辛巳事件

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辛巳事件(しんしじけん)とは、神亀元年(724年)2月に聖武天皇が生母藤原宮子に対してによって与えられた「大夫人(ダイブニン)」の尊称が3月22日(辛巳)になって突如撤回され、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖(オホミオヤ)」とする詔が出された事件。

概要[編集]

続日本紀』によれば、神亀元年2月4日に元正上皇から皇位を譲られた聖武天皇は生母である藤原宮子を尊んで「大夫人」と称するとした勅を発した(ただし、『続日本紀』本文では勅が出された日を丙申(2月6日)、後述の事件の記事では勅が出されたのは4日とされている)。

ところが、3月22日になって左大臣長屋王議政官公式令によれば大夫人という称号は存在せず皇太夫人があるのみであること、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になるとして、天皇の判断を仰ぎたいとの上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖」とする詔を出して事態を収拾した。

この事件は、天皇の勅令が律令法の規定に反するとして撤回されたものとし、母法である唐の律令における皇帝権力よりも日本の律令における天皇権力の方が相対的に弱かったことを示すものと言われている。また、この事件をきっかけとして藤原四兄弟藤原氏)と長屋王(皇親勢力)との対立が激化したと見られている点でも注目されている。更に「大夫人」という尊称決定について、単に天皇が公式令の規定を知らなかったのではなく、臣下出身の生母に特別な尊称を与えてその格式を高めようとしたとする見方もある(この場合にも「大夫人」が本来律令法で定められた「皇太夫人」と同一の性格のものなのか、律令法の枠外で定められた全く新たな尊称なのかで意見が分かれる)。当然この決定はこうした動きを支持する宮子の実家である藤原氏と藤原氏の台頭を警戒する皇親や他の貴族諸氏との緊張を高めるものであったと考えられ、後の長屋王の変の布石となる事件であったと言える。

なお、『続日本紀』によれば、天平宝字3年(759年)6月16日に淳仁天皇の母当麻山背舎人親王未亡人)に「大夫人」の尊称が与えられている[1]。またこれとは別に、追贈尊称として橘三千代(『続日本紀』天平宝字4年8月7日条)や藤原乙春(『大鏡』)など天皇の外祖母(いずれも臣下)に対する号としても見られている。

脚注[編集]

  1. ^ 筧敏生は辛巳事件で否定された筈の「大夫人」の号が淳仁天皇の生母に対して問題なく認められていることから、「大夫人」の和訓も「大御祖」と同じ“オホミオヤ”であった可能性を指摘し、詔の文面にも関わらず発音上では藤原宮子を「大夫人」と呼ばせることに成功したと解する。

参考文献[編集]

  • 筧敏生「藤原宮子の大夫人号について」(『日本歴史』第423号(1983年)/補訂・所収:筧『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年) ISBN 978-4-7517-3380-6