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イギリスの歴史 グレートブリテン及びアイルランド連合王国

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イギリスの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 13:23 UTC 版)

グレートブリテン及びアイルランド連合王国

グレートブリテン及びアイルランド連合王国の成立

イングランド、スコットランド及びアイルランドの国旗を基にしたイギリスの国旗

アイルランドは中世以来、イングランドがしばしば征服し、植民を行ってきたが、アイルランドのケルト系住民は文化的、宗教的にイングランドに同化されることはなかった。イングランドはイングランド系住民のアイルランドでの優位性を保つために、カトリック刑罰法英語版を制定して、在地アイルランド人と支持層であるイングランド人の差別化を図った。カトリック系のアイルランド人は16世紀のジャコバイト反乱を通じてカトリックに理解を示すジャコバイトに加担することでアイルランドの地位向上を図ったが、これは結果としてイングランドのアイルランド支配の強化に繋がった。

18世紀にアメリカ独立戦争が起こるとイギリスは北米対策に翻弄され、アイルランド対策に隙が生まれることになり、この間アイルランド議会の地位は著しく向上した。続くフランス革命では、これに呼応することによってアイルランドの地位を向上させようとする政治運動が活発になった。これに危機感を持ったイギリスは、カトリック解放とバーターで1800年の合同法を成立させ、アイルランド議会をウェストミンスター議会に併合させることにした。これがグレートブリテン及びアイルランド連合王国の成立である。

本来ウェストミンスター議会との併合とバーターであったはずのカトリック解放が実現するのは、1829年のカトリック解放令英語版の成立を待たなければならなかった。また、アイルランドの爵位を持っている場合でも、他の地域における爵位を併せ持たない場合は上院に議席を認められないなど、他の地域と比べ低い扱いを受けていた。

ナポレオン戦争

革命戦争

アメリカ独立戦争の影響は、ヨーロッパ各国にも波及した。その最たるものがフランス革命である。イギリスは革命戦争に対して第一次第二次対仏大同盟に参加したものの大陸の大変動に対する干渉は比較的限定されたものになった。フランスの軍港トゥーロンを攻撃し、亡命貴族を受け入れた程度である。これは経済的にはアメリカ独立戦争の敗戦からの回復期にあたること、政治的にイギリス政権内部でも革命に対して理解を示す層がある程度存在したためである。

フランスと地続きで王を処刑されたことに恐怖を感じていたオーストリア、プロイセンなどの大陸諸国と、海を隔てた上に市民革命において王を処刑した経験を持つイギリスでは温度差があった。思想的にイギリス革命で王権神授説を否定し、これを論理的に肯定したジョン・ロックの思想はフランス革命の思想に影響したジャン=ジャック・ルソーシャルル=ルイ・ド・モンテスキューと言った啓蒙思想家に一定以上の影響を及ぼしていた。このように思想的にフランス革命を肯定できる下地がイギリスには存在した。

エジプト・シリア戦役

こうした状況の大きな転換点となるのがナポレオン・ボナパルトの登場である。ナポレオンの登場は大陸のミリタリー・バランスを大きく崩し、第一次イタリア遠征を終えオーストリア帝国を打ち破ると、当時のフランス総裁政府も軍事上の次の軍事的脅威をイギリスと捉え、ナポレオンを対英方面司令官に任命した。といっても当時のフランスにとってドーバー海峡を渡ってイギリスに直接侵攻するということは非現実的な議論であり、この職への就任は事実上の左遷であった。しかしイギリスの脅威に対抗することも又必要であったため、ナポレオンはイギリスと、イギリスの植民地であったインドの連絡を絶ち、イギリスを経済的に疲弊させることを目的としてエジプト遠征を決意した。これがイギリスにとってのナポレオンとのはじめての直接対決であり、以降17年間続くナポレオン戦争の実質的な幕開けであった。

1798年、ナポレオンはエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いカイロを陥落させると、シリア方面に転じヤッファアレクサンドリアでイギリス陸軍を打ち負かした。しかしアッカの戦いでイギリス・オスマン連合軍に敗れ、次いでナイルの海戦で補給を担当するフランス艦隊が、ホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に大敗、遠征の維持に補給の不安を抱えたため、当初の目的であるイギリスとインドの遮断は達成できなかった。一方大陸においてフランス軍が劣勢に立たされ、総裁政府への支持が急落したため、ナポレオンは遠征を中止してフランスへ帰国した。

