『コット、はじまりの夏』ネタバレあらすじ・考察・感想評価まで|原題:The Quiet Girl :An Cailin Ciuin-アイルランドの至宝決定 - ムービー ダイアリーズ

『コット、はじまりの夏』ネタバレあらすじ・考察・感想評価まで|原題:The Quiet Girl :An Cailin Ciuin-アイルランドの至宝決定

ヒューマン・ハートフル

こんにちは、映画付き絵描きのタクです。今回取り上げる映画は『コット、はじまりの夏』。アイルランドの田園地帯を舞台に一人の少女の心の揺らぎと解放を描いた作品です。(2022年/アイルランド映画 原題『The Quiet Girl An Cailin Ciuin』)



静かな映画です。しかし、映画の観客に訴えてくる力は、雄弁です。

アイルランド映画の底力を見せつけるような力作でした。あっ、、、評価を書いちゃった…。

寡黙だけど深い、そんな『コット、はじまりの夏』をレビューしてみます。




『コット、はじまりの夏』予告編




『コット、はじまりの夏』解説

監督はコルム・バレード。初の長編映画デビューですが、過去、子どもの視点や家族の絆を撮ったドキュメンタリー作品で数々の賞を受賞してきた監督とのことです。

映画の内容は、学校でも家族の中でも愛情を注がれず孤独に過ごすコットが、母親の出産のため里子に出されます。預けられた親戚キンセラ夫婦との暮らしの中で愛を見つけ、自ら歩き始める成長物語です。

主役の9歳の少女・コットを演じたのは、キャサリン・クリンチ。本作がデビュー作とのことですが、初映画出演とは思えない存在感です。

受賞歴
第72回ベルリン国際映画祭でグランプリ受賞(国際ジェネレーション部門 Kplus)
第95回アカデミー賞でアイルランド語映画初の国際長編映画賞ノミネート。
世界の映画賞で42受賞。
IFTA賞(アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞)10ノミネート7部門受賞。
監督自身も各国で14の賞を受賞。33ノミネート。



『コット、はじまりの夏』スタッフ・キャスト

監督:コルム・バレード  撮影:ケイト・マッカラ

キャスト:キャリー・クロウリー(アイリン・キンセラ)
アンドリュー・ベネット(ショーン・キンセラ)
キャサリン・クリンチ(コット)
マイケル・パトリック(父)
原作クレア・キーガン



『コット、はじまりの夏』あらすじ

あらすじは公式サイトより転載します。

1981年、アイルランドの田舎町。
大家族の中でひとり静かに暮らす9歳の少女コットは、赤ちゃんが生まれるまでの夏休みを遠い親戚夫婦のキンセラ家のもとで過ごすことに。寡黙なコットを優しく迎え入れるアイリンに髪を梳かしてもらったり、口下手で不器用ながら妻・アイリンを気遣うショーンと子牛の世話を手伝ったり、2人の温かな愛情をたっぷりと受け、一つひとつの生活を丁寧に過ごしていくうち、はじめは戸惑っていたコットの心境にも変化が訪れる。緑豊かな農場での暮らしに、今まで経験したことのなかった生きる喜びに包まれ、自分の居場所を見出すコット。いつしか本当の家族のようにかけがえのない時間を3人で重ねていく―。




『コット、はじまりの夏』あらすじラストまで〜ネタバレ閲覧注意〜最後のセリフは?

ではあらすじのクライマックスを感想交えつつ書いておきます。ネタバレですので、映画を見たい方はスルーしてくださいね。

夏が終わり、コットは家に帰ることになります。

キンセラ夫妻とともに家に帰りますが、家の中は、やはり殺伐とした空気に満ちています。

金セラ夫妻はやるせない表情で、コットの実家を後にします。

ラストは圧巻です。

ドラマ中盤にコットが全速力で並木の中を駆け抜けるシーンがありますが、ラストはそのシーンの韻を踏んだ形で、コットは家族の元からキンセラ夫妻のあとを追い、駆け出します。

そしてショーン・キンセラに抱きつきます。

そのシーンに繋がる形で実の父が追いかけてきますが、コットはショーンに抱きついたまま「ダディ」と声を絞りだす。

そこで映画は幕となります。

この「ダディ」は、誰に対しての、どういう意味での「ダディ」だったのか??

