フランスの歴史年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フランスの歴史年表(フランスのれきしねんひょう)は、フランスおよびその前身で起きた重要な事件を記す。これらの事件の背景についてはフランスの歴史を参照。またフランス君主一覧フランスの大統領も参照。

3世紀[編集]

日付 事件
260年 ポストゥムスが自立してガリア帝国を打ち立て、帝国属州ガリアゲルマニアブリタンニアヒスパニアを支配した。これらの属州は3世紀の危機によりローマ帝国から分離した。
274年 シャロン・スュル・マルヌの戦いローマ帝国ガリア帝国に勝利し、ガリアはローマ帝国へ再統合された。
297年 サリ族バタウィー族の居住地に住むことを許された。

5世紀[編集]

日付 事件
418年 ホノリウス西ゴート族ガリア・アクィタニアを与えた。西ゴート王国が成立、ワリアテオドリック1世父子が相次いで即位した。
426年 サリ族の初代の王クローディオが即位。
448年 クローディオ死去、メロヴィクスが後を継ぐ。
451年 6月20日 カタラウヌムの戦い西ローマ帝国テオドリック1世率いる西ゴート王国軍、フランク族などの連合軍がフン族を撃退し、フン族のガリア征服は免れた。しかしこの戦いでテオドリック1世が戦死、子のトリスムンドが王位を継承した。
453年 テオドリック2世が兄のトリスムンドを殺害し西ゴート王国の王に即位した。
457年 メロヴィクス死去、子のキルデリク1世が後を継ぐ。
ローマ帝国ガリアにおける最後の地域であるソワソン管区が設立され、アエギディウスマギステル・ミリトゥム(軍司令官)に任命された。
462年 西ローマ帝国セプティマニア西ゴート王国に割譲される。
463年 アエギディウスキルデリク1世オルレアン西ゴート族を撃破。
464年 アエギディウス死去、子のシアグリウスマギステル・ミリトゥムの位を継いだ。
465年 キルデリク1世死去、クローヴィス1世が後を継いだ。
466年 テオドリック2世が弟のエウリックに殺害される。エウリックは西ゴート王国の王に即位、ローマからの独立を宣言し、イベリア半島の南部まで勢力圏を広げた。
485年 エウリック死去、子のアラリック2世が王位を継承した。
486年 ソワソンの戦いクローヴィス1世フランク軍シアグリウスを撃破し、ソワソン管区を併合。シアグリウスは西ゴートアラリック2世の宮廷に逃れ庇護を求めたが、捕らえられてクロヴィスに引き渡され、翌年に殺された。

6世紀[編集]

日付 事件
507年 ヴイエの戦いクローヴィス1世西ゴートアラリック2世を破り、ガリア・アクィタニアを獲得。これが現代のフランスの基礎となった。
511年 11月27日 クローヴィス1世死去、4人の息子が遺領を分割し、キルデベルト1世パリを、クロタール1世ソワソンを、クロドメールオルレアンを、テウデリク1世ランスアウストラシア)を相続した。
524年 6月25日 ヴェズロンスの戦いクローヴィス1世の息子の連合軍がブルグントゴドマール2世に大勝した。しかし、オルレアンの王クロドメールが戦死した。
ネウストリアの王クロタール1世クロドメールの長男テオドバルドと次男グンタールを殺害し、末息子クロドアルドも逃亡。相続人のいなくなったオルレアン王国はクロタール1世とキルデベルト1世の間で分割された。
534年 テウデリク1世死去、子のテウデベルト1世アウストラシア王位を継承。
547年 テウデベルト1世死去、子のテオデバルドアウストラシア王位を継承。
555年 テオデバルド死去、アウストラシアクロタール1世に併合された。
558年 12月13日 キルデベルト1世死去。弟のクロタール1世がその領地を相続し、クローヴィス1世が作り上げたフランク王国を再統一した。
561年 11月29日 クロタール1世死去、4人の息子が遺領を分割し、カリベルト1世パリを、グントラムブルグント王国を、シギベルト1世アウストラシアを、キルペリク1世ネウストリアを相続した。
567年 11月 パリの王カリベルト1世が死去。後継者がなく、領地は3人の弟たちに分割された。
575年 アウストラシアの王シギベルト1世が死去、子のキルデベルト2世が王位を継承。
584年 9月 ネウストリアの王キルペリク1世が暗殺された。生後4ヶ月の遺児クロタール2世が継承し、その母フレデグンドが摂政となった。
592年 1月28日 ブルグントグントラムが死去、養子のキルデベルト2世が継承した。
595年 キルデベルト2世死去、遺領は2人の息子が相続した。テウデベルト2世アウストラシアの王になり、テウデリク2世ブルグント王になった。
597年 12月28日 フレデグンドが死去し、ネウストリアの王クロタール2世が13歳で親政した。

7世紀[編集]

