カール5世 (神聖ローマ皇帝) - カール5世 (神聖ローマ皇帝)の概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書

カール5世 (神聖ローマ皇帝) カール5世 (神聖ローマ皇帝)の概要

カール5世 (神聖ローマ皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 20:36 UTC 版)

カール5世 / カルロス1世
Karl V / Carlos I
神聖ローマ皇帝
スペイン国王
カール5世
在位 1516年 - 1556年(スペイン国王)
1519年 - 1556年(神聖ローマ皇帝)
戴冠式 1520年10月23日(ローマ王)[注 1]
1530年2月22日(イタリア王)
1530年2月24日(神聖ローマ皇帝)[注 2]
別号 カスティーリャ国王
レオン国王
アラゴン国王
マヨルカ国王
バレンシア国王
シチリア国王
サルデーニャ国王
ローマ王
イタリア王
オーストリア大公
ケルンテン公
クライン公
シュタイアーマルク公
ブルゴーニュ公
ブラバント公
リンブルフ公
ルクセンブルク公
ゲルデルン公
カタルーニャ公
バルセロナ伯
チロル伯
ブルゴーニュ伯
ナミュール辺境伯
フランドル伯
エノー伯
ホラント伯
ゼーラント伯
ズトフェン伯
アルトワ伯
シャロレー伯
サルダーニャ伯
ルシヨン伯
ジローナ伯
ウゾーナ伯
ベルガ伯
バザルー伯

出生 1500年2月24日
神聖ローマ帝国
フランドル伯領 ガン
死去 1558年9月21日
スペイン帝国
ユステ修道院
埋葬 スペイン帝国
エル・エスコリアル
エル・エスコリアル修道院
配偶者 イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン
子女 フェリペ2世
マリア
フェルナンド
フアナ
フアン
マルガリータ
フアン(異説あり)
家名 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 フィリップ美公
母親 カスティーリャ女王フアナ
サイン
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血筋

ブルゴーニュ公フィリップ4世カスティーリャ女王フアナの間に生まれた。母方の祖父母は結婚によってスペイン王国を誕生させ、のちにグラナダ王国を制圧しイベリア半島からイスラーム勢力を駆逐した「カトリック両王」ことアラゴン国王フェルナンド2世およびカスティーリャ女王・イサベル1世であった。さらに父方の祖父母は神聖ローマ皇帝であるマクシミリアン1世と、かつてヴァロワ朝フランス王国とすら互角に渡り合った大国ブルゴーニュ公国の女公マリーという、当時のヨーロッパ王族のサラブレッドともいうべき血筋の生まれであった。

カール5世の統治領域の中心はスペインであり母・フアナもスペイン出身であったが、カール5世本人は自分の生まれ故郷のネーデルラントフランドルに愛着を持っており、言語の問題から当初は馴染めなかった[1]。現代スペインに続く金羊毛騎士団の継承・増員に見られるように、曾祖父・シャルルブルゴーニュ公国の継承者という自覚も強かった。それでもカール5世はスペイン王位についてから熱心にスペイン語を覚え、スペインを統治した。ちなみに弟のフェルディナントは兄とは対照的に、スペイン生まれのスペイン育ちであるが中欧の神聖ローマ帝国の帝位に就くこととなった。

また、父方からハプスブルク家の血を受け継いだ神聖ローマ皇帝であるものの、ドイツ人とも言いがたい。カール5世はフランドルガンにて生を享けたが、母語は当時のフランドル貴族の公用語であったフランス語であった。

系譜

カール5世

ブルゴーニュ公 フィリップ4世

祖父
神聖ローマ皇帝

マクシミリアン1世

曽祖父
神聖ローマ皇帝

フリードリヒ3世

高祖父
オーストリア公

エルンスト

高祖母
ツィンバルカ
曽祖母
ポルトガル王女

エレオノーレ[1]

高祖父
ポルトガル国王

ドゥアルテ1世

高祖母
レオノール
祖母
ブルゴーニュ女公

マリー

曽祖父
ブルゴーニュ公

シャルル[2]

高祖父
ブルゴーニュ公

フィリップ3世

高祖母
イザベル
曽祖母
イザベル
高祖父
ブルボン公

シャルル1世

高祖母
アニェス

カスティーリャ王

フアナ

祖父
アラゴン国王

フェルナンド2世

曽祖父
アラゴン国王

フアン2世

高祖父
アラゴン国王

フェルナンド1世

高祖母
レオノール
曽祖母
フアナ
高祖父
ファドリケ
高祖母
マリアナ
祖母
カスティーリャ王イサベル1世
曽祖父
カスティーリャ王フアン2世
高祖父
カスティーリャ王エンリケ3世
高祖母
キャサリン
曽祖母
イザベル[3]
高祖父
ポルトガル王子