映画は観客に『「ダディ」の意味を考えてほしい』と無言のメッセージを残して終わります。




『コット、はじまりの夏』考察

コット=破綻と救いのはざまで

映画の主人公コットの位置付けは、破綻した家族の中で、自分の心を護ろうとしている少女です。
しかし幼いゆえに護り方もわかりません。
なので、おねしょをしてしまう。
冒頭、コットは草原に隠れていますが、それはおねしょをしてしまったからなんですね。
前半15分ほどは学校でもつまはじきにされ、逃げ出そうとするコットが描かれます。
コットが破綻した関係から抜け出すきっかけになるのは、皮肉にも破綻を生み出している親の出産です。
預けられた親戚のキンセラ家は、そんなコットを柔らかく受け入れます。
しかし、コットは寡黙です。
なぜ寡黙なのでしょうか?

それは、子どもらしい子どもだから、です。

考えてもみてください。子ども時代は大人の持つ、意見や主張をする言葉を持ちえません。
コットの寡黙さにもどかしく感じる方もいるかもしれません。
しかし、コットの寡黙さは監督の「子ども時代」への丁寧な観察と愛情の裏返し…なのだとぼくは思います。



「家に秘密があるのは恥ずかしいことよ」が意味するもの

里子としてやってきたコットに、叔母のアイリンは「家に秘密があるのは恥ずかしいことよ」というセリフを言います。

もちろん誰にだって秘密はあり、アイリンも「秘密」を抱えています。そのことに気がつくコットですが、どこまでも寡黙です。あえて暴露することはありません。

しかし徐々に秘密がベールを剥ぐように明かされて…というか、暗示されてゆきます。そして同時に、コットの心の治癒が静かに始まるのです。

アイリンとショーン夫婦の秘密とは、

・アイリンとショーンの間に子どもがいたこと

・その子どもは幼い頃、多分、コットと同じくらいの年嵩の時に死んでしまったこと

です。

アイリンとショーン夫妻は、「男の子がいたんだ」というようなことは一切口に出しません。

しかしコットが着る服が男子用のそれだったり、コットの寝起きする部屋の壁紙が男の子の部屋に好まれる機関車模様だったことで、明かされてゆくのです。

その事実を、コットは少しずつ肌感覚で知っていきます。

「寡黙なコットがキンセラ家の秘密が知ることで、コット自身の心の成長を促してゆく。同時にアイリンとショーンの傷をも少しずつ癒してゆく」

寡黙な脚本ですが、人の心の機微を雄弁に描き出した素晴らしいシナリオだと思います。



コット=西欧カルチャーが「寡黙」を取り上げた意義深さ

日本では「寡黙」なことは、「無言実行」という言葉にもあるように、美徳となりえます。
しかし、西欧では「寡黙であること」は美徳ではありません。

別にどっちが良い、という話ではなく、それは農耕民族の血と、狩猟民族の血の違いであって、当然のことです。

この映画では、「自己を主張すること」「人に訊ねる行為」が極めてマイナスに描かれています。
これは意図しての脚本だと思いますが、それはもう、ウザったいほどです。

「言葉による主張こそ第一!」の民族であるヨーロッパ人が、「寡黙」を取り上げたことは、ディベート文化への疲弊の裏返しのように感じました。

新しい時代の幕開けのような気がしています。



コット=ゲール語に見るアイデンティティ

『コット、はじまりの夏』で主にしゃべられている言葉は実はゲール語。アイルランドでは第一公用語として採用されている言語です。
「えっ?アイルランドって、英語じゃないの?」と思われる方もたくさんいると思います。
もちろんアイルランドは英語圏です。
しかし英国からの独立を果たしたことでもわかるように、英語は占領国の言語なのです。

もともとケルト文化圏で話されていた言語があります。それがゲール語です。
スコットランドやウェールズ、フランスのブルターニュ半島といった、ケルト文化が色濃く残る地で話されていた言葉も、同じ仲間です。

ゲール語の映画ははじめて観ましたが、監督の故郷の大地と民俗、歴史へのこだわりを反映させたからに違いありません。



コット=「牛乳」から読み解くアイルランドの心

この映画を観る上で理解の助けとなることを一つ書いておきます。
コットが教室でクラスメートの牛乳をくすねたり、父親が牛を売ったことで酪農家であることがわかったり、預けられるキンセラ家も多分大規模な酪農家です。