ヨーロッパ戦役

トラファルガーの海戦

フランスへ帰国したナポレオンは、ブリュメール18日のクーデタで政権を掌握、統領政府を発足させ、フランス共和国第一統領に就任した。ナポレオンはその後、第二次イタリア遠征を行い、再びオーストリアを屈服させ、次の矛先を再びイギリスに向けた。この後英仏関係は、講和へ向かい1802年アミアンにおいて一時的な和約(アミアンの和約)が成立した。一時的に平和が訪れたかと思われたが、早くも翌年には相互にアミアンの和約が遵守されていないと非難しあう事態となり、早々にこの和約は破棄されてしまった。

更に翌1804年にナポレオンがフランス皇帝に即位すると、ヨーロッパ各国はこれを危険視し、再び対仏大同盟を結成した。以降ナポレオン戦争の性格はフランス王政を復活させ、アンシャン・レジームに戻す事から、次第にナポレオンを追放することを最終的な目標とする方向へと変わって行った。イギリスではナポレオンが皇帝に即位した事からフランス革命に共感する対仏穏健派の勢力が後退し、1804年に対仏強硬派のウィリアム・ピット(小ピット)が政権に立ち反ナポレオン色を鮮明にしていった。1805年、ナポレオンの大陸軍アウステルリッツの戦いにおいてオーストリア、ロシア帝国を打ち負かしたもの、海軍トラファルガーの海戦で、ネルソン率いるイギリス海軍に壊滅させられた。以降フランスの覇権は大陸に限定されたものとなり、ついにナポレオンはイギリス本土に攻撃の手を加えることは不可能となった。

1806年イエナの戦いアウエルシュテットの戦いプロイセン王国軍を、翌年フリートラントの戦いでロシア軍を大敗させると、フランスは次の手としてイギリスをヨーロッパから孤立させるべく大陸封鎖令を発動し、イギリスの経済的孤立を画策したが、これは全くの逆効果で、かえってイギリスとの経済交流の場を喪失した大陸諸国の方が疲弊する結果となった。一方イギリスは反ナポレオン闘争に積極的に加担するようになり、ポルトガルスペインにおける対仏ゲリラ戦を援助することになった。

ワーテルローの戦い

こうした中で1812年ロシア遠征が失敗に終わると、大陸各国は一斉にナポレオンに対して反抗に転じた。イベリア半島戦争でも1813年、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス陸軍がヴィットーリアの戦いに勝利し、最終的にイギリスの勝利で幕を閉じた。東では同年ライプツィヒの戦いでフランス軍が大敗、1814年には連合軍がパリに入城し、ナポレオンをエルバ島へ追放した。

ナポレオン戦争後のヨーロッパの枠組みを話し合うべくウィーン会議が開かれたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず。」と言われる状況であり、各国の利害が対立して会談が終結する見通しすら立たなかった。こうしたヨーロッパ各国の対立の空白を狙って、エルバ島からナポレオンが脱出。瞬く間にパリに駆け上がり、帝位に返り咲いた。ヨーロッパ各国は一旦対立の矛先を収め、ナポレオンを再びヨーロッパから追放することで結束。オーストリア軍は北イタリア、及びライン川方面に、プロイセン軍とイギリス軍はベルギーに展開を始めた。この時ベルギーでイギリス陸軍を率いていたのが、イベリア半島からフランスを追い出したウェリントンである。フランス軍と会敵したウェリントンは、後退させられながらもプロイセン軍の合流を受け、フランス軍を敗走させることに成功した。これがワーテルローの戦いである。ナポレオンは再び退位させられ、イギリス領セントヘレナ島へと追放された。

英露戦争

1807年7月にロシアが皇帝ナポレオン1世支配下のフランスとティルジットの和約を締結したことから、イギリスとロシアとは敵対関係に立つことになり、ナポレオン戦争と並行してバルト海において、1807年から1812年までイギリスとロシアとの間で英露戦争が勃発した。両国は1812年、エレブルー条約英語版で和解した。

