という呼称は密教の図像名を借りた俗称であり、正式には浄土変相図である。

    浄土変相図の図様としては、『智光曼荼羅』と呼ばれるものと、『清海曼荼羅』と呼ばれるものとがあり、当麻曼荼羅とあわせて浄土三曼荼羅と称されている。その中で、当麻曼荼羅の特徴は一見して図像が4つの部分に区切られており、他の浄土図に比べて極楽浄土中の尊像も数多く描かれ、複雑な画面構成をしているという点である。

    これは、本図が浄土三部経の『観無量寿経』で説かれる内容を忠実に描いている点によっている。このことから、観経曼陀羅ともいう。

    構成
    本図を見る時は、まず画面に向かって左側の区画を下から上に向かい、王舎城の悲劇と言われる序分の内容を見る(序分義)。つまり、阿闍世が提婆達多の勧めによって、父王の頻婆娑羅王を幽閉して餓死させようと図った。さらに、それを阻止しようとした母の韋提希夫人までをも幽閉した。それを嘆いた韋提希が、霊鷲山の釈迦に安楽な世界についての説法を求めるという内容が描かれている。

    禁父縁・初重 - 四重
    禁母縁・初重、二重
    厭苦厭・初重、二重
    欣浄縁
    顕行縁
    示観縁
    化前縁
  194. 238
    第二は、画面に向かって右側の区画を上から下に向かい、釈迦が韋提希に対して説いた十三観法(定善十三観)の図が描かれている(定善義)。

    日想観
    水想観
    宝地観
    宝樹観
    宝池観
    宝楼観
    華座観
    形像観(像相観)
    真身観
    観音観
    勢至観
    普往生観(普観)
    雑想観
    である。

    第三は、画面下方の全部で10か所に区切られた区画を見る。中央の文章の痕跡が記された区画は、本図の根本曼荼羅が蓮糸で織られたという縁起を記した由緒書きの跡である。その左右に、向かって右から左へ九品往生のさまが描かれている(散善義)。左から、

    上品上生
    上品中生
    上品下生
    中品上生
    中品中生
    中品下生
    下品上生
    下品中生
    下品下生
    の9図である。

    最後に中央の阿弥陀浄土図を見ることとなる(玄義分)。前面に蓮池が描かれ、その池中の蓮花中からは往生者が生まれているさまが見え、その池の畔では阿弥陀と往生者の父子相迎の様子が描かれている。また、中央には阿弥陀、観音、勢至の三尊を中心とした聖衆が描かれ、その後方には左右対称に宝閣が描かれている。空中には散華や各種の楽器と共に飛天が舞い、極楽浄土の様子が描かれている。
  195. 239
    はてしないな。
  196. 240
    ははうえさま 歌詞
    歌:藤田淑子

    作詞:山元 護久

    作曲:宇野誠一郎

    発売:2008-11-09 10:35:02

    ははうえさま お元気ですか
    ゆうべ杉のこずえに
    あかるくひかる星ひとつみつけました
    星はみつめます
    ははうえのようにとてもやさしく
    わたしは星にはなします
    くじけませんよ 男の子です
    さびしくなったら はなしにきますね
    いつか たぶん
    それではまた おたよりします
    ははうえさま
    いっきゅう

    ははうえさま お元気ですか
    きのうお寺のこねこが
    となりの村にもらわれていきました
    こねこはなきました
    かあさんねこにしがみついて
    わたしはいいました
    なくのはおよし さびしくないさ
    男の子だろ かあさんにあえるよ
    いつか きっと
    それではまた おたよりします
    ははうえさま
    いっきゅう
  197. 241
    末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことである[1]。
  198. 242
    猫檀家(ねこだんか)は、日本の昔話・民話の類型の一つ。寺で飼われていたネコが、その恩返しのために寺を栄えさせるというもの[1][2]。

    あらすじ
    典型的なあらすじは以下の通り。

    ある寺が貧乏の挙句、食事にも事欠くほどになり、和尚はずっと飼っていたネコに暇を出した。するとネコは、近いうちに長者の家で葬儀があるといって、和尚に策を授けた。

    やがて長者の家の葬儀の日。亡骸を納めた棺桶が突然、空に舞い上がった。参列者たちが驚き、その場にいた僧侶たちが必死に祈祷するものの、棺桶は動かない。だが最後に貧乏寺の和尚が経を唱えると、棺桶が降りて来て、無事に葬儀を済ますことができた。

    この一件で和尚の名声が広まり、多くの家がこの寺の檀家となり、寺は後々まで栄えたという[2]。
  199. 243
    解説

    『北越雪譜』にある「北高和尚」の火車退治の挿絵。猫檀家を描いた古書の一つ[3]。
    東北地方から九州にかけて分布しているものの、報告例は東北に多く、九州には少ない[1][4]。実在の寺を背景とし、寺の由来などを紐解く伝説となっていることもある[2]。

    話の中、葬儀の棺桶が持ち上がったのは貧乏寺のネコの仕業であり、長年世話になった和尚への恩返しとされるが、世間ではネコが火車(妖怪)に化けて葬儀を襲うなど[3]、ネコを妖怪と見なして語られることもあり、寺が貧乏に喘いでネコに暇を出すのではなく、ネコが踊り出したのを見て追い出すといった具合に、怪異性をともなっている場合もある[2]。

    和尚とネコの交流に重点を置いた典型的な昔話として語られるのは主に東北地方だが、西南地方の多くでは棺桶が宙に上がるような展開はなく、嵐のために葬儀を出せず、和尚が祈祷で嵐を鎮めたとする話に変化している。また恩返しのエピソードがなく、葬儀を襲うネコの怪物を和尚が追い払ったとして、単に和尚の名僧ぶりのみを語る話に変化している場合もある[1][4]。

    「猫檀家」はどのバリエーションにおいても「ネコは死体を盗む」「老いたネコは火車に化けて葬儀を襲い、亡骸を奪う」といった、日本古来の俗信が背景にあるものと考えられている。また九州地方では火車を追い払うための呪法が多く伝わっているが、前述のように東北から西南地方へかけて話の形式が変化しているのは、ネコと葬儀との関連性に対する土地ごとの観念の違いや、西南地方ではネコの魔力を封じる呪法に僧侶たちが深く関っていたためと見られている[1][4]。
  200. 244
    猫寺

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    生善院の山門と"狛猫"

    豪徳寺の招福猫児
    猫寺(ねこでら)は、日本各地に見られる、猫に縁が深い寺院の通称。猫に救われたり、または祟られたりしたため、猫を祀った由来を持つものが多く見られる。

    主な猫寺
    称念寺(京都市上京区)は飼い猫が恩返しに寺の復興を助けたという伝説から猫寺の通称で呼ばれ、今日では猫を含めた動物供養を行う[1]。

    生善院(熊本県球磨郡水上村)は、猫の怨霊が相良家を祟り、19代忠房が若くして急死するなどしたため建立されたという伝説を持つ[2]。

    招き猫発祥の地の伝説がある豪徳寺(東京都世田谷区)の由来には、寺の繁栄に関し「全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにしてこの寺を猫寺と呼ぶに至れり」[3]とある。自性院(東京都新宿区)には節分のみ開帳される秘仏「猫地蔵尊」が本尊として祀られるが、これは太田道灌が猫の導きにより江古田・沼袋原の戦いに勝利した伝説に由来する[4]。

    御誕生寺(福井県越前市)は、数十匹の捨て猫や傷病猫を保護・飼育していることから猫寺とも呼ばれている。ただし、無制限に捨て猫を受け入れているわけではない。

    脚注
    [脚注の使い方]
    ^ “猫の恩返し物語”. 京都浄土宗 称念寺-猫寺. 2012年12月4日閲覧。
    ^ “生善院(猫寺)の由来”. 熊本県 水上村. 2012年12月4日閲覧。
    ^ 『開運ご利益 東京・下町散歩』学研パブリッシング〈学研ムック〉、2011年、pp30-31。ISBN 978-4-056-06451-3
    ^ 江戸歴史散歩愛好会『東京・江戸散歩 おすすめ25コース』PHP研究所〈PHP文庫〉、2009年、pp189-190。ISBN 978-4-569-67181-9
  201. 245
    豪徳寺

    本堂
    地図Wikimedia | © OpenStreetMap
    所在地 東京都世田谷区豪徳寺二丁目24番7号
    位置 北緯35度38分55.6秒 東経139度38分50.7秒座標: 北緯35度38分55.6秒 東経139度38分50.7秒
    山号 大谿山(だいけいざん)[1]
    院号 洞春院[1]
    宗派 曹洞宗[1]
    本尊 釈迦如来
    創建年 文明12年(1480年)[1]
    開山 昌譽[2][1]
    開基 吉良政忠[2]
    中興 天極秀道(開山)
    井伊直孝(開基)[2]
    文化財 彦根藩井伊家墓所(国の史跡)
    井伊直弼墓(東京都指定史跡)
    法人番号 6010905000179 ウィキデータを編集
    豪徳寺の位置(東京都内)豪徳寺
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    三重塔
    豪徳寺(ごうとくじ)は、東京都世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。元は臨済宗。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる[3]。

    歴史
    本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。

    文明12年(1480年)、世田谷城主・吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ[2]。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じる[1]。

    寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した[1]。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による[1]。

