シンシア 2014.No.1 page 23/24 | ActiBook

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概要

シンシア 2014.No.1

女子医大の創立者吉岡彌生物語―その1少女時代―おしゃまで男勝りな女の子9歳にして歌舞伎舞踊の芸妓役で村芝居に出演し、拍手喝采を浴びる。鷲山彌生(のちの吉岡彌生)は、そんなおしゃまな女の子だった。同時に、正義感も人一倍強かった。ある日、こんなことがあった。小学校へ行く途中、日頃女の子にいたずらばかりしている腕白少年が、後からついてくる妹たちを追い抜きざま、からかった。それを見た彌生は、すぐさま少年に飛びかかり、地面に組み伏せて馬乗りになった。そして、「女の子いじめのひきょう者!」といいながら、頭を地面に打ち据えた。妹たちは腕白少年をこらしめてくれたことに大喜びした。とおとうみのくにきとう彌生は1871(明治4)年3月10日、遠江国城東郡嶺向村ようさいみねむかい(いまの静岡県掛川市上土方)に、鷲山養齋の次女として生まれた。鷲山家は、造り酒屋をしていた本家から分家した家で、もともとは醤油屋を営んでいた。しかし、後継ぎの男子がいなかったため、ひさという一人娘が養齋を婿養子に迎えた。養齋は医者だったため、鷲山家は醤油屋から医院へと看板を変えた。養齋・ひさ夫妻は2男1女に恵まれたが、ひさが若くして世を去る。幼子を抱えた養齋は周囲にすすめられ、みせという女性を後妻にめとる。その間に生まれたのが彌生である。彌生の父・養齋は漢方医であったが、「これからは西洋医学の時代になる」と思い、江戸に出て西洋医学も学んだ。そうした旺盛な好奇心は、彌生にも受け継がれた。養齋は欲のない医者でもあった。貧しい人からは治療費を取らず、逆にコメを届けさせたりした。彌生は後年、「医は仁術」という掛川市吉岡彌生記念館に移築されている彌生の生家(写真提供:同館)ことを父から学んだと語っている。小学校を卒業した彌生は、しばらく裁縫に打ち込み、家族の着物をたくさん縫い上げた。また、蚕を育て、糸を紡いはたおで染めに出し、機織りにかけて反物に仕上げ、さらに裁断から裁縫まで全部一人で手がけて自分の晴れ着をつくった。しかし、1枚の晴れ着をつくるのに費やす時間の長さや労力の大きさに疑問を抱き、それをほかに向ければ女性でも新しい仕事ができるのではないかと考えるようになった。その頃、彌生は新聞や雑誌を読んで新しい時代の息吹を感じはじめていた。特に、男女同権や婦人参政権の必要を唱える女権論者に刺激を受け、政治家が村の近くにやってくると、ほかに女性がいなくても演説を聞きに出かけたりした。「私も東京へ出て勉強し、人のためになることをしなければ」彌生の胸に女性医師への夢が芽生えつつあった。つむ編集後記■構想から約10ヶ月。Sincere創刊号遂に完成です。制作の過程において、より女子医大を知ることができました。皆さんの感想をどしどしお寄せください。■薬師寺先生。とにかく元気な人でした。自分のやりたいこと、やらなければいけないことが明確に見えていて、気持ちのいい人でした。■鰻の人工ふ化技術の早期確立を願う「うなぎたかだ」のご主人。その気持ちは、細胞シートによる再生医療の実用化に期待を寄せる人々の願いと相通じるものがあるように思えました。■カンファレンス中、救急コールが入ると誰が指示するでもなくすぐに数名のスタッフが立ち上がって医局を飛び出していく。まさに“あうんの呼吸”。救命救急センターならではの光景でした。■地域の人たちが女子医大の職員の子育てを支援する「ファミリーサポート」。小さな子どもの手を引いて幼稚園や保育園への送迎をしている人を見かけたら、その人は園児の身内ではなく地域のサポーターかもしれません。Sincere|No.1-2014 23