11月30日、自然科学絵本作家の甲斐信枝さんが、老衰のため京都市の病院で逝去されました。享年93。50年近く身近な草花や虫を観察してきた甲斐さんが見ていた世界とは。今回は、自然と歩んだ人生について語った『婦人公論』2021年4月27日号のインタビュー記事を再配信します。
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40代前半で自然科学の絵本作家としてデビューし、50年近く身近な草花や虫の生きる姿を描いてきた甲斐信枝さん。5年前にNHKのドキュメンタリー番組でその創作風景が放送されると、自然へのあくなき探求心を持ち続ける姿に、大きな注目が集まった。現在、90歳。京都に暮らす甲斐さんが生き物たちから学んだ《自然に従う》こととは(構成=社納葉子 撮影=福森クニヒロ)
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【写真】甲斐さんのスケッチ画はじっくり眺めたくなるほど美しい
ひたむきな姿に心を奪われて
80代半ばまでは、毎日のように《仕事場》である畑に出向いて、草花や虫たちの絵を描いてきました。でもこの2~3年は、すっかり足腰が弱くなってしまって。今までのように外に出て写生をすることは難しくなってしまいました。
ただ、40年近く前に手がけた『あしながばち』という絵本にまつわるエピソードだけは、なんとしても残しておきたいと思い、原稿にまとめたのです。それが2020年10月に『あしなが蜂と暮らした夏』として出版されました。
40年ほど前の初夏、京都市郊外のキャベツ畑で写生をしていると、青むし狩りをするあしなが蜂の女王と出会いました。青むしにとびかかり、大顎で一撃を加えた女王蜂は、弱った青むしの肉を噛みに噛み、青緑色の肉団子を器用に作りあげました。
私はその、生きるためにひたむきな姿に心を奪われたのです。彼らの巣を探し歩き、ようやく比叡山の麓にある納屋に60は下らない数の巣を見つけると、雨の日も風の日も納屋に通い詰める日々が始まりました。
そこで見た女王蜂たちは巣作りや育児にそれぞれ個性があるものの、みな幼虫をそれはもう大切に世話している。納屋の持ち主である農家の「おかあ」にその様子を伝えると、こともなげに「ああ、母親はみなそうや。蜂も人も、同じこっちゃ」って。
その後、母蜂をなくした3つの巣が心配で放っておけず、京都から、当時暮らしていた東京のアパートまで巣を抱えて新幹線で運びました。アパートの一室であしなが蜂との共同生活を始め、親代わりになって育てたその顛末をまとめたのが、先のエッセイです。
いえ、見えませんけど感じるんです
ーー甲斐さんは1930年、広島県の農村部に生まれた。姉と弟3人の5人きょうだい。家の外に広がっていた畑や田んぼが甲斐さんの原風景だ。病気がちであまり学校に通えず、おのずと身の回りの草や虫たちが遊び相手になったという。
ーー広島県立府中高等女学校3年の時に、東京から隣村に疎開していた西洋画家・童画家の清水良雄氏に油絵を習い始める。女学校卒業後も先生の自宅に通って絵を描き続けた。
まわりから美術学校進学を勧められるほど絵はうまかったらしいですけど、進学はしませんでした。努力して争って勝ち負けを決めるというのが、私は大嫌いなの。生来の怠け者なんです。
清水先生は、私が女学校3年生の時に夏期講習の講師としていらしたんですよ。絵を描いているとノッポの先生が足を止めて、「こんな色のバック(背景)ではないけど、あなたにはこう見えるんですか?」と聞かれました。「いえ、見えませんけど感じるんです」と言ったら、「ほう」と。非常に正直な絵だと褒めてくださった。