    平成18年(2006年)に猫の彫り物が施された三重塔が新たに建立された。
  202. 246
    招き猫伝説

    招福猫児
    招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという[4][5]。

    豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
  203. 247
    自性院無量寺

    山門
    所在地 東京都新宿区西落合一丁目11番23号
    位置 北緯35度43分17.4秒 東経139度40分57.8秒座標: 北緯35度43分17.4秒 東経139度40分57.8秒
    山号 西光山[1]
    院号 自性院
    宗旨 新義真言宗[1]
    宗派 豊山派
    本尊 阿弥陀如来[1]
    創建年 伝・弘法大師の時代
    正式名 西光山自性院無量寺[1]
    別称 猫寺
    法人番号 3011105000583 ウィキデータを編集
    自性院 (新宿区)の位置(東京都区部内)自性院 (新宿区)
    テンプレートを表示
    自性院(じしょういん)は、東京都新宿区西落合一丁目にある真言宗豊山派の寺院。

    歴史
    寺伝によると、平安時代に空海が同地で観音像を建立して供養したのが始まりであると言われている[2]。

    同院は別名「猫寺」と呼ばれているが、これは室町時代の文明9年(1477年)、江古田・沼袋原の戦いにて道に迷い苦しんでいた太田道灌の前に一匹の黒猫が現れ、同院に招き入れ危機を救ったとする伝承に由来する[2]。

    道灌はこの事に感謝し、この猫の死後に地蔵像を作り奉納したと言われ、これが「猫地蔵」と呼ばれているものである[2]。

    また、江戸時代には顔が猫面の特徴的な地蔵像が同院に奉納され、「猫地蔵」と共に毎年2月3日に開帳されている[2]。

    そのほか、境内には室町時代のものと推定される板碑(新宿区指定文化財)もある[3]。

    主な施設
    本堂
    猫地蔵堂 - 招き猫なども奉納されている[注釈 1]。
    六地蔵
    自性院会館(葬儀なども可能)
  204. 248
    江古田原・沼袋の戦い(えごたはら ぬまぶくろ の たたかい)とは、中世日本で起こった合戦の一つ。戦国時代初期の文明9年4月13日(ユリウス暦換算:1477年5月25日)、武蔵国多摩郡の江古田原および沼袋(現在の東京都中野区江古田・沼袋付近)にて、太田道灌と豊島泰経との間で行われた[1]。長尾景春の乱における局地戦の一つ。

    当時唯一の記録である『太田道灌状』には戦場となった場所が「江古田原」と記されており、のちにこれを下敷きに書かれた『鎌倉大草紙』で「江古田原沼袋」となっている[2]ことから、研究者の間では一般に「江古田原合戦」と呼ばれている。

    背景
    文明8年(1476年)、関東管領・山内上杉顕定の有力家臣・長尾景春が、古河公方と結んで謀反を起こし、明くる文明9年正月(1477年の1月か2月[* 1])に顕定および扇谷上杉定正が守る五十子の陣(現・埼玉県本庄市五十子)を急襲すると、顕定・定正は大敗を喫して敗走した。(長尾景春の乱)

    景仲・景信の2代にわたって関東管領家の家宰職を務めた景春の白井長尾家は、関東で大きな勢力を有し、景春の挙兵に小磯城(現・神奈川県大磯町に所在)の越後五郎四郎、小沢城(現・神奈川県愛甲郡愛川町に所在)の金子掃部助、溝呂木城(現・神奈川県厚木市に所在)の溝呂木正重、小机城(現・神奈川県横浜市港北区に所在)の矢野兵庫助など、多くの国人・地侍がこれに呼応した。

    南武蔵の名族・豊島氏も景春に呼応して上杉氏に反旗を翻した。
  205. 249
    豊島塚
    江古田原古戦場付近には、この合戦の戦死者を葬ったとされる豊島塚(としまづか)が点在していたとされ、一部は現在も名残りを留めている。

    1. 四ツ塚(中野区・新井薬師通りと新青梅街道を挟んだ4か所)=現在は店舗および道路。
    西北側の塚を崩した際には兜・腐った刀・人骨、南東側の塚からは馬の骨が多数出土したが、何も出土しなかった塚もあったという。
    2. 金井塚(中野区江原町1-9〜11付近)=現在は宅地。
    かつて直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚であったとされる。
    3. 稲荷塚(中野区江原町1-44)=現在は神社社地。
    現在、須賀稲荷神社が奉られている付近にあったとされる塚。
    4. お経塚(中野区江古田2-14)=現在は公園地。一部現存。
    「北方にある東福寺が焼けた際に経文や過去帳の灰を埋めて築いた」とされるが、塚を崩した際には銅筒と人骨が出土。地元では古くから「豊島塚」の一つとされていた塚。
    5. 古塚(中野区江古田2-21)=現在はアパート。
    かつて25坪ほどの小高い藪地で、地元では「馬捨場」と呼ばれていた。「稲荷塚」の別称もあり、狐が住んでいたため「狐塚」と表記されていたとの話もある。人骨が出土。

    ★ナンバリング?
  206. 250
    6. 丸山塚(中野区沼袋2-40)=現在は公園地。
    現在、公園の一角に戦没者供養碑と「豊島二百柱社」が建つ。かつては道を隔てて向かいの地蔵尊付近からも人骨が出土したという。
    7. 金塚(中野区江古田4-41-8)=現在は宅地。「金塚」碑のみ現存。
    合戦後に村人が戦死者の鎧・兜・刀などを埋めたことからこの名が付いた(一説には「豊島方が武具を捨てて逃げた」ともされる)という、元は直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚。塚を崩した際にはリヤカーで数台分の人骨が出土しており、その遺骨は北方の正覚院に改葬されている。遺骨の量や塚の分布の中心であることから、付近は最大の激戦地であったと考えられる。
    8. 蛇塚(中野区丸山1-28)=現在、中野北郵便局前歩道。
    元は高さ1.5メートルほどの塚。環状7号線工事の際に消滅。
    9. 大塚(中野区野方6-18)=現在は宅地。
    別名「首塚」。道灌が戦闘に勝利した後に平右衛門尉らの首実検を行い、そののち首を埋めたところと伝えられる。名前の通り豊島塚では最大のもので、高さは5メートル近くあったという。塚を崩した際には遺骨、折れた刀、「十二月廿二日」銘の板碑2片が出土。
    10. 武蔵野稲荷神社古墳(練馬区栄町10)=現在は神社社地。
    塚上には社殿が建てられているが、鎮座の年代は不詳。塚はその形から「瓢箪塚」「割塚」(後部が二つに割れているため)、また昔は白狐が十数匹棲んでいたことから「白狐塚」と呼ばれていたという。当時の道筋や他の豊島塚からも離れているため、「豊島塚ではない」とする説もある。
  207. 251
    関連の寺社
    江古田原付近には、合戦以前に道灌が建立した、または戦勝祈願を行ったとされる寺社が多数存在している。推定・戦場跡を取り囲むようしてにあることから、史家の葛城明彦は「江古田原は偶然戦場となったわけではなかった」「道灌にとって兵を伏せておきやすい、前線基地的な意味合いのある場所だった」と推測している。

    1. 自性院(新宿区西落合1-11-23) 
    「弘法大師(空海)が日光に参詣する途中で観音を供養したのが始まり」と伝えられる寺院で、「招き猫伝説発祥伝説地」(※「招き猫伝説」の詳細については後述)の一つ。関東で唯一、私年号「福徳元年」(1490年)銘の板碑が残るが、これは当時の中央政府の衰退や世相の混乱、民衆の現世利益の追求を物語るものと考えられている。
    2. 須賀稲荷神社(中野区江原町1-44 ※旧地=江原町3-17)
    道灌による江古田原合戦・戦勝祈願の伝説が残る神社。
    3. 上高田氷川神社(中野区上高田4-42-5)
    江戸築城直前の享徳2年(1453年)の創建。長禄年間(1457~1460年間)、道灌はしばしばここに詣で、松を植栽したと言われている。
    4. 北野神社(中野区松が丘2-27-1)
    道灌による江古田原合戦・戦勝祈願の伝説が残る神社。以前は近くの「葛ヶ谷御霊神社」と同様に「おびしゃ祭り」が行われていた。
    5. 江古田氷川神社(中野区江古田3-13-6)
    江戸築城の3年後にあたる寛正元年(1460年)創建の神社。道灌による江古田原合戦・戦勝祈願の伝説が残る。
  208. 252
    6. 沼袋氷川神社(中野区沼袋1-31-4)
    江古田原合戦の際、道灌の本陣になったと伝えられる場所。当日、道灌は社殿前で軍神祭を行い、杉の木を植樹したとされる。その木は「道灌杉」と呼ばれ、高さ30メートルにまで成長していたが、1942-44年(昭和17-19年)頃に枯れ、今は根の一部のみが残る。
    7. 北野神社(中野区新井4-14-3)
    遅くても16世紀には存在した神社。4 の北野神社および 8 の豊玉氷川神社末社の北野神社と同時に奉られたとも考えられる。
    8. 豊玉氷川神社(練馬区豊玉南2-15-5)
    末社の北野神社は、道灌が中荒井の陣屋内に奉ったものとされる。豊島方の練馬城までは約1.5キロメートル、「豊島氏の下屋敷」との説もある「殿山」までは約400メートルの距離にある。道灌による豊島方との合戦の戦勝祈願伝説が残る。
    9. 正覚院(練馬区豊玉南2-15-2)
    豊玉氷川神社内の北野神社を守るため、道灌が別当寺として創建したと伝えられる寺院。
    10. 東中野氷川神社(中野区東中野1-11-1)
    道灌が豊島氏との合戦の際に戦勝を祈願して杉を植え、勝利後には社殿を造り直したと伝えられる神社。
    11. 本郷氷川神社(中野区本町4-10-3)
    道灌が文明元年(1469年)に、江戸城鎮護のため武蔵一の宮の氷川神社(現・埼玉県さいたま市に所在)の分霊を奉ったとされるもの。豊島氏との合戦の際には戦勝祈願を行い、勝利後には社殿を造り直した、との伝説も残る。
    12. 神明氷川神社(中野区弥生町4-27-30)
    道灌が文明元年(1469年)に、江戸城鎮護のため武蔵一の宮の氷川神社(現・埼玉県さいたま市に所在)の分霊を奉ったとされるもの。
    このほか、「葛ヶ谷御霊神社」(新宿区西落合2-17-17)や「江古寺」(中野区江古田3丁目・「江古田の森」公園付近・現存せず)には、「江古田原合戦の戦火に遭い焼失した」との伝説が残されている。
  209. 253
    招き猫伝説
    江古田原合戦の推定開戦地から東500メートルの地には自性院(西落合1の11の23に所在)という寺院があるが、ここには「緒戦に敗れて道に迷った道灌を一匹の黒猫がこの寺院に導き、それによって道灌は敵兵から逃れることが出来た。堂内で一夜を過ごした道灌はその後兵を率いて勢いを取り戻し、大勝利を収めることができたことから、合戦後はこの黒猫を江戸城に連れ帰って大変可愛がり、死後は丁重に葬った。その後奉納したのが、今も地蔵堂内に残る『猫地蔵』である」との伝説が残されている。「招き猫」伝説は世田谷豪徳寺のものが最も有名で、一般には招き猫人形もそこで誕生したとされるが、上記の伝説により自性院で誕生した、とする説もある。同院の「猫地蔵堂」は毎年2月3日の節分の日のみ開帳されている。

