既定路線だった対米開戦、言い訳にされたハル・ノート | アゴラ 言論プラットフォーム

既定路線だった対米開戦、言い訳にされたハル・ノート

日米が激しくぶつかった太平洋戦争の勃発を告げた真珠湾攻撃から80年が経とうとしている。両国の国力の差からして、長期戦になればアメリカが勝利を収めることは明らかであった。

コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)Wikipediaより

実際に、真珠湾攻撃の計画者であった山本五十六もそれを理解しており、戦争を一年以内に収束させなければ、それ以降は「確信が持てない」と述べていた。

それにも関わらず、なぜ日本は勝利の見込みの薄い戦いに身を投じたのか。

石油のための戦争

ひとつは石油の確保である。日本の南インドシナへの進駐を受けて、それが日米間の緊張緩和の目的として実施されていた日米交渉の最中だったこともあり、裏切られたと感じたアメリカは日本の在米資産を凍結した。外貨を使用できないことは同時に日本の生命線である石油の購入をできないことも意味していた。しかし、当時のルーズベルト大統領は日本からの要望があれば、日中戦争が本格化する以前の水準で石油を輸出するようにと指示していた。

だが、不幸にも、日本は資産凍結がイコール石油禁輸だと認識した。さらに、強硬派の官僚らが新たな石油の購入方法を日本に提示しなかった。それだけではなく、石油購入のプロセスをさらに煩雑なものにした。それゆえ、資産凍結後、一か月間日本への石油の輸出が滞る事態が生じてしまった。7月下旬にルーズベルトは指示を出してすぐに外遊に出発しており、帰国後に石油が完全にストップしていたことに気づいた。一方で、その措置の撤回が枢軸国に宥和的だというメッセージを与え、同盟国の信頼を損なう可能性を危惧した。その結果、ルーズベルトは事実上の石油禁輸措置を黙認した。

この「事実上」の決定は自国の石油の9割近くをアメリカから供給していた日本にとっては大打撃だった。そして、何もせずに指を加えたままでは、戦艦一隻も動かせない屈辱的な状況に陥ることを危惧した。

そのような結末を避けるため、アメリカとの外交交渉を継続すると同時に、交渉決裂に備え戦争準備も着実に進めた。そして、これ以上待てないとした日本は1941年11月5日にアメリカとの交渉が12月1日までに成就しなければ対米開戦をすることを決定した。

さらに、期限日までにしびれを切らした日本は11月26日の早朝に海軍を真珠湾に向けて出発した。これは悪しき「ハル・ノート」が手交される約24時間前のことであった。

ハル・ノートこそが悪者?

ハル・ノートは非公式的にハル米国務長官から日本側に渡された、日本の妥協案に対する返答文書であった。その中の「中国からの撤退」という要求は日本にとっては受け入れ難いものであった。また、文書で示された「中国」という範囲が日本が日清、日露戦争で獲得した権益も含まれると非戦派の代表格であった東郷外相が認識したこともあり、政府は対米開戦でまとまった。そのような経緯があったゆえに、ハル・ノートこそが日米開戦の引き金であり、アメリカが意図的にそれを狙っていたという説が根強い未だに国内で支持を集めている。

しかし、日本が11月下旬時点で対米開戦を決意しており、軍事行動を開始していたという事実は、ハル・ノートこそが開戦の原因だったという説の正当性を弱めると筆者は考える。むしろ、ハル・ノートは既定路線だった対米開戦を実施させる大義名分として使われたという意味合いが強かったと考える。

一方、アメリカが意図的にハル・ノートを餌にして日本にハワイを攻撃させたという説も筆者は違うと考える。冒頭で述べたルーズベルトの外遊が示唆するように、真珠湾攻撃の間近のアメリカはヨーロッパ戦線を注視していた。また、海軍側からイギリスの支援に集中し、なるべく日本との交渉を続け、二正面作戦を回避することが提言されていた。逆説的に言えば、日本を「意図」してなかったことが、石油禁輸の実施のような結果を生み出した。

さらに、「絶望から戦争を始めた国がどこにあるのか」というホーンベック極東部長の発言が象徴するように、まさか日本がアメリカに対して攻撃を仕掛けるということは政権高官の間でも想定されていなかったのかもしれない。合理的に考えてそのような事態はありえないと考えたとしてもおかしくない。

稚拙な対応だった日米政府

日米開戦にまつわる歴史的経緯は状況証拠だけを見れば陰謀論が介入する余地もある。しかし、筆者は稚拙な日米両政府の外交が戦争を引き起こしたという、至ってシンプルな見解を持っている。

日本としては自らの妥協案が認められるかどうかで開戦するかどうかを決める、ゼロか百の選択ししかない苦境に自分を追い込んだことは自らの首を絞めるに等しかった。一方、ハル・ノートが指す「中国」が何かについてアメリカに問わないまま開戦に踏み切ったのははやとちりだったのではないかと思う。もしかすると、アメリカが意味する「中国」は日本の解釈よりも狭い範囲だったのかもしれない。もう少しの日本の我慢が多くの犠牲者を出した戦争を回避できたのかと思うと残念でならない。

さらに、アメリカもハル・ノートを交付する際に日本側の視点に立って文言を選ぶことができなかったのか。

開戦間際の日米両政府の粗探しは80年の時を経た今だから客観的に批判できるものである。同時に当時の日米政府高官は極度の緊張感の中でお互いのはらの探り合い、重要な決定を行っていたことは批判者として十分に考慮しなければならない。

また、戦争という形で終わった日米交渉は、いかに追い込まれた状態にある人間が単純な間違いを犯し、重大な結末を招くのかという、教訓を現代を生きる我々に教えてくれる。

参考文献

  • 須藤眞志、「真珠湾「奇襲」論争――陰謀論・通告遅延・開戦外交」、講談社選書メチエ
  • 麻田貞雄、「両大戦間の日米関係: 海軍と政策決定過程」、 東京大学出版会
  • Okamoto, Shumpei, Dorothy Borg, and Dale K. A. Finlayson, “Pearl Harbor as history: Japanese-American relations, 1931-1941”. New York: Columbia University Press
  • Anderson, Irvine H. “The 1941 De Facto Embargo on Oil to Japan: A Bureaucratic Reflex.” Pacific Historical Review
  • Smith, Jean E, “FDR”, Random House