米英戦争

ナポレオン戦争中の1812年6月から1815年2月にかけて、カナダの植民地においてアメリカ合衆国米英戦争の宣戦布告を受け、北アメリカ東部および中部、メキシコ湾岸、大西洋および太平洋において、イギリス軍・カナダ軍・インディアン部族が連合して戦いを実施した。アッパー・カナダでのジョージ砦の戦いにおいて敗退し、ガン条約によって講和した。

ウィーン体制

ナポレオン追放後のヨーロッパは、自由主義民族主義を抑圧して旧秩序の維持を目的とした反動的なウィーン体制下でスタートした。これを国際関係下で維持するべく四国同盟とこれを補助する神聖同盟が締結され、イギリスはオーストリア、プロイセン、ロシアと共にこの体制維持に努力した。又ウィーン体制下では各国の勢力均衡を図るために領土の交換が行われ、イギリスはオランダからセイロン島ケープ植民地を得、又ナポレオン戦争中維持した、マルタ島領有を認められた。この反動的な体制は国際的には1848年革命まで維持されたと理解される。

一方で、この期間(1816年 - 1848年)にも自由主義的、民族主義的運動を支持し、ウィーン体制とは一線を画そうとした動きも見られた。この最たるものはイギリスの外相ジョージ・カニングによる外交政策である。先ず第一点はフランス革命の思想的影響を受け、ナポレオン戦争でヨーロッパ本国の影響が薄れたのを期に相次いで起こったラテンアメリカカリブ海諸国の独立をイギリスの市場拡大を狙って支持したことである。第二点がギリシャ独立戦争を支持したことである。特にギリシャの独立運動が活発化した1830年代はウィーン体制が動揺した時期であり、イギリスは外交的な自由主義政策ばかりではなく、内政でも穀物法の緩和やカトリック解放令の公布など自由主義的な政策を実施した。

産業革命の発展

世界初の産業革命をもたらしたジェームズ・ワット蒸気機関

イギリスでは世界に先駆けて18世紀から蒸気機関の開発、改良を契機にして工場制機械工業の発達が促され18世紀の中ごろから産業革命が進展した。これに伴い、奴隷制度廃止運動も盛んになり、1807年にイギリス議会で奴隷貿易法英語版が成立し、当初は規制が緩かったものの、イギリス帝国全体で奴隷の貿易が違法とされた。

最初に工業化したのは軽工業である綿織物の分野で、これは元々イギリスの主要産業の一つであった。蒸気機関を動力とした織機紡績機の機械化とイノベーションが促され、工場での大量生産が可能になった。軽工業段階では資金はそれほど必要としなかったものの資本の一つとして安価な労働力を必要とした。又動力源となる石炭を採掘する炭鉱や、これを運び出す積出港、綿布の原料となる綿花を引き受ける貿易港でも、労働力を集中させるだけの需要が生まれた。このように労働力が集中した工業都市は中世都市をベースにして近代都市に発展した。一方でこうした都市間を結んで原料を大量に流通させるシステムが必要とされるようになった。こうして生み出されたのが鉄道で1825年に最初の鉄道がリバプール - マンチェスター間に施設された。

こうした社会的な変動は、社会制度そのものに大きな変化をもたらした。資本家が欲した安価な労働力はかねてから進行していた囲い込みと連動して従来の農村のコミュニティを崩し、その余剰人口を引き受けることによって生み出された。こうして都市では労働者という新しい社会階層を生み出すことになった。こうした労働者が大量に工業都市に集中することによって都市化が進展した。こうして人口が爆発的に増加した都市として、イングランドのリバプールマンチェスターバーミンガム、スコットランドのグラスゴー、ウェールズのカーディフなどがある。また労働者の集中によって引き起こされた都市化は、農村コミュニティに代わって、職場や学校を中心とする新しい都市のコミュニティを形成させることになった。

経済的には資本家による資本の蓄積が始まって、初期の資本主義形態は産業資本主義に進展した。拡大再生産を継続する産業資本主義はイギリスの外に新しい市場と、原料の供給地を求めることになった。これに刺激され19世紀イギリスでは帝国主義の発展が見られるようになった。

労働の変遷と都市化によって、社会形態は劇的に変化した。資本家と労働者は分化し、双方の間には労働問題が発生した。1810年代には機械化そのものに反発するラッダイト運動がイギリス各地で発生した。19世紀半ばには労働者の地位向上を実践したロバート・オウエンが現れた。これと同時期には更に急進的な主張が表れた。カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスは1848年にロンドンで生産手段の国有化を謳う共産党宣言を発表した。