    「金の鞍」「照姫」伝説

    三宝寺池
    石神井城落城に際して、城主の泰経は家宝の黄金の鞍を白馬に載せ、これに乗って石神井公園内にある三宝寺池に入水し、次女の照姫も後を追って入水したという哀話が残っている。

    しかし、史実では泰経は石神井城落城の時には死んでおらず、後に再挙している。「照姫伝説」も、1896年(明治29年)に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたものであり、「照姫」自体も麗水が創り出した全くの架空の人物である。

    石神井城址は現在の石神井公園内にあり、東京都練馬区では1988年(昭和63年)以来、豊島一族をしのんで毎年盛大に「照姫まつり」を開催している。


    もっとちゃんと行っておけばよかったね。せっかく近くになったのにさ。
  210. 254
    豊島郡(としまぐん)は、武蔵国および東京府にあった郡。近世以降の郡域は、概ね東京都千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、および練馬区の大部分(大泉町・西大泉・西大泉町・南大泉・大泉学園町を除く)の区域にあたるが、行政区域として画定されたものではない。

    郡域
    古代の郡域は、おおよそ現在の白子川、新河岸川、隅田川、日本橋川、神田川に囲まれる領域と考えられている。和名抄には日頭、占方、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家の7郷がある。湯島を除けば現在の地名への比定は容易ではないが、以下の様な説がある。

    日頭(ひのと)
    文京区小日向を遺称地とする。小日向・新宿区戸塚町・高田町あたり。
    占方(うらかた)
    浦方とみて海浜部とする説、万葉集(巻14-3374)「武蔵野に占部肩焼き…」との関連を指摘する説、武蔵国国分寺瓦に基づき「白方」の誤りとする説、駅家郷に近い場所だとして江戸期の浅草・下谷・小石川のあたりとする説がある。
    荒墓(あらはか)
    日暮里・谷中あたりとする説、好字に改称されたとして文京区大塚とする説、郷の配置から練馬区石神井あたりとする説がある。
    湯島(ゆしま)
    文京区湯島を遺称地とする。湯島・下谷・日暮里あたり。
    広岡(ひろおか)
    中山道板橋宿のうち平尾宿(現・板橋3丁目)を遺称地とする。続日本紀(宝亀11年5月11日条)に新羅郡の沙良真熊らに広岡造を賜姓した記事があり、新座郡と隣接していたことが指摘される。なお渋谷区広尾は明らかに荏原郡に入るため遺称地と考えがたい。
    余戸(あまるべ)
    「よど」と読んで新宿区淀橋(よどばし)を遺称地とする。大久保・戸塚・角筈あたり。
    駅家(うまや)
    郡衙とされる北区西ケ原の近辺。
    郡衙跡は、現在の東京都北区の滝野川公園内の御殿前遺跡とされる。

    なお、古代までは港区および千代田区の南西部(麹町地区)は荏原郡にあり、中世に江戸氏が開発を行ったことで、荏原郡の北端が豊島郡に属することになったと考えられている。逆に墨田区の牛島、江東区の永代島などは近世に葛飾郡となるまでは豊島郡に属していたとされる。
  211. 255
    郡(ぐん)は、行政区画の一種。中国・日本・朝鮮などの漢字文化圏に導入されたものである。

    なお、欧米などの行政区画の一部を日本語に翻訳するときに、訳語としてこの語を当てることがある(カウンティも参照)。

    日本の郡
    「評」も参照
    古代
    古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に「郡」(こおり)が成立したと記されているが、当時、実際は「評」(こおり)と書いていた[1]。

    ★日本国武蔵国豊島郡?
  212. 256
    大宝律令の成立の時に「郡」が設置され、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡があったとされる。国の下に郡を置き、郡の下を50戸1里の里に編成した。7世紀後半から国・コオリ(評)・サト(五十戸・里)の体制が見られ、701(大宝1)大宝令で国郡里制が成立。717(霊亀3)頃から740(天平12)までは郡の下に郷、郷の下に里が置かれ国郡郷里の編成となり(郷里制)、その後は国郡郷となった。郷里制はそれまでの里を郷と改称し、その下に下級の単位として新設した2~3の里(コザト)を置いたものである。これと連動して、戸の編成も従来の戸を郷戸・房戸の2段階とし、籍帳を通じて本貫地での人民把握の強化を図った。しかし本来流動的な人口動態を固定化する制度には限界があり、739(天平11)末頃には里が廃止され、国郡郷の3段階制となった。郡は、郷の数によって大・上・中・下・小の五等級に分かれていた。南伊勢の度会評は「神郡」というかたちで、半ば自律的な行政単位であった。

    しかし10世紀には、筆頭国司である受領の権力強化などにより、郡の機能は低下し始めた。11世紀には、荘園が一円領域化して国衙の支配から自立し、郡の管轄からも外れて行った。国衙の側も残された公領を再編成し、下部に郷を組織した郡から国衙に直結した、郡、郷、保、院、条、別名などの並立体制となった。これに伴い、旧来の在地豪族の系譜を引く郡司層は急速に没落した。没落した郡司層の多くが国衙に近侍し、在庁官人となった。在庁官人には他に受領が引き連れてきた実務官僚などが加わり、新たに再編された郡司、郷司、保司などの管理者として任命された。また、受領自体が任期中に私領を獲得したり、在地豪族に入婿したりして土着化し、子弟が在庁官人化するケースも見られる。やがてこれら在庁官人は武士化していった。
  213. 257
    中世・近世
    鎌倉時代になると、国内に並列する荘園、郡、郷、保などは、管理者である荘司、郡司、郷司、保司らの多くが御家人となり、地頭に任命され、武士たちの基礎的な領地の単位となった。

    戦国時代には戦国大名らの地域権力が領国拡大を行い、本国・分国の領域支配の一環として、支配領域を古代以来の国郡制とは異なる独自の支配領域区分である「郡」単位で分割し、各郡ごとに郡代を配置した。

    相模国後北条氏においては郡単位で公事賦課を行った郡代支配を展開し、やがてこれは郡代支配を引き継いだ支城制へと完成していくことが指摘される。一方で、戦国大名の領域支配は本国・分国の歴史的経緯や領国化時期の差異、自立的な国衆の存在などにより一様ではなく多様性があり、必ずしも郡代・支城制支配により均一な支配でなかった点も指摘されている[2]。

    江戸時代の幕藩体制下において、江戸幕府や各藩では、地方(じかた)の統治に際して郡代や郡奉行といった役職を置くことがあった。幕府の郡代は広域の幕府領(天領)を管轄する役職であって、その管轄範囲は歴史的地域区分としての郡よりも広い。諸藩では、それぞれ独自の地方区分を設けている場合もある(たとえば、南部藩の通(とおり)、熊本藩の手永(てなが)など)。
  214. 258
    近代

    1869年時点の郡域(琉球・奄美の間切も含む。ただし越郡合併で境界線不明区域になった村は、その郡に編入された部分に大字または市町村単位で反映)

