羽曳野撓曲上の仁賢天皇陵- 羽曳野撓曲上の仁賢天皇陵, 雄略以後―河内から飛鳥への道 - My 古代史探検 -

羽曳野撓曲上の仁賢天皇陵

雄略陵への水路

 雄略天皇陵東南隅の取水口から南へ、暗渠になっている用水路沿いに歩いて行く。住宅が途切れた道の縁を見ると2〜3mの崖になっていて、古墳とそこへの水路は丘陵部東縁に沿っていることがわかる。用水路の標高は36〜37mでほぼ一定。これは以前調べた古市大溝の標高と同様で、用水路の源流は古市大溝から来ていると推測される。それ目当てにさらに行くと、見慣れた風景の中に入っていた。つまり、古市のイズミヤ西側の古市大溝発掘現場から上田池、下田池を伝って北方に流れ、大きく西に曲がる所、中ノ池の側まで来ているのだった。

上中:雄略陵からの崖上の道(暗渠の水路がある) 同右:中ノ池に向かう水路 下左:南北から東西に直角に曲がる水路 同右上:中ノ池に向かう水路 同下:中ノ池の水門から水路に水が流れる

中ノ池ふたたび

 中ノ池は、古くより野中村、藤井寺村の田畑に水を供給する両村所有のため池だが、中ノ池が満水の時、北へ流し雄略天皇陵の外濠に繋げ、岡村の灌漑用水として利用された。村同士が申し合わせをしていたが、どうしても不利な岡村とは何度も水争議があった。前回は北へ伸びる水路の意味が分からず不思議だったが、雄略陵への水路だと分かって、謎が解けという思いだ。

左:中ノ池(北から南を見る) 右:中ノ池(南から北を見る)

 中ノ池の堤上には一列に何軒か住宅が建つが、その東側は急崖。中ノ池の南側もストンと落ちていて、この崖下に沿って南方に水路が付いている。MY古代史探検「古市大溝を探る」では、この水路が古市大溝の水路跡と考えたが、標高は33m程度で、36mの中ノ池に水を流せない。古市大溝は石川取水口からここまでずうっと標高36mを維持していると考えられるので、本当は36mの高さの崖上を流れていたはずだ。崖上に本当の川跡はないかと、大きく西に回り込み、中ノ池の西側に広がる墓、野々上共同墓地に入ってみた。墓地の中をくまなく探してみたが、中ノ池に流れ込みそうな水路の形跡は見当たらない。排水口は中ノ池の西北側に水門が作られていて、先ほどの暗渠の用水路を伝って御陵まで行っているのは確認した。果たして取水口はどこになるのか、わからぬまま悶々しながら、次へと進むことにする。

上左:中ノ池から南に向かう崖下の水路 同右上:中ノ池周辺の空撮 同下:崖下の水路(南から見る) 下左上:野々上共同墓地 同下:堺羽曳野線を越え南に向かう崖下水路 同右:昭和36年の空撮。中ノ池から南方に池跡が見られ、それらを繋ぐと古市大溝の水路が推定される

古市大溝水路を推定する

 崖下の水路はさらに南方に伸び、下田池、上田池へとつながるが、両池の間に割り込むような形で位置するのが仁賢天皇陵だ。そこではたと思い付いた。上田池、下田池と中ノ池が古市大溝としてつながっていたとされるわけだが、下田池の東側堤が北方への延長線上に伸びていて中ノ池の堤と標高36mを維持しながらつながっていたに違いない。現在は、高さ3m程度のコンクリート護岸の崖下に幅1.5m程度の用水路が流れているが、この真上を古代の大溝が流れていたのではないか。恐らく標高36mにあった大溝と土手の分が削られ、その上部が嵩上げと地盤強化され住宅地化されたのではないか。その契機は、大阪府道31号堺羽曳野線の工事の時、恐らく昭和40年代だろうが、その時地形が大きく変更されたとみられる。水路は31号線の下を潜り、同様のコンクリート壁の下を流れ、さらに南方の下田池までついている。

羽曳野撓曲とは

 後に調べたことだが、雄略天皇陵の東側の崖下、御陵への用水路が通る道から東へ降る坂、中ノ池の東側の崖、今見たコンクリート壁、さらに下田池・上田池をつなげる堤の土手は、羽曳野撓曲(とうきょく)と呼ばれる崖なのだ。羽曳野丘陵東縁に沿って南北に断層が走っていて、断層の上の柔らかい地層が撓(たわ)み曲がってできた緩やかな段差地形が撓曲で、藤井寺から河内長野方面までほぼ15kmも続いている。雄略天皇陵をはじめ、後に訪れる仁賢陵、清寧陵などがこの撓曲上に位置している。また、羽曳野市に走るもう一つの断層、誉田断層上に応神陵、仲姫皇后陵、允恭陵が並ぶ。古市古墳群はこのような断層が作る地形上に並んでいるのである。羽曳野撓曲の北から南まで歩いて、この地形を巡る古代史の変遷について心ゆくまで探検したいなあ、と次なるテーマが出てきてワクワクするのだが・・・・・・。

巨大施設としての古墳

 下田池の堤を歩いて行くと、仁賢陵の森がだんだん大きく見えてくる。池の淵には鯉か鮒か、大きい魚が群生し、その側にはカモの群れがのんびり羽を休めている。東の彼方には二上山が均整の取れた姿を見せる。ビルや鉄塔やアスファルト道路がない古代には、生駒から二上・金剛・葛城の山々と石川が造る河内平野の雄大な風景が広がっていた。その中に巨大な古墳が丘陵麓にポツンポツンとあり、それらは周りの自然風景から屹立して見えていただろう。人工物で覆われた現代とは違って、古墳のみが巨大な人造の施設であって、よく目立ったに違いない。