以上のことから『コット、はじまりの夏』には「牛乳=酪農」が隠れたベースとして横たわっています。
アイルランドは実は一大酪農国家なのです。
かつてぼくがアイルランドを旅したとき、ソフトクリームのおいしさにおどろき、「なんでこんなに美味いんだ?」と地元の人に尋ねたところ「ウチらのミルクは最高なのさ」という答えが返ってきたことがあります。
酪農=ミルクはアイリッシュのプライドでもあるのです。



コット=心の色はアイリッシュグリーン

アイルランドの国の色は緑です。
聖パトリックデイという祭日が彼の国にはありますが、その日は緑の衣装を纏ったアイルランド人で溢れます。
それほどまでにアイルランドは「緑の国」なのです。
映画の中でも木立や葉、農場の牧草といったグリーンモチーフが実に印象的な色あいを見せてくれます。
その色のこだわりからのぞいてくるのは、監督の母国アイルランドの大地への愛情に他なりません。
ただカメラを回した結果、木々が映った…わけではないのです。
監督、カメラマンは表現者です。とことん計算の上で撮影しています。



コット=緑の表現

『コット、はじまりの夏』の緑の表現において、特筆すべきシーンが、2シーンあります。
一つはコットが走る並木道の新鮮な緑。(ショーンから「門のポストから手紙を取ってきてくれ」と頼まれて走るアプローチの木立です)

その木立の緑色は、コットの心の解放を促すフレッシュグリーンです。

そしてもう一つは、コットが井戸を覗き込むシーンで水面に写り込むとろりとした薄い緑色です。

特に後者は、様々な対象を映り込ませた緑で、傑出しています。
もちろん、その複雑な緑色は、ストーリーの中のいくつもの意味、登場人物の心の色を反映させた心象風景である.…ということは言うまでもないでしょう。

その意味は、「まとめにかえて〜『水はあまたを映す鏡だ』」で書いておきます。



 

『コット、はじまりの夏』ぼくの評価は「キラ星愛蘭土映画」

監督の描くアイルランドはまさしく「愛蘭土」だ

アイルランドを漢字表記すると「愛蘭土」と書きます。ぼくはこの表記がアイルランドの空気を表しているようで、とても好きです。

もちろん、監督がその日本語表記を知っているはずがありません。
ですが、『コット、はじまりの夏』で監督が抱く「人間とアイルランドアイデンティティへの愛情」を言葉に置き換えるなら、この「愛蘭土」という漢字ほど、ぴったりくる言葉はないようにぼくは感じています。

「愛蘭土」=草が大地を覆い花々が咲き乱れる愛すべき地

草花は、彼の地に生まれ育った「登場人物」であり、大地がコットや取り巻く人々を大きく包み込む…そんな作品でした。

素晴らしき愛蘭土映画だとぼくは感じました。  ぼくの評価は星五つです。



『コット、はじまりの夏』まとめにかえて〜井戸水はあまたを映す鏡だ〜

アイリンがコットを連れて行く井戸にはいくつかの物語を読み解く鍵や伏線が隠されています。
井戸水に映り込む2人のシーンの美しさは絶品でした。コットが水をヒシャクですくい飲むシーンは、完璧な演技と色彩です。

では、なぜに井戸水シーン撮影にあれほどまでにこだわったのでしょうか?

そこでは「命の再生のはじまり」が、暗に語られています。
そして、劇中ハッキリとは語られませんが、後半コットが水にバケツを入れるシーンの水の重量感(!)そしていなくなったコットに慌てふためくアイリン。
そのシーンで暗に伝えられるのはアイリンの幼くして命を落とした男の子は、実は、その井戸に溺れて命を落とした…ということでしょう。

そう、井戸の水は「命の水」なのです。
ちなみに「ウィスキー」はアイルランドが発祥と言われており、その言葉Whiskyのルーツは古ゲール語の「Uisuge Beatha (ウシュク=ベーハ)」、または「Usquebaugh(ウスケボー)」だと言われています。
ちなみに「ウシュク=ベーハ」の意味は、『命の水』です。

ぼくは、井戸水のシーンに命の再生=魂の再生を込めているように思えてな裏ませんでした。(以上は、あくまでぼくの考えです)

ちなみにアイリンとショーンが近所の友人たちとカードに興ずるシーンがありますが、皆、ウィスキーグラスを持っています。僕にはそのシーンが「命の水」を暗喩しているのでは、とも思っています。(思い過ごしかもしれませんが)



『コット、はじまりの夏』配信・レンタル情報

U-NEXTのみで配信中です。2024年5月現在、他のサービスでは配信されていません。








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