《チーゼル<*3>》(平成21年7月2日撮影、トアリー)
さて、この度ある著書に、
賢治さんは今でいう窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった。
いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです。
賢治さんがいなくなった農学校はまるで暗くなっていた。…………☆
という証言が載っていることを知った。つきましては、この証言を気にしながら、前々回の続きを以下順々にご覧頂きたい。いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです。
賢治さんがいなくなった農学校はまるで暗くなっていた。…………☆
それでは今回は、こんな標題〝 やはりなかったのか賢治の退任式〟の、以前の投稿です。
**************************************************やはりなかったのか賢治の退任式**********************************************
前回私は、
したがって、これらのことと先の小田島留吉の証言〝①〟とを併せ考えれば、
宮澤賢治の花巻農学校退任の際に、退任式は行われなかった可能性がかなり高い。……②
ということが言えそうだ。それは言い換えれば、
賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた可能性がなきにしもあらず。……③
ということでもある。
と述べた。宮澤賢治の花巻農学校退任の際に、退任式は行われなかった可能性がかなり高い。……②
ということが言えそうだ。それは言い換えれば、
賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた可能性がなきにしもあらず。……③
ということでもある。
そこで、このことに言及している資料がないだろうかと思い巡らしてみた。その時思い浮かんだのが佐藤成氏の著作である。彼であれば、花巻農業高校の先生もなさっていたし、賢治関連の著書も多い。
まずは『証言宮澤賢治先生』(佐藤成著、農文協)を見てみる。すると、その255pにありました。
賢治はこうして、花巻農学校を去った。…(略)…白藤慈秀もまた退職した。なぜか離任式はなかった。
そしてまた、同じく佐藤成の著『宮沢賢治の五十二箇月』の343Pには、 こうして賢治は、花巻農学校を去った。なぜか離任式はおこなわれなかった。
さらには、最愛の愛弟子の一人柳原昌悦の次のような証言があったことも前掲書は紹介している。 三月のはじめだったろうと思います。職員室前の廊下で掃除をしていたら、先生が通りかかって「おれ今度学校やめるよ」と言って鹿の革ジャンパーを着たあの写真を先生から、もらいました。それっきりで学校では先生の告別式のようなものも無ければ、お別れの会もありませんでした。
<『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著)341p~より>ということであった。
したがって、先の小田島留吉の証言等から導かれる〝②及び③〟とこの佐藤成氏の著書からは、
賢治は大正15年3月末、年度末になって花巻農学校を突如辞めた。その際に退任式等は行われなかった。
と結論してほぼ間違いないと言えるだろう。
さて、これで私の予想は当たっていたので一安心はしたのだが、今度は新たな疑問と不安が沸いてくる。一般に、学校という組織は「年度」を単位として運営される。したがって、先生が年度途中で辞めるとか、年度末になって突如辞めるということは普通はしないし、組織からは歓迎されないことである。学校の年度計画が著しく崩れるからである。それゆえ、そのようなことを賢治ははたして配慮していなかったのだろうかという疑問が沸く。このような退職の仕方は学校に迷惑をかけるし、そしてなにより生徒達に好ましくない多大の影響を及ぼす。したがって、この退職は賢治の衝動的な行為だったのではなかろうかという不安が私には生じてしまう。そして、実際農学校としてはこのような賢治の辞め方にほとほと呆れ果ててしまったし、その表れの一つが賢治の退任式が行われなかったことであった、ということも否定できなくなってしまう。
言い換えれば、もちろん賢治は迷惑がかかること等は重々承知だったのだが、そのことを無視せざるを得ないような、私たちが知ることのできない大きな理由が実は他にあって突如やめざるを得なかった、ということを示唆しているということなのかもしれない。
**********************************************************終わり****************************************************************
かつてこの投稿をした頃には、「私たちが知ることのできない大きな理由が実は他にあって突如やめざるを得なかった、ということを示唆しているということなのかもしれない」という次第で私はどうも釈然としなかった。ところがこの度、この証言「賢治さんは今でいう窓ぎわにおかれ仕事は与えられなかった。/いわゆるクビですね。ですから離任式にも出席しなかったのです」が著書に載っていて、もちろん今までは誰一人としてこのような証言を公的には明らかにしていなかったので、私は目から鱗が落ちた。この証言の通りであれば、理屈としてはかなり説得力があるぞと理解出来たからだ。たしかに、「いわゆるクビ」ならば、「やめざるを得なかった」はずだ。
となれば、賢治の退任式はやはりなかったということなのか……
<*3:投稿者注>
ちなみに、伊藤光弥氏は『イーハトーヴの植物学』の「第七章 チーゼルとダイアデム」で、
手帳(MEMO FLORA手帳?)の五ページに Dipsacus sylvestris の学名と、The teasel!という英文を記入しているが、これがチーゼルかと感心して書き入れたような感嘆符まで付いている。ディプサクスの絵を見て喜んでいる賢治の姿が目に浮かんでくるようである。
〈『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)265p~〉と述べており、賢治のこの記入に従えば、同手帳が書かれた昭和3年6月頃まで、賢治はチーゼルの花そのものは知らなかった可能性があり、あのFelton著『BRITISHU FLORAL DECORATION』を見て初めてそれを知ったということも考えられそうだ。
ちなみに、伊藤氏は同書の中で、チーゼルが出てくる詩として「ドラビダ風」と「陽ざしとかれくさ」を取り上げている。また、その263p~では、ラシャカキグサについて、『牧野新日本植物図鑑』には、
苞葉は先端が鍵状になっており、乾燥すると硬くなってらしゃの毛を起こすのに用いる。いわゆるTeaselがこれである
という記述があるということを紹介している。となれば、賢治がこれらの詩で詠んでいるチーゼルとは、まさに牧野がいうところの「いわゆるTeasel」である蓋然性が高い。実際、伊藤氏は「ドラビダ風」に出てくるチーゼルについて同書の264pで、
別にチーゼルを栽培しているわけではない。雑草を削っていると遠くから嘲笑が聞こえてくるような、チーゼルで掻きむしられるような思いを比喩的に詠んだまでのことであろう。
と鑑賞している。続きへ。
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