(講義関連)アメリカ(45)1984年、ダンスの混沌。 - 60歳からの自分いじり

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恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(45)1984年、ダンスの混沌。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(45)1984年、ダンスの混沌。

 

 

 書影を掲げている本は、1984年の発行です。著者紹介には「アメリカにてジャズ・ダンスからディスコ、タップ、ソシアル・ダンスを研修」「東京・原宿に日本で初のディスコやジャズの専門学校「原宿ダンス・アカデミー」を開校」とあります。

 ジャズ・ダンスについてwikipediaを引くと「20世紀初頭にアメリカで誕生した。'jazz dance'という呼称は音楽のジャズとの関係はほとんどない。1940年代以降にハリウッド映画やブロードウェイのショーでBob Fosseやジェローム・ロビンズの振付をその言葉で表していたのである。1990年代なると、大学での体育関連学科で、学生たちのダンスを指してそう呼び始めた。これには主にポップス音楽が使われていた。ジャズ音楽ではなかった。バックダンサーやミュージカルで多く見られ、武富士のCMで有名になった武富士ダンサーズや映画「フラッシュダンス」などが有名である」。

 社交ダンスでも、舞台や映画などエンタテインメントとして提供されたジャズ・ダンスやタップ・ダンスでも、ディスコ(ティーク)でのダンスでもなく、ストリートダンスが注目され始めたのが1980年代です。映画「フラッシュダンス」(1983年)の中にも、黒人の子供たちなどがニューヨークの街角でブレイキンやポップ、ロックなどを踊るシーンがありました。

 まぁそんなさまざまなダンススタイルが、ごった煮になったようなのが1980年代前半のシーンで、この本はその様子を如実に示している点でたいへん興味深いです。社交ダンス風なペアダンスの表紙と、レオタード姿のジャズ・ダンス風裏表紙。だけれどもいちはやく「ロスアンゼルスのベニスビーチの一角で、映画「ブレイク・ダンス」で見たのと同じ光景にぶつかり、何か血がたぎる熱い感動を覚えた」(3p)という著者の情報の早さもあって、タイトルは「ブレイク&ディスコダンス」となり、さらに。「パンクにファンキーにステップ満載!」という副題がカオスです。それぞれのダンスの生まれた社会的・文化的文脈とは無関係に、新しい流行のステップやスタイルとしてどんどん紹介していくという貪欲さ。それはそれでアリでしょう。また、こうした書籍でのステップやポーズの図解は、映像メディアを個人が操る現代では考えられない状況です。

 日本へのブレイクダンスの伝播に関して、wikipediaを引いておきます。

・1983年に映画「ワイルド・スタイル」で来日した『ロックステディクルー』が日本にブレイクダンスを紹介した。それまではほとんどメディアに紹介される事はなかったが、西武デパートの記念イベントとしてテレビの11PMで放映した。その時の放映で『ファンキージャム』がエレクトリックブギを教えていることが紹介される。ファンキージャム・ブレーカーズが誕生し、日本各地でショーをしたことで広く知られる事となる。映画で音楽を担当した1人・グランドミキサー・D.STが同年来日し、新宿のディスコ「ツバキハウス」で日本で初めてスクラッチを披露した。

1984年6月23日の映画『ブレイクダンス』公開時に、映画評論家の渡辺祥子が『週刊平凡』1984年6月22日号で、「ナイフや銃で闘っていた黒人たちは、いまやブレイクダンスを武器に勝負する 全米を揺るがすこの激しい社会的現象は映画『ブレイクダンス』を境に再び日本を襲撃してきた」という見出しで、ブレイクダンスの概要と当時のアメリカニューヨークに於けるブレイクダンスの状況を長く頁を割いて説明している。

・年11月には、風見慎吾が楽曲『涙のtake a chance』を発売し、ブレイクダンスの動きがテレビを通じて一般にも知られるようになった。日本ではラップより前にブレイクダンスが流行った。

・お笑い芸人のナインティナイン岡村隆史は1980年代から『KID』というBboyネームを名乗り、関西を拠点とするブレイクダンスクルー『ANGEL DUST BREAKERS』のメンバーとして活躍していた。

 

 まずはダンスが紹介され、やがてDJやラップ(MC)、グラフィティがそれぞれ別ルートで紹介されていきます。ヒップホップカルチャーの全容が日本で理解され、新たな展開を始めるのは1990年代に入ってからのことです。そして、ブレイキンがオリンピック種目になるとは…