    旧東山梨郡役所(博物館明治村)
    明治初年において「郡」は地理的区分に留まっていた。1878年に制定された郡区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)によって行政区画としての郡が復活した(施行時は一律ではなく、府県ごとに異なる)。同法は、府県の下に「郡」を置き、長として「郡長」を任命することを定めた。この制度下の郡は自治体ではなく、郡長以下は中央政府から派遣された官僚であった。郡の役人が勤務する役所を「郡役所」といった。この時に、広大な郡の分割が行われた(例えば、青森県の北郡は上北郡と下北郡に分割された)。また、郡長はすべての郡に1人ずつ配置されたわけではなかった(例えば、千葉県の安房郡・平郡・朝夷郡・長狭郡を管轄したのは「安房平朝夷長狭郡長」であった)。

    1890年、府県制とともに郡制(明治23年法律第36号)が公布された。郡は府県と町村の中間の地方公共団体として規定され、議決機関として「郡会」(郡会議員は公選)と「郡参事会」が置かれた。この際、郡の統合再編が行われた(例えば、上述の「安房平朝夷長狭郡長」管轄下の4郡は安房郡に統合された)。

    1896年には 「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」(明治29年勅令第13号)が施行され、郡が置かれていなかった沖縄県にも新たに郡が編成された(それまでは間切という行政区分が置かれていた)。1915年には当時外地であった樺太でも内地に準じた郡の編成が行われているが、郡会は設けられず自治体としての性格は持たなかった。

    1921年、原内閣により郡制廃止法が公布されて1923年に郡会が廃止された。また、1926年に郡長と郡役所が廃止され、郡は再び単なる地理的区分になった。

    第二次世界大戦中の1942年には、内務省告示によって、北海道以外の全ての府県に、府県の出先機関として地方事務所が設置された。地方事務所は、原則として郡を単位にして設置されていたため、事実上、郡役所が復活した形となった。
  215. 259
    5 琉球国統治時代

     15世紀初頭、沖縄本島に「琉球国」が成立します。南西諸島で、「日本」と「琉球」の二つの国家がせめぎあう関係が発生したことになります。琉球国は、1450年、1466年、1537年、1571年等に奄美群島に軍事侵攻していて、おおむね15世紀中頃には奄美群島を統治下に編入したと考えられています。中世国家の国土領域は、琉球国の奄美群島侵攻により、ふたたび後退することになります。
     琉球国の奄美群島支配統治により、琉球国の行政機構が奄美群島にも適用されるようになります。現在の地方自治体に相当する「間切」と呼ばれる行政単位が導入され、奄美大島7間切(笠利・古見・名瀬・住用・屋喜内・東・西)、喜界島5間切(志戸桶・東・西目・湾・荒木)、徳之島3間切(東・面縄・西目)に区分されていました。
     沖永良部島・与論島は、薩摩藩統治時代には、沖永良部島3間切(木枇留(きびる)・大城・徳時)、与論島2間切(東・西)が確認できるのですが、琉球国統治時代まで遡るものなのか明らかではありません。
     行政統治する役人と同時に、重要な職務を与えられていたのが、ノロとよばれる神女たちです。ノロの祭祀組織は、各集落単位で構成されていましたが、それらのノロを統括する「大あむ」等と呼ばれる管理職のノロが各島に配置されていました。そうしたノロ祭祀の神女(神役)が、奄美大島・加計呂麻島の各集落には、数は激減していますが、まだ現存しています。
  216. 260
    6 薩摩藩統治時代

     江戸時代になると、琉球国と交易を続けてきた(世界遺産「石見銀山」産出銀は、琉球国を経由してマラッカ王国等の東南アジアで海外と取引されていた)薩摩藩が、1609年に琉球国へ軍事侵攻して、異国である琉球国を支配統治下に置く重大事件が発生しました。その結果、琉球国は、実質的には近世国家(幕藩体制)に編成されるところとなります。
     しかし、薩摩藩は、琉球国を支配統治下に置きながら、公的には独立国家として存続させて、琉球国から薩摩藩に割譲された奄美群島も、公的には琉球国の所領としてそのまま位置づけていたのです。これは、対外関係上、琉球国を「装う」ための措置として行われたものです。薩摩藩による奄美群島の統治体制が整備されていく過程で、奄美群島は、琉球国とは異なる近世国家の体制に直接的に編入されていくのです。
     薩摩藩は、米による税収確保のため、奄美群島の農業振興に積極的に取り組みましたが、1747(延享4)年の「換糖上納令」(米を黒糖に換算して税として納める)を契機として、稲作からサトウキビ裁培への転換が進行しました。さらに1830(文政13)年から「惣買入制」(生産した黒糖すべてを藩が買い入れする制度)が開始されるようになると、サトウキビ栽培のプランテーション化は、奄美群島全域で著しく進行していくことになります。明治維新を主導した「薩長土肥」の中でも、やはり薩摩藩が果たした役割は際立つものがあります。その薩摩藩財政で、奄美群島で生産された黒糖が果たした役割の大きさは、確認しておかなければならないところです。
  217. 261
    間切(まぎり、沖縄語: マジリ[1])は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。近世には間切は行政区画であるとともにそれ自体が直接納税義務者でもあった[2]。

    歴史
    中世
    沖縄本島を国頭、中頭、島尻に三分する体制は14~15世紀の三山時代に由来する。ただし、三山時代の地勢図は発見されておらず、領域の区分は考古学・歴史学上の考察に基づいている[3]。

    第二尚氏第3代の尚真王の時代には、中央集権が強化されるとともに、首里や那覇を除く地方に間切とシマの制度が成立した[4]。この「シマ」は中世以前のグスク時代に成立した共同体を一つまたは複数で束ねて行政単位としたもので、その後、近世には村(ムラ)となった[4]。

    近世
    琉球侵攻により薩摩藩への貢納のため琉球にも石高制が導入され、検地、名寄の各台帳や郷村の一覧、国絵図(『琉球國絵図』)などが整備された。これにより古地名の地政的位置が初めて明瞭となったのである[5]。例えば江戸幕府の幕命で琉球を含む日本全国で「国絵図」が作成され、『元禄国絵図琉球国沖縄島』(1696年(元禄9年))も現存している。

    近世の間切には、間切を領する按司地頭と総地頭(親方地頭)がおり、これらを総称して両総地頭という[4][6]。按司地頭と総地頭(親方地頭)は同一間切に重複して発令された[2]。また、これとは別に村を領する脇地頭も任じられていた[6]。脇地頭の領地と按司地頭と総地頭の領地は村として重複しており領地併給となっていた[2]。

    「琉球の位階」を参照
    なお、奄美群島では、薩摩が支配下に置いた後も間切制を続け、増減も行っている。

    近代
    1879年(明治12年)の沖縄県設置後も、1898年(明治31年)に公布された間切島規程により首里や那覇を除く地方で自治制度(沖縄県間切島制)として残り[7]、1899年(明治32年)の沖縄県間切島吏員規定で番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称された[8]。

    しかし、1907年(明治40年)の勅令第46号沖縄県及島嶼町村制が示され、翌1908年に間切は廃止された。これにより従来の間切は村(ソン)に、村(ムラ)は字に移行した[4]。
  218. 262
    ★明治政府は琉球王国の流れを一回復活させたみたいな?
    間切りというアレだよね?間切り県?

    あがた?