日付 事件
612年 アウストラシアの王テウデベルト2世が暗殺され、ブルグントテウデリク2世が継承した。
613年 テウデリク2世死去、庶子シギベルト2世が短期間王位を継承した。
クロタール2世シギベルト2世を処刑し、フランク王国を統一した。
623年 クロタール2世ダゴベルト1世アウストラシア王に任命した。
629年 クロタール2世死去。その死後に交わされた協定により、ダゴベルト1世ネウストリアの王位を継承、異母弟のカリベルト2世アキテーヌを継承した。
632年 4月8日 カリベルト2世が死去したが、兄のダゴベルト1世が暗殺を指示したとされている。生後間もない子キルペリク・ダキテーヌが継承したが、すぐにダゴベルト1世に暗殺された。ダゴベルト1世はアキテーヌを獲得、フランク王国を統一した。
639年 1月19日 ダゴベルト1世死去、子のシギベルト3世アウストラシア王になり、クローヴィス2世がネウストリアとブルグントの王になる。二人とも政治力が弱く、宮宰の台頭を許すきっかけとなった。
655年 クローヴィス2世死去、子のクロタール3世が継承。
656年 2月1日 シギベルト3世が死去、キルデベルト養子王が継承。
661年 キルデベルト養子王が死去、クロタール3世が遺領を継承してフランク王国を再統一した。
673年 クロタール3世死去、遺領は2人の弟に分割された。キルデリク2世アウストラシア王になり、テウデリク3世ネウストリア王になった。キルデリク2世はすぐにネウストリアを侵攻し併合、フランク王国を統一。
675年 キルデリク2世が殺害され、テウデリク3世が再びネウストリアを獲得。アウストラシアクロタール3世の庶子クローヴィス3世が継承。
676年 クローヴィス3世が死去、テウデリク3世が遺領を相続したことによりフランク王国を再統一。
691年 テウデリク3世が死去、子のクローヴィス4世が継承。
695年 クローヴィス4世が死去、弟のキルデベルト3世が継承。

8世紀[編集]

日付 事件
711年 4月23日 キルデベルト3世が死去、子のダゴベルト3世が継承。
715年 ダゴベルト3世が死去、キルデリク2世の末子キルペリク2世が継承。
721年 2月13日 キルペリク2世が死去、ダゴベルト3世の子テウデリク4世が継承。
732年 10月10日 トゥール・ポワティエ間の戦いウマイヤ朝カリフヒシャームの侵攻がフランク王国宮宰カール・マルテルに食い止められる。
737年 テウデリク4世死去。彼は後継者指名をせず、カール・マルテルは王位継承を阻止した。
741年 10月22日 カール・マルテルが死去、宮宰の位と領地は2人の子カールマンピピン3世に分割された。
743年 7年間の空位の末、キルデリク3世がフランク王に即位。しかし、実権はピピン3世に握られた。
747年 8月15日 カールマン宮宰を辞し、修道院に隠棲した。ピピン3世が代わりの宮宰になった。
751年 メロヴィング朝最後の国王キルデリク3世が退位させられた。ピピン3世が戴冠し、カロリング朝を開いた。
768年 9月24日 ピピン3世死去。
10月9日 ピピン3世の子シャルルマーニュカールマン1世がそれぞれフランク王国の半分を相続、二人ともフランク王に即位した。
771年 12月4日 カールマン1世死去、シャルルマーニュが遺領を相続。
774年 シャルルマーニュがランゴバルド王国の首都パヴィアを占領、ランゴバルド王を兼ねるに至った。
795年 シャルルマーニュスペイン辺境領フランク王国アル=アンダルスの緩衝地帯として設置した。

9世紀[編集]

