列伝編25/御落胤その噂と真相の間 - ヤジ馬の日本史

ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

列伝編25/御落胤その噂と真相の間

多分ちょっとしたシャレのつもりだったのでしょうが、顔見知りのオジサンが
こんなセリフを吐きました。 
~拙者の趣味は御朱印、そして生い立ちは内を隠そう、ご落胤なのだ~


御朱印と御落胤ってかぁ。
発音が少し似ているというだけのその対比には、とてもじゃないがセンスが
感じられなくて、あぁつまらん。
しかしまあ、そういうことなら、あれこれツコミを入れないのが大人の態度という
ものでしょうから、筆者もそこは善意を見せて敢えてスルーしておきました。


しかしまあ、折角の機会ということもあって念のために、その御朱印と御落胤の
説明にも触れておくことにした次第です。
こうした行動こそは、筆者も結構なヒマ人であることの証なのかもしれません。


それはさておき、まずは「御朱印」の方に触れてみると、
~神社仏閣を参拝した証として寺社から受ける印影のことで、それには朱色が多いが、
 カラフルな印影もある~

とされ、さらには、
~志納金や初穂料として数百円を納めて、和紙を綴じた御朱印帳に押してもらうのが
 一般的だが、押印した御朱印が配られるケースもあり、また御朱印の押印と併せて、
 寺社の名称や本尊、参拝日を墨書きしてもらうことも多い~


そして、最近の状況についても触れています。
~スタンプラリー的な要素があり、旅の記録にもなることから人気を集めている。
 しかし、ブームの過熱と共にインターネット上での転売や、寺社でのマナー違反
 などが問題となっている~

こうした状況もあるようですので、御朱印趣味の方は十分にご留意ください。


    

    熱田神宮/ 御朱印帳 & 御朱印



で、不公平にならないよう続いてもう一方の「御落胤」の方も覗いてみました。
~ 身分の高い男が、正妻以外の身分の低い女性に産ませた子のことで、
 「落とし胤」(おとしだね)とも言う~


そういうことなら、この「御落胤」を噂された人物は、歴史の上にも枚挙に暇がない
ほどに登場しているはずです。
そこで今回は肩の力を抜いて、そうした噂の挙がった人物を覗き見趣味もどきの
まっこと無責任な興味本位の目線で眺めることにしました。


えぇ、ツッコミを受ける前に繰り返しておくなら、筆者はやっぱり結構なヒマ人という
ことになりそうです。
という流れがあって、その筆者の頭に真っ先に浮かんだ人物が藤原不比等
(659—720年)でした。


こんな説明になっています。
~律令国家成立期の政治家であり、内大臣・中臣(藤原)鎌足(614~669年)の第二子。
 史(ふひと)とも書く~

では、どなたの御落胤と思うのか?


そんなもん、もちろん第38代・天智天皇(626-672年)に決まっています。
なぜそうなるのかといえば、不比等その人の政治力が誰に遠慮することのない形で、
思う存分に発揮されているからです。
普通に考えれば、朝廷に属する人間でなければ発揮しえないレベルです。


当時、朝廷を凌ぐほどの権勢を誇った蘇我入鹿(生年不詳-645年)を暗殺し、
その蘇我氏宗家を滅亡に追い込んだ「乙巳の変」(645年)で、実行者・天智天皇の
片腕として活躍した大功労者・中臣鎌足の、その息子ということだけでは、さすがに
ここまでの立場にはなれなかった気がするのです。


もちろんこれは証拠もない筆者の単なる推測に過ぎませんが、不比等が発揮した
その権勢ぶりを周囲の人間はこのように受け止めたのではないかと思うわけです。
~人臣・鎌足の息子ということなら、このやり様はちょいとばかり目に余るが、
 天智天皇の御落胤ということなら、軽々にモノを言うものやばいかもだ~


当時の政界にはこんな空気があって、不比等はついにキングメーカー的な存在にまで
昇り詰めることができたのではないか、ということです。
これは不比等本人の死後のことになりますが、娘・光明子(701-760年)を
第45代・聖武天皇の皇后(光明皇后)に就け、朝廷全体を不比等の四人の息子たちが
牛耳ることができたのも、その根源は天智天皇の御落胤というところにあったと
考えたわけです。