ジョアン

高祖母
イザベル

[1]の父はポルトガル国王ドゥアルテ1世ジョアン1世の子で、弟にエンリケ航海王子や[3]の父ジョアン、妹に[2]の母イザベルがいる。よって、[1]と[2]と[3]は、共にジョアン1世を祖父とするいとこ同士となる。

生涯

生い立ち

少年時代のカール、ベルナールト・ファン・オルレイ
カール5世のアントワープ入城』、ハンス・マカルト

1500年にフランドルのガン(ヘント)で生まれ[2]、1517年までネーデルラントで育った。名前は曾祖父・ブルゴーニュ公シャルルにちなむ。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡った。残されたカールは叔母のネーデルラント総督マルグリットに育てられた[3]。少年時代の個人教師には、後に教皇 ハドリアヌス6世となったオランダ人、ユトレヒトのアドリアンがおり、恵まれた環境で帝王学を学んだ[4]。さらに側近としてシェブレ侯やジャン・ル・ソヴージュ[5]、メルクリノ・ガッティナラ[6]らが従っていた。

1506年、スペインに渡ったばかりの父が急死すると、幼くしてネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となった。1516年に外祖父・フェルナンド2世が死去すると、スペイン語を解さなかったカールはブリュッセルにいながら母フアナと共同統治という形でカスティーリャ国王になった。それは同時にアラゴン王国ナバラ王国グラナダナポリ王国シチリア王国サルデーニャ王国スペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた[7]。1515年、父方の祖父・神聖ローマ皇帝 マクシミリアン1世によりハンガリー王国ボヘミア王国の王家であるヤギェウォ家との二重結婚が取り決められたが、アンナ王女がカールと弟フェルディナントのどちらの妃となるかはその時点では未定だった。結婚相手を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー王国側からは猛反発を受けたが、フェルディナントとアンナにとっては幸福な結婚となった。

1517年に初めて「本国」スペイン入りし、トルデシリャスで母と再会すると[8]バリャドリッド摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始。1519年に祖父・マクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらに叔母にして育ての母・マルグリットやフッガー家の支援を得て[9]、1519年6月28日には生涯の宿敵・フランス国王 フランソワ1世を破り、フランクフルトに集まった選帝侯達が全票をカールに投じてローマ王に選出された[10]。しかしこの選挙資金のために統治早々にして莫大な負債を負っている。1520年には戴冠式の途上、イングランド王国に立ち寄って国王 ヘンリー8世夫妻と対面している。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカールの叔母だったからである。その後、同年10月22日に伝統に従ってアーヘンでローマ王としての戴冠を受けた[11]。ローマ王となったカールは祖父マクシミリアン1世の例に倣って教皇からの戴冠を受けることなく神聖ローマ皇帝と見なされた。

しかし戴冠式の最中に、ローマ王選挙に使用する懐柔工作資金(スペイン王国の国家予算5年分)の国外持ち出し、「外国人君主と外国人顧問・側近」の統治に反発していたトレドセゴビアなどカスティーリャの諸都市が、カールがコルテスで新たに3年毎の40万ドゥカットの上納金と商品売上に対する税を課したことを端緒に一揆契約を結び、コムネロスの反乱が勃発した[12]。コムネロスの反乱は外国人幹部によるスペイン支配への抵抗から、貴族の特権に対する反乱へと変質していった[13] 。1521年にカールは1年余り続いたこの内乱を鎮圧したことで名実共にスペインの支配者となり[14]、強大な兵力を率いて生涯各地を転戦した。しかし、これ以降スペインはハプスブルク家の進める戦争への財物供出を余儀なくされ、カスティーリャ王国・アラゴン王国からの税収やインディオの奴隷労働によってポトシなどから収奪された金銀はスペインの為に使われる事はなく、ハプスブルク家の利害のために使われ諸外国に流出した[15]

フランスとの戦い、宗教改革への対応

ヤーコプ・ザイゼネッガー画、1532年
カール5世時代のハプスブルク家の領土。西ヨーロッパの大半を手中にした。
  カスティーリャ
  アラゴン
  ブルゴーニュ
  オーストリア
  神聖ローマ帝国の境界

