窪田空穂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 00:55 UTC 版)
誕生 |
1877年6月8日 長野県東筑摩郡和田村 |
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死没 |
1967年4月12日(89歳没) 東京都文京区目白台 |
墓地 | 雑司ヶ谷霊園 |
職業 | 歌人、国文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 長野県尋常中学校卒業 |
最終学歴 | 旧制東京専門学校卒業 |
ジャンル | 短歌 |
主な受賞歴 |
日本芸術院会員(1943年) 文化功労者(1958年) |
子供 | 窪田章一郎 |
草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。
経歴
長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田[1])生まれ[2]。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。太田水穂と親交を持つようになり、和歌同好会「この花会」を結成。1899年に創設された東京新詩社に参加[3]。1900年(明治33年)より、与謝野鉄幹選歌の「文庫」に小松原春子の女性名を用いて投稿をする。鉄幹から勧誘され「明星」にも参加。高村光太郎や水野葉舟らと親交を持った。しかし、鉄幹の壮士志向と晶子の奔放な恋愛の歌ともに共鳴することができず、一年後に退会している。その後、東京専門学校に復学して1904年に卒業。
1902年、吉江孤雁や中沢臨川らと同人雑誌「山比古」を創刊、1907年に小説を「文章世界」に発表。電報通信社(後の共同通信社)や雑誌の記者、文学雑誌の編集者となる。国木田独歩主宰の独歩社にも在籍し、その当時は吉岡信敬の連載の口述筆記を担当したり、独歩社の経営難を救うために臀肉事件の被疑者の獄中告白本を提案するなどの働きを見せていた[4]。自然主義文学に多大な影響を受けるとともに、国文学への関心も深めた。
1914年に「國民文學(国民文学)」を創刊。1920年、朝日歌壇の選者、早稲田大学国文科講師に着任。後に教授を務める。1926年には「槻の木」を創刊。1942年、日本文学報国会理事。1943年、日本芸術院会員。1957年正月、宮中歌会始召人。1958年秋、文化功労者。
1967年4月12日、心臓衰弱のため東京都文京区目白台の自宅で死去[2][5]。1968年、遺族から多額の寄付金が早稲田大学国文学会に寄せられ、窪田空穂賞が創設された[6]。
歌集に『まひる野』[7]、『土を眺めて』などがある。門下に松村英一、半田良平、尾山篤二郎、大岡博、武川忠一、稲森宗太郎、服部嘉香、丸山芳良などがいる。
歌歴と評価
「明星」的ロマンティシズムから始まり、自然主義文学の潮流を短歌に導入した。30代以降は日常生活の些事を詠み続け、「境涯詠」と呼ばれるようになる[8]。
近代歌人としては珍しく長歌を旺盛に作っている。青年時代は小説家を志していた経歴も合わせ、ストーリー・テラーとしての資質を大岡信は高く評価している[9]。『さざれ水』所収の「円タクの助手」のように都市風景をユーモラスに描いた長歌もある。
終戦後には、ソビエト連邦のシベリア抑留で亡くなった次男・茂二郎を悼んで詠んだ「捕虜の死」という長歌がある(『冬木原』収録)。「シベリヤの涯(はて)なき曠野(こうや)イルクーツクチェレンホーボのバイカル湖越えたるあなた」と詠いだし「むごきかなあはれむごきかなかはゆき吾子」と締めくくった、史上最大の長歌でもある。
- ^ 「枯れざる生命(いのち)~空穂と万葉集~」窪田空穂記念館 松本市 2023年4月11日閲覧。
- ^ a b 大岡信編『窪田空穂随筆集』岩波書店、1998年6月、364-367頁。
- ^ 伊藤整『日本文壇史5』講談社文芸文庫、1995年、186頁。
- ^ 黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』角川書店、2007/12/10。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)130頁
- ^ 早稲田大学国文科「空穂賞設立される」『わせだ国文ニュース』第12巻、早稲田大学国文学会、1968-12、10頁。
- ^ のち1946年創刊の主宰誌の題となる。
- ^ 窪田空穂記念館
- ^ 大岡信編『窪田空穂歌集』解説。大岡信の父は空穂の高弟・大岡博である。
- ^ 本の万華鏡第18回 第3章 山岳会の設立と登山の普及 国会図書館ホームページ 2017年12月4日閲覧
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