    間切一覧
    以下に、三山時代からの間切とその後の新設間切(美里、久志、本部、宜野湾、小禄、恩納、大宜味、与那城の各間切)を記す。

    国頭方
    沖縄本島北部と周辺島嶼
    国頭間切(現:国頭村)
    大宜味間切(現:大宜味村、1673年新設)
    伊平屋間切(現:伊平屋村、伊是名村)
    伊江島(現:伊江村)
    羽地間切(現:名護市(羽地地区、屋我地地区))
    今帰仁間切(現:今帰仁村)
    本部間切(現:本部町、1666年新設)
    名護間切(現:名護市(羽地・屋我地の両地区除く))
    久志間切(現:東村と名護市の一部、1673年新設)
    金武間切(現:金武町、宜野座村、)
    奄美群島南部
    沖永良部島→薩摩藩直轄地
    永良部間切(現:鹿児島県大島郡知名町、和泊町)
    与論島→薩摩藩直轄地
    与論間切(現:鹿児島県大島郡与論町)
  219. 263
    中頭方
    沖縄本島中部と周辺島嶼
    恩納間切(現:恩納村、1673年新設)
    読谷山間切(現:読谷村)
    越来間切(現:沖縄市)
    美里間切(現:沖縄市、うるま市(石川地区)1666年新設)
    具志川間切(現:うるま市(具志川地区))
    勝連間切(現:うるま市(勝連地区))
    与那城間切(現:うるま市(与那城地区)、1676年新設)
    北谷間切(現:北谷町、嘉手納町、沖縄市の一部)
    中城間切(現:中城村、北中城村、うるま市(津堅島))
    宜野湾間切(現:宜野湾市、1671年新設)
    浦添間切(現:浦添市)
    仲里間切(現:久米島町(仲里地区))
    上江州間切(現:久米島町(具志川地区))
    島尻方
    沖縄本島南部と周辺島嶼
    豊見城間切(現:豊見城市)
    小禄間切(現:那覇市(小禄地区)、1672年新設)
    島尻大里間切(現:糸満市(喜屋武地区、摩文仁地区除く))
    喜屋武間切(現:糸満市(喜屋武地区))
    摩文仁間切(現:糸満市(摩文仁地区))
    東風平間切(現:八重瀬町(東風平地区))
    具志頭間切(現:八重瀬町(具志頭地区))
    島添大里間切(現:南城市(大里地区)、与那原町)
    佐敷間切(現:南城市(佐敷地区))
    知念間切(現:南城市(知念地区))
    玉城間切(現:南城市(玉城地区))
  220. 264
    両先島地域
    宮古
    平良間切(現:宮古島市平良)
    下地間切(現:宮古島市下地、上野地区)
    砂川間切(現:宮古島市城辺地区)
    八重山
    大浜間切(石垣島中部、西表島西部、波照間島)
    宮良間切(石垣島東部、西表島北東部、波照間島、小浜島、鳩間島)
    石垣間切(石垣島西部、西表島南東部、竹富島、黒島、新城島)
    奄美群島北部
    奄美大島→薩摩藩直轄地
    笠利間切(現:鹿児島県奄美市笠利町、大島郡龍郷町の一部)
    名瀬間切(現:鹿児島県奄美市名瀬、大島郡龍郷町(東シナ海側))
    古見間切(現:鹿児島県奄美市名瀬、大島郡龍郷町(太平洋側))
    焼内間切(屋喜内間切とも、現:鹿児島県大島郡大和村、宇検村)
    住用間切(現:鹿児島県奄美市住用町)
    西間切(現:鹿児島県大島郡瀬戸内町(西方地区、実久地区))
    東間切(現:鹿児島県大島郡瀬戸内町(古仁屋地区、鎮西地区))
    喜界島→薩摩藩直轄地
    志戸桶間切(現:鹿児島県大島郡喜界町志戸桶周辺)
    東間切(現:鹿児島県大島郡喜界町早町周辺)
    伊砂間切(現:鹿児島県大島郡喜界町伊砂周辺、1693年新設)
    西目間切(現:鹿児島県大島郡喜界町西目周辺)
    湾間切(現:鹿児島県大島郡喜界町湾周辺)
    荒木間切(現:鹿児島県大島郡喜界町荒木周辺)
    徳之島→薩摩藩直轄地
    東間切(現:鹿児島県大島郡徳之島町)
    面縄間切(現:鹿児島県大島郡伊仙町)
    西目間切(現:鹿児島県大島郡天城町、徳之島町の一部)
  221. 265
    琉球藩(りゅうきゅうはん)は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩。藩庁は首里城(沖縄県那覇市首里)。藩王は第二尚氏。

    概要
    琉球藩の設置に先立って日本では全国的に1869年(明治2年)の版籍奉還により諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)の返還、さらに1871年(明治4年)の廃藩置県と、中央集権化が進んでいた。この時点ではまだ、琉球王国は薩摩藩および後身の鹿児島県の付庸国であり続けたが、明治政府としては琉球についても版籍奉還させることを意図していた。

    廃藩置県の翌年の明治5年9月14日[注釈 1][1]、琉球国王尚泰は明治政府の命により尚健(伊江朝直)と宜野湾親方朝保を慶賀使として東京に送る。明治天皇により尚泰を「琉球藩王」に任じ、華族に列する詔勅を尚健が代理で受ける( 『琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔』)。天皇より尚泰に下賜金があり、また旧薩摩藩への負債も明治政府が肩代わりすることになった。以上により琉球は鹿児島県付庸国から明治政府の直轄地となり、琉球藩が設置された。

    関連項目
    琉球の地頭一覧
    番所
    旧慣温存政策

    琉球藩の地頭一覧(りゅうきゅうはんのじとういちらん)は、近世の琉球藩において、間切、村を采地(領地)として賜った按司地頭、総地頭、脇地頭の一覧である。出典は『琉球藩雑記三(家禄・官禄)』に拠る。1873年(明治6年)時点での一覧である。


    メイジの最初って律令の漢字アレなんだよね★
  222. 266
    日本の県
    詳細は「都道府県」を参照
    日本では中国の制度から汲み取り、明治維新後の近代化政策の一環として、米仏普にも影響を受け、江戸時代までの「藩」を廃止し「県」を置く「廃藩置県」を行い、現代に至る地方自治・地方公共団体の基盤を築いた。

    面的な名称には、国・州・藩・郡・町・村・坊・郷・里・荘または庄・区。
    線的な名称には、道・街・条・里・線。
    点的な名称には、京・都・府・庁・県・市・駅または宿。
    人的な名称には、使。
    が用いられてきた。江戸時代には能登国を「能州」と書くなど、雅称として漢風の名称が広まっていた (遅くとも『古事記』・『日本書紀』の編纂の頃から「国」と「州」の混用は行われていた)。このため通常は「州>郡>県」の順に小さくなると受け取られていた。


    ★点?
  223. 267
    律令制以前には、中央から派遣された豪族が一定の自治権を持つ「国」とともに、同じく派遣豪族領でありながら朝廷の直轄領である「県」(あがた)が地域区分の単位として用いられていた。しかし律令制下で国(令制国)・郡(はじめ評)・里(のち郷)という地方区分が確立すると「県」は地域区分の単位としては用いられなくなり、小県郡(信濃国)、方県郡(美濃国)、大県郡(河内国)のように郡名など地名の一部に名残をとどめるようになった。例外として2007年(平成19年)まで神奈川県に存在した津久井郡は、江戸時代には全国で唯一、地域区分単位として「津久井県」を称していた。これは従来「津久井領」と呼ばれていたこの地域を支配した幕府代官の命によるものであるが、敢えて「県」を称したのは山間僻遠であるこの地域が単独の「郡」を称するには不足であると考えられたからだと言われている(『藤野町史・通史編』)。津久井県は明治3年(1870年)に「津久井郡」と改称された。

    明治維新後、新政府は直轄地とした旧幕府・旗本領に「県」を設置し、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で全国的な行政区分とした。同年10月〜11月の府県再編で県は複数の郡を管轄するものとされたことによって「県」が面的な名称としても受け入れられるようになり、「州>県>郡」と理解されるに至った。「郡>村」の伝統的な関係と合わせ、現代の行政区分の表記は「州>県>郡>村」の順に小さくなるものが一般的である。この場合、「県」は第2層の行政区画として扱われる。とはいえ歴史地理学のような比較的新しい研究分野では、現在の県のうち旧令制国を全て含んでいる県を念頭に「県(>州)>郡」と考える場合もある(たとえば「#その他の国の県」で述べるイギリスの場合。また、第1層の行政区画を常に「県」とする研究者もいる)。
  224. 268
    日本語訳としての「県」
    漢字文化圏以外の国の行政区画の日本語訳としての利用でも、日本での順序に準じて用いられる (連邦制の国家の場合、「国>州」となることもある)。ただし、「県」の意味に「『中央政府』から派遣される地方官の治める範囲」とあるため[誰?]、相当する区画がない場合は用いられない。イタリアのように郡が用いられないこともある一方、「区」を意味する語に「県」が当てはまり「郡」との選択になることがある。また「国≒州」という理解から統治の権限が小さい場合、州を用いず県を用いることがある。

    各国の行政区画の単位のうち、狭い範囲の広域行政区画を「県」と訳すことがある。以下に英語での例を示す。

    prefecture(日本)
    日本の「県」は英語では「Prefecture」と訳す。この単語はラテン語のpraefectūraとフランス語のpréfectureに由来する[注 4]。元々は古代ローマの長官・司令官の官邸を指した。
  225. 269
    province(イタリア)
    イタリア語の「provincia」に当たる。この語は、「中央集権国家の地方長官」と、「大き過ぎないが、一定の広さを持った地方」の、両方の意味を持つ。日本の令制国の「国」の訳語でもある。原義はラテン語の「provincia」で、「pro」(親○、利益)と「vincere」(統制する)を合わせて、「ローマ帝国の統治に与する所」を意味していた(日本では「属州」と訳される)。特に、歴史地理学での「県」の訳語には、「Province」が充てられることが多い。
    department(フランス)
    フランス語の「département」に当たる。フランスの州に当たる「province」が廃止され、より狭い「département」ができた時に県に当たる区画となった。(en:departmentも参照のこと。)
    county(中国)
    中国語の「县」に当たるが英語では「County」と訳す。古代の県は「prefecture」とも訳されるが、「province>prefecture>county」の区分に当てはめて第3層になることから、この語が選択される。原義はラテン語で「軍事上や行政上の功績者の領地」である。
    district(東ドイツ)
    ドイツ語の「Bezirk」に当たる。東ドイツでは州に当たる「Land」が第二次世界大戦後に廃され、「Bezirk(ドイツ語版)」が第1層の行政区画となり県と訳された。日本の「郡」の訳語であるが、行政機関などの「丁目」「区」の訳語と衝突することがある。(en:districtも参照のこと。)
    漢字文化圏の日本以外の国の行政区画については、行政区分や権能に着目して訳さずに字体を日本に合わせてそのまま用いる。なおベトナムは現在ラテン文字を使うが、語源が漢字に由来するような「tỉnh」は省とするなど漢字使用圏と同様に用いられる。
  226. 270
    八王子神社(はちおうじじんじゃ)は、スサノオ(牛頭天王)の八柱の御子神(八王子権現)を祀る神社である。八王子宮、八柱神社(やはしらじんじゃ)などとも言い、日本全国にある。