日付 事件
800年 12月25日 ローマ教皇レオ3世シャルルマーニュインペラートルアウグストゥスとして戴冠した。
811年 アイデル河畔の平和:シャルルマーニュとデンマーク王ヘミングの間で結ばれ、フランク王国デンマーク王国の国境をアイダー川に定めた。
812年 後ウマイヤ朝アミールハカム1世がフランク王国の侵攻を追認。
814年 1月28日 シャルルマーニュ死去、唯一生存していた男子ルイ1世敬虔王が帝国を相続した。
840年 6月20日 ルイ1世敬虔王死去。長子のロタール1世が弟のルートヴィヒ2世ドイツ人王シャルル2世禿頭王を抑えてフランク王国の帝位についた。
843年 ヴェルダン条約ルートヴィヒ2世ドイツ人王シャルル2世禿頭王が手を結び、ロタール1世に勝利したためロタールが妥協した。その結果、フランク王国は分割され、シャルル2世は西フランク王国を、ロタール1世は中フランク王国とフランク王位を、ルートヴィヒ2世は東フランク王国を、それぞれが得た。西フランク王国と東フランク王国は現在のフランスドイツの礎となった。
875年 12月29日 ローマ教皇ヨハネス8世がシャルル2世に対してローマ皇帝の戴冠を行った。
876年 10月8日 アンデルナハの戦いルートヴィヒ2世ドイツ人王が亡くなった後、遺領の侵略を目論むシャルル2世禿頭王アンデルナハカールマン2世らルートヴィヒ2世の遺児に敗北。
877年 10月6日 カールマン2世の大軍を避けて北イタリアから撤退している最中、シャルル2世が病死。子のルイ2世吃音王西フランク王位を継承。
879年 4月10日 病弱なルイ2世吃音王が死去、子のルイ3世カルロマン2世がともに王位に選出された。
880年 3月 ルイ3世カルロマン2世アミアンで王国の分割についての条約に署名。ルイ3世はニュストリアを、カルロマン2世はブルゴーニュアキテーヌを獲得。
882年 8月5日 ルイ3世死去、カルロマン2世が単独王になる。
884年 12月12日 カルロマン2世死去、すでに東フランク王国の国王に即位していたシャルル肥満王が西フランク王国も継承、フランク王国全体を一時的に統一。
888年 1月13日 シャルル肥満王が嫡子のないまま死去。フランク王国は再び分割され、これ以降統一されることはなかった。
2月 パリ包囲戦ノルマン人を撃退したウードが西フランク王に即位。また、ポワティエ家ラヌルフ2世アキテーヌ公に即位。
898年 1月1日 ウードが死去。子等は全員早逝したため、ルイ2世吃音王の遺児シャルル3世単純王が西フランク王に即位、カロリング朝が復活した。

10世紀[編集]

日付 事件
911年 サン=クレール=シュール=エプト条約シャルル3世ノルマン人ロロ徒歩王の間で締結され、ノルマンディー公国が創設された。
922年 シャルル3世が貴族反乱で廃位され、ウードの弟ロベール1世が王に選出された。
923年 6月15日 ソワソンの戦いロベール1世の娘婿、ブルゴーニュ公ラウールがシャルル3世を捕えたが、ロベール1世自身は戦死した。ラウールが西フランク王に選出され、ブルゴーニュ公は弟のユーグ黒公が継いだ。
936年 1月15日 ラウール死去、シャルル3世の子ルイ4世が王位を継承した。
954年 9月10日 ルイ4世死去、子のロテールが継承した。
986年 3月1日 ロテール死去、子のルイ5世怠惰王が継承した。
987年 5月21日 ルイ5世が死去。継嗣が無く、カロリング朝はここで断絶した。ユーグ・カペーが貴族の血統と軍事の成功で国王に選出され、カペー朝の始まりとなった。
996年 10月24日 ユーグ・カペー死去、子のロベール2世が王位を継承した。

11世紀[編集]

日付 事件
1004年 ロベール2世ブルゴーニュ公国を併合。
1031年 7月20日 ロベール2世が息子の反乱で戦死。アンリ1世が王位を継いだが、末弟のロベール1世が反対し、反乱を起こした。
1032年 アンリ1世が弟のロベール1世にブルゴーニュ公国を与えることで和解した。
1060年 8月4日 アンリ1世死去、7歳の子フィリップ1世が王位を継いだ。その母アンヌ・ド・キエヴが摂政を務めた。
1066年 フィリップ1世が成人。

12世紀[編集]

日付 事件
1108年 7月29日 フィリップ1世死去、子のルイ6世肥満王が継承。
1131年 10月25日 ルイ6世の子ルイ7世が共同王位についた。
1137年 7月22日 エレオノール・ダキテーヌとの結婚によりルイ7世アキテーヌ公になった。
8月1日 ルイ6世肥満王死去、子のルイ7世若年王が継承。
1152年 3月21日 ルイ7世エレオノール・ダキテーヌの結婚の無効が宣言された。
1180年 9月18日 ルイ7世死去、子のフィリップ2世が継承した。

13世紀[編集]

日付 事件
1214年 7月27日 ブーヴィーヌの戦いフランス王国軍がイングランド王国フランドル伯などの連合軍に勝利、アンジューブルターニュメーヌノルマンディートゥーレーヌの広大な領地を得た。
1223年 7月14日 フィリップ2世死去、子のルイ8世獅子王が継承した。
1226年 11月8日 ルイ8世獅子王死去、子のルイ9世聖王が継承した。
1241年 6月 ルイ9世が弟のアルフォンスポワティエ伯に就かせた。子のヘンリー3世が継承する予定だったため、イザベル・ダングレームが激怒した。
1242年 5月20日 サントンジュ戦争イザベル・ダングレームの主張を支持してヘンリー3世が出兵したが、大敗。
1270年 8月25日 ルイ9世死去、子のフィリップ3世大胆王が継承した。
1285年 10月5日 フィリップ3世死去、子のフィリップ4世が継承。
1297年 ローマ教皇ボニファティウス8世ルイ9世列聖。そのためルイ9世は聖ルイとしても知られる。聖人に叙される唯一のフランス王となった。

