関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】 - デイリーニュースオンライン

関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】

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関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】

1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。西軍の中心人物であった「石田三成」は敗戦により捕らえられ六条河原で斬首された。石田一族の多くはこの戦いで討死しているが、三成の6人の子供たちは生き長らえている

石田三成 ウィキペディアより

今回は、三成亡き後、6人の子供たちがどのような人生を歩んだのか紹介したい。

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長男・石田重家

生年月日は定かではない。母は三成の正室「皎月院(こうげついん)」。1583年または1587年頃に石田三成の嫡男として誕生したと考えられている。

1600年に関ヶ原の戦いが起こると、豊臣家の人質として大阪城に留まったとされる。西軍の敗戦が決まると京都妙心寺に移り、住職の「伯蒲慧稜(はくほえりょう)」によって剃髪、仏門に入る。

1686年に死去。正確な生年月日が不明なため享年はわかっていないが、関ヶ原の戦い以前に誕生していたことは事実であり当時としてはかなりの長寿であった。また、一説には仏門に入る以前に結婚し子供をもうけており、妻子は重家が仏門に入った後、徳川家康の次男・結城秀康に保護され子孫が続いたという。

次男・石田重成

長男重家と同様、皎月院の子供である。生年月日は不明。1588年説が有力だが定かではない。1599年には豊臣秀吉の跡取りである秀頼に小姓として仕えた。

関ヶ原で西軍が敗れると大阪城にいた重成は、同じく秀頼に小姓として仕えていた「津軽信建」の助力により陸奥国・津軽へ逃れた。津軽家は領土問題で他家と対立していた際に秀吉の征伐対象にされかけたが、石田三成のとりなしによって滅亡の危機を免れた経緯があった。

弘前藩の拠点「弘前城」Wikipediaより

その後、重成は「杉山源吾」と名を変えて、弘前藩・津軽家の援助の元に生活した。長男の吉成は弘前藩主・津軽信枚(信建の弟)の娘と結婚し、家老となって子孫の杉山家は弘前藩重臣として存続した。

死没に関しては1610年に若死したという説と1641年に死去したという説が有力だが、わかっていない。

次回【後編】に続きます。

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