議会政治と民主主義の発達

チャーティズム

ナポレオン戦争での勝利は、イギリス国内ではフランス革命に共感していた知識人と産業革命で勃興しつつあった資本家と労働者たちへの反動政権の勝利でもあった。この内政的な反動体制は1832年まで続いた。

この年の選挙法改正英語版によって小売店主の線まで拡大したが、依然として懸案であった腐敗選挙区はほとんど野放しのままで、法改正の恩恵からもれた大多数の勤労者たちはさらなる選挙権拡大をめざし、政治運動を展開することになった。これがチャーティズム運動である。チャーティズム運動は政治参加への要求だけではなく、飢餓にさらされていた労働者たちの熱望をかき立てることに成功した。彼等の運動は男子普選や腐敗選挙区の解消を骨子とした1838年の「人民憲章英語版」の策定に結実し、以降1842年1848年の大規模なデモンストレーションに発展した。

既成政党であったホイッグ党トーリー党は、1832年の改正でほぼ満足した資産家・中産階級を味方にしてチャーティズムを押さえようと試みた。この試みは成功し、チャーティズムの運動は、1848年革命に呼応した最後の大規模なデモンストレーションの後に沈静化した。

自由党・保守党の誕生

1830年代まで、ホィッグは中産階級の急進派、産業資本家を支持基盤としており自由貿易に対して積極的であった。一方のトーリーは農業や土地に基礎をおいた貴族や地主層に支持基盤を置いていて、保護貿易を志向していた。ホィッグもトーリーもこの時点までは、これらの支持基盤や政策的志向を一定度共有する議員グループ以上の存在にはならなかった。

1835年に行われた総選挙英語版で、トーリーの有力議員であったロバート・ピールは自身の選挙区の有権者に対してタムワース・マニフェスト英語版を示した。これは政権公約という意味での最初のマニフェストであった。タムワース・マニフェストがこれ以上に重要なのは、このマニフェストが同年にトーリーの綱領として採択された事にある。これによってトーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である保守党へ脱皮した。

ピールは1841年に首相に就任し、1846年穀物法を廃止した。続くホイッグの首相ジョン・ラッセルの下で、1849年には航海法が廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として自由党が成立した。

この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にしてイギリス議会政治が発展した。この間の自由党の最有力政治家はウィリアム・グラッドストンであり、保守党のそれはベンジャミン・ディズレーリであった。彼ら有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念を充実させた。

この議会政治と平行して、選挙法の改正が1867年1884年1918年1928年と行われた。1867年の選挙法改正英語版では都市部労働者に対して選挙権が付与され、有権者の総数は200万人程度まで増えた。1884年の選挙法改正英語版では地方の労働者に対して選挙権が与えられ、有権者は440万人まで増えた。

労働党の誕生

67年と84年の選挙法改正によって、選挙権は労働者まで拡大した。これによって従来の既成政党である自由・保守以外でこれら労働者の支持の受け皿として労働者政党を結成しようとする運動が19世紀末に起こった。1884年に結成されたフェビアン協会を母体として1906年に「労働党」が成立された。労働党は同年緒総選挙で26議席を獲得し議会勢力に足場を築いた。続く1910年の総選挙ではアイルランド問題の解決に取り組む自由党と連立し政権入りを果たした。

帝国の最盛期

イギリス帝国統治下の経験を有する国・地域。現在のイギリスの海外領土は赤い下線が引いてある。

対仏戦争終了後、ヨーロッパのみではなく各国植民地の地図は一変した。フランスは当面の間、四国同盟によって封じ込められ、スペインポルトガルの植民地は程なく独立し、オランダケープ植民地をイギリスに奪われた。産業革命によって得た経済的優位性を得ていたイギリスはナポレオン戦争勝利によって覇権を確たるものとしたのである。