上左:下田池北端から仁賢陵の森を望む 同右上:仁賢陵 同下:下田池北堤に建つ道標。葛井寺、槇尾山、大坂、高野山、大和郡山などの地名が見られる(文化11年銘あり) 下左:池越しに二上山が遠望できる 下中:水辺に鴨が遊ぶ 同右:1982年の空撮

 もう一つの人造施設は運河で、イズミヤ駐車場には幅40m 深さ4m、長さ200mにも及ぶ古市大溝が発掘された現場がある。そこから大溝は西へ伸び、上田池につながっていて、仁賢陵の後円部と接しながら北へと流れていた。大溝の滔々とした流れとともに、水面に映り出される仁賢陵の雄大な姿が、ここを旅する人々を魅了したに違いない。

仁賢天皇

仁賢天皇埴生坂本陵(野中ボケ山古墳)

上左上:仁賢陵後円部 同下:前方部右側から後円部を見る 同右:前方部全景 下左:前方部左側から後円部を見る 同右上:前方部左側から前方部を見る 同下:前方部の中央部

 拝所に戻り、入り口に向かう坂道を西方へ上がると、藤井寺方面に行く時よく利用する道に出てくる。拝所の標高が38m、この道が43mなので仁賢陵の全体を見下ろす形になり、大きな墳丘の印象になる。前方部幅が107mであるからで、墳丘長200mの白鳥陵と同じ前方部幅(106m)で、高さも13mあり、西から見たボリューム感はかなり大きい。この道のさらに高いところ、羽曳野撓曲の崖上、標高48mを行く道が竹内街道であるが、古来この街道を行く人々に、少しでも大きく見せようとしたのに違いない。

上左:仁賢陵周辺の標高マップ 同右上:仁賢陵拝所 同下:仁賢陵入口から前方部を見る 下左上:竹之内街道 同下:羽曳野撓曲の崖の上を街道が通る 同右:竹之内街道(標高48m)から仁賢陵を望む

応神・仁徳以後の古墳

 応神陵(425m)、仁徳陵(486m)で巨大化のピークを迎え、その後土師ミサンザイ古墳(300m)、允恭陵(230m)、白鳥陵(200m)、雄略陵(245m)といった大王墓が続くが、その規模は仁徳陵の3分の2、2分の1に縮小する。墳丘規模が縮小したことで、大王権力が弱体化したということではない。雄略帝が活躍した5世紀後半には、鉄器生産、馬匹生産、須恵器生産などが大きな高揚期を迎え、むしろ国力は応神・仁徳期より増進したと考えられる。それをバックに雄略帝は中央集権化を進め、全国の豪族を統括していく。

左:応神陵・仁徳陵をピークに古墳は小さくなる 右:雄略陵以降、規模を縮小した古墳は古市古墳群の南部に並ぶ

 国力が増したのに古墳が小さくなったことは、古墳築造に関する考え方が変わったことだ。応神・仁徳期には、大規模な古墳造築と鏡や甲冑、刀剣など鉄製品を大量に埋葬することで権力の偉大さを見せつける必要があった。すでに自前の鉄生産ができた5世紀後半には鉄製品は威信材でなく、また中央集権化を果たしていた雄略帝の頃は権力誇示のために大古墳を造る必要もなくなっていた。

横穴式石室の死生観=黄泉の国

 5世紀末から6世紀にかけ、峯ヶ塚古墳(96m)、仁賢陵(122m)、清寧陵(115m)、安閑陵(122m)など、古墳規模は縮小されていくが、各在位時期と同時期の他地域の墳墓と比べ最大規模であることから大王墓と認められる。また古墳の内部構造として横穴式石室が採用されており、それまでの三段築成から二段築成となり、上段は横穴式石室を覆う盛土で傾斜角度が大きくなり、腰高な印象を与える。また、全体表面を覆う葺石が無くなる。横穴式石室の採用で後円部が小さくなるが、前方後円墳としての見かけの巨大さを維持するため、前方部幅を拡大することになる。その典型が仁賢陵と清寧陵と言える。さらに、竪穴式石槨では亡くなった王はその中に閉じ込まれ、共同体を護る神になると観念されていたが、横穴式石室の死生観では、死者の霊魂は肉体から離れ黄泉の国に向かい、そこで生活するとされた。その副葬品は、黄泉の国で必要な食器類として多数の須恵器、きらびやかな金銅製馬具やガラス容器、装飾性の高い金銀装の太刀や金銀製の装身具などが多くなる。このような状況から、王の権威を見せつける政治的記念碑から王個人を偲ばせるような上質な墓へと変換していったと考えられる。(探検日:2024.3.30)

投稿者:

phk48176

古市古墳群まで自転車で10分、近つ飛鳥博物館まで車で15分という羽曳野市某所に住む古代史ファンです。博物館主催の展示、講演会、講座が私の考古学知識の源、それを足で確かめる探検が最大の楽しみ。大和、摂津、河内の歴史の舞台をあちこち訪ねてフェイスブックにアップします。それら書き散らしていたものを今回「生駒西麓」としてブブログにします。いろいろな意見をいただければ嬉しいです。

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(4)件のコメント

  1. 田中弘一

    私にとっても地元になる南河内郡を詳しく教えていただきありがとうございます。
    今後ともよろしくお願いします。

    1. phk48176

      コメントありがとうございます。いつか、羽曳野撓曲を端から端まで探検したいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

  2. 柿澤和代

    地形と水路、古墳の関係大変勉強になります。実際に足で確かめられ臨場感があります。御本にしていただきたいです。

    1. phk48176

      コメントありがとうございます。歩くとわからないことがいろいろ出てきて、調べ物が増えます。まあ、ボチボチです。これからもよろしくお願いします。

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