幸せな翻訳デビュー作『亡命ロシア料理』|北川和美「超楽天的ロシア語通訳翻訳者の日常と非日常」
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幸せな翻訳デビュー作『亡命ロシア料理』

 「いい料理とは、不定形の自然力に対する体系の闘いである。おたまを持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と闘う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ」

 料理を戦いの最前線に、料理人を兵士に例えるなんて、ずいぶんマッチョなこの文章、実は、28年前に出版された私の翻訳デビュー作『亡命ロシア料理』(1996年)の一節なのです。

 嬉しいことに、今年(2024年)3月、出版から28年も経ったこの作品を、YouTube 「積読(つんどく)チャンネル」で、パーソナリティでライターの堀元見さんがこの一説を引用して紹介してくれました。
https://youtu.be/vUO49VE27ug?si=imAUttIXWlHWVxPi(13:19〜)

 旧ソ連からアメリカに亡命したユダヤ系ロシア人の文芸批評家ピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスが、料理を通じて米ソの文化を比較したエッセイで、原作は1987年に出版されています。

 大学院の指導教官だった沼野充義先生と弟子2人(もう一人は字幕翻訳家の守屋愛さん)で共訳し、ゲニスの初来日に合わせて出版。来日したゲニスに、京都の私の実家に泊まってもらい、京都や奈良を案内しました。その後ワイリも来日し、やはり京都を案内。そんな思い出と相まって、自分が手がけた翻訳の中でも、ひときわ印象深い作品です。

 初版は3千部。含蓄ある愛すべき作品で、当初は様々なメディアで書評を載せてもらいましたが、こういう文芸書って初版一刷で打ち切りがお約束。理由は、売れないから。

 ところが、2014年になって、Twitter(現X)で誰かが、まさしく堀元さんがYouTubeで引用してくれた上記の文章を引用して、「この本良いよ」とつぶやいたら、みんなが自分の好きな一説を引用してリツイートした結果、いきなり本が売れ出し、一時は書店に平積みに。で、めでたく新装版刊行。SNSの影響力に驚かされたできごとでした。

 それからさらに2年経った、2016年2月。朝日新聞の一面「折々のことば」に、哲学者の鷲田清一さんが、『亡命ロシア料理』から、「故郷から伸びているいちばん丈夫な糸は......胃袋につながっている」という文章を引用して、「食の貪欲さはナショナリズムなど蹴散らしてしまう」と論じてくれました。

 鷲田さんはこの本の出版直後、読売新聞の書評欄で取り上げてくれたのですが、きっとそのとき印象に残ったこの言葉を書き留めておいてくれたんですね。これも、翻訳者冥利に尽きるできごとでした。

 その後も、書店員さんたちが熱いポップをつけて平積みしてくれたおかげで突然売れだしたり、ということが何度か。
http://michitani.tumblr.com/post/110031724718/亡命ロシア料理書評フェアtogetter

 そしてそして、2021年6月に、毎日新聞の記者である小国綾子さんが『亡命ロシア料理』の「帰れ、鶏肉へ!」の章に載っている、超アバウトなレシピで作った鶏料理をツイートしたら、それを読んだ人たちが鶏料理を作り始め、ついでに本も100冊以上買ってくれるという「嬉しい事件」も。この何気ないつぶやきに集まった「いいね」は4,8万件、リポスト数は1,8万件。SNSの力を再認識させられました。https://x.com/ayaoguni/status/1403635242158542849?s=46&t=fTMIGNraHtrZrYjPYbov2Q

 小国さんはその後、出版元の未知谷を取材して、毎日新聞電子版に、この作品を紹介する記事を書いてくれています。
https://mainichi.jp/articles/20210620/k00/00m/100/170000c

 『亡命ロシア料理』は、料理のレシピ本かと思わせて、その実レシピはほとんど書かれていません。本を読んでも、書かれている料理を作ることができない、不思議な料理本。でも、なぜか創作意欲を書きたてられる理由は、作者と、訳全体を監修した沼野先生の遊び心満載の、各章のタイトルにあるのではないかと思います。「帰れ、鶏肉へ!」にはじまり、「お茶はウォッカじゃない、たくさんは飲めない」「それ、ソリャンカだ!」「100%人生ジュース」「ハルチョーをちょーだい!」「反ユダヤの百合」「カメレオンの昼食」「失われた食欲を求めて」「キノコの形而上学」「自分の羊のところに帰ろう」「メンチカツの名誉回復」「肉なしスープでオオカミは満腹、羊は無事」「缶入りの貴族たち」「女性解放ボルシチ」「マグロは海の鶏ではない」「本物の偽ウサギ」……ね、面白そうでしょ?

 2024年5月現在、『亡命ロシア料理』は新装版第8刷。初版第1刷を売り切るのも難しい地味な文芸書が、18年間もじわじわと愛読者を増やし続けているなんて、本当に幸せなデビュー作だなぁと思います。

 共著者の一人であるワイリは、私が、彼が住んでいたプラハを訪れる約束を果たせないうちに、2009年に惜しくも亡くなってしまったけれど、相棒のゲニスは、相変わらずニューヨークで執筆やラジオの文化番組のDJを続けています。この本のように、いつまでも元気で活躍してほしいものです。

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