    概要
    元々は、神仏習合下の八王子権現信仰に由来するものである。

    913年(延喜13年)に華厳菩薩妙行が、東京都八王子市の深沢山(現在の城山)山頂で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れた。その因縁で916年(延喜16年)深沢山に八王子権現を祀ったと言われている。

    仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に8人の子(八王子)がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。

    八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。

    太歳神(木曜星・総光天王)
    大将軍(金曜星・魔王天王)
    太陰神(土曜星・倶魔羅天王)
    歳刑神(水曜星・得達神天王)
    歳破神(土曜星・良侍天王)
    歳殺神(火曜星・侍神相天王)
    黄幡神(羅睺星・宅神相天王)
    豹尾神(計都星・蛇毒気神天王)
    明治の神仏分離の際、これが牛頭天王と習合していたスサノオと天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変えられた。五男三女神とは以下の神である。

    正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
    天之菩卑能命(アメノホヒ)
    天津日子根命(アマツヒコネ)
    活津日子根命(イクツヒコネ)
    熊野久須毘命(クマノクスビ)
    多紀理毘売命(タキリビメ)
    市寸島比売命(イチキシマヒメ)
    多岐都比売命(タキツヒメ)
    ただし、神社によっては異なる神を祭神としていることもある。例えば八坂神社における八王子は八島士奴美神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大歳神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命である。特に「八柱神社」については、単に八柱の神を祀るという意味の場合もある。

    ★月がスサノオ、日がアマテラスっぽさあるがアレだな。土土?五行に?
  227. 271
    八大神社

    社殿正面
    所在地 京都府京都市左京区一乗寺松原町1番地
    位置 北緯35度02分37秒 東経135度47分48秒座標: 北緯35度02分37秒 東経135度47分48秒
    主祭神 素盞嗚命
    稲田姫命
    八王子命
    社格等 旧村社
    創建 1294年(永仁2年)
    例祭 例祭(5月5日)
    地図
    八大神社の位置(京都市内)八大神社八大神社
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    八大神社(はちだいじんじゃ)は、京都府京都市左京区一乗寺松原町にある神社。旧社格は村社。

    祭神
    素盞嗚命(スサノオ) - 牛頭天王
    稲田姫命(クシナダヒメ) - 頗梨采女
    八王子命
    歴史
    1294年(永仁2年)に一乗寺の産土神として祇園神社から勧請された。江戸時代初頭、一乗寺下り松で吉岡一門数十人と決闘を行った宮本武蔵が、決闘を前に当社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気づき寸前にやめたという逸話も残る[1]。社殿内には一乗寺下り松の古木が保管展示されている。なお、展示されている当該古木の由緒掲示は次の通りである。

    「この古木は、慶長九年(1604年)、剣聖・宮本武蔵が、吉岡一門と決闘せし、当時の松の木の一部である」
    合祀の歴史
    八大神社は明治政府の令によって他の小さな神社を合祀して今に至っている。合祀された神社は藪里牛頭天王社、舞楽寺八大天王社、柊社である。柊社は現在場所を移し社が建っており、舞楽寺八大天王社のあった場所に関してはは石碑が立っている。
  228. 272
    王子神(おうじがみ)は、日本の神の一つ。単に王子とも呼ばれ、その信仰を王子信仰という。

    王子信仰
    日本には古来、本宮と呼ばれる神社の主神からその子供の神として分かれ出た神格を祀ったり、巫女的な性格をもつ母神とその子神をあわせて祀る信仰があり、これを若宮(わかみや)あるいは御子神(みこがみ)と呼んでいた。のちに仏教と神道の習合が進むと、仏教の神格のひとつで、図像では仏に顧従する児童の姿で表現される「童子」が若宮と習合され、王子と呼ばれた。また、王子をまつる社(やしろ)も王子と呼ばれることがある。

    このような習合が顕著だったのは熊野権現信仰においてであり、平安時代の末期に熊野十二所権現のうちの五柱である五所王子と呼ばれる神々が信仰されるようになった。そのひとつである若王子(にゃくおうじ)あるいは若一王子(にゃくいちおうじ)は少年あるいは少女の姿であらわされる神で、全国の熊野信仰において熊野権現を勧請する際に、多くの場合この神が祀られた。

    また同じ時期には、祇園社の牛頭天王や日吉大社の山王権現の眷属神として、王子の姿をした八柱の神格である八王子権現があらわれ、病気を払う力をもった霊威あらたかな神として広く信仰された。

    地名の王子
    王子信仰の隆盛とともに、王子信仰の社がある場所が王子の地名で呼ばれることが増え、王子の地名が全国に広がった。

    東京都北区の王子もその一つで、若王子権現の社(現王子神社)があったことからついた地名である。また同じく東京の八王子は、地名の起こりである八王子城が八王子権現の社(現在の八王子神社)が祀られた山に築城されたことに由来している。

    ただし、王子の地名は「窪んだ土地」を意味する「おほち(おおち、島根県の邑智郡など)」あるいは「あふち(おうち、凹地)」に由来しているものもあるという説もある。それによれば、窪地であるから「おおち」と呼ばれた、あるいは高いところから窪んで急に落ち込んだ坂のことを「おおちの坂」と呼んだことからついた地名である。先述の王子の場合、石神井川に面した丘陵の上にあり、南の滝野川地区に向かって急な坂となっている。
  229. 273
    弥勒菩薩

    木造弥勒菩薩半跏像[注 1]
    (国宝・広隆寺蔵)
    名 弥勒菩薩
    梵名 マイトレーヤ
    別名 慈氏菩薩
    経典 『観弥勒菩薩上生兜率天経』
    『弥勒下生経』
    『弥勒大成仏経』
    『仏説無量寿経』
    信仰 瑜伽行唯識学派
    浄土教
    真言宗
    テンプレートを表示
    弥勒菩薩(みろくぼさつ)、梵: maitreya(マイトレーヤ)、巴: metteyya(メッテイヤ、メッテッヤ)は仏教において、釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊である。

    弥勒は音写であり、「慈しみ」(梵: maitrī, 巴: mettā)を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。

    三昧耶形は蓮華上の塔、賢瓶(水瓶)。種子(種子字)はयु(yu)。

    名称
    一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータ第五章や、『中阿含経』中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人である。慧覚訳『賢愚経』では、弥勒は仏陀となると誓願を述べ、阿逸多は転輪聖王となるという誓いを表明したところ、阿逸多は叱責され、弥勒は記別を受けている[1]。
  230. 274
    未来仏

    弥勒菩薩立像、13世紀、鎌倉時代、重要文化財、東京国立博物館蔵
    弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。

    前述のように弥勒の下生は56億7千万年後とされているが、この気の遠くなる年数は、弥勒の兜率天での寿命が4000年であり、兜率天の1日は地上の400年に匹敵するという説から、下生までに4000年×12ヶ月×30日×400年=5億7600万年かかるという計算に由来する。そして、後代になって5億7600万年が56億7000万年に入れ替わったと考えられている。

    その未来仏の出現する時代は厳密には定かではなく「遠い未来」の比喩ではないかとの説もある。弥勒菩薩はバラモンとして娑婆世界に出世して、シッダッタ同様に出家したのち竜華樹下で悟りを得て、三度にわたり説法を行い多くの人々を救うという(これを竜華三会という)。『弥勒下生経』には、初会96億、二会94億、三会92億の衆生を済度すると説いている。なお、現在の弥勒はまだ修行者(菩薩)だが、遠い未来の下生の姿を先取りして弥勒如来、弥勒仏と呼ばれることもあり、如来形[2]の仏像も作られている。

    『観弥勒菩薩上生兜率天経』、『弥勒下生経』、『弥勒大成仏経』の3本で『弥勒三部経』と呼ぶことがある。また、浄土宗系の『無量寿経』には、阿弥陀仏の本願を後世の苦悩の衆生に説き聞かせるようにと、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩に付嘱されている。

    仏教の中に未来仏としての弥勒菩薩が登場するのはかなり早く、すでに『阿含経』に記述が見える。この未来仏の概念は過去七仏から発展して生まれたものと考えられている。

    弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまう為、その間、六道すべての世界に現れて衆生を救うのが地蔵菩薩であるとされる。
  231. 275
    過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。古い順から

    毘婆尸仏
    尸棄仏
    毘舎浮仏
    倶留孫仏
    倶那含牟尼仏
    迦葉仏
    釈迦牟尼仏
    の7仏。いわゆる過去仏信仰の代表的な例。

    概要
    仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。

    仏教では、釈迦仏が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、過去においてすでに成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であるとする。この考え方は相当古く、紀元前後に建立されたインド・マディヤ・プラデーシュ州のバールフットの欄楯(レリーフ)に、七仏造樹の浮彫がある。

    また仏教では一般的に、提婆達多は釈迦仏に違背し逆罪を犯した大悪人とされている。しかし法顕三蔵の『仏国記』などの記録から、後年における提婆達多派の教団では、提婆達多の遺訓を尊び、独自の戒律を定めて、釈迦を除く過去の6仏を信仰していたことが明らかとなっている(なお、近年の研究では、提婆達多は戒律をより厳しくするなどを釈迦仏に進言するも、これが受け入れられなかったことから、釈迦教団から分派したことで、それが次第にスケープゴートにされたものとされている)。

    このことから、古代インドの釈迦在世の当時に、既に過去に仏が出世したことがあるとする、過去仏信仰があったことが理解できる。
  232. 276
    未来(みらい、西: futuro、仏: futur、独: Zukunft、英: future)とは、

