ライマン・フランク・ボーム - 晩年と著作 - わかりやすく解説 Weblio辞書

ライマン・フランク・ボーム 晩年と著作

ライマン・フランク・ボーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 23:12 UTC 版)

晩年と著作

『オズの魔法使い』が小説・舞台の両面で大成功したことを受けて、ボームとデンスロウは柳の下の3匹目のドジョウを狙い、1901年にDot and Tot of Merryland(陽気な国のドットとトット)を発表した[13]。この本はボーム屈指の駄作で、その失敗はボームとデンスロウの気まずい関係を更に悪化させた。彼らが組んで仕事をしたのはこれが最後となった。1904年以降のファンタジー作品ではジョン・R・ニール(John R. Neil)がイラストを担当するようになった。ただし彼らが顔を合わせたことはほんの数回しかない。またボームはニールの画風にユーモラスな雰囲気が足りないと感じることがしばしばであったし、ニールが勝手に"The Oz Toy Book: Cut-outs for the Kiddies"(お子様のための切り抜くオズ絵本)を出版した時には特に不快感を露にした。

オズ・シリーズを書き続けている間、ボームは何度もその巻を最終巻にして別のシリーズ(『サンタクロースの冒険』やQueen Zixi of Ix(イックスのジクシー女王)など)に集中したいと訴えた。しかし一般読者からの要求、子供たちからの手紙、そして新作の失敗に打ちのめされて毎回オズ・シリーズに戻るのが常であった。とは言っても彼のオズ以外の作品がその死後に忘れ去られたわけでもない。The Master Key(マスター・キー)という長編は1920年にSt. Nicholas Magazine(セント・ニコラス・マガジン)が行なった「お気に入りの本」調査で、良い成績を見せている。

演劇に懸ける終生の愛情のために、彼はしばしば凝ったミュージカルに対して資金を出し、そして失敗した。ボームに最悪の赤字をもたらしたのは1908年の"The Fairylogue and Radio-Plays"(妖精譚とラジオ劇)である。これは幻灯と生身の役者を組み合わせた先駆的な見世物であったが、借金で首が回らなくなったボームは初期作品(『オズの魔法使い』を含む)の著作権を売却する羽目に陥った。その結果、初期作の低品質版が出回ることになり、ボームの名声は下落し、その新作までが売れなくなった。ボームは蔵書、タイプライター、など手放せる財産を徐々に放出して行き、最後には無一物となった。

ボームによるオズ・シリーズの最終巻『オズのグリンダ』(Glinda of Oz)は彼の死後である1920年に刊行されたが、シリーズは長い間別の作家たちによって書き続けられた。その代表ルース・プラムリー・トンプソン(Ruth Plumly Thompson)は19冊を書いた。

ボームはオズ以外の作品を発表する際には変名を使用した。以下のようなものがある。

  • エディス・ヴァン・ダイン(Edith Van Dyne) - the Aunt Jane's Nieces series(「ジェーンおばさんの姪たち」シリーズ)
  • ローラ・バンクロフト(Laura Bancroft) - The Twinkle Tales(きらめく物語集)、Policeman Bluejay(刑事アオカケス)
  • スザンヌ・メトカーフ(Suzanne Metcalf) - Annabel(アナベル)
  • シューイラー・ストーントン(Schuyler Staunton) - The Fate of a Crown(王冠の運命)、Daughters of Destiny(宿命の娘たち)
  • ジョン・エスティス・クック(John Estes Cooke) - Tamawaca Folks(タマワカ族の人々)
  • ヒュー・フィッツジェラルド大尉(Capt. Hugh Fitzgerald) - the Sam Steele series(「サム・スティール」シリーズ)
  • フロイド・エイカーズ(Floyd Akers) - the Sam Steele series(「サム・スティール」シリーズ)の続編、および the Boy Fortune Hunters series(「少年フォーチューン・ハンターズ」シリーズ)
  • 匿名 - The Last Egyptian: A Romance of the Nile.(最後のエジプト人:ナイル河のロマンス)

ボームはその後も演劇界での仕事を続けた。『オズのオズマ姫』(シリーズ第3作)および『オズのチクタク』(シリーズ第8作)を基にした劇Tik-Tok Man of Oz(オズのチクタク男)はハリウッドでそれなりの成功を修めた。

1914年、ハリウッドに移った彼は、自作を映画化するための会社The Oz Film Manufacturing Company(オズ映画制作会社)を起業した[14]。彼は自ら会長、プロデューサー、脚本家を務めた。この時期に彼が使ったキャストの中には無名時代のハロルド・ロイドがいた。

1919年5月5日、ボームは脳卒中で倒れた。彼は翌日(63歳の誕生日の9日前)、静かに息を引き取った。末期の言葉は、昏睡に陥りながらの"Now we can cross the Shifting Sands."(これで Shifting Sands(移りゆく砂)を渡ることができる[注 1]。)であった。 彼はカリフォルニア州グレンデールにあるフォーレスト・ローン記念公園(Forest Lawn Memorial Park)に埋葬された。[15]


出典

  1. ^ Rogers, p. 1.
  2. ^ Hearn, Introduction, The Annotated Wizard of Oz, p. xv n. 3.
  3. ^ Rogers, pp. 2-3.
  4. ^ Rogers, pp. 3-4.
  5. ^ Rogers, pp. 4-5.
  6. ^ Rogers, pp. 6-7; Hearn, Annotated Wizard, pp. xvii-xviii.
  7. ^ Rogers, pp. 8-9, 16-17 and ff.
  8. ^ Rogers, pp. 23-5.
  9. ^ Rogers, pp. 25-7 and ff.
  10. ^ Rogers, pp. 45-59.
  11. ^ Rogers, pp. 54-69 and ff.
  12. ^ Rogers, pp. 73-94.
  13. ^ Rogers, pp. 95-6.
  14. ^ Rogers, pp. 110, 177, 181, 202-5 and ff.
  15. ^ Rogers, p. 239.

注釈

  1. ^ 「Shifting Sands(移りゆく砂)」はオズの国を取り囲む砂漠の名前。『オズのチクタク』Tik-Tak of Oz (1914年)の初版の巻末に初めて掲載されたオズの国とその周辺の地図には、オズの国の東に「Deadly Desert(死の砂漠)」、西に「Shifting Sands(移りゆく砂)」、北に「Impassable Desert(通行不可能な砂漠)」、南に「Great Sandy Waste(大砂荒地)」が描かれている(en:Deadly Desert」を参照)。





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