信長の生死や関ヶ原の行方を決めた 近江の名門 朽木一族と元綱の功績をご存知? - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) - 4ページ
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戦国諸家

信長の生死や関ヶ原の行方を決めた 近江の名門 朽木一族と元綱の功績をご存知?

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関ヶ原で東軍に寝返り!参戦してなかった説も……

こうして一貫して足利将軍家をサポートしていた朽木家。

ついに室町幕府は1573年(天正元年)に滅亡を迎えました(滅亡時期の考え方は諸説あり)。

織田信長との【槇島城の戦い】に敗れた足利義昭は京都を追われ、朽木谷とは反対方向の備後国の鞆(広島県福山市)に滞在、安芸国(広島県)の毛利家に保護されることとなります。

その前後で、朽木元綱さんは織田信長に臣従し、信長の死後は豊臣秀吉に従って、引き続き朽木谷の領主を任されています。

しかし安寧が訪れたワケではありません。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、にわかに政権争いが勃発。慶長5年(1600年)に天下分け目の【関ヶ原の戦い】が起こります。

ここでも朽木元綱さんは、天下の行く末を決める決断を下しています。

西軍として参戦すると、大谷吉継の配下として関ヶ原「松尾山」の山麓に着陣しました。

関ヶ原周辺略地図(左手に西軍が構え、小早川らの布陣した松尾山も)/photo by Karifu seito wikipediaより引用

9月15日朝――霧が晴れると共に開戦。

一進一退の攻防が繰り広げられますが、正午頃に松尾山に陣を張っていた小早川秀秋が東軍に味方することを決意し、山麓の大谷吉継ら西軍の軍勢を強襲します。

そして、小早川秀秋と時を同じくして西軍から東軍に寝返ったのが朽木元綱さんでした!

朽木元綱さんは、事前に東軍の藤堂高虎や京極高知を通じて東軍への内通を申し出ていたと言います。

また、朽木元綱さん共に「脇坂安治・小川祐忠・赤座直保」の3人が東軍に寝返っていますが、この小早川秀秋とプラスαの朽木元綱さんらの裏切りによって東軍は勝利を収めて、徳川家康が政権を掌握。3年後に征夷大将軍となって江戸幕府を開いたのです。

“裏切り”とか“寝返り”となると聞こえが悪いですが、後に将軍になる徳川家康のために動いたと思えば、それまでの朽木家の“将軍をお守りする”というルールには逸れていないかもしれません。超結果論ですけど(笑)。

ちなみに、関ヶ原の戦いに関する研究は最近進んでいて

小山評定は無かった」

「関ヶ原は秒で終わった」

「小早川秀秋を寝返らせる問い鉄砲は無かった」

「小早川秀秋は開戦と同時にすぐ裏切った(初めから東軍だった)」

など様々な新しい解釈が登場しています。

実は、そういった新説に「朽木元綱は関ヶ原にいなかった」というのもあります(笑)。

確かに、関ヶ原から間もない江戸時代初期・寛永年間(1624〜44年)にまとめられた『当代記』などには、小早川秀秋と共に裏切ったのは「脇坂安治と小川祐忠」しか登場しておらず、裏切りメンバーとして有名な「朽木元綱さんと赤座直保」の名前はありません。

どうやら江戸時代の中頃から、プラスαで登場して定着したようで、実は朽木元綱さんが関ヶ原にいたという一次史料は存在していません。

新しい捉え方がドンドン出てくるのも、歴史の醍醐味の一つですね!

私事で恐縮ですが、そういった新説を含め、日本全国で二分して戦った関ヶ原を解説する新著を夏頃に発売予定ですので見かけたら手に取ってくださいまし!

『ポンコツ武将列伝』(→amazon

『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon

『ヘンテコ城めぐり』(→amazon

という3冊に続く弟版ということで、タイトルは『ドタバタ関ヶ原』を予定しています(笑)。

 

朽木谷を安堵され、分家は福知山城主に

さて、関ヶ原で東軍に内応した朽木元綱さんは、徳川家康から朽木谷の領地を安堵されることに無事成功!

鎌倉時代初期から400年近く朽木家が治めていた朽木谷を守ることができました。

その後、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」では、66歳ながら長男(朽木宣綱)と共に出陣し、翌年「大坂夏の陣」でも長男と共に参戦したといいます。

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そして、1632年(寛永9年)まで生き抜き、84歳という長寿を全うしています。

朽木元綱さんの死後、領地は息子たち3人に分割されました。

朽木家の始まりの時もそうですが、何だか朽木家はキチンと分割相続するイメージがあります(笑)。

内訳は長男に6470石、次男(朽木友綱)と三男(朽木稙綱)に3010石ずつ。以降、長男の本家は交代寄合(参勤交代を認められた高ランクの旗本)に任じられ、朽木陣屋を拠点として明治維新まで朽木藩の藩主を務めました。

また、次男の系譜も旗本として明治維新を迎え、三男の系譜は分家のはずなのに、3代将軍の徳川家光に可愛がられて、なんと長男の本家よりも出世!

旗本よりもワンランク上の大名に取り立てられ、鹿沼藩(栃木県鹿沼市)→土浦藩(茨城県土浦市)を経て、1669年(寛文9年)には福知山藩(京都府福知山市)の藩主を務めて明治維新を迎えています。

福知山城/photo AC より

ちなみに福知山藩の政庁となったのはこの福知山城で、築城主は明智光秀です。福知山(当初は「福智山」)という地名の名付け親も光秀だったりします。

福知山市では現在も、明智藪を築いて水害を防ぐなど、町づくりを行った名君として光秀は慕われているんですね。

そして、その象徴として城下町には明智光秀を祀る御霊神社が伝えられていますが、創建されたのは1705年(宝永2年)のこと。創建したのは朽木元綱さんの孫にあたる「朽木稙昌」です。

また、福知山城の天守の麓には、鎮守の神様である朝暉神社があります。

同神社は朽木稙昌が福知山藩主となった際に、父の朽木稙綱を城内に祀ったのが始まりと伝えられています。

明治時代に廃藩となって城外に移されたものの、朽木家を慕う地元の方々の要望によって天守台跡に移されました。

その後、私の生年と同じ1986年(昭和61年)に天守が再建される際に現在の位置に移されたそうです。

朝暉神社

朽木元綱さんのお墓は、朽木谷の興聖寺と旧興聖寺(現在の興聖寺は江戸時代に移転されたもの)にあります。

朽木家歴代のお墓は朽木元綱さんが眠る興聖寺のほか、福知山市の円覚寺や、はたまた浅野内匠頭赤穂浪士の墓があることでおなじみの東京都港区の泉岳寺(実は朽木家の菩提寺だった)に建立されていたり。

足利将軍家、信長、秀吉、家康と深く関わり、しぶとく乱世を生き抜き、明治維新まで続く名家の系譜を伝えた朽木元綱さん!

地元・朽木谷への愛と、時勢を見極める戦略眼は実に見事です!

それでは次回もご期待くださいませ!

拙著『ヘンテコ城めぐり』(→amazon)もご愛顧よろしくお願いします。

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文:れきしクン(長谷川ヨシテル)

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元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。

【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link

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