    これから来る時[1]。「将来」[1]。
    仏教用語。三世のひとつ。未来世。死後の世。来世。後世。
    文法用語。西欧語などの文法における、時制のひとつ[1]。過去、現在、未来という3時制のひとつで、これから実現することを表現するための語法。
    「瑞祥語」としても使用される。また、副詞として用いられることもある。


    来世(らいせ、らいしょう)あるいは後世(ごせ、ごしょう)は、今世(今回の人生)を終えた後に、魂が経験する次に来る人生を指す概念。また、動物においては全体集合魂に帰一し、新たな個体が月の生理に従い生み出されるだけで来世は人間のようには存在しない。

    神道においては常世(黄泉)のことを指す。仏教では「三世」のひとつ (「前世、現世、来世」のこと。仏教以外においては人生に焦点を当てた「過去生、現在生、未来生」という表現もある)。
  233. 277
    インドの宗教

    莫高窟(世界遺産)で発見された死後の世界の図
    ヒンドゥー教
    ヒンドゥー教では、自我の本質としてアートマンの概念を持つ。ウパニシャッドの時代には梵我一如の考えが説かれた[1]。それは、宇宙の全てを司るブラフマンは不滅のものであり、それとアートマンが同一であるのなら、当然にアートマンも不滅のものであるという考えであった[1]。

    これに従うならば、個人の肉体が死を迎えても、自我意識は永遠に存続するということであり[1]、またアートマンが死後に新しい肉体を得るという輪廻の根拠でもあった[1]。


    仏教
    仏教もインド哲学の思想を引き継ぎ、輪廻の立場に立つ。釈迦は「死んだら無になる」として来世を否定した唯物論(順世派)を、悪見、六師外道として位置付け否定している[2]。

    「八正道#正見」も参照
    下記は転生を前提とした考え方である。現世を中心に考える宗派では、六道を自分の心の状態として捉える。たとえば、心の状態が天道のような状態にあれば天道界に、地獄のような状態であれば地獄界に趣いていると解釈する。その場合の六道は来世の事象ではない。

    浄土教では、一切の迷いが無くなる境地に達した魂は浄土に行き、そうでない魂は生前の行いにより六道にそれぞれ行くと説く宗派がある。

    日蓮の教えでは、(転生があるにしても)今の自分(小我)に執着するあまり、いたずらに死を恐れ、死後の世界ばかりを意識し期待するより、むしろ自分の小我を越えた正しい事(大我)のために今の自分の生命を精一杯活かし切ることで最高の幸福が得られるのだ、とされている(『一生成仏抄』)。

    また真言宗などの密教でも、大我を重要視して即身成仏を説き、天台宗も本覚思想から、「ここがこの世のお浄土」と捉え、来世について日蓮と同様の捉え方がなされる場合がある。
  234. 278
    五悪見
    阿毘達磨発智論では5つの悪見が挙げられ、これは五見、五悪見などと呼ばれる。

    身見(有身見, sakkāya-diṭṭhi) - 結のひとつ。人我見、我見とも。五蘊を自己(我)とみなす見解。
    辺見(antaggāha-diṭṭhi) - 常見および断見のこと。
    邪見 (micchā-diṭṭhi)- 果報を否定する無道徳論(プーラナ・カッサパ,六師外道のひとり)。
    見取見 - 四取への執着。
    戒禁取見(sīlabbata-parāmāsa) - 誤った手続きへの執着。
  235. 279
    断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。

    原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間や我(アートマン)の断滅を主張したものである。「見(ディッティ)」とは見解・意見・見方のこと。

    人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して、この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう。六師外道の順世派(アジタ・ケーサカンバリン)などが登場する。[疑問点 – ノート]長部梵網経では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている。

    断見の反対語は常見といい、この世は永遠で不滅であるという見方(常住論, sassatavādā)であるが、仏教では無記を説き[2]、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした。

    なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から、対立する見解とは違う次元で如来我すなわち仏性の常住を説くようになった。
  236. 280
    抜粋
    santi bhikkhave eke samaṇabrāhmaṇā ucchedavādā sato sattassa ucchedaṃ vināsaṃ vibhavaṃ paññāpenti sattahi vatthūhi.(中略)...
    Idha bhikkhave ekacco samaṇo vā brāhmaṇo vā evaṃvādī hoti evaṃdiṭṭhi: 'yato kho bho ayaṃ attā rūpī cātummahābhūtiko mātāpettikasambhavo kāyassa bhedā ucchijjati vinassati na hoti parammaraṇā. Ettāvatā kho bho ayaṃ attā sammā samucchinno hotī'ti.

    比丘たちよ、一部の沙門婆羅門たちは断滅論者であり、七つの根拠から、存在している衆生は断滅し、消失し、虚無となると説く。 (中略)...
    比丘たちよ、そのような一部の沙門婆羅門は、このように述べ、このような見を持つ者である。
    友よ、我(アートマン)は有色で、四大元素からなり、父母からなり、肉体が壊れれば断滅し消失し、死後は存在しない。友よ、これが、我が完全に断滅するということである、と。

    —パーリ仏典, 長部 梵網経, Sri Lanka Tripitaka Project


    滅するならアートマンではないのではと?
    そもそも前提がアートマンではないみたいな。
    絶対全て?
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    仏教用語
    常住論
    パーリ語 Sassatavada
    サンスクリット語 śāśvata-dṛṣṭi
    中国語 常見
    日本語 常見, 常住論
    英語 Eternalism
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    常見(じょうけん)とは、仏教用語で、「アートマン(自我:霊魂)」は永遠に続くもので不滅である(常住;sassata)とする見解のこと。常住論(sassatavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は断見(だんけん)。

    原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張したものである[2][1]。「見」(ディッティ,dṛṣṭi)とは見解・意見・見方のこと。

    人の一生・人生はこの世の一回限りであるが、死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が不滅で永続するものであると肯定する見解をいう[1]。梵網経では「我と世界は常住である。死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている[2][1]。

    常見の反対語は断見といい、この世は有限で永遠のものではないという見方(断滅論, ucchedavādā)であるが[1]、仏教ではこれらに同せず無記を説き[3]、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした。

    なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から、対立する見解とは違う次元で、如来我すなわち仏性の常住を説くようになった。
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    抜粋 
    六師外道の一人である、パクダ・カッチャーヤナの説を取り上げる[1]。

    Santi bhikkhave eke samaṇabrāhmaṇā sassatavādā sassataṃ attānañca lokañca paññāpenti catūhi vatthūhi.
    ...(中略)... So evamāha: 'sassato attā ca loko ca vañjho kūṭaṭṭho esikaṭṭhāyiṭṭhito. Teva sattā sandhāvanti saṃsaranti cavanti upapajjanti, atthitveva sassatisamaṃ. ....

    比丘たちよ、一部の沙門婆羅門たちは常住(sassata)論者であり、四つの根拠から、我(アートマン)と世間(loka)は恒常であると説く。
    ...(中略)... 常住論者はこのように主張する。我と世間とは恒常である。無力で実を結ばず、山頂の如く不動で、石柱のように安立している。そして衆生らは、流転し、輪廻し、死に、再生するが、しかし永遠に存在しつづける...

    —パーリ仏典, 長部 梵網経, Sri Lanka Tripitaka Project
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    「六師外道」(ろくしげどう)とは、ゴータマ・シッダッタ(釈迦)とおよそ同時代のマガダ地方あたりで活躍した、釈迦に先行する6人の在野の思想家(サマナ)たちを、仏教の側から見て異端だと見なし、まとめて指すための呼称。

    古代インドには様々な思想家、諸教派が存在したが、その中でも有数の教派を、仏教側から見て、まとめて指すための呼称、総称である。仏教の視点であるので、仏教以外の宗派の教説を異端だと見なし「外道」と呼んでおり、仏教を「内道」と呼んでいる。

    釈迦の時代のインドの都市では、商工業者たちが貨幣経済によって栄え、ギルドのような組織を作って経済的な実権を握り、それまでの祭祀を司るバラモン、政治を握るクシャトリヤが社会を支配する旧体制は崩れ、物質的な豊かさと都市文化の爛熟で自由享楽的な空気になっていた[3]。バラモン教ヴェーダ学派を否定する自由な思想家が多数輩出し、ヴェーダの権威を否定する諸学説を提唱して盛んに議論していた。時代の変革で生まれた新興勢力に支持されたのが、こうした反ヴェーダ思想であり非正統バラモン思想の自由思想家たちである[3]。その中には六師外道と呼ばれた思想家だけでなく、釈迦も含まれる[3]。六師外道と呼ばれた思想家たちの思想は、新しい時代の新しい思想の動きであり、その影響下でジャイナ教・仏教の思想と活動が生まれていった[4]。

    原始仏典ではその諸学説を六十二見にまとめ、その中で主要なものを「六師外道」と総称した。波斯匿王は、仏教が六師外道と呼んだ思想家を年長者と呼び、対して釈迦を年少者と呼んだ。後に、各六師にそれぞれ16人の弟子がいるとし、これらを総称して「九十六種外道」とも言うようになった。
  240. 284
    沙門(しゃもん、梵: Śramaṇa, シュラマナ、巴: Samaṇa, サマナ)は、原義は「(とある高尚・宗教的な目的のために)労働・苦労・奮闘する者」[1][2]、「質素・禁欲な生活の探求者」[3] との意味である。

