南宋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/29 18:26 UTC 版)
年表
年 | 皇帝 | 元号 | 国内 | 国外 | |
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1127 | 高宗 | 建炎 | 元 | (宋)(金)靖康の変。北宋滅ぶ。徽宗・欽宗、北方に連れ去られ、張邦昌が金により楚皇帝に立てられる。趙構、南京で即位する(高宗)。 | |
1129 | 3 | (宋)(金)杭州を臨安府に昇格させて行在とする。金軍、杭州を陥れる。 | |||
1130 | 4 | (宋)(金)高宗、金の攻撃を避けて温州へ逃れる。劉豫が金により斉皇帝に立てられる。秦檜、帰還して礼部尚書とされる。 | |||
1131 | 紹興 | 元 | 秦檜、宰相となる。 | ||
1132 | 2 | 高宗、臨安へ帰還する。 | (遼)遼の皇族耶律大石が西遼を建国。 | ||
1135 | 5 | 徽宗、北方の地で死去する。 | (金)太宗崩御し、熙宗立つ。 | ||
1137 | 7 | (金)金が斉を廃して直接支配に切り替える。 | |||
1138 | 8 | 正式に臨安が都となる。 | |||
1142 | 12 | (宋)(金)宋と金で和約がなる(紹興和約)。 | |||
1149 | 19 | (金)熙宗を弑逆して海陵王が帝位に就く。 | |||
1153 | 23 | (金)会寧府から燕京へと遷都する。 | |||
1155 | 25 | 秦檜、死去。 | |||
1156 | 26 | (日本)保元の乱。 | |||
1159 | 29 | (日本)平治の乱。 | |||
1161 | 31 | (宋)(金)海陵王、親征して南宋を征服せんとするが、国内に反乱頻発し、部下により暗殺される。代わって世宗が立つ。(宋)高宗、退位して上皇となり、孝宗が立つ。会子の発行を始める。 | |||
1163 | 孝宗 | 隆興 | 元 | (宋)(金)淮北へ進撃した宋軍が金軍に大敗する。 | |
1165 | 乾道 | 元 | (宋)(金)宋と金で和約がなる(乾道和約)。 | ||
1167 | 3 | (日本)平清盛、太政大臣となる。 | |||
1168 | 4 | (日本)僧栄西が入宋。 | |||
1172 | 8 | (宋)(日本)孝宗、明州知州を通じて後白河法皇と平清盛に国書と贈り物を送る(日宋貿易)。 | |||
1174 | 淳熙 | 元 | 交趾の李天祚を安南国王に冊封する。 | ||
1175 | 2 | 朱熹と陸九淵の鵞湖の会がもたれる。 | |||
1185 | 12 | (日本)平氏滅亡。鎌倉幕府の成立。 | |||
1189 | 16 | 孝宗、退位して上皇となる。光宗が立つ。 | |||
1192 | 光宗 | 紹熙 | 3 | (日本)源頼朝、征夷大将軍となる。 | |
1194 | 5 | 光宗、趙汝愚・韓侂冑らにより退位させられ寧宗が立つ。 | (金)黄河が氾濫して水路が二股に分かれる。 | ||
1195 | 寧宗 | 慶元 | 元 | 韓侂冑、趙汝愚・朱熹らの一派を偽学の党に追い込んで弾圧する(慶元党禁)。 | |
1200 | 6 | 朱熹、死去。 | |||
1204 | 嘉泰 | 4 | 岳飛、鄂王に追封される。 | ||
1206 | 開禧 | 2 | (宋)(金)韓侂冑の主導により北伐が実行される(開禧用兵)。(モンゴル)テムジンがチンギス・カンとなる。 | ||
1207 | 3 | 韓侂冑、史弥遠により殺される。 | |||
1208 | 嘉定 | 元 | (宋)(金)和約を結び直す(嘉定和約)。(宋)史弥遠、宰相となる。 | ||
1209 | 2 | 偽学の党に対する禁令が解ける。 | |||
1211 | 4 | (金)(モンゴル)モンゴル、金を攻撃。契丹の耶律留哥、金に反旗を翻す。 | |||