中南米

アメリカ合衆国大統領モンローの「宣言」とともにラテンアメリカ諸国の独立を支えた外相カニングの不干渉政策は宗主国と切り離した植民地を衛星経済化しようとの意図に基づいたものであったが、新世界のミドルクラスたるクリオーリョたちは旧弊な元宗主国よりも、イギリスの自由主義に引きつけられた。そのため、独立後のラテン・アメリカ諸国はイギリスへの依存を強めていった。独立当初の奴隷制独裁など、前近代的な要素を残した現地社会はイギリスにとって必ずしも市場としての条件を揃えていた訳ではないが、イギリス人の移入とともに徐々に生活のイギリス化が進行し、19世紀後半までにはラテンアメリカ諸国は総じて良い市場へと成長したのであった。

アジア

三角貿易の要であったインドインド大反乱を期に、東インド会社の手からイギリス政府の手へと取り戻され、インド帝国として生まれ変わった。運営自体が本国植民地省と総督の手に委ねられたことによって、インドは名実ともにイギリス帝国の最重要植民地となった。

この後、19世紀末から20世紀前半にかけて、列強間の植民地獲得競争が激しさを増し、それに伴い帝国のコストは重くイギリスにのし掛かるようになった。これをインドの阿片栽培で賄いイギリス帝国全体の赤字を相殺し財政を健全化した。こうしてインドはいわば帝国の維持機関としての役割を担うことになった。

インドの阿片は主に中国で売買され、これは1840年との間で起こった阿片戦争のきっかけになった。阿片戦争とこれに続く1857年アロー戦争によって、イギリスは極東の中継貿易地である香港を手に入れ、さらに中国大陸の経済的利権も獲得して中国の半植民地化に先鞭を付けた。

アフリカ

18世紀末のナポレオンのエジプト遠征や、19世紀前半のギリシャの独立運動はオスマン帝国に動揺をもたらし、この結果属領であったエジプトの独立運動を促すことになった。1830年代にエジプトはムハンマド・アリーの指導の下に実質的な独立を果たした。新興エジプトは近代化を画策してフランスとともにスエズ運河の建設に乗り出すが、膨大な建設費によって財政は破綻し、経済的にイギリスの支配を受けることになった。1882年アフマド・アラービーの対英反乱であるウラービー革命が鎮圧されるとイギリスはエジプトを保護国化した。

帝国主義の対立

ヴィクトリア朝」と呼ばれる治世を築いたヴィクトリア女王

19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパはイギリスのヘゲモニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、古代のパクス・ロマーナに習い、この時期を称してパクス・ブリタニカ(Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ぶ事がある。五賢帝時代のように、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、シティには世界中から資本が集まり「パクス・ブリタニカ」と呼ばれるほど平和裏に各国に影響力を行使することができた。(1872年当時のイギリスの様子は日本の岩倉使節団の記録である「米欧回覧実記」にも詳しく記されている[1]。)しかし、フランスとのアフリカに場所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代である。

1901年1月22日のヴィクトリア女王死去後、ハノーヴァー朝からサクス=コバーグ=ゴータ朝となり、エドワード7世国王が即位した。この後、外交面では1902年1月30日に、ロシアの南下政策に対抗するため利害関係の一致による目的により日本と日英同盟を締結した。この後、日本はロシアとの日露戦争においてアメリカ政府共和党セオドア・ルーズベルト大統領)の仲介も貢献した講和成立により勝利を果たした。その後、日本との軍事同盟は第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新された。

1910年5月6日にエドワード7世が死去し、ジョージ5世国王が即位した。

第一次世界大戦

端緒

三国協商三国同盟

19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、フランスによって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランスと英仏協商を、ロシア英露協商を結んで三国協商とし、ドイツオーストリアイタリア三国同盟に対抗しようと試みた。1914年サラエヴォ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国次期皇位継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入した。

当時の首相のハーバート・ヘンリー・アスキスは、1914年8月4日にドイツが中立国ベルギーを侵略したことに対して対独宣戦することを決意した。連合国の一員としてイギリスはフランスに大陸遠征軍を派遣、フランス、ベルギー軍と共に西部戦線でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦のマルヌ会戦でドイツ主導の短期決戦計画が破綻すると両軍とも北海からアルプスまで至る塹壕を掘ってにらみ合い、西部戦線は膠着状態に陥った。

また、サクス=コバーグ=ゴータ朝であった王室は、敵国となったドイツ語由来の名称を嫌悪し、ウィンザー朝と改称し在位中のジョージ5世が初代君主となった。

初期

膠着した戦線で連合軍、中央同盟軍は互いにしばしば攻勢をかけ戦線の突破を企てたが、これらの企みはほぼ全てが多数の死傷者を出しただけで終わり、全く前線を前進させることは無かった。