カールは生涯フランス国王 フランソワ1世アンリ2世父子との戦争を繰り返すことになる。初めは1521年北イタリアで争い[16]、後にイタリア全土を戦火に投じることになる。1527年にはカールのドイツ人傭兵達がローマで狼藉を働いた。これがローマ劫掠である[17]。このような行為はカールの意図するところではなかったとされるが、実際はカールが傭兵達に十分な報酬を支払わなかったことが原因だった。結果的にカールの軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がイングランド国王 ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

神聖ローマ皇帝として、カール5世は当時論議となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムス帝国議会に召喚[18]。結果的にルターの主張を認めず、同調者達と共に法の保護を剥奪(帝国追放)した。ここで処罰とまではいかなくとも逮捕・拘束しておけばプロテスタントの興隆を食い止められただろうと後悔することになるが、若き皇帝は身の安全を保障した約束を破ることを良しとせず、スペインの統治・フランス国王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。

ヘンリー8世と同盟して行った対フランス戦争では1525年パヴィアの戦いでフランス国王 フランソワ1世を捕虜とすることに成功し、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄。そこで1528年サン・ジョルジョ銀行から融資を受けて、再びの抗争に入った[注 4]1529年にあらためてフランスとの間に貴婦人の和約と称されるカンブレー講和条約を[19]ローマ教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保したが、その引き換えにブルゴーニュ公国を手放した[注 5]1530年にはボローニャイタリア王神聖ローマ皇帝としての正式な戴冠式を行った。ローマ教皇によって帝冠を受ける儀式はこれが最後になる。1524年に起きたドイツ農民戦争シュマルカルデン同盟の成立に際しては手一杯だったカール5世は、弟のフェルディナントを代行としてドイツ地方における政務を委託している(フェルディナントは1556年神聖ローマ皇帝に即位した)。

オスマン帝国との戦い

カール5世騎馬像』、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年

やがてカール5世は、ヨーロッパを圧迫していたオスマン皇帝スレイマン1世との戦いにも身を投じるようになる。当時、地中海ではオスマン帝国艦隊が制海権を握り、陸上では1529年ウィーンが包囲されるまでになっていた(第一次ウィーン包囲)。しかしカール5世は1535年チュニスにおいて勝利し(チュニス征服[20]1536年には宿敵フランソワ1世と対オスマン帝国同盟を結んだ。フランスがオスマン帝国と単独講和してもカール5世は和睦しなかったが、1538年プレヴェザの海戦でローマ教皇・ヴェネツィア共和国と結ぶも敗退し、地中海の制海権を失う。最終的に1543年にフランスとはクレピーの和約を結び[21]、戦費の増大のためにオスマン帝国とも講和せざるを得なくなった。これにより、オスマン帝国との決着は息子のフェリペ2世に引き継がれることとなった。

トリエント公会議と宗教和解への努力

カール5世は宗教問題解決のため、公会議の実施に尽力し、1545年トリエント公会議の開会でその努力は実を結んだ[22]。公会議はカール5世の意図したルター派のカトリックへの改宗という成果はなかったが、カトリック教会の対抗改革の頂点となり、カトリック教会再生の契機となった。

その間もドイツではシュマルカルデン同盟との戦いが続いていたが、ザクセン公 モーリッツを味方に引き入れたことによって、戦況はカール5世に有利に傾き、1547年4月24日ミュールベルクの戦いで決定的な勝利を収めた[23]。同盟の2人の中心的指導者ザクセン選帝侯 ヨハン・フリードリヒヘッセン方伯 フィリップ1世を虜囚とすることに成功した。これ以上の内戦の激化を危惧したカール5世は1548年アウクスブルク暫定規定(Interim)を発令し、カトリックとプロテスタントのドイツにおける共存を提案した[24]。しかし1552年3月カールの新教に対する強圧的な態度に反発したモーリッツの襲撃を受けて逃亡、戦勝による優位を失った。この結果8月にルター派を容認する旨の和平交渉が結ばれ(パッサウ条約)、これを原型に1555年アウクスブルクの和議が結ばれることになる[25]

カール5世宮

カール5世宮はアルハンブラ宮殿の中に建てられたカール5世の宮殿である。この宮殿は画家のペードロ・マチューカが1526-27年にデザインした。工事は1568年まで行われた。