14世紀[編集]

日付 事件
1302年 5月18日 ブリュージュの朝課事件ブリュージュを追放されたフランドル市民が蜂起、フランス人を虐殺した。
7月11日 金拍車の戦いフランドル伯がフランスの鎮圧軍に勝利、独立を得る。
1314年 11月29日 フィリップ4世死去、子のルイ10世強情王が継承。
1316年 6月5日 ルイ10世死去、王妃クレマンス・ド・オングリーが妊娠中だったため王弟フィリップ5世が摂政を務めた。
11月15日 クレマンス・ド・オングリーが出産、男子だったためジャン1世遺児王としてフランス王に即位したが、5日後に夭折。フィリップ5世が王位を継承した。
1322年 1月3日 フィリップ5世死去。男児がなく、弟のシャルル4世が継承した。
1328年 2月1日 シャルル4世死去、娘しかいなかったためカペー朝は断絶した。従弟のフィリップ6世が継承し、ヴァロワ朝が開かれた。
1350年 8月22日 フィリップ6世死去、子のジャン2世が継承した。
1356年 9月19日 ポワティエの戦い:英仏百年戦争の主な戦いの一つであり、フランス軍が大敗北を喫した。
1357年 三部会エティエンヌ・マルセルが提出した王権制限を目的とする大勅令が可決された。
1364年 4月8日 ジャン2世死去、子のシャルル5世が継承した。
1380年 9月16日 シャルル5世死去、子のシャルル6世が継承した。

15世紀[編集]

日付 事件
1415年 8月13日 百年戦争 (1415年-1429年):ヘンリー5世率いるイングランド王軍が北フランスに上陸。
10月25日 アジャンクールの戦い:イングランド軍が圧勝[1]
1418年 5月30日 ブルゴーニュ公国ジャン無怖公パリを占領、ドーファンのシャルル(後のシャルル7世)が逃亡。
1419年 9月20日 ジャン無怖公ドーファンの支持者に暗殺されたため、後を継いだフィリップ善良公はイングランドと同盟を結ぶ。
1420年 5月21日 ブルゴーニュ派シャルル6世トロワ条約を署名させ、後継者をイングランド王ヘンリー5世に定めた。
1422年 8月31日 ヘンリー5世死去、生後6ヶ月の子ヘンリー6世が後を継いだ。
10月21日 シャルル6世死去。子のシャルル7世が王位継承を宣言し、ヘンリー6世と対立。
1453年 7月17日 カスティヨンの戦い百年戦争最後の戦いであり、決定的な勝利を得たフランスはイングランドの大陸領を没収、カレーのみ残した。
1461年 7月22日 シャルル7世死去、子のルイ11世が王位を継承。
1483年 8月30日 ルイ11世死去、子のシャルル8世が王位を継承。
1498年 4月7日 シャルル8世死去、子女がすべて夭逝していたため父ルイ11世の又従弟に当たるオルレアン公ルイ12世が継承した。

16世紀[編集]

日付 事件
1508年 12月10日 カンブレー同盟戦争教皇領、フランス、神聖ローマ帝国アラゴンフェルナンド2世ヴェネツィア共和国の分割を目論んでカンブレー同盟を結成したが、ローマ教皇ユリウス2世とフランス王ルイ12世の不和で崩壊し、数度の離合集散の末、開戦前の状態に復帰する事が決定された。
1514年 5月18日 ルイ12世の娘、ブルターニュ女公クロードが王位継承者の筆頭アングレーム伯フランソワ1世と結婚した。
1515年 1月1日 ルイ12世死去、アングレーム伯フランソワ1世が継承した。
1524年 7月20日 ブルターニュ女公クロード死去、長子のフランソワ3世がブルターニュ公になる。
1532年 フランソワ1世ブルターニュをフランス王領に併合。
1547年 3月31日 フランソワ1世死去、子のアンリ2世が継承した。
1559年 7月10日 アンリ2世死去、子のフランソワ2世が継承した。
1560年 12月5日 フランソワ2世死去、子供がなかったため弟シャルル9世が継承した。
1572年 8月24日 サン・バルテルミの虐殺で多数のプロテスタント貴族と市民が殺害された。
1574年 5月30日 シャルル9世死去、嫡子がなかったため弟アンリ3世が継承した。
1589年 8月2日 アンリ3世が暗殺された。アンリ3世に子供はなく、ここにヴァロワ朝が断絶。ブルボン家アンリ4世が王位を継承、ブルボン朝を開いた。
1598年 4月13日 アンリ4世ナントの勅令を発布し、ユグノー戦争を終わらせた。

17世紀[編集]