1214 | 7 | (宋)(金)(モンゴル)宋、金に送る歳幣を停止する。金、モンゴルの脅威を避けて中都から開封へと遷都。 | |||
1215 | 8 | (金)(モンゴル)モンゴル、中都を陥落させる。 | |||
1217 | 10 | (宋)(金)金、歳幣支給の停止を口実に宋への侵攻を始める。 | |||
1218 | 11 | (宋)(金)山東軍閥の李全、宋に帰順する。 | |||
1221 | 14 | 臨安の岳王廟が建てられる。 | (日本)承久の乱。 | ||
1223 | 16 | (日本)僧道元が入宋。 | |||
1224 | 17 | 寧宗崩御。理宗が立つ。 | |||
1227 | 理宗 | 宝慶 | 3 | (宋)(モンゴル)李全、宋を裏切ってモンゴルに投降する。モンゴルの攻撃により西夏滅ぶ。チンギス崩御。オゴデイ立つ。 | |
1231 | 紹定 | 4 | (宋)(金)(モンゴル)揚州を攻めた李全が敗死。金攻略に乗り出したモンゴル軍が宋の境内を経由して河南へ進撃する。 | ||
1233 | 6 | 史弥遠、死去。理宗、親政を始める(端平更化)。 | (金)(モンゴル)モンゴル、開封を陥落。金の哀宗は蔡州へ逃げる。 | ||
1234 | 端平 | 元 | (宋)(金)(モンゴル)宋・モンゴル、蔡州を挟撃して陥落。哀宗の自決により金滅亡。宋、開封・洛陽を回復するが、モンゴルに奪い返される(端平入洛)。 | ||
1235 | 2 | (宋)(モンゴル)モンゴルの大軍が宋に侵攻する。 | |||
1239 | 嘉熙 | 3 | (宋)(モンゴル)宋、モンゴルの攻勢を撃退させ、長江中流域にわたって防御線を構築する。 | ||
1241 | 淳祐 | 元 | 朱熹、孔子廟に従祀されることで朱子学が儒学の正統となる。 | (モンゴル)オゴデイ崩御。グユクが立つが、その継承を巡ってモンゴル国内は争いとなる。 | |
1247 | 7 | (日本)宝治合戦。 | |||
1251 | 11 | (モンゴル)後継争いを収めてモンケが立つ。 | |||
1252 | 12 | (宋)(モンゴル)宋、四川に侵入したモンゴル軍を阻止する。 | |||
1254 | 宝祐 | 2 | (モンゴル)クビライ、大理国を滅ぼして雲南が平定される。 | ||
1257 | 5 | (モンゴル)ウリヤンカダイ、安南を攻めて服属させる。 | |||
1258 | 6 | (宋)(モンゴル)モンケ、伐宋戦のために出征。モンゴル軍は四方に分かれて攻める。 | |||
1259 | 開慶 | 元 | (宋)(モンゴル)宋攻撃中にモンケが崩御。モンゴル軍は引き上げてクビライとアリクブケの継承争いとなる。 | ||
1260 | 景定 | 元 | 賈似道、右丞相に起用され朝廷の全権を掌握する。 | ||
1263 | 4 | 賈似道により公田法が行われる。 | |||
1264 | 5 | 理宗崩御。度宗が立つ。 | (モンゴル)クビライ、アリクブケを降し、正式にモンゴル皇帝となる。 | ||
1267 | 度宗 | 咸淳 | 3 | (宋)(モンゴル)モンゴル軍が南下し、再び南宋攻略に乗り出す。 | |
1271 | 7 | (モンゴル)国号を大元に改める。 | |||
1273 | 9 | (宋)(元)襄陽・樊城の陥落。宋の対モンゴル防御線が瓦解される。 | |||
1274 | 10 | 度宗崩御。恭帝が立つ。 | (元)(日本)文永の役。 | ||
1275 | 恭帝 | 徳祐 | 元 | 賈似道、対モンゴル戦の敗北で失脚して殺される。 | |
1276 | 2 | (宋)(元)臨安陥落。恭帝が降伏し宋事実上の滅亡。一部の宋残党により端宗が擁立される。 | |||
1278 | 端宗 | 景炎 | 3 | (宋)(元)端宗崩御。衛王が擁立される。 | |
1279 | 衛王 | 祥興 | 2 | (宋)(元)衛王入水。宋完全滅亡。 |
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