ところが、この見解はWikipediaではバッサリ否定されているのです。
~天智皇胤説は後世の付会(である)~ あっちゃー!
そういうことなら、居直るつもりはありませんが、どんな理由で「付会」という結論が
出されているのか、ちょっと聞かせて欲しくもなるところです。


   

       藤原不比等 / 平清盛


 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村


と言いながら、実はちょっと面倒気分も働いたので、早々に次の御落胤候補に移ることに
しました。
平安後期の武将で政治家であった
平清盛(1118-1181年)です。
~祖父の正盛以来,平氏は院政と結びついて栄え、清盛も12歳で従五位となったのを
 最初として、順調に昇進した~


そしてこの時期、朝廷をも巻き込んでの武家間の主導権争いが演じられていました。
「保元の乱」(1156年)では後白河天皇方について崇徳上皇方を破り、次いで
 
「平治の乱」(1159年)では源義朝と戦って勝ち、この結果,平氏に対抗できる
 武士はいなくなった


源氏嫡流とされる源義朝(1123-1160年)の遺児である頼朝(1147-1199年)や、
その弟・義経(1159-1189年)などは流刑とされたわけですから、言葉を換えれば
「平氏の一人勝ち」ということになり、上の説明の通り、
「清盛に対抗できる武士はいなくなった」わけです。


ちなみに「平氏/平家」との使い分けは、このようになるとのことです。
~平安前期に律令国家が衰退し皇室経済が窮迫し始めた結果、経費を軽減するため
 皇族に賜姓し、臣籍に降下することが一般的となった。
 
平氏はそうした皇族賜姓の一つで、源氏と並んでもっとも代表的なものである~


それに対し「平家」とは、
~平の姓を名乗る一族。 特に平安末期に政権を握った平清盛の一族のこと~
ですから、平氏全体を「平氏」と表現し、その中の平清盛の一門のことを「平家」
呼ぶと理解してもいいのでしょう。


さて、その武士間の抗争は、「平家」の平清盛が「源氏」を叩き潰す形で最終勝者と
なりました。 そして、
~参議に任じられて(1160年)公卿に列し、後(1167年)には太政大臣に昇ったが、
 やがて辞任、翌年には病危篤となって出家し、その後は摂津国福原の山荘に住んだ~


で、清盛が静かな隠遁生活を送ったのかといえば、決してそんなことはなく、
いわゆる「福原遷都」まで行っているのです。
~出家後の京都の政治は子の重盛・宗盛が主導したが、清盛はなお強力な発言権を
 持ち、さらには摂津国福原への、実質半年間ほどの一時的遷都(1180年)を行った~


これが亡くなる前年の出来事ですから、そのエネルギーには驚かされます。
しかし、自分より上位にある朝廷の都合や事情を気に掛けることもないままに清盛は
こうした我儘・自分勝手・傍若無人ぶりを遠慮なく実行できた、その理由は知って
みたいところです。


しかし、別段に知りたくもないゾ、という方も中にはおられましょうが、ここは
大人の対応で「おぉ、知ってみたいがや」との姿勢を示してください。
そうでないと話が先に進みませんからね。


ということで、ここでやっと「御落胤」というキーワードを持ち出すわけです。
では、どなたの御落胤なの?
先の「藤原不比等」の場合には~天智皇胤説は後世の付会~として、のっけから否定した
Wikipediaでしたが、今回の「平清盛」の場合はこんな表現になっています。
~(清盛は)平忠盛(1096-1153年)の子。
 実は白河法皇の落胤で、母は祇園女御またはその妹という説もある~


のっけから否定という形ではありません。 そして、さらには、
~『平家物語』も、大河ドラマ『平清盛』も、白河法皇御落胤説を採っている~
そういうことなら、折角だからこうした一連の説明を言い出しっぺとなった
自称・御落胤のオジサンにも伝えておいてやろう。


ところが、筆者の説明を遮ろうとしたばかりか、
~拙者、実は今からゴシュインに出かけるつもりだから御落胤の方はもうよいのだ~
まんでまた、えらく半端なこんな時刻に御朱印を?


すると、自称・御落胤のオジサン曰く。
~御朱印ではなく、御酒飲の方のゴシュインなのだ~
ということで、どこまでも垢抜けしないシャレがお好きなオジサンでした。



 応援クリックを→ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ ←にほんブログ村