日付 事件
1610年 5月14日 アンリ4世が狂信的なカトリック教徒のフランソワ・ラヴァイヤックに刺殺され、長子のルイ13世が8歳で王位を継承した。ルイ13世の母マリー・ド・メディシスが摂政を務めた。
1617年 ルイ13世が母マリー・ド・メディシスを幽閉し、政治の実権を取り戻した。
1624年 8月 ルイ13世リシュリュー枢機卿を宰相に任命した。
1643年 5月14日 ルイ13世死去。子のルイ14世が5歳で即位し、マザラン枢機卿が摂政を務めた。
1648年 8月 フロンドの乱マザラン枢機卿パリ高等法院のメンバーを逮捕したことをきっかけに、民衆と法服貴族が蜂起。
10月24日 三十年戦争ヴェストファーレン条約でフランスが興隆し、東部の領土を拡張した。
1659年 11月7日 フランス・スペイン戦争:フランスが勝利し、ピレネー条約でスペインからカタルーニャ北部とフランドルの一部を手に入れる。この条約でフランスの強国化とスペインの没落が明らかになった。
1668年 5月2日 アーヘンの和約ネーデルラント継承戦争を終結させ、スペインはフランスにリールなどフランドルの都市を割譲。
1678年 ナイメーヘンの和約仏蘭戦争を終わらせ、スペインはフランスにフランシュ=コンテ地方エノー伯領の一部、およびフランドルの都市のいくつかを割譲。
1684年 8月15日 レーゲンスブルクの和約再統合戦争を終わらせ、スペインはフランスにリュクサンブール大公国を割譲。
1697年 9月20日 レイスウェイク条約:フランスとアウクスブルク同盟の間の大同盟戦争を終わらせた。

18世紀[編集]

日付 事件
1701年 7月9日 カルピの戦いスペイン継承戦争の最初の戦闘で、オーストリア軍がカルピでフランス軍に勝利した。
1713年 4月11日 ユトレヒト条約スペイン継承戦争のフランスとイギリスの間の講和条約。この条約でフェリペ5世およびその子孫たちはフランス王の継承権を放棄し、フランス王位の継承権者はスペインの王位継承権を放棄した。
1714年 3月7日 ラシュタット条約スペイン継承戦争のフランスとオーストリアの間の講和条約。
1715年 9月1日 ルイ14世壊疽で病死。5歳の曾孫ルイ15世が即位、ルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2世が摂政に就任。
1720年 2月17日 ハーグ条約四国同盟戦争を終わらせ、フェリペ5世はフランス王の継承権を再び放棄した。
1723年 2月15日 ルイ15世が親政を宣言。
1738年 11月18日 ウィーン条約ポーランド継承戦争を終わらせ、フランスはロレーヌ公国バール公国を得る。
1748年 10月18日 アーヘンの和約オーストリア継承戦争を終わらせた。フランスは特に得るところがなく、民衆の不満が高まった。
1763年 2月10日 パリ条約七年戦争を終わらせた。フランスはイギリスにカナダフランス領ルイジアナなど海外植民地の大半を割譲した。
1768年 5月15日 ヴェルサイユ条約ジェノヴァ共和国コルシカ島をフランスに割譲した。当時、ジェノヴァは債務に苦しまれてコルシカ独立戦争を鎮圧する余裕がなく、コルシカ島を抵当として一時フランスに割譲したが、その後も取り返せずコルシカはフランス領になった。
1774年 5月10日 ルイ15世が死去、孫のルイ16世が即位、
1778年 2月 フランスが13植民地の独立を承認、これによりアメリカ独立戦争に参戦した。この後、勝利したフランスは1783年のヴェルサイユ条約でイギリスと講和したが、セネガルしか得られず民衆の反発を巻き起こした。
1789年 7月14日 バスティーユ襲撃フランス革命が始まった。
1793年 1月21日 国民公会の決定によりルイ16世ギロチン斬首刑にされた。
6月2日 国民公会ジャコバン派独裁が開始され、1年2ヶ月間の恐怖政治となった。
10月16日 元王妃マリー・アントワネットギロチン斬首刑にされた。
1795年 11月2日 共和暦3年憲法の施行により国民公会が廃止され、総裁政府が成立。
1797年 10月17日 第一次対仏大同盟カンポ・フォルミオ条約によりフランスとオーストリアが講和。フランス革命の影響を最小限に留めたい各国の思惑により対仏大同盟が成立したが、フランスに撃破され停戦を余儀なくされた。
1798年 7月7日 擬似戦争アメリカ合衆国議会がフランスとの条約を破棄し、半ば公式な開戦となった。
1799年 11月9日 ブリュメール18日のクーデターナポレオン・ボナパルト将軍が総裁政府を倒し、統領政府を樹立した。

19世紀[編集]