イギリスが担当するイーペルでは大戦中イギリスとドイツでイープルの取り合いを数度繰り返した挙句、双方で50万人以上の死傷者を出した。しかしイープルの戦いは街を廃墟にしただけでイギリスにもドイツにも何ももたらすものが無かった。また、1916年のソンムの戦いではフランス軍と共同し、新兵器の戦車を投入するなどしてドイツ軍の前線に攻勢をかけ戦線突破を図ったが、攻勢を開始した7月1日だけでもイギリス軍は2万人近い戦死者を出した。

こうした前線の失敗は西部戦線だけでなくトルコでも起こった。1915年イギリス軍はANZACカナダ軍と共同でトルコ上陸を目指したが作戦は見事な失敗に終わった。これがガリポリの戦いでイギリス軍を主力とする連合軍は4万人以上の戦死者と倍近い負傷者を生み出したがトルコを陥落させることはできなかった。

ガリポリやソンムでの戦いが多大なる犠牲を出しながらも何も得ることが無かったということが判明するとイギリス本国では政変となった。首相のアスキスはその座を引きずり下ろされ、代わって陸相のデビッド・ロイド・ジョージがその後を襲った。この時の政変が戦後のクーポン選挙の遠因になっている。

総力戦

第一次世界大戦は人類史上初の世界的規模で展開した未曾有の総力戦となった。この経験はイギリスに限らず、ヨーロッパ全土に歴史的な影響を残した。総力戦では国家の持てる軍事力以外にも、工業力、経済力、外交能力などあらゆる能力が全て戦争に動員される。

外交面ではドイツの背後にある同盟国トルコを倒すために、戦後の中東地域の枠組みに関する約束手形を乱発した。そのうち将来パレスチナ地域にユダヤ人国家の設立を約束したのが、バルフォア宣言アラブ人のトルコからの独立を約束したのが、フサイン・マクマホン協定、ロシア、フランスとの間で中東利権のドイツの排除と再分割を約したのがサイクス・ピコ協定である。これらの協定は戦後の中東地域の混乱を増大させる要因ともなった(イギリスの三枚舌外交と呼ばれる)。

終結

1918年11月11日ドイツと連合国の休戦協定が締結され、第一次世界大戦は終結した。イギリスを含む連合国の勝利に終わった。翌1919年6月28日に対ドイツの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印され、1920年1月10日に発効された。

この戦争は、イギリスとフランスの敗北によって対英仏債務の回収ができなくなることを恐れたアメリカ合衆国が、長い孤立主義を破ってヨーロッパの戦争に参加するということで軍事的には解消された。結果として戦争には勝利したものの長期間に及ぶ総力戦によって国力が疲弊したイギリスにも影が落ち始めた。特に、かつての自国領の植民地でもあった新大陸の若年国アメリカの援助抜きで戦争を勝利に終わらせることはできなかったということは、19世紀から20世紀のはじめまで、ヨーロッパはもとより世界的規模でリーダーシップを発揮し続けたイギリスが徐々にその地位をアメリカに奪われていき、その座から崩れ落ちていくことを示していた。


注釈

  1. ^ 年金掛け金を年3.2%増、2020年までに年金受給開始年齢を現行60歳から66歳に引き上げるなどを提案

出典

  1. ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・2』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年
  2. ^ 英ソ軍事同盟条約に調印(『朝日新聞』昭和16年7月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p394 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  3. ^ 英、対ソ戦停止を拒否した三国に宣戦(『東京日日新聞』昭和16年12月7日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p398 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
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  6. ^ 英国:公務員が24時間スト 年金改革に抗議 毎日新聞 2011年12月1日
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  24. ^ 天皇皇后両陛下 エリザベス女王国葬参列 ~皇室と英王室の絆~”. NHKニュース (2022年9月22日). 2023年3月1日閲覧。
  25. ^ U.K. Prime Minister Liz Truss announces resignation after 44 days in office”. The Washington Post. 2022年10月20日閲覧。
  26. ^ 英 スナク新首相就任 42歳5か月は英首相で20世紀以降最年少”. NHKニュース (2022年10月26日). 2023年2月28日閲覧。





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