カール5世宮は正方形から構成されていて、正方形の一つの角を切り落として八角形のオラトリー(祈祷室)になっている。4つの入り口は正方形の各側面の中央に配置されていて、中央の円形中庭へ導ていくつくりになっている。この円形中庭はペードロ・マチューカがなくなった後にその子のルイス・マチューカによって建造されたがペードロのデザインに従って作られている。宮殿には2つの特色がある。1つ目は円形中庭の壁面構成は2層のドリス式イオニア式のオーダが重ねて作られている。スペインではプラテレスコ様式が主流であったためそれとは異なった純粋なルネサンス的建築である。2つ目はアーケードではなく、まっすぐなエンタブラチュアが使用されていることである。

ムーア人の反乱によって工事は中断され、カール5世宮は未完成のままに終わった。その後、紆余曲折を経て1930年に完成し、カール5世没後400年記念の1958年、グラナダ美術館が移転した。

退位と晩年

1548年の国事勅定ではネーデルラント17州のスペイン王国およびフランスからの分離独立を認めている。さらに1550年には「バリャドリッド論争」の名で知られる、アメリカ先住民の地位とインディアス問題に関する審議会を開いている。これは、インディオの人権問題をたびたび告発してきたラス・カサスらの長年の活動が実ったともいえるものである。最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサスの努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した、当時のヨーロッパ社会では非常に画期的な審議会となった。

1555年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカール5世は、ついに退位を決意する[26][27]。フェリペだけでなく、弟フェルディナント、姉エレオノーレ、妹マリアも出席したブリュッセルでの退位式では、「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。(略)これまで余は、経験不足や、あまりの向こう見ずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、決して誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」と言って、涙で演説がとぎれたという[28]

両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父から受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。これをもって、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系[注 6]スペイン・ハプスブルク系に分裂することになった。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインのユステ修道院に隠棲し、1558年に58歳で亡くなった。晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていた。


注釈

  1. ^ 実質ドイツ王。先代マクシミリアン1世は教皇からの戴冠なく皇帝を名乗り、以後選帝侯に選ばれたローマ王(ドイツ王)は「選ばれたローマ皇帝」を称した。
  2. ^ カール大帝以来、皇帝は教皇による戴冠を経て即位する伝統があった。
  3. ^ 欧米語では、欧米の歴史上の人物の名前は自国語で表すことが多く、この人物の名はドイツ語ではカール、スペイン語ではカルロスであるが、スペインではCarlos I de España、Carlos V de Alemania(カルロス・プリメーロ・デ・エスパーニャ、カルロス・キント・デ・アレマニア)のように呼ぶ。このような場合、日本語では各君主号に関連する言語における名前で呼ぶことが通常であるため皇帝としてはドイツ語名で、スペイン国王としてはスペイン語名で呼ぶことが通常である。
  4. ^ この間にローマ劫掠事件も起こった
  5. ^ ブルゴーニュ伯領・フランシュ=コンテ地域圏は保持
  6. ^ のちのハプスブルク=ロートリンゲン家

出典

  1. ^ 菊池、p. 196
  2. ^ 江村 1992、p. 10
  3. ^ 江村 1992、p. 12
  4. ^ 江村 1992、p. 13
  5. ^ 江村 1992、p. 16
  6. ^ 江村 1992、p.32
  7. ^ 江村 1992、p. 19
  8. ^ 江村 1992、p. 23
  9. ^ 江村 1992、p. 33
  10. ^ 江村 1992、p. 34
  11. ^ 江村 1992、p. 38
  12. ^ 江村 1992、pp. 35-36
  13. ^ ガレアーノ、p. 78
  14. ^ 江村 1992、p. 37
  15. ^ ガレアーノ、pp. 75-77
  16. ^ 江村 1992、p. 47
  17. ^ 江村 1992、pp. 90-92
  18. ^ 江村 1992、p. 43
  19. ^ 江村 1992、p. 108
  20. ^ 江村 1992、pp. 148-150
  21. ^ 江村 1992、p.224
  22. ^ 江村 1992、p. 237
  23. ^ 江村 1992、pp. 268-269
  24. ^ 江村 1992、p. 280
  25. ^ 江村 1992、pp. 326-327
  26. ^ 江村 1992、p. 327
  27. ^ 藤田、pp. 40-41
  28. ^ 江村 1992、pp. 329-331 / 江村 2013、pp. 354-356
  29. ^ 江村 1992、pp. 83-84
  30. ^ ドミンゲス・オルティス、pp. 152-153


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