日付 事件
1801年 2月9日 第二次対仏大同盟リュネヴィルの和約によりオーストリアが講和。オーストリアロシア帝国を主とする対仏大同盟側が敗北し、オーストリアの脱落によりイギリスのみが交戦を続けることとなった。
1802年 3月25日 第二次対仏大同盟アミアンの和約によりフランスとイギリスが講和。
1803年 5月2日 ルイジアナ買収:フランスがフランス領ルイジアナを1500万ドルでアメリカ合衆国に売却、これによりフランスは北米大陸から完全に撤退した。
11月18日 ハイチ革命ヴェルティエールの戦いロシャンボー子爵率いるフランス軍がジャン=ジャック・デサリーヌ率いる革命軍に降伏。
1804年 1月1日 ハイチ革命ジャン=ジャック・デサリーヌサン=ドマングの独立を宣言し、ハイチを建国した。
5月18日 ナポレオン・ボナパルト護憲元老院からフランス皇帝の位を授けられた。これにより統領政府が終結、フランス第一帝政が始まった。
12月2日 ナポレオン・ボナパルトノートルダム大聖堂で自ら戴冠した。ローマ教皇ピウス7世も出席させられ、教皇の権威を借りる形となった。
1805年 12月2日 第三次対仏大同盟アウステルリッツの戦いでフランスが勝利し、フランス帝国および衛星国がオーストリア、ロシア、イギリス、スウェーデンなどからなる対仏大同盟に勝利した形となった。対仏大同盟は程なくして崩壊した。
1806年 7月12日 ナポレオンが神聖ローマ帝国を解体して帝国16領邦からなるライン同盟を結成する。
1807年 6月14日 第四次対仏大同盟フリートラントの戦いでロシアがフランスに大敗し、プロイセン、ロシア、イギリス、ザクセン、スウェーデンからなる対仏大同盟が崩壊した。
1808年 5月2日 半島戦争がはじまり、1814年にナポレオンが第六次対仏大同盟に敗北するまで続く。
1809年 7月5日 - 7月6日 第五次対仏大同盟ヴァグラムの戦いでフランスがオーストリアに圧勝し、イギリスとオーストリアからなる対仏大同盟が崩壊した。
1812年 9月14日 第六次対仏大同盟モスクワ大火により1812年ロシア戦役でのフランス撤退が始まった。さらにベレジナ川の戦いでの大敗北もあり、フランス第一帝政の頂点からの転落が始まった。その後、対仏大同盟は勝利を続け、ナポレオンは1814年にエルバ島に追放される。
1813年 8月26日 - 8月27日 ドレスデンの戦いで皇帝ナポレオン1世麾下のフランス軍が、シュヴァルツェンベルク将軍率いるオーストリア帝国ロシア帝国プロイセン王国による第六次対仏大同盟軍を破った。しかし、フランス軍は追撃に失敗し、数日後に行われたクルムの戦いにおいて包囲され降伏した。
1813年 10月16日 - 10月19日 ライプツィヒの戦いで60万人の兵士が交戦し、第一次世界大戦以前のヨーロッパにおける最大規模の戦闘となった。同盟軍がフランスに勝利した。
1814年 4月24日 第一次王政復古ブルボン朝が復古し、ルイ18世がフランス王に即位した。
1815年 6月18日 百日天下ワーテルローの戦いナポレオン第七次対仏大同盟に敗北し、フランス第一帝政ナポレオン戦争を完全に終わらせた。これによりヨーロッパは50年近くの平和を得た。
1815年 7月7日 第二次王政復古ナポレオンセントヘレナ島に配流されブルボン朝が再び復古。ルイ18世がフランス王に復位し、1824年9月16日に崩御するまで在位。
1821年 5月5日 ナポレオン死去。
1823年 4月7日 聖ルイの十万の息子たち:フランス軍10万人がスペインに侵攻し、自由主義政府を打倒、「自由主義の三年間」を終わらせた。スペイン王フェルナンド7世は復権。
1830年 7月 フランス7月革命:保守派のブルボン朝が打倒され、オルレアン朝ルイ=フィリップ1世がフランス王に即位。
2月3日 ギリシャ独立戦争終結、ロンドン議定書でロシア・フランス・イギリスがギリシャの独立を承認
1831年 11月22日 カヌート争議産業革命以降最初の労働者反乱。
1832年 6月5日 6月暴動パリで王政打倒を目的とする反乱、数日で鎮圧された。
1839年 3月9日 菓子戦争メキシコ側がフランスの要求を受諾したためフランス軍が撤収。
1848年 2月 二月革命:共和派がオルレアン朝を打倒、ルイ=フィリップ1世はイギリスに亡命。
12月20日 ルイ=ナポレオン・ボナパルトフランス第二共和政の初代大統領に就任。
1848年革命
1851年 12月2日 1851年12月2日のクーデター。そのちょうど1年後、ルイ=ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝ナポレオン3世に即位。フランス第二共和政が終結し、フランス第二帝政が成立。
1853年 3月28日 クリミア戦争:フランスとイギリスがロシアに宣戦布告。(-1856年3月30日)
1860年 第二次イタリア独立戦争でフランス・サルデーニャ王国連合軍がオーストリア帝国が勝利し、サヴォワニースがサルデーニャからフランスに割譲される。
10月18日 アロー戦争:イギリス・フランス連合軍が北京紫禁城に入城。
1866年 5月31日 メキシコ出兵:フランス軍がメキシコから撤退。
1870年 - 1940年 第三共和政
1871年 5月10日 普仏戦争終結:フランスの敗北によりナポレオン3世が失脚、同時にフランス第二帝政も終わる。第三共和政が成立し、ナポレオン3世はイギリスに亡命した。
3月26日 パリ・コミューンが成立、2ヶ月後に鎮圧された。
8月30日 アドルフ・ティエールがフランス第2代大統領に就任(-1873年5月24日)。
1873年 5月24日 パトリス・ド・マクマオンがフランス第3代大統領に就任(-1879年1月30日)。
1879年 1月30日 ジュール・グレヴィがフランス第4代大統領に就任(-1887年12月2日)。
1887年 1月28日 エッフェル塔の建設が始まる。
12月3日 マリー・フランソワ・サディ・カルノーがフランス第5代大統領に就任(-1894年6月25日)。
1888年 3月20日 エッフェル塔の1階プラットフォームが完成。
8月21日 エッフェル塔の2階プラットフォームが完成。
1889年 5月15日 エッフェル塔が一般に公開された。
5月26日 エッフェル塔のエレベーターが運行開始。
1894年 1月4日 露仏同盟締結。
6月27日 ジャン・カジミール=ペリエがフランス第6代大統領に就任(-1895年1月17日)。
11月 ドレフュス事件が始まり、その後10年以上フランス世論を二分した。
1895年 1月17日 フェリックス・フォールがフランス第7代大統領に就任(-1899年2月16日)。
1899年 2月18日 エミール・ルーベがフランス第8代大統領に就任(-1906年2月10日)。