その後、清水先生に師事して本格的に絵を習い始めると、先生からは「対象には限りなく謙虚な心で向き合う」という姿勢を叩き込まれました。他人が何と言おうと、自分が感じること、自分に見えるものに忠実でなければならない。自分に嘘をついてはならないと教えてくださった。
「筆一本で飯を食っていこう」と決意して
ところが私が23歳の時、先生が急に亡くなられてしまいます。私はまわりの勧めで上京し、慶應義塾大学医学部の精神神経科に教授秘書として勤めることになりました。そこで看護婦さんたちの働きを見るうちに、「専門職をもたないと、ものの本質が見えなくなる」と思うようになったのです。
秘書として働きながらも、洋画研究所で絵の勉強は続けていましたが、次第に「生活の垢」を身につけてしまうようになったんですね。職場でうまく立ち回ることを覚えたり、いろいろな苦労を財産だと思ったりして、「ものが見えた」気になってしまう。でも、それはの本質ではないと思ったの。私、ものが見たかったんです。実態はなんだろう、ってね。
それで32歳の時に、「筆一本で飯を食っていこう」と決意して、秘書の仕事を辞めました。童画家の鈴木寿雄先生について童画を学び始めたのもこの頃です。「絵本描き」を始めたのは40歳ぐらい。美術の世界には食えなくても頑張る画家さんがいて、ああいう人は偉いなあって思うけど、私はごく単純に、筆で飯を食いたいと思ったんです。それで「絵本なら食えるかな」と。不純極まる出発です。
でも私、絵の勉強はしたけれど、絵本を学んだわけじゃないから、最初は全然食えませんでしたね。
自然を知識としてでなく、心で伝えたい
ーー42歳の時に初めて描いた『ざっそう』を皮切りに、甲斐さんは自然科学絵本の執筆に取り組み始める。その執筆スタイルは、観察すると決めた対象と、とことん付き合うというもの。
ーー草や虫たちを愛情込めて「連中(れんじゅう)」と呼ぶ甲斐さんは、時にあしなが蜂やこがねぐもと共同生活を送りながらその生態をつぶさに見て描く。野の草の生き方を知るために、借りた空き地の雑草を5年間、毎日欠かさず観察したことも。すべては描く対象を深く知るためだ。
私が手がけてきたのは、絵本と言っても、自然をテーマとした「自然科学絵本」と呼ばれるものです。子どもたちの心を自然に向けたい、自然の深さを頭ではなく、体で知ってほしいと願ってきました。
絵本の作り手としては、私が自然から受けた驚きや感動を、絵と言葉で伝えることを大切にしてきました。描いているのは生態に忠実な自然科学絵本なんですけど、私は自然を知識としてでなく、心で伝えたいのです。
だから対象と向き合う前に、本や資料は決して読みません。知識としてわかってしまうと、驚きがなくなってしまうんですよ。あれは怖い。もちろん最初はわからないことだらけ。でもわからないことをわかろうとするのが魅力でしょう。
『こがねぐも』を描いた時は、監修の八木沼健夫先生に「(わからないことは)くもに訊いてください」って言われましたけど。それは本当でしたね。根気よく付き合っていると、ある日、連中のほうから自分を《見せて》くれる。
5年ほど前までは、毎日のように外へ出て、自然の中にいました。田んぼや畑の畦道、小さな川の土手などに新聞紙を敷いて何時間も座り込んだり、時には相手の背丈に目線をそろえて写生します。
だいたい朝起きて、今日は天気がいいなとなると、連中も朝早くから働き始めるから畑に行ってみよう。曇りの日はどうしているか気になるから、やっぱり行ってみる。すると曇った日は太陽の熱と光が少ないから、光合成できなくてあまり働けないんだなとわかる。
連中は何か新しいことをやってみようなどと考えることはないらしく、毎日太陽とともに動きます。太陽と自分とを別に見ているのは人間ぐらいじゃないかな? 連中と付き合っていると、こういうことを理屈ではなく体で感じられるのがうれしいんです。
おまえさんらのような若い生き物に、わかるか?