    後にこの語は、古代インド社会に於いて生じた、ヴェーダの宗教から分岐したバラモン教ではない禁欲運動を指すようになった[4]。「つとめる人」の意[4][5][6][7] 。沙門の伝統は、ジャイナ教[8] 、仏教[9] 、アージーヴィカ教、順世派などが含まれる[10][11][12]。桑門、勤息、貧道とも言う。後に仏教では比丘と同義になった[13]。

    これらの沙門運動は「サンサーラ」「解脱」といった、すべてのインド哲学における主要コンセプトを共有している[14]。

    「インド哲学#異端派」も参照
    由来
    語源はサンスクリットで努力を意味する śram から来ているとされるが、静まるを意味する śam から来ていると言う説もある。前者の意味として功労、後者の意味として息心と意訳される事があり、上記の勤息は両方の意味を合わせた訳語である。

    一説には、シャーマンの語源を沙門とするが、これは、未だ俗説の域を出ていない。シャーマンの語源はツングース系語族の「薩満」であるというのが、有力な学説である。[要出典]

    または一説には、シャーマンの由来であるツングース語のシャマンは、さらにシナ語の沙門に由来するというのが多くの学者の認めるところである。[15]
  241. 285
    パーリ経典に登場する沙門[1] (六師外道)
    (沙門果経より[2])
    沙門[1] 論(思想)[2]
    プーラナ・カッサパ 無道徳論、道徳否定論: 善行も悪行もなく、善悪いずれの報いも存在しない。
    マッカリ・ゴーサーラ
    (アージーヴィカ教) 運命決定論 (宿命論): 自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めである。
    アジタ・ケーサカンバリン
    (順世派) 唯物論、感覚論、快楽主義: 人は四大からなり、死ぬと散じ何も残らない。善悪いずれの行いの報いもないとし、現世の快楽・享楽のみを説く。
    パクダ・カッチャーヤナ
    (常住論者) 要素集合説:人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合にで構成され、それらは不変不動で相互の影響はない。
    マハーヴィーラ
    (ジャイナ教) 相対主義、苦行主義、要素実在説: 霊魂は永遠不滅の実体であり、乞食・苦行生活で業の汚れを落とし涅槃を目指す。
    サンジャヤ・ベーラッティプッタ
    不可知論、懐疑論: 真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする。判断の留保。
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    日本の仏尊(にほんのぶっそん, Japanese Buddhist pantheon)では、日本で信仰されている大乗仏教における信仰・造像の対象である、様々な仏(ほとけ, ブッダ)、菩薩、下級神の一覧を示す。

    本来、仏とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の尊である明王、天部の護法善神などを含めた、仏教の信仰、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏(仏尊)」と総称するようになった。

    大乗仏教では多くの如来・仏が後に生み出された。たとえば浄土三部経の一つ『阿弥陀経』には、三千大千世界(全宇宙の意)に、ガンジス川の砂粒の数(恒河沙)ほどの仏があまねく存在することが説かれている。このように大乗経典では仏の名前を列挙した経典も多数存在する。

    なお上座部仏教では、仏は釈迦牟尼仏のみを指し、釈迦の尊像以外は信仰の対象とはしない(ただし、過去七仏など釈迦以前の仏(ブッダ・覚者)が存在したことは認めており、また未来仏である弥勒についても言及している)。

    一覧
    仏尊のヒエラルキー [1]
    階層 分類 名称
    Level 1 仏陀 如来部
    Level 2 菩薩 菩薩部
    Level 3 明王 明王部
    Level 4 天部 天部、諸天諸神
    Level 5 権現 権現/垂迹神
    Level 6 宗教的尊者 開祖・高僧・羅漢


    ^ ひろさちや『仏像でわかる仏教入門』〈講談社+α新書〉2004年。ISBN 978-4062722384。
  243. 287
    英語バージョン。

    日本の仏教神殿

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    フリー百科事典ウィキペディアより

    パリのギメ美術館にある仏教神殿の主要な代表者の一部
    シリーズの一部
    日本の仏教

    学校
    主要人物
    主要トピック
    日本仏教用語集
    vte
    日本の仏教の神殿は、仏教におけるさまざまな仏陀、菩薩、下位の神々、著名な宗教的指導者の多数 (パンテオン)を指定します。仏教のパンテオンは大乗仏教にもある程度存在しますが、特にそれを形式化したチベット仏教、特に日本の真言宗を含む金剛乗密教に特徴的です。古代日本の仏教の神殿には 3,000 体以上の仏陀や神が数えられていますが、現在ではほとんどの寺院が 1 人の仏陀と少数の菩薩に焦点を当てています。[1]

    歴史

    中央の大日如来を取り囲む五大仏と他の菩薩の日本の曼荼羅。
    宗派以前の仏教では、神の存在とその影響について、いくぶん曖昧な立場がありました。実際、仏教は創造神とそれに対する人間の責任を否定するため、無神論とみなされることが多い。しかし、ほとんどすべての現代仏教学派は、何らかの神の存在を受け入れています。相違点の主な点は、これらの神々の影響にあります。主要な学派のうち、上座部は神を重視しない傾向にありますが、大乗と金剛乗はそうではありません。

    北部仏教の豊かな仏教パンテオンは、最終的には金剛乗仏教とタントリズムに由来します。[2]汎神論的仏教の歴史的信仰のルーツは、クシャーン帝国の時代にまで遡るようです。[3]仏教のパンテオンについての最初の適切な言及は、3 ~ 4 世紀の『グヒャササマージャ』に現れており、その中で 5 人の仏陀が言及されており、その発散が家族を構成しています。[3] [4]

    5 つのクラはドヴェーサ、モハ、ラーガ、チンターマニ、サマヤであり、すべての欲望の達成と解放につながります。

    — グヒャサマージャ。[4]
    パーラ王ダルマパーラの統治下の 9 世紀までに、仏教のパンテオンはすでに約 1,000 体の仏陀に膨れ上がっていました。[5]日本では、同じく 9 世紀に空海が真言密教とその仏教のパンテオンを紹介 しました。 [6]
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    ★建物そうだけど、ランク付けしてあるよね?大神?
    基本神仏習合してるってのがあったのを区別したのと、一致させたのとアレだっけ?
    神殿だよね?


    階層構造
    日本の仏教における仏教のパンテオンは、仏陀が最上位のカテゴリーを占め、次に多数の菩薩、智王、神々、「状況的出現」の順に続き、最後に祖先と著名な宗教者が続く階層によって定義されます。 [7]

    レベル カテゴリー 日本語の命名法
    レベル1 仏陀 如来部(如来部)
    レベル2 菩薩 菩薩部​​
    レベル3 知恵の王たち 明王部​​
    レベル4 天神様 天部​​
    レベル5 状況的な外観 権現​​​
    レベル6 宗教的指導者 高僧-祖師(高僧・祖師)
    有名な彫像群である京都の東寺にある曼荼羅は、仏教のパンテオンの主要な要素と構造の一部を示しています。曼荼羅は9世紀に作られ、空海に献上されました。[8]複製は19 世紀末にエミール ギメによってフランスのパリに持ち込まれ、現在ギメ美術館に所蔵されています。[8]

    日本の仏教は、数多くの神道の神々をその神殿に組み入れ、相互に組み入れました。日本の真言には、十三仏などの他のカテゴリもあります。[9] しかし、禅仏教は正統仏教の強力な多神教の概念を明確に拒否しました。[10]
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    List of Buddhist temples in Japan

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    Main article: Buddhist temples in Japan
    This is a list of Buddhist temples, monasteries, stupas, and pagodas in Japan for which there are Wikipedia articles, sorted by prefecture.


    Japanese Buddhist pantheon

    パンテオン(ギリシア語: Πάνθεον、英語: Pantheon)とは、基本的には「すべての神々」という意味。具体的には次のような意味。

    「ある人々によって信じられている神々」を、ひとまとめにして呼ぶためのギリシア語の言葉・概念[1](もともとの意味)。
    そうした神々を祭る神殿。
    特に尊敬され重要な人々[1]。いわゆる偉人。
    偉人を祀る墓所、記念墓廟[1]。
    もとは一番上の意味、「"ある人々" に信じられている神々」である。"ある人々"は古代ギリシアでは「古代ギリシアの人々」を指し、つまり「パンテオン」という言葉は「古代ギリシアの人々に信じられている神々」をひとまとめにして呼びたいときに使われた。ローマ帝国では、「ローマ帝国の人々に信じられている神々」を指していた。また転じて、そのような神々を祀る神殿を指すために使われた。だがローマ帝国でキリスト教が国教になると諸神を祀る神殿は廃れた。それから千数百年ほど経て16世紀に、非宗教的な意味で「偉人たち」という意味や、「偉人たちを祀る墓廟」という意味が生まれた。
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    レベル 1: 仏陀 (如来部)

    不空成就如来
    (北)

    阿弥陀如来
    (西)

    大日如来
    (ご本尊)

    阿しゅく如来
    (東)

    宝生如来
    (南)


    レベル 2: 菩薩部 (ぼさつぶ)

    ミロク
    (北)

    観音
    (西)

    金剛波羅蜜
    (ご本尊)

    ふげん
    (東)

    もんじゅ
    (南)