20世紀[編集]

日付 事件
1904年 4月8日 英仏協商締結。さらに1907年には英露協商が締結、これによりフランス・イギリス・ロシアの間で三国協商が成立、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と対立する構図を作り上げた。
1905年 12月9日 政教分離法成立、宗教予算が廃止された。
1906年 2月10日 アルマン・ファリエールがフランス第9代大統領に就任(-1913年2月18日)。
1913年 2月18日 レイモン・ポアンカレがフランス第10代大統領に就任(-1920年2月18日)。
1914年 8月3日 第一次世界大戦ドイツ帝国がフランスに宣戦。
1918年 11月11日 第一次世界大戦第一次コンピエーニュ休戦協定がフランスとドイツの間で締結。フランスがアルザス=ロレーヌを奪回。
1920年 2月18日 ポール・デシャネルがフランス第11代大統領に就任(-9月23日)。
9月23日 アレクサンドル・ミルランがフランス第12代大統領に就任(-1924年7月11日)。
1923年 1月11日 フランス・ベルギーによるルール占領が始まる。
1924年 6月13日 ガストン・ドゥメルグがフランス第13代大統領に就任(-1931年6月13日)。
1931年 6月13日 ポール・ドゥメールがフランス第14代大統領に就任(-1932年5月7日)。
1932年 5月10日 アルベール・ルブランがフランス第15代大統領に就任(-1940年7月11日)。
1934年 2月6日 1934年2月6日の危機:右派勢力によるクーデター未遂事件。フランス第三共和政の危機となった。
1939年 9月1日 第二次世界大戦:フランスがドイツに宣戦布告。
1940年 6月22日 第二次世界大戦ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランスが敗北し、第二次コンピエーニュ休戦協定を締結。ナチス・ドイツによるフランス占領が始まり、南フランスではフィリップ・ペタン率いるコラボラシオン派のヴィシー政権が支配した。
1944年 8月25日 第二次世界大戦パリの解放オーバーロード作戦の最後の戦いで、連合国および自由フランス軍パリをドイツ占領から解放した。フランスの残りの地域はドイツへの進軍と同時に解放された。
1945年 10月24日 国際連合成立、フランスは国際連合安全保障理事会常任理事国になる。
1947年 1月16日 ヴァンサン・オリオールがフランス第16代大統領に就任(-1954年1月16日、第四共和政の大統領としては初代)。
1951年 4月18日 パリ条約ベルギーフランス西ドイツイタリアルクセンブルクオランダの6か国間で締結。この条約により外交と経済の安定を目的とする欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が成立。ECSCは後の欧州連合の基盤の一つとなった。
1954年 1月16日 ルネ・コティがフランス第17代大統領に就任(-1959年1月8日)。
8月1日 8年の長きにわたった第一次インドシナ戦争が終結、フランスはジュネーヴ協定ベトナムの分割に同意。この撤退によりフランス植民地帝国の解体が始まった。
1957年 3月25日 ローマ条約:フランス、ベルギーイタリアルクセンブルクオランダ西ドイツによって2条約が調印され、: 欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EAEC)が設立される。
1959年 1月8日 シャルル・ド・ゴールフランス第五共和政の初代大統領に就任(-1969年4月28日、通算第18代)。第五共和政憲法では第三共和政第四共和政と比べて大統領執行権が強化された。
1962年 3月19日 8年間にわたるアルジェリア戦争が終結し、アルジェリアはフランスから独立した。
1965年 4月8日 合併条約欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州経済共同体(EEC)、欧州原子力共同体(EAEC)が欧州諸共同体に統合。
1967年 7月24日 シャルル・ド・ゴールの「自由ケベック万歳!」演説がフランスとカナダの間の緊張を引き起こした。
1968年 5月10日 - 6月 五月革命:「自由と平等と自治」を掲げた約1000万人とされるの労働者と学生がパリでゼネストを行った。
1969年 6月20日 ジョルジュ・ポンピドゥーがフランス第19代大統領に就任(-1974年4月2日)。
1974年 5月27日 ヴァレリー・ジスカール・デスタンがフランス第20代大統領に就任(-1981年5月10日)。
1981年 5月21日 フランソワ・ミッテランがフランス第21代大統領に就任(-1995年5月17日)。
1986年 2月17日 単一欧州議定書ローマ条約を大幅に改定し、1992年までに共通市場を成立させるとした。
1992年 2月7日 マーストリヒト条約:フランスを含む欧州諸共同体加盟国が署名し、欧州連合を創設した。
1995年 5月17日 ジャック・シラクがフランス第22代大統領に就任(-2007年5月16日)。
1998年 7月12日 フランスが地元で1998 FIFAワールドカップ優勝を果たした。フランスのFIFAワールドカップ初優勝となった。
12月31日 フランスのユーロ導入:ユーロ圏内でのフランス・フランとユーロのレートが固定される。