現場に行った時、「今日はこれを描こう」と決めて見ることはしません。ものを写生する時、そのものの1ヵ所ばっかり見ていると、そこしか見えないでしょ。だから知らんぷりしてできるだけ気持ちを遊ばせておくの。いつでも反応できるように。
そうしていると、目の端のほうで動いたものに「うん?」と気がつく。連中が教えてくれるんです。「おまえさんらのような若い生き物に、わかるか?」って。まばたきほどの人間の歴史から見れば、大変な歴史を生き延びてきたんですから、連中の生き方に自分を合わせなきゃ、何も見せてもらえません。
連中から《見せて》もらうには、できるだけ体全体を使います。だから私の仕事は肉体労働。なるべく首から上は使わないようにしないと、《人間》が入ってきちゃう。
『雑草のくらし―あき地の五年間―』のために、空き地に生える雑草を観察していた時は、シャベルで土を掘ったり、根っこを浮き上がらせるためにじょうろで水を撒いたり。力仕事なんです。
暑い夏の日に、草の数を勘定したこともありました。メヒシバは生命力が強く、密集して生えていても生きます。でも限界点はある。10センチ四方にどれだけたくさん生えたら枯れるのか数えたら、生存の限界点は、44本でした。
私がやっていることは、無駄に見えるのかもしれません。でも、無駄ほど大事なものはありませんよ。無駄なく何かをしようとすると、落とし物が多くなります。
『ブナの森は生きている』の担当編集者と取材に出かけた時、私、「だらこで帰る?」って訊いたんです。「だらこ」は各駅停車のこと。一駅ずつ止まってダラダラするから。彼、「うん、だらこに限る」って。
するとね、時々宝くじに当たったようなことが起こるのよ。ある駅に止まってドアが開いたの。発車までにちょっと時間があってね。そうしたら、タンポポの綿毛がぶわあっと車内に入ってきた。おお、すごい、いいねえって二人で言い合って。
自然にあるのは摂理だけ
私は昭和一桁生まれですけれど、戦前の日本人には伝統的な美意識がありましたね。私が生まれた時、家は苦しい経済状況だったようです。でも両親は子どもの前でお金の話なんてひと言も言わなかったし、子どもたちにも口にさせなかった。
それは極端にいえば、金銭というものは人を卑しくさせるという価値観からだと思います。両親に限らず、昔の人はみんなそう思っていたんじゃないでしょうか。
でも今はお金の価値観も美意識も変わってしまった。今はお金があると便利だし、楽ができる。家も建ちます。その文化のために、一所懸命に心を売っていると、私は思うんです。どんなものも、育つには餌がいるじゃない? 草は肥やしを土からもらっているし、人間は親から食べ物を与えられる。ではお金の肥やしはというと、人の心だなあと思って。人間の心を喰うことによってお金が太る。
だから私はずっと、お金に心を喰われたくないと思ってきました。それはお金との縁が薄いということを意味し、現代においてはかなり不便なことです。今の価値観は貧しさというものを非常に低く見ますから。お金の面ではけっこう大変ですけど、致し方ないです。
利害を捨てる訓練というのは、草たちが教えてくれます。人間の場合は利害で支え合う「生活」があるけど、連中は死ぬも生き残るも、自然の摂理に従った結果です。
連中が滅びるのを見る時、私は畏怖を感じます。これから成長期という植物であっても、土砂降りに遭えば死んでいく。素直に死んでいきますよ。それを見事だと私は感じますけど、相手はそんなこと思っていません。生まれた場所で自然に生きて、少しでも丈夫な遺伝子を種族のために残し、そしてまた生まれてくる。法則に無理がないんです。自然にあるのは摂理だけ。生きるってこういうことだなと思います。
人間は摂理に従っていては生きていけない、特殊な生き物ですね。どのくらいその歴史が続くだろう。私にはそんなに長く続かないんじゃないかという気持ちがどこかにあります。たった数十年ですが、自然と付き合い続けていると、人間ってどれほどのものだろうと思うのです。