21世紀[編集]

日付 事件
2001年 全てのフランスのウェブページウェブアーカイブ化を義務化する法が成立[2]
2002年 1月2日 ユーロの紙幣・硬貨の流通およびフランス・フランとの交換が開始される。
2004年 3月15日 公立学校での宗教的標章の着用を禁止する法が成立。キリスト教ユダヤ教のシンボルも禁止するが、一般的にはヒジャブ規制法と知られている。
2005年 10月 - 11月 2005年パリ郊外暴動事件
2007年 5月15日 ニコラ・サルコジがフランス第23代大統領に就任(-2012年5月15日)。
2010年 9月14日 フランス元老院が「公共の場で顔を覆う服を禁止する」法を可決。同法は7月13日にフランス国民議会で可決されていた。フランス大統領ニコラ・サルコジは「フランスではブルカを受けいれない」と主張しており、同法はブルカニカーブの規制を主目的とする、とみられている。
2011年 3月19日 フランスがユニファイド・プロテクター作戦2011年リビア内戦に介入、ムアンマル・アル=カッザーフィーが追放された。カッザーフィーは同年10月20日に反カッザーフィー派部隊によって殺害された。
2012年 5月15日 フランソワ・オランドがフランス第24代大統領に就任(-2017年5月14日)。
2013年 1月11日 フランスがセルヴァル作戦マリ共和国に介入(-2014年7月15日)。
5月18日 フランスで同性結婚が解禁された。
2015年 1月7日 - 9日 シャルリー・エブド襲撃事件で警官2人や編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者ら合わせて、12人が複数の犯人に殺害された。[3]
1月10日 - 11日 フランス各地でシャルリー・エブド襲撃事件の犠牲者を悼むための大行進が実施され、フランス内務省は全国合計で少なくとも370万人に達したとの推計を発表した。
11月13日 パリ同時多発テロ事件ISILの戦闘員と見られる複数のイスラーム過激派のグループによる銃撃および爆発が同時多発的に発生し、死者130名以上を生んだ。
2016年 7月14日 2016年ニーストラックテロ事件が起こる。
2017年 5月14日 エマニュエル・マクロンがフランス第25代大統領に就任。

脚注[編集]

  1. ^ Buellesbach, Alfred. Battlescapes: A photographic Testament to 2,000 years of Conflict. Oxford: Osprey Publishing, 2009.
  2. ^ コーネル大学図書館 (2013年). “Digital Preservation and Technology Timeline”. Digital Preservation Management. 2016年3月6日閲覧。
  3. ^ Charlie Hebdo: Gun attack on French magazine kills 12”. BBC News (2015年1月7日). 